秘密、鎖された軌跡、
第38話 氷霧act.1―side story「陽はまた昇る」
零下の奥多摩は冷厳な透明に充ちている。
冷たい風に頬さらしながら自転車を走らせて、英二は駐在所わきに止めた。
とめた自転車に施錠すると、荷台のボックスから出した袋を下げて英二は入口扉を開いた。
「おかえり、宮田。湯を沸かしてるよ、コーヒー淹れてね」
救助隊服姿の国村が、愉しげに笑って迎えてくれる。
袋を給湯室に置きながら英二は微笑んだ。
「ただいま国村。ちょうど良かったよ、差入貰ったんだ」
「おまえ、また貰ってきたんだ?今日はどこでだよ、」
「御岳山の旅館だよ、温泉が良いって国村も言ってたとこ」
話しながら英二は更衣室の扉を開いた。
ロッカーにザックをしまって活動服に着替え始めると、国村も隣で活動服に着替えだした。
「ふうん、おまえと一緒に勤務だとさ、茶うけが色々あってイイよね。今日は何かな、」
「柚子餅を作ったから、って持たせてくれたよ。いつも、申し訳ないよな、」
すばやく着替え終わると、靴は登山靴のままで英二は給湯室に立った。
今日は寒さに凍結した道も多く巡回で見かけている、だから靴は替えていない。
同じように国村も靴は替えずに表のパソコンデスクに座りこんだ。
登山計画書をチェックしながらキーボードを器用に叩いて、データ入力を進めてくれる。
コーヒーを淹れ終わる頃には、国村は手許の分は処理を終えてしまった。
「さて、これで一通り終わったよ。自主訓練はさ、のんびり出来るね?」
からり笑って国村は給湯室の袋を下げて、奥の休憩室へと上がりこんだ。
さっさと袋から箱を出すと1つ口に放り込んで国村は口を動かした。
「うん、旨いね。あそこの奥さんもさ、こういうの上手いよな」
「そうだな。はい、熱いよ?」
「ありがと、宮田」
マグカップを渡しながら英二も腰をおろした。
コーヒーを啜りこんで一息つくと、また国村は菓子を白い指に掴んでいる。
もう巡回で朝食は消化してしまったらしいな?英二も1つ手にとりながら微笑んだ。
「国村、腹減ったんだ?」
「まあね、山を走って巡回したからさ。コーヒー旨いね、でも周太のアレは旨かったな、」
「サイフォンのコーヒー?」
「そ、」
北岳から国村も一緒に川崎の家に帰ったとき、周太はサイフォンでコーヒーを淹れてくれた。
それが国村はすっかり気に入ったらしい。あれ以来、コーヒーを飲むたびに同じ台詞を言っている。
そして英二自身、自分でコーヒーを淹れるたびに懐かしくなってしまう。
今度の金曜に帰ったら淹れてくれると周太は言っていたな?
そんな約束に微笑んだ英二に、テノールの声が言った。
「コーヒーも旨かったけどさ、茶は驚いたな。ほとんど全部、周太が自分で仕度したらしいね?」
「うん、そうだってね。国村、なにか訊いたんだ?」
柚子餅を口に入れながら訊いた英二を、笑って細い目が見遣ってくる。
マグカップからコーヒーを啜ると、国村は口を開いた。
「昨夜の電話で、ちょっとね。でさ、周太の茶はね、曾じいさまが元々やっていたらしい。これはね、ヒントだよ、宮田?」
「ヒント?」
短く訊きかえしてから英二はひとくちコーヒーを啜りこんだ。
すぐに気がついて、底抜けに明るい目を見て英二は答えた。
「周太の曾祖父さんが、どんな人だったか調べる手懸り、ってことか」
「正解、」
満足げに細い目が笑んで、菓子に手を伸ばした。
柚子の香たつ餅菓子を眺めながら、国村は口を開いた。
「昨日、訊いたんだけどさ。点法をするときは馬乗袴を必ず穿く、って言っていた。
馬乗袴は武家茶らしい特徴だよ。宮田も聴いた通りに、周太の茶は武家茶だ。ほら、歩き方も直角だったろ?」
「そういえば、そうだったな?」
周太は茶の席では足なりに歩くことをせず、必ず直角に曲がって歩いている。
茶の湯のことを英二はあまり知らないけれど、武家茶だという雰囲気に合うなと思った。
もしかして国村はそうなのだろうか?気がついたままを英二は訊いてみた。
「あのとき国村、茶席は久しぶりとか言っていたよな?おまえ、茶道やってるんだ、」
「俺んちも旧家だろ?付合いとかあってさ、ばあちゃんから、茶は一通りは仕込まれたよ。だから違いが目に付きやすいんだ」
なんでもない顔で答えると国村は菓子を口に放り込んだ。
きちんと餅菓子を噛んでコーヒーと飲みこむと、テノールの声が話し始めた。
「布を周太、捌いていたろ?あれ、帛紗っていうんだけどね。あれの腰への着け方や捌き方が、他の流派と違うんだ。
あと茶碗を拭いていた小さい布。あれは茶巾っていうんだけどさ、この捌き方も特徴的だった。道具もさ、雅で端正な雰囲気だったろ?」
茶道について英二はほとんど知らない。
けれど国村の言う通り「雅で端正」は英二も感じた。頷きながら英二は訊いてみた。
「料理も綺麗だったな、周太、懐石も自分で仕度していたけど。あれも、お父さんから全部教わった、って言っていた。
茶菓子で出してくれた、夏みかんの砂糖漬もそうだよな。曾おじいさんから代々、引き継いでいる、そう言っていたけど。
俺、茶道はよく知らないんだけどさ?茶菓子や懐石まで、代々自分で仕度する家、って、そんなにあるもんじゃないんだろ?」
「その通りだよ、宮田。だから、ヒントなんだ」
底抜けに明るい目が満足げに笑っている。
コーヒーを啜りながら国村は教えてくれた。
「あのとき、茶を点ててくれた茶碗。あわい朱色がかったヤツ、覚えてる?」
「うん、夜明けの空みたいな、きれいな色だったな」
「あれ、萩焼っていうんだ。でさ、細かい罅割れみたいのが表面にあっただろ?あれ、『貫入』っていうんだよね」
「貫入?」
初めて聞く言葉に英二は短く訊きかえした。
いま放り込んだ菓子に口動かしながら国村は頷いて、飲みこんだ。
「そ。あれがね、使い込むと『七化け』って言ってさ。茶や酒が浸み込んで、器の色が適当に変化するんだよ。
でさ、あのとき出してくれた器ってね、その七化けが長い年月でなったカンジだったんだ。で、昨日、訊いてみたんだけど」
マグカップに口をつけて国村はひとくち啜りこんだ。
ほっと一息つくと、テノールの声は言葉を続けた。
「やっぱり『古萩』だってさ。これってね、宮田?江戸時代より前に造られたモノなんだ、ようするに、お宝ってことだ」
「そんなに価値が?」
きれいで雰囲気がある茶碗だとは英二も思っていた。
そんなに高価な物でも周太は、大切に扱っても衒うことなく無造作に茶を点てている。
だから意外だった、すこし驚いている英二に国村も頷いた。
「うん、だよ?でもね、周太は遣い馴染んでいる雰囲気だったろ。ああいうのってさ、ほんとに生まれ育ちが良いからだ」
「確かに、周太って箸の持ち方とかも、きれいだな、」
初めて一緒に外食したラーメン屋でも思ったことだった。
あのときは周太の母の躾が良いからだと思った。けれど言われてみれば、周太の端正には古風な雰囲気がある。
納得して頷いた英二に、一緒に頷きながら国村は続けた。
「だろ?で、宝の様な茶道具を持っていて、代々受け継ぐ自家製の茶菓子がある。
家元でも無いのに、こういう家は珍しいよ。でさ、あの茶菓子をよく作る地域があるんじゃないかな?
もし地域の特定が出来たらさ。その土地で代々、あの流派の茶を楽しむ『湯原』姓を探せば、縁戚かもしれない。
そうするとさ、周太の曾じいさまのルーツと、その周辺の事情も幾らか分かるだろ?だからヒントになると思う。」
茶道具、家伝の茶菓子と点法の流派。
茶席から得たヒントを国村は並べてみせてくれる。
きっと英二だけでは、茶道の事は解からなくて気づけなかっただろう。
あの席に一緒に座れて良かった、幸運に微笑んで英二は頷いた。
「うん、そのヒントは助かるよ。俺もね、曾祖父さんのこと調べたくてさ。
それで戸籍を辿ることも考えたんだ。たぶん分家したから、過去帳にも曾祖父さんからしか書いていないんだ。
でも戸籍で曾祖父さんの出身地と兄弟を調べられる。そうやって戸籍から、親戚を探すことも出来るとは思ったんだ」
「ふん、戸籍か?…そっか、宮田って法学部の出身だったよな、」
底抜けに明るい目が、感心したように英二を見てくれる。
けれど英二はすこし苦笑に微笑んだ。
「そうだよ。でも、100年前に分家した人間を覚えている可能性は低いだろ?
それに、周太なら本人の資格で戸籍の取得も出来るけれど、俺には出来ない。あとは弁護士や司法書士に頼むしかない」
「そっか、専門家の協力が必要になるんだね。そこまでは今は、難しいな?」
残念そうに首傾げながら国村は、最後の柚子餅を口に放り込んだ。
英二もコーヒーの最後のひとくちを飲みこんで、国村に笑いかけた。
「でも、国村が茶道のこと気づいてくれた。そのヒントなら、調べられそうだな?」
「まあね?でも出身地が解かると調べやすいよな、ホントはさ。それでもね、手駒はあるほうが良い。だろ?」
すこし困ったよう笑って国村は首をひとつ回した。
空になったマグカップを下げながら、英二は給湯室で微笑んだ。
「そうだな、集められる手駒を集めるしかないよ。曾祖父さんの事情が、お父さんに直接関わるかは解からない。
でも、お父さんの人生について周太が知るためにはさ。関わることは、小さな事も全て調べるしかない。どれも『謎』が多すぎるから、」
記録として遺されたのは、紺青色の日記帳しかない。
あとは、幾つかの「謎」ばかりが遺されている。
この謎を数えながらカップを洗う英二に、テノールの声が笑いかけた。
「周太の家から帰ってくるとき、『謎』について話してくれたな?
まず、おやじさんは英文学者になるはずが警察官になっていること。
もうひとつの書斎部屋の存在と存在しない書斎机、それから『Le Fantome de l'Opera』の切りとられたページの意味、」
話しながら国村は休憩室を立つと、パソコンの前に座りこんだ。
webに接続すると辞書サイトを呼び出していく、そこに「Fantome」と入れて、ポンと検索キーを押した。
「宮田。この意味をさ、おやじさんなら、どう考えると思う?」
すこし低めたテノールの問いかけに、英二は手の水けを拭いた。
活動服の袖を直しながら国村の横に立つと、英二は画面をのぞきこんだ。
Fantome:化物
Le vaisseu fantome:さまよえるオランダ人
La Fantome de la liberte:自由の幻想
「…自由の幻想、」
この言葉の意味が、あの日記帳を読んだ心に痛い。
日記帳のいちばん新しいページに書かれていた、湯原馨の想いが重なっていく。
重なりゆく言葉と想いの交錯を見つめながら、感じたままに解釈を答えた。
「化物、は…お父さんにとって『自分』だ。さまよえる、これはたぶん『任務』だと思う。それから『自由の幻想は』…」
パソコンデスクの前から、底抜けに明るい目が英二を見あげている。
その明るい純粋無垢な目を見つめ返して、英二は穏やかに微笑んだ。
「きっと『幻想』はね、英文学者として成功していたはずの、お父さんの姿。じゃないかな、」
あの紺青色の日記帳は20年分を記すことが出来る。
その最初の頁に記されたのは、大学入学の春に寄せた英文学者としての夢と誇り。
そして最後のページに記されていた、馨の真実の想いは?
先に読んでしまった哀しみの記録と感じた事に、ゆっくり1つ瞬いて英二は口を開いた。
「自分、任務、それから自由への幻想。どの言葉もね、お父さんの最後の日記に書かれている言葉なんだ、」
「…それって、亡くなる前夜に書いた、ってことか?」
真直ぐに細い目が英二を見つめてくる。
真摯な視線に微笑んで英二は事実のままに頷いた。
「うん。事件の前日に書かれた日記だ。そして、それはね?あの日記帳の最後から1日前のページなんだ」
『この日記帳は一冊が5年分、それを4冊だから20年分を君は記すことが出来る。
ここに綴る20年が君にとって英文学にとって、あかるい希望と幸福に充ちたものであるように。
20年が綴り終るころ君は39歳を迎える、きっと学者として自分の道を確立した頃だろう。
その実りある日が必ず来ること私は信じ、祈っている。
君と英文学の豊かな20年間とその先の20年後を予祝して、私はこの20年分の日記帳を君に贈りたい』
いちばん最初のページに記された、馨の父である周太の祖父の言葉。
ここに記された「20年後の予祝」と、日記帳の最後の1ページに寄せられた想い。
この最初のページを川崎から戻った日、英二は勤務後に寮の自室で国村に読ませている。
だから国村には「最後から1日前のページ」の意味が解る、この理解に細い目が瞠かれた。
「…おやじさんが亡くなった日は、英文学者として身を立てたはずの当日、だったのか」
ほんとうは英文学者として生きるはずだった。
英文学者の卵として大学の入学式を迎えた日、息子を想い父は20年後の誇らかな日を祈った。
その20年後の日は、英文学者として生きる道を確立し、誇らかな道に笑っているべき日だった。
その日に訪れてしまった現実の残酷な哀しみに英二は微笑んだ。
「そうだよ。だからね…最期に書かれた日記にはね、夢が『幻想』になった絶望が、書かれているんだ」
微笑んだ切長い目から、涙ひとつ零れ落ちた。
頬伝っていく涙を感じながら英二は、心に刻まれてしまった一節に口を開いた。
「与えられた『任務』に惑わされ堕ちていく、今の自分は『化物』と変わらない。
こんな今の自分には、美しい英文学の心を伝える資格が、あるのだろうか?…きっとないだろう。
この穢れた掌は、あの美しい言葉の記された本を開くには、相応しくないのだから…私はただの幽霊、虚しい夢の残骸に過ぎない」
大学の入学式に記された夢と誇りに満ちた日記。
それに対する最後の日記は、落差があまりに悲しすぎた。
この哀しい落差を籠めた最期の一文に、哀しい笑顔を贈って英二は微笑んだ。
「『私の英文学者の夢は、美しい幻想のままに掴めない。それが20年の答え』そう、結んであった」
希望の日から20年後の、哀しい現実と落差の哀しみ。
この哀しみを告げられた光一の、純粋無垢な瞳から涙がこぼれ砕けた。
「だから、おまえ…隠しているんだな?…希望に満ちるべき日が、そんな…」
透明なテノールが泣いている。
誇らかな純粋無垢のまま国村は、生きるべき道の誇りを失った男を悼んでいる。
選んだ誇りに生きる自由を奪われていく、この哀しみは同じよう誇りに生きる人間には他人事に出来ない。
だからこそ英二も、周太の父が抱いていた絶望も哀しみも、残酷な痛みにわかってしまう。
自分と同じように哀しんでくれるアンザイレンパートナーに、微笑んで英二は頷いた。
「そうだよ。どうしても俺、読ませられないんだ、お母さんと周太には…かなしすぎるだろ?」
向かいあう2人の白い頬に温かな涙ひとつ砕けていく。
砕けた涙が伝わった唇が、テノールの声に冷静な判断を告げた。
「なあ、宮田?…絶対にさ、好き好んで、警察官になったんじゃないね?けれど、警察官になっている。
それってさ、警察官にならざるを得ない、そんな事情があったって事だよな?その事情ってヤツをね、調べてみるかな」
告げる言葉と共に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑った。
そして白い指がキーボードを軽やかに叩き出していく。
(to be continued)
blogramランキング参加中!
にほんブログ村
第38話 氷霧act.1―side story「陽はまた昇る」
零下の奥多摩は冷厳な透明に充ちている。
冷たい風に頬さらしながら自転車を走らせて、英二は駐在所わきに止めた。
とめた自転車に施錠すると、荷台のボックスから出した袋を下げて英二は入口扉を開いた。
「おかえり、宮田。湯を沸かしてるよ、コーヒー淹れてね」
救助隊服姿の国村が、愉しげに笑って迎えてくれる。
袋を給湯室に置きながら英二は微笑んだ。
「ただいま国村。ちょうど良かったよ、差入貰ったんだ」
「おまえ、また貰ってきたんだ?今日はどこでだよ、」
「御岳山の旅館だよ、温泉が良いって国村も言ってたとこ」
話しながら英二は更衣室の扉を開いた。
ロッカーにザックをしまって活動服に着替え始めると、国村も隣で活動服に着替えだした。
「ふうん、おまえと一緒に勤務だとさ、茶うけが色々あってイイよね。今日は何かな、」
「柚子餅を作ったから、って持たせてくれたよ。いつも、申し訳ないよな、」
すばやく着替え終わると、靴は登山靴のままで英二は給湯室に立った。
今日は寒さに凍結した道も多く巡回で見かけている、だから靴は替えていない。
同じように国村も靴は替えずに表のパソコンデスクに座りこんだ。
登山計画書をチェックしながらキーボードを器用に叩いて、データ入力を進めてくれる。
コーヒーを淹れ終わる頃には、国村は手許の分は処理を終えてしまった。
「さて、これで一通り終わったよ。自主訓練はさ、のんびり出来るね?」
からり笑って国村は給湯室の袋を下げて、奥の休憩室へと上がりこんだ。
さっさと袋から箱を出すと1つ口に放り込んで国村は口を動かした。
「うん、旨いね。あそこの奥さんもさ、こういうの上手いよな」
「そうだな。はい、熱いよ?」
「ありがと、宮田」
マグカップを渡しながら英二も腰をおろした。
コーヒーを啜りこんで一息つくと、また国村は菓子を白い指に掴んでいる。
もう巡回で朝食は消化してしまったらしいな?英二も1つ手にとりながら微笑んだ。
「国村、腹減ったんだ?」
「まあね、山を走って巡回したからさ。コーヒー旨いね、でも周太のアレは旨かったな、」
「サイフォンのコーヒー?」
「そ、」
北岳から国村も一緒に川崎の家に帰ったとき、周太はサイフォンでコーヒーを淹れてくれた。
それが国村はすっかり気に入ったらしい。あれ以来、コーヒーを飲むたびに同じ台詞を言っている。
そして英二自身、自分でコーヒーを淹れるたびに懐かしくなってしまう。
今度の金曜に帰ったら淹れてくれると周太は言っていたな?
そんな約束に微笑んだ英二に、テノールの声が言った。
「コーヒーも旨かったけどさ、茶は驚いたな。ほとんど全部、周太が自分で仕度したらしいね?」
「うん、そうだってね。国村、なにか訊いたんだ?」
柚子餅を口に入れながら訊いた英二を、笑って細い目が見遣ってくる。
マグカップからコーヒーを啜ると、国村は口を開いた。
「昨夜の電話で、ちょっとね。でさ、周太の茶はね、曾じいさまが元々やっていたらしい。これはね、ヒントだよ、宮田?」
「ヒント?」
短く訊きかえしてから英二はひとくちコーヒーを啜りこんだ。
すぐに気がついて、底抜けに明るい目を見て英二は答えた。
「周太の曾祖父さんが、どんな人だったか調べる手懸り、ってことか」
「正解、」
満足げに細い目が笑んで、菓子に手を伸ばした。
柚子の香たつ餅菓子を眺めながら、国村は口を開いた。
「昨日、訊いたんだけどさ。点法をするときは馬乗袴を必ず穿く、って言っていた。
馬乗袴は武家茶らしい特徴だよ。宮田も聴いた通りに、周太の茶は武家茶だ。ほら、歩き方も直角だったろ?」
「そういえば、そうだったな?」
周太は茶の席では足なりに歩くことをせず、必ず直角に曲がって歩いている。
茶の湯のことを英二はあまり知らないけれど、武家茶だという雰囲気に合うなと思った。
もしかして国村はそうなのだろうか?気がついたままを英二は訊いてみた。
「あのとき国村、茶席は久しぶりとか言っていたよな?おまえ、茶道やってるんだ、」
「俺んちも旧家だろ?付合いとかあってさ、ばあちゃんから、茶は一通りは仕込まれたよ。だから違いが目に付きやすいんだ」
なんでもない顔で答えると国村は菓子を口に放り込んだ。
きちんと餅菓子を噛んでコーヒーと飲みこむと、テノールの声が話し始めた。
「布を周太、捌いていたろ?あれ、帛紗っていうんだけどね。あれの腰への着け方や捌き方が、他の流派と違うんだ。
あと茶碗を拭いていた小さい布。あれは茶巾っていうんだけどさ、この捌き方も特徴的だった。道具もさ、雅で端正な雰囲気だったろ?」
茶道について英二はほとんど知らない。
けれど国村の言う通り「雅で端正」は英二も感じた。頷きながら英二は訊いてみた。
「料理も綺麗だったな、周太、懐石も自分で仕度していたけど。あれも、お父さんから全部教わった、って言っていた。
茶菓子で出してくれた、夏みかんの砂糖漬もそうだよな。曾おじいさんから代々、引き継いでいる、そう言っていたけど。
俺、茶道はよく知らないんだけどさ?茶菓子や懐石まで、代々自分で仕度する家、って、そんなにあるもんじゃないんだろ?」
「その通りだよ、宮田。だから、ヒントなんだ」
底抜けに明るい目が満足げに笑っている。
コーヒーを啜りながら国村は教えてくれた。
「あのとき、茶を点ててくれた茶碗。あわい朱色がかったヤツ、覚えてる?」
「うん、夜明けの空みたいな、きれいな色だったな」
「あれ、萩焼っていうんだ。でさ、細かい罅割れみたいのが表面にあっただろ?あれ、『貫入』っていうんだよね」
「貫入?」
初めて聞く言葉に英二は短く訊きかえした。
いま放り込んだ菓子に口動かしながら国村は頷いて、飲みこんだ。
「そ。あれがね、使い込むと『七化け』って言ってさ。茶や酒が浸み込んで、器の色が適当に変化するんだよ。
でさ、あのとき出してくれた器ってね、その七化けが長い年月でなったカンジだったんだ。で、昨日、訊いてみたんだけど」
マグカップに口をつけて国村はひとくち啜りこんだ。
ほっと一息つくと、テノールの声は言葉を続けた。
「やっぱり『古萩』だってさ。これってね、宮田?江戸時代より前に造られたモノなんだ、ようするに、お宝ってことだ」
「そんなに価値が?」
きれいで雰囲気がある茶碗だとは英二も思っていた。
そんなに高価な物でも周太は、大切に扱っても衒うことなく無造作に茶を点てている。
だから意外だった、すこし驚いている英二に国村も頷いた。
「うん、だよ?でもね、周太は遣い馴染んでいる雰囲気だったろ。ああいうのってさ、ほんとに生まれ育ちが良いからだ」
「確かに、周太って箸の持ち方とかも、きれいだな、」
初めて一緒に外食したラーメン屋でも思ったことだった。
あのときは周太の母の躾が良いからだと思った。けれど言われてみれば、周太の端正には古風な雰囲気がある。
納得して頷いた英二に、一緒に頷きながら国村は続けた。
「だろ?で、宝の様な茶道具を持っていて、代々受け継ぐ自家製の茶菓子がある。
家元でも無いのに、こういう家は珍しいよ。でさ、あの茶菓子をよく作る地域があるんじゃないかな?
もし地域の特定が出来たらさ。その土地で代々、あの流派の茶を楽しむ『湯原』姓を探せば、縁戚かもしれない。
そうするとさ、周太の曾じいさまのルーツと、その周辺の事情も幾らか分かるだろ?だからヒントになると思う。」
茶道具、家伝の茶菓子と点法の流派。
茶席から得たヒントを国村は並べてみせてくれる。
きっと英二だけでは、茶道の事は解からなくて気づけなかっただろう。
あの席に一緒に座れて良かった、幸運に微笑んで英二は頷いた。
「うん、そのヒントは助かるよ。俺もね、曾祖父さんのこと調べたくてさ。
それで戸籍を辿ることも考えたんだ。たぶん分家したから、過去帳にも曾祖父さんからしか書いていないんだ。
でも戸籍で曾祖父さんの出身地と兄弟を調べられる。そうやって戸籍から、親戚を探すことも出来るとは思ったんだ」
「ふん、戸籍か?…そっか、宮田って法学部の出身だったよな、」
底抜けに明るい目が、感心したように英二を見てくれる。
けれど英二はすこし苦笑に微笑んだ。
「そうだよ。でも、100年前に分家した人間を覚えている可能性は低いだろ?
それに、周太なら本人の資格で戸籍の取得も出来るけれど、俺には出来ない。あとは弁護士や司法書士に頼むしかない」
「そっか、専門家の協力が必要になるんだね。そこまでは今は、難しいな?」
残念そうに首傾げながら国村は、最後の柚子餅を口に放り込んだ。
英二もコーヒーの最後のひとくちを飲みこんで、国村に笑いかけた。
「でも、国村が茶道のこと気づいてくれた。そのヒントなら、調べられそうだな?」
「まあね?でも出身地が解かると調べやすいよな、ホントはさ。それでもね、手駒はあるほうが良い。だろ?」
すこし困ったよう笑って国村は首をひとつ回した。
空になったマグカップを下げながら、英二は給湯室で微笑んだ。
「そうだな、集められる手駒を集めるしかないよ。曾祖父さんの事情が、お父さんに直接関わるかは解からない。
でも、お父さんの人生について周太が知るためにはさ。関わることは、小さな事も全て調べるしかない。どれも『謎』が多すぎるから、」
記録として遺されたのは、紺青色の日記帳しかない。
あとは、幾つかの「謎」ばかりが遺されている。
この謎を数えながらカップを洗う英二に、テノールの声が笑いかけた。
「周太の家から帰ってくるとき、『謎』について話してくれたな?
まず、おやじさんは英文学者になるはずが警察官になっていること。
もうひとつの書斎部屋の存在と存在しない書斎机、それから『Le Fantome de l'Opera』の切りとられたページの意味、」
話しながら国村は休憩室を立つと、パソコンの前に座りこんだ。
webに接続すると辞書サイトを呼び出していく、そこに「Fantome」と入れて、ポンと検索キーを押した。
「宮田。この意味をさ、おやじさんなら、どう考えると思う?」
すこし低めたテノールの問いかけに、英二は手の水けを拭いた。
活動服の袖を直しながら国村の横に立つと、英二は画面をのぞきこんだ。
Fantome:化物
Le vaisseu fantome:さまよえるオランダ人
La Fantome de la liberte:自由の幻想
「…自由の幻想、」
この言葉の意味が、あの日記帳を読んだ心に痛い。
日記帳のいちばん新しいページに書かれていた、湯原馨の想いが重なっていく。
重なりゆく言葉と想いの交錯を見つめながら、感じたままに解釈を答えた。
「化物、は…お父さんにとって『自分』だ。さまよえる、これはたぶん『任務』だと思う。それから『自由の幻想は』…」
パソコンデスクの前から、底抜けに明るい目が英二を見あげている。
その明るい純粋無垢な目を見つめ返して、英二は穏やかに微笑んだ。
「きっと『幻想』はね、英文学者として成功していたはずの、お父さんの姿。じゃないかな、」
あの紺青色の日記帳は20年分を記すことが出来る。
その最初の頁に記されたのは、大学入学の春に寄せた英文学者としての夢と誇り。
そして最後のページに記されていた、馨の真実の想いは?
先に読んでしまった哀しみの記録と感じた事に、ゆっくり1つ瞬いて英二は口を開いた。
「自分、任務、それから自由への幻想。どの言葉もね、お父さんの最後の日記に書かれている言葉なんだ、」
「…それって、亡くなる前夜に書いた、ってことか?」
真直ぐに細い目が英二を見つめてくる。
真摯な視線に微笑んで英二は事実のままに頷いた。
「うん。事件の前日に書かれた日記だ。そして、それはね?あの日記帳の最後から1日前のページなんだ」
『この日記帳は一冊が5年分、それを4冊だから20年分を君は記すことが出来る。
ここに綴る20年が君にとって英文学にとって、あかるい希望と幸福に充ちたものであるように。
20年が綴り終るころ君は39歳を迎える、きっと学者として自分の道を確立した頃だろう。
その実りある日が必ず来ること私は信じ、祈っている。
君と英文学の豊かな20年間とその先の20年後を予祝して、私はこの20年分の日記帳を君に贈りたい』
いちばん最初のページに記された、馨の父である周太の祖父の言葉。
ここに記された「20年後の予祝」と、日記帳の最後の1ページに寄せられた想い。
この最初のページを川崎から戻った日、英二は勤務後に寮の自室で国村に読ませている。
だから国村には「最後から1日前のページ」の意味が解る、この理解に細い目が瞠かれた。
「…おやじさんが亡くなった日は、英文学者として身を立てたはずの当日、だったのか」
ほんとうは英文学者として生きるはずだった。
英文学者の卵として大学の入学式を迎えた日、息子を想い父は20年後の誇らかな日を祈った。
その20年後の日は、英文学者として生きる道を確立し、誇らかな道に笑っているべき日だった。
その日に訪れてしまった現実の残酷な哀しみに英二は微笑んだ。
「そうだよ。だからね…最期に書かれた日記にはね、夢が『幻想』になった絶望が、書かれているんだ」
微笑んだ切長い目から、涙ひとつ零れ落ちた。
頬伝っていく涙を感じながら英二は、心に刻まれてしまった一節に口を開いた。
「与えられた『任務』に惑わされ堕ちていく、今の自分は『化物』と変わらない。
こんな今の自分には、美しい英文学の心を伝える資格が、あるのだろうか?…きっとないだろう。
この穢れた掌は、あの美しい言葉の記された本を開くには、相応しくないのだから…私はただの幽霊、虚しい夢の残骸に過ぎない」
大学の入学式に記された夢と誇りに満ちた日記。
それに対する最後の日記は、落差があまりに悲しすぎた。
この哀しい落差を籠めた最期の一文に、哀しい笑顔を贈って英二は微笑んだ。
「『私の英文学者の夢は、美しい幻想のままに掴めない。それが20年の答え』そう、結んであった」
希望の日から20年後の、哀しい現実と落差の哀しみ。
この哀しみを告げられた光一の、純粋無垢な瞳から涙がこぼれ砕けた。
「だから、おまえ…隠しているんだな?…希望に満ちるべき日が、そんな…」
透明なテノールが泣いている。
誇らかな純粋無垢のまま国村は、生きるべき道の誇りを失った男を悼んでいる。
選んだ誇りに生きる自由を奪われていく、この哀しみは同じよう誇りに生きる人間には他人事に出来ない。
だからこそ英二も、周太の父が抱いていた絶望も哀しみも、残酷な痛みにわかってしまう。
自分と同じように哀しんでくれるアンザイレンパートナーに、微笑んで英二は頷いた。
「そうだよ。どうしても俺、読ませられないんだ、お母さんと周太には…かなしすぎるだろ?」
向かいあう2人の白い頬に温かな涙ひとつ砕けていく。
砕けた涙が伝わった唇が、テノールの声に冷静な判断を告げた。
「なあ、宮田?…絶対にさ、好き好んで、警察官になったんじゃないね?けれど、警察官になっている。
それってさ、警察官にならざるを得ない、そんな事情があったって事だよな?その事情ってヤツをね、調べてみるかな」
告げる言葉と共に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑った。
そして白い指がキーボードを軽やかに叩き出していく。
(to be continued)
blogramランキング参加中!
にほんブログ村