救いの手
周太24歳3月
第83話 辞世 act.25-another,side story「陽はまた昇る」
ざぐり、ざくっ、
雪ふみしめる音、アイゼンが氷を噛む音だ。
着実に進んで澱みない、負ってくれる背の筋肉ひろやかに波うつ。
出逢ったころよりずっと頼もしい背中、だけど耳元の呼吸が荒い。
「周太、もう少しだぞ、」
呼びかけてくれる声、ずっと大好きだった。
きれいな低い透る声、でも今は吐息かすかに熱あえぐ。
「えいじ、っこほんっ…熱が、」
呼びかけて、だけど聞えていない。
ざくりピッケル撃つ音、アイゼン踏みだす音、細めた瞳の視界ただ眩しい。
もう陽が高くなってゆく、今いったい何時だろう?その涯から澄んだ声が徹った。
「宮田っ、こっちだ!」
ああ、この声が来てくれた。
「…こういち、っごほ…っ」
呼んだ喉すぐ噎せかえる、呼吸やっぱり苦しい。
それでも足音たち駈けてくる音に周太は微笑んだ。
―よかった、光一が来てくれたなら…英二は大丈夫、
あの幼馴染が来たなら大丈夫、このひとを救ってくれる。
ただ安堵に微笑んで意識ゆれて、それでも指先の傷は離せない。
―きっと血は止まってる、ね…でも動いてまた、
咳きこんで苦しい、それよりも指に押えこんだ傷に痛む。
この傷は自分のものじゃない、だから尚更に痛くて泣きたくなる。
だって傷ついている人がなにより大切で、唯ひとり選べというなら迷わないのに?
―おとうさんお願い、英二をたすけて…ぼくよりえいじを、
このひとを救けたい、本当は自分が救けたい。
だけど出来ない現実が喉ふるわせ奥から軋む、痛くて苦しくて、だけど自分よりこのひとだ。
―もう血がいっぱいでてる、ほんとうはもう…はやく、
早く止血ちゃんとしてあげたい。
ただ願い開いた視界、白皙のこめかみに鮮血こびりつく。
サングラスの柄はさませた三角巾もう赤い、それを押える自分の指も血に染まる。
黒いグローブの指先から赤いろ滴らす、なんとか止めたくて押さえ続けて、そして呼ばれた。
「周太、しゅうたっ!俺だよ光一だよっ、」
澄んだテノールが呼んで、ぐらり傾いて温もり離れる。
すぐ抱きとめられて香ふわり甘い、水仙とよく似た空気に瞳を開いた。
「…こういちっ、ごほっ…はやくえいじ、血が、」
「すぐやるよ、周太コレ飲んで、」
テノールが応えて薬ふくませてくれる。
テルモス口つけられ飲み下して、幼馴染は笑ってくれた。
「よし、ちゃんと飲みこめたね?英二を診たらすぐ戻るからね、井川こっちよろしく、」
手早く告げて青い長身が立ちあがる。
入れ替わり抱えてくれた微笑がやわらかに言った。
「呼吸ゆっくり深く、焦らないで、」
深い落着いた声おだやかに支えてくれる。
浅黒い肌なめらかな微笑は優しい、その大きな眼にうなずいた。
「はい…っごほんっ、こほっ」
「返事も無理しないで、荷物おろします、」
背中を支えてザックのハーネス外してくれる。
登山グローブの手がスリングふれて瞬間、体くるり反転した。
「ごほっ…すみま、せ、」
咳きこみながら恐くなる、いま勝手に体が動いた。
もう染みついてしまった反射に大きな眼すこし笑った。
「銃は下ろさない方がいいか?」
「はい…ごほんっ、」
頷きながら申し訳なくなる。
ただ配慮してくれただけ、それでも銃は他人に渡せない。
どんなに重たくても自分で負うしかない、そんな現実に会話が聴こえる。
「谷口は宮田のザックと最短距離よろしくね、井川は消防に連絡、喘息発作1名に全身打撲1名、」
「谷口さん、井川さん、よろしくお願いします、」
「こちらこそ、」
肯いてくれる井川の笑顔はやわらかい。
年は自分と変わらないだろう、そのくせ老成された落着きにほっとする。
―山のひとは落着いてるかんじ多いね…えいじも山をはじめてから、
どこか朦朧として、だけど頬なぶる風に覚まされる。
雪の森、光あわい斜めの陽、黒い梢、それから白皙の笑顔のぞきこんだ。
「周太、あと少しだ、一緒に帰ろう?」
あ、英二?
―ぶじで…けがは、えいじ、
見つめてすぐ近くなる、広やかな背に負われて視界が上がる。
青いウェアの肩に頬ふれて、ふっと森と似た香ほろ苦くかすめた。
「周太、咳すこし楽になったか?我慢はしないで良いぞ、」
懐かしい香に懐かしい声が重なる。
サンブラスの瞳こちら見つめて、応えたくて微笑んだ。
「ありがと…こほっ、さっき薬飲ませてもらったから、だいじょっ…こんっ、」
「無理に返事しなくてもいいよ、聴いててくれたら、」
きれいな笑顔ほころばせ前を向く、その左額にガーゼが白い。
きっと光一が手当てしてくれた、守られた約束に低いきれいな声が呼んだ。
「周太、また奥多摩の雪を見せたいよ?桜もいいな、」
ほら、約束また話しかけてくれる。
ほんとうに雪も花も見たい、ただ願うまま声が微笑む。
「帰ろうな周太、体治して奥多摩に行こう?」
帰ろう、帰りたい。
この人とふたり帰りたい、もういちど一緒にあの山をみたい。
願いごといくつも繰りかえして懐かしい香ふれる、そんな背中に声こぼれた。
「あったかい、英二のせなか…」
あたたかい、ずっとそうだといいのに?
そんな願いごと負われてゆく道、ときおり体ぐらり傾く。
この人も無傷じゃない、それでも自分を背負ってくれるのはなぜ?
―えいじ、どうしてこんなにするの…あなたは誰?
このひとは誰なのか、名前は知っているけどほんとうは知らない。
このひとの家族も会ったことがある、でもほんとうは何ひとつ知らなかった、だって教えてくれない。
ほんとうは祖母の従妹の孫にあたる人、そんな血縁も一年前まで知らなくて母と自分は二人きりだった。
―えいじはしらないのかな、それとも知ってぼくのまえにあらわれて…あなたは誰?
聴きたい、でも訊けない。
なにも訊けなくて知らなくて、それでも一緒に過ごした時間は現実だった。
その証は今も自分の左手首に鼓動する、そんな想い見つめたクライマーウォッチのバンドは赤く染みてゆく。
あたたかい、あのひとはどこ?
「ごほっ…こんっ、ごほんっ」
咳きこんで睫ふるえる、視界ゆっくり披いて薄明るい。
慣れてゆく瞳に白いふとんが映りこむ、ふれる温もりに低い声が呼んだ。
「湯原、ゆっくり呼吸しろ、腹からゆっくりだ、」
聴きなれた声に唇すこし開いて息を吸う。
ゆっくり腹式呼吸して、落ち着きだした息に微笑んだ。
「だてさん…こほっ、ぶじでした、ね、」
「お互いな、」
沈毅な瞳ふわり笑って優しい。
見なれた制服姿の他は誰もいない部屋、あいかわらず落着いた微笑に唇すぐ開いた。
「伊達さん、えい…宮田は無事ですか?」
つい名前で呼んで、気づいてすぐ言い直す。
けれどもう気づかれたかもしれない、心配の前に水さしだされた。
「まず水を飲め、喘息発作は水分いっぱい摂らないとだろ、」
「こほっ…はい、」
素直に頷いてペットボトル受けとる。
キャップ開いて口つけて、こくり喉とおる香が甘くて微笑んだ。
「…スポーツドリンク買ってきてくれたんですね、ふつうの水でいいのに、」
自販機で買ってきてくれたのだろう。
かけてくれた手間に笑いかけて、けれど沈毅な瞳は低く言った。
「湯原、支度されたものは口つけるな、」
ことん、
肚底なにか落ちて記憶たち蘇える。
なぜ今ここにいるのか、その前に何があったのか?たぐった時間にため息吐いた。
「伊達さん、僕…この病院にくるときマスクしてなかったですね、」
顔を曝してしまった、それが何を起こすのか?
その原因もう一人に鼓動が軋んで、恐くて傍らの腕を掴んだ。
「伊達さん、宮田は何も悪くありません。山岳救助隊として救助の任務をしただけです、」
告げて掴んだ腕かすかに脈うつ。
きっと図星だ、その可能性に先輩を見つめた。
「救助が任務なら僕のマスクを外して当り前です、宮田に落ち度は何もありません。伊達さん、僕が処分されても宮田を護って下さいお願いします、」
あのひとを護りたい、自分どうなっても。
ただ願い見つめる真中、沈毅な瞳ふっと笑ってくれた。
「湯原、まず約束しろよ?病院で出されたものは口つけないって約束して実行しろ、話はそれからだ、」
(to be continued)
にほんブログ村
blogramランキング参加中! FC2 Blog Ranking