萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

塔朗雪夢、時の記憶へ 

2013-02-28 20:08:55 | お知らせ他
凍結、この一瞬を象らせ



こんばんわ、今日は青空に梅が佳い香でした。
いつも2月には花咲く印象があるのですが、今年は例年より遅い気がします。
寒い日が長く続いたり、霙や雪も何度か降った為でしょうか。
寒暖くり返す時、風邪ひいたりしていませんか?

写真は秩父の渓谷にて。
凍りついた流水に雪が積もり、また氷になっていく。
白く蒼く陰翳は、水の時間を止めたまま幾条も連なります。
山影のうす青い大気は凍てついて、けれど天然の湿度にやわらかな冷感です。

いま連載中の第61話「塔朗」と短篇「紅雪の夢」は、どちらも時間と記憶の呼応を描いています。
周太サイド「塔朗」は英二との思い出と「今」を過去を偲ばすベンチで見つめ、祖父母と父の記憶を探す物語です。
光一サイド「紅雪の夢」は過去自体が舞台、幼い日の光一にとって「今」だった時間の風景と心を描いています。
幼い光一が精一杯に雅樹を想い大切にしようとする言葉や行動、その全てが成人した光一の「今」に繋がっていく。
それらは本篇「塔朗」で周太が気がついていく光一と雅樹の真実「山の秘密」への伏線です。

さきほど第61話「塔朗3」と短篇「紅雪の夢4」の加筆校正が終わりました。
今夜は「塔朗4」をUP予定です、周太がたどる家族の謎と、光一との対話シーンになります。

取り急ぎ、






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第61話 塔朗 act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2013-02-27 23:06:00 | 陽はまた昇るanother,side story
再会、重ならす想い 



第61話 塔朗 act.3―another,side story「陽はまた昇る」

周太の大切なベンチなんだろ、ここ?

そう言ってくれたのは、解かってくれたから?
そうであってほしいと願い祈るよう、周太は微笑んだ。

「ん、…あのね、先月見つけたばかりなの、」

ゆれる木洩陽の向こう、切長い瞳が見つめ返す。
同じ目は3週間前に「いつか」の約束をくれた、あの強い眼差しが今はない。
もう前とは違う哀しみ惑う、それでも諦めたくない祈り微笑んで言葉を紡いだ。

「英二と光一が北岳に登った時だよ、関根たちとの飲み会の前…俺ね、ここの図書館に居たんだ、お祖父さんの小説を読んでみたくて、」

『La chronique de la maison』 Susumu Yuhara

パリ郊外を舞台にした祖父の小説は、貴重書として付属の総合図書館に納められている。
あの一冊に辿った祖父の俤が嬉しかった、嬉しかった想いのまま周太は微笑んだ。

「推理小説なんだ、時間がなくて通し読みしか出来なかったけど、面白かった…ここのにはサインも書いてあるんだ。
万年筆の筆跡なんだけどお父さんの字と似てたよ、インクもね、たぶんお父さんの万年筆と同じのだと思う…それが嬉しくて、」

祖父の肉筆は父の綴りと似ていた、それが嬉しかった。
いま自分は「死線」の端に立っている、それは母にとって哀しみ以外の何でもないと知っている。
そして母の肉親は息子の自分しかいない、その不安と孤独に哀しい今だからこそ家族の記憶は温かい。
だからせめて母には自分たち家族の記憶を1つでも多く贈りたい、万が一の時には心の支えになるように。
この願いから英二に母との墓参も頼りたかった、もし本当に自分が不慮に遭っても母が独りにならないように。

…お願い英二、俺は英二の他に頼れる肉親がいないんだ…少しでも血が繋がってるなら、少しでも想ってくれるなら頼らせて、

英二の祖母、顕子の切長い涼やかな目は懐かしい父の目そっくりだった。
そして顕子は祖母の斗貴子をよく知っている、家の事情すらも知っているようだった。
その全てが英二と自分の遠い血縁があるからと信じたい、それを英二も知って大切にしてくれると信じたい。
だからどうか自分たち家族の願いも孤独も理解してほしい、母を護ってほしい、この願い微笑んで周太は聲を音にした。

「湯原博士は俺のお祖父さんかなって考えながら歩いてたら、このベンチを見つけたんだ…それから俺、ここに独りで座るの、好きで、」

このベンチが大切、そう想う心を受けとめて?
いつも独りで座り大切にしてきた、そこに英二と座りたい想いを気がついて?
そして話せなるのなら英二が隠している真実を教えてほしい、そう願い見つめた隣は穏やかに笑った。

「周太、このベンチにお祖父さんも座ってたかなって、考えるんだろ?」

ほら、気づいてくれる?

まだ真実は話してくれなくても、独りここに座る想いは解かってくれる。
この理解だけでも温かで幸せで、嬉しいまま周太は微笑んだ。

「ん、考えるよ?お祖母さんも一緒に座ったのかな、とか…教え子だったって、英二のおばあさまも教えてくれたし…」

祖父と祖母は相思相愛の恋愛結婚だった、そう顕子は教えてくれた。
教師と教え子で15歳の年の差があった、それでも二人は幸福を見つめ合い父を生んだ。
そんな二人の記憶が座るこの場所に連れてきた、その気持ちの真実をどうか言わなくても気がついて?

…幸せな記憶に未来の夢を見てみたい、英二とふたりで…今だけでも見ていたい、

銃器対策レンジャー第1小隊、そこに自分は配属された。
主要任務は篭城事件における高所からの突入、ヘリコプターからの降下による犯人制圧、特殊部隊SATの支援。
どの任務も危険は変わらずいつ事件が起きるのかも解らない、そして1ヶ月後にはきっと新たな入隊テストを受けている。
だからもう今しか英二とこのベンチに座れないかもしれない、そんな想いにあのベンチの時間が懐かしい。

…都心にこんな所あるなんて俺、知らなかった
前は軽く躱していたんだ、相手に未練があろうが関係ない、相手の気持ち考えないから平気だった…今は傷つけるの解っている
今の方がいいよ。宮田、前よりも良い顔してる
お前、やっぱり前髪あるほうが似合うよ
こんな所で寝たら風邪ひくよ…泣けよ?
寝てないよ…泣いてなんか、いないよ

新宿にある奥多摩を映した森、そこのベンチに初めて座り交わした言葉たち。
あのとき英二は恋を自覚したと後で教えてくれた、それを聴いたとき嬉しかった。
あのときのよう今も想ってくれるのだろうか?そんな想い微笑んで、不意に左手首が掴まれた。

「周太、お願いだから応えてよ?」

問いかける声が、鼓動を直接ひっぱたく。
一瞬で止められる呼吸に隣を見あげて、重なった視線に哀しみは微笑んだ。

「俺のこと赦せないならそう言ってよ?もう俺を嫌いなら言って?嫌われて避けられても仕方ないって俺、解かってるから、」

そんなこと想ってない、嫌いじゃないから受容れたいから今、ここに座るのに?
この心を言葉なくても気付いてほしくて、3週間前と同じよう眼差し訴える。
けれど切長い瞳は何ひとつ気づかぬままで、英二の声は告白を始めた。

「周太、俺は光一を抱いたよ、本気で恋愛の相手だって抱いたよ?でも俺を抱かせてはいない、俺が光一を一方的に抱いたんだ。
俺は何一つ後悔していない、周太への裏切りだって想っても嘘は吐けないよ?それくらい俺、あいつを抱けたの嬉しくて幸せだから。
だけど次が無いことも解かってる、もう光一は俺に抱かれたいって想わないの解かるんだ。光一の本当の相手は、俺じゃないから、」

本気なら幸せなら、後悔していないなら、泣きそうな目をしないで?

光一の気持ちは自分こそ知っている、もう言わなくても解かるから泣かないで?
こんな貌されたら自分の願いが過ちになる、こんなにも哀しませてしまった選択を憎んでしまう。
だから泣かないで笑ってほしい、幸せと言うのなら笑顔を見せてほしかった、自分にこそ後悔させないで?
そう目で訴えかけても哀しい瞳は応えてくれなくて、この不通が心裂いて痛いのに英二の声は終わらない。

「周太、俺が本当に帰りたい場所は周太の隣だけだよ。同じように光一も他に帰りたい相手がいるんだ、それがお互い良く解かったんだ。
だけど俺たちはアンザイレンパートナーとして一緒に生きる、お互いに違う相手を想って帰ろうとしながら、並んで生きることを選んでる。
それが周太には裏切りって言われて当然だ、それでも俺の帰る場所で居てくれる?この先もずっと、俺は周太の隣に帰りたい、離れたくない、」

光一と英二が一緒に生きる、そんなこと解かってる。
解っているから互いに恋愛関係を望みあうなら、それも認めていたい。
男の自分は子供を産めず英二に家族を贈れない、だから恋愛する自由を英二から奪いたくない。

…だって他に好きな人がいれば、もし俺が英二より先に死んでも英二は孤独にならない…だから光一とそうなってほしかったんだ、

光一となら、きっと幸せになってくれる。
そう信じられるから自分は反対しない、嫉妬も無い、光一が大切な分だけ納得できる。
それを光一は解かってくれるから涙の笑顔で謝ってくれた、その優しい理解と受容が嬉しかった。
それなのに英二は哀しい貌しか見せてくれない、唯ひとり想い幸せを祈る相手が誰より解かってくれない。
どうしてこんなにも解かりあえなくなってしまった?この哀しみに綺麗な低い声が傷を疼かせ、ただ響く。

「周太、前にも言った通りだ。俺の全ては周太のものだ、だから今も好きにしてよ?俺を殴っても蹴っても良い、怒鳴っていい、だけど、
俺が傍にいることを赦してほしい、俺が周太の隣に帰ることを許してよ?何しても良いから俺のことだけ恋して愛してよ、俺を捨てないで、」

この全てを捧げるから、どうか自分だけを見て?

哀しい瞳の訴えが心を刺さして、未練の喜びと覚悟の傷が痛い。
あんなに幾度も自分を言い聞かせた努力が哀しい、自分の祈りが理解されない煩悶がもがきだす。
このベンチに座った願いも、光一との夜を祈った痛みも繋がらない。いま理解されない哀しみの向こうから大好きな声が問いかけた。

「答えて周太、どうしたら俺を捨てないでくれる?どうしたら恋愛してくれる?どうしたら俺を必要としてくれるのか、教えて?」

どうしたら今、自分の想いを解かってもらえる?

この自問に広がる裂傷に、ゆっくり周太は瞑目した。
閉じられた視界の底に記憶の笑顔と、いま見ていた哀しい眼差しが映ってゆく。
春も夏も秋も冬も唯ひとり想い、慕うまま心の杖にして大切に抱いてきた唯ひとつの俤。
ずっと綺麗な笑顔のままでいてほしい、その願いのために初めての夜も全身を捧げて愛された。
そして交わしてきた時間は幾度もこの笑顔に救われて、父の死と滅んだ記憶も夢も、母の笑顔も光一も取り戻せた。

…俺の全てを救ったのは英二なんだよ?捨てるなんて出来るわけないのに、誰より必要な人だから全部あげたいのに解らないの?

救われてきた幸福の分だけ、英二に返したい。
けれど自分には時間が無いかもしれない、だからせめて、今の自分が持つ全てを贈りたい。
英二がずっと求めている母性の愛を、家庭の温もりを、大切な友人も夢も未来も全てをあげたい。
そんな想いに泣けない涙は泉を深くする、その澄んだ色を見つめながら披いた視界に木洩陽は明るい。
明滅する光がダークブラウンの髪に艶ゆらせ、白皙の貌に陰翳は静かに佇んで周太を見つめる。
祖父と祖母、父、家族3人が憩ったかもしれない木蔭に今ふたり見つめあい、周太は微笑んだ。

「ずっと英二には笑っていてほしいんだ、だから全部あげたのに…俺のことはあげられないから、」

告げた想いの真中で、切長い瞳の光が固まっていく。
風ゆらす前髪を透かした木洩陽の向こうへ、哀しい白皙の貌へ祈ってしまう。
どうか今ここで言葉と心を受けとめてほしい、その願い穏やかに周太は微笑んだ。

「後悔しないのは、ふたりで幸せだったからでしょう?幸せなら続けたら良いのに、どうしてもうしないなんて言うの、」
「納得できたから後悔しないんだ、」

端正な唇が動いて、切長い目が見つめてくれる。
いま言わなければ次は無い、そんなトーンに綺麗な低い声は言った。

「まだ光一と話せてないんだ、でも解かるよ?俺に抱かれることで光一は確認して、整理したかったんだと思う、」
「…確認と整理?」

静かに訊き返して見つめた想いに、切長い瞳が視線を結ぶ。
この眼差しに心も重なりますように、そう願う向うで英二はすこし微笑んだ。

「雅樹さんと俺は別人だって確認して、雅樹さんが亡くなった現実を納得したんだと思う、裸でふれあうと違いが解かりやすいから。
それ位しないと諦められないほど大切なんだ、光一にとっての雅樹さん。それに俺、雅樹さんの気持ちも解るんだ。北鎌尾根の後から、」

もう消えてしまった存在を探したい、その願いに今もう気づいてしまう。
光一が言っていた「帰りたい相手」が誰なのか?あの山桜をなぜ光一が愛するのか?
そして光一が周太を護ろうとする真実が、その想いと祈りは本当は誰に向けれているのか?

…ほんとうに大好きなんだね、光一?ずっと誰よりも大切で、ずっと見つめて…ほんとうに帰りたいね?

光一が帰りたい相手も、あの山桜に関わる誰かも、今この世にある人だと思っていた。
けれど光一の真実は「山の秘密」にある、この純粋のまま静かに護ってあげたい。
そう願う想いに綺麗な低い声が穏やかに、優しい微笑で教えてくれた。

「俺ね、正直に言うと北鎌尾根から槍ヶ岳の山頂に抜けたあと、すこし記憶が無いんだ。あのとき俺は雅樹さんになっていたと思う、
信じ難いだろうけど、雅樹さんの心の欠片が今も俺に残ってるよ?だから光一は俺の全身に触れて納得しようって考えたと思うんだ。
もう雅樹さんは帰らないけど心は傍にいてくれる、そう納得出来たから光一、雅樹さんの墓参りに俺を連れて行ったんだと思うよ?」

いま聴かされる言葉たちに、光一の哀しみと純粋がきらめいていく。
どうして周太を13年間も待っていたのか、あの山桜から離れないよう生きてきたのか?

『君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた…雅樹さん来てくれるって想ったから…雅樹さんに逢えなくても山桜のドリアードに逢える、』

富士山麓で光一が告げた言葉たちに、光一の真実が今ようやく解かる。
その純粋な心も願いも全てが自分には理解できる、だからだったと出逢いの意味が今、解かる。
ゆっくり現われていく光一の真実を見つめる心、いまこそ受けとめたい願いに慕わしい声が響いた。

「そういう光一の気持ち、俺には解るよ?だって俺も本当は、もう何度も考えてきたんだ。もし周太が消えたらって、何度も泣いてる。
きっと俺も光一と同じなんだ、雅樹さんとも同じだと思う。きっと俺も周太が消えたら必死で探すよ、死んだなんて嫌だから信じない。
そういうの俺だって何度も考えてきた、初総の時は特に酷かったよ。だから俺は光一の納得したい気持ちが解かるし、後悔も出来ない、」

禁じられても許されても、同じこと。
たとえ生と死に別たれても想ってしまう、追いかけ続ける。
その気持ちは自分こそ分かる、愛情の意味は違っても父を祖父を追い求める想いに重ならす。
いま重なる心に幼馴染を想い、唯ひとり恋愛に見つめる人を想い、周太はため息ひとつで静かに笑った。

「そんなふうに悩んでほしくないから俺、光一と英二に恋人同士になってほしかったんだ…ふたりで幸せになってほしいって、想ったんだ。
英二のこと捨てるとかじゃなくて、ただ幸せに笑っていてほしいだけ。俺が持ってるもの全部あげて幸せにしたいって…捨てるとか違うよ?」

ふたりに幸せになってほしい、その為に自分は何が出来るの?
この思案に微笑んで想い告げて、けれど隣は哀しい声に戻って訴えた。

「それなら傍にいさせてよ、周太?自分勝手で狡い俺だけど、幸せに笑えっていうなら傍にいてよ、ちゃんと答えて?」
「もう答えてるでしょ?解んないの?」

強いトーンで遮って見つめる、その視界に英二の瞳は息を呑む。
いま怒ったフリをしたい、今ここで怒った方が英二は言葉を素直に聴いてくれる。
そう感じるまま周太は苛立つような口調で、怯えたままの瞳を見つめ祈りと怒った。

「このベンチ、お祖父さんとお祖母さんが座ったかもしれないんだ。そこに一緒に座ってって言った気持ち、どうして解かってくれないの?
光一の気持ちはそんなに解かる癖に、俺のこと何も解らないの?前は言わなくても解ってくれたのに今はダメって、心変わりした証拠なの?」

こんなふうに英二を怒るなんて、たとえフリでも哀しい。
それでも笑顔の為なら憎まれ役だってする、この嘘に自分が傷ついても構わない。
だから笑ってほしい、その願いに呼応するよう長い指の手に周太の左手首を握りしめ、英二は微笑んだ。

「ごめん、周太。今の俺、本当に自信が無いんだ。周太が俺を想ってくれてる自信が無くて、すごく弱くなってるよ?だから解らないんだ、」
「だったら自信、持ってよ?」

穏やかなトーンでも強く明確に言って、笑いかける。
その向こう英二の瞳から怯えが消えてゆく、これなら落着いて自分の言葉も聴いて貰えるだろう。
どうか前のよう幸せに笑ってほしい、願いごと周太は正直な想いで綺麗に笑った。

「正直に言うけど俺、あの夜は眠れなかったよ…英二と光一が初めての夜ね、俺は手塚と夜通し喋ってたんだ、森林学のことや色々。
俺が寂しい貌になってたから手塚、気にして一緒にいてくれたんだよ?英二と光一が幸せなら俺は嬉しい、でも…寂しくて哀しいのも本音、」

あの夜に独りだったら、きっと辛くて今も苦しんだ。
ふたりの時間を羨む気持ちが起きていた、孤独な自分を憐れんだかもしれない。
そんな卑屈な心を超えられたのは、あのとき共に夢を追う友達が傍にいたからだった。

…そういう友達が俺にも出来たって英二に知ってほしい、それで安心してほしい…俺が未来を捨てないって信じてほしい、

自分は父のよう殉職を選ばない、そう信じてほしい。
この先に異動する職務は精神的に辛い、あの父すら死へ追い込まれてしまった。
それでも自分は何があっても諦めない、夢を共にする友人がいるから、父との約束があるから必ず生きる。
そして誰よりも約束したい相手を今この場所で見つめている、その想い微笑んだ瞳を切長い目が真直ぐ見つめ、訊いてくれた。

「周太、俺を婚約者で恋人って想ってる?ずっと一緒にいたいって、俺と眠りたいって、今も俺を必要にしてる?…キスしたいって想う?」

ほら、大好きな瞳が眼差しを戻しだした。
いつもの男らしい自信も強さも、華やかな陰翳も思慮も目覚めだす。
このまま幸せに笑ってほしい、ただ願う想いの真中で周太は幸せに笑った。

「ん、必要にしてる、想ってる…大好きだから、」
「周太、」

名前を呼ばれて引寄せられて、木洩陽のなか眼差しが重なっていく。
こんな間近に見つめられて気恥ずかしい、それでも逸らしたくない想いに見つめ返す。
その視界に切長い瞳は穏やかな強靭に微笑んで、幸せな笑顔ごと唇が重ねられた。

…いまキスしてくれてる、本当に、

もうキスすることも無いかもしれない、本当はそう想っていた。

光一に惹かれて自分を忘れてくれる、その可能性に期待と覚悟をしていた。
光一との夜が英二を自分から離せる最後のチャンス、そう想ったから尚更に二人の背中を押した。
それでも今ふれあう唇に温もり嬉しくて、心ほどかれて、遠く隔てようとした壁も崩れだす。
ただ幸せな温度を残して離れて、見上げた白皙に涙こぼれて綺麗な笑顔ほころんだ。

「周太、これは嬉し涙だからな?周太にキス出来て嬉しくて、涙が出た。もう周太にキス出来ないかもって、覚悟してたから、」
「…ばか、そんなこと学校でなんかいわないで恥ずかしいから」

本当に気恥ずかしい、それ以上に言われた言葉が嬉しい。
もうキスできないかもしれない、そうお互いに想いあい哀しめた「同じ」が温かい。
さっき通じあえなかった心が繋がれていく、その喜びに微笑んだ唇にまたキスふれる。
すぐ静かに離れて、周太の瞳を覗きこむよう英二は幸せに笑ってくれた。

「ごめんね周太、俺って馬鹿だから我慢できないんだ。周太に恋して馬鹿になったんだから、責任とって?」
「しらない、えいじのばか…えっちへんたい」

気恥ずかしさに文句を言って、けれど本当は泣きたい。
いま泣けない涙に瞳を伏せて溜息も隠し、それでも本音だけが泣いた。

―本当に馬鹿だ、英二は…俺を選ぶなんて馬鹿だ、ばかだ…

自分と共に生きるリスクを英二は解っている、それでも選んで離れない。
あんなに美しい光一と夜を過ごしても結局は戻って来てしまう、そしてキスひとつで幸せに笑ってくれる。
こんなにも馬鹿で綺麗な人を他に知らない、そう想うだけ泣きそうで睫ふせこむ隣から綺麗な低い声が願った。

「今すぐ周太のこと、攫いたい、」

穏やかなのに熱っぽい声に、縋りたくなる。
本当に攫われてしまえば楽だろう、けれど譲れない誇りに周太は微笑んだ。

「そういうのはずかしいよ?でも…ありがとう、逢いに来てくれて嬉しかった、」
「嬉しいんなら調布まで送らせて、俺、車で来てるから、」

言葉を追うよう綺麗な声が誘い、そっと周太の左手を握り直してくれる。
この手をまだ離してほしくない、もう少しだけ時間を共にしていたい。
そう願い見つめて、けれど決めた勇気に微笑んで瞳あげると謝絶した。

「ありがとう、英二。でも俺、まだ大学で用事があるんだ…もう戻らないといけなくて、ごめんね?」

美代の受験勉強に付合いたい、手塚との話もまだ終えていない。
なによりも真実に会いに行きたい、その意志に笑いかけた先で英二は我儘と微笑んだ。

「周太からキスして?そうしたら俺、我慢して独りで行くよ、」

お願いだから今、キスを交わしたい。
そんな願いに英二の不安がまだ残る、その全て払拭したい。
大切な笑顔への想いに微笑んで、周太は恋人にキスをした。

「…すき、」

想い囁いてキスに閉じこめる、そして幸せの笑顔を願う。
あと2週間で英二も第七機動隊に異動する、そう光一が教えてくれた。
このキスが離れたら再会はたぶん同僚の貌、それが七機でも英二の安全を護る。
近くても傍にいても触れあえない、ただ見つめあうことすら出来ない、そんな時間はもう近い。

…それでも、いつか時は来るね?…そう信じて良いかな、英二、

心ひとり問いかけて、静かに温もりから離れていく。
離れて見つめた想いの真中、端正な微笑に木洩湯きらめく。
濃やかな睫の瞳から雫ひとすじ伝う、その涙を指で拭うとそのまま白皙の頬をつねった。

「ぅっ…?」

つねられた左頬に切長い瞳は瞬いて、驚いたよう大きくなる。
すこし童顔になった貌が可愛くて楽しい、可笑しくて周太は笑った。

「俺の好きにして良いって英二、言ったよね?ね、痛い?」
「ひたいよ?」

つねられたまま笑ってくれる、その瞳が明るい。
こんなふう英二に触れたことは無い、この初めてに英二も微笑んだ。

「ひゅうた、ほっひもふる?」

右頬も長い指で示してくれる、その貌はつねられても幸せが温かい。



付属図書館の書架、目当てのコーナーで周太は立ち止まった。
端正に並んだなか一冊だけ丁寧に取り出し、そっと背表紙を開く。
夏休みの午後、鎮まる静謐に乾いた音と古本の匂いが立ち、ふわり甘く重厚な香が混じる。

―うち書斎の匂いと同じ、お父さんの香だ、

もう開いただけで本の由縁が解かってしまう。
その想い見つめる経年の紙面、ゆるやかな窓の光が明るます。
そこにブルーブラックの流麗な筆跡が年月日とサインを綴ってあった。

『 25.Mar.1979 Kaoru.Y 』

インクの色も筆跡も、何度も書斎で見たことがある。
家にある数冊だけの英文学書、寮に持って来たワーズワース詩集。
どれにも丁寧に綴られたアルファベットと数字が、いま開いたページにも鮮やかに浮ぶ。
いまから33年前の手が記した万年筆の跡は、ラテン語を書いてくれた匂いと色と同じだった。

「…やっと会えたね、」

かすかな声に微笑んで一滴、温かく頬を濡らしていく。







(to be continued)

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第61話 塔朗 act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2013-02-26 23:56:17 | 陽はまた昇るanother,side story
真実、たどらす芳蹟の温度、



第61話 塔朗 act.2―another,side story「陽はまた昇る」

食卓を明るます陽射しが、2週間前よりまぶしい。

もう夏も残暑になる、そんな季節の光に瞳ほそめて用紙を捲る。
綴られていく調査データと論文に思考は動きながら、けれど鼓動は15分後に軋みだす。
いま意識は論文の世界を楽しんでいる、それなのに心は緊張と小さな怯えに泣いてしまう。

…英二の言葉と心が違っていたらどうしよう…嘘を吐かれたら哀しい、でも信じていたい、

読んでいる論文は楽しい、けれど心の深くが哀しんでいる。
もう覚悟は3週間前に芯へ坐りこんだ、それでも恋する心は涙を流す。
こんな自分は弱い?そう認める想い微笑んで周太は論文を読み終えた。

「湯原、どう思う?」

隣からの声に振り向くと、眼鏡の瞳が陽気に笑ってくれる。
この論文の意見が訊きたい、そうメールで言ってくれた通り手塚はコピーを持って来た。
これを読んで思うことで手塚が聴きたい意見、それを推察して周太は口を開いた。

「手塚が聴きたいのって、ハイポニカ栽培を水源林の木に応用できるのか、ってことだよね?」

ハイポニカ栽培は水気耕栽培とも言い、適切な人工条件で育てることで植物の力を最大限に発揮させる。
この栽培法ではトマトを木のよう大きく成長させることも可能で、実例では一本の苗から12,000個の実が採れた。
これをブナのように通常でも巨体の植物に応用できるのか?そう質問を推論した先で快活な声が頷いた。

「そう、ブナの実生を人工栽培するのにどうかな?」

真面目な顔をぱっと明るませ、訊いてくれる。
発想としては面白いだろうな?そう感じるまま周太は答えた。

「面白いなって思うよ?…ブナが育つ環境が人工的に造れるのか、が問題だと思うけど、」
「だよな?トマトとかメロンみたいな温室栽培する植物とは、ちょっと違うもんな?木自体もデカいし、」

生真面目な顔が困ったよう笑って、周太の手元で用紙を捲る。
その指先に諦めたくない意志が明るい、この不屈な友人に周太は笑いかけた。

「実現は簡単じゃないよね、でも理論的には可能だって思う。ブナにとって最適な環境のデータと施設を揃えられたら、可能性はあるよね?
それより問題なのは実生の苗を植林した後じゃないかな、今まで人工条件で育った苗が自然の環境に順応出来るか、ちょっと難しいよね?」

トマトやメロンなど農作物なら食用目的だから、収穫すればその後は無い。
けれど樹木は成長した後に山林へと植樹する、そして自然環境で育成するその後が重要になる。
そして山は天候や季節で変化が大きい、その適応能力も問われるだろう。この相違点に手塚も頷いた。

「そうなんだよな、いちばん良い環境で育った苗を自然環境に移せるのかどうか、だよな?ソレ出来なきゃ意味ないんだ、」
「ね、ブナの遺伝情報とかを調べたらどうかな?植林したい環境でも元気なブナのデータを取って、その遺伝を実生に活かすとか…」

答えながらも問題点を考えてしまう。
いわゆる遺伝子組換の技術をブナの実生に応用する、その人体や自然界への影響はどうだろう?
この問題提起にもすぐ手塚は気がついて、難しげでも朗らかなトーンで応えてくれた。

「遺伝子操作の苗も試す価値はあるよな、ただ遺伝子組換の大豆みたく健康の問題があるだろ?水源林だと自然環境への配慮もさ、」
「それ大事だよね?あとはね、自然環境が厳しくても耐えられるとこまで成長させて植林するとか。三頭山とか参考になると思う、」
「あ、氷河期の生き残りってヤツだよな?だったらブナの最適条件と三頭山の年代別データを照合したら、解かるな、」

話しながら論文を挟んでデータに目を落とし、教科書も開いて見る。
その向かいでテキストから顔あげた美代が、遠慮がちに訊いてくれた。

「あの、ごめんね、ちょっと訊いても良い?伴性遺伝の応用問題なんだけど、」
「ん、もちろん」

頷いて美代の手元を覗きこんだ隣、手塚も一緒に問題を見てくれる。
そんな教え子たちに青木准教授は嬉しそうに笑った。

「ほんと勉強熱心ですよね、三人とも。今日は湯原くんと小嶌さん、講義の前も研究室に来てくれたし、」
「あ、それはちょっと理由があって、」

困ったよう即答した美代に、青木は軽く首傾げた。
どんな理由だろう?そう微笑んだ眼差しに周太は正直に答えた。

「僕たち、講義室に入り難かったんです。それで先生と一緒になら入りやすいって思ったのが最初の動機で…すみません、」

謝りながら首筋が熱くなってくる、自分の恩師を利用したようで恥ずかしい。
やっぱり小利口に思えて羞恥に染まってしまう、けれど樹医は笑ってくれた。

「謝ることなんか無いですよ、プリントのコピーとか本当に助かりましたしね?でも、どうして講義室に入り難かったんですか?」
「あ、それって俺のメールの所為です。だよね?」

すぐ気がついた手塚が訊いてくれる。
その言葉に途惑い微笑んだ美代に笑いかけ、明朗な友人は真相を告げた。

「先生、ゼミ生の所為なんですよ?小嶌さんのこと憧れてるヤツって多いんです、それで今日こそ講義前に話しかけようって、
やたら皆が盛り上がっちゃってね?だから俺、小嶌さんに状況のメールしたんですよ。それで二人とも入り難かったんです、」

説明してくれる斜向かい、美代の貌が薄紅に染まっていく。
こういう事は慣れていない、そんな困り顔が気恥ずかしげに口を開いた。

「すみません、そういうの私ちょっと困るんです。それで湯原くんに逃げられる方法を考えってってお願いして、」
「そういう理由なら幾らでも私をエスケープ場所にして構いませんよ、でも話してみるのも楽しいかもしれませんよ?」

気楽に青木は言って、可笑しそうに笑ってくれる。
そんな自分の担当教官に美代は、赤い頬のままでも笑顔で答えた。

「そうですね、話す前から逃げるのも良くないですよね。でも私、好きな人がいるのでつい身構えちゃって、」

美代の好きな人が誰か?その回答に後の時間を想ってしまう。
あと15分後を隠さざるを得ない今に、すこし寂しく周太は微笑んだ。

…きっと美代さん、英二が大学に来るって言ったら恥ずかしがりながら喜ぶよね?でも言えないんだ、今日は…ごめんね、

今日この大学に英二が来ることを敢えて、誰にも言っていない。
それは気恥ずかしさもある、それ以上に気がついた可能性のため黙秘を決めた。
この大学を英二が来訪して自分と会う、それを誰にも知られない方が英二と美代の安全が護られる。

…お父さんがこの大学で勉強して英文学を捨てたのなら、ここに殉職の原因はあるかもしれない…英二も美代さんも巻きこめない、

そう考えると、あの老人の存在に納得できる。
異動直前に2度も自分の近くに現われた老人、彼が何者なのか見当もつく。
その名前を調べることも、この大学を起点に考えたのなら方法は幾らでもある。
そして彼と自分の関係性がもう、朧に姿を顕わして見え隠れしていく。

…あの人の年格好はもしかしたら、でも、そうだとしてもどうして?

もし「彼」が推論の関係だとしても、なぜ父は英文学の夢を捨てざるを得なかったのだろう?
いつも穏やかだった父、けれど父は決して弱い人ではなく簡単に意志を曲げるような男ではない。
まだ父が学者の夢を抱いた明確な証拠は見つけていない、それでも、そう考えると全ての符号が合致する。

……

My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!

私の心は弾む 空わたす虹を見るとき
私の幼い頃もそうだった 
大人の今もそうである 
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を!

……

この詩を愛誦していた父にとって「虹」は、英文学の夢ではないか?
この推論が正解だとしたら父は、進路の希望を奪われ死を得たことになる。

もし虹を奪い死を与えた相手が「彼」だとしても、どうやって父から英文学の夢を奪えたのだろう?
夢を叶える力もチャンスもあるならば普通は諦めない、ならばコントロールされたという事だろうか?
そうだとしても父は何故、自身の大学時代について登山の話以外は一言もしてくれなかったのだろう?
どうして大学教授だった祖父のことも、この大学に在籍した祖母のことも、何ひとつ父は語らなかった?
それどころか母校の大学名も父は自分に話さなかった、そして母すらも何も知らないのは、何故だろう?

この疑問符たちを解く鍵が、この大学にあるというなら全てが納得できる。
この大学が母校であったこと、それが父の非命を招いたとしたら「秘密」が解ける。
それでも父の意志と願いの全ては見えない、どこまで真実が隠されているのか底が見えない。

…どうして夢を諦めたの?どうして殉職を選んでまで…俺には夢を忘れるなって、何があっても諦めるなって言ったのに…なぜ?

疑問形が心に響いて、泣けない涙の泉は深くなる。
それを見つめながらも顔は会話に微笑んで、周太は美代のテキストに目を落とした。

『東京大学理科前期日程 過去問題解析集』

表紙に記された大学の名が、自分と父と祖父を繋ぎ過去は現在になる。
そして父が愛誦したワーズワス「虹」その一節が、隠された真相の鍵を呼ぶ。

“My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky…Or let me die”



四角く切取られた外が、まぶしく視界あふれて瞳ほそめる。
白い石柱を通りぬけた空は青い、良く晴れた8月の光に歩きだすと懐かしい声が呼んだ。

「周太、」

名前に見つめた銀杏の緑陰、ライトグレーのワイシャツ姿が笑ってくれる。
黒系のネクタイに物堅い礼儀が優しい、その信頼に微笑んで周太は駆け寄った。

「待たせてごめんね、英二、」

笑いかけ見上げた笑顔は3週間前と同じに端正で、けれど瞳が泣きそうでいる。
こんな目をしてほしかったんじゃないのに?その微かな傷みに英二が微笑んだ。

「俺のこと捨てないで、」

ただ一言、けれど全てを響かせる。
どうか願いを聴いてチャンスを与えて?そんな響きに切ない。
こんな言葉を聴きたかった訳じゃない、けれど縋られた喜びと未練が傷む。
それでも寄せてくれる想いに感謝は穏やかで、その幸せに周太は笑いかけた。

「俺の好きなベンチがあるんだ、一緒に座ってくれる?」

先月に見つけたばかりの樹影に佇む古いベンチ。
あれからも2週間前に学食の合間、今日のよう中座して図書館に行くとき座ってみた。
あの場所は自分にとって縁がある?そんな想いと笑いかけた隣、白皙の貌は寂しい微笑で頷いた。

「…うん、」

変らない綺麗な低い声、けれどいつもの弾むような喜びが薄い。
こんなトーンに哀しくて不安になる、それでも微笑んで陸橋の方へ歩きだした。
並木の樹影あざやかなキャンパスは木洩陽きらめいて、学生たちの笑い声にすれ違う。
ラフなカットソー姿の多い夏休みの空気を歩く隣はネクタイ姿で、行ってくれた墓参の礼儀が美しい。
こんなふう自分の家族たちを大切にしてくれる、それが嬉しくて周太は陸橋を渉りながら笑いかけた。

「あのね、ここって言問通りでしょ?でも東大ではね、ドーバー海峡って言うんだって、」

イギリスとフランスの間を隔てる海峡、その同名に父と祖父が想われる。
英文学を愛した父とフランス文学の学者だった祖父、その二人ともが橋を隔てたキャンパスにいた。
それは夢に生きる幸福な時間であったはず、それなのに父は祖父のことも家族の歴史ごと全て隠していた。

…でもね、お父さん、俺も同じ大学で生きてるよ?道路を隔てても橋で繋がる場所で、

陸橋の此岸は農学部のキャンパス、そして彼岸には祖父がいた文学部がある。
たった一本の道路と橋、それが隔てる祖父と父の運命には何が隠されているのか?
この真実を知りたくて今も橋を渡る、20分後にはパズルの欠片ひとつ見つけるかもしれない。
そんな想いと歩いて行く隣、白皙の貌は穏やかな寂しさと微笑んだ。

「ドーバー海峡みたいに大きな違いがさ、キャンパスによってあるんだろうな、」

なにげない言葉、けれど深く響いて温かい。
この温もりに英二の真実も心も意志も見えて、その全てに愛しく周太は笑った。

「ん、手塚もそう言ってたよ?あっちのキャンパスと農学部って、色々とカラーが違うみたい、」
「そっか、農業って実学の色が濃いからかな?」
「なんかね、東大の理系のなかでは農学部って下に見られるんだって…でも手塚は理系の首席なんだよ、だから有名なの、」
「すごく頭が良いヤツなんだ?周太や美代さんとも気が合うんだろ、」
「ん、すごく良いヤツだよ?」

なにげない言葉を交わして会話する、この声も呼吸も懐かしく慕わしい。
たった3週間ぶりの再会、けれど遠く離れていたのは距離でも時間でも無い。
そんな実感が今更のよう英二の瞳に感じられて、生まれてしまった隔ての川に鼓動ごと刺される。

…英二、やっぱり前と変っちゃったんだね?そんなに寂しい声で、こんなに俺のこと怯えるみたいに見て、

もっと真直ぐな声と、真直ぐな眼差しが今、すぐほしい。
いつも強引なくらい見つめて、綺麗な声で惹きつけていた直情は今、どこにある?
英二が帰国してから2週間はメールも電話も毎日くれた、けれど揺らぐ心が見えて哀しかった。

どうしてもっと、堂々としてくれないの?
どうして後ろめたい瞳をするの、本気で選んだのなら胸を張って?
本気で光一を抱きしめ愛したのなら、その想いと真実に誇りをもってほしい。

…本気なら好きって気持ちにプライドをもってよ、こんな目をされたら解らなくなる、よ…

こんな貌でいられたら、自分が何のために泣いたのか解らなくなる。
ただ望むまま幸せになってほしい、あの誇らかに美しい笑顔で生きてほしい。
そう願うから英二の気持ちも光一の願いも、全て自分は受けとめて笑って見送った。
大切な2人が笑顔で輝いてくれるなら自分は全て捧げて悔いはない、そう想ったから二人の背を押した。

それでも光一は周太の前で泣き崩れた、その涙は後悔ではなく愛惜と懺悔だった。
けれど光一の涙は誇らかで美しくて、泣きながらも綺麗な笑顔で謝ってくれた。
あの透明な瞳はもう答えを見つめている、そんな明るい純粋が綺麗だった。

『俺が帰りたい所はね、いちばん君が知ってるよ?山桜のドリアード』

あの言葉に笑った貌は本当に綺麗で、これで良かったと思える。
あの意味を考えるごと「よかった」と納得は深まって、ただ大切に支えたい。
光一が帰りたい相手が誰なのか解らない、けれど光一の瞳は幸せを知る心の強靭が眩しい。

…笑ってもらえて嬉しかったんだ、謝ってくれるより笑ってくれて、今まで通りに話して一緒にいるのが嬉しい、ね…

第七機動隊の付属寮、隣室から毎晩ノックしてくれる。
どちらかの部屋で話すこともあるけれど、雨でなければ初日のよう屋上で話す。
8月の夜気は暑いけれど広やかな夜空は心地良くて、並んで缶ジュースを飲む時間は寛げる。
あの時間が新隊員訓練の辛い期間も超えさせてくれた、他にもたくさん光一は援けてくれる。
その全てに卑屈も不安もなくて、ただ真直ぐに「約束」が優しく温かで、深い信頼が眩しい。

そういう光一だから幼い自分も、恋をした。
恋愛とも呼べない淡い想いかもしれない、記憶喪失に眠った心だった。
それでも今の10日間で9歳の自分が、どうして光一を信じて大好きになったのか理由がわかる。
だからこそ英二に胸張ってほしい、恋愛では無くても大切な人を任せた自分の気持ちを解かってほしい。

…英二だから光一も任せられたんだ、お母さんも家も全部を。なのに、こんな目をされたら惨めすぎる、

全てを贈っても幸せにしたい、そう願うほど想う人。
もう自分の未来は解らない、だからこそ全てを贈って今この時に笑顔を見たい。
その願いに失ってしまう痛みも選んだ、唯ひとり幸せに出来るなら誇らしいと微笑めた。
それなのに、本人にこんな目をされてしまったら惨めだ。

どうして解ってくれない?

前の英二なら言わないでも解かってくれた、なのに今は通じない。
この哀しい疑問を抱きながら顔は微笑んで、陸橋から降りて歩いて行く。
いつもの道を辿って豊潤の緑が現れる、その樹影へと踏みこんだ心ほどかれた。

「ね、ちょっと良い森でしょ?」

ほら、木の気配にもう心から笑顔になれる。
都心の喧騒もキャンパスの秘密も遠い森、この空気に周太は微笑んだ。

「奥多摩ほど広くないけれど、大きな木があって好きなんだ、」
「ああ、」

寂しい瞳のまま、それでも少し寛いだ笑顔が頷いてくれる。
それだけでも嬉しくて見ていたい、その喜びに微笑んで歩いていく。
ゆれる光と梢の明滅を辿り静謐は深くなる、そして現れた古いベンチに周太は微笑んだ。

「ここなんだ、座ってみて?」

ここに座ったら、この想いに気づいてくれる?

この願いに祈るよう見上げた想い人は、深い陰翳に腰を下ろした。
豊かな梢を透って風は涼しげに揺れて、真夏の木洩陽まばゆく降りそそぐ。
学舎の群れも喧噪も繁らす木々のはるかに遠く、眠るよう静謐は大樹に護られる。
この空気が家の庭と似ていて優しい、だから自分に縁があるよう想えて座りたくなる。

…うちの庭、お祖父さんが今みたいに造ったから…この森ともお祖父さん、すこし似せたかもしれないよね?

このベンチに祖父も思案に寛いで、祖母も一緒に座ったかもしれない?
もし父がここの学生だったなら、祖父と一緒に並んで座り学問を語り合った?
そう想うから尚更に大切な場所だと想えて、このベンチに家族の温もりを探して座る。
この想いに隣は気づいてくれるだろうか、もし気づいてくれるなら希望があると信じたい。
どうか狭間を越えて帰ってきて?そう祈る安らぎに座りこんだ隣、綺麗な低い声が訊いてくれた。

「周太の大切なベンチなんだろ、ここ?」

―解ってくれた、

そう感じた途端に泣けない涙は澄んで、静かな喜びに温かい。




(to be continued)

【引用詩文:William Wordsworth「My Heart Leaps Up」】
【参考文献:田中修『ふしぎの植物学』中央公論社】

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塔朗雪夢、対称形の想い

2013-02-26 21:29:01 | お知らせ他
水鏡、夢と現と、 



こんばんわ、今日も青空に明るかった神奈川です。
晴れた夜もなかなかで、冬の月は冴えて良いなあと思います。

写真は近場の森林公園にて、水鏡の白鷺です。
一羽だけで小さな湖沼に佇んだ姿は、冷たい水にどこか寂しげでした。
が、ファインダーに切り取ってアップで見ると、その目はなんだか愉快そうで。笑

鷺という鳥は、夫婦になると生涯を添い遂げると言います。
もし伴侶を失えば去るのも惜しみ、ずっと寄添ってしまう。
そんな伝説もある鳥の姿に作中の人物たちを想います。

雅樹と光一、馨と美幸。
この二組は片方が早逝してしまった哀しみが鮮やかです。
遺された方はずっと想い続け、逝った恋人の死に自責を抱いています。
そして遺した方も離れることなく護り続けようとする、そんな生命すら超える想いです。
泣けない涙の泉に映した懐かしい幸福の影を、水鏡を透してお互いに見つめ合い偲びあう。
孤独なようで不変に温かい、そんな永遠に安らぎ見つめあう二人は哀しくて、綺麗です。

本篇の主人公・英二と周太の先、未来はどうなるのか。
読んでいる方は何を想い、何を望んでいますか?

いま第61話「塔朗1」と短篇連載「紅雪の夢2」加筆校正が終わりました。
今夜は「塔朗2」UPを予定しています、湯原@大学のシーンです。

取り急ぎ、
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第61話 塔朗 act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2013-02-25 21:37:43 | 陽はまた昇るanother,side story
芳蹟、その真実ひらく鍵   


第61話 塔朗 act.1―another,side story「陽はまた昇る」

My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man : 
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

私の心は弾む 空わたす虹を見るとき
私の幼い頃も そうだった
大人の今も そうである 
年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を!
子供は大人の父
われ生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを

「…子供は大人の父、」

夜明け時、デスクライトのページに復唱こぼれて周太は微笑んだ。
ウィリアム・ワーズワスの詩「My Heart Leaps Up」別名「虹」としても親しまれている。
この詩を父は愛唱していた、そして今、自分にとって殊更に好ましく想えてしまう。
そんな想いに願うよう心は、穏やかに希望を呟いた。

…ほんとうに人生を森林学で結ぼう、最期は必ず…なにがあっても諦めない、

幼い日に夢見た樹医の道、そこに辿り着く切符を自分は持っている。
けれど現実に今ここで座るのは警視庁第七機動隊舎、その付属寮の一室にある小さなデスクだ。
この場所に座ることを自分で選んで、そのために10歳の春から精一杯の努力を積んできた。
それでも心が呼ぶ未来の道は「自然への畏敬」幼い自分が持っていた全てを指す。

…お父さん、必ず約束は果たすからね?今ここで警察官でいても、この先、あの場所に行っても諦めないよ?

記憶の父に笑いかけて、今ひろげている本のページにふれる。
この本を父はずっと愛していた、それが発行年月日と発行所の地名から解かる。
父の指が30年以上ずっと繰ってきたページ、その想いを辿るよう周太はページを捲り呟いた。

「…1966年、London、」

父が7歳の年に発行された本は、英国の首都で作られている。
この由縁を知ったのは1ヵ月前の葉山、英二の祖母である顕子の言葉だった。

―…晉さんは東大の仏文科の教授をされていたわ、パリ大でも名誉教授よね…晉さんオックスフォード大学に招かれて、
  4年間むこうで暮らしたの。それで馨くんも一緒にイギリスに行ったのよ…斗貴子さんが亡くなって四十九日が済んでから、

母を亡くした父は、父子ふたりきりで渡英した。
そしてこの本と出会い、大切にして30年以上を毎日のよう読み続けている。
こんなにも父がこの本を愛した理由、それは何だったのだろう?

…お父さん、英語も綺麗だったけどラテン語も上手だったね?俺の採集帳にラテン語でラベルを書いてくれて…あ、

心で父に話しながら、ふと違和感に引っ掛る。
そういえば父は、どうしてラテン語を身に着けたのだろう?
そんな疑問に考え込んだ意識に、ふっと幼い記憶の言葉が優しく微笑んだ。

―…ラテン語はね、周、学問の言葉として遣われているんだ…だから採集帳のラベルもラテン語で書こうね、

「…学問の言葉として?」

呟いた言葉に、祖父の人生が蘇える。
祖父は仏文学者だった、ならばラテン語も知っていたかもしれない。
それなら父がラテン語を身に着けた理由は、祖父と同じ目的だった可能性がある?

…お父さん、英文学の学者になりたかった?

問いかけが響いた心、納得が肚に落ちる。

書斎を充たすフランス文学、ドイツの専門書が少し、そして数冊の英文学書。
英文学書は10冊にも満たない、けれど宝物のよう保管して父は大切に読んでいた。
そのたびに父の横顔は幸福と哀切が交ぜ織られた微笑ほころんだ、あの貌の理由が納得できる。

…あんなに英文学の本が好きなのに少ししかないのは、処分しちゃったんだね?お父さん…

父は本を大切にする人だった。
だから処分するなら誰かに譲るなり図書館に寄贈しただろう。
その寄贈先として考えられるのは普通、地元の図書館か母校だろう。
けれど川崎の図書館に寄贈書があるならば、とっくに自分は気づいているはずだ。

…だったらお父さんの母校にあるはずだけど、

けれど父の母校を自分は知らない、その無知にも父の理由があるだろう。
そう廻らした考えに、書斎にある1冊の本の謎がすこしだけ姿を顕わしていく。

『Le Fantome de l'Opera』

紺青色の表装が美しい、ページを切り取られた本。
あのページを切った断面は、父が愛用したアーミーナイフの切断面と似ている。
それくらい自分にも解ってしまう、あのアウトドア用ナイフを今使うのは自分自身だから、考えてしまう。

“どうして父は本を捨てずに、ページの大半を切り取ったのだろう?”

祖父の遺蔵書だから捨てられなかった、それは納得できる。
けれど切られたページには、父が切り取りたかった理由が必ずある。
その理由がずっと見えなかった、それが「ラテン語」がヒントになって現れていく。

…切り取られたページは「Fantome」が出てくる部分だった…まるで「Fantome」の存在を物語から消したいみたい?

なぜ父は「Fantome」の存在を消したかったのか?
その理由が「ラテン語」父が英文学者になりたかった夢と関係あるとしたら?
そして父が学者になる夢を描いた場所、父の母校はどこだろう?

…普通に考えたら、お祖父さんと同じ学校に行きたいよね?あんなに読み書きも話すのも出来たし…なんでも良く知ってた、

父に聴いて解らない事は無かった。
いま記憶喪失が癒えるまま思い出す父は、ハイレベルに博学で教え方が巧い。
あの学識は父が学者志望だと考えれば納得がいく、それだけの能力も意志もあったのだろう。
きっと祖父と同じ大学に父は入学した、それなのに父は警視庁の警察官になって自ら命を絶つよう殉職してしまった。

…どうして好きな英文学の学者にならなかったの?どうして殉職するほど追い詰められたの?お父さん

My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky …
So be it when I shall grow old Or let me die!…
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

父の最期は、この詩に殉じたよう想えてしまう。
まだ理由は解らない、けれど父が「虹」文学書に心弾ませていた姿を知っている。
その歓びが消えるとき父の心も息絶える瞬間なのだと、いまアルファベットを見つめ想ってしまう。
それならば父が殉職を選んだ理由は「虹」が消えたことなのだろうか?

…お父さんにとって虹が、英文学への夢が消える原因ってなに?もう学問の世界には戻れないってこと?でも、どうして…

哀しみが謎から生まれて、心が軋んで今日の予定を考え直す。
おそらく午後には父の真実の姿と、ひとつの欠片に会える。

けれど父に消された「Fantome」は、何の意味を示すのだろう?



朝食の膳を見ても、吐き気は起きない。
第七機動隊に異動して10日すぎ、新隊員訓練の期間も終わって少し体が楽になった。
けれど精神的プレッシャーはある意味で大きい、就いた任務の実像はやはり重たく感じてしまう。

…銃器は人殺しの道具なんだ、それが違うなんて無い…どんな目的でも実像は変わらない、

そっと心つぶやきながらトレイを運ぶ、その視界で手が挙がった。
見ると銃器対策レンジャーの先輩が手招いてくれる、その明るい空気にほっとして食卓に向かった。

「おはようございます、松木さん、箭野さん、」
「おはよう、湯原。今日って大学だろ?」

気さくな笑顔で松木は席を勧めてくれる。
その隣に座ると周太は二人の先輩へと頭を下げた。

「はい、17時には戻ります。配属したばかりなのに、すみません、」
「謝ることないよ、俺も夜学に行ってるから気持ち解かるしさ。話しながら食おうよ、」

笑って箭野が醤油さしを取ってくれる。
素直に受けとりながら周太は聴いてみたかったことを尋ねた。

「箭野さん、大学の二部に通っているんですか?」
「ああ、東京理科大の理学部に通ってるんだ。今4年生だよ、」

答えながら箸を動かす笑顔は、愉しげに明るい。
きっと好きで学んでいる、そんな雰囲気が嬉しい横から松木が笑った。

「二人とも偉いです、ちゃんと勉強しようなんてさ?俺なんか勉強するの嫌だから、高卒で就職したのに、」
「それじゃあ松木、初任科とかの座学は大変だったろ?」
「その通りです、ほんと昇任試験とかヤバいです、」

朗らかに松木は笑いながら皿のトマトを口に放り込んだ。
その視線が向うに気がついて、手を挙げた。

「本田と浦部さんです、同席イイですよね?」
「おう、いつも一緒だろうが?」

可笑しそうに笑った箭野の隣、山岳救助レンジャーの二人がトレイを置いた。
いつもの親しい挨拶を交わして座ると、浦部が穏やかに微笑んだ。

「湯原くん、だいぶ馴染んだ?」
「はい、ありがとうございます、」

微笑んで答えながら前に座った貌に、つい懐かしい俤を見てしまう。
日焼うす赤い白皙の笑顔は端正で、涼やかな眼差しが思慮深く鎮まっている。
さほど顔立ちは似ていない、けれど雰囲気が似ているようで慕わしい。

…英二、今頃は青梅署で朝ごはんかな、藤岡と新しい人と、

懐かしい人を想い、これから数時間後の再会を考えてしまう。
今日は大学で時間の合間に英二と会う、それは遠征訓練の直前に会って以来3週間ぶりになる。
こんな久しぶりに少し鼓動が速くなってしまう、けれど緊張は「久しぶり」な所為だけじゃない。
英二と光一はいわゆる一線を越えた、その夜を超えた後の初対面が今日だという緊張が強ばらす。

…今の英二は俺のこと本当はどう想ってるの?電話で話しても目が見えないと解らない、光一の気持ちもあるし、

光一とは異動して10日間ずっと顔を合わせ、夜毎に話し一緒に勉強する時間がある。
そんな時間に光一の真実を見つめ、すこしずつ気がついていくことが多い。
けれど今も訊けない事がある、それは英二に何を想わすだろう?

『俺が帰りたい所はね、いちばん君が知ってるよ?山桜のドリアード』

光一が帰りたい「誰か」は、あの山桜に関わる人。
それなら英二でも美代でも無い、あの山桜を知る人を自分は光一の他は知らない。
けれど自分が知らない「誰か」が山桜を知っている?また考え廻らせかけたとき本田が尋ねてくれた。

「湯原さん、あれから盗聴されてる感じとかありますか?」

声に顔をあげると、笑顔でも本田の目は真剣でいる。
この一週間ほど前にあった盗聴事件は、山岳救助レンジャー第2小隊には懸案だろう。
その現状と真相の違いに心軋ませながら、周太は感謝と微笑んだ。

「特に気がつかないです、」
「なら良かったです。あれから七機全体で警戒してますし、今のとこ大丈夫そうですね?」

本田の言葉に浦部は頷いて、何げなく周りへ視線を走らせた。
ごく普通のしぐさという空気、けれど眼差しの奥に思慮が鋭く深い。
それが似ていてまた鼓動が敲かれる、ほっと小さな溜息に微笑んだ隣から松木が声を低めた。

「あの盗聴って、やっぱりターゲットは国村さん?」
「他に考えられないだろ、うちの小隊長って幹部候補の下馬評ダントツだしさ?」

答える本田の声が深刻のなかにも、上司への信頼と誇りが明るい。
その響きに光一が部下の心を掴んでいるのだと解かる、それが嬉しくて微笑んだ前から箭野が訊いた。

「そういえば今の第2小隊長って、国村さんと知り合いだって聴いたぞ?」
「うん、そうだと思うよ?」

さらり答えて、浦部が微笑んだ。
白皙の手に丼を持ちながら、穏やかな声は教えてくれた。

「警視庁の山岳レンジャー同士だったら合同訓練で顔も合わせるし、お互い顔見知りが多いんだ。特に国村さんって有名だしね、」
「そうなんだ、でも国村さんってまだ若いよな?」
「うん、高卒6年目の警部補だよ。でも山のキャリアはトップクラスでさ、それなのに話しやすいよ?」

箭野の質問に答える浦部の貌も、明るい誇りがある。
そんな浦部は光一より2歳年長で山の実績も高い、それでも褒めるのは余程なのだろう。
改めての認識と箸を動かしながら少し心配になる、これでは英二の立場は容易ではないだろう?

…光一の評判が高いほど、英二がアンザイレンパートナーとして認められるのってハードルが上がるよね?

いま光一を話す第2小隊員たちの笑顔は、優れた上司への誇りと憧憬が高い。
そんな上司とザイルを組んでみたいと山ヤなら想うだろう、けれど光一は英二以外を選ぶことはしない。
それが解かるだけに少し心配になる、まだ任官2年目で山のキャリアも1年の英二はとにかく実績を示すしかない。
だから海外遠征訓練でも三大北壁のうち2つを連登して記録を作った、それは英二の為に嬉しいけれど心配になる。

…こういう状況だから英二も努力してるんだ、でも無謀って言う人もいるね?…それ以上に、どうか無理しすぎないで?

ただ1年のキャリアでアイガー北壁とマッターホルン北壁で記録を作り踏破した。
そんな英二を天才と讃える人も多い、それは第七機動隊に異動した10日間でなんどか耳にした。
けれど反面、無謀なことをさせると言う人もあって不思議ではない。そんな心配を抱きながらも微笑んで周太は箸を運んだ。



農正門を潜ると銀杏の樹影、華奢なデニムパンツ姿が手を振ってくれる。
いつもの明るい笑顔に嬉しくなって、大好きな友達に周太は駆け寄った。

「ごめんね、美代さん、ここで待っててくれたんだ?」
「ごめんねなんて言わないで?だってね、私の自己都合で待ってたんだもの、」

きれいな明るい目を微笑ませ、美代は萌黄色のカットソー揺らせて歩きだした。
けれど歩調がいつもより遅いのは「自己都合」と関係するのだろうか?
そんな友人の様子が気になって周太は、そのまま尋ねてみた。

「暑いから講堂で待ってると思ったんだけど、美代さんの自己都合って?」
「それはね、こういうことです、」

笑って美代はスマートフォンを取りだすと、画面を開いてくれる。
そして一通のメールを示すと、可笑しそうに教えてくれた。

「ね、こんなメールもらっちゃったら私、ちょっと一人じゃ講堂に入れないでしょ?」


From  :手塚賢弥
subject:状況報告
本 文 :いま講堂だけどさ。憧れの小嶌さんに話しかけようってゼミ連中、盛り上がっちゃてるよ?夏だよねえ、


メールの文章に笑いたくなってしまう。
最後の「夏だよねえ、」がノンビリしていて手塚らしい。
いつもマイペースに自律する友人が楽しくて、周太は率直な感想と笑った。

「ね、これだと俺と一緒でも入り難いって思うよ?」
「そうよね、どうしたらいいかな、私?こういうの慣れてなくって、出来れば遠慮したいの、」

笑いながらも困ったよう美代は首傾げ、援助を求めてくれる。
一緒に首傾げながらクライマーウォッチを見ると、講義開始まで23分だった。
このまま講堂に入れば20分間を美代は包囲されるだろう、この時間猶予で思いついた提案に周太は微笑んだ。

「ね、美代さん。今から先生の研究室に行こうよ、それで講義の準備を手伝わせてもらって、一緒に講堂に入ったらどうかな?
これなら授業前の自由時間がゼロになるから、話しかけられないよね?先生と話す時間が増えるし、講義に遅刻する心配も無いし、」

講堂では困る猶予時間を、別の場所で有効利用して過ごせばいい。
そんな提案と笑いかけた隣、嬉しそうに美代は明るく笑ってくれた。

「うん、すごく良い考えね?ありがとう湯原くん、早く先生のとこ行こう?」
「ん、」

頷いて一緒に踵を返し、青木准教授の研究室へ歩きだす。
その足元ゆれる木洩陽きらめいて、午前中でも炎暑を燻らせる。





(to be continued)

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雑談寓話:声、こもるもの

2013-02-24 15:39:52 | 雑談
瞬き、その刹那に 



こんにちは、日曜の昼下がりに一息です。
晴れた青空ですが、どことなく夕べをふくんだ陽光は今の季に独特で。
こういう陰翳の多い光線は写真にすると、切ない空気になるんですよね。

最近、交通事故死の判決について話題になっていましたが。
それに対する見解を某WEBサイトの書込みで見かけ、読みました。
若い女性かな?っていう雰囲気の文章でしたが、侘しい心が透けて切なかったです。

交通事故死の遺族に対して、裁判を長引かせるより賠償金を沢山もらって豪遊して忘れた方が良い。
そんな意味を提言した書込みでしたが、それに対する回答は当然のようダメだしが多かったです。
いわゆる否定意見の回答に対して、彼女は虚勢を張るよう苛立つ書き方で返答していました。
その言葉ひとつ一つが否定される事への怒りと孤独が剥きだしで、生傷のようです。
誰も傍に居ない人が書き殴った痕跡が、痛々しく思えました。

質問書込みをしては回答者を馬鹿にして楽しむ、そんな性向を彼女はある回答者から指摘されていました。
その通りに以前から回答者に対して、彼女のコメントは馬鹿にするような物言いが多くされています。
このWEBサイトは質問者・回答者の履歴が閲覧できるのですが、質問回数は一日に何件もありました。
こんなに何度も質問する彼女の真意は何だろう?そう考えたとき孤独感が透けて見えました。
現実に自分の意見とか話せる相手がいたら、WEBに何度も書きこむ必要は無いですから。

誰かと繋がっていたい、けれど周りに誰もいない。
だから不特定多数の相手でも良いから、罵詈雑言でも良いから会話していたい。
いつも相手を馬鹿にして卑下したがるのは、現実の彼女が「虐げられている」と感じている鬱憤晴らし。
WEBは匿名性が高い世界です、だから彼女も言いたいことを好き勝手に書くことが出来るのでしょう。
それを誰かが読んでくれる安心感を求めて書込み、相手を傷つけても「会話」に満足する。

そんな心理状況であっても、他人を傷つけることは自分勝手な人間の言い分です。
それでも、そうせざるを得ない心の苦悶は哀しみがあるのかな、など想ってしまいます。
そう言われたら多分、彼女自身は必死で虚勢をはって強がるのでしょうね。
そういう強情、リアルにぶちまけちゃえば楽なのになあ、と。

自分としては強情を正直に言える女のひと、悪くないって思います。むしろ好きです。
ただし面と向かって話し合えるのならって前提です、匿名性に隠れてコソコソはみっともない。
コソコソ好き噂好きの井戸端会議愛好家してる時の貌ってね、不細工になってるから見たくないんですよね。笑
どうせ見るなら優しい綺麗な笑顔を見て、眼福したいです。

人間なら「認められたい」願望って誰しもあるモンです。
認められ受けとめられることで自分の存在する意味を確認する、それが人間を努力にも向けます。
けれど彼女のような、ツールも手段も違う方向性に行ってしまう方が最近、多いのかもしれません。
彼女も現実の世界に見いだせていないのでしょうが、女の人って誰でもマドンナの貌を持ってるモンなのに。
そういうご自身に早いトコ気がついて、心から綺麗な笑顔で世界は楽しいってなってほしいなあ、など思いました。

ここで小説を毎日描いていて、いつも思うんですよね。
この文章を透して自分は、明るいプラスになる何かを読む方に手渡せているのか?
読んで温かい気持になれたら良いなあ、など考えながら写真やイラストを貼って物語を綴っています。
文章を読む時間は一瞬です、それでも言葉から受けとめた心は一生になることもあります。
そういう責任とかを想うほど、いつも一言一句どれもが大切です。

だから今回も、ちょっと色々考えて雑談してみました。
こんなしてWEBに言葉を綴る日々、この言葉の向こうにいる誰かを想うんですよね。
そんな相手のあなたは、自分は独りぼっちだなあーとか、人生ツマンないって想ったりしますか?

そういう時は違う場所に行ったら良いかな、って自分は想います。
自分は学生時代から色んな場所に行く機会が多いんですけど、毎度つまんなく無いです。
たとえば霞ヶ関、九段下に新宿。たとえば吉野山中、霧深い比叡山、遠野郷の春夏秋冬、富士の山頂。
目的は仕事だったり研究の為だったり色々ですが、いつも新しい世界が見えて、新しい自分がいます。

仕事の時は意見と能力の対峙があって、好き嫌いのような小さな感情を飛越した時間を共有できる。
その時間のなかに互いの尊敬や信頼が生まれることもある、そして新しいパーソナリティを知れます。
個人的に歩く時は「匿名」だからこそ、素の自分で相手と向かい合うことになって、それが面白いです。
お互い名前も知らない人と話す時、ただ「自分」だけが独りで「相手」と向合っている。
それは名前からすらも解放された自分になれる時間です、そんな自由が楽しいなと。

いつも歩く道の一本向うの通りを歩いてみる、それだけで違う世界に会えます。
住宅街の中でも花咲く見事な庭や、意外な場所に店や気持ち良い公園を見つけたり。
同じ道をいつもと違う時間帯に歩いても、空の色や光線の違いで全く別風景になります。
未知の世界って、普段のすぐ隣にあったりするモンです。そういう発見は遠くに行くより面白いかもしれません。

だらっと書いてしまいました、乱文すみません。


為になる随筆ブログトーナメント

今日は第61話の湯原サイドor連載短篇の続きを予定しています。
もう昨日の第61話「燈籠3」と短篇「天花の証3」加筆校正が終わりました、良かったら読んで下さいね。





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富士夕景

2013-02-23 21:26:41 | お知らせ他
薄暮、時間のはざま 



こんばんわ、晴れのち曇りだった神奈川です。
写真は17時ごろの富士、雲の流れが速い日でした。

冬富士は季節風の影響で天候変化が激しく、風が空気の塊のようぶつかります。
そんな様子は麓から見上げても解かるほど、雲は刻々と変貌して山を隠して現します。

短篇「天花の証、師走act.2―Lettre de la memoire,another」の加筆校正が終わりました。
第61話「燈籠act.3」は加筆がほぼ終わりました、あと少し校正をします。

今夜は短編の続きをUP予定です、

取り急ぎ、
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第61話 燈籠act.3―side story「陽はまた昇る」

2013-02-23 01:18:14 | 陽はまた昇るside story
燈火、絡まるほどに、 



第61話 燈籠act.3―side story「陽はまた昇る」

『俺のことはあげられないから、』

そう告げた唇と瞳を見つめて、動けない。
風ゆらす黒髪に木洩陽ふる、その艶やかな輪冠に見惚れる心も痛い。
どういう意味で言われた言葉なのだろう?いま思考すら止まりかけた目の前、穏やかに周太は微笑んだ。

「後悔しないのは、ふたりで幸せだったからでしょう?幸せなら続けたら良いのに、どうしてもうしないなんて言うの、」
「納得できたから後悔しないんだ、」

動けない想いが、周太の言葉に突き飛ばされて声になる。
いま言わなければ次は無い、そんな想いのまま英二は続けた。

「まだ光一と話せてないんだ、でも解かるよ?俺に抱かれることで光一は確認して、整理したかったんだと思う、」
「…確認と整理?」

静かなトーンで訊き返し、凛然とした瞳が穏やかに見つめてくる。
3週間前よりも静謐の深い眼差しに惹きこまれてしまう、この瞳から離れたくない。
いま募っていく想い見つめながら、すこし英二は微笑んだ。

「雅樹さんと俺は別人だって確認して、雅樹さんが亡くなった現実を納得したんだと思う、裸でふれあうと違いが解かりやすいから。
それ位しないと諦められないほど大切なんだ、光一にとっての雅樹さん。それに俺、雅樹さんの気持ちも解るんだ。北鎌尾根の後から、」

もう消えてしまった存在を探したい、その願いに今もう気づいてしまう。
それを止めるために相手の死を確認して、自身を納得させる手段が「似ている男」に抱かれる事だった。
そんな光一の選択に真相が垣間見える、けれど見てはいけない、静かに秘めてあげたい。
そう願うままに英二は言葉に出来ることだけを口にした。

「俺ね、正直に言うと北鎌尾根から槍ヶ岳の山頂に抜けたあと、すこし記憶が無いんだ。あのとき俺は雅樹さんになっていたと思う、
信じ難いだろうけど、雅樹さんの心の欠片が今も俺に残ってるよ?だから光一は俺の全身に触れて納得しようって考えたと思うんだ。
もう雅樹さんは帰らないけど心は傍にいてくれる、そう納得出来たから光一、雅樹さんの墓参りに俺を連れて行ったんだと思うよ?」

山は不思議が起きる、それを知ったのは北鎌尾根だけじゃない。
いつもの巡回でも感じてきた、登山道で森で川で向きあう瞬間が確かにある。
それを光一なら尚更に知っているだろう、そんなパートナーを想いながら英二は唯ひとりの相手に笑いかけた。

「そういう光一の気持ち、俺には解るよ?だって俺も本当は、もう何度も考えてきたんだ。もし周太が消えたらって、何度も泣いてる。
きっと俺も光一と同じなんだ、雅樹さんとも同じだと思う。きっと俺も周太が消えたら必死で探すよ、死んだなんて嫌だから信じない。
そういうの俺だって何度も考えてきた、初総の時は特に酷かったよ。だから俺は光一の納得したい気持ちが解かるし、後悔も出来ない、」

禁じられても許されても、同じこと。
たとえ生と死に別たれても想ってしまう、追いかける。
そんな本音と笑いかけた視界があわく滲んで、英二はゆっくり瞬き涙を呑んだ。
今ここでは泣きたくない、そう願いながら見つめた先で周太はため息ひとつ吐いて、静かに笑ってくれた。

「そんなふうに悩んでほしくないから俺、光一と英二に恋人同士になってほしかったんだ…ふたりで幸せになってほしいって、想ったんだ。
英二のこと捨てるとかじゃなくて、ただ幸せに笑っていてほしいだけ。俺が持ってるもの全部あげて、幸せにしたいって…捨てるとか違うよ?」

言葉と見つめてくれる瞳は穏やかで、ただ真直ぐな優しさが温かい。
この温もりに安らがされる時間が大切で、その為に護りたいと願い傍にいる。その想いを英二は言葉にした。

「それなら傍にいさせてよ、周太?自分勝手で狡い俺だけど、幸せに笑えっていうなら傍にいてよ、ちゃんと答えて?」
「もう答えてるでしょ?解んないの?」

遮るような答えで黒目がちの瞳が見据える、その空気に息呑んだ。
すこし苛立つような物言いを周太がした、こんな姿は初任科教養の時以来だろう。
やっぱり嫌われてしまう?その不安と怯えふるえた心へと、周太の声が言ってくれた。

「このベンチ、お祖父さんとお祖母さんが座ったかもしれないんだ。そこに一緒に座ってって言った気持ち、どうして解かってくれないの?
光一の気持ちはそんなに解かる癖に、俺のこと何も解らないの?前は言わなくても解ってくれたのに今はダメって、心変わりした証拠なの?」

言われた言葉に引っ叩かれて、目が覚める。
いま黒目がちの瞳は微笑んで涙はない、けれど深く泣いている。
この哀しみも言葉たちも自分の無理解の所為、そう気づくまま掴んだ周太の左手を握りしめ、英二は微笑んだ。

「ごめん、周太。今の俺、本当に自信が無いんだ。周太が俺を想ってくれてる自信が無くて、すごく弱くなってるよ?だから解らないんだ、」
「だったら自信、持ってよ?」

穏やかな声、けれど強く明確に言ってくれる。
いつものよう優しい笑顔、なのに前と違う透明な深みが英二を見、綺麗に笑ってくれた。

「正直に言うけど俺、あの夜は眠れなかったよ…英二と光一が初めての夜ね、俺は手塚と夜通し喋ってたんだ、森林学のことや色々。
俺が寂しい貌になってたから手塚、気にして一緒にいてくれたんだよ?英二と光一が幸せなら俺は嬉しい、でも…寂しくて哀しいのも本音、」

やっと本当の気持ちを話してくれた?
そう小さな自信が心に笑って、英二は真直ぐ瞳を見つめて訊いた。

「周太、俺を婚約者で恋人って想ってる?ずっと一緒にいたいって、俺と眠りたいって、今も俺を必要にしてる?…キスしたいって想う?」

どうかお願い「Yes」を君の声で聴かせて欲しい。
ただ願う想いの真中で、英二を映しこんだ瞳は幸せに笑ってくれた。

「ん、必要にしてる、想ってる…大好きだから、」
「周太、」

名前を呼んで引寄せて、木洩陽のなか瞳を覗きこむ。
光ゆれる長い睫のなか瞳は微笑んで、羞みながら静謐が見つめ返す。
その眼差しは3週間前よりも綺麗で、また募らされる想いごと英二は唇を重ねた。

―好きだ、

ふれた唇の優しさにもう、心が想い囁く。
この想いを伝えたくて肩よせ抱きしめる、その頬に穏かな香は撫でる。
ずっと好きだった黒髪の香が愛しくて微笑んで、声ない想いがキスにあふれた。

―大好きだ、離れたくない、ずっと傍にいてよ…愛してるんだ、

心が囁く想いのままキスをする、その唇はざまにオレンジの香があまい。
いつも周太が口に入れている飴の香は優しく穏やかで、吐息のあまさに幸せになる。
ふれあう唇の温もり嬉しくて心解かれていく、逢えなかった時間も隔てた壁も少しずつ崩れだす。
堪えきれない想い熱に変っていく、そして頬ひとすじ涙こぼれていくまま英二は綺麗に笑った。

「周太、これは嬉し涙だからな?周太にキス出来て嬉しくて、涙が出た。もう周太にキス出来ないかもって、覚悟してたから、」

正直な気持ちを言葉に変えて、目の前の恋人に笑いかける。
ただ君がほしいよ?そう見つめた水色のシャツの衿元、うなじに薄紅を昇せながら困ったよう周太は微笑んだ。

「…ばか、そんなこと学校でなんかいわないで恥ずかしいから」

ほら、そんな顔するからキスだってしたくなる。
その想いごと再び唇ふれさせて、静かに離れると英二は幸せに笑いかけた。

「ごめんね周太、俺って馬鹿だから我慢できないんだ。周太に恋して馬鹿になったんだから、責任とって?」
「しらない、えいじのばか…えっちへんたい」

気恥ずかしげな貌で罵ってくれる、それも嬉しくて笑いかけた長い睫が伏せられる。
あわい日焼けの頬も薄紅そめて初々しい、この貞淑に惹かれて吐息こぼれだす。
そのまま心から本音が吐かれてつい、音を持って声になった。

「今すぐ周太のこと、攫いたい、」

攫って、そのまま抱きしめて眠りたい。
全て忘れてシーツの海に沈みたい、唯ひとりだけ見つめて記憶したい。
いますぐ素肌でふれあいたい、けれど叶わない望みに恋人は困り顔のまま微笑んでくれた。

「そういうのはずかしいよ?でも…ありがとう、逢いに来てくれて嬉しかった、」
「嬉しいんなら調布まで送らせて、俺、車で来てるから、」

言葉を追うよう誘いを告げて、そっと周太の左手を握り直す。
この手をまだ離したくない、もっと傍にいて近づいて時間を共にしていたい。
そう願い見つめて、けれど黒目がちの瞳は優しい微笑で謝絶した。

「ありがとう、英二。でも俺、まだ大学で用事があるんだ…もう戻らないといけなくて、ごめんね?」

用事があるなら仕方ない、けれど今は拒絶を聴きたくない。
こんな自分勝手に傷みながら恋人を見つめて、我儘に英二は微笑んだ。

「周太からキスして?そうしたら俺、我慢して独りで行くよ、」

お願いだから今、君からのキスがほしい。
いま自分からのキスを拒まないでくれた、それが嬉しい。
けれどまだ君が自分を想ってくれる自信が無い、だからキスで想いを贈って?
そんな願いごとみつめた黒目がちの瞳はきれいに笑って、そっと近寄せ唇に吐息ふれた。

「…すき、」

かすかな声、けれど優しい真実が吐息に微笑んでキスが閉じこめる。
ふれあうだけの温もり、静かな葉擦れの囁く声たち、見つめる睫に木洩陽きらめく。
穏やかに温かな時間が夏の樹影に過ぎてしまう、この時を今止めたいのに術が解らない。

―離したくない、なのにどうして?

ふれる唇にオレンジの香はあまくて、あわい潮が温かい。



御岳駐在所はガラス戸を開いてあった。
渓谷から昇らす風は清流に涼やかで、小さな室内を廻って吹きぬける。
それでも8月の残暑にうすい汗にじむ午後、ネクタイ姿の英二は奥に声掛けた。

「おつかれさまです、宮田、今から入ります、」
「おう、」

扉向うから低い声と気配が立って、休憩室から原が姿を現した。
いつもの無愛想な日焼顔がこちらを見、その瞳がふっとなごんだ。

「おまえ、マジで貌に出んのな?」
「え?」

原の言葉に首傾げながら、ロッカー室への扉を開く。
何を原は言いたいのだろう?考えながら素早く制服に着替える横から、低い声が笑った。

「墓参りのついでに、デートしてきたろ?」

なんで解かるんだろう?

言われた言葉に驚いてしまう、原は鋭いタイプなのだろうか?
さして恋愛経験も多く無さそうな武骨者、そんな先輩を振り向いて英二は尋ねた。

「どうしてそう思うんですか?」
「鏡、見てみろ、」

短く答えた口許を可笑しそうに上げながら、原はロッカー室から離れた。
その背を見送りながら着替え終えて、英二は言われた通り鏡を覗きこんだ。

「…なんか違うか?」

ぼそっと独り言つぶやいて首傾げてしまう。
いつも基本的に鏡はあまり見ない、だから違いが自分で解からない。
そんな疑問と一緒にいつものパソコンデスクに座り、登山計画書のチェックを始めた。
その向こうで原はデスクに登山道の記録を眺め、視線は真摯にページを見つめ余所見しない。

―これだと15分は集中するだろうな、原さん、

タイムアウトの時限を確認しながら左手首の文字盤、時刻は14時45分を示す。
たぶん15時までは来訪者も無い、そう判断して英二はキーボードの操作を始めた。
光一に教わった通りの手順に画面を開き、ブロック解除しながらデータ開示をさせていく。
そして見つけたファイルに微笑んで、胸ポケットのペンに触れながら画面を幾度か切替えた。
すぐに予定通りの処理を終えて再びファイルを閉じ、トレースを遮断させながら画面を戻す。
全て終えて見たクライマーウォッチは14時51分、この6分間に英二は微笑んだ。

―これで明後日、相談が出来るな?

明後日は盆の入り、光一が御岳に帰ってくる。
それまでに資料と思考をまとめておきたい、そう考え廻らす手許は登山計画書のデータ整理をしていく。
2時間ほど前に探してきた資料と今ここで開いたデータ、この2つを照合すれば「的」は決められる。
そして一つずつ壊していけば望みは叶う、その計画を脳裡に見ながら英二は微笑んだ。

―こんな組織は脆いって教えてやる…あんたが思ってるより人間は、言いなりにならない、

青葉の風に涼む駐在所、微笑んで業務に就きながら心は嘲笑う。
現実に見てきた「あの男」の残像たち、あの場所から生まれた正義を壊したい。
そう願いながら謹直に警察官の自分をこなす今、この心は密やかな冷酷に笑っても想いは温かい。

―周太、今は何してるんだろ?大学の用事って何かな、

1時間半前この腕に抱きしめた俤を想い、微笑が視界をゆらす。
その端で浅黒い顔があげられて、こちら見ると呆れたよう笑いだした。

「おい、またニヤけてんぞ?あははっ、」
「え?」

言われて英二も顔を上げる、その前で日焼顔ほころんでしまう。
いつもの仏頂面は愛嬌あふれる笑顔になって、言ってくれた。

「あんた、意外と普通に男なんだな?」

意外と普通に男、そんな言葉に前も言われた噂を思いだす。
そして今もまた親近感ふえる空気が嬉しい、少し困りながらも英二は嬉しく微笑んだ。

「はい、普通に男ですよ?でも俺、そんなニヤけてますか?」
「かなりな、」

短く答えて笑う目は、いつもの精悍に愉快が温かい。
もう原が着任して10日以上になる、その最初と今では表情が違う。
この全てに英二に対する評価が表れる、それが解かるから今の寛いだ笑顔が嬉しい。
けれど緩んだ貌のままでは困ってしまう、そう自分の頬を軽く叩いたとき入口から可愛い声が呼んだ。

「こんにちは、宮田のお兄さん、」
「お、秀介。こんにちは、」

いつもの来訪者が来た、そう微笑んだ手首の文字盤は15時を指す。
今日も同じ時間に秀介は来た、この律儀さに笑いかけながらパソコンを閉じて立つ。
そんな英二を眺めながら原は書類を繰っていく、その淡い微笑へと英二は笑いかけた。

「原さん、申し訳ありませんが20分頂けますか?」
「ああ、」

また短い返答に頷いて、けれど精悍な目は温かい。
もう秀介の来訪にも見慣れてくれた、そんな空気に感謝して英二は微笑んだ。

「秀介、今日は何の勉強?夏休みの宿題は全部、終わったよな、」
「うん、だからドリルと参考書のほう、」

いつもの手提を開き見せながら、可愛い笑顔で見上げてくれる。
その瞳がふと考えるよう英二を見つめて、すぐ嬉しそうに秀介は笑った。

「なんだか嬉しそうだね、宮田のお兄さん?ね、もしかして周太さんに会ったの?」

また見破られた、まだ小学生の秀介にまで指摘された。
こんな「また」が可笑しくて笑ってしまう、まるで2時間前の自分と違い過ぎて可笑しい。
あのとき偽りの笑顔で女学生といた自分は、何処にいったのだろう?

―素の俺って解かりやすい、ってことだよな、

こんな自分が可笑しくて、素顔でいられることが嬉しい。
けれど笑っている視界の端で、浅黒い顔が怪訝に首傾げた。





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燈籠補記:湖冬夕寂

2013-02-22 18:50:38 | お知らせ他
冬の黄昏、真昼の夏 



こんばんわ、晴天と曇を繰り返した今日の神奈川でした。
写真は先日の山中湖、まだ凍っていない湖畔からの夕暮時です。
この右手奥は銀盤になった湖面へ至ります、また凍結は広がったのでしょうか。
遠い山嶺は水色に映って、淡いブルーと夕朱に移ろう姿がどこか寂しげで、冬の寂寥が穏やかな空気でした。

いま昨夜UPの第61話「燈籠2」加筆校正が終わりました、当初の倍以上になっています。
アイガーの夜その後に初対面する宮田と湯原です、この続編を今夜or明朝にUP予定になります。
あと今夜は短編連載「天花の証2」をUP予定、宮田のanother sky 雅樹の物語もキャンパスのシーンからスタートです。
姿も心も似ているようで違う英二と雅樹、そんな二人の19年を超えた物語を同時進行させています。
比較してみると面白かもしれません。

取り急ぎ、


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第61話 燈籠act.2―side story「陽はまた昇る」

2013-02-22 00:36:29 | 陽はまた昇るside story
希求、君の隣で 



第61話 燈籠act.2―side story「陽はまた昇る」

星霜の門を潜ると、石造りの建造物に木洩陽ゆれる。
巨樹が並んだ道には重厚な学舎が現れ、その数と経年がこの大学の格を示す。
8月の土曜日で夏季休講シーズン、けれど学生も教員も往来する空間を歩いて行く。
その道を挟む2棟の校舎を振り仰ぐと、英二は瞳を細めて微笑んだ。

―さすがに立派だな、見た目は、

本当は大学進学のとき、ここの受験も考えた。
けれど祖父や父と同じ母校になりたい気持ちと、母と実家から離れたい本音から違う道を選んだ。
そして希望校受験を母に阻止されたとき、この大学なら実家からの通学も可能だからと勧められている。
それでも受験しなかったのは、祖父と同じプライドが自分にもあって譲れなかった。

東京大学法学部は官僚養成機関とも言われている。
この国の行政を担いたければこの学歴が必須、そんな体制に対する反骨が祖父にはあった。
だから祖父は敢えて京都大学法学部を選び、最高検察庁で次長検事を務めた後は弁護士事務所を開き町弁になった。
普通なら祖父ほどの地位にあれば天下りするだろう、けれど法曹家の1人として清廉を貫いた姿は誇らしい。
こういう祖父を尊敬して大好きで、だから出来るなら同じ母校を持ち芳蹟を継ぎたかった。
その夢は叶わなくて、それでもこの門下を選ばない反骨は今も変わらない。

―あんたの後輩にならなくて、本当に良かったよ?

密やかな嘲笑に、静かな怒りが瞳を披く。
この学舎で七十数年前に学んだ男が、何を行ったのか?
その功罪を自分が納得出来るわけがない、もし屈すれば祖父への侮辱になる。
あの祖父の名誉と誇りを守るためにも自分が「あの男」の全てを壊して周太を護りたい。
そんな願いを想うと京大法科に進学しなかったことは、天佑なのかもしれない。

―もし京大に行ってたら弁護士か検事になったろうな、そして、周太に逢えなかった、

もしも周太に逢えなかったら「法治の矛盾」と直接対峙する今の自分は無い。
そして「あの男」は正義を掲げて周太を捕え続け、裁かれぬ罪の犠牲者を生み続ける。
そんな現実を知らず生きることは許せない、そう考えると母の身勝手にも感謝するべきかもしれない。

―母さん、あなたの我儘が俺を「今」と周太に逢わせたんだよ?

こんな現実の因果関係は、母にとって皮肉だろうか?幸運だろうか?
この答えは後者であってほしい、そんな想い笑って緑と石のキャンパスを歩いていく。
ネクタイ緩めた衿元へ時おり風が入る、それでも木洩陽の陽射しは炎暑くゆらせ眩しい。
暑さにワイシャツの袖捲りながら歩く横顔、すれちがう視線と声が撫でていく。

「…モデルみたいにカッコいいね、研究員さん?」
「院生かもよ、どこの研究科なのかな、」

聞える会話の相手に、すこしだけ視線を向けてみる。
その先で学生らしい笑顔が羞んで目を逸らす、けれど好意の気配は解かる。
そんな空気を捉えたまま英二は左手首を見、時間を確認すると二人に笑いかけた。

「すみません、総合図書館はどちらになりますか?」

声を掛けた先、女学生たちは目を合わせて微笑んだ。
ふたり此方へ歩み寄ると、ロングヘアーの学生は尋ねてくれた。

「この右手に行った方ですけど、学内の方でしょうか?それとも卒業生とか、」
「いいえ、他の大学です、」

丁寧に答えと笑いかける、その笑顔に二人も微笑んだ。
そして少し困ったように茶髪の学生が教えてくれた。

「今日は土曜日なので、一般の方は入館出来ないんです。国立大学に所属する方は大丈夫なんですけど、」

その情報はもちろん調べて知っている、けれど知らないふう英二は首傾げこんだ。
すこし考える間を置いて、軽い溜息と一緒に二人へと笑ってみせた。

「そうですか、残念ですけど仕方ないですね。教えてくれて、ありがとう、」

さらり笑顔で諦めて、踵返す気配を見せる。
けれど女学生たちは二人それぞれに尋ねてくれた。

「あの、どういうご用件で図書館、いらっしゃったんですか?」
「ものによったら他の場所でも閲覧できますけど、」

『他の場所での閲覧』

この言葉たちを惹きだしたい、そう思っていた。
思う通りの展開に振り向いて、英二は困ったよう偽りに微笑んだ。

「卒業アルバムを探していたんです、祖父の写真を見てみたくて、」
「おじいさんの写真?」

釣りこまれたよう二人は訊いてくれる。
その親身と好奇心の綯い交ぜへと、英二は綺麗な笑顔で答えた。

「祖父はここが母校なんです、でも戦争で亡くなりました。空襲で家も焼けたので写真が1枚も無くて、僕は顔も知らないんです。
それで、母校の図書館なら卒業アルバムがあると思って、用事でこちらに来たついでに寄らせてもらいました。昨日なら良かったな、」

母方の祖父は確かに東京大学を卒業している、けれど戦争当時は学生で出征も戦死もせず今も矍鑠と元気だろう。
それに「用事でこちらに来た」と言って遠方から来たよう思わせて、彼女たちから提案を惹きだそうとしている。
どれも嘘ばかりの台詞たち、それでも顔は寂しげに微笑んだ英二にロングヘアーの彼女は提案してくれた。

「卒業アルバムなら研究室とかにもあります、よかったらお持ちしましょうか?」

ほら、向うから善意を提示してくれた。
この予想通りに心笑って、それでも笑顔は遠慮がちに首を振った。

「申し訳ないです、そこまでして頂いたら、」
「いいえ、大したことじゃありませんから。せっかく来たんですし、ね?」

親切を示してくれながら二人は石造りの建物を指さした。
その建物が所属する学部は知っている、想定内の進捗に英二は綺麗に笑った。

「ありがとうございます、」



農正門から真直ぐ歩いて行くと、大きな銀杏の梢が見える。
豊かに繁る緑を見上げながら歩み寄って芝生に止まり、ふり仰ぐ。
ひろやかな緑陰に木洩陽ゆれる、きらめく青空のかけらが額に頬に目映く熱い。
夏の青葉ふる明滅に瞳を細めて、やわらかく英二は微笑んだ。

―この木、周太は好きだろうな?

待ち合わせ場所に指定した意図が、もう解かる気がする。
周太らしい選択肢に微笑んで、白茶けた建物を振返ると懐かしい姿が見えた。

「周太、」

名前もう唇こぼれて笑顔になる、その視界でブルーのシャツ姿がこちらを見た。
すぐ気がついて駈けてきてくれる、そんな態度に鼓動が期待を敲いてしまう。
こんなふうに駆け寄ってくれるなら嫌われていない?まだ取り戻せる?
そんな願いに微笑んだ隣から、黒目がちの瞳が笑ってくれた。

「待たせてごめんね、英二、」

優しい笑顔を見つめながらもう、抱きしめたい。
そして跪いてしまいたい、その願いのまま英二は口を開いた。

「俺のこと捨てないで、」

ただ一言、けれど全てを載せてある。
どうか願いを聴いてほしい、もう一度だけチャンスが欲しい。
この想いの真中で、穏やかに綺麗な笑顔ほころんでくれた。

「俺の好きなベンチがあるんだ、一緒に座ってくれる?」
「…うん、」

頷きながら不安になる。
まだ周太の気持ち何一つ教えてくれなくて、それでも笑顔の優しい理由が解らない。
並んで歩きだすキャンパスの景色は30秒前と変わらない、けれど今もう緊張が心を締め上げる。
さっきの女学生たちは心を簡単に読めた、自分の思うまま好意を惹きだし目的を容易く遂げられた。
それなのに今は何一つ周太の心は見えなくて、愛される自信なんて何もない。

―本気だから不安なんだ、ずっと傍にいたいから、少しも拒絶されたくないから…本当に好きだから、

欠片も拒絶されたくない、全て受容れて愛してほしい。
この自分は完璧なんかじゃない、それでも自分の全てに見惚れて恋してほしい。
ずっと自分だけを恋愛で見つめていてほしい、ずっと自分を必要だと言ってほしい、その為なら何でも出来る。

―周太、俺のこと想ってくれるんなら、二度と光一のこと恋愛では見ないから…赦してよ、

心に訴える赦し乞う言葉は、自分の本音。
光一は自分の夢で憧憬で世界の全て、そう想うことは変らない。
だからこそ唯一のアンザイレンパートナーと信じて『血の契』も交わし、体ごと愛した。
この想いは一生ずっと変わらない、それでも唯ひとりの為なら心ひとつくらい自分は殺せる。
それは光一の望みでもある、そう解かるほど想い深いから尚更に、アイガーのベッドを唯一の契に眠らせたい。
それがきっと、雅樹の願いでもある。

―雅樹さん、俺はあなたには成れない、あなたのようには光一と愛しあえない、でも俺に出来る精一杯で護ります、

並木の樹影あざやかなキャンパスを歩き、遠い奥多摩の空に眠る人を想う。
今朝の墓前でも同じ祈りを捧げてきた、その通りに今これから大切な人にも曝け出したい。
そんな願いを抱きながら歩く隣は言葉もなく、けれど横顔の微笑は穏やかに優しい。
ただ並んで歩いて陸橋を渉っていく、そのとき周太が笑いかけてくれた。

「あのね、ここって言問通りでしょ?でも東大ではね、ドーバー海峡って言うんだって、」

イギリスとフランスの間を隔てる海峡、その名前に周太の縁故を想ってしまう。
英文学を愛した周太の父、馨。その父親である晉はフランス文学の著名な学者だった。
その二人ともがこの先に広がるキャンパスにいた、けれど周太は陸橋の此岸で森林学を学ぶ。
たった一本の道路と橋、それが隔てる父子の運命はどうか、周太だけは違う結末であってほしい。
そんな祈りのままに英二は微笑んで、願いごとを言葉に変えた。

「ドーバー海峡みたいに大きな違いがさ、キャンパスによってあるんだろうな、」

50年の運命を狂わせた学舎の一群、その全てを周太には遠く超えてほしい。
敦が命を絶たれ晉が罪を犯し、馨の夢と生命を自ら殺させて、まつわる多くの運命を歪ませた。
その元凶を育んだ場所だからこそ周太の運命は克てる、そう信じられる証明なのだと陸橋の呼名に想う。

―周太だけは運命に克ってくれ、そのためなら俺は何でもする、だから傍にいさせて?

ひとり心に願いふり積もり、また祈りと覚悟は厚くなる。
この想いこそ恋した瞬間から変わらない、そう微笑んだ隣で穏やかな声が楽しそうに応えた。

「ん、手塚もそう言ってたよ?あっちのキャンパスと農学部って、色々とカラーが違うみたい、」
「そっか、農業って実学の色が濃いからかな?」

何げなく応えながら見つめる横顔は、前より痩せている。
海外遠征訓練の直前に逢って3週間以上が経つ、あのときより肌も幾らか日焼した。
きっと機動隊の新隊員訓練でしごかれた、そんな様子に体調が心配になってしまう。
なによりも雰囲気が前と少し違う、その違いを見つめた先で黒目がちの瞳は微笑んだ。

「なんかね、東大の理科のなかでは農学部って下に見られるんだって…でも手塚は理科の首席なんだよ、だから有名なの、」

優秀な東大生、けれど反骨心がある。
そういう男なら周太も美代も気に入るだろう、そんな納得に英二は笑いかけた。

「すごく頭が良いヤツなんだ?周太や美代さんとも気が合うんだろ、」
「ん、すごく良いヤツだよ?」

素直に応えてくれる笑顔は、相変わらず無垢に綺麗で少年のよう眩しい。
こんな笑顔が愛しくて離せない、そして今すこしだけ嫉妬が起きてしまう。

―頭も性格も良くって美代さんにまで好かれるヤツだと、周太もすごく好きだろな?…ちょっと妬けるよな、このまま連れ去っちゃダメかな、

ほら、また独占欲が起きあがる。
こんな自分は相変わらず自分勝手で直情的で、我儘に嫉妬深い。
そのくせ光一と恋愛関係を持ってしまった、こんな自分には嫉妬する権利など無い。
そう納得を言い聞かせながら高層の脇を横切り、講堂を右手に緑の方へ抜けていく。
革靴を梢の影がひたしだす、木立が深まっていく木洩陽に隣の横顔は微笑んだ。

「ね、ちょっと良い森でしょ?…奥多摩ほど広くないけれど、大きな木があって好きなんだ、」
「ああ、」

笑って肯いながら見た先、黒目がちの瞳も見上げて笑ってくれる。
いつもどおり穏やかで、けれど前より静かな眼差しは優しい深みに澄む。
この深まりは自分の所為だ、そう気づかされ心が軋んだとき古い木造のベンチが現れた。

「ここなんだ、座ってみて?」

穏やかな声の勧めに、並んで英二は腰を下ろした。
豊かな梢は涼しい風ゆれて、やさしい木洩陽が降りそそぐ。
学舎の群れも喧噪も繁らす木々の向こう遠く、眠るような静謐が緑翳に佇む。
いつも自分が生きる場所と似た気配が優しい、その安らぎに座りこんで英二は問いかけた。

「周太の大切なベンチなんだろ、ここ?」
「ん、…あのね、先月見つけたばかりなの、」

木洩陽に微笑んで、黒目がちの瞳がこちらを見てくれる。
きれいな瞳に自分が映りこむ、その鏡を見つめた先で穏やかな声が教えてくれた。

「英二と光一が北岳に登った時だよ、関根たちとの飲み会の前…俺ね、ここの図書館に居たんだ、お祖父さんの小説を読んでみたくて、」

『La chronique de la maison』 Susumu Yuhara

あの小説を、50年前の記録を周太は読んでしまった。
その事実を明確に周太から聴かされて、心がため息を零す。
あの小説が「事実」だと、その真相に周太はいつ気づくことになるだろう?

―周太はここの学生なんだ、だから図書館も土日だって遣える、書庫の資料を借りることも出来るんだ、

あの小説は貴重書として総合図書館の書庫に納められている。
周太なら聴講生として貸出も許可されるはず、それにまだ周太自身は気づいていない?
そんな執行猶予を思いながら微笑んだ隣、周太は綺麗な笑顔ほころばせ話しだした。

「推理小説なんだ、時間がなくて通し読みしか出来なかったけど、面白かった…ここのにはサインも書いてあるんだ。
万年筆の筆跡なんだけどお父さんの字と似てたよ、インクもね、たぶんお父さんの万年筆と同じのだと思う…それが嬉しくて、
湯原博士は俺のお祖父さんかなって考えながら歩いてたら、このベンチを見つけたんだ…それから俺、ここに独りで座るの、好きで、」

祖父のことを知りたい、それは周太にとって願いだろう。
両親も祖父母も一人っ子な為に親戚も無い、そんな周太には血縁者ひとりずつが大切でいる。
もう亡くなってしまった家族であっても知りたい、そして愛したい、そんな願いが切なくて愛しい。
そして話せない真実と現実が今も自分の裡で傷む、それでも英二は想い人へと穏やかに笑いかけた。

「周太、このベンチにお祖父さんも座ってたかなって、考えるんだろ?」
「ん、考えるよ?お祖母さんも一緒に座ったのかな、とか…教え子だったって、英二のおばあさまも教えてくれたし…」

嬉しそうに頷きながら、黒目がちの瞳は幸せに微笑んでくれる。
その眼差しが純粋に優しくて、綺麗で離せなくて、堪えられず英二は腕を伸ばした。

「周太、お願いだから応えてよ?」

問いかけながら掌は、周太の左手首を掴んで離せない。
もし離したら逃げられてしまう?そんな哀しみに英二は静かに微笑んだ。

「俺のこと赦せないならそう言ってよ?もう俺を嫌いなら言って?嫌われて避けられても仕方ないって俺、解かってるから、」

もしも周太が他の誰かとベッドの時間を過ごしたら?

この仮定は周太と光一の間で考えたことがある、そして光一なら許せると思えた。
それは自分が光一に恋愛を抱く所為だと今は解かる、自分が憧れ、自分の世界全てと想う光一だから許せる。
それでも本当に現実化したら苦しい、そう今回のことで考え気がついて今、心も体も砕かれる程に痛い。
この痛みを周太に与えてしまった、その罪ごと背負う願いに英二は本音を告げた。

「周太、俺は光一を抱いたよ、本気で恋愛の相手だって抱いたよ?でも俺を抱かせてはいない、俺が光一を一方的に抱いたんだ。
俺は何一つ後悔していない、周太への裏切りだって想っても嘘は吐けないよ?それくらい俺、あいつを抱けたの嬉しくて幸せだから。
だけど次が無いことも解かってる、もう光一は俺に抱かれたいって想わないの解かるんだ。光一の本当の相手は、俺じゃないから、」

アイガー北壁を見上げるベッド、あの時間は確かに現実だった。

現実にアルペングリューエンの光は存在する、けれど触れることは叶わない。
そして一瞬で消えていく、それでも薔薇色の炎は残像になって瞳を今も灼いている。
そんな一瞬の光芒のよう光一と自分は触れあったのだと、時経るごと納得に変っていく。

それでも、あの一瞬は永遠に心で輝いている。その想い正直に英二は告白した。

「周太、俺が本当に帰りたい場所は周太の隣だけだよ。同じように光一も他に帰りたい相手がいるんだ、それがお互い良く解かったんだ。
だけど俺たちはアンザイレンパートナーとして一緒に生きる、お互いに違う相手を想って帰ろうとしながら、並んで生きることを選んでる。
それが周太には裏切りって言われて当然だ、それでも俺の帰る場所で居てくれる?この先もずっと、俺は周太の隣に帰りたい、離れたくない、」

こんなの自分勝手だ、酷い我儘で酷い男の言い分だ、そう自分で解ってる。
あまりに狡く弱い自分に呆れてしまう、それでも欲しい唯ひとりを英二は真直ぐ見つめた。

「周太、前にも言った通りだ。俺の全ては周太のものだ、だから今も好きにしてよ?俺を殴っても蹴っても良い、怒鳴っていい、だけど、
俺が傍にいることを赦してほしい、俺が周太の隣に帰ることを許してよ?何しても良いから俺のことだけ恋して愛してよ、俺を捨てないで、」

どうか自分を見て?

この全てを捧げるから、どうか自分だけを見て?
優しい言葉で誤魔化さないで、正直な心を言葉に聴かせて?
どうしたら振り向かせられるのか教えて、どうか捨てないで離れないで?

そんな在りのままを曝け出して赦しと恋と愛を乞うている、もう形振り構わず願っている。
こんな願いを告げる自分はみっともない、跪いて恋愛を乞うなんて馬鹿みたいだ、気違いのよう愚かすぎる。
こんな自分を理性は憐れんで、それでも唯ひとつの恋愛に狂う想いは誇らしくて、その狭間に英二は微笑んだ。

「答えて周太、どうしたら俺を捨てないでくれる?どうしたら恋愛してくれる?どうしたら俺を必要としてくれるのか、教えて?」

この問いから逃げないで?

そう願い見つめた真中で、黒目がちの瞳がゆっくり閉じた。
その長い睫に木洩陽ゆらいで光が踊る、日焼の薄赤い肌なめらかに陽が艶めく。
ふいていく青葉の風に黒髪ゆれて煌めいて、その静かな貌が綺麗でまぶしくて、心がまた囚われる。

―こんなの狡いよ、周太…もっと好きになるよ、俺?

春も夏も秋も冬も、いつも見惚れるたび恋してきた俤のひと。
いつも温かな掌に癒されて、優しい笑顔に安らいで、護りたいと願い傍に居た。
ずっと護り続けたい、その願いに全てを懸けてきた。けれど本当は自分こそが救いを求めている。
だから捨てられたくない、どうか自分のことを必要だと言って求めて、恋して愛して離さないでほしい。

そんな想い祈る中心で、ゆっくり長い睫が披いていく。
明滅する光ゆらぐ静かな木蔭、ただ二人きりの空間に呼吸が止められる。
今から本当に心臓が止まるかもしれない、その宣告を出来る唯一の瞳が英二を見つめ、微笑んだ。

「ずっと英二には笑っていてほしいんだ、だから全部あげたのに…俺のことはあげられないから、」

俺のことはあげられない、そう告げられた心臓が、止まる。








(to be continued)


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