萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第33話 雪火act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-01-31 23:55:42 | 陽はまた昇るside story
てのひら、温もり、守ること




第33話 雪火act.6―side story「陽はまた昇る」

かすかな午睡にまどろんで英二は目を覚ました。
窓からふる今日最後の陽光が、透明な朱色ゆるやかに白いベッドカバーを染めていく。
きっと17時前だろう。ベッドサイドへ長い腕を伸ばしてクライマーウォッチをとると、予想通りで微笑んだ。
抱きしめている懐には温かな鼓動と穏やかな寝息がやさしい、微笑んで英二は寝顔を覗きこんだ。
なめらかな周太の頬には涙のあとがある、けれどかすかに紅潮した頬は微笑んで幸せそうに眠っている。
幸せそうな微笑はきっといい夢を見てくれている、やわらかに微笑んで英二は見つめた。

―…ごめんね、周太…俺の所為で、泣かせちゃったね?

今日、周太は弾道の鑑識実験で国村と射手を務めた。
そしてザイル狙撃の銃座で国村と2人になった時、国村に向けて威嚇発砲をした。
威嚇発砲の理由は、英二の意思に反する体の関係を国村が強要しないことを約束させる為だった。
その発端は富士山の遭難救助で国村が受傷したことだった。

遭難救助中に発生した雪崩で国村は受傷した、けれど雪に埋没したことで怪我は治癒されていた。
けれど生粋の山ヤとして誇り高い国村は「山」に怪我を負わされたことを恥じ、人に知られることを拒んだ。
だから国村は自分の山ヤの誇りをかけて英二に黙秘を望んだ。
そして、もし黙秘を破れば裏切りの代償として英二の体を奪う宣言をした。
そんなふうに国村は英二への絶対的信頼と自分の誇りを示した、それは我儘なほど誇り高らかに自由で愉快でまぶしかった。
そういう国村の誇り高さが英二は好きだ。

最高のクライマーの素質まぶしい国村は、最高の山ヤにふさわしく誰より誇り高い。
そうした誇らかな山ヤの自由に生きる国村は、物事に捉われず明るい怜悧な目で真直ぐ見つめて的確に判断ができる。
そんな国村は人当たりは良くても本当は直情的で熱が高いだけ誇りも高く、心から相手を信頼することは難しい。
だから国村は自分とよく似た英二を生涯のアンザイレンパートナーに選び、世界の高峰を踏破する夢を懸けて友人になった。
そういう国村は英二にとっても似ているだけ理解できる、そして国村も英二の全てを理解し笑わせてくれる。

そんなふうに国村は英二の最高の友人でアンザイレンパートナーでいてくれる。
そんな国村の誇り高さは英二は本当に好きだ、山ヤとして憧れ友として楽しい。
最高の山ヤの誇りのままに、ずっと誇らかな山ヤの自由に国村には生きてほしい。
この国村の自由を守るためにも英二は、自分が最高のレスキューとして共に最高峰へ登ろうと決めた。
どんな山の状況でも国村を支えて必ず無事に登頂させる、そして必ず無事に一緒に帰るために最善を尽くしたい。
だから英二は本当は、国村の誇り高い心が癒されるなら体くらい構わないとも思っていた。

英二はずっと外見ばかり見られて求められてきた。
だから体の関係なんて忘れたほど多くの相手と重ねてしまってきた。
その場を楽しませて満足させてやればいい、そんな刹那でも自分が「必要」とされることが少しだけ嬉しかった。
上辺だけ外見だけのことは全てが虚しくて、寂しくて哀しくなるだけだった。
それでも孤独が刹那でも忘れられるなら構わない、そう思って求められるままに体を提供していた。

けれど英二は周太に出会った。
周太だけが真直ぐに英二の目を見つめて、素顔の英二を見つめてくれた。
そして英二も周太の素顔を見つめてしまった、見つめた周太の痛みと一途な想いと純粋無垢な心に恋をした。
初めて自分から恋をして、求めて、全てを周太に捧げてしまいたいと願ってしまった。
だからもう体も周太だけにしか与えないと英二は決めて、他には欠片も与えなくなった。

国村も英二の大切な存在になった。
最高の友人で唯ひとりの生涯のアンザイレンパートナー。
似た者同士の親友は互いに誰より理解し合うことが出来る、いちばん気楽で、いちばん援けあえる相手。
そんなふうに国村と互いに大切になっている、それは周太への想いとは全く違う。
周太のことは全てが欲しい、誰にも欠片も渡したくない。周太の全てを自分だけが独占していたい。
だから周太が誰かに笑いかければ嫉妬する、自分だけ見つめて欲しいなと想ってしまう。
けれど国村にはそうは想わない。
ずっと横に立って一緒に笑って山に登り生きていけたらいいと思う。
でも全てを独占したいとは想ったことが無いし、自分だけ見つめて欲しいとも思わない。
これは国村も全く同じように考えていると英二には解る。

これも国村と英二が同じだと解るのは、心と体はある意味で別ごとだと考えていることだった。
国村は美代を恋し愛して「特別な存在」として大切にしていても、裏切りの代償とはいえ英二に体を要求できる。
それは美代と英二は全く違うけれど大切で「特別な存在」だからこその国村の言動だろう。
美代に対しては恋愛と伴侶としての繋がりで求めている。
そして英二に対しては信頼と夢の相方として、男として生きる愉しみを共にする相手でいる。
そういう男っぽい国村の考え方は英二にはよく解る。

だから国村が「最高に楽しめるんじゃない?」と誘ったことも英二には面白かった。
いわゆる体の愉しみごとに男として興味がある、その程度は男だったら嗜み的に考えることも珍しくない。
それでも国村にとっては相手は誰でもいいわけじゃない。誇り高い国村はそんな安手ではないことを英二は知っている。
まして国村には美代がいる、そして周太のことも大好きで大切に想っている。
だから国村だって簡単な気持ちで誘いをかけたわけじゃない。

国村は大切な「山」に懸けた自分の誇りを守ることを、唯ひとり山の相方である英二にも協力してほしかった。
いちばんの友人で大切な「山」の唯ひとりのパートナーだからこそ国村は、傷つけられた誇りも全て英二に曝け出して見せた。
そうして傷つけられた誇りを見せた以上は、誇りを守るための協力を体を使ってでも求めたい。
なぜなら山ヤにとって自分の体は「山を登る自由」を得るため大切にしたい、だから英二は国村が受傷した時は真剣に処置をした。
そうした「山を登る自由」のための山ヤの体だからこそ、国村は自分の山ヤの誇りを裏切る代償として英二に体を要求した。
そういう国村の気持ちが英二にはよく解る、それくらい自分たちには誇りと信頼は大切だから。

国村は「山」が一番大切なもの。
だからアンザイレンパートナーである英二も唯一に大切にしている。
だからこそ国村は周太の危険に立つ英二を放っておくことが出来ない。
まして国村は周太自身も大切に想っている、だから国村は英二も周太も守ることを決めてしまった。
きっと夏が来て本配属になれば周太の危険な運命が動き出す、国村にも危険を分けてしまう事になる。
けれどほんとうは国村は「山」だけに生きるべき最高のクライマー、そのことを英二はよく解っている。
それでも国村は自分の誇らかな自由を懸けて、英二と共に立つことを選んでくれた。

そんな国村の誇り高さも軽やかな覚悟も本当に好きだ、そして感謝している。
だから国村の誇りが守れるなら、自分の体を使ってもいいと想っていた。
それに男の本音を言えば「イイ条件が揃い過ぎだよ?たぶん最高に楽しめるだろうな、もう癖になるくらいにね」
と、国村が笑って言っていた。これがどんなものなのか興味もちょっとあった。
もう自分は周太のものだから、心が伴わない「体だけ」のことはするつもりが無い。
けれど相手が国村だと単なる「体だけ」では無い、それは国村も同じ考えでいるだろう。
もう自分は全てを周太に捧げた、けれど周太と国村と両方を守れるなら、体くらい使っても良いかなと想っていた。

そんなふうに英二はある意味、自分の体については頓着が少なかった。
だから周太に国村から「既成事実」で脅かされた話もしてしまった。
それは周太がどれだけ衝撃を受けるのか、その度合いを測り間違えてしまった所為だった。

「まったくダメだね?ほんとバカだよ、この男はさ」

そう言って国村は英二の額を小突いて笑いながら諌めてくれた。
たしかに国村は英二に裏切りの代償には体を要求した、けれど英二が周太に話すとは国村も思わなかった。
周太は自分たちと同じ23歳の男だけれど、心は10歳のまま純粋無垢な周太には「愉しみごとの男の興味」など通用しない。
そして生粋の山ヤである国村独特の、山ヤの「誇り」と「山に登る自由」を懸けた代償要求だとは、山ヤでもない周太には解らない。
そのことを解っているようで英二には解っていなかった。

「たった一度だけの想いなんだよ、ほんとうにね、おまえしか見つめていないんだ。
 だからさ?少しだって傷つけたくないんだ、一番きれいにしておきたいんだよ、おまえのこと」

そんなふうに国村は英二に周太の気持ちを教えてくれた。
そういう周太を国村は大好きでいる、だから国村は周太を傷つけたくはない。
だから国村は周太をエロトークでいつも転がしていても、本当に英二と関係を持つなら当然にそれは黙秘する。
そんな国村は美代に対しても「愉しみごと」は黙秘している、だから英二も周太に黙秘すると当然に思っていた。
それを英二は、そこまで深く考えずに周太に話してしまった。
そして周太を追いつめて、泣かせるような事になってしまった。

―まもりたかった 英二のこと 傷ついてほしくない きれいでいて?

周太が全てを懸けて英二を守ろうとしたこと。
そこまで周太が英二を想って行動してくれたことが、英二には驚きで、心から嬉しかった。
たかが自分の体だと英二は想っていた。
ずっとただ外見だけ求められて体を使われて「用無し」になれば捨てられてきたから。
それを周太は全てを懸けてまで守るほど、心から大切に想ってくれた。
こんなふうに誰かが自分の体を心から大切に想ってくれる、そんなことを英二は考えたことが無かった。

―…ね、周太?どうしてそんなにね、俺のこと想ってくれる?
   俺なんて、いろんな人間に体を触られてきたんだよ…俺は周太みたいには、きれいな体じゃない
   それなのに周太は、あんなふうに言ってくれるんだね…傷ついてほしくない、きれいでいて、って

自分の腕のなかで眠っている、やさしい純粋無垢なひと。
きっと今朝沢山の約束をくれたのは、国村に銃口を向ける覚悟をしていたから。
最後になるかもしれないと、きっと形見の様に幸せな約束を贈ってくれていた。
純粋無垢なままに強く真直ぐ立って生きている、ほんとうに美しい、きれいな周太。
そんな心のままに周太は英二を真直ぐに愛してくれている。

「俺に拳銃を向けた湯原はさ、かっこよくて、きれいで見惚れたよ?おまえへの想いがあふれてた」

そう笑って国村は教えてくれた。
ほんとうに今こうして見惚れてしまう、そして幸せだと心から想える。
外見ばかり体ばかり求められてきた自分、けれど周太は心を見つめて恋して愛してくれた。
そして心を大切にするように体まで大切にしてくれた、それは自分には考えられない幸せだった。

―ね、周太?ほんとうにね、うれしいよ…ありがとう

ねむる周太を見つめる英二の目から、ひとしずく涙がこぼれ落ちた。
ずっと自分が周太を守っていると想っていた、けれど、ほんとうに守られているのはどちらだろう?
ねむりにつく前から繋いだままの自分の左手と周太の右掌。
すこしちいさな周太の掌、この右掌でほんとうは嫌いな拳銃をとって、英二を守ろうとしてくれた。

「…ありがとう、周太。愛してる、」

きれいに笑って英二は周太の右掌にくちづけて、そっと髪をかきあげ額にキスをした。
キスをして、しあわせにあふれる涙がこぼれて、しずかに周太の瞳に自分の涙がふりかかるのを見つめた。
そして長い睫がかすかにふるえて、ゆっくり黒目がちの瞳が披いてくれた。

「ん、…えいじ…おはよう、英二?…」

きれいな笑顔が英二を見つめてくれる。
うれしくて幸せで英二は笑いかけた。

「おはよう、周太?俺の花嫁さん、…ほんとに周太、きれいだね?」

見つめる想いの真ん中で、きれいな気恥ずかしげな笑顔がひとつ咲いた。
そんな初々しい笑顔が英二は好きだ、うれしくて英二は笑いかけた。

「恥ずかしがりだね、周太は。でも、そういうとこ俺、ほんと好き。かわいい周太、愛してるよ」

幸せに笑って英二は周太にキスをした。
キスをして見つめて、瞳を覗きこんで英二は笑いかけた。

「周太、具合どう?辛いとことか痛いところ、ある?」
「ううん、だいじょうぶ。ありがとう、英二…眠れたから、楽だよ?」

返事しながら微笑んでくれる顔が幸せそうで、元気そうでいる。
心も体も楽にしてあげられたかな?うれしくて英二は笑って訊いてみた。

「よかった、周太が元気でうれしいよ。周太、もうすこし眠りたい?それとも風呂入る?」
「ん、ふろ入るね…それで、コーヒー淹れてあげる」
「周太のコーヒー嬉しいな。じゃあ、周太。おかえしにね、抱っこしてあげるよ」

言いながら英二は周太をシャツでくるみこんだ。
そのまま抱きあげて歩きながら、英二は額をくっつけて笑いかけた。

「ね、周太?また一緒に風呂はいったら、嫌?」

言われて気恥ずかしげに頬が紅潮していく。
それでも周太はそっと言葉を押し出してくれた。

「…きょうは、いいよ?…」

限定つき解除、それでも充分うれしい。
きょうと昨夜の周太は大きく心を揺らされた、そして不安や涙のはざまで覚悟をしてくれた。
そんな周太は不器用で23歳として幼すぎるだろう、けれど純粋無垢な美しさは誰が否定できるだろう?
そしていまきっと周太は英二の腕に心から安らいで、ふろでも一緒にいることを頷いてくれた。
腕に感じる周太の安らぎが心から嬉しい、英二は幸せに笑って浴室の扉を開けた。

ふろと着替えを済ませると周太はコーヒーを淹れてくれた。
いつものように芳ばしい湯気がゆるやかに部屋を充たしていく。
ゆっくり湯がフィルターを透っていく音がやさしい、その音を英二は周太の肩越しに聴いていた。
そんな英二に遠慮がちに周太が振向いた。

「あのね、英二?…台所のことしている時はね、あぶないから…すこし離れていて?ね、年明けに家でも、お願いしたよね?」
「うん?周太、ここは台所じゃないよ?火も無いし包丁だって使っていない。問題ないよね、周太?」
「でも、お湯は熱いよ?…あぶないと思う」

ほんとうは周太は気恥ずかしくて仕方ない。
だから緊張して英二に見られることを避けたくて「お願い」しようとしている。
そんなこと解っているけれど、英二は傍にいたくていつも解らないフリをしてしまう。
離れたくないよ?そう目で言いながら英二は淹れ終わったマグカップを持った。

「ほら、周太?もうコーヒー出来たよ。ありがとう、周太」
「あ、…はい、」
「かわいいね、周太は。ほら、座ろう?」

笑ってソファに落ち着くとコーヒーを飲みながら、買ってきておいた食事をひろげた。
のんびり早めの夕食を摂りながら、英二は富士山の話を始めた。

「吉田大沢ってところがあるんだ。そこはね、今の時期は雪上訓練にちょうどいいんだよ?
でも雪崩には気をつけないといけない場所だ、特に今は表層雪崩が多いからね。昨日の朝も、そこで雪崩が起きた」
「ん、…エリアニュースで俺も、見たよ」

ふっと黙り込んだ周太の顔を覗きこんで英二は笑った。
そんなふうに沈まないで?そっとキスをしてまた英二は口を開いた。

「あのときはね、もう下山する寸前だった。で、山小屋のおやじさんに挨拶に行ったんだ。
そしたらね、ちょうど遭難救助の要請電話をおやじさん、受けている最中だった。
あの状況ではね、周太?おやじさん1人に行かせたら、二次遭難の可能性が高かった。
それに何よりもね、俺も国村も山岳救助隊員として放り出せなかったんだ。そして山ヤの誇りに懸けて救けたかった」

「ん、…山ヤさんのね、そういうの、お父さんから聴いてる…相互扶助っていうんでしょ?」

「そうだよ、周太。もうあのときはね、雪崩が起きるカウントダウンだった。
そして救助者の人がいるところは、雪崩が起きたら風に巻きこまれるポイントだったんだ。
だからすぐに行って救けなきゃいけなかったんだ。雪と風が強かった、ホワイトアウトも起こしかけていた。
それでね周太?俺たちは初めてきちんとアンザイレンを組んだんだ。そのお蔭で国村を救けることが出来たんだよ」

アンザイレンパートナーを組めば、万が一のとき相手の体を支えなくてはいけない。腕一本で2人の体重を支える可能性もある。
その為には互いに同じくらいの体格と体重、そして同等の力量が求められる。
だから体格が大きい英二と国村は簡単には自分のパートナーを選べない、まして最高の力量を持つ国村は尚更だった。
そんな国村は英二の力量について将来性を信じてくれている、その英二の力を引き出すために国村自身が指導してくれる。
そういう自分と国村は富士山で初めてアンザイレンを組んだ。その時を思い出しながら英二は微笑んだ。

「救助者を俺が背負っていた、それで国村はね、俺をザイル確保してくれていた。
そこへ雪崩でおきる強い風が吹き始めた。すぐピッケルを使って雪と風に体を支えたんだ。
けれど飛ばされた雪の塊が国村に直撃したんだ、そして国村はピッケルごと飛ばされた。それぐらい強い風だった。
でもアンザイレンザイルと確保用のザイルで俺と繋がれていたから、あいつは滑落しないで済んだ。
そして俺もね、周太?あいつを救けたくってさ、だから自分は飛ばされないぞって頑張れた。周太のこと想いながらね」

「…俺のこと?」

オレンジのデニッシュを食べかけて周太は英二を見あげた。
その口もとにかけらが付いているのを気がついて、英二はキスでとって微笑んだ。

「そうだよ、周太。あの時の俺はね、周太の笑顔をずっと見つめていた。
真っ白な視界のなかでさ、ピッケルを握りしめる自分の手を見つめながらね、心はずっと周太のことを見つめていたんだ。
そうやって俺はね、周太?絶対に帰るために耐えろって自分を応援したんだ。周太の笑顔の隣に帰りたい、それだけだったよ」

「…俺のこと、忘れないでいてくれた?」

見あげた黒目がちの瞳が英二を見つめてくれる。
きれいに笑って英二は周太の額にキスをした。

「もちろんだよ、周太?俺はね、いつだって周太のことばっかりだ。
山小屋でも、頂上でだって、周太のことばかり考えてた。それで国村にね、『おまえ嫁さんのことばっかりだなあ』って笑われた」

「頂上でも?…山小屋でも、…いつも?」

見つめる黒目がちの瞳がすこし水の紗に揺れている。
泣いてしまうのかな?そんな瞳が愛しくて英二は見つめて微笑んだ。

「そうだよ周太、最高峰の頂上で周太を想った。
山小屋の夜にも周太のこと想って、周太のことばっかり話したよ?
俺はね、周太?最高峰にいても、夜も昼も朝も、ずっと周太のことばっかりだったんだ。
周太が贈ってくれたクライマーウォッチを見つめてね、周太は何しているかなあってさ?つい、考えてた。周太ばっかりだ」

「頂上で…夜も昼も朝も、…うれしい、な」

黒目がちの瞳が微笑んでくれた。
微笑んで涙がこぼれて、きれいな幸せに笑ってくれた。
そして見上げた英二の頬にそっと掌を添えて、やさしいキスを重ねてくれた。
やわらかな温もりとオレンジの香がふれて、あまやかな幸せが心にふれおちる。
しずかに離れて周太は、きれいに笑った。

「英二…俺の想いを、最高峰に連れて行ってくれたね、…ありがとう」

最高峰へ連れて。
自分は最高峰に唯ひとりの人への想いを抱いて登った。
それをきちんと解って貰えて幸せで、英二は微笑んだ。

「うん、周太。ずっとね、周太の想いと俺、一緒にいたんだ。だから頑張れた、そしてね、見つめた世界は美しかったよ」
「日本の最高峰の、世界?」
「そうだよ、最高峰の世界。冬富士はね、エベレストと同じ気象状況なんだ。
山頂の気圧は標高4,000mって言われている。そうやって日本ではいちばんの最高峰に冬富士はなるんだ。
そこはね、周太?雪の白銀と、青空と。蒼い雲の翳だけの世界だった。とても静かで、世界は人間のものじゃないって解った」

一昨日の昼に見つめた、最高峰の世界。
熟練クライマーすら命を落とす冬富士が魅せる、雪の最高峰の荘厳な世界。
あの場所に自分はまた立ちたい、そんな思いがいまもう起き上がっている。
あんな雪崩に遭って大切な友人は生命の危険に晒された、それでもまた立ちたいと願ってしまう。
こんな自分は本当に懲りていない、それどころか魅せられてもう離れられないでいる。
けれどまた周太には心配をかけるのだろう、でも自分は立ってしまうだろう。
その許しが欲しくて英二は、周太の両掌をとると穏やかに唇をよせた。

「周太、俺はね?またあの場所に立ちに行きたい。周太の想いを抱いて、最高峰へまた立ちたい。
あの雪と空だけの世界に立つこと。きっとずっと、生きている限り望んでしまうと思う。
国村の為だけじゃなく、自分の望みとして、あの場所に生きたい。周太には心配をかける…でも、どうか許してほしい」

想いを告げる英二を真直ぐに周太は見つめてくれている。
黒目がちの瞳はもう、ひとつの勇気と意志と覚悟を映して微笑んでくれている。
こんな美しい瞳で周太は自分を見つめてくれている、幸せに笑って英二は言葉を続けた。

「周太、あらためて約束する。
最高峰から周太への想いをずっと告げ続けるよ、そして必ず無事に周太の隣へ帰る。
俺は笑って山へ登るよ、そして必ず周太の隣に帰る。そうして俺は周太にね、今みたいに山の話をするよ。
そうやって俺は山ヤとして生きたい、周太を守って、ずっと周太を幸せに笑わせて、ずっと周太の隣で生きていきたい」

どうかお願いを聴き届けてほしいよ?
そんな想いで見つめる真ん中で、美しい瞳がおだやかに笑ってくれる。
そして周太はきれいに笑って言ってくれた。

「はい、英二…ずっと俺の隣に帰ってきて?そして、山の話を聴かせて?
そして時々はね、俺も山へ連れて行って?英二が見る世界を俺も見に行きたいんだ…
最高峰とかは無理だろうけれど、でも、そのクライマーウォッチが俺の代わりに、英二の立つ世界を見てくれる。
だから一緒に連れて行って、俺のこと想いだして?…英二を信じて、ごはん作って待っているから、帰ってきて?
そしてずっと英二の隣で生きていたい、英二の帰る場所でいたい…それがきっとね、俺にとっていちばん幸せなんだ」

自分が見る世界を一緒に見ようとしてくれる。
こんなこと誰が今まで自分に言ってくれただろう?
この愛するひとは自分が大切にする想いを一緒に見つめて生きようとしてくれる。
今はまだ一緒に暮らせないけれど、でももう心は寄りそっている。幸せで英二はきれいに笑った。

「うん、…ありがとう、周太。ほんとにね、俺…うれしくて、幸せだよ」

うれしい、そして幸せで。
この幸せを自分は絶対に離さない、だから何があっても自分は周太を守る。
これから周太は失われた父親の想いと軌跡を見つめていく危険に立つ、それでも自分が守りきる。
そして周太の辿る道が終着を迎えた時にはもう、遠慮なく周太を自分の腕へと閉じ込めたい。
そのためには何だって出来る、冬富士の山頂に立ち雪崩からも無事に帰ったように。
そうしてアンザイレンパートナーを援けて遭難者も救ってきたように、自分はこの愛するひとを救っていく。
だからどうか頷いてほしいよ?英二は周太に願いを告げた。

「だから周太?絶対に俺から離れて行かないで?必ず俺には全てを話して、そして俺に周太を守らせて。絶対に、」
「…全てを、話すの?」

黒目がちの瞳がすこし不安に訊いた。
この不安の意味を自分は知っている、それでも一歩も譲るつもりは無い。
どうか自分を信じてすべて委ねて?きれいに笑って英二は周太に告げた。

「そうだよ、周太。今までも、これから先に起きることも、全て俺には話してほしい。
そうしたら周太が望むものはね、全て俺があげる。俺が周太を幸せにするよ?
周太が必要なものはね、全て俺が見つけて周太にあげるよ?だからすべて話して、そして俺に望んで?」

英二の長い指の掌のなかで、すこしちいさな掌が温かい。
ゆっくり瞬くと微笑んで周太は頷いてくれた。

「はい、…全て話します。だから英二…幸せにして?」

よかった。
約束がうれしくて英二は笑って、自分の掌にくるんだ愛するひとの両掌にキスをした。

「うん、周太。絶対に幸せにするよ?ほんとにね、…周太を、幸せにする。
 今もね。ほら、このオレンジのサラダ、たぶん周太好みだよ?食べてみて、周太」

英二の言葉に周太も笑ってくれる。
笑って素直にフォークをサラダへとつけて口に運んでくれた。

「ん。おいしいね、英二?…白身の魚は鯛かな?ケッパーの塩味がいいよ?…英二も食べてみて?」
「うん。俺ね、いちおう試食してみたんだ。あ、やっぱり旨いね、」
「英二も気に入ったんだね、…こんど家でも真似してみる。だからね、英二、…また、玄関を開けて?」

この「玄関」は周太の実家の玄関のこと。
ふるくて温かな清々しい川崎の家、奥多摩の森を模した草木美しい庭のなかに佇んでいる。
この家が英二は好きだ、そして英二の持っている合鍵は周太の父の遺品を譲られたものだった。
そっと英二は自分の胸元にふれた、その指先にはシャツ越しに首から提げた合鍵がふれてくる。
周太の父の遺品である合鍵、そして書斎机の秘密の抽斗のただ一つの鍵は、英二の宝物になっている。
きっとこの鍵で自分は一生、あの玄関扉を開いていく。幸せに英二はきれいに笑った。

「うん、周太。また開けるよ?それで俺はね、周太に『お帰りなさい』って言いたい」
「ん。言って?…俺にね、ただいまを言わせてね?」

そんなふうに笑いあいながら食事を楽しんで、食後にまたコーヒーを淹れてふたりで飲んだ。
まだ19時過ぎの早い夜の時間をゆったり楽しんでいると、周太の携帯がきれいな曲を流した。

「…あ、美代さんから、」

携帯を開いて発信元を見た周太は、英二を見あげた。
美代は昨日、周太に気晴らしのカラオケに行きたいと言ったらしい。
たぶん美代は国村の雪崩の件に感づいたらしい、そんな美代は怒るとカラオケで解消する癖がある。
この電話出てもいいのかな?そんな顔で周太は英二を見あげてくれる。それがまた可愛くて英二は笑いかけた。

「ほら、周太?きっと美代さん、カラオケの話じゃないかな?早く出てあげなよ」
「ん、…いいの?」
「俺は大丈夫だよ?ただし、周太の体が辛くなければ、だよ。それでね、俺も一緒させてって言って?」
「ん、ありがとう、英二」

うれしそうに笑って周太は電話を繋いだ。
周太にとって美代は大好きな植物の話をお互いに遠慮なく楽しめる友達でいる。
そういう友達に周太は初めて出会った、そして美代は国村の幼馴染で恋人として周太と同じように「最高峰を待つ人」でいる。
そんな2人は似ている点も多くて気が合うらしい。それできっと美代は周太を相手に自分のストレス発散をしたくなったのだろう。
そんなところかな?そう思いながら見ている英二の視線の先で周太が電話越しに美代と話していた。

「ん、…いいよ?…そう、…よかった、喜ぶと思う…
 あ、ん、…きっとね、来ると思うよ?…ん、わかるかな?あ、ちょっとまってね、替るから」

周太は携帯の送話口をそっと掌で抑え込んだ。
そして英二を見あげて携帯を差し出しながら、ちいさな声で英二に話した。

「あのね、英二?カラオケの場所、聴いてくれる?」
「うん、周太。解ったよ、ちょっと携帯借りるな?」

笑って答えながら英二は周太の携帯を受けとった。
受けとった携帯を当てて英二は話し始めた。

「こんばんは、美代さん。俺まで一緒して、大丈夫?」
「宮田くん、こんばんは。こっちこそ、ごめんなさい…せっかく二人でいるのに、邪魔しちゃう、ね?」
「いや、気にしないで良いよ?さっきもね、いっぱい周太を見つめて充たされているからさ。場所、どこ?」
「うん、…ごめんね、宮田くん?でも、甘えちゃうね?場所はね、河辺駅の近くなんだけど…」

気恥ずかしげで遠慮がちな雰囲気が周太と似ている。
いま美代はどうしても、気の合う周太と会って話してカラオケで発散したいのだろう。
その事情を知っているだけに英二は頷かざるを得ない、それに英二自身も美代を好きだった。
あの国村の山の峻厳と男論理で構築されたルールに、女の子でついていくのは大変だろうな?
それだけでも尊敬に値すると思いながら英二は微笑んだ。

「ああ、そこら辺なら解るよ。大丈夫。何時にどこで待ち合わせる?」
「うん、…もうね、河辺駅にいるの。ごめんね?湯原くんとお喋り、どうしてもしたくて、…来ちゃいました」

なんだか話し方もどことなく周太と似ている。
可愛くて可笑しくて英二は微笑んだ。

「大丈夫だよ?じゃあね、近くにベーカリーカフェがあるだろ?そこで待ってて、仕度したら行くから」
「あ、そこなら知ってる。ごめんね?…ありがとう、宮田くん」
「気にしないでよ?じゃ、あとでね」

携帯を閉じて英二が振り向くと、周太は部屋着のシャツから着替えを済ませていた。
あわいブルーとボルドーのボーダーニットに、キャメルベージュのスリムカーゴパンツを合わせてある。
どちらも英二が選んで周太に贈った服だった。
あわい綺麗な色が映えて可愛い、長めの袖もいいなと微笑んで英二は周太の頬にキスをした。

「かわいい周太、似合ってるよ?服、着てくれてうれしいな」
「ん、ありがとう…あの、カラオケ、ごめんね?英二」
「どうして周太が謝るんだ?」

英二も白シャツを寮から着てきたボルドーのニットに着替えながら周太を振向いた。
振向いた先で周太は英二の方を見ないで、ダッフルコートを抱えこんでいる。

「ん、…英二に逢いに来たのに、美代さんとね、約束しちゃったし…」
「気にしなくていいのに?だって2人とも、会いたかったんだろ?」
「ん、そう。本の話とかもしたくて…それに美代さん、昨日の電話とか、哀しそうで…」

きちんと話しながらも周太は英二の方へは顔をあげない。
こんなふうに周太は英二が着替えているとき、いつも視線を逸らしている。けれど3か月半前までは違っていた。
こんな初々しい様子もかわいいなと思いながら英二はチャコールグレーのカラージーンズに外していたベルトを通した。

「はい、周太?お待たせ、着替え終わったよ。行こうか?」

ブラックミリタリージャケットを羽織りながら英二は周太に笑いかけた。
そして周太の右掌を左手にくるんでジャケットのポケットに入れると、扉を開いて出掛けた。

「ほら、周太?マフラーちゃんと巻こう?」
「ん、ありがとう…なんかね、上手に巻けないんだ、俺」
「周太、ほかは器用なのにな?でもそういうの、かわいいよ」

雪道を話しながら歩いてカフェに入ると、窓際の席で美代はマグカップを前に本を読んでいた。
美代を見つけると周太は、気恥ずかしげに笑いかけた。

「美代さん、こんばんは…それ、あのテキストだよね?」
「あ、こんばんは湯原くん。そう、話していたやつよ?よかったら貸してあげようと思って。読むかな?」
「ん。読んでみたいな、借りていいの?」
「嫌なら言わないよ?はい、これ袋も良かったら使ってね」

さっそくソファに並んで座るとテキストの話で盛り上がり始めた。
周太がこんなふうに話すのは英二は他で見たことが無い。
よほど波長が合うのだろう、楽しそうな様子に英二は微笑んでカウンターへと行った。
そしてコーヒーとオレンジラテをトレイに載せてソファへ戻った。

「はい、周太?オレンジラテだよ」
「あ、ごめんね?英二、俺だけ座ってた…ごめんなさい」
「気にしない、お喋り楽しいんだろ?これ飲んだらさ、カラオケ行こうか?ね、美代さん」

コーヒーを飲みながら笑いかけると美代が笑ってくれた。
きれいな明るい瞳で笑いながら英二に頷いてくれた。

「うん、ありがとう…ごめんね、お邪魔しちゃって」
「いいよ?あとでまた周太とのんびりするし、」

いつもどおり美代はきれいなあかるい瞳をしている。
けれど国村に怒っていると聴いている、きっと美代の明るい性格の通りに怒り方も明るいのだろう。
でもどんな曲を歌うのかな?ちょっと楽しみだなと思いながら英二はコーヒーを飲んでいた。

19時半ごろ店を出て歩きかけると、携帯が振動して英二はポケットから取り出してみた。
たぶんそうかなと思って開くと、想った通りの送信名だった。
楽しそうに話しながら並んで歩いている周太と美代を見ながら英二は、携帯を開いた。

「はい、おつかれ?」

ちょっと笑って声を掛けると、電話の向こうでも笑った気配がする。
きっと自分の今の状況が可笑しいのだろうな、そう思っていると国村が口を開いた。

「おつかれ、宮田。今って河辺駅の近くだろ?」
「うん、よくわかるね?たぶん国村が思ってるカラオケ屋に今、行くとこだよ」
「あー、やっぱり美代怒ってるんだ、困ったなあ、ねえ?」

からり笑っている電話の向こうで登山靴が雪を踏む音が聞こえる。
たぶんもう近くに国村もいるのだろう、英二は笑った。

「もう近くにいるんだろ?これから店はいるよ、」
「おう、いま入口にいるのって、宮田だろ?」

言われて振り返った視線の先に、白いミリタリーマウンテンコート姿が雪道に現れた。
底抜けに明るい目で笑いながら携帯を閉じると、英二の横へ国村は並んだ。

「もう、ふたりは店の中か?」
「うん、いま受付中かな。ほら、行くぞ、」
「あーあ、怖いねえ、困ったなあ」

からり笑って国村は英二と一緒に自動ドアを通った。
そして美代と周太の後ろに立つと飄々と声を掛けた。

「おつかれさん、ふたりとも。美代、昨日は天気予報、見てた?」

国村の声に2人が振向いて国村を見上げた、そんな様子がなんだか可愛い。
可愛いなと微笑んだ視線の先で、美代が明るく笑って口を開いた。

「おつかれさま、見たけど?ね、湯原くん行こ、早く歌おう?」
「ん?…まって、美代さん…国村、おつかれさま?…あ、えいじ、」

美代にダッフルコートの袖を掴まれて周太は連れて行かれてしまった。
きっといま周太は困っているだろうな?連れ去られた婚約者を気遣いながら英二も歩き出した。
横を見ると国村は飄々と笑いながら英二に言った。

「やっぱり美代、雪崩に勘づいちゃってるね。あーあ、困ったなあ、めんどくさいなあ」

怖いなあと言いながら愉しげに国村は笑っている。
ちょっと呆れながら英二も笑ってしまった。

「おまえさ、ほんとうは困っていないだろ?」
「うん、まあね。さ、宮田?今から俺がどうするか、おまえなら言わなくても解っているよな?」

ふたりが入った部屋の番号を目視確認すると、底抜けに明るい目が愉しげに英二を見た。
さっきここまで歩いてくるとき、非常階段があるのを英二は確認している。
そして国村は武蔵野署の射撃訓練が「めんどくさいな」の時はどこへ逃亡するのか?
仕方ないなと笑って英二は答えた。

「ちょっと2人に声かけてくるよ?そしたらさ、屋上につきあってやるな」

英二の答えに満足げに細い目が笑った。
笑った口もとを愉しげに開いて国村は急かし始めた。

「5秒で済ませろよ?俺は早く高上りしたいんだ、ほら、1、」
「うん、すぐ済むよ?」

そんなふうに急かされ英二は美代と周太に声を掛けてから、国村と屋上へ向かった。
非常階段を上って扉を開けると、冬の夜の冷気が頬を撫でて吹き抜けていく。
屋上に積もった雪を踏んで鉄柵まで行くと凭れて国村は笑った。

「さて、お姫さまたちの気が済むまでさ、ここで俺たちはデートだね」

底抜けに明るい目は愉しげに夜空を見上げている。
英二も見上げてみると透明な紺青の天球いっぱいに星々が煌めいていた。
後で周太にも見せてあげたいな?いまカラオケを聴かされている婚約者を思いながら英二は微笑んだ。

「星きれいだな、明日も天気良いかな?でもすこし湿気があるな」
「だね。ま、明け方に雪が少し降るかもな」

凭れた鉄柵の冷たさが体温で温められていく。
その温もりを感じながら英二は、周太を追いつめて国村に銃口を向けさせたことを詫びたいと思った。
英二はある意味、自分の体については頓着が少ない。だから国村から「既成事実」で脅かされた話も周太にしてしまった。
それに周太がどれだけ衝撃を受けるのか、その度合いを測り間違えてしまった。その所為で周太を強硬手段に追い込んでしまった。
そんな自分の判断ミスを謝りたい。星ふる夜空を見上げながら英二は、ふっと口を開いた。

「ごめんな、周太のこと。俺の所為だ」
「うん?まあ、そうだね。おまえの所為だな、反省しろよ?」

さらりと肯定して国村は笑った。
こんなふうに軽やかに受け留める国村の大らかな優しさが英二は好きだ。
うれしいなと思いながら英二は言葉を続けた。

「うん、…俺さ、俺の体のことで、あんなに周太が考えてくれるって思っていなかった。
だから周太に国村の『既成事実』の話をしたんだ、あんなに周太を追いつめるなんてさ、俺、解らなかった。
周太と出会うまではね、俺は、色んな人間に体を触らせては捨てられてきた。
だから俺、周太が俺の体のことをね、あんなに真剣に考えてくれて…驚いた。そしてさ、うれしかったよ」

「だろね?おまえはさ、そうだろな」

底抜けに明るい目で英二を見て国村が明るく笑ってくれる。
笑いながら温かく目を細ませて言葉を続けてくれた。

「ほんとは、おまえさ?体を使って愉しんでも良いと思ってるだろ?」
「うん、そうだな。その通りだよ、国村。今は俺もう、周太しか欲しくないからさ、他に興味が無いだけだ。
でも正直言うとね、国村?おまえが最高に楽しめるんじゃないって言ったときはさ、ほんとは興味がわいたよ?」

素直に英二は笑って答えた。
そうだろね?と目で笑って国村は続けた。

「よし。さすがに正直だね、宮田はさ?
ま、そんなふうに俺たちはさ、体を愉しんで良いって考えるよな?
でもそういう考えばかりじゃないよ。で、湯原は性格も純粋で清純だろ、そのうえ心が10歳のままだ。
さ、考えな?自分が10歳の時どうだった、気持ちイイからって理由だけでヤれた?エロ本を罪悪感なく読めたか?」

「うん…できなかったな、きっと」

ため息交じりに英二は答えてすこし微笑んだ。
自分の配慮が足りていなかった、そんな後悔を繰り返さない為の方法を考えこんでしまう。
そんな英二に国村は温かく目を細めながら言ってくれた。

「ただでさえ湯原は純粋すぎてさ、『愉しみごとの男の興味』だとかは通じないね。
で、さ?『山ヤの誇りと登る自由を懸けた代償要求』なんてね?山ヤでもない湯原には解らないだろ?
だから俺はね、美代にも話さないんだよ。聴かなくていい事、踏み込むべきではない領域があるってことだ。
おまえのバカ正直とクソ真面目はさ、俺も好きだよ。でもな、宮田?時と場合によってはさ、それが傷付けることもある」

「そうだよな。俺ってさ、ほんと解ってなかったな…ごめん、国村」

解らない世界はどうしてもお互いに出てくるだろう、それは違う人間である以上当然のことだ。
本当にいう通りだ、英二は心から頭を下げた。そんな英二に笑って国村は唇の端をあげた。

「ほんと悪いよ宮田?まったくさ、おまえって賢いのに時々バカだよな。
でも銃を構えた湯原、ほんと、かっこよくて美人だったよ。見惚れたね、俺は。
あれは眼福だったな。やっぱり俺、湯原って好きだね。おまえがバカなお蔭でイイもん見れたよ、ありがとな」

俺は全く気にしていない、おまえの気持ちも解っている。
そんなふうに国村は言ってくれている、そういう気持ちが英二は嬉しかった。

「そんなふうに礼を言われるとは、思わなかったよ?でも、ほんとにさ、ありがとな。国村」
「言ったろ?かわいい子がストイックなのはね、色っぽくて俺は好きだね」

誇り高い国村、けれど自分に銃口を向けた周太を許して受けとめてくれる。
国村は自分の誇りを懸けても英二と共に周太を守ることを決めている、だから全て受けとめるつもりでいてくれる。
うれしいなとおもいながら英二は、もうひとつ確認しておきたくて笑って口を開いた。

「なあ、国村?あのとき俺の体を要求したのはさ、俺たち山ヤにとって体は山を登るために大切だからだろ?
だから、おまえの山ヤの誇りを裏切る代償としてさ、俺の山ヤの体を要求したんだよな?
そうやってさ、おまえの山ヤの誇りを守ることをパートナーの俺に協力してほしかったんだろ?違うかな?」

「そうだよ?さすがだね、宮田。よく解っているじゃないか」

満足げに底抜けに明るい目を笑ませて国村は愉しげに笑った。
やっぱり想った通りだったな?すこし微笑んで英二は言葉を続けた。

「うん。それくらい俺たちにはさ、誇りと信頼は大切だから。
俺はね、そんな国村の誇り高さも軽やかな覚悟も本当に好きだよ、そして感謝している。
おまえが誇りを懸けて俺と一緒に周太を守ってくれている、それがね、ほんと嬉しいんだ。
そういう誇り高い国村がさ、軽い気持ちでアンザイレンパートナーの俺に誘いを掛けたりしない。
だから俺はね、国村?おまえの誇りが守れるならさ、俺の体を使っても別にいいかなって本当は想ったよ」

白いミリタリーマウンテンコートが夜風と翻っていく。
雪の屋上で星に目を細めながら国村は底抜けに明るい目で英二を見ている。
もっと言いたいことあるんだろ?そんなふうに眺めて笑ってくれた。英二も笑って口を開いた。

「でも周太が泣いてくれたんだ。周太は本当に心を見つめて愛してくれている。
そしてさ、心を大切にするように体まで大切に想ってくれている。それはさ、俺には考えられない幸せをくれてるよ?
それを国村は俺以上に解ってくれている。だからさ、おまえ周太のお願いをさ、きちんと聞き入れてくれたんだろ?」

「うん、そうだよ?俺はね、無理強いはしないって湯原に約束したよ。だから安心しな、寝込み襲ったりはしないからね」

底抜けに明るい目を温かく笑ませて言ってくれる。
信じていた通りがうれしくて英二は笑った、そしてまた素直に友人へ謝った。

「ありがとうな、国村。本当に、
 今回のこと俺が悪かった。周太の想いを解ってやれなかった俺の甘さが責任だ。ごめん、国村」

率直に英二は頭を下げた。
自分の婚約者の想いもきちんと計りきれなかった。
そんな自分は本当に足りなくて、婚約者もろとも大切な友達まで追い詰めてしまった。
呆れられても仕方ない、そんな想いの英二に国村は唇の端をあげてみせた。

「で、宮田?おまえはさ、どう俺に詫びてくれるつもりなんだ?」

当然、英二も償いをするつもりでいる。
アンザイレンパートナーを仮初でも危険に追い込んだ自分は償わなくては気が済まない。
すこし微笑んで英二は並んで笑っている細い目を真直ぐ見つめた。

「国村の気が済むようにしてほしい、何でも言ってくれ」
「ふうん、何でもいいんだ?」

何言われても仕方ない、そっと英二は覚悟を決めた。
そんな英二を見て愉しげに目を細めると国村は可笑しそうに笑った。

「じゃあさ、宮田?おまえから望んで俺にその体、差し出せよ」
「…は、?」

英二の目が大きくなった。
いまさっき体の件は周太のことで「ばかだよな」とダメだしされたばかりだ。
どういうことだろう?よく解らなくて見つめる英二に国村は笑って教えてくれた。

「だからな?おまえが無理やりにヤられるのがさ、湯原は許せないんだよ。
だからさ、おまえが自分から俺と抱き合っちゃうことを望むんならね、やっても良いんだってさ。どうする?」

「あ、そういうことか、」

思わず英二も笑ってしまった。
英二が望むなら。そんなふうに周太はいつも英二のことを優先してしまう。
もう婚約者なのだから、もっと独占欲を持ってくれても良いのに?それが少し寂しくて、でも周太らしくて可愛い。
そんなふうに一緒に笑いながら国村はなおさら愉しげに言ってくる。

「さあ、宮田?最高の快楽ってやつもね、この俺と初体験したくなったらさ。
その時は遠慮なく言えよ?別嬪でエロいのは大好きだからさ、おまえなら大歓迎だ。
愉しみにしていてやるよ。あとアンザイレンパートナーは一生続けろよ。ま、俺からの要求はそんなとこかな?」

からっと言って笑い飛ばすと国村は膝で英二の太股を軽く蹴った。
すこし荒っぽいけれど解りやすくて安心が出来る、英二は心から笑った。

「うん、わかったよ。国村?ありがとう、アンザイレンパートナー一生やるよ?」
「よし。よろしくな」

笑った向こうには透明な紺青にうかぶ星が瞬いている。
足元に踏む雪が星明りに浮かんでほの明るい屋上から、奥多摩の山が雪に浮かんで見えた。
吹きぬけていく風は冷たいけれど、清々しい大気の流れと同じ想いに英二はきれいに笑った。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第33話 雪火act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-01-30 23:28:42 | 陽はまた昇るside story
※後半1/3R18(露骨な表現はありませんが念のため)

ふるひだまり、掌に想いをよせて




第33話 雪火act.5―side story「陽はまた昇る」


あの銃声は、なんだったのか?

ザイルが狙撃に切れ落ちたあとの最後の一発の銃声。
理由なき発砲は警察官でも許されない、銃は遊びで発砲していいものではない。
あの銃声に不安にさせられる、いったいあの瞬間に銃座ポイントでは何が撃たれたのだろう?

最後の銃声の意味。沈んでいた周太。
そして今朝の自分の捉えどころのない不安。
想いが交錯して嫌なことを考えてしまいそうになって、英二は軽く頭をふった。
ただの思い過ごしであってほしい。それにもし何かあったとしてもきっと、あの国村が周太の傍にいる。

国村は自由人で直情的で豪胆、けれど冷静沈着で怜悧な性質は的確な判断をしてくる。
だから周太がどうあろうとも国村なら無事に連れ帰ってくるだろう。
そう信じている、けれどただ待っているなんて出来なくて英二は自分も登山道へ入った。
冬の陽あかるい雪道を英二は一挙に登っていく。
ぱさりと雪が落ちる音を聴きながら、締雪を踏んで登る道の向こうから話し声が聞こえてきた。

「だからね、湯原?美代はさ、結構おっかないんだよ。それもあって俺、言えないんだよね」
「ん。俺の口からは言わないよ?でもね…たぶん美代さん、気づいてると想うよ?昨日の電話がなんとなく…」
「美代、何て言ってた?」

聴きなれた2つの声。
アイゼンが雪を踏む音も近づいてくる、きちんと2人分。
英二はざくざくとアイゼンに雪踏んで登って行った。

「ん、…気晴らししたいから一緒にカラオケ行こう、って言われて…」
「うわ、カラオケ。まずいね、そりゃ俺、怒られてるな。困ったなあ。で、湯原?俺、そこに参加すべき?」
「ん、…そうだね?きっと美代さん、それを待っているって気がするな…」

雪の道を曲がった所で急に視界が開けた。
白銀におちる木洩陽のなかで国村と周太が銃火器ケースを持って降りてくる。
英二に気がついた周太の黒目がちの瞳が、心から嬉しそうに微笑んで英二を見つめた。

「英二?…迎えに来てくれたの?」

いつも通りの幸せそうな笑顔が英二を見つめてくれる。
周太が無事でいてくれた、笑って見つめてくれた。
大切な大好きな笑顔は壊れていない。はっとため息1つ吐くと英二はアイゼンで雪を駆けた。

「周太!」

駈け寄って小柄な体を抱きしめた。
抱きよせた胸から身じろいで、やわらかな髪の頭がゆれて見上げてくれる。
見あげる黒目がちの瞳が微笑んで、楽しそうに英二に笑いかけてくれた。

「英二、お迎え嬉しい、ありがとう」
「だいじょうぶ、周太?何も無かった?国村になんかされてないよね?」

ほっと息がこぼれてしまう、心配と安堵が充ちて英二は周太の顔を覗きこんで訊いた。
そんな英二に横から国村が思い切り額を小突いて、からり笑った。

「なあ、おまえ?俺になんかされたって、なにをさ?言えよ、宮田」

底抜けに明るい目がいつものように笑っている。
英二は周太をしっかり抱きこんで笑いながら想いを国村にぶちまけた。

「国村ってさ、周太のこと大好きだろ?しかも周太って、かわいいけど色っぽいだろ?
おまえ色っぽいの好きだからさ、変な気を起こしたら困る。手出しされたらって嫌なんだ、俺。
だから俺、エロオヤジのおまえに嫉妬したよ?周太の手を取って一緒に山登れて、羨ましくってさ」

この件は嫌だったよ?笑って英二は国村に率直に話した。
そんな英二に愉しげに笑って国村は細い目を笑ませてくれた。

「あーあ、仕方ない男だね?
 せっかく俺が楽しく湯原とデートしていたのにさ、邪魔しちゃって。嫌だね、嫉妬深くてさ」

さらりと国村は「湯原」と呼び捨てで周太を呼んだ。
英二は周太の右掌を左手にくるんで歩き出しながら訊いてみた。

「なに、国村?周太のこと、『湯原』って呼び捨てにすることにしたんだ?」
「そうだよ?ほんとは名前で呼びたいけどさ、そんなことしたら宮田は怒るだろ?ね、湯原?」

急に話をふられて周太はすこし困ったような顔になった。
けれど微笑んで答えてくれた。

「ん。でも、俺もね?『周太』って呼び方は、英二だけ。だから、だめ」

そんなふうに想ってもらえて幸せで、うれしい。
うれしくて英二は笑った。

「そうだよ、周太。俺だけの呼び方だよ?ほら、国村?おまえはね、美代さん見てればいいの」
「はいはい、仕方ない男だね、ほんとにさ。あー、でも美代なあ、怒ってるんだろな、困ったなあ」

底抜けに明るい目で国村は「困ったなあ」と笑っている。
どうやら富士山の雪崩のことを美代に感づかれたのだろう、英二は訊いてみた。

「雪崩のこと、美代さんに話すか?」
「嫌だね、話すわけないだろ?」

からり笑って当然だろ?と目で言ってくる。
でも「困ったなあ」を連発した癖にな?なんだか可笑しくて見ていると国村が笑った。

「美代はさ。細かいことなんか訊かないよ、でも勘づいたら怒るんだよね。
 で、怒ると気晴らしにカラオケ行きたがるんだ。まあ、めったに無いことだけどさ?俺、怪我したのなんか初めてだしね」
「おまえ、前はなんで怒られたんだよ?」

何気なく英二は訊いてみた。
すると国村の唇の端が上げられて、底抜けに明るい目を愉しげに細めた。

「俺はさ、エロオヤジだからね?ま、イロイロあるんだって。ねえ?」

きっとこれ以上は細かく訊かない方が良いことだろうな?
また可笑しくて英二は笑って言ってやった。

「おまえってさ、ほんと上品な顔のくせに下品だな?」
「おまえだってさ、最高に別嬪のくせにエロだろ。どうせまたこの後もね、湯原にエロいお願いしちゃうんだろ?」
「あ、やっぱり解るんだ?その通りだよ、昨夜はセーブしたからね。あれ、周太、どうしたの?」

繋いだ手がすこし熱くなっている。
そんな周太の頬は赤くそまって俯きながら、ちいさい声で訴えた。

「…ばかえいじそんなことひとにいわないでよ…もうばかしらない…ばか」

真赤になる周太を見て国村が愉しげに笑った。
そのまま底抜けに明るい目でさも嬉しそうに口を開いた。

「ほんとかわいいね、湯原?マジ、宮田の気持ちが解っちゃうな」
「だろ?でも絶対に手出しはダメ。そんなことしたらね、国村でも俺、酷いことするよ?」
「なに、酷いことって何だよ?虐めるってことなら、試してやってもいいよ。意外と俺、マゾもいけるかもしれないし?」

雪の冷気は頬撫でていくけれど、冬の陽があかるくて気持ちが良い。
あかるい陽射しの中を笑って3人で話しながら下山した。

現場の片づけを終えて解散したのは13時だった。
遅い昼を摂ってから青梅署に戻ると診察室で、周太がコーヒーを淹れてくれると提案してくれた。
国村と英二は山岳救助隊服を着替えるために一旦独身寮へ戻った。
着替えを持って浴室に行くとちょうど他は誰もいない、さっと汗を流して浴槽に浸かると英二は国村に訊いた。

「国村、俺には話してほしい。ザイル切断の後、なぜもう1発、発砲したんだ?」

広い浴室には2人以外に誰もいない。
おだやかで低めの英二の声は外に漏れることもない、今は内密の話にはいいタイミングだった。
英二の横で国村は「困ったなあ」と笑って言ってくれた。

「これはね、宮田?内緒の約束なんだ。でもな、俺としては、おまえには話しておきたいよ?」
「当然だろ?俺たちは、アンザイレンパートナーだ。隠し事はしない、何でも話す。そうだったよな?」

いつも国村が英二に言うことだった、それを言われて国村は愉快げに笑ってくれる。
そして温かく細い目を笑ませて、おだやかに口を開いてくれた。

「湯原はね、おまえを守る為に発砲したんだよ」
「俺を?」

驚いて見つめると底抜けに明るい目が笑った。
笑って真直ぐ英二を見て国村は言った。

「おまえとね、『既成事実』を俺が無理やり作ることを止めさせる為だよ。おまえ、昨夜さ、話したんだろ?」
「あ、…」

国村は富士山の遭難救助で怪我を負った。
誇り高い国村は生粋の山ヤとして、山に自分が怪我を負わせられる事は許せない。
だから英二に「喋るな」と口止めをした「喋ったらね、おまえの寝込み襲って『既成事実』を作っちゃうけど」と言って。
けれどその怪我も雪山が治癒の役割を果たしたことで「自分は山に愛されている」と国村の矜持は保たれている。
それも全て英二は周太に話してある、思ったままを英二は話した。

「でも国村?雪山におまえが治してもらった話もさ、周太にはしたよ?
 だから国村が俺の寝込みを襲う必要が無い、って周太も解ったと思うんだけど…やっぱりダメか?」

「ああ、まったくダメだね?ほんとバカだよ、この男はさ」

からり笑って国村が英二の額を小突いた。
そして仕方ないなあと笑いながら国村は教えてくれた。

「湯原にはね、宮田?おまえだけなんだ。
 唯ひとり初めて恋して愛したんだよ。そしてさ、もうこれが最後なんだ。
 たった一度だけの想いなんだよ、ほんとうにね、おまえしか見つめていないんだ。
 だからさ?少しだって傷つけたくないんだ、一番きれいにしておきたいんだよ、おまえのこと。
 唯ひとりの人だから自分が守りたい。そう言って拳銃を向けて、俺が無理やりおまえを犯さないように約束させたんだ」

そんなことを周太が?
驚きのままに英二は国村に訊き直した。

「…周太が、銃を、おまえに?」
「そうだよ。真直ぐに俺を見つめてた、真剣だったよ。おまえを守る為にね?
 あの優しい彼がさ、必死でね。それだけ湯原はね、おまえが大切なんだ。ほんとに愛されてるんだよ、おまえはさ?」

周太が自分を守る為に銃を人へ向けた。
誰よりも拳銃の怖さを知り、ほんとうは拳銃を忌嫌っている周太。
それでも父の軌跡を知る為に敢えて拳銃と向き合っている。そんな周太に銃を人へ向けさせてしまった。
自分が周太を守ろうとしている、けれど周太も英二を守ろうとしてくれる?そっと英二は口を開いた。

「でも、国村?周太は、おまえのことだって好きなんだ。それなのに、」

底抜けに明るい目が微笑んでくれる。
きちんと思い出しながら国村は周太の言葉と想いを話しだした。

「うん、俺も言われたよ?
 おまえとアンザイレンパートナーを組んで山で援けあえる俺は大切だって。
 なにより湯原自身が俺を好きだから、俺を守りたい。そんなふうにね、言ってくれた。
 きっと、全てがさ。おまえが望むままに山に登って笑って生きる。そのために湯原は、必死で願っているんだよ」

望むままに山に登って笑って生きる。
そのために周太が銃口を人に向けてくれた、あの大好きな掌が英二を守る為にしてくれたこと。
その想いはきっと台所で食事の支度をしてくれる時と同じ「守りたい、笑顔でいてほしい」ただそれだけの純粋な想い。
自分が守って愛したい、そんな強い美しい想いに立って周太は銃を手にとった。

今朝の周太のめざめた瞳は美しかった。
この想いに生きる誇らかな1つの勇気と意志と。
そして、全て懸けても英二を守ろうという「覚悟」が明るく澄みきっていた。

いつのまに周太は、そんなふうに想ってくれたのだろう?
純粋無垢で10歳で時を止めていた周太は、いつのまに自分をくるむような愛を抱いてくれた?
そんな周太の想いが切なくて、うれしくて幸せで、切長い目から涙がひとつこぼれて湯へと溶けこんだ。

「なあ、国村?俺ってさ、幸せだな。こんなに愛されて、もう、さ?」

涙こぼしながら英二はきれいに笑った。
そんな英二を国村は細い目を温かく笑ませて「ほら、泣いちまいな」と見守ってくれる。
そして国村は愉しげに笑って言ってくれた。

「ほんとだよ、宮田。俺に拳銃を向けた湯原はさ、かっこよくて、きれいで見惚れたよ?おまえへの想いがあふれてた」
「うん…愛されてるね、俺」

きれいに笑って英二は涙をまたひとつ零していく。
ずっと片想いで憧れて追いかけて、ようやく掴んでも毎日一緒にはいられなくて。
それでも隣にいたくて想いと約束を重ねて今日まで一緒に生きてきた。そして今、そんなふうに想われている。
うれしい幸せが温かい涙になって頬伝う、頬をおちる温もりに英二は微笑んだ。

「俺、やっぱりね?周太がいちばんだ。だから国村、俺はね?周太の為だけに生きたいよ」
「うん、いいね?そういう恋愛はさ、おまえらしいよ」

底抜けに明るい目が優しく笑ってくれる。
ほんとに自分は幸せだ、想うひとの愛情への想いに、英二はきれいに笑った。


ビジネスホテルに英二と周太が戻ったのは15時だった。
診察室で吉村医師と国村とコーヒーを楽しんで、それから戻ってきた。
国村は今日は本来出勤だからと御岳駐在所へと向かった。
部屋に戻ると英二はバスタブに湯を張った。

「周太、雪山で冷えただろ?温まってきて、」
「ん、…ありがとう、英二。温まらせてもらうね」

うれしそうに微笑んで素直に周太は頷いてくれた。
きちんと風呂へと入ったのを見届けて、その間に英二は駅ビルの食品街で簡単に買い物を済ませた。
きっと周太は疲れている、だから今夜も部屋で食事をとる方が良いだろう。

狙撃だけでも周太は疲れたはず、そのうえ国村を銃で制圧しようとしている。
ずっと体格も大きく体力もある国村を相手に立ち向かうことは、心身とも緊張の負担が大きかったはず。
なにより、本来が繊細で優しい周太にとって、相手を脅かすような行動自体が本当は負担になる。
出来るだけ寛がせて、ゆっくり疲れをとってあげたい。
そして精神的な負担をなにより取り除いてあげたい。

部屋へ戻るとまだ周太は浴室にいた。
買ってきたものを冷蔵庫やカウンターに置いて、グラスを二つ冷蔵庫へ入れる。
それらが済んですこし本を開いて眺めていると、浴室の扉が開いた。

「ありがとう、英二…温かかったよ?」

さっぱりして気持ちよさそうに幸せな笑顔で話してくれる。
その湯あがりで紅潮した肌が艶やかで英二は見惚れてしまった。
それでも英二は周太に微笑んだ。

「よかった、周太。おいで?髪がまだ濡れてる、ほら、」
「ん、あ、…はい」

手をひいてソファに座らせると英二は、周太の濡れ髪をタオルで拭きはじめた。
丁寧に水けをとっていく手元から、シャンプーの香と周太のおだやかで爽やかな香りが薫ってくる。
髪を拭きながら英二は周太の首筋をさらっと、くすぐってやった。

「ん、英二?ちょっとくすぐったいよ?」
「どうして、周太?くすぐってないよ、ほら」
「うそ、くすぐってる、だめ、英二、っや、」

くすぐられて周太が笑いながら身をよじってしまう、そのたびに髪からは香りがこぼれ落ちてくる。
この香を今また無事に感じられている、そのことが幸せで英二は微笑んだ。

「はい、周太。これで髪、さっぱりしただろ?」
「ん、ありがとう英二。でも、くすぐるの驚いたよ?…もう、」
「楽しかっただろ?周太、たくさん笑ってくれて可愛かったよ?」

ソファに周太を落ち着かせると英二は、冷蔵庫からひとつの瓶と2つのグラスを取出した。
サイドテーブルに置いたグラスに瓶から注ぐと、透明なオレンジにきれいな泡が昇っていく。
グラスの1つを周太に渡すと英二は笑いかけた。

「はい、俺の花嫁さん」

グラスからオレンジが泡と一緒に昇って香っていく。
オレンジが香るグラスの中を見つめて周太が遠慮がちに訊いてくれた。

「英二?これって、酒だよね?…まだ昼間なのに…?」
「そう、ミモザだよ?はい、周太。乾杯、」

きれいに笑って英二は周太のグラスに、こつんと触れさせてから自分のグラスに口付けた。
そんな英二の様子を途惑ったように周太は見あげている。
やっぱり明るい時間だと飲んでくれないかな?
微笑んで英二はミモザを口に含むと周太の頬を両掌でくるんだ。

「英二、…っ、」

そっと英二は周太の唇へキスをした。
そのままミモザを口移しで周太の唇へ注ぎ込む。

「…ん、っ、」

ちいさな喘ぎがこぼれて、周太の喉がこくんとうごいた。
飲んでもらえたかな?そっと唇を離して英二は微笑んだ。

「ね、周太?いま、俺のキスで結婚のお酒を飲んじゃったね。だから逃げないで?」
「逃げる、なんて…どうして、そんなこと言うの、英二?」

黒目がちの瞳が大きくなる、この表情は驚いている時の顔。
もしかして気づかれてしまう?そのまま英二は周太を抱き上げると額に額でふれた。
ふれあう額の温もりに微笑んで英二は周太の瞳を覗きこんだ。

「周太、逃がさないよ?もう周太は、俺だけのものなんだから」
「…英二、もしかして…っ、」

白いシーツへ周太をしずめて英二は抱きしめた。
抱きしめて頬寄せて、黒目がちの瞳を覗きこんで唇にくちびるを重ねた。
やわらかな吐息がオレンジに香って甘やかで、いつもより熱っぽい唇が愛おしい。

「…っ、まって…え、」

すこし離れたくちびるが質問をしようとする。
その質問はいまは聴かないよ?そんな想いのままに英二は唇を深く重ねた。
重ねたくちびるが喘ぐように離れようとする。
そんなの絶対に離す訳がないのに?想いのまま唇をふれあわせて英二は微笑んだ。

― ね、周太?なにがあったって、俺は離さないよ?

想いをキスで告げながら長い指を周太のシャツに掛けていく。
ボタンを外しながら抱きしめて午後の光に晒される素肌と素肌を重ねた。
てのひらが英二の肩を押そうとするけれど力は入らずに、ただ肩へ温もりを伝えてくれる。
その掌がすこし汗ばんで温度がいつもと違う。

肩にふれる熱の気配とかすかな潤いは、周太が緊張状態にあることを示す掌のシグナル。
ファーストエイドで受傷ショックの診断として脈を診ながら掌の状態も確認する、それと同じに周太の掌が緊張している。
きっといま周太の心は、英二の為とはいえ国村に銃口を向けた哀しみが受傷になっている。
英二の為に負ってしまった傷、それを全て残らず話させてしまいたい。
そして全てを自分にゆだねてほしい、受けとめさせてほしい。

けれど周太は英二に気遣わせたくなくて話すつもりが無い、だから国村に口止めをしている。
それでも周太に全てを話させてしまいたい、そのために絶対に逃げられないように周太を捕まえておきたい。
あの銃声の真相、周太が国村にしたこと、全てを周太の口から素直に話してほしい。

「…、っあ、…まって、…っ、」

キスのはざまから周太の声がこぼれ落ちる。
きっといま、周太は英二に確かめたいだろう「国村から銃声の真相を聴いてしまった?」そう英二に訊きたい。
けれどその話はまだ始められない。もう周太が逃げられない、そんなふうにしてから話したい。
なにより周太を抱きこめて繋いで結んで、周太に思い出させてやりたかった。

周太はもう英二の婚約者で英二だけのもの、約束の「いつか」には幸せへと英二が閉じ込めること。
そんな大切な約束にしずみこませて、周太の心の重荷を全部とかしてしまいたい。
大切な約束を思い出して素直に心も体も英二に任せてくれる、それまでは周太に言葉を出させたくない。
いくら英二の為であっても、周太が自分だけで傷を背負おうとする言葉も行動も許したくない。
だから周太が全部を英二にゆだねてしまうまで、周太の言葉を奪ってしまいたい。
ただ素直な想いだけを周太の言葉に紡いでほしい。

 どうか俺を信じてよ、周太?
 俺は周太の為なら何一つ傷つかない、なにも俺を傷つけることは出来ないよ?
 だって俺を本当に傷付けられるのは唯ひとり、周太だけ。
 周太だけが俺を傷つける、そして周太だけが俺を癒してくれる。
 だから俺にすべてを任せてほしい、信じてほしい。そして純粋なままで隣にいて?

自分の想いを解ってほしい、すこしも殻に籠らないでほしい。
果てないキスに言葉を封じ込めながら英二は周太を抱きとっていく。
果てなく繋ぐ甘やかなキスに蕩かされかけながら片腕で抱きしめて離せない。
抱きしめる想いのひとの洗練された肢体をゆるやかに、もうひとつの掌が熱にほどいていく。
想っている、愛してしまった、
離れないで、どうか置いていかないでほしい、
ひとつひとつの想いを抱きしめた肌へ掌の熱から伝えて告げていく。

「…っ、あ…」

抱きしめた肢体から抵抗する力がとけていく。
重ねた唇のはざまからこぼれる声も想い艶めいて吐息へと変えられていった。
覗きこまれて見つめかえす黒目がちの瞳は、もう抱きしめる英二のことしか映していない。

「…周太、」

しずかに唇を離して英二は想いのひとを見つめた。
見つめられる黒目がちの瞳は深い艶にぬれて、熱にうるんで見上げてくれる。
もう深く繋げられた体には抵抗する力はどこにもない。
抱きしめながら英二は、しずかに微笑んで周太に話しかけた。

「周太、昨日は俺のこと、迎えにきてくれたね…教えて?そんなに俺のことが好き?」
「…っ ん、…すき…えいじだけ…」

抱きよせた腕のなかで周太は素直に応えてくれる。
そんな素直さがうれしくて英二は微笑んで惹きよせた。

「かわいいね、周太?素直に言ってくれるの、うれしいよ…ね、周太?もっと素直に話して?」
「…っあ、…はい…えいじ…っ」

やさしすぎる周太は相手を気遣い過ぎて話せない、そんな哀しい我慢をして自分が傷つく方を選んでしまう。
そんな周太を孤高なのだと周囲は決めて放って置いていた、そして13年間を孤独に周太は生きてきた。
その孤独を知って周太を余計に好きになって、ずっと隣から英二は離れられなくなった。
だからこそ、そんな我慢はもう二度と周太にしてほしくない。

だから何しても周太の想いを全て話させてしまいたい、自分だけは全てを知りたい。
そうして周太の全てを受け留め知って、周太を自分だけのものにしておきたい。
それが自分にだけは出来る、自分は全てを懸けて周太を見つめて愛して心ごと体も繋げてしまうから。
だから素直に話してほしいよ?想いに微笑んで英二は周太の頬に頬寄せた。

「素直でかわいいね、周太?
 周太が可愛くて、俺ね…任務でも周太と一緒にいれた国村にね、嫉妬しちゃったよ?…任務なのにね?」
「…っ、そう、なの?…おれも、ほんとは…えいじと、」
「うれしいな、周太?…でも俺、さびしかったんだから…だから、俺を慰めて、周太?やさしくキスしてよ」

熱をふくんだ黒目がちの瞳が見つめてくれる。
見つめて優しく微笑んで、やわらかく掌を英二の頬に添えて唇を重ねてくれた。

「ん…キス、うれしいよ?周太、素直で可愛いね、このまま素直でいてくれる?」
「…は い、…」
「うん、かわいいね、周太?…俺の婚約者さん、愛してるよ?…だから素直でいて、」

すっかり素直になっている婚約者に英二は笑いかけた。
こうされている時の周太なら浮かされる熱にゆだねて想ったままを素直に応えてしまう。
こんなふうにされたら周太は、もう逃げようにも逃げられない。もう周太は全部に素直に応えざるを得ない。
艶やかな紅潮に染まるなめらかな肢体に、ふかく体を添わせて英二は微笑んだ。
そして静かに黒目がちの瞳を見つめて、おだやかに告げた。

「…ね、周太?…俺のために、銃を国村に向けさせたね?…国村のこと、周太だって好きなのに」

抱きしめる肩がふるえて見つめる黒目がちの瞳が大きくなる。
すこしだけ周太の掌が英二の体を押し退けようとした、そんな掌をからめとって英二は唇をよせた。
そのまま深く抱きしめて熱の深みにしずみこませて繋ぎとめていく。
惹きよせていく周太の唇から、ふるえと感覚が押し出されて零れ落ちた。

「…あ、っう、…だめ…や…、ぁ…は、なして、」
「だめじゃないよ、周太?…ほら、かわいい声。うれしいよ、もっと聴かせてよ?…大好きだよ、周太」
「…っや、…は、なして、だめ…はなして、…っ、」

力ないまま掌が英二の肩を押そうとする。
自分のしたことが英二に知られて、恥じて怖がって逃げようとしている。
そんな周太を英二は強く深く抱きしめて黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「愛してる、周太。おれにはね、ほんとうに周太だけだよ?…だから周太、俺にだけは、素直なままでいてよ?」

どうか逃げないで、こんなに想っている、あなたは俺のもの、だから全て俺に任せていい。
そんな想いに抱きしめて、体ごと周太の心を繋ぎとめてしまいたい。
きっと今もし離してしまったら、もう取り返しがつかない。

銃の怖さと罪。
その全てを父の殉職とひきかえに周太は思い知らされた。
だから周太は、銃を軽く扱うことを決して許せない。
そして父と同じ「射撃の名手の警察官」として周太は立っている、ほんとうは銃を忌嫌いながら。

そんな周太が人に銃口を向けた、それも国村に対して。
英二の大切な友達で唯ひとりのアンザイレンパートナーに対して。
周太の大切な友達である美代の恋人で、周太にとっても大切な友達、そんな国村に対して周太は銃口を向けた。

潔癖で、純粋無垢な、やさしい周太。
そんな周太に、この罪悪感がどれだけ重たく圧し掛かるか。それは周太自身がよく解っていたこと。
それでも唯ひとつの想いを守るために周太は銃口を向ける選択をした。
それぐらい強い想いで周太は英二を想ってくれている。

父と拳銃と大切な友人。
その3つへの罪悪感と、唯ひとつの想いを守りたい一途な想い。
想いのはざまで苦しんでいる周太の心、それを繋ぎとめて癒すことが出来るのは、きっと今この瞬間だけ。
すべての想いと真直ぐに黒目がちの瞳を見つめて英二は微笑んだ。

「周太、俺を守る為に、国村に銃を向けさせたね…ごめんね…周太、辛かったね」

辛い想いをさせた、自分の為に。
辛かったことを自分が一番わかっている、それを周太に解ってほしい。
そんな想いをさせたことを謝りたい、そして分かち合わせてほしい。いま繋げた体と一緒に心も想いも繋げて話してほしい。
どうか素直に話してほしい、体だけじゃなくて心も想いも繋げてほしいよ?
そんな想いで見つめた黒目がちの瞳から、ひとつ涙がこぼれ落ちた。

「…だって、まもりたかった…英二のこと…傷ついてほしく、ない…きれいで、いて?…」

抱きしめる体からこぼれ落ちる感覚と一緒に力が抜けていく。
力が抜ける分だけ素直になって想いそのままこぼれていく唇が愛おしい。
このまま素直に全て話して楽になってほしい、そして自分の想いを受けとめて欲しい。
おだやかに微笑んで英二は言った。

「周太?俺だってね、周太には傷ついてほしくない…
 俺にはね、いちばん周太がきれいなんだから。
 俺の為に周太が傷つくなんて嫌だ。だって俺、周太の掌が大好きだ…周太の掌は拳銃よりも、草や木や、花の方が似合う」

抱きしめた頬ふれて額ふれて。
瞳を見つめて想いのキスを交わしながら英二は自分の想いを告げていく。
そうして見つめる黒目がちの瞳から、きれいな涙が零れおちた。

「ほんと?…英二、…きれいなの?」

ずっと見惚れて憧れてきた瞳。
きれいだ、と。息を止めるように密やかに見つめていた3か月半前の自分。
それを今は婚約者として腕に抱きしめて、自分のものだと言ってしまえる。幸せで英二は微笑んだ。

「きれいだよ、周太?誰よりも、何があっても、ずっと周太だけがきれいだ。
 周太の掌も心も、全部いちばん好きだ、いちばんきれいだ。…そして全部がね、もう俺のものだよ」

温かな午後の光ふる静かな部屋で、英二は周太を抱きしめた。
抱きしめた肩がすこしふるえている、ふるえる唇にくちづけて見つめて視線からも告げていく。

「愛してるんだ、周太。だから俺だけを見て、何があっても遠くへなんて行かないで?」
「…英二、」

吐息のようにこぼれる名前。
想いこぼれながら呼ばれて英二は周太を見つめた。
見つめた想いの真ん中で黒目がちの瞳がゆっくり瞬いて、そして泣いた。

「っ…ほんとは、怖かった…っ、」

黒目がちの瞳から涙があふれ出す。
恐怖、後悔、それでも止められなかった一途な想い。あふれる想いと涙と、そして言葉があふれた。

「銃を向けてしまって…ひきがねをひいて…ともだちなのに、大好きな人、なのに…っ、
 くにむら、おれのこと、英二と守ろうってしてくれている…それも、知ってる…
 大切な友達、それなのに、止められなくて…英二を守りたかった…傷つけてほしくなくて…
 大切な友達を傷つける、それでも守りたかった、英二を守りたくて…でも、こわかっ、た…怖くて、泣きたかった…!」

抱きしめる腕に力ゆるやかにこめて惹きよせる。
ながれる涙にくちびるをよせて英二は温かな潮を飲みこんだ。
純粋無垢な想いのあふれる涙は温かくて、あまやかに英二の口にこぼれこんでいく。
きれいに笑って英二は周太に言った。

「うん、周太?怖かったね、そして哀しかったね?…ごめんね、周太。
 大丈夫だから。俺も、国村もね、周太のことわかってる。こういう周太が国村も大好きなんだよ?
 そして俺はね、こういう周太だから恋して、大好きになって、愛しているんだ…だからお願いだよ、周太?
 どうか俺の隣でいて?ずっと俺だけの居場所でいてよ、俺のこと信じて愛してよ、ずっと俺から離れないでいて?」

想いを告げながら愛するひとを英二は抱き取っていく。
そうして見つめる黒目がちの瞳が、抱き取られる微熱にうるんだままで微笑んでくれた。
そして周太はふたつの掌を、やわらかく英二の頬に添わせて微笑んだ。

「離れない、英二。…いつかきっと、必ず、英二のためにばかり掌を遣う、ね…愛してる、英二」

こんなふうに繋がれて、こんな約束をくれる。
こんな幸せな約束をくれるなら、必ず自分は叶えるために何だって出来てしまう。
きれいに笑って英二は言った。

「きっと、俺の為に掌をつかって?…俺と一緒に暮らして、毎日の食事をつくってよ。…ね、俺の婚約者さん」
「ん、…必ず、」

微笑んで周太の掌が英二の頬を惹きよせてくれる。
惹きよせられて、くちづけを交して、想いを繋げて見つめた瞳に微笑んだ。
そうして想いを交して微笑んで、やわらかな夢に午後の陽ざしとまどろんだ。
白く長い指は、すこしちいさな掌をやわらかく包んで繋ぎとめたままで。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第33話 雪火act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-01-29 23:59:49 | 陽はまた昇るside story
想いの交錯、そのゆくえ




第33話 雪火act.4―side story「陽はまた昇る」

ダウンライトの温かい灯のなかで、ねむる周太は微笑にまどろんでいる。
いつものように幸せそうな微笑みが愛しくて、幸せで英二は微笑んだ。
ずっと見つめていたいけど、そろそろ起こさないといけない。ねむりに艶ほころぶ唇に英二は唇を重ねた。

「…ん、」

ちいさな吐息が微笑んだ唇がいとしい。
きれいに笑って英二は周太の前髪をかきあげると、そっと額にキスをした。
ふれる額にふるえが瞬いて長い睫がかすかに揺れてくれる。

起きてくれるのかな?
長い睫の奥にねむる大好きな瞳がもうじき自分を見つめてくれる?
そんな楽しい予感に見つめる真ん中で、長い睫がゆっくり披かれて黒目がちの瞳が英二を見つめた。
見つめてくれる瞳がうれしくて英二はきれいに笑いかけた。

「おはよう、周太。俺の花嫁さん。……、」

笑いかけたまま英二は息を呑んだ。
いったいどうしてしまったのだろう?めざめてくれた瞳に呼吸が心ごと浚われて英二は見つめた。

ゆっくり披かれた長い睫の奥で、黒目がちの瞳は誇らかに輝いていた。
輝きに透けるような明るさと深い想いが、きれいだった。

やさしく穏やかな愛を抱いている、誇らかな1つの勇気と意志。
初雪の夜の翌朝に周太の瞳にともされた想いたち、それは見つめる今も変わっていない。
けれどもう1つなにかが周太の瞳をまた明るませている。

この明るさはなんだろう?そんな想いと見つめる周太はまた美しくなっている。
すこし紅潮した頬、あわい赤が花のように散る素肌、けぶる艶やかな清楚。
ねむり潤んだ唇こぼれるような微笑は、やさしい幸せにほころんでくれる。
めざめて英二を見つめる瞳はひとつ瞬いて、瑞々しい唇がしずかに英二に微笑んだ。

「おはよう、…英二?」

周太の笑顔は、きれいだった。
あんまりきれいで英二は切なくなった。
きれいな笑顔が切なくて、消えてしまいそうで怖くて、失いたくなくて英二は抱きしめた。
抱きしめた途端なぜか英二の目から涙がひとすじ零れて、白いシーツへと落ちた。

「ん…どうしたの、英二?」

腕のなかから微笑んで周太は訊いてくれる。
やさしい穏やかな、周太の話すトーン。すこし特徴的なゆるやかな話し方は、素のままでいる時の周太。
いまも周太は素顔のままで、きれいな純粋なままで微笑んでいる。いつものように。
それなのになぜ自分は涙がこぼれたのだろう?自分でも解らないまま、英二はやわらかく抱きよせて笑いかけた。

「周太がね、きれいで涙が出た。周太、愛してるよ。ずっとこうしていたいな」
「ん…はずかしくなる。でも、…愛してる、よ?」

頬染めて気恥ずかしげに微笑んでくれる。
いつもどおりの周太の笑顔、いつもどおりの穏やかなトーン。
どれもが幸せで大好きで愛しくて、ずっと離せなくて一緒にいる約束をしている。
でも、なぜ今朝はこんなにも起きたくないのだろう?

「周太、ずっとこうしていたい。ずっと周太の瞳を見ていたいな、抱きしめて周太の肌にふれていたい」
「…ん、…そう、なの?」
「うん、そうだよ。俺の婚約者さん、」

笑いかけながら英二は周太を抱きしめてしまう。
ふれる髪がやわらかに英二の頬を撫でて、おだやかで爽やかな香りがくるんでくれる。
ずっと憧れて好きだった、この香も瞳も全部がずっと好きで追いかけて、こうして今は抱きしめている。

―このまま今日は、ずっと一緒にいたい

今日は弾道調査の現場実験がある。
きっとクライマーウォッチは4時を20分は過ぎてしまった。
それでも起きたくなくて英二は周太を抱きしめて、ときおりキスでふれては見つめていた。

「…英二?もう、起きないと…ね、任務に遅れちゃうよ?」
「もうすこしだけ、ね、周太…いま俺、周太を抱きしめていたいんだ…もうすこしだけ」

そんな「もうすこし」を幾度も過ごしてベッドから出られない。
ずっとこうしていたくて、けれど早朝からの任務が待っていて。
その任務だって周太と一緒に立つ現場、それなのに英二はどうしても起きたくなかった。
ただずっと抱きしめて、大好きな黒目がちの瞳を見つめていたい。

いつもなら周太と過ごした朝でも「任務」は英二の背筋を伸ばさせる。
そして任務の手順を考えながら、ゆっくり周太が淹れてくれたコーヒーで過ごす朝の一時が好きだ。
だから今朝のように任務をさぼってしまいたい気持ちは初めてだった。

いったい自分はどうしたのだろう?
自分で自分が解らない、そんな途惑いと想いのまま周太を抱きしめていた。
このまま素肌ふれて抱きしめて、温もりにおぼれこんで眠りこんでしまいたい。
そんな英二に周太は微笑んで、やさしいキスをしてくれた。

「ね、英二?…俺ね、明日は週休だから、今夜もここに泊まるつもりなんだ」

キスを交して微笑んで周太は言ってくれた。
言ってくれた言葉に驚いて英二は聴き返した。

「ほんとに、周太?」
「ん、ほんとうだよ。だからね、英二?今夜も一緒にいてくれる?」

その言葉がうれしくて英二はすこしだけ「起きてもいいかな?」と思えた。
でもまだ抱きしめていたい起きたくない、英二は周太に訊いてみた。

「でも周太、射撃の自主トレあるんだろ?もう大会まで半月ないから、って言ってた…明日は早く帰っちゃうんだろ?」

すこし拗ねたような口調についなって、我ながら子供っぽいなと英二は微笑んだ。
そう微笑んだ英二の唇に周太は、そっとキスをして微笑んでくれた。

「大丈夫だよ、英二。明日はね、自主トレもキャンセルしたんだ。
急な出張だし野外の狙撃は疲れるから、大会前に疲労をためないよう、明日は休めって上司も言ってくれて。
だからね、英二?…明日は英二が仕事をね、終わるの待ってるから…だから帰りは夜、新宿まで送ってくれる?」

明日も周太は奥多摩にいてくれる?
うれしくて英二は笑って周太に訊いてみた。

「じゃあ周太?御岳山の巡廻とか一緒に回ってくれる?」
「ん、一緒に御岳山にまた登りたい。任務の邪魔にならないなら、連れて行って?」
「うん、連れて行きたい。雪の御岳を見せたい、朝も夕方も見せたい」
「ん、朝も、夕方も、見せて?」

きれいに楽しそうに周太は微笑んでくれる。
やさしい微笑みがうれしくて英二は、想いつくまま全部の「わがまま」を言った。

「じゃあ周太?昼休みはさ、御岳駐在の休憩室へ来てくれる?」
「ん、コーヒー淹れに行ってあげる。そしてね、昼の自主トレにも参加させてくれる?」
「もちろんだよ、周太?きっと国村も周太がいると喜ぶよ、あいつ周太のこと大好きだから」

昨日も一緒に狙撃手を務めながら国村は、やさしい温かい目で周太を気遣ってくれていた。
そんな国村に少し英二は嫉妬しそうだった、自分以外に周太を見つめて欲しくないから。

「そう、かな?喜んでくれるかな?」
「かなり喜ぶと思うよ?だってね、周太?あいつはね、2月の射撃大会も周太と競技したいから出場するんだよ?」

周太が出場すると聴いたとき国村は、急にやる気になって笑った。
それから英二は国村がサボりそうになる度に「周太はさ?」と言ってやった。
そのたびごとに国村は急に「大会も楽しみだな」と機嫌よくなって練習してくれる。

「そうなの?」
「そうなんだよ、周太。だってね?富士の山小屋で、俺が周太を泣かせた話をしたらさ?
 あいつ、周太の分だって言って俺のこと蹴飛ばしたんだ。それくらい周太のことを、あいつは好きなんだよ」
「ん、そんなこと、あったの?」

国村は自由人で身軽で、恋愛すらも束縛されることはない。
そういう友人が周太だけは特別に構いたがる、だから英二は「周太は俺のもの」といつも宣言してしまう。
昨日も国村は周太に手出しはしないと約束した、それでも英二は周太にお願いをした。

「でもね、周太?絶対に国村のことなんか見つめないで?
 あいつエロオヤジだからさ、ちょっと周太が見つめただけでも喜んで、周太に手出ししそうで嫌だよ?
 あいつ本当に良いヤツだし大切なアンザイレンパートナーで友達だけどさ?
 でも周太になんかしたら俺、きっと国村を酷い目に遭わせちゃうよ?ね、周太、絶対に俺以外を見つめちゃダメ」

絶対ダメだよ?目でも訴えながら英二は周太にキスをした。
そんな英二に黒目がちの瞳がすこし大きくなっている。それから微笑んで言ってくれた。

「ん。大丈夫だよ、英二?俺はね、英二だけだから…
 初めてひとを好きになったのもね、英二だから好きになれた…だから、他のひとはね、きっと誰も好きになれない」

初々しい紅潮に微笑んで告白してくれる。
こんな告白はうれしい、うれしくて英二はキスをして笑った。

「俺だってそうだよ、俺は周太だけしか欲しくない。
 だから周太、お願いだ。俺を置いていかないで?俺を独りにしないで、ずっと俺だけの隣でいて?
 ほんとうに俺、もし周太が居なくなったらきっと、水がなくなった花みたいに死んじゃうよ…だから隣でいてよ」

きっと水がなくなった花のように。
そう言った途端に英二の目から涙がこぼれ落ちた。
どうして今朝はこんなに周太を離せない?どうして涙が出るのだろう?
解らない。自分でも解らない、でも離せなくて英二はまた周太を抱きしめた。
そんな英二に周太は微笑みかけてくれる。そして頬をふたつの掌でくるんで、やさしいキスをくれた。

「ん、隣でいるよ?今日も一緒に現場に立つよ、ね、英二?だから、起きよう?」
「…明日も、朝も夕方も一緒に御岳山へ登ってくれる?」

念押しするように英二は周太の瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ瞳はめざめた時のまま美しくて、まぶしくて英二は見惚れてまたキスをした。
そっと唇を離すと周太は、きれいに笑って約束してくれた。

「ん、一緒に登る。昼休みにはね、コーヒー淹れに行くよ。自主トレも一緒だよ?
 そして俺を新宿へ送って、夕食も一緒に食べて?ね、だから英二、起きて仕度しよう?そして一緒に任務に就こう?」

きれいに笑って約束をたくさん決めてくれる。
こんなに楽しい幸せな約束をくれるなら、起きてもいいかもしれない。
でも、と未練が残って英二はもうひとつ「わがまま」を言ってみた。

「じゃあ周太、約束のキスをして?」
「ん…はい、」

ちいさい声。それでも周太は返事をしてくれた。
そして英二の頬を両掌でくるんで、そっと唇をよせてくれた。
かすかなオレンジの香とふれる甘やかな温もり、やわらかなふれる想いが愛しい大切なキス。
初々しさにふるえながら蕩かしてくるキス、幸せで英二は笑った。

「うん、俺、起きるよ?」

そして英二はようやく起きて、大きい自分のシャツにくるんだ周太を抱き上げて浴室へ行った。
バスタブに立たせた周太から、そっとシャツを脱がせながら英二は微笑んだ。

「ね、周太?一緒に入ったら、嫌?」

きっとダメかな?そう覗きこんだ顔は赤くなっている。
やっぱりダメかな、仕方ないな?微笑んで英二はシャツを抱いて浴室を出ようと背を向けた。
そんな英二の背中に、やさしい声がふれてくれた。

「…えいじ、」

背中に温もりがふれてくる。そっと腕が回されて掌が胸の前で交差してくれる。
背中から抱きしめてくれながら、やさしい声がしずかに告げてくれた。

「一緒に、入って?…すこしでも近くで、一緒にいたいから」

告げてくれる言葉、やさしい想いがふれてくる。
背中にふれる想いの合間に、胸に交差された掌に自分の掌を重ねて英二は微笑んだ。

「いいの、周太?昨夜から周太、いつもより俺に触れさせてくれるね?」
「ん、…一緒にいたいから。すこしでも英二のね、…近くにいたい」

ふっ、と温かい雫を背中に感じて英二は振り向いた。

「周太?」

名前を呼んで見つめた頬には、きれいな微笑みだけがうかんでいた。
きれいな微笑うかぶ頬を英二は掌でくるんだ、やわらかな温かさがふれてくる。
気の所為だったろうか?そんな小さな気懸りにも、きれいな微笑から目が離せない。
きれいに笑って英二は周太に答えた。

「うん、一緒にいよう?周太」

そして一緒に風呂を済ませて一緒に着替えた。
着替えて、ベッドを英二が整える間に周太は、いつものようにコーヒーを淹れてくれる。
芳ばしい温かな湯気が夜明け前の部屋に燻っていく、周太には疲れは無さそうに見えた。

手際よくコーヒーを淹れる手許を見ながら英二は幸せだった。
いまコーヒーを淹れてくれる英二よりちいさな手はすこし節がたっている。
それは周太が警察官になる為に積んだ武道と射撃の訓練の痕、周太が積んだ努力の痕だと英二は知っている。

けれどこの掌はほんとうは、大好きな草花を摘んで活けることが好きだ。
そしてこの掌は器用で、拾い集めた落葉や摘んで可愛がった草花を、きれいな押花へと生まれ変わらせる。
そんな器用な掌はいつも英二にコーヒーを淹れてくれる。
そして温かな台所に立つときは、英二の為に温かな食卓を仕度してくれる。

「はい、英二…熱いから気をつけて?」
「ありがとう、周太」

マグカップをサイドテーブルへ置いてくれる、周太の掌。
カップから離れた掌を英二は、そっと自分の掌にとると周太を見あげた。
両掌を英二に預けて周太は微笑んで「どうしたの?」と黒目がちの瞳が訊いてくれる。
自分の長い指の掌のなかにおさめた大切なふたつの掌に、しずかに英二は口づけた。
この掌が自分は大好きで、大切で、ずっと守りたい。

「周太の掌はね、きれいだ」

きれいに笑って英二は周太を見あげた。


夜明前の山は雪の底に眠っていた。
夜闇と雪にすいこまれる静寂に、アイゼン踏む雪道はざくざくと感触がしみてくる。
昨日降り積もった雪は夜の冷気に凍てついて締雪へと変わり始めていた。
暁前の冷気が凍らすように頬を撫でる、吐く息の白さがヘッドライトに靄となって森の夜へとけていく。

「夜明け前が一番冷込むからね。アイゼンは大丈夫?湯原くん」
「はい、大丈夫です」

慣れないアイゼンを履いた周太を国村が気遣ってくれる。
気遣いに素直に頷く周太に細い目を温かく笑ませながら国村は言った。

「この道は岩場や木の根がたまにある。踏んで滑りそうになったら、俺の腕とか掴んでいいからね?支えるからさ」
「はい、ありがとうございます」

周太は前髪をあげて警察官の姿勢になっている。
その横顔がいつになく凛々しくて英二はつい見つめてしまう。
周太は表情と髪型で雰囲気が随分と変わる、今朝めざめた時と今とは別人のようにも見えるだろう。
この2時間ほど前、めざめた朝の周太は美しかった。そして離したくなかった、どうしても。

いつも周太は英二に抱きしめられて目覚めるたびごとに、初めて見た人のように美しく変貌していく。
だから美しくなることは「いつもどおり」のことだった。それなのに今朝はなぜか切なくて堪らなかった。
どうしてか解らない、けれどほんとうは今朝の英二は周太を離せなかった。
きっと今日の任務が無かったら、そのままずっと抱きしめて離せなくなっていた。

― どうして、あんなにも離したくなかったんだろう

足元に気を配りながら雪山を登っていく。
そんないつもの雪山の道もどこか違っていて、違和感が英二の肚に疑問を作っていた。
いったい今朝はどうしてしまったのだろう?

今朝1番目の実験場に着くと夜明け前の空気に充ちていた。
雪の斜面にも冬の朝陽がふり始める、ゆるやかに金と紅あわい色彩が雪の山を照らしだす。
手順通りに設置された的へと向かって、国村と周太が規定位置へと立った。

「夜明けの狙撃は太陽光線の変化が速い。
 昨日の夕方とは逆に明るくなっていくからね、目が眩みやすいよ。
 ましてここは雪山だ、雪の反射が朝陽は強い。目を傷めないように気をつけてね、湯原くん。」

並んで立つ周太へと国村がアドバイスをする声が聞こえてくる。
国村のテノールで透る声は雪の山中でも明瞭で聞こえやすい、その声に周太は素直に頷いている。

「はい、サングラスは、まだ要らないですよね?」
「うん。日中になったら掛けた方が良いけどね。ところでさ?敬語になってるのは任務中だから?」
「はい。今、俺は警察官ですから」

生真面目な周太の話し方が警察学校を思い出させる。
ちょっと微笑ましい想いに英二は小さく笑うと、吉村医師の隣に立った。
昨日と同様に英二は吉村医師のサポートで狙撃標的の状態確認を担当する。

今回の調査は人体と同じ弾力と骨組で作られた模型の角度を変えながら狙撃していく。
もし雪山で狙撃が行われた場合に標的が受けるダメージを、さまざまな角度と狙撃パターンで検証をする。
そうした検証によって、標的のダメージから狙撃パターンを類推する基準データを作成する趣旨だった。
その基準データがあれば同様の犯行が起きた時に犯行状況の推定がしやすくなる。
今回は降雪時のデータになるが、山間部での狙撃という点では無雪期のデータとしても使えるだろう。

今回この降雪のタイミングを狙っての実験なのは、誤射の防止という理由が一番大きい。
雪の時期は一般登山客も少なく、降雪直後のタイミングでの登山は表層雪崩の危険回避で登山者も減り、入山規制がしやすい。
また雪の季節なら生息する野生獣も冬眠期にあたる為に遭遇率が低い。
そうした無人状態で安全な実験をするためにも、降雪直後を狙っての実験になった。

ただ積雪次第では表層雪崩の危険が高くなる。
奥多摩の山は森林限界を超えてはいない為に、大斜面を持つ富士山のような雪崩は起きにくい。
それでも射撃の振動は表層雪崩を誘発しやすくなる、その危険を考えて積雪10~15cmを想定していた。
太陽光線の度合いが定刻を告げてくる。英二は左手首のクライマーウォッチを見、吉村医師に微笑んだ。

「そろそろ、時間です」
「ではイヤープロテクターをしましょう」

曙光がさし始め規定時刻が実験場に訪れる。
時間が来た合図に2人の射手は、それぞれの標的に向けてライフルを構えた。
今回のテスト用ライフルは狩猟用モデルを、鑑識調査の目的のもと特別許可で使用している。

日本ではスポーツ目的で持つことのできる実銃で、初心者が所持許可を申請できるのは散弾銃とエアーライフルになる。
散弾銃・ショットガンは比較的近距離で動く的を撃つ事に向き、クレー射撃・ランニングターゲット・小型獣の狩猟に使われる。
エアーライフルは静的射撃や鳥の狩猟に使われ、火薬ではなく圧縮した空気で弾丸を射出する。
通常50m以内の狙撃が多いが、ダイビング用の高圧空気を使うプリチャージ式をチューンナップすると100m先まで可能となる。
このエアーライフルで一定の成績を修めると、日本ライフル射撃協会の推薦で小口径の装薬ライフルの所持許可を受ける。
そしてまた経験を積み大口径の許可を取得していく。

今回の狩猟用ライフルは所持許可申請の要件として10年以上の猟歴が必要とされる。
ライフルは銃身の内側にらせん状の刻み・ライフリングを持つ銃で、弾丸に回転をかけることから直進性が高い。
狩猟用のライフルは散弾銃よりも高速で弾を射出するために射程距離が長く弾道も安定している。
そのため100m以遠の標的はライフルが用いられ、日本ではシカ、イノシシ、クマの狩猟に限って使用が許可されている。

また射撃については年齢制限として「年少射撃資格認定制度」がある。
・一定の認定を受けた14歳以上18歳未満の者
・指定射撃場で射撃指導員の監督の下に、当該射撃指導員が許可を受けた空気銃を使用することができる

こうした条件がある為に現在23歳だと通常は、狩猟用ライフルの所持は初めてということになる。
けれど国村は高卒任官で19歳から警察官として銃火器を扱い、狩猟用ライフルは以前もテスト射手として使用していた。
しかも国村の祖父はクマ撃ち名人で青梅署推薦から猟銃安全指導委員を委嘱され、かつ射撃指導員資格の保持者だ。
その祖父から国村は14歳の誕生日を迎えた日から実銃の扱いを教えられ、猟の現場にも連れて行かれてきた。
そんな国村は射撃センスが高い、警察学校での最初の拳銃射撃で10点を撃ち抜き本部特練選抜までされた。

周太は競技射撃ならライフルも拳銃も実績がある。けれど山中での射撃自体は初めて、まして狩猟用ライフルは初めて見た。
そのうえ昨日は夕刻と夜間だった。そんな不慣れな条件でも周太は、国村と同様に標的の規定点を外さなかった。
いま英二の前でも周太は朝陽の中で確実に、角度を変えていく標的を狙撃していく。
大きな狩猟用ライフルを構えて狙撃する周太の小柄な姿は、曙光に染まる雪山のなかで凛と立っていた。
その横では長身の国村が愉しげな空気で狙撃していく、きっと国村には射撃場よりも山中の方が気楽なのだろう。
同じように並んで立つ大柄と小柄の背中を英二は見つめていた。

きっと生真面目な周太にとって、経験も才能も高い国村と並んで狙撃することはプレッシャーだろう。
そして国村も負けず嫌いで、経験が上回る自分が「山」での射撃で負けることなど許せない。
そんなお互いの意地とプライドがぶつかるように、昨日の射撃は2人とも全弾的中だった。
きっと今日も同じ結果だろうな? そんな思いの向こうでライフルでの狙撃が終わった。
狙撃完了した標的が外され、新しいものへと交換されていく。
そして新しい標的に向けて今度は拳銃での狙撃に2人は構えを変えた。

拳銃による狙撃はセンターファイアピストルの姿勢で始まった。
この競技で2人は2月の警視庁けん銃射撃大会で競うことになる。
2人とも背中を真直ぐに伸ばし、的は向かって体をやや斜めにして左掌は腰へ固定に置く。
周太は両目を開いて的を真直ぐ見つめる、ノンサイト射撃の片手撃ちにいつも構える。
国村もノンサイト射撃の片手撃ちだが、目を細めて心もち首を右に傾げる癖がある。

2人の背中越しに標的が狙撃の衝撃にゆらぐのが見える。
銃は発砲の反動と衝撃が大きく、体の保持が出来ないと射手自身も揺るがされてしまう。
けれど2人とも微動だにしないで真直ぐ立って狙撃していく。2人は15cmほどの身長差がある、並んだ背中は周太は華奢に見えた。

国村は体格も恵まれて、最高の山ヤで、そして射手としても才能も環境も整っている。
そんな国村に一歩も退かずに周太は並ぼうとしている。
不慣れな雪山と初めての狩猟用ライフル、そして本来射撃に不向きな小柄で華奢な骨格の体。
それでも周太は努力してここまで来て今も挑んでいる。

― ね、周太?俺はね、努力する周太が好きだよ?

英二は婚約者の背中を見つめた。華奢な背中が愛しい、そして切なくなる。
英二は、台所に立っている周太が一番好きだ。温かい食卓の支度に手を動かす周太は、きれいだから。
次に好きなのは草花とふれあっている姿、周太は植物といると寛いで穏やかな空気がより和らいでいく。
でもほんとうに一番好きなのは、白いシーツの上で穏やかな繊細な素顔のままで、英二に抱きしめられてくれる姿。
今朝のように。

そんな想いに見つめる先で2人の背中が射撃を終えた。
婚約者とアンザイレンパートナー。どちらも本当に大切で、きっとどちらも自分の運命の相手。
そんな2人が並んで立っている姿を不思議な想いで英二は見つめていた。

「さあ、宮田くん。私たちの仕事が始まります」

吉村はイヤープロテクターを外して微笑んだ。
これから英二と吉村医師の担当任務が始まる、英二もイヤープロテクターを外した。

「はい。今日もたくさん教えてください、先生」
「おや?君はこの任務では私の助手ですよ、宮田くん?むしろ私にアドバイスをしてくれないと」

そう笑いながら狙撃済標的の保管場所へ吉村医師と向かった。
昨日は夜間だったから標的の鑑識は後回しだった、けれど今は昼間で明るいため随時すぐ鑑識に入る。
だから今日はチームごと別行動があり、射手の国村と周太はもう一か所の標高1,800m付近にある実験場へと向かう。
これから少し別行動になる英二に国村が声を掛けてくれた。

「じゃあ、宮田?ちょっと湯原くんとデートしてくるね。朝陽の山を一緒に散歩だなんてさ、ロマンチックだよな、ねえ?」
「ダメだよ、国村?これはただの任務だ、今は警察官として周太は同行するだけ。ね、周太?」

絶対にデートとかダメ。そんな想いで周太を見ると首傾げて微笑んでくれている。
前髪をあげて大人びているけれど、笑った顔はやっぱり可愛くて英二は微笑んだ。
そんな英二を見て国村は細い目を温かく笑ませて言ってくれた。

「はいはい、仕方ない男だね?
 おまえの奥さんはさ、俺が責任もって安全に山をご案内するよ?ま、おまえはきっちり吉村先生の補佐してな?」
「うん。ありがとうな、国村。周太のこと頼んだよ?」

国村はすぐエロオヤジの発想で笑ってくる。
けれど本当は真直ぐで一度負った責任は必ず守りぬく、佳い男気を豊かに持っている。
そんな国村と一緒なら大丈夫だろう、英二は周太に笑いかけた。

「周太、国村は変なこと言うかもしれないけど、気にしないで?
 悪気なんて無いから。それから山のことは信頼できるよ。でも周太、あんまり見つめたりしちゃダメだからね?」
「はい、大丈夫だよ、英二。行ってくるね?」

きれいに笑って周太は、国村と後藤副隊長たちと次の実験場へ向かった。
その姿を見送ると英二は標的を眺めている吉村の隣に片膝をついた。
標的を見ていた吉村医師は英二に笑いかけると、ほっとため息を吐いた。

「見事ですね、全部が規定の点に的中しています。そして、弾痕を見てください」

置かれた4体の標的はどれも「点」を確実に撃っている。
国村の標的と周太の標的、その対比する弾痕は全く同じ形状だった。

「全く同じ弾痕、ですよね?」
「同じ火薬量と同じ弾丸、同じ銃の使用。それでも、こうも全く同じように撃ち抜くことは難しい。
けれど2人の弾痕は全く同じように見えます、そして指定した点からずれていない。さ、計測していきましょう」

まず標的の指定点にあけられた弾痕の直径を計っていく。
それから弾痕部分の断面を測定して標的内での軌道などを調査し、記録にまとめていく。
標的を切開していく吉村医師のサポートを務め、計測データをまとめながら、思わず英二はため息を吐いた。

2人の弾痕は全てのデータが一致していた。

あの2人の狙撃するスタイルはすこし違いがある、それでこうも全く同じに出来るのだろうか?
そう考え込む英二に吉村医師が声を掛けた。

「とても正確な射撃を2人ともされていますね、どちらもブレが無い」
「はい。全てが一致しています。以前の弾道調査でも、こんな感じでしたか?」

2年前にも国村はテスト射手を務めている。
そのときはどうだったのだろう?聴いてみた英二に吉村医師は答えてくれた。

「いいえ。あの時は、国村くんは的中で全弾撃ち抜きました。
 けれど他の方はすこし外していたのです、だから比較として正確には言えません」
「では、平均値で基準データを?」
「はい、あのときは3名の射手でした。でもこうして見ると、国村くんのデータが正確だったことが解りますね」

話をしながら今のデータをまとめ、昨夜分も同様に処理していく。
そうしているうちに1,800m地点の実験場から射手とサポートのチームが戻ってきた。
新たな4体の標的を迎えて吉村医師と英二は計測データをとっていく。そこへ周太が覗きこんだ。

「おや、湯原くん?よかったらご覧になりますか、勉強家のきみは興味あるでしょう?」

すぐに気がついて吉村医師は穏やかに微笑んでくれる。
ほんとうに良いのかな?そんな顔で遠慮がちに周太が訊いた。

「はい。でも、お邪魔ではありませんか?
「いいえ、どうぞ遠慮せずに見てください。勉強になって良いでしょう?」

温かい勧めに周太は素直に頷いた。
そして吉村医師の邪魔にならないように測定されていく標的を見守っている。
そんな周太が微笑ましくて、ときおり見やりながら英二はデータ集計を進めていた。

「では上腕部のデータ計測に入ります。まず橈骨と上腕二頭筋の接点、ここは貫通です」
「はい、橈骨の粉砕はどの程度ですか?」

標的は人体と同じ組成と強度で作られ、狙撃された部位ごとの筋繊維の断裂状態、骨の粉砕程度などもデータにとっていく。
こうしたデータを実際の犯罪発生時には被害者と照合して、犯行状況の推定をあいて真相へのヒントにする。
本来なら法医学教室で行う模擬実験かもしれない、けれど青梅署は法医学教室から遠くその恩恵は少ない。
けれど奥多摩は狩猟区域でもあることから狙撃による犯罪の可能性も高い。
青梅署では山岳地域であり遭難救助が主務だが、首都の山岳地域という立地条件から自殺遺体の発見も多い。
そうした自殺遺体の行政見分を青梅署の警察官たちは行うことになる。
そのとき他殺遺体を自殺と誤って判断すれば、犯罪がひとつ隠匿されることに繋がってしまう。
だから青梅署の警察官には個々の鑑識知識が必要とされ、そのため青梅署は独自に奥多摩でのデータを作っている。
青梅署警察医の吉村医師は前職が大学病院のER担当教授だった、そしてその前は法医学教室に在籍した経験がある。
そんな吉村医師の存在が青梅署での調査研究実施を支えてくれている。
手際よく作業する吉村医師の手元を周太は熱心に見ていた。

「周太、楽しい?」
「ん、こういうのって見る機会ないし、おもしろいな?」

いま任務中の周太は警察官の顔のままでいる。
いつも端正な姿勢がどこか緊張している雰囲気が英二には目新しい。
普段の新宿署での業務中も、こんなふうに緊張しているのかもしれない。
思いながらデータ計測を進めていると、国村が来て周太に声を掛けてくれた。

「湯原くん?次の始めるよ、これが終わったらさ、次の実験場へ移動するから」
「はい、今、行きます」

素直に返事をしてから、周太は吉村医師に見せて貰った礼を述べた。
それから英二の隣に来ると微笑んでくれた。

「英二、本当によく勉強しているね?…頑張ってね」
「そうかな?ありがとう、周太」

そう言って笑いかけると周太も笑ってくれる、笑顔を残して周太は国村との狙撃へと戻っていった。
その間に吉村と英二は測定数値をまとめ、最後の4体の測定データ取得を終えた。
そして最終分も終えると、やはり2人の弾痕は全て合致したデータとなっていた。

「この調子ですと、ザイル狙撃も早く終わるかもしれません」
「はい、」

向こうで後藤副隊長たちと話している周太と国村を見ながら、英二と吉村は話していた。
このあと岩場を利用した実験場へと場所移動をする。その岩場での実験場では今頃ザイル係が準備をしているだろう。
けれど英二はザイルへの狙撃の趣旨説明をまだ周太にはしていない。
そろそろ話しておかないといけない、もうザイルへの狙撃が始まるのだから。

「宮田、移動開始だよ?行こう」
「うん、ありがとう。周太は?」

声かけてくれた国村に訊くと、細い目を温かく笑ませて呆れたように笑ってくれる。
そしてすぐ周太を連れてきて英二の隣を歩かせてくれた。
すっかり明るくなった午前中の雪山を歩きながら、英二は周太に笑いかけた。

「周太、ザイルへの狙撃はね?宙吊り遺体収容の再現実験になるんだ」

言った途端に周太の瞳が少し大きくなる。
やっぱりこんな顔させちゃったな?すこし困って微笑みながら英二は説明を始めた。

「群馬県の谷川岳はね、剱岳や穂高岳と、日本三大岩場の一つに数えられる。
 ロッククライミングの場所なんだ、それで谷川岳には一ノ倉沢ってとこがある。
 ここは穂高岳の滝谷とならぶ厳しい岩場だ。マッターホルンとかに挑戦する練習場としても使われることも多い」

「その一ノ倉沢で起きた遭難事故のこと、なんだね?」

明晰な警察官の顔のままで周太が訊いた。
頷いて英二は言葉を続けた。

「もう50年以上前の事件なんだ、周太。
 遺体がザイルで宙吊りになってね、そのザイルを狙撃で切断して、遺体を落下させることで収容したんだ」

1960年9月19日。群馬県警谷川岳警備隊に一ノ倉沢で救助を求める声が聞こえたとの通報が入った。
そして警備隊が現場に急行し、一ノ倉沢の衝立岩正面岩壁の上部200m付近でザイルで宙吊りになった2名の登山者を発見。
遠方からの双眼鏡による観測で確認、すでに2名は死亡していた。遭難の原因は不明だがスリップしたとされている。
現場となった衝立岩正面岩壁は、当時登頂に成功したのは前年の1例のみという超級の難所だった。
そのため接近しての遺体収容は二次遭難の危険が高いと判断され、長い鉄棒に巻いた油布に点火しザイルを焼き切る案が出された。
だが検討の結果不可能と判明し、遺体を宙吊りにしているザイルを銃で狙撃切断して収容することになった。

5日後の9月24日。陸上自衛隊の狙撃部隊が召致され銃撃を試みた。
射手を務めた隊員は射撃特級の資格所持者だった、それでも数百メートル先のザイル切断は難しかった。
狙撃開始2時間で1000発以上の小銃・軽機関銃の弾丸を消費し不成功。
その後、ザイルと岩の接地部分を銃撃することでザイル切断に成功、滑落した遺体を収容した。
遺体が滑落する様子は多くの自衛隊関係者、山岳会関係者や報道関係者が見守りフィルムに記録された。

「最終的に消費した弾丸はね、1300発に上ったんだ。
 当時のニュース映画では『あまりに痛ましい遺体収容作業』だったって言っている。
 この時のザイル切断をね今日は再現してもらうんだ。弾丸数は限られているし条件も違うけれどね。
 奥多摩にもクライミングのポイントがある、同じ事故が起きないとも限らない。備えて対応を考える参考データにするんだよ」

話し終わって英二は周太の顔を見た。
ほっと息を吐いて周太は英二を見あげて見つめてくれる。
そして穏やかな口調で訊いてくれた。

「…一ノ倉沢。いつか、英二も登りに行くのでしょう?」

やっぱり訊かれたな。
大丈夫だよと微笑んで英二は周太に答えた。

「うん、行くよ、周太。この冬の間に国村と行ってくる。いま登っておかないと、来シーズンに間に合わないからね」

ぱさりと雪が梢から落ちた。
その音にも周太は顔をあげない、アイゼンで雪を踏みながら周太は黙って歩いている。
こんなところで話すべきじゃなかったかな、すこし後悔しかけた時に英二は額を小突かれた。

「ほんとバカだね、この男はさ?湯原くん、そんな俯かなくていい。ほら、こっちを見なよ?」

底抜けに明るい目で笑って国村が周太に話しかけた。
声に周太が顔をあげると国村は細い目を温かく笑ませて笑いかけてくれた。

「俺と宮田はさ、体格がそっくりだろ?
 俺はね、一ノ倉沢も滝谷もね、無事に登って帰ってきた。マッターホルンもね。
 だから大丈夫だよ。俺と似ている宮田なら、必ず無事に登れるね。そして無事に帰ってくる。安心しな?」

底抜けに明るい目は真直ぐに周太を見つめている。
そんな真直ぐな視線に、すこしだけ微笑んで周太は国村に短く訊いた。

「ほんとうに?」
「ほんとうだね。こいつは俺が無事に帰らせるからさ。だいじょうぶだよ、湯原くん?俺が約束するよ」

黒目がちの瞳が国村を見あげて見つめた。
ゆっくり瞬くと考え込むようにまた足元を見つめて歩いていく。
さくさくアイゼンが雪踏む音を聴きながら、どこか寂しげに周太は歩いていた。
そして唇が開いて、周太は言った。

「ん、…そう、だね」

ぽつんと言って微笑むと、周太は向こうの空を見あげた。
その視線の先には岩場とザイルが見えている。


登山口に着くと国村が英二に目配せを送った。
さり気なく横に立つと細い目がすっと細まって英二を真直ぐ見つめた。

「なあ、宮田?湯原くん、大丈夫か?なんか今日はずっと様子が変だ。昨夜、なにがあった?」

低い声で国村が訊いてくれる。
やっぱり様子がおかしいと思うんだ?英二も低い声で話した。

「うん…いつもより周太、一緒にいたがるんだ。
 昨夜、そのまま寝ようと思ったんだ。でも周太から求めてくれた、そして今朝も一緒に風呂に入った」

「ふうん?…らしくないね、なんか…うん?そうか、そういうことかな?」

英二の話を聴いて国村が首傾げて頷いた。
なにか国村は解ったのだろう、なんだろうと見つめていると細い目が温かく笑んだ。

「うん、まあ、大丈夫だろ?とりあえずさ、ちょっと銃座まで往復デートしてくるね。
 ここまで今日は俺が湯原くん独り占めしちゃってるけどさ?ま、あんまり嫉妬するなよ、宮田?」

からり笑って国村は英二の額を小突いた。そして「じゃ、またね」と軽やかに周太の横へと行ってしまった。
国村と周太は、今度はふたりで狙撃の銃座ポイントへと登ることになっている。
後藤副隊長たちはザイルに吊るされた標的が、滑落する予定ポイントへと回収のため、ここからは別行動だった。
底抜けに明るい目で国村は周太に笑いかけて説明してくれている。

「さ、湯原くん?ここから2人きりだけどさ、安心しなね?襲ったりしないからさ」
「ん、はい…ええ、」

英二は、まだどこか沈んでいる周太の様子が気になってしまう。
登山口へ向かう周太を追いかけて、英二は周太の右掌を掴んだ。

「周太、」

呼んだ名前に振り向いてくれる。
握りしめた右掌は登山グローブに表情が隠されて解らない。
このグローブもいま着てくれている水色のウェアも、年明けに英二が贈ったばかりのものだった。
自分の選んだものを着て、英二の想いと一緒に立ってくれている。

「周太?今夜はね、俺、…周太と晩飯、食えるんだよね?」

どうかお願い頷いて?
祈るような想いで見つめる黒目がちの瞳が微笑んでくれる。

「ん。一緒に食べて?…なに食べたい?」
「周太が食べたいものが良い、俺、周太がしたいこと一緒にしたい。だから、周太?俺、周太と一緒が良いよ?」

ほんとうは今だって、一緒に山へ登りたい。
けれど自分は吉村医師の助手として、ここに残らなくてはいけない。
でも一緒に行きたいのに?想いが周太の右掌を離せなくて竦みそうになる。
そんな英二に周太は、やさしく微笑んでくれた。

「ん。一緒が良いな?…俺はね、英二が食べたいものが、食べたいな?…考えておいて、お願い、英二」

きれいに微笑んで周太は、右掌を掴んだ英二の手に左掌を重ねてくれる。
そして右掌と左掌でくるむようにして、そっと英二の手を離した。

「行ってきます、英二?」

きれいに笑って周太は踵を返した。
その周太の掌をとって国村が、登山道入り口の凍った沢を越えさせてくれる。

「ここは岩場だ、アイゼンの刃を傷めないようにね?このあとが困っちゃうからさ、」
「ん、…ありがとうございます。もう、手、離して大丈夫です」
「うん?でもここ滑りやすいんだ、このまま渡るよ?」

テノールの透る声がどこか優しい。
遠ざかっていく声と気配を見つめながら英二には、国村の想いが解ってしまう。
国村と英二は似た者同士、だから考えていることが解りやすい。だから信頼が出来る。
けれど直情的な自分は周太を独り占めしたい。ほんとうは、自分が周太の手をひいて山に登らせてやりたい。
自分以外の人間が周太に想いをかけることは、ほんの少しでも本当は嫌だから。

―…あいつね、きっと好きなんだ。恋愛とかじゃなくて、もっと、

今日は国村はずっと周太と行動をしている。そんな2人の様子を見ていて英二は気がついてしまった。
初めて国村にあったとき英二は、どこか周太と似ているように感じた。
それはきっと純粋無垢な心がふたりは同じ、だから似ている部分があっても不思議なはい。
そんな国村も気難しくて人に心を開きにくい、それは周太とよく似ている。
そして国村は両親を、周太は父親をもう亡くしている。だから2人は「時」の大切さを知っている。
きっと鋭敏な国村は周太のなかに、自分と同じものを感じ取っているだろう。だからさっきも周太の様子に気がついていた。
そして共通するものが多い周太を国村は大切に思っている。恋愛とかそういう感情じゃない、ただ大切に思っている。
だから国村は英二が周太のために向かう危険にも、一緒に立とうとしている。

底抜けに明るい目をした誇らかな自由まぶしい大好きな友人。
秀麗な顔に似合わないエロオヤジで、自由な心のままに恋愛も経験も楽しんでいる。
そして真直ぐで偽ることのない山ヤの最高の魂を持って、英二に運命の友達だと言ってくれた。
あの富士の山でアンザイレンパートナーを初めて組んだ、絶対的信頼を結び合える相手。

そんな友人を信じなかったら、自分は誰を信じればいいのだろう?
ことんと肚に想いが落ちて英二は微笑んだ。

― 周太のことも、あいつを信じよう

自分とよく似た直情的で熱情がつよくて誇り高すぎる男。
自分とよく似ているから知っている、あいつは約束を必ず守ること。
そして必ず自分と一緒に最高峰を踏破する夢を叶えていくこと。

―… 何でも俺には言っちまいな?…聴いてさ、蹴飛ばして、笑ってやるよ

そんなふうに笑って信頼と友情をいつも示してくれる。
だからあとで言ってみよう、いま自分が考えてしまった嫉妬と想いも。
そして聴いて笑ってもらって、一緒に笑えばいい。

「宮田、おつかれさん」

ぽん、と肩を叩かれて振向くと藤岡が笑っていた。
藤岡はザイル係として今日はずっと別行動だった。
人の好い笑顔の同期にほっとして、英二は笑いかけた。

「おつかれさま、藤岡。一旦退避?」
「そうだよ、万が一でも流れ弾が当ったら危ないだろ?」
「だな。でもまた登るの大変だな?」

そんな話をしながら岸壁のザイルを英二は見つめた。
そろそろ始まる頃だろうな?英二は左手首のクライマーウォッチを見た。

そして銃声が1発大きく響いた。

銃声の衝撃波が山間に木霊してリフレインしていく。
そこにまた規則正しくそろえるように銃声が1つ響いて、木霊が追いかけていく。

「うわ、…すごいな、銃声」

横で藤岡が目を瞬いた。
驚くよなと目で笑って英二は、発砲時刻をボードの紙に記入した。

スタートから15分経って、まだザイルは切れ落ちない。さすがの2人でもザイルは狙撃が難しいターゲットだろう。
それでも弾丸数は渡された分だけしかない、クライマーウォッチで時間計測しながら銃声音を数えて英二は呟いた。

「…そろそろ、半分かな?」

その瞬間、1声の銃声とともにザイルが切れ落ちた。

「うわ、すげえ!ほんとにザイルを撃ち抜いた!」

横で藤岡が笑った。そして周りでも驚きと称賛の声が上がる。
ザイルが切れて標的が滑落していく、後藤副隊長から無線を受信して英二はとった。

「俺だよ、宮田。こちらからも滑落を目視した、いま回収に向かっているよ。おまえさんの方はどうだ?」
「はい、弾丸数は半分を残していると思います。木霊がすごくて、聴いただけでは正確な数は解りませんが」
「そうか、かまわんよ。空薬莢を見れば弾数は解るからな。それにしても、すごいな?ほんとうにザイルを撃ちぬいたなあ?」

そんなふうに笑って後藤は無線を切った。
けれど英二は素直には喜べないでいた、少し気懸りがある。

ザイルが切れた直後、もうひとつの銃声を英二は聴いた。

「なあ宮田?いま、ザイルが切れた後にさ、1回、銃声が聞こえなかったか?」

横に立つ藤岡が訊いてきたる。聴こえたのは自分だけじゃない、英二は藤岡の顔を見た。
けれど英二はそのまま微笑んで藤岡に答えた。

「そうか?木霊じゃないかな、あの場所ってさ、一回の音に何度か反響するから」
「そっか、そうだね。じゃ、ザイルの回収に行ってくるな」
「ああ、気をつけて」

そう言って藤岡を見送ると英二は、鑑識ファイルを閉じた。
そして吉村医師の元へ行くと計測データのメモを渡して微笑んだ。

「先生、今の計測データです。チェックお願いできますか?
 そしてすみません、見て頂いている間に2人を迎えに行っても良いでしょうか。今朝は周太、少し熱っぽかったから気になって」

「はい、構わないですよ?気をつけて行ってくださいね」
「ありがとうございます、」

きれいに笑って英二は登山道を歩き始めた。
いつものペースで登りながらも足運びが早くなっていく。
そうして雪を踏んでいくアイゼンの音を聴きながら、銃声が響いたときの記憶が網膜に甦る。

最後、1つの銃声が響いた。そして火の色が見えた、だからあれは木霊じゃない。




(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第33話 雪火act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-01-28 21:55:17 | 陽はまた昇るside story
おもうひとは唯ひとり、




第33話 雪火act.3―side story「陽はまた昇る」

夕方から夜間にかけての弾道調査が終わり、奥多摩交番を出たのは19時半を過ぎていた。
標高の違う2地点での狙撃実験完了後、特設された実験場を片づけ明日の打ち合わせをして解散となった。
明朝は夜明前の6時に奥多摩交番へ集合となる、今日を終えて青梅署へ戻るミニパトカーで周太は眠りこんだ。
余程疲れたのだろう、墜落睡眠の癖が出たまま隣に座る吉村医師の肩に凭れこんでいる。
助手席から肩越しに振向いて英二は吉村医師に微笑んだ。

「すみません、周太がすっかりお世話になって」

富士登山訓練に行った英二は遭難救助と悪天候の為に下山連絡が遅れた。
それで不安になった周太が、青梅署で親しい吉村医師に連絡して泣いてしまったらしい。
そこで吉村医師は懸案事項だった弾道調査の実施に踏み切り、射手として周太の応援要請を新宿署に出してくれた。
そして今の周太は今日の任務を終えて、安心しきった顔で吉村に凭れて眠っている。
すこし紅潮した幼顔で眠り込む周太を見、吉村は温かく微笑んだ。

「いや、構わないですよ?むしろ私はね、うれしかったです。
 湯原くんは純粋すぎるでしょう?だから心を開くことが難しい。そんな彼が私を信頼して泣いて頼ってくれた。
 そして今こうして安心して眠ってくれています。こういう信頼はね、本当に嬉しいです。そして、私には懐かしい」

おだやかに微笑んで吉村医師は英二の顔を見つめた。
そしてそっと低い声で吉村は記憶を重ねて口を開いてくれた。

「宮田くんと初めて一緒に山へ登ったとき。
 雅樹の話をしましたね?あの子が医者になろうとしたきっかけのこと。
 あの日の雅樹も、パトカーで青梅署から私の実家へ送ってもらうとき、こんなふうに眠り込んでいました。
 湯原くんは23歳ですが13年の時間を止めていた。心は10歳と、宮田くんに出会って過ごした9ヶ月半が精神年齢です。
 だからかな?あの日の12歳だった雅樹を思い出します…きっと、今日のことは湯原くんにとって、本当に疲れたでしょうね」

肩越しに英二は周太の顔を見つめた。その寝顔は幼くて23歳の男とは思えない。
吉村医師が言う通り周太の心は10歳と9ヶ月半でいる、それを英二もよく解っているつもりだった。
そんな周太には今日の、英二の安否が確認できなかった時間は大きな負担だったろう。
ほんとうに可哀そうなことをしてしまった。そんな想いで見つめる英二に、運転席から透るテノールが低く笑いかけてくれた。

「ほんとにさ、かわいい寝顔だね?こりゃ眼福だな、俺の疲れは吹っ飛んじゃうよ」
「かわいいだろ、周太?でも寝顔だって俺のものだよ?」

笑って釘刺すと国村は飄々と笑った。
そして信号で停まった隙に英二の額を小突いてきた。

「はいはい、解っているよ。まったく仕方ない男だね?ま、手出しするならさ、おまえにするから安心しな。俺は美人好きだからね」
「俺だって嫌だよ?でも周太を守る為なら仕方ない、かな?」

ほんとに悪代官に身を差し出す小娘の気分だろな。
そんな想像に笑ってしまうと、横から国村も笑ってくれる。
そう笑いながらバックミラー越しに周太の顔を見、細い目を優しく笑ませると言ってくれた。

「ほんとに湯原くん、きっと疲れていると思うよ。俺たちの心配した上にさ、あの環境での狙撃だろ?疲れて当然だよ」

今回の狙撃は夕刻から夜間にかけて、雪の山中に設けた標高差がある2ヶ所の実験場を往復して行った。
時間としては夕刻・日没直後・夜間の3時点。場所は標高1,500m付近と1,800m付近。
各ケースの狙撃がどんな影響を受けるのかを、照準を定める所要時間・着弾率・弾道の伸びと角度などのデータを収集した。
光線量と気温、湿度、時間経過による雪の凍結に伴う足場の変化と標高が影響を受けるポイントになる。
とくに夕刻は光線量が刻々と変化していく為に視界が不明瞭になりやすい、「誰彼時」という言葉もそこから生まれた。
そんな狙撃調査の感想を、ハンドルを捌きながら国村が教えてくれる。

「湯原くんはさ、屋内の競技射撃に慣れているだろ?野外は全く環境が違うんだ、特に風と障害物が気を遣う。
 でさ、初弾から夕方の視界が悪い状態での狙撃だった。そのあとも夜間の目視と暗視スコープを使っての狙撃だろ?
 しかも足場は雪山だ、傾斜のある足場だけでも不慣れなのに、雪で滑りやすかったはずだ。
 発砲の衝撃を受けたときは踏ん張りも大変だったろうね。どの条件にしても湯原くんは初めての環境だ。そりゃ疲れるよ?」

それでも周太は全弾中心点を撃ちぬいていた、そして国村も。
いつも国村はわざと2割は中心点を外して狙撃する。けれど今日の国村は全弾的中で狙撃した。
そんな国村の狙撃精度は生真面目な周太にとってプレッシャーだったろう。
けれどそのことは英二から触れることはしない、周太には周太の誇りがあることを英二も知っている。
英二は国村に訊いてみた。

「うん、そうだよな。やっぱり国村は平気なんだ?」
「まあね、俺はクマ撃ちがベースだからさ?山での狙撃が基本だ、時間も場所も選ばないよ。だからこっちの方が俺は気楽だね」

からり笑うと国村は青梅署の入り口近くにミニパトカーを停めた。
そして助手席を振向くと英二に笑って提案してくれた。

「ほら、宮田?荷物をまとめてこいよ。これじゃ湯原くん起きれないだろ?このままホテルまで送ってやるよ、」
「え、でも悪いな?」

ここからはプライベートなのに公務用のパトカーを遣うのは気が退ける。
いつもの真面目に英二が首傾げると呆れたように国村が笑ってくれた。

「ほら、先輩の俺が良いって言ってるんだ。さっさと仕度して来いよ?おまえもどうせ、一緒に泊まる気なんだろ?」
「うん、ありがとう。でもさ、ちょっと吉村先生の前で言われると俺でも気恥ずかしいな?」

そんなふうに笑いながら助手席の扉を開けると、英二は急いで独身寮の自室へ戻った。
外泊申請は弾道実験に行く前に提出してある、自分の着替えを手早くまとめて周太の荷物と一緒に持つと廊下へ出た。
そこにちょうど藤岡が通りかかって英二は微笑んだ。

「藤岡、おつかれ」
「お、宮田。富士訓練の後でさ、そのまま調査だろ?おつかれさま」
「うん、俺は大丈夫だよ。国村も元気だ、」
「そっか。俺も明日はサポート入るよ、ザイルの係なんだ」

一緒に歩きながら話して外泊・外出の申請窓口まで来ると英二は一声かけた。
それから急いで歩きながらまた話しはじめた。

「藤岡は明日、ほんとは非番だろ?」
「うん。でも宮田だって今日は非番で明日は週休だろ?それに湯原なんかさ、新宿から来てすぐ射手をやったんだろ?」
「あ、藤岡、射手のこと知ってたんだ」
「そりゃね?俺も明日は人員だからさ、説明で聴いたよ。よかったな、おまえら会えてさ」

人の好い顔で藤岡は笑ってくれる。
こんなふうに藤岡は気の良いヤツだ、けれどたまに無意識ですごい図星をついてくる。
そろそろ危ないかな?ちょっと覚悟したところに藤岡が、からりと言った。

「明日は5時過ぎにここで集合だよな。今夜はさ、湯原を疲れさせるなよ?じゃあ明日な」

藤岡の中ではすでに「英二は周太に手を出している」と確定しているらしい。
もう左肩の痣も国村と一緒に飲み会で見られているし、仕方ないのかもしれない。
それに人の好い藤岡はフラットな目で見てくれていることも英二はよく解っている。
それでも同期だからこそ話せないことも多い、それが寂しい気もするけれど仕方ない。英二は微笑んだ。

「おう、気をつけるよ?じゃ、また明日な、藤岡」

そんなふうに別れてミニパトカーに戻ると、吉村医師は相変わらず周太を凭せ掛けたまま座っていてくれた。
急いで助手席に乗り込んで英二は吉村に頭を下げた。

「すみません、先生。お帰りになりたかったんじゃないですか?」
「いや、大丈夫です。ちょっとの時間ですしね?」

おだやかに温かな眼差しで笑ってくれる。
そしてすこし済まなそうに静かに言ってくれた。

「堀内から聴きました、あと佐藤小屋のご主人にも。2人から雅樹に間違われたそうですね?」
「はい、」

短く答えて英二はきれいに笑った。
どうか謝らないでくださいね?そう目でだけ英二は吉村医師に伝えた。
そんな英二に微笑んで吉村は教えてくれた。

「2人ともね、宮田くんのことを好きだと言っていましたよ?そして言われました、
『しっかり救命技術と山を教えてやれ、そして雅樹の分も山へ登って貰え』そんなふうにね、笑っていました」

吉村医師の目許からひとすじだけ涙がこぼれた。
けれど笑って吉村は言った。

「雅樹のこと、尊敬してくれるんですね、宮田くん。2人から聴きました、そして私はね、心から嬉しかった。ありがとう」

本当のことを自分は言っただけ、けれど本音だから聴いて貰える。
きれいに笑って英二は答えた。

「こちらこそ、ありがとうございます」

雅樹と自分の出会いは、生きてめぐり会ったことはない。
けれど誰かに聞かされるなかで、自分にとって大切な親しい人と思えてしまう。
そんな雅樹のことを尊敬している自分がいる。彼のように出会う人を救け、惜しまれる男になれたらいい。
そう考え事をするとすぐ、前にも周太が泊まったビジネスホテルへと着いた。

「じゃ、宮田。明日は5時過ぎに青梅署ロビーな?朝飯は食ってこいよ、昼は肚塞ぎの握飯が用意されるってさ」
「うん、ありがとう。また明日な、」

そんなふうに別れると英二はビジネスホテルのエントランスを潜った。
そう入ってきた英二を見てホテルマンが驚いた。

「お客さま!お加減でもお悪いのですか?」

英二は登山ザックを背負った救助隊冬服姿で周太を抱きかかえていた、その周太は登山ウェアを着ている。
山岳救助隊員が登山ウェアを着た人間を抱えていたら、遭難救助だと思われるだろう。
これじゃ驚かれても仕方ないかな?ちょっと可笑しくて笑いながら英二は答えた。

「いいえ、ただ疲れて眠っているだけです。先に部屋で寝かせてからのチェックインでもよろしいですか?」
「はい、かしこまりました。ではお部屋でお手続きのご案内を致します、このままではドアも開けられませんでしょう?」
「そうしていただけると助かります、お手数をすみません」

部屋へ案内されて開錠してもらうと、周太をソファへおろしてから英二はチェックイン手続きを済ませた。
もとから周太が予約した部屋と別室で英二は自分の部屋をとった。今回の周太は公務だから領収書を提出するだろう。
そのときに領収書が英二と同じだと困ってしまう。
でも、同じ部屋に泊まるけどね?そう心に思いながらソファを覗きこむと周太は眠っている。
ウェアの上着だけ脱がせて毛布を掛けると、英二は救助隊服のアウターシェルの上着だけ脱いだ。
クライマーウォッチを見ると20時半前だった、きっと駅ビルの食品街はまだ開いている時間だろう。
周太はいつ起きるか解らない、それに明日の朝食も必要になる。私服のミリタリージャケットを羽織ると英二は外へ出た。

買物をして戻ってくると周太はまだ眠りこんでいる。
しずかに買ってきたものをサイドテーブルに置くと、英二は浴室のバスタブの蛇口をひねった。
そっとソファを覗きこむと周太はかすかな紅潮した幼顔で眠っていた。

「…いつ見ても、かわいいな」

うれしくて微笑んで英二は毛布を掛けたままでそっと周太の服に手をかけた。
そして眠り込んだままの周太を浴室へ連れて行くとバスタブの湯に気をつけて浸からせてやる。
これで起きるかな?そう見ても少し身じろいだだけで起きてくれない。
こんなことが前にもあった。

―お父さんの殺害犯に、会った日の翌朝だったな

周太の父の殺害犯は更生してラーメン屋の主人になっていた。
その彼に会いに行ったときも英二は山岳救助隊服を着ていた。
そのあと泣いていた周太を放っておけなくて英二は、新宿に泊まって翌朝は周太を奥多摩へ連れ帰った。
あれから2か月以上が経った今、また救助隊服を着た英二は今度は奥多摩で周太を風呂に入れる。
なんだか既視感で可笑しいな?ちょっと笑って英二は自分も救助隊服を脱いで浴室の扉を閉めた。

周太が目を覚ましたのは風呂も済んで、いつもの白いシャツに着替えさせた後だった。
先に急いで服を着た英二が周太のシャツのボタンを留め終わった所で、ベッドの上で周太は睫を開いた。
披いてくれた瞳がうれしくて英二は笑いかけた。

「おはよう、周太。俺の婚約者さん、」

黒目がちの瞳がひとつゆっくり瞬く。
すこし小首を傾げて不思議そうに周太は見上げてくれる。
そして静かに手を伸ばして英二の頬に掌を添えてくれた。

「…えいじ?」

呼んでくれた名前がうれしくて英二はきれいに笑った。
見つめる周太も綺麗に微笑んで、掌でくるんだ英二の顔をそっと惹きよせてくれる。
頬ふれる温もりがうれしくて、英二は惹かれるままに周太の唇にキスをした。
かさねた唇からこぼれる吐息がなつかしい。
やわらかな温もり、ふれる甘やかな気配、しずかな想いが充ちてふれてくる。
今日の朝には風雪の中に自分は立っていた、この唯ひとりを想って帰りたいと痛切に願った。
そして今は現実にくちづけをして温もりにふれている、そんな幸せな想いが温かい。
しずかにキスを離れて英二は周太を見つめた。

「周太、俺のこと、迎えに来てくれたね?…ありがとう、周太。愛してるよ」
「…ん、…ただ待っているのは、嫌だったんだ…あいしているから」

気恥ずかしそうな紅潮が昇る頬を見下ろしながら英二は幸せだった。
周太は泣き虫で純粋で、けれど聡明な努力家で潔癖に誇り高い。
その誇り高い潔癖が周太を支えて、孤独にも凛として立って13年間を生きてこられた。
そんな周太は泣くことは出来なかった、けれど英二に素直になった周太は涙を流すようになった。
そうして今日も周太は吉村医師に素直に泣いて、英二の為にここまで来てくれた。

「周太、おいで?」

笑って英二は周太を抱き上げるとソファに座らせてやった。
そして買ってきたパンと洋惣菜をならべると、グラスに飲み物を注いで周太に渡してやる。
オレンジ色の発泡性の飲み物に周太が気恥ずかしげに英二の顔を見あげた。
気付かれちゃったかな?笑いかけながら英二は周太のグラスに自分のグラスでかるく触れた。

「ミモザだよ?軽めの酒だし一杯だけだ、よく眠れるようにね、周太?」

スパークリングワインとオレンジジュースでつくったカクテル「ミモザ」は欧州では結婚式の祝の酒として飲まれる。
それを英二は知っていて、婚約を申し込んだ年始の夜にこれを周太に飲ませた。
その時の記憶が気恥ずかしいのだろう、首筋を赤く染めながら周太はグラスを見つめ、それから微笑んだ。

「…ん、はい」

恥ずかしげに頷くとグラスに口をつけてくれる。
ひとくち飲んでほっと息をつくと周太は微笑んでくれた。

「おいしいね?オレンジの香で好き…けっこんしきのなのは…はずかしいんだけど」
「うん、周太。やっぱり気に入ったみたいだね、好きなら恥ずかしがらずに飲んで?周太、オレンジのケーキもあるよ」
「あ…うれしいな、甘いもの、ちょっと食べたかったんだ。あ、」

急に思い出したように周太は席を立つと、自分の大きなボストンバッグを開いた。
気をつけながら紙袋を取出すと、それを持って周太はソファに座りなおした。
その紙袋に見覚えがある、微笑んで英二は訊いてみた。

「いつものパン屋、今日も行ったんだね、周太?」
「ん…いつもね、当番勤務の日はここで買って、夕飯にするんだ」

また恥ずかしげに言いながら袋を開けると、皿の上にクロワッサンとオレンジブレッドを出してくれる。
見覚えのあるクロワッサンがうれしくて英二は周太に訊いてみた。

「ね、周太?このクロワッサン、半分こしてくれる?」
「1個ぜんぶ英二が食べてもいいよ?…俺、オレンジの食べたいし」

やさしい笑顔で英二に笑いかけてくれる。
けれど英二は微笑んで半分にすると1つを周太に渡した。

「はい、周太?俺ね、半分こしたいんだ。周太とね、1つを分けっこしたい」
「そうなの?」

不思議そうに周太が見つめてくれる、そんな様子も可愛くて英二は周太の頬にキスをした。
ふれた頬があわく赤に彩られていく、こういう初々しい周太が英二は大好きだった。
やっぱり周太、かわいいな?そんな婚約者がうれしくて見つめながら英二はクロワッサンをかじった。
そしてふと露天風呂の一件を思い出して、すこし笑ってしまった。

「どうしたの、…英二?」

素直に半分こしたクロワッサンを食べながら訊いてくれる。
真白なシャツを着た周太は純粋で清楚な艶がきれいで、ほっと英二は見惚れながら微笑んだ。

「うん、周太はね、きれいで可愛くって、大好きだなあって思って」
「それで、笑っていたの?」
「そうだよ、周太。周太が俺の婚約者で良かったなあってさ、幸せで笑った」
「ん…?そう、なの?」

不思議そうに聞いてくれる様子が、だいぶ元気そうで英二は少しだけ安心した。
さっきまで周太はぐったりと墜落睡眠に眠り込んでいた、それだけ疲れ果てたのだろう。
熱でも出したらと心配だったけれど、いまはすっかり元気になって食事もきちんと摂り終えてくれた。
そしてコーヒーを周太は淹れてくれると、うれしそうにオレンジのケーキにフォークをつけた。

「ん、…英二、このケーキおいしいよ?」
「よかった。ね、周太?俺にもひとくちくれる?」
「はい、どうぞ?」

やさしく微笑んで周太はケーキ皿を差し出してくれる。
けれど英二は笑って長い人差し指で自分の口元を指差してみせた。

「ね、周太?あーん、してよ」

言われて皿を持ったまま周太が停まってしまった、その首筋に紅潮が昇っていく。
こんなことでも周太は気恥ずかしがって、赤くなってしまう。
でもしてほしいな?隣にすこし体を傾けて英二は微笑みかけた。

「お願い、周太?俺、周太に食べさせてほしいよ?」
「…そう、なの?」
「そうだよ?」

すこし指先を触っていた周太はフォークを持つと、オレンジのケーキを一口分切ってくれる。
そしてフォークの先に刺して英二の口元へ持ってきてくれた。

「あの、はい…」

頬まで赤くしながら「精一杯です」という顔が困っている。
これは「あーん、って言ってよ?」とまで要求したらきっとダメだろうな?笑って英二は差し出されたケーキを口に入れた。
ほろりオレンジの香がとけて甘さが口に広がる、これはきっと周太好みの味だったろう。
そう思いながら口を動かして隣を見ると、赤い頬のままで周太はケーキを口に運んでいる。
その唇の端に赤いものがついていた。たぶんトマトかな?そっと顔を近寄せると英二は周太の口もとを舐めとった。

「…っ!」

黒目がちの瞳が大きくなって呼吸が一瞬止まってしまう。
そんなに驚かなくてもいいのに?そう瞳を覗きこむけれど驚く様子が愛おしい。
やっぱり自分は周太が可愛くて愛しくて他を考えるのは無理だろう、微笑んで英二は周太に教えた。

「トマトが付いていたんだよ、周太?」
「…ん、はい…とってくれてありがとうございます」

少し困った顔で自分でも指先でそのあとにふれている。そんな様子が可愛らしい。
さっき吉村医師にも言われたように周太の心は、やっと10歳10か月を迎える少年のままでいる。
そういう少年のような可愛らしい23歳の周太が好きな自分は、ちょっと合法的犯罪者みたいだな?
そう思ったときにアウトローな自分のアンザイレンパートナーを思い出してまた英二は笑ってしまった。

「英二?…今日はどうしたの?」
「うん?ね、周太?もし俺がね、誰かに襲われちゃったら、どうする?」

なにげなく英二は訊いてみた。
さあ周太は何て答えてくれるだろ?そう覗きこんだ瞳は驚いて大きくなっている。
この顔が可愛くて英二は好きだった、かわいいなと見て思わずキスをして、英二は微笑んだ。
けれど周太は哀しそうに俯いてしまった。

「周太?ね、どうしたの?」

哀しませてしまった?
すこし焦って英二は周太の顔を覗きこんだ。
そう見つめる周太の瞳から涙がこぼれている、そして小さな声がそっと周太の唇からこぼれおちた。

「…くにむらさんと、なにかあった、の?」

そう言って周太は膝を抱え込んでしまった。
この姿勢になった周太を英二は見たことがある。

― 修学旅行の時、周太は俺に誰か好きな人がいる、て思ったんだよな?

そして周太はこの姿勢になって「今は近寄らないで」と全身で訴えていた。
いま周太は同じ姿勢になって抱えた膝に顔を伏せてしまっている。
きっとあのときと同じ意味で周太は、この姿勢のなかに閉籠ってしまった。

「…周太、」

英二は膝を抱きこんだ周太をそのまま背から抱きしめて頬に頬寄せた。
寄せた頬がふるえている。

周太は泣いている、ふるえる肩もかすかな涙のむ声も周太の哀しみが痛い。
周太は今日こうして来るために「吉村医師に電話で泣いてしまった」と言っていた。
周太がそんなふうに泣くのには、いったい何の話を吉村医師にして周太は泣いたのか?
そこまでして周太が来てくれたのに、こんな誤解に泣かせてしまっている。

自分が不甲斐なくて哀しい。
けれど今は自分のダメさや哀しみよりも周太の誤解をきちんと解いておきたい。
そしてこうなった周太には全てを正直に話した方が良い。
どうか逃げないで聴いて?そんな想いと抱きしめて英二は口を開いた。

「国村ね、怪我しただろ?それをさ、あいつ本当は誰にも知られたくなかったんだ。
 山ヤが誇り高いのは自分のミスを許さないからだ。
 謙虚に山を学んで自分のミスを許さない、そんな誇りが山を登る自由を山ヤに与えてくれるんだ。
 だから最高の山ヤの心を持った国村にはね、自分のミスじゃなくても遭難しかけたことが許せないんだ。
 あいつはさ、尊敬も憧れも愛情すらね、全てを『山』に見つめている。あいつには山が全てなんだ。
 そんな山に自分が怪我をさせられたなんてね、国村は誇りに懸けて許せなくて、誰にも知られたくなかったんだ」

抱きしめている肩のふるえは止まらない。
けれど周太は聴いてくれている、やさしい周太には無視するなんて残酷は出来ないから。
そんな周太の優しさに自分はどれだけ癒されて甘えているだろう?
まだ10歳10か月にもならない周太の心に、どれだけ自分は受け留めて貰っている?

― このひとだけが欲しい、隣にいたい

心から願ってしまう、この純粋無垢なままでも勁く真直ぐな優しさを抱いているひと。
だから祈ってしまう掴まえてしまう、このひとには嫌われたくない、誤解されていたくない。
どうかお願いだから聴いてほしいよ?抱きしめる腕にやわらかく力を籠めて英二は続けた。

「だから国村はね、俺に口止めしようとしたんだ。こんなふうにね?
 『誰かに喋るならそれでも構わない、きっと知られたらストレスだろう、でもおまえで楽しませて貰えば解消できるから』
 そんなふうに俺のことをね、あいつ脅迫したんだよ?あいつはね、俺を手籠めにしたって自分の山ヤの誇りを守りたいんだ」

「…てごめ?」

ぽつんと周太が訊いてくれる。
でも訊かれた単語がちょっと困ったな?けれど抱きしめる腕に力こめて英二は答えた。

「無理やりにね、裸にさせてしちゃうことだよ?でも大丈夫、俺はそんなことされていないから」
「…ん、」

ちいさなこえ、だけれど頷いてくれた。
まだすすり上げる小さな声がふるえる肩のはざまから零れおちてくる。
泣きながらも一生懸命に聴いてくれようとしている、このひとが自分は愛しくてならない。
微笑んで抱きしめながら英二は言った。

「国村はね、雪山に怪我をさせられた。けれど、雪山によって手当てされたんだよ、周太」
「…雪山が、手当て?」

顔はまだ上げてくれない。それでも涙の間から相槌を打ってくれようとしている。
いま哀しんでいるのは周太、それなのに英二を気遣って一生懸命に相槌をしてくれる。
やさしい婚約者の想いに微笑んで英二は続けた。

「そうだよ、周太?雪の塊がぶつかって国村は打撲を負った。
 その直後に雪に埋められることで怪我は冷やされ固定された、雪へ埋まることで応急処置と同じ効果を受けたんだ。
 そして国村の怪我は最小限で済んだ。だから俺は思ったんだ。国村は本当に山に愛されている、本当に山の申し子だってね。
 こういう事があるのかって不思議だった。でも国村らしいって思ったよ。だから俺はね、あいつに思ったまま言ったんだ」

「…ん、…よろこんだでしょ?国村さん」
「うん。明るい顔でね、うれしそうだったよ、周太」

小さな声の相槌にも相手への気遣いまで周太はしてくれる。こんなふうに周太は自分より相手を気遣ってしまう。
そういう周太だから相手に遠慮して自分から他人へ踏み込めない、辛い人生の自分に誰かを巻き込みたくない。
だから周太は13年間なおさら孤独に生きて自分の心の時まで止めてしまった。
この優しいひとの為なら自分は全てを懸けてしまう、だからその想いをいま告げたい。英二は抱きしめて微笑んだ。

「そこまでしても国村が誇りを守りたい気持ち。それは俺にも解るんだ。俺もね、周太のことでは同じだから」

そっと周太の顔が膝からあげられた。
涙のあとが瑞々しい頬はすこし紅潮して黒目がちの瞳が濡れている。
この顔が愛しくて切なくて英二はそっとキスをした。

「周太?俺はね、周太を守る為なら何だってする。
 周太を守って幸せにする事、それがね、俺にとって一番の誇りなんだ。だからお願いだ、周太?俺を捨てないでよ」

黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
微笑んで抱いていた膝から離れた掌が英二の頬に添えられる。
そしてきれいに笑って周太は英二の唇にくちびるを重ねてくれた。

おだやかな温もりがふれて甘いオレンジの香がそっとはいりこむ。
ふれるだけ、それなのに甘くて蕩かされてしまう英二が愛するキス。
幸せな想いが温かでやさしい、いつも傍にいてほしいと願ってしまう瞬間が胸に痛い。
そんな痛みと一緒にしずかに離れて、黒目がちの瞳が真直ぐ見つめてくれた。

「捨てない。俺は英二の隣でいたい。
 だから今日も俺、…ごめんなさい、英二…ほんとうは俺、今すぐに、警察官を辞めようって思ったんだ…」

「周太?どうして、」

すこし驚いて、けれど穏やかに英二は訊いた。
殉職に斃れた父親の軌跡を追うために、無理にでも努力を積んで警察官の道に立った周太。
それなのに父親の軌跡もその想いも、見つめ終わる前にその道を捨てるだなんて?
この道に立つ覚悟を警察学校時代に周太は英二に話してくれた、それは頑固なまでの強い覚悟だった。
それをどうして?そんな想いに見つめる真ん中で周太は静かに唇を開いた。

「いちばん大切なひとの元へと、自由に駆けつける。その自由が欲しい…だから警察官を辞めようとしたんだ」

黒目がちの瞳に涙の紗が降りる。
それでも周太は涙こぼさずに英二を真直ぐに見つめた。

「いま…奥多摩に行かなかったら、きっと後悔します…そう吉村先生に言ったんだ。
 英二がどちらの場合でも、きっと…今日すぐ、逢わなかったら後悔する。いま逢って伝えたい、…そう言ったんだ」

「俺たち、明日には逢う約束をしていたよね。それなのにどうして周太、いま俺に逢いたかったの?」

おだやかに微笑んで英二は訊いた。
その英二を真直ぐに見て、周太は言った。

「だって…明日があるか、解らない…っ、」

周太は英二に抱きついた。

「…英二…!」

背中に腕を回してくれる、ふれる掌が温かい。
やわらかな髪から香りたつ英二が洗ってあげたシャンプーと、周太自身の穏やかで爽やかな香。
むねにふれる温かな鼓動がすこしだけ早い、ふるえる肩から周太の不安と想いがあふれだす。
あふれる想いに見あげる黒目がちの瞳から涙がこぼれ落ちていく。

「英二、待ってる、いつまでだって…
 だから帰ってきて英二、俺の隣だけに…お願い、英二、他のところへなんて行かないで…!」

呼んでくれる名前、告げてくれる約束、そして言ってくれる「お願い」と想いの祈り。
どれもが涙がとけて、ふれる温もりが現実のことだと告げてくれる。
この声に涙に温もりに、どれだけ想ってくれるのか伝わってくる。
やさしい指がそっと頬の傷にふれて、また涙がこぼれ落ちていく。

「…怪我…なんて…ダメ…
 俺の知らない所で、怪我なんて、しないで!…無事でいて、お願い…笑って帰ってきて、…!」

冷たい風雪の氷に裂かれた頬を撫でて、黒目がちの瞳が訴えてくる。
英二を見つめて涙と想いをあふさせて、強い願いと祈りをこめて自分の目を見つめてくれる。
どこまでも純粋なまま泣き虫で、それでも強く凛と立つ姿が美しくて、決して逃げない潔癖。
そうして自分の為に1つの勇気を抱いて決意を持って隣に立ってくれている。
この純粋な瞳ばかり見つめて英二はここまで来た、そして今こうして求められることが幸せで英二は微笑んだ。

「周太、必ず帰るよ?俺はね、ほんとうに周太だけだから」
「…ほんとうに?…英二、」

抱きしめる肩は鍛えた痕がわかる、けれど本当は華奢な骨格だと知っている。
頬にふれる指は武道のために節が立っている、けれど本当は繊細で草花を摘むと知っている。
ほんとうはどこまでも繊細でやさしいひと、それでも父への想いの為に困難にも真直ぐ立っている。

「周太、ほんとうに周太だけ。俺にはね?周太だけが、きれいなんだ」

どうしてこのひとを抱きしめないで、他の誰かを抱きたいと想えるだろう?
出会った瞬間から想っている、憧れて反発してそれでも隣にいたくて。
掴みたくて耐えて、それでも応えあって繋ぎとめてしまった。

「周太?俺はね、周太の為だけに全て選んでここにいる。だからね、周太?
 俺が消えるのは、周太が消える時だけだ。そうして俺はね、ずっと周太の隣に帰るよ。離れたりしない」

「…ほんとう?ずっと隣にいてくれる?…何があっても?」
「何があっても、約束だよ、周太?」

きれいに笑って英二は、長い腕で周太を抱きしめた。
抱きしめて抱き上げて、額に額くっつけて英二は微笑んだ。

「ね、周太?こんなことしたいのはね、周太だけだよ?」
「…ん。…でも、遭難救助とかでは、抱っこするでしょ?」
「抱っこはね?でも周太、おでこくっつけたりしないよ?」
「ん、」

含羞んだように笑ってくれる、そんな笑顔が大好きで幸せで英二はキスをした。
そしてベッドへ座らせると隣に座って、微笑んで周太に訊いた。

「周太?いま着ているシャツ、なんか違うって気づいてる?」
「…ん、…サイズ大きいかな、て…」

気恥ずかしげに答えて周太はシャツの袖をすこしひいた。
気付いたけれど黙って着てくれていた、きっと嫌じゃなかったのだろ。

「そうだよ、周太?それはね、俺のシャツなんだ。
 年明けの時、大きいサイズ着た周太がね、ほんとに可愛かったからさ。俺、また見たかったんだ、」

「ん、…そうなの?」
「そうだよ?ほんと癒される、かわいいな、周太」

寮から白いシャツを2枚英二は持ってきた。
そして1枚を周太に着せて眺めて、さっきから幸せな気分でいる。
幸せで微笑む英二に周太は、そっと訊いてくれた。

「あの…もしかして、風呂も、…入れてくれたの?」
「周太、シャンプーの香するだろ?」

言われて真っ赤になると俯いてしまった。
ほんとうは結婚したら時折は一緒に風呂に入ると周太は言ってくれている。
けれど今回は周太は眠り込んでしまっていた、不可抗力だよ?目で言いながら英二は微笑んだ。

「周太、すごく可愛い顔で眠って、起きてくれなかったんだ。
 でも雪山の後だからさ、体を温めないといけないだろ?だから俺が抱っこして、一緒に風呂に入ったんだよ」

「…だっこしてなの?」

ますます気恥ずかしい顔できいてくれる。
そんな初々しい様子もうれしくて英二は笑って答えた。

「うん、すごく可愛かったよ、周太。
 それにさ、明日は4時には起きる。早起きで狙撃は大変だ、周太を疲れさせたらいけないだろ?
 だから今夜は俺、周太を抱いちゃいけないからさ。だからね、周太?風呂で見るのくらい許してよ、ね、周太?」

周太は黙り込んでしまった。
そんなに嫌だったのかな?すこし心配になって周太の顔を英二は覗きこんだ。

「嫌だった、周太?ごめんね…っ、」

覗きこんだ英二の唇に周太が唇を重ねてくれた。
そっと重ねた唇からふれる吐息がオレンジの香に甘やかで惹きこまれてしまう。

― 周太、

重ねたキスが深くなる、覗きこんだ体勢のまま英二は周太の肩を抱きしめた。
そして周太を長い腕に抱きこめキスをして、英二は白いシーツの上に仰向けて周太を見あげた。
白いシャツ2枚を透かして温もりが寄りそってくる。
くちびるが静かに離れると、やわらかな感触が頬の氷の傷へとおりてくる。
ふるような口づけが頬の傷にふれて、額に目許にとキスがふる。
やわらかで温かな感触に英二は周太の体を抱きしめて囁いた。

「…周太、だめだよ…そんなにキスしたら、俺、…きっと抱いちゃう、我慢できなくなるから、」

きっと歯止めが効かなくなる。自分の熱情が自分で怖い、だって明日の周太は射手として早朝から雪山に立つ。
それなのに自分が好きなだけしてしまったら?そんな自分への不信感が募る。
けれどほんとうは、逢ってからずっと抱きしめたいと願っている。
でもきっと今はダメだ、富士で危険に遭って普段以上に尚更に求めたくている。
そんな自分は普段からも熱情的すぎると知っている、きっと今夜は歯止めが効かなくなる。
きっと始めたら止められなくなる、周太を傷つけるのが怖い、そんな自分が怖い。

「…だめじゃない、」

いまなんていったの?
ちいさな声が英二の心におちた。
抱きしめたひとの頬に頬寄せて英二はそっと訊いた。

「周太…なんて言ってくれたの?」

いま言ったこと、もう一度きかせて?
寄せた頬を頬で撫でて確認してしまう、そんな英二にちいさい声でも周太は言ってくれた。

「…明日があるかなんて…解らないから…だから…いま抱きしめて?英二…」
「周太、いいの?…でも、明日の射手は…」

言いかけた英二の唇に周太の唇がふれる。
やわらかな甘さに英二の言葉がとかされ消えて、そして周太が微笑んだ。

「英二がいちばん大切なんだ、他に優先するものなんてない。
 だって俺はね…もう、決めている。こんなの警察官として失格だと想う、でも…俺は英二の為だけに生きたい。
 今はまだ父のために辞職はしない。それでも本当はもう、俺は英二の為だけに生きている。だから、だから、…」

いま隣にいる愛しい顔を長い指でくるんで見つめて
見つめてくれる黒目がちの瞳をまっすぐにでも穏やかに覗きこんで
その瞳の奥にはもう強く美しい意志と勇気がこちらに微笑んでくれる

そうして見つめる想いの真ん中で、やわらかな唇から大好きな声が告げてくれた。

「だから英二…抱きしめて?そして朝には、花嫁として見つめて…?」

婚約の花束にあった真白なスカビオサの花。
あの花の言葉を英二も覚えている、だって英二にとっても一世一代の婚約の申し込みだから。
あの花の言葉に寄せた想いは「朝の花嫁」そんな幸せを毎朝に迎えられる日への祈りの花。
それを周太は覚えてくれている、きれいに笑って英二は答えた。

「周太、愛しているよ?俺の花嫁さん。朝も、今も、この先もずっと。きっと出会う前からずっと愛してる」

微笑んで抱きよせて、くちづけを交して
やさしい温もりと肌から香る想いを抱きしめて、想いを刻んで繋いで約束を確かめて
しあわせな熱と甘やかな感覚に蕩かされる心を重ねて、抱きしめて、おだやかな夜まどろんで

まだ暗い4時に英二は贈られたクライマーウォッチの時刻に微笑んだ。
そして腕のなかに微笑んで眠る周太にキスをした。

そっと額にキスをして




(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第33話 雪火act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-01-27 23:59:39 | 陽はまた昇るside story
熱、誇り、わかりあえる相手




第33話 雪火act.2―side story「陽はまた昇る」

国村の運転するミニパトで奥多摩交番に着くと後藤副隊長がスタンバイしていた。
夕暮れ前の明るさに染まる奥多摩交番へと入っていくと、一緒に調査担当する刑事課の澤野と後藤は奥の部屋で話していた。
後藤は英二達に気が付くとすぐ立ち上がり、国村と英二の腕をがっしりとした掌で掴んだ。

「おまえ達、ちょっと2階にあがれ。吉村、一緒に来てくれ。湯原くんもおいで」

そう言って2階へ4人とも連れていくと後藤は休憩室の扉を閉めた。
そして真直ぐに国村に向き直ると穏やかに言った。

「光一、左肩を見せてみろ」

いつにない真剣な表情で後藤が国村の目を見つめている。
いまは公務中でお互いに山岳救助隊服を着ている、けれど後藤は「光一」と国村を呼んだ。
亡くした友人の大切な遺児として、心から心配する想いが後藤の頼もしい背中からあふれてくる。
そんな後藤に国村は底抜けに明るい目で笑った。

「堀内先生から聴いちゃったんだね?仕方ないな、」

からり笑うと国村は隊服のアウターシェルを上だけ素直に脱ぎ、アンダーウェアも脱ぎ始めた。
その間に後藤は英二の両掌を掴むと指先まで細かく見、吉村医師にきいてくれる。

「なあ、吉村。凍傷の徴候は無いよな?」
「はい、さっきから様子を拝見していますが、大丈夫です。ただ頬に裂傷がありますが、鋭い傷痕ですし治りも早いでしょう」
「そうか、良かったよ…」

国村を診てくれた堀内医師が後藤か吉村に連絡したらしい。
遭難救助の件は昼を摂った食堂の公衆電話から国村が2人に報告している、けれど負傷した件は話していない。
国村は知られることを嫌がって話さなかった。

「俺がさ、吹っ飛ばされて雪に埋まったことはね、内緒にしろよ。いいよな、宮田?」

こんなふうに国村は、三頭山で温泉に浸かりながらの他愛ない話の合間、英二に内緒話を持ちかけた。
生まれながらの山ヤである国村は誇り高い、だからいかなるミスも決して自身に許さない。
そんな国村は自身のミスではなくとも「自分が山で遭難した」など当然に許せないだろう。
そういう国村の誇り高さは英二も好きだ、けれど微笑んで英二は訊いてみた。

「気持ちは解るよ、国村。でも報告は必要だろ?
 それに自分のミスで怪我したわけじゃない、あれは不可抗力だ。隠すことは無いと思うけど?」

言った途端に細い目がすっと細まって英二を見た。
そしてテノールの透る声がすこし低くなって「ご不満」が現れた。

「なに言ってんのさ。大した怪我じゃない、報告の必要なんかないね。
 なによりね、ミスって無くても俺は知られたくないんだよ。おまえなら俺の考えはよく解っているはずだ、だろ?」

こういう誇り高さこそが、国村を最高のクライマーとして嘱望される素質へと直結している。
そうした国村の誇りを英二は誰よりも理解している、だからこそ国村はアンザイレンパートナーに英二を選んだ。
きっと国村が知られたくない理由はこれだろう、英二は感じるままに口を開いた。

「おまえは自分が大切にする『山』の力でさ、自分が少しでも傷を付けられたのが気に入らない。そういうことだろ?」

英二が答えると満足げに底抜けに明るい目を細めた。

「ほら、おまえ解っているじゃないか。だったら黙ってな?
 俺のこと全て知っているのはね、おまえだけで充分だ。俺のアンザイレンパートナーは宮田だけだからね」

国村は気さくで明るく愉快だ、だから周りに人が集まる。
けれど国村は本当に心を開くことは難しい、だから人前で泣くことも決してしない。
幼馴染で恋人の美代の前で泣いたのも、警察学校へ行くために初めて離れる時に一滴の涙だけだった。
そんな国村が遠慮なく泣ける相手は今秋に亡くなった田中と、英二だけしかいない。
それくらい誇り高い国村だから、きっと今回のことも他に知られたくないのだろう。英二は考えながら訊いた。

「じゃあ、国村。やっぱり美代さんにも話さないつもりか」

「当然だろ?美代は山ヤじゃない、そういう面での俺を全部理解しろと言う方が無理だ。
 踏み込むべきではない世界、聴かなくて良いことがある。それくらい美代は解っているよ、そして覚悟もしている。
 けれど俺の知らない所で美代は泣いているよ、それくらい俺も知っている。でも美代には美代の誇りがあるんだ。
 そういう逞しくて潔い美代だから俺はね、惚れているんだよ。そうでなきゃ俺の恋人なんか出来やしない。そうだろ?」

おだやかで実直な美代は静かな覚悟を持っている。
けれど本当は泣いている、そして美代は国村に知られず泣くことを美代の誇りにしている。
それを国村は解っているから、あえて黙って気づかない顔をしている。そうやって互いに受け留め合っている。
それは幼い頃から一緒に育った2人だから出来る、暗黙の絆があるのだろう。
そのことを英二はクリスマスイヴに美代が話してくれたことから感じた。

「うん、すこし俺もね、美代さんから聴いているよ。すてきだな、って思った」
「だろ?美代はね、可愛いだけじゃない佳い女だよ。そして俺だけのものだ」

からり笑いながら国村は堂々と惚気てみせる。
こんなふうに国村は底抜けの明るさを持っている、そんな明るい国村の自由が英二は好きだ。
けれど山ヤの先輩で国村の後見でもある後藤にまで黙っていて良いものだろうか?
いくら国村本人が構わないと言っても、実直で真面目な英二としては考え込んでしまう。
そう考え込む英二に国村は唇の端をあげた。

「宮田?もし、喋ったらね。おまえの寝込み襲ってさ、『既成事実』を作っちゃうけど?」

国村は器用で特技が多く、「開錠」と「逮捕術」も得意としている。
お蔭で英二はいつも勝手に自室の扉を国村に開けられてしまう。
そして国村は英二に似た体格と同程度以上のパワーで逮捕術を活用しては、英二の動きを封じてからかっては楽しむ。
もし国村が本気になれば、英二と「既成事実」を作るくらい簡単だろう、困ったなと英二は微笑んだ。

「たしかに国村なら、俺でも手籠めに出来るだろな。でもさ?美代さん、どうするんだよ」

国村は幼い頃からずっと美代を見つめて来ている、だからこの点でも「美代」は強力なストッパーだろう。
けれど国村は底抜けに明るい目をふっと温かく和ませて微笑んだ。

「俺にとってさ、美代のことは別次元なんだよね。それくらい美代は特別だよ、だから関係ない」

別次元。そんなふうに国村は美代を特別な存在にしている。
国村は人間の範疇に決して捉われない、あくまで畏敬の対象である自然と山のルールで生きている。
そんな国村にはきっと美代だけの特別なルールがある、それは美代への接し方にも表れている。
それは普通と違う価値観かもしれない、けれど誇らかな自由に生きる国村らしい。
そんな「らしさ」は良いなと素直に思えて英二は微笑んだ。

「そっか。おまえらしいな、国村」
「だろ?俺はさ、自分勝手で自由な悪人だからね?恋愛だって俺ルールだよ、それが俺だしさ」

からり笑った国村は誇り高い自由がまぶしかった。
クリスマスイヴに美代は言っていた「光ちゃんの相手を一生するなんて、きっと大変ね?がんばってね、宮田くん」
こういう国村を美代はよく知っている、そんな美代には国村と同じに「ルール」がきっとある。だから一緒に生きられている。
自分と周太はどんなふうになるだろう?ちょっと考え込みかけた英二の顎に、不意に白い指が掛けられた。

「さあ宮田?もし誰かに喋るんならね、それでも俺は構わないよ。
 きっと知られたら俺にはストレスだろな?でもそんなストレスもさ、おまえで楽しませて貰えば解消できるからね?」

最高の山ヤの魂を持っている国村は「山に傷つけられた」と知られたら誇りに傷がつく。
そんなストレスは溜めこむつもりなんか国村には欠片もない、それは誇らかな自由に立つ国村なら当然だろう。
そういう国村の想いが英二には解ってしまう、そんな想いと一緒に英二は笑って訊いてみた。

「なに、国村?おまえは俺で楽しめちゃうわけ?」
「うん。かなり楽しめるんじゃない?」

からっと笑って当然だろ?と細い目が笑んでいる。
笑いながら国村はストレートに自身の愉しみを飄々と述べてみせた。

「俺はね、美人は男でも女でも好きだしさ。特にエロい美人はそそられるね。
 おまえは特上の別嬪なうえに最高エロいだろ?きっとアレの時なんか相当そそられるだろね。
 しかも俺たちみたいな似た者同士ってさ、お互いのツボも解りやすくって、かなりイイらしいよ?
 ほら、宮田?こんなにもね、イイ条件が揃い過ぎだよ?たぶん最高に楽しめるだろうな、もう癖になるくらいにね」

底抜けに明るい目は愉しげに笑っている。
それはいつも通りの明るい陽気な国村のままの様子でいる、けれど白い指は英二の顎を掴んで動かさない。
その指先から「逃がさないよ?」と言っている、これはきっとこういう事かな?可笑しくて英二は笑った。

「おまえさ?俺の返答次第では、このまま『既成事実』作るつもりだろ?」
「さすがだね、宮田。俺をよく解っているな?やっぱり、おまえは俺の最高のアンザイレンパートナーだな」

いつもの通り飄々と楽しげに国村は笑った。国村と英二は似ている部分が多いから、いつも互いに解りやすい。
そんな国村も直情的で思ったことしか言えないし出来ない。そして欲しいものは掴んで離さない。
だからきっと国村は本気だろうな?顎に指をかけられたまま英二は微笑んだ。

「国村はさ?既成事実を作っても、俺が国村のアンザイレンパートナーを辞めないって思ってるんだ?」

英二の言葉に底抜けに明るい目が真直ぐに英二を見た。
そして国村は、からりと笑って英二への絶対的信頼を言葉に顕わした。

「当然だね。おまえは何があっても約束は守る、それが宮田の誇りだからね。
 なにより俺のこと大好きだろ?雪に埋まった俺を心配して泣いちゃうくらいにさ。
 だからね、抱いた位じゃ宮田は俺から逃げないよ。
 それにもう、おまえはね?俺と最高峰を踏破する快感を富士山で覚えちゃったしね。
 最高のクライマーと最高の『点』に立つのは最高に愉快だろ?こんな最高の誘惑をさ、おまえはもう手放せないだろ?」

こういう国村の信頼の示し方は自分勝手で我儘だろう、けれど英二はこんな友人が大好きだった。
こんなに正直に自身の黒も白も晒して、信頼と友情と誇りと、そして夢を英二に懸けてくれている。
それに3ヶ月半のつきあいでも国村と英二は稀な性格同士だから解ってしまう、きっと「友」はお互いしかいない。
その稀な性格を英二は笑って友人に言った。

「その通りだよ、国村。おまえから俺は逃げない。
 俺たちは似た者同士だ。俺たちは直情的すぎて熱情が強すぎる、だから誇り高すぎる。
 ほんとは本音しか言いたくないし、あまりに誇り高すぎちゃうからだろな。
 相手を尊敬は出来てもな。遠慮なく信頼して対等な相手だって認めるのってさ、難しいんだよな。だろ?」

わかっているよ?そう目で言いながら英二は笑いかけた。
そんな英二に底抜けに明るい目が心底に愉しげに笑い返した。

「だね。おまえの言う通りだよ、宮田。誇りにキズつけない為なら、どんな手段でも俺たちは選んじゃうね。
 そんなところを理解できるのは似た者同士だけだ、そしてこのタイプは少ないね。
 そういう俺たちはさ、本当に友達になれるのは同じタイプだけだ。
 だからね宮田?お互いに俺たちは大切な可愛い子がいるけどさ、俺たちも運命の相手同士だ。そうだろ?」

やっぱり国村も自分と同じように感じていた。
こういうのは良い、男として無二の友人の存在は人生において最高のギフトの1つだ。
それを自分は手に入れられた、うれしくて素直に英二は笑った。

「よかったよ、国村。俺の片想いじゃなくってさ?」
「当然だろ?俺たちはね、相思相愛のアンザイレンパートナーだ。富士山でも言っただろ?」

こういうのって良いよな?細い目も愉しげに言ってくれる。
ほんとうに自分の人生は愉しくなりそうだ、楽しい予感に英二はきれいに笑って言った。

「だから国村?おまえがね、俺を手籠めにしたって誇りを守りたい気持ちはさ、俺にも解るよ。
 きっと誰よりもね、おまえのそういう誇り高さはさ、俺が解っている。だから俺からは言わないよ、周太にもね」

大丈夫、解っているよ?そう目でだけ英二は国村に笑いかけた。
そして想うままを英二は続けた。

「それから国村、おまえの診立てにも俺が書いたとおりだ。
 たしかに雪崩で跳んだ雪塊におまえは怪我をさせられた、でも怪我を最小限に止めたのも雪の力だ。
 おまえはね、雪山に傷つけられたけれど、雪山によって手当てされて救けられたんだよ。
 だから俺は思ったんだ。おまえは本当に山に愛されている、きっと本当に国村は山の申し子だ。不思議だけどね、国村らしいよ?」

底抜けに明るい目が心底から笑った。
そして白い指を英二の顎から離すと、そのまま英二の額を小突いて微笑んだ。

「ありがとな、宮田。…俺、おまえにだけはさ、解ってほしかったんだよね」

髪を掻きあげながら国村は笑ってくれる。
やっぱり想った通りだったな?うれしくて英二は笑った。

「解るよ、俺たちは似た者同士だからさ。まあ、誇りを懸ける対象への比重みたいのはさ、ちょっと違うけどな?」

「だね。俺は山が一番だ、恋愛はその次だよ。で、おまえはね?嫁さんが一番で、山は次だ。
 まあ、俺たちにとってはさ?どっちも本当は選べないくらい大切だから、どっちも手放せないけどね。だろ?」

ほんとうに国村も英二をよく解っている。
英二にとっては周太が自分の全てだった、だから周太のことが誇りの中心になっている。
けれど生粋の山ヤで山のルールに生きる国村は「山」が全てになっている、だから国村は自分の遭難が許せない。
似た者同士の自分たち、けれどこの違いこそが国村が「最高のクライマー」で天才な所以なのだろう。
国村は「山」に全てを懸けて惜しまない、英二が周太に全てを懸けて惜しまないように。
そんな国村だからこそ、英二にとって周太が大切な意味を解ってくれる。こんな友人の存在が嬉しくて英二は笑った。

「うん、よく解っているな、国村?やっぱり国村はさ、俺の最高のアンザイレンパートナーだな」
「だろ?」

満足げに笑って国村は気持ちよさげに湯に目を細めた。
そんな国村に英二は1つの危惧を訊いてみた。

「おまえの怪我のことだけどさ?
 たぶん、堀内先生から吉村先生に連絡があると思うよ?そしたら後藤副隊長にもバレると思うけど」

「あ、やっぱり宮田もそう思う?俺もさ、あとでマズったなって気がついたんだよね?」

からり笑って国村が言った。
そんな友人に半分呆れながらも可笑しくて笑いながら英二は訊いた。

「なあ?それでバレて知られた場合はさ、俺のこと襲わないよな?」
「うん?ああ、そうだな。ストレスたまりそうだったらさ、ちょっとヤリたくなるかもね?ま、夜這いかけた時はよろしくな」

底抜けに明るい目が「やっちゃうかもね?」と悪戯っ子に笑っている。
可笑しくて笑いながら英二は言った。

「よろしくされたくないな?俺は周太だけだからさ、きっと非協力的な態度とっちゃうよ?」
「別に構わないよ?それも嗜虐趣味になって楽しいね、きっと。俺ってSだからさ」

いつも通りの得意のエロトークを披露して国村はすっかりご機嫌だった。あれでストレスはだいぶ発散しただろう。
こんな国村はちょっと激烈な友人だ、けれど自分も相手ばかりは決して言えない。
周太に何かあれば、この自分こそ何をしでかすか解らない。そんな自分を英二はよく知っている。
そして本配属後はそんな機会が増えるだろう、その時の自分の行動が心配になる。
けれどきっとその時は、自分とよく似たこの国村が察知してフォローしてくれるだろう。そんな信頼が出来てしまう。

けれど国村の「夜這い」については実行しないという信頼は出来にくい。
いつもの悪戯感覚で「気晴らししよっかな?」なんて身軽に行動しそうで怖い。
本当に実行したらどうしよう、周太以外は困るんだけど?困ったなと思いかけて英二は微笑んだ。
たぶん周太と出会う前だったら、こんなふうには困らなかった。誰にも「自分」を与えていなかったから。
こんな悩みはきっと、こんな自分にとっては幸せだ。

そんなふうに国村と英二は内緒にしておく約束をした。
けれど案の定、しっかりバレていた。

後藤と吉村の様子だと英二と国村の内緒にする約束も「お見通し」といった雰囲気だ。
国村も観念したように素直に上半身の服を脱いでいる、もう仕方ないだろう。
さあ国村のストレスはどうなるのかな?そんな困りごとを考えていると後藤が訊いてくれた。

「宮田、おまえ、自分の手当てはしなかったんだろう?」
「大丈夫です、俺はどこも痛めていませんから。国村も大丈夫です、あいつ、山に愛されていますから」

笑って答えた英二を後藤はじっと見つめた。
そして心から安堵した笑顔を見せて言ってくれた。

「よかった…宮田、おまえがな、無事でよかったよ。光一のこともな、本当にありがとう」
「するべきことをしただけです、国村は俺のアンザイレンパートナーですから。ほら、副隊長。あいつ待ってますよ?」

そう言って笑って英二は後藤を国村の方へ送り出した。
後藤と吉村医師は国村の肩の状態を慎重に診た、そして堀内医師と英二の診立てどおりと判断して、ほっと笑った。

「よかったな、これなら問題ない。射撃もやって大丈夫だろう。さすがだな、光一」
「そうだよ、後藤のおじさん?ちょっと怪我はしたけどさ、雪山が治してくれたんだよね。
 こんなふうにさ、この俺はね?きっと山に意地悪される訳ないよ、俺ほど山を真直ぐ愛している奴なんかいないからさ」

雪山に治癒されたこと。
それが国村の誇りになったのだろう、良かったなと英二は微笑んだ。
そんな国村に後藤も微笑んで頷いている。

「そうだな、うん。よかったよ。怪我のことは光一?俺と吉村とな、湯原くんしか知らない。これ以上に言うつもりはないよ」
「そこまではバレても仕方ないな。ま、明日明後日には痣も消えるしね」

機嫌よく笑いながら国村は救助隊服をまた着なおした。
国村は着終わると英二の横へ来て、ポンと肩を叩いて笑った。

「当分はさ、例の心配いらなそうだよ?ま、最高のお楽しみはとっとくね」
「よかったよ、出来ればずっと心配したくないな」

こんな国村の誇らかな自由が英二は好きだ。だから国村の誇りも、その自由を支える体も傷つかないでほしい。
今回そのどちらも傷は最小限で済んだ、それが嬉しくて笑い返すと英二は肩を叩きかえした。
そんな英二と国村を見ていた周太が、不思議そうに英二に訊いた。

「英二、お楽しみって何?」
「国村の意地悪の話だよ、だから周太は気にしないで良いよ?」

おだやかに笑って英二は周太に答えた。
周太も微笑んで、また英二に訊いてくれる。

「ん?意地悪されそうなの、英二?」

訊いてくれる周太は、登山ウェアは私服だけれど任務中だからと前髪をあげて大人びている。
けれど不思議そうな表情はやっぱり無垢で可愛らしい。
ちょうど他の3人は階下へと降り始めている、その隙に英二は周太を抱きしめてしまった。

「大丈夫だよ、周太?あいつ面白がっているだけだから。かわいい、周太。心配してくれるんだ?」
「だめだろ英二、にんむちゅうだからだめだってば、ほらいかないと?はなして、」
「なんで周太?ほら、今この部屋にはさ、もう誰もいないよ?ね、周太、あと5秒だけ抱っこさせて?」
「…はい、」

そんな5秒間の幸せを抱きしめて、すぐに英二は周太と階下へ降りた。
階下の奥まった部屋へ入ると澤野が銃火器のケースをセットしている、澤野は周太に気がつくとすぐに声を掛けた。

「新宿署の湯原くんだね、今回はお願いします。じゃあ射手の2人はテスト銃の前に来てくれ」

銃の飛距離は弾頭形状と火薬量と弾頭重量などが関係する。
最低限の重さの範囲で弾頭が軽く、火薬量が多いと初速が上がり、運動エネルギーも大きくなっていく。
それらを同じ条件下で調査実施するために、全てを同じに揃えたテスト用の銃が準備された。
拳銃とライフルが2丁ずつ専用のケースから出され、国村と周太が貸与されるテスト銃の前に来ると澤野は説明を始めた。

「弾も火薬量も揃えてある、全く同じ条件で2人には狙撃を行ってもらう。
 この時間だと現場が暗くなってくるから、2人とも明るいここで一度チェックしてくれ。」

一般警察官が使用するタイプのリボルバー式拳銃と、もっともポピュラーに猟銃使用されるタイプのライフルが用意されている。
国村と周太は手にとって確認を始めた。リボルバーのシリンダーチェックをし、ライフルも確認していく。
一通りのチェックが終わるとケースに納め直し、それからミニパトカーに分乗して現場へと向かった。
奥多摩交番からは吉村医師は後藤副隊長と澤野と一緒に乗りこんで、移動しながら打ち合わせをする。
それで国村の運転するミニパトカーには3人だけになった。周太は吉村医師から説明を受けていたが、国村は改めて説明を始めた。

「湯原くん、弾道が自然物に受ける影響は知っているよな?」
「はい、基礎的なことなら」

素直に頷く周太に国村はバックミラー越しに微笑んだ。
そしてまた前を見てハンドルを捌きながら話し始めた。

「今回の弾道調査はね、4つのポイントについて確認するんだ。
まず気温による比較。気温が下がりだす時と気温が上がっていく状況での比較調査。
それから日照による比較。夕暮れ、夜間、朝、昼間。この4つの時間帯は太陽光線が違うからね。 
そしてここからは雪山の特徴だ、雪での足場への影響と湿度の影響。それから山間部での標高による差での比較をする」

弾道の飛距離は拳銃弾であれば1~2km以上、ライフル弾では2.5~7km以上飛ぶことができる。
弾道は気温や気圧に影響され、砲レベルの長距離砲撃にもなると地球の自転も考慮される。ただし昼夜で変化する事はない。
そして同じ弾でも標高の高い場所ほど距離が伸び、空気抵抗の小さい場所では存速を保っていく。
例えば308win(7.62x51mm)を標高0mで撃った時の最大射程距離は約4km、しかし標高3,600mでは5.6kmまで伸びる。
これらも弾種や口径によって伸び率は変わるが、ライフル弾では少なくとも最大射程距離が1km以上伸びる傾向がある。

「では同じ斜面で同じ方向へと狙撃することになりますよね?」
「そうだよ、自分が立つ斜面にね、水平方向に的が用意されている。そこを狙撃する。で、宮田?的はなんだっけ?」

話をふられて英二はすこし考え込んだ。
事前にも吉村医師から話は聞いているし、持参した鑑識ファイルにも事例が載っている。
そして今回は標的は2種類を使用する、その片方は今のタイミングで周太に話すことはしたくない。
でも幾らかは話さないわけにはいかない、英二は口を開いた。

「人体の弾力と骨組と同レベルの模型を的として用意してある。それともう一つは、ザイルが的だ」
「ザイルが?」

周太が驚いたように英二に訊いた。
たぶん意外だろう。けれど、これは過去の不幸な遭難救助の現場にあったことだった。
その事例を思い出しながら英二は助手席から後部座席の周太を振向いて言った。

「うん、ザイルだ。これはね、明日の昼間に狙撃してもらう。
今日はね、周太。夕方から夜にかけてはさ、暗さに目が慣れ難くて見通しが悪くなるだろう?その実験だ。
あとは夜間の暗視スコープをつけた状態と裸眼での差を調べることになる。だからザイルの説明は明日またするな」

ザイルの狙撃。
その事例は「あまりに痛ましい」と形容詞がつく遭難事故現場の話になる。
だから今は周太に話したくなかった、今回の富士山での遭難救助で周太には不安な想いをさせたばかりだから。
今夜中に少しでも周太の不安を取り除けたらいい。そんな想いで英二は黄昏時の始まる奥多摩の山間部へと立った。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第33話 雪火act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-01-26 22:23:18 | 陽はまた昇るside story
迎えてくれる場所、




第33話 雪火act.1―side story「陽はまた昇る」

馬返し駐車場に着いたのは12:50過ぎ、下山開始から30分ほどだった。
午前診療になんとか滑りこめるだろうか?国村の四駆に乗ると英二はカーナビの検索をした。
周辺に何か所か整形外科がある、診療時間を携帯で調べていると国村がナビを現在地に戻してしまった。

「国村?まだ調べている最中だよ?」
「うん?ああ、知っているとこあるからさ、そこ行こうと思ってね」

そう言ってハンドルを捌くと近くにある個人医院に国村は四駆を停めた。
扉を開けて入ると薬品の匂いが掠めていく、ちいさな窓口から国村は奥に声を掛けた。
するとすぐに初老の白衣の男が現れて国村を認めると微笑んだ。

「やあ、君か。この冬も冬富士に登りに来たんだね」
「はい、来ました。昼時にすみません、ちょっと診て貰えますか?」
「いいよ、君が怪我だなんて珍しいな?」

からり笑った国村に微笑むと医師は英二の方を見た。
そして驚いたように瞬くと、思わず英二に話しかけた。

「きみは、…吉村の親戚、かな?」

どうやらこの医師は吉村医師の知人らしい。きっとまた雅樹と英二を見間違えたのだろう。
今回これで2度目だな?ちょっと可笑しくて英二は微笑んで答えた。

「いいえ、違います。でも吉村先生にはお世話になっています、雅樹さんにも」
「君は雅樹くんを知っているのか?」
「お会いしたことはありません、けれどお話はよく伺っています」

きれいに笑って英二は答えた。
そんな英二の額を小突くと国村は笑って医師に教えてくれた。

「堀内先生、こいつはね?俺の同僚でアンザイレンパートナーで、友達です。で、エロいです」

あかるい飄々とした口調で国村が笑う。
そんな国村の言葉に堀内医師はふきだし笑ってしまった。

「そうか、国村くんの良い友達なんだな?見間違えたりして、すまなかった。
私は吉村とは医大で同級生だったんだ、それで雅樹くんのことも知っていてね。申しわけない、」

堀内医師も率直に謝ってくれる。
みんな謝ってくれるけれど気にしないで良いのにな?きれいに笑って英二は答えた。

「いいえ、よく間違われます。気になさらないでください、俺は嫌じゃないですから」
「だろね?雅樹さんのこと、宮田は好きだから」

底抜けに明るい目で国村が言ってくれた。
さらっと気遣って相槌を国村は打ってくれている、うれしいなと微笑んで英二は頷いた。

「うん、俺、雅樹さんは憧れるよ?あんなふうに山岳レスキューに懸けていけたらいいな」
「だな。ま、頑張ってくれよ。クソ真面目だしさ、宮田なら出来るんじゃない?」

明るい相槌を国村は打ってくれる。
こういう国村の明るさが英二は好きだ、楽しくて笑っていると堀内医師も笑ってくれた。

「さあ診察を始めよう。宮田くんも一緒に診察室へおいで、
 待合室のストーブはさっき止めてしまったんだ。ここらは寒いからね、火の気が無いと一挙に冷えこむ」

そう言って診察室へと英二も招き入れてくれた。
診察室に入るなら携帯の電源は切らなくてはいけない、携帯を開くとまだ圏外のままでいる。
周太は術科センターで射撃特練の訓練中だろう、想いながら英二はそっと電源を落とし診察室へ入った。
すぐに堀内医師は国村の肩の状態を診始めると、英二の応急処置を見て訊いてくれた。

「これは宮田くんが処置したのかい?」
「はい、どこか間違えましたか?」
「いや、よく出来ているよ。宮田くんは前から応急処置の勉強をしているのかな?」
「警察学校に入ってからです、今は吉村先生から教わっています。あと、これをご参考になれば」

言いながら英二は胸ポケットから手帳を出し、挟んでおいた国村の状況報告書を取出すと堀内医師に手渡した。
受けとってすぐ目を通してくれると、医師は頷いて微笑んだ。

「よく出来ているね、これは吉村と一緒に考えた書式かな?」
「はい、そうです。いかがでしょうか、国村の状態は?」

自分の診立て通りなら国村は痣は目立つけれど問題は無い、けれど自分の診立ては合っているだろうか?
山においては自助と相互扶助が大原則、山ヤが山に立つとき自分を守るものは原則自身しかいない。
そんな山ヤは体のパーツ全てが自分の生命を守ることに直結している。
だからどうか軽傷であってほしい、山に登る自由と安全を国村には失ってほしくない。
そんな祈りに英二が見つめる堀内医師は微笑んで答えてくれた。

「うん、君の見立て通りだろうね。ここにも書いてくれたように雪に埋まったことが幸いしたな。
 そして雪塊はザックにぶつかったと私も思う、直撃を免れて本当に良かったよ。さ、念のためにレントゲンとってみよう」

すぐレントゲンを撮ってもらうと問題は無かった。
念のためと湿布薬だけ出してくれると、堀内医師は笑って見送ってくれた。

「もう風呂も入って構わないよ、2,3日で出血斑も消えるだろう。二人とも、また寄ってくれ。吉村によろしくな」
「はい、また寄らせていただきます。ありがとうございました」

走り出した四駆の助手席で英二はほっと息をついた。
国村の怪我が問題なくてよかった、安堵しながらクライマーウォッチを見た。
時刻は13:30になっている、けれど携帯は圏外のままだ。
元から電波があまり良くない地域なのだろうか、ため息を吐いた英二に国村が笑った。

「なに、おまえ?湯原くんに電話したいんだろ、」
「うん、…予定よりだいぶ遅くなっただろ?きっと周太、心配していると思うんだ」
「そりゃそうだろね、きっと泣いちゃったんじゃないの?」

さらっと言った国村の唇の端が上がっている、ここで英二が落ち込むことを見越しての発言だろう。
もう思惑通り落ち込むよ?思いながら英二は「圏外」の表示を見つめた。
ちょっと落ち込んだ英二に国村が呆れたように教えてくれた。

「あのさ?圏外でも電話帳機能は見れるんだからさ、公衆電話で掛ければいいだろ?」
「あ、そっか」

ふだん公衆電話を使う機会があまり無いから気がつかなかった。
けれどすぐ首傾げて英二は訊いた。

「でもさ、公衆電話って最近は少ないよな?それに周太、訓練中は携帯の電源切るし…やっぱりすぐは連絡できないよ」
「まあそうだよね。とりあえずさ、飯食わない?昼はとっくに過ぎてるよ」

入った定食屋は大盛で有名だという店だった。
噂通りの大盛の昼飯を平らげると、英二はクライマーウォッチを見つめた。時針はもう14時を過ぎている。
今頃は周太はどうしているだろう?

― 連絡がつかないことに不安、だよな…周太のことだから

容易く連絡が取れる携帯電話の便利に慣れていただけに、こんな状態は不慣れで途惑わされる。
開いた携帯電話は圏外のままだ、いつになったら連絡がつけられるだろう?
ほっとため息を吐いて、ふと顔をあげると前に座っていたはずの国村がいない。
どこに行ったのかと見回して英二の視線が止まった。

「…あ、」

公衆電話で国村は話している最中だった。
すこし奥まった場所にあったから気がつかなかった、英二は携帯の発信履歴を呼び出した。
そして立ちあがると公衆電話の受話器を置いた国村の横に立った。

「宮田、これちゃんと使えるよ?電話してやりなよね」
「うん、ありがとう」

素直に礼を言って英二は受話器をとった。
公衆電話なんて警察学校時代に使った位だろう、携帯の画面を見てからダイヤルボタンを押した。
けれど留守番電話になってしまった。

― きっと周太にも、こんな想いをさせたな

淡々と流れる留守番電話センターの声がどこか虚しく聞こえてしまう。
声を聴けなかった寂しさに微笑んで、英二はメッセージを入れると受話器を置いた。
それから会計を済ませて店を出、四駆に乗ると国村が訊いてくれた。

「で、湯原くんには電話、繋がらなかったんだ?」
「なんで解るんだ?」

驚いて英二は訊いてみた。
そんな英二に呆れたように底抜けに明るい目が笑った。

「だって、おまえね?捨て犬みたいな目になってるよ。まったくさ、ほんと嫁さんの事しか考えられないんだね?」
「うん。俺ってさ、ほんと周太無しだとダメなんだよ。自分でもどうかなって想う時あるよ?」

素直に想ったままを話すと英二は笑った。
そんな英二を見て国村は可笑しそうに笑ってくれる。

「ほんとだね、あーあ、困った男だね。さてと、青梅署には16時には俺たち戻るよ?」
「青梅署16時って、なにかあるのか?」

そんな予定あっただろうか?
首傾げていると国村が細い目をからかうように笑ませて教えてくれた。

「さっきさ、俺は後藤副隊長と吉村先生に電話したんだよ。
 俺たち、予定だと青梅署に昼過ぎに戻るんだったろ?遅れた状況報告の電話だよ。
 で、両方から言われたんだ。雪山での弾道調査を今日の夕方と明日午前中に実施することが決定したらしい」

以前から青梅警察署では雪山での弾道について鑑識調査する話が出ていた。
青梅警察署が管轄する奥多摩の山はライフルでの狩猟も行われる、その弾道が雪山で受ける影響を調査し流れ弾などの事故抑止に役立てる。
併せて拳銃についても山中に容疑者が逃亡した場合の発砲状況について調査を行う。
そしてもう1点、過去の遭難事件の事例を現在の銃火器による再現調査も実施する。
この調査の気象条件に今夕から翌午前が適応するという判断が出たのだろう、英二は運転席に訊いた。

「ごめん、報告の電話ありがとう。その弾道調査、国村が射手だったよな?」
「そ、拳銃とライフルの両方できないといけないからね。
 で、山でやるし鑑識調査だからね、宮田もサポート人員だってさ。おまえ、鑑識も結構得意なんだってな」

明日は本来のシフトは英二は週休になっている、けれど山岳救助隊では休暇でも出動召集や訓練参加は当然だった。
明日は周太と逢う約束をしているけれど約束の11時には間に合わないだろう。
それでも弾道調査は明日午前までの予定だから、遅れるけれど逢いに行ける。
遭難救助の召集なら逢うことも出来ない可能性が高い、だから少しでも逢えるなら英二は嬉しかった。
逢える時間が短くなる分たくさん周太を笑わせてあげよう、そんな想いと英二は微笑んで頷いた。

「まだ得意と言えるほどじゃないよ?その調査実施はさ、夕方の雪が締りだす時刻と、午前中の明るい光の時って条件だったよな?」
「そ。夕暮れから夜間にかけてと、夜明けから朝、そして昼にかけてね。
 だから16時までには帰って来いってさ。その前に温泉入っていきたいな、昨夜は山小屋で風呂無かったしね」

温泉なら打撲への効果も期待できるだろう。
このあと国村は射撃をしなくてはいけない、すこしでも傷を癒した方が良い。
それには温泉は良い考えだなと英二も頷いた。

「そうだな、打撲に効くとこ行こうよ?」
「それならね、三頭山にあるよ。宮田、行ったことあったっけ?」

三頭山は奥多摩と山梨県にまたがる山で、警察署の管轄が3分割される。
南側は檜原村となり五日市署、北側は奥多摩町で青梅署、西側は山梨の小菅村で山梨県警上野原署の管轄になる。
三頭山自体には道迷い捜索で英二も登ったことがある、けれど温泉は知らなかった。
そんな近くにあるんだなと感心しながら英二は訊いてみた。

「まだないよ。三頭山のどっち側にあるんだ?」
「檜原村だよ、でも青梅まで道路繋がってるから大丈夫。じゃ、そこ行こうかな」

そこは三頭山南面にある山荘の温泉だった。
ここ数日の降雪と冷え込みで、ここも雪景色になっている。露天風呂も雪の中だった。
雪見露天風呂はなかなか風情がいい、それに昨日は山小屋泊で風呂は無かったから尚更に気持ち良い。
しんと冷たい空気のなか浸かる熱い湯は良い、ほっと寛いでいると横から国村が笑った。

「うん、やっぱりさ、雪見の風呂って良いね。頭が涼しいから、のんびり浸かっていられるよな」

至極ご機嫌で髪をかき上げながら国村は愉しげでいる。
ほんとうに雪も山も好きなのだろう、それにしてもと英二は笑った。

「午前中は雪崩に吹雪だったよな。俺たち、雪に散々に苦しんだばっかりなのにさ?わざわざ雪の中の風呂に入ってるな」
「だね。俺たち懲りないよな?ま、山ヤだからさ。仕方ないんじゃない?」

心底から愉快だと朗らかに国村が笑った。
自分たちは本当に懲りていない、山小屋に深雪期4月の予約まで入れてきたくらいだ。
こういうのは悪くない、きっと自分は好きなのだろう。こんな自分が楽しくて英二は微笑んだ。
そんな英二に横から国村が笑いかけた。

「まだ卒配3ヶ月半で山ヤも3ヶ月半、それであんな遭難救助やって雪崩の爆風くらってさ。でも辞めようって思わないだろ?」
「うん、ずっと続けたいな?」
「おまえってタフだよな。ほんとにさ、まだ3ヶ月半の山ヤだなんて思えないね」

まだ3ヶ月半だった、つい自分でも忘れかけてしまう。
この日々のなかで自分は何度も泣いた、けれど全ての瞬間を良かったと思える。
そして重ねた時間と記憶に周太と想いを重ねて求婚をして、あの家を守ることに決めた。

壊された紺青色の本『Le Fantome de l'Opera』
書斎机が存在しなかった『もうひとつの書斎』
あるべき英文原書とイタリア原書たちの行方、遺された仏文学の蔵書たち。
そして英語とラテン語で綴られた紺青色の20年分の日記帳。

 I will remember this day always. I'm hopeful of success.Be ambitious.Never give up,always be hopeful.
  “決して今日を忘れない。成功を信じている。志を持て、希望を持ち続け、決してあきらめるな”

周太の父の20年間を綴じこんだ紺青色の日記帳、その最初に綴られていた一文。
その日付は大学の入学式当日だった、英文で綴られた内容は自分が入学した学科の学問への情熱だった。
けれど周太の父は警察官になってしまった、それも彼の学歴からは不自然なノンキャリアとして。
彼の大学4年間に何が起きてしまったのか?その謎はラテン語で綴られている部分でまだ解読が終わっていない。

あの家の主3人が遺した想いの軌跡は、どこにあるのだろう?
そして仏間で見た過去帳と墓碑が示してくれた、主たち3人の死の年齢と想いは?
あの家には謎と秘密、そしてどこか哀しみが充ちている。その哀しみの正体を知りたい。
けれどそれ以上にあの家には、穏かで端正な温もりが清々しい、そして優しい。
どちらの想いも、哀しみも優しさも自分が受け留めて背負いたい。
そして周太を心から安らがせ自由に生きさせて、きれいな幸せな笑顔を見せてほしい。

この3ヶ月半は密度が高い、それだけ多くと自分は向き合って、そして生きている。
どれもが困難だとしても全て自分が望んで背負ったものばかり。
そしてこんな生き方は悪くない、きっと自分らしくていい。きれいに笑って英二は答えた。

「俺はね、国村?全部が楽しいだけだよ、それに周太の為だしね…あ、電話っていつ繋がるかな…」

いつもは周太とはタイミングが良くて、電話も1コール鳴るかどうかで出てくれる。
けれど今日の雪崩の後からは、圏外だったり公衆電話でかけても留守電だったりする。
またつい考え込んでしまう英二の額を、国村は白い指で小突いて笑い飛ばした。

「あーあ、なに急にへこんでんだよ?明日は逢えるんだろ?ま、鑑識の件で遅れるだろうけどさ」
「うん、…無事に逢えるといいな、俺、いま周太にさ、ほんと逢いたい。抱きしめたいな、周太」
「おまえは、いつだって逢いたいだろ?ほんと色ボケた仕方ない男だね、あれ?」

話しながら国村が何かに気がついた顔になる。
なんだろう?俯きかけてあげた英二の頬を、国村の白い指がすっと撫でた。

「おまえ、頬に傷が出来ているじゃないか?」

言われてふれてみると、かすかな裂傷の感触がふれる。
これなら細い傷だろう、そういえば国村を掘り出した時に頬を拭ったグローブに血がついていた。
たぶん雪崩に跳んだ氷の破片で切った、想ったままを英二は答えた。

「ああ、雪崩で飛んできた氷の破片で切ったみたいだな」
「ふうん、ちゃんと治せよ?まあ、まず大丈夫だろうけどさ。きれいな顔に傷なんか残すんじゃないよ?」
「そっか?でも、俺は男だしさ、別に大丈夫だよ」
「なに言ってんのさ?男も女もね、美人は大事な資源だよ。ちゃんと保全しろよな、」

他愛なく遠慮もない会話に湯の時間を過ごすのが楽しい。
こういう友達は良いな、楽しくて英二は笑っていた。
ふやける前に湯を出て青梅警察署へ戻ると、駐車場に着いたのは15:50だった。

「どうせすぐ雪山行くんだよね?着替えなくてもさ、別に良いよな」
「いや、公務だろ?救助隊服に着替えた方が良いと思うよ。でも先に先生に挨拶していこう、」

話しながら青梅署のロビーを通って廊下を歩いていく。
すぐ診察室に着いてノックすると国村は扉を開けた。

「先生、遅くなってすみませんでした。うん?あんた、誰?」

国村のセリフが怪訝そうな声になっている。
誰か来客だろうか、後から診察室へ英二も入って室内を見た。

スーツ姿の小柄な男がコーヒーを淹れている。
その横顔がゆっくり振向いて、英二の目を真直ぐに見つめて微笑んだ。

「お帰りなさい、英二…」

大好きな黒目がちの瞳。
昨夜も一昨夜も夢で逢って、そして雪崩の爆風の中で祈りと一緒に想った瞳。

「…周太!」

登山ザックを背負ったままで英二は一歩、大きく診察室へと踏み込んだ。

「…っ、えいじ、だめっ、」

精一杯の力で押し退けられながらも、英二は小柄なスーツ姿を抱きこんだ。
あの雪崩の爆風の中で幾度この瞳を想ったろう、どうしても英二は今すぐに抱きしめたかった。
長く強い腕に抱きこめられながらも周太は英二を説得しようとしてくる。

「えいじ、ここではだめだ、けいさつかんだろ?ね、いうこと聴いて?」
「なんで、周太?俺、ほんとに周太に逢いたかったのに。ね、周太?冷たいこと言わないでよ」
「…だって…せんせいもくにむらさんもみてるよ?…ね、お願い、言うこと聴いて?」

言われて英二は思い出した、そういえばここは青梅署警察医の診察室だった。
周太を見つけた英二は周りの事を全部すっかり忘れてしまっていた。
そんなふうに我に返りかけた英二に、周太は躾のように言い聞かせてくれる。

「ね、英二?…ここは、吉村先生の大切な診察室だよ?だから、だめだ」
「…あ、そうだったな、うん。解ったよ、周太」
「ん。ありがとう、英二?…聴いてくれて、うれしいよ」
「うん、俺、周太のお願いは聴くよ?」

素直に頷きながら周りを見回すと、デスクの椅子に座った吉村医師が「仕方ないですね?」と穏やかに見守っている。
入口の前では国村が「ふうん?」と悪戯っ子に底抜けに明るい目を笑ませていた。
そんな国村は徐にサイドテーブルの前に立つと周太の淹れたコーヒーを勝手にとって啜りこんだ。
ひとくち啜りこんで機嫌よく細い目を笑ませると国村は周太に笑いかけた。

「湯原くん、前髪で雰囲気ずいぶん変わるんだね?
 ちょっと一瞬解らなかったよ。…うん、やっぱり湯原くんのコーヒーは旨いな。はい、先生どうぞ」

「ありがとう、国村くん。うん、美味しいです。湯原くん、ありがとう」

吉村医師にもマグカップを渡し、背負っていた登山ザックをおろすと国村は椅子に座ってコーヒーを飲み始めた。
そして温かな芳ばしい湯気の翳から国村は愉しげに笑って言った。

「ほら。おふたりさん、続けていいよ?
 旨いコーヒー飲みながらね、しっかり堪能させてもらうからさ。なかなか眼福だな、ねえ?」

からり笑った国村を見て、つい英二も笑ってしまった。
その隙に英二は腕を押し退けられて、するりと周太は抜け出してしまった。
抜け出すとそのまま周太は2つのマグカップにコーヒーを淹れ始めた。ゆっくりと湯を注いでいく首筋は真赤になっている。
また自分はやりすぎたな、ちょっと反省しながら英二は自分も登山ザックをおろした。

「先生、ご挨拶もせずに申し訳ありませんでした。遅くなってすみません、」
「いや、いいんだ。無事に帰ってきてくれて良かった、遭難救助お疲れさまでした」

すこし笑いをこらえながら吉村医師は労ってくれる。
そこへ周太がマグカップを持ってきてくれた。

「…はい、どうぞ?」
「ありがとう、周太」

周太がコーヒーを淹れてくれた、うれしくて英二は微笑んで周太を見た。
そうして見つめて英二は、おや?と気がついた。

「ね、周太?どうしてスーツ姿なんだ、前髪もあげているし?」

この姿は久しぶりに英二は見た。
活動服姿で前髪をあげた姿は11月の射撃大会とクリスマスの朝に見ている。
けれどスーツ姿では卒業式の日から一度も見ていなかった。
どうして、この姿でここにいるんだろう?

そこまで考えて英二は今日の周太が当番勤務だったことを思い出した。
当番勤務は15時には出勤しなくてはいけない、そして今は16時過ぎている。
自分が心配をかけたから無理に休ませたのだろうか?
そうだとしたら申し訳ない、そしてスーツ姿が不思議で見つめていると周太が教えてくれた。

「公務の出張で来させて頂いてるんだ、だからスーツなんだよ?だからね、…英二?俺は今は警察官として勤務中なんだ」

すこしだけ気恥ずかしげだけれど、明確な話し方が「今は警察官です」と言っている。
スーツを着て前髪をあげた周太はいつもより大人びて、これも悪くないなと英二は微笑んだ。

「出張って周太、何の用件?当番勤務はどうしたんだ、」
「当番勤務よりこちらの出張が優先だって言われて。用件は、ね、吉村先生?」

言いながら周太は吉村医師を見て微笑んだ。
周太に軽く頷くと吉村医師は穏やかに笑って国村と英二に教えてくれた。

「私がね、湯原くんをお呼びしたんです。
今日明日の弾道調査の射手2名のうち、1名は国村くんです。
けれどもう1名が青梅署には該当者がいなくて。なので私が後藤さんと相談して新宿署に依頼を出しました」

公務の出張なら周太は堂々と新宿署の業務や訓練をすべてキャンセルできる。
きっと英二に連絡がつかなくて周太は吉村医師に連絡したのだろう。
そのことから吉村医師が後藤と相談して周太を呼んでくれた。また吉村に甘えさせて貰った、英二は微笑んで丁寧に礼をした。

「先生、ありがとうございます」
「いいえ、私の方がお願いをしたのです。
 今回はデータ照合の為に最低でも2名必要ですから。
 宮田くんも国村くんも富士の訓練から戻ったばかりですが、よろしくお願いします。」

笑って頭を下げてくれる吉村医師に国村も頭を下げた。
そして底抜けに明るい目で愉快気に笑って口を開いた。

「はい、先生。俺は大丈夫です。
 湯原くん?警視庁の射撃大会前にさ、お互いの狙撃を見ることになっちゃうな。ま、よろしくね」

「はい、よろしくお願いします」

きちんと頭を下げる周太を見て国村が首を傾げた。
公務中だからだろう、周太は敬語を遣い折り目正しくなっている、生真面目な周太らしいなと英二は微笑んだ。
そんな周太に国村は首傾げて、すっと目を細めて笑った。

「ふうん?いつもと違うね、湯原くん。これが警察官モードなのかな?でも、なんかアレだな、」
「…あれ?」

つりこまれるように思わず周太が復唱した。
復唱に誘われるように国村の唇の端が上がり、底抜けに明るい目が愉快に笑った。

「可愛い子がストイックなのってさ、そそられるんだよね?
 しかも可愛い子が拳銃だなんてさ、なんかエロいな。イイね、狙撃はもっとストイックになるんだろ?楽しみだよ、ねえ?」

ご機嫌に笑うと国村はマグカップを片づけて「じゃ、着替えてくるね」と行ってしまった。
マグカップを抱えたままの周太を見ると、すっかり赤くなっている。
こんな初々しい含羞も英二は大好きだった。
でもきっと周太本人は途惑って困っているだろう、英二はマグカップを下げながら吉村医師に声を掛けた。

「じゃあ先生、俺たちも着替えて用意してきますね。こちらに伺えばよろしいですか?」
「はい、よろしくお願いします。宮田くんは鑑識ファイルの準備をお願いできますか?」
「解りました、すぐ仕度してきます。ほら、周太?」

マグカップを洗い終わると周太の腕をとって立たせた。
立ち上がる周太の髪からふっと、おだやかで潔い香が昇って心がそっとふれられる。
ほんとうに今この目の前に周太がいる、それが不思議でそして幸せだった。

「周太?登山服を持ってきたんだろ?俺の部屋で着替えて来よう」
「ん、…あ、はい」

ぼんやりとした周太が心配になってしまう、急な出張で新宿から来てくれたから疲れたのだろうか。
英二は自分の登山ザックを背負うと周太の荷物を持ってやった。
ロビーを抜けて独身寮へと歩いていきながら、英二は周太に訊いた。

「周太、今夜の宿はどうしたの?」
「ん、前も泊まったホテル。でもチェックインはまだ。急いでこっちに来たから」

いつもより幾分几帳面な話し方になっている、3ヶ月半前までの警察学校に過ごしたころは聴きなれていた。
けれどこの3ヶ月半で周太は素のままで英二と過ごすようになって、独特の緩やかなトーンで話してくれる。
懐かしいなと微笑んで英二は自室の扉を開けた。

「どうぞ、周太。散らかっているけど、ごめんね」
「おじゃまします、」

一緒に部屋へ入って扉を閉めて、英二は荷物をおろした。
そして体を起こしたところに、とん、と周太が抱きついた。

「…英二!」

腕を伸ばして英二の首に抱きついてくれる。
おだやかで爽やかな髪の香が頬撫でて、温かな鼓動がしがみついてくる。
そして見あげてくれる黒目がちの瞳から涙がこぼれ落ちた。

「…っ、英二…よかった…っ、…えいじ、」

呼んでくれる名前に涙がとけていく、その声に自分がどれだけ想われているのか伝えられる。
自分よりちいさな掌がそっと頬にふれて、また涙がこぼれ落ちていく。

「…えいじ、怪我…でも、ぶじだった…えいじ、…っ」

細くひかれた氷に裂かれた頬の傷をそっと温もりが撫でてくれる。
いま目の前で自分を見つめて温かい涙をこぼして、本当に周太がいてくれる。
この数時間前、自分は雪と氷と風の中に立って、唯この人への想いの為に耐えていた。
いま想うひとが目の前に立っている、長い腕で英二は周太を抱きしめた。

「ごめん、周太…」

抱きしめて長い指で頬を包んで、そっとキスをする。
唯ひとつ帰りたい隣をいま抱きしめている、この愛するひとの隣に自分は帰ってきたかった。
この想いの為に実の母にも捨てられて、それでも自分は周太のことしか思えなかった。
冬富士の白魔に囚われかけた瞬間すらも、自分が抱いたのは周太に逢いたい想いだけだった。
生きて逢いたい想いだけが国村も救助者も救って、山ヤとして山岳レスキューとしての誇りも守れた。
自分はこの想いの為に帰ってきた、黒目がちの瞳を覗きこんで英二は微笑んだ。

「ごめん、周太。いっぱい心配させたね、ごめんね周太」
「英二、…っ、でんわも、繋がらなくて…それで、吉村先生に…泣いて…それで、…呼んでくれて、っ」

涙と一緒に言葉があふれ出す、堪えたものがいっぺんに零れ落ちていく。
きっと周太は診察室では涙を我慢してくれていた。
自分を微笑んで迎えようと「お帰りなさい」を笑って言いたくて。

「周太、」

きれいに笑って英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
なみだの紗がおりた瞳のはしにそっと口づけて、あわい潮を英二はふくんでいく。
この潮は唯ひとり愛する隣の想い、ここだけが帰りたい居場所。
だからお願いだ、どうか笑って迎えてほしいよ?真直ぐ瞳を見つめて英二はきれいに笑った。

「ただいま、周太」

黒目がちの瞳がひとつ瞬いて、ゆっくり微笑んでくれる。
そして周太の唇がほころんだ。

「おかえりなさい、英二」

見つめる想いの真ん中で、きれいな笑顔がひとつ、咲いた。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第32話 高峰act7―side story「陽はまた昇る」

2012-01-25 23:59:51 | 陽はまた昇るside story
山に抱かれ、山に生き、




第32話 高峰act7―side story「陽はまた昇る」

佐藤小屋の4月の営業予定表を主人から貰うと、英二と国村は手帳を出した。
お互いのシフトと青梅署山岳救助隊の訓練予定を見、数日の候補が上げられる。
それを主人に相談すると全部の日を仮予約させてくれた。

「キャンセル料なんて勿論いらない、今回は本当に世話になってしまったからね。危険に晒してしまって、すまなかった」

主人は率直に頭を下げてくれる。
けれどこの主人は何も悪くない、英二はすこし困ってしまった。
この小屋の主は冬富士のシーズンは予約の時点で装備確認をしてくれる。
そして冬富士登山に相応しくない登山客については注意を促し、経験不足の場合は宿泊も断る。
そんなふうに主人も冬富士での遭難が減るように努力していることを、英二も知っていた。
謝る必要なんてないのに?目でそう言いながら英二は微笑んだ。

「おやじさん、そんな頭を下げないでください?おやじさんは何も悪くないです。
 彼は宿泊客じゃない方でしょう、おやじさんでも止められません。
 それにね、俺たちが自分から救助に行ったんですから。あとすみません、もう一杯お汁粉を国村に頂けますか?」

きれいに主人に笑いかけると、ふっと主人の目が懐かしい想いを映しこんだ。
うなずいて快く主人は国村に熱い汁粉を渡してくれる。そして主人は穏やかに教えてくれた。

「うん…ありがとう。宮田くん、こんなこと言うと気を悪くするかもしれないが…
 君は、本当に雅樹くんによく似ている。雅樹くんも同じように救助へ向かって、同じようにね、俺に笑いかけてくれた」

吉村雅樹。
青梅署警察医吉村雅也医師の次男で、救命救急士の資格を持った山ヤの医学生だった。
彼は救急法に最年少合格した15歳の時から救命救急道具を携帯し、出会った多くの登山者を遭難事故から救っていた。
けれど医学部5回生の秋に長野の高峰で不運な滑落事故に遭い、骨折の為に身動きできず山の冷たい夜に抱かれ亡くなった。
その雅樹と似ていると英二はよく言われる、雅樹の父である吉村医師にも。
そのことが英二は誇らしい、おだやかに微笑んで英二は想うままを話した。

「おやじさん。俺はまだ新人警察官で、山ヤになってからも3ヶ月半です。
 山岳レスキューも警察学校で初めて知りました、この世界に立ったばかりの初心者です。
 そんな俺がね?子供の頃から山岳レスキューをされた雅樹さんと似ていると言って貰える。本当に光栄で幸せです。
 俺は雅樹さんにお会いしたことはありません、けれど皆さんから話を聴くたびに尊敬します。きっとね、大好きなひとです」

主人の目に涙がゆれた。
ゆっくり瞬いて涙を収めると主人が頷いて微笑んだ。

「うん、ありがとう。すまないね、涙もろくて…雅樹くんはね、本当に良い男だった。
 最初に来てくれたのは中学生の時だったよ。吉村先生と一緒に夏富士に登っていた、いつも楽しそうでね。
 高校生になってから冬富士に先生と登りに来るようになったよ、先生に贈られた救急セットを嬉しそうに見せてくれて。
 今日みたいに遭難事故が起きたことがあってな、先生と2人で救助を手伝ってくれた。先生と一緒に登山客を救ってくれたよ」

懐かしい記憶に主人は微笑んだ。
微笑んで英二の目を真直ぐに見て、言ってくれた。

「俺もね、雅樹くんが大好きだった。彼はまだ医学生だったけれど、ほんとうに立派な山ヤの医者だったよ。
 そして宮田くん、君に会えて俺はうれしいよ。雅樹くんは亡くなったけれど、君のような男が雅樹くんの想いを繋いでくれる。
 またここへ来てくれ。宮田くん、君は絶対に遭難で死なないでくれ。雅樹くんの分も山に登って笑って天寿を全うしてほしい」

言い終えて主人はひとつ涙をこぼすと「すまないね、」と笑ってくれた。
この主人は富士の山小屋の主として沢山の人間を見ている、そういう男が涙をこぼして懐かしんで惜しがる青年。
ほんとうに雅樹は良い男だったのだろう。そんな雅樹の分まで生きろと言って貰える、ありがたくて英二は心から笑った。

「はい、おやじさん。俺は絶対に無事に帰ります。
 必ず帰るって、大切なひとに『絶対の約束』をしているんです。だから俺は大丈夫です、ほら、今日も無事でしょう?」

きれいに英二は主人へと笑いかけた。
そんな英二に愉しそうに主人は笑って答えてくれる。

「宮田くん、大切なひとがいるんだね?いいな、青春だね。こんど夏富士に連れておいで」
「はい、ありがとうございます。ぜひ連れてきたいです」

周太は富士山に登ったことはあるだろうか?
そして早く周太に連絡してやりたい、けれど携帯の電波はずっと圏外のままでいる。
きっと雪崩の衝撃波とその爆風で電波が乱れたままなのだろう、ふと見た窓の外は青空でも吹く風に小雪が舞っている。
左手首のクライマーウォッチは11時半前を指していた、下山予定時刻の9時半をとっくに過ぎている。

― 周太、きっと心配しているだろうな

昨夜の電話で下山したらメールすると話した、そして予定時刻も告げてある。
今日の周太は当番勤務で射撃特練の練習も午後からでいる、もしかしたら電話を架けてくれたかもしれない。
けれどこの風雪状況で電波障害が起きている、きっと繋がらずに留守番電話になってしまっただろう。
下山すれば電波が届くだろうか?そっとため息を吐いた英二に主人が思わずつぶやいた。

「いや、…ほんとうに雅樹くんに似ているな、憂い顔だと余計に。いや、何度も済まない」

言ってしまってから主人が申し訳なさそうに謝ってくれる。
ほんとうに謝らなくていいのに?目だけで言って英二はきれいに笑いかけた。
そんな英二の横で熱い汁粉を飲み終えた国村が、いつもの調子で飄々と笑って英二の額を小突いた。

「たしかに似てるね、宮田は。でも雅樹さんは上品だったよ?おやじさん、こいつはね、エロいばっかでダメです」
「そうなのかい?じゃあ、そこは似ていないなあ」

主人も笑ってしまった。こんなふうに国村は陽気にまぜっ返す、そして笑わせてしまう。
こういう国村の明るさが英二は好きだ、可笑しくて英二も笑ってしまった。
そうして一緒に笑いながらも英二は国村の様子を観察し続けている、国村の体の状態を英二は気にしていた。

国村は雪崩の爆風で跳んだ雪塊に衝突され、10分強ほどの時間を雪に埋没した。
本来、国村は英二と同等以上のパワーの持ち主でいる。そんな国村がピッケルごと吹っ飛ばされる衝撃を受けた。
どこかしら負傷して当然の状況だった、その怪我の程度と箇所は国村の様子から英二には見当がついている。
けれど負傷によるショック徴候の4項目は救出時から出ていない。

負傷した時のショック徴候は5項目ある。

1.ぐったりしていないか
2.冷たく湿った汗をかいていないか
3.息が苦しそうではないか
4.脈が弱く早くないか
5.顔色が蒼白くないか

最後の5項目めだけは該当した。
雪から掘り出し意識を戻した国村は、普段は冷気に紅潮する頬が真白なままだった。
その顔色を英二は低体温症の初期と判断した。他4項目の兆候が無く、短時間でも雪に埋没した以上は低体温症を疑うべきと考えた。
また負傷のショックも保温が重要になることから、国村の体温回復を待って怪我の処置に入ろうと英二は決めた。

低体温症の初期段階では誤嚥の心配がない状態なら、温かい糖分を含んだ飲み物を与え体温低下を可能な限り防ぐ。
それで英二は主人に汁粉を作って貰って飲みながら国村の様子を観察していた。
いま熱い汁粉で糖分と温度を摂り、ストーブで温まった国村の頬は薄紅色に染まっている。
見立て通りに低体温症のごく初期だったらしい、この元気に喋っている様子なら体温を取り戻せただろう。
そろそろ怪我の手当てに入りたい、国村と笑っている主人に英二はお願いをした。

「すみません、部屋をお借りできますか?自分たちの応急手当したいんです」
「ああ、気づかずにすまなかった。自由に使ってくれ、湯は使うかい?」

また率直に詫びてくれながら主人は盥と防水シートを用意してくれる。
素早い主人の対応に感謝しながら英二はもう1つお願いをした。

「はい、助かります。あと、ストーブも使っていいですか?」
「もちろんだよ、温かくしてくれ。はい、湯だ。熱いから気をつけてくれな?」

盥の湯と防水シートを受けとり英二は国村を振り返った。
すると国村は遭難者の男を眺めて唇の端を上げかけている、きっと「応急手当」に反応して低気圧が再発生し始めた。
さっき彼は散々に国村にお灸を据えられた後でいる、これ以上は可哀想だろう。さり気なく英二は声をかけた。

「ほら、国村?行くよ、早く手当して下山しよう」
「うん?あー…、はいはい」

命拾いしたよね?そんな笑みを男に投げると国村は踵を返した。
どうやら素直に従ってくれるらしい、ほっとして英二は主人に借りた部屋に向かった。
昨夜2人が泊まった個室を主人は貸してくれてある、ストーブも入れてくれた。ありがたいなと心から感謝に英二は微笑んだ。
防水シートを畳に敷いて盥を乗せると手を洗いながら、立ったまま英二を眺めている国村に声を掛けた。

「はい、脱いだらストーブの近くに座って」
「どこまで脱げばいい?」

ネックゲイターを外しながら愉しげに国村がきいてくる。
そんないつもの調子に英二は手を拭きながら笑ってしまった。

「なに、国村。俺が言ったら、全部でも脱ぐのかよ?」
「まあね。とうとう宮田もさ、かわいい俺に欲情したのかと思ってね」

からり笑いながら国村はアウターシェルの上着を脱ぐとアンダーウェアも脱いでいく。
文学青年風の上品な容貌に似合わず国村は、こんな艶っぽい会話が大好きだ。
いつもながら可笑しくて笑いながら英二は、自分と同等に長身の友人を見あげた。

「俺はね、周太だけだよ。脱ぐのは怪我したとこだけでいいだろ?左肩だけだよな、上半身だけ脱いで」
「ふうん?おまえ、俺の怪我が解るんだ?」

感心したように国村がきいてくれる。
救命救急用具を手早く広げながら英二は微笑んだ。

「うん、だって国村?左肩のストラップを何度か気にしていたよな、それで痛いんだろうと思ってさ。違った?」
「当たり。おまえの言う通りだよ、まあ痛みは少ないけどさ。さすがだね、宮田」

笑いながらTシャツも脱ぐと国村はストーブの前に胡坐をかいた。
ぬけるような白い肌の体は細身でも、均整のとれた筋肉が無駄なく端正についている。
その左肩を見、英二は一瞬かすかに眉をひそめた、それでも普段通りの手順で処置を英二は進めていく。
脈を診、リフィリングテストを終えて患部への処置を始める。いつも通りの声のトーンで英二は友人に訊いた。

「国村、痛みはどうだ?」

国村の左肩には大きく蒼黒い出血斑が広がっている。
打撲をすると皮下組織を傷つけ出血するため、皮下に青黒く出血斑が出現して腫れてくる。
けれど国村の出血斑には腫れは殆ど出ていない、ごく軽度の打撲で受傷状態が防がれている。
それでも雪白の肌なだけに出血斑が痛々しい、けれど国村はからりと何でもないふうに笑った。

「うん?そんなに痛くはないね、ただストラップが擦れると気になってさ。打ち身位だろ?」
「そうだな。じゃあ、まず触診させてもらうな?」

骨折の症状には「限局性圧痛」があり、負傷箇所を軽く指で押すと骨折部位に限局して圧迫痛を感じることを言う。
押したとき骨の上だけ強い痛みを感じたら骨折または不全骨折、俗にいうヒビの可能性が考えられる。
また骨折により骨が曲がり強い腫脹、腫れが起こった時は骨折部位を押すと「ギシギシ」「ボキボキ」といった軋轢音が生じる。
この軋轢音は骨折で割れた骨が擦れ合って起こるもので骨折特有の症状になる。
国村の肩には変形は見られず腫れも少ない、けれど雪崩に跳んだ雪塊がぶつかった衝撃は大きかった。
それでも軽傷であってほしい、祈りながら英二は静かに患部に触れた。

「うん、腫れは少ないな」

やはり見た通り腫れは少ない。これなら軽度の打撲である可能性が高い、きっと大丈夫だろう。
けれど雪崩の爆風による衝撃に直撃し、しかも受傷から1時間以上経過している。
にも拘らず国村の状態は最小限で止められている。

― これは、雪に埋没したことが、幸いしたのかもしれない

こういう事もあるのか?偶然のようで必然的にすぎる、けれど国村なら頷ける気がする。
そう考え込む英二に国村が笑って言った。

「だろ?痛みも無いしね、痣はちょっと目立つけどさ?ま、俺が可愛い色白だからだろ」
「まあ、色白なのは確かだな。…うん、やっぱりな。患部の拡大が防がれている」

応急手当の手順はRICES処置と言われ、Rest患部全身の安静・Icing冷却・Compression圧迫が初めの3つになる。
そしてElevation高挙で患部を心臓より高い位置に保ち腫れを抑え、Stablization固定で受傷の拡大を防ぐ。
この5つを受傷後のなるべく早い段階で行い、その後は20分おきに24~72時間は続ける。
ただし山の場合は本人が歩かずに済む下山後に行うことになる。

今回の国村の場合、このRICES処置を「雪中への埋没」で全て行ったことになる。
国村は肩への受傷直後に砕けた雪塊に埋められ、身動きが取れずRest・雪に冷やされIcing・圧迫されたCompression
そして国村は右を下に横たわる状態で埋没していたから、患部の左肩をElevationしながら雪にStablizationされた事になる。

そんなふうに国村は「雪山の力」で手当てを受けたことになる。
雪崩で跳んだ雪塊に国村は怪我をさせられた、けれど雪によって手当てを受けて無事でいる。
こんなふうに国村は「山」に愛されていく存在なのかも知れない。

― やっぱり国村は「山の申し子」なんだ

こんな不思議な男が自分の友人でアンザイレンパートナー。
けれどこの不思議な男は生身の人間で、山でも寮でも自分の横に立って笑っている。
ほんとうに人間も自然も不思議なことが起きる、こんなふうに自分が考えられるようになった事も不思議だ。
山は不思議だ、そんな想いに軽く頷くと英二は患部に指の腹をやわらかく当てた。

「じゃ、国村。ちょっと押していくよ?痛みがあったら教えてくれな、」
「押されて痛いなんてさ、初体験の時みたいだね。お・ね・が・い、宮田…やさしくして?」

含羞んだような表情で言いながらも底抜けに明るい目が愉しげに笑っている。
こんな時でも面白いんだな?可笑しくって英二は笑いながら答えた。

「やさしくするよ?言われなくってもね。では、始めます」

出血斑うかぶ箇所を軽く押していっても軋轢音は感じられない、骨は傷めていないらしい。
万遍なく出血斑を押していきながら英二は訊いた。

「圧迫される痛みや強い痛みはあるか?あと、ギシギシするようなさ、何か音は聞こえる?」
「どっちも無いね、っていうかさ?おまえ、触り方がエロいな。いいね、どきどきするね」

うれしく喜んで国村は愉しげに笑っている。
あんな遭難をしかけた直後でも、いつも通りに国村は元気にエロトークをしている。
こうまで陽気な友人に呆れながらも安心して英二は笑った。

「そんなに俺、エロいかな?」
「かなりのエロだね、焦らされる気分になるよ?いいね、その調子で続けて」
「なんだか目的が違う方向だな。おまえ、ほんとエロオヤジだよな、」
「そ。いつも言ってるだろ?俺は山千のエロオヤジだよ、マジ好きなんだよね。あ、そこ気持ちいい。エロだね、宮田?」

からり笑いながら国村は処置を受けている。
たしかに痛みは無さそうな様子に英二は少し安心した、けれど肩にかかる打撲であることが気になる。
軽度の打撲は湿布して包帯固定すれば1~2週間程で完治するが、肩など関節周囲の打撲は専門家による施術を要することもある。
いまも状態次第ではエラスチックバンデージでの固定を施す必要がある、ただ下山を考えると固定により動きを制限することは怖い。
どちらの処置が良いだろう?ふれる指先の感触と骨、筋繊維の状態に注意して英二は慎重に触診を続けていく。

肩甲骨と鎖骨を繋ぐ肩鎖関節の観察を英二は始めた、ここは激しく肩をぶつけると脱臼を起こす部位になる。
見たところ出血斑は出ていないが、国村は激しい衝撃で肩を痛めている。念のため脱臼を疑う方が良い。
もし脱臼を起こした場合は靭帯が損傷し圧痛と腫れの症状があり、患部を押すと浮き沈みするピアノキーサインが現れる。
慎重に押してみるとサインは現れなかった。ここの脱臼も心配ないらしい、ほっとする英二に国村が嬉しげに笑いかけてきた。

「俺、鎖骨って弱いんだよね。今のマジ良かったよ、もう一回やってくれない?」
「喜んでもらえて良かったよ。でも、もう一回は機会あればな?はい、肩全体の触診をするよ」

笑って応じながら肩関節全体の観察と触診をしていく。
肩関節の脱臼は外れた瞬間に激しい痛みがあり、肩甲骨の上が出っ張ることがある。
そして腱側と比べて上腕骨部がすこし前方へ突き出し腕が外側へ開くようになる。
どの特徴も国村の肩には出ていない、脱臼の心配も無さそうだ。軽く頷いて英二は国村に指示を出した。

「じゃあ国村、ゆっくり腕をあげてみてくれる?」
「おう、こんなんで良い?」

ゆっくりと国村は白い左腕をあげて動かしていく。その動きに無理は無い。
もし脱臼を生じると関節がスムーズに稼働できず激痛が生じて、こんなふうに自由には動かせなくなる。
ゆっくり稼働していく国村の首から肩に腕と、筋肉の動き方にも不自然は無い。
これなら脱臼の心配はないだろう、そう見ている英二に国村が愉しげに言った。

「ずいぶん見惚れちゃってるね、おまえ。俺の体ってさ、マジきれいだろ?ほら、よく見ろよ」

もちろん国村も警察官として救急法は取得しているから「観察」だと解っているだろう。
それでも言いたがる国村は本当にエロオヤジで、秀麗な容貌とのギャップが酷い。
いろいろ可笑しくて笑いながら英二はテーピングを取出した。

「まあな、確かに国村はきれいだよ? じゃあ、念のためテーピングするな」
「だろ?俺は肌きれいだし、体毛も薄いからね。テーピング、あんまりキツくしないでくれな?」
「了解、でも適度には固定するからな?」

国村の場合は腫れが少ない、けれど肩に出血斑が広がっている以上は「関節周囲の打撲」として処置をする。
関節周囲の打撲では関節運動のたびに傷ついた組織が動くことになり、他箇所と比較して内出血や腫れが起きやすい。
そうした受傷の拡散防止としてテーピング固定を施す。

「はい、じゃあ国村。ちょっと動かないでくれな」
「動くな、なんてさ。されるがままって感じだよな? あ、テーピングもエロいね、おまえ。いいね、もっとやって?」
「そんなに喜ばれると思わなかったよ?…うん、腫れも出ていないな」

手際よくテーピングを施しながら英二はクライマーウォッチを見た。
国村が雪塊に激突したのは10:15頃、現在時刻は11:50を過ぎようとしている。
受傷から2時間弱の経過だが患部の拡散は無い、やはり受傷直後に雪に埋没したことが幸いした。
あとは雪塊はザックをクッションにして肩にぶつかった可能性が高い、直撃ならもっと衝撃が肩に響いている。
そして国村は特練だった御岳駐在所長岩崎から教わった逮捕術を得意とする、きっと受身を咄嗟にとれた。
好条件が重なって国村は軽傷で済んでいる。良かったなとクライマーウォッチを見、つい英二は時間が気になってしまう。
今頃は周太は、どうしているだろう?

― 周太…きっと、心配させているだろうな

きっと連絡が無い英二を心配してくれている。
初雪が降った夜に周太は、これから雪山の危険に立つ英二の無事を祈りながら『絶対の約束』を結んでくれた。
そんな周太が今この時に心配をしないはずがない。ほんとうに心配させて、きっと泣かせてしまっている。
やさしい婚約者の心配を気遣いながら英二はテーピング処置を終えた。

「はい、完了。これなら不自由なくは動かせるだろ?」

盥の湯で手を洗いながら英二は国村に笑いかけた。
ゆっくり左肩を動かし確認すると国村は、底抜けに明るい目で愉快気に笑って答えた。

「うん、いい感じだね。ありがとうな、宮田。ほんと俺の専属レスキューだな、」

今日は雪崩の爆風と雪への埋没から国村を救けることが出来た。そして無事に手当てもしてやれた。
こんなふうに専属レスキューとして支えて、最高峰を登るアンザイレンパートナーとして生きていく。
すこしは夢に一歩近づけているかな?きれいに笑って英二は答えた。

「どういたしまして。あんまり無理に動かすなよ?下山したら病院に寄ろう」

関節周囲の打撲は、関節の運動範囲が狭まったり動かなくなる「関節拘縮」を生じることがある。
関節拘縮は皮下出血した血液が線維化する過程における関節組織の部分的癒着が原因になる。
または皮下出血がしこり状の瘢痕組織となって、関節機能を司る組織の運動妨害することにより起きる。
そうなると半年から1年の治療期間を要する、または後遺症として関節拘縮が完治しない状態で固まる恐れもある。
だから関節周囲の打撲では専門医への受診は必要になる。

「そうだな、うん。ちょっと寄らせてもらうかな」
「肩が動かないとクライミングは難しくなる、念には念を入れよう」
「おう、最高峰に行けないのは困るからね。ちゃんとするよ」」

素直に頷きながら国村は左肩に気をつけながら服を着ていく。
無理なく肩を動かせているらしい、良かったなと微笑んで英二も救命救急道具を片づけた。
きちんとストーブも消して後片付けをすると盥と防水シートも持って部屋を出た。
並んで廊下を歩く横で国村が愉しげに笑っている。

「うん、男でもさ?美人に触られるのは悪くないね、癖になりそうだな。宮田、また、お・ね・が・い?」
「まあな、怪我したら手当てするよ?おまえの専属レスキューやるんだしさ。でも怪我なんかするなよ、痛いし困るだろ?」
「怪我してなくても触ってよね?おまえの指使いのエロさ、マジ良いよ?」
「ダメ、応急処置以外では嫌だよ?俺のエロはね、全て周太だけに限定提供だからね。悪いけど国村でもダメ」

そんな他愛ない会話で笑いながら食堂に行くと主人が遭難者の男の相手をしてくれている。
英二は盥と防水シートを返しながら礼を述べた。

「ありがとうございました、お蔭できちんと手当が出来ました」
「ああ、良かったよ。もうじき富士吉田署の救助隊もつくそうだ、」
「良かった、じゃあ引継ぎ済んだら俺たちも下山します、」

話しながら英二は救助者の状況報告書を取出した。
これは山岳救助隊として遭難救助したとき、消防へ救助者の引継をする時に書いている。
このフォーマットは英二が吉村医師と後藤副隊長に相談して作った、それを今日はプライベートだけれど持ってきた。
さっき国村の体温回復を待ちながら汁粉を飲んでいた時、遭難した男に「一言」をかます国村の横で英二はこれを書いておいた。
さっと目を通して確認していると主人が感心したように覗きこんだ。

「へえ、これ宮田くんが作っているのかい?」
「はい。吉村先生と上司に相談して作りました。引継ぎが短時間で出来ますし、受入れ病院でも参考にして貰えればと思って」

遭難の日時、天候状況、現場状況。遭難者氏名、装備、健康の経過状態、受傷状態。それから遭難原因。
そうした遭難救助の詳細データを記載できる用紙でカーボンを挟んで2枚複写式になっている。
その写しを消防署の救命救急士へ引継ぎで渡す。正本は自分の控えにしてデータ入力する際の資料にし、吉村医師への質問にも使う。
今回は業務としてデータ化する必要はないけれど、吉村医師への質問には使いたい。
英二はペンと新しい状況報告書を出すと国村の内容を書き留め始めた。
こうした書類作成も3ヶ月半ですっかり慣れている、手早くても端正な筆跡でまとめ終わると横から国村が勝手に取り上げた。

「ふうん、俺の見立てって、こうなんだね。で、これをどこに出すわけ?」
「おまえが掛かる病院だよ、下山してすぐ行くだろ?これがある方が話が早い、だろ?」
「なるほどね、うん。だな」

そう話している所へと富士吉田警察署の救助隊員と消防署員が到着した。降雪で道路が封鎖され遅れたらしい。
英二は消防の救命救急士に書類を渡して引継ぎを始めた。いつも通りに状況報告を示して話を進めていく。
報告書には7合目のファーストエイドと山小屋到着後と、2回分の脈拍計測とリフィリングテスト、観察の経過が記載してある。
すぐに引継ぎを終えると救命救急士が英二に微笑んだ。

「とても適確で解りやすいです、君は医学生ですか?」

訊かれて英二は瞬間的に考え込んだ。
今日の国村は「今はただの山ヤだよな。任務からも警察官の肩書も俺はいま無関係だね?」と宣言している。
けれどいま質問されて嘘をつくわけにもいかないだろう。
さあ何て答えようか?そう考えている横から国村が笑って言ってくれた。

「いいえ、社会人でただの山ヤです。報告終わったんだろ?下山するよ、俺もう腹減っちゃうからさ」
「あ、お引止めして申し訳ありません。ご協力ありがとうございました、」

そう言って救命救急士は微笑んでくれた。
いま嘘を吐いている訳ではないけれど?なんとなく申し訳ない気持ちになりながら英二は端正に頭を下げた。

「いいえ、お役にたてば良いのですが」
「はい、とても役に立ちます。ありがとうございました、」

挨拶を述べると英二は登山ザックを背負った。
アイゼンを装着しながらも救助者の男の様子を見ると、しっかりと受け答えをしている。
もう大丈夫だろう、良かったなと微笑んだ英二に救命救急士が話しかけようとした。
けれど横から英二は腕を掴まれて振り返ってしまった、振向いた先で国村が笑って言った。

「ほら行くよ?お先に失礼します。おやじさん、ありがとうございました」

そのまま国村は笑いながら山小屋の外へと英二を押し出した。
そして扉を閉めると英二の腕を掴んだまま、さっさと歩いていく。
きっと富士吉田署の救助隊に自分達が警視庁山岳救助隊員だと知られたくないのだろう。
小雪が舞う登山道を、腕を掴まれたまま並んで歩きながら英二は笑った。

「国村。腕、離して大丈夫だって。誰も追いかけてこないよ?誰もさ、俺たちを事情聴取しないから」
「うん?ほんとだ、誰も来てないな?よし、」

からり笑うと国村は掴んでいた腕を放してくれた。
それでもアイゼンでさくさく雪を踏むスピードは緩めない、よほど事情聴取されたくないのだろう。
山梨県警には後藤副隊長の友人がいる、その友人に自分が後藤の縁故者で救助隊員だとばれるのが面倒だと国村は思っている。
これは早いペースで下山できそうだな?アイゼンワークに気をつけながら英二は国村のペースで下山して行った。



blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第32話 高芳act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-01-24 22:15:24 | 陽はまた昇るanother,side story
ひとつの勇気、涙、それから努力の援け




第32話 高芳act.3―another,side story「陽はまた昇る」

目覚めると空気が冷たい、ひんやりとした朝に周太はベッドから身を起こした。
おりた床も冷たく感じられる、そっと窓を開けて見上げた空は星が見えない。
午前5時の新宿は1月の夜明けの遅さに静まり返っている。

「…曇っている、ね」

ため息のようにつぶやいて周太は窓を閉めると携帯を開いた。
Bookmarkした天気予報を呼び出して全国天気から関東地方、山梨県とエリアを狭めていく。
そして富士五湖地方の予報を見つめた周太の唇からため息がこぼれ落ちた。

「…雪、のち晴れ…なの?」

やっぱり雪が降っている、あの愛するひとのいる山に。
予想をしていたこと、それでも不安が迫り上げて周太の心がつきんと痛む。
ひとつ息を呼吸すると周太は天気図の画面を開いた、その図は昨夜のニュースで見た通りの配置図でいる。
『低気圧の中心が富士山の南を通過、風速次第で通過も速まる』この天気図の時に富士山は雪崩を誘発しやすい。
低気圧の中心が富士山の南を通過した直後に雪崩発生が多い、そんなことが富士山のHPにも書いてあった。

「…でも、9時には下山するって、電話でも言ってくれたから」

昨夜の電話で英二は言っていた「9時には下山する、昼には青梅署に戻っているかな?」
低気圧が富士山を通過する時刻は9時半以降と天気図からは見られる、9時半なら英二と国村はもう下山を終えているだろう。
あの2人のハイペースならそれくらいで下りは降りてしまう、いつも奥多摩の山を早朝に登って下るペースは速いから。
だから雪崩が起きる時刻にはもう富士山から降りている、だからきっと大丈夫。

「ん、…大丈夫、だよね」

そっと微笑んで携帯を閉じると周太はデスクライトを点けて座った。
今日は当番勤務で交番へは15時までに出勤する、その前に昼過ぎから術科センターの特練に行く。
だから午前中は時間がある、けれどまた眠る気持ちにもなれなくて周太は白革表紙の本を手にとった。
このあいだ読んだばかりのページを開いて、その章の題をちいさく口にした。

「Le dernier amour du prince Genghi」

源氏の君の最後の恋、翻訳するとそんな章名になる。
フランス文学の短編集『Nouvelles orientales』邦題は『東方綺譚」に納められた一篇の恋愛小説。
日本古典で有名な『源氏物語』の主人公、光源氏が最愛の妻である紫の上を失った、その後をフランスの女性が書いた物語。

年老いて視力も失いかけた光源氏は出家して山奥の草庵に籠ってしまう、そこへ妻の一人である花散里が尋ねていく。
その花散里は地味な雰囲気だけれど温かい人柄のやさしい女性だった、そんな彼女は憔悴した光源氏を放っておけなかった。
けれど光源氏は過去の華やかな自分を思い出させるすべてを否定したくて彼女も追い返される。
それでも彼女は諦めない、変装して訪れ、その2度目には盲目になった光源氏の心をとらえて共に起居することになる。
そんな彼女は献身的に光源氏に尽くしていく、そして光源氏の最後を彼女は看取る。

…けれど、源氏の想いは…

最後の部分にさしかかって周太はそっと本を閉じた。
この物語の最後の部分。それは臨終の光源氏と花散里の対話になっている。
身分を偽った花散里とふたり静かな生活に光源氏は穏やかな時を過ごした。
その幸せな穏やかな生活の涯、死に臨む光源氏は自分が愛した人たちの名前をあげていく。
その列挙された名前の中には花散里が変装した姿は2度とも挙げられた。

けれど、

「…けれど、『花散里』とは、呼んでもらえない…」

自分の名前を愛するひとに呼んでもらえないこと。それは本当に哀しいことだと思う。
最初から呼ばれていなければ、最初から無いものと思うから辛くはない。
けれど一度でも呼ばれて愛された記憶があるのなら?

― 周太、愛してる ずっと隣にいて?ね、周太

大好きな声、きれいな低い声。
あの声がもし自分の名前を呼んでくれなかったら?
そんなこと考えただけでも心がもう痛い、そしていま雪山にいる英二の無事を祈ってしまう。

英二が下山を始めるのは9時、そして昼には青梅署に戻るだろう。
そして明日の11時にはこの新宿へ来てくれる、そして一緒に昼食をとって時を過ごす。
そんな幸せな予定が明日には訪れるはず、けれど「必ず訪れる」そんな保証はいったいどこにあるというの?

人の運命なんて解らない、父の消えた13年前の春の夜に思い知らされたその現実。
けれど英二は『絶対の約束』を繋いで結んでくれた、そして自分に求婚と婚約の花束を贈ってくれた。
だからきっと無事に帰ってくる、予定通りに下山して青梅署に戻って今夜また電話をくれる。そして名前を呼んでくれる。
そんなふうに信じたい、けれど不安は迫り上げて苦しくなってしまう。

「…それでもね、信じている、…だって、愛している」

こぼれおちる想いと一緒に涙がこぼれて白革表紙にふりかかる。
この本に納められた花散里の想いは「無償の愛」だった、けれど光源氏は最後まで解らない。
そんな光源氏の態度に心が冷える、だって光源氏は英二と似ている人だから。
美しくて才能にあふれた男、けれど母の「無償の愛」に恵まれなかった寂しさから女性たちを渡り歩く。
そんなところが英二と似ている、そんな光源氏が結局は「無償の愛」を与えてくれた花散里を忘れたまま死んでしまった。
そして自分も英二に「無償の愛」を捧げてつくしたいと願っている、だから花散里と自分を重ねてしまった。

「…ね、英二?…最高峰でもね、俺のこと、想ってくれている?」

英二が「人間」で愛するのは自分だけ、それは信じてしまえる。いつも自分ばかり見つめてくれるから。
けれど英二が最も輝く場所はきっと「最高峰」最も高い山の世界に英二は刻々と魅せられていく。
そこに立って輝く英二の姿を自分も見つめたい、英二が望むまま誇らかな自由を支えたい、だから止めることはしない。
けれど最高峰に魅せられたまま帰ってこなかったら?そんな不安と恐怖も蹲ることが怖い。
そして自分も花散里のように忘れられてしまったら?

「…ううん、違う…英二はきっと、忘れない」

そっと微笑んで周太はクライマーウォッチを手にとった。
これは英二が大切にしていた腕時計だった、けれど周太の「おねだり」に喜んで贈ってくれた。
英二は山岳救助隊を志願すると自分の道を定めた、その意思に立って英二はクライマーウォッチを左手に嵌めた。
そうして英二は生きる意味と誇りを山ヤの警察官に見つめ努力を始めた。
そんな英二の大切な時間と記憶を刻んだこの時計を、英二は迷わず周太に贈ってくれた。

「ね、英二?最高峰の夢だって、俺に贈ってくれる…そういうこと、だよね?」

英二の夢が刻みこまれたクライマーウォッチ、そして婚約の花束のオーニソガラムMt.フジ。
この2つが周太に教えてくれる英二の想いは「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」
そしてこの花の言葉は「純粋」そんな日本の最高峰の名前を冠する純白の可愛らしい花は、もう1つの名前を持っている。

「…子宝草、…ね、英二?」

子供を育む子孫繁栄を願う寿ぎの言葉「子宝」その名前と、日本最高峰の名前を併せ持った花。
この花に英二は誇りと夢をよせてくれた、その想いの奥に隠されていた「子宝」という言葉に心が留められる。
男同士の自分たちなのに?どうしてなの英二、どんな想いと意味があるというの?
このもう1つの名前を知った昨夜からずっと、そんな想いと質問が頭を廻ってしまう。ほっとため息を周太は吐いた。

「ん、…考え込んでも、だめ。他のこと、楽しいことをね、」

ひとり言に言い聞かせて周太はデスクの花瓶に目を向けた。
ちいさな白磁の華奢な花瓶には一茎の白い花が咲いてくれている。
スノードロップ「雪の花」の名前を持つこの花は、実家の庭から摘んで新宿まで連れてきた。
雪を割って咲くこの可憐で清々しい花姿が周太は好きで、庭に咲く姿が愛しくて連れてきてしまった。
ここに活けて咲いてくれている、その姿を見るだけで、どこか寂しい新宿警察署での暮らしが慰められる。

「今朝もね、きれいだね…庭より居心地悪いかな、ごめんね…そして、ありがとう」

ちいさく花に微笑んで、周太は白革表紙の本を書架に戻してコンパクトな植物解説書を手にとった。
デスクの上でページを捲りながら目当ての項を探して行く、そして見つけて微笑んだ。

スノードロップ snowdrop
学名:Galanthus nivalis (Galanthus : ガランサス属 nivalis : 雪の時期の )
別名:ユキノハナ(雪の花)マツユキソウ(待雪草)ガランサス
ヒガンバナ科ガランサス属Galanthusスノードロップ属、マツユキソウ属の総称

「…彼岸花なんだ、」

彼岸花は別名・曼珠沙華ともいう真赤な花。あわい黄色や白、うす紅も最近ではある。
その花とは姿がだいぶ違う、すこし意外で驚きながら周太は続きを読んだ。

花言葉:恋の最初のまなざし、慰め、逆境のなかの希望、希望、楽しい予告、初恋のため息
人への贈り物にすると「あなたの死を望みます」という意味に変わる
伝 説:エデンを追われたアダムとイヴに降る雪をスノードロップの花へと天使が変え、ふたりへの励ましとした

「…恋の最初のまなざし…」

こぼれた花言葉と一緒に周太の瞳から涙がこぼれた。
初めて出会った時の英二のまなざし、あの瞬間に自分はもう恋をした。
そして警察学校で隣に過ごす日々、きれいな笑顔でいつも佇んでくれていた。あの笑顔に自分はどれだけ慰められただろう。
そうして逆境の道に立つ自分を英二は掴んでくれた、微笑んで抱きとめ愛して幸せをくれている。
そんな英二は自分にとって唯ひとり愛する初恋のひと、そして幸せへの「希望」でいてくれる。

「ね、英二…英二みたいな花、雪の花…雪がね、英二は好きだね?」

― 冬はさ、雪山は俺、好きなんだ

昨夜の電話での英二の何気ない一言、けれど英二の本音の言葉。
雪を愛するひとは今きっと、最高峰の雪ふる富士山で暁の眠りに夢見ているのだろう。
今日の富士には雪がふる、その雪の美しさにきっと英二は見惚れるだろう。その英二の喜びを想うと愛おしい。
けれど雪ふる富士のもう一つの顔が周太の心を冷たく撫でる、吹雪の富士の名は「魔の山」そして雪は「白魔」となる。
そんな冷厳な富士の表情を想うと不安が冷たく心を痛ませる、けれどきっと英二は帰ってくる。

― 絶対に無事に帰るよ、周太。だって俺ね、周太に逢いたいよ?そして一緒に眠りたい、朝の周太を見たい

国村が繋いでくれた昨夜の英二の電話。
いつも英二は帰ると言ってくれる、その言葉通りに3ヶ月半をずっと隣に帰ってきてくれた。
そんな英二と自分は『絶対の約束』を結んでいる、だから帰ってきてくれる、そう信じている。
そのための勇気も1つ自分はもう抱いたのだから。そっと微笑んで周太は見つめるページを読んだ。

「…降る雪をスノードロップの花へと天使が変え、ふたりへの励ましとした…」

この伝説の通りになってほしい。
富士にふる雪が英二とその友人にとって励ましの花であってほしい、「魔の山」の白魔ではなく「希望」の花として。
この花の言葉の最後の1つは否定したい、はじめの6つの言葉だけを自分は信じていたい。
どうか富士にふる雪よ、お願いさせて?
あのひとの上にふる雪ならば、希望の花となってほしい。
あのひとに冬富士の冷厳が姿を現すときも、逆境のなかで希望となってふり注いで?

「…ね、英二?今日の吹雪もね、英二には夢をかなえる、希望になりますように」

きれいに微笑んで周太は、そっと本を閉じた。

朝食や洗濯を済ませると周太はダッフルコートを着て新宿署独身寮の外へ出た。
見上げる空が白い、冬の曇空はどこか切ない空気と雪の気配がある。この新宿にも雪が降るかもしれない。
そっと吐かれた溜息が白い靄になって空気にとけていく、周太は左手首のクライマーウォッチを見た。
文字盤のデジタル表示は8:35を示している。

…英二、まだ下山前だね?

いまごろ富士山の五合目で英二は雪の中に立っている。
きっと山小屋近くの斜面で国村と雪上訓練をしているだろう。
ふる雪の美しさにときおり目を留めて微笑んで、ときに真剣な眼差しにピッケルを握って雪に立っている。

…どうか無事に、英二

大切なひとへの想いと一緒に周太は歩き始めた。ちょうど着くころ公園の開門時間になるだろう。
今日は午後一の射撃訓練と当番勤務だから午前中は時間が取れた、そんなとき周太はいつも公園に行く。
いつもの道を歩いていくと芳ばしい香が頬を撫でてくる、その香りを送ってくる瀟洒な店の扉を周太は開いた。
いつものパン屋の棚には、きれいなパンがたくさん並んでいる。トングとトレイをとると周太は棚を眺めた。

「…いつもの、かな?…ん、オレンジの…」

ちいさく微笑んで周太はクロワッサンを2つとオレンジのデニッシュと、オレンジブレッドを選んだ。
いつも当番勤務の前にはここに来て夕食用のパンを買っていく、今日の様に時間があれば公園で食べる早めの昼用にも。
選んだパンを持ってレジに行くと顔なじみになった店員が微笑んでくれた。

「おはようございます、今朝は寒いですね?」
「おはようございます。寒いですね、雪かもしれないです」
「あ、降りそうですか?雪景色もいいですね。電車とか東京は止まりやすいから、ちょっと心配ですけど」
「はい、雪も、きれいですね?」

きれいに紙袋へとパンを入れてくれながら、気さくに彼女は話してくれる。
自分たちより幾分年上の雰囲気の女の人は、朗らかで楽しそうにいつも店にいる。
そして周太のことを覚えてくれていて、よくおまけしてくれる。
明るい良い人だなと見ていると、今日も紙袋へと1つ小さな焼菓子を入れてくれた。

「今朝はね、オレンジの焼菓子を新しく作ったんです。オレンジお好きでしょう?」
「あ、はい。…あの、いつもすみません」

いつもこうして何かしら、おまけをくれるから周太は恐縮して、来店も遠慮しようかなと思うときもある。
けれどこのパン屋は英二の記憶が薫る店だから、記憶だけでも英二に逢いたくて立ち寄りたくなってしまう。
あの卒業式の夜、初めて英二に抱かれて体ごと想いを交した。
あの翌日に最後になるかもしれない覚悟で離れて、そしてその翌朝に再会が出来た。
再会の朝に英二はこの店でクロワッサンを買った、それをいつものベンチで食べて微笑んでいた。
その後も何度か2人でこの店に来た、そして周太はいつもここへ来るようになった。
だから今日もここでクロワッサンを買いたかった。

「すみませんなんて、気にしないでください?こちらが勝手におまけしているんです」
「ありがとうございます、でも、俺、いつも来ているから…」

おまけは嬉しいなと思う、けれど、いつもで恐縮してしまうな?
そう思って店員を見ていると、彼女は優しく微笑んだ。

「大学生はね、お腹も空くでしょう?
 いつも勉強の本を持って一生懸命だから、つい応援したくなっちゃうのよ?だから遠慮しないでくださいね」

言われて周太は自分の手元を見た。
今日は美代に教わって買った生物学のテキストと鑑識の学会誌をブックバンドに纏めて持っている。
周太は鞄を持たないときは本をこうして抱えている、それを見て店員は学生だと思ったのだろう。
でも自分は社会人なのに学生と思ってサービスしてくれるのは申し訳ない、周太は口を開いた。

「いえ、あの、大学生じゃないんです…」
「あら、ごめんなさい。高校生だったのね。持っている本が難しそうだから、大学生だと思っていたわ」

そう言って彼女は朗らかに笑うと「高校生なら尚、お腹空くね?」とまた1つ焼菓子を入れてくれた。
何だか申し訳なくて周太は、これ以上は自分の身分を訂正することが出来なかった。
たしかに私服の高校も近くにあるし、周太は朝9時前か昼時に買いに来ることが多い。
きっと彼女は通学前か昼休みに買いに来ていると思ってしまったのだろう。

…やっぱり自分は、子供っぽく見えるんだな?

幼い頃から「かわいい」と言われることは多かった。
いつも母にそっくりと言われるけれど、その母は可愛らしい雰囲気で今も50歳には見えない。
そんな母に似ている上に小柄な自分だから、年齢より若く見えるのは仕方がないのだろう。
それが嫌で警察学校に入る時は、堅く真面目に見えるよう床屋でばっさり髪を切って貰った。
でもその髪型は母から「無理に似合わない格好するなんて子供っぽいわよ?」と全否定されてしまった。
それでも「かわいい」と見えなければ何でもいいと思って気にしないでいた。

…でも、英二が前髪ある方が良い、って言ったから、ね

きれいな笑顔が隣から笑いかけて「前髪ある方が良いな?」と言ってくれた。
それが嬉しくて周太は英二と2人の時は前髪をおろすようになった、そして髪も前髪だけは以前の様に長めにした。
そんな周太に母は「やっぱりその方が似合って素敵よ?」と笑ってくれた。
今でも警察官として任務に就くときは前髪をあげている、長めの前髪をあげると思ったより大人っぽくなった。
けれどプライベートではこうして前髪をおろしている、似合う自然な姿でいる方が良いと素直に思えるから。
けれど高校生に間違われると、ちょっと申し訳ない気持ちになる。
でも2度も訂正をするのは何だか申し訳なくて気が引けて、周太は何も言えないまま会計を済ませた。
そうして温かなパンの紙袋を受け取ると、彼女は温かなやさしい笑顔で送り出してくれた。

「今日は雪にも気をつけてね、早く家に帰った方が良いわよ?行ってらっしゃい、気をつけてね」

歳の離れた弟を見守る、そんな優しい眼差し。
姉がいたら、こんな感じなのだろうか?兄弟がいない周太はすこし姉や兄という存在に憧れを思うときがある。
ふと英二の姉の笑顔を想いだしながら、周太は微笑んで挨拶をした。

「はい、行ってきます。ありがとうございます」

からんと鈴を鳴らして扉を開けると、通りが冷えこんでいる。
吐く息がなお白い、さっきより気温が下がったのだろうか。
公園へ歩いていきながら左手首を見ると8:52の表示だった、そろそろ英二は下山に向かうだろうか。

― 下山したらまたメールする、吹雪の富士山も綺麗だろうから

今朝7時に英二はメールを送ってくれた。
真白な空気に佇む吹雪の富士山の姿と「おはよう」を告げてくれるメール。
その前には昨日の17:00ごろ極彩色の夕富士の写真、昼過ぎに富士山頂の雄大な雪山の世界をおくってくれた。
山頂の前には7合目付近からの朝富士、白銀に輝く朝陽のうす紅が美しい「おはよう」のメール。
どれも美しかった、そして添えられたメッセージがうれしかった。

…でも、無事の下山のメールが、一番うれしい

どうか無事に帰ってきて?
そんな願いと一緒に公園の門を潜って、歩く道にまた英二の記憶が右掌に繋がれてくる。
冬を迎えてコートの季節になってから、いつも英二は繋いだ周太の右掌をコートのポケットにしまい込む。

― 周太、こうして手を繋ぐと、あったかいだろ?

きれいに笑って見つめて、ときおり長身を傾けてキスをして。そんなふうにこの道を歩いてくれる。
明日は水曜日。週休の英二は周太に逢いに新宿まで来てくれる。
そしてきっとこの道を掌を繋いで歩いてくれる。

…きっとね、一緒に明日は歩いている

そっと微笑んで周太はいつものベンチに座った。
豊かな常緑の梢が天蓋に覆ってくれるベンチは、ゆるやかな冬の陽だまりが温かい。
ココアの缶のプルリングを引いて周太はひとくち飲むと、ほっと息をついた。
甘い香りの吐息が冬の森の空気にとけこんでいく、靄とけるさきを見つめてから周太は学会誌を開いた。

「残留界面活性剤成分を指標にした白色系綿繊維の識別」

日本法科学技術学会誌で去年春に掲載されたばかりの「繊維鑑定」の新技術を記した論文。
繊維鑑定の目的は「被疑者の手が被害者の着衣と接触したか」被疑者の手に被害者衣類と、同種の繊維の付着があるか調査する。
付着物採集には「鑑識採証テープ」という特殊なテープを使い、被疑者両手の指の表裏と手のひら、甲から付着物を検出する。
その付着物を顕微鏡などで素材や色などを比較するが、繊維素材は綿、絹など10前後、色は最大1000以上に分類される。
ただし「白色系綿繊維」は識別が困難とされていた。
白い綿素材は日常生活で下着類など多用されている、そのため証拠物件としての価値は低いとされていた。
そこで繊維に沁み込んだ洗濯洗剤に着目した鑑識法が考え出された、それがこの論文に載っている。

周太は12月に痴漢冤罪の事情聴取をした、その時に「繊維鑑定」を被疑者に申し出た。
その時は本当の容疑者が自白するに至ったけれど、実際に繊維鑑定に持ち込んだ場合の対処を周太は考えていた。
そのことを英二に話すと青梅署警察医の吉村医師からこの学会誌を借りて、年明に川崎の家へ帰るとき英二は周太に貸してくれた。
この学会誌も吉村医師に返しに自分で行って、お礼と年明の挨拶に本当は行きたい。

明後日の週休、どうしようかな?
学会誌を読みながら自分の予定を周太は思いだし考え込んだ。
明日は午前中に特練があって午後から英二に逢う予定になっている。
明後日は週休だけど英二は日勤だから、周太は午前中に射撃訓練に行こうと自主訓練を術科センターに申し込んである。
警視庁けん銃射撃大会までもう1ヶ月を切っている、できれば訓練は休まない方が良い。

…けれど、

明後日は英二は仕事がある。だから周太が一日休んでも一緒にいられるわけではない。
それに特練の自分は出来るだけ毎日練習をした方が良いのだろう。
すこしため息を吐いて周太はクライマーウォッチを見、ちいさく声をあげた。

「…9時半過ぎている?」

デジタル表示時刻は9:52となっている。
周太は急いでポケットの携帯を出して開いてみた、けれど着信は何もない。
iモード問い合わせをしても着信件数は0だった。

「…英二、下山予定は、…9時半、って…」

心を氷塊が滑り落ちる感覚に周太は息を呑んだ。
どうして、なぜ、英二からメールが入っていないのだろう?

いま時計は9:54になった、予定ではとっくに下山しているだろう時間。
五合目の山小屋を9:00に出ると言っていた、それなら英二と国村の場合30分もあれば下山する。
いつも奥多摩の山で同じようなコースを毎朝に、そんなタイムで下山しているのを聴いている。
それなのにどうしてまだ下山のメールが入っていないのだろう?

「…っ、」

思わず周太は着信履歴から電話を繋いだ、けれどコール音すら鳴らない。
留守番電話センターの無機質な声が流れて周太は切った。
富士山はどこでも繋がる携帯会社がある、そこに英二も周太も国村も加入している。
けれど乱気流や低気圧など、気象条件で繋がらないこともあると聴いている。それでも下山していれば回線は繋がるはずだった。

「…えいじ…まだ、下山していないの?」

握りしめたままの携帯からBookmarkを開いて気象予報サイトへと繋ぐ。
そこからエリアを狭めて富士山の気象情報を周太は開いた。
そこにエリアニュースが入っている。

…エリアニュース…事故、それとも悪天候の?

携帯を握りしめる指が冷たくなっていく。
エリアニュースのボタンを押そうとしても指が動いてくれない。
ただ見つめる携帯の画面右上で、時刻表示がかちりと変わった。

10:00

…っ、英二!

心が悲鳴を上げて一挙に胸を迫りあがる。
そして黒目がちの瞳から堰切ったような涙がこぼれ落ちた。

「…あ、」

なぜ?どうして?
どうしていま自分の瞳から涙がこぼれ落ちるのだろう?
理屈なんてわからない、けれど何かが心を圧迫して涙が止まらない。
いったい何が起きているのだろう?

「…えいじ?」

なぜだろう、ただ「英二」だけが頭を廻ってしまう。
いったいどうして、なぜ?涙がこぼれて止まらないのは?

…この涙の理由に自分は向き合いたい、逃げたくない

逃げたくない、何があったとしても。
だって自分は英二の求婚に頷いた、もう婚約者できっと「妻」になる。
それは英二の伴侶として、全てを受けとめるという覚悟と決意に立つこと。
そして英二はいま母親との義絶から家族との連絡も稀になっている、それもすべて自分の為に。

そんなふうに英二は自分を選んでくれた、唯ひとりだけ欲しいと求めて全て捨てても隣に居場所を求めてくれた。
だから自分は知っている、きっと英二は自分の隣だけに帰ってくる。何があっても。
だから自分は受けとめたい。伴侶の自分が受けとめなかったら、いったい誰が英二を受けとめるというの?

「…そう、…俺がね、受けとめる…英二…」

周太は携帯を握りしめた、そしてエリアニュースを開いた。

  09:30 富士山情報 吉田大沢で大規模雪崩が発生予測 現在入山規制中
  10:05 富士山情報 吉田大沢で大規模雪崩10時頃発生 9合目から6合目まで崩落予測 現在入山規制中

頬伝う涙が冬の森の冷気につめたく零れていく。
こんなふうに山は何が起きるか解らない、けれど英二は駆け出していく。
それを自分も止めたくはない、だって英二が輝く場所がどこなのか、一番自分が知っている。
涙に揺れる視界にクライマーウォッチのデジタル表示が10:15を告げる。

…ね、英二?いま、どこにいるの?

いま富士山の吉田大沢には雪崩が高速で走り下っていく。
きっといま雪崩が巻き起こす爆風が北東斜面に吹き荒れている。
その場所は英二が昨日から今日にかけて訓練で登った斜面、ほんとうは今もう下山の予定だった。
けれど何かが起きて英二も国村も下山していない。だから、きっと、今、英二は、

…きっと、ひどい風と雪の中を耐えている

どうか帰ってきて英二?自分の隣に無事に帰って約束を叶えて?
あなたは自分の唯ひとつの想い、ただ一度の恋、そして唯ひとつ輝いてくれた希望。
だから帰ってきて英二、あなたが消えたら自分も生きてはいられない。

…英二?いま、雪がふっているね

最高峰にふる雪の花、どうか想いを伝えてほしい、逆境に立つあのひとへ。
あなたは自分の希望、想いの最初のまなざし。ため息はあなたを想う呼吸。
唯ひとり、他はいらない、だから富士の山よ、願いを聴いてください。
どうか帰してください、自分の元へあのひとを。

涙がこぼれて止まらない、それでも携帯の着信ランプは灯らない。

メールも電話も届かない、どうしてそんな遠くにいるの?いつも隣にいたいのに。
いつも隣で笑っていたひと、ほんの3か月半前までは。隣の部屋にいて隣に座って朝まで一緒に勉強して。
なのにいまはこんなに遠い、メールも電話も届かない、声も想いも届けられないの?

「…どうして?…」

周太は遠くの空を見あげた。
いま新宿の森に見つめる梢の彼方北西に、遠く聳える優雅な富士の山、日本の最高峰。
白魔と言われる白い風雪が踊る「魔の山」それが冬富士の1つの顔。
いまそこにきっと英二が立っている。

…英二?

逢いたい。
いますぐ逢いたい、もう今すぐに。
こんなの嫌、離れたまま置き去りにされて何も解らないのは。
きっと今は英二は風雪に耐えている、その英二をただ想うだけしか出来ないの?

こんなふうに連絡が遅れたことは一度だけ。
それは御岳の山ヤだった田中が遭難死した時だけだった。
あの夜も英二は電話が遅かった、そして届いた電話のむこうで泣きじゃくって、そして自分は?

「…となりに、」

涙と一緒に一言だけこぼれ落ちた。
きっと英二と国村は最高峰を踏破する運命のアンザイレンパートナー同士。
そんな2人だから今まだ山に斃れるはずはない、きっと無事に帰ってくる、そう信じている。
でも。そう信じていても、涙は止まってはくれない。

愛しているから1%でも失う可能性が怖い。
山ヤが山に立ったら自身を最後に救うのは山ヤ自身、どんなに想っても現場から英二を救える訳じゃない。
いま英二が立つ危険から救ってはあげられない、けれど英二を迎えてあげられるのは自分だけ。
だからせめて少しでも英二の近くに行きたい、少しでも近い場所から無事を願う祈りを届けたい。
そして笑顔で帰りを迎えてあげたい、自分が英二に出来る今の精一杯をしたい。

…となりに、すこしでも近くに、いたい

持っていた本を周太はブックバンドをしないまま抱え込んだ。
そしてパンの袋を持って立ちあがると、公園の小道を歩き始めた。
その頬にふっと冷たい花びらが落ちて周太は顔をあげた。

…雪、ここにも

ベンチにはココアの缶が1つ置かれたままだった。


公園を出て新宿警察署へ歩く道、ふる雪のなか周太は電話を繋いだ。
その番号は青梅警察署警察医の吉村雅也医師の携帯番号だった。
3コール程でかちりと音がして、穏かな落着いた声が応えてくれる。

「湯原くん、こんにちは?」
「…吉村先生、急に、すみません…」

温かな声に涙がまたこぼれ落ちていく。
歩きながら声が詰まって出てこない、それでも吉村医師は待っていてくれる。
穏かな気配にすこし心が寛いで周太はようやく声を押し出した。

「先生、…英二たちから、連絡はありましたか?」
「朝にメールをいただいてからは、無いですね」

答えてくれる声は落ち着いている、けれど何かを覚悟したような静謐が伝わってくる。
吉村医師は既に次男を山の遭難死に亡くしている。その記憶がともにあるのだろう。
そして自分にも13年前の春の記憶がある、あの後悔をもうしたくない。
しゃくりあげそうな喉を抑えながら周太は、一言だけ吉村に告げた。

「先生…警察官を辞めたい…っ、」

言った途端に涙があふれて声が詰まっていく。ふる雪が涙ににじんでしまう。
ほんとうに心から今の言葉を自分は言ってしまった、こんなこと人に言ったのは初めてだった。
父の想いを見つめるために母を泣かせても選んだ「射撃の名手の警察官」の道、それが今は疎ましい。
そんな想いと泣きながら歩く周太に穏やかな声が訊いてくれた。

「うん、…どうして、湯原くんはね、警察官を辞めたいんだい?」

こくんと1つ唾を周太は飲みこんだ。
そして呼吸1つしてから言葉を静かに紡いだ。

「先生…いちばん大切なひとの元へと、自由に駆けつける。その自由が欲しいんです…だから、今、辞めたい」

もう、こんなのは嫌。
こんなふうに離れたままで、ただ泣いて心配するのは。
田中の時もそうだった、あの夜もすぐ隣に行って、抱き締めて泣かせてやりたかった。
そして今きっと英二は生死の境界線に立っている、そんな時にも駆けつけられない立場がもう嫌だ。
警察官の道より家より何よりも本当は、選びたいことは唯ひとつだけ。それをまた今こうして思い知らされる。

「湯原くん、君の気持はね、私には解るよ」

穏かな声が言ってくれる。
吉村医師も次男の雅樹が遭難した時、すぐに現場に駆けつけて自分で捜索したかった。
けれど当時の吉村は大学病院のER担当教授だった、その為に病院から離れることが許されなかった。
そんな吉村だから、警察官として射撃特練として行動管理される周太の気持ちを解ってくれる。
こぼれる涙に頬を温めながら周太は歩いて吉村の言葉を聴いていた。

「湯原くん、君の宮田くんを想う気持ちはね、ほんとうに美しい。
 いつも私はそう思う。だから君なら考えられるだろう?
 お父様への想いで選んだ道を、宮田くんの為に途中で捨ててしまったら?宮田くんはどう考える?」

父の為に立った「射撃の名手の警察官」父と同じ道を辿る軌跡。
ただ父の想いを受けとめ理解して、ほんとうは孤独なままに死んでいった父の供養をしたい。
そんな想いを英二は知っている、そんな自分を英二は尊敬して愛してくれた。
そして父の道に立つ危険にすら英二は共に立とうと、きれいに笑って約束してくれた。

「…きっと、英二は…英二自身を、責めます…俺を曲げたと、想って…」
「そうですね、実直な宮田くんは、きっとそう思います」

穏かな声が微笑んでくれる。
電話越しでも温かい吉村医師の気配にすこし心が納まり始めた。
ゆっくり大きく呼吸して周太は言った。

「…ん、はい…先生、取り乱して…すみませんでした。俺…まだ、辞めません」
「うん…そうだね、湯原くん。君がね、後悔しないこと。それがいちばん大切です。いいですか?」

後悔しないこと。
その一言が温かくて、今の自分には難しくもある。
いったいどうしたらいいのだろう?

「はい、…でも先生?きっと俺、いま…奥多摩に行かなかったら、きっと後悔します…
 英二がどちらの場合でも、きっと…今日すぐ、逢わなかったら後悔する。いま逢って伝えたい、だって明日があるか解らない」

明日があるか解らない、一瞬後だって解らない。
それは山岳救助隊に限ったことじゃない、今こうして歩いてすれ違う人たち誰も同じこと。
だから想いはその時に伝えなかったら、きっと後悔してしまう。

 ― 周、大切な想いこそね、きちんとその時に言わないと駄目だよ?
   次いつ言えるか解らないだろう?だからね、その時を大切に、一生懸命に伝えてごらん

そんなふうに父は自分に教えてくれた。
そして父は春の夜に約束だけ遺して死んでしまった。
そうして自分は思い知らされた「もっと、お父さんの話を聴いておけばよかった」父の想いを、知りたかった。
だから自分は英二の元へと行きたい、今すぐに。明日は逢える予定だけれど、それでも今すぐに逢って想いを伝えたい。
こんなの警察官のくせに我儘だろう、それでも自分は我儘を通したくてたまらない。
そっと周太は携帯を握りしめて涙ひとつ零した。

「うん、わかったよ。湯原くん、君はね?まず、お昼ごはんを食べなさい。そして、今日はどんな予定だったのですか?」
「12時半から、術科センターで訓練です…15時からは当番勤務です」
「解りました。では、その予定通りにまずはね、過ごしてご覧?
 宮田くんたちが青梅に戻るのは、きっと、夕方だろう?だからゆっくり対応を考えましょう、焦ることはありません」

落着いた吉村医師の言葉に周太は、ほっと息をついた。
この医師の穏やかな声は安心と信頼を感じさせてくれる、きっと大丈夫と思わせてくれる。
吉村医師の言う通りにしてみよう。素直に周太は頷いた。

「はい…俺、ちゃんと昼ごはん食べます。それから、術科センターへ行ってきます」
「うん、気をつけて行っておいで?」

そんなふうに話して電話を切ると、ほっと周太は息をついて見上げた。
白い空から雪はふってくる、富士にも雪はまだ降っているのだろうか?
気がつくと新宿署前まで歩いて来ていた、そのまま周太は独身寮へと戻った。

寮の談話室の自販機でコーヒーを買ってパンの紙袋を開ける。
クロワッサンをかじると馴染んだ味がやさしい、きちんと味が解って食べられている。
すこし心が落ち着いたのだろう、ほっと息をついて周太はクロワッサンとオレンジデニッシュを飲みこんだ。
食べ終えて自室に戻ると鞄へ公園に持って行った本2冊と、残りのパンたちをしまう。
それから制服に着替えて前髪をあげると、携行品を保管から受け取ると新木場の術科センターへと周太は向かった。

小雪が舞うなか周太は術科センター射撃場へと入った。
いつもどおりに射撃ブースを与えられて、いつもどおりの片手撃ちに構える。
いつもどおりに全弾10点に着弾していくのを、どこか遠いことのようにも感じながら周太は訓練を終えた。
終わって術科センターのゲートを出るとクライマーウォッチの時刻は13時半だった。
そっと携帯を取り出して画面を開いても着信は無い。

…英二、いま、どこにいるの?

見あげる白い空からは花びらのような雪がふる、そっと頬にふれすぐとける幻のような軽い雪。
ふる雪にため息を吐くと、ぼんやりとしたまま姿勢よく歩いて電車に乗り込んだ。
車窓から北西を見ると富士山が真白な裾を引いて美しい、その姿に周太は心冷やされてしまう。
あの真白な裾のなかで今日の9時~10時半に何が起きていたのだろう?

「…あ、」

涙がひとつだけこぼれ落ちてしまう。
今日は一体どれだけ涙をこぼしてしまっただろう?
こんなに泣いてばかりいてはいけない、そっと周太は指で涙を拭って微笑んだ。

…だって、英二の婚約者で、妻になるのだから

英二は7月になったら分籍をする。
そうしたら英二は戸籍上で家族が誰もいなくなる。
すでに英二は実母から義絶された時から実家に帰っていない、それでも英二は周太と生きる選択を動かさない。
そんな英二には家族と呼べるのは周太しかいない、だから自分がいつまでも泣いていてはいけない。
たとえ何があっても、自分が英二を支えなくてはいけないのだから。

「…ん、がんばろう」

微笑んで周太は新宿駅におりた。
クライマーウォッチを見るとまだ14:15だった、けれど早めに行って調べごとをしたい。
どこかいつもより浮んだような足取りに周太は新宿東口交番へ向かった。
すぐ勤務先の東口交番について雪を払ってから入ると、若林が周太を待っていた。

「ああ、湯原。早めに来てくれて良かったよ、ちょっと急な話で悪いんだが」
「はい?なんでしょう、」

制帽を脱いで周太は若林に返事をした。
そんな周太に若林はメモを見ながら説明をしてくれる。

「湯原、今からすぐに他の所轄へ出張に行ってくれないか?
 今日の夕方と明日の正午過ぎまで、2日がかりになるが…明日は非番のところを悪いんだが、」

出張に行く。そうしたらもう今すぐ英二の元へはいけない。
それどころか明日会うことすら難しくなるかもしれない、ため息を吐きかけて周太は我に返った。
きっと真面目な英二だったら、仕事を投げ出すなんて考えられないだろう。

…自分は英二の妻になる、だから英二と同じように仕事を大事にしたい、「妻」の名に恥じない自分に近づきたい

いま自分が置かれた立場で出来る精一杯をしよう、それをきっと英二も望んでくれる。
覚悟と想いに微笑んで周太は若林の目を見た、そして快くうなずいて訊いた。

「はい、どういった出張ですか?」
「うん、ちょっとな、人員が限定される内容でな…湯原しか該当者がいないという話になってな」

頷いた周太を見て若林はメモを周太に渡してくれる。
それを見た周太の瞳が大きくなった。

 内容:雪山における弾道の鑑識調査の協力
 場所:青梅警察署管轄・雲取山他、武蔵野警察署射撃場
 担当:青梅警察署警察医・吉村雅也 青梅警察署山岳救助隊副隊長・後藤邦俊
 【派遣要員条件】
  拳銃射撃及びライフル射撃の熟練者かつ鑑識知識が豊富で、登山経験者であること。雪山登山経験者が望ましい。
 【備考】
  拳銃およびライフル銃は青梅警察署備品を使用。アイゼン・ピッケル貸与。制服不要、登山装備必須。

「湯原は拳銃射撃だけじゃなくて、高校時代にライフル射撃でも優勝しているそうだな。
 しかも湯原は卒配とはいえ鑑識も詳しいだろう?それに山岳救助隊の自主訓練にも参加している。
 それで新宿署からも湯原を、って話になったんだ。それに湯原は吉村先生のことは、知っているな?」

若林に話しかけられて周太は顔をあげた。
この出張を承諾すれば周太は今すぐに英二の元へ行ける。それも公務としてだから堂々と新宿署の任務全てキャンセルできる。
この「派遣要員条件」は自分が努力した事ばかり、不器用な自分の努力が虚しい時もあるけれど今こんなふうに役立とうとしている。
すこし顔が赤くなっているかもしれないと心配しながら、頷いて答えた。

「はい、同期たちが先生にお世話になっています」

「うん、そうだったな。それで吉村先生からもな、
『青梅署の同期の方からも伺っています。湯原くんなら条件が揃うと思いまして』と言って新宿署に依頼が来たそうだ」

吉村医師が周太を奥多摩へ呼んでくれた。
あまり意外で呆然としながら周太は若林の目を見つめていた。
そんな周太の驚きを「急な出張に驚いたのだろう」と思ったらしく若林が説明してくれた。

「ほら、昨夜から午前中にかけてな、奥多摩に雪が降ったろう?それで急だけれど雪山での弾道調査が決定されたそうだ。
 そこにも書いてあるが、拳銃は携行しなくて大丈夫だ。警察手帳だけ携行してくれ。
 青梅署の方でテスト用に拳銃とライフルを用意してくれる。湯原は冬用の登山服と登山靴は持っているか?」

「はい、あります」

年明けに実家で英二と過ごした後、新宿で英二は「ちょっと買い物がある」と周太に言った。
そして連れて行かれたのは以前に登山ウェアを買ってくれたショップだった。
そこで英二は冬山用のウェア一式と登山靴を買ってくれた。
高いものをと心配する周太に、きれいな笑顔の強い押しで英二は贈りつけてしまった。
早速に役に立つことになった。

「じゃあ湯原、悪いが今すぐ新宿署へ戻って、仕度して出てくれ。
 青梅署に着いたら診察室へ行けばいい。…あ、宿泊場所とか書いていないな?連絡入れてみるか?」
「大丈夫です、自分で手配します」
「ほんとうに、急で済まないな?明後日の週休は体休めてくれ、出張のまま青梅署の同期と楽しんでもいいしな」
「はい、ありがとうございます」

当番勤務から「出張」へとシフトを書換えると、急いで東口交番を出た。
新宿署へと戻る雪ふる道を歩きながら周太は吉村医師に電話を繋いだ。
すぐに出てくれて穏やかな声で笑ってくれる。

「湯原くん、急な任務をお願いして申し訳ありません、」
「いいえ、あの…先生、すみません。俺が、わがまま言ったから…」

申し訳なくて周太は素直に謝った。
けれど吉村医師は気さくに笑って言ってくれた。

「はい、わがまま言ってくださって光栄ですよ?
 それにね、今回の弾道調査の件は本当に必要なのです。
 拳銃とライフルと両方を同じ射手にお願いしたくて。そうすると人が限られるでしょう?
 青梅署でも1名は確保できるのですが、データ照合の為にもう1名、どうしても要員が欲しかったんです」

青梅署でも1名、それはきっと1名しかいないだろう。
じゃあもしかして?ことんと心が跳ねたのを感じながら周太は訊いてみた。

「あの、先生…国村さんですよね?もう1名って…じゃあ、2人は帰ってきたんですか?」

どうかお願い、無事を聴かせてほしい。
そんな祈りに握りしめる携帯から穏やかな声が教えてくれた。

「はい。ふたりとも無事ですよ。
 さっきね、国村くんから公衆電話で連絡がありました。富士山で遭難救助をしたそうです。
 それで下山が遅くなりました。雪崩の電波障害で携帯が繋がらず、富士吉田署と救急への引継ぎもあって、連絡が遅れたそうです」

…英二、

唯ひとりの人、その人の無事が、こんなに嬉しい。
いま制服を着ている、それなのに涙がこぼれてしまう。
温かな涙がひとつ頬伝っていく、幸せに微笑んで周太は言った。

「ありがとうございます、…先生、じゃあ2人はまだ戻っていないんですか?」

「はい。きっとね、温泉でも入ってくるんじゃないかな?山小屋はお風呂が無いですからね。
 だから湯原くんの方が先に、青梅署に着けますよ?ちょっと驚かそうと思って、ふたりには言っていないのですが」

可笑しそうな吉村の気配が伝わってくる。
楽しくて周太は頷いた。

「はい、内緒でお願いします。先生、すぐ行きますね?そしてコーヒー淹れます」

雪が止んだ。

きれいに笑って周太は空を見あげた。
白い雲が少しずつ晴れて抜けるような青が映りこむ、夕映は美しいかもしれない。

これから奥多摩の山に行ける、そしてあの隣に自分は帰る。
そうして言ってあげたい「お帰りなさい」それから抱きしめて話を聴かせて?




blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第32話 高芳act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-01-23 23:59:34 | 陽はまた昇るanother,side story
かくされた願い、想いの真実




第32話 高芳act.2―another,side story「陽はまた昇る」

一日の勤務を終えて周太は新宿署の独身寮に帰ってきた。
今日は月曜日で飲み会なども少ない、新宿東口交番の管轄内では喧嘩などもなく穏やかな日だった。
いつもこんなふうに平和だといいなと思ってしまう、出来れば人が傷つけ合う姿など見たくない。
自室で制帽と上着を脱ぐと周太は左手首のクライマーウォッチを見た、デジタル表示には18:33と出ている。
今日はトラブルも無くて定時通りに勤務を終えたから時間が早い。

「…すこし早いけど、食事とか、済ませようかな」

今日は英二は富士で登山訓練をしている、きっと疲れただろう。いつも21時の電話も早めに架けたいかもしれない。
先に食事して風呂も早く済ませよう、制服のまま周太は廊下へ出ると食堂へ向かった。
夕食のトレイを受けとって座るとテレビが夕方のニュースを流している。
いただきますをして箸をとり汁椀に口付けてから、ときおりテレビを見ながら食事を始めた。

「…今日は全国的に晴天に恵まれ…」

いつものように天気予報が気になってしまう、ふと箸をとめて天気図を周太は見つめた。
英二は山岳救助隊員を兼務する青梅署所轄の御岳駐在所で勤務している、そして山岳遭難の救助に駆けていく。
山岳では天候にその安全を支配される、とくに冬は降雪と低温が危険を増す。
そんな心配からも天気図を見る癖が周太についてしまった。
そして今日の英二は国村とマンツーマンの登山訓練で富士山にいる。
単独峰の富士山は遮蔽物が皆無の為に風の影響を受けやすい、特に冬富士は突風と雪崩が恐ろしい。

…今日はきっと大丈夫。でも明日の、この天気図は…

英二が山岳救助隊員となってから周太は山では気象予想が大切なことを知った。
いつも英二はいろんな話をしてくれる、その話から周太は自分も天気の読み方を知ろうと思った。
大切な英二が立つ現場のことを正しく理解して、すこしでも英二の世界を知りたい。
そうして調べて覚えた天気図と山の天候のことが、いま見つめる天気図に明日の富士山を教えてくれる。

…明日は頂上に登る予定、でも雪が降ってしまう

この天気図だと今夜から明日朝にかけて降雪がある。
ふりつもった新雪はきっと美しいだろう、けれどこの時期は雪崩があると父から聞いたことがある。
いまから13年以上前に父は殉職をした、その父は山を愛し植物を愛し、その話を周太にもよくしてくれた。
ちょうど今ごろの季節に富士山麓の全面凍結する湖を見に行った、そのときの話が思い出されてしまう。

「ほら、周。ここからね、富士山が見えるね…あの斜面のところ、見える?」
「ん、お父さん、…あの靄みたいなのかな?」
「ん、そう。あの靄はね、…雪崩で起きる雪の煙なんだ。雪崩でね、すごい風が起きる。それが雪を飛ばして煙になって見える」

雪崩は高速で長距離を走り前面の速度は毎秒20~80m、そのため巨大な雪煙を巻き起こす爆風を伴う。
この爆風による圧力は最大で鉄筋コンクリートの建物を破壊するほどの衝撃力になる。
そんな爆風に飛ばされたら滑落に繋がる。そして富士山の広斜面は遮るものも無く止まれず、滑落すればまず助からない。
あの2人は適切な訓練と装備を備えている、それでも雪崩に遭えば深刻な危険である事は変わりはない。
見つめた天気図に小さくため息を吐くと、また周太は箸を動かした。

…でも、きっと大丈夫、

きっと慎重な英二と経験豊富な国村の事だから、無理な計画を立てることはしない。
だからきっと明日の天候も予測して予定変更をしているだろう。
それに今日の昼過ぎに英二はメールを送ってくれた、きれいな富士山頂の写真と初登頂の想いが籠ったメールだった。
今日の登頂は明日の天候不順を見込んでの計画の前倒しだろう。

…きっと今日もう登ったから、明日は早く下山する、きっと計画を変えているはず

きっと大丈夫、あの2人なら無謀なことはしない。
いつもあの2人は困らせることを言ってくるし、すぐ大人の会話を始めて周太を真赤にさせてしまう。
けれど怜悧で慎重な2人だから大丈夫、きちんと無事に帰ってくる。だって英二は『絶対の約束』をしてくれた。
そうやって自分に言い聞かせながら食事して、なんとか全部を胃に収めると周太は箸を置いた。

「…警察官が逃走中の車に発砲し、助手席の男性が死亡した事件で、」

テレビの声に周太は視線をあげた。
その視線の先では10年ほど前の警察官発砲事件について、初公判が始まった旨のニュースが読まれていく。
殺人・特別公務員暴行陵虐致死の両罪で、付審判決定を受けた警察官2名の裁判員裁判の初公判。
こうした付審判での裁判員裁判は例がなく殺人罪の審理も初めてになる、そのニュースがテレビから流れていく。

「…警察官2名は罪状認否で無罪を主張…発砲の正当性と殺意の有無が争点になる…」

その事件は「車上荒らし」が発端だった。
発見された車上荒らしの手配車両が逃走、パトカーや一般車両に衝突しながら暴走を始めた。
その暴走を停めるために警察官3名が計8発を発砲、手配車両内の男性2名を狙撃した。
車内への狙撃は助手席側の約1メートルの至近距離からだった。
そして2名の警察官が発砲した2発が助手席男性の首と左頭部、1発が運転席の男性の頭に命中した。
狙撃された助手席男性は翌月に死亡、窃盗などの容疑で書類送検されたが容疑者死亡で不起訴。
運転席男性は窃盗罪などで懲役6年の実刑判決を受けた。
そして狙撃した警察官2名に殺人・特別公務員暴行陵虐致死の罪状が付審判決定された。
警察官2名の主張は「逃走した車両を停止させるために運転する男性の腕を狙った正当な発砲だった」

…正当な発砲…狙撃

ニュースで読まれた単語に心が固くなっていく。
この警察官たちは発砲許可を受けて狙撃をした、それくらい緊急性の高い状況だっただろう。
きっと車上荒らしの車両を停止させなければ、逃走しながら事故を起こして多数の死傷者が出ていた。
だからこの警察官達は「起こり得た傷害致死罪」を防いだことになる、それでも「殺人・特別公務員暴行陵虐致死」の罪状は下された。

…狙撃すること、任務、そして、

たとえ任務であったとしても、人命を救うためであったとしても。
銃で狙撃し死傷者を出せば罪に問われていく、それは警察官であっても変わらない。
それを知ったうえで自分は「射撃の名手である警察官」の道に今こうして立っている。
その道が行きつく先にあるもの、それが父の進んだ道だから自分は立つことを選んだ。
そして父が見つめ苦しんだ世界と想いを、息子の自分が見つめて父を受け留めたい。そのために今ここにいる。

…狙撃の任務、…お父さんの任務、だったのでしょう?

父の任務は秘匿されている。
家族すら知らされず、警察社会の暗部へと謎の底にと沈められている。
きっと父は苦しんだ、優しい誠実な父は任務と罪の陥穽で孤独に苦しんでいた。
そんな父の孤独を自分は何も知らなかった、ただ父に守られて幸せに笑っていた。
だから父が殉職したときに後悔が心を蝕んだ、父のことを何も知らなかった自分を思い知らされた。
そんな後悔はいまでも心に蹲って動けない、だから「父を知る」為に父の軌跡を辿り選んでここにいる。

…ね、お父さん?俺はね、お父さんの道を歩き出した。でも、俺は絶対に殉職しない

ちいさく微笑んで周太は席を立った、そしてトレイを返却口に返すと自室へ戻った。
自室へ戻ると時間はまだ19:00前だった、すこし考えて周太は着替えなどの支度を始めた。
いまから風呂を済ませてしまえば19時半には落ち着けるだろう、タオルなど一式を持つと周太は共同浴場へ向かった。
まだ19時半の早い時間で浴場は空いている、すこしほっとして周太は隅の目立たない場所の洗い場を選んで座った

座った正面の鏡に自分の体が映りこむ、その右肩に赤い痣がうかんで花びらのように見えた。
そっと見る右腕の内側にも同じような赤い花のような痣がある、こんなふうに英二は周太の体に想いを唇で刻みこんでしまった。
いつも英二は周太の体中に赤い花の痣を刻みこむ、それは一晩もたてば全て幻のように消えてしまう。
けれど今見つめている、この2つの痣は消えることは無い。
この2つの痣だけはいつも、歯を立てるキスで深く英二は刻んでしまう。それを初めての夜から英二は続けている。
もう消えてくれない想いの痣。そんな深い痣を2ヶ所も刻まれた自分は英二だけのもの、そんな印として英二は刻んでしまった。

…ね、英二?英二の夢の、最高峰の1つに今いるんだね?

そっと赤い痣に微笑んで周太はシャワーの栓をひねった。
温かな湯に寛ぎながら髪を洗い体を洗ってから浴槽へと浸かる、そこへちょうど同期の深堀が入ってきた。
今日の深堀は週休だから空いているうちに風呂へ来たのだろう、いつもの明るい気さくな笑顔で深堀は話しかけてくれた。

「おつかれさま、湯原。今日は早く上がれたんだね?」
「ん、月曜の週初めだからかな?あまり東口交番は人も来なかった…道案内が5件くらいかな」
「そっか、平和がいちばんだよね。手話の方ってまた見えた?」

周太の勤務する新宿東口交番は駅前広場に面し、道案内の業務が多い。
そんな道案内の時に周太は筆談で道案内を訊かれたことがあった。
まだ若い男性は大学生だったらしい、大学のテキストを買いたくて本屋を探していた。
その時は筆談で周太は対応した、けれど深堀や瀬尾が手話講習会に行くときいて自分も覚えようと思った。
でもまだ現場で使ったことは無い、かるく頭を振って周太は微笑んだ。

「いや、まだ見えてない…でも、手話出来るといつか役に立つかなって」
「うん、そうだね。俺はね、詩吟の稽古の時にさ、役に立つよ」
「詩吟で?」

意外で周太は驚いた。詩吟の様に発声する稽古に、手話を必要とする人が参加できるのだろうか?
そう驚いていると深堀が笑って教えてくれた。

「会話は難しくてもね、詩吟の発声は出来る方もいらっしゃるんだ。そういう方に稽古を出来て手話は便利なんだよ」
「そういうのも、あるんだね…すごいな、深堀」
「ううん、俺は何も凄くないよ?湯原の射撃の方がすごいって。特練いつも頑張ってるよな?」

気さくに笑って深堀は髪を掻き上げた。
こんなふうに深堀はいつも気さくで偉ぶった所が無い、けれど豊かな語学能力と対人スキルが高い。
深堀は数か国語の日常会話ができる、そんな能力で外国人が多い百人町交番に卒配された。
そして高名な詩吟の師匠を祖母に持ち師範代も務めている、そのため人当たりが良く誰とでも親しく話せる。
きっと語学も対人スキルの高さからマスターできるのだろう。

そうした「人と接する」能力は周太に最も欠けた部分になる。
同じ遠野教場で過ごしていた頃の深堀は目立たない方だった、それは謙虚な深堀の性格の所為だろう。
けれど同じ新宿署に卒配されて話す機会が多くなるうちに、深堀の能力の高さと自分がなぜ一緒に配属されたか解ってきた。
豊かな対人スキルと謙虚な性格は深堀から学んで身に付けるべき部分だろう。だから遠野教官は自分を深堀と組ませてくれている。

周太は警察学校で英二に出会うまで、ずっと孤独で他人と必要事項しか話すことをしなかった。
父の殉職を他人に憐憫や好奇心の対象とされることが煩わしくて嫌いだった、だから13年間ずっと話し相手は母だけだった。
そんな自分は対人スキルは10歳のまま止まるどころか退行してしまった。
そのことに周太は英二と出会って気がついた、そして英二の隣で少しずつ人と接することを学んで身につけていった。
けれど6ヶ月間で13年間を取り戻すことは難しい、今は10歳と10か月になる位だろう。
こういう自分にとって深堀のような、気さくで温かい人柄の同期が傍にいてくれる事はありがたい。
こうして気さくに話せることが嬉しくて、周太は微笑んで答えた。

「射撃はね、俺、ほんとうは得意じゃないんだ…だからね、練習を頑張るしかないんだ」
「そうなのか?意外だね、湯原」

すこし驚いたように深堀が訊いてくれる。
うまく話せるかなと思いながら周太は湯の中で両掌を組んだ。

「ん。俺ね、骨格とか華奢なんだ…それで拳銃の衝撃とか、本当は大変で。
 だから体を鍛えるとこから頑張ったんだ。それにたぶん、練習を続けていかないと、勘みたいなものも忘れやすいと思う」
 
「そうなんだ、聴いてみないと解らないね?でもね、同期の中では間違いなく湯原がトップだと思うよ」

「ん、…どうかな?俺は、高校時代からずっと射撃部だから、経験も長いし練習をいっぱいしているよ。
 だから警察学校から射撃を始めたのに、上級テストに高い成績で合格できる人の方がずっと才能あると思う。英二とか、ね」

これは周太の本音だった。
きっと前なら悔しくて、こんな本音は話せなかったろう。けれど今はきちんと笑って話せている。
これもきっと英二の影響だろう。いつも英二は率直に思ったままを話してくれる、そんな英二を好きでいるから。
今頃は英二は山小屋で夕食だろうか?ふっと想っていると深堀が笑って言ってくれた。

「でも湯原、それだけ努力できることって、一番の才能だよね」

努力できることが一番の才能。その言葉が温かくて周太は微笑んだ。
ずっと自分は努力ばかりで生きてきた。父の軌跡を追うために必要な能力を身に付けたくて努力を続けている。
それは無理な努力も多くて苦しくて、気がついたら自分が本当に好きなことまで忘れかけていた。
そんな自分の努力は虚しいと思う瞬間もある、けれど努力自体を「才能」と言ってくれた。
それを同期の口から客観的に言って貰えたことが嬉しい、周太は笑った。

「ん、ありがとう、深堀。俺はね、努力なら頑張れる、かな?」

きれいに笑って周太は、すこし自分の心に自信を積んだ。
そして謙虚に素直に話すことは良いなと、あらためて自分の同期に話せる今が嬉しい。
いま英二と離れて寂しくて仕方ない。けれど今の様に、英二と離れた場所で向き合っていく人の言葉が自分を育ててくれる。
こうして少しでも早く止めた13年間を越えて成長を積んで、大切な英二に相応しい自分に成れたらいい。

…だって、英二のね、妻になるんだし…もう婚約者なんだし、

そっと心につぶやいて急に気恥ずかしくなってしまった。
いまの「妻」という単語に実家の小部屋の記憶が、英二の嫣然とした姿と言葉が甦ってしまう。
しかも昨夜電話で言われた「夢で逢ったら冷たくしないで?それでキスしてよ」その通り夢でそうなった。
そうした記憶たちに首筋から熱が昇って頬が熱くなってくる、きっと赤くなり始めている。
そんな周太の様子に深堀が首傾げて心配そうに言ってくれた。

「湯原なら頑張れるよ。でも、湯原、なんか顔が真赤になってきてる?逆上せかな、早く出た方が良いよ?」
「あ、ん。ありがとう、じゃあ俺、出るよ…またね、深堀。おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい、湯原。お大事にね?」

そっと立ちあがると周太は隅の洗い場で冷たいシャワーを頭から浴びた。
すこし逆上せが納まってくる、これで冷静になれるだろう。
それにしても、と思ってしまう。どうしてこんなに自分は赤くなりやすいのだろう?

…きっと、子供のままだから、だよね?…すぐ恥ずかしくなるし

こんな自分で英二の婚約者や妻が務まるのだろうか?
英二は自身の意識と関係なく人を惹きつけ魅了する、そして多くの視線が向けられる事を隣で見て知っている。
そんな英二の隣で婚約者や妻でいることは、嫉妬や羨望を受けることになり気苦労も多いだろう。
いまだって既に英二の隣で羨ましそうな視線を受ける、そんな視線が気恥ずかしく途惑う自分がいる。
抑々が人から注目される事に慣れていない、だから気がつくと緊張して赤くなって困ってしまう。
そういう視線にも平気でいられる大人になりたいな、そう考えながら周太は身支度を整えて自室に戻った。

入浴の片づけを終えてクライマーウォッチを見ると19時半前だった。
ゆっくり時間があることが嬉しい、微笑んで周太はデスクの花瓶を見た。
ちいさな白磁の花瓶には白い花がほっそりとした姿に佇んでいる。携帯を持って周太はデスクの椅子に座った。
頬杖ついて見つめる花に、咲いていた実家の懐かしい庭が想われてそっと心が温かい。
あの庭は祖父が奥多摩を模して木々を植えたと聴いている、その庭を父も愛していた。
そして自分が愛しているひとは奥多摩で山岳救助隊員として山ヤの警察官の誇りに生きている。

「…ね、英二?…また、奥多摩の山に連れて行って?」

そっと大切な名前をつぶやいて周太は微笑んで、持っている携帯を見つめた。
そうして見つめる想いの真ん中で、ふっ、と携帯の着信ランプが灯った。

…英二、俺の声が聴こえるの?

いつもこんなふうに想っている時、英二は電話を繋いでくれる。
まだ19時半、いつもの21時よりだいぶ早い時間でいる。
そっと携帯を開くと待っていた名前が表示されていた、電話を繋ぐと周太は携帯を耳に当てた。

「はい、」
「こんばんは、湯原くん?」

国村の声だった。
まえに雲取山からも国村は勝手に英二の電話から架けたことがある。
きっとまた英二の携帯を横取りしたのだろう、ちょっと可笑しくて周太は笑いながら答えた。

「こんばんは…国村さん?」
「そ、俺だよ。昨夜は電話楽しかったよ?」

昨夜は周太と電話している英二の横から国村は話しかけてきた。
「可愛いのにさ、意外と大胆なんだね、湯原くん?こんど俺のことも押し倒してよ」
そんなことを言って周太を困らせてくれた。
でもあんな発言をしたら、たぶん英二は怒ったのじゃないのかな?周太は訊いてみた。

「あの、国村さん?あんなこと言って、英二、…怒ったんじゃない?」
「うん、そうだよ」

やっぱりそうだった。
どうも英二は嫉妬深いところがあると周太は最近気がついた。
このあいだ風呂に入れてくれた時も「寮で風呂入る時もね、俺以外とは2人きりなんてダメだよ?」と言っていた。
そんな英二の前で周太に「俺のことも押し倒してよ?」なんて言えば、きっと怒るだろう。
そして英二は真面目なだけに真に受ける所がある、相手次第では酷い目にあわせそうで怖い。
でも今こうして無事に国村は電話で話している、そんなに酷いことはされなかったらしい。
きっと国村だから英二も許したのだろう、良かったと思いながら周太は訊いてみた。

「そう…ね、国村さん。今は、どうして俺に電話してくれてるの?」
「ああ、それはね?今日、俺ね。宮田の初体験、頂いちゃったんだよね。だから一言って思ってさ?」

英二の初体験?
なんのことかな、すこし周太は考えてすぐに微笑んだ。
今日の英二は初めての富士登山に行った、そして初めて標高2,000m以上へ登り、そのまま初登頂をしている。
きっと国村の指導と案内で無事に英二は登り、初めての世界を楽しむことが出来た。それを言ってくれている。
無事に楽しめた様子がうれしい、良かったと心から微笑んで周太は答えた。

「ん、…国村さん、上手に英二を、富士の頂上まで登らせてくれたんだね?」
「うん。俺、上手いからね、きっと好い思いさせたと思うよ?」
「そう…良かった、英二、初めての最高峰を楽しめたんだね」
「そ、」

からり明るく国村が笑ってくれる。
英二の無事と喜びが心から嬉しい、昼間に富士山頂からメールは貰っているけれど心配だった。
山では下山の方が危険が多いという、でも国村と英二は無事に下山もして今こんな電話をくれた。
そしてこうした無事の電話を周太はずっと待っていた。

「国村さん、俺を気遣って無事の電話をね、早く架けてくれたでしょ?…ほんとうに、ありがとう」
「うん」

透るテノールの温かいトーンが、やさしい。
いつも国村は周太を転がして楽しんでしまう、けれど国村はそうして周太の緊張をほどいてくれる。
愉快に笑いながらも向けてくれる国村の大らかな優しさは温かい。このひとが周太は好きだ。
そしてこの国村の隣にいる美代は周太にとって初めて同じ興味を持って話せる友達、その美代へも伝言したい。
楽しくて周太は電話の向こうの友達に話しかけた。

「ね、国村さん、美代さん元気?」
「美代ね、会いたいって言ってるよ?」

こんなふうに会いたいと言ってくれる友達がいる。
こういう幸せな温もりが自分に与えられている、うれしくて微笑んで伝言をお願いをした。

「ん、俺もね、会いたいんだ…教えてくれた本も面白かった、ありがとうって伝えてくれる?」
「ああ、伝えとくね。じゃ、宮田に替るね」

楽しそうに話して国村は電話から遠のいた。
電話の向こうで国村の気配が「はい」と英二に携帯を返してくれている。
もうじき大好きな声が聴ける、そんな予感がうれしくて幸せに周太は微笑んだ。

「周太、初めて最高峰を体験してきたよ?」

おだやかな、きれいな低い声。
いつもどおりに、おだやかで美しい低く響く大好きな声。

…英二、無事で、いてくれた

ほっと吐息が零れて瞳から涙がひとつ零れた。
このひとの無事がこんなに嬉しい、幸せな涙と微笑んで周太は答えた。

「ん、…最高峰からのね、メール。うれしかった。ありがとう、英二」
「周太が喜んでくれると嬉しいよ。ね、周太?さっき国村が言った『初体験』の意味って周太は解ったの?」

あらためて言われると『初体験』という言葉が気恥ずかしい。
でも気恥ずかしがっていないで話さないと。さっき自分が想った通りを周太は英二に話した。

「ん、富士山の最高峰に初めて登ったこと、だよね?…
 それで、上手に英二に雪山のこと、教えてくれて無事に下山できた。って事だと思ったんだけど…違うの?」

「うん、その通りだよ、周太。今日は、いろんなこと考えた。ほんとうにね、冬の富士山はすごかったよ。
 ね、周太?いつだったら周太は予定空いている?会って話したいな、短時間でも少しでも、すぐ逢いたいよ」

ほんとうに逢いたい、いますぐに。
今日は月曜日で火曜日の明日に英二は下山して、青梅署に戻る予定になっている。
明日は周太も当番勤務で夜勤になる、けれど明後日の水曜は非番だから午前中の特練の後なら大丈夫。
そして明後日は英二も週休で休み、けれど英二は訓練があるかもしれない?逢える日を周太は思いながら提案してみた。

「ん、…水曜日の午後?が、いちばん近くで空いてる、な」
「じゃあさ?空けておいてくれるかな、その日はね、副隊長も吉村先生も用事があって、ちょうど訓練休みなんだ」

もう明後日に逢える、急なことだけれど逢える日が嬉しい。
こんなふうに「逢える」約束はいつ出来るかなんて解らない、自分たちは急な任務もある警察官だから。
まして英二は山岳救助隊員だから急な召集が当然と笑って、真直ぐ遭難救助に駆け出していく。
いつも召集を受けたと聴くたび本当は不安になる。けれど真摯な英二の姿はまぶしい、だから止められない。
だから逢えるなら急でも何時でも嬉しい、微笑んで周太は訊いてみた。

「ん。じゃあ、お昼一緒に食べられる?」
「うん、一緒に食いたいな。待合わせは11時とか?」
「ん…じゃあ朝一で訓練に行ってくるね?…明日は英二、なにするの?」

明日の天気予想図への不安。
富士山の明日の気象予報は『低気圧の中心が富士山の南を通過中、風速次第で通過も速まる』
そんな時に誘発される冬富士の冷厳の姿を父から聞いたことがある、その記憶がいまも怖い。
どうか英二、明日は早く帰ってね?そんな想いのむこうで大好きな声が笑ってくれた。

「明日はね、周太。朝飯食ったら山小屋に近い斜面でさ、ザイルワークと雪上訓練のおさらいをするよ。そして9時には下山する、
 昼には青梅署に戻っているかな?周太、明日は吹雪みたいなんだよ。だから予定を変更して今日、登頂してきたんだ。急だったけどね」

やっぱりそうだった。
良かったと微笑んで周太は答えた。

「ん、そう…良かった、明日も気をつけてね?」
「うん、周太。気をつけるよ?下山したらまたメールする、吹雪の富士山も綺麗だろうから」

吹雪の富士山、つきんと周太の心が痛んだ。
きっと美しい光景だろう、けれど吹雪にひそんでいる危険が自分は怖い。
吹雪が酷ければ零視界になる、そしてホワイトアウトが起これば見透しは全く効かない。
そうして視力を奪われた状態で山を歩くことの怖さを自分も資料で読んで知っている、英二を理解したくて読んでしまった。
知ってしまったことの恐怖が疎ましい、けれど自分は逃げたくない。

…だって、愛している。このひとを真直ぐに見つめて全て受けとめて、報い求めない愛情を贈ってあげたい

英二の母親は息子を「自分の理想通り」という条件付きでしか愛してくれない。
それに英二はずっと傷つけられてきた、報い求めず受けとめられる「無償の愛」を求めていた。
そんな英二は温もりが欲しくて寂しくて、外見だけでも求めて誰か傍にいてくれるならと「人形」のように生きてしまった。
そんな生き方に尚更に傷ついて英二は、要領の良い冷酷な仮面をかぶって孤独のままに生きていた。

…その仮面を壊したのは、自分。そのことが誇らしい、だから自分が英二に与えてあげたい

13年間の時を止めて生きてきた自分は10歳の子供。
けれど自分こそが英二の孤独の仮面を壊すことが出来た、実直で真摯で穏やかな英二の本質を覚まさせた。
その本当の英二の姿を自分は最初から見つめている、その姿に初めての恋をして、そのまま初恋に全てを捧げた。

そんな英二は山岳の危険に立つ生き方を選んだ、それはいつ消えても不思議はない相手だということ。
ほんとうは弱い自分はまた孤独に戻されたら壊れるだろう。それでも自分の隣を英二の帰ってくる居場所にしていたい。
どんな人間もいつ死ぬか解らない、それは山岳レスキューでも会社員でも同じこと、人の運命なんてわからない。
それなら自分は愛する人の隣でいたい、もしこの一瞬後に消えてしまうならその最後の一瞬まで愛したい。

だから自分は「絶対の約束」を結んで勇気を1つ抱いた。
もう覚悟は出来ている、このひとの全てを受けとめ愛して自分は生きていく。
だから止めない、たとえ不安に泣いても、きっと信じて微笑んで受けとめて愛したい。
きれいに笑って周太は英二に答えた。

「ん、吹雪もね、きっときれいだね?…メール楽しみに待っているね、明日も気をつけて。そして俺の隣に帰ってきて?」

電話のむこう幸せな笑顔の気配が伝わる。
きっと今、きれいな笑顔で笑ってくれている。そんな気配がうれしい。
その笑顔の主がうれしそうに話しかけてくれた。

「絶対に無事に帰るよ、周太。だって俺ね、周太に逢いたいよ?そして一緒に眠りたい、朝の周太を見たい」
「ん…はずかしいそんないいかた…でも、うれしいよ?あ、でも、木曜は英二、日勤でしょう?明後日は日帰りだよね?」

気恥ずかしいまま答えて、確認をしてみる。
そんな確認に哀しそうなため息が、そっと電話むこうから伝わった。

「そうなんだ、周太。俺、日勤なんだ…
 今の時期は凍結とかあるだろ?電車が朝動かない事がある、だから朝帰り出来ない。
 ね、周太?冬はさ、雪山は俺、好きなんだけど。朝帰りできないのが困るよ?周太の夜も朝も俺、独り占めしたいのに」

朝帰り。この単語が醸してしまう「大人の恋愛」の気配。
こんなことすら自分には気恥ずかしい、ほら首筋が熱くなってくる。
それにきっと国村に会話が聴こえている、いろいろ恥ずかしくて周太は英二に言った。

「あの、…想ってくれるの嬉しい…けどくにむらさんいるんでしょ?きかれるのはずかしいよ…」
「なんで、周太?俺、何も恥ずかしいこと言っていないよ?
 そんなことより周太、昨夜、俺ね?夢で周太にキスしてもらったよ?
 周太、きれいで可愛くってさ。俺、幸せだったんだ。ね、周太?昨夜は俺のこと夢に見て、キスしてくれたの?」

さっき風呂で思いだした「昨夜の夢」
それをこんなふうに言われて驚いてしまう、だって英二が言う通りだから。
気恥ずかしくてたまらない、それでも周太は素直に頷いた。

「ん、…はい、」
「やっぱりそうなんだ、周太?うれしい俺…ね、周太、ほんとうにキスしたいな?」

全部を国村が聴いているのだろうな。
こんなの罰ゲームみたいにも思えてしまう、きっと次に会ったとき国村に散々転がされるだろう。
けれど喜んで幸せそうな英二が愛しくて可愛く想えてしまう、困ったなと思いながら周太は微笑んで話していた。
こんなふうにしばらく話してからお互いに携帯を閉じて、クライマーウォッチを見ると20:15だった。
今夜は風呂も食事も、電話まで早く済んでしまった。ゆっくり時間がとれることに周太は微笑んだ。

「ん、…今夜、やっておこうかな?」

デスクの抽斗を開くと植物標本用のケースと標本ラベルを取出した。そっとケースを開きシートを開けていく。
植物標本乾燥剤シートをゆっくり開くと冬と春の花が11種、きれいな押花になっている。
あわい赤、黒深紅、純白、クリームいろ。いろあざやかな冬と春の花々は英二から贈られた求婚の花たち。
年明け英二と実家で過ごして帰寮するとき11種類の花を1本ずつ持ってきた。
このデスクに活けて周太は毎日眺めていた、そして花の盛り最後の時に周太は水からあげて押花の処置を施した。
1つずつそっと手にとってケント紙に載せていく、どれもが仕上りが美しい。うれしくて周太は微笑んだ。

「…ん、良かった。みんな、きれいだね?」

父を亡くす13年前の春までは、山や公園、庭で集めた草花を押花にして採集帳へまとめ、自作の植物図鑑を作っていた。
それを11月に雲取山へ英二と登って周太は再開し、集めてきた奥多摩の草花標本を13年ぶりに造りこんだ。
ずっと忘れていた植物との時間だった。けれど手は覚えてくれていて、草花の洗浄も試薬の処置も手際よくすすんだ。
そうして錦秋の奥多摩で出会った草花たちは美しい押花となって採集帳に納められている。
だから婚約の花も上手に造りこめるだろう、そう思って周太は1つずつ丁寧に花々を手にとり造りこんだ。

「英二のね、想いを伝えてくれて、…うれしかった。ありがとう」

きれいな押花たちをうれしく眺めてから周太は、コンパクトな植物解説書を手にとり開いた。
これは奥多摩から戻った翌日、実家に帰った途路いつもの書店で見つけた専門書になる。
きれいな図解とラテン語表記も掲載され専門的で解りやすい、すこし高価だったけれどずっと使えるならと買い求めた。
ゆっくりページを開いて目当ての項目を見つけると周太は微笑んだ。

「…carnation_Black Baccara  Dianthus caryophyllus ナデシコ科Caryophyllaceaeナデシコ属、ダイアンサス属」

ちいさく読みながらラベルに書きこんでいく。花を贈られた日付、ラテン語の学術名、それから花言葉。
花束についていた花言葉と英二からのメッセージが記されたカードは実家の宝箱にしまってきた。
そして周太の記憶の抽斗にも言葉たちはしまわれている、それぐらい何度も読み返してしまったから。
カーネーションブラックバカラの花言葉を綴りながら頬が熱くなってしまう、この花言葉はやっぱり気恥ずかしくさせられる。
そんなふうにラベルを書きすすめて、次に1つの白い花を周太は見つめた。

「オーニソガラムMt.フジ…学名、Ornithogalum umbellatum fuji」

英二が登る山の名前を冠する花、日本の最高峰である山の名前。
明日下山して昼ごろ青梅署に戻る予定になっている。ふっと周太は左腕のクライマーウォッチに目を留めてしまう。
これは元は英二の腕時計だった、警察学校時代に山岳救助隊を志したときに買って以来ずっと大切に使っていた。
それをクリスマスの日に「欲しい」とねだって英二に左手首を差出て嵌めてもらっている。
そして周太は代わりにプロ仕様のクライマーウォッチを英二に贈った。

この腕時計は英二が山岳レスキューを志して夢を叶えていった大切な時間たちを刻んでいる。
だから周太はこの腕時計を欲しかった、この腕時計に籠る英二の大切な時間たちを独占して、いつでも見つめていたくて。
そして英二には自分が贈ったものを腕に嵌めていてほしくて、英二が欲しかったプロ仕様のクライマーウォッチを贈った。
プロ仕様のクライマーウォッチなら、いつか英二が世界の最高峰を登っていく時も嵌めていてもらえる。
クライマーウォッチは高度・方位など山で必要な情報の計測機能が搭載されているから時間以外の用でも山で見てくれる。
そんなふうに度々に見つめる時に贈り主の自分を想いだしてほしい、そしていつも自分を想っていてほしい。
そんな願いの「おねだり」をしたくて周太はクライマーウォッチを英二に贈って、英二の大切な時計を貰いたかった。

…そうしたら、婚約になっちゃったんだよ、ね

想いだしてまた頬が熱くなってしまう。
腕時計を贈りあう申出と一緒にキスをして「英二の時間を全部ください」と周太は英二にお願いをした。
それを英二は幸せな美しい笑顔で受けとめて、そして「これは婚約の申し込みだよ?もちろん答えはYesだ」と告げてくれた。
あのとき周太は何も知らなかった。何も知らないまま自分で思いついて、一生懸命に「おねだり」しただけだった。
けれど英二に言われて恥ずかしいけど幸せで「はい、」と頷いてしまった。
そして年明けに英二は求婚の花束とメッセージを携えて周太の実家を訪れて、母に周太との婚約の承諾を求めてくれた。
そんな押花たちを見つめながら、ぽつんとつぶやきが零れ落ちてしまう。

「…ほんとうに、もう、決まりなんだよ、ね?」

一人っ子長男で他に親戚もない周太は、自分が他家へ入籍すれば生家を断絶することになる。
そして英二との結婚は「英二の戸籍に周太が養子として入籍する」ことになってしまう。
だから英二との結婚は「家名と戸籍の断絶」を招来することになる、それを踏まえた上で周太も母も英二に承諾の返事をした。
このことを英二は真剣に悩んだ末に決断してくれた、そして「家名は絶やしても家は守りぬく」と約束を周太たちに結んだ。
そのために英二は自身が戸籍筆頭者になる為に生家から分籍することを決めている。

ほんとうに英二は真剣で実直でいる。そんな英二だから周太は尚更また好きになってしまった。
もう離れたくないと心の芯に想いが固められていくのが解ってしまう、だから英二の求婚の花束を受け取った。
その花を仏間にも供えて、父たちを祀る仏前に英二との婚約と家名を絶やす許しを周太は祈った。
そして英二も仏間に祈り墓参を周太に願い出て、父たちの霊前にも祈りをささげてくれた。
このことを母に話したくて周太は、ちょうど週休だった日曜の昨日は実家へと日帰りで帰った。

「ほんとうに英二くん、実直なのね。そういうひと最近は珍しいんじゃないかな。
 でもお父さんはね、そういうひと大好きなのよ。きっと喜んでいるわ、お父さんのことだから。
 だからね、周?きっとね、ご先祖様も喜んでるんじゃないかな。よかったね、周。あなた、ほんと幸せよ?」

そんなふうに母は楽しそうに幸せそうに笑ってくれた、そして「年末にお墓の掃除しておいて良かったわ」と笑っていた。
そんな母の明るい楽しそうな笑顔がまた嬉しくて幸せが温かい、本当に心から周太も「良かった」と思えた。
そして自分はやっぱり「親離れ」が出来ていない。どうしても母が気になって、こうして事あるごと会いたくなってしまう。
けれどそんな母よりも英二を想ってしまうようになってしまった。そんな実直な英二だから尚更に大好きで愛してしまっている。
こうやって自分も「親離れ」していけるのかな?微笑みながら周太は植物解説書の「オーニソガラムMt.フジ」の項目を読んだ。

「…ユリ科オオアマナ、オーニソガラム属… 別名、大甘菜…Ornithogalumはラテン語のornis鳥とgala牛乳」

鳥なのは花の形だろうか、牛乳はきっと白い色からだろう。ラテン語も面白いのかもしれない。
このあいだ英二はラテン語の辞書を解剖学書を読むために買っていた、きっと英二のことだから努力してマスターするだろう。
自分にとってもラテン語は植物名を覚えるのに便利かもしれないな?そんなことを考えながら周太は項目の続きを読んだ。

「…和名、…こだからそう?…」

読み上げて周太は思わず項目を見直した。
そう見直した項目に周太の瞳が大きくなって、思わず呼吸を周太は忘れた。

“オーニソガラム 和名 子宝草”

…こだから?

こだから、って、あの「子宝」?
あの「子供」っていう意味の子宝の事だろうか?
それは「ふたりの子供」のこと、そしてこれは「子孫繁栄」を意味する寿ぎの言葉。
ようするに「結婚して子供を育んで子孫繁栄しますように」という祈りの花だということ。

「…っ、えいじどういうことなのこれって…?」

だって自分は男で英二も男、男同士で子供はつくれないよね?
なのにどうしてこんな花が入っているの求婚の花束に?でも英二は想ったことを言葉にするよね?
そんな途惑いが廻る周太の想いから、花束を贈ってくれたときの英二の言葉がふと唇へと零れおちた。

「…この家は俺が必ず残してみせる。そしてこの家の想いも全て俺が周太に教えてあげる…?」

「家」を残すということ。それは家屋を残すという意味だけではない。
英二が言った「家を残す」という意味を抱いて周太は白い花の押花を見つめた。
どこまでも実直で直情的な英二は、想ったことしか言えない出来ない。
だから「この家は必ず残してみせる」も英二が心から想い、言い、そして現実にしていくつもりでいる。

…ね、えいじ?ふたりの子供を見つける、そういうこと?

オーニソガラムMt.フジ

この国の最高峰を冠する花。
この花の名前に英二は自分の誇りと夢を示して周太に贈ってくれた。
そして英二の夢と誇りを示す花の「もう一つの名前」が隠された願いを告げてくる。
この花に寄せた英二の想いの深さが切なくなる、そして愛しい。

そして、花言葉は?



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第32話 高芳act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-01-22 23:56:34 | 陽はまた昇るanother,side story
おだやかな空気に佇んで、





第32話 高芳act.1―another,side story「陽はまた昇る」

おだやかな冬の陽ふる庭は桜の花芽が豊かになっている。
陽だまりに佇んだ白梅の枝には、ふくらかな花ほころんで清々しい甘い香が静かにとけていく。
咲き始めたスノードロップに周太は足を止めた。真白に緑きれいな葉の可憐な花、この花が周太は好きだった。
この花は別名を待雪草という、そしてもう一つ「雪の花」という名前を持っている。
その名前を前はただ、きれいだなと思っていた。けれど今は唯ひとつ抱いている想いと重なってしまう。

…ね、英二?夜には雪が咲く場所に、行くんだよね?

白い花に微笑んで周太は飛石を踏んで、玄関に立つと鍵を開けた。
ゆっくり扉をひらいて見ると母の靴はまだ無い、きっと仕事が忙しいのだろう。
周太は玄関へ入ると扉にきちんと鍵をかけて、ふと黒緑石の三和土を見つめてしまう。
この場所に英二が立っていた、その面影が残されている、そんな気がしてしまう。

この家に英二はクリスマスと年明けに帰ってきてくれた。
いつも大切に持ってくれる父の遺品の合鍵を使って、この玄関を英二は開けてくれた。
そして黒緑石の三和土に立って振向いて「お帰り」と周太に笑いかけてくれた。

― お帰り、周太 もっと抱きついてよ?周太 俺はね、いつだって周太を抱きとめるよ

そんなふうに言ってくれた。きれいに笑って抱きとめて、額に額をつけて微笑んでくれた。
抱きとめて貰えて幸せだった。うれしくて微笑んで、よせてくれる英二の想いがうれしかった。
あのときの幸せな記憶が今こうして見つめると名残の気配すら温かい、微笑んで周太はそっとつぶやいた。

「…ただいま、英二」

どうかお願い英二、またここに帰ってきて?
そしていま自分が言った「ただいま」をまた抱きしめて受け留めて?
そしていまの言葉に「お帰りなさい」の返事が欲しい、そして自分からもお帰りなさいを言わせて?

そんな瞬間が欲しくてたまらない、切なさに微笑んで周太は靴を脱いだ。
きちんと靴を揃えてから2階へあがると自室の扉を開いた、扉開く風にのる花の香がふわり頬を撫でてくれる。
清楚で甘やかな花の香がやさしい、微笑んで周太は鞄を置くと窓のカーテンを開いた。
ゆるやかに射しこむ冬の陽が、ふるいやわらなガラス窓を透して部屋を暖めていく。
クロゼットからエプロンを出して着るとデスクを眺めて香で迎えてくれた花々に微笑んだ。

あわい赤の冬ばら、純白の冬ばらとスカビオサ、クリームカラーと深紅のカーネーション。
赤いラインのきれいな八重咲きチューリップにアイビーのグリーン。それから白い花々がたくさん。
白い清楚と赤い艶が美しくて可憐な11種類の冬と春の花々。どの花もすべて英二が贈ってくれた、婚約と求婚の花。
どれも寮へ持って帰って眺めたかった、けれど置ける場所も無くて1種類1本ずつ選んで新宿の寮に連れて行った。
そして持ち帰れなかった花は家中に活けて残してある、この花も母は水を替えてくれてあった。

「…お母さん、ありがとう、ね」

微笑んで周太は1階へと降りると仏間に挨拶をしてから台所に立って昼食の支度を始めた。
今日は週休だけれど午前中に射撃特練の練習で術科センターまで行っている。
2月の警視庁けん銃射撃大会まで1ヶ月をきって練習の時間も増やされた。
それでも今日は10時半までに終えられて、携行品の返却と着替えを済ませてから実家に帰ってこられた。

「…ん、いま何時かな?」

見た左手首のクライマーウォッチは12:00とデジタル表示に教えてくれる。
これから料理をするのに濡らしたくない、野菜を洗う前に時計を外してエプロンのポケットにしまおうとした。
けれど手にとったまま周太は文字盤を見つめた、この時計をしていた人の温もりの記憶がどこか名残っている。
これは英二が警察学校時代に買ってから、ずっと大切に使ってきたクライマーウォッチだった。
周太はこの時計がずっと欲しかった。英二の時計を自分が嵌めることで、時計が刻んだ英二の大切な記憶と時間を独り占めしたかった。
そして自分は英二にとって「特別」なのだと自信を持ちたかった、その自信で自分を支えたくて英二に「おねだり」をした。
そして自分が贈ったクライマーウォッチを英二にいつも見つめて欲しかった、いつも自分を想ってほしいから。

…ちょっと、よくばりになった、かな?

以前の自分なら、こんな「おねだり」を素直に言うなんて出来なかった。
けれどもう躊躇していたくなくて、クリスマスの贈り物にかこつけて、腕時計の交換を「おねだり」してしまった。
それを喜んで英二は「婚約だね?」と受けとめてくれた、そして年明けに正式に婚約と求婚の申し込みをしてくれた。
その日の話を母にしたくて周太は今日、実家へと帰ってきている。
両掌にくるみこんだ紺青色のフレームのクライマーウォッチを見つめて周太は微笑んだ。

「ね、英二?…今日もきちんと、食べてる?」

きっとこの時計の本来の持ち主は、今頃は急いで昼食を摂っているだろう。
そしてすこしでも時間を作って、同僚で友人の国村とパートナーを組みクライミングの自主トレーニングを短時間でもする。
それからまた駐在所に戻って登山計画書の受付やデータ整理に地域の人達の相談を聴いて。
そのあとは小学生の秀介が勉強を訊きに来る、教え終わると山岳救助隊服に着替えて登山道の巡回に出る。
そんなふうに英二は御岳駐在所の日々を過ごしている、これに遭難発生の連絡が入ると英二は召集を受けることになる。

…遭難救助、

すっと周太の心を氷塊が滑り落ちていく。
いまの奥多摩は雪と氷が山を覆って雪山のシーズンになっている。今朝もチェックした奥多摩の山の積雪は30cmとなっていた。
雪と氷の山は滑落事故が多発する、そして低温による低体温症や凍傷、雪崩。そんな冷厳な山のルールが支配する奥多摩の冬。
そんな雪山が英二の山ヤの警察官としての勤務場所になっている。そして英二は今夜、この国の最高峰をうたわれる雪山へ訓練に行く。

「…でも、きっと無事にね、帰ってくるから…ね、」

ちいさく微笑むと周太は調理台に向かってまな板と包丁を準備する。
そうして母の為に昼食の支度を始めた。きっと母は13時半ごろに帰ってくるだろう。
少し時間があるから凝ったものも準備してあげられる。
周太は玉ねぎをみじん切りにしてから冷凍庫にしまうと、牛蒡をささがいて水にさらした。
玉ねぎと人参、紫キャベツを千切りにして塩をふり、ほうれん草を湯がいて笊にあけて色止めの水をかける。

「ん、きれいな緑だな」

ほうれん草の緑、人参のオレンジ色、紫キャベツの赤紫。
どの野菜の色も美しいなと見惚れてしまいながら周太は手を動かした、こうして料理をする時いつも不思議だと考えてしまう。
花もそう、それから木々の葉や幹、そんな植物たちの色彩はどれも豊かで美しいなと見惚れてしまう。
こういう話を周太は誰かにしたことは両親と英二しかいなかった、けれど今は美代と話を出来る。
美代は国村の幼馴染で恋人で、JAに勤めながら実家と国村の田畑を手伝っている。
まだ会ったのは一度きり、けれど御岳の河原で話したことは楽しかった。

「根っからね、土を触ることが好きみたいよ?」
「そう…じゃあ、毎日、畑に行く?」
「うん。雨でも雪でも行くのよ?だってね、毎日どころかね、いつ見ても植物って表情を変えるでしょ?」

言われてその通りだと周太は頷いた。
いつも自分も思うことだった、それを同じように感じる人がいることが嬉しかった。

「それは、見たいよね?…どの表情も、きれいだから」
「あ、湯原くんもそう思うのね?一緒ね、見たいよね?」

そんなふうに頷きあって植物の話を楽しんだ、それから料理の話も。
あんなふうに本当に興味がある話を寛いで楽しめる友達は周太には初めてだった。
そして美代は英二を通して手紙をくれるようになった、そんな友達からの手紙も周太には初めてのことだった。
今日は日曜日だから美代は仕事は休みだろう、きっと好きな畑仕事を楽しんで、国村の祖母の農家レストランを手伝っている。
こんど会う時までには美代から教わった本を読んでおきたいな、思いながら周太は昼食の支度を終えた。
終えるとココアを作って2つのマグカップに注ぐと、トレイに載せて周太は2階へとあがった。

父の書斎の扉を開くとココアのトレイをサイドテーブルに置いた。
紺青色のカーテンをひらくと暖かい陽光が書斎に充ちていく。
周太は紺色のマグカップを手にとると書斎机の写真にと静かに供えた。
写真から父が誠実な笑顔で息子に笑いかけてくれる、微笑んで周太は父に語りかけた。

「ただいま、お父さん…ね、お父さん。今夜からね、英二は富士山に行くんだよ?」

書斎机の椅子に静かに周太は座った。
いつも父が座っていた重厚で艶やかなビロード張りの書斎椅子、ここに周太の祖父も曾祖父も座っていた。
この椅子に座った湯原家の主たち3人は自分に繋がっている、そして今は自分が座っている。
けれど自分はこの家の主には、ならない。きれいに笑って周太は父の笑顔に話した。

「お父さん?英二はね、富士山から俺に想いを告げてくれるよ?…こんやくしゃだからだいじだって、言って、ね…」

言って急に周太は気恥ずかしくなった。
英二は周太に正式な婚約の申し込みをしてくれた、それを母も承諾してくれている。
そして英二は仏間への挨拶と墓参りまで、きちんとしてくれた。
けれど、と周太は思ってしまう。そっとため息を吐いて周太は父の目を見つめた。

「お父さん、…英二のね、お姉さんは受け入れてくれるよ、お父さんも。でも、お母さんは…」

言いかけて想いの熱が昇ってしまう。
黒目がちの瞳からひとしずく涙がこぼれ落ちて、ぽとんと周太の手の甲に降り注いだ。

「お父さん…俺ね、きっと憎まれている、そう解っているんだ」

英二の母親は美しく賢い息子を自慢に思っていた、そして自分の理想を描いていた。
だから英二の母親は周太との関係を拒絶した。自分の理想を周太の存在に壊されたと忌嫌い、その涯に息子の英二を義絶してしまった。
そんな英二の母親は「溺愛」であっても息子の心を見つめる「無償の愛」を与えられない。
そんな彼女に周太は大切な英二を渡すつもりは無い、一歩も引くつもりもない。
けれど、

「でもね…英二のお母さんなんだ。愛し方は間違っていてもね、英二を生んでくれたひと…ほんとうはね、哀しませたくない」

なんど考えても仕方ないことと解っている、
けれど大切なひとを生んでくれた人を、きちんと大切に接することが出来ないのは哀しい。
いつか自分は望むとおりに彼女も大切にする方法を見つけることが出来るだろうか?

「それでもね、お父さん。俺、英二と一緒にいたい…俺ね、お父さんが逢わせてくれた人なのかな、って、思うときがあるよ」

誠実で真直ぐで温かい人柄の父は笑顔を絶やさない人だった。
いつも人救けに駆け出して笑って周囲を温めて。そんな誠実な生き方の為に父は殉職をしてしまった。
そして英二も山岳救助隊員として人命救助に山を駆けていく。
きれいな笑顔で真直ぐ立って長い腕を伸ばして、山に廻る生と死を受けとめている。

「お父さん?英二とお父さんはね、どこか似ているね…だから、お父さんが逢わせてくれたって、ね?
 そしてね、お父さん…俺はね、英二のこと…ほんとうに、大好きで愛している…幸せにしたいって、毎日ね、祈ってるんだ」

きれいに微笑んで周太は書斎机から立ち上がった。
婚約の花束から選んで活けた、あわい赤の冬ばら「オールドロマンス」その花翳に父は笑ってくれる。
父も母を愛していた、そんな両親の恋する姿はいつも幸せで、息子の自分も幸せだった。

「お父さん、英二に逢わせてくれて、ありがとう」

そっと微笑んで周太は自分のマグカップを持つと、書斎から廊下へと出た。
自分の部屋へ戻ると木造りの押入から展ばされた梯子階段を上った。
天窓から降る陽射しが屋根裏部屋を暖めてくれている、南面する窓のカーテンも開けると小部屋はあかるんだ。
ちいさなサイドテーブルにカップを置いて、周太は木製のトランクを開いた。
このトランクは祖父のものだった、これを周太は幼い頃から宝箱にしている。
ひらいた中には数冊の採集帳と美しい木箱が2つ、父の遺品の時計を納めたケース、それから封筒が一通。
きれいな封筒を手にとると周太は窓辺のロッキングチェアーに腰かけ、いつも通り膝抱きに座りこんで封筒を開いた。
きれいなカードが2通重ね折られて入っている、その1通を取出して周太は見つめた。

  あなただけが、自分の真実も想いも知っている
  そんなあなただから、心から尊敬し友情を想い真剣に愛してしまった
  この純粋な情熱のまま、あなただけが欲しい。あなたの愛を信じたい
  純粋で美しい瞳のあなたに相応しいのは自分だけ、どうか変わらぬ愛と純潔の約束を交わしてほしい
  毎夜に愛し吐息を交して、どうか毎朝に花嫁として、あなたを見つめたい
  だから約束する「あなたを愛していると最高峰から永遠に告げていく」すべてに負けない心を信じてほしい

婚約の花束に添えられた英二からのメッセージは実直な情熱がまぶしい。
いつも想っている事だよ?そんなふうに英二は笑ってくれた、そして周太を望んでくれている。
カードを見つめて周太は、そっとつぶやいた。

「愛している…最高峰から、永遠に…」

この言葉に寄せられた花の名前は「オーニソガラムMt.フジ」花言葉は「純粋」
日本の最高峰の名前を冠する純白の可愛らしい花。
この花の名前の山へ英二は登るために今夜、奥多摩を出立する。

奥多摩は標高2,017.1mの雲取山が最高峰になるため、それ以上の高度における英二の能力はまだ未知数だった。
未踏の標高2,000m超、そして森林限界を超えた雪山の世界である富士山。どれも英二にとって初めての経験ばかりになる。
また富士山には予兆なく発生する突風がある。そして冬富士の気圧レベルは標高4,000m、エベレストと同じ気象条件に支配される。
そんな冬富士は「魔の山」とも呼ばれる程に遭難死が多い。

その危険に敢えて、世界中の最高峰を踏破していく試金石の訓練とする為に冬富士が選ばれた。
だからこの冬富士から帰ったら英二は国内の高峰を登っていく、そして来冬には世界の高峰に登るだろう。
英二は国村の生涯のアンザイレンパートナーに選ばれたから。

国村は最高のトップクライマーを嘱望され最高峰を登っていく運命の男。その生涯のアンザイレンパートナーも同じ運命に立つ。
だから国村に選ばれた英二も生涯を共に最高峰を登っていくことになる。
その運命を英二も望み、英二自身からも国村を選んだ。
そして2人はその約束の元に今夜「魔の山」冬富士へと登りに行く。

最高峰へ登ること。それは今回で終わりではなく、これが始まりの幕開け。
それが英二にとっての日本最高峰、冬富士への登山。

最高峰は最も高い場所、そして最も危険な場所。その高度と気圧、気象条件の前では人間の都合など通らない。
ただ峻厳な掟に畏敬を払い、山のルールに添いながら登る者だけが最高峰へと立つことが許される。
その危険を知っても英二は目指すことを決めた、その危険が本当は自分は怖くてたまらない。
けれど自分は知っている、最も英二が輝き美しい場所は一体どこなのか。

―俺は、最高峰へ登ってもいいかな?
 最高のクライマーの最高のレスキューを務めて、最高峰から笑って周太に想いを告げたい

この宝箱の部屋で英二が告げてくれた想い。その想いを告げてくれる英二は美しかった、誇らかな自由に輝いていた。
だから自分は信じて待つことに決めた、ただ愛するひとの意志と能力の可能性を自分は信じている。
その夢を理解し可能性を信じて、真直ぐに受けとめて、英二が必ず帰ってきたい居場所であり続けたい。
それが自分の「無償の愛」だと覚悟を決めている、そっと周太は微笑んでつぶやいた。

「きっとね、英二?最高峰で想いを告げて、ここへ帰ってきてくれる。そうでしょう?」

ここへ帰ってきて?自分の隣に、自分の宝箱の部屋に。
自分の隣で寛いで、大好きな笑顔を見せて?
この部屋で自分の隣に寄りそって座って?
そして目を見つめて「愛している」ときれいに笑ってほしい。

「…あ、」

ふっと記憶にノックされて周太は首筋が熱くなり始めた。
年明けに英二はこの部屋で涙を流してくれた、その涙を止めたくて自分はキスをして。
そして抱きしめた英二をそのまま押し倒してしまった。
自分のしたことに今更ながら赤くなってくる、途惑って言い訳が周太の唇からこぼれてしまう。

「…でも、俺からは、ね、…キスしかしていなかったのに、な」

横たえた英二の上から寄りそったまま周太はキスをした。
けれど服はちゃんと着ていた、でも深いキスをなんども周太からしてしまった。
そんな周太を英二は抱きしめて服をからめとると、そのまま体を重ねて繋げられてしまった。
でもほんとうは周太もそうなると解っていて英二に深いキスをした。
この小部屋は周太の大切なものを納めた宝箱の部屋、だから英二の時間と記憶もここに刻みたかった。
そうして残された記憶と時間がいまこの時に見つめられてしまう、そっと吐息をこぼして周太はつぶやいた。

「ん、…この部屋で、ね…」

あのときの記憶が、天窓ふる光の床に再現されてしまう。
まだ明るい午後の陽ざしふる床に、延べられた真白なマットレスに英二を横たえてキスを重ねた。
ふるような深いキスの涯、長い腕に抱きよせられて光のなかやわらかく沈められて。
そして英二は周太を心から求めてくれた、ほどいて幾度も抱きよせ深く繋がれて。
重なる白皙の肌には艶やかな光がふっていた、素肌ふれる温もりと光の温もりが幸せだった。
求めに応えては果て眠りかけて、キスで呼び戻されるたび、見上げた天窓の青い空が美しかった。
その涯には恥ずかしい声をあげてしまった。そんな周太に英二は、うれしそうに嫣然と微笑んだ。

 ―…周太のこの声をね、聴きたかった…きれいだ、周太…艶っぽくてね、どきどきする…愛してるよ

ようやく許されて眠りにおちて。愛する温かな腕に守られ眠る夢は幸せだった。
そして英二の腕のなかで目覚めたときは恥ずかしかった。
あんまり恥ずかしくて真赤になって、ぼんやりしてしまった。
そして気がついたときには浴室で英二が『好きなだけ』周太を洗ってくれた。
それから体も拭いて着替えまでしてくれた。そんな一部始終を周太はただ見つめて力が入らないままだった。
あのとき英二はきっと自分の全部を見てしまった?そう気付かされて恥ずかしさが頬まで熱い。
そっと左掌で頬ふれると熱い、かるく頭を振って周太は自分に言い聞かせた。

「…だめ、こんなこと考えていたら、はずかしすぎて…おかあさんとはなせなくなるきっとだめ…」

ほっとため息つくと周太は、ロッキングチェアーから立ちあがった。
そして花言葉とメッセージの封書をトランクにしまって、ココアを啜りこんだ。
けれど啜りこむマグカップ越しについ天窓ふる床を見てしまう。
やわらかな光ふる床にしずかな英二の笑顔が映りこむ、そして深い樹木のような肌の香が甦る。
いま遠く離れているひとの気配も記憶もあざやかで愛しい、ゆっくり瞳を瞬くとまた吐息が零れた。

…もう、記憶が刻まれている

気恥ずかしい記憶、甘やかに幸せな熱と香の記憶。
そんな英二との時間と記憶はこの宝箱の部屋に佇んでいる。
きっとそれは幸せなことだろう、そっと周太は微笑んでココアを飲みほした。

母が帰ってきて遅めの昼食をダイニングで囲んだ。
今日は牡蠣のグラタンとサラダ、オニオンスープ。デザートは焼果物にアイスクリームを添えて出す準備をしてある。
気に入ってくれるかなと見ていると「おいしいわ」と母は微笑んでくれた。
そんな母の笑顔がうれしい、幸せで微笑んで周太は口を開いた。

「お母さん、…英二はね?仏間に挨拶してくれたんだ」
「あら、やっぱりそうなのね?」

母には解ってしまうんだ、少し驚いて周太は母を見つめた。
そんな息子の様子に微笑んで母は種明かしをしてくれる。

「だってね、周?英二くんからの婚約の花を、仏間に活けてあるでしょう?きっと見てもらったかなって思ったの」
「そうか…ん、その通りだね、お母さん。でね、あの籐椅子で英二に、朝のお茶を飲んでもらったよ」
「英二くん、お父さんの椅子の向かいに座ったでしょう?」

黒目がちの瞳を愉しげに微笑ませて母が訊いてくれる。
どうして母にはこんなに解るのだろう?いつも母には驚くなと思いながら周太は頷いた。

「ん、そう…お父さんとね、話すみたいに座ってくれて…俺ね、嬉しかった」
「英二くんらしいね、周? ね、これ本当に美味しいわ。周、また腕が上がったね?」
「そう?ん、おいしいなら良かった、…また作るね?」

きれいに微笑んで母はグラタンを口に運んでくれる。
焦げ目もきれいにつけられたグラタンは、我ながら良い出来かなと思っていた。
おいしそうに食べてくれる様子がうれしくて、笑って周太もフォークを動かした。

「あとね、英二。お墓参りも行ってくれたよ?
 お墓の掃除までね、一緒にしてくれたんだ…お供えする庭の花もね、一緒に選んでくれて…」

あの日の庭は蝋梅と水仙が香り高くて、撫子とクリスマスローズがきれいだった。
そして英二は周太の誕生花『雪山』を選んでくれた。純白に香り高い山茶花を英二は、高い枝から切って周太に渡してくれた。
花を渡してくれながら「いちばんこの花がね、きれいだって俺は思うよ?」そう言ってキスしてくれた。
白い花の記憶が幸せで気恥ずかしくて、つい周太はすこし俯きこんだ。そんな息子に温かく微笑んで母は言ってくれた。

「ほんとうに英二くん、実直なのね。そういうひと最近は珍しいんじゃないかな。
 でもお父さんはね、そういうひと大好きなのよ。ね、周?きっと喜んでいるわ、お父さんのことだから」

「ほんとう?お母さん、ほんとうにそうかな、…そうなら俺、うれしい。お父さんにはね、喜んでほしい」

母の言葉が温かい、うれしくて周太は微笑んだ。
そんな息子に頷いて母は言ってくれた。

「ほんとうよ。だからね、周?きっとね、ご先祖様も喜んでるんじゃないかな。よかったね、周。あなた、ほんと幸せよ?」

そう言って母は楽しそうに幸せそうに笑ってくれる。
ほんとうに母が言う通りだろう、そう素直に想えて周太は幸せだった。
きれいに笑って周太は母に答えた。

「ん、…ありがとう、お母さん。俺もね、幸せだと思う」
「ほんとにね、周?でも、お母さん。
 年末にお墓の掃除しておいて良かったわ、お婿さんに最初から見っともないとこ見せられないもの?」

そんなふうに言って母は楽しげに笑ってくれた。
さり気なかったけれど「お婿さん」と母が言ってくれた、それが気恥ずかしいけれど嬉しい。
首筋が熱くなるのを感じながら周太はグラタンの皿を見つめた。


新宿警察署独身寮に戻って夕食と風呂を済ますと周太はデスクから一冊の本をとった。
この白革張りの本は、年明けに英二と実家に帰ったときに書斎から持ってきた本だった。
ここ最近ずっと業務で必要な知識の勉強を夜はしていた、それで読みそびれてしまっている。
今日は週休だったから業務の調べごとも無い、ゆっくり読める時間が作れた。

クライマーウォッチを見るとまだ19:00と表示されている。
今夜の英二は日勤の後で富士山麓に向かい、登山口で車内泊だと言っていた。
富士に着くのは21時頃になると今朝の電話で教えてくれた、きっと夜の電話は21時を過ぎてからだろう。

「…本を読んでいたらね、待っていても気が紛れる」

微笑んで周太は携帯を片手にベッドに座りこんで、右耳だけイヤホンをつけiPodをセットした。
ゆるやかなアルトボイスが流れ出す、英二がくれた曲のやさしさに微笑んで白革表装の本を開いた。
フランス文学の短編集『Nouvelles orientales』邦題は『東方綺譚』フランスの女性作家Marguerite Yourcenarの作品になる。
ゆっくりページを捲って周太は目当ての章を開いた。

「Le dernier amour du prince Genghi」

邦題「源氏の君の最後の恋」題の通り『源氏物語』の主人公・光源氏に着想した恋の物語。
以前この本を父の蔵書から出して読んだとき、この章は飛ばして読んでしまった。
まだ「恋」を知らなかったし知りたくもなかった、そんな未知の感情が疎ましいようにも思えて近寄り難かった。
けれど今なら読んでみると何か解るかもしれない、そんな想いで周太は実家から持ってきた。

新宿署独身寮のちいさな一室、おだやかな時間がくるんでいく。
やさしいボーカルの曲、ふるい本の懐かしい香りと流麗な物語、そしてデスクの片隅に咲く「雪の花」の一輪。
今日の夕方に実家から戻るとき、庭に咲くこの花が名残惜しくて一茎を摘んできた。
どこか寂しさのある新宿副都心のコンクリートの街に、あの公園の緑ふるベンチで周太はいつも息をつく。
そしてこの独身寮の一室もどこか寂しくて、だから実家の庭の花を連れてきたかった。

田中の四十九日のとき、初めて実家の庭から花を持ち帰ってデスクに置いた。
英二を可愛がってくれた田中の供養に、田中が愛した御岳山にも咲く山茶花『雪山』を供えて四十九日を送りたかった。
そのために実家の庭に帰って自分の『雪山』から一枝を貰った、そして一緒に持ち帰った小さな白磁の花瓶に活けこんだ。
その花が清々しい穏やかさに周太の心を慰めてくれた、そして年明けには英二からの婚約の花を飾って置いた。
英二からの花は愛しくて甘やかで、見るたびに幸せな想いを香によせてくれた。
その花々を昨夜に周太は押花にする処置を施してある、そして今朝デスクを見た時に寂しくなった。

…いちど花を置いたから、無いのが寂しくなった、ね?

空いてしまった小さな白磁の花瓶、そこに新しい草花を迎えたいと思ってしまった。
そして今日、実家の庭での好きな花との再会がうれしくて、一茎だけ連れてきた。
ただ一茎を活けただけ、それなのに部屋の空気は和やいで呼吸が楽になる。
やっぱり自分は草花が好きでいる、そんな自分に素直になって今日も周太は花を活けた。

草花が好きでいること。
花好きだと男のくせにと言われてしまうことが多い、だから周太は両親と英二にしか植物の話をしてこなかった。
けれど華道の家元は男性が多い。植物学者も樹医だって男性の方が多い。
それに本当に植物を愛して独学で勉強している美代は、周太の気持ちを自然に理解してくれている。
こういうふうに「好き」ということに性別のようなカテゴリは無関係だと思ってしまう。
読んでいる本からふと目をあげて周太はデスクの花活けを見た。

スノードロップ「雪の花」白く可憐な花に清々しい緑の葉と茎の姿。凛として可憐な花姿は雪の中にも咲くという。
こんな花は自分は好きだ、微笑んだとき携帯の着信ランプが灯った。
そっと携帯を開くと自分が大好きな送信元からでいる、すぐ繋いで周太は微笑んだ。

「はい、」
「周太、待っててくれた?」

きれいな低い声、周太の大好きな声が聞こえてくる。
今日も無事にこの声が聴けたこと、うれしくて微笑んで周太は訊いてみた。

「ん、…待ってた。もう富士山の麓?」
「うん。馬返し駐車場ってとこだよ、周太。雪が積もっているんだ、でもこの時期にしては少ないらしい」

今朝も聴いたばかりの声、けれど懐かしくて嬉しくて温かい。
この声をすぐ傍で聴けたらいいのに?いつもの想いと一緒に周太は答えた。

「そう、無理とか絶対にしないでね?…信じて待っている。…あ、母がね、お墓参りありがとうって、喜んでた」
「そっか、良かった。ね、周太?俺のことさ、今日は何回くらい考えてくれた?」

そんなの自分でだって解らないのに?
デスクの白い花を周太は見つめてしまう、何回いったい英二を想っただろう?
あんまりずっと想ってばかりいたから解らない、周太は考え込んでしまった。
けれど何か答えてあげたい、気恥ずかしいままの声で周太は答えた。

「ん…わからない…」
「周太、自分で解らないの?」

すこし驚いたような、けれど慈しむような温かな声。
この声だって今日は何回もう思い出しただろう?そんな自分の想いに微笑んでしまう。
けれど気恥ずかしいなと思いながら、周太は答えた。

「だって英二?今日は俺、実家に帰ったから…ずっと想いだしてばかりだった、
 家中にね、英二の面影が残っちゃってて…逢いたくて寂しくて、でも…温かい記憶がね、幸せだったよ?」

今日ずっと実家で感じていたこと、そのままを言っただけ。
けれど電話の向こうで英二が幸せそうに笑ってくれる。きっと笑顔が咲いている。
きれいな笑顔の記憶を想う周太に、うれしそうに英二が訊いてくれた。

「ね、周太?じゃあさ、屋根裏部屋では俺のこと、押し倒しちゃったこと想いだした?」
「…はずかしい…でも、そう…」

どうしてわかってしまうのだろう?そんなふうに自分は見えるのだろうか?
でも確かに最近ちょっと自分は大胆になった?そんなこと途惑ってしまう。
でも今もっと途惑って困ってしまう、その危惧を周太は電話越しの婚約者に言った。

「でも、ばか、えいじなんてこというの、そこ…国村さんいるんじゃないの?」

今夜の英二は明日からの登山に備えて、登山口に停めた国村の四駆で寝泊まりをする。
だから当然英二のすぐ傍には、きっとあの国村がいるだろう。
きっとまた何か転がされてしまう?そう心配した端から透るテノールが電話越しに笑いかけた。

「うん、湯原くん。しっかり聴かせてもらったよ?
 可愛いのにさ、意外と大胆なんだね、湯原くん?こんど俺のことも押し倒してよ」

どうしてそんなこというの?
だって途惑ってしまう、英二以外のひとにそんなことするなんて?
自分はもう英二だけて一杯いっぱい、そんな自分をからかわないで?そんなの好きなひとだけ英二のほかは嫌。
昇ってしまう紅潮に困っていると声が詰まってしまう、そんな周太に英二が微笑んだ声で話しかけてくれた。

「絶対ダメだよ、周太。国村なんか相手にしたりしないで?周太が押し倒すのは俺だけ。周太はね、俺だけ見てればいい」

言われなくても、そうします。
そんな返事を心でしながら周太は、赤い頬のままで答えた。

「…ばかえいじまたなんてこという…でも、はい…そうします」
「うん、素直でかわいいね、周太。今夜も俺ね、周太のこと考えて寝るからね、」

きれいな低い声が笑ってくれる。
きっと今日も元気でいてくれる、そして明日も元気に訓練をして、無事に帰ってくる。
そんな予感がうれしくて微笑む周太に、英二が言ってくれた。

「夢で逢ったら冷たくしないで?それでキスしてよ」

きっと夢で逢ってしまう、だって今日はずっと考えていたから。
だから周太はちいさな声で、それでも正直に素直に一言で返事した。

「…はい、」

ちいさな声で唯ひとこと。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする