萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第86話 建巳 act.40 another,side story「陽はまた昇る」

2024-12-06 22:43:00 | 陽はまた昇るanother,side story
And this green pastoral landscape, were to me 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.40 another,side story「陽はまた昇る」

研究室の窓、ここも花が咲く。

「へえ、小嶌さんも丹治先生の講義とるんだ?ほい、」

朗々、低いくせ徹る声がマグカップ差しだす。
くゆらす芳香にっこり、ありがとうございますと女学生が笑った。

「はい、手塚くんがおもしろいって教えてくれて。田嶋先生も講義とられていたそうですね?」
「とってたぞ、30年以上前だけどな?」

からり答える教授がテキスト携える、その節くれた指は日焼けまばゆい。
本当に学者というより山ヤさんだな?想いに周太は口ひらいた。

「あの、田嶋先生が学生の時は丹治先生、講義を持たれて何年目でいらしたのですか?」

やっぱり訊いてみたい、当時のこと。
知りたい願いの真ん中で、父の旧友は笑ってくれた。

「俺の時が初年度だったぞ、だから馨さんも俺と一緒に講義とってたよ、」

ああ、だから、僕にも勧めてくれた?
得心ことん肚ひとつ、温まりだす隣が尋ねた。

「ってことは当時って、1年2年の共通で丹治先生してたってことですか?」
「あのころも自由選択で学年問わなかったと思うぞ、手塚の時もそうだろ?」

答えながら大きな手、紅茶のマグカップ並べてくれる。
この手に父の手は繋がれていた、その遠い慕わしい歳月にソプラノが訊いた。

「田嶋先生と周太くんのお父さま、学年がひとつ違っていたの?」

あ、この話まだしていなかったかな?
うっかりに困りながら頷いた。

「ん、父が一年先輩、」
「そうなのね、学年違っても仲良しなの素敵ね、」

大きな瞳ぱちり瞬いて、ふわり笑ってくれる。
この澄んだ真直ぐな眼が好きだ。
そして想ってしまう、違いすぎて。

『まっすぐで明るい目線、小嶌さんもそういう眼するだろ?』

記憶の底、低いきれいな声が笑ってくる。
でも本当は笑っていなかった、あなたは。

『一緒にいて周太がどれだけ楽しいのかわかるよ、』

きれいな低い声が笑いかける、切長い瞳が僕に微笑んだ、きれいに。
けれど笑っていなかった、あなたは。

―もう英二は本音を言ってくれない、ずっと…どうして?

どうして?
訊きたかった、あなたの本音。
でもあの時は、ただ聴くときなのかもしれないと口を閉ざしたのは自分。
けれど僕は、何を聴けたというのだろう?

「あの、田嶋先生、」

ほら口が開く、ここでは。
自由なまま周太は問いかけた。

「田嶋先生と父は、ふたりで話すとき、幸せでしたか?」

きっと答えは解っている、だって父の笑顔いつも幸せだった。
いつも旧友を想うあの笑顔、あのままに文学者も笑った。

「もちろんだ、馨より幸せな話し相手は俺にいねえぞ?」

ほら、鳶色の瞳が笑ってくれる。
あのとき父も同じ眼をしていた、懐かしい慕わしい想い微笑んだ。

「はい…ありがとうございます、」
「こっちこそありがとうだ、」

応えてくれる声、低いクセまっすぐ澄む。
この声に父は幸せだった、その響き今もこの研究室に温かい。

―ここで幸せだったんだ、お父さんは本当に…お祖父さんとお祖母さんもきっと、

ここは30年少し前、祖父の研究室だった。
ここで祖父は祖母と出逢い、生まれた父はこの学者と出逢った。
そうして紡がれてある今この春、自分はどうだろう?

僕の幸せな話し相手は、誰?

「あれっ、先生?周太のオヤジさんのが奥さんより幸せってことで、いいんですか?」

ほら明るい闊達な声が笑う、いぶし銀フレームの眼鏡に眼が明るい。
明朗な眼が笑う先、鳶色の瞳にやり微笑んだ。

「俺と馨の仲は奥さん公認だ、ほかの誰に聴いてもいいぞ?」

隠しごとなんて無い、そんな瞳が闊達に笑ってくれる。
この眼差しに父は幸せだった。

「田嶋先生、あのっ、」

ほら僕の口がひらく、伝えたい。
願いの真ん中で鳶色の瞳が笑っている、その温もりに微笑んだ。

「父は幸せです、先生がいてくださるから、」

幸せだ父は、こんなふうに想われて。
いつも本音で話して笑ってくれる友、その存在どれほど父を温める?

「おう、俺も幸せだぞ。馨さんがいるから幸せなんだ、」

ほら?鳶色の瞳ほがらかに笑う、幸せに。
この眼差しに父は生きていく、きっと、ずっと。

“But thy eternal summer shall not fade, “
けれど貴方という永遠の夏は色褪せない

あの詩あの一節を父に贈ってくれた人、その瞳に今も父が映る。
そして父もあの詩を謳っていた、今もここに生きる瞳を見つめて。

『夏みたいな人だね、』

あの夏の庭に父が笑ってくれる。
父の笑顔そのまま声になる、だって伝えたい。

「田嶋先生、父は先生のこと夏みたいな人だって笑っていました、」

懐かしい慕わしい声なぞる、あの幸せな夏の声。
あの夏の庭に幸せだった瞬間、そのままに鳶色の瞳まばゆく笑った。

「学生のころも馨さん言ってたよ。暑苦しくてすぐ駆けだすから、夏の大風みたいだってさ?」

“Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate.“

『うんと明るくて、ちょっと暑苦しいくらい情熱的でね、木蔭の風みたいに優しくて清々しい、大らかな山の男、』

慕わしい夏の庭、あのとき父に幸福が輝いた。

「先生のことを話してくれるとき、父は本当に幸せそうでした、」

ほら僕の声にあふれだす、あの父の幸せな笑顔。
あの切長い瞳あかるく澄んで、夏空に笑って遠い懐かしい貌を見つめていた。

「夏の朝でした、家の庭で父はシェイクスピアの詩を教えてくれたんです。先生が父の論集の扉に選んでくれた、あの詩です、」

声あふれて、目の前で鳶色の瞳ゆるやかに光る。
あの詩、それだけで繋がれる想いへ微笑んだ。

「あの詩を謳って父は空に笑ったんです、父の大切なひとは夏みたいだって…きっと田嶋先生の貌を見て笑ったんです、すごく幸せそうに、」

あの夏の庭、父はこの学者を想った。
あの幸せな瞳を見つめて、伝えたかった言葉が声になる。

「父は言ったんです、恋愛より深い気持がある相手への手紙みたいな詩だって。そして父の大切なひとは、夏みたいなひとだって笑ったんです、」

父が紡いだ言葉たち、伝えてあげたかった。
伝えて父の想い叶えてあげたい、ただ願うまんなかで鳶色の瞳ゆるやかに光こぼれだす。

「周太くん、馨は…俺のこと大切だって?」

ずっと父を探してくれたひと、想い続けてくれるひと。
その瞳から光あふれだす、きっとずっと泣きたかった瞳に肯いた。

「父はありがとうって笑ったんです、父の時間を幸せに生きさせたのは田嶋先生だから、」

父の幸せ、それは、あなただ。

「俺こそだよ、馨がいるから幸せなんだ今も、」

鳶色の瞳あふれる涙、聲こぼれて歳月が澄む。
こうして父の想い伝えて泣かせてあげたかった、このひとも、父も。

『友達よりも近くて大切だね、いろんな気持があるから、』

あの夏に父の声はずんだ、笑顔まばゆかった夏の空。
そうして伝えられた春の研究室、隣ぐすり鼻すすった。

「…っ、だから俺こういうの弱いんだって…っ」

小麦色の手がティッシュ箱つかんで、いぶし銀フレームの眼鏡を外す。
どこまでも素直な泣き顔に周太は笑いかけた。

「ありがとう賢弥、一緒に今ここにいてくれて、」
「ううっ…こっちこそいさせてくれてありがと、」

顔ティッシュぐしぐし拭きながら、闊達な眼が笑ってくれる。
明日は目もと赤いかもしれない?そんな心配の逆隣から小さな手がのびた。

「っ…ティッシュわたしにもちょうだい、」

可愛い鼻声が見あげてくれる。
やっぱり泣いてくれる実直な瞳きれいで、周太は腕を伸ばした。

「みよさん、あの、」

言いかけて、ぽん、温もりひとつ抱きついてくれる。
ふわり香ひとつ、清しい甘さそっと抱きしめた。

「…ありがとしゅうたく…だいじなこといっしょに」

ふるえる背中は小さくて、けれど温かい。
か細い肩やわらかに泣いて、優しい逞しい心にほどかれる。

「ぼくこそ…泣いてくれてありがとう、」

想いこぼれる唇、抱きしめる香あまく温かい。
そして幸せで、だから想ってしまう違いすぎて。

『ケンカするって周太、本音で話をしようって意味で言ってる?』

昨日、冷えてゆく桜の道、あなたの声。
きれいに低く徹って、けれど見つめてくれる瞳は翳おちこんだ。
けれど今こんなに温かい、窓の桜あかるく光ゆらせて今、抱きしめている髪に光る。

「俺もだよ、周太くん…ありがとう、」

桜の光ゆれる机むこう、鳶色の瞳が微笑む。
この学者のように、あの夏の父のように、僕は笑えるだろうか?
あなたを想うとき、僕は。

『だからごめんな?男同士で恋愛とかさ、巻きこんで悪かったな?』

あなたはそう言った、つい昨日のことだ。
きれいに笑って、切長い瞳きれいに微笑んで、きれいな低い声で。
そうして本音なんか見せてくれない、そして残酷なまま響いている、今も。

―本音で話してくれないことが残酷なんだ、僕は、

本音で話してほしい、どんな想いも現実も。
そんなふうに作られたもの見せられて、どうして幸せを見つけられるだろう?
それが僕を庇うためだったなら、なおさら残酷だ。
だって警察官になったのは、父の本音を探すためだったのに?

『湯原の父さん、かっこいいな、』

そう言って笑ってくれた、あの言葉はあなたの本音だった。
あんなふう本音から笑ってくれたのは、最後いつだったろう。
もう思いだせないほど今、あなたが遠い。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet 18」 より抜粋】

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斗貴子の手紙
師走十一日、白薔薇―honorable
この小説の更新は一年ぶりでした、忙しい一年だったんだなーと我ながらびっくり。笑
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第86話 建巳 act.39 another,side story「陽はまた昇る」

2023-12-11 21:59:05 | 陽はまた昇るanother,side story
That after many wanderings 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.39 another,side story「陽はまた昇る」

桜ひとひら、風くるり陽が透ける。
もう高くなる陽ざし鐘が鳴って、友だちが笑った。

「ほら周太、やっぱり小嶌さん馴染みまくってんよ、」

明朗な声からり、キャンパスの扉を指し示す。
日焼けした指先むこう笑顔たち初々しい、その一人に周太も微笑んだ。

「ん、初々しいね…どの学生さんも、」
「新入生だもんな、」

答えてくれる横顔はチタンフレームの底、快活な瞳が笑っている。
まだ22歳、それでも眼差しどこか老成した友人が言った。

「ウチの大学は浪人生もフツーに多いから新入生に見えないヤツも多いけどさ、なあ?小嶌さんフツーに現役生っぽいよな?」

闊達な声の先、スプリングコート薄紅色ひるがえす。
黒髪さらさら薔薇色の頬あかるくて、楽しそうで微笑んだ。

「ん…楽しそうだね、美代さん」

良かった、幸せそうで。
想い微笑んで、けれど隣が言った。

「あれ?なにナニあいつ?」

言われた先、スーツの背中が彼女を遮る。
茶色い髪、けれど不慣れなスーツ新入生な背のむこう、薄紅色のコートが戸惑う。

「あれ、周太アレ、あいつ小嶌さんのことナンパしてない?」

隣から肩ぽんぽん叩かれる、闊達な声どこか警戒にじむ。
叩いてくる掌に声に、ごとり、鼓動うなってローファー前に出た。

「あ?…周太?」

友だちの声どこか遠く歩きだす、ほら、ソールかつかつ響きだす。
歩いてしまうスラックスの脚さばいて、唇が開いた。

「みよさーんっ!」

呼んでしまう声、僕の声だ?
呼びかけた名前の真中で、明るい瞳まっすぐ自分を見た。

「しゅうたくん…!」

ほら、呼んでくれる瞳ほがらかに笑う。
薄紅色のコートくるり翻って、駆けだす笑顔に駆け寄った。

「美代さん、オリエンテーションおつかれさま?」

笑いかけて手を伸ばして、抱えている冊子たち引き受ける。
素直に渡してくれる笑顔はいつもどおり、きれいな明るい瞳に自分を映した。

「ありがとう、周太くんも初出勤おつかれさまです。足は大丈夫?」

澄んだ声ほがらかに訊いてくれる。
その言葉にローファーの右足首そっと回して見せた。

「ん、今日はもう痛み無いんだ。美代さんは引っ越し落ち着いた?」
「うん、田嶋先生の娘さんたちが手伝ってくれてね、すごく安心できたの、」

答えてくれる声やわらかに弾む。
きっと楽しい引っ越しだった、そんな笑顔に友だちが笑った。

「オツカレ小嶌さん、このあと予定なにか新しくできた?」

ごとり、
鼓動うなる重くなる、けれど可愛い声が微笑んだ。

「二人とごはんの約束なのに、どうしてそんなこと言うの?二人に話したいこといっぱいあるのに、」

ほら、やっぱり彼女はそうだ。
鼓動ふわり明るんで、ほっと息ひとつ笑いかけた。

「僕も話したいこといっぱいあるよ…行こう美代さん、」

どうして賢弥ってばそんなこと言うのだろう?
心裡すこし棘が立つようで、けれど薔薇色やわらかな笑顔が訊いてくれた。

「ん、お昼どこ行こうね?」
「オリエンテーションはこれで終わりだよね?学食でも外でも行けるね、」

笑いかけて歩きだす道、薄紅の花びら舞っている。
抱えたテキストの重みたち弾む、そんな背後から聞こえた。

「―彼氏いるんだ、かわいいもんなあー」
「―追いかけて受験したとかー」

知らない声たちさざめく、けれど隣の女の子いつもの笑顔だ。
いつもと変わらない明るい瞳はきれいで、つい見つめた隣から言われた。

「なあ、周太が小嶌さんの彼氏って噂してんぞ?」

ぐっ、

テキスト抱きしめて、ほら耳もう熱い。
こんなこと言葉にされたら気恥ずかしくて、口ひらいた。

「けんや…そういうのてれるから」

聞こえていた、けれど言われたら気恥ずかしい。
つい睨んでしまう想いにソプラノ朗らかに笑った。

「受験勉強の後だもの、そういうのよけいに楽しいみたいね?オリエンテーションの休み時間もそんな感じだったもの、」

明るい声いつものまま大らかに澄んで笑う。
変わらない笑顔ほっと和んで、嬉しくて周太も微笑んだ。

「オリエンテーション楽しかったみたいだね?」
「うん、楽しかった。新しい世界が開けていく感じしたの、話したい事たくさんよ?」

答えてくれるソプラノ朗らかに明るい。
ここから始まる時間たち明るんで、見つめる想い笑いかけた。

「僕も話したい事たくさんあるよ、聴講する講義のこととか…祖母の友だちの方に会えたんだ、」

祖母の友人だった学者に会えた、それを話したい。
そんな想いに実感する、ここは祖父母が出会った場所、そして父が通った学舎。
この大学で自分の家族たちは生きていた。

「おばあさまのお友だちに?この大学の先生ってこと?」

訊いてくれる瞳くるり大きくなる。
驚いた、そんな貌に友だちが言った。

「俺も驚いたけど、考えたらあることだよな?当時ここの学生だった女性はかなりのエリートだろ、」
「あ…そう、だね?」

頷いた口の中ほろ苦く甘く香る。
祖母の友人がくれたチョコレート、その物語くゆりだす。

『教授と女学生、秘密の恋は罪みたいな時代だったのよ。』

語ってくれる声は明るかった。
誇らしく微笑んだ学者の瞳、あの笑顔も変わらないままだろうか?

『君が生きる時代は女の子たちも大学に行きますか。』

ほら、祖母の手紙を思いだす。
まだ見ぬ孫へ想い綴ってくれた、僕宛ての手紙。
……
君が生きる時代は女の子たちも大学に行きますか。
私の時代は女が四年制大学に行くことは珍しくて、合格も難しいと思われていました。
それでも私は大学へ行きました、君のお祖父さんと逢いたくて日本でいちばん難しい大学を受験したの。
病気がちで大学なんて無謀だとお医者さまにも叱られました、でも短い命ならばこそ夢を見に行きたいとお願いしたの。
……
ここで学んだ女性が僕に話した、この場所への想い。
それは未来へ綴った願いで、繋げたかった彼女の夢の祈りだ。

―おばあさん、今、僕の隣を女の子が歩いているよ?

心裡そっと答えて、薄紅の花くるり舞う。
きっと祖母が笑っている、そんな想い歩くキャンパスの頭上、桜ひるがえる空は明るい。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】

第86話 建巳act.38← →第86話 建巳act.40
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第86話 建巳 act.38 another,side story「陽はまた昇る」

2023-02-08 22:00:00 | 陽はまた昇るanother,side story
That after many wanderings 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.38 another,side story「陽はまた昇る」

憧れで、恩人で、大好きな友だち。

そんなふうに祖母を想ってくれるひと。
そうして今、淹れてくれた茶の香ふわり清々しくて周太は微笑んだ。

「ありがとうございます…祖母のことそんなふう仰ってくれて、嬉しいです、」

うれしい、こんなにも。
だって自分は祖母を知らない、ずっと昔、生まれる遥か前に亡くなったから。
それでも今こうして向きあうテーブル、研究室の窓辺に学者は朗らかに笑った。

「こっちこそよ、斗貴子さんのお孫さんだなんて。しかも私の講義を受けてくれるんでしょう?どうしよう、嬉しい、」

メゾソプラノ朗らかな目もと、皺やわらかに滴が光る。
ほら?こんなふう悼んでくれる、僕の家族のこと今も。

―僕にも家族がいるんだ、ほんとうに…ここで生きて、

父は亡くなった、もうじき十五年になる。
父は祖父母の話をしなかった、母も知らされないまま嫁いで今がある。
それでも知ることができる幸せに、ただ嬉しくて笑いかけた。

「ありがとうございます、祖母のこと話してくださって、」
「私こそ話したいのよ。講義だけじゃなくって、斗貴子さんのこと聴いてね?」

微笑んで、鼈甲フレームごし真直ぐ見つめてくれる。
大きな瞳ふわり明るんで、ことん、オレンジ色の箱ひとつテーブルに開けた。

「シュウタくんはチョコレート好きかしら、意外とお煎茶にも合うのよ?」

ほろ甘い香ふわり、研究室やわらげる。
やさしい甘い空気の底、隣の友だちが笑った。

「ソレって晄子先生の秘蔵のチョコじゃないですか、待遇違いすぎません?」
「あたりまえでしょ、大切な友だちのお孫さんよ?」

からり言い返して銀髪のショートカットゆらす。
どこまでも朗らかな祖母の旧友に微笑んだ。

「どうかお気遣いなさらないでください、急に押し掛けたのに申し訳ありません、」

祖母の友人だなんて知らなかった。
けれどあの教授は?気がついた疑問にメゾソプラノ軽やかに笑った。

「シュウタくんこそ遠慮しないで?サプライズさせたのは田嶋君なんだし、それもまた喜んでる私なのよ?」

どうぞ召しあがれと、チョコレートの箱こちらに押してくれる。
艶やかな甘い香やわらかで、優しい仕草に笑いかけた。

「ありがとうございます、あの、僕もです…びっくりした分も嬉しくて、」
「でしょ?こういうの、ほんと田嶋君だわ、」

鼈甲フレームの瞳くるり笑って、ぽん、チョコレート口に運ぶ。
さあどうぞ?そんな視線に隣は遠慮なく手を伸ばした。

「うまっ、やっぱミツコ先生の出してくれるモンはうまいですね、」
「美味しいのしか出しませんよ、だからシュウタくんも安心して召しあがれ?」

甘い香やわらかに笑いかけてくれる。
その眼差し優しく率直で、周太も素直にひとつ摘まんだ。

「いただきます、」
「はい、どうぞ?」

勧めてくれる笑顔に、ひとつぶ口にして芳香ほどける。
豊かな甘さにかすかな苦み、ほっと息吐いて微笑んだ。

「おいしいです…なんだかほっとします、」
「でしょ?私も昔から好きなの、」

眼鏡ごし大きな瞳くるり笑ってくれる。
祖母の友人なら七十も半ば位だろう、そのくせ瑞々しい声が言った。

「これね、斗貴子さんのお気に入りだったチョコレートなのよ。パリの老舗のお菓子屋さん、」

ほら?祖母はここで生きている。

「祖母が…パリの、」

声こぼれてチョコレートが香る。
深い甘い馥郁ほろ苦い、この香なつかしくて似ている。
とても知っているようで、たどる記憶に老婦人はきれいに笑った。

「そう、パリのチョコレート。パリ大学出張のお土産って頂いたのがキッカケで、斗貴子さんは好きになったんですってよ?」

パリ大学出張のお土産、そう言って祖母に贈ったのは?
告げられた言葉たちに口ひらいた。

「あの、祖父が祖母にってことですか?」
「そうよ、湯原教授は粋なダンディでいらしたのね。とても真面目でお堅い方でもあったのだけど、」

メゾソプラノ朗らかに答えてくれる。
ほら?面影たち近くなる、知れる嬉しさに笑いかけた。

「祖父のプレゼントなんですね、」
「だから私もナイショで教えてもらったのよ、でもシュウタくんには良いじゃない?もう時効だし、」

くるり大きな瞳すずやかに笑って、湯呑に笑っている。
朗らかな笑顔、けれど言われた言葉に問いかけた。

「あの、時効ってどういう意味ですか?」

時効、すこし前は身近だった言葉。
つい訊き返した先で老婦人は軽やかに告げた。

「教授と女学生、秘密の恋は罪みたいな時代だったのよ、」

秘密の恋は、罪。

「…、」

ほら言葉が出ない、鼓動が軋む。
それは祖父母のことだからだけじゃない、噛まれる想いに友だちが言った。

「どの恋が罪とか、誰が決められるんでしょうね?」

明朗な声いつもどおり徹る。
明るいクセどこか深い、そんな声に女学者が微笑んだ。

「湯原教授と斗貴子さんの恋は、私には恩恵よ。こんな素敵な学生さんに逢わせてくれたんだもの、チョコレートにもね?」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】

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第86話 建巳 act.37 another,side story「陽はまた昇る」

2022-12-16 00:40:13 | 陽はまた昇るanother,side story
That after many wanderings 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.37 another,side story「陽はまた昇る」

窓明るむ青、薄紅かぐわしい。
ほら花が舞う、すこし開いたガラス通ってしのびこむ。

「お、桜の花びら?」
「…ん、」

友だちの言葉に肯いて、目の前ふわり花が舞う。
つい伸ばした掌ひとひら降りて、廊下のかたすみ立ちどまった。

「ここ、きれいに見えるんだよ。毎年さ、」

朗らかな声が教えてくれる、自分が知らなかった時間のことだ。
まだ去年の春は知らなかった場所で、周太はそっと微笑んだ。

「よかった、毎年ちゃんと咲いてて…」

立ちどまった窓の桜たち、ひとつは古木でひとつは若い。
窓すぐ伸ばされた梢は大らかな繊細ひろやかで、あわい薄紅ふさふさ華やがす。
その隣まだ朱い芽吹きの若木は樹齢30年ほど、花ひらくのは半月より後だろう。

「あのさ、周太?違ったらアレなんだけど…」

隣が口ひらいて、けれど言いよどむ。
なんだろう?珍しい友人の貌ちょっと見て、気づいて笑いかけた。

「もしかして賢弥、この桜を誰が植えたか気づいたの?」

問いかけて、ほら、チタンフレームの底の眼すこし泣きそう?
この聡明な学友なら辿りつくだろうな、納得の隣は口ひらいた。

「きのう周太が言ってくれたろ、僕たちが植えるなら何の木がいいと思う?って。それでさ…田嶋先生もこの桜よく眺めてるな、思って、」

気づいてくれる、この友人は。

『ウチの大学も文科の学生は学徒出陣してるだろ?その桜も文学部の学生だったらしいよ、』

昨日そんなふう賢弥は話してくれた、あの時に自分が言ったこと。
それから恩師の姿も思いだしたのだろう、たどってくれた想いに微笑んだ。

「祖父が植えたから、田嶋先生と父も植えたんだって…僕も昨日、田嶋先生に教えてもらったんだ、」

祖父が植えた染井吉野、父と恩師が植えた山桜。
この桜ふたつに想ってしまう、ずっと昔と、今と、そして昨日のこと。
この隣に今いてくれて、昨日も共にこの桜を見て、こんなふうに父も祖父もその時を生きたろうか?
そして祖母も、この学舎で。

「だからね、賢弥?僕、今、幸せなんだ、」

ほら?想い声になる、だって今日もまた会えた。
この友人と昨日も、そして今日も、この場所で。

「友だちと一緒にね、この桜を見られて幸せなんだ。昨日も、今日も、僕にとっては、」

こんなの当たりまえかもしれない、でも自分には当たり前じゃなかった。
それでも今ここから先は日常になって、いつか、当たりまえに想えたら?
それこそが、幸せなのかもしれない。

「俺も幸せだよ、周太と見られてさ、」

ほら?笑ってくれる、チタンフレームの眼が快活ほころぶ。
こんなふう率直なことは珍しいだろう、だからこそ安堵できる学友に笑いかけた。

「ありがと、賢弥、」

ありがとう、こんな自分を受けとめてくれて?
もう何もかも話して、それでも隣で笑ってくれる。こんなこと多分きっと得難い。
ただ感謝ほころぶ桜の窓辺、朝おだやかな廊下のかたすみ友だちが笑った。

「こっちこそありがと、ってさ?こういうの照れずに言える周太って、やっぱすげえや、」

ぱっと笑う日焼けの頬、かすかに赤らんで明るい。
照れてしまうものなんだ?こんなことも違っている自分また気恥ずかしくて、掌の花びら手帳にしまった。

「…はやくいこ?」
「おう、お待たせしちゃマズイな、」

つぶやいて歩きだして、すぐ隣も歩きだす。
ふたり並んでゆく廊下の風、かすかな甘い渋い香に古書が匂う。
ここも研究室ごと蔵書が多いのだろうな?そんな今の時間が嬉しくて、そして軋む。

『こうやって見つめると周太、前はなんか逃げるみたいな、迷うような眼をしたんだよ。でも今は違うんだな?』

昨日、あの公苑あのベンチ、あのひとが言ったこと。
その通りだと今歩く廊下に分かる、だって今こんなに楽しい。
それだけに軋む、あのひとだけ見つめていた時間が遠くて、愛しくて、遠すぎる。

「ここだよ、周太、」

ほら、呼んでくれる声こんなに明るい。
この場所で生きていく今に肯いて、目の前の扉ひとつ周太はノックした。

「はーい、どうぞ?」

やわらかで明るい声が応えてくれる。
思ったより若い声だな?少し驚いた隣、友だちが扉を開いた。

「おはよーございます丹治先生、おひさしぶりです!」

快活な声が開いた扉、ふわり甘い渋い香くゆる。
なつかしい古書の匂いたち、その向こう銀髪のショートカット振りむいた。

「まあ、手塚君じゃない。ホントおひさしぶりね、今日はどうしたの?」
「はい、田嶋先生のお使いできました、」

笑って友だちが応えながら、背中そっと押してくれる。
そっと呼吸ひとつ、踏み出して周太は頭を下げた。

「田嶋先生のご紹介で参りました、丹治先生のご講義を受けさせて頂きたくてお伺い致しました」

下げた視界、ローファーの爪先が光る。
スラックスの脇そえた手、袖はシャツとニット柔らかい。
こんな服装から今、新しい想いにメゾソプラノやわらかに笑った。

「あらまあ、田嶋君の紹介にしては真面目な学生さんねえ。そんな硬くならないでいいのよ、どうぞ?」

言われるまま背を押されて、研究室の扉をくぐる。
窓辺のデスク勧められて、座った前に湯呑そっと置かれた。

「ミツコ先生って呼んでね、丹治ってナンカ硬いでしょ?さ、お茶ひとくち飲んで寛いで、」

くるり大きな瞳が笑って、目元やわらかな皺が優しい。
親しみやすそうなひとだな?安堵ひとくち茶を啜ると、隣から友達が笑った。

「あいかわらず美味いですね、ミツコ先生のお茶、」
「手塚君もあいかわらず大らかねえ、お友達くんは優しい繊細な雰囲気だけど、お名前なんておっしゃるの?」

大きな瞳が瞬いて、胸に提げた眼鏡をかける。
まっすぐ見つめられるまま迂闊に気がついて、周太は背を正し頭下げた。

「申し遅れて失礼いたしました、今日から田嶋先生の秘書を勤めます、湯原と申します。」

先に用件だけ告げて名乗っていなかった、こんな迂闊が気恥ずかしい。
もう耳もと熱くなる前、眼鏡ごし大きな瞳ゆっくり瞬いた。

「田嶋君のとこで、湯原って…斗貴子さんのお孫さんなの?この大学の学生だった、」

祖母のことを知っている?
問われた言葉ゆっくり瞬いて、周太は肯いた。

「はい、湯原斗貴子は僕の祖母です。仏文の学生でした、」

ありのまま答えて、かたん、目の前の学者が身を乗り出す。
鼈甲フレームやわらかな底、大きな瞳ゆっくり瞬いた。

「まあ…眼がよく似てるわ、黒目が大きくて、澄みきってて…」

真直ぐ見つめてくれる眼、ゆるやかな光にじみだす。
はたり、一滴こぼれた光滴って、老婦人の笑顔ほころんだ。

「うれしいわ…あなたに逢えるなんて。お名前、なんて仰るの?」

うれしい、そう告げて訊いてくれる。
もしかして祖母のこと教えてもらえるだろうか?鼓動ふくらんで口ひらいた。

「湯原周太です、あの、祖母のことご存知なのですか?」
「ええ、大好きなひとだもの、」

即答ふわり、声やわらかに笑ってくれる。
その見つめてくれる大きな瞳、目元やさしい皺がほころんだ。

「憧れで、恩人で、大好きな友だちよ。斗貴子さんがいてくれたから今、私はここにいるの、」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】

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第86話 建巳 act.36 another,side story「陽はまた昇る」

2022-12-08 23:15:00 | 陽はまた昇るanother,side story
That after many wanderings 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.36 another,side story「陽はまた昇る」

周太いますか?

そんなふう呼んでもらえる、友だちに。
ここ大学の研究室で、同じ夢追うパートナーが笑ってくれる。

「はーい、いるよ。おはよう賢弥、」

応えて呼びかけて、鼓動そっと温かい。
温もり嬉しくて、笑いかけた書架むこうシャツ姿あらわれた。

「おはよー周太、田嶋先生もおはようございます、」

明朗な声ぱっと徹って、日焼けの笑顔ほころばす。
チタンフレームの眼鏡ちょっと直す友人に、学者が言った。

「おはようさん、手塚も早く来たなあ、」
「周太の初出勤ですからね、それにもう小嶌さんの大事な日でしょ?な、周太?」

明るい眼ざし笑いかけて、デスク向こうから教授もこちら見る。
この友だちにも「大事な日」なんだな?うれしくて周太も微笑んだ。

「ん、美代さん初登校だね、」

あの大好きな女の子が今日、この大学の門を潜る。
ここの学生としての初めてのことに、教授も笑ってくれた。

「そうか、今日はオリエンテーションだもんな?」
「だから出迎えようって思って早く来たんですよ、ってソレうまそうですね、」

話しながら、がたり椅子ひいて座ってくれる。
そんな隣に微笑んだ。

「スコン焼いてきたんだ、父がよく作ってくれたお菓子で…よかったら食べて?」

こんなの、どんな反応してくれるだろう?
ひそむ不安と信頼の横で、快活な眼ぱっと笑った。

「周太が作ったんだ?こーゆーの作れるとかカッコイイなあ、」

かっこいい、なんて言ってくれるんだ?
思ってもみなかった言葉に、熱すっと首すじ駆けた。

「ありがと…あの、やるきになればだれでもつくれると思うけど、」
「俺でもできっかなあ、いただきまーす、」

うまいと闊達な笑顔ほころばせてくれる、その前ことん、マグカップひとつ置かれた。

「ほら手塚、茶を飲まんと詰まるぞ?」
「やった先生の紅茶、ありがとうございます、」

屈託なく笑って置かれたカップに手を伸ばす。
熱い芳香ゆるやかなテーブル、バターの匂いと古書あわい香やわらかい。

―ほっとする…ね、

心裡つぶやいて、今いる場所が温かい。
祖父が遺した研究室、あたたかな紅茶と菓子の匂い、友人と、そして祖父の愛弟子で父の親友。
ながれてゆく他愛ない会話たち、こんな時間ただ幸せで不思議になる。

―あの雪山の現場ついこのあいだで、死も覚悟して…英二と、

雪山の立て籠もり事件、あの現場で自分は銃を持っていた。
発砲すれば雪崩に吞まれる、そんなこと解っていながら放りこまれて、そして、あなたが一緒だった。

『死ぬな!』

あの瞬間あなたが叫んでくれた、あれは僕のための祈りの言葉。
あのとき包んでくれた体温が僕を生かして、そうして今ここで僕は笑っている。

―英二…今、訓練してるの?それとも任務で山にいる?

心そっと呼んでしまう、あなたの温度に。
今ここは温かで穏やかで、それでも雪山の温度たどって昨日が映る。

『俺も聴きたいよ、周太…これからのこと、』

あの公苑のベンチ、桜のなか言ってくれた。
おだやかな低い声はきれいで、薄闇のなか透って響いた。
それから次の約束してくれた、あさってはあなたに逢える、けれど。

「…おーい、周太っ、」

ぽん、肩かろやかに叩かれて視界またたく。
映りこんだ湯気やわらかな芳香、マグカップ掌に温かで微笑んだ。

「なに、賢弥?」
「なにって周太、ボンヤリしてっから先生と心配したんだって。どした?」

チタンフレームの眼鏡から、明朗な瞳まっすぐ自分を映してくれる。
友人に心配かけてしまったな、申し訳なさと幸せに笑いかけた。

「ごめんね、すこし…緊張してるから、かも?」

緊張している、嘘じゃない。
ほっと息吐いて口つけたマグカップごし、学者が笑ってくれた。

「大学の職員としては初日だもんなあ、聴講生と仕事じゃあヤッパリ違うかい?」

鳶色の瞳ほがらかに自分を見てくれる、優しい温かい、すこし懐かしむような眼。
その眼差しどこか父と似ていて、知らない幸福の時間に笑いかけた。

「はい…講義のお手伝いをすると思うと責任を感じます、学生さんにもどう接したらいいのかなとか…いろいろ、」

もとが引込み思案の自分、そのうえ父が亡くなって殻に籠っていた。
そのまま警察官になって「普通」が何かも解らない、そして「あさって」に緊張している。
こんな自分が学びの場で役立つのだろうか?織り交ざる不安と期待に教授は笑ってくれた。

「そのまんまの周太くんでいいさ、だから俺も雇ったんだろが?ありのままでいいよ、」

低いクセ朗らかな声が笑って、温かな湯気ごし鳶色の瞳が笑いかける。
なにひとつ否定なんかしない、そのままでいい。そんな姿に周太も笑った。

「ありがとうございます、僕、がんばります、」
「応援してるぞ、だが頑張りすぎるなよ?ヤリすぎて倒れちまったら困るだろ、楽しんでやってくれりゃいい、」

芳香ゆるやかな湯気、笑いかけてくれる言葉ごと温かい。
ほっと肩の力ゆるめられて息つけて、「あさって」すら明るむようで微笑んだ。

「はい、楽しみます…頂いたチャンスを大切にします、」

大切にしたい、この場所の時間ずっと。
こうして辿りついた今が嬉しくて、だからこそ逢いたくなる話したい。

―英二、僕ね、あさって楽しい話ができるかもしれない…でも、

あなたに楽しい話きっとできる、でも。
続いてしまう言葉そっと疼きだす、ずっと抱えこんだ事実が傷む。
ついこのあいだ、あなたが奥多摩の森で告げたから。

『手帳の染み抜きをしたんだ』

手帳、父の遺品あの「警察手帳」のこと。
特別な許可で遺品として渡されたもの、それを自分は母に託して、けれど、あなたが持っていた。
その事実が、そして告げられた言葉が、逃げられない現実を軋ませてしまう。
それでも温かな湯気そっと啜りこんで、スコンのかけら呑みこみ口ひらいた。

「田嶋先生、先ほどお話しくださった万葉集の講義ですが、」

話しかけのままだった、あの続きもう少し聴きたい。
これからの時間についてのことに、学者の眼が笑ってくれた。

「おう、その話が途中だったな、」
「はい、ご担当される丹治先生はこの大学のご出身と仰られて、」

話すデスクの上、広げられたシラバスにその名を見る。
非常勤教授と記された「丹治晄子」に隣から友達が言った。

「お、ミツコ先生の講義?それオモシロいよ、」
「みつこせんせい?」

訊き返しながら隣を見て、チタンフレームの瞳が朗らかに肯く。
その日焼けした指とん、シラバスのページ示して続けた。

「俺、1年生の時にとったんだよ。ただ歌の意味ずらずらじゃなくってな、科学的分析みたいのが面白いんだよ、」

紅茶とバター香るテーブル、シラバスに講義内容が語られる。
たしかに面白そうだな?惹かれるまま教授が笑った。

「手塚もとったのか、おまえだとホントはアレな解釈が面白かったんだろ?」

鳶色の瞳くるり笑っている。
その眼なんだか意味ありげ?不思議でつい見つめる隣、友人もにっこり笑った。

「そりゃ俺も男ですからね、田嶋先生もそうだったんでしょ?」
「まあな。女子でも面白い言う学生もいるがな、」
「そんなこと言っちゃう女子がこの大学にいるんだ、ってなんで先生が知ってるんです?」

ふたり笑いあう、その眼なんだか意味ありげ。
そういう意味なのだろう?解らないまま教授が言った。

「時間あるなら手塚、周太くんを丹治先生に紹介してやってくれんか?今日いらしているはずだ、」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】

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第86話 建巳 act.35 another,side story「陽はまた昇る」

2022-01-05 23:59:01 | 陽はまた昇るanother,side story
That after many wanderings 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.35 another,side story「陽はまた昇る」

ひとこと、学者は笑った。

「なつかしいな、」

ほろ苦い甘い馥郁の底、バター匂いやかに芳しい。
くゆらす湯気と香の窓辺、研究室の主は周太を見た。

「馨もたまに食わせてくれたんだ。つい俺はヒトの分まで食っちまってなあ、よく怒られたもんだよ?」

甘い香に鳶色の瞳が笑う、この眼差し父を映していた。
知らない時間はるかなデスクの隅、ただ知りたくて尋ねた。

「あの、父も研究室にスコンを持ってきたんですか?」

菓子作りを教えてくれたのは父だ。
その時間かけら知りたい真中で、鳶色の瞳ほころんだ。

「おう、よく持ってきてたぞ。湯原教授がお好きだからってさ、しょっちゅう茶請けに出たもんだ、」

祖父の愛弟子が語ってくれる、その時間そっと琴線ゆらす。
祖父と父が愛した焼菓子たち、そこにあった温度たどらせ尋ねた。

「あの…男が菓子を作るのって、変に思われませんでしたか?」

父が菓子を作って大学に持参した。
その過去ただ知りたい願いに、文学者は目を瞬いた。

「変って、馨が菓子を作ってたことをかい?」

なんでそんなこと訊くんだい?
そんなふう見つめてくれる眼に、考えのまま口ひらいた。

「祖父は学徒出陣をした世代ですよね、それなら男子厨房に入らずがふつうだったと思うんです。だから…父のお菓子をどう思っていたのか、な…って、」

大正生まれだった祖父、その時代の常識と父は違っている。
けれど息子の手料理を好んで自分の職場に差し入れさせていた、そんな過去に学者は微笑んだ。

「馨が菓子作りを覚えたのはな、お母さんの手伝いとイギリスにいた時らしいぞ?湯原先生が喜ばんハズがねえって思うがな、」

低いくせ朗らかな声が教えてくれる。
紡がれる遠い時間たぐる湯気、おだやかなテーブルに恩師が言った。

「早速だけどな、国文の聴講生になってもらいたいんだ、」

節くれた大きな手、ぱらり冊子を広げてくれる。
真新しいページ印刷された文字、見つめるまま問いかけた。

「万葉集、ですか?」

広げられたページ、講師名と講題が見あげてくれる。
これから仏文科で研究補助をする自分、その主である教授が微笑んだ。

「万葉集はな、日本語の源流だろ?」
「はい、」

うなずいてマグカップことり、テーブルに置いて背を正す。
これから大切なことを教えてくれる、そんな眼が周太を見た。

「翻訳にはな、まず自分の母語を知ることが大事なんだよ。思考言語の原点をきちんと学ぶのは大事だと思うんだ、学者になるなら特にな?」

低いくせ響く声、明朗なトーン語りかけてくれる。
その言葉たしかで、聴き入るまま学者が言った。

「どの分野でも論文は書くだろ、思考言語の基礎が大事になる。それに万葉集は日本原産の植物がたくさん出てくるだろ?植物学の側面からも面白いと思うが、どうだろう?」

なるほど、そういう論文を書くのも良いのかもしれない?

「はい…面白いです、」

頷きながら脳裡ぱちり、思考めぐりだす。
はるか遠い時に謳われた花、木、その植生と物語に微笑んだ。

「田嶋先生、そのアイディア僕が頂いてもよろしいんですか?」
「もちろんだ。俺は専門外だが、周太くんにはフィールドだろ?」

鳶色の瞳が笑って、マグカップふわり湯気ゆれる。
芳香ゆるやかな温もりの窓、祖父の愛弟子が口ひらいた。

「この担当される丹治先生は非常勤だけどな、ウチの同窓生だよ」

“丹治晄子”

そう記された講師名、ゆるく記憶ふれる。
どこかで見たのだろうか?たどらす名前にノック響いた。

「失礼します、周太いますか?」

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】

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第86話 建巳 act.34 another,side story「陽はまた昇る」

2021-11-11 08:39:00 | 陽はまた昇るanother,side story
That after many wanderings 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.34 another,side story「陽はまた昇る」

白い光、薄紅ふくんだ花の風。

「わぁ…」

こぼれる声に花かすめて甘い、光いっぱい空の門。
細めた眼もと花ふれて掠めて、ほら?記憶ゆすられる。

『あんた、この春の新入生?』

あの日、警察学校の門であなたに出会った。
春三月の終わり2年前、父の軌跡を追うために立ったあの場所で。

―あのとき僕、いやだなって思ったな…さいしょは、

あなたの昏い眼が僕を見た、きれいで無機質な貌の深い鋭い視線。
冷たい仮面のようで、けれど瞳の深く僕に問いかけた。

“俺の答えを知っている?本当は生きる意味と誇りを、ずっと探している”

この疑問に応えられる?そんな問いかける瞳に惹きこまれた。
惹きこまれて、それよりも立ち尽くす「父の殉職」こわばる鼓動と孤独の鎧を着こんだ。
ただ真相を知りたくて、ただ渇望あがくまま頭上の花も見えないまま、父を死なせた門を見つめていた。

けれど今、この瞳いっぱい爛漫の春。

「きれい…」

白い光が舞う、この門をくぐった父の春がある。
同じキャンパスこの足が歩いてゆく、行く軌跡すこし違う道へ。

「…前を見よう」

そっと声にして、あなたの声すこし遠くする。
昨日の約束すぐ考えそう、だからこそ今一歩ごと明日を見たい。
だって今この時を生きるならきっと、あなたの眼をまっすぐ見られる。

「ん、いい天気、」

仰ぐ青空ほのぼの明るい門、キャンパスの静謐おだやかに朝陽ふる。
ここで今日から明日を見る、ただ眩しくて嬉しくて周太は門をくぐった。

“私の母校でも一緒に散歩したいわ、”

ほら?祖母の声が響く、明日を見つめた手紙の聲だ。

“大きな図書館がとても素敵なのよ?君のお祖父さんの研究室も案内したいです。”

命の限りを知りながら明日を謳う、そんな手紙を遺してくれたひと。
まだ三十歳を過ぎたばかり、けれど生きられないと知って、それでも未来を信じて僕に宛ててくれた。
そうしてキャンパスの一隅に今、彼女の未来に微笑んだ。

「ほんとうに素敵だね…ありがとう、」

声ひそやかに仰いだ空、桜ゆるやかに朝が薫る。
おだやかな清閑にレンガ造り微睡む、射しこむ光ひそやかに靴音が軽い。
昨日よりスーツの肩ずっと軽い、弾むレザーソール聞きながら窓口に着いた。

「おはようございます、フランス文学の田嶋研究室の湯原と申します。鍵をお願いできますか?」

ちょっと確認しますね、とパソコンのキー叩いてくれる。
こちらの顔と確認して、鍵ひとつ渡してくれた。

「新任の方ですね、こちらが研究室の鍵になります。受取り時刻とお名前の記入お願いします、」
「はい、ありがとうございます、」

受けとって台帳にペン走らせる。
預かった鍵すぐスーツのポケットにしまって、係員が教えてくれた。

「田嶋教授から職員証を受け取られてくださいね、解らないことがあれば内線こちらにどうぞ、」
「ありがとうございます、これからお世話になります、」

頭さげて、鍵のポケットそっと押さえて踵返す。
弾む金属の重みにソールの音、昇ってゆく階段すぐ扉に着いた。

“フランス語フランス文学研究室 田嶋教授”

仰いだ表札、昨日も見たのに真新しい。
かすかな緊張かちり鍵さしこんで、開いた扉そっと本が薫った。

ことん、ことん、

足音やわらかな静謐、かすかな渋い甘い香くゆる。
古書おだやかな空気の底、書架を通って窓のカーテン開いた。

「…きれい、」

ひそめた声に桜が咲く、祖父が植えた樹だ。
かたわら山桜の蕾ふくらむ、あと一週間くらいで咲くだろうか?
それより遅くても早くても花きっと見られる、この窓ずっと毎日に開くなら。

「…だからここに植えたの?お祖父さん、」

声こぼれた書架の隅、祖父の著書たち息づく。
並んだ背表紙の名前に微笑んで、昨日教えられたロッカーに鞄をしまい紙袋だした。

「おっ、早いなあ?」

低いくせ闊達な声が響く。
聞きなれたトーン振りむいて、まっすぐ周太は微笑んだ。

「おはようございます、田嶋先生。今日からよろしくお願い致します、」
「こっちこそだ、引き受けてくれて助かるよ?」

低く明るい声からり、鳶色の瞳ほがらかに笑ってくれる。
この眼差しが昨日この差しだしてくれた場所で、緊張すこし微笑んだ。

「こちらこそです。文学の研究も秘書も初めてですが、お役に立つよう務めます、」
「充分に務まるさ、今までしてくれてたコトの延長だからな。でも兼務の分きっちり給料はずむよ、」

大学がな?
そう言いながら手にした書類ファイル示してくれる。
白髪まじりの茶毛くしゃくしゃ掻きあげながら、研究室の主は書斎机に鞄どさり置いた。

「ほんと助かるよ?今までも秘書を置けって言われてはいたんだけどなあ、俺こんなだろ?学者センセイのイメージで来られたらさ、なあ?」

書籍と書類うずまるデスク、ワイシャツの袖まくりながら学者が笑う。
あらわれる腕は健やかな雪焼け頑健で、こんな父の旧友につい笑った。

「山ヤならイメージのままですね?」
「だろ?」

からり笑って腕のジャケットをハンガーひっかける。
朝陽おだやかなデスクの上、新たに一件の契約書をひろげた。

「これが教授秘書の契約書だ、研究員との兼務についても書いてあるから、」
「はい、ありがとうございます、」

肯いて文面よく噛みしめる。
一度また確かめ2枚それぞれサインして、押印した1枚を差しだした。

「引き受けてもらえて良かったよ、でも院の受験勉強には遠慮なく時間とれな?でないと湯原先生に顔向けできねえ、」

祖父の名前に微笑んで、鳶色の瞳が念押ししてくれる。
こういう教え子を遺してくれた、つながる温もりに笑いかけた。

「はい、勉強させて頂きます、」
「無理が無いように俺も考えるな、体調管理もシッカリ頼むぞ?」

告げてくれる眼差しは温かい。
窓ふる朝陽おだやかなデスク、書類たち広げられる。

「職員証とガイドブックな、パスワードの登録についてはコレか、」

気さくなトーン教えてくれる声、低いくせ温かに響く。
こんなふうに父とも話していたのだろうか?たどらす想いに教授が教えてくれた。

「仏文は他に常勤3人いるんだ、非常勤もかなりいる。湯原先生の教え子もいてな、また紹介するな、」
「はい、よろしくお願い致します、」

頭さげながら、鼓動ゆるく熱い。
こんな会話に現実なのだと沁みてくる、本当に今ここから始まるんだ?

“Yuhara Susumu 文学博士 湯原 晉”

並んだ背表紙、祖父の名前いくつも光る。
あの芳蹟に今もう踏みこんでしまった、名前の実感と緊張に教授が笑った。

「そんな緊張しないでいいぞ?この部屋は俺しかいないしなあ、たまーに来る学生も気楽なもんさ?」

言われて息ほっと零れる、肩ゆるくほどかれる。
解かれた緊張に父の旧友が笑った。

「周太くんの緊張する貌、ほんと馨そっくりだなあ?父と息子ってそんなもんかな、」

そっくり、は嬉しいな?
素直な想い微笑んで、持参した紙袋とりだした。

「あの、朝のお茶は召し上がられますか?ご迷惑でなければお茶請けを持ってきたのですが、」
「いいねえ、もちろん歓迎だぞ?」

からり闊達な鳶色の瞳が笑ってくれる。
その目もと朝陽ふれて、光ひとすじ眩い。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」より抜粋】

第86話 建巳act.33← →第86話 建巳act.35
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第86話 建巳 act.33 another,side story「陽はまた昇る」

2021-10-09 23:57:00 | 陽はまた昇るanother,side story
Do take a sober colouring from an eye 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.33 another,side story「陽はまた昇る」

今日、あの街にあのひとがいた。
それは偶然だろうか?

「そう、英二くんに会えたのね?」

母の瞳ゆっくり瞬いて、アルト穏やかに訊き返してくれる。
微笑んだ貌と声いつものままで、ほっと息吐いて周太も微笑んだ。

「新宿のね、あの公苑にいたら英二が来たんだ…来るかもしれないって思ったら、ね、」

微笑んだ口もと、甘い芳醇かろやかに香る。
テラスの窓くゆらす湯気、焼菓子の温もり指先ふれた。

「約束なんてしてなかったんだ、1時間も一緒にいなかったよ?でも僕、ずっと訊きたかったこと言えたんだ、」

話しながら指さき温かい、甘い香ばしい空気に息つける。
懐かしい香の温もりに、黒目がちの瞳そっと微笑んだ。

「周、ずっと訊きたいことがあったの?」
「ん、」

肯いて、さくり割ったスコンが温かい。
くゆらす香あまく優しくて、あわい金色ごし母に言った。

「英二が僕といた本音を訊きたかったんだ、正義感かもしれないって…お父さんのことあるから、」

英二、あなたの素顔は直情的で真直ぐだ。
そんな貌いくつも見た時間の涯、母の瞳ふわり笑った。

「あの公苑、桜きれいだったでしょう?」
「ん、満開には早いけど…」

訊かれて頷いて、母の瞳が笑ってくれる。
黒目がちの瞳やわらかにランプ映して、オレンジ優しい灯に微笑んだ。

「英二くん、元気そうだった?」
「よくわからない…我慢するとこあるから、」

素直に答えながら、瞳の記憶そっと軋む。
あの切長い眼いつもどおり綺麗で、けれど僕を見ていたろうか?

「また会うんでしょう?」

母が訊いてくれる声、穏やかなアルトやわらかい。
その眼ざしも明るく穏やかで、ほっと周太も微笑んだ。

「ん、しあさって…大学が終わった後にって、約束して、」

しあさって、あなたに会える?
期待と、かすかな痛み淡く甘くて、首筋そっと熱い。

―なんだか恥ずかしいな、こんなの…僕どうして、

あなたに会う、その期待が僕を支配する?
そんな自分に頬きっと赤い、ただ逆上せるまま母が微笑んだ。

「じゃあ、お母さんもゴハンしてくるね?しあさって、」
「ん…ありがとう、」

頷いて、ティーカップ口つけて温かい。
甘やかな芳香かすかな渋み、朗らかなアルトが訊いた。

「ところでね、周?加田さんの下宿のことだけど、叔母さまへのお返事どうしたいかな?」

言われた名前に現実そっと戻らせる。
大叔母が提案してくれた安全策、その提案に微笑んだ。

「ん、お母さんがいいなら…誠実な方だと思うし、」
「叔母さまも誠実な方って仰ってたわ、周も大学のこと聴けていいかもしれないものね?学部は違うけど、キャンパスは隣なのでしょう?」

朗らかな瞳やわらかに笑って、決めた返事と肯いてくれる。
その言葉に温もり優しくて、嬉しくて口ひらいた。

「あのね、大学のことなのだけど…僕、フランスにも行くかもしれないんだ、」

今日、示してもらえた一つの未来。
ただ嬉しくて声にした先、黒目がちの瞳ぱっと笑ってくれた。

「フランス?もしかして周、田嶋先生の研究室でお世話になるの?」

ほら、すぐ解って笑ってくれる。
母の笑顔ただ嬉しくて、周太は幸せに笑った。

「そう、田嶋先生の研究をお手伝いすることになってね、それでパリ大学にも行くみたいで。お給料もいただけるんだよ?」

祖父の愛弟子を手伝う、それが仕事にもなる。
きっと喜んでくれるだろうな?楽しい予想そのまま母が笑った。

「あら、お金をいただいて勉強できるのね?最高じゃない、」

最高、なんて言ってくれるんだな?
その言葉に笑顔に嬉しくて、嬉しいまま笑いかけた。

「お母さんもそう思う?」
「もちろん、周もそれで承諾してきたんでしょう?」

アルト弾んで笑ってくれる。
先を聴かせて?そんな眼ざしに今日、ちょっと誇らしく笑いかけた。

「あのね、契約書もきちんと下さったんだ、」
「すごいね、どんなの?」

見せて見せて?促してくれる瞳に立ちあがって、台所の鞄を開く。
書類一通とりだして、戻ったテラスのテーブルに差しだした。

「きちんとしてるのね、拝見します、」

微笑んで母の手が封筒ひらいて、黒目がちの瞳すっと奔らせる。
その貌いつもと少し違って、つい見つめた。

―お仕事の貌なのかな…ちょっと、かっこいいね?

いつも穏やかで明るくて、優しい笑顔で寛がせてくれる。
けれど今すこしシャープで怜悧な眼は、こちら見てすぐ微笑んだ。

「田嶋先生とのお仕事は楽しそうね、大学院はどうするの?」

訊いてくれる瞳と言葉、僕の未来を尋ねてくれる。
それがただ幸せで、けれど少しの迷いと微笑んだ。

「青木先生の研究室を受験するつもりなんだけど…」
「田嶋先生にも誘われてるんでしょう?」

すぐ問いかけてくれる、ほら?お見通しなんだ。
いつもながら聡明な視線に、ありのまま肯いた。

「ん…お祖父さんとお父さんの分もって、思ってくださるみたいで、」

あの闊達な文学者が言ってくれたこと。
それが嬉しかった想いのまま、母も笑ってくれた。

「よかったね、周?」
「ん、ありがとう、」

肯いて笑いかけて、母の瞳ほがらかに弾んでくれる。
ふたり紅茶とスコン囲んだテーブル、弾んだアルトが笑った。

「今夜はちょっと乾杯しようね、周?」

乾杯しようね、
祝ってくれる言葉と笑顔が温かい、だから僕も肯ける。
たぶんきっと、警察官を辞めたことは、学問の世界を選んだことは僕の未来だ。

だからこそ考える、
あなたと僕の時間には、未来があるのだろうか?

『あの公苑、桜きれいだったでしょう?』

桜きれいだったでしょう?
そんなふう訊いてくれる想い、きっと多分、それは父と母の時間たち。
その時間たち短すぎて、けれど優しくて温かで穏やかで、そして輝いている希望と未来と、永遠その先。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」より抜粋】

第86話 建巳act.32← →第86話 建巳act.34
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第86話 建巳 act.32 another,side story「陽はまた昇る」

2021-10-07 23:52:00 | 陽はまた昇るanother,side story
Do take a sober colouring from an eye 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.32 another,side story「陽はまた昇る」

あまい香ばしい、空気が満ちる。

「ん…いい匂い、」

オーブンくゆらす香が温かい。
懐かしくて優しくて、ほっと息吐いて玄関が鳴った。

「あ、」

鍵ひらく音、軽やかなパンプスが鳴る。
そして気がついた時計に瞬いて、台所の扉が開いた。

「ただいま周、すごく素敵な匂いね?」

優しいアルト微笑んで、黒髪ゆるく波うつ。
気づかなかったなんて?迂闊に気恥ずかしく微笑んだ。

「おかえりなさい、お母さん…出迎えなくてごめんね?」
「鍵ちゃんと持ってるから大丈夫よ、」

黒目がちの瞳が微笑んで、ストール畳みながら見回してくれる。
すぐオーブンに気がついて、白い頬ふわり笑ってくれた。

「スコン焼いたのね、外まで良い匂いしてたわよ、」
「ん、ちょうど焼きあがったとこ、」

答えながらダイニングの椅子、掛けたままのジャケットに気恥ずかしい。
すぐ傍の鞄もそのまま母が見て、けれど朗らかに笑ってくれた。

「せっかく焼き立てだもの、お茶にしましょっか?ごはん前だけど、たまにはいいわよね、」

微笑んで、白い手がジャケット脱いで椅子に掛ける。
ショルダーバッグも書類鞄も傍ら下ろして、ブラウスの袖まくりした。

「周、ちょっと手を洗わせて?」

シンクの蛇口ひねって洗いだす、こんなこと普段しないのに?
けれど伝わる意図に、そっと周太は微笑んだ。

「ありがとう…お母さん、」

同じことしてくれた、今の僕と。
その寄り添う温もりに、黒目がちの瞳くるり笑った。

「こちらこそよ、素敵なスコンありがとうね。甘いもの食べたかったのよ、」
「よかった…でも急いで作ったから、」

答えながらティーポットの湯をきって、新しい缶をひらく。
かちり開いた蓋ふわり、ほろ甘い渋い芳香に母が笑った。

「あら、新しい紅茶ね?」
「ん、帰りに買ってきたんだ…」

話しながら手もと動かして、さらさら湯を注ぐ。
くゆらす馥郁やわらかに寛いで、琥珀色の温もり微笑んだ。

「テラスで食べよっか、運ぶわね、」

ブラウスにスラックス姿で母が笑う。
トレイ運んでふたり、窓辺の席に寛いだ。

「きれいな焼き色、あいかわらず上手ね。ん、おいしい!」

笑ってくれる口もと、一口さくり、唇ほころばす。
黒目がちの瞳きらきら明るんで、嬉しくて微笑んだ。

「よかった…ひさしぶりに作ったから、」

本当に久しぶりだ、菓子を焼くなんて。
こんなの女の子みたいかもしれない?でも、僕はこうしたかった。

―これも僕なんだもの、ね?

急にお菓子つくって、お茶を淹れて。
こんなこと男らしくないかもしれない、それでも僕は好きだ。

「ん、」

さくり一口、温もり甘く芳醇ほどけて沁みる。
こんなふう甘いものが好きだ、作るのも食べるのも、食べてもらうことも。

「あまいものって幸せね、夜は特においしいのよね、」

朗らかなアルト笑ってくれる、黒目がちの瞳くるり弾む。
なんだか悪戯っ子みたいだ?こんな母が楽しくて笑った。

「ん、おいしくて良かった、」
「本当においしいわ、でも毎日やったら太るわね?」

それでも幸せかな?そんな呟きと明るい瞳ほころぶ。
こんな貌を見るのが好きで、それは多分きっと、父も同じだった。

―お父さんと一緒に作ったもの、いつも…いつも、楽しくて、

幼い日、穏やかな笑顔と芳醇あまやかな香。
あの時間が大好きだった、だから父の死に自分は時を止めていた。
それでも今、ありのまま口つけるカップは温かで、かすかに渋い甘い馥郁やわらかい。

「…おいしいね、」

ただ素直に息ついて、唇そっと花が香る。
きっと朝より咲きだしたろう、そんな窓に微笑んだ。

「桜、咲いたね…」

声こぼれた窓、硝子やわらかに花が映る。
月かすかな梢あわく白い、きっと朝には薄紅そまる。
もう桜が咲いた、あの苑池でも咲いた、そうして父の命日が訪れる。

「お母さん…今日、英二にあったんだ、」

今日、父の命日が近い。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」より抜粋】

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第86話 建巳 act.31 another,side story「陽はまた昇る」

2021-10-05 21:54:16 | 陽はまた昇るanother,side story
Do take a sober colouring from an eye 
kenshi―周太24歳4月


第86話 建巳 act.31 another,side story「陽はまた昇る」

道、こんなに短かったろうか?
こんなにも静かで。

ことん、ことん、

レザーソール鳴らす音、それが鼓動そっと重ならす。
並んで歩く肩が高い、でも記憶より遠くないまま残照まばゆい。
そして沈黙やわらかに重たい。

―何を考えてるのかな英二、今…こんなに黙って、

よく話す、ずっとそう思ってきた。
あなたは沈黙すら穏やかに饒舌で、それが居心地いいと思ってしまった。
そうして重ねた時間に歩いた道を今、あのころと同じに並んで歩いて、けれど違う痛みが疼く。

―そうか…僕を見ていない、ね?

ずきり、鼓動ふかく絞められる。
今こんなに近くにいて、けれど思考ふかく沈みこむ。
そんな横顔は残照あざやかに眩しくて、ほろ苦い甘い香そっと僕の頬ふれる。
あなたの匂いだ。

「着いたな、」

あなたの声つぶやいて、レザーソールの靴音が止まる。
オレンジ色あざやかに染まる駅、コンコースの一隅で声そっと押しだした。

「英二…僕は昨日、退職届を出したんだ、」

告げた先、切長い瞳かすかに瞠ってくれる。
これだけは今言いたい、そんな願いに訊いてくれた。

「周太が自分で、出しに行ったのか?」
「そうだよ、」

肯いて見あげる真中、あなたが僕を見る。
かすかな咎めるような眼、いわゆる「保護者」の視線かもしれない。
だからこそ今どうしても伝えたくて、願いごと唇ひらいた。

「英二、僕はもう警察を辞めたよ?ただの僕になったんだ、」

もう警察官じゃない。
その事実と見つめる真中、切長い瞳おだやかに微笑んだ。

「うん、周太は周太だ、」

きれいな低い声が呼んでくれる。
それは、ただ「僕」としてだろうか?想い見つめて問いかけた。

「だから英二、正義感で僕を護ろうとしなくて、もういいんだよ?」

あなたに護られる、それだけの存在なら僕は嫌だ。
だって僕は知っている、あなただって一人の弱くて儚い人間だ。

「どういう意味だ、周太?」

ほら訊いてくれる、その綺麗な瞳まっすぐ僕を見て。
まっすぐ強くて鋭くて、そして、子どものような儚い傲慢と正義感。

“正義感”

それは多分きっと、あなたには最も重たく大きい。
そして多分あの男と似ていると、あなたは気づいているだろうか?

「僕と一緒にいる理由のことだよ、英二?」

答えて見あげる先、端整な目もと微かに朱い。
寝不足なのだろうか、疲れが溜まっている?心配で、それでも声を押しだした。

「正義感とれんあいかんじょう…どちらの為に、僕といてくれたの?」

ずきり、痛い。
まだ治りきらない右足首の傷、さっきまで痛くなかったのに?
それとも鼓動だろうか、痛み一つ見つめる真中で端整な口もと動いた。

「しゅうた…どういう意味だ?」

さっきと同じ言葉、きれいな低い声、でも震えている。
気づいたことも無かったのだろう?そんな途惑いに、そっと微笑んだ。

「よく考えてみて、でも、ちゃんと睡眠はとってね、」

告げた喉ふかく痛い、熱い。
なぜ痛いのだろう熱いのだろう、ああ目の奥もう熱い。

「…しあさってに、またね、」

微笑んでゆっくり瞬いて、あなたの貌もう一度見る。
切長い瞳すこし朱くて、きれいで、見つめて深呼吸そっと踵返した。

「…っ、」

ずきり、右足首が痛む。
それでも改札さらり通って、階段からホームすぐ列車に乗った。

ガタン、

動きだす車窓、もたれた扉に街がきらめく。
残照まばゆい新宿の時間、あの夕映えに一瞬前、あなたと立っていた。

「…英二、」

痛い、どうしても。
雪山の傷痕、まだ熱いままで。



玄関扉、そっと桜が香る。
もう山桜が咲きだすのだろうか、すこし早い、けれど懐かしい香にスリッパ履いた。

かたん、

燈るライト、オレンジ色やわらかに照らしてくれる。
温かな光の廊下まっすぐ、台所で周太はスーツの上着を脱いだ。

「…お行儀悪いけど、ね?」

ひとりごとネクタイ抜いて、衿元ボタン一つ開けてシンクに立つ。
袖まくりして蛇口ふれて、水やわらかに両手ほっと息吐いた。

「は…」

ため息ひとつ口も濯いで、拭ってエプロン身に着ける。
こんなこと父なら、お小言ひとつ笑ってくれる?

『周?外から帰ったら手洗い、うがい、洗面所でしてから着替えるんだよ?』

懐かしい声そっとなぞって、脱いだままのジャケットすこし後ろめたい。
けれど今はこうしたくて、オーブンの余熱スイッチ点火した。

※校正中
(to be continued)
【引用詩文:William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」より抜粋】

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