再会、重ならす想い
第61話 塔朗 act.3―another,side story「陽はまた昇る」
周太の大切なベンチなんだろ、ここ?
そう言ってくれたのは、解かってくれたから?
そうであってほしいと願い祈るよう、周太は微笑んだ。
「ん、…あのね、先月見つけたばかりなの、」
ゆれる木洩陽の向こう、切長い瞳が見つめ返す。
同じ目は3週間前に「いつか」の約束をくれた、あの強い眼差しが今はない。
もう前とは違う哀しみ惑う、それでも諦めたくない祈り微笑んで言葉を紡いだ。
「英二と光一が北岳に登った時だよ、関根たちとの飲み会の前…俺ね、ここの図書館に居たんだ、お祖父さんの小説を読んでみたくて、」
『La chronique de la maison』 Susumu Yuhara
パリ郊外を舞台にした祖父の小説は、貴重書として付属の総合図書館に納められている。
あの一冊に辿った祖父の俤が嬉しかった、嬉しかった想いのまま周太は微笑んだ。
「推理小説なんだ、時間がなくて通し読みしか出来なかったけど、面白かった…ここのにはサインも書いてあるんだ。
万年筆の筆跡なんだけどお父さんの字と似てたよ、インクもね、たぶんお父さんの万年筆と同じのだと思う…それが嬉しくて、」
祖父の肉筆は父の綴りと似ていた、それが嬉しかった。
いま自分は「死線」の端に立っている、それは母にとって哀しみ以外の何でもないと知っている。
そして母の肉親は息子の自分しかいない、その不安と孤独に哀しい今だからこそ家族の記憶は温かい。
だからせめて母には自分たち家族の記憶を1つでも多く贈りたい、万が一の時には心の支えになるように。
この願いから英二に母との墓参も頼りたかった、もし本当に自分が不慮に遭っても母が独りにならないように。
…お願い英二、俺は英二の他に頼れる肉親がいないんだ…少しでも血が繋がってるなら、少しでも想ってくれるなら頼らせて、
英二の祖母、顕子の切長い涼やかな目は懐かしい父の目そっくりだった。
そして顕子は祖母の斗貴子をよく知っている、家の事情すらも知っているようだった。
その全てが英二と自分の遠い血縁があるからと信じたい、それを英二も知って大切にしてくれると信じたい。
だからどうか自分たち家族の願いも孤独も理解してほしい、母を護ってほしい、この願い微笑んで周太は聲を音にした。
「湯原博士は俺のお祖父さんかなって考えながら歩いてたら、このベンチを見つけたんだ…それから俺、ここに独りで座るの、好きで、」
このベンチが大切、そう想う心を受けとめて?
いつも独りで座り大切にしてきた、そこに英二と座りたい想いを気がついて?
そして話せなるのなら英二が隠している真実を教えてほしい、そう願い見つめた隣は穏やかに笑った。
「周太、このベンチにお祖父さんも座ってたかなって、考えるんだろ?」
ほら、気づいてくれる?
まだ真実は話してくれなくても、独りここに座る想いは解かってくれる。
この理解だけでも温かで幸せで、嬉しいまま周太は微笑んだ。
「ん、考えるよ?お祖母さんも一緒に座ったのかな、とか…教え子だったって、英二のおばあさまも教えてくれたし…」
祖父と祖母は相思相愛の恋愛結婚だった、そう顕子は教えてくれた。
教師と教え子で15歳の年の差があった、それでも二人は幸福を見つめ合い父を生んだ。
そんな二人の記憶が座るこの場所に連れてきた、その気持ちの真実をどうか言わなくても気がついて?
…幸せな記憶に未来の夢を見てみたい、英二とふたりで…今だけでも見ていたい、
銃器対策レンジャー第1小隊、そこに自分は配属された。
主要任務は篭城事件における高所からの突入、ヘリコプターからの降下による犯人制圧、特殊部隊SATの支援。
どの任務も危険は変わらずいつ事件が起きるのかも解らない、そして1ヶ月後にはきっと新たな入隊テストを受けている。
だからもう今しか英二とこのベンチに座れないかもしれない、そんな想いにあのベンチの時間が懐かしい。
…都心にこんな所あるなんて俺、知らなかった
前は軽く躱していたんだ、相手に未練があろうが関係ない、相手の気持ち考えないから平気だった…今は傷つけるの解っている
今の方がいいよ。宮田、前よりも良い顔してる
お前、やっぱり前髪あるほうが似合うよ
こんな所で寝たら風邪ひくよ…泣けよ?
寝てないよ…泣いてなんか、いないよ
新宿にある奥多摩を映した森、そこのベンチに初めて座り交わした言葉たち。
あのとき英二は恋を自覚したと後で教えてくれた、それを聴いたとき嬉しかった。
あのときのよう今も想ってくれるのだろうか?そんな想い微笑んで、不意に左手首が掴まれた。
「周太、お願いだから応えてよ?」
問いかける声が、鼓動を直接ひっぱたく。
一瞬で止められる呼吸に隣を見あげて、重なった視線に哀しみは微笑んだ。
「俺のこと赦せないならそう言ってよ?もう俺を嫌いなら言って?嫌われて避けられても仕方ないって俺、解かってるから、」
そんなこと想ってない、嫌いじゃないから受容れたいから今、ここに座るのに?
この心を言葉なくても気付いてほしくて、3週間前と同じよう眼差し訴える。
けれど切長い瞳は何ひとつ気づかぬままで、英二の声は告白を始めた。
「周太、俺は光一を抱いたよ、本気で恋愛の相手だって抱いたよ?でも俺を抱かせてはいない、俺が光一を一方的に抱いたんだ。
俺は何一つ後悔していない、周太への裏切りだって想っても嘘は吐けないよ?それくらい俺、あいつを抱けたの嬉しくて幸せだから。
だけど次が無いことも解かってる、もう光一は俺に抱かれたいって想わないの解かるんだ。光一の本当の相手は、俺じゃないから、」
本気なら幸せなら、後悔していないなら、泣きそうな目をしないで?
光一の気持ちは自分こそ知っている、もう言わなくても解かるから泣かないで?
こんな貌されたら自分の願いが過ちになる、こんなにも哀しませてしまった選択を憎んでしまう。
だから泣かないで笑ってほしい、幸せと言うのなら笑顔を見せてほしかった、自分にこそ後悔させないで?
そう目で訴えかけても哀しい瞳は応えてくれなくて、この不通が心裂いて痛いのに英二の声は終わらない。
「周太、俺が本当に帰りたい場所は周太の隣だけだよ。同じように光一も他に帰りたい相手がいるんだ、それがお互い良く解かったんだ。
だけど俺たちはアンザイレンパートナーとして一緒に生きる、お互いに違う相手を想って帰ろうとしながら、並んで生きることを選んでる。
それが周太には裏切りって言われて当然だ、それでも俺の帰る場所で居てくれる?この先もずっと、俺は周太の隣に帰りたい、離れたくない、」
光一と英二が一緒に生きる、そんなこと解かってる。
解っているから互いに恋愛関係を望みあうなら、それも認めていたい。
男の自分は子供を産めず英二に家族を贈れない、だから恋愛する自由を英二から奪いたくない。
…だって他に好きな人がいれば、もし俺が英二より先に死んでも英二は孤独にならない…だから光一とそうなってほしかったんだ、
光一となら、きっと幸せになってくれる。
そう信じられるから自分は反対しない、嫉妬も無い、光一が大切な分だけ納得できる。
それを光一は解かってくれるから涙の笑顔で謝ってくれた、その優しい理解と受容が嬉しかった。
それなのに英二は哀しい貌しか見せてくれない、唯ひとり想い幸せを祈る相手が誰より解かってくれない。
どうしてこんなにも解かりあえなくなってしまった?この哀しみに綺麗な低い声が傷を疼かせ、ただ響く。
「周太、前にも言った通りだ。俺の全ては周太のものだ、だから今も好きにしてよ?俺を殴っても蹴っても良い、怒鳴っていい、だけど、
俺が傍にいることを赦してほしい、俺が周太の隣に帰ることを許してよ?何しても良いから俺のことだけ恋して愛してよ、俺を捨てないで、」
この全てを捧げるから、どうか自分だけを見て?
哀しい瞳の訴えが心を刺さして、未練の喜びと覚悟の傷が痛い。
あんなに幾度も自分を言い聞かせた努力が哀しい、自分の祈りが理解されない煩悶がもがきだす。
このベンチに座った願いも、光一との夜を祈った痛みも繋がらない。いま理解されない哀しみの向こうから大好きな声が問いかけた。
「答えて周太、どうしたら俺を捨てないでくれる?どうしたら恋愛してくれる?どうしたら俺を必要としてくれるのか、教えて?」
どうしたら今、自分の想いを解かってもらえる?
この自問に広がる裂傷に、ゆっくり周太は瞑目した。
閉じられた視界の底に記憶の笑顔と、いま見ていた哀しい眼差しが映ってゆく。
春も夏も秋も冬も唯ひとり想い、慕うまま心の杖にして大切に抱いてきた唯ひとつの俤。
ずっと綺麗な笑顔のままでいてほしい、その願いのために初めての夜も全身を捧げて愛された。
そして交わしてきた時間は幾度もこの笑顔に救われて、父の死と滅んだ記憶も夢も、母の笑顔も光一も取り戻せた。
…俺の全てを救ったのは英二なんだよ?捨てるなんて出来るわけないのに、誰より必要な人だから全部あげたいのに解らないの?
救われてきた幸福の分だけ、英二に返したい。
けれど自分には時間が無いかもしれない、だからせめて、今の自分が持つ全てを贈りたい。
英二がずっと求めている母性の愛を、家庭の温もりを、大切な友人も夢も未来も全てをあげたい。
そんな想いに泣けない涙は泉を深くする、その澄んだ色を見つめながら披いた視界に木洩陽は明るい。
明滅する光がダークブラウンの髪に艶ゆらせ、白皙の貌に陰翳は静かに佇んで周太を見つめる。
祖父と祖母、父、家族3人が憩ったかもしれない木蔭に今ふたり見つめあい、周太は微笑んだ。
「ずっと英二には笑っていてほしいんだ、だから全部あげたのに…俺のことはあげられないから、」
告げた想いの真中で、切長い瞳の光が固まっていく。
風ゆらす前髪を透かした木洩陽の向こうへ、哀しい白皙の貌へ祈ってしまう。
どうか今ここで言葉と心を受けとめてほしい、その願い穏やかに周太は微笑んだ。
「後悔しないのは、ふたりで幸せだったからでしょう?幸せなら続けたら良いのに、どうしてもうしないなんて言うの、」
「納得できたから後悔しないんだ、」
端正な唇が動いて、切長い目が見つめてくれる。
いま言わなければ次は無い、そんなトーンに綺麗な低い声は言った。
「まだ光一と話せてないんだ、でも解かるよ?俺に抱かれることで光一は確認して、整理したかったんだと思う、」
「…確認と整理?」
静かに訊き返して見つめた想いに、切長い瞳が視線を結ぶ。
この眼差しに心も重なりますように、そう願う向うで英二はすこし微笑んだ。
「雅樹さんと俺は別人だって確認して、雅樹さんが亡くなった現実を納得したんだと思う、裸でふれあうと違いが解かりやすいから。
それ位しないと諦められないほど大切なんだ、光一にとっての雅樹さん。それに俺、雅樹さんの気持ちも解るんだ。北鎌尾根の後から、」
もう消えてしまった存在を探したい、その願いに今もう気づいてしまう。
光一が言っていた「帰りたい相手」が誰なのか?あの山桜をなぜ光一が愛するのか?
そして光一が周太を護ろうとする真実が、その想いと祈りは本当は誰に向けれているのか?
…ほんとうに大好きなんだね、光一?ずっと誰よりも大切で、ずっと見つめて…ほんとうに帰りたいね?
光一が帰りたい相手も、あの山桜に関わる誰かも、今この世にある人だと思っていた。
けれど光一の真実は「山の秘密」にある、この純粋のまま静かに護ってあげたい。
そう願う想いに綺麗な低い声が穏やかに、優しい微笑で教えてくれた。
「俺ね、正直に言うと北鎌尾根から槍ヶ岳の山頂に抜けたあと、すこし記憶が無いんだ。あのとき俺は雅樹さんになっていたと思う、
信じ難いだろうけど、雅樹さんの心の欠片が今も俺に残ってるよ?だから光一は俺の全身に触れて納得しようって考えたと思うんだ。
もう雅樹さんは帰らないけど心は傍にいてくれる、そう納得出来たから光一、雅樹さんの墓参りに俺を連れて行ったんだと思うよ?」
いま聴かされる言葉たちに、光一の哀しみと純粋がきらめいていく。
どうして周太を13年間も待っていたのか、あの山桜から離れないよう生きてきたのか?
『君の山桜を雅樹さんは本当に愛してた…雅樹さん来てくれるって想ったから…雅樹さんに逢えなくても山桜のドリアードに逢える、』
富士山麓で光一が告げた言葉たちに、光一の真実が今ようやく解かる。
その純粋な心も願いも全てが自分には理解できる、だからだったと出逢いの意味が今、解かる。
ゆっくり現われていく光一の真実を見つめる心、いまこそ受けとめたい願いに慕わしい声が響いた。
「そういう光一の気持ち、俺には解るよ?だって俺も本当は、もう何度も考えてきたんだ。もし周太が消えたらって、何度も泣いてる。
きっと俺も光一と同じなんだ、雅樹さんとも同じだと思う。きっと俺も周太が消えたら必死で探すよ、死んだなんて嫌だから信じない。
そういうの俺だって何度も考えてきた、初総の時は特に酷かったよ。だから俺は光一の納得したい気持ちが解かるし、後悔も出来ない、」
禁じられても許されても、同じこと。
たとえ生と死に別たれても想ってしまう、追いかけ続ける。
その気持ちは自分こそ分かる、愛情の意味は違っても父を祖父を追い求める想いに重ならす。
いま重なる心に幼馴染を想い、唯ひとり恋愛に見つめる人を想い、周太はため息ひとつで静かに笑った。
「そんなふうに悩んでほしくないから俺、光一と英二に恋人同士になってほしかったんだ…ふたりで幸せになってほしいって、想ったんだ。
英二のこと捨てるとかじゃなくて、ただ幸せに笑っていてほしいだけ。俺が持ってるもの全部あげて幸せにしたいって…捨てるとか違うよ?」
ふたりに幸せになってほしい、その為に自分は何が出来るの?
この思案に微笑んで想い告げて、けれど隣は哀しい声に戻って訴えた。
「それなら傍にいさせてよ、周太?自分勝手で狡い俺だけど、幸せに笑えっていうなら傍にいてよ、ちゃんと答えて?」
「もう答えてるでしょ?解んないの?」
強いトーンで遮って見つめる、その視界に英二の瞳は息を呑む。
いま怒ったフリをしたい、今ここで怒った方が英二は言葉を素直に聴いてくれる。
そう感じるまま周太は苛立つような口調で、怯えたままの瞳を見つめ祈りと怒った。
「このベンチ、お祖父さんとお祖母さんが座ったかもしれないんだ。そこに一緒に座ってって言った気持ち、どうして解かってくれないの?
光一の気持ちはそんなに解かる癖に、俺のこと何も解らないの?前は言わなくても解ってくれたのに今はダメって、心変わりした証拠なの?」
こんなふうに英二を怒るなんて、たとえフリでも哀しい。
それでも笑顔の為なら憎まれ役だってする、この嘘に自分が傷ついても構わない。
だから笑ってほしい、その願いに呼応するよう長い指の手に周太の左手首を握りしめ、英二は微笑んだ。
「ごめん、周太。今の俺、本当に自信が無いんだ。周太が俺を想ってくれてる自信が無くて、すごく弱くなってるよ?だから解らないんだ、」
「だったら自信、持ってよ?」
穏やかなトーンでも強く明確に言って、笑いかける。
その向こう英二の瞳から怯えが消えてゆく、これなら落着いて自分の言葉も聴いて貰えるだろう。
どうか前のよう幸せに笑ってほしい、願いごと周太は正直な想いで綺麗に笑った。
「正直に言うけど俺、あの夜は眠れなかったよ…英二と光一が初めての夜ね、俺は手塚と夜通し喋ってたんだ、森林学のことや色々。
俺が寂しい貌になってたから手塚、気にして一緒にいてくれたんだよ?英二と光一が幸せなら俺は嬉しい、でも…寂しくて哀しいのも本音、」
あの夜に独りだったら、きっと辛くて今も苦しんだ。
ふたりの時間を羨む気持ちが起きていた、孤独な自分を憐れんだかもしれない。
そんな卑屈な心を超えられたのは、あのとき共に夢を追う友達が傍にいたからだった。
…そういう友達が俺にも出来たって英二に知ってほしい、それで安心してほしい…俺が未来を捨てないって信じてほしい、
自分は父のよう殉職を選ばない、そう信じてほしい。
この先に異動する職務は精神的に辛い、あの父すら死へ追い込まれてしまった。
それでも自分は何があっても諦めない、夢を共にする友人がいるから、父との約束があるから必ず生きる。
そして誰よりも約束したい相手を今この場所で見つめている、その想い微笑んだ瞳を切長い目が真直ぐ見つめ、訊いてくれた。
「周太、俺を婚約者で恋人って想ってる?ずっと一緒にいたいって、俺と眠りたいって、今も俺を必要にしてる?…キスしたいって想う?」
ほら、大好きな瞳が眼差しを戻しだした。
いつもの男らしい自信も強さも、華やかな陰翳も思慮も目覚めだす。
このまま幸せに笑ってほしい、ただ願う想いの真中で周太は幸せに笑った。
「ん、必要にしてる、想ってる…大好きだから、」
「周太、」
名前を呼ばれて引寄せられて、木洩陽のなか眼差しが重なっていく。
こんな間近に見つめられて気恥ずかしい、それでも逸らしたくない想いに見つめ返す。
その視界に切長い瞳は穏やかな強靭に微笑んで、幸せな笑顔ごと唇が重ねられた。
…いまキスしてくれてる、本当に、
もうキスすることも無いかもしれない、本当はそう想っていた。
光一に惹かれて自分を忘れてくれる、その可能性に期待と覚悟をしていた。
光一との夜が英二を自分から離せる最後のチャンス、そう想ったから尚更に二人の背中を押した。
それでも今ふれあう唇に温もり嬉しくて、心ほどかれて、遠く隔てようとした壁も崩れだす。
ただ幸せな温度を残して離れて、見上げた白皙に涙こぼれて綺麗な笑顔ほころんだ。
「周太、これは嬉し涙だからな?周太にキス出来て嬉しくて、涙が出た。もう周太にキス出来ないかもって、覚悟してたから、」
「…ばか、そんなこと学校でなんかいわないで恥ずかしいから」
本当に気恥ずかしい、それ以上に言われた言葉が嬉しい。
もうキスできないかもしれない、そうお互いに想いあい哀しめた「同じ」が温かい。
さっき通じあえなかった心が繋がれていく、その喜びに微笑んだ唇にまたキスふれる。
すぐ静かに離れて、周太の瞳を覗きこむよう英二は幸せに笑ってくれた。
「ごめんね周太、俺って馬鹿だから我慢できないんだ。周太に恋して馬鹿になったんだから、責任とって?」
「しらない、えいじのばか…えっちへんたい」
気恥ずかしさに文句を言って、けれど本当は泣きたい。
いま泣けない涙に瞳を伏せて溜息も隠し、それでも本音だけが泣いた。
―本当に馬鹿だ、英二は…俺を選ぶなんて馬鹿だ、ばかだ…
自分と共に生きるリスクを英二は解っている、それでも選んで離れない。
あんなに美しい光一と夜を過ごしても結局は戻って来てしまう、そしてキスひとつで幸せに笑ってくれる。
こんなにも馬鹿で綺麗な人を他に知らない、そう想うだけ泣きそうで睫ふせこむ隣から綺麗な低い声が願った。
「今すぐ周太のこと、攫いたい、」
穏やかなのに熱っぽい声に、縋りたくなる。
本当に攫われてしまえば楽だろう、けれど譲れない誇りに周太は微笑んだ。
「そういうのはずかしいよ?でも…ありがとう、逢いに来てくれて嬉しかった、」
「嬉しいんなら調布まで送らせて、俺、車で来てるから、」
言葉を追うよう綺麗な声が誘い、そっと周太の左手を握り直してくれる。
この手をまだ離してほしくない、もう少しだけ時間を共にしていたい。
そう願い見つめて、けれど決めた勇気に微笑んで瞳あげると謝絶した。
「ありがとう、英二。でも俺、まだ大学で用事があるんだ…もう戻らないといけなくて、ごめんね?」
美代の受験勉強に付合いたい、手塚との話もまだ終えていない。
なによりも真実に会いに行きたい、その意志に笑いかけた先で英二は我儘と微笑んだ。
「周太からキスして?そうしたら俺、我慢して独りで行くよ、」
お願いだから今、キスを交わしたい。
そんな願いに英二の不安がまだ残る、その全て払拭したい。
大切な笑顔への想いに微笑んで、周太は恋人にキスをした。
「…すき、」
想い囁いてキスに閉じこめる、そして幸せの笑顔を願う。
あと2週間で英二も第七機動隊に異動する、そう光一が教えてくれた。
このキスが離れたら再会はたぶん同僚の貌、それが七機でも英二の安全を護る。
近くても傍にいても触れあえない、ただ見つめあうことすら出来ない、そんな時間はもう近い。
…それでも、いつか時は来るね?…そう信じて良いかな、英二、
心ひとり問いかけて、静かに温もりから離れていく。
離れて見つめた想いの真中、端正な微笑に木洩湯きらめく。
濃やかな睫の瞳から雫ひとすじ伝う、その涙を指で拭うとそのまま白皙の頬をつねった。
「ぅっ…?」
つねられた左頬に切長い瞳は瞬いて、驚いたよう大きくなる。
すこし童顔になった貌が可愛くて楽しい、可笑しくて周太は笑った。
「俺の好きにして良いって英二、言ったよね?ね、痛い?」
「ひたいよ?」
つねられたまま笑ってくれる、その瞳が明るい。
こんなふう英二に触れたことは無い、この初めてに英二も微笑んだ。
「ひゅうた、ほっひもふる?」
右頬も長い指で示してくれる、その貌はつねられても幸せが温かい。
付属図書館の書架、目当てのコーナーで周太は立ち止まった。
端正に並んだなか一冊だけ丁寧に取り出し、そっと背表紙を開く。
夏休みの午後、鎮まる静謐に乾いた音と古本の匂いが立ち、ふわり甘く重厚な香が混じる。
―うち書斎の匂いと同じ、お父さんの香だ、
もう開いただけで本の由縁が解かってしまう。
その想い見つめる経年の紙面、ゆるやかな窓の光が明るます。
そこにブルーブラックの流麗な筆跡が年月日とサインを綴ってあった。
『 25.Mar.1979 Kaoru.Y 』
インクの色も筆跡も、何度も書斎で見たことがある。
家にある数冊だけの英文学書、寮に持って来たワーズワース詩集。
どれにも丁寧に綴られたアルファベットと数字が、いま開いたページにも鮮やかに浮ぶ。
いまから33年前の手が記した万年筆の跡は、ラテン語を書いてくれた匂いと色と同じだった。
「…やっと会えたね、」
かすかな声に微笑んで一滴、温かく頬を濡らしていく。
(to be continued)
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