萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第68話 玄明act.4-side story「陽はまた昇る」

2013-08-31 19:54:21 | 陽はまた昇るside story
entail―運命の後嗣



第68話 玄明act.4-side story「陽はまた昇る」

時計の針が16時を示し、演台で笑顔が礼をする。
階段教室から拍手が湧きだし天井まで響き、それと同じに笑顔も広がらす。
大らかに温かな空気の真中で、すっかり掻き雑ぜな髪に照明きらめいて頭を上げた。

「どうも長時間、ご清聴をありがとうございました。まだ暑い時間ですけど帰り道で倒れたりしないで下さいね、」

明朗な声が告げた挨拶に満場が和やかになる。
のどやかに明るい空気は演台の学者に温かい、それはワイシャツ捲った袖口の腕にも見える。
笑顔と同じくらい日焼の健やかな腕は机上だけの研究肌ではない、そんな姿に英二は微笑んだ。

―山ヤの腕だな、馨さんのアンザイレンパートナーらしい腕、

ひとりごと心に微笑んで見つめる階段教室の席、がたり立つ音が鳴り始める。
講義終了のざわめき広がらす空間の真中で学者も演台を降りてゆく、その背格好を見分する。
ストライプ爽やかな肩幅は骨格がしっかりとして腰高な身長も低くは無い、そんな背姿に溜息と微笑んだ。

―やっぱり馨さんはSAT狙撃手として規格外だ、

聴いて英二、この本をくれた田嶋先生はね、お父さんのアンザイレンパートナーだったんだよ?

そんなふう周太は土曜の夜、嬉しそうに話してくれた。
いつもの穏かな声は幸せそうに笑って、黒目がちの瞳は明るく微笑んだ。
けれど周太ならもう気づいている、父のアンザイレンパートナーだと言う男の体格に父の現実をもう気づいてしまった。

「…でも何も言ってくれなかった」

ひとり呟いた声は喧騒に消されて、誰も知らない。
大勢の聴衆は笑顔で階段教室を下りてゆく、けれど独り静謐が自分を籠める。
最後列の中央に座って見おろす席に唯一人、座りこんだまま土曜の夜は記憶から話しだす。

「この本はね、英二?お父さんが大学4年間で書いた論文とかが全部入ってるの、田嶋先生が作ってくれたんだ、
お父さんの研究を全て大切に遺したいからって私費出版してくれたの…先生はね、お父さんを天才だって信じてくれてるんだよ?
この一冊は俺にあげようって持って来てくれてたんだ、研究生になるお祝いにって…俺が誰かも知らなかったのに持ってきてくれて、」

七機に異動してから1週間、毎晩毎朝を過ごした周太の部屋で話してくれた言葉たちは温かい。
あの黒目がちの瞳は幸せに笑って、深い緑色の表紙を優しい掌に包んで教えてくれた。

「表紙、きれいな緑でしょ?お父さんと先生が一緒に登った山のイメージなの、アンザイレンパートナーへの気持ちを籠めてくれた色。
俺ね、お父さんにこういう友達が居てくれるの本当に嬉しいの…お父さんってね、いつも優しくて穏やかだったけど、どこか寂しそうで。
だから青木先生にも感謝してるの、田嶋先生に翻訳のことで俺を紹介して下さったからお父さんのこと、教えてもらえてて嬉しい…この本も、」

感謝している、嬉しい、そう微笑んだ声は穏やかなまま優しく澄んでいた。
深緑色の一冊を見つめる眼差しは幸せだけに笑って、すこし小さな掌はそっと表紙を開いた。
開かれた白いページにはアルファベット鮮やかに綴られる、その詩文に周太は微笑んで教えてくれた。

「これね、シェイクスピアが大切な人に贈った詩だってお父さんは言ってたんだ…恋愛より深い気持がある相手への、手紙みたいな詩、」

I give it to an epitaph of savant Kaoru Yuhara.

And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
 So long as men can breathe or eyes can see,
 So long lives this, and this gives life to thee.

[Cited from Shakespeare's Sonnet18]

英文で綴られる詞書と詩の抜粋は、馨の言葉通りだと想えた。
その綴りを指なぞらせながら周太はオレンジの香と口遊んだ。

「研鑽たゆまぬ学者、湯原馨の碑銘に捧げる。
 夏の限られた時は短すぎる一日。
 天上の輝ける瞳は熱すぎる時もあり、
 時には黄金まばゆい貌を薄闇に曇らす、
 清廉なる美の全ては いつか滅びる美より来たり、
 偶然の廻りか万象の移ろいに崩れゆく道を辿らす。
 けれど貴方と言う永遠の夏は色褪せない、
 清らかな貴方の美を奪えない、
 貴方が滅びの翳に迷うとは死の神も驕れない、
 永遠の詞に貴方が生きゆく時間には。
 人々が息づき瞳が見える限り、
 この詞が生きる限り、詞は貴方に命を贈り続ける…」

詩を詠みあげる声は穏やかに微笑んでいた。
黒目がちの瞳は澄んだままページを見つめ、そして自分を見つめて笑ってくれた。

「田嶋先生はね、お父さんはいつか文学に戻るべき人だって信じてくれてるんだよ?お父さんは学問に愛される人だって言ってくれた、
俺の声と笑った貌を見てると信じた通りって想えるって…俺のなかに生きてお父さんもお祖父さんも帰って来たって笑ってくれたんだ、」

そう話してくれた笑顔は、きっと忘れられない。

あの笑顔のまま日曜の朝も笑ってくれた、夜は自分の部屋を訪ねてくれた。
そして今朝、あの笑顔のまま周太はスーツ姿で振向いて穏やか声に微笑んだ。

「祖父がくれた宿題を見つけに行ってくるね?プレゼントは全部、ちゃんと受けとりたいから、」

“Je te donne la recherche”探し物を君に贈る

それが晉から馨に贈ったメッセージだった、この伝言を受けとめる為に周太は行ってしまった。
このメッセージ遺された一冊を周太に贈った男と向かいあう為に今日、ここに自分は座っている。

―馨さん、あなたのアンザイレンパートナーに俺を見つけさせて下さい、

心祈りながら立ちあがった大教室は、もう誰もが出口を潜っている。
喧騒の薄れゆく高い天井には照明が消えて、夏を名残らす陽射しが古いガラスから降りそそぐ。
もう季節は移ろってゆく、そんな光線に照らされた階段を踏み出した一歩から、足音は響きだす。

かつん、かつん、かつん…

ひとつ、ひとつ、足音は天上高く響かせる。
漆喰と木造の穏かな空間は経りた星霜くゆらせて、足音だけが響く。
ゆるやかな午後の光が足元から影を長く延ばす、その蒼い自分の影を踏んでゆく。

―馨さんの影に俺が入っていくみたいだな、

影踏む革靴に微笑んで独り、心に写真を描く。
懐かしい書斎机の写真立に微笑んだ男の瞳、あの眼差しを自分の瞳に映す。
そんな想いに書斎の時間から黒目がちの瞳が微笑んで、穏やかな凛とした声に温かい。

『英二の目ってお父さんと似てるんだ、笑った貌とかね、なんか雰囲気が似てる…お母さんもそう言ってて、』

愛しい声が記憶に笑って自分の顔と写真の顔に見比べる。
そう最初に言われた時は自覚が無くて、けれどある日の鏡に見た貌に気が付いた。
そして夏の初めに除籍謄本から真実を知らされて今、この手に提げた鞄には2つの証しが入っている。

“Confession”

そう綴られた一冊の本は祖母から自分が受け継いだ。
この一冊に継いだメッセージは真実の告解、その懺悔と有罪の自白。
そんな全てを独り負わされたまま死んでしまった男の影ごと今、自分が嗣ぐ。
あの優しさ、あの翳り、あの穏やかで凛とした深い声は喉に籠らせて、そして扉を潜る。

「あ、まだ居たのに電気消してしまったな?すみません、」

明朗な声が笑って、腕まくりしたワイシャツ姿がこちらを振り向く。
夏の名残の光だけのエントランス、向きあった明敏な瞳は笑いかけて、そして止まった。

「…っ」

息を呑む、そして見つめる。
見つめる明敏な瞳は細められ、すぐ大きくなって真直ぐ見つめる。
真直ぐに自分を見つめてくれる瞳孔に眼差し繋げ、英二は穏やかなまま綺麗に微笑んだ。

「講義ありがとうございました、」

いま微笑んだ声は、いつもの自分の声と違う。
この一週間を聴いて幸せだった愛しい声、あの声なぞらせた前で明敏な瞳が揺れる。
揺らいだ瞳孔から感情があふれ出す、その全てに微笑んで踵返した背中に聲が呼びとめた。

「待ってくれ!」

待ってくれ、そう叫んだ聲が今、29年を超えてアンザイレンパートナーを呼び戻す。






(to be continued)


【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」より抜粋】


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森の夏日

2013-08-31 00:33:02 | お知らせ他


こんばんわ、夏日だった神奈川は夜もナンダカ暑いです。
それでも8月の夜は今日で終わり明日は秋9月、で、もうじき2年になります、笑

残暑の今日も陽射しは炎天、花も太陽燦々な感じに撮れました。

写真アムール! 2ブログトーナメント

さっき「初陽の音、睦月act.9」加筆が終わりました、また校正ちょっとします。
昨夜の「後朝の香」も校正もう一度しますが、今日の昼間以降の予定です。
で、冒頭だけUPしてある第68話「玄明4」は加筆校正またします。

取り急ぎ進捗まで、


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残夏、秋彩の花

2013-08-29 19:31:27 | お知らせ他
秋、愁美彩々



こんばんわ、青空のキレイだった神奈川です。
残暑の太陽はまだキツイですが風は爽やかになってきたかと思います。
いわゆる秋の気配の候、に合せて秋紫陽花をくっつけてみました。

初夏の澄んだ色とは違った混色の花は、燻らす濁玉石っぽい色彩です。
これを秋紫陽花と呼んで生花にも遣うそうですが、どこか愁いある雰囲気が魅力かなと。
写真の花は森に咲いている一輪、天然の風光に深めていった色彩です。



さっき第68話「玄明3」加筆校正が終わりました。
英二@東京大学second、五十年の連鎖にまつわる「過去」に対峙するシーン1です。
このあと今朝の予告通り、昨夜UPのつもりだった「後朝の花」光一サイドをUPする予定です。

取り急ぎ、



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第68話 玄明act.3-side story「陽はまた昇る」

2013-08-29 12:31:28 | 陽はまた昇るside story
Who have sought more than is in rain or dew ― 闘志の祈り



第68話 玄明act.3-side story「陽はまた昇る」

昏い回廊の入口は鎖ひとつで区切られる。
自転車などの進入を阻むため、そう解かるけれど別の意味を見てしまう。
そんな想いに提げた鞄かすかに重くて、重いほど誇らかで英二は微笑んだ。

―晉さん、あなたの告白も鎖も俺が壊します。だから今日も援けてくれますか?

心問いかけて踏みこんだ回廊に、ふっと視界が暗くなる。
レザーソールの鳴る石柱は彫刻から星霜が苔に篤い、それを歴史というのだろう。
うす昏い石畳の先に陽光は切りとられ、その先にまた翳の回廊は続いてゆく。
歴史たちに見え隠れする栄光も零落もこの光陰にはある。

―ここを馨さんも晉さんも、斗貴子さんも歩いていたんだ…鷲田の祖父も、

かつん、かつん、鳴ってゆく足音に普段想わぬ人まで思い出す。
母方の祖父は戦後この大学へ入学し、官僚となって後に天下りもした。
資産家に生まれて望み望まれた権力を生きた人、けれど、そういう祖父を尊敬した事は無い。

―可愛がってはくれたけど、でも…お祖父さんとは違う、

もう一人の祖父を想い、ふっと微笑が口もと和ませる。
父方の祖父は京都大学法学部に学び次長検事を務め、退官後は独力で法律事務所を開いた。
同じ法学部出身でも二人の祖父は生き方が全く違う、そして母校のカラーも違うのだろう。
そんな想い歩いてゆく回廊を抜けて木洩陽きらめき、擦違う声が聴覚を掠めてゆく。

「ね…モデルみたい、」
「カッコいい…新任の講師とか?」
「だったら講義とりたい…後期からのなんかあった?」
「背高いな…あんな目立つのいたっけ」

いろんな声、いろんな言葉、いろんな視線が向けられる。
こんな声も視線も幼い頃から馴れてしまった、それを良いとも嫌とも感じない。
それくらい麻痺してしまった衆目への感覚、けれど、こんな事すら利用できると知っている。

「…見つけるかな、」

ひとり微笑んで陽下から再び回廊へ踏み入れる。
その明るんだ壁のひとつから扉は開かれ人が集まってゆく、その階に英二も足を架けた。
混みあうエントランスで資料達を受けとり大教室へ入ると、白髪も多いの群れにはスーツ姿が少なくない。

―研究者って感じの人が多いな、学部生が殆どいない、

階段教室を昇ってゆく視界にこの大学の現実が見えてくる。
いま9月上旬で国公立大学なら前期末試験も近い頃だろう、その時期ある講座に出席しない。
それは単位認定が目的の試験や課題には熱心でも「学問する」意志は希薄だと解ってしまう。
そんな現実から周太に懸けられる想いが納得の肚へ落ちてゆく、その温もりに英二は微笑んだ。

「たぶん本気、か…」

独り呟いて最上段に着き、中央通路に面した席へ座る。
受付で渡されたパンフレット広げる視野は演台を真正面に見おろす。
あの場所に立つ男をこれから90分間、この場所から見分するために今日ここに来た。

―白であってほしい、晉さんのために周太のために、誰よりも馨さんのために、

もし彼が「黒」だったとしたら?この疑念はまだ拭うことは出来ない。
いま自分が知る情報は少なすぎて判断は早すぎる、だから今日はデータを採りに来た。
それでも願いたい想いと冷徹な視点に微笑んで捲ったパンフレットの見開き、3カ国語で詩が謳われる。

―周太が言ってた詩だな、翻訳を手伝ったって、

フランス詩が一篇、イギリス詩が一篇、それぞれの言語に日本語の対訳がつく。
この二篇を土曜の夜に話してくれた笑顔が懐かしい、その愛しさの分だけ痛み深くなる。
今ごろ周太が何処に居るのか?その現実ごと見つめるページから二ヶ国の韻文が吐息を受けとめる。

Rose of all Roses, Rose of all the World!
The tall thought-woven sails, that flap unfurled
Above the tide of hours, trouble the air,
And God’s bell buoyed to be the water’s care;
While hushed from fear, or loud with hope, a band
With blown, spray-dabbled hair gather at hand.

薔薇すべての中の薔薇、世界を統べる唯一の薔薇よ、
高らかな思考の織りなす帆を羽のごとく翻し、
時の潮流より上にと高く、大気を揺るがせ、
神の鐘は水揺らめくまま浮き沈み、
恐るべき予兆に沈黙し、または希望への叫びに、集う
風惹きよせ、飛沫に濡れ艶めく髪を手にかき集めるように



But gather all for whom no love hath made
A woven silence, or but came to cast
A song into the air, and singing passed
To smile on the pale dawn; and gather you
Who have sought more than is in rain or dew
Or in the sun and moon, or on the earth,
Or sighs amid the wandering, starry mirth,
Or comes in laughter from the sea’s sad lips,
And wage God‘s battles in the long grey ships.
The sad, the lonely, the insatiable,
To these Old Night shall all her mystery tell;

だが恋人なき者は全て集うがいい、
静穏の安らぎ織らす恋人ではなく、運試しの賽投げつけ
虚ろなる空に歌い、謳いながら透り過ぎ去り、
蒼白の黎明に微笑む、そんな相手しかない君よ、集え
愁雨や涙の雫より多くを探し求める君よ、
また太陽や月に、大地の上に、
また陽気な星煌めく彷徨に吐息あふれ、
また海の哀しき唇の波間から高らかな笑いで入港し、
そして遥かなる混沌の船に乗り神の戦を闘うがいい。
悲哀、孤愁、渇望、
これらの者へ、盤古の夜はその謎すべてを説くだろう。



Rose of all Roses, Rose of all the World!
You, too, have come where the dim tides are hurled
Upon the wharves of sorrow, and heard ring
The bell that calls us on; the sweet far thing.
Beauty grown sad with its eternity
Made you of us, and of the dim grey sea.

全ての薔薇に最高の薔薇、世界を統べる唯一の薔薇よ、
貴方もまた、仄暗い潮流の砕ける所へ来たる
悲哀の岩壁に臨み、そして響きを聴いた
私達を呼ばう鐘、甘やかに遥かなる響鳴。
美は永遠のままに涯無き哀しみを育ませ
我らに貴方を創り与えた、この仄暗き混沌の海に。

William B Yeats「The Rose of Battle」邦題は『戦いの薔薇』

アイルランドの詩人が謳いあげる薔薇は、戦う誇りの象徴として綴られる。
この詩文を訳した人は今この時に隠された闘いの現実に立つ。
だからこそ今日、自分もここに来た。

―周太、俺にも闘わせてくれな…周太を援けさせてよ、馨さんたちの為にも、

見つめる詞たちに俤を想い問いかけてしまう。
こんな時間を生きることになるなんて一年前は知らなかった、けれど今ここに自分は居る。
今こうして生きる時間は涯など見えなくて闘いの終わりすら解からない、けれど自分の意志はもう決まっている。

Who have sought more than is in rain or dew

愁雨や涙の雫より多くを探し求める者、それは自分であり周太だろう。
そして多分、今ここから見おろしている最前列の男も同じ船に載っている。
そんな想いの真中で彼は立ち上がり、時計が定刻を指したと同時に演台へ昇った。

「初めまして、今日は暑い中おいで下さりありがとうございます。本日の講義を担当する田嶋です、」

壮年の朗々とした声が満場を明るませ、湧きおこる拍手がなにか温かい。
その真中で男は大らかな含羞に笑って、日焼に健やかな大きな手で髪をくしゃくしゃにした。
まるで風ふかれたように陽気な髪型のまま彼は笑い、手許の資料を広げながら明朗な声で言った。

「ヨーロッパ文学の比較という講題なので、身近な花であるバラの詩を英文学と仏文学から取りあげて考えてみたいと思います。
この翻訳は私の研究生が作ってくれたので秀逸です、彼は仏文学者の孫であり英文学者の息子さんでね、私よりずっと優秀なんですよ、」

朗らかに笑ったトーンは温かく広やかに響き、教室から笑いが起きあがる。
自分よりも学生を素直に賞賛してしまう、そんな率直さに可能性がまた明るむ。

田嶋紀之 東京大学文学部教授 人文社会系研究科フランス語フランス文学研究室担当

彼は晉の最期の愛弟子だった。
彼は馨の学友で親友で、アンザイレンパートナーだった。
そんな彼こそが本当は「50年の連鎖」を最も哀しみ悼み、そして憎むだろう男。
その想いを彼はずっと黙していただろう、けれど、引用詩の一節に積年の想いは鮮やかに祈る。

And wage God‘s battles in the long grey ships―遥かなる混沌の船に乗り運命の戦を闘うがいい。


(to be continued)

【引用詩文:William B Yeats「The Rose of Battle」より抜粋】

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寂寞の風

2013-08-28 12:10:13 | お知らせ他


こんにちは、青空まぶしいけれど風爽やかな日です。
でも写真は夕暮れ近いシーンなんですけどね、笑

昨夜UPの第68話「玄明2」加筆ほぼ終了+写真追加、あとちょっと校正します。
短篇連載「初陽の音、睦月act.8」は現時点の3倍以上になる予定です。

休憩合間ですが取り急ぎ、



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第68話 玄明act.2-side story「陽はまた昇る」

2013-08-27 22:01:43 | 陽はまた昇るside story
examination of a witness―過去との対話



第68話 玄明act.2-side story「陽はまた昇る」

玉子焼きは、こんな味だったろうか?

噛みしめる口のなか柔らかいものが喉を下る、けれど味が残らない。
飲下しに味噌汁を含んで、それも塩気だけを感じで豆腐すら素っ気ない。
なにを口にしても塩気しか解らなくなっている、そんな朝食の隣から頬を小突かれた。

「み・や・た、オマエの可愛い上官サマのお話、キッチリ聴いてくれてるワケ?」

それはちゃんと聴いてるよ国村さん?
だけど食べている時に頬を小突くとか止めて欲しいんだけど?

そう言い返したいけれど小突かれた頬の内側、咀嚼中の胡瓜が跳ねて喉を直撃した。

「ごほっ…こほんっごほこほっ、」

漬物も凶器になるんだな?

そんな感想ごと喉噎せあがって止まらない目許、涙にじみだす。
ちょうど引っ掛る欠片に刺激されっ放しの咳に、日焼あわい手がコップを差し出してくれた。

「宮田さん、水、」

穏やかで明朗な声が勧めてくれる、そのトーンは押しつけがましくない。
けれど自分としては悔しくなる、そんな想い隠して英二は先輩に微笑んだ。

「ごほっ…うらべさ、っありが、ごほほんっ、」

礼を言いかけて、けれど咳に邪魔されてしまう。
こんな見っともない所は見せたくない、弱みは出来るだけ見せたくない。
そんな意地を張りたい相手の前で噎せながら英二は受けとった水を飲みこんだ。

―なんか敵に塩を送られてる気分だな、俺の勝手な嫉妬だけどさ、

水を飲みながら咳と独り言を肚に収めこむ。
この妬心は誰にも言っていない、だから何も知らない当事者は綺麗な笑顔で上官を窘めた。

「国村さんも、食べてる時に頬突っついたら危ないですよ?」
「危険も大好きな男だからね、俺のアンザイレンパートナーはさ?ね、え・い・じ、」

テノールの声は飄々とプライベートの呼名に笑ってくる。
公式と私的と両方の呼び方をしてくれるパートナーに英二は答えた。

「こほっ、確かに危険は嫌いじゃないけどっほんっ、飯は平和に食べたいですっごほっ、」
「あれ、噎せてる癖に敬語モードしてくれるんだね、宮田くん?」

飄々と笑って光一は丼飯を箸運んでいく。
いつもながら健やかで端正な食事を眺めながら、英二は咳を納め微笑んだ。

「上官の話って言われたから敬語で話します、さっきのスケジュールの件ですが夕食前に戻ります、」

今日は自分にとって第七機動隊に異動後初の週休になる。
その話題についての回答にパートナーで上官は可笑しそうに訊いてきた。

「外出届の通りで行先は変っていないね?」
「はい、」

短く頷いて微笑んだ隣、透明な瞳すっと細められる。
そんな眼差しに以前の光一が想われて、ひとつ理解が生まれた。

―最初は光一の目って細い印象だったけど、あれは考えこんでる目だったんだな?

隣に座る秀麗な顔は、雪白なめらかな肌に黒い瞳が澄みわたる。
透明な眼差しは考えこむたび細まらす、けれど本来の目はむしろ涼やかに際立つ。
こんなところからも光一の自分に対する態度と感情の推移が見えて、時の経過が想われる。

―すこしずつ信頼してもらってきたんだな、

あと3週間で10月、もうじき1年になる光一との時間は鮮やかに明るい。
御岳で青梅で、奥多摩の山嶺で、高峰で、それから警察組織の世界で共に駈けて来た。
その時間たちには喜怒哀楽の全てを共に見つめている、そして今ある感情は一つに言えない。

最初は、憧憬。

最初に見た光一は、背中の写真だった。
白銀まばゆい尾根にスカイブルーのウィンドブレーカー翻す背中は、誇らかな自由に充ちていた。
次に出会ったのは青梅警察署単身寮の談話コーナー、御岳駐在所に初着任を控えた前夜の挨拶だった。

『また背が高いね、何センチですか?』

初対面、そう言って光一は底抜けに明るい瞳を細めた。
最初から体格のことを微笑んだ、それが山ヤらしいと想えて格好良いと感じた。
澄んだテノールの深みは大人びて、どこか繊細な空気と怜悧で透明な眼差しに文学青年のようだと想った。
まだ写真と目の前の先輩が同一人物だとは気づいていない、けれど始まっていた憧れの瞬間の台詞は今なら意味が解る。

―あのとき「また」って言う前に小さく、ま、って言ったのは名前を呼んだんだ、

まさきさん、

本当はそう言いかけていた、けれどすぐ微笑んで言葉を変えた。
あのとき微かな吐息が言いかけた1音は何故か心に懸って、その音の想いが今は解かる。
それほど感情の全てを交錯させてきた相手、そんな隣に英二は今を見つめて笑いかけた。

「国村さんは奥多摩で変更ありませんか?」
「ないね、実家で山仕事したらさ、後藤さんと吉村先生と密談してきますよ、」

飄々とテノールが笑って茄子の煮浸しを口に入れた。
いつものよう楽しげに長閑な貌は明るい、けれど瞳に催促がある。
その音無い聲をいつものよう聴きとった答えへと英二は穏やかに微笑んだ。

「訓練のコース確認、よろしくお願いしますね?台風で遭難の起きやすいポイント確認もお願いします、」

密談、

そんな表現を光一がした理由は限られた人間しか知らない。
この第七機動隊では自分と光一の他は誰も知らない、そして知らないままだろう。
こんな機密を二年目の自分に課されて貰える、その信頼と責務に微笑んだ隣はからり笑った。

「はいよ、ソコントコもきっちり打合せしてくるね?俺たちの訓練日に台風ぶつかっちゃったらリアル講習になっちゃうけどさ、」
「その場合の打合せもお願いします、昨日渡した資料は後藤さん達にもメールで送ってありますので、」

公務についての会話に笑いかけながら、けれど底抜けに明るい瞳は他事も頷いている。
その他事が本命の目的で機密事項、それを共有する互いの無言は温かい。

憧憬、信頼と友情、嫉妬と羨望、数々の夢と約束と『血の契』の誓い。
共に笑って泣いた時間に親友となりパートナーとなり、一度は恋人にもなった。
そんな全ては「山」を廻らす時間に培われ育まれ、ふたり向かい合うまま今がある。
そうして見つめる今の眼差しに、また一瞬前よりもアンザイレンザイルは強く静かに温かい。
このザイルを信じられるから今日も、敬愛する人を光一に託して自分はもう一つの大切な現場に向かえる。

―でも光一、まだ病名までは知らないんだ…検査結果が出るまでは、

今日から後藤は検査入院をする、その結果次第でそのまま手術を行う。
まだ今日すぐ手術という事は無い、だから今日、光一が後藤に会っても病名は知らされないだろう。
それでも怜悧な光一なら吉村医師や後藤の空気から察するかもしれない、そんな懸念に一葉の写真へ祈ってしまう。
青梅警察署警察医のデスクに佇んでいる写真立て、そこで山ヤの医学生は美しい笑顔であざやかなまま生きている。

―雅樹さん、光一を支えて下さい、あなたにしか出来ないことだから、

生ある時も死んだ後も唯ひとり、変わらず想い続けている。
そんな二人を知ってしまったからこそ自分の過ちも願いも気が付けた。
ここまでしないと解らなかった自分が悔しいと想う、だからこそ今日、自分は過去を掴まえに行く。




先月も来たばかりの場所、けれど少しだけ風は気配をもう変えた。
その風が生まれてくる場所にはベンチがある、そこで笑ってくれた俤は今もう遠い。

―…奥多摩ほど広くないけれど、大きな木があって好きなんだ…このベンチ、お祖父さんとお祖母さんが座ったかもしれないんだ

キャンパスの一角にある泉水の庭、そこに古びた木製のベンチは静謐の木蔭に隠れる。
あの場所は普通なら見つけられないだろう、それでも周太は出逢い、通学ごと座っている。
そこに座れば名残はある?そんな想いに歩きかけた脚を立ち止まらせ独り英二は微笑んだ。

「…今日の行先はそこじゃない、」

独り言に見あげた先、暗褐色の講堂は聳える。
多くの事件と時代を抱えこんだ建造物はどこか自分と肌が合わない、そんな空気が皮肉に可笑しい。
それでも自分の血縁者はここで夢を追いかけ生きていた、その芳蹟が鼓動そっと敲いてワイシャツの胸元ふれた。
うすい夏生地ごし指先は小さな金属の輪郭をなぞらす、堅く肌温まらす合鍵の感触から手に提げる鞄の中が心に映る。
鞄の中には一冊の本と救命救急具ケース、そこに拳銃ひとつ分解されて収められている。

拳銃は『 WALTHER P38 』太平洋戦争から捕らわれ埋められていた晉の罪。
本は『 La chronique de la maison 』ミステリー小説に象った晉の過去。

―…周太は祖父さんの小説を手に入れたよ、祖父さんがオヤジさんに贈ったヤツをね。当時を聴けるオプション付きでさ、

アンザイレンパートナーが自分に現実を告げた、あの言葉も声も忘れられない。
あのとき気が付かされたのは自分の傲慢と運命の相克、そして周太への哀惜と敬意だった。
だからこそ晉が祖母に贈った一冊のメッセージは自分宛だと確信は深い、この懺悔に英二は微笑んだ。

「ね、周太…君が優秀すぎるってこと俺は見くびってたんだ、ごめんな…」

見あげる暗褐色の塔に聲つぶやいて、けれど周太には届かない。
本当は昨夜にも謝りたかった、けれど言えば周太の覚悟と秘匿を苦しめるだけ。
そう解っているから告げられなかった想いは鼓動に軋んで、それでも為すべきことに英二は踵返した。

―…祖父がくれた宿題を見つけに行ってくるね?プレゼントは全部、ちゃんと受けとりたいから、

別れのとき周太が遺した言葉と黒目がちの瞳は、離れることなく心を響かせる。
晉が馨に遺した小説へと記したメッセージを周太は受けとるために今朝、行ってしまった。

“Je te donne la recherche”探し物を君に贈る

異国の言葉に遺した意志は、何を指し示すのだろう?

あの小説が露わす過去は悔恨と贖罪の祈りたち、それを贈る?
それとも別の何かを贈り主は示すのだろうか、それは贈られる相手にだけしか解らないかもしれない。
だからこそ自分も今日、自分に遺されたメッセージの意志を見つける為に過去の軌跡を掴まえに来た。

自分に贈られた意志は“Confession” 告解、懺悔と有罪の自白。







(to be continued)

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瑞穂の風

2013-08-27 15:40:03 | お知らせ他


こんにちは、残暑にも風涼やかな今日の神奈川です。
昨夜は大雨、おかげで空気すっきりした空が青くてイイ、笑

昨夜UP「後朝の花The latter half」加筆ほぼ終わっています。
今夜は昨日予定していた第68話の続きと、短篇または新連載の続きになるかなってトコです。

取り急ぎ、
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第68話 玄明act.1-side story「陽はまた昇る」

2013-08-25 21:57:20 | 陽はまた昇るside story
望、闇冥の先に 



第68話 玄明act.1-side story「陽はまた昇る」

5時46分、隠した足音に階段の数が減ってゆく。

昇ってゆく先から鉄の扉は近くなる、そして把手を掌が握りこむ。
がちり、金属音が鳴って開かれた屋上に踏みだして東方に脚向かう。
そして掴んだ鉄柵の向こう遥か先、列車は明るんでゆく涯に走り去る。

「周太、」

呼びかけた声はもう、あのひとの列車に追いつけない。
薄明に走る車両の窓ひとつに周太は座っている、その姿も見えない。
たった30分前は同じ部屋に居た、5分前はエントランスで話した、けれど今は列車の速度に遠ざかる。

「っ、は…」

呼吸ひとつ吐きだして、瞳の熱を抑えこむ。
いま泣いている暇など一瞬も無い、今ここから見える限り見送りたい。
そんな願いの先で列車は暁光きらめきカーブする、その最後尾も消えた鉄柵を掴んだまま膝崩れた。

Special Assault Team 警視庁特殊急襲部隊

通称SATの入隊テストに周太は行ってしまった。
表向きは交番勤務の協力派遣となっている、けれど本当の行先は違う。
今日から2週間、周太は第七機動隊舎では無い場所の隠された現実に立ち続ける。
その現実はエリートコースとも言われるだろう、けれど幸福だなんて台詞は呵責なく言えない。

『合法殺人者』

もし周太がこのままSAT入隊すれば、間違いなく法的殺人に就かされる。
射撃大会2連覇の実績が周太を狙撃チームに連れてゆく、そして日々は殺人訓練に潰される。
それは救助目的の殺人かもしれない、けれど誰かを救うためでも殺した罪と哀痛に苦悩の虜囚へ堕ちる。

「…そうでしょう、晉さん?あなたも同じだった、馨さんと…」

独り膝つくコンクリートに、雫ひとつ砕けて染みる。
馨がSAT狙撃要員だったように晉も戦時下、狙撃者として軍務に就いていた。
そして戦後に犯してしまった報復殺人は家族を護るためだった、それでも晉は苦悩に沈んだ。

『 La chronique de la maison 』

あの小説に記録した過去は晉の懺悔と誇りと、果てない苦悩の傷。
法に護られた殺人任務と同じように隠匿された報復殺人は、永遠に贖罪のチャンスは訪れない。
そんな絶望があったからこそ晉は33年前あの日、親友だった男の凶弾を受容れる死をも選んだ。
そんなふうに想えて、そんな過去の現実たちがあるからこそ本当は今朝、周太を止めたかった。

行かないで、俺の傍にいて?

そう言いたかった、引留めて攫ってしまいたかった。
父や祖父と同じ苦悩の虜囚にさせたくない、あの優しい手も心も綺麗なままでいてほしい。
そう願うまま辞めさせたかった、その最後かもしれないチャンスの瞬間だった数分前の言葉が鼓動に刺さる。

「祖父がくれた宿題を見つけに行ってくるね?プレゼントは全部、ちゃんと受けとりたいから、」

“Je te donne la recherche”探し物を君に贈る

それが晉から息子の馨に贈ったメッセージだった、この伝言を周太は受けとめている。
それが周太の言葉と眼差しに定まっていた、だから何も言えないまま引留められない。
そして解ってしまった、きっと周太はもう過去の現実と核心をほとんど気づいている。

「…それでも周太、あんなに綺麗に微笑めるんだ…」

数分前の笑顔の記憶に微笑んで、コンクリートに雫またひとつ墜ちて染みる。
あの笑顔をずっと見ていたい、そう願うから自分が救いたかった、だから今も援ける道を選びたい。
あの笑顔も優しい掌も綺麗なまま帰って来てくれる、その希望を捨てたくなくて英二は立ち上がった。

独り立って仰ぐ空は薄墨色の雲に昏い、けれど東の涯には青いろ明るく澄みわたる。
あの方角へ列車は走って行った、その先には探し物が周太を護ってくれる。
そう信じて、滲んだ視界を指に払い拭うと英二は綺麗に笑った。

「立派な男なら、自分の意志を貫くことが本望だ、」

敬愛する山ヤの言葉と笑った空は、曇天でも涯は晴れ。




かちり、

密やかな開錠音に把手を回して、ゆっくり開く扉を注視する。
見つめる先に張られてゆく細い繊維に指を伸ばし、壊さぬよう取り外す。
乾いた音に扉を閉じて独り、佇んだ無人の空間はオレンジの香かすかに甘い。

「…香だけ残して、」

ぽつん、ひとり呟いた言葉の部屋はやけに広い。
寝具の畳まれたベッド、紙一枚も無いデスクと書架、塵の無い床。
そっと開いたクロゼットはハンガーだけが掛かる、ただ見つめる空白に英二は微笑んだ。

「ちゃんと掃除していくなんて、周太らしいな…周太?」

たった30分前まで住人だった笑顔が、もう懐かしい。
掃除も料理も庭仕事も巧みな周太、その手仕事はいつも丁寧で温かい。
あの優しい掌が残していった空気は寮の一室にも温かで、温もりの真中に座りこんだ。

…ぎしっ、

かすかに鳴って沈みこむスプリング、ふっと香が頬撫でる。
ふれた香に優しい掌ふれる記憶を追ってしまう、そんな想いに昨夜が映る。

―初めて来てくれたな、周太から…嬉しかった、

昨夜、初めて周太から部屋に訪ねてくれた。
第七機動隊に異動してから一週間になる昨夜、響いたノックは遠慮がちに優しかった。

『英二、あの…おじゃましてもいい?』

開いた扉に黒目がちの瞳は微笑んで、ただ愛しかった。
ただ愛しくて嬉しくて、迎え入れて扉に鍵掛けて抱きしめた。
そのままベッドに惹きこんだ時間の始まりに、穏やかな声は微笑んだ。

『お願い英二、明日は6時半に出るから5時半に起こして?…俺ちゃんと起きられないかもしれないから、』

起きられなくなることを始めてしまう、その幸福だけ見つめて気づけなかった。
あのとき告げてくれた時間は優しい嘘、嘘を吐いてくれた想い気づけぬまま甘えたのは自分。
そして昨夜、初めて自室を訪ねてくれた想いと理由は今、座っている部屋の空白に思い知らされる。

もう、ここに周太は戻れない。

「覚悟してたからだったんだね、周太…」

問いかけたい想い唇こぼれて、けれどもう届かない。
それでも届けたい想いのまま、遺された温もりに微笑んだ。

「昨夜を許してくれたのは覚悟してたからだろ、周太?…なにもかも解かってるから、もうこのま…っ」

もうこのまま帰って来れないと解っているから、昨夜一夜を俺にくれたんだろ?

そう訊きたかった、追いかけたエントランスで訊いて、周太の想い確かめたかった。
自分にくれる想いをもう一度だけ聴きたかった、そして再会と未来の約束をしてほしかった。
けれど何も言えずに見送ったのは、きっと自分の方が臆病になっていたからだと今、部屋を見て解かる。

「周太の方が俺よりずっと男らしいな…ほんとにそう想うよ、周太?」

塵ひとつ遺さずに行ってしまった、そんな背中は凛と端正に微笑んでいた。
だからもう引留めたりしない、もう信じると決めた、周太の意志を自分も信じる。
そのために自分が出来ることをすればいい、そんな願い微笑んで英二はベッドから立った。

その足もと照らしてくれる光の先、カーテン開かれたままの窓から朝はオレンジの香明るんで、一日が始まる。






(to be continued)

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八月、木染紅染―言葉譚

2013-08-24 23:03:47 | 文学閑話散文系
初秋の山、葉隠の色彩



八月、木染紅染―言葉譚

葉月、木染月、紅染月

どれも八月を表す言葉です、短篇の題名にも遣いましたけど。
葉月は樹木の葉が豊かに繁るイメージ+「八=は=葉」っていう言葉遊びかなって思います。
木染月は2つの解釈、緑繁れる葉=緑翳染まる月or葉色が黄葉・紅葉し始める初秋月、だろうと。
紅染月は字の如く、葉が紅く染まり初める月だと表した月名になります。
そんな八月は古来「秋」に属する月、7・8・9月は旧暦の秋です。

旧暦は現行の西暦=太陽暦と違って太陰暦が旨でした。
太陰暦は太陽暦より約1ヶ月ほど遅くカウントされます、で、季節も1ヶ月はズレ込んだワケです。
なので八月は現在の九月に該当=紅葉の始まる時だったので、紅染月という異称が生まれました。

そんな八月の今日に行ってきた場所は紅染月でした。



新掲載「Vol.1 Introduction 永遠の夏-Savant」と「愁雨の席―morceau by Lucifer」は校了です。
で、昨夜UP「後朝の花The middle stage」このあと加筆校正します。

取り急ぎ、


※追記
新掲載「Vol.1 Introduction 永遠の夏-Savant」当初2013.8.24に掲載しました
が、ナゼか記事表示が途中で切られていた為、2013.8.25に再掲載してあります。


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愁雨の席―morceau by Lucifer

2013-08-24 21:04:09 | morceau
冷たい雨、けれど 
Another sky of E



愁雨の席―morceau by Lucifer

聴覚を、雨が敲く。

止まない音に肩が背中が濡れてゆく、頭上ふる雫が頬伝って衿から肌濡らす。
冷ややかな指ふれてゆくような雫の無数、その感覚に忘れたい記憶が脱げ落ちる。

「…誰もいない、俺は」

ひとり零れた声、けれど遮らす水に聴こえない。
音すら奪われた聲は誰も聴いてはくれない、そんな孤独に歩いている。
たった1時間前は人肌が疎ましくて捨ててきた、それは毎日の常習のよう珍しくもない。
それなのに歩いている雨の公園、誰にも逢えない無人がなぜか今この鼓動を裂いてゆく。

どうして今、自分の胸は痛い?

起きた疑問に踏み出す足許、滴らす波紋の生まれて消えてゆく。
灰色の空から水はふる、揺らがす梢から雫の敲いてシャツが肌を吸う。
濡れて透ける白が体温を奪いに纏わりつく、そんな感触は仮寝の泡沫と似て疎ましい。
それほどまで本当は誰にも触れられたくない自分の心と体、それなのに、どうして探す?

―こんなに人恋しいなんて、なんだろ?

こんな想いはしたことがない、それなのに今は求めて脚は歩いてゆく。
こんな自分の心と体に途惑う、それでも雨ずぶ濡れる視界は誰かを探している。

「俺…誰を探してるんだろ、」

雨に唇つぶやいて雫が喉を濡らす。
融けてゆく水が吐息に変わって消える、その唇にまた雨が降る。
ただ歩き続けている空は灰色のまま明暗も分たない、そんな空に時間も季節も解らなくなる。
こんなふうに都会の空は無表情で変わらない、それが自分の貌も同じだと自嘲こみ上げて英司は笑った。

「馬鹿だな、」

一言に笑って、けれど瞳も頬も和まない自分が解かる。
こんな貌の自分を誰も待ってなどいない、そんな諦めの先でベンチひとつ映りこんだ。






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