萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

桜三撰、惜春の朝に本

2023-05-14 12:00:00 | 文学閑話散文系
零れる光、常春の物語
文学閑話:桜の文学


桜三撰、惜春の朝に

今年は春あまりに早く過ぎ去って、
のんびり桜あんまり見られなかったなあー…と。
ソレじゃー本で桜を楽しもうかなあと想って浮かぶのは、

『桜と日本人』小川和祐
『ことばの力』大岡信 
『櫻守』水上勉

筆頭の『桜と日本人』は桜づくしの研究書、
どのように日本で桜が愛されるようになったか?
どれほどの桜の品種が生まれて、消えていってしまったか?
万葉集から江戸の品種改良ブーム桜熱、明治期にはじまる桜と人命の関わり、
様々な面から解かれる桜概論の書というか、日本という風土と国と人の桜譜といった本です。

青い桜があった、と言われたら信じますか?

江戸期の桜は品種いくつあったかご存知でしょうか。
読んで知る品種たちに、おそらくビックリされるんじゃないかなあと。
江戸の桜は色も多彩で大別して五色あり、その名所もかつて存在していました。

こんなのホントに?だろうな思うんですけど、
そんなカンジで桜の印象ひっくりかえされる「桜」に出逢わせてくれる一冊ではないかなと、笑
写真:上・紅枝垂桜、下・河津桜


次の『ことばの力』は国語の教科書で読んだこと、ある方も多いのではないかなと。
この本にある章のひとつに「桜染め」についての記述があるんですけど、それが好きです。
草木染の染色家である志村ふくみさん、この方がとりくまれてきた「桜染め」の美しい色にある秘密が説かれています。

桜色、サクラのどこを使って染められると思いますか?

あの薄紅色、サクラという植物が咲かせる花の色である桜色。
あの花色を草木染で染めるには、サクラの何を使って発色させられるのか。

"桜から桜色を染めあげたい”

そう願い、さまざまな技法を試して失敗して、また試し、失敗する。
もう出来ないんじゃないか?と悩んで、試して、諦めきれなくて「桜」という色を探していく。
ただひとつ「桜」あの色を染めたい、その果てめぐり逢う色の物語です。

教科書で読んだ子どものころ、
この技法を実験してみたくて、大人になったら桜を植えて自分でもやってみようと思ったんですけど。
実際に今、庭に桜を植えてみました・が、桜染めできるほど大きく育っていない&暖地サクランボの木で花色が白いため、別種また植えないとです。笑
写真:唐実桜(別名・暖地サクランボ)


三つめ、小説の『櫻守』
桜のために生きた、ある植木職人の物語です。
今まで読んだなかで、いちばん心揺すられてしまった小説かもしれません。

読む人によっては、ものすごく地味な物語だろうなと。
派手な人生を描いたものではなく、ただ、実直な職人の朴訥とした生き様だけが語られています。
桜の藤右衛門さんみたいな名家の生まれでもなく、イケメンでもなく、山里に生まれた朴訥おっちゃんの物語。
ただし、一途です。

幼少の記憶から桜に生きて、ただ桜のために働いて老いていく。
戦争の時代も桜のために働き、恋も桜のもと結んでいく。
老い逝って、そのあとも桜のため命咲かせていく。
そんな男の目から語られる桜たちは、豊麗に清楚に輝きわたって、美しい文章表現で綴られます。
どこまでも強く美しい桜たち、その馥郁に酔わされるなあと。

序から桜、終焉のち桜。
桜、さくら。桜ただ一途な物語です。
写真:豆桜の古木


野外での撮影は植生保護のため三脚NG、足元チェックして足場を決めて×離れた所から望遠レンズ&三脚ナシで撮影できる技術が必須です。
山里の朝晩まだ冷えます、とくに北斜面は南斜面よりも体感温度マイナス十度とも。
山はびっくりするほど日暮れ早い×足元凍結する×角曲がったら雪だったりするので、どうぞキャンプや渓流釣り&登山の方はお気をつけて。
【撮影地:長野県・神奈川県】

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THE NARROW ROAD TO OKU

2019-02-25 23:35:04 | 文学閑話散文系
ROAD TO OKU 敬愛をこめて
文学閑話:鬼怒鳴門 キーン ドナルド博士



キーン先生が亡くなられた、

松尾芭蕉「奥の細道」を読むんなら?って訊かれたら、
ドナルド・キーン訳『おくのほそ道 THE NARROW ROAD TO OKU』がおススメと自分は答えます。
講談社学術文庫から『英文収録 おくのほそ道』として発刊されているんですけど、ソレです。

たとえばタイトル『奥の細道』を「Road to OKU」にしているトコ。
これが「Road of OKU」じゃないってトコが日本語というか・やまとごころってヤツの表現がすごいなと。
たとえば「光」を表現するにも「beam」にするのか「gleam」なのか「shine」なのか?
この3つは光の風景が全く違うワケで・ソレをちゃんと訳してくれている。

そうした訳し方から「奥の細道」の情景がはっきりわかる、
ソレダケではなく講談社学術文庫『英文収録 おくのほそ道』はキーン先生の解説も載っているのでカナリ解りやすい。
この一冊からだけでもキーン先生の日本愛がナマハンカじゃないんだなってコトが伝わってきます。

「日本語と日本文学を正しく教えられる人が育ってほしい」

そんなふう仰っていたキーン先生はまた、日本の大学入試問題にも疑問を呈されていました。
たしかに・センター試験からして文学力を問うというよりクイズみたいになっちゃってるし、笑
そーゆー試験問題に自分も受験生当時おんなじ疑問を持ったので、そこらへんも親しみカンジます。

キーン先生は太平洋戦争のとき、日本兵の手紙をチェックする担当を務めたそうです。
そこに綴られている日本兵の想いに、当時ご自身も青年だったキーン先生は上官の命令に背いたのだとか。
本来は処理しなくてはいけなかった手紙たちを、密かに保管して隠していたそうです。
手紙を遺していった誰かの父親で息子で夫で恋人たち、その想いを宛先に届けたいと。

その手紙はキーン先生が任務中の隙に発見され、処分されてしまったそうです。
そのことを「今も心残りだ」と日本に帰化された時の講演でも話されていました。

太平洋戦争後、日本は敗戦国として様々な日本否定に曝されたんですけど、
そんな中でも日本文学を愛し日本を助けようとしてくれた学者サンもいました。
学問を通して救済と敬愛に平和を願おうとした研究者たち、その姿こそ学者の本分だと。
ノーベル博士の目指したコト鑑みても、ノーベル文学賞はそういう学者たちに贈られるべきだろー思います。

そんな一人だったキーン先生の死は、大先輩で恩人で恩師が消えた空虚感です。
そうしてまた、懐かしくなります。


撮影地:富士山×山中湖@山梨県山中湖村2013.10、八島湿原@長野県2018.8

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Academic 学問の黒歴史×頂と麓の相関

2018-01-17 11:40:00 | 文学閑話散文系
公然の秘密ってヤツですが、折口信夫はアカデミックハラスメントの推奨者でした。

折口信夫、歌人としての名前は釈超空。
日本民俗学を提唱した『遠野物語』編者、柳田國男の弟子としても知られています。
柳田圀男は官僚時代に見聞した山村の昔語りを再評価し、日本に民俗学という学問分野を開拓したんですけど、

「折口君のアレは困る、」
「折口君それは間違っている、」

そんな発言いくつも記録に残っています。
それほど問題なんども起こしては隠匿してきた折口信夫なんですけど、

「学問は肉体関係により正しく伝授される」

という阿呆な論拠で学生にセクシャルハラスメントしまくった事実が折口にはあります。
その被害者の学生たちは男です。

フィールドワーク=実地調査旅行の宿で無理強いしたり、
書生として世話すると経済的事情+学閥の立場につけこみ男妾にしていたんだとか。
その学生たちは望んで関係を結んだわけではありません、訴えたくても「やむをえず」口を閉ざされていました。

古来、日本は男同士の肉体関係は「有り」だった歴史があります。
友情や忠義を互いに確認しあう至高の愛情ともされ、古典文学にも残されています。
ですが明治時代の開国期、近代国家になる政策上の理由から同性愛はタブー視されていました。

なぜタブー視されたのか?

西洋諸国はキリスト教国、当時はキリスト教において「同性愛は神への冒涜」として認めない傾向にありました。
そうした西洋諸国に近代国家として認められる=西洋の思想に倣う必要がある、
という明治政府の方針に則り、同性愛をタブー視する政策が施されたワケです。

男同士の肉体関係は「鶏姦」と蔑視され、近代国家に相応しくない野蛮な風習とされました。
ようするに男同士の関係は「至高」から「堕落」へと、政策的に意識変換されていく時代でした。

学生はエリートを目指す存在です、
それが「堕落」の烙印を受ければエリート街道を外されるだけではなく、誹謗非難の対象となることでした。

当時の学生は今みたいなお気楽モラトリアムではありません、
故郷の代表として「末は博士か大臣か」と称えられ、いつか故郷に錦を飾るべく送りだされた責任がありました。
そうした学生が政府から禁じられた行為で「堕落」したら、故郷の家族親族みんなが苦しい立場となるワケです。

こうした事情が当時はありました、そのため折口の被害者たちは泣寝入りせざるを得なかったワケです。
また折口自身がワリとボンボンで庇護されるバックボーンがあったらしく、なおさら表沙汰になることなく「柳田の弟子」として顔がデカくなりました。

学閥上も法律上も学生の弱みにつけこむ+学問にこじつけ正当化する。

なんてことしていたのが折口という人の実像です。
こうした弟子を師の柳田國男は解っていて、なんども厳しい戒めをしてきたことは有名な話でもあります。

折口君のアレは困る、折口君それは間違っている、

そんな発言いくつも記録に残されているから有名なんですけど、
それほど問題なんども起こしては隠匿してきた、っていう黒歴史を遺した折口です。

そういう考え方する人間なので「論は師匠に準拠」たいした独創性もないけれど名前はヤタラ有名です。
民俗学でも歌壇でも師匠に随従している、だから引き上げられやすい・言ってしまえばスポークスの名人でした。

で、なんで折口の話なんか書いたのかというと、
笹井夫人の記事を読んだからです。

STAP細胞の研究不正と論文不正。

2014年~2015年にかけて世論を騒がせた事件ですけど、
2018年になった今、どれくらい憶えている方いますか?

STAP細胞の研究不正と論文不正、有能な研究者を何人も失墜させ、また自殺にも追いこんだ事件です。
その原因を作りだした本人は博士論文から不正があり、当然ながら博士号の剥奪奪処分を受けました。
本来なら公的研究資金を不正使用した罪や職務に対する背任罪など問われるところです。
ですが未だに罰せられることはなく、手記を出版して印税を儲けたりしています。

その手記に対して、事件で自殺された笹井博士の夫人が想いを吐露されています。
それを読んで「あー小保方っておばちゃんは折口信夫みたいなヤツなんだなあ」と思いました。

能力より自分をデカく見せることが得意、責任転嫁OK・大言壮語したほどの実力ないから責任とれない。
悲劇のヒロインに酔うことが人生の至高、自分は誰からも愛される存在だと思い込みたい。

っていうカンジなんですけど、妄想性障害の特徴だなあと。
こういう輩ってなぜか同類の崇拝者がいて、ソレでよけいに増長して悪化したりするんですよね。
そうやって考えると、本人「だけ」の責任とも言えないかもしれないけれど・責任を許せば同じ哀しい結果はナオサラ生まれるだけで。
で、思うんですよね、

柳田圀男が折口信夫を破門→文学界からも民俗学学会からも追いだしておけばよかったのに。

セクシャルハラスメント、アカデミックハラスメント、
どれも犯罪行為で、それを適正に罰さなかったというお手本があるから、次の勘違い=加害者が起きてくる。
なんでも初めが肝心と言うけれど、そういう意味で柳田圀男は有罪なんだろうな、と思う。

ついでに言えば『遠野物語』も柳田圀男は作者ではなくあくまで「編者」です。
あの伝説集はすべて、昔語りを記憶して繋いできた佐々木喜善はじめ、遠野郷の語り部たちが紡いだ作品です。
それを官僚インテリだった柳田が面白がって聴きまとめ、趣味として知人に配った冊子が『遠野物語』の初版でした。

あの『遠野物語』があったから日本の民俗学が生まれた、それは事実で柳田の功績です。
けれど語り部たちがいなければ柳田の名声もありませんでした、
多くの土台あってこそ、名声も学術も生まれたワケです。

名前も残らない、でも土台に多くの人生が存在している。

それはどんな学問でも、学問以外の全てに言えることだろうと。
そういう無名だった土台から声をあげたのが、今回の笹井夫人でもあるなと思います。

有数の研究者だった夫の土台になっていた女性、その夫がなぜ死ななくてはいけなかったのか?
その疑問に小保方氏は何ひとつ答えもせず、主観どっぷり悲劇ヒロインちっく手記で稼いでいる。

せめて、その印税を笹井博士の遺族はじめ・迷惑をかけた相手に慰謝料として払えばいいのに?

不祥事どころか日本の科学的信頼を失墜させた事件、
原因はどうあれ、その中核で責任をとるべき立場に小保方氏はいたワケで。
責任分だけ金も支払われ名誉も権限も与えられていた、その土台なっていた多くの人生に小保方氏は責任がある。

自殺された笹井博士も無責任とは言えません、
小保方氏みたいな人間に値しないポジションと権限を与えてしまった、その責任は大きいです。
その結果として日本という国家が培ってきた学問的信頼を失墜させた、そして日本人研究者全体に不信感が向けられた。
その責任は笹井博士にも当然あります、そうした責任を受けとめた結果として笹井博士は自殺に追いこまれてしまったのだろうと。

小保方氏に死ねとは思いません、生きて責任を償ってほしいとこです。
もっと言えば笹井博士こそ生きて、より素晴らしい研究成果をもって責任を償ってほしかったです。
研究で償うことは才能と努力を惜しまない学者にだけ可能な方法です、それを笹井博士は出来る可能性があったと思います。

逆に言えば小保方氏にソレは不可能だろうなと、
もし出来るなら事件から2年の間に何らかの論文を出しているだろうから。
あれだけ金も権限も与えられ研究するに相対する人間なら、出来るはずのことです。
そういうポジションの土台には多くの人生があり、その人生たちに負う責任を償う誠意が小保方氏には無いのだろうか?

無名に見える多くの人生、でも無名=無形ではなく不存在じゃない。
有形で存在しているからこそ土台になれる。

そういう土台と上物の関係は、家族社会学校どこにでもある。

たとえば今・大学受験をしている学生サンたちにも保護者や勉強を教えてくれた沢山の土台がある。
そういう自覚しっかり感謝で勉強つらぬいて・入学後にも怠けない人には、良縁の大学に道つけてもらえる。
そういう自覚×土台への感謝を失くしたとき、人は増上慢の虜になって、折口氏や小保方氏みたいに誰でもなる。
物理的に考えても・どんなに高い山も最高峰も、土台の麓が崩れたら美しい山頂も崩れてしまう。

感謝は悟りを得るはじめ、という言葉があるけれど・勘違い増上慢から救われる道だろうなと。
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ブンガク雑談:ノーベル文学賞 traditional&lineage

2016-10-20 09:00:00 | 文学閑話散文系
今年のノーベル文学賞について、エラげバカの記事を見かけたのでナントナク書きます、笑

まず・作詞家が受賞することは、
イギリス文学ならシェークスピアにワーズワス、フランス文学ならロンサール、
を文学史の巨人に讃えるヨーロッパ文学界ってことを知っていれば、納得できるだろな・ってことです。

で・イキナリ毒舌ですけど、ロンサールがワカラナイってヒトは作詞家の受賞アレコレ批評する資格ありません、笑

ノーベル文学賞ってドンナのが受賞するのか?
って言うと「文学のアイデンティティ」にあるかなって思います。
どーゆーことかって言うと・これまでの受賞者×創作にある傾向性は、

①民族母国&母語のアイデンティティ
②その時代性の反映
③世界平和への貢献
④不変性×普遍性

とくに①は重要視されているのかなって思います。
アイデンティティ=オリジナリティ・個性につながるとこですから、ポイントたりえてアタリマエなんでしょうけど。
その国に生まれ、その言語を母語として世界を感じ・考え、そうして培った思考フィルターを通して生まれてくるものが文学。
ようするに「自分がいる世界と向きあっているのか?」が問われるのが文学です、だからこそ①と②が重要視されることはアタリマエ。
母語と母国への誇り、そこから伝統を追求して生まれる「その人にしか描けない文学」が文学のアイデンティティってコトです。

たとえば川端康成、
彼の有名なヤツといえば『伊豆の踊子』『雪国』など教科書にも載ってるアレですが、
彼の作品はどれも物語性は冒険活劇でもナンもなく、イワユル思想性も何もありません。
ただしココ↓はすごいかなと、

A.情景描写と心理描写は再現度が高い
B.日本の文化・風景を描ききっている
C.なんでもない人間のアリキタリ=「あるある」感=普遍性

Aは文学にあるべき要素です、
Bは①+②に該当します、
Cは人間だれにも該当する=④普遍性になるわけです、
って考えると③に該当するとこは彼に無いんですけど、笑

大江健三郎も同様です、
語り部=口承文芸の家系に生まれた特性が大江さんの文章は滲んでいる=①や④、
障害のあるお子さんとの対話から生まれたものが②や③ともなっています。

ここまで書くと気づかれた方もいると思いますが、
毎年バカ騒ぎされる日本人某氏はノーベル文学賞にちょっと遠いんじゃないかってことです。
日本人ならではのアイデンティティ×母国風土の美しさを描く、っていう①が希薄だからひっかかりっこない。
ちょっとキツイ言い方すれば・日本人が西洋文学のサルマネして翻訳版も出して欧米で著名になっても無理だよってことです。
日本人にしか描けない文学がある。

作詞家の受賞についても少し掘ると、そもそも歌謡が口承文芸に属する文学です。

口承文芸は「口伝=言い伝えられてきた文学」文字化されない文芸なんですけど、
いわゆる昔話・伝説など物語=散文もあり、たとえば祝詞・民謡など韻文もあります。
こうした口承文芸は文学研究テーマの一つなワケですが、歌謡いわゆる「ウタ」詩歌の原型もコレになります。

歌謡・詩歌で有名どころなら、
日本でたとえるなら『万葉集』にも詠う柿本人麻呂、遺した歌の文学性が讃えられる歌聖です。
短歌・長歌どちらも伝説や恋の物語など詠みこまれた物語性があり、当時は朗詠=節をつけて唄われていました。

アルチュール・ランボオ、早逝の天才と謳われるフランス詩人は解かりやすい例だと思います。
作詩当時のランボオは十代~二十代前半の青少年期まっただ中、その年齢と当時のフランス世相が現れた詩ばかりです。
日本では堀口大學が翻訳を紹介して有名になりましたが詩集『地獄の季節』などベストセラーになっています。
ランボオの作詩を上の①~④に当てはめると、

①フランス風土・伝説②フランス当時の倦怠感・退廃的空気③退廃から静穏への希求④青年期の煩悶→永遠性を太陽・海へ希求

ランボオの詩は反骨×繊細+聡明です、
イマドキの青少年にも受けるだろうし、どの時代の青少年にも受ける普遍性があります。
たぶんフランス文学を志す人だったら一度はランボオは通っているってくらいウケています、笑

詩は「くちずさむ」人麻呂もランボオも当時を生きた人々は口ずさみ親しんでいました。
それはシェークスピアも同じで戯曲の作中歌は流行歌となり歌われていたワケです、
この「くちずさむ」ために詩はくちずさみやすい「韻」を踏んで作ることが求められています。
漢詩の五言絶句・七言律詩などもコレと同じこと、語数をそろえ・音をそろえ・くちずさみ易く作られたものが「詩ウタ歌」です。
ようするに「旋律つき文学」が「ウタ」歌・詩、という定義になります。

「あなたのお国のシェークスピアは?」

ていう初対面挨拶が欧米ではあるくらい文学代表=シェークスピアです。
そんなシェークスピアは小説家ではありません、戯曲家&詩人としてイギリス文学を築いた巨人です。
それくらい戯曲や詩は文学としての地位が高いヨーロッパで授与されるノーベル文学賞が、詩人や作詞家に授与されても不思議はありません。

ノーベル文学賞「文学のアイデンティティ」+文学の一つ「ウタ」

ってコトらを解かっていると今回の作詞家受賞はナンも不思議はなく、おおいにありってコトです。
今回の受賞に「歌手がー」とか言うヤツはソコラヘン無知なクセにアレコレ言ってるだけなんだろうと、笑
ボブ・ディランの作詞は母国アメリカのアイデンティティを謳っている+①~④シッカリ踏襲、納得だと思うんですけども。

で、日本でノーベル文学賞を受賞する可能性ないの?っていうと研究者ならいます。
物理学賞は宇宙飛行士ではなく研究者、医学賞も臨床医ではなく研究者に与えられています。
それなら文学賞も研究者に与えられてしかるべきだと思うんですよね。
小説も作詞も研究時間から創作が生まれます、その過程に道しるべを建てる研究者も評価されるべきだろうと。
文学は分析力必須、ある意味で数学的・統計的だし数列思考を利用して創作される合理的客観的視点がナイとできません。

足し算ができても掛け算すっとばして因数分解は出来ない、それは文学も同じです。
詩歌なら韻をふむ技術が音律をつくります、それには名詩から言葉や文字の遣い方あれこれに作詩当時の社会文化を知る。
それは散文も同様だし外国文学の翻訳も同じこと、その創作物当時の言語から生活・事件・時代性など知るほど、作品世界を伝えてもらえる。
古典文学も・原文から読まず翻訳から読んだダケでは描かれる空気が解かりません、だから古文法や変体仮名を学ぶ必要もある。

小説も詩歌も漠然と生まれてくるものではない、その作り手が「書きたい」と綴った向こうの世界を受けとることが「読む」です。
そこらに「いんすぴれーしょんがー」とか言ってるヤツもいますけど、ソレダケで書いたモンは普遍性も不変性も生まれません。
だからこそ文学も学問研究の一環、その学問たる尊厳を知らない軽佻浮薄人が「いんすぴれーしょんがー」強調ぶろがーなわけですが、笑
学ぶ努力経験ないコンビニエント論は狭い了見バカにしかなれません、くだらない虚栄心で貶めたがる批評屋って多いけど。
努力しよーともせず論じたら・努力に生まれた作品に失礼だ。

前にも書いたことだけれど・
文学の定義もその文学賞の意味も知らない考えたことない無知が厚顔無恥しているブログ記事って多いです。
とことん突詰めてナイくせにエラソー批評とか公開すべきじゃない。

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深夜時事:UK―United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland

2016-06-26 03:35:00 | 文学閑話散文系


深夜時事:UK―United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland

イギリスのEU離脱、いろんな意味でびっくりでした。

ここでもイギリス詩をよく引用させてもらっていますけど、
戯曲家であり詩人のウィリアム・シェイクスピア、俳句を世界に紹介したホーラス・ブライス博士など文学者、
小説なら『不思議の国のアリス』ルイス・キャロルから『指輪物語』のJ・R・R・トールキンといったファンタジーの代表作、
児童文学『小公子』『秘密の花園』などのフランシス・ホジソン・バーネット、ピーター・ラビットのベアトリクス・ポター、
推理小説といえば『シャーロック・ホームズ』アーサー・コナン・ドイル、名探偵ポアロのアガサ・クリスティ、

など挙げていけばキリない程にイギリスは文学に功績大きな国です。
ソンナワケで本を通して身近なんですけど、育った横浜はイギリス様式で作られた町でもあります。
横浜港を設計したのはヘンリー・スペンサー・パーマー、イギリス陸軍の工兵士官で日本最初の近代水道を造った人です。

こうした人たちの共通点は豊かな教育を受けている=イギリスの階級制度でそれなり上にいるってことです。
たとえばウィリアム・シェイクスピアの父親は豪商で町長にも選ばれた市会議員、富裕層にありました。
ウィリアム・ワーズワースの父親は法律家、ルイス・キャロルは軍人か聖職者に就く一族の出身です。

イギリスは階級社会の国です、その「階級」は義務と責任が伴います。
階級により就ける職業も決まっており、その職業に必要な教育が違うため学校も階級ごと違います。
たとえば戦争の最前線に立つのは階級上位=貴族の当主と後継者、領地については経営と納税の全責任を担います。

“ Noblesse Oblige ”

高貴なる義務と訳しますが「貴族として担う義務と責任の誇り」ってカンジの言葉です。
戦争では体を張るし屋敷を傷病兵の療養施設として開放もする、平時は領土経営を担い・失敗すれば私財で補填する。
そういうハイリスクを負うこともアタリマエなのが「Noblesse Oblige」ノブレス・オブリージュ、
そのハイリスクを避けるため明日その先、10年後50年後はるか世紀も超えて考える必要があります。

ようするに階級が上になるほど、未来への義務と責任も大きく重たくなるワケです。
これら義務と責任を果たすため必要な力=知識+思考力を鍛えあげることも義務責任の一端にあります。

ソンナワケで階級が上になるほど豊かな教育を受ける機会を与えられ、
その結果としてイギリス文学は富裕層の豪商や、軍人または聖職者の子弟など貴族出身者が多くなるワケです。

で、逆に階級が下層になるほど義務も責任もないワケです。
明日その先の責任を負うのは上流階級、だから今この目の前を凌ぐことだけすればいい。
それが悪いとか良いとかではなく「判断をしない=責任を負わない」ことがアタリマエ当然になっています。

っていう階級感覚がある以上、今回のEU離脱に関する国民投票はホントのイギリスの総意なのかっていうと難しいなあと。

今回のEU離脱はイギリス全体の総意ではなく世代間・階層で意見が分かれています。
離脱派の中心世代は高齢者=大英帝国の復権を願う人たち、階層は移民流入による失職を恐れた労働者階級です。
高齢者と労働者階級、この二つは「明日を考える必要がない」という共通点があるなあと思います。

10年後どうなるのか?その責任も「Noblesse Oblige」は負います、
その責任を労働者階級が問われないのと同様、10年後20年後に生きていない世代も負う必要がありません。
そうした高齢者はEU加盟以前のイギリス=大英帝国の栄光を再び見たいと言う願望もあるワケです。

大英帝国に戻りたい→それならEUなんて邪魔

EUで決められたことを押しつけられたくない、イギリスだけで判断したい。
イギリスの権益はイギリスだけの物であり、他の国のリスクを分担したくない。
そんな意志が高齢者層にはあったわけです。

責任を負わない階級+未来を負わない世代、

その二つが多数を占めた意見は本当の意味で国民の総意と言えるのか?
またUKを構成するイングランド以外の国、スコットランドと北アイルランドの判断は?

なんて「総意」如何の疑問あるんですけど、
なにより世界金融と情報の軸を担っている機関がイギリスにあることも心配要因です。
そんな心配そのまんま株価の乱高下さっそく勃発しましたけど、警戒音が響くニューヨーク証券取引所の映像がすごかった。
アレほんとに鳴るんだなあ・・・とびっくり見ながら今後の展開アレコレ考えたり。

なんてことナントナク書いてたらコンナ時間でまたびっくりです、笑

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文学雑談:ある偽善小説

2015-09-19 22:50:00 | 文学閑話散文系
気分転換に雑談します、笑

まとめサイトたまーに見るんですけど、そこから跳んだ記事にあるメールの話がありました。
ソレが何かって言うと、某作家とある男性の往還メールをまとめたサイトのコトでした。

某作家はいわゆるヒロイックファンタジーを書いていた女性、
ある男性はその愛読者だった一人です。

で、その小説が性的虐待の描写が増えてしまい、
ようするに強姦を描いたワケですが、それが男性の同性愛者だった。
ソレも一人なら良いけど複数にわたり描かれて、結果、

同性愛=強姦SM愛好家

という誤解を受けかねない描き方になってしまったわけで、
そのことを問いかけたメールを男性は彼女宛に送りました。

・・・・・

同性愛の男も普通に生きている普通の人間です、それを偏執狂のよう描かれては誤解と偏見をうみかねません。
なにより同性愛の人間が傷つきます、僕自身も同性愛者です、そして普通の人間です。
ずっと愛読していた小説でこのようなことは個人的に裏切られた気持でした。

・・・・・

っていう内容のメールを送ったそうです。

この作家女性、その作品の第1巻でもハンセン病患者について誤解と偏見の描写をした前歴があります。
そのときも抗議の声が上がり書き直したそうです、が、この件については結果スルーでした。
この男性に返した彼女のメールから率直に言って、

正当化×偽善 

と、自分は想ってしまいました、笑

それはメールだけじゃなく、彼女自身についてそう想わざるを得ません。
なぜそう想うかというと、らい病患者と同性愛者への「対応差の理由」です。

なぜ彼女はハンセン病患者の描写は書き直したのか?
なぜ彼女は同性愛=強姦愛好について正当化するのか?

その理由はたぶん、突詰めちゃうと法的問題=世間体かなって思います。

ハンセン病患者は昔、人間の尊厳すべてを否定された歴史があります。
遺伝病だという誤認識からパイプカット=性的不能の処置をされ、また感染経路の誤認から隔離されました。
けれど実際は感染力が非常に低い病気です、ただし適切な処置を行わないと皮膚がただれ外貌が崩れます。
現在は薬剤などの進歩で発症率も低下し罹患しても完治します、ですが昔は苦しみました。
皮膚がくずれて顔面から変形する、そうした症状に差別と偏見が起きたワケです。

そうした差別偏見×誤認識は行政のミスを招きました。
パイプカットや隔離は人間の尊厳を奪う行為でもあります、それを行政から行ってしまった。
こうした歴史から保障制度や擁護団体が現在はあります。

でも同性愛者には行政や法からの保護はありません。
当事者たちで作ったコミュニティはあっても差別から擁護する盾は無いわけです。

法制度、擁護団体。この2つの存在から糾弾されると?

そういうので差がでるのって偽善者にはありがちなことで、
で、そういうのが彼女と出版元の対応差に無関係と言えないだろうと。

・・・・・

私は同性愛者の友達がいる、そのひとたちも私の小説に賛同している。
ディベートなら受けて立とうじゃないか。

・・・・・

というのが彼女のメール態度でした。
で、つい思い出させられるのは「裸の王様」です。

同性愛者はマイノリティ、少数派。

彼女はいわゆる売れっ子作家、発言力がある程度ある立場。

少数派の人間が売れっ子作家に「あんたの作品は差別だサイテー」と真っ向から言えるのか?

っていう感情方程式も解けないのは、浅慮×傲慢の証拠だなあと思います。

小説、漫画、ドラマ、

いわゆる人間模様を描くツールは影響力があります。
感情、倫理観、歴史観、主観から客観へ育つ種を植えつけてしまう。
だから描く対象をきちんと調べて「現実」リアルに添って描くことは、偏見を生まない最大の防御です。

だから「取材」という言葉もある、描く素材を取り集めて生みだすものだから。
そして、コレを怠ってしまうと結果として偏見が生まれます。

ずっと不思議だったんですよね、

「なんでいわゆるBL本は性的虐待×強姦シーンが多いんだろう?」

ここで小説を描きはじめるときWebでBLを読んでみました。
雑談寓話に書いてるけど友達にバイセクシャルの男がいます、そいつの言葉の現実を知りたくて読みました。

「BLとかって大嫌いだ、勝手な妄想で俺たちを変態犯罪者にしやがって、」

そう泣いて怒った彼は、ごくフツーの社会人です。

きちんとスーツ着て通勤して、
デスクについて膨大な資料を読み、書き、会議して、折衝もする。
仕事終わりには同僚と呑みにいって笑って、グチって、時に泣いて怒って。
そして帰宅すれば仕事に必要な勉強したり、パソコン開いたりテレビ観たり、本読んだり。

両親がいて、きょうだいもいて、
家族に贈物することもある、休日は家族で食事することもある。
友達もいてメールしたり電話したり、好きなライブではじける夜もある。

ごく普通の生活、ただ恋する相手が同性の時もある。

その恋愛感情は同性と異性では差があるそうです、でも「好き」であることは変わらない。
そしてセックスも遣り方がちょっと違うだけで「大切に触れ合いたい」気持ちは同じです。
ごく普通に社会人で男で人間、それだけです。

ま、ちょっとワガママで拗ねっぽいとこはあるヤツだけど、笑
でも自分としては嫌いになる理由そんなにありません、一緒に飲んで楽しいヤツです。
それは異性愛でフツーに結婚してる友達と変わらない、強姦色情狂とは遠いフツーの男でしかありません。
ごく普通の人間、だけど恋愛対象が同性であることが「少数派」マイノリティにしているわけです。

で、問題なのは「少数派」だからこそ偏見が生まれやすいってことです。

少数派=サンプルが少ない。

サンプルが少ない=1個の情報の影響が大きくなる。

それを例えると:日本人の中に白人系の人が3人いて2人が金髪碧眼+1人が茶髪黒瞳
で生まれる通説:白人は金髪碧眼が多い、茶髪黒瞳は少ない

こんなふうに「少数」であることは短絡的結論を生みやすくて、それが偏見になることも珍しくありません。

男女の恋愛×SMを描いた小説があっても男と女の恋愛=SMにはなりません、
それは「男女の恋愛」が身近に多くあふれている=サンプルが多いから極論に惑わされない、ってワケです。

だから「同性の恋愛」も身近に多くあふれている状況なら、妄想変態小説に惑わされる可能性は低くなります。

でも現実には少数派のマイノリティ、
本人たちも差別偏見はうれしくないから隠していることが多いです、
少数かつ隠していれば「身近な存在」にはなり得ません、そのため偏見を描かれるとそれが通説となりがちです。

こういう現実を彼女は聴かなかったのだろうなって思います、
それだけ彼女は同性愛者の友達から信用されていない、っていうか友達と想われていないんだろうなあと。

・・・・・

私がヤオイを描くのは同性愛者の偏見をなくすためです。

・・・・・

ヤオイ=BLにあたる当時の言葉だそうですが、
こんなふうに言ってしまうアタリ彼女の傲慢、上から目線の偽善が痛々しいなあと、笑
作家な自分は理解者だよ描いてやってるんだ感謝しろ的なことをメール男性も返信されたそうです。

自分も友達のことがあったから同性愛も描いてみたりしていますけど、
しょーじきなとこ「理解者です」とか「賛同します」みたいなコトは想いません、
だってソレえらそーすぎるじゃん、笑

ただソイツはソイツなだけ、そういうソイツと友達でいる、それだけです。

同性愛者だから友達になったわけじゃない、
ソイツっていう人間が面白いから一緒に飲んで、会話して、それが楽しいだけ。
確かにソイツの思考と観点は同性愛であることの影響もあるだろう、でもソレって恋愛経験値なだけだ。

っていう考えな自分としては、描くならマジメに調べて書けよ出来ないなら書くなバーカと思います、笑

ちゃんと調べて書く努力をしない、
そーゆーヤツは大抵ドッカの小説やマンガをテキトーに読んでソレを事実だと信じてる、
でもそれは孫引きってヤツで、孫引きとか絶対やるなよ原典&現場きっちり読めよ行けよというのが常識です。
よーするに「信憑性の確認を自分自身でやってないモンを出すな」ってことです。

だって嘘吐きはドロボウの始まりって言うじゃないですか?笑

孫引き、剽窃、盗作、このへんの事件が最近多いですけど、
Web小説ブログでも同じ傾向がありますが、あたりまえだけど犯罪意識あるのかな?と疑問です。
そーゆーの安易にやっちゃうヤツラは頭がユルイんだろうけど、そいつらと上述の作家サンはある意味で同類だなあと。

現実を認識して分析する、そこから創作物は生まれます。
なぜなら自分たちは現実に生きる住人で、現実に生きる感情だから。

現実リアルにある存在はリアルな言葉で心が動きます、だから「リアリティが感動を生む」なんて常套句もある。
それを忘れて妄想カッテに書き散らすとき、生まれるのは偏見とその被害者たちの傷です。
その傷は現実リアルの痛みです。

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文学閑話:虹の人

2015-03-13 10:30:25 | 文学閑話散文系
So was it when my life began 梯の軌跡



文学閑話:虹の人 

先日、松谷みよ子さんが亡くなりました。
彼女は児童文学者として有名ですが、民話や伝承の研究でも著名な方です。

『龍の子太郎』
『ももちゃんとあかねちゃん』シリーズ

この二つが代表作と言われて多くの受賞もされています。
が、自分にとっては松谷さんの著作でインパクト強いのは、

『松谷みよ子のむかしむかし』全10巻

小学校の図書室に全巻あって一冊ずつ楽しみに読みました。
昔話から伝説をまとめた本ですが『古事記』『日本書紀』にある神話も載せられています。
また昔話は『御伽草子』など今は古典文学と言われる本が、人々のあいだに昔話として語り継がれたものです。

ようするに、同じ伝説などが原点になっているけれど、

貴族や武士、僧侶など知識階級により書籍化されたものが、古典文学作品として残り
噂話のように人々が口伝えで語り継いでいった口承文芸が、昔話として親しまれている

ってカンジですが、どちらが原典に近いか?というと、
口伝えは伝言ゲーム=物語が変化しやすい、なので昔話は変化してしまった物語になります。

たとえば一つ目小僧、
あれは『日本書紀』などの神話では天目一箇神アマノヒトツカノカミという鍛冶屋の神でした。
鍛冶屋は炉の炎を片目で見つめ続けます、そのために片目を痛めて隻眼=一つ目になることも少なくありませんでした。
また火を熾すフイゴを片脚で踏み続けるため脚が曲がってしまう=片脚だけが真直ぐなことも多かったと言われています。
そのため鍛冶を司る神である天目一箇神は、片目+片脚は折れ曲がったすがたで描かれます。
ようするに職業病が神格化されたような神です。

で、鍛冶屋は使う金属が採れる鉱山の傍に住むことも多かった。
そして一つ目小僧も山からやってくる妖怪+その姿も天目一箇神の変形バージョン、一つ目で一本足なワケです。

こういう原典&原点、神話と昔話にどんな関係があるのか?
っていうのを考えることになった最初が、自分には『松谷みよ子のむかしむかし』でした。
この本を読んで『古事記』『御伽草子』『今昔物語集』などに興味がでて古典文学全集を読み、大学にも行くことになったわけです。

物語が変化する、それはヒトの生活の反映です。
生活が変われば気分も変わる、その変化した気分=心が文章にも表れますよね?
それと同じことが古典×昔話でもあるわけです、貴族と庶民では生活も心のあり方も違うから物語も変わるってことになります。

そういう変化は今も作られてゆく小説にも当然のことあるわけです。
たとえば同じ医者の話でも、200年前なら薬草学がメインですが今なら外科手術が多かったりする。
200年前と現在では医者の社会的地位も全く違います、そういう時代の違いが物語にも現れてくるわけです。

なんていうことを学んだから今、ここで自分は小説を書いています。
こういう今の自分の原点は『松谷みよ子のむかしむかし』だから自分にとって彼女は梯になってくれた人です。

My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man : 
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

私の心は弾む 空わたす虹を見るとき
私の幼い頃も そうだった
大人の今も そうである 
年経て老いた時もそうありたい、さもなくば終焉に発とう
子供は大人の父であり、
そして願えるのなら私の生きる日々は 自然への畏敬に充ちゆく涯と結びたい

William Wordsworth『The Rainbow』

ワーズワースの代表作として知られている詩ですが、松谷さんの本と出逢うたび同じことを想います。
彼女は伝承文学の研究書も多く出しているので学生時代も読んだし、今でも学術文庫版で買ったりするわけです。
そんな時いつも小学校の図書室にならんでいた『松谷みよ子のむかしむかし』が懐かしくて、いわゆる初心になれます。

こんなふうに本を通して学ばせてもらう方はたくさんいて、
その方達がひとりずつ亡くなっていくことは寂しいもんです、が、この寂しさも幸福なのかもそしれません。
こんなふうに感謝と尊敬をむけられる人がいてくれることは何か温かくて楽しいです、それだけに惜しまれます。

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文学閑話 another:最近、笑ったこと×南総里見八犬伝

2015-03-02 01:00:00 | 文学閑話散文系
古典文学×WEBマンガ、笑



文学閑話 another:最近、笑ったこと×南総里見八犬伝

久留里城、滝沢馬琴『南総里見八犬伝』の里見家にまつわる城です。
で、この里見八犬伝が連載されていた当時を描いたマンガを勧められて読んだんですけど、

『咲くは江戸にもその素質』

里見八犬伝の登場人物たちに萌えまくりBL連想してしまう江戸の腐女子の話です、笑
BL=衆道?として書かれているんですけど、正確に言えば衆道とBLはかなり意識が違います。

紐帯を高める=忠誠心や連帯感を強めるため、主に武士階級の常識かつオフィシャルな関係が衆道でした。
ようするにバイセクシャルであることが男の常識、逆に女性にしか興味を持てないと性的&精神的に歪だと考えられていたワケです。
たとえば豊臣秀吉は女性のみだったらしく「男に興味がないのは卑しい生まれのためだろうか?」なんて異常だと心配されていたんだとかナントカ。
そういう相違がBLと衆道にはありますが、そこらへんトッパラッてこのマンガは大笑いできます、笑

サクちゃん、カメちゃん、フミちゃんの3人がメインなんですけど、
ああこういう女の子って高校や中学でいたなあーと懐かしくもアリ、こういうのあるなあとか、笑

彼女たちは『南総里見八犬伝』のキャラクターがお気に入りで大好きで、
ことあるごと萌えまくり、物語にまつわる何かを身に着けてご満悦だったり、イラスト描いてみたり、
ってあたりが『南総里見八犬伝』を読んでいると「ああ確かにソウもなるかあ笑」と納得しながら笑っちゃいます、笑
江戸の女の子のファン心理と思春期っカンジです。WEBのCOMICOで連載中、もし興味があったら無料で読めます。

第19回私のおすすめ本ブログトーナメント

ここにマンガのこと書くって初めてですけど、笑
ここ最近ちょっと風邪で体調を崩していたのでマンガで笑ったり+αで気分転換していました。
そんなワケで加筆校正や連載ちょっと遅れていますけど、続き待ってるよって方いらしたらすみません。



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文学閑話:謎×猫、Paul Gallico

2014-09-01 22:00:00 | 文学閑話散文系
That on a wild secluded scene impress



文学閑話:謎×猫、Paul Gallico

『トマシーナ』

っていう小説があるんですけど、ネコの物語です。
この猫は普通のネコとは違う、古代エジプトの女神バステトの化身です。
そんなトマシーナが殺される事から始まる物語はリアルと幻を行き交います、その涯にあるのは「温もり」です。

作者はネコを描いたことで有名な米文学のポール・ギャリコ、
代表作に『ジェニィ』『ネコ語の教科書』『ネコ語のノート』などがあります。

で、『トマシーナ』は小学校低学年のころに知った本なんですけど、
なかなか本屋で見つけられなくて、注文するって手段もあったけれど書店で見つけるってことがしたくて、
それで大学に入ってから或る日ようやく見つけて、やっとあったなーって発見うれしく買ったんですけど、

なぜか消えました、笑

文庫とはいえ分厚くて失くすようなサイズでもなく、
捨てるワケ当然ない、けれど家のどこ探しても見つからないんですよね。

トマシーナ=猫頭人身のバステト神の化身、猫は隅っこ好きだから本も隠れるのか?

なんてファンタジーみたいなコト考えてみたり、
でも結局それ以降は書店でも見つけられないままなんですけど、
そんなわけでイイカゲンWEBで買おうかなとか考えている今日この頃です、笑

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閑話書覧:同居する癒し×内田百

2014-08-26 22:45:00 | 文学閑話散文系
猫、寝子、ねこ



閑話書覧:同居する癒し×内田百

内田百という作家をご存知ですか?

夏目漱石門下の文学者で東京帝国大学独文科を卒業後、
陸軍士官学校や海軍機関学校でドイツ語学教授を務め法政大学の教授になっています。
なんて経歴を書くとドイツ留学+軍医を務めた森鴎外と同系なカンジしますけど、百さんの作風はまた違います。

『ノラや』『クルやお前か』

飼い猫2匹をめぐる随想小説な作品です、
1代目ノラと2代目クルツに対する愛情をひたすら連綿と綴っているんですけど、
とにかく百の人柄がカワイイと思わされる作品で、近代文学で笑っちゃう×微笑ましいといえばコレかなと思います、笑

コレをベースに黒澤明監督『まあだだよ』という映画もあります、
これ自分的には好きな映画ベスト10に入る作品なんですけど、百の人柄と愛情+周囲の人間の温かみがイイです。
静かで穏やかな時間と映像の淡々とした空気×人の感情や願いみたいなものが温度になっている、人間っていいなーと思わせる映画です。

ちなみに内田百の「ケン」は「モンガマエ」+「月」なんですけど、
元はモンガマエに「日」で「内田百間」でした、で、この「」は環境依存文字なので文字化けします。



なんていう作品を描いているかと思えば、
夏目漱石の『夢十夜』を思わせるような幻想小説×ドイツ哲学みたいな作品もあります、

『件』

確か『冥途』に入っている短篇なんですけど、
人面牛身の「件=クダン」という妖怪というか珍獣になってしまった男の独白です。
大学の講義でとりあげられて読んだんですが、漱石の幻想系に連なりながら理知的な空気が独特。
なんとなく不思議空気で非日常感を味わいたいなっていうならおススメかもしれません、

が、個人的には『ノラや』の方が好きです、笑

にゃんにゃん 第55回ブログトーナメント



なんてかんじに気分転換に文学紹介してみました、笑

第78話「冬暁10」冒頭UPしました、加筆校正またしていきます。
Aesculapius「Chiron10」加筆ほぼ終わりました、当初の倍になっています。
第78話「冬暁9」校了しています、Favonius「少年時譚37」あと少しで校了します。

取り急ぎ、



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