Though inland far we be 遠く、近く、
第74話 芒硝act.10―another,side story「陽はまた昇る」
ひとり、夜の部屋に携帯電話ひらいて架ける。
あわいオレンジ照らすシーツに寝返りうつ、その耳元コールが呼ぶ。
かちり、小さな電子音に繋がれてブランケットの温もりにアルト微笑んだ。
「こんばんわ、周?」
「お母さん、こんばんわ…今日はありがとう、」
懐かしい声に笑って告げる言葉は、毎年いつも伝えている。
この習い初めては何歳だったろう?その歳月に母が嬉しそうに笑った。
「こちらこそよ?お誕生日おめでとう周太、生まれて来てくれてありがとう。お花もありがとうね、朝に届いたわ、」
本当は今日、手渡したかった。
いつも自分の誕生日には母へ贈物する、けれど今年は帰られなくて謝った。
「ううん、家に帰れなくてごめんね…大学の演習に行っちゃって、」
「謝らないで?周が好きな勉強してくれてるの嬉しいもの、きっとお父さんも喜んでるわ、」
アルトやわらかに笑ってくれる言葉が温かい。
母も、今もう居ない父も共に喜んでくれると信じられる、その温もりに今日知った事実が痛む。
『環は雅樹の息子だよ、戸籍では父の養子で弟になってるがな。雅樹が死んだ後に生まれた試験管児だから、』
試験管児として生まれた子供には、いま自分が受けとった言葉も想いも誰が贈ってくれるのだろう?
自分の父は亡くなった、けれど母が想い伝えてくれる。
この伝言は夫婦の共に歩んだ時間と記憶が温かい、そして自分も父の記憶に真実の想いだと信じられる。
けれど今日託された一人の少年に預る伝言は、両親たち夫婦の時間も記憶も「父親」への信頼すら何も無い。
「…っ、」
嗚咽そっと呑みこんで頬もう温もり零れてしまう。
いま母の言葉に改めて気づかされた少年の現実は哀しい、それでも幸せに笑っていた白皙の顔は眩しかった。
あんなふう笑える心が何に支えられているのか?そこにある願いごと託された伝言は温かくて、その温もりへ母が微笑んだ。
「周、今日は後藤さんと雅人先生にもお会いしたんでしょう?」
訊いてくれる想いは伝わってしまう。
この質問には正直に応えると信じてくれている、そこにある母の真摯へ微笑んだ。
「ん、お会いしてきたよ?…あのね、思ったより悪くなってないって。9月に家でゆっくり出来たのが良かったって教えてくれたよ?」
夏9月の終わり、実家で喘息発作を起こしてしまった。
あのとき母がどれほど心配してくれたのか、それを解かっているから隠せない。
もう知られてしまったのなら正直に話す方が良い、そんな想いに電話越し微笑んでくれた。
「そう、診てもらえたなら良かったわ。周、無理しないでね?」
「ん、今もベッドに入っているから、」
正直に笑いかけた向う、そっと溜息かすかに聞える。
こんなにも心配かけてしまう、それが哀しくて、けれど今日ひとつ知った現実に心配すら温かい。
―僕には心配してくれるお母さんがいる、僕を産んでくれたお母さん…僕に命をくれたお父さんの記憶も、想いも、
父と母、ふたりが出逢い時間と想い重ねてくれた。
その時間たちが自分という命を産んだ、そして両親ふたりに自分という心が育った。
この全てに感謝することは当然だと今朝も想って、けれど今日自分の誕生日に知った生命の現実は「当然」が無い。
試験管児は、環は、どうやって「親」に感謝すればいいのだろう?
「っ…、」
想いまた廻って涙ひとつ、また頬を伝ってゆく。
いま独りの部屋でベッドの上、それでも電話向うに母は居てくれる。
こうして命も心も自分に繋いだ人の声を聴く、こんなふう自分は孤独じゃない、この当然じゃない現実に涙こぼれるまま母が微笑んだ。
「周、どうしたの?話せるなら聴かせて、」
ほら、母は気づいて訊いてくれる。
なにも言わないでも解かってしまう、そんな理解は体温から響くよう温かい。
この共鳴は血の繋がりが呼ぶのだろうか、記憶の時間が呼ぶのだろうか?この呼応ただ優しくて周太は微笑んだ。
「ん…お父さんとお母さんの子供で僕、嬉しいんだ…ありがとう、お母さん、」
託された秘密は言えない、けれど想いだけは伝えられる。
ただ想い素直な言葉に微笑んだ向こう、母も笑ってくれた。
「うん、お母さんも周のお母さんで嬉しいわ、ありがとう周、」
「ん、」
頷いて頬の涙ぬぐい、そっと寝返りうつ。
かさりシーツの衣擦れ聴きながら周太は今日の出来事を声にした。
「お母さん、今日の演習は2つの森を歩いたんだよ?杉の切株から小さな芽が出ていてね…演習の後は美代さんの家に僕、お呼ばれしたよ?」
ふたつの森を友達と恩師と、四人共に歩いた時間は愉しかった。
その後も楽しかった時間に笑いかけた電話ごし母も微笑んだ。
「そう、美代ちゃんのご家族もお元気だった?」
「ん、みんな元気だったよ、それで夕飯ご馳走になったんだけどね、美代さんつい受験のこと話しそうになって、」
「あら、ご家族にはまだ話せていないのでしょう?大丈夫だったの?」
「ん、なんとか誤魔化したの、公開講座でテストがあるって言って…ふたりで嘘吐いちゃって、」
「ふふっ、そういう嘘は仕方ないかな?その分も頑張れたらいいね、」
交わす会話に笑って応えてくれる、その声ひとつずつ温かい。
この温もりを自分は当り前のよう呼吸してきた、それが今ただ有難くて、だからこそ考えてしまう。
―僕は「いつか」どうやって環くんに話せたら良いのかな、光一にも…雅樹さんの伝言を、
環の実父で光一の伴侶、その存在を自分は直接知らない。
けれど彼の伝言は自分に託された、そんな運命の廻り合せは軽くなくて、けれど何か温かい。
その温もりを信じて「いつか」話せたら?そんな思案を母との会話に辿りながら誕生日の電話を終えて、ふっと声こぼれた。
「そうだ…僕もお祖父さんは知らなかった、ね、」
数ヶ月前、自分は祖父が誰なのか知らなかった。
けれど以前から「湯原晉博士」は知っている、著名な仏文学者で人格者だと知っていた。
それでも実の祖父だとは知らなくて、そんな自分と祖父の関係は環と雅樹の関係と似ているかもしれない。
―環くんも雅樹さんがどんな人かは知ってるんだ、お兄さんとして知っている、立派な医学生で山ヤさんだってこと、
実の父親が誰なのか?
それを環は知らない、その現実と温かい嘘を雅人は話してくれた。
『試験管児なことは環も知ってるよ、でも俺の両親の受精卵を環の母親に産んでもらったと話してあるんだ、子供がもう一人欲しかったからってな。
妊娠出産したのは環の母親だけど本当の親は吉村の父と母って事にしたんだ、環の母親が亡くなって返してもらったから養子縁組になったと話してる、』
試験管児である事実を環は知っている、けれど両親の真実を知らない。
まだ中学生に現実は重たすぎるから嘘を事実と告げられている、その嘘にある真実は哀しくて温かい。
『自分の誕生を望んだ男に捨てられて、実の母親も死んでドナーの父親も死んでいたら、自分が生まれた意味が解らないだろ?だから嘘を吐いてるよ、
この嘘を親戚や周りには話してる、亡くなった雅樹の代りに本家を継ぐ子供がほしくて代理母をお願いしたってな。だから俺の弟ってことになってるよ。
でも父の隠し子じゃないかって疑う人も多くてな、それで環のことは知られるまで話さないんだ、誤解がメンドウだからな。光ちゃんも話してないだろ?』
自分が生まれた意味が解らないだろ?
そう告げた雅人の眼差しは穏やかに哀しくて温かだった。
あの瞳に言葉に想ってしまう、叶わないと解かっていても願わずにいられない。
―雅樹さんが生きてくれていたら誰も嘘を吐かなくて良かったのに、雅樹さんがいたら光一も環くんも、
ひとりの青年が死んだ、その生と死から広がってゆく運命たちの変転は果てしない。
そんな変転の渦中にある少年は自分と少し重なるようで、ただ言葉も無い想い天井を見つめてしまう。
そして気づかされる、環も、自分も、不幸なんかじゃない。
「ん…想ってくれる人がいるもの、ね?」
ひとりごと確かめるよう家族たちの俤を天井になぞる。
祖父の写真はまだ見ていない、けれど開いた本たちに幾度も会って肉筆も見た。
あんなふうに環も雅樹と会っている?そんな思案に微笑んだ掌のなか着信音が呼んでくれた。
「あ…英二?」
流れだした旋律に名前を呼んで鼓動、ことり弾みだす。
昨夜は声を聴けなくて、だから今夜を待ちかねた想いごと繋いだ通話に懐かしい声が笑った。
「周太、誕生日おめでとう、」
ほら開口一番、大好きな声は名前を呼んで祝福をくれる。
いま電話の向こう何kmも離れて、けれど声ひとつ距離は繋がれて想い結ばれる。
そうして独りの部屋もベッドも今は温かい、こんなふうに唯ひとつの声は自分を幸せに攫う。
この声が自分を孤独から救ってくれた、そして知った現実の感情たち全てが今は幸福で周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう英二…昨夜は電話ごめんね、寝ちゃってて、」
ありがとう、
この言葉一つに想いも時間もすべて伝えたい。
こんな願い見つめられる相手と出逢えたのも生まれて生かされた時間にある。
その現実と祈りは今日に出逢った少年の、命ひとつに温かく哀しく響き続けて、ただ優しい。
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」】
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