Or wash thee in Christ’s blood この血ゆえに
英二24歳3月
第84話 整音 act.18-side story「陽はまた昇る」
午前6時、テラスは木洩陽の光だけ。
開け放した窓から梢鳴る、葉擦さらさら風がふく。
やわらかな空気すこし冷たくて、おかげで頭脳が醒まされる。
「ふ…、」
微笑んだ口もと緑かすかに香る、そんな窓の木々どれも緑あわい。
籐椅子もたれこむ時間ひそやかに静かで、止まったような朝に呼ばれた。
「英二さん、どうぞ?」
かたん、陶器かすかな音に紅茶が香る。
華やかな馥郁へ視線を動かして、渡された一杯に微笑んだ。
「ありがとう、中森さんも座ってくれる?」
今このまま話したい、そんな想いに穏やかな瞳が微笑んだ。
「先ほどの続きですか?」
「そのつもりで紅茶、淹れてくれたんだろ?」
笑いかけた前、微笑すこし銀髪かたむける。
あわい木洩陽の席、ネクタイ端正なニット姿は座ってくれた。
「お茶、冷めないうちにどうぞ?」
座って促してくれる声は優しい。
素直にひと口そっと啜りこんで、あまやかな湯気ごし尋ねた。
「中森さん、祖父が俺のことで怒るってどういう意味?」
数分前、庭でそんなことを言っていた。
確かめたくて見つめた先、静かな明眸は微笑んだ。
「そのままの意味です、克憲様を本気で怒らせるのは英二さんのことです、」
そんなこと、本当だろうか?
「俺より姉ちゃんのことだろ、あのひとが本気で怒るなら、」
言い返して紅茶くちつける。
そっと啜りこんで熱が甘い、馴染んだ香に家宰が言った。
「花とアキレス腱の違いですよ?」
どういう喩えだろう?
「…花とアキレス腱?」
つぶやいて言葉めぐらせる。
何を言おうとしているのか?その意味に自分なぞらせた。
「俺には周太がどっちもだな、いちばん綺麗で大事で、いちばん俺を支えてくれる弱点だ、」
やっぱり君を重ねてしまう、こんなことにまで。
―逢いたいよ、周太?
逢いたい、やっぱり君に逢いたい。
こんなこと今ここで願っても何もならない、そう解っている。
解かっているくせまた考えだす、どうしたら傍に行けるのだろう、離れないで済む?
もう諦めないといけない、そう解かっているくせ俤どうしても離れないまま明眸が笑った。
「それが答えですよ?」
「これが?」
戻された意識すぐ問い返す、ティーカップの向こう家宰は口開いた。
「英理さんは花です、愛しんで成長を見つめる宝物です。でも英二さんは見つめるだけじゃない、克憲様の全てを支える宝物なんです、」
全てを支える、だなんて本当だろうか?
「あの祖父が、支えなんて必要かよ?」
本音つい言い返す、だって解からない。
あの男にそんなものが要るのか?つい笑って、けれど言われた。
「昨日は英二さん、書斎で克憲様に泣かれたのでしょう?」
どうして?
「え…、」
どうして知っているのだろう、というより不思議だ。
だって自分でも信じられない、その本音に問いかけた。
「ほんとうに泣いていたんだ、あの祖父が?」
昨日あの書斎で見た、あれは現実だったのか?
まだ信じられない想いの真中、家宰は困ったよう微笑んだ。
「あの方でも泣くのですよ、あなたの事だけは本気で、」
穏やかな声に木洩陽がふる。
冷たい風やわらかな陽だまりの席、深い明眸が見つめてくれた。
「六年前、東大だけは受けないと英二さん言ったでしょう?あのときも克憲様は泣きました、克憲様と同じ母校は嫌だと英二さんが言ったからです、」
言葉ただ静かに見つめる、その記憶ゆるかに鼓動を敲く。
とくん、密やかなノック起きだすまま穏やかな声は続けた。
「司法試験に合格した時も泣かれました、宮田様も喜んでいるだろうと笑って涙ひとつ零されて。司法修習を受けないと言いに来られた時もです、あのとき克憲様と同じ官僚にはならないと英二さん言ったでしょう?あのあと食事もされず書斎に籠られました、次の朝も食事をとられませんでした、」
過去ひとつずつ話してくれる、その声は穏やかに優しい。
聴きながら見つめる小さなテーブル、あまやかな馥郁に言葉は続いた。
「英二さんが警察学校に入られた時もです、そうか、とだけ仰って書斎に籠ってしまわれました。奥多摩に配属された日もです、難しい山に登頂される時もです、英二さんが遭難救助される時も、いつも書斎に籠られては食事を忘れてしまわれます。だから観碕氏にも本気で怒っているんです、解かりますか?」
問いかける瞳ただ優しい。
けれど逸らせない強靭な眼ざしに溜息ひとつ言った。
「俺のこと本気で心配してるってことか?」
「そうです、他の何があると思いますか?」
答え訊き返されて鼓動そっと響く。
なぜだろう?まだ解らない本音こぼれた。
「その心配、宮田の祖父にだろ?」
問いかけた先、明眸が静かに見つめてくれる。
なんでも聴く、そんな眼ざしに声押しだした。
「あのひとは宮田の祖父を尊敬してるから俺を養子に欲しかったんだろ?それって宮田の孫だから大事ってことだよ、俺だからじゃない、」
自分の価値はどこにある?
そんな問いかけに鼓動が軋む、肋骨まで疼く。
包帯かすれるシャツの胸ふれて、ちいさな鍵の輪郭そっと掴んだ。
「俺っていう人間が欲しいんじゃないだろ、宮田總司の孫が欲しくて大事なだけだ、アキレス腱だなんて買い被りだよ?」
言葉ごと指先まさぐる、シャツ透かす金属が温かい。
ずっと自分の肌温めてくれた小さな合鍵、その想いに微笑んだ。
「本当にアキレス腱だとしてもさ、跡継ぎだから切れたら困るってことだろ?でも俺は子供を作るつもりないよ、もう裏切りたくないんだ、」
この合鍵を裏切りたくない、もう二度と帰られないとしても。
―周太、今なにしてる?
心もう呼んでしまう、今すぐ逢いたくて泣きたくなる。
こんな自分は弱いのだろう、それすら愉快なまま言われた。
「子供と信用は別問題です、彼のほうこそ子供を望みたいのではありませんか?」
図星だ、悔しいけれど。
「…そうだな、」
肯定に微笑んでティーカップくちつける。
熱い香ゆるやかに喉すべらす、ほっと吐いた呼吸に微笑んだ。
「やっぱり子供は作らないとダメかな、俺も周太も、」
そういう立場にお互いある、それ以上に感情もある。
その結末ひとつ率直な声が告げた。
「克憲様はやり直しをされたいと想っています、家庭人として素直になれませんでしたから、」
この言葉、時間どれだけ籠るのだろう?
そこにある想い笑いかけた。
「姉ちゃんには子供できると想うよ、それじゃ満足できない?」
「英理さんのお子様も大事ですが、英二さんのことも大事だと言うことです、」
即答すぐ返される。
やっぱりこう言われるんだ?笑った正面また言われた。
「それは彼も同じです、だから顕子様が介入されるのではありませんか?」
ことん、
肚ひとつ落ちて前を見つめる。
視界の真中ゆるやかな馥郁の先、穏やかな唇は微笑んだ。
「顕子様は英二さんの幸せも願われています、何があってもあの方は愛情を棄てられない方ですよ?だから彼のことも匿っておられる、」
優しい言葉、けれどそれだけじゃない。
「中森さん、いつから知ってた?」
与えられたヒントに微笑んで見つめる。
視線そのままに質問を投げかけた。
「周太が祖母の親戚だって俺の手紙を読む前から知ってたろ?事件の日に祖母を家に招いたのは、観碕の目的が周太だと知ってたからだよな、」
あの日に祖母がこの屋敷にいた、それは偶然じゃない。
そこにある背反の可能性に問いかけた。
「あの事件は観碕が企んだことだ、だから祖父は逆に利用して潰そうとしたんだろ?利用するなら観碕の目的を調べるに決まってる、でもその前だろ?」
問いかける前、静かな視線は逸らさない。
いつもどおり穏やかな明眸に一晩の結論を投げた。
「周太と祖母の関係を知ってるから事件のニュースを見せたんだろ、目的は検察庁に観碕を追い込ませるためだ。中森さんが周太を調べたのはいつだ?」
だから「知らない」は「知っている」と言うことだ。
『そういう顕子様だから克憲様にとって頭あがらない方なのです、だから今回も協力しましたが、ご事情を知れば克憲様も驚くと思いますよ?』
昨日そんなふう家宰が言った、あの言葉がヒントだ。
そうして導かれた結論に静かな明眸は微笑んだ。
「英二さんが保証人を変更された時です、」
陽だまりの席、穏やかな風すこし冷たい。
開け放たれた窓から鳥が聞える、まだ静かな朝に笑いかけた。
「中森さんなら戸籍も遡って取れるもんな、専属弁護士さん?」
この男が調べないはずがない。
そう解っていても小さな痛みに問いかけた。
「知ってたくせに昨日、手紙で驚いた貌したのは俺の機嫌を損ねないため?」
そうだとしたら今、誰を信じたら良いのだろう?
―そっか、俺、このひとを信じたかったんだ?
ほら自問に気づかされる、こんなふう自分は弱い。
どこか信じたい甘え残っている、そんな自覚に家宰兼弁護士は言った。
「驚いたのは英二さんの気持ちです、命懸けの真実に、」
陽だまりに言葉そっと響く。
その声じっと見つめた先、深い明るい瞳が微笑んだ。
「英二さんと彼が親しいことは調べれば解かります、でも親しいのは利用目的か暇潰しだと想っていました。今回の救助に志願されたこともです、」
ズイブンな言われようだな?
なんて想っても文句は言えない。
そんな過去に困って笑ってしまった。
「酷い言われようだけど、それくらい俺ってイイカゲンな奴だったもんな?」
「そうですね、器用な分だけタチが悪くて、」
また率直に言ってくれる、その瞳は温かい。
こういう相手だから信じたいと願って、ただ素直に笑いかけた。
「俺は器用でタチが悪いよ、でも周太のことだけは不器用で困ってる。こういうの…似てるかな?」
こんな質問ほんとうは悔しい、けれど微かに温かい。
どこか気恥ずかしい陽だまりの風、穏やかな声が笑ってくれた。
「似ています、だから克憲様を信じてもらえませんか?」
やっぱり似ているんだ?
納得ひとつ気が付いたまま口開いた。
「祖父は俺に、嘘吐いたことある?」
昨日の貌、あの眼が忘れられない。
確かめたい想いに深い眼ざし微笑んだ。
「嘘はありません、はぐらかしたり黙っていることはあるでしょうけどね?」
信じていいのだろうか、今なら。
―いろんな意味で潮時かな、今きっと、
ずっと信じられなくて、それでも今すこし変わってゆく。
もう時が来たのかもしれない、そんな陽だまり穏やかに笑った。
「朝飯の後、俺がコーヒー淹れるよ、」
これで少し伝わるだろうか?
想い笑いかけた先、家宰は微笑んでくれた。
「きっと喜びますよ、夕食は何がよろしいですか?」
「そうだな、あ?」
答えかけて思いだす。
そう言えば伝えていなかった、迂闊に可笑しくて微笑んだ。
「ごめん、夕食は外ですませる予定なんだ、」
相手は誰か、言わないでも解かるだろうな?
それだけ有能な男は肯きながら言った。
「わかりました、でも困ったタイミングですね?」
やっぱり「困った」ことになるんだ?
そんな気難し屋の未来予想に笑いかけた。
「出先でワインでも買ってくるよ、」
(to be continued)
【引用詩文:John Donne「HOLY SONNETS:DIVINE MEDITATIONS」】
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