理由、名残らす馨

第48話 薫衣act.2―side story「陽はまた昇る」
おだやかな朝の静謐が、額ふれたキスを包みこむ。
そっと離れて、見つめ合った黒目がちの瞳が、暁の光うつしこんで笑ってくれる。
どうか、この笑顔を護りぬけますように。願い微笑んだ英二に、そっと周太が訊いてくれた。
「ね、英二?お姉さんと関根のこと、すこし寂しい?」
「周太には、解っちゃうんだな、」
やっぱり解ってくれる、言わない理解が嬉しくて幸せになる。
ちょっと昨夜は複雑だったな?そんな素直な想いに英二は口を開いた。
「昨日、姉ちゃん本人も言っていたけどさ。姉ちゃんって恋愛に自信が無くて、ちゃんとした彼氏も居なかったんだよ。
モテるんだけど、3ヶ月位で別れちゃって。その間も、デートとかほとんど行かないまんま終わってね、意外と気難しいんだ。
だから俺、ちょっと安心してるとこあった、弟の自分が一番の近くにいられる、って。そんな感じで俺、ちょっとシスコンなんだ、」
シスターコンプレックス、当に自分はこれだろう。
いつも姉は真直ぐに見つめて、英二の本音に頷いてくれる。
ずっと、母の歪んだ愛から自棄になっていた自分、それでも姉は見守り受けとめてくれた。
そして周太のことを告白した卒業式の翌朝も、姉はすぐ味方になって援護の言葉を両親に告げ、笑ってくれた。
そんな姉が本当は大好きでいる、聡明で美しい姉を誇らしく思っている、だから昨夜はすこし複雑だった。
でも、こんな甘ったれた感じは恥ずかしいな?そんな想いに、ふっと純白の花の記憶が呼び起された。
砕け壊れていく大輪の百合の花、風に毀れた高雅な香。
空に舞った青いリボン、それから。
―…光一君、姉さんそっくりだね。同じように綺麗で、カサブランカが似合う…会えて、嬉しかった
…ふざけんな!
光一の両親の命日、墓所に立ち竦んだ2つの傷痕の記憶。
よく似たテノールの声が呼応した一瞬は、11年ぶりに傷を抉りあう再会だった。
あの彼も姉を慕っていた、その想いが自分に重ね合わされ、切ない。
もし彼の様に自分も、姉が消えてしまったら?
そんな問いが哀しい、苦しい。
だから自分は幸運なのだと心から気づける、姉の相手が自分の友達で良かった。
けれど姉と関根も、親族達が順調に賛成するのかは難しいだろう。
そんな想いに心裡ため息こぼれかけた翳に、やさしい瞳が笑いかけてくれた。
「お姉さん、すごく素敵だから。シスコン?も仕方ないよ、寂しいのも…でも、英二?おれがいるのにふまんなの?」
最後の台詞、かわいいです。不満なんてどこにも無いです。
一瞬で恋の奴隷モードに切り替わって、自分で内心に笑ってしまう。
ほら、こんなに自分は可愛い婚約者がいて、この恋人の優しさが勁いことを知っている。
周太が傍にいるなら姉たちも大丈夫、だってあの母が変わる切欠を作ったのは、周太だから。
そんな信頼が自然と笑顔になって笑いかけた英二に、顔を赤らめた拗ね顔が文句を言ってくれた。
「外泊日だって、光一とずっといた癖に?光一と俺と、ふたりも好きにさせて傍にいる癖に、さびしがるなんて?よくばり、」
気恥ずかしがりながら、その台詞、そんなツンデレは困ります。
可愛い、どうしよう?
可愛くて色々したくなって困るよ、すでに昨夜は寝惚けた君に我慢大会だったのに?
ちょっと理性飛んじゃったら困るから、お願い、その反則の顔と口調は勘弁して?
ほんとうに困りながら英二は、ツンデレ女王様に懇願した。
「周太、ごめん、そんな顔しないでよ?」
そんな顔にはキスしたいです。
こうしてキス出来るだけでも、いつも離れている日々に比べたら、どれだけ幸せだろう?
幸せに素直に微笑んで、きれいな頬を掌でくるむとキスの許しを瞳でねだる。
けれど周太はくるり寝返り打って、ふとんに顔を埋めてしまった。
「キスなんてしてあげない、どうせ光一といっぱいしてきたでしょ?その癖、お姉さんとられた、寂しい、って悄気るんだから、」
その通りです。
キスしてきました、本音を言っちゃうと気持ちよかったです、こんな自分は「エロ色魔変態痴漢」で仕方ないです。
ほんとに姉を取られたようで悄気てます、正直なとこ結構へこんでもいます。
でも自分の心底から幸せ酔えるのは、あなただけなのに?
キスしたいのも、取られたくないのも、こんなに必死になるのは、君だから。
この想い素直に英二は、ちょっと必死になって愛するひとへお願いをした。
「そんなこと言わないで、周太?俺、周太にキスしたい、」
「もう朝だし、キスなんかしないの、」
布団に埋めた声が素っ気なく答えてくれる。
こんなに布団が邪魔だと思ったことない、本気で悄気そうになりながら英二は重ねて懇願した。
「どうして?一昨日の朝は周太、沢山させてくれたよ?ね、キスさせて?」
『一昨日の朝』
自分で言ったフレーズ、その記憶に首筋へと熱が昇りだす。
一昨日の朝このベッドで、この位の時間、白いサラシの猿轡とシャツの手錠。
あのとき自分のなかに新しい欲を見、誘惑に滑落した。
声が漏れたら困るから。
そんな理由で施した猿轡だったのに、別目的が心に芽生えていた。
この目的に誘惑されるまま両手もシャツで縛り上げて、自由を奪われた恋人に好きなだけ溺れこんだ。
―この記憶は拙いかも?
あの時間を今してしまったら、本気で困るのに?
いま自分で言った言葉の記憶に煽られそう、英二は後悔した。
どうしよう?困惑したまま見つめる先、くるり婚約者がふり向いてくれた。
「英二、7月の、お盆明けの週末って、川崎の家に帰って来られるかな?」
家に帰る。
この予定の誘いが嬉しい、家に帰れば幸せな時間が待っているから。
なにより自分を見つめて貰える「今」が嬉しくて、英二は素直に笑いかけた。
「うん、予定が先に解れば、大丈夫だと思うけど?」
大丈夫です、なんとか予定を合わせて帰ります。
心裡にも笑って答えながら、脳裏の手帳を捲りだす。
7月の山岳訓練は海外遠征も国内も日程は平日だったはず、だから大丈夫だろうな?
この確認結果と見つめてくれる純粋な瞳が嬉しい、嬉しく見つめ返す先で大好きな瞳が微笑んだ。
「あのね、お母さんが社員旅行で、金曜の夜から日曜の夕方まで留守なの、だから留守番お願い、って言われて。
でも俺、土日は大学のフィールドワークで留守番できなくて…英二に留守番、お願いしても良い?独りが寂しかったらね、
光一も一緒に留守番して貰えると助かる、って、お母さんが言ってるんだけど…金曜の夜は俺、家に居られると思うんだけど、」
―…この「記録」に気がつく前に物証は消したいよ、家が無人になる日
チャンスが来た。
すぐ穏やかに笑って、英二は頷いた。
「その土日はね、俺と光一は本庁で山岳講習会があるかもしれないんだ。だから、川崎に泊まれるなら、光一も助かると思うよ、」
「あ、それなら、ちょうど良かったね?」
安心したよう周太が笑ってくれる。
この純粋な笑顔は、父親の死の理由も、家に絡みつく謎も束縛も、何も知らない。
この謎も束縛も自分が肩代わりして全て壊すまで、どうか知らないでいてほしい。
どうか何も知らないままでいて?
なにも知らない事が君を護ることになる、だから気付かないでいてほしい。
どうか君だけは、ずっと幸せに笑っていてほしいから。
そんな願いと見つめる想いに目の奥で熱が生まれそうになる、けれど絶対に気付かせたくはない。
紺青色の表装『Le Fantome de l'Opera』が誘った、50年の束縛と哀しみの連鎖を生んだ「罪」を知る重荷。
この重荷には絶対に気付かせない、本当は肩代わりの重たさが苦しい時もある、けれどもう大丈夫だから。
この重たさを光一が共に背負ってくれている、頼もしい唯一のアンザイレンパートナーが、恋愛すら懸けて共に背負っている。
だから大丈夫、そんな安堵に微笑んだ英二に、ワガママ1つと周太は口を開いた。
「でもね?光一とふたり一緒には、俺のベッド使わないでね?たぶん光一は遠慮してくれるだろうけど、」
「うん、使わないけど。でも周太、なんで俺にそんなこと言うんだ?」
なにげなく質問と微笑んだ。
その質問に黒目がちの瞳はすこし英二を睨みつけて、正直に言ってくれた。
「英二?光一のこと、最近よく『はつたいけんもらう』とか言って、無理に組み伏せて、いじめてるでしょ?だから釘刺してるんです、」
いま、なんて仰いましたか?
それってばれてるってコトでしょうか、俺の恋のご主人様?
さあっと音たつよう熱が顔まで昇ってくる、途惑いと羞恥が自分を染めていく。
どうしよう?そんな途惑いに息呑んだ唇が、勝手に開いた。
「…それ、どうして、」
「昨夜、光一が電話で相談してくれたんです。どうしたら英二のこと止められるの?って訊かれたんです、」
きちんと答えながら周太は起きあがり、布団を抱きしめたままベッドに座った。
ほんとうに困っちゃうな?そんな視線が自分を呆れたよう見おろしている。
これってつまりそういうことだろうか、呆気にとられた声で英二は質問をした。
「光一が、周太に相談したの?」
「はい、そうです。光一は困っています、」
きっぱり言って周太は、ベッドの上にきちんと正座した。
けれど抱きしめた布団で顔をすぐ隠せるようにしながら、英二を見下ろして微笑んだ。
「どんなに好きな相手でも、親友でも、やっぱり不安なんだよ?だから光一、昨夜、電話で泣いちゃったんだから、」
光一が泣いた?
驚いて英二は婚約者を見つめた。
昨夜に電話した声は途惑いに揺らぐときがあった、けれど涙の気配は気付かなかった。
自分は何かまた見落としている?そんな想いに墜ちこんだ英二を、真直ぐ見つめて周太は明瞭に言ってくれた。
「されるのって不安で、怖いんだよ?でも好きだから、嫌われるの怖いから、強くは拒否出来ないでしょ?
それでも怖いの。されるほうは自分の体を、内臓の一部を本来の使い方じゃないことに使って、受入れるでしょ?
もし間違ったら傷もつくし、それが原因で病気になる事もあるよ。それも、自分のペースじゃなくて相手次第で受入れるなら、不安だよ?
本来と違う目的だから、痛いし負担もあるよね?それをね、相手のペースで受け入れるの、大変…特に最初は、すごく苦しいよ?」
心が、引っ叩かれた。
自分も周太のことを受入れる。けれどそれは、いつも自分のペースでするから「相手次第」の不安を知らない。
この不安は女性と男性とでも大きく違う、周太が言う通り男性は目的外で内臓器を使う以上はリスクもある。
この不安とリスクを自分は、まともに考えたことがなかった。
快感があるかどうか?それだけしか考えていなかった。
―やっぱり俺は、体への感覚が麻痺している?
体重ねることの快楽しか自分は見ていない?そんな本性に気付かされる。
相手の体を本当の意味で尊重しきれていない、体調と心理の配慮がしきれていない。
この鈍麻な自分が悔しい、こんな自分が本当に大切な人を愛していいのか、不安になる。
そんな不安に、ふっと吉村医師の言葉がふれた。
―…生きて笑って、傍にいてあげればいい。君が想う通りに、正直な心のまま隣にいればいい。
体の繋がりを持つことも同じです。親友と恋人と違うとしても幸せな瞬間を望みたいと想い合えたなら、もう心は重なっているでしょう?
お互いの体温に幸せを見つめたい、そう想い合った瞬間に心は繋がるでしょう?誇りと命をザイルに託し合う、この絆を結んだ君たちなら。
この言葉の「肯定」が温かい。
この「肯定」を、そして光一との絆を、自分は裏切ってしまう所だった。
いま気付けてよかった、見落としていたことを知れてよかった。心からこの気づきが温かい、いま気付かせてくれた人が慕わしい。
やっぱり君が恋しい。気づいた驚きと恋慕すがる想いに、恋人は優しい眼差しで言葉を続けてくれた。
「されるのはね、本当に気分がそうじゃないと、無理なの。するのとされるのは、全然違うんだと思うよ?だから光一は途惑って悩むの、」
大切なザイルパートナーで親友を、途惑わせ迷わせた。
この罪と自責に困惑が痛い、改めて思い知らされる「初めての夜」の自分の罪悪が苦しい。
この7ヶ月間ずっと想っていた懺悔を今したい、愛するひとを見つめたまま起きあがると英二は自責に微笑んだ。
「周太…最初、怖かったよな?苦しませて…ごめん、俺…あのとき、いっぱい周太を傷つけて、」
あの卒業式の夜、なにもかも初めてだった。
なにも恋愛のことは知らなかった周太を、ただ一夜でキスから肌深く繋がる抱擁まで浚いこんで。
けれど自分自身が男性を抱くことは初めてで、本当は繋がるまですることは無理矢理だった。
それでも自分は歓びと快楽とに溺れこんで、甘い誘惑のまま愛する心と体を離せなかった。
そして翌朝、純白のシーツには血痕が赤い花のよう乱れていた。純白に散った純潔の血は美しくて、そして心を傷みに刺し貫いた。
あの日の傷みを自分は忘れかけていた、そんな後悔と見つめる恋人は穏かに微笑んだ。
「ん、痛かったよ、あのとき。でもね、俺はなにも知らなかったから、逆に怖くなかったんだと思うよ?
それに痛いのもね、英二の気配が残ってるみたいで…俺にとっては全部、幸せだったから。でもね、光一は、また違うの、」
痛いのも気配が残る、全部幸せだった。
どうしてそんなふうに言ってくれる?
あの夜に自分が犯した罪を君は、そんなふうに愛情で受け留めて清めてくれる。
どうしてそんなに君は純粋で、深い勁い温もりを持っているの?
このひとに嫌われたくない、ずっと傍にいて遠くに行かないで?
どうかお願いと見つめる困惑に、黒目がちの優しい瞳は穏かに笑んで諭してくれた。
「光一は純情なの、英二のこと、すごく一生懸命に恋愛してるの。だから光一、えっちすることも一生懸命に悩んでます。
大切な唯一のアンザイレンパートナーを失いたくなくて、でも恋愛になって…ほんとに途惑ってるんだよ?からかうのも加減して?
なによりね、英二?光一は山ヤで山っ子だから、すごく体は大切でしょ?だから俺よりも光一の方が、ずっと覚悟がいるはずだよ?
英二にとっても光一は、大事な『唯ひとり』でしょ?きちんと大切にして?それが出来ないようなひとが婚約者だなんて、俺は嫌です」
数多の鮮血の花に、自分が相手を求めすぎ傷つけた事を悟った、あのとき。
あのときと同じ過ちを繰り返し、無垢な山っ子を傷だらけにする。これは赦されない罪だろう。
それでも光一は優しい恋のまま自分を赦す、けれど自分も山ヤならば、山の申し子を穢すことはきっと「山」が赦さない。
そうなれば今度こそ周太も赦さない、そう告げて自分を諌めてくれる。
―こんなふうに俺を、真剣に諌めて正してくれる…離れたくない
こんな自分をストレートに叱ってくれる人は、2人しか知らない。
いま光一の為にも周太は叱ってくれる、あの冬富士の過ちに光一が周太の為にも怒ってくれたように。
こんなふうに2人はいつも自分の愚かさを戒めてくれる、このどちらも失いたくは無い。
赦されるチャンスを、まだ残してくれている?
ほんとうに気付いていなかった、解かっていなかった、こんな愚かな鈍感な自分でも赦される?
いま自分への悔しい途惑いと後悔が痛い、傷み喘ぐよう息呑んで英二は口を開いた。
「…ごめん、周太…そんなに困らせてるの俺、解ってなかった…ごめん、俺、ダメだね?でもお願いだから、嫌わないで、」
お願いだから嫌いにならないで?
どうか置いて行かないで、捨てないで、傍にいると約束して?
自分への戒めと哀しみに途方に暮れたまま、英二は切ない溜息と微笑んだ。
「周太、俺はね?本当に光一も大切だよ、恋とは違うけれど愛してる。でも…つい光一のこと虐めたくなるんだ。
今まで散々、あいつに悪戯されて、からかわれたからかな?つい仕返しみたいに、あいつの体に悪戯してやりたくなる。それに…」
ため息こぼれて、一瞬のためらいが心に翳す。
それでも英二は正直な本音を、言葉に変えて口を開いた。
「それに、本音を言うと俺、最近、光一を抱きたいなって感じる。だから半分は悪戯だけど…誘ってもいる、」
こんな俺でも、隣にいることを赦してくれる?
こんなふうに他の相手も抱きたいと願ってしまう、こんな自分でもいいの?
確かに君の願いでもあったこと、でも現実にその欲が自分に生まれても、赦される?
困惑と哀しみのまま見つめた英二に、抱きしめた布団に半分顔を埋めながら周太は、すこし拗ねた愛嬌に笑ってくれた。
「光一がしたくなってからしてください。でも、俺のベッドはダメです。無理強いも絶対ダメ、いじめすぎも禁止、」
全部の言うこと聴きます、だから捨てないで?
ただ素直に声と瞳を見つめている、そんな眼差し受けとめて黒目がちの瞳は微笑んだ。
「光一のこと、きちんと見て大切にしてあげて?…それで俺のことも忘れないで?お願い、英二、あいしてるのなら言うこと聴いて?
光一のことも愛してるんでしょ?なら大切にして。英二は、俺に恋してる、恋の奴隷なんでしょ?だったら俺の言うこと聴けるよね?」
『俺のことも忘れないで?』
どうしてそんなこと、言うの?
あなたを忘れられる訳が無い、だからこんなに求めて傍にいたいのに?
この言葉を告げる理由なんて、本当は自分は知っている、解かっている、けれど嫌だ。
いま告げながら周太は布団に顔を半分隠す、その隠された瞳から涙こぼれていると解かってしまう。
この言葉の想いに泣いてくれている、それでも片方の瞳は真直ぐ微笑んでくれる。微笑が愛しくて切なくて英二は願いを告げた。
「うん、ちゃんと言うこと聴くよ。だから俺のこと、嫌いにならないで?…いなくならないで、」
なんでも聴くから、お願い、いなくならないで?
真直ぐな想いと願いに見つめて、小柄な体に腕を伸ばす。
そして涙を隠している布団ごと引き寄せて、愛する婚約者を抱きしめた。
「お願いだ、周太。俺が恋して伴侶にしたいのは、君だけなんだから。昨夜、関根にも言った通りだよ…俺の嫁さんになってよ、約束して?」
どうかお願い、今ここで約束が欲しい。
祈るよう声に想いを込める、この声に婚約者は幸せに微笑んだ。
「言うこと聴いてくれなかったら、なってあげない、約束してあげない、」
「言うこと、なんでも聴くから。だからお願いだ、約束してよ、周太?」
即答して、約束への祈りを告げてしまう。
だって今なぜこの人が泣いているのか、自分にはきっと解かっている。
きっと今この時間が終わりを告げる、その後の時間への想いに泣いてくれているから。
この人はもう、父親の軌跡に立つ覚悟に微笑んで、澱む昏迷にすら希望を見出している。
この希望の為に昨夜も勉強をしてくれた、英二が作ってきたファイルに突っ伏すまで疲れも押して、努力して。
もう恐れ孤独に泣く姿は無い、ただ真直ぐに強靭な優しい勇気が佇んでいる。
けれど置いて行くことを心配して、泣いてくれている。
英二が泣いてしまう事を心配して、英二こそが孤独になる事を哀しんでくれる。
この孤独を本気で哀しんでくれるから、英二が光一との絆を結び繋いでいくことを、本気で望んでくれる。
どうして、そんなに優しいの?
どうしてこんなに俺のことを愛してくれる?想ってくれる?
俺の方こそ君を援けたくて、救いたくて護りたくて、ここまで来た。それなのに本当に救われているのは、いつも俺のほう。
この想いが熱になって涙こぼれてしまう、いま抱きしめた白いシャツの肩に顔を埋めて、英二は泣いた。
―ずっと傍にいて、置いて行かないで…離したくない、本当は少しの間も
いま毎日が寄添いあえる時間、けれど、これが最後になる可能性を否定できない。
この時間が終わって夏、そして秋になった時、ふたり立つ場所の距離はどこまで遠くなるだろう。
それでも自分は必ず取り戻してみせる、たとえ救う可能性が1%でも、この1%に全てを懸ければいい。
いつか永遠に幸福へと浚って、このひとに笑顔の日々を贈りたい。
けれど、一旦は引き離される日々が来る。
そのときには本当に「逢う約束」が出来るのかも解からない、「また次にね」が言えなくなる。
なにげない「またね」が言える幸せが消える、その予兆が怖い、悔しい、切ない。
本当はこのまま、遠くに浚ってしまえたらいいのに?
いつも、ずっと、そう想ってきた。
けれどそれは出来ない、それも解かり過ぎている。
だってこの人は気高いとしっている、誇り高い男として父親の真実を見据えるために、今、ここにいるのだから。
この今は初任総合、終われば夏の本配属が来る。
この今は毎日を隣で暮らせる時間、けれどもう1週間が過ぎてしまった。
この今が「またね」をなにげなく言える、最後の時になるかもしれない?その可能性を誰も否定できない。
けれど、お互いこの想いは言わない、この今の「またね」が言える幸せを曇らせたくないから。
だから今も笑っていたい。そう微笑んだ想いに、周太は幸せに笑いかけてくれた。
「ね、英二、来週は川崎に帰ってきて?夏みかん採るから、手伝って、」
―…和室の炉は、古いものだったよね?取り外されたような形跡が無ければ、たぶん掘り出していないと思う
光一と話し合った推理の確認、そのため帰りたいと考えていた。
いま周太から申し出てくれた、このタイミングの良さに胸元の合鍵へと心うち微笑んだ。
「うん、来週は帰るよ。土曜日の朝は青梅署にちょっと戻るけど、夜には川崎に帰る。だから日曜に手伝っても良い?」
こんなにタイミングが良い、だから馨が味方してくれている。きっと運命すらも。
そっと幸運に笑いかけながら、家に帰れる時間へのシンプルな幸福感が温かい。
帰ってきてと、言ってもらえて嬉しいな?
そう笑いかけた英二に、布団の陰に唇も片方の瞳も隠したまま周太は笑ってくれた。
「ん、それならいいよ?…もう光一に無理なちょっかい出さないでね?」
「はい、しません。だから周太、キスさせて?」
もう、涙は止まったかな?
頃合に見つめた先で、布団抱いた手をゆるめてくれる。
これは許してくれるシグナル、応じて英二は長い指を布団にかけおろした。
「愛してる、俺の未来の花嫁さん、」
祈りの言葉にきれいな笑顔咲かせて、婚約者の唇に優しい温もりのキスふれた。
やさしい唇から、そっとオレンジの香と幸せが口移される。
これは周太がよく口に入れている「蜂蜜オレンジのど飴」の香。
―…これやる、待っているから
卒業配置先に向かう朝、この飴を自分の口に放り込んでくれた。
そして8個残った飴を周太は、パッケージごと英二の掌に載せてくれた。
あれから自分で買い足して、いつも持っている。
遭難救助の現場で、高峰で、この飴を口にしてきた。時には救助者に光一にも、この飴を分けてきた。
そのたびに愛する面影を想いだして、励まされて、いつも心は穏やかに凪いだ。
この香に幾度も慰められ生きてきた、その幸福が今、切ない。

6時過ぎ、英二は中庭の流し場で蛇口をひねった。
勢いよく流れ落ちる水に朝陽きらめく、そこへ潔く頭を差し出した。
ざあっ、さああ…
水音が耳もと零れていく。
冷たい水が脳髄を醒まさせ、ゆるんだ心が締められだす。
口許からも水が入りこむ、そして零れだす時にはオレンジが香った。
「キスの香だ…」
あまい香の記憶が幸せで嬉しい、そんな自分に呆れと幸福と半分ずつ微笑んだ。
昨夜も今朝も考えごとに神経が高ぶっている、こんな高揚感は少し危ない。
そのうえ無意識の誘惑がくれる肩透しと幸福感が、ちょっと熱すぎた。
愛してる、俺の未来の花嫁さん。
そう告げて布団から顕わした唇にキスふれて、幸せを口づけに交わした。
口移されたオレンジの香に切なくて幸せで、泣きたい想いに微笑んで。
そっと離れ見つめ合って。そして黒目がちの瞳が、綺麗に微笑んだ。
「愛してる、英二。未来のはなむこさん?」
そう言ってくれた笑顔が、あんまりきれいで見惚れた。
きれいで見惚れて幸せで、ぼんやりしたまま抱きしめて、またベッドに倒れ込んだ。
そうしてつい長い指の手は、小柄な体の白いシャツの裾を掴んでを捲りかけた。
「だめっ、えいじ!」
ぴしゃり言って、同時に手も叩かれた。
きちんと叱ってもらって我に返って、これはダメだと今、ここにいる。
やっぱり自分は水でも被らないと「まとも」じゃない、だから文字通り素直に、この頭を冷やしている。
さああっ…ざぁ…
水が髪から頬伝い、冷たい肌感覚が意識を冷やしてくれる。
水重りが額から頬から雫になって墜ちていく、濡れた髪が重くなり頭はクリアになる。
そうしていつものように、明確に冴えた感覚が充たされた。
「よし、」
冷たい水流のなか微笑んで、蛇口を閉めた。
本当は普段どおり頭から全身に水を被りたい、けれど警察学校寮では浴室は自由に使えない。
それでも頭だけなら此処で水を被れる、お蔭でストイックも冷静も戻ってくれた。
―あのままだったら、本当に困ったことになったろうな?
すっきりした意識で自分に笑ってしまう。
自分に声無く笑いながら、手にしたタオルで首筋から拭いあげていく。
そして頭を上げようとした横顔に視線がふれた。
こんな時間に誰だ?
瞳だけ動かしタオルの翳から見た先から、仏頂面が歩いてくる。
そういえば昨夜の当直はこの人だったな?
でも何故ここに来たのだろう?
ひとつ疑問を考えながらも英二は、自分の担当教官に笑いかけ頭を下げた。
「おはようございます、」
「うむ、おはよう、」
無愛想な挨拶が英二の前に佇んだ。
相変わらず翳りの渋い眼差しが動くと、じろりと英二の頭を見遣った。
「宮田、おまえは何をやっている?」
やっぱりその質問からなんだ?
我ながら可笑しくて困りながら、英二は正直に答えた。
「水を被っていました、いつも朝はこうするので、」
「毎日か?何のために、」
ぶすりとした声、けれど微かな驚きがある。
この人が驚くほど変でおかしいかな?思いながらも素直に頷いた。
「はい、気持を締めたいからです、」
髪からこぼれた雫が頬つたう。
タオルで拭った向こう、ほのかに遠野教官が微笑んだ。
「…ふん、後藤さんが仰っていた通り、か」
後藤副隊長は、何を言ってくれたのだろうな?
敬愛する上司の俤に微笑んだ英二を、かすかに笑んだ目が見つめている。
その目が物言いたげに見える、何かを自分に訊くつもりで来たのだろうか?
何を訊かれるだろう?すこし予想を考え始めたとき、渋い声が低く尋ねた。
「宮田、『Fantome』の意味が解かるか?」
心裡、息を呑んだ。
―どうして?
どうして、その単語を遠野教官が、自分に訊く?
この単語を英二に訊く、それは「何に関わる」のか気付いているからだろう。
けれど、なぜ遠野教官が『Fantome』を知っている?
なぜ「何に関わる」のかに気付いた?
その理由と意図を知りたい。
この単語を今、ここで言った、その理由を知りたい。
この単語を自分に問いかけるため、自分を探しに来た。そんな確信が浮かび上がる。
なぜ今、ここに自分を探してまで、聴きに来た?
いま頭脳を廻っていく考えに透徹な判断力が目覚めだす、この今すべき行動はなんだ?
その判断に英二の唇が、静かに開かれた。
「その言葉を、どこで知ったんですか?」
冷静な声が自分の口から質問者に問いかける。その声に、ふっとオレンジが香った。
(to be continued)
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第48話 薫衣act.2―side story「陽はまた昇る」
おだやかな朝の静謐が、額ふれたキスを包みこむ。
そっと離れて、見つめ合った黒目がちの瞳が、暁の光うつしこんで笑ってくれる。
どうか、この笑顔を護りぬけますように。願い微笑んだ英二に、そっと周太が訊いてくれた。
「ね、英二?お姉さんと関根のこと、すこし寂しい?」
「周太には、解っちゃうんだな、」
やっぱり解ってくれる、言わない理解が嬉しくて幸せになる。
ちょっと昨夜は複雑だったな?そんな素直な想いに英二は口を開いた。
「昨日、姉ちゃん本人も言っていたけどさ。姉ちゃんって恋愛に自信が無くて、ちゃんとした彼氏も居なかったんだよ。
モテるんだけど、3ヶ月位で別れちゃって。その間も、デートとかほとんど行かないまんま終わってね、意外と気難しいんだ。
だから俺、ちょっと安心してるとこあった、弟の自分が一番の近くにいられる、って。そんな感じで俺、ちょっとシスコンなんだ、」
シスターコンプレックス、当に自分はこれだろう。
いつも姉は真直ぐに見つめて、英二の本音に頷いてくれる。
ずっと、母の歪んだ愛から自棄になっていた自分、それでも姉は見守り受けとめてくれた。
そして周太のことを告白した卒業式の翌朝も、姉はすぐ味方になって援護の言葉を両親に告げ、笑ってくれた。
そんな姉が本当は大好きでいる、聡明で美しい姉を誇らしく思っている、だから昨夜はすこし複雑だった。
でも、こんな甘ったれた感じは恥ずかしいな?そんな想いに、ふっと純白の花の記憶が呼び起された。
砕け壊れていく大輪の百合の花、風に毀れた高雅な香。
空に舞った青いリボン、それから。
―…光一君、姉さんそっくりだね。同じように綺麗で、カサブランカが似合う…会えて、嬉しかった
…ふざけんな!
光一の両親の命日、墓所に立ち竦んだ2つの傷痕の記憶。
よく似たテノールの声が呼応した一瞬は、11年ぶりに傷を抉りあう再会だった。
あの彼も姉を慕っていた、その想いが自分に重ね合わされ、切ない。
もし彼の様に自分も、姉が消えてしまったら?
そんな問いが哀しい、苦しい。
だから自分は幸運なのだと心から気づける、姉の相手が自分の友達で良かった。
けれど姉と関根も、親族達が順調に賛成するのかは難しいだろう。
そんな想いに心裡ため息こぼれかけた翳に、やさしい瞳が笑いかけてくれた。
「お姉さん、すごく素敵だから。シスコン?も仕方ないよ、寂しいのも…でも、英二?おれがいるのにふまんなの?」
最後の台詞、かわいいです。不満なんてどこにも無いです。
一瞬で恋の奴隷モードに切り替わって、自分で内心に笑ってしまう。
ほら、こんなに自分は可愛い婚約者がいて、この恋人の優しさが勁いことを知っている。
周太が傍にいるなら姉たちも大丈夫、だってあの母が変わる切欠を作ったのは、周太だから。
そんな信頼が自然と笑顔になって笑いかけた英二に、顔を赤らめた拗ね顔が文句を言ってくれた。
「外泊日だって、光一とずっといた癖に?光一と俺と、ふたりも好きにさせて傍にいる癖に、さびしがるなんて?よくばり、」
気恥ずかしがりながら、その台詞、そんなツンデレは困ります。
可愛い、どうしよう?
可愛くて色々したくなって困るよ、すでに昨夜は寝惚けた君に我慢大会だったのに?
ちょっと理性飛んじゃったら困るから、お願い、その反則の顔と口調は勘弁して?
ほんとうに困りながら英二は、ツンデレ女王様に懇願した。
「周太、ごめん、そんな顔しないでよ?」
そんな顔にはキスしたいです。
こうしてキス出来るだけでも、いつも離れている日々に比べたら、どれだけ幸せだろう?
幸せに素直に微笑んで、きれいな頬を掌でくるむとキスの許しを瞳でねだる。
けれど周太はくるり寝返り打って、ふとんに顔を埋めてしまった。
「キスなんてしてあげない、どうせ光一といっぱいしてきたでしょ?その癖、お姉さんとられた、寂しい、って悄気るんだから、」
その通りです。
キスしてきました、本音を言っちゃうと気持ちよかったです、こんな自分は「エロ色魔変態痴漢」で仕方ないです。
ほんとに姉を取られたようで悄気てます、正直なとこ結構へこんでもいます。
でも自分の心底から幸せ酔えるのは、あなただけなのに?
キスしたいのも、取られたくないのも、こんなに必死になるのは、君だから。
この想い素直に英二は、ちょっと必死になって愛するひとへお願いをした。
「そんなこと言わないで、周太?俺、周太にキスしたい、」
「もう朝だし、キスなんかしないの、」
布団に埋めた声が素っ気なく答えてくれる。
こんなに布団が邪魔だと思ったことない、本気で悄気そうになりながら英二は重ねて懇願した。
「どうして?一昨日の朝は周太、沢山させてくれたよ?ね、キスさせて?」
『一昨日の朝』
自分で言ったフレーズ、その記憶に首筋へと熱が昇りだす。
一昨日の朝このベッドで、この位の時間、白いサラシの猿轡とシャツの手錠。
あのとき自分のなかに新しい欲を見、誘惑に滑落した。
声が漏れたら困るから。
そんな理由で施した猿轡だったのに、別目的が心に芽生えていた。
この目的に誘惑されるまま両手もシャツで縛り上げて、自由を奪われた恋人に好きなだけ溺れこんだ。
―この記憶は拙いかも?
あの時間を今してしまったら、本気で困るのに?
いま自分で言った言葉の記憶に煽られそう、英二は後悔した。
どうしよう?困惑したまま見つめる先、くるり婚約者がふり向いてくれた。
「英二、7月の、お盆明けの週末って、川崎の家に帰って来られるかな?」
家に帰る。
この予定の誘いが嬉しい、家に帰れば幸せな時間が待っているから。
なにより自分を見つめて貰える「今」が嬉しくて、英二は素直に笑いかけた。
「うん、予定が先に解れば、大丈夫だと思うけど?」
大丈夫です、なんとか予定を合わせて帰ります。
心裡にも笑って答えながら、脳裏の手帳を捲りだす。
7月の山岳訓練は海外遠征も国内も日程は平日だったはず、だから大丈夫だろうな?
この確認結果と見つめてくれる純粋な瞳が嬉しい、嬉しく見つめ返す先で大好きな瞳が微笑んだ。
「あのね、お母さんが社員旅行で、金曜の夜から日曜の夕方まで留守なの、だから留守番お願い、って言われて。
でも俺、土日は大学のフィールドワークで留守番できなくて…英二に留守番、お願いしても良い?独りが寂しかったらね、
光一も一緒に留守番して貰えると助かる、って、お母さんが言ってるんだけど…金曜の夜は俺、家に居られると思うんだけど、」
―…この「記録」に気がつく前に物証は消したいよ、家が無人になる日
チャンスが来た。
すぐ穏やかに笑って、英二は頷いた。
「その土日はね、俺と光一は本庁で山岳講習会があるかもしれないんだ。だから、川崎に泊まれるなら、光一も助かると思うよ、」
「あ、それなら、ちょうど良かったね?」
安心したよう周太が笑ってくれる。
この純粋な笑顔は、父親の死の理由も、家に絡みつく謎も束縛も、何も知らない。
この謎も束縛も自分が肩代わりして全て壊すまで、どうか知らないでいてほしい。
どうか何も知らないままでいて?
なにも知らない事が君を護ることになる、だから気付かないでいてほしい。
どうか君だけは、ずっと幸せに笑っていてほしいから。
そんな願いと見つめる想いに目の奥で熱が生まれそうになる、けれど絶対に気付かせたくはない。
紺青色の表装『Le Fantome de l'Opera』が誘った、50年の束縛と哀しみの連鎖を生んだ「罪」を知る重荷。
この重荷には絶対に気付かせない、本当は肩代わりの重たさが苦しい時もある、けれどもう大丈夫だから。
この重たさを光一が共に背負ってくれている、頼もしい唯一のアンザイレンパートナーが、恋愛すら懸けて共に背負っている。
だから大丈夫、そんな安堵に微笑んだ英二に、ワガママ1つと周太は口を開いた。
「でもね?光一とふたり一緒には、俺のベッド使わないでね?たぶん光一は遠慮してくれるだろうけど、」
「うん、使わないけど。でも周太、なんで俺にそんなこと言うんだ?」
なにげなく質問と微笑んだ。
その質問に黒目がちの瞳はすこし英二を睨みつけて、正直に言ってくれた。
「英二?光一のこと、最近よく『はつたいけんもらう』とか言って、無理に組み伏せて、いじめてるでしょ?だから釘刺してるんです、」
いま、なんて仰いましたか?
それってばれてるってコトでしょうか、俺の恋のご主人様?
さあっと音たつよう熱が顔まで昇ってくる、途惑いと羞恥が自分を染めていく。
どうしよう?そんな途惑いに息呑んだ唇が、勝手に開いた。
「…それ、どうして、」
「昨夜、光一が電話で相談してくれたんです。どうしたら英二のこと止められるの?って訊かれたんです、」
きちんと答えながら周太は起きあがり、布団を抱きしめたままベッドに座った。
ほんとうに困っちゃうな?そんな視線が自分を呆れたよう見おろしている。
これってつまりそういうことだろうか、呆気にとられた声で英二は質問をした。
「光一が、周太に相談したの?」
「はい、そうです。光一は困っています、」
きっぱり言って周太は、ベッドの上にきちんと正座した。
けれど抱きしめた布団で顔をすぐ隠せるようにしながら、英二を見下ろして微笑んだ。
「どんなに好きな相手でも、親友でも、やっぱり不安なんだよ?だから光一、昨夜、電話で泣いちゃったんだから、」
光一が泣いた?
驚いて英二は婚約者を見つめた。
昨夜に電話した声は途惑いに揺らぐときがあった、けれど涙の気配は気付かなかった。
自分は何かまた見落としている?そんな想いに墜ちこんだ英二を、真直ぐ見つめて周太は明瞭に言ってくれた。
「されるのって不安で、怖いんだよ?でも好きだから、嫌われるの怖いから、強くは拒否出来ないでしょ?
それでも怖いの。されるほうは自分の体を、内臓の一部を本来の使い方じゃないことに使って、受入れるでしょ?
もし間違ったら傷もつくし、それが原因で病気になる事もあるよ。それも、自分のペースじゃなくて相手次第で受入れるなら、不安だよ?
本来と違う目的だから、痛いし負担もあるよね?それをね、相手のペースで受け入れるの、大変…特に最初は、すごく苦しいよ?」
心が、引っ叩かれた。
自分も周太のことを受入れる。けれどそれは、いつも自分のペースでするから「相手次第」の不安を知らない。
この不安は女性と男性とでも大きく違う、周太が言う通り男性は目的外で内臓器を使う以上はリスクもある。
この不安とリスクを自分は、まともに考えたことがなかった。
快感があるかどうか?それだけしか考えていなかった。
―やっぱり俺は、体への感覚が麻痺している?
体重ねることの快楽しか自分は見ていない?そんな本性に気付かされる。
相手の体を本当の意味で尊重しきれていない、体調と心理の配慮がしきれていない。
この鈍麻な自分が悔しい、こんな自分が本当に大切な人を愛していいのか、不安になる。
そんな不安に、ふっと吉村医師の言葉がふれた。
―…生きて笑って、傍にいてあげればいい。君が想う通りに、正直な心のまま隣にいればいい。
体の繋がりを持つことも同じです。親友と恋人と違うとしても幸せな瞬間を望みたいと想い合えたなら、もう心は重なっているでしょう?
お互いの体温に幸せを見つめたい、そう想い合った瞬間に心は繋がるでしょう?誇りと命をザイルに託し合う、この絆を結んだ君たちなら。
この言葉の「肯定」が温かい。
この「肯定」を、そして光一との絆を、自分は裏切ってしまう所だった。
いま気付けてよかった、見落としていたことを知れてよかった。心からこの気づきが温かい、いま気付かせてくれた人が慕わしい。
やっぱり君が恋しい。気づいた驚きと恋慕すがる想いに、恋人は優しい眼差しで言葉を続けてくれた。
「されるのはね、本当に気分がそうじゃないと、無理なの。するのとされるのは、全然違うんだと思うよ?だから光一は途惑って悩むの、」
大切なザイルパートナーで親友を、途惑わせ迷わせた。
この罪と自責に困惑が痛い、改めて思い知らされる「初めての夜」の自分の罪悪が苦しい。
この7ヶ月間ずっと想っていた懺悔を今したい、愛するひとを見つめたまま起きあがると英二は自責に微笑んだ。
「周太…最初、怖かったよな?苦しませて…ごめん、俺…あのとき、いっぱい周太を傷つけて、」
あの卒業式の夜、なにもかも初めてだった。
なにも恋愛のことは知らなかった周太を、ただ一夜でキスから肌深く繋がる抱擁まで浚いこんで。
けれど自分自身が男性を抱くことは初めてで、本当は繋がるまですることは無理矢理だった。
それでも自分は歓びと快楽とに溺れこんで、甘い誘惑のまま愛する心と体を離せなかった。
そして翌朝、純白のシーツには血痕が赤い花のよう乱れていた。純白に散った純潔の血は美しくて、そして心を傷みに刺し貫いた。
あの日の傷みを自分は忘れかけていた、そんな後悔と見つめる恋人は穏かに微笑んだ。
「ん、痛かったよ、あのとき。でもね、俺はなにも知らなかったから、逆に怖くなかったんだと思うよ?
それに痛いのもね、英二の気配が残ってるみたいで…俺にとっては全部、幸せだったから。でもね、光一は、また違うの、」
痛いのも気配が残る、全部幸せだった。
どうしてそんなふうに言ってくれる?
あの夜に自分が犯した罪を君は、そんなふうに愛情で受け留めて清めてくれる。
どうしてそんなに君は純粋で、深い勁い温もりを持っているの?
このひとに嫌われたくない、ずっと傍にいて遠くに行かないで?
どうかお願いと見つめる困惑に、黒目がちの優しい瞳は穏かに笑んで諭してくれた。
「光一は純情なの、英二のこと、すごく一生懸命に恋愛してるの。だから光一、えっちすることも一生懸命に悩んでます。
大切な唯一のアンザイレンパートナーを失いたくなくて、でも恋愛になって…ほんとに途惑ってるんだよ?からかうのも加減して?
なによりね、英二?光一は山ヤで山っ子だから、すごく体は大切でしょ?だから俺よりも光一の方が、ずっと覚悟がいるはずだよ?
英二にとっても光一は、大事な『唯ひとり』でしょ?きちんと大切にして?それが出来ないようなひとが婚約者だなんて、俺は嫌です」
数多の鮮血の花に、自分が相手を求めすぎ傷つけた事を悟った、あのとき。
あのときと同じ過ちを繰り返し、無垢な山っ子を傷だらけにする。これは赦されない罪だろう。
それでも光一は優しい恋のまま自分を赦す、けれど自分も山ヤならば、山の申し子を穢すことはきっと「山」が赦さない。
そうなれば今度こそ周太も赦さない、そう告げて自分を諌めてくれる。
―こんなふうに俺を、真剣に諌めて正してくれる…離れたくない
こんな自分をストレートに叱ってくれる人は、2人しか知らない。
いま光一の為にも周太は叱ってくれる、あの冬富士の過ちに光一が周太の為にも怒ってくれたように。
こんなふうに2人はいつも自分の愚かさを戒めてくれる、このどちらも失いたくは無い。
赦されるチャンスを、まだ残してくれている?
ほんとうに気付いていなかった、解かっていなかった、こんな愚かな鈍感な自分でも赦される?
いま自分への悔しい途惑いと後悔が痛い、傷み喘ぐよう息呑んで英二は口を開いた。
「…ごめん、周太…そんなに困らせてるの俺、解ってなかった…ごめん、俺、ダメだね?でもお願いだから、嫌わないで、」
お願いだから嫌いにならないで?
どうか置いて行かないで、捨てないで、傍にいると約束して?
自分への戒めと哀しみに途方に暮れたまま、英二は切ない溜息と微笑んだ。
「周太、俺はね?本当に光一も大切だよ、恋とは違うけれど愛してる。でも…つい光一のこと虐めたくなるんだ。
今まで散々、あいつに悪戯されて、からかわれたからかな?つい仕返しみたいに、あいつの体に悪戯してやりたくなる。それに…」
ため息こぼれて、一瞬のためらいが心に翳す。
それでも英二は正直な本音を、言葉に変えて口を開いた。
「それに、本音を言うと俺、最近、光一を抱きたいなって感じる。だから半分は悪戯だけど…誘ってもいる、」
こんな俺でも、隣にいることを赦してくれる?
こんなふうに他の相手も抱きたいと願ってしまう、こんな自分でもいいの?
確かに君の願いでもあったこと、でも現実にその欲が自分に生まれても、赦される?
困惑と哀しみのまま見つめた英二に、抱きしめた布団に半分顔を埋めながら周太は、すこし拗ねた愛嬌に笑ってくれた。
「光一がしたくなってからしてください。でも、俺のベッドはダメです。無理強いも絶対ダメ、いじめすぎも禁止、」
全部の言うこと聴きます、だから捨てないで?
ただ素直に声と瞳を見つめている、そんな眼差し受けとめて黒目がちの瞳は微笑んだ。
「光一のこと、きちんと見て大切にしてあげて?…それで俺のことも忘れないで?お願い、英二、あいしてるのなら言うこと聴いて?
光一のことも愛してるんでしょ?なら大切にして。英二は、俺に恋してる、恋の奴隷なんでしょ?だったら俺の言うこと聴けるよね?」
『俺のことも忘れないで?』
どうしてそんなこと、言うの?
あなたを忘れられる訳が無い、だからこんなに求めて傍にいたいのに?
この言葉を告げる理由なんて、本当は自分は知っている、解かっている、けれど嫌だ。
いま告げながら周太は布団に顔を半分隠す、その隠された瞳から涙こぼれていると解かってしまう。
この言葉の想いに泣いてくれている、それでも片方の瞳は真直ぐ微笑んでくれる。微笑が愛しくて切なくて英二は願いを告げた。
「うん、ちゃんと言うこと聴くよ。だから俺のこと、嫌いにならないで?…いなくならないで、」
なんでも聴くから、お願い、いなくならないで?
真直ぐな想いと願いに見つめて、小柄な体に腕を伸ばす。
そして涙を隠している布団ごと引き寄せて、愛する婚約者を抱きしめた。
「お願いだ、周太。俺が恋して伴侶にしたいのは、君だけなんだから。昨夜、関根にも言った通りだよ…俺の嫁さんになってよ、約束して?」
どうかお願い、今ここで約束が欲しい。
祈るよう声に想いを込める、この声に婚約者は幸せに微笑んだ。
「言うこと聴いてくれなかったら、なってあげない、約束してあげない、」
「言うこと、なんでも聴くから。だからお願いだ、約束してよ、周太?」
即答して、約束への祈りを告げてしまう。
だって今なぜこの人が泣いているのか、自分にはきっと解かっている。
きっと今この時間が終わりを告げる、その後の時間への想いに泣いてくれているから。
この人はもう、父親の軌跡に立つ覚悟に微笑んで、澱む昏迷にすら希望を見出している。
この希望の為に昨夜も勉強をしてくれた、英二が作ってきたファイルに突っ伏すまで疲れも押して、努力して。
もう恐れ孤独に泣く姿は無い、ただ真直ぐに強靭な優しい勇気が佇んでいる。
けれど置いて行くことを心配して、泣いてくれている。
英二が泣いてしまう事を心配して、英二こそが孤独になる事を哀しんでくれる。
この孤独を本気で哀しんでくれるから、英二が光一との絆を結び繋いでいくことを、本気で望んでくれる。
どうして、そんなに優しいの?
どうしてこんなに俺のことを愛してくれる?想ってくれる?
俺の方こそ君を援けたくて、救いたくて護りたくて、ここまで来た。それなのに本当に救われているのは、いつも俺のほう。
この想いが熱になって涙こぼれてしまう、いま抱きしめた白いシャツの肩に顔を埋めて、英二は泣いた。
―ずっと傍にいて、置いて行かないで…離したくない、本当は少しの間も
いま毎日が寄添いあえる時間、けれど、これが最後になる可能性を否定できない。
この時間が終わって夏、そして秋になった時、ふたり立つ場所の距離はどこまで遠くなるだろう。
それでも自分は必ず取り戻してみせる、たとえ救う可能性が1%でも、この1%に全てを懸ければいい。
いつか永遠に幸福へと浚って、このひとに笑顔の日々を贈りたい。
けれど、一旦は引き離される日々が来る。
そのときには本当に「逢う約束」が出来るのかも解からない、「また次にね」が言えなくなる。
なにげない「またね」が言える幸せが消える、その予兆が怖い、悔しい、切ない。
本当はこのまま、遠くに浚ってしまえたらいいのに?
いつも、ずっと、そう想ってきた。
けれどそれは出来ない、それも解かり過ぎている。
だってこの人は気高いとしっている、誇り高い男として父親の真実を見据えるために、今、ここにいるのだから。
この今は初任総合、終われば夏の本配属が来る。
この今は毎日を隣で暮らせる時間、けれどもう1週間が過ぎてしまった。
この今が「またね」をなにげなく言える、最後の時になるかもしれない?その可能性を誰も否定できない。
けれど、お互いこの想いは言わない、この今の「またね」が言える幸せを曇らせたくないから。
だから今も笑っていたい。そう微笑んだ想いに、周太は幸せに笑いかけてくれた。
「ね、英二、来週は川崎に帰ってきて?夏みかん採るから、手伝って、」
―…和室の炉は、古いものだったよね?取り外されたような形跡が無ければ、たぶん掘り出していないと思う
光一と話し合った推理の確認、そのため帰りたいと考えていた。
いま周太から申し出てくれた、このタイミングの良さに胸元の合鍵へと心うち微笑んだ。
「うん、来週は帰るよ。土曜日の朝は青梅署にちょっと戻るけど、夜には川崎に帰る。だから日曜に手伝っても良い?」
こんなにタイミングが良い、だから馨が味方してくれている。きっと運命すらも。
そっと幸運に笑いかけながら、家に帰れる時間へのシンプルな幸福感が温かい。
帰ってきてと、言ってもらえて嬉しいな?
そう笑いかけた英二に、布団の陰に唇も片方の瞳も隠したまま周太は笑ってくれた。
「ん、それならいいよ?…もう光一に無理なちょっかい出さないでね?」
「はい、しません。だから周太、キスさせて?」
もう、涙は止まったかな?
頃合に見つめた先で、布団抱いた手をゆるめてくれる。
これは許してくれるシグナル、応じて英二は長い指を布団にかけおろした。
「愛してる、俺の未来の花嫁さん、」
祈りの言葉にきれいな笑顔咲かせて、婚約者の唇に優しい温もりのキスふれた。
やさしい唇から、そっとオレンジの香と幸せが口移される。
これは周太がよく口に入れている「蜂蜜オレンジのど飴」の香。
―…これやる、待っているから
卒業配置先に向かう朝、この飴を自分の口に放り込んでくれた。
そして8個残った飴を周太は、パッケージごと英二の掌に載せてくれた。
あれから自分で買い足して、いつも持っている。
遭難救助の現場で、高峰で、この飴を口にしてきた。時には救助者に光一にも、この飴を分けてきた。
そのたびに愛する面影を想いだして、励まされて、いつも心は穏やかに凪いだ。
この香に幾度も慰められ生きてきた、その幸福が今、切ない。

6時過ぎ、英二は中庭の流し場で蛇口をひねった。
勢いよく流れ落ちる水に朝陽きらめく、そこへ潔く頭を差し出した。
ざあっ、さああ…
水音が耳もと零れていく。
冷たい水が脳髄を醒まさせ、ゆるんだ心が締められだす。
口許からも水が入りこむ、そして零れだす時にはオレンジが香った。
「キスの香だ…」
あまい香の記憶が幸せで嬉しい、そんな自分に呆れと幸福と半分ずつ微笑んだ。
昨夜も今朝も考えごとに神経が高ぶっている、こんな高揚感は少し危ない。
そのうえ無意識の誘惑がくれる肩透しと幸福感が、ちょっと熱すぎた。
愛してる、俺の未来の花嫁さん。
そう告げて布団から顕わした唇にキスふれて、幸せを口づけに交わした。
口移されたオレンジの香に切なくて幸せで、泣きたい想いに微笑んで。
そっと離れ見つめ合って。そして黒目がちの瞳が、綺麗に微笑んだ。
「愛してる、英二。未来のはなむこさん?」
そう言ってくれた笑顔が、あんまりきれいで見惚れた。
きれいで見惚れて幸せで、ぼんやりしたまま抱きしめて、またベッドに倒れ込んだ。
そうしてつい長い指の手は、小柄な体の白いシャツの裾を掴んでを捲りかけた。
「だめっ、えいじ!」
ぴしゃり言って、同時に手も叩かれた。
きちんと叱ってもらって我に返って、これはダメだと今、ここにいる。
やっぱり自分は水でも被らないと「まとも」じゃない、だから文字通り素直に、この頭を冷やしている。
さああっ…ざぁ…
水が髪から頬伝い、冷たい肌感覚が意識を冷やしてくれる。
水重りが額から頬から雫になって墜ちていく、濡れた髪が重くなり頭はクリアになる。
そうしていつものように、明確に冴えた感覚が充たされた。
「よし、」
冷たい水流のなか微笑んで、蛇口を閉めた。
本当は普段どおり頭から全身に水を被りたい、けれど警察学校寮では浴室は自由に使えない。
それでも頭だけなら此処で水を被れる、お蔭でストイックも冷静も戻ってくれた。
―あのままだったら、本当に困ったことになったろうな?
すっきりした意識で自分に笑ってしまう。
自分に声無く笑いながら、手にしたタオルで首筋から拭いあげていく。
そして頭を上げようとした横顔に視線がふれた。
こんな時間に誰だ?
瞳だけ動かしタオルの翳から見た先から、仏頂面が歩いてくる。
そういえば昨夜の当直はこの人だったな?
でも何故ここに来たのだろう?
ひとつ疑問を考えながらも英二は、自分の担当教官に笑いかけ頭を下げた。
「おはようございます、」
「うむ、おはよう、」
無愛想な挨拶が英二の前に佇んだ。
相変わらず翳りの渋い眼差しが動くと、じろりと英二の頭を見遣った。
「宮田、おまえは何をやっている?」
やっぱりその質問からなんだ?
我ながら可笑しくて困りながら、英二は正直に答えた。
「水を被っていました、いつも朝はこうするので、」
「毎日か?何のために、」
ぶすりとした声、けれど微かな驚きがある。
この人が驚くほど変でおかしいかな?思いながらも素直に頷いた。
「はい、気持を締めたいからです、」
髪からこぼれた雫が頬つたう。
タオルで拭った向こう、ほのかに遠野教官が微笑んだ。
「…ふん、後藤さんが仰っていた通り、か」
後藤副隊長は、何を言ってくれたのだろうな?
敬愛する上司の俤に微笑んだ英二を、かすかに笑んだ目が見つめている。
その目が物言いたげに見える、何かを自分に訊くつもりで来たのだろうか?
何を訊かれるだろう?すこし予想を考え始めたとき、渋い声が低く尋ねた。
「宮田、『Fantome』の意味が解かるか?」
心裡、息を呑んだ。
―どうして?
どうして、その単語を遠野教官が、自分に訊く?
この単語を英二に訊く、それは「何に関わる」のか気付いているからだろう。
けれど、なぜ遠野教官が『Fantome』を知っている?
なぜ「何に関わる」のかに気付いた?
その理由と意図を知りたい。
この単語を今、ここで言った、その理由を知りたい。
この単語を自分に問いかけるため、自分を探しに来た。そんな確信が浮かび上がる。
なぜ今、ここに自分を探してまで、聴きに来た?
いま頭脳を廻っていく考えに透徹な判断力が目覚めだす、この今すべき行動はなんだ?
その判断に英二の唇が、静かに開かれた。
「その言葉を、どこで知ったんですか?」
冷静な声が自分の口から質問者に問いかける。その声に、ふっとオレンジが香った。
(to be continued)
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