萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第38話 氷霧act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-03-31 23:59:00 | 陽はまた昇るside story
秘密、鎖された軌跡、




第38話 氷霧act.1―side story「陽はまた昇る」

零下の奥多摩は冷厳な透明に充ちている。
冷たい風に頬さらしながら自転車を走らせて、英二は駐在所わきに止めた。
とめた自転車に施錠すると、荷台のボックスから出した袋を下げて英二は入口扉を開いた。

「おかえり、宮田。湯を沸かしてるよ、コーヒー淹れてね」

救助隊服姿の国村が、愉しげに笑って迎えてくれる。
袋を給湯室に置きながら英二は微笑んだ。

「ただいま国村。ちょうど良かったよ、差入貰ったんだ」
「おまえ、また貰ってきたんだ?今日はどこでだよ、」
「御岳山の旅館だよ、温泉が良いって国村も言ってたとこ」

話しながら英二は更衣室の扉を開いた。
ロッカーにザックをしまって活動服に着替え始めると、国村も隣で活動服に着替えだした。

「ふうん、おまえと一緒に勤務だとさ、茶うけが色々あってイイよね。今日は何かな、」
「柚子餅を作ったから、って持たせてくれたよ。いつも、申し訳ないよな、」

すばやく着替え終わると、靴は登山靴のままで英二は給湯室に立った。
今日は寒さに凍結した道も多く巡回で見かけている、だから靴は替えていない。
同じように国村も靴は替えずに表のパソコンデスクに座りこんだ。
登山計画書をチェックしながらキーボードを器用に叩いて、データ入力を進めてくれる。
コーヒーを淹れ終わる頃には、国村は手許の分は処理を終えてしまった。

「さて、これで一通り終わったよ。自主訓練はさ、のんびり出来るね?」

からり笑って国村は給湯室の袋を下げて、奥の休憩室へと上がりこんだ。
さっさと袋から箱を出すと1つ口に放り込んで国村は口を動かした。

「うん、旨いね。あそこの奥さんもさ、こういうの上手いよな」
「そうだな。はい、熱いよ?」
「ありがと、宮田」

マグカップを渡しながら英二も腰をおろした。
コーヒーを啜りこんで一息つくと、また国村は菓子を白い指に掴んでいる。
もう巡回で朝食は消化してしまったらしいな?英二も1つ手にとりながら微笑んだ。

「国村、腹減ったんだ?」
「まあね、山を走って巡回したからさ。コーヒー旨いね、でも周太のアレは旨かったな、」
「サイフォンのコーヒー?」
「そ、」

北岳から国村も一緒に川崎の家に帰ったとき、周太はサイフォンでコーヒーを淹れてくれた。
それが国村はすっかり気に入ったらしい。あれ以来、コーヒーを飲むたびに同じ台詞を言っている。
そして英二自身、自分でコーヒーを淹れるたびに懐かしくなってしまう。
今度の金曜に帰ったら淹れてくれると周太は言っていたな?
そんな約束に微笑んだ英二に、テノールの声が言った。

「コーヒーも旨かったけどさ、茶は驚いたな。ほとんど全部、周太が自分で仕度したらしいね?」
「うん、そうだってね。国村、なにか訊いたんだ?」

柚子餅を口に入れながら訊いた英二を、笑って細い目が見遣ってくる。
マグカップからコーヒーを啜ると、国村は口を開いた。

「昨夜の電話で、ちょっとね。でさ、周太の茶はね、曾じいさまが元々やっていたらしい。これはね、ヒントだよ、宮田?」
「ヒント?」

短く訊きかえしてから英二はひとくちコーヒーを啜りこんだ。
すぐに気がついて、底抜けに明るい目を見て英二は答えた。

「周太の曾祖父さんが、どんな人だったか調べる手懸り、ってことか」
「正解、」

満足げに細い目が笑んで、菓子に手を伸ばした。
柚子の香たつ餅菓子を眺めながら、国村は口を開いた。

「昨日、訊いたんだけどさ。点法をするときは馬乗袴を必ず穿く、って言っていた。
馬乗袴は武家茶らしい特徴だよ。宮田も聴いた通りに、周太の茶は武家茶だ。ほら、歩き方も直角だったろ?」

「そういえば、そうだったな?」

周太は茶の席では足なりに歩くことをせず、必ず直角に曲がって歩いている。
茶の湯のことを英二はあまり知らないけれど、武家茶だという雰囲気に合うなと思った。
もしかして国村はそうなのだろうか?気がついたままを英二は訊いてみた。

「あのとき国村、茶席は久しぶりとか言っていたよな?おまえ、茶道やってるんだ、」
「俺んちも旧家だろ?付合いとかあってさ、ばあちゃんから、茶は一通りは仕込まれたよ。だから違いが目に付きやすいんだ」

なんでもない顔で答えると国村は菓子を口に放り込んだ。
きちんと餅菓子を噛んでコーヒーと飲みこむと、テノールの声が話し始めた。

「布を周太、捌いていたろ?あれ、帛紗っていうんだけどね。あれの腰への着け方や捌き方が、他の流派と違うんだ。
あと茶碗を拭いていた小さい布。あれは茶巾っていうんだけどさ、この捌き方も特徴的だった。道具もさ、雅で端正な雰囲気だったろ?」

茶道について英二はほとんど知らない。
けれど国村の言う通り「雅で端正」は英二も感じた。頷きながら英二は訊いてみた。

「料理も綺麗だったな、周太、懐石も自分で仕度していたけど。あれも、お父さんから全部教わった、って言っていた。
茶菓子で出してくれた、夏みかんの砂糖漬もそうだよな。曾おじいさんから代々、引き継いでいる、そう言っていたけど。
俺、茶道はよく知らないんだけどさ?茶菓子や懐石まで、代々自分で仕度する家、って、そんなにあるもんじゃないんだろ?」

「その通りだよ、宮田。だから、ヒントなんだ」

底抜けに明るい目が満足げに笑っている。
コーヒーを啜りながら国村は教えてくれた。

「あのとき、茶を点ててくれた茶碗。あわい朱色がかったヤツ、覚えてる?」
「うん、夜明けの空みたいな、きれいな色だったな」
「あれ、萩焼っていうんだ。でさ、細かい罅割れみたいのが表面にあっただろ?あれ、『貫入』っていうんだよね」
「貫入?」

初めて聞く言葉に英二は短く訊きかえした。
いま放り込んだ菓子に口動かしながら国村は頷いて、飲みこんだ。

「そ。あれがね、使い込むと『七化け』って言ってさ。茶や酒が浸み込んで、器の色が適当に変化するんだよ。
でさ、あのとき出してくれた器ってね、その七化けが長い年月でなったカンジだったんだ。で、昨日、訊いてみたんだけど」

マグカップに口をつけて国村はひとくち啜りこんだ。
ほっと一息つくと、テノールの声は言葉を続けた。

「やっぱり『古萩』だってさ。これってね、宮田?江戸時代より前に造られたモノなんだ、ようするに、お宝ってことだ」
「そんなに価値が?」

きれいで雰囲気がある茶碗だとは英二も思っていた。
そんなに高価な物でも周太は、大切に扱っても衒うことなく無造作に茶を点てている。
だから意外だった、すこし驚いている英二に国村も頷いた。

「うん、だよ?でもね、周太は遣い馴染んでいる雰囲気だったろ。ああいうのってさ、ほんとに生まれ育ちが良いからだ」
「確かに、周太って箸の持ち方とかも、きれいだな、」

初めて一緒に外食したラーメン屋でも思ったことだった。
あのときは周太の母の躾が良いからだと思った。けれど言われてみれば、周太の端正には古風な雰囲気がある。
納得して頷いた英二に、一緒に頷きながら国村は続けた。

「だろ?で、宝の様な茶道具を持っていて、代々受け継ぐ自家製の茶菓子がある。
家元でも無いのに、こういう家は珍しいよ。でさ、あの茶菓子をよく作る地域があるんじゃないかな?
もし地域の特定が出来たらさ。その土地で代々、あの流派の茶を楽しむ『湯原』姓を探せば、縁戚かもしれない。
そうするとさ、周太の曾じいさまのルーツと、その周辺の事情も幾らか分かるだろ?だからヒントになると思う。」

茶道具、家伝の茶菓子と点法の流派。
茶席から得たヒントを国村は並べてみせてくれる。
きっと英二だけでは、茶道の事は解からなくて気づけなかっただろう。
あの席に一緒に座れて良かった、幸運に微笑んで英二は頷いた。

「うん、そのヒントは助かるよ。俺もね、曾祖父さんのこと調べたくてさ。
それで戸籍を辿ることも考えたんだ。たぶん分家したから、過去帳にも曾祖父さんからしか書いていないんだ。
でも戸籍で曾祖父さんの出身地と兄弟を調べられる。そうやって戸籍から、親戚を探すことも出来るとは思ったんだ」

「ふん、戸籍か?…そっか、宮田って法学部の出身だったよな、」

底抜けに明るい目が、感心したように英二を見てくれる。
けれど英二はすこし苦笑に微笑んだ。

「そうだよ。でも、100年前に分家した人間を覚えている可能性は低いだろ?
それに、周太なら本人の資格で戸籍の取得も出来るけれど、俺には出来ない。あとは弁護士や司法書士に頼むしかない」

「そっか、専門家の協力が必要になるんだね。そこまでは今は、難しいな?」

残念そうに首傾げながら国村は、最後の柚子餅を口に放り込んだ。
英二もコーヒーの最後のひとくちを飲みこんで、国村に笑いかけた。

「でも、国村が茶道のこと気づいてくれた。そのヒントなら、調べられそうだな?」
「まあね?でも出身地が解かると調べやすいよな、ホントはさ。それでもね、手駒はあるほうが良い。だろ?」

すこし困ったよう笑って国村は首をひとつ回した。
空になったマグカップを下げながら、英二は給湯室で微笑んだ。

「そうだな、集められる手駒を集めるしかないよ。曾祖父さんの事情が、お父さんに直接関わるかは解からない。
でも、お父さんの人生について周太が知るためにはさ。関わることは、小さな事も全て調べるしかない。どれも『謎』が多すぎるから、」

記録として遺されたのは、紺青色の日記帳しかない。
あとは、幾つかの「謎」ばかりが遺されている。
この謎を数えながらカップを洗う英二に、テノールの声が笑いかけた。

「周太の家から帰ってくるとき、『謎』について話してくれたな?
まず、おやじさんは英文学者になるはずが警察官になっていること。
もうひとつの書斎部屋の存在と存在しない書斎机、それから『Le Fantome de l'Opera』の切りとられたページの意味、」

話しながら国村は休憩室を立つと、パソコンの前に座りこんだ。
webに接続すると辞書サイトを呼び出していく、そこに「Fantome」と入れて、ポンと検索キーを押した。

「宮田。この意味をさ、おやじさんなら、どう考えると思う?」

すこし低めたテノールの問いかけに、英二は手の水けを拭いた。
活動服の袖を直しながら国村の横に立つと、英二は画面をのぞきこんだ。

 Fantome:化物
 Le vaisseu fantome:さまよえるオランダ人
 La Fantome de la liberte:自由の幻想

「…自由の幻想、」

この言葉の意味が、あの日記帳を読んだ心に痛い。
日記帳のいちばん新しいページに書かれていた、湯原馨の想いが重なっていく。
重なりゆく言葉と想いの交錯を見つめながら、感じたままに解釈を答えた。

「化物、は…お父さんにとって『自分』だ。さまよえる、これはたぶん『任務』だと思う。それから『自由の幻想は』…」

パソコンデスクの前から、底抜けに明るい目が英二を見あげている。
その明るい純粋無垢な目を見つめ返して、英二は穏やかに微笑んだ。

「きっと『幻想』はね、英文学者として成功していたはずの、お父さんの姿。じゃないかな、」

あの紺青色の日記帳は20年分を記すことが出来る。
その最初の頁に記されたのは、大学入学の春に寄せた英文学者としての夢と誇り。
そして最後のページに記されていた、馨の真実の想いは?
先に読んでしまった哀しみの記録と感じた事に、ゆっくり1つ瞬いて英二は口を開いた。

「自分、任務、それから自由への幻想。どの言葉もね、お父さんの最後の日記に書かれている言葉なんだ、」
「…それって、亡くなる前夜に書いた、ってことか?」

真直ぐに細い目が英二を見つめてくる。
真摯な視線に微笑んで英二は事実のままに頷いた。

「うん。事件の前日に書かれた日記だ。そして、それはね?あの日記帳の最後から1日前のページなんだ」

 『この日記帳は一冊が5年分、それを4冊だから20年分を君は記すことが出来る。
  ここに綴る20年が君にとって英文学にとって、あかるい希望と幸福に充ちたものであるように。
  20年が綴り終るころ君は39歳を迎える、きっと学者として自分の道を確立した頃だろう。
  その実りある日が必ず来ること私は信じ、祈っている。
  君と英文学の豊かな20年間とその先の20年後を予祝して、私はこの20年分の日記帳を君に贈りたい』

いちばん最初のページに記された、馨の父である周太の祖父の言葉。
ここに記された「20年後の予祝」と、日記帳の最後の1ページに寄せられた想い。
この最初のページを川崎から戻った日、英二は勤務後に寮の自室で国村に読ませている。
だから国村には「最後から1日前のページ」の意味が解る、この理解に細い目が瞠かれた。

「…おやじさんが亡くなった日は、英文学者として身を立てたはずの当日、だったのか」

ほんとうは英文学者として生きるはずだった。
英文学者の卵として大学の入学式を迎えた日、息子を想い父は20年後の誇らかな日を祈った。
その20年後の日は、英文学者として生きる道を確立し、誇らかな道に笑っているべき日だった。
その日に訪れてしまった現実の残酷な哀しみに英二は微笑んだ。

「そうだよ。だからね…最期に書かれた日記にはね、夢が『幻想』になった絶望が、書かれているんだ」

微笑んだ切長い目から、涙ひとつ零れ落ちた。
頬伝っていく涙を感じながら英二は、心に刻まれてしまった一節に口を開いた。

「与えられた『任務』に惑わされ堕ちていく、今の自分は『化物』と変わらない。
こんな今の自分には、美しい英文学の心を伝える資格が、あるのだろうか?…きっとないだろう。
この穢れた掌は、あの美しい言葉の記された本を開くには、相応しくないのだから…私はただの幽霊、虚しい夢の残骸に過ぎない」

大学の入学式に記された夢と誇りに満ちた日記。
それに対する最後の日記は、落差があまりに悲しすぎた。
この哀しい落差を籠めた最期の一文に、哀しい笑顔を贈って英二は微笑んだ。

「『私の英文学者の夢は、美しい幻想のままに掴めない。それが20年の答え』そう、結んであった」

希望の日から20年後の、哀しい現実と落差の哀しみ。
この哀しみを告げられた光一の、純粋無垢な瞳から涙がこぼれ砕けた。

「だから、おまえ…隠しているんだな?…希望に満ちるべき日が、そんな…」

透明なテノールが泣いている。
誇らかな純粋無垢のまま国村は、生きるべき道の誇りを失った男を悼んでいる。
選んだ誇りに生きる自由を奪われていく、この哀しみは同じよう誇りに生きる人間には他人事に出来ない。
だからこそ英二も、周太の父が抱いていた絶望も哀しみも、残酷な痛みにわかってしまう。
自分と同じように哀しんでくれるアンザイレンパートナーに、微笑んで英二は頷いた。

「そうだよ。どうしても俺、読ませられないんだ、お母さんと周太には…かなしすぎるだろ?」

向かいあう2人の白い頬に温かな涙ひとつ砕けていく。
砕けた涙が伝わった唇が、テノールの声に冷静な判断を告げた。

「なあ、宮田?…絶対にさ、好き好んで、警察官になったんじゃないね?けれど、警察官になっている。
それってさ、警察官にならざるを得ない、そんな事情があったって事だよな?その事情ってヤツをね、調べてみるかな」

告げる言葉と共に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑った。
そして白い指がキーボードを軽やかに叩き出していく。



(to be continued)

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第37話 冬麗act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-30 23:59:35 | 陽はまた昇るanother,side story
冬麗 穏やかな陽光ふるなか、ありのままの姿で




第37話 冬麗act.5―another,side story「陽はまた昇る」

朝4時に周太は目を覚ました。
頬ふれる深い樹木の香が幸せで、白いシャツの胸元にすり寄って微笑んだ。
長い腕は眠っていても抱きしめてくれる、見上げた濃い睫の目はまだ微睡み深い。
きれいで心地よさ気な寝顔が嬉しい、そっと周太は笑いかけた。

…昨夜は小十郎のこと、受けとめてくれて、ありがとう

昨夜は屋根裏部屋で英二は「小十郎」と会ってくれた。
本当は23歳の男がテディベアを可愛がっているなんて変だろう。
けれど「周太と小十郎は似合っている」と微笑んで、小十郎のことを撫でてくれた。
テディベア「小十郎」は父が自身の身代わりとして連れて来てくれた、だから似合うと言われたら嬉しい。
それも、父と面影がすこし似ている英二に言って貰えたことが尚更に嬉しかった。

そして光一も、ひとめで「小十郎」を解って昔と同じに撫でてくれた。
抱きしめてくれる英二の肩には、きれいな白い腕が絡んだまま眠り込んでいる。
昨夜、光一は英二をはさんで向こう側に居てくれた。英二が起きている間は、ずっと周太を転がして笑っていた。
そして眠りに入った英二の肩越しから、周太を見つめて「安心して寝なね、」と幸せに微笑んでくれた。
お蔭で周太は、心から気持ちよく英二の懐で眠ることが出来た。

…英二のことも、受けとめてくれてるね、光一?

ふたりの寝顔を見あげて微笑むと、そっと身じろぎして温かな懐から脱け出した。
音をたてないように着替え終えて、しずかに周太は2つの寝顔を覗きこんだ。

…きれいな寝顔、だね?

ふたりとも、かすかに紅潮した頬があどけなくて普段より幼げに見える。
なんだか大きな美しい野生動物が、仲よく寄りそって眠っているみたい?
そんな感想が自分で可笑しくて、静かに微笑ながら周太は廊下に出た。

下に降りると手洗いうがいをして、まず仏間の扉を開ける。
仏壇の水と花瓶の水を替えると燈明を灯して、線香を捧げて朝の挨拶に佇んだ。
それから昨夜のうちに母と開けておいた炉の前に、周太は端坐して灰形を整え始めた。
この仏間は茶事を楽しめる造りになっている、それで母が茶事でのもてなしを提案した。

「きっとね、お点前とか珍しいんじゃないかな?」

そんなふうに母が決めて、昨夜のうちにすこし仕度しておいた。
まだ2人には話していないから、起きてからのサプライズで茶席に招くことになる。
もちろん定刻通りには始められない、それで次第も拘らず気楽な変則で席を設けることにした。
のんびりした雰囲気で持成すことが趣旨、そんな母の考え通りに楽しんで貰えたらいいな。
そう思いながら周太は炉中を整えた。

…五徳のなかは深めに空けて…こうだったよね?

炉中の灰形は立体的に、牡丹の花のような形に造り上げていく。
出来上がると昨夜のうちに準備しておいた釜を丁寧におろした。
終わって、床の間に周太は目を向けて考え込んだ。

「…茶花、替えた方が良いかな?」

昨日、床の花は活け替えてはある。
いつも茶花に仕立ててはいるけれど、きっと昨日この花を2人は見ただろう。
せっかく茶事でもてなすのだから、きちんと活け替えた方が良いかもしれない。
今日の正客は母の客である光一になるから、光一の好みに合わせた茶花を周太は考えた。

…奥多摩にゆかりの花、が良いね?食事もそうだし…

この家の庭は奥多摩の森を映しているから、草花も奥多摩にゆかりが多い。
そのなかでも特に光一が喜びそうな花を考えながら、周太は違い棚の下の扉を開いた。
ここに花入が収められている、すこし考えて周太は青磁の鶴首を選んだ。
あわいブルーの地肌は、白と青に輝く雪山を想わせる。

「…ん、きっと、英二も好みだよね?」

さっき見た寝顔を想いながら周太は微笑んだ。
昨夜に見せてもらった北岳「哲人」とよばれる山の姿は、どこか英二と似た雰囲気に慕わしかった。
あのイメージになぞらえて、光一に相応しい花を組み入れて活けてみたい。
こんなふうに花を活けるのも楽しいな、思いながらも周太は首傾げた。

…男らしくない、って思われるかな?

そんな心配がすこし顔をもたげかける、けれど微笑んで周太は心を治めた。
こうして茶花を活けることも、幼い日から父と母が育んでくれた大切な自分の素顔。
この素顔も、ありのまま正直に見て貰いたい。

「ん。きれいに活けよう、」

独り言にちいさな決心をして、周太は床の花を下げた。
下げた花入と青磁を持って廊下に出ると、ちょうど階段を降りてきた母が微笑んだ。

「おはよう、周。お花、活け替えてくれるの?」
「おはようございます、お母さん。おもてなしだからね、花も合わせようって…どうかな?」
「うん、そのほうが良いね。すこし明るくなったら、摘みに出れるし、」

静かに話しながら台所に行くと、花入を置いて周太は紺色のエプロンをした。
それから戸棚を開いて茶道具を出すと、濯いで笊にあげていく。それを母がきれいに拭いて整えてくれた。

「じゃ、お母さん、お茶事のセッティングしてくるね」

これから整えた炉中を母がチェックしてくれる。
きちんと合格できると良いな?すこしだけ緊張しながら周太は頷いた。

「はい、お願いします…食事、仕度しておくね、」

朝食も茶懐石に準じて仕度する。冬の寒い早暁に行う茶事だから、体の温まる料理がいい。
食材には蕪や大根、人参に里芋など根菜類を多く用いる。調理法も焚合せや蒸物など、温かく供する品がいい。
暁の茶事は時刻として軽めの食事になるから基本は一汁二菜、飯・汁・向付・煮物を仕度する。

…でも、ふたりは今日、自主訓練のあと勤務だから、

この品数だと2人には物足りない、それでは持成しにならないだろう。
だから預け鉢を加えて、鶏団子と飛竜頭に里芋と人参を焚合せ、花蓮根と菜の花をあしらった。
これに進肴として、大根と椎茸を干柿の千切と一緒に梅と胡麻で和えたものを合せる。
白飯も最初は一口分を品よく盛るけれど、御櫃も支度してお代わりをしてもらう。
それに昨夜漬けておいた香物を添えて、今回は一汁五菜に整えていく。

向付の帆立貝は軽く柚子酢に〆る。
蟹のほぐし身を真薯に仕立てた煮物は葛をひいて熱を保つ。
茶の湯は季節を楽しむものだけれど、父に教わった流派は「自然な雅やかさ」を殊に大切にする。
だから懐石の献立も、こんなふうに旬の食材と温度でも季節感を出していく。

「ん、…たのしいな、こういうの」

季節の食材で誂える料理も、茶は楽しい。そんなふうに周太は想う。
こうした事も父が教えてくれたことだった、それを母が引継いで周太と稽古してくれている。
いま扱っている茶の道具たちも、昔から家で使っていると父に教わった。
きっと祖父や曾祖父たちも、こんなふうに茶を楽しんでいたのだろう。

…顔も知らないけれど、きっとね…気持ちは、よく知ってるよね

いま血縁は母と2人きりになってしまった。
それでも、こんなふうに遺してくれた父祖の想いは温かい。
やさしい温もりを想いながら膳を整え終える頃、あわく朝の陽射しが台所にふり始めた。
きれいな朝陽さしこむ台所は気持ちいい、窓に見える早春の花に周太は微笑んだ。

「今日も、きれいだね?」

これだけ明るければ、花を摘みに出ていいだろう。
花切ばさみと手籠を持つと、玄関で父の下駄を履いて周太は庭に出た。
庭を廻りながら柚子を2つほど摘んで、提げている竹の手籠に入れる。
ぐるり一周し終わると、今朝いちばん綺麗だと思った白梅と白い椿を切り摘んだ。
この梅は奥多摩が故郷の種類だと聴いている、きっと梅農家の光一なら喜んでくれるだろう。
真白な八重椿は大輪に華やかで潔い、冬の暁に凛然と咲く姿に惹かれて選んだ。
美しい高潔な花姿を見つめながら、白い吐息に気恥ずかしく周太は笑った。

「…ん、どうしても、英二になっちゃう、な?」

潔い高雅な花の雰囲気は白皙の美しい面影と似ている。
正客よりも恋人を想ってしまうなんて、茶の道ではきっとダメなんだろうな?
手にした花を眺めながら首筋が熱くなってくる、きっと真赤だろう。
火照りだす頬を掌で押さえながら周太は台所に戻った。

戻って水切りを済ませると、青磁の花瓶に白い花たちを茶花に仕立てていく。
白と白の花だけれど、白梅のがくの赤と椿の葉緑のコントラストが美しい。
白い花さく青磁の花活を仏間の床に据え直すと、点前の支度を整えた母が笑いかけてくれた。

「うん、白だけも良いね、葉色と花活けの青に映えて清々しくて」
「そう?良かった、」

母子で花を眺めて楽しんでから、周太は濃茶用の菓子を整えた。
さっき摘んだ柚子を白玉粉に削りこんで、柚子餅に仕上げていく。
ほんとうは和菓子屋の方が美味しいだろうけれど、急に決めた上に早朝で買い求めらえない。
それに本来の「もてなし」の意味からすれば、手作りの方が良いと言って父も時おり作っていた。
きれいな黄色の散った菓子が出来て、干菓子の支度を始めると母が楽しげに提案をした。

「周が亭主をしてね?」
「え…でも、人前でとか、ずっとしてないよ?…難しいかも、」

夏みかんの干菓子を盆の半紙に並べながら、驚いて母に答えた。
父の生前はときおり客もあって、子供の周太が点法でもてなすと喜ばれた。
けれど父が亡くなって以来この家を訪れたのは英二が初めてになるし、茶の事はまだ話してもいない。
いきなり茶の姿を見せても大丈夫だろうか?そんな心配をしている周太に母は微笑んだ。

「でも、先月の点初めは、お母さんと一緒にしたでしょ?格式張らないお席だし、大丈夫よ、」
「ん、そうだけど…でも、暁の茶事だよね?…略式でも、緊張するよ?」

父が亡くなってからも時おり母と2人で稽古はしてきた。
けれど、格式張らない略式にするとはいえ、人前は緊張してしまう。
きっと難しいよと黒目がちの瞳を見たけれど、母は周太に愉しそうに微笑んだ。

「今日は、せっかくの機会だもの。それにね、たまにやらないと忘れちゃうから。
 お父さんが周に教えてくれたお茶なのに、忘れちゃったら、勿体ないでしょう?それに英二くん達も、周の方が喜ぶと思うな?」

たしかに母の言う通りかもしれない。
こうしたお持成しで少しでも喜んでもらえるのなら、やっぱり嬉しい。
やっぱり本当は恥ずかしい、でも喜ばれるなら恥ずかしくても頑張れるかなと思える。
それに英二には自分の全てを見てもらいたい、それなら茶の姿も見てもらう方が良い。
母の言う通り、いい機会かもしれない、周太は微笑んで母に答えた。

「そう、かな?喜んでくれるかな、」
「そうよ?だからね、どうせやるなら、きちんとしようか?」

愉しそうに笑って母は、周太を連れて2階へと上がった。



6時半になって、英二と光一は1階に降りてきた。
リビングにいる母に挨拶する声が聞こえて、それから台所を覗きこんでくれた。

「おはよう、周太、?」

挨拶に声かけてくれる最後が「?」になった。
ふたりとも驚いている、きっと今時こんなの珍しいだろう。

…ほら、やっぱり驚かれた、よ?

やっぱり、これは恥ずかしい。
でも、お持成しを始めてしまったからには、やりぬく方が良い。
気恥ずかしさに赤くなりながらも周太は微笑んだ。

「おはよう、英二、光一。よく眠れた?」
「うん、お蔭で眠れたよ?」

答えてくれながら、切長い目は感心したように周太を見ている。
そんな英二の肩に顎を乗せた光一は、周太の姿に「へえ、?」と底抜けに明るい目が笑んだ。
こんな視線は気恥ずかしいと思っていると、きれいな低い声が聴いてくれた。

「周太、今朝は着物なんだ?」

さっき2階に周太は連れて行かれた。
そして母の部屋で馬乗袴姿に着替えさせられた。

「ん。母に今朝ね、着なさい、って言われて…変かな?」

いまどきの23歳が和服を自分で着られるのは、変わっているかもしれない。
けれど今朝は茶事をするのだし、たまに着ないと痛むからと言われて周太は素直に袖を通した。
でもやっぱり恥ずかしかったかな?水仕事に襷掛した姿で赤くなっていると、英二が微笑んでくれた。

「似合ってるよ?着物もいいね、周太。自分で着られるんだ?」

うれしそうに見つめて言ってくれる。
この格好も気に入ってくれた?うれしくなって周太は素直に頷いた。

「ん、そう。ちいさい頃からね、教えられて…」
「すごいな、周太。気馴れている雰囲気だよ?他にも着物、持ってるんだ?」

きれいな笑顔で褒めてくれる、その笑顔が嬉しい。
急に着物姿だから敬遠されるかなと、本当は少し心配だった。
けれど着物を着ることも素顔の自分でいる、だから正直に見せれば良いと母の言いつけに従った。
それでも気恥ずかしくて、熱くなる頬を掌で押さえながら周太は微笑んだ。

「ん、幾つかあるよ?…紬とか、浴衣とか、」
「浴衣も似合うんだろね、周太。今度、着てみせて?」
「ん、…ちょっと恥ずかしいけど、」

そう言ってくれる英二の肩に、雪白の顔が載って周太を眺めている。
また英二の背中から抱きついて光一は、愉しげに遣りとりを見て口を開いた。

「ふうん、着物姿も可愛いね、周太?ちょっと俺、お代官サマになりそうで、危ないね」
「おだいかんさま?」

なんのことだろう?
訊きかえして見あげた周太に光一は、悪戯っ子に笑った。

「帯をひっぱって脱がしちゃうアレだよ?よく時代劇であるだろ、ちょっとやってみたいんだよね?」

どうしていつもこうなんだろうこのひと?
こんな反応来るなんて思わなかった、こんなこと言われると意識してしまう。
言われた言葉が気恥ずかしくて困っていると、肩に乗った白い額を長い指が小突いた。

「だめだろ、国村。朝からそんなこと言って?ほら、周太、固まっちゃっただろ。ごめんね、周太?」
「痛いなあ、宮田?堅いこと言うなよね、楽しそうだろが、お代官サマ。おまえだって、ホントはやってみたいクセに?」

さも愉しげにテノールの声が笑っている。
けれど英二はきれいに微笑みながら、きっぱり言い切った。

「おまえと同じにしないでくれる?この点では、意見違うから」
「嘘だね。さっき浴衣のコト聴いたとき、ちょっとエロ顔になってたけど?」
「それでもね、ちょっと解釈が違うから?」

きれいな低い声が透明なテノールを諌めて笑っている。
こんな時の英二は、きちんと大人の対応が出来て、ちょっと憧れてしまう。
それにしても。こんな時の光一は、ピアノを弾いたり「竜の涙」を贈ってくれたりする時の差がちょっとすごい。
こんなこと言われると困ってしまう。頬まで熱くなるのを感じながら、周太は2人に尋ねた。

「あの、家を出るのって、8時だったよね?」
「いちおうね。ま、雪じゃなかったからさ、9時でも充分に間に合うけどね」

からり笑って光一が答えてくれる。
9時までだと2時間半ほど時間がある、これなら大丈夫だろうか?周太はリビングの母に声を掛けた。

「お母さん、9時まで大丈夫だって…これなら、2つ点てられるかな?」
「そうね、いいと思うわ?周、仕度できる?」

愉しそうに笑ってソファから母が立ち上がってくれる。
そして2人の前に来ると、すこし背中を伸ばして綺麗に母は礼をした。

「お席にご案内します、ごゆっくり楽しんでくださいね?」



暁の茶事は厳寒期の茶事で、夜明け前の午前4時か5時ごろから始める。
そのため亭主の側はほぼ徹夜になり、呼ばれる方も早暁から伺うことから「一世一代の茶事」とも言う。
この茶事は夜をこめた刻に灯火に導かれて始まり、灯火の大きさにより進行が推し量られ進む。
灯篭に始まり短檠、小燈になり夜明けが近づくに従って、灯火は徐々に小さくなっていく。
今にも消えそうな残灯のゆらめき、この醍醐味の為に「残灯の茶事」とも呼ばれる。

こうして刻一刻と明けていく暁の風情を楽しんでいく。
そして迎える日の出に窓を開けて、暁の明かりを席へと招き入れる。
こんなふうに時刻の変化と冷厳な朝を楽しむ、清冽な茶事が「暁の茶事」だった。

暁の茶事では亭主は炉の火や釜の水を改めたり、初入りでは手燭などの灯火を用意する。
そうした事から亭主は茶の湯巧者でなくては務まらない、そして客も老練を要求される。
だから周太も、最初に母から今回の提案をされた時は「難しい」と答えた。
けれど母は、持成しとして雰囲気を楽しんで貰えればいいと微笑んだ。

「お茶はね、本式でするのも大切よ?けれど、おもてなしの心がいちばん大事。
 始まりの刻限も気にしないでいいわ、ふたりが寛いで、お茶席の雰囲気に楽しんで貰えたら、それで良いでしょう?」

そんなふうに勧められて、周太もだったら出来るかなと思った。
本来は夜明け時の前に始めるから、今日は随分と遅いスタートになる。
そのため変則の進行になるけれど、茶は楽しんでもらえれば良いのだと父も言っていた。
だから懐石の品と量も、このあとハードな訓練と任務を控えた2人に合せて誂えてある。
本式とは随所異なる茶事になる、けれど冬暁の清々しさに茶の雰囲気を楽しんで貰えたら嬉しい。

母が2人を席へと案内してくれる間に、懐石膳の支度を整えて周太は階段下の扉を開いた。
ここが水屋の入口になっている、その向こうが茶道口になって仏間に設えられた本座の脇に出る。
静かに周太が茶道口から入ると、光一が正客、母がお末に座っていた。
そして次客に座る英二が、いつもと違う雰囲気に見つめてくれる。
初めてみせる姿が面映ゆい、けれど周太は端正に微笑んだ。

いま6時半過ぎ、夜明けを迎える時刻になる。
周太は丸窓の障子戸を開いて、最初に暁の陽を席へと招じ入れた。
開いた向こうに白梅が暁の光に佇んでいる、その清明な美しさに周太は微笑んだ。

…上手にお持て成し、出来ますように

この仏間での点法なら、きっと父も見てくれている。
清らかな暁の光と白梅に微笑んで、周太は亭主の礼から始めた。



暁の茶事では前茶から初炭、懐石、そして中立ち、濃茶、薄茶と進む。
これを今回は事前に炭の支度を済ませて初炭と、中立ちも飛ばして席を替えず気楽に寛いでもらった。
このあと奥多摩まで戻って駐在所の勤務に就く2人に、なるべく慌ただしさを忘れて楽しんで貰いたい。
そんな趣旨で今日は席をあらためることはせずに、冬の朝の清々しい時間をゆったりと供していく。
まず前茶に温かな茶を供してから、朝食代わりの茶懐石を勧めると2人とも感心して箸をとってくれた。

「ふうん、旨いね。懐石まで作っちゃうんだ、周太。これってさ、いつから心づもりしてくれた?」

ひとつずつ楽しみながら光一は、細い目を満足げに笑ませてくれる。
気楽な席に周太も相伴しながら、質問へと素直に答えた。

「ん、昨夜ね、母が提案してくれて…家にあるもので、献立を考えたんだけど、」

「そりゃ、大したもんだね。しかもさ、梅と柚子を使ってる。
 どっちも奥多摩の名産物だ。花だって、白梅は奥多摩の玉英だろ?うれしい心遣いを、ありがとね、周太」

周太の配慮に光一は気づいてくれた。
茶席では客の出身地や好みなどを配慮して、設えや献立を決めていく。
そんな配慮がもてなしだと父は教えてくれた。それが喜ばれて周太は微笑んだ。

「ん、喜んで貰えたなら、よかった…お茶もね、のんびり楽しんで?」
「うん、楽しませて貰うよ。俺、久しぶりなんだよね、茶席って。無礼したら、ごめんね?」

うれしそうに笑って光一は食事を楽しんでくれている。
その隣で端正な姿勢で箸を運ばせながら、英二は母との会話を楽しんでいた。
こうした料理は英二の口に合うだろうか?
気になって見ていると、切長い目が気がついて笑いかけてくれた。

「旨いよ、周太。やっぱり周太は料理、上手だね?」
「よかった、どれが一番、おいしいかな?」

褒められて嬉しい、嬉しくて周太はきれいに笑った。
そんな周太に微笑んで英二は答えてくれた。

「どれも旨いよ?でも、いちばんは焚合せの鶏団子かな。中に入ってるの、百合根かな?」

ほら、今朝は「どれもうまいよ、」って言ってくれた。
今朝の献立は周太が考えて、母にチェックして貰って決めている。
けれど、どの料理も自分だけで作りたいと母に申し出て、昨夜と今朝に全てを誂えた。
それを褒めて貰えて嬉しい、素直に微笑んで周太は答えた。

「ん、そう。百合根をね、甘めに炊いてから鶏団子に詰めたんだ…気に入って貰ってよかった」
「凝ってくれたんだね?ありがとう、周太、」

そんなふうに会話と食事を楽しんで、懐石が終わると茶の点法が始まる。
まず主菓子に用意した柚子餅を勧めて、釜の湯が煮える音を聴きながら濃茶にかかっていく。
久しぶりの所作はすこし緊張してしまう、けれど思ったより落ち着いて手は動き始めた。
輪を奥にして腰に着けた帛紗をとって、こき帛紗に畳んでいく。

…ここに指をかけて、三角をここで折って…

心裡で手順を確認しながら帛紗と茶巾を捌いていく。久しぶりだけれど、なんとか上手に出来たらしい。
お末に座ってくれた母に運んだとき「茶巾の翼の左右が均等ね、」と褒めてくれた。
この茶巾の畳み方がすこし難しい、けれど今日は褒めてもらえている。
うれしくて微笑みながら周太は、続き薄茶の仕度に入った。

薄茶は、暁の茶事では濃茶よりも手早くあっさりと行う。
頭で手順を整理しながら周太は、用意しておいた干菓子を勧めた。
夏みかんの砂糖漬と小さな梅落雁を、それぞれ口にすると英二が微笑んでくれた。

「この夏みかんの菓子、旨いな。香がすごく良い、」

この菓子を褒められるのは嬉しい。
古萩の茶碗を掌にとりながら、嬉しくて周太は微笑んだ。

「それね、庭の夏みかんで毎年つくるんだ…たくさん作って、お茶の時に使うことになってて」
「手作りなんだ?周太と、お母さんで作るんですか?」

きれいな笑顔を周太に向けながら英二は母に尋ねてくれる。
尋ねられて母も愉しげに微笑んだ。

「そうなの。周太の父から教わったんです、昔から家で作っているらしくて。私も好きなの、このお菓子」

母の言葉を聴きながら光一も干菓子に口を動かしてくれる。
底抜けに明るい目を満足げに笑ませながら、テノールの声が褒めてくれた。

「家伝の菓子ってワケですね。素朴な菓子だけれど、洗練されているカンジなのが、納得です」
「気に入って貰えて嬉しいわ、きっと主人達も喜んでいます、」

楽しそうに笑ってくれる母の笑顔が嬉しい。
こういう場をまた設けてあげたいな?想いながら周太は薄茶を点てた。
薄茶の茶碗に選んだ古萩は、暁の空を想わせる色合がやさしい。
最後に母へと茶を運ぶと、愉しそうに笑って言ってくれた。

「はい、おつかれさまでした。ここからはね、自由にしましょう?」

そう言って座をお開きにしてくれた。
ほっと息吐いて周太は本座に戻って礼をすると、亭主役を終えた。
それから点てた一服に、夏みかんの干菓子を添えて周太は仏壇に供えた。

…お父さん、ありがとうね

きっと父も一緒に座ってくれていた、そんな想いに周太は微笑んだ。
なんとか無事に出来たかな?ほどけた気持ちで周太は水屋に入ると食器類を台所へ下げた。
襷掛けと前掛けをして、手際よく洗い始めるとダイニングの扉が開いた。

「周太、ご馳走さま。楽しかったよ?」

きれいな低い声で笑いかけてくれながら、英二が布巾を手にとってくれる。
洗いあげた食器を拭きはじめた英二に、嬉しくて周太は微笑んだ。

「楽しんで貰えて、良かった…ほんとはね、ちょっと恥ずかしかったんだ、」
「どうして周太、恥ずかしかった?」

おだやかなに尋ねてくれる声が、ふたりきりの台所に低く響いてくれる。
朝の陽ざしふる台所で一緒にいる、ささやかな幸せに周太は微笑みながら答えた。

「ん、…お茶とか、茶花ってね?女の子に多いお稽古ごとだから…いちおう、武家流の点法では、あるらしいんだけど、」

そんなふうに父は教えてくれた。
他流からすると所作もすこしずつ違うし、男性的な武家茶道だと聴いている。
けれど自分と同世代でお茶を習っている男は少ない、どこか気恥ずかしく想っていると英二は笑ってくれた。

「そっか、だからかな?凛として雅でね、かっこよかったよ、周太、」
「…ほんと?」

うれしい言葉に周太は、蛇口を閉めながら隣を見あげた。
見あげた先で切長い目が優しく微笑んで、きれいな笑顔がおおらかに華やいだ。

「ほんとだよ、周太。だって俺、ときめいたよ?」

きれいな笑顔が瞳のぞきこんで、やさしい幸せに見つめてくれる。
その笑顔が嬉しくて、そっと周太は背伸びして唇にキスをした。

「…ん、うれしいな。もっとときめいてよ?」
「はい、ときめくよ?」

きれいに笑って、長い腕で抱きしめてくれながら穏やかなキスがふれてくれる。
うれしくて幸せに微笑んだ周太に、きれいな低い声が穏やかに訊いてくれた。

「周太、庭を見せてくれるかな?今回はまだ、ゆっくり見せてもらってないから」

ふたりの時間を作ろうとしてくれている。
クライマーとして任官が決ったことの、詳しい話があるかもしれない。
ちいさく覚悟を呑みこみながら周太は素直に微笑んだ。

「ん、…寒いから、マフラー持ってきていい?」



冬のあかるい陽のふる庭は、白梅や椿が陽光にまばゆい。
きれいだなと花を見あげると、襟元のマフラーがほどけて着物の肩をすべりかけた。
すぐに気がついた長い指が受けとめて、やさしい切長い目が微笑んだ。

「ほら、周太。ちゃんと結ばないと?」

きれいな長い指が、やわらかに首元で動いてくれる。
ふれる指の感触に昨夜のことが想われて、周太の首筋が熱くなり始めた。

…ゆうべ、この指にキスした、んだよね、

光一を背中にくっつけた英二の懐で昨夜は安らいだ。
いつものように独り占めは出来ないけれど、預けてくれる指が嬉しかった。
でも想い出すと気恥ずかしいな?ひとり照れているうちにマフラーはきれいに結ばれていた。

「はい、周太。きついとかないかな、」
「ん、温かいよ?ありがとう、」

赤くなりそうな頬と左掌で押さえながら周太は微笑んだ。
ゆっくり一巡りする庭は、やさしい花々がほころんでいる。
早春の花を見つめる横顔は高潔できれいだった。

…やっぱり英二、あの山と、似てるね?

大好きな横顔はどこかいつもと違う雰囲気でいる。
きっとこれから話すことを考えている、そんな思慮深い陰影がきれいだった。
きれいだなと見惚れている周太に、やさしい眼差で振向いた切長い目が微笑んだ。

「周太、任官の意味について、聴いてくれる?」

きれいな低い声が真直ぐに、周太に想いと事実を告げ始めた。
ゆっくり陽が高くなる透明な冬の朝に、真摯な高潔を見つめて周太は佇んだ。




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第37話 冬麗act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-29 22:15:22 | 陽はまた昇るanother,side story
はなれない、約束を贈って




第37話 冬麗act.4―another,side story「陽はまた昇る」

夕食の支度を英二と光一に手伝われていると、ふる陽ざしが黄昏に変わった。
もうじき母が帰ってきてくれる、その事は嬉しいけれど「明日」が近づいてしまう。
明日の朝が来れば英二は奥多摩に戻る、そして自分は明日の夕方に新宿に戻るだろう。

…また離ればなれ、だね…

寂しい想いがこみあげて瞳の奥が熱くなってくる。
いま光一が隣に立って食事の支度をしている、それなのに泣く訳にはいかない。
自分が見ていた鍋の火を落とすと、周太はダイニングからホールへの扉を開いた。

「暗くなるから、カーテンとか閉めてくるね?…」

ふたりに笑いかけて、ステンドグラスの扉を閉じると周太は階段を上がった。
まず母の部屋のカーテンをとじる、それから洋室のカーテンをとじて、自室へと入った。
屋根裏部屋のカーテンを引いて下の部屋のカーテンを閉じかけて、そのまま周太はカーテンを抱きしめた。

「…っ、」

ちいさく吸った息に押されて、涙ひとつ零れた。
ほらまた泣いてしまう。23歳の男なのに、こんな泣き虫な自分は恥ずかしい。
けれどもう堪えきれなくて、また涙がこぼれて落ちた。

「…はなれたくない、な、」

ぽつり想いこぼれて、一緒に涙が頬を伝っていく。
どうして英二とは、こんなにも一緒にいたいのだろう?
ずっと13年間は孤独に籠って涙も閉じ込めていた、なのに本当は泣き虫のままでいる。
こんな泣き虫でも英二は好きだと笑ってくれる、あの笑顔に毎日ずっと逢いたい。
いつか本当に一緒に暮らせたら、そのとき自分はどんなに幸せだろう?
そっとカーテンを抱きこんで、やわらかなビロードに瞳を閉じた。

「…英二、」

ぽつんとこぼれた、愛する名前。
この名前を、毎日ずっと顔を見て呼べたら良いのに?
閉じた瞳に大好きな笑顔を見つめるうち、また唇から名前がこぼれた。

「英二、」

「はい、」

きれいな低い声がやさしく響いて、温もりが体をくるんでいく。
驚いて振向いた先きれいな笑顔が咲いて、長い腕がカーテンごと周太を抱きしめた。

「周太、カーテンは俺じゃないだろ?こっちを抱きしめて、」

名前を呼んだら来てくれた?
驚いて嬉しくて、素直に笑って周太は温かい懐に抱きついた。
やさしい懐から見上げると可笑しそうに微笑んでくれる、嬉しいまま周太は口を開いた。

「ね、どうして来てくれたの?…なまえ呼んだら、いてくれて…おどろいた、よ?」
「なんとなくね、泣いているかな?って気がしたから。戸締りも手伝いたかったし…ほら、泣かないで?」

やさしい唇が涙を拭ってくれる。
涙ぬぐう唇が、そっと唇に穏かなキスを贈って微笑んだ。

「泣き顔も可愛いね、周太は…困るよ?ほんとうに、」
「…どうして困るの?」

また英二を困らせている?
また自分が泣き虫だったから、いけなかった?
どうしようと見あげていると、きれいに笑って英二が告げてくれた。

「離せなくなるから、困るよ?明日は奥多摩に戻らないといけないのに…戻れなくなる。今も、」

やわらかに頼もしい腕が力こめて、抱きよせてくれる。
離れたくないのは自分だけじゃない、伝えられる想いが幸せで周太は微笑んだ。

「ん、離してほしくない…ね、つぎの週休のとき、逢ってくれる?」

 ―…改めてまた俺に時間を作ってくれるかな?
   周太とふたりの時間は俺にとって大切なんだ。だからお願い聴いてほしいよ?

こんなふうに今朝のメールで告げてくれた。
この通りにしてくれる?願いながら見つめた黄昏そまる顔が、嬉しそうに微笑んだ。

「もちろんだよ、周太」

幸せそうな笑顔が咲いてくれる。
今朝に送ってくれたメールの「お願い」通りに、英二は提案してくれた。

「3月の最初の土曜日、周太は大丈夫?」
「ん、だいじょうぶ…お節句だから、金曜から家に帰るつもり、なんだけど」

桃の節句だから、母に祝膳を整えてあげたい。
だから英二も一緒に祝膳に着いてくれたらいいな?
想い見あげた先で楽しそうに英二は笑ってくれた。

「じゃあ俺も一緒に帰りたいな?金曜、夜20時過ぎるけど、ここに帰ってきて良い?」

夜から帰ってきてくれる、そうしたら一緒に眠って貰える。
こんな約束は嬉しい、嬉しくて周太はきれいに笑った。

「ん、帰ってきて?ごはん作って、おふろ沸かして待ってるから…おふとんもほすから、」

やっぱり気恥ずかしくて言葉のトーンが変になってしまう。
きっといま顔も赤くなっている、それでも周太は幸せに笑った。
笑った額にやさしいキスふれて、きれいな笑顔が幸せに華やいでくれる。

「よかった、これを楽しみに俺、また頑張れるよ?」
「ん、…おれも、です」

こんなに短い答え。
けれど気恥ずかしくて首筋が熱くなってしまう。
そんな首筋にもキスがふれて、きれいな低い声がすこし切なげに囁いた。

「周太…その夜は、ふれたいよ?」

うれしい、けれど困ってしまう。
だって真赤になって熱りが納まってくれくなる。
けれど嬉しくて幸せで、赤い顔のまま素直に頷いた。

「ん、…はい、」

正直な想いと頷いて周太はすこし背伸びした。
そっと近づいた端正な顔が黄昏に微笑んでくれる。
きれいな切長い瞳に、今日いちばん華やかな陽のかけらが輝いていた。
きれいな陽のかけらを見つめて、周太は約束に微笑んだ。

「約束?」
「うん、約束だよ、周太、」

幸せに微笑んだ唇に穏かな温もりがふれてくれる。
想いふれるくちづけに、幸せな約束と一緒に唇を重ねた。



庭の門が開く軋む音に周太は微笑んだ。
きっと母が帰ってきてくれた、そう思っていると英二の手が止まった。
ふり向くと「ちょうどよかった」と微笑んで、胡桃の入ったすり鉢を周太に戻してくれる。
きれいに砕いてくれた胡桃が芳ばしい、前より上手だなと思いながら周太は微笑んだ。

「ありがとう、英二。すごく上手だね…母のお出迎え、してくれる?」
「うん。そのまま、お母さんとすこし話してきたいんだけれど、いいかな?」

きっとクライマー任官のことを母に報告するのだろう。
きちんと母に話してくれる英二の誠実さが嬉しい、素直に周太は微笑んだ。

「ん、話してきて?きっと、母も喜ぶから、」
「ありがとう、周太。…国村、俺、ちょっと行ってくるな、」

声かけられて光一は捌きかけの魚に最後の包丁を入れた。
それから振向いて細い目を温かに笑ませると、からり笑った。

「おう、ゆっくりしてきなね。その間は俺が、周太を独り占めさせて貰うからさ、」
「あんまり周太のこと、いじめるなよ?…じゃ周太、行ってくるよ」

リビングに置いてあった花束を抱きあげながら、きれいに英二に微笑んでくれる。
そして広やかな背中がオールドローズの香と玄関ホールへ出ると、すぐ玄関扉が開く音がした。
愉しげな母の声と嬉しそうな英二の声が温かい、なんだか幸せで微笑んだ周太を光一が覗きこんだ。

「さて、ドリアード?君の家に俺は、とうとう来ちゃったね?」

愉しげに笑いかけた雪白の顔が、すっと動いて周太の耳元にキスがふれた。
驚いて思わず一歩後ずさりながら、掌で耳元を周太は抑え込んだ。

「…っ、こういち?びっくりするよ?」
「ごめんね、ついキスしたくなっちゃった。堪え性のない、ワガママな俺を赦してね?」

からり笑うと光一は捌いた刺身を大皿に盛りつけ始めた。
こんなふうに光一は不意に行動するから驚かされて困ってしまう。
けれど光一はいつもの涼しい顔で、きれいな酒の肴を次々と整えていく。
こんな調子で落着きはらっている光一が、自分と同じ年でいる事がこういう時不思議になる。
しかも今日はどこか、いつもと違う感じがして緊張してしまう。

…でも、いつも通りだし。意識しすぎ、だね?

ふれられた場所の熱を気にしながらも、周太は掌を動かし始めた。
さっき英二が渡してくれた胡桃で鶏肉に衣をつけると、付合わせの根菜とオーブンに並べていく。
これはクリスマスの時にも作った献立になる、それを英二は「また食べたい」とリクエストしてくれた。
あとは食べる前にオーブンに火を入れればいい、これで周太の献立の支度は一通り終わりになる。
同じように仕度を終えた光一が、調理台を拭き上げながら周太に尋ねてくれた。

「いちばん大きいボールを貸してくれるかな?あと平たい大きめの笊、」
「ん、ちょっと待ってね、」

確かここに入っていたな?
記憶を辿りながら周太は調理台の扉を開いて覗き込んだ。
思った通りの場所に見つけて、さっと洗ってから周太は光一に手渡した。

「何か作ってくれるの?」
「うん、お土産を作るからね、」

底抜けに明るい目が愉しげに笑ってくれる。
なにが出来るのだろう?楽しみに見ていると光一は持ってきた袋の中身をボールに開けた。
あわい紫がかった粉に見覚えがある、首傾げながら周太は微笑んだ。

「ん、蕎麦だね?」
「正解、蕎麦粉を見たことあった?」

透明なテノールで愉しく答えながらも、白い掌は手際よく動いていく。
馴れた手捌きが楽しくて、配膳しながら周太は蕎麦打を眺めた。
こねあげた生地を摺りこぎ2本で器用に伸ばして、俎板と菜きり包丁で蕎麦に切っていく。
こんな作り方も出来るんだな?工夫に感心して周太は微笑んだ。

「すごいね、光一?家の道具でも出来るなんて」
「大袈裟な道具とかさ、めんどくさいだろ?だから俺、家でもコンナ感じで作るんだよね、」

打ち上げた蕎麦を平たい笊へと、きれいに一人前ずつ輪がねて並べてくれる。
手際の良さにすっかり見惚れながら、周太は楽しく眺めた。

「じょうずだね、…お店、開けるね」
「うん?だからさ、ばあちゃんの店、たまに俺も手伝うんだよね。また来てよ?」
「ん、ありがとう、」

話しながらも手を動かして、光一は台所をきれいに片づけてくれた。
ほんとうにプロのような手際の良さに感心していると、光一がリビングへと呼んでくれた。

「ほら、北岳の写真を見せてあげるよ、」
「あ、うれしいな…パソコン使う?」

訊きながら周太は書見用デスクに置かれたノートパソコンを開いた。
コンセントを繋いで準備が出来ると、光一がデスクの椅子に座ってセッティングしてくれる。
すぐにパソコンの画面いっぱいに、美しい雪山がひろやかに映りこんだ。

「…きれいだな、」

青と白の峻厳な世界の荘厳に、周太は瞳を大きくして微笑んだ。
聳えたつ白銀の雪壁を抱いた山は、まばゆい輝きに充ちて青藍のした高潔に佇んでいる。
気高い雪山の姿はどこまでも端正で、凛然とした佇まいが周太には慕わしい。
どこか懐かしいような雰囲気の山容を見つめてると、透明なテノールの声が教えてくれた。

「北岳はね、『哲人』っていう名前もあるんだ。ちょっと生真面目で思慮深い、高潔な雰囲気があるだろ?」
「ん、…哲人、」

哲学のひと。
たしかに似合う名前だと想える。
こんなふうに「山」は人にもどこか似ているな?
そんな想いと見つめていると、次に切り替わった画面に周太の瞳が大きくなった。

「…えいじ?」

真直ぐに遠くを見つめている端正な横顔。
凛とした視線は強靭な意志と、真摯な想いが輝いている。
よく知っている大好きな顔、けれど見たことのない貌が画面の中まばゆい。

「そ、宮田だよ。若き山ヤ、ってカンジだろ?…宮田はね、厳しい山に行くほど、イイ顔になるんだ、」
「ん、…なんか、わかるな?」

そうだろう、英二なら。
ほんとうなら英二は安楽な人生を選べた、けれど「山」を選んだ。
世田谷の恵まれた家に生まれて不自由なく英二は育った、けれど山ヤの警察官として奥多摩に生きることを選んだ。
美しくて険しい山の世界に生きる厳しさを、英二は心から愛している。この厳しさのなかで英二は刻々と輝きを増していく。
いま峻厳の山に英二は誇らかに生きている、そして今、こんなに綺麗な貌の英二を見ることが出来た。

…こういう貌、見たかった

生きる誇りを探している

初めて出逢った瞬間からずっと、切長い瞳は周太に問いかけていた。
ほんとうは素顔のまま生きたい、生きる誇りを見つけたい。その願いを問いかけていた。
その願いは今もう叶えられ始めている。

…ね、英二?ほんとうに、この道が英二の立つべき場所、なんだね?

生きる誇りを見つめる、誇らかで高潔な横顔。
この姿を見ることを、ずっと自分は望んでいた。それが今こうして見れた。
こんな貌の人が自分を愛し隣に帰ってきてくれる、心から幸せで周太は微笑んだ。

「ん、…こういう貌の英二をね、ずっと見たかったんだ。ありがとう、光一」
「願いを叶えてあげられたね、よかった」

底抜けに明るい目が、幸せそうに笑ってくれる。
温かな眼差しで周太を真直ぐ見つめながら、透明なテノールの声が微笑んだ。

「こんなふうに俺はね、君の願いは叶えるよ?だからさ、俺が宮田を最高峰へ連れて行っても、嫌いにならないでよ?」

嫌いにならないで。

つきんと心が刺されて、途端に罪悪感がこみあげてくる。
やっぱり光一は周太の嫉妬や羨望に気がついていた、きっと気づいて哀しんでいた。
それが今日ずっと感じている、どこかいつもと違う光一への違和感の正体なのだろう。
こんなふうに写真を撮って光一は、周太の英二への想いを受けとめて、願いを叶えてくれている。
なのに子供っぽい嫉妬に捉われていた自分が恥ずかしい、赤くなりながら素直に周太は頷いた。

「ん、嫌いにならないよ?羨ましかったんだ…誰も来れない所に、ふたりきりでいられて、いいなって…傷つけて、ごめんなさい」

こんな嫉妬の告白は恥ずかしい。
けれど正直に謝れると心がひとつ明るくなれる。
恥ずかしさで顔が熱い、きっと真赤になっている。それでも周太は光一に笑いかけた。

「これからもね、英二のこと、お願いしていい?…でね、また写真、撮ったら見せてくれる?」
「うん、いいよ。君のお願いは叶えるよ、ドリアード?」

底抜けに明るい目が、嬉しそうに笑ってくれた。
愉しげに笑いながら雪白の顔が動いて、周太の耳元に唇でふれると微笑んだ。

「…っ、」

また驚いて周太は掌で耳元を押さえこんで光一を見た。
呼吸を忘れて見つめる秀麗な顔が愉快に笑って、白い指で唇を示し微笑んだ。

「これで今日は2度目だね、ドリアード?これでもさ、俺なりの我慢の結果だから赦してよ。
でさ、俺も宮田のこと大好きなんだよね。しかもね、君がびっくりする顔も、拗ねた顔も好きなんだ。だから取りっこも許してよ?」

光一なりの我慢の結果。
その意味をたぶん自分は解かっている、それを想うと哀しくなる。
けれど、哀しまれることを光一は決して望まないだろう。
哀しみ1つ呑みこんで、周太はきれいに笑った。

「ん、わかった。仕方ないから、赦してあげる。でも、…今日ほんとうは英二のこと、独り占めしたいんだけど?」
「そのお願いは難しいね。俺も聖人君子じゃないからさ、あんな別嬪がいるとね、いつだって手出ししたくなるんだよね、」

からり明るく笑って光一は、持って来た用紙をプリンターにセットした。
そして出来上がった英二の写真を周太に渡してくれながら、英二の横顔を示して微笑んだ。

「で、ちょっと似てるだろ?これと、」

言いながら、もう1枚の写真を周太に渡してくれる。
そこには銀砂の夜空に聳えたつ白銀の北岳が、まばゆい高潔に佇んでいた。
星輝く濃藍に銀いろ華やぐ山容は、厳然としながら清明な高雅が美しい。
この厳麗に艶やかな「哲人」の姿に周太は微笑んだ。

「ん、英二と似てるね?」
「だろ?高潔な『哲人』なんてさ、ストイック宮田っぽいよね、」

この2枚の写真は宝物にしよう。
そう決めながら周太は光一にお願いをした。

「ね、この2枚の写真、カードサイズにも作ってくれる?」
「うん?持ち歩きたいんだね、いいよ、」

気さくに笑って光一は焼き増ししてくれる。
すぐ出来上がって受けとると、周太は幸せに微笑んだ。

「ありがとう、光一。4枚とも、大切にするね?」
「うん、大切にしてね?この2つの写真はさ、俺の傑作だろうからね、」

愉しそうに笑いながらパソコンを片づけてくれる。
カメラも元通りケースにしまうと、袖を捲りながら光一は笑ってくれた。

「さて、そろそろ夕飯を仕上げた方が良いね?でさ、蕎麦は出すまで内緒だよ、驚かせたいからね、」
「ん、わかった、」

頷きながら周太は、捲った袖から露になった光一の腕を見た。
なめらかな雪白の肌理はこまやかで美しい、こんな綺麗な肌も珍しいだろう。
こんな美貌で英二の隣にいられると、やっぱり嫉妬してしまいそう。
なんだか申し訳なくて困りながら周太は台所に入った。



周太が支度しておいた品と光一が即興で作った料理が、ダイニングテーブルいっぱいに並んだ。
光一の手料理はいなり寿司と牡丹餅に、焚火の料理を御岳でご馳走になっている。
今夜の膳には酒の肴にもなる惣菜を数品と、きれいな刺身を作ってくれた。
どれも和食をベースに上手な工夫が凝らされている、刺身も旬の甘鯛を一本から卸して作ってくれた。
このアラを使って周太が準備しておいた出汁と合わせてくれた吸物も美味しい。

…光一って、料理でも、すごいな

ほんとうは周太は、料理はちょっとだけ自信があった。
ちいさい頃から母の手伝いが好きだったけれど、父が亡くなって母が元の職場に復帰してから主夫は周太になっている。
しかも母は滅多に外食をしなくなった。仕事が忙しい所為もあるだろうけれど、昼も弁当を持って行く。
そんな母にすこしでも美味しいものを食べてほしくて、周太はテレビや本で料理の研究をした。
書店で料理の本を買うと「男の癖に」とまた言わそうだけれど、母の喜ぶ顔を想うと気にならない。
元から母や父に教わった料理の基礎は昔ながらの丁寧なものだし、たぶん自分の料理は美味しい方だと思っていた。
けれど光一も祖母が店を持っているだけあって、玄人の腕前でいる。
美味しいなと素直に感心しながらも、周太は英二の反応が気になって訊いてみた。

「ね、英二?今夜はね、どれがいちばんおいしい?」

周太の質問に切長い目が笑いかけてくれる。
すこし膳の上を眺めると、きれいな低い声が答えてくれた。

「鶏の胡桃焼かな?あとは肉じゃが。ごはん食べたくなるな?」

どれもおいしいよ?
いつもなら最初にこれを言うけれど、今夜の英二は言わなかった。
きっと今夜は光一の手料理があるから「どれも」と言わないでくれた。
いつもながら優しい英二の気遣いが嬉しい、嬉しい想いに微笑ながら周太は掌を伸ばした。

「ん、たくさん炊いてあるから…おかわりする?」
「うん、お願いできるかな?」

そんな調子で英二はごはんを7杯食べてくれた。
最後に光一の蕎麦と作っておいた苺コンポートとアイスを楽しんで、食事を終えると周太は風呂を整えた。
食事の途中で沸かし始めたから、ちょうどよく湯の準備が出来ている。
きれいなタオルを仕度してから周太は、お客の光一から風呂を勧めた。

「ちょっと古い造りなんだけど、掃除はきちんとしてるから、」
「なんか良い風呂だって、宮田に聴いたよ?」

浴室へと案内して周太は風呂とシャワーの使い方を説明した。
藍模様と真白なタイル張りの浴室は、この家が建てられた時からほとんど変わらない。
さすがに給湯のシステム自体は新しいけれど、蛇口とシャワーの栓が昔ながらの方式になっている。
そんな説明を一通り終えて周太がふり向くと、もう光一は上半身の服を脱ぎ終わっていた。

「…っ、なんでもうはだかなの?」
「うん?」

驚いて周太が訊くと、不思議そうに光一は首を傾げこんだ。
ランプに美しい雪白の首筋を晒しながら、いつもの調子で光一は笑った。

「説明を聴きながらでもね、服は脱げるだろ?」

なんか拙かったのかな?そんなふうに細い目が周太を見てくる。
拙いことは無いけれど、光一の姿が綺麗で周太は途惑ってしまった。

…こんなに綺麗な肌、なんか困る

雪白まばゆい肌は、どこか人間離れに美しい。
艶やかな黒髪がさらりふる顔も、素肌だと殊更に白と黒が際だって鮮やかだった。
繊細で明るい貌は無垢のまま、透明な細い瞳がランプの光を灯しながら周太を見つめている。
惜しみなく素肌を晒す体は細身でも強靭で、端正な筋肉が雪白の肌に美しかった。

…きれいだな、

こんな綺麗な姿を見て、なにも想わない人は少ないだろうな?
でも英二や藤岡は光一と同じ青梅署独身寮にいる、風呂で一緒になることもあるだろう。
けれど2人とも特に何も言わない、やっぱりじぶんがえっちだから考えすぎるだけ?
なんだか目のやり場に困ってしまう、緊張しながら周太は浴室から洗面室に出た。
そんな周太に付いてくる透明なテノールの声が、思ったまま説明してくれる。

「だってね、周太?さっさと俺が風呂を済まさないとさ、後がつかえて困るだろ?
でも、俺は長風呂好きなんだ。しかも良い風呂だね、ここ。少しでも早く入りたいから、さっさと脱がせてもらったよ?」

話しながらも白い指は、もうカラーパンツからベルトを抜きはじめている。
確かに言う通りでもあるけれど、こんな綺麗な体だと逆に目のやり場に困ってしまう。
わりと光一はせっかちな性質なのだろうか?
そんなことを思いながら周太はタオルの場所を指さした。

「あの、タオルここだから…この籠、服とか入れるのに使ってね?じゃ、ごゆっくり…」

言いながら周太は踵を返しかけた。
その背中から白い腕が伸びて、がっしり周太は抱きこまれた。

「周太、なんでさっきから、俺から目を逸らす?…見るのも嫌、なワケ?」

訊いてくれる透明なテノールの声が、どこか哀しい。
ニットの背ふれてくる鼓動がすこし早い、心を直接ノックするような心音がなにか痛い。
驚いて声を詰まらせていると、肩越から頬寄せられて水仙のような香がふれあった。

「そんなに周太、俺のこと、邪魔?…俺のこと、殺そうとしたくらい、だもんね、」

落着いているテノールの声は透明で、けれど哀しい響きが隠せない。
背中から抱きしめてくる、白い腕の力が強くて身動き出来ない。
なにより背中ふれる鼓動の、哀しい速さに心ごと動けない。
こんな自分の態度が光一を傷つけた、詰まる声を押し出そうと周太は口を開いた。

「…っ、ちがう、よ?」

声、出てくれた。
どうかお願い、このまま正直に伝えたい。

「ちがうよ、光一、邪魔じゃない。誤解させて、ごめんね…ほんとうに、好きだよ?」

ちいさな掠れる声、それでも想いが伝えられる。
懸命に想いを告げて、それでも哀しいままテノールの声が微笑んだ。

「でも、忘れてた、俺のこと…そして、殺そうとしたね、…宮田のためなら、俺は死んで…いいんだろ?」

忘れられた光一の14年間の孤独。
その孤独の涯に周太が報いた最初は「銃口を向ける」だった。
それでも光一は笑って許してくれた、けれど本当は傷ついている。

…傷ついて、当たり前だ…忘れるほど弱い、自分の所為で…

どうしたらこの罪を償える?
こんなに美しい人を自分は傷つけた。
あの幼い日に「自分は『変』だから好かれず独りぼっちになる」と悩んでいた自分。
そんな自分に「好きだ」と微笑んで希望を贈ってくれた、この人を今、どうしたら自分は癒せるだろう?

…正直に話せばいい、

今日も書斎で父に話した通り、正直に向き合って「今」を大切にしたい。
ほんとうに心から大切にしたいなら、偽りは通用しない。
ひとつ呼吸して周太は、穏かに口を開いた。

「生きていてほしい、光一には…だってね、俺にとって光一は、ほんとうに大切な人だから。
あの雪の森で、初めて出逢ったとき。俺が質問したこと、覚えてる?…テディベアが好きな男は、変じゃないか、って、」

ふれる頬に、温かい雫がひとつ零れてとける。
テノールの声がすこし笑って、低く囁くよう答えてくれた。

「俺はクマも好きだ、って答えたね?ずっと覚えてる、君の言ったこと全部…だから、俺…雲取のクマに、小十郎って名前つけた」
「ツキノワグマに、小十郎の名前を?」

すこし驚いて周太は瞳だけ動かして光一を見た。
肩越し頬寄せる雪白の顔も、きれいな細い瞳を動かして周太を見つめてくれる。

「そうだよ。君と出逢った次の次の春にね、生まれたクマだよ?…宮田も、秋に会っている。
こんど13歳になるクマだ…君の小十郎を覚えていたから、俺もね?自分の友達になったクマに、同じ名前付けたんだ、」

明るいままの瞳から、きれいな涙がこぼれて周太の頬にとけこんでいく。
こんなに光一は自分を待ってくれていた、その想いが切なくて痛い。
それでも周太は微笑んで、言葉を続けた。

「ありがとう、光一。すごく、うれしいよ?…あのときも俺、うれしかった、ほんとうに。
あの頃の俺はね、「男のくせに変だ」って言われることが多くて…花とかケーキとか、料理が好きって言うと、ね?
それでね、両親以外と話すことが怖くなってて…でも、光一が受けとめてくれた。だから俺、人と話すことがね、出来たんだ」

なつかしい記憶の哀しみと喜びが今も温かい。
こんな大切なことを自分は13年間ずっと眠らせていた、こんなに弱い自分が赦せない。
だから今から少しでも強くなりたい、素直に微笑んで周太は正直に言った。

「あのとき俺、心から光一を大好きになった。また逢いたくて、もっと話したかった。
あれから毎日、庭の山桜の下で空を見て、アーモンドチョコ食べて…光一に逢えること楽しみに待ってた。
それなのに…忘れていて、ごめんなさい…光一に逢いにね、父と一緒に行く約束だったんだ、それで…それで、
俺ね、小十郎のこともずっと、忘れていたんだ…このあいだ、光一の記憶が戻って、それで…やっと思い出せたんだ」

正直な想いと一緒に涙ひとつ零れて、微笑んだ頬を伝っていく。
その涙を細い目が泣きながら見つめて、涙に白い頬よせてくれた。

「俺のこと、本当に好きでいてくれたんだ?…でも、オヤジさんとの約束だったから…ショックで、記憶ごと俺は眠ったんだね?」
「ん、そうなんだ…俺が弱かったんだ、俺が、もうすこし強かったら良かった…ごめんなさい、光一。ほんとうに、ごめんね、」

もしあのとき忘れなかったら?
今日の午後も書斎で思いめぐらした「もし」が痛い。
けれど今もう過ぎ去った時間は戻らない、微笑んで周太は正直な想いを告げた。

「今も光一のこと、好きだよ?でも英二とは違う好きなんだ…それに、英二のことで光一には嫉妬もする。
光一は、英二と一緒に最高峰に行ける。それが、やっぱり羨ましいから嫉妬しちゃうんだ…でも、光一のこと大切なんだ。
あのとき、銃口を向けたこと…ほんとうにね、後悔してる。俺の所為で、光一にまで罪を負わせて…後悔してる。
どうしたら償えるんだろう、って、ずっと考えてる。光一を忘れたこと、光一に銃を向けたこと、罪を負わせたこと。
そしてね、どうしたら光一に、幸せに笑って貰えるだろう、って考えるよ?…英二とは違う方法だけど、それをね、探してる」

これが正直な自分の想い。
英二のように愛することは難しい、けれど大切に想う気持ちも本当。
こんなの狡いかもしれない、けれど本音を偽れば逆に相手を傷つけてしまう。
まして光一は人間の本性も本音も真直ぐ見抜く、だから今も周太を掴まえて訊き出そうとしている。
だからこそ、周太を掴まえる白い腕はこうして力をゆるめない。

「罪を負わせてもらったことはね、気にすること無いよ?周太、」

テノールの声が低く笑っている。
背中に伝わる早い鼓動のままに光一が微笑んだ。

「あれはね、俺にとったらアンザイレンのザイルのようなモンだ。俺にとっちゃ好都合だよ?
君の罪を俺が被ればね、やさしい君は俺への罪悪感に悩まずにいられない。そして今も、そう言ったね?
これで君は、もう2度と俺のこと忘れられないはずだ。俺は君の初恋相手、そのうえ君の罪を背負った男だよ。
そして俺は君の婚約者のパートナーだ、生涯ずっと、公私ともにね…もう君は絶対に俺を忘れない。ほんとに、俺の願った通りだ、」

透明なテノールが本音に笑っている。
底抜けに明るい目が、周太の肩越に覗きこんで大らかに微笑んだ。

「俺は確信犯なんだ。偶然のように起きたことも俺は全部、利用する。そして君を掴まえてるよ。
君を愛している、君の笑顔が見られるなら何だってするよ?だから、君から離れろと言う願いだけは聴かない。
もう忘れられたくない。たとえ独占め出来ないと解っていても、俺はもう君から離れない。あの14年間の孤独は繰り返さない、」

もし、光一が諦められるなら。きっと14年の間にとっくに諦めていた。
いまも周太は、光一の大切なアンザイレンパートナーの婚約者としてここに居る。
それでも光一は抱きしめて、この今も周太の本音を掴まえようと掴んで逃がさない。
こうなのだろうと解ってはいた。けれど今、こうしてぶつけられる想いが痛い。
ちいさな溜息を心に見つめて、そっと周太は尋ねた。

「…もし俺が、光一が傍にいることに頷いたら。それが、償いになる?」

ことん、大きく背中ごし1つ鼓動が跳ねた。
けれど透明なテノールの声はいつものように微笑んだ。

「たとえ君が拒絶しても、関係ない。わがままな俺だからね、好きにするよ?…嫌われても、ね」

もう光一の想いから逃げられない。
そしてこのことを、英二はもう光一と話して知っている。
だから英二は婉曲に「光一の想いを一度は叶えてほしい」と伝えてくる。
こんなふうに英二は光一の想いごと、大らかに周太を愛し受けとめてくれている。
そんな英二だから尚更に自分は愛してしまう、想い素直に周太は微笑んだ。

「俺はね、英二を愛してる、ずっと傍にいたい…それでも良いなら、光一、傍にいて?
光一はね、恩人で、大切な初恋のひとだよ?ほんとうに、大好きなんだ…英二とは違うよ、でも、嫌いになんてなれないよ?」

抱き締める腕の力はゆるめずに、それでも明るい目が哀しげに周太を見つめてくる。
哀しい気配を隠さないまま、透明なテノールが真直ぐ問いかけた。

「じゃあ、なぜ?嫌いじゃないなら、なぜ、俺から目を逸らした?」

すこし鼓動がゆるくなる、けれど腕の力はゆるめずに抱きしめていく。
ふれてくる肌がまばゆくて、水仙のような香が透明にあまくて、息が詰まりそうになる。
それでも周太は心裡ひとつ呼吸して、気恥ずかしさにも口を開いた。

「あのね…光一がね、あんまり綺麗だから、その…きはずかしくてみれなかった、はだかなんだもんこういち、」

恥ずかしさに首筋から熱くなる、もう真赤だろう。
こんなこと本当に困ってしまう、どうしたらいいのだろう?
こんなことで困っている自分はきっと、ほんとうにえっちなんだ?
そう思うほどまた赤くなって困っていると、心底から愉しそうにテノールの声が笑ってくれた。

「なんだ、周太?俺のはだか見てさ、欲情しそうで恥ずかしがってくれた、ってワケ?」

どうしてこのひとっていつもこうなの?
並べられた言葉が恥ずかしい、けれど愉しそうな声になってくれたのは嬉しい。
でも本当に困ってしまう、困りながら周太は真赤な顔で素直に頷いた。

「恥ずかしいよ?…でもよくじょうとかはわかんない…でも、気恥ずかしくて困るよ…ね、離してよ?」
「嫌だね、」

あっさり断って光一は周太を抱きしめた。
端麗な白い肌からふれる鼓動が早い、ふれる頬を離さないで透明なテノールの声が微笑んだ。

「俺の体にも周太、惹かれてくれるんだ?…期待したくなっちゃうね、」
「期待?」

なんの期待だろう?
思わず訊きかえした周太に、可笑しそうに笑いながら頬寄せてくる。
愉しげに光一は周太の耳元にキスをすると、ようやく腕をほどいて離してくれた。

「これで今日は3度目だね?今日はね、マジでイイ日だよ。俺にとっては、ね」

いつもの底抜けに明るい目が笑ってくれる。
いつも通りの光一にほっとしながら、周太は熱い耳元を掌で撫でた。

「ん、そうなの?」
「そうだよ。さて、今から俺、下も全部脱ぐよ?コッチも綺麗だけどさ、周太、見ていく?」

悪戯っ子に細い目を笑ませて、光一は白い指をウェストのボタンにかけた。
そんな子供みたいな悪戯っ子の表情が、なんだか可愛くて周太は赤い顔のまま笑った。

「えんりょします、おふろゆっくりね?」

洗面室の廊下にでると、ぱたんと扉を閉じて息を吐いた。
さっきここを開いて入った時は、こんなことになるなんて思わなかった。
ぼんやりしそうな頭をひとつ振ると、周太はスリッパの足を踏出した。
その途端、ふっと水仙に似た香があまく昇って周太は立ち止まった。

光一の香が移ってしまった?

こんな残り香には途惑ってしまう。
すこし考えて周太は踵を返すと、階段を昇って自室の扉を開いた。
そのままバルコニーの窓を開いて外へ出ると、大きく深呼吸に空を仰いだ。

「…今夜、英二、一緒に寝てくれるかな?」

見あげる夜空の星に、ぽつんと独り言がこぼれ落ちた。
ほんとうに今夜はひとりにしないでほしい、英二に一緒にいてほしい。
そんな想いで吹かれていく夜の風は、庭に咲く花の香を誘ってくれる。
やさしい山茶花、華やかな冬ばら、夜梅の香。
早春の香こめた夜風の冷気は、熱る頬をゆるやかに撫でていった。



着替の準備を持って階段を降りかけると、ホールに扉が閉じる音が響いた。
廊下から階段を足音が昇ってくる、母と違う足音は英二、それとも光一だろうか?
思いながら階段を降りていくと、踊場のところで光一に笑いかけられた。

「良い風呂だったよ、ありがとね」

さっきの後だから緊張しそうになってしまう。
たぶん首筋が赤くなっている、それでも周太は微笑んで見上げた。

「ん、気に入って貰えたなら良かった…英二、入ったところ?」
「うん、いま入ったよ。ほんとは覗きに行きたいけどね、さすがに今日は遠慮するよ、」

今日は。って言った?
ちょっと頭がショートしかけながらも周太は訊いた。

「あの、今日は、って、どういう意味?」
「そのまんまだけど?」

底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑い出している。
笑いながら愉しげにテノールの声が教えてくれた。

「いつも寮ではね、宮田と一緒に風呂に入ってるんだよ。まさに水も滴る別嬪でさ、癖になっちゃって」

このひといつもなにしてるの?
嫉妬もさすがに起きてきそう、けれど何を言えばいいのかも解らない。
ぼんやり見上げていると、あかるい細い目が笑んで周太の瞳を覗きこんだ。

「ほんとはね、君と一緒に入りたいけどさ、」

さらりと言うと光一は「部屋にいるよ、」と笑って行ってしまった。
いま何て言われたのだろう?途惑うまま周太は階段に座りこんだ。
なんだか光一に振り回されている、あれは本音なのだろうか?
それとも転がして楽しんでいるだけ?

「…転がしているだけ、かな?」

さっき洗面室での光一は真剣だった。
けれど今の光一は冗談を言っているようにも見える。
なんだかよく解らない、ほっと溜息を吐いて周太は立ちあがった。
階段を降りてリビングに入ると、ソファで寛いでいた母が微笑んだ。

「周、ホットミルク飲む?いま作ろうかなって思って」
「ん、飲みたいな?」

温かいミルクをマグカップに注いでもらって、リビングの安楽椅子に周太は座りこんだ。
ゆっくり飲むと温もりが体をことんと落ちていく、ほっと息つくと母が笑いかけてくれた。

「光一くん、素敵で、不思議だね?」
「ん、…不思議だね、光一は」

本当にそうだと思う。
素直に頷いた周太に、穏かな黒目がちの瞳が微笑んだ。

「周太のこと、ほんとうに好きなのね、光一くんも」

穏やかな声が告げてくれる。
母の目から見て、そうなのだろうか?
首筋に熱が昇るのを感じながら、周太は黒目がちの瞳を見つめた。

「ん、…俺も好きだよ?でも…英二とはね、やっぱり違うなって思う…」
「そっか。お母さんも、光一くん好きだよ?」

ひとくちマグカップに口付けて、ほっと息吐いた。
穏かに周太を見つけながら、母は微笑んで言葉を続けてくれた。

「英二くんね、さっき2階のホールで全て話してくれたの。周とのことも、」
「…そうだったの?」

帰ってきてすぐ母は英二とふたり話していた。
周太からも母には話してあることだろう、それを英二もきちんと話してくれた。
こんなふうに真摯に母とも接してくれる、そんな英二が周太には嬉しかった。
嬉しくて微笑んだ周太に、母も嬉しそうに笑いかけてくれた。

「また大人になったね、英二くん。そして素敵になった、でしょう?」
「ん、そう思うよ?」

きちんと母も英二を見てくれている、それが嬉しくて周太はきれいに笑った。
楽しそうに母も笑ってくれながら、明るく微笑んで話してくれる。

「英二くんね、春になったら奥多摩に来て、って誘ってくれたのよ。山に行きましょう、って」
「ん、いいね?…4月だね、きっと」
「そうね。桜が咲いているかな?」

そんなふうに話していると、洗面室の扉が開く音が聞こえた。
それからリビングの扉が開いて、大好きな笑顔が覗きこんでくれた。

「お先に風呂、すみませんでした。国村は上ですか?」
「ええ、おやすみなさい、って声かけてくれたわ」
「じゃあ俺も、上に行かせてもらいますね?おやすみなさい、お母さん」
「はい、おやすみなさい、」

きれいな笑顔で英二は笑いかけて、周太に「またあとでね」と微笑んでくれた。
さっきの洗面室での光一のことを、英二は聴いて受けとめてくれるのだろうか?
今夜は一緒に寝てくれるのかな?そんなことを考えながら、周太は母に訊いた。

「ね、お母さん?…お客様用ふとん、2枚、敷いたでしょ?」
「今夜はね、そのほうがいいでしょう?」

悪戯っ子に黒目がちの瞳が笑っている。
これ以上へたなことは言わない方が良いな?周太はマグカップからミルクと一緒に言葉を飲みこんだ。
そんな息子を見ながら母は、悪戯っ子な目のまま口を開いた。

「ね、周?3月の最初の金曜日はね、お母さん、帰りは翌お昼です」
「え、…だって土曜日はお節句なのに。英二も金曜の夜からね、帰ってきてくれるよ?」

驚いて周太は母に問いかけた。
けれど母は悪戯っぽく笑いながら教えてくれた。

「うん、英二くんにも聴いたわ。土曜のお昼には戻るね?
 今年はね、お節句の前夜祭しよう、って、いつもの温泉のお友達と、もう約束しちゃったの。行ってきていいかな?」

いつもの「温泉のお友達」は母の会社の同期のひとで、ずっと母は親しくしている。
結婚して職場から離れていた間も親しくて、ちいさい頃に周太も会ったことがある人だった。
その人との大切な約束をダメだとは言えない、すこし寂しく想いながらも周太は素直に頷いた。

「ん、いいよ?楽しんできてね…そのひと、お昼にお招きする?」
「周と英二くんが良いんなら、声かけちゃおうかな?…ね、周。明日の朝のことなんだけど、」

愉しそうに母が笑って明日の朝の提案をしてくれる。
この提案は周太にとって気恥ずかしい、けれど楽しんでもらえるだろうか?
そう思って周太は母の提案を手伝うことにした。




(to be continued)

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第37話 冬麗act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-28 23:57:16 | 陽はまた昇るanother,side story
陽だまりの場所、




第37話 冬麗act.3―another,side story「陽はまた昇る」

見あげる先で英二が困った顔で微笑んでいる。
いま周太が言った「ふとん干したから言うこと聴いて?」に困っている。
そんな英二を愉しげに眺める光一の、底抜けに明るい目が「言うねえ?」と周太に温かく笑んでくれた。
そんな光一の大らかな無償の愛が優しく心に痛む、けれどいま自分はワガママでも正直を通す。

3つの晩と3日の間を厳冬の北岳で2人は過ごした。
そんな余人が踏込めない場所で光一は英二を完全に独り占めしていた。
けれど光一は周太のことを求めてくれている、それなのに周太から英二を連れて行ってしまう。
それは英二自身も望んで選んだ最高峰への道だと解っている、だから尚更に羨ましい。
こんなふうに光一は、心から英二が望む夢の場所に連れて行ける、それが妬ましい。
光一のお蔭で英二の夢が叶えられることが嬉しい、けれど羨ましいのも本音。

だから、この家に帰ってきたときは英二を返してほしい。
すこしでも多く長く、安心して英二と一緒にいられる時間がほしい。
こんな本音が光一を傷つけると解っている、けれど偽ればもっと傷つけるだろう。英二を傷つけたように。
だから今も自分は正直に、一番大切にしたいことをワガママでも言いたい。

光一が今夜は一緒に泊まっていく。
それなのに英二に「一緒に寝てね?」と周太はおねだりをした。
こんなおねだりは真面目で優しい英二をきっと困らせる、それでも周太は正直に伝えたかった。

…こんなのワガママでしょ?でも、言うこと聴いて?愛しているぶんだけ一緒の時間がほしいな?

想い見つめながら言った言葉に、英二はすっかり困っている。
こんなに困っていても英二の笑顔はきれいで、こんな笑顔も周太は好きだった。
きれいな困っている笑顔に見惚れていると、困り顔のままで英二が階段の方へ踵を返した。

…あ、待って、

心につぶやいた時はもう、周太は英二の懐に抱きついていた。
しがみついた懐は、いつもの深い樹木の香と花束に抱えたオールドローズの香があまく温かい。
思いがけない行動に自分で恥ずかしい、けれど心に正直な行動がきちんと出来て嬉しい。
気恥ずかしさに頬までもう熱い、それでも周太は大好きな顔を見あげて微笑んだ。

「おかえりなさい、英二…今日は、ひとりにしないで?」

きれいな切長い目が大きくなって、きれいな首筋が赤くなり始めた。
端正な白皙の貌に大らかな、幸せな笑顔が華やいでいく。
言うこと聴いてくれる?想いと見あげる周太をやさしい腕が抱きしめてくれる。
やさしい眼差しが周太の顔を覗きこんで、きれいな低い声が微笑んだ。

「うん、ひとりにはしないよ、でもね、」

ひとりにはしない、は嬉しい。
でもね、は続く言葉が不安にさせられる。
なんて言うつもりなの?見上げた端正な顔の隣に、不意に雪白い顔が覗きこんだ。
英二の肩越から、底抜けに明るい目が周太に「内緒だよ?」と笑いかけてくれる。
光一は何をするつもり?そう目で問いかけた途端、長い腕が英二の肩をがっちり抱きこんだ。

「周太…っ、くにむら?」

底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
笑った細い目が英二と周太を肩越しに見比べて、透明なテノールの声が愉しげに笑った。

「そうだよ、周太?君のこと、ひとりになんかしないよ。で、ちゃんと俺も混ぜてもらうからね?」

がっしり背中から英二を抑え込みながら「俺のこと忘れないで、一緒にいさせて?」と明るい目が笑ってくれる。
つきん、と心を明るい目の告げる願いが刺して痛い。この願いの底にある真実の願いを、自分は本当は知っているから。
それでも光一は愉快に笑って、今夜も愉しく一緒にいようと誘ってくれる。
いまなんて答えたらいい?微笑んで正直に周太は拗ねた口調で訴えた。

「…そんなのダメ、光一、俺のことあいしてるんでしょ?だったらいうこときいて?英二は俺のなの、放して、」

光一のこと自分も大好き。
けれど英二のことは誰にも譲りたくない、とくに今日はもう光一には譲らない。
だって3つの晩を誰にも邪魔されない場所で、英二を独り占めしたんでしょう?だから放してほしい。
そんな想いで見上げた先で、きれいな細い目は愉しげに笑って周太に宣戦布告した。

「嫌だね。俺もさ、君に負けない程、あまえんぼでワガママなんだよ。悪いけどね、宮田は俺のでもあるんだ、」
「それは、アンザイレンパートナーかもしれないけど…」

生涯のアンザイレンパートナーは人生の宝物、そう父も教えてくれた。
だから光一と英二が、どんなに尊く大切な存在同士なのか周太も解かっている。
しかもいま英二と並んでいる光一の笑顔は、やっぱり英二の笑顔と似合いに美しくて見惚れてしまう。
この並んだ美しい姿に一瞬だけ退きさがりそうになった、けれど周太は真直ぐ見返して口を開いた。

「でも、俺に全部くれるって、英二は言ったんだから。放してよ、」

英二から周太に言ってくれた。
俺の全ては周太のもの、自分はもう周太の恋の奴隷だから好きにして?
そんなふうに言ってくれたから、自分は退かない。みっともなくても放さない。
絶対に退かないんだから?そんな想いと見つめた光一の目が、愉しげに温かに笑んだ。

「ダメだね、周太。こいつはね、俺のアンザイレンパートナーだって警視庁も認めたんだ」

俺だって退かないよ?
愉しげに細い目が周太に笑いかけてくる。
愉快で仕方ない、そんな顔で英二の顔の隣からテノールの声が権利を主張した。

「それってね、一生ずっと俺のパートナーで、かつ俺のブレインになるってコトなんだよね。だから俺の好きにさせてもらうよ?」

確かに君のこと愛してるよ?でも俺はこいつも大好きだから放さない。
そんな正直な想いのまま光一は、がっしりと英二を背中から抱きしめて放さない。
この正直な光一の姿を見ていると、自分も正直にワガママ言っても良いんだと肯定できてしまう。
俺もワガママして正直やるよ?だから君も正直にワガママいっぱい言おうよ?
そんな「正直でいること」への全面的な肯定が、光一の態度から温かい。

…3人でいる時も、ワガママがんばって、正直でいよう

すとんと肚が決って、なんだか楽な気持ちに周太はなった。
こんなふうに光一も楽な気持ちでいるのかな?
そう見上げた先で英二が可笑しそうに笑った。

「ちょっと、国村?確かに言う通りだけどさ、好きにして良いってことは無いだろ?」
「そんな固いコト言うんじゃないよ。ね、み・や・た?可愛いパートナーの俺の言うこと聴いて?…お願い、独りにしないで?」

言いながら光一が英二の首筋に白い指でふれた。
その白い指でふれた白皙の肌に、周太の瞳が大きくなった。

…なんで赤くなってるの?

光一の指が示す肌には、きれいな赤い花の模様がうかんでいる。
この赤い花に周太は見覚えがある、この記憶の花と同じ意味の花なのだろうか。
赤い花の記憶に白皙の首筋を見つめていると、大好きな声が困ったトーンで周太に訴えかけた。

「周太、俺、国村の悪戯の罠に嵌められたんだ、」

英二は「国村の悪戯の罠」だと言った、その言葉が意味するものは?
光一は悪戯が大好き、その悪戯が首筋にうかぶ赤い花だとしたら何の意味?

この赤い花は英二と眠った翌朝に、自分の体で見つけるあの痕とそっくり。

ようするにそういうこと?
気づいた「悪戯の罠」に周太の声は一段トーンが低くなってしまった。

「…どんないたずら?そのきすまーくのこと?…たのしかったわけ?」

恋の奴隷のくせに、無断で他のキスマークつけてきたの?
困っているみたいだけど、本当は楽しんじゃったんじゃないの?
わがままに正直に見つめる先の英二の顔が、心から困窮して周太を見つめた。

「寝てる間に勝手につけられたんだ、だから楽しいとか無いよ、」
「ねてるあいだに?…そんなしきんきょりでねていたってわけ?よくいみがわからないんだけど?」

こんなふうに自分が英二を尋問するなんて?
しかも英二はこの自分の尋問に困り果てて、大きな体を小さくしている。
こんなに英二は綺麗で大きな体をしている、高峰を踏破できる才能も大人の男の魅力も備えている。
それなのに周太の子供っぽい尋問に「お手上げです」と赦してほしいと笑いかけてくれる。
ほんとうに困り果てた笑顔で周太に「お願いだから機嫌を直して?」と困ってくれる。

…そんなに困ってくれるほど、俺のこと、すき?

困った笑顔に示される想いが嬉しくて、素直に周太は英二に笑いかけた。
そんな周太に嬉しそうに笑いかけて、きれいな笑顔で英二が口を開きかけてくれる。
なんて英二は言ってくれる?嬉しく見上げた肩越しからテノールの声が笑った。

「ソンナ至近距離だよ、周太?あまえんぼの俺はね、シッカリくっついて寝ていたんだよ。
で、おしゃぶりが欲しい俺の口元にさ、そりゃあ美しい白皙のうなじがあったってワケ。だから遠慮なく吸わせてもらったけど?」

言われた途端に額まで熱が一気に昇った。
いま愉しげに笑っている光一の花紅の唇が、きれいな英二の白皙の肌に吸いついて?
この連想からうかんだ光景を、きれいだと心で見惚れて恥ずかしい。

…こんなそうぞうするなんて、じぶんはえっちだ

こんな自覚が余計に恥ずかしくて顔が熱くなってしまう。
けれど自分は正直に自分の権利を主張したい、真直ぐ光一を見て周太は抗議の声をあげた。

「…っ、光一のばか、そんなことかってにしないで?俺のなんだから…かえしてよ、」
「ふうん、返してほしいんだね、周太?」

ちゃんと正直に言い返せたね?
そんなふうに底抜けに明るい目が笑いかけてくれた。
光一らしい遣り方で、周太を正直にさせようと気遣ってくれている。
気遣いへの感謝に笑いかけた周太に、ふっと細い目がいつにない表情に微笑んだ。

「じゃあさ、キスで返してあげるよ。君のどこに返せばイイ?うなじ?それとも唇?」

なんていってるの?
空白の瞬間にひとつ瞬いて、周太はまた真赤になった。
言われた言葉に途惑って、それ以上に光一の表情に途惑ってしまう。
途惑いのまま周太は口を開いた。

「ちがうったら…もう、からかわないでよ?」
「遠慮は要らないよ、ほら、」

不意に廻り込んだ光一の腕が周太に伸ばされた。
掴もうと伸ばされる腕を身軽に避けると、周太は英二の背後に回り込んだ。

「やめて光一?そんなことするなら泊めてあげない…」

言いながら光一を見あげて周太は一瞬だけ息を呑んだ。
いつも底抜けに明るい目が、いつもと違う。

…どうして、そんな目で見つめるの?

途惑いが心にこぼれていく。
けれど周太は真直ぐ光一の目に笑いかけた。

「言うこと聴いて?」

周太の言葉に、細い目はまた愉しげに笑ってくれた。
そして愉しげに明るいテノールの声が、いつものように周太を転がし始めた。

「残念。今日は俺、おふくろさんのお客だからさ。周太にそんな権限ないよね?ま、どうしてもって言うなら、宮田も連れて帰るけど?」

言われる通り、自分にその権限はない。
いつもながら光一の怜悧な論理に反論が出来ない、それに「連れて帰る」が余計に悔しい。
そんなふうに「連れて帰る」って言えるのなら、この家に帰ってきた今は英二を独り占めさせて?
そう言いたいけれど時おり見せる光一の目に言えなくて、周太は短い質問だけをした。

「どうして英二も連れて帰るの?」
「だってさ、明日の朝もし雪だと電車NGになるだろ?それで宮田の出勤が出来ないと、そりゃ困るからねえ。ね、み・や・た?」

愉しそうに光一が英二の顔を覗きこんだ。
さっきから切長い目は困ったように周太と光一を眺めてくれている。
困った顔のままで英二は少しため息つくと、周太に微笑んでくれた。

「あのさ、俺、周太のコーヒー飲みたいな?オレンジのケーキも買ってきたんだけど、」

抱えていた白いきれいな箱を、英二は周太に手渡してくれる。
渡された大きな箱からは、ふわりオレンジと蜂蜜の甘い香がやさしい。
また英二は自分が好きなものを見つけてきてくれた、この気遣いが嬉しい。
それに「周太のコーヒー」と言ってくれた、これは生涯ずっと守る約束のひとつでいる。
英二がくれる気遣いと温かい約束の想いが幸せで、周太は素直に頷いた。

「ん、お茶にするね?コーヒー淹れるから…部屋、いつもみたいに自由に使ってね?ハンガーとか出してあるから」

温かい幸せと一緒にケーキの箱を抱えて、周太はダイニングへと踵を返した。
ぱたんとダイニングの扉を閉めて、ケーキの箱をサイドテーブルに置いたとき花の影が目にふれた。
ダイニングの窓からは、白梅の花枝が可憐な姿で覗きこんでいる。
やさしい花の姿に心ほどけて、ほっとため息が零れた。

「…なんだか、緊張してた、かな?」

英二の気遣いが嬉しくて「愛されている」自信と安心が幸せだった。
けれど光一の目の表情が気になった、どこか緊張してしまう。
そんな2つの対照的な想いがため息になってこぼれた。

…どこか光一は様子が違う?

哀しそう、だった?
嬉しそうだったろうか?
優しいようにも鋭いようにも見えていた?
その違いは目の表情だけで一瞬だった、だから見間違えかもしれない
なにか、よく解らない。それに英二は特に気がついてはいないようだった。
たんなる自分の思い違いだろうか?

「…ん、気の所為かな?」

つぶやいた向こう、窓のぞく白梅が可愛らしくて心がほぐれる。
寛いでくる心の余裕が、すこし自分に距離を置いて見つめさせてくれる。
きっと光一の想いを意識しすぎた自分の考えすぎかもしれない、すぐ考えこむ癖が自分はあるから。
きっといまは、考えてこんでいるより手を動かした方が良い。

「そう、今はね、コーヒー、」

大切な英二との約束に周太は幸せと微笑んだ。
台所の隅から踏台を持ってくると周太は戸棚からサイフォンとハンドミルを出した。
昔から家にあるけれど実家を出てからは忙しくて、なかなか使えないまま仕舞いこんである。
けれど今日は時間があるし、母の客として来た光一にお持成しもしたい。
たぶん光一と英二は2階で一息いれて、書斎の父に挨拶してから降りてくるだろう。
その間ゆっくりとコーヒーを淹れて、のんびりと落ち着いた時間を過ごしたい。
そう思って今日はコーヒー豆も買ってきた。

「…3人分だと、このくらいかな?」

ハンドミルに豆を入れると、丁寧に周太は挽きはじめた。
コーヒー豆の挽かれる音と香がゆっくり昇りだす。

かりり、がり…

のんびりとした豆の音が心地いい。
ふりそそぐ陽だまりに、窓からのぞく早春の花たちが心和ませる。

「白梅、水仙、雪割草に…桜草も、咲いてる?…蝋梅と、冬ばら…クリスマスローズ」

豆を挽く音を聴きながら、見える花の名前をひとつずつ周太はあげていく。
いま2月で真冬の寒さ、けれどこの庭には季節の花が咲いてくれる。
さっき南正面の庭に出た時は、もっと春らしい花が咲きだしていた。
ミモザの木には花芽がたくさんついていた、きっと今年も黄色の花が可愛いだろう。

「…あ、ミモザ、」

ふと思った花の名前に首筋が熱くなりだした。
この花の名前と同じ酒がもつ意味と、まつわる哀しみと幸せの記憶が熱になる。
この記憶の哀しみを早く拭ってしまいたい、それにはどうしたら良いだろう?

「…英二と一緒にね、飲んでもらう?でも…こんかいはむりだよね?」

さすがに光一も母もいる時では恥ずかしい。
また次回のときに英二に「おねだり」するしかないね?
そんなことを考えているうちに豆は、きれいな粉になっていた。
これを洗って準備しておいたサイフォンに水とセットしていく。
そしてアルコールランプに火を点けると、あとは待つだけになる。

ことん、ことと…

水がコーヒーへと充ちていく、やさしい音が温かい。
アルコールランプの火色がやわらかに揺れるごと、ゆるやかな芳ばしい香が昇りだす。
やさしい水音、温かいオレンジの火色、深い甘さの芳香。
そんな穏かな時間が陽だまりの台所に充たされる。

「…ん、いい香り、」

こうした昔ながらの淹れ方は手間が確かにかかる。
けれど、その手間が醸す穏やかな時間が周太は好きだった。
なにより、サイフォンで淹れると格段に香がいいし、まろやかな風味に美味しくなる。
明日の朝食でも淹れて母も喜ばせてあげたいな?そんなことを考えながら周太は食器棚の扉を開いた。

今日は光一が母の客として来てくれている。
だから今日は、もてなし用のコーヒーカップと皿のセットを出した。
きれいな青い模様の入った白い陶器は、ずっと大切に使われてきている。
この家を建てた曾祖父が揃えたものだと聴いている、けれど今も真白に綺麗だった。
この無垢で温かみある白に、家の皆が代々大切にしてきた想いがふれてくる。
こんなふうに家具や食器にふれるとき、亡き人たちが懐かしく慕わしい。

どのひとも周太は父以外には会ったことが無い。
アルバムすら無いから顔も解からない、過去帳にある名前しか知らない。
けれどこの古い家に遺されている「大切にしてきた想い」はよく知っている。
この繋がれてきた想いが愛しい、そして親族の顔すら知らない寂しさを慰めてくれる。
こんなふうに家を、家具や食器を大切にしてきた優しい人達が自分と繋がっていることが嬉しい。

「ん、…寂しいけれど、幸せだね?」

青い模様のセットを洗いあげながら、幸せに周太は微笑んだ。


サイフォンの水音が止んだ時、ダイニングの扉が開いた。
ふわりオールドローズの華やかな香と一緒に英二と光一が入ってくる。
きれいな切長い目が周太に笑いかけて、薄紅いろのブーケを示して訊いてくれた。

「ね、周太?今回の花束はどうかな、お母さん喜んでくれるかな?」
「ん、きっと喜ぶ。オールドローズは好きだから…でも、この季節によくあったね?」

ブーケを抱える英二の腕にそっとふれながら、周太は花の香に頬寄せた。
あまやかなオールドローズの香がやさしい。それ以上に、ふれた英二の腕の温もりが周太には優しかった。
やさしい笑顔が周太に笑いかけてくれながら、きれいな低い声が花のことを話しだした。

「うん、国村がね、ばら園に連れて行ってくれたんだ。そこで花束を作って貰ったんだよ」
「そうなんだ?…ばら園、すてきだね?」

答えながら周太は光一を見あげた。
見あげた先で底抜けに明るい目が嬉しそうに笑って、透明なテノールが微笑んだ。

「ばら園っていってもね、花卉農家の栽培用温室なんだ。ウチの親戚でさ、寄ると土産に花をくれるんだ」
「花の農家なの?…素敵だね、」

オールドローズが咲く温室はどんなだろう?
いま英二が抱える花々の蕾ほころんだ姿に、見たことの無い光景を見つめて周太は微笑んだ。
一緒に花をのぞきこんだ明るい細い目が周太に笑いかけると、愉しそうにテノールの声が提案してくれた。

「こんど連れて行ってあげる。だからさ、また俺とデートしてよね?」

デート、なんて言われると緊張してしまう。
すこし首筋が熱くなるのを感じながら英二を見あげると、大らかな優しい笑顔が周太に笑ってくれた。

「よかったね、周太。すごく佳い香だったから、連れて行ってもらうと良いよ?きっと、周太も好きだと思う」
「そう?…じゃあ、こんど連れて行って、」

英二の言葉に素直に頷いて、光一を周太は見た。
嬉しそうに頷いてくれる光一の胸元に、初めて周太は気がついて目が留められた。

「光一、その寄植、きれいだね?…奥多摩の花?」

きれいな水仙と野すみれ、雪割草。
ほかに何種類かの山野草を大きめの水盤に造った苔玉に寄せてある。
盆栽のように巧みに作られた寄植は見事で、玄人が作ったような雰囲気だった。
すごいなと見惚れていると、愉しそうにテノールの声が教えてくれた。

「そうだよ、俺んちの山から掘ってきたんだ。
宮田、いつも花束を持っていくって聴いてるからさ?俺は寄植にしたんだ。これなら車に置いといても平気だったしね」

「光一、自分でこれを作ったの?…すごいね、」

巧みな技に驚いて周太は素直に褒めた。
美しい鉢植から、やさしく清々しい水仙の香が瑞々しい。
きれいだなと微笑んだ周太に、底抜けに明るい目が珍しく照れたように笑いかけた。

「まあね。高校で、こういうのも教わったしね。それにさ、花束は宮田が似合いすぎだろ?
こいつの隣で花束を贈っても、見劣りしちゃうしさ。こういうほうが喜んで貰えるかな、ってね。これ、どこに置いていいかな?」

「素敵だよ?母も喜ぶと思う…置くの、リビングの暖炉の上とか、どうかな?」

あの場所だったら、廊下からリビングに入ってすぐ気がつくだろう。
そうしたら母もすぐに見て、きっと喜んでくれるだろうな?
こんなふうに考えながら周太は英二を見あげると、きれいな低い声が笑ってくれた。

「うん、良いと思うよ?周太、お茶のしたく手伝おうか?」

やさしい気遣いが嬉しくさせてくれる。
ほんとうは一緒に仕度をしたら嬉しいだろう、でも光一をひとり放っておくのは悪い。
ほんとうは光一だって忙しいだろうに寄植を母の為に作ってきてくれた、この優しい気遣いに自分も応えたい。
そのほうが英二もきっと喜んでくれるだろう、ちいさく頭を振って周太は微笑んだ。

「ありがとう、英二。でも、疲れてるでしょ?光一と、リビングで寛いでいて?…応接セットのほうに、お茶を出すね、」

周太の言葉に、やさしい綺麗な笑顔が咲いてくれる。
切長い目が見つめて、きれいな低い声が幸せそうに笑いかけてくれた。

「気遣わせちゃったね、周太?でも、ありがとう。甘えさせて貰うよ、」

うれしそうな笑顔が幸せで周太は微笑んだ。
ふたりがリビングへ入って行くのを見送って、周太はケーキの箱を開いた。
ふわりオレンジと蜂蜜のあまい香がやさしく頬撫でる、生のオレンジも使ってあるのが好みで嬉しい。
きっと、周太の好みに合うようなケーキを探してきてくれた。うれしくて周太は微笑んだ。

「…気遣ってくれたのはね、英二の方だよ、ね?」

こんなふうに気遣ってくれた英二の想いに、すこしでも応えたいな?
うれしくケーキを見ながら周太は、ケーキをカットし始めた。
用意しておいた藍模様の皿に取り分け終えたとき、ふっと馴染んだ気配に周太は振り向いた。

「周太、ケーキ運ぶよ?」

大好きな低い声がすぐ隣で笑ってくれる。
さっき遠慮したのに、頃合を見計らって英二は来てくれた。
ほら、やっぱり気遣ってくれるのは英二の方。
こんな優しさが嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、…ひとりにしないでくれて、ありがとう、」

ここならリビングから見えないはず?
うれしい気持ちに正直になって周太は長身の懐に抱きついた。
おだやかな樹木の深い香が、温かな鼓動と一緒にやさしく頬ふれる。
大好きな香と温もりに、3つの晩の寂しい想いがほどけて温められていく。

…逢いたかった、

心ことんと零れた想いに、ふっと瞳の奥へと熱が昇ってこぼれ落ちた。
涙に温めらる頬を長い指の掌がくるんで、やさしく上向けてくれる。
上向いた周太の瞳に、やさしい切長い目がきれいに微笑んだ。

「逢いたかった。愛してるよ、周太…」

きれいな唇が唇ふれてくれる。
やさしいキスの温もりに、寂しくて拗ねていた心が受けとめられていく。
台所ふる陽だまりと頼もしい腕が、おだやかに心ごと抱きとめて温めくれる。
3つの晩に積まれた嫉妬も羨望も、やさしい温もりにきれいに溶けさった。

…英二、ずっと想ってくれていた…

そっと静かに離れていく唇に、ゆっくり瞳を披いていく。
そして愛されている自信が微笑んで目を覚ます。

「ん、愛して?愛してるから…ね、幸せだよ?」

おだやかな安らぎに心から周太は微笑んだ。




(to be continued)

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第37話 冬麗act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-27 23:50:55 | 陽はまた昇るanother,side story
迎えて、微笑んで、




第37話 冬麗act.2―another,side story「陽はまた昇る」

夕食の下拵えまで全て終えると14時になっていた。
これで後は、ふとんを取込めば仕度は終わりになる。
これで時間の余裕がすこし出来た、この余裕が嬉しくて周太は微笑んだ。

「…ん、お父さんに話す時間が、出来たね?」

今日は急いで支度を始めたから、まだ書斎にゆっくり座っていない。
けれど今日は父に聴いてほしいことが沢山ある、いつもの紺色のエプロンをしたまま周太は書斎の扉を開いた。
書斎机は活けたばかりの白梅が清々しい、可憐な花に微笑んで周太は書斎椅子に座りこんだ。
白い花の翳では父の笑顔が写真立てに咲いている、大好きな笑顔に周太は笑いかけた。

「ね、お父さん?もうじきね、英二が帰ってきてくれるよ?…それでね、光一も来てくれるよ?」

14年前に雪の奥多摩で父と光一は会っている。
あのとき周太は危うく雪の森で迷子になるところだった。
うさぎの足跡を雪の上に追いかけて、気がついたら森の奥深い所に周太はいた。
そこには大きな山桜の木が、雪の花を陽に輝かせて佇んでいた。
この木の下で9歳の周太と光一は出逢った。

「…お父さん?あのとき光一に逢えなかったら、俺は森で迷子になっていたね?」

大きな木を見つけて嬉しくて、幹にふれて輝く梢を見あげた。
どんなふうに花が咲くだろう?どのくらい昔から佇んでいるの?
そんな質問を山桜の木に心で問いかけているうちに、気がついたら光一が立っていた。
透明に白い肌と桜いろの頬、赤い唇と真黒な髪、きれいな明るい瞳をした背の高い少年。
あかるい透明な笑顔がきれいで、雪みたいに白い肌が雪ん子みたいだと思った。
そして、不思議と話しやすかった。

「お父さん、俺ね、自分が普通と違う、って、あの頃に気がついたでしょう?
花が好き、料理もケーキも好き…それを『男なのに変』って、ダメだって言われて…小十郎のことも言われて、哀しくて。
それで、お父さんとお母さん以外の人と話すの、ちょっと怖くなっていたんだ…でも、光一はね『好きだよ』って言ってくれた。
それが本当に嬉しかったんだ。ありのまま俺を見て『好き』になってくれる人が、お父さんとお母さんの他にもいるんだ、って…」

木、花、山、光。
どれも好きな言葉ばかりを透明な声が話してくれた。
愉しげな細い明るい目は大らかで温かで、優しかった。
あんなふうに家族以外と寛げたことは、周太には初めてだった。
あのとき光一と出逢っていなかったら、自分はどうなっていただろう?
素直な想いと一緒に周太は父に微笑んだ。

「ね、お父さん?あのとき光一がね、俺を受けとめてくれたでしょう?
だから俺はね、他の人とも話していこうって想えたんだ…光一と話して大好きになれて、嬉しかったから。
でもお父さんが亡くなって、光一の記憶も眠ったんだ。でもね…きっと、心は覚えていたんだ、13年間ずっと。
13年間ずっと、お母さん以外とは会話しなかった。けれど俺、英二のことは好きになれたんだ…それってね、きっと。
心が『好きになる』ことを覚えていたから、出来たんだと思うんだ…そしてね、英二を好きになったから、光一とまた逢えたんだ」

こんなふうに最近は考えるようになった。
どちらも大切で、良く似ていて違う「好き」の感情がある。
白梅の翳で微笑む父を見つめながら、静かに周太は続けた。

「きっとね?光一と逢えなかったら、英二を好きになれなかった。
そしてね、英二と逢えなかったら、光一とまた逢うことも出来なかった…だから、ね?
きっと、どちらが居なくても、俺はダメだったね…ふたりに逢えたから俺は、人を好きになることが出来たね?
ね、お父さん?ほんとうに、お父さんが言っていた通りだね…植物や山と同じように、人の運命は不思議、だね?」

こんな不思議な廻り逢わせもある。
そんなふうに最近は想うようになった。

光一の初恋を想い出したときは、嬉しかったけれど哀しかった。
英二を裏切るような想いがして、哀しくて、どうしていいのか解らなかった。
けれど、信じて待ってくれた光一の想いを見つめたいと願ってしまった、周太に忘れられた光一の孤独が哀しくて堪らなかった。
この願いと哀しみが一息に栓を外して、記憶と想いがあふれだすよう鮮やかに甦った。
そんな想いと記憶の奔流に佇んで、ふたつの想いが静かに周太の心を見つめた。

13年間の孤独を崩してくれた英二への想い。
14年間の孤独を越えてくれた光一への想い。

どちらも大切だという心には嘘がつけない。
ふたつの想いを抱えきれなくて、この現実への「もし」に途惑って呆然とした。

もし自分が勁かったら記憶を眠らせることなく、13年の間も真直ぐ現実に向き合えただろう。
もし記憶を眠らせなければ自分は、もっと早く光一に再会して14年間の孤独に哀しませず済んだ。
もし光一と一緒に大人になっていけたなら、怜悧な光一の隣で少しは賢い自分になれたかもしれない。
それくらいに自分が勁かったら、こんな事にはならなかった。

「それくらいに俺が勁かったら…今の道よりも、きちんと賢明な道を見つけられた、かな?
もしそんな俺だったら、英二にもね、…こんなにも、甘えなくて済んだよね。そうしたら英二、もっと…幸せだったかな、って」

もし自分がそれくらい勁かったら、英二の負担は今より少なくて済んだ。
そんなふうに負担が少なければ余裕が生まれる、そして周太以外にも目を向ける事が出来ただろう。
そうしたら英二は「山」に生きる誇りを抱いたまま「普通の幸せ」を生きられたかもしれない。
こんな自分の危険な進路に共に立つことなく英二は、生きるべき場所で輝いていられた。

もし、あの瞬間に自分が勁かったなら?
父の死の知らせを聴いた瞬間に、自分が記憶を眠らせなかったら?
いくつもの「もし」が廻って、記憶を眠らせ忘れていた自分の弱さが赦せなかった。

あの瞬間の自分は10歳にもならない子供だった。
子供の精神力では、記憶の喪失も精神防衛の為に必要なのだと吉村医師は言ってくれる。
同じように後藤副隊長も言ってくれた、母も英二も言ってくれる。そうして弱さも受容れられて嬉しかった。
けれど、忘れられた当事者の光一が「仕方ない」と笑ってくれた時、自分の弱さが余計に赦せなくなった。

あんなに約束したのに忘れた自分を赦してくれる光一。
そんな光一の変わらない純粋無垢な優しさに、幼い日のまま想いは甦っていく。
そうして想いが甦るほどに自分の弱さが嫌で、こんな自分が尚更に赦せなくて自棄になる。
大きくなっていく光一への想いと自責が英二との記憶と衝突して、哀しい途惑いが心を占めた。

こんな途惑いのなかでは、英二に抱かれたくなかった。
それでも抱かれてしまった体と心の衝撃に、信頼ごと誇りも想いも砕かれてしまった。
たしかに英二の方がずっと男として優れている、けれど自分も男として認められたい気持ちがある。
いちばん愛する存在だからこそ、いちばん対等に自分を認めてほしかった。

「俺ね、お父さん?…英二には、いちばん認めてほしいんだ、俺のこと。
だから警察学校の時はね、うれしかったんだ…いつも英二、俺に勉強を訊きに来てくれて。トレーニングの時もそう。
好きな人だからね、素敵だなって認めてほしくて…認めてもらえると、英二に少しは相応しい自分なのかな、って思えるから。
だから…だから、無理に体のことされたくなかったんだ…だって俺も、男だから。男として体力とか、体で負けるのって悔しい。
俺は小柄で、ほんとは華奢だよ?でも、認めてほしくて…だからね、英二に簡単に、ごうかんされて…好きなぶんだけ、哀しかった、」

あのとき英二に悪気はない。
ただ周太を望んでくれたと解っている、けれど「無意識」だからこそ悔しくて肚が立った。
あんなに無意識にいとも簡単に周太を征服できてしまう、この能力と態度に「同じ男」としての格差と自分の無力を暴かれた。
こんな自分でも英二の「体」を守ろうと思って威嚇発砲もした、その罪も意味も自分は英二の為に決意してしまった。
そんな自分の決意すら英二には何も解ってはもらえない、自分の想いも決意も英二には「無意味」なのだと思ってしまった。

いちばん愛する存在には、ありのまま自分を見つめられたい、そして一番に認めてほしい。
だからこそ、自分の意志に反して組み敷かれるのは嫌だった、同じ男なのに全く敵わない無力感が怖かった。
この自分は父の軌跡を追うため13年間ずっと努力して体も鍛えた、それなのに警察学校に入ってから鍛え始めた英二に敵わない。
そんな天性の能力差を見せつけられて「無駄な抵抗なんだ」と無力感に虚脱していく心と体が悔しくて哀しかった。
こんなに弱い無力な自分だから認められないのだと、男としての誇りも「恋人」としての誇りも砕けてしまった。

あの瞬間、自分を肯定してくれるはずだった存在が、全否定する存在になってしまった。
そして英二と一緒にいることが怖くなった。
結局は自分の弱さが悪い、そう解っていても自分は逃げたかった。
そんな「逃げたい」想いのままに、英二を嫌いなれたらいいと思った。

「ね、お父さん…俺ね、ほんとうは英二を嫌いになれたら良い、って想っていたんだ。
俺が本当に嫌いになって英二を拒絶出来たら、英二を俺から自由にしてあげられる…巻き込まないで済む、って。
お父さんの道を俺が辿るなんて、無茶なことだよね?…こんな俺だから、きっと無事では済まないって、解かってるんだ。
でも辞められない。そんな俺をね、英二は放っておけない…だから、俺から突き放したかった。英二を明るい道だけに立たせたくて。
だってね?英二は本当に素敵だよ、俺には勿体無い…だから、ごうかんされたの本当に哀しいけど、でも、これで嫌いになれる、って」

あのときも、もう少し自分が賢かったら、状況は変わっていた。
あのとき自分は「嫌いになれる理由が出来た」と、これで英二を自由に出来ると、そんな喜びもあった。
けれど英二は英二が犯した事にずっと苦しんでいる、そんな哀しい自責を英二にさせたくなかった。
もっと自分の気持ちを英二に伝えられていたなら、哀しい記憶を英二に作らせず済んだだろう。
そして結局こんな自分は、英二から離れられなかった。

「でも、俺、やっぱり英二から離れられなかった…だって、ごうかんされても、やっぱり好き。
あのときね、男の誇りを砕かれて嫌だったよ?もう英二を信頼できないって想った…でも、やっぱり一緒にいたいんだ。
1ヶ月、逢わずに考えて…嫌いになろうって思ったのに、ね?よけいに、逢いたくなっちゃったんだ。寂しくて、逢いたくて。
我慢しようって想ったのに…英二、美代さんと幸せになれたかもしれなかったのに…追いかけちゃったんだ、結局は…無理だった、よ?」

もう自分は結局、英二から離れられない。
こんな自分から英二は離れた方が幸せになれると、どんなに頭で理解しても心が追いかけてしまう。
この心を裏切ろうとしても無駄だった、光一との恋を想い出して惹かれても、英二への想いは色あせなかった。
光一との恋が蘇えるほど、英二への想いと比較になった。この比較が英二への想いを自覚させた。

光一とは、ときおり逢えて話せたら幸せになれる。
けれど英二とは離れたくない、ずっと傍にいて一緒にいたい。

こんな自覚が逆に強まって、もう離れられないと気づかされた。
いつもどおりに口にしたクロワッサンの香にすら、英二との記憶を見つめて恋しかった。
あのクロワッサンの香に英二が贈ってくれたキスの記憶が蘇って、過去の自分に嫉妬した。
そしてどうしても英二の隣を取り戻したくて、もう我慢できなかった。
だから美代とデートしている英二のことを、追いかけたかった。

自分で薦めて2人を会わせて、そうやって自分から離れようとした。
それなのに追いかけてしまった、みっともなくてもワガママでも英二を取り戻したかった。
追いかけて。奥多摩まで強引でも付いて行って、自責に苦しむ英二に肌まで見せて、関係を取り戻してしまった。
あんなこと自分が出来るなんて思わなかった。

「あのね、ほんとうにね…自分でも恥ずかしいこと、しちゃって…でもね、正直になれて嬉しいんだ。
あんなことして、でも英二はね、喜んで受けとめてくれて。幸せに笑ってくれてね…それが嬉しかった。
恥ずかしくても、正直な自分をぶつけて、それを嬉しいって笑って喜んでもらえて、嬉しいんだ…幸せなんだ。
これできっと、もう英二は俺からね、離れなくなる…英二が自由になるチャンス、壊しちゃったね?…哀しくて、嬉しい、よ?」

これでもう英二を自由にしてあげられない、その痛みが哀しい。
けれどもう自分は英二を喪ったら生きていけないと、離れていた1カ月で思い知らされた。
どうしても哀しくて辛くて、孤独で、英二のことばかり考えて、気がつけば涙が零れていた。
だから追いかけたかった、どうか一緒に生きてと縋りついて抱きしめられたかった。
わがままでも正直になって、英二の愛情を盾に命令してでも掴まえたかった。
そして受留められて今、英二の想いにくるまれる幸せが温かい。

「ね、お父さん?このことでね、英二をいっぱい傷つけちゃった…英二を苦しませちゃった。
そのことをね、俺、後悔してる…俺が傷つくのは良い、でも、英二を傷つけたくない。だから離れようとしたのに。
なのに…結局、離れられない。英二を傷つけたのに、離れられなかった。嘘吐いても、嫌いになろうとしたのに…出来なかった。
出来ないんだったら、ね?…最初から正直でいれば良かった、その方が英二の傷も少なくて済んだ…大切な時間まで、削ったのに」

どうせ離れられないほど自分は弱い、だからもう正直でいればいい。
どうせ離れられず英二の自由を奪うなら、すこしでも英二を傷つけず幸せになる努力をするしかない。
もう離れず生涯を共にするのなら、正直な自分を見つめて認めてもらわなければ、本当には寄りそえない。
そうして偽らない自分を見せていくことが結局は、いちばん傷つけないことになる。
それにようやく自分は、気づくことが出来た。

気づけて良かった、けれど時間は確実に過ぎ去ってしまった。
いつまでも「明日」が同じように来ることは無い、その意味を自分は知っている。
だから「今」を大切に見つめて生きることが、後悔しない一生を紡ぐことになる。
そんなふうに限られた時間なら、大切な人を少しでも多く見つめた方が良い。
けれど自分は逡巡に時間を費やしてしまった、その後悔が、痛い。

「ね、お父さん?…どれくらい、英二と一緒にいられるのかな?…ふたりの時間、どれくらいあるんだろう?
こんな俺だから、また失敗して危険な目にあって…ね?…それに英二は、山岳レスキューの現場で危険の前線にいる。
今日だって、召集があれば逢えなくなる…だから、時間を削ったこと、後悔しているよ?…俺が正直でいれば、良かった」

こんな後悔は後々から疼くよう痛みが広がってしまう、だから2度と後悔したくない。
こんな後悔から生まれた小さな決意に、気恥ずかしく周太は微笑んだ。

「あのね、お父さん?俺ね…もう後悔したくないんだ。きちんと正直に、自分の気持ちを伝えたい。
でも俺はよく解っていなくて、下手くそで…本当にワガママで子供っぽくて、みっともないふうにしか出来なくて。
それでもね?逃げたくないんだ…きちんと伝えたい、後悔しないように…お父さん、こんなダメな息子で、ごめんなさい…でも、頑張るね」

それでも、これが今の自分の精一杯。
そう言えるように、今日も一生懸命に気持ちを伝えられたらいい。
父の微笑へと素直に笑いかけて、周太は書斎椅子から立ち上がった。



屋根裏部屋のロッキングチェアーに座りこんで周太は青い本のページを開いた。
あのラーメン屋で再会したとき、青木樹医から贈られた樹木の専門書を今日も周太は持って来た。
分厚くて立派な装丁だから当然重たい、けれど青木樹医は周太の為に12月からずっと持ち歩いてくれた。
それを想ったら、この本を読みたい自分が重くても持ち歩くことは、ごく何でもない事だろう。
いつもこの椅子に座っているテディベア「小十郎」を膝元に乗せて、周太は青い本の世界を楽しんだ。

そうして読んでいくページを捲る掌に、ふっと周太は想いを留めた。
この掌が選んだ道の先にどうなっていくのか?
この道の先を想うと本当は哀しい、それでも選んだ道から逃げたくなかった。
こんな想いに気がついてくれて、英二と光一はそれぞれ受留めて想い贈ってくれた。
その贈られた想いの記憶に微笑んで、周太はちいさく呟いた。

「…竜の涙は、英二とお揃い。それから…」

光一は富士山頂から舞いふる風花を「竜の涙」と言って周太の掌に贈ってくれた。
そして英二の頬にある「竜の爪痕」とお揃いだと教えてくれた。
このことを話すと英二は、周太の掌にキスを贈ってくれた。

「俺とお揃いなんだね、周太?…これで俺、前よりもっと、周太から離れられなくなったね?」
「どうして?」
「だってね、周太?涙は心から生まれるものだろ?だから周太はね、竜の心から生まれた掌を持ったんだよ。
そしてきっとね…俺の頬の爪痕は、自分の心の元に帰りたがるよ。だから俺は、周太から離れられなくなった」

離れないでほしい、傍にいてほしい。
何があっても英二には傍にいて欲しい、だから英二の言葉が心から嬉しかった。
そして、この言葉を貰える「竜の涙」を贈ってくれた光一が更に大切な存在になった。
この掌に希望を与えてくれた英二と光一が、周太には救い手だった。

この青い本にも救いが書かれている。
いま読んでいるページに栞をはさんで、そっと周太は表紙裏を開いた。
そこには達筆な万年筆の筆跡が詞書を寄せてくれてある。
なんども読んだこの一文を、今もまた周太は瞳で読みこんだ。

 ひとりの掌を救ってくれた君へ
 樹木は水を抱きます、その水は多くの生命を生かし心を潤しています。
 そうした樹木の生命を手助けする為に、君が救ったこの掌は使われ生きています。
 この本には樹木と水に廻る生命の連鎖が記されています、この一環を担うため樹医の掌は生きています。
 いまこれを記すこの掌は小さい、けれど君が掌を救った事実には生命の一環を救った真実があります。
 この掌を君が救ってくれた、この事実にこもる真実の姿と想いを伝えたくて、この本を贈ります。
 この掌を信じてくれた君の行いと心に、心から感謝します。どうか君に誇りを持ってください。 樹医 青木真彦

「…生命の一環を救った、真実…誇りを持って…」

こんな自分でも、こうした手助けをさせて貰えた。
このいま立っている自分が選んだ道は、生命の一環を「断ち切る」ことに繋がる可能性がある。
こんな残酷な道だという現実がある、けれどこの道でも生命の一環を「救った」真実が見つけられた。
この真実の喜びが、刻々と本配属が近づくにつれて、存在を大きくしている。
この真実の喜びを幼い日に憧れた「植物の魔法使い」樹医が伝えてくれた、その事実に微笑んで周太は膝元の小十郎に話した。

「ね、小十郎?植物の魔法使いはね、心の魔法使いでも、あるみたいだね?」

自分が出会った「植物の魔法使い」青木樹医は、誠実な男だった。
眼鏡をかけた実直な眼差と繊細で頼もしい掌の彼は、どこか山ヤの雰囲気と似ていた。
まだ40代位の彼は学者として若いだろう、けれど数千年の星霜を樹木に見つめる深い瞳をもっている。
その瞳で周太の言葉と行いを見つめて、そして救いの一文を贈ってくれた。
この樹医にまた会いたい、そして詞書の感謝を伝えたい。

「…3月の公開講座には、いけたらいいな…」

3月の終わりに青木樹医が担当する公開講座が、東京大学農学部で開かれる。
この受講申込書と農学部公開講座一覧を、青木樹医は青い本と一緒に周太に贈ってくれた。
本来なら抽選制になるほど人気の講座だと美代は教えてくれた、けれど講師本人からの招待申込書は優先的に受講できる。
これに一緒に行こうと美代と申込である、たぶん勤務がシフト通りなら受講できるだろう。
そのとき青木樹医に、少しでも感謝を伝えられたら嬉しい。

この講義自体も周太は、ほんとうに楽しみだった。
この本の執筆者である樹医の講義なら、きっと楽しいに違いない。
しかも美代は実際に畑で実験までするほどの植物好きでいる、そんな美代と一緒に受講できたら楽しい。
きっと講義内容について意見交換がたくさん出来るから、講義が終わった後も楽しいだろう。
それに最高学府と言われる大学がどんなところか、見に行けるのも面白い。

「本当に行きたいんだ、公開講座。奥多摩の水源林のことだし…ね、そこはツキノワグマが住んでいるんだよ?」

話しながら何気なくクライマーウォッチを見ると15時少し前だった。
もう、ふとんを取込まないといけない。そろそろ2人が着く頃合でもある。
周太はロッキングチェアーから立つと「小十郎」をまた元通りに座らせてあげた。

「ね、小十郎。英二と初対面だね?…光一とは、久しぶりに会うね、覚えてる?」

大切なテディベアに微笑んで、周太は梯子階段を降りた。
青い本を鞄に戻すとバルコニーの窓を開いて、外に出ると周太はふとんを抱え込んだ。

「周太、」

大好きな低い声が、ふとんの向うから呼んだ。
ふとん抱え込んだまま見おろすと、玄関ポーチの前に長身の2人が佇んでいた。
その1人が大好きな声の持ち主になる、きれいな低い声の主に周太は微笑んだ。

「おかえりなさい、英二、」

呼びかけた声に、幸せそうな笑顔が庭先から見上げてくれる。
この大好きな笑顔が無事に見られた幸せが、心から嬉しい。
この笑顔に逢いたいから、自分は3つの晩を寂しくても我慢することが出来た。
そしていま現実に再び逢うことが出来た。嬉しい想い見つめる先で、大好きな笑顔がきれいに華やいだ。

「ただいま、周太、」

ただいま、そう言って貰えることは幸せだ。
ただいまと言って帰ってきてくれる人がいる、それは独りじゃないということ。
そして迎えたいほど好きな人がいる幸せは、こんなふうに心が温まる。
温かさが嬉しいまま素直に微笑んで、周太は庭先へと呼びかけた。

「鍵、開けて入ってて?すぐ、降りるね」

いまふれる温もりに微笑んで、周太は布団を取りこんだ。
お客様用のふとんを手早く畳んで押入れに仕舞いこむ。
それから自分のベッド一式をきちんと整えて、母の部屋へと周太は向かった。
同じ2階の北西にある部屋はバルコニーがある、こちらに母の分は干して置いた。
それも取りこんで端正にベッドメイクをすると、すぐに周太は階段を降りた。

玄関ホールに降り立つと、ちょうど靴を脱いで上がった英二に周太は笑いかけた。
笑いかけた周太に大らかな優しい笑顔を英二は向けてくれる、この笑顔にまた逢えてうれしい。
うれしい想いのまま周太は、英二の隣に佇んでいる秀麗な雪白の顔を見上げて微笑んだ。

「いらっしゃい、光一。遠くから、ようこそ」

周太のあいさつに底抜けに明るい目が温かに笑ってくれた。
やわらかい綺麗な笑顔を向けてくれながら、透明なテノールの声が周太に微笑んだ。

「おじゃまします、周太。川崎の奥多摩の森を見に来たよ?良い森だった、家も素敵だね」

底意の欠片も無い純粋無垢な目が、心から嬉しそうに周太に微笑んでくれる。
こんな目で見つめてくれる人に自分は嫉妬して、それくらい大好きだなと思える。
こんな2つの感情もいつか、綺麗にほどけて1つの答えを与えてくれるだろうか?
いま素直に微笑んで周太は唇を開いた。

「ん、ありがとう…ゆっくりしてね?母も夕飯には帰ってくるから。母もね、会うの楽しみにしてるんだ、」
「俺も楽しみだよ。で、おふくろさんは、君の将来図で女性版なんだろ?そりゃ綺麗で可愛いだろうね、」
「ん、…似ているとは言われるけど…」

率直で明るい光一の問いに、なんて答えていいのか解らない。
なんだか余計に気恥ずかしい、ほっとしたくて周太は英二を振向いた。
ふり向いた視線の先で綺麗な笑顔が受けとめてくれる、そんな受容が嬉しい。
嬉しくて周太は英二に笑いかけた。

「おつかれさま、英二…荷物、部屋に置きに行くよね?」
「うん、そうしたいな。周太、ふとん取込めた?途中なら手伝うよ、」

なにげなく言われた言葉に、すぐ周太は頬が熱くなった。
英二が言った「ふとん」は朝もした問答に繋げられる、赤くなりながらも周太は口を開いた。

「ん、取込めたよ?…ふとんほしたからねいうこときいてね」

お願いだから言うこと聴いて?
ふたりの時間が与えられるなら1秒でも多く時間がほしいから。
どんなに小さな時間の欠片でも、あなたとの記憶の時間なら自分には、なによりの宝物だから。



(to be continued)

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第37話 冬麗act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-03-26 22:33:15 | 陽はまた昇るanother,side story
麗らかな冬の陽に、




第37話 冬麗act.1―another,side story「陽はまた昇る」

当番勤務が明けて新宿署独身寮に戻ると、周太は急いで勤務明けの風呂を済ませて着替えた。
実家に帰る仕度の鞄とダッフルコートを持って、自室の扉を開ける。
そのときポケットで携帯が振動した。

…英二?

きっとそうだろう。
今朝も6時頃に「無事下山」とメールを入れてくれた。
クライマーウォッチを見ると9時前、いま北岳からの帰路だろう。
すぐ本当は携帯を開きたかったけれど、そのまま周太は廊下に出た。
そこに丁度、同期の深堀が通りかかって笑いかけてくれた。

「おはよう、湯原。今から実家、帰るんだ?」
「おはよう深堀、そうだよ、今から帰るとこ…深堀は今日は、当番勤務だよね?」
「そうだよ。今日ってさ、宮田が帰ってくるんだろ?よろしく伝えてね、」
「ありがとう、またね?」

笑いあって別れると、周太はまた急いで廊下を歩いた。
同期の深堀は警察学校の遠野教場から一緒だったから、英二のことも知っている。
けれどまだ、英二が正式にクライマーとして任官したことは、きっと知らないだろう。
本来なら卒配期間が終わってから本配属が決まる、でも英二だけは既に決定した。

英二は一般警察官枠からクライマー専門枠での任官に切り替えられた。
そして卒配5ヶ月目で初任科総合の前にも関わらず、青梅署山岳救助隊に本配属された。
これはイレギュラーなこと、それでも英二には特別措置が取られている。
この事情に就いてはまだ周太もすべては把握していない。

…その話も今回、してくれるのかな、

当然ながら、すこし難しい話もあるのだろうな?
考えごとしながら独身寮出口の階段を降りて、通りに出ると周太は携帯をポケットから出した。
開いた画面に表示された予想通りの送信人を見て、幸せに周太は微笑んだ。

from  :宮田英二
subject :竜ヶ岳より
添付ファイル:竜ヶ岳山頂と冬富士
本  文:いま帰り道に、竜ヶ岳という山に登ったところです。本栖湖の近くで富士山が本当に綺麗に見えるよ。
     わりと楽に登れる山だし、いつか連れてきてあげたいな。15時には帰ります。周太のコーヒー飲みたいよ。

メールが届いたと言うことは、電波の届くところにいる。
もう車に乗るのだから、車で充電も出来るから大丈夫だろう。
そんな2つの条件に微笑んで、着信履歴から通話を繋ぐと駅へ歩き始めた。
すぐに1コールで電話は繋がって、大好きな低い声が微笑んでくれた。

「おはよう、周太?」

3日ぶりに聴いた、声。
ちゃんと無事に今度も山から下りて来てくれた。
ずっと聴きたかった声の無事が嬉しい、そして3日ぶりが気恥ずかしい。
うれしさと気恥ずかしさに微笑んで、周太は久しぶりの朝の挨拶をした。

「おはよう、英二…いま、竜ヶ岳ってとこにいるの?」
「うん、本栖湖の近くなんだ。富士山がきれいに見えるって、有名なとこらしい。それで国村、いま写真を撮ってる」

前に見せてもらった光一の写真は見事だった。
きっと今回も素敵なんだろうな?見せてほしいと思いながら周太は訊いてみた。

「光一、カメラ使ってるんだ?…見せてもらったんでしょ?」
「見せてもらったよ?北岳がすごく良い、あとで見せてもらうと良いよ、」

あとで。そう言ってもらえるのは嬉しい。
すぐに逢えるから「あとで」と言える、こんな言葉1つも幸せが温かい。
この言葉に籠る温もりに、寂しかった3つの晩がすこしずつ溶けていく。
この3日はメールだけでも嬉しかった、無事の知らせが幸せだった。

けれど、ほんとうは、寂しかった。

いつも21時に鳴る専用の着信音が鳴らない。
そんな夜が寂しくて堪らなかった、声すら聴けない現実が辛かった。
けれど6時間後には声だけじゃない、顔を見つめて触れることが出来る。
あと6時間後に幸せを無事迎えられることを祈りながら、周太はおねだりをした。

「ん。…あのね、気をつけて帰ってきて。ごはん作って、おふろ沸かすから…あと、ふとん干しとくから…ね、」

ふとん干しておくから一緒に寝て?
本当はそう言いたかったのに、気恥ずかしさで声が小さくなった。
でも英二なら解ってくれるだろう、でもお願いを聴いてもらえるだろうか?
熱くなる頬を気にしながら歩いていると、きれいな低い声が電話むこうから微笑んだ。

「うん、気をつけて帰るよ?でね、周太。今夜は国村が一緒だから、周太とは一緒に寝れないかな、って思うけど…」
「そんなの嫌、なんで一緒じゃないの?」

即座に疑問をぶつけてしまった。
今夜はなんで一緒じゃないのか?これくらい本当は解かっている。
解かっているけれど、今日は敢えて「一緒が良い」とわがままを言いたい。
今日は絶対にこのワガママは通そうと決めている、そんな決意を大好きな声が諭し始めた。

「国村ひとりで寝かす訳に行かないだろ?なにより、国村は周太のこと好きなんだから。なのに俺と周太が一緒だったら、」

光一が寂しい想いをするから。
きっと英二はそう続けるつもりだと解っている。
けれど周太は知らないフリをして正直にワガママを言った。

「解からない、知らない、…あいしてるんならいうこときいてもらうから、」
「愛してるよ、周太?北岳でもね、周太のこと、いっぱい考えて来たよ?だから周太、国村のことも考えてほしいな?」

英二が言いたいこと、きちんと解っている。
けれど今日は絶対に譲りたくはない、相手が大好きな初恋の相手でも退きたくない。
3日間は鳴らない着信音が寂しかった、この寂しさが余計に募ったのは「英二と光一が一緒」だった所為もある。
第2峰の北岳は標高3,000mを超えた雪と氷が支配する冷厳の世界、そんな余人が踏込めない場所で2人きり過ごす。
そのことに周太は嫉妬していた、クライマーなら山ヤなら普通のことだと解っていても羨ましかった。
こうまでは富士山の時は考えないでも済んだ、けれど今回の北岳で気がついた。

富士山の時は有人の山小屋で宿泊客も他にいたし、前泊を入れて2泊だった。
けれど北岳は一般登山客もない厳冬期の幕営で3泊完全に2人きり、しかも電話も出来なかった。
ひとり自分が都会の雑踏に佇む同じ瞬間に光一は、厳しさと美しさが表裏する世界で英二を完全に独占めしていた。
英二を完全に独占できる光一と独りぼっちな自分の落差が哀しくて堪らなかった。
哀しくて寂しくて、光一を好きな分だけ逆に嫉妬が募って苦しかった。

だから本当に「今日」が待ち遠しかった。
けれどこうした「2人きり」は今回で終わりじゃない。
この先さらに高峰を登っていく以上、こうした2人だけの山行が増えていく。
だから我慢も嫉妬も今回が「始まり」に過ぎない。

英二と共に生きたいなら、どんなに嫌でも寂しさに馴れて超えるしかない。
もしそれが出来ないのなら、英二の帰りを迎えることは不可能になってしまう。
それが解かるから3晩とも我慢して寂しさに馴れる努力をしていた、哀しくてもメールに書かず飲みこんだ。
きっと今日は逢えると信じて待って、逢ったらワガママ聴いて貰えると自分に言い聞かせて耐えきった。
だから今日はもう周太に英二を返してほしかった、ワガママだとしても欠片も譲歩したくない。

それに新宿と奥多摩にまた離れてしまえば、周太は英二の傍には居られない。
だからせめて今日は周太に英二を独り占めさせてほしい、ワガママ全部聴いてほしい。
こんなの恥ずかしいし、みっともないと解っている。それでも今日は好きにさせて欲しかった。
額まで熱くなってくるのを感じながらも、周太はきっぱりとワガママを言った。

「嫌。ずっと電話も我慢していたんだから。今日は言うこと聴いてもらうんだから…あ、電車来た、あとでね」

急いで電車に乗り込みながら周太は通話を切った。
扉の脇に立つと動き出した振動のなかで、周太は1通のメールを作った。

To   :宮田英二
Subject:お願い
本 文 :今日は独りにしないで?今夜食べたいものメールして。

今夜はたくさん、ごはんを炊こう。
いっぱい食べてもらって、たくさん幸せな笑顔を見せてほしい。
きっとそういう笑顔を英二は沢山見せてくれるだろう、きっと光一も笑ってくれる。
こんなふうに「きっと」って思えることは、このあと逢えると解っているから。
けれど「周太が英二と一緒に眠って貰えるか」は「きっと」は解からない。

今回は光一が初めて家に来てくれる、そのことは素直に楽しみだし嬉しい。
でも光一に対して「大好きな初恋のひと」と「嫉妬」2つの感情がクロスする。
この「嫉妬」は光一とだけ一緒にいる時はあまり思わない。
けれど英二が一緒だとつい意識してしまう。

光一のことが周太は大好きで、大好きになるほど光一が素敵なことがよく解ってくる。
だからこそ逆に、光一の方が英二に似合うと想えて嫉妬してしまう。
ふたり並んだ姿に嫉妬して、仲間外れの寂しさが起きあがる。
そのことが「独りにしないで?」の一文になった。

…もし英二が、光一とばかり一緒にいたら、嫌、だな

すこしまえに見た、雪崩に受傷した肩を見せたときの光一の姿。
あの雪のように透明な肌まばゆい姿が、ときおり周太の心を刺して痛い。
あんなに光一が美しいのでなければ、こんな嫉妬も少なかったかもしれない。
こんな嫉妬の対象と、大切な初恋相手が同一人物でいる。
この矛盾が不思議で時に苦しい。

光一のことが心から大切だから寂しい想いはさせたくない。
けれど光一がいつも英二と一緒にいられることが、羨ましい嫉妬も本音でいる。
山でも業務でも寮でも、どんな時でも英二の傍にいられる能力と立場を備えた光一が羨ましい。
だからもし周太が英二と一緒に暮らせるようになれば、嫉妬も随分と減るのだろう。

だったら警察官をすぐ辞職して、英二の傍に行けば良いと思ってしまう時がある。
本当はそう出来たらいいのにと考えてしまう、でも父のことを想うと出来ない。
なにより自分で決めた道を、自分自身が裏切ることは出来ない。
決めた道を息子として貫いて父の姿を正しく受けとめたい。

ワガママで弱い自分だからこそ逃げたくない。
逃げずに貫き通すことで、すこしでも勁い自分になってみせたい。
父の真実の姿に向き合っていきたい、光一に美代に向き合っていきたい。
そうしたら英二に相応しい自分に近づける、きっとこんな嫉妬も減るだろう。
そんなふうに自分と向き合えたなら少し「大きい心のひと」になれるかもしれない。

あの日に見た光一の雪白まばゆい体。
あんなふうに大きくて美しい体を自分は備えていない。
けれど自分は自分の「美しい姿」を目指せばいい、体は小さくても心は大きく出来る。
そのために自分が何が出来るのか?まだよく解らないけれど「正直」ではいたい。
このいま自分が本当に大切にすべきこと、それを見誤らない正直さを守りたい。

今回は自分の家で、光一と英二と2人同時に接することになる。
この今も抱いている「嫉妬と初恋の矛盾」に悩むかもしれない。
今回はどんな時間を過ごし、どんな記憶と想いを見るだろう?
なにもまだ解らない、けれど今いちばん大切にしたい事は確かに1つある。

英二を独り占めしたい、ふたりきりの時間がほしい。

これは子供じみたワガママ、それでも正直な本音。
これしか確かには解からないから、尚更ワガママに正直でいたい。
きっと拗ねていると言われるだろうし、光一はからかってくるかもしれない。
それでも今日いちばん大切にしたいことは「英二との時間」だから正直にワガママしたい。
ワガママ言ってでも正直な自分のまま「今」を大切にしたい。

どうか英二、愛しているならワガママを受けとめて?
そうしたら「受けとめられた」幸せな記憶が嫉妬から自分を援けてくれるから。
そうしたら受けとめられる信頼に応えたくて、弱虫な自分だって勁く頑張れる。

本当はワガママを言うのは怖い。
もし受けとめられなかったら哀しくて自信すら失ってしまう。
けれど英二ならと信じている、恋の奴隷だと言ってくれた英二の真意を信じたい。
どうか英二、言うこと聴いてね?精一杯の勇気と一緒に周太は送信ボタンを押した。



陽だまりの台所にエコバッグを置くと周太は、コートも脱がずに携帯を開いた。
ハーブ類を栽培している明るい出窓の傍へと歩きながら、受信ボックスを開いていく。
着信してから何度も読んでいる1通のメールを、また選んで「開封」をする。
ひとつ開いたメールの文面に、うれしくて周太は微笑んだ。

From:宮田英二
subject:食べたいもの
本 文 :国村は蕪蒸だと言ってるよ?
    俺はね、肉じゃがと鶏の胡桃焼きが食べたいな。
    この2つは前にも周太が作ってくれたけど、また食べたいって思っていたんだ。
    俺の本音はね、
    周太だけ見つめて、一晩中ずっと愛しているって囁いて、抱きしめていたい。
    でも今夜は国村が来てくれるし、お母さんもいてくれる。
    だから今夜は、みんなで過ごす時間を楽しめたら良いなって想うよ。
    それでね、これはお願いだけど。改めてまた俺に時間を作ってくれるかな?
    周太とふたりの時間は俺にとって大切なんだ。だからお願い聴いてほしいよ?

英二にしては長いメールをくれた、それがまず嬉しい。
なにより書かれている内容が嬉しい、嬉しくて周太は小さく声にしてみた。

「…また食べたい…一晩中ずっと…大切、お願い聴いて?」

こんなふうに想ってくれていた。
いま離れていて、英二は光一と山にいる。
それでも英二はこんな本音をメールに籠めて贈ってくれた。
離れていても「心」は、独り占め出来ているのかもしれない?
そんな想いと一緒に周太は左手首のクライマーウォッチを見つめた。

…英二、俺のクライマーウォッチを、ずっと見てくれているね?

いま英二の左手首には周太が贈ったクライマーウォッチが時を刻んでいる。
いま周太の左手首に嵌めてあるのは、クリスマスまで英二の大切な時を刻んでいたものだった。
そんな大切な英二の時計だったから欲しくて、自分が贈った時計と交換に譲ってもらった。
そして、こんなふうに「腕時計を交換」して婚約の証にもする事を、英二は教えてくれた。
そんな大切な意味があることを、あの時まで自分は何も知らなかった。

「…ん、なんか、婚約してね?って…おねだりになって…はずかしいな?」

想い出すと恥ずかしくて顔が熱くなってくる。
けれど無知だったおかげで切欠が出来て、年明けに英二から正式に婚約を申し込んでくれた。
あのとき贈ってくれた婚約の花束から1種類1本ずつ押花にしてある、それを時おり眺めるたびに幸せになる。
あの花束に添えられたメッセージカードも心から嬉しくて、宝箱のトランクに大切に仕舞いこんだ。

あの花束には、この国の最高峰と同じ名前の花もあった。
そんなふうに夢と誇りも籠めて「生涯を共にしたい」と告げてくれた信頼が嬉しかった。
その信頼に応えるには今回3つの晩に見つめた、寂しさも嫉妬も超えなくてはいけない。
この意味を想いながら周太は、もういちどメールを心に読んだ。

…ふたりの時間は、大切

自分と同じように英二は想ってくれている。
このことが1つ自信になって心に温かい、温もりがまた1つ勇気と勁さを育んでくれる。
また1つ見つめた温もりの嬉しさに微笑んで、周太は携帯を閉じてポケットに戻した。
2人の到着予定が15時だから、14時半を目標に仕度を整えておかないといけない。
出窓から離れて流しで手だけ洗いながら、周太は小首を傾げた。

「…手洗いうがいして、部屋にコートと鞄置いて。おふとん干して…掃除、花を活け替えて…下拵えして、」

手順を独り言に整理しながらエコバッグの中身を冷蔵庫に入れていく。
いま左手首のクライマーウォッチは10:38、これから4時間弱で全てきちんと終わらせる。
考えながら冷蔵庫にしまい終わると、周太は鞄を開けて小さな袋をいくつか出した。
このあいだの休暇で奥多摩に行った時に、美代から貰った珍しい野菜の種が入っている。
今が蒔時のものを選んでくれたから、これを庭の菜園に蒔くことも大切な用事だった。

「…水につけておくのは、これとこれ。こっちはそのまま蒔く、ね」

ちいさな受皿を種類の数だけ出して水を張ると、種を入れて出窓の隅に置いた。
これを明日の朝に蒔くことを、忘れないようにしないといけない。

「…メモ、しておこうかな?」

ちいさく呟いて周太はサイドテーブルにあるメモとペンをとった。
さらり「朝、種まき」と書いてメモを切り取ると、冷蔵庫側面のメモスペースに自分用のマグネットで挟みこむ。
これでもし自分が忘れていても、明日の朝ここを確認した時に気がつくだろう。
ちょっと安心して母用のマグネットを見ると周太宛のメッセージが挟んである。
母からの依頼に微笑んで、周太はメッセージを読んだ。

 周太へ
 お帰りなさい、おつかれさま。
 お客様用ふとんを全部、干してくれるかな?
 帰りは18時半くらい?の予定です。
 冷蔵庫に鰆の西京漬と梅蓮根があります、お昼ごはんに良かったら食べてね。 母より

「…ふとん、全部?」

つぶやいて周太は首筋が熱くなった。
たぶん母に行動を読まれている?その読まれた行動が恥ずかしい。
赤くなりながら周太は鞄を持つと、そのまま洗面室へと向かった。
洗面台の前に立つと蛇口をひねって手を洗い、いつも通り口を漱ぐ。
それから冷たい水で周太は思い切り顔を洗った。

…おかあさん、お見通しなんだ…1組しか干さないだろうって、

ほんとうは、客用ふとんは1組だけ干すつもりでいた。
あとは自分と母のベッドの一式をそれぞれ干そうと思っていた。
これなら夜に寝床を延べるとき、客用ふとんは1組しか使えなくなる。
この客用ふとんは標準サイズだから、180cm超の大柄な英二と光一では1組を2人では使えない。
そして周太は小柄だしベッドは広いから、どちらか1人が周太と一緒にベッドで寝ることになるだろう。
こうなれば光一は周太と一緒に寝ることは必ず遠慮する、「危ないから」と周太から遠のくだろう。
そうしたら、英二が周太と一緒に寝てくれることになる。

…ちょっとずるい方法だけど、これなら一緒に寝れる、って想ったのに…

こんな計算をして、客用ふとんは1組だけ干すつもりだった。
けれど母に「お客様用ふとんを全部、干してくれるかな?」とお願いされてしまった。
こんなふうに母にお願いされたら周太は素直に頷いてしまう、それを母がいちばん知っている。
すっかり母から上手な先手を打たれてしまった。

…もう、観念するしかない、よね

ちいさな呟きを心にこぼして、ほっと周太はため息を吐いた。
もう顔の熱りも冷やされた、きちんと蛇口をしめると周太はタオルで顔を拭った。
きっと、帰ってきたら母に可笑しがられるのだろうな?
そんな予想を想いながら周太は洗面室の扉を開いた。



午前中に掃除まで済ませると、鰆の西京焼と梅蓮根で昼食の膳を整えた。
汁椀は夕食の下拵えも兼ねて作った出汁を取り分けて、焼麩を浮かべた澄し汁にしてある。
これに冷凍庫のご飯を温めて、陽だまりふるダイニングの膳に周太は座った。
いただきますと箸をとると、飾り窓から白梅の可愛い一輪が覗いている。
もう梅が咲く季節、春がすぐそこまで来ているという事だろう。

…あと4ヶ月で本配属、

ぽつんと心こぼれた呟きに、周太は軽く首を振った。
本配属になれば辛い日々が始まるだろう、それを想うと覚悟と一緒に哀しみもこみあげる。
けれど今この時は、小春日和に開いた梅の姿を寿ぐほうが大切だろう。
食事の箸を進めながら、愛らしい梅の姿に周太は微笑んだ。

「…今年もね、可愛い花を、ありがとう」

北庭の梅が一輪開いたなら、たぶん南の表庭はだいぶ咲きだしている。
帰ってきた時は、英二のメールを早く読みたくて玄関扉しか見ていない。
それで庭の様子も全く見ずに家に入ってしまった。

…ごはん済んだら庭に出て、花を摘んで…すこし手入れもしたいな

庭の花を摘んだら、家中の花を活け替えないといけない。
お客様があるときは花を活け替える、そんなふうに周太は幼い頃から教わった。
今日は光一が初めて来てくれる、お客様としてきちんと持成さないといけない。

梅の木からも一枝、花を分けてもらおうかな?
剪定がてらに調度いい花枝を、すこし伐らせて貰えたらいい。
光一は兼業農家の警察官で自家の梅林を愛している、梅を活けておいたら喜ぶだろう。
どの花活が似合うかな?考えながら周太は、北庭の梅を眺めて昼食を楽しんだ。



(to be continued)

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第37話 凍嶺act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-03-25 23:55:58 | 陽はまた昇るside story
寛恕、まもりたい場所



第37話 凍嶺act.6―side story「陽はまた昇る」

周太の母は18時半過ぎに帰って来た。
庭の門が開く軋む音に手伝いの手を止めると、英二は花束と一緒に玄関ホールへ出迎えに出た。
リビングの扉を閉めた時、ちょうど重厚な玄関扉が開いて懐かしい姿が微笑んだ。

「ただいま、英二くん」

穏かな黒目がちの瞳が愉しげに笑ってくれる。
変わらない温もりが嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「おかえりなさい、お母さん。これはね、山梨のばら園で作って貰った花束です」

靴を脱いで玄関ホールに上がった彼女に、鞄と交換に花束を英二は手渡した。
オールドローズの香に微笑んで、うれしそうに周太の母は英二を迎えてくれた。

「ありがとう、とってもいい香ね。おかえりなさい、英二くん。そして、任官おめでとうございます」

明るく黒目がちの瞳を笑ませて、抱えた花束ごときれいに頭を下げてくれる。
恐縮しながら微笑んで英二も礼をすると、彼女の瞳を真直ぐ見て笑いかけた。

「ありがとうございます。これからは公の場でも、ご迷惑をかけることになります。すみません、」
「謝らなくていいの。電話でも言ったでしょう?私はね、あなたは息子なのだと決めています。だから遠慮はいらないわ、」

軽やかに笑いながら上を指さすと、彼女は階段を上がり始めた。
こういう彼女の穏かな包容力と潔癖な覚悟は、いつもながら英二には温かい。
感謝に微笑んで英二は2階ホールに一緒に上がると、鞄を渡しながら彼女にお願いをした。

「お母さん、すこしだけ話があります。夕食の前でも大丈夫ですか?」

英二の言葉に黒目がちの瞳が見上げてくれる。
すこし微笑むと周太の母は頷いてくれた。

「ええ、大丈夫よ。この椅子で話しましょうか、コート脱いで手を洗ってくるわね、」

ホールに据えたティーテーブルの椅子を示すと、微笑んで彼女は自室の扉を開いた。
コート姿を見送って、ふと廊下の窓から見あげた黒紺の空に幾つかの星が掛かっている。
きっと北岳では眩い星の輝きに満ちているだろうな?そんな記憶の空に微笑んで英二は椅子に座った。
これから、この庭先で国村が英二に告げた「3つの責任」と、幾つかの事を話さないといけない。
すこし考えをまとめているうちに、身づくろいを済ませた彼女が向き合って座ってくれた。

「お待たせ、英二くん。お話は、クライマーの任官に関わる事と初任科総合での帰省先、あと、周太のことかしら?」

きれいに黒目がちの瞳が微笑んで、英二の要件を先にきちんと言ってくれた。
こんなふうな理解は、ほんとうに受け入れられていると嬉しくなる。きれいに笑って英二は頷いた。

「はい、その3つです。手短なことから相談させて頂きますね、」
「ええ、どうぞ?でも先に言っちゃおうかな、初任科総合でも、ウチに帰ってきてください」

あっさり最初の1つを言われて英二は笑ってしまった。
彼女も一緒に笑ってくれながら、言葉を続けてくれた。

「だってね、任官の書類にも第一身元引受人に私が認められたでしょう?たぶん、自動的にここが帰省先だと思うわ」

言わないでもすぐ察して彼女は言ってくれた。
こういう聡明さは周太とよく似ている、いま台所で食事の支度をしている姿を想いながら英二は微笑んだ。

「はい、ありがとうございます。俺、初任科総合の休暇は、おそらく青梅署に帰ることになると思います。
ちょうど初夏の登山シーズンで人手が必要になるんです。でも、書類には帰省先を書く必要があるらしくて。すみません、」

「あら、残念。帰ってきてくれないの?でも、任務なら仕方ないね、」

心から残念そうに彼女は言ってくれる。
なんだか逆に申し訳ないな?済まなく想いながら英二は、ひとつの提案をした。

「もし出来そうなら、一度は帰らせて頂きますね?それからお母さん。春になったら、奥多摩に周太といらっしゃいませんか?」
「奥多摩に、私が?」
「はい、お母さんが奥多摩に、です」

黒目がちの瞳が驚いて、すこし大きくなっている。
こんな表情は周太とそっくりで、ほんとうに似たもの親子だなと英二はいつも思う。
こうした感想もどこか温かで、おだやかな幸せに微笑ながら英二は言葉を続けた。

「俺が生きようって選んだ現場を一度見てほしい。これが理由の1つ目です。
そしてもう1つは、お父さんが愛した場所が奥多摩だからです…こんなこと、俺が言うのは図々しいって思わせたなら、すみません」

真直ぐに英二は黒目がちの瞳を見つめた。
見つめた先で彼女は穏やかに微笑んで、ゆっくりと首を振ってくれた。

「いいえ、図々しくなんかないわ?だってね、英二くん。あのひとの想いごと持っていて、って合鍵を渡したのは私だもの?」

きれいな笑顔が「あなたには言う権利があるわ?」と英二に告げてくれる。
こんなにも信頼を寄せてくれる、それが心から嬉しくて感謝が温もりになっていく。
温かな想いを見つめるなかで、彼女は英二に言ってくれた。

「奥多摩、懐かしい。あのひとの休暇が取れたらね、いつも一緒に行って森を歩いて。川で遊んだり、山小屋に泊まったこともあった。
奥多摩はね、あのひとの幸せな記憶の場所なの。だから周太、英二くんと奥多摩で過ごすようになったのは、本当に良かった。
あのひとに本当に向き合えるようになって…だから記憶が戻り始めたのね、周太。あのひとが居た、幸せだったころの…記憶、が、」

黒目がちの瞳から、ひとつ涙がこぼれて白い頬をながれていく。
ゆるやかな涙の紗を、ホールのやわらかな照明にきらめかせながらも彼女はきれいに微笑んだ。

「うん。私もね、幸せだった場所に行きたいな?…春が楽しみね、よろしくね、英二くん」
「はい、楽しみにしてくださいね?」

答えと英二は微笑んで、そっと長い指を伸ばして白い頬の涙を拭った。
ひとつ瞬いて涙を治めると彼女は、すこし首を傾げて笑ってくれた。

「不思議ね、こういう涙の拭い方。ちょっと、あのひとに似てるかな?だからかな、周太、英二くんにだけは、安心できるみたい」
「はい、そのことが今回、俺を救ってくれました。お母さん、俺…お母さんに謝らないといけません、」

この自分が周太を強姦してしまったこと。
そのことが周太の男としてのプライドを傷つけて、周太からの信頼を失ったこと。
けれど周太が「父への想い」にまつわる英二への想いから恋い慕って、求めてもらえたこと。
本当に恥ずかしい事ばかりだった、けれど英二は正直に周太の母へと告白した。
そうして全てを話し終えたとき、彼女は穏やかに微笑んで英二に訊いてくれた。

「あの子を傷つけたこと、それは約束違反ね?けれど、このことから得たもの、お互いに沢山あるのでしょう?」

ほんとうに周太の母が言う通りだった。
今回のことで英二は幾つか考え、気がついたことがあった。
それを聴いてもらえたらいい、素直に英二は口を開いた。

「はい。俺は自分自身の2つの思い違いに気がつけました。ひとつには、俺の愛情は『束縛』でしかなかった事です」
「束縛?」

穏かに短く彼女が相槌を打ってくれる。
やさしいトーンの相槌に英二は頷いて恥を飲みこむと、ずっと考えて来たことを話し始めた。

「お父さんが亡くなった時のこと、俺は何とか真実を知ることが出来ました。
これは俺だけの力で出来たことじゃありません。沢山の人に援けられて出来たことです。きっと、お父さんも援けてくれていました。
そう解っていたはずでした、けれど『俺が周太を救ってあげた』そんな恩着せがましい想いがどこかあって、傲慢になってました。
この傲慢さが、俺だけが周太を全部理解しているんだ、俺だけが守ってやれるんだっていう勘違いになっていたんです。
俺だけが理解して守れる、だから周太は俺のものだ。そんな束縛になっていました、周太を対等な人格として見ていなかったんです」

話しているこの場所は、ゆるやかなホールランプの光が温かい。
オレンジいろの光が照らす温もりと、周太の母の穏やかな瞳が英二の心をほぐしてくれる。
こんな醜い想いすら受容れられていく、そんな信頼と安堵に微笑んで英二は続けた。

「ふたつ目はね、周太は『男』なんだってことです。
いつの間にか俺は、周太をか弱い女の子のように扱っていました。女の子扱いだから周太の男としてのプライドを無視出来たんです。
でもこれは間違いです。率直に言って周太は中性的です、それに泣き虫で甘えん坊な所が可愛い。それでも周太は本当に誇り高い男です。
自分の運命から逃げ出さない、凛とした勁い誇らかな男です。そんな周太に俺、憧れて好きになりました。それなのに忘れていたんです、」

どうして自分は忘れていたのだろう?
あんなに警察学校時代は周太の「男」である面にも援けられていた、その恩も自分は忘れていた。
こんな自分は本当に男として恥ずかしい、こんなにも恥だからこそ今きちんと向き合いたい。
見つめてきた恥と想いに、潔い誇りと微笑んで英二は周太の母に告げた。

「今回のことで俺は、周太は自分と同じ『男』として対等だと肚から気づけました。
周太は優しい分だけ勁い男です、そんな男を女性と同じように扱って守ることは間違いです。
確かに周太は精神年齢が幼くて心配です。でも幼いからこそ、自分で経験して成長しないといけない。束縛は周太を歪めるだけです。
だから周太に自由でいて欲しい、たくさん心の経験を積んで欲しいとお願いしました。国村と恋愛してもいい、そう言ってもあります」

黒目がちの瞳が穏やかなまま真直ぐ英二を見つめてくれる。
その瞳がふっと微笑んで、彼女は言ってくれた。

「あの子のこと、本当に真剣に考えてくれてるのね。…ありがとう、英二くん。
あの子の母として、あなたに心から感謝します。そしてね、英二くん?あなたは、また素敵な大人の男になったね、」

穏かな声が心からの感謝を告げてくれる。
こんな自分でも、また彼女は受容れて真直ぐ見つめて認めてくれた。
こんなに受容れてくれる存在は英二は他に知らない、このひとに会えた自分の幸せに英二は微笑んだ。
そんな想いにいる英二に、きれいに黒目がちの瞳が笑いかけてくれた。

「あの子はね、自由になったうえで、英二くんと一緒にいたい。そう選んでるわ?
それは恋愛感情が勿論ベースよ?それにプラスして、父親の面影を重ねているから尚更、安心して大好きなのだと思うわ」

きっとそうだろうと自分でも考えていた、周太も同じように言ってくれている。
けれど、聡明なこの女性から、周太の母親から言われることは嬉しかった。嬉しくて英二は素直な想いを口にした。

「父親代わりでも、俺は嬉しいんです。お母さん、俺ね?お父さんのこと、すごく好きです。尊敬しています、だから嬉しいんです」

きれいに笑って英二は想うままを声にした。
そのまま相談事を英二は、周太の母に話し始めた。

「それでね、お母さん?国村にとっても俺、父親か兄の代わりみたいで」
「国村くんまで?…あら、それじゃ周太、とりっこしたでしょ?」

さすがに周太の母は「お見通し」らしい。
心強い味方の存在に安心して英二は笑った。

「やっぱり解ります?」
「それはね、あの子の母親だもの?それじゃ今夜、寝る場所もまたケンカになりそうね?」
「そうですね?国村も後に引かない性質なんです。本当に良いヤツなんですけど、ね?」
「周太もね、なかなか頑固でしょ?まさに板挟みになっちゃうね、英二くん?」

困ったわね?と黒目がちの瞳が笑ってくれる。
ほんとに困りそうだと思いながら英二も笑って、次のことへと口を開いた。

「はい、観念して困ります。その国村に言われたんです。クライマーとして俺が任官した、本当の意味を言われました。
お母さん、俺は3つの責任があるんです。その1つめと2つめは前に話した通りです。そして3つめ、これが俺には意外でした…」

3つ目の責任。このことを英二は周太の母に話した。
話しながら長い指でニット越し周太の父の合鍵にふれて、英二は彼のことを想った。
もう、あんな哀しい結末はつくらせない。この責任を背負う背中を正しく自分に備えたい。
敬愛する面影と一緒に英二は心裡、3つ目の責任にまつわる誓いを告げて心刻みこんだ。



話し終えて階段を降り始めると食事の匂いが温かに昇ってくる。
ちょうど支度が整ったのかなと思った英二に、ふと彼女が声を掛けた。

「あら、英二くん?首のとこ赤いね、…凍傷じゃないわよね?」

すこし心配そうに穏やかな声が訊いてくれる。
やさしい気遣いに感謝しながら英二は肩越しにふり向いて笑った。

「これね?国村の罠なんです」
「罠?」

階段を降りてホールに立つと彼女は不思議そうに英二の首筋を見た。
あかるいオレンジの照明の下で赤い痕を見つめると、愉しげに彼女は笑い始めた。

「それ、キスマークなのね?周太、すっかり拗ねたでしょう?」
「はい、俺が寝てる隙に勝手につけられちゃって。さっき俺、周太に怒られました、」
「そうでしょうね?これじゃ本当に、英二くん困ったね?」

笑いながらリビングに入ると暖炉の棚に周太の母は目を留めた。
そこには奥多摩の草花がきれいに寄せ植えされた鉢が置かれてある。
瑞々しい緑と花に微笑んで、彼女は笑い声が愉しい台所の方を振向いた。

「これは、彼のお土産ね?」
「はい。国村は兼業農家の警察官なんです、」

そう英二が説明する声に、台所から長身の姿がリビングへと入ってきた。
捲った袖を直しながら歩み寄ると、底抜けに明るい目が笑って端正な礼で微笑んだ。

「初めまして、国村光一です。今夜はお世話になります、」
「初めまして、光一くん。遠くからようこそ。この鉢植、とても素敵ね?ありがとう、」

穏かな黒目がちの瞳が朗らかに笑っている。
彼女の瞳を真直ぐに純粋無垢な目で見て、国村は笑った。

「宮田はいつも花束を土産にするって聴いたんです。で、俺は地元の花で寄植を造ってみました。他の土産は、夕飯でお披露目します」
「光一くん、お料理が上手って聴いてるわ?楽しみね、」

そんな会話を交わしながらダイニングテーブルに就くと、和食の立派な膳が並んでいた。
いつも周太は端正で温かな家庭料理を整えてくれる、それに加えて酒の肴に合いそうな料理が今夜は並んだ。
たぶんそうかな?予想しながら眺めていると、汁椀を盆に載せて周太が台所から入ってきた。

「おかえりなさい、おかあさん…英二、おまちどうさま?」

うれしそうに笑いかけてくれながら周太は汁椀を配膳してくれる。
そんなエプロン姿がすっかり板についている息子に彼女は楽しげに微笑んだ。

「ただいま、周太。今夜はまた、ご馳走ね?光一くんと作ったの?」
「ん、そう…英二もね、手伝ってくれて。後でね、すごいのがでるよ?」

そう言って周太もエプロンを外すと食卓に就いた。
皆が席につくと国村は、きれいな5合瓶から飴色の酒をグラスに注いだ。

「これはね、俺の家の梅で作ったんです。予約販売はするんですけどね、」

底抜けに明るい目が楽しげに笑っている。
渡されたグラスに口付けて、周太の母は微笑んだ。

「すごく良い香り、おいしいわ、」
「でしょう?俺の自信作の梅ですから。花もきれいですよ、いっぺんは見にお出で下さい、」
「山に梅の林があるのでしょう?周太、ちいさい頃に話してくれて」
「あれ、あの頃に聴いたんですね?今も、あの頃の通りです。霞がかかるように花が咲きます、」

愉しげな話を聴きながら英二も梅酒を楽しんだ。
普通より香りが良くて甘さが控えられている、芳香辛口の酒を好む国村らしい。
旨いなと微笑んだ英二の向かいから、赤く染めた頬に掌を当てながら周太が笑いかけた。

「ね、英二?今夜はね、どれがいちばんおいしい?」

どれもおいしいよ?
いつもなら最初にこれを言うけれど、多分今夜は言わない方が良い。
今夜は国村作が何品も加わっている「どれも」と言ったら国村の手料理まで褒めたことになる。
いつもは気にしなくても今夜の周太はきっと拗ねるだろう。それに献立のなかで英二は周太のものが一番好きだった。
見つめてくれる黒目がちの瞳に微笑んで、英二は素直に答えた。

「鶏の胡桃焼かな?あとは肉じゃが。ごはん食べたくなるな?」

梅酒で染まった頬の赤がまた深くなって、幸せそうに周太は微笑んでくれる。
どうやら周太にとって、満足がいく幸せな回答がきちんと出来たらしい。
この笑顔が嬉しくて微笑んだ英二に、周太が掌を伸ばしてくれた。

「ん、たくさん炊いてあるから…おかわりする?」
「うん、お願いできるかな?」

そんな調子で英二はごはんを7杯食べた。
もう1膳お願いしようかな?空になった茶碗を眺めたとき、隣で国村が立ち上がった。

「宮田、飯はそこまでだ。今から俺がね、最高の〆を出してやるからさ。ちょっと待ちなね」

からり笑って国村は台所へと立っていった。
それから10分ほどして国村は、きれいな蕎麦をたずさえ戻ってきた。

「さっき打っておいたんだ。で、いま茹でたてだからね。このツユでどうぞ、」

蕎麦猪口には香り好い汁が張られている。
この汁に蕎麦をつけて啜ると、蕎麦の芳香がふわり広がった。

「うん、旨いな?」

思わず英二は微笑んで国村を見た。
隣も満足げに自分の蕎麦を啜りこんで、すこし得意げに笑った。

「だろ?俺が作った蕎麦をね、蕎麦粉にして持って来たんだ。
 ほんとは挽きたてがイイんだけどさ、さすがにそれは無理だからね。道具も代用品だけど、旨いもんだろ?」
「そうだよな、道具とかは特に持って来なかったよな?」
「うん、家でもさ、俺はボールとかで作っちゃうんだよね。ああいう大仰な道具って、なんかめんどくさいだろ?」

どうやら国村は蕎麦打ちにも馴れているらしい。
国村の家は代々、梅と蕎麦を作っているから当然のように蕎麦打も出来るのだろう。
そんな国村らしい土産に微笑んで周太の母が言ってくれた。

「お花に梅酒、そしてお蕎麦。どれも奥多摩を満喫させてもらったわ?ありがとう、光一くん」
「お好みにあったなら良かった、奥多摩もイイでしょう? 周太はどう?旨いかな、」

急に聴かれたけれど、落ち着いて周太は箸を止めた。
嬉しそうに微笑ながら周太は、斜め向かいの国村に答えた。

「ん、おいしいよ?ありがとうね、光一」
「そっか、良かった。ご希望とあらば、また作ってあげるからね」

周太の言葉にテノールの声が嬉しそうに答えている。
愉しげな会話で親しい人と囲んだ手料理の食卓、こんなふうに過ごす夕食の時が楽しい。
あかるい寛ぎと温かな食卓が幸せで、英二は幸せに微笑んだ。



風呂を済ませると英二はリビングを覗きこんだ。
リビングでは周太の母が息子と話していた、先に風呂を済ませた国村は2階に上がったらしい。
母子で話す時間もあげたくて、彼女に「おやすみなさい、」を告げると英二も階段を上がった。
周太の部屋に入ると国村の姿が見えない、けれど屋根裏部屋の梯子階段に灯が落ちている。
きっと上にいるのだろう、微笑んで英二は梯子階段に足を掛けた。

「国村、」

部屋に入って声を掛けると、やわらかなフロアーランプの光に長身の背中が佇んでいる。
ゆっくり黒髪の頭がふり向いて、底抜けに明るい目が英二を見つめて笑いかけた。

「今日の湯上りも艶やかだね、宮田?この家、風呂も良いな、」
「うん、ブルーと白のタイルがきれいだったろ?」
「だね。この家の人は、陶器モノは青と白が好きみたいだね」

話しながら並んで床に座り込むと、天窓の星空がきれいだった。
川崎でも意外と星が見える、冬の清澄な大気の所為だろうか?
天窓を見あげる英二の隣から、透明なテノールの声が低く問いかけた。

「ダイニングの飾り皿。あれが何か、宮田は知ってる?」
「いや?きれいだな、とは思っていたけど…数字が入っていたな?あ、」

ダイニングに青い飾り皿が4枚ある。
それぞれ絵柄は異なっているけれど、どれも4桁の数字が焼きこまれていた。
そのうちでも一番に新しい雰囲気の1枚は「1988」となっている。

1988、年?

周太が生まれた年。
そして国村も英二も、美代も生まれた年になる。
青い皿の数字がもつ意味に気がついて、英二は口を開いた。

「あれって、この家の主たちが生まれた年に造られた、ってこと?」
「たぶんね。ま、一番古い皿はさ、この家が建てられた年じゃないかな?でさ、あの皿って結構イイものなんだよね、」

白い指で濡れている黒髪をかきあげながら、珍しく国村がため息を吐いた。
どうしたのかなと見ていると、細い目が英二を見つめて微笑んだ。

「あれはね、デンマークの王室御用達が造るイヤーズプレートなんだ。
限定品でね、しかも限定数を焼き終えると型を壊しちゃうんだよ。それで余計に価値も出るワケだ。
あのコーヒーカップも、このメーカーの代表シリーズだよ。でさ?さっき周太、曾じいさまが揃えたって言っていたよね。
それって多分、この家を建てた大正時代に買い求めたって事だろ?あれを当時から持っているなんてさ、日本じゃ珍しかったろうね、」

和食器は英二も父親に連れられていく食事の場で教えられている。
けれど洋食器は実家にあるメーカー位しか知らなかった、友人の博学を素直に英二は褒めた。

「いいものだな、って思ったけど、そんな価値のあるものって知らなかったよ。国村、良く知ってるんだな?」
「うん、おふくろが詳しかったんだよね、そういうの…」

いつになく少し寂しげなトーンに英二は友人の顔を覗きこんだ。
覗きこんだ細い目はすぐ普段通りに明るく笑うと、英二の額を白い指が小突いた。

「いずれにしてもさ、この家って結構な家だね?家自体も一見、豪邸って程じゃないけど木材が良い、組み合わせ方も巧いよ。
華美じゃないけど丁寧に仕事して造り上げた、住みやすい洋館の良さ。それが細かいところからも解かる、タイル1枚も良いモンだ。
趣味がいい堅実な成功者が造った家、そんな雰囲気だ。たぶん、周太の曾じいさまってさ、何かで成功して財産を作った人じゃない?」

農業高校出身で林業も多い奥多摩育ち、そういう国村は木材の質に目が肥えている。
建築物から読みとっていく類推に頷きながら英二は訊いてみた。

「うん。俺も同じように思ってるよ。書斎の本も立派な装丁だろ、当時は贅沢な物だったよな?
しかもね、周太のお祖父さんは戦後すぐ、パリ大学に留学したらしいんだ。これって、当時は普通、難しかったと思うんだけど、」

周太の祖父に関する日記帳の記述と、過去帳に記された生年。
これらから計算すると終戦間もない時期に、彼はパリ大学ソルボンヌへと留学している。
まだ戦後の混乱期に世界レベルの一流大学に留学するのは、能力だけでは不可能だったはずだろう。
この疑問に対して国村も、すこし考え込むように頷いた。

「あの当時、フランスと日本では経済格差も大きかったしね?それでも蔵書だって舶来モノばかりだ、
当時ソレダケの経済力があるのは珍しいはずだろうな。なにより、当時の日本からパリ大学に行くならさ?
きっとそれなりのバックボーンが無いと無理だ。それに該当する「湯原」を探すと、曾じいさまのことも解かるかもね…ん?」

まだ濡れた黒髪を透かすよう細い目が英二を見た。
その視線に気がついた英二の耳に、かすかな階段を上がる気配が聞こえてくる。
気づいた英二の様子に満足げに目を細めて、白い指を口もとに立てるとテノールの声が微笑んだ。

「お喋りの続きは、また後でだね?愛しのツンデレ女王さまがお出でになるな、」

笑いながら国村は、ロッキングチェアーの方を眺めた。
やさしいフォルムの頑丈な椅子には、可愛らしいテディベアが座っている。
前に訪れた時には居なかった住人に、すこしの驚きと英二は微笑んだ。

「テディベアか、姉ちゃんも持ってるな」
「ふうん、宮田の姉さんか。別嬪なんだってね、美代が言っていたよ」
「でも姉ちゃん、なかなか彼氏出来ないよ?」

そんな話をしていると下で扉が開く音がした。
すぐに梯子階段から微かに軋む音が立って、周太が部屋を覗きこんだ。
覗きこんだ黒目がちの瞳に笑いかけてテノールの声が話しかけた。

「おじゃましてるよ、周太?すてきな屋根裏部屋だね、居心地いいよ」

自分の大切な部屋を褒められて、周太は素直に嬉しそうに笑った。
階段から無垢材の床へと素足で上がりながら、気恥ずかしげに周太は口を開いた。

「ありがとう、のんびりしてね。星、きれいかな…あ、」

2人の視線がロッキングチェアーに向いている事に気がついて、周太の首筋が赤くなり始めた。
見る間に湯上りの頬を更に赤くしながらも、背中を伸ばしたまま周太は無垢材の床に素足を運んでくる。
真赤な頬に羞恥が滲み出てしまっている、それでも周太はロッキングチェアーからテディベアを抱き上げた。

「23歳の男が、なんて変かもだけど…でも、俺の宝物なんだ、」

大切そうにテディベアを抱きしめて周太は2人を見あげた。
そんな周太の瞳を見つめ返して、心から嬉しそうな細い目が温かに笑んだ。

「久しぶりだな、小十郎、」

愉しげに笑いかけながら伸ばした白い掌は、優しくテディベアの頭を撫でた。
優しい掌に周太は、うれしそうに頷くと微笑んだ。

「光一、覚えていてくれた?」
「そりゃね?すごく可愛かったからさ、小十郎も、周太もね、」

さらり答えながら底抜けに明るい目が笑った。
愉しげに笑いながら国村は、すっと体を傾けると周太の耳元にやさしいキスをした。
驚いて黒目がちの瞳が大きくなって、周太は真赤なまま片掌で耳元を押さえこんだ。

「…っ、こういち?」
「あれ、驚かせちゃったかな?ごめんね、周太、」

からり笑いながらも国村は細い目を温かに笑ませている。
愉しげに笑いながら英二と周太を見ると、いつもどおりテノールの声が微笑んだ。

「懐かしい小十郎を見ちゃったらね。子供時代と同じコト、したくなっちゃってさ。堪え性の無い俺で、ごめんね?」

まったく悪びれた様子の無い、いつもながらの堂々とした宣戦布告をしてくれる。
こんなふうに豪胆で無垢な態度はいつも、英二には何だか眩しいなと想えてしまう。
こんな友人がやっぱり大好きだ、穏かに大らかな笑顔で英二は国村の額を小突いた。

「ほんと、堪え性が無いね?でも気持ちは解るな?テディベア抱っこして真赤な周太、可愛いから」
「だろ?ほんと可愛いよね、ちょっと俺、今夜は危ないよ。ねえ?」

飄々と笑いながら「危ないよねえ、」と自分で言って国村は梯子階段を降りていった。
なんだか裏がありそうだな?ちらり気がついて首傾げた英二のシャツを、そっと周太が掴んできた。
黒目がちの瞳が困ったように見上げてくれる。こんな顔は弱いな?微笑んだ英二に周太は唇を開いた。

「…テディベアが好きな23歳の男って…ダメ?」

ゆるやかなトーンで素直に訊いてくれる。
こんな顔でこんなトーンで訊かれて「ダメ」なんて言うわけないのに?
きれいに笑って英二は黒目がちの瞳に答えた。

「姉ちゃんなんか24歳だけど、テディベア2つも持ってるよ?それに、このテディベアは周太に似合ってる、」

想ったままを素直に英二は答えて、周太に笑いかけた。
答えを聴いた周太の赤い頬に、幸せそうな笑顔がほころんだ。

「ありがとう、英二。このテディベア、小十郎って言うんだ。父が付けてくれた名前で…小十郎はね、父の身代わりなんだ」
「身代わり?」

どういうことなのだろう?
穏やかな笑顔で訊きかえした英二に周太は微笑んで、理由を話してくれた。

「父はね、忙しくて休みがとり難かったから。俺が生まれる時も、その後も、傍にいられないかもしれない、って。
それで、父の代わりに傍にいてくれるように、俺が生まれる前に小十郎を連れて来てくれたんだ…俺が寂しい想いをしないように。
小さい頃ずっと大切にしていて…でも、父が亡くなった知らせを聴いた瞬間、小十郎の記憶も失くして…でも最近、思い出せたんだ、」

恥ずかしそうに顔を赤くしながらも、うれしそうに微笑んで話してくれる。
きっと本当に大切な宝物なのだろう、話しながらも周太はやさしく「小十郎」を抱きしめている。
この「小十郎」が周太の父代わりと言うなら尚更に大切だろう、そして父の死を知った瞬間に忘れたことも納得がいく。
この可愛らしテディベアにこもる想いが切なくて愛しい、そっと長い指の掌で「小十郎」の頭を撫でた。

「周太が忘れていた間、お母さんが預かってくれたんだ?」
「ん、そう…13年間ずっと貸してくれて、ありがとう。お母さん、そう言ったんだ…ね、英二?」

見あげてくれる黒目がちの瞳に温かな紗がかかりだす。
おだやかなフロアーランプの灯にきらめく瞳がきれいで、見惚れてしまう。
見つめる英二に周太はきれいに笑って、幸せに言葉を紡いだ。

「お父さん、ずっと一緒にいてくれたんだよ?お母さんと俺と、一緒に。
銀河鉄道は来なかった、けど、ほんとは一緒にいたんだ…だから、奥多摩鉄道もね、本当に一緒に乗っていたよね?」

きっとそうでしょう?
きらめく温かな瞳が英二に問いかけを贈ってくれる。
やさしい問いかけに素直に頷いて英二は微笑んだ。

「うん、一緒に乗っていたよ。だって周太?お父さんの合鍵を持っている俺も、一緒にいたんだから」

幸せな笑顔から涙ひとつこぼれて「小十郎」の瞳にふりかかる。
やさしいテディベアと一緒に泣きながら、周太は英二に笑いかけた。

「あのね…英二は、お父さんの時がある。すごく、安心出来るよ?でも、それ以上にね…英二、」

すこし背伸びして、右掌が英二の左頬をくるんでくれる。
微笑んだ黒目がちの瞳がそっと近づいて、やさしいキスが唇に贈られた。
ふれる想いが温かい、幸せでキスに微笑んだ英二に穏かな声が笑いかけてくれた。

「英二、愛してる…無事に北岳からも帰ってくれて、ありがとう、」

黒目がちの瞳からまた一滴の涙こぼれていく。
やわらかな涙に英二は唇よせて拭うと、黒目がちの瞳に笑いかけた。

「こっちこそだよ、周太?迎えてくれて、ありがとう。こうやって俺はね、必ず帰ってくるよ。愛してるから、」

君を愛している、いつだって。
愛する君を守り続けて、君の隣に帰り続ける。
そのためになら最高峰だって登る、昇進だってする。叶うまで努力する。
想い見つめる真中で周太は気恥ずかしげに微笑んで「小十郎」をロッキングチェアーに座らせた。
そして英二に抱きつくと、幸せに黒目がちの瞳が笑ってくれた。

「ん、愛して?…だから今夜も言うこと聴いて、英二?…おれといっしょにねてね?」

また、フリダシに戻ったな?

可笑しくて微笑んだ英二からすこし離れると、周太はフロアーランプの灯を消した。
星明りだけの部屋で黒目がちの瞳が微笑んで、やさしい唇が唇にふれてくれる。
ふれる唇に応えながら長い腕に小柄な体を抱きとめていく、頬ふれる髪の香に惹かれてしまう。
穏かで温かい幸せなキスの時を過ごして、英二は周太に笑いかけた。

「周太、下に行こう?」
「ん、」

素直に頷いて英二の袖をそっと持つと、周太はくっつくように一緒に歩いてくれる。
梯子階段を降りながら、ちいさな声が恥ずかしげに訊いてくれた。

「ね、ベッドでいっしょにねてくれるんでしょ?ふとん2組、お母さん敷いちゃったけど…」

首筋を赤くしながら、含羞に黒目がちの瞳が潤んで見つめてくれる。
こんなに一緒にいたいと、求めてもらえるのは心から嬉しい。
なによりも、こんな顔されたら聴いてあげたくなってしまう。
けれど国村の周太への想いを知っている以上、それも難しくなってしまう。
階段を降りて周太を見つめると、困ったまま英二は微笑んだ。

「周太、俺も一緒に寝たいよ?でも今夜はね…っ、くにむら?」

言いかけた英二を背中から抱きこんで、国村が肩へと担ぎ上げた。
細身でも英二同等の身長と、それ以上にパワーがある国村は軽々と英二を担いでしまう。
驚いている周太を底抜けに明るい目で見ると、きれいなテノールが愉しげに笑った。

「周太?湯上りの君があんまり可愛いからさ、俺は今夜、オオカミになりそうで危ないんだ。
だから今夜はね、宮田に俺をシッカリ監視して貰って寝るからさ。ね、み・や・た?今夜も俺たち、同衾しようね?」

可笑しそうに笑いながら英二を担いだまま国村は部屋を歩いていく。
山岳救助隊でもパートナー同士の英二と国村は普段から、訓練でお互いを担ぎ合っている。
それどころか互いに背負った状態でザイル登下降もするから、この程度は簡単だった。
これじゃ今の自分は救助者状態だな?抱え上げられた自分が可笑しくて、笑いながら英二は国村の腕を軽く叩いた。

「こら国村、おろしてよ?救助訓練じゃないんだからさ、俺を担ぐ必要はないだろ?」
「堅いこと言うなよ、宮田?…さ、可愛い俺のアンザイレンパートナー。ここが今夜は、俺たちの愛の褥だよ?」

笑い堪えながら細い目を笑ませて国村は、ふとんを捲ると英二と一緒に横たわってしまった。
横向きにさせた英二の背中にがっしり抱きつくと、底抜けに明るい目が周太に微笑んだ。

「さ、周太?はやく電気消して寝ようよ、ここからはね、愛をささやく時間だよ?ね、み・や・た」
「おまえとは愛は囁かないよ?っていうかさ、これじゃ俺、なんにも動けないんだけど、」

英二の肩には腕が回されて、脚には絡み脚まで掛けられているから動けない。
まるで逮捕術の寝技訓練みたいだ?自分の状況が可笑しくて、けれど困って微笑んだ英二にテノールの声が笑いかけた。

「動けないようにしてるんだよ、宮田?さ、俺を一晩ずっと逃がさないでね。周太の色香に俺が負けないよう、レスキューして?」
「今ね、俺がレスキューされたい気分だよ?」

どうとも出来ないでいるうちに、ふっと部屋の灯がおとされてデスクライトが点いた。
きっと周太が消したのだろう。けれど、さっきから周太は何も言わないでいる。
いま周太はなにを想っているのだろう?あわいオレンジの灯が照らす視界に、英二は瞳を動かした。

「周太?」

呼びかけた名前に、かすかな衣擦れの音が応えた。
音に見上げた視界に小柄な影が映りこんで、英二の懐にするりと入り込んだ。

「…ん、英二?」

黒目がちの瞳が懐から、恥ずかしげに微笑んだ。
ふたつの掌が英二の体にしがみついて、気恥ずかしげに周太が身を寄せてくる。
大好きな髪の香が頬ふれるなか、背中からテノールの声が笑った。

「あれ、周太もコッチに来ちゃったんだ?じゃ、3Pしちゃう?」
「しない、」

笑って英二は即答すると、かるく国村の額に頭突きした。
頭突かれた国村が思わず右掌で額をさすった隙に、自由になった右腕で英二は、そっと周太の体を抱きこんだ。

「痛いなあ、宮田。そんなムキになるなよね?」
「なるよ。ほら、周太が固まっちゃっただろ?ね、周太?ごめんね、国村がバカなこと言って」

こんな夜の用語をこの状況で言われて周太は困るだろうな?
そう心配した英二の肩越しに、雪白の顔も懐を覗きこんでくる。
見あげてくれる黒目がちの瞳はひとつ瞬いて、国村と英二に不思議そうに問いかけた。

「ね?さんぴーってなに?」

意味の分からない言葉に周太は考え込んで、固まっていたらしい。
驚かせたわけじゃなくて良かったな、そう安心しかけた肩越しにテノールの声が愉しげに笑った。

「三人で仲良く、えっちすることだよ?試してみたい、周太?」

ほのぐらい照明のなかでも解るほど、すぐさま周太の顔が真赤になった。
これじゃ本当に固まってしまう?すこし焦って英二は周太を抱きこんだまま、長い指で頬にふれた。

「周太?国村は冗談を言っているだけだからね、気にしないで?」
「…ん、…英二?」

頬くるむ指に掌を重ねて黒目がちの瞳が微笑んだ。
微笑んだ顔を周太はすこしだけ動かすと、くるんだ指にやわらかな唇でふれてキスをした。

「…周太、」

心ひっぱたかれて、名前が唇からこぼれでた。
こんなこと、こんな状況で周太がするなんて?
驚いて見つめる黒目がちの瞳が気恥ずかしげに微笑んで、周太の唇が英二に命令をした。

「ないしょにして?あいしてるならいうこときいて、」

こんな命令ちょっと、ときめきます。
心裡の呟きに自身で笑いながら、英二は自分の主に素直に頷いた。

「はい、言うこと聴くよ?それ、好きにして良いよ?」
「ん、…すきにするね」

キスされた指を英二は周太に預けてしまった。
その会話に首傾げてテノールの声が愉しげに笑った。

「なんか愉しそうだね、俺に内緒話みたいだけどさ?ま、俺も好きにするよ、み・や・た、」

愉しげな笑いをあげた唇が英二の首筋にふれた。
驚いて肩越しにふり向くと英二は国村の顔を見た。

「待ってよ、国村?ダメだって、おまえには許可しないよ?」
「あれ、ダメだった?内緒話につい寂しくなって、おしゃぶりが欲しくなっちゃった。許してね、」

からり笑って白い指が英二の額を小突いた。
そんな国村を見あげて周太は、拗ねたように微笑んだ。

「光一、だめ。英二は俺のなの、じゃましないで」
「ダメだね、周太。昼間も言っただろ?宮田はね、俺の公認アンザイレンパートナーなんだから。悪いけど、一生一緒だよ?」
「それはそうだけど…でも俺だってこんやくしゃなんだから。それに光一、俺のこと好きなんでしょ、いうこときいて、」
「嫌だね。確かに俺は君に惚れてるよ?でもね、こればっかりは言うこと聴けないね。こいつは俺の可愛いパートナーだからさ、」
「ばか、光一のばか、言うこと聴いてくれないなら、嫌いになるからね?」
「嫌いになっても良いよ?でも俺はね、ずっと君を愛してるよ、周太?…さ、宮田?俺とイイコトしよっか?」
「だめ、かってにしないで?光一のばか、英二は俺のなの」

周太の母が言った通りに「とりっこ」が始まってしまった。
今夜はずっとこんなだろうか?
こんな調子で今夜は無事に眠れるのかな?
明日は午後から出勤で、そのあと連続8日ほど勤務が続くことになる。
出来れば今夜は寝かせてほしいのにな?そんな想いで英二は2人に提案してみた。

「あのさ、俺、明日から8日間の連続出勤なんだ。だから今夜はね、ゆっくり寝たいんだけど?」

いったん2人とも口を閉じてくれる。
けれどすぐ底抜けに明るい目が笑って、テノールの声が愉しげに笑った。

「俺も7日間の連続だけどね。俺は今夜、寝るの勿体無いな?でも宮田は好きに寝な、俺も好きにするからさ、」

言いながら国村はまた英二の首筋に唇でふれてくる。
こういう艶っぽい悪ふざけが国村は好きで仕方ない、こんなエロオヤジなパートナーが可笑しい。
けれど今笑ったら、きっと懐にいるツンデレ女王さまが怒るだろうな?
そう思って堪えたのに、すぐに懐から抗議の声があがった。

「ばか光一、やめて、英二の首にさわらないで」
「嫌だね。俺はいま口寂しいんだ、こんな美しいうなじの、おしゃぶりを我慢したくないね」

とりっこが再開してしまった。

この2人共たしか、警察学校の首席同士で射撃大会の優勝コンビだったはず。
けれど自分を挟んで繰り広げられる舌戦は、幼稚園児と変わらない気がしてならない。
しかもこの2人は初恋の相手同士でいる、そんな2人から、こんな挟み撃ちにあうなんて予想外だ。
この自分が感動するほど純愛の2人だったはず、なのに、この今の状況はなんだろう?

「がまんしてったら?やめて光一、さわらないで、英二は俺のなの、ばか光一」
「じゃあさ、代わりに君でさせてくれるワケ?だったら止めてあげてもイイけどね」
「自分の腕でもすえばいいでしょ?ばか光一、ばかばか、へんたい、もうしらない」
「周太だってさ、ホントは宮田の指、吸ってただろ?可愛いねえ、ヘ・ン・タ・イ・さん」

もうこの状態でもいいかな?

観念して英二は目を瞑って眠りに入る体勢になった。
大切な婚約者で生涯を誓った相手と、大切な夢の相方で生涯のアンザイレンパートナー。
どちらも大切なふたり。だから「好き」だと表現してもらえるのは嬉しいし、居場所なんだなと幸せになれる。
けれどこの先も、3人で一緒になるたびごと、こんな状態になるのだろうか?
ちょっと途方に暮れて英二は、目を瞑ったまま溜息を吐いた。



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第37話 凍嶺act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-03-24 22:58:37 | 陽はまた昇るside story
居場所、受容れて抱きとめて




第37話 凍嶺act.5―side story「陽はまた昇る」

鍵を開けて扉を開くと、かたんと2階から音が響いた。
すぐに軽やかな階段降りる音が続いて、エプロン姿が玄関ホールに降り立ってくれる。
ちょうど靴を脱いで上がった英二に笑いかけると周太は、気恥ずかしげに国村を見上げて微笑んだ。

「いらっしゃい、光一。遠くから、ようこそ」

周太のあいさつに底抜けに明るい目が温かに笑った。
やわらかな笑顔で軽く会釈すると透明なテノールの声が周太に微笑んだ。

「おじゃまします、周太。川崎の奥多摩の森を見に来たよ?良い森だった、家も素敵だね」
「ん、ありがとう…ゆっくりしてね?母も夕飯には帰ってくるから。母もね、会うの楽しみにしてるんだ、」

相変わらず恥ずかしげでも、機嫌は良さそうな周太の笑顔に英二はほっとした。
この3晩ずっと国村と英二は2人だったから周太は嫉妬している、そう言われていたから少し心配していた。
けれど大丈夫そうだ。良かったなと見ていると、こっちを振向いて周太が綺麗に笑った。

「おつかれさま、英二…荷物、部屋に置きに行くよね?」

今朝の電話も拗ねたまま切られた、けれど今、いつもの可愛い笑顔を見せてくれて嬉しい。
嬉しくて英二は素直に微笑んだ。

「うん、そうしたいな。周太、ふとん取込めた?途中なら手伝うよ、」

なにげなく言ってしまって、しまったとすぐ英二は気がついた。
きっと今「ふとん」は禁句だったんじゃないだろうか?
また朝の問答になってしまう?そう気づいたけれど、もう周太は頬まできれいに赤くなっていた。

「ん、取込めたよ?…ふとんほしたからねいうこときいてね」

いつもの藍色のエプロン姿で袖捲りをして、気恥ずかしげに周太は微笑んでいる。
こういう恰好でこんな顔されると可愛らしくて抱きしめたくなる、けれど言われた内容には困ってしまう。
今夜は国村もこの家に滞在する、それなのに周太は一緒に寝たいとねだってくれている。
いつもなら嬉しいけれど、国村がいる手前それは流石に自粛したい。
けれど周太の様子は「わがままでしょ?でも愛してるんでしょ、言うこと聴いて?」なのだろう。

― 困ったな?

周太の母から智慧を借りようと思っていたのに、彼女が帰ってくる前に自分から地雷を踏んでしまった。
どうしたらいいのだろう?困りながら階段の方へ歩きかけたとき、ポンと英二は抱きつかれた。
驚いて懐を見ると案の定、しっかり周太が抱きついている。その見上げてくれる真赤な顔が英二に微笑んだ。

「おかえりなさい、英二…今日は、ひとりにしないで?」

心がひっぱたかれた。
こんなのちょっと、可愛すぎて反則だろうと思う。

けれど国村がいる、今はちょっと困ってしまう。
かと言って3晩とも電話を我慢してくれた周太を振りほどくなんて嫌だ。
なにより英二自身、ほんとうは声を聴きたかった。逢いたかった抱きしめたかった。
もう、観念したいな?そんな想いと一緒に長い腕を周太に回して英二は微笑んだ。

「うん、ひとりにはしないよ、でもね、周太…っ、くにむら?」

言いかけた英二の背中から、こんどは国村ががっちり抱きついてきた。
驚いて肩越しにふり向くと、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
笑った細い目が英二と周太を肩越しに見比べて、透明なテノールの声が愉しげに笑った。

「そうだよ、周太?君のこと、ひとりになんかしないよ。で、ちゃんと俺も混ぜてもらうからね?」

がっしり背中から国村に抑え込まれて動けない。
そんな英二の懐から赤い頬のまま、黒目がちの瞳を大きくした周太が拗ねたように口を開いた。

「…そんなのダメ、光一、俺のことあいしてるんでしょ?だったらいうこときいて?英二は俺のなの、放して、」
「嫌だね。俺もさ、君に負けない程、あまえんぼでワガママなんだよ。悪いけどね、宮田は俺のでもあるんだ、」
「それは、アンザイレンパートナーかもしれないけど…でも、俺に全部くれるって、英二は言ったんだから。放してよ、」
「ダメだね、周太。こいつはね、俺のアンザイレンパートナーだって警視庁も認めたんだ。
それってね、一生ずっと俺のパートナーで、かつ俺のブレインになるってコトなんだよね。だから俺の好きにさせてもらうよ?」

なに、この挟み撃ち?
そう心裡で呟いて英二は自分で可笑しくて笑ってしまった。

「ちょっと、国村?確かに言う通りだけどさ、好きにして良いってことは無いだろ?」
「そんな固いコト言うんじゃないよ。ね、み・や・た?可愛いパートナーの俺の言うこと聴いて?…お願い、独りにしないで?」

言いながら国村が英二の首筋に指でふれた。
ふれられた瞬間、英二は大変なことを思い出して口を開いた。

「周太、俺、国村の悪戯の罠に嵌められたんだ、」

焦って言いかけた英二を、黒目がちの瞳がじっと見つめてくる。
なんとか理解してほしいのに、周太の声は一段トーンが低くなってしまった。

「…どんないたずら?そのきすまーくのこと?…たのしかったわけ?」
「寝てる間に勝手につけられたんだ、だから楽しいとか無いよ、」

本当のことをそのまま英二は周太に説明した。
けれど、可愛らしい口調のままで尋問は飛んできた。

「ねてるあいだに?…そんなしきんきょりでねていたってわけ?よくいみがわからないんだけど?」

こわい、

そんな素直な感想に、我ながら英二はすこし可笑しくなった。
こんなの困ってしまう、けれど怖がっている自分が可笑しい。
こんなふうに怖がるほど周太が大切、そう思えていることが幸せで楽しい。
けれど今、何て答えよう?
困ったまま黒目がちの瞳に笑いかけると、ちょっと嬉しそうに周太が笑ってくれた。
このまま笑ってくれないかな?思いながら口を開きかけたとき、背後からテノールの声が笑った。

「ソンナ至近距離だよ、周太?あまえんぼの俺はね、シッカリくっついて寝ていたんだよ。
で、おしゃぶりが欲しい俺の口元にさ、そりゃあ美しい白皙のうなじがあったってワケ。だから遠慮なく吸わせてもらったけど?」

言われて周太の顔が余計に赤くなっていく。
あんまり赤くなるとまた倒れるかもしれない?
そんな心配に困っている英二の懐で周太が抗議の声をあげた。

「…っ、光一のばか、そんなことかってにしないで?俺のなんだから…かえしてよ、」
「ふうん、返してほしいんだね、周太?じゃあさ、キスで返してあげるよ。君のどこに返せばイイ?うなじ?それとも唇?」
「ちがうったら…もう、からかわないでよ?」
「遠慮は要らないよ、ほら、」

不意に国村は笑いながら廻り込んで、周太に腕を伸ばした。
その腕を身軽に避けると、周太は英二の背後に回り込んで抗議した。

「やめて光一?そんなことするなら泊めてあげない…言うこと聴いて?」
「残念。今日は俺、おふくろさんのお客だからさ。周太にそんな権限ないよね?ま、どうしてもって言うなら、宮田も連れて帰るけど?」
「どうして英二も連れて帰るの?」
「だってさ、明日の朝もし雪だと電車NGになるだろ?それで宮田の出勤が出来ないと、そりゃ困るからねえ。ね、み・や・た?」

なんだか英二をはさんで国村と周太が回っている。
今日は、ずっとこんな調子なんだろうか?
それもなんだか困るけれど、とりあえず落ち着きたい。
すこしため息ついて英二は困った顔で微笑んだ。

「あのさ、俺、周太のコーヒー飲みたいな?オレンジのケーキも買ってきたんだけど、」

花束と抱えていたケーキの箱を、英二は周太に手渡した。
渡されて急に嬉しそうに笑うと周太は頷いてくれた。

「ん、お茶にするね?コーヒー淹れるから…部屋、いつもみたいに自由に使ってね?ハンガーとか出してあるから」

機嫌よく周太はケーキの箱を抱えてダイニングへ歩いて行った。
ダイニングに通ずるステンドグラスの扉がぱたんと閉まると、ほっ、と英二は息吐いた。

「お姫さま、ご機嫌なおったね?さ、部屋に案内してよ。宮田、」

からり笑って国村は階段を昇り始めた。
一緒に上がりながら英二は訊いてみた。

「あのさ、国村?かなり今、愉しんでたと思うけど。今回、ずっとこんな感じ?」
「うん?特に考えてなかったな。コンナが良いんならするけど?」
「もうちょっと落ち着いている方が嬉しいよ?」

笑いながら2階にあがると、磨き抜かれた廊下の艶が冬の陽にやわらかい。
静かな空気を歩いて英二は周太の部屋の扉を開いた。
すっかり馴染んだ穏やかな部屋は午後の陽だまりに温まっている。
鞄を置いてコートをハンガーに掛けると、国村は窓際に佇んだ。

「大正ガラスかな、光がやわらかい。木枠も磨きこんで綺麗だな…大切に住んできた家だね、」
「周太のひいおじいさんが建てた家らしいよ、すこしずつ手を入れて住んできたんだ」

話しながら英二は窓を開いてバルコニーに出た。
ふっ、とやわらかな風に懐かしい香が頬を撫でて、庭の一カ所に英二は微笑んだ。

「ほら、あの木だよ、国村。あれが周太の山茶花『雪山』だよ、」
「花つきが良いな、きれいだ。香がすごく良い…周太らしいね、」

バルコニーで並んで見おろしながら、底抜けに明るい目が温かく笑んだ。
明るい目で木造の欄干にすこし凭れながら庭を見渡すと、感心気に国村は頷いた。

「うん。奥多摩と同じ木が多いな、草花もそうだ。周太のじいさまが造った庭だ、って言っていたな?」
「そうなんだ、フランス文学の権威だった人らしい。でも…お母さんも周太も、そのことは何も知らないんだ」

底抜けに明るい目が英二の顔を見た。
どういうことだ?そんなふうに細い目が声はなくとも英二に問いかけてくる。
問いかけに頷いて英二はそっと答えた。

「この家にはね、お父さんが警察官になる前の時代のことは遺されていないんだ。
アルバムすら無い。そして、お父さんは何も2人には話さなかった。家と庭、家具と食器類、お墓、過去帳、書斎の本。それしかない。
その過去帳も、周太の曾おじいさんからしか書いていないんだ。親戚も誰もいない、お祖父さん達のことが解かるものは殆ど無いんだ」

「ふん…過去帳で俗名は解かるんだ。珍しい姓名ならね、名前だけでも検索出来るけど。でも、おまえはそれ以上を掴んでるな?」

底抜けに明るい目が英二を真直ぐ見つめてくる。
その目を見つめ返して英二は室内を指さして国村を促した。

「隣が書斎なんだ、」

バルコニーの窓を閉めると周太の部屋を出て、隣の書斎に入った。
やわらかな午後の陽射が書斎には充ちて、かすかに甘い重厚な香が迎えてくれる。
いつもの書斎机の前に立つと、英二は写真立てを手にとって微笑んだ。

―…ただいま帰りました、北岳は素晴らしかったです。
 今日は、俺のアンザイレンパートナーを紹介させてください。きっと一番の協力者なんです

いつものように英二は心裡に語りかけながら佇んだ。
見つめる周太の父、馨の微笑は写真の中で頷いてくれたように思えた。
かすかに頷き返すと英二は、隣を振向いて国村に微笑んだ。

「周太の、お父さんだよ」

そっと渡すと受け取った白い掌は、宝物のように持って写真の微笑みを見つめた。
見つめる細い目が温かく笑んで、透明なテノールの声が静かに記憶を紡いだ。

「うん…この笑顔、覚えてるね。周太を送り届けたとき、心から、きれいな笑顔で笑いかけてくれた。寂しげで温かい人だった、」

書斎机に活けられた白梅を見遣ると底抜けに明るい目がすこし嬉しそうに笑った。
その花の隣に写真立てを戻すと、国村は英二の顔を見た。

「そうだな、おまえが憂い顔で微笑むとき、確かに似ているな?そっか、この笑顔に俺は今のとこ、後れを取っちゃったんだね」

からり笑って国村は英二の額を白い指で小突いた。
小突かれた額をかるくさすりながら、英二は首に懸けた合鍵を手繰りだした。
首から外した合鍵を長い指に持つと英二は書斎机の抽斗を示した。

「国村、この抽斗をどう見る?」

問いかけに細い目が英二を見つめてくれる。
すこし首傾げると国村は長身を折るようにして袖抽斗を覗きこんだ。
3段ある抽斗を順番に見つめていく、一通り見て、また1段に目を戻すとテノールの声が言った。

「この一段だけ、鍵穴が違うな…ふん、そうか。おまえの合鍵でこの段だけ開くんだね?」

この鍵は良く見ないと違いが判らない。
けれど英二と同じように国村は気づいた、そんな友人に英二は微笑んだ。

「うん。やっぱり国村、解かったな?」
「まあね。鍵穴は俺、見慣れているからね」

特技の1つ「開錠」で国村は、独自の工夫をした針金で大概の鍵は開いてしまう。
そんな国村にとっては鍵穴の形状を見る位は簡単なのだろう、合鍵を鍵穴に差し込みながら英二は口を開いた。

「この段は抽斗用の鍵で開かないだろ?それで、お母さんも周太も鍵が壊れたと思ってる。だから13年間この抽斗は開かれなかった」

かちり、小さな音に開錠される。
静かに抽斗を開いて見せながら英二は国村を見た。

「ここに、日記帳が入っていたんだ。お父さんの20年間が綴られた日記帳だった、」
「ふん…今はそれ、おまえが預かっている、ってワケか」

察しの良い国村は話が早い。
素直に頷いて英二は言葉を続けた。

「うん。日記帳のことはね、お母さんと周太には言っていないんだ。今の現実を知っていると、辛い内容だから…まだ話せない」

ため息まじりで告げた英二を純粋無垢な目が見つめている。
見つめながら国村は低めたテノールで質問をした。

「おまえ、北岳でもさ?アルファベット綴りのコピーを読んでいたよな、もしかして日記帳のコピーか?」
「そうだよ。お父さんの日記帳は、最初だけが英文で途中からラテン語混じりになっている。
そして2年目からは完全にラテン語記述なんだ、だから読むのに時間が掛るんだよ。でも、今のところ手懸りの資料はこれだけ」

抽斗を閉じるとまた合鍵で英二は施錠した。
それから書架の前に立つと紺青色の表装の本を取出し、国村に手渡した。

「あとはこの本なんだ、」

受けとると底抜けに明るい目が怪訝に顰められる。
白い掌で丁寧にページを開くと、テノールの声が呟きを零した。

「…ページが切りとられた本か。ふん、…ちょっと前の他殺体、あれと同じケースってことか」

縊死自殺を装った他殺遺体が奥多摩の森で発見されたことがある。
その時に遺体の傍には「ページを切り取られた本」が落ちていた。
その本から遺体以外の指紋が検出され犯人検挙につながった、けれどページが切り取られた理由は犯人も知らなかった。
ただその本は、犯人と被害者の思い出の本だった事だけは判明した。

「思い出があるから捨てられなかった。けれど、何か辛い内容が書かれたページがあった。
だから、その部分を切り取って持っていたのかもしれない。あのとき吉村先生はそう教えてくれたね…あれと同じか、宮田?」

細い目が英二を見つめてテノールの声が低く問いかけてくる。
問いかけに静かに微笑んで英二は頷いた。

「その本は紙の色が経年で古びている、でも切りとられた断面は紙の色がわりと新しいだろ?
けれど、お母さんはこの本のことを知らない。だから、お母さんがお嫁に来る前に、お父さんが切りとったって事になる」
「ふん、そうだね…1938年発行、昭和13年か。おやじさんが生まれる前に、じいさまが買った本ってことか」

丁寧にページを閉じると国村は元あった所に本を戻した。
戻して書架から英二へと目を移すと、すこし悪戯っ子に細い目が笑んだ。

「この蔵書ほとんどがフランス文学だね?仏文学者だった父親の遺品だから、おやじさん捨てられなかったんだな。
ようするに、おやじさんは自分の本は大半は捨てた、ってことだ。しかも壊された本は『Le Fantome de l'Opera』だとはね?
遺されたのは恋人の再会と救出シーン、幸せな部分だけだね。切られて除かれたのは、Fantomeが登場するシーンだって事になるな」

Fantome、怪人。
怪人が登場するシーンが湯原馨にとって「切り除きたい」意味があったことになる。
どうして切られ除かれる必要があったのだろう?ため息を吐きながら英二は素直に言った。

「どうして『Fantome』を除きたかったんだろう?その理由が、解らないんだ」
「ふん、…そうだね、」

考え込みながら国村は安楽椅子に座った。
すこし首傾げて英二を見あげながら、透明な細い目が遠くを見つめている。
こんな目をしているとき国村は思案の底に沈んでいる、きっと考え巡らしているだろう。
そう思いながら見つめて少しだけ間があって、ふっ、と細い目が笑んだ。

「ふん。宮田、これはね?ちょっと裏工作すると調べられるかもな、」
「裏工作?…」

国村の言葉に英二は訊きかえした。
おまえなら解るよな?そんな目で見てくる細い目に、すぐ気がついて英二は訊いた。

「管理権限者のファイル閲覧、ってことか」
「そ。だからね、この続きは明日、戻ってからだね?たぶん、コーヒーも淹れ終わっただろうしさ」

からり笑って国村は立ち上がると、ぐるり大きく首を回して伸びをした。
書斎の扉へと歩きかけて、低く英二は自分のパートナーに訊いた。

「国村、ファイル閲覧ってことはさ…言葉に後付した意味、のことだよな?」

問いかけに秀麗な貌がふり向いてくれる。
ふり向いた底抜けに明るい目を笑ませてテノールの声が答えてくれた。

「だね?だからさ、事実が芋づる式に解かる可能性があるよ。
たぶん『知る』に当ってはさ、結構な覚悟がいる事実だろうね。でも宮田、とっくにそんな覚悟はしてるんだろ?」

透明な目が英二の目を真直ぐ見つめて訊いてくれる。
その目に素直に頷いて英二は望んで負った責任に微笑んだ。

「うん、してるよ?俺はね、この家を守る為ここに居るから。だからね、すべてから目を逸らさないよ、」

低い声で答えながら英二は書斎の扉を開いた。
開かれた扉の向こうから、昇ってくるコーヒの香が温かに燻っていく。
いま周太の掌は自分たちの為に茶の支度をしてくれている、今この時に階下で待っている幸せに英二は微笑んだ。



台所では、ちょうど周太がコーヒーを淹れ終わった所だった。
ダイニングに姿をみせた英二たちに周太は微笑んで、リビングにお茶のセッティングを始めてくれる。
南面する窓からふる小春日和の温もりに芳ばしい湯気がやさしい、ソファに座ると周太がコーヒーカップを運んでくれた。
このカップを見るのは警察学校時代に初めて訪れたとき以来になる、なつかしさに英二は微笑んだ。

「このコーヒーカップ、懐かしいな。いつもマグカップだから、」
「ん、曾おじいさんが揃えた物らしくて、おもてなし用なんだ。今日はお客さまの光一が来てるから…熱いうちにどうぞ?」

きれいな藍模様のカップを勧めてくれながら気恥ずかしげに周太は微笑んだ。
勧められてカップに口付けると、ひとくち飲んで国村が満足に目を細めた。

「うん、旨いね。これ、豆挽いてサイフォンで淹れたんだろ?ばあちゃんのより、かなり旨いよ」
「ん。今日は時間があるし、家なら道具もあるから…気に入って貰えたなら良かった、」

うれしそうに微笑んで、周太は英二の方を見た。
黒目がちの瞳が「おいしいかな?」と訊いてくれている、その瞳へと頷いて英二は笑いかけた。

「旨いよ、周太。2階まで良い香りだったけど、飲むとね、ほんと香いいな」
「ほんと?よかった、」

ぱっ、と陽が照るように周太の顔が幸せに花ひらいてくれる。
こんな笑顔が見られるなら、きっとなに食べさせられても褒めてしまうだろな?
そんなこと想った自分が可笑しくて、そして幸せに想えてしまう。
けれど周太は料理が上手いから「なにを」食べさせられても心から褒めるだろう。
こんな自答も贅沢な幸せだと見つめる向こうでは、オレンジのケーキに周太が笑ってくれた。

「ね、これ山梨で買ってきてくれたんでしょ?…おいしい、ありがとう」
「うん。周太の好みにあいそうだな、って思って選んだよ。国村が店に連れて行ってくれてさ」

笑って答えると周太は国村の方を見た。
すぐ視線に気がついて細い目が温かに笑み返すと、素直に周太は礼を言った。

「ありがとう、光一。この店の味、好きだよ?」
「そっか、よかったよ」

満足げに口動かしていたケーキを飲みこんで、底抜けに明るい目が笑った。
笑った目で周太を見ながら、ふとテノールの声が話しだした。

「周太、この家の庭。バルコニーから見させてもらったけどさ、ホント奥多摩の森と同じ植物が多いね?」
「ん。なんかね、おじいさんが奥多摩が好きだったみたいで…父もね、奥多摩は好きだったんだ。山が好きだったし、」

ケーキをフォークにとりながら周太は穏やかに微笑んだ。
その笑顔に細い目を笑ませながら国村はコーヒーを啜りこむと、からり笑いかけた。

「ふうん、それは光栄だね。周太のじいさま、奥多摩に詳しかったんだろな?山関係の仕事だったワケ?」

問いかけに黒めがちの瞳が困ったように微笑んだ。
困った微笑でいつもの、ゆるやかなトーンで周太は答えた。

「祖父のこと、何も知らないんだ。母も、父から教えられていなくて…アルバムも無くて。名前もね、過去帳で知った位なんだ」
「そっか、過去帳は見たんだね。やっぱり、知りたいって思った?」

底抜けに明るい目が温かに笑んで周太を見守っている。
いつもどおりの大らかな優しい眼差しに周太は素直に頷いた。

「ん。…自分のことは、やっぱり知りたいし、この家は俺しかいないから。だからね、名前で調べようともしたんだ」
「名前からだけでも、調べてみたんだ?」

やわらかなテノールが復唱で同調を示してみせる。
穏やかな同調にほぐれたよう周太は微笑んで頷いた。

「ん、Webとかで調べたんだ。でも、同姓同名のひとが何人もいて…思ったより多かった。
その中でね、祖父と同じ位の年代の人もいるんだ。でも、どの人が祖父なのか、本当には解らないし…名前だけって難しいね?」

周太も自身で調べていた。
もとより勉強好きな性質なうえに長男の責任感も強い、そんな周太は自家を知らない事を恥じている。
そういう周太なら当然に祖父達のことも調べるだろう、それは英二も思っていた。
けれど周太がどこまで調べているのかを何となく訊きそびれてきた。
まさに今それを国村は自然なままに実行している。

―こういう行動力と速決力は敵わないな?

コーヒーカップの翳でちいさく英二はため息を吐いた。
山では咄嗟の判断力や行動力が大切になる、そうした資質を国村は豊かに持ち合わせている。
それは一般的社会でも警察社会でも有利な能力だろう。こんな国村にブレインは必要あるのだろうか?
けれど英二はもう、こんな国村のナンバー2としてブレインに成長する責任を背負った。
それはクライマー任官書類を提出した、あの瞬間に英二自身が選びとった運命でいる。
自分で選んだなら、もう逃げる事なんて出来ない。

なにより英二自身が逃げたくはない、この道に誇りを見つめたい。
どこまで出来るか解からない、難しい道になる、けれど何もしないで諦めたくはない。
自分が選んだ道、それなら最後まで貫きたい。それが周太を援けることにも繋がっていく。

この有能な自分のアンザイレンパートナーにとって、どんな援けが必要とされる?
この友人に対して自分は、どんな援けを提供することが出来るだろう?
そしてその為に自分が今、鍛えるべきもの備えるべきことは何だろう?
そんな想いで見つめるなか、コーヒーとオレンジの香をはさんで国村は愉しげに「問い」を続けていく。

「うん、名前だけで調べるのって、難しいよね?それでもさ、ヒットした人がいたんだ?すごいね」
「ん…5人くらいなんだけどね。建築家のひと、鉄鋼の技術者、温泉旅館のご主人…あと大学の先生が2人いて、」

コーヒーカップを抱えながら、すこし首傾げて周太は記憶を辿っている。
考え込むよう話す周太にテノールの声が簡単な推理を問いかけた。

「旅館の主は、可能性は無さそうだね?ここに住んでいたんだったらさ、」
「ん、そうなんだ。あとね、鉄鋼の技術者の人は栃木なんだ…だから違うと思う。
でも、他の3つはどれもありそうで・・・この家もね、ちょっと凝った造りの修築部分があるし、建築家でも不思議はなくて」

この家は大正時代に建てられて、すこしずつ手を加えながら住み続けている。
この付加や修築部分も丁寧に造られて、意匠も凝って選らんだ風合いが見られた。
そんな周太なりの推理に頷いて国村は、コーヒーを楽しみながら微笑んだ。

「なるほどね?うん、たしかにさ、この家って良い造りだね。擬洋館っていうのかな?イイ感じで和洋折衷されて、俺は好きだね」
「ありがとう、…でね、先生は2人とも、東京の大学に勤めていたんだ」
「ふうん、東京なら川崎から近いね?」
「ん。そうなんだ…あとはね、もう解らないんだ。それに…この5人とは違うひとかもしれない、わりと居る名前みたいだし」

すこし寂しげに微笑んで周太は、オレンジケーキの最後のひとかけを口に入れた。
ひとりっこの周太には親戚も無く、親族は母ひとりしかいない。そして素顔の周太は甘えん坊の寂しがりでいる。
そんな周太にとって、本来身近な存在である祖父のことが解からないのは、きっと寂しい。
それでも微笑でケーキを飲みこんだ周太の横顔が、却って英二には切なくなってしまう。
どうか笑わせてあげたいな?英二は自分の皿からケーキをひとかけフォークにとって笑いかけた。

「周太、口開けて?」
「え、…あ、」

名前を呼ばれて、振向いた周太の口に英二はケーキを入れてやった。
オレンジの香を口に入れられて、すこし黒目がちの瞳が大きくなっている。
それでも唇をとじると頬染めながら口を動かして、素直に飲みこんでくれた。

「ありがとう、英二?…うれしいよ?」

気恥ずかしげでも幸せそうに周太が笑ってくれた。
こんな顔、見せてくれるんなら、いくらでも食べさせてあげるのにな?
幸せそうな笑顔が嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「うれしいなら良かった、もうひとくち食べる?」
「…ん、うれしいけど、…ちょっとはずかしい、けど、でも」

幸せな笑顔のままに羞かんで周太の頬は真赤になっていく。
その顔が初々しい艶と心からの幸せに充ちて、見ている英二が幸せだった。

―こんな顔はちょっと反則だろう?

こんな顔をされたら、毎日見たくなるし何でもしたくなる。
いつか一緒に暮らして毎日こんな顔をさせてあげたら、周太は幸せだろうか?
そんなふうに幸せで包んであげたいな?想いに微笑んだ英二にテノールの声がねだった。

「へえ、あーん。してあげるんだ?いいな、」

底抜けに明るい目が愉しげに笑んでいる。
笑いながらリビングテーブルに片手をつくと国村が身を乗り出した。

「俺にもやってよ?お願い、み・や・た?パートナーなら言うこと聴いて?」

また国村の「あまえんぼう」が登場したらしい。
けれど今これは、きっと周太を転がすために面白がってやっているな?
それが可笑しくて笑った英二の隣で、ゆるやかなトーンの声が口を開いた。

「だめ、あげない…」

言い返して周太はフォークをとると、英二の残り一欠けのケーキを急いで口に入れてしまった。
こくんとすぐ飲みこんだ喉まで赤くしながら、黒目がちの瞳がすこし得意げに微笑んだ。

「英二のは俺だけのだよ、誰にもあげない…ケーキおかわり欲しかったら、持ってきてあげるけど?」
「そんなの嫌だね、俺も宮田のがイイ。ほら、宮田?おかわりしろよ、それで俺に、た・べ・さ・せ・て?」

愉しげに細い目が笑んで国村は周太を転がしている。
どうやら国村は「好きな子は虐めたくなる」タイプらしい。
そんな国村の術中に嵌りこんで頬染めながらも周太は抵抗に微笑んだ。

「…ごめん、やっぱりおかわりもうありません…コーヒーならどうぞ?」
「へえ、コーヒーならOKなんだね?じゃ、口移しで飲ませてよ、宮田?最近、人工呼吸の練習もしていないしさ」

人工呼吸では液体物は飲まさないよ?
こんな抗弁を心裡に呟いた英二の隣では、黒目がちの瞳を大きくして周太は立ちあがった。

「…っ、コーヒーやっぱり淹れられないです。そろそろ夕飯の支度しないといけないから…あ、英二?手伝ってくれる?」

急に話を振られて英二は周太の顔を見た。
愛してるんでしょ絶対に言うこと聴いてね?そんな笑顔が隣から、殺し文句のように見つめてくる。
素直に言うこと聴いて英二は殺し文句に頷いた。

「うん?いいけど、」
「じゃ、はい、立って?」

言いながら周太は英二の腕を引っ張ってくれる。
なんだか困りながら一緒に立ちあがると、手早く周太は空になった食器をトレイに載せ始めた。
俯いて手を動かしている周太の首筋は案の定、もう真赤になっている。
そんな周太を眺めながら、のんびりコーヒーを飲み終わると国村は空のカップをトレイに載せた。

「ごちそうさま、旨かったよ?さて、夕飯の手伝いならね、俺もするよ?俺が料理は好きだって、君も知っているだろ、周太?」

悪戯っ子に笑いながらも細い目は温かに笑んでいる。
周太も素直に笑い返して、こくりと1つ頷いた。

「ん、いいよ?…でもね、英二にくっつかないでよ?料理中は危ないから、」
「それって命令かな、ツンデレ女王さま?ご命令ならね、言い方次第では訊いてあげるけど?」

飄々と言いながら、底抜けに明るい目が可笑しそうに笑いだした。
愉しげな顔に微笑んでトレイを抱えると、台所へと歩きながら周太は「命令」を試みた。

「じゃ、めいれい。英二にくっつかないで?」
「嫌だね。そんな言い方じゃ聴けないねえ?ほら、もっと色っぽくやってよ。宮田にはしたんだろ?」
「…っ、あれはえいじだけなのほかにはしません…はい、じゃがいも剥いて?」
「はい、女王さま。このボール借りるよ?」

そんな問答で愉しく国村は周太を転がしながら、台所で手伝い始めた。
口では言いたい放題をしながらも袖をきれいに捲って、手馴れた雰囲気で包丁を扱っていく。
さすがだなと眺めながら、とりあえず自分が出来る食器洗いの為に英二も袖を捲った。





(to be continued)

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第37話 凍嶺act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-03-23 23:55:17 | 陽はまた昇るside story
雪山、迎えてくれる場所



第37話 凍嶺act.4―side story「陽はまた昇る」

きっちりリミット前に夜叉神のゲートを抜けて四駆に乗込んだのは5時40分だった。
予想より速めのタイムをクライマーウォッチに確認すると、細い目が満足げに笑んだ。

「よし、下りも無事にこれたね。下りの方が事故は多いからね、ま、俺たちが事故っちゃヤバいよな」
「ほんとに無事で良かったよ、」

相槌を打って英二は心から安堵のため息に微笑んだ。
なによりゲート通過が無事で良かった、もし監視ボックスの人が国村に何か言えばタダでは済まない。
それが奥多摩でのことならまだいい、けれどここは他管轄どころか他県警の管轄する山になる。
こんなところで揉め事でも起こせば、警視庁警察官と他県警の対立のように言われてしまう。
そんなイザコザになる気苦労よりも、きっと8,000m峰に登る方が気は楽だろう。

― こういうサポートの方が国村は大変だ、

心裡につぶやいた言葉に、クリスマスイヴに美代から言われた言葉が谺した。
「ずっと光ちゃんの相手するなんて大変ね?」
こんなふうに言った美代の言葉の意味が、こんなとき思い知らされる。
それでも、これだって国村が真直ぐな心だからこそ起きる気苦労だろう。
そして英二は、こんな友人が大好きだ。なんだか愉しくて可笑しい、微笑んだ英二にご機嫌な声が訊いてきた。

「さてと、今まだ6時前だね。まずはさ、どっか温泉行きたいよな?で、朝飯食ってさ。
川崎に15時ごろ着くんだと、12時前に高速乗ればいいんだけどね。どっか寄りたいとことか、リクエストってある?」

「うん、花屋にちょっと寄りたいな。あと出来れば、うまいケーキ屋あれば、茶菓子に買っていきたいな」
「買物ばっかだね?いいよ、じゃ、それを計算した時間で、なんか見に行くかな?」

そんな会話を交わしながら四駆で走った先は、竜ヶ岳だった。
標高1,485m本栖湖畔の竜ヶ岳山頂は、真正面に冬富士の姿を魅せた。
朝9時前の陽光に山頂の雪がまばゆい。その白銀のむこう裾ひいた優美な富士が輝いている。

「ここはさ、ダイヤモンド富士のポイントで有名なんだよ」

愉しげに笑うと国村はレンズを冬富士へと構えた。
さっき言っていた「なんか見に行くかな?」は、やっぱり雪山だったな?
予想通りに山尽くしな山ヤが愉しい、英二も携帯で冬富士と竜ヶ岳山頂を撮るとメールを打ちこんだ。
いまごろ周太は当番勤務が明けて、川崎に帰る仕度をしているだろう。
たぶん車内で見てくれるかな?そんな想いと一緒にメールを送った。

送信してまた正面に向けた目に雄渾な冬富士が映りこむ。
昨日の今頃は北岳から遠く、この最高峰の姿を眺めていた。
数時間前まで佇んでいた「哲人」の名をもつ高潔な山が、英二は懐かしかった。
今見ている最高峰も美しい、けれど第2峰の威容に自分は惹かれてしまう。

山にも相性ってあるのかな?

ふっ、とそんなことを想って「あるかも」と英二は自答して微笑んだ。
今回の北岳登山は天候にも恵まれていた、そう想うと自分と北岳は相性が良いかもしれない。
けれど。長い指で英二は自分の頬にふれた。
ふれる指先には、なめらかな皮膚の感触しかわからない。
けれどいま、陽に透かされて頬には傷痕が浮んでいるだろう。
いま眺めている優雅な最高峰の雪崩で、跳んだ氷に裂かれた傷は細くちいさかった。
それでも何故か傷痕はこうして残っている、それが我ながら不思議だった。

―…この傷痕はね、最高峰の竜が、英二が山で生きられるようにってつけてくれた、お守りだね?
 きっとね、英二は『山』に愛されてるよ?

バレンタインの翌日にブナの木の下で、この傷痕を周太は寿いでくれた。
ほんとうに言葉通りであってほしい、素直にそう想えた。なによりも、言葉に籠る周太の祈りが嬉しかった。
そろそろ周太は電車に乗るのかな?愛する笑顔に微笑んだとき携帯が振動した。
携帯を開くと思っていた名前が表示されている、すぐ通話に繋いで英二は微笑んだ。

「おはよう、周太?」
「おはよう、英二…いま、竜ヶ岳ってとこにいるの?」

気恥ずかしげな笑顔の気配が朝の挨拶を贈ってくれる。
つい最近「わがままになるからね、」とツンデレ宣言した癖に相変わらずの初々しい雰囲気が可愛い。
こんな可愛いとつい、同じ男だと忘れそうになる。困ったなと思いながら英二は頷いた。

「うん、本栖湖の近くなんだ。富士山がきれいに見えるって、有名なとこらしい。それで国村、いま写真を撮ってる」
「光一、カメラ使ってるんだ?…見せてもらったんでしょ?」
「見せてもらったよ?北岳がすごく良い、あとで見せてもらうと良いよ、」

あとで。そう言えるのは嬉しい。
今日はこの後で逢える、そんな約束が出来ることが幸せだなと思える。
電話のむこうも微笑んで、穏かな声で言ってくれた。

「ん。…あのね、気をつけて帰ってきて。ごはん作って、おふろ沸かすから…あと、ふとん干しとくから…ね、」

最後すこし声が小さくなった、こんなところが周太は可愛い。
小さくなった声のむこうでは歩く音がしている、いま駅に向かって歩いているのだろう。
きっと家に帰って仕度して待ってくれるつもりでいる、そんな心遣いに微笑んで英二は答えた。

「うん、気をつけて帰るよ?でね、周太。今夜は国村が一緒だから、周太とは一緒に寝れないかな、って思うけど…」
「そんなの嫌、なんで一緒じゃないの?」

打って響くよう周太が疑問をぶつけてきた。
これくらい本当は周太は解るだろう、けれど敢えて「一緒が良い」と言ってくれている。
なんて言えば納得してくれるかな?考えながら英二は諭し始めた。

「国村ひとりで寝かす訳に行かないだろ?なにより、国村は周太のこと好きなんだから。なのに俺と周太が一緒だったら、」
「解からない、知らない、…あいしてるんならいうこときいてもらうから、」

やっぱり周太は「わがまま」を正直に言うつもりらしい。
きっと今わがまま言いながら真赤になっているだろう、けれど今は駅への道を周太は歩いているだろうに困らないのだろうか?
こんな駄々っ子はつい可愛くなる、けれど今回はすこし困りながら英二は微笑んだ。

「愛してるよ、周太?北岳でもね、周太のこと、いっぱい考えて来たよ?だから周太、国村のことも考えてほしいな?」
「嫌。ずっと電話も我慢していたんだから、今日は言うこと聴いてもらうんだから…あ、電車来た、あとでね」

ふっと、電話が切れて英二は困り顔で微笑んだ。
こんなに駄々をこねているのは、たぶん拗ねてもいるのだろう。
どうも周太にとって国村は2つの面を持つ存在でいるらしい、それが射撃大会辺りから英二にも解ってきた。
今日は川崎でいったいどうなるのだろう?

ま、お母さんがいるし。きっと良い智慧を教えてもらえるだろな?

そんな「母任せ」を想って、なんだか幸せで英二は微笑んだ。
こんなふうな親頼みを英二はしたことがない、だから周太の母に甘えるような発想が出たことが新鮮でいる。
今日も花束を土産にするつもりだけれど、どんな花束にしよう?そんな幸せな悩みにいる英二の掌で携帯が短く振動した。

From :周太
Subject:お願い
本 文 :今日は独りにしないで?今夜食べたいものメールして。

たった1行、けれど心がひっぱたかれる。
こんなこと言われたら嬉しい、けれど国村もいるのにどうしよう?
困ったなと思いながら英二は、今夜食べたいものを考えてメールの文章を作り始めた。

「俺、蕪蒸が食いたいな、」

透明なテノールに横入りされて、覗きこんできた雪白の顔に英二は笑った。
振向いた先で悪戯っ子な細い目を楽しげに笑ませて、国村は可笑しそうに口を開いた。

「周太、拗ねていたんだろ?」
「どうしてそう思うんだ?」

メールに「蕪蒸、肉じゃが、鶏の胡桃焼」と書きながら英二は隣に訊いた。
訊かれて底抜けに明るい目が笑ってくれる。

「周太って俺のこと好きだよ?でも嫉妬の対象でもある、いつも俺は宮田と一緒にいるからね。
でさ?この3晩ずっと北岳で俺たち二人きりだったし、電話も出来なかったろ?こんなの周太は、拗ねるんじゃないの?」

好かれて憎まれている。
そんな相反する感情で初恋相手に見られていると、国村は理解している。
この怜悧な友人は持ち前の真直ぐな視点で、とっくにお見通しらしい。参ったなと笑って英二は素直に頷いた。

「その通りだよ、国村。ちょっと周太、拗ねちゃったみたいだ」
「やっぱりね。で、何にそんな拗ねてるんだよ?」

下山方向に指さして「歩きながらね、」と細い目が言ってくれる。
かるく頷くと、歩きだしながら英二は困惑に口を開いた。

「今夜、寝る場所のことだよ、」
「寝る場所、ね?…ふん、」

短く復唱して国村はすこし考える顔をした。
そしてすぐ唇の端をあげると、さも愉しげにテノールの声は笑いだした。

「ふうん?今夜はさ、ツンデレ女王さまが見れそうだね。楽しみだな?ね、み・や・た」

楽しみかな?
心裡で呟きながら英二は本栖湖へと雪道を降りていった。



川崎の家には予定より早めの14時半に着けた。
門の脇にある駐車場に前向き駐車で入って行くと、咲きはじめた梅の花がフロントガラスに映りこんだ。

「お、玉英だね?いいね、なかなか良い枝ぶりだよ、」

梅の木を眺める底抜けに明るい目が、うれしげに笑っている。
駐車場から一旦通りへ出て、きちんと門を潜ってから庭に入ると国村は梅の木の下に立った。

「うん、大切にされているな?よしよし、…うん、良い実が成るよ?」

白い花にやわらかな指でふれながら秀麗な顔が微笑んだ。
兼業農家の警察官である国村は代々、梅と蕎麦を主に作っている。
そんな国村は梅にも思い入れがあるらしい、きっとここでも梅に会えたことが嬉しいのだろう。
白梅の下に佇む白いマウンテンコート姿がなんだか白梅の精霊みたいで英二は微笑んだ。

「国村、なんかおまえ、この木の精みたいだよ?」
「そうだね、そうかもしれないよ?この玉英はね、奥多摩が原産だから」

からり愉しげに笑って教えてくれながら、愛しげに白梅を見あげている。
ほんとうに梅が好きなのだろうな?そう見ていると今度は大きな一本の木の前に国村は佇んだ。
赤紫を含んだ灰色の木肌が美しい幹に、そっと白い掌でふれると底抜けに明るい目は梢を仰いだ。
一緒に見上げた視線の先では細やかな枝に、ちいさな花芽がたくさんついている。この樹姿には見覚えがある、英二は微笑んだ。

「これ、山桜だよな?奥多摩にも生えてるな」

声に黒髪の頭がすこし動いて、細い目が英二を真直ぐに見つめた。
その視線がどこか雄渾でまぶしい。そんな普段と違う雰囲気が不思議で、首を傾げながらも英二は綺麗に笑った。

「この木はね、周太のお父さんが大切にしていたんだ。
だから俺ね?この桜が咲いたら周太と、お母さんとさ、夜桜の花見をする約束してるんだよ。お父さんと一緒に、」

婚約を申し込んだ翌朝に板敷廊下のテラスで結んだ約束だった。
あの春の日に周太の父が叶えたかった約束を見つめながら英二は国村に微笑んだ。

「お父さん、亡くなった夜はね。あの窓から夜は花見をしようって、お母さんと周太と約束していたんだ。
それを代わりに俺、叶えてあげたくってさ。俺もこの家の桜を見てみたいし。ココアと桜餅を食べながらの甘い花見なんだけどね」

白い掌が山桜を愛しむよう木肌を撫でている。
おだやかに幹にふれながら国村は細い目を温かに笑ませて、きれいに笑った。

「うん、良い約束だね?この木も喜んでるよ。けどさ、ホント甘そうな花見だね?」
「だろ?」

甘い飲み物に甘い菓子。ほんとうに周太の父、馨は甘いもの好きだったのだろう。
そんなところも彼が就いていた任務に不似合いで切ない。
哀切を見つめながら英二は、そっと口を開いた。

「桜の園遊会の日だった、お父さんは警邏の応援を頼まれてね、本当は休みだったのに任務を引き受けたんだ。
そのあとにね、新宿署で射撃指導員をしていた同期の方と一緒に指導をして。終わってから休憩室でココア飲んでいたんだ。
そしたら強盗犯の通報が来て、お父さんは同期の方と現場に走った。拳銃を持った犯人を制圧するために、発砲許可が出ていた」

底抜けに明るい目が真直ぐに英二を見つめて聴いてくれる。
ゆっくりひとつ瞬くと、静かにテノールの声が言った。

「その同期がさ、今の武蔵野署の指導員だね?」
「…知っていたのか、国村?」

すこし驚いて英二は友人の怜悧な目を見つめ返した。
見つめた細い目は、いつものように明るいまま頷いて国村は口を開いた。

「前にも話したけどさ、俺は事件があった当時に話は知っていたんだ。
でも、それが周太のおやじさんだって知ったのは再会した時だ。で、ちょっと調べさせてもらったんだよ。
俺だって周太を守りたいからね。だから武蔵野署まで射撃訓練行くのも悪くない、って思ったんだよ。彼のこと見たかったからね」

なんでもない事のようにテノールの声は飄々と話してくれる。
この国村は冷静沈着で豪胆、純粋無垢な目で真直ぐ物事を捉える視点と、的確に判断できる怜悧を持っている。
この友人なら調べるくらい簡単だろう、また英二は自分の迂闊さを思い知らされた。

「もしかして国村、その為に練習の初日はわざと逃げた?」
「あ、ばれちゃったね?」

からり笑って底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑んだ。
ちょっと唇の端をあげると国村は、さらっと自白してくれた。

「俺が逃げたらさ?宮田は彼に屋上の場所を訊きに行くなって思ったんだ、武蔵野署で唯一の知り合いだからね。
で、俺を連れ戻したら当然、詫びに行くだろ?そのときに顔と名前がハッキリ解かる。そしたら後はさ、通うたびに見てりゃいい」

いつものように明るい目は愉しげに笑っている。
この怜悧な目は、どのように安本を見たのだろう?そっと英二は訊いた。

「おまえは、どんな人だって見た?」

訊かれて、細い目がすっと考え込んだ。
すこしだけ考えをまとめると国村は口を開いた。

「嘘の下手な男って感じかな?良い人過ぎて単純っていうかさ。だから周太のおやじさん、彼には話せなかったんじゃない?
ま、周太とおやじさんを陥れるツモリは、欠片も無いだろね。たぶん彼は白だ、気をつけないと悪気なく足引っ張るタイプだけどさ」

英二と同じように国村も安本を見ていた。
国村も独自に調べて、周太が置かれた状況のほとんどを把握したのだろう。
きっと英二が秘密を隠していても国村は自分で探り出してしまう。

―もう国村には、全てを相談した方がいいのかもしれない

ずっと数か月間、ひとり抱えていたことを分け持てる相手がいてくれる。
ほっと肩の力が抜ける安堵感に、英二は微笑んだ。

「俺もね、そう思ったよ。すごく良い人なんだ、でも読みが甘いっていうか…こんなこと、一年目の俺が言うのは烏滸がましいけど」
「そんなの関係ないだろ?」

あっさり断言して底抜けに明るい目が笑んでいる。
さも当然と言う口調で国村は可笑しそうに言ってくれた。

「警察はね、実力がモノを言う世界だろが?年数積んでも役立たずには権利は与えられない。
そんな世界の話だ、そこで実力のある人間がえばって何が悪い?一年目でも関係ないね、おまえには言う権利があるって俺は思うよ」

明朗に断言して国村は笑っている。
そんなふうに言って貰えることは嬉しいし、本当にその通りだと思う。
だから事件の話を聴きだした時は、英二も安本に対して大上段の態度に出て堂々と脅かしもした。
けれど本来の真面目な性質からすると、こういうのは所在無くて困ってしまう。困ったままを英二は言ってみた。

「ありがとう、国村。俺もね、そうだとは思うよ?でも階級も実績も俺は何もないんだ、それこそ烏滸がましいだろ?」
「こら宮田、おまえ、解ってないんだね?困るねえ、」

半分呆れ顔で「困るだろうが」と細い目が笑っている。
笑いながら国村は低めた声で話し始めた。

「宮田はね、俺がアンザイレンパートナーに選んだ男だ。クライマーとして任官して、俺の公式パートナーになった。
それってね?おまえが将来、警視庁山岳会のナンバー2になることは決まり、って事だよ。既に発言権も、いくらか獲得してる。だろ?」

最高のクライマーである国村のパートナーになれば発言権は得られる。
それは英二も解っていたし、このことは周太を守る上で有利になると考えていた。
けれど自分が山岳会のナンバー2になるとは考えていなかった、驚いたままを英二は言葉にした。

「うん、…おまえのパートナーだから、いくらか発言権は得られるとは思ったよ?でも、ナンバー2とか考えなかった」
「解ってないねえ?おまえってさ、賢いくせに時々ホント馬鹿だよな。自分のこと、ちゃんと見ろよ?」

呆れたよとキツイ言葉を言いながらも細い目は温かく笑んでいる。
相変わらず静かな低いテノールが英二に告げた。

「警視庁ではさ、山ヤの警察官のトップは後藤のおじさんだろ?
で、おじさんの山ヤのパートナーって本来は蒔田さんなんだよ、だから蒔田さん昇進したんだ。
山岳会が警視庁に対して発言力を得るため、ナンバー2自らオエライさんになったんだよ。警察の世界で生きる山ヤを守るためにさ。
そうやってファイナリストが育つ環境を作ったワケ。だから宮田、おまえも出世することになるよ?蒔田さんと同じコースってコトだ」

ちょっと待ってほしい。ほっと英二はため息を吐いた。
だって自分はまだ本当なら卒配期間の新人だ。それなのに既にそんな進路が決まっているなんて?
このクライマー任官も随分とイレギュラーだとは思った、けれどもっと単純な意味に自分は考えていた。
小春日和の静謐おだやかな山桜の下、静かに英二は呆然を口にした。

「俺、まだ1年目だろ?まだ何の実績もない、なのにそこまで決めるなんて…無謀じゃないのか?」
「期間なんて関係ないね、おまえは見込まれちゃったんだよ、この俺にね」

畳みかけるよう底抜けに明るい目が笑っている。
笑いながら透明なテノールが低く英二に教えてくれた。

「世界ファイナリストの強い発言権を持った警視庁山岳会トップ、これに俺を就かせる。
このために後藤のおじさんは、俺を警視庁に任官させたんだ。警視庁の山ヤの警察官を守るためにね。
で、俺のパートナー宮田をナンバー2に育てる必要がある。だからクライマー任官の最終面接はナンバー2自身だったんだろ?」

山ヤの警察官であることに後藤副隊長は誇りを持っている。
そんな後藤が自分の後継者を真剣に育てたがることは納得が出来てしまう。
そして、射撃大会の開会式で国村が「山ヤの警察官」として誇らかに宣戦布告したことも納得が出来る。
そんな国村を後藤は涙ぐんで見つめていた、きっと蒔田も心から嬉しく見ていただろう。

あのとき国村はいろんなものを背負って術科センターに立っていた。
この事実が今更ながら驚きと、素直な賞賛になって温かい。
けれど英二自身の事となれば正直、途惑いも大きくなってしまう。
そんな想いと見つめる真中で、真白なマウンテンコート姿が明るく笑いながら英二に告げた。

「俺の生涯のアンザイレンパートナーとして宮田はね、3つの責任があるってコトだ。
ひとつめは最高のクライマーと同等の山ヤになって、一緒に世界中の高峰を踏破していくこと。
ふたつめは最高の山岳レスキューとして俺の専属を務めること、そして最高峰からも必ず無事に帰ること。
で、3つめ。きっちり昇進してエラくなってさ、警視庁に対する山岳会の発言権を守る。そうやって山ヤの警察官を守ることだ」

3つめの責任は、英二にとって全くの盲点だった。
まだ1年目の自分、けれどこの責任をもう負ったということだろうか?
けれど今更ながら思えば、任官書類を渡すとき後藤副隊長も「ほんとにいいのか?」と訊いてくれた。
よく意味を解っていなかった自分だった、けれど、きっと。いま目前に示された3つの責任に英二は微笑んだ。

「いま俺、驚いてるよ?なんにも解かっていなかったな、って。
でも俺、解っていたとしても、きっと答えは変わらなかった。3つめの責任は本音、重たいよ?
それでも、国村のアンザイレンパートナーやる為なら構わない。なんでもやるよ?俺、おまえと一緒に最高峰に立ちたいんだ」

いまこの瞬間に覚悟できなかったら、きっと一生後悔する。
今この瞬間に心深く生み出した覚悟を見つめて、英二はきれいに微笑んだ。

「それに俺ね、山ヤの警察官であることに誇りを持ってるんだ。
だから山ヤの警察官を守る手援けをしたい、俺に出来る精一杯で。これはね、きっと周太のお父さんも喜んでくれると思うんだ」

喜んでくれますよね?
長い指でニットごしに合鍵にふれながら英二は山桜を見あげた。
この奥多摩の森を映した庭を愛したひと、その遺された想いをすこしでも多く受けとめたい。
この自分を信じてくれる人達の信頼に、精一杯に自分は応えていきたい。
こんな自分でも「可能性を信じる」と、あの射撃大会の日に後藤副隊長と蒔田地域部長は言ってくれた。
そしていま、この隣に立っている最高の山ヤの心に生きるクライマーは自分を選んでくれた。
この懸けられている想いのすべてに自分は応えていきたい。
それがまた周太とこの家を守る道にも繋がるはずだから。

「うん、そうだね。きっと喜んでくれるよ?彼も山ヤの警察官の1人だったから」

静かに答えてくれる底抜けに明るい目が温かに笑んだ。
笑んだまま英二を見つめると国村は、おだやかに英二に告げた。

「あのとき、山岳会は彼を守ってやれなかった。それをね、後藤のおじさんは悔やんでる。
俺もね、あんな哀しいことは繰り返したくないよ?それもあって俺さ、本気で世界ファイナリストになろうと思うんだよね。
警視庁だけじゃない、世界の山ヤの頂点に俺は立ちに行きたいね。で、発言権を得たらさ?言ってやりたいコトが色々あるんだ」

国村には国村の誇りを懸けた戦いがある。
それをすこし英二に教えてくれた、こんな信頼が嬉しい、けれど言ったことが可笑しくて英二は笑った。

「国村はさ?かなり言いたい放題だって俺、思ってるけど。でも、まだ言ってやりたいコトが色々あるんだ?」
「当然だろ?まだまだ言い足りないね。その為にも、み・や・た?おまえには観念して、キッチリ昇進してもらうよ?」

可笑しそうに笑って鞄を持ち直すと、国村は玄関へ踵を向けた。
並んで飛石を歩きながら、抱えた花束の翳で英二は微笑んだ。

「うん、頑張るよ。俺は今度の秋が昇進試験か、対策のコツとか教えてくれる?」
「もちろん教えるね?この俺が家庭教師するんだ、ストレートで全部の試験にクリアしてもらうよ?」

国村は警察学校で首席入学の首席卒業だったと英二も聴いている。
これだけ頭が切れたら学科も優秀だろうし、高校時代に三大北壁を踏破するほど心身の能力も優れている。
そのうえ射撃であれだけ腕があれば、首席も当然だったろうと納得してしまう。
ほんとうに力強い味方、けれど敵にまわしたら、こんな怖い相手もいない。
それは国村に狂言強姦されかかった時の恐怖で、英二自身も身に染みて思い知らされた。

こんな国村は優れた能力を備えながら、本人は単に「山が好き」なだけの純粋無垢な山ヤでいる。
ただ山と酒があれば満足で、山ヤの誇らかな自由のままに人間社会の範疇になど捉われることが無い。
この純粋無垢で強靭な精神の持ち主が心から英二は大好きだ。
いつものように隣を歩いている、大好きな友人に英二は笑いかけた。

「国村、ナンバー2の話。今ここで話してくれたのってさ、今日、俺がお母さんに話せるように、気を遣ってくれたんだろ?」
「まあね、」

細い目が温かに笑んで英二を見た。
けれどすぐ悪戯っ子に笑って愉快気にテノールが笑いだした。

「ほら、宮田とおふくろさん、二人で話す時間とるだろ?その隙に俺はね、周太とのフタリキリを楽しませてもらうよ?」

こんな照れ隠しな悪戯発言が国村は面白い。
可笑しくて笑いながら英二は礼を言った。

「ありがとう、国村。周太ね、写真を見たがってたから、楽しませてあげて?でさ、明日はここ8時に出れば良かった?」
「写真、了解したよ。で、8時でOK。青梅署に戻って着替えて携行品もらってさ、御岳駐在に昼前に充分着けるよ。
 そしたら岩崎さんとの交替に、きっちり間に合うだろ?14時に出発って言っていたよな。剣岳に登るんだったっけ?」
「そうだよ、畠中さんと、あと七機の同期の人と登るって言ってた。帰ってきたら話、聴かせてほしいな」

話しながら首に掛けた合鍵を手繰り寄せて、ふと足元の翳に英二は上を見あげた。
見あげた先の玄関上のバルコニーには、よく陽に温まったふとんが真白に干されている。
そのむこう、バルコニーの木枠窓がからりと開いて、なつかしい姿がふとんを抱え込んだ。

「周太、」

うれしくて掛けた声に気がついて、ふとん抱え込んだままエプロン姿が見おろしてくれる。
そして小春日和の青空から、大好きな声が微笑んだ。

「おかえりなさい、英二、」

幸せそうな笑顔で黒目がちの瞳が迎えてくれる。
この大好きな笑顔が無事に見られた幸せに、英二は綺麗に笑った。

「ただいま、周太、」




(to be continued)

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第37話 凍嶺act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-03-22 23:38:10 | 陽はまた昇るside story
青と銀、凍れる世界で



第37話 凍嶺act.3―side story「陽はまた昇る」

北岳の夜空は銀砂の色だった。
透明な紺青の天球は白銀の煌きに隙間ない。
凍てつく静謐には星々が共鳴している、そんな感覚がごく自然に湧いた。
遠近感が狂うほど眩い星輝きに酔いそうで、英二は真白な息と微笑んだ。

「…すごい、星が近いな?」
「だろ?北岳の冬はさ、ほんと星が綺麗なんだ。ちょっと待ってくれな?」

ザックを背負ったまま国村はカメラを北岳へと向けた。
星灯かがやく白銀の雪嶺は、濃い藍の空から浮かびあがって瞳に迫る。
青銀の星ひしめく輝度の高い闇は、中天はるかな透明に意識が吸いこまれてしまう。
空見あげている吐息は厳しい山夜の寒気に白く凍っていく、気温は零下何十度だろう?
ネックゲイターを引きあげたとき、国村もカメラをザックに収めた。

「お待たせ、じゃ、行こっか」
「うん。星の雪山ってさ、ほんと…きれいだな」
「だろ?冬の山はね、そりゃ厳しいよ。でもさ、いちばん綺麗だって、俺は思うね」

ヘッドライトで歩きながら嬉しげに話す国村に英二は微笑んだ。
今日の一年前、英二は大学4年生で卒業式を待つばかりだった。
あのときも、この空がここにはあったのだろう。そう思うと知らないでいたことが勿体無かった。
もっと早く知ればよかった、昔の自分への後悔と一緒に英二は口を開いた。

「こんな世界があるなんて俺、去年まで何も知らなかった。もっと早く知ればよかった、
あの頃から真面目に、適性や進路を考えればよかった。努力もしないでいた、あの頃の自分が憎たらしくなるよ。
もっと俺が早くから、山の技術を身に付けられていたら…今シーズン、もう少し国村の歩調に合わせれたかもしれないのに」

もし自分が早くこの世界に向き合えていたなら?

この「時間のリミット」を英二はクライマー任官が決って考え始めた。
任官によって8,000m峰14座の踏破が現実になった、この実感が自分の現実を見つめさせた。
それまでは自分の幸運を単純に喜んで努力してきた、けれど現実となった今は自分の決定的な不足を思い知らされる。
この不足は今からの努力で補えるものじゃない、後悔への素直な想いに英二は口を開いた。

「今シーズンは国内で終わる、8,000m峰は早くても俺の初任科総合が終わった後だ。
その頃にはもう、俺たちは24歳になっている…14座踏破をしていくなら、今シーズンも8,000m峰、登りたかったよな。
俺、もっと早く、自分に正直に生きていたら良かった。そしたら『山』の世界にもっと早く出会えていたかもしれない。
もっと早く俺が山ヤになって、最初からクライマーとして任官できていたら。今頃は国村と、8,000m峰に立てたかもしれない」

いま自分たちは23歳、14座制覇を目指すなら、既に8,000m峰に幾つか登頂しておきたい年齢だろう。
6,000m峰なら大学時代に踏破する者も多い、せめて6,000m峰にでも今シーズンに登ることが出来るべきだった。
もっと早く自分が「山」の世界に立っていたのなら、今この時間に立っている場所は違っていた。
ちいさく笑って英二は言葉を続けた。

「後藤副隊長は警視庁随一の山ヤだ、それでも50歳を過ぎて国村とアンザイレンを組めなくなった。だろ?」
「うん、そうだね。後藤のおじさん、50歳までは俺と組んでいたからね」

からり笑って国村は頷いてくれる。
国村は高校1年生の春から後藤とアンザイレンパートナーを組んでいた。
そして任官2年目までは国村と後藤は一緒に海外遠征で8,000m峰の登頂にも参加したと聴いている。
そのあと任官3年目からの国村は、国内の単独行だけだった。
明るい笑顔で隣は笑っている、けれど英二は心が軋んでしまう。それでも英二は言葉を出した。

「国村はパートナー不在になった、だから副隊長は国村をハイリスクな海外遠征には出したがらなかった、だろ?」
「まあね、後藤のおじさんもさ、心配性なんだよね」

後藤副隊長の気持ちが英二には解る、また深く心が軋むのが痛い。
自分の友人だった国村の両親と同じ遭難死の轍を踏ませたくなくて、後藤は待っていたのだろう。
自分の大切な友人の遺児が、アンザイレンパートナーを見つけてリスクを減らすことを後藤は期待していた。
その期待に自分は少しでも応えられるのだろうか?心に覚悟と痛みを見つめながら英二は口を開いた。

「おまえのパートナーは若いヤツが良い、って副隊長は言っただろ?副隊長自身が年齢で国村と組めなくなったから」
「そうだね。パートナー解消する時にさ、おじさんに言われたな」

ふっと底抜けに明るい目が、すこし寂しげでも温かく笑んだ。
どこか懐かしく、心から謝意を示すような温かい貌で国村は教えてくれた。

「後藤のおじさん『俺も爺さんになってしまったよ、済まないなあ』って笑ってさ、涙ひとつ零してくれた。
唯でさえ俺、体もでかい上にさ、気難しいだろ?で、後藤のおじさん以外で組める人、もういなかったんだよね」

後藤の涙はきっと、無念な想いと精一杯の達成感だったろう。
やっぱり自分はあの生粋の山ヤが大好きで尊敬してしまう、英二は敬愛する上官の笑顔を心に微笑んだ。

「そうだな、後藤副隊長より立派な山ヤはさ、そう滅多にいないよな?」
「だろ?あとは田中のじいさんだけどさ、じいさんはモット年だったしね。中学までで精一杯だったんだ、」

後藤も田中も一流の山ヤだった、それでも年齢は誤魔化せなかった。
こんなふうに、山ヤとして山岳救助隊として過ごす日々に、山の活動能力と年齢の関係が思い知らされる。
そして今、この北岳の峻厳な世界に身を置くと尚更「山ヤの自由と時間」について切実に感じられてしまう。
この「時間」について英二は国村に謝りたいことがある、ゆっくり瞬いて言葉を続けた。

「どんなに優れた山ヤでもピークがある、技術力で補えない体力と生命力がある。
これが人間の現実だ。それは俺たちだって同じだ、この体力のリミットがある、時間なんてない。
本当は今のこの体力で8,000峰に登った方が良かったんだ。今のこの体力なら、より低いリスクで登れたんだ。
もっと俺が意気地なしじゃなかったら、もっと早く自分に素直に向き合えたら、正直な生き方を選べたら?
きっと俺はもっと早く山ヤになっていた…今もう8,000m峰に登れていたかもしれない。なのに俺は、それが出来なかったんだ」

どうせ自分は外見しか認められない。
そんな言い訳に隠れて要領よく生きていた、けれど本当は自分が弱虫なだけだった。
いま隣を歩く国村も英二と同じように外見と内面が大きく違う面が多い、それでも国村は真直ぐ自分に正直に生きてきた。
かなしい孤独にも国村は14年間周太を待ち続けた一途な強さがある、両親の死も父のレンズを継いで向き合う強靭な精神がある。
自分は弱かっただけ、孤独が怖いから適当に周りに合わせて要領良くしていた。心を見てくれない周囲の所為にしていた。
こんな自分の弱さと逃げが悔しい、だからもう逃げたくない。今の想いを英二は率直に言った。

「俺のスタートが遅かった所為で、国村もスタートが遅れることになった。
遅れた分だけ山はリスクが高くなる…俺がいい加減に生きたツケ、おまえに負わせることになる。
だから俺は、おまえの最高のレスキューに絶対になるよ。俺が負わせたツケの分、俺は国村を援けるべきだ。
待っていてくれ、必ず秋には8,000m峰でも国村をサポート出来る俺になる。だから…こんな俺でも待っていてほしい」

フードの翳で涙ひとつこぼれて頬に小さな氷が落ちた。
その頬に登山グローブの指先がそっと伸ばされて、涙の氷は国村の掌におちた。

「きれいな涙の氷だね、宮田?」

登山グローブの掌で涙の氷がヘッドライトに煌いている。
自分の涙が氷になったのは初めて見た、すこし驚いて見つめている英二に細い目が温かく笑んだ。

「おまえの『山』への後悔と愛情がさ、結晶されているな。宮田、これはね、俺がもらうよ?」

底抜けに明るい目が笑うと、国村は登山グローブの掌に唇をつけた。
そして唇から掌が離れた時には、英二の涙の氷は消えていた。

「さて、これで俺はね、おまえの想いは受けとったよ?だからもう気にするな、過ぎた時間は仕方ないだろ、」

ほんとうに国村が言う通りだな?
すこし笑って頷いた英二に国村は笑って続けた。

「それにさ?俺と出会う前に、下手に山を歩き出して、変な癖つけちゃうよりもね?
俺と出会ったのが『お初』で手垢が付いていないから、おまえ、正しい良い歩き方とか身に付けられたかもしれないだろ?」

たしかに国村が英二にとって最初についた身近な先生だった。
学ぶ点でも要領がいい英二は真似て身に付けることが得意でいる。
しかも国村と英二は体格もよく似ているから真似やすい、だから英二の登山技術は国村の写しだった。
最初に川苔山に登ったときが懐かしいな?記憶に素直に笑って英二は頷いた。

「そっか、それはそうかもな?」
「だろ?やっぱりさ、俺と出会ってから始めて良かったんだって。おかげでね、おまえの初体験をさ、俺はいっぱい貰えるし」

また可笑しい言い回しで国村は笑ってくれる。
こんなふうに国村は明るい大らかな優しさがある。
こういう友人が好きだ、素直に英二も一緒に笑った。

「その言い方、好きだな?国村、」
「ああ、大好きだね?なんか愉しいだろ。でさ、俺は体力自信あるから。1年やそこら遅くなったって平気だね」
「そっか…じゃあ俺もさ、体力の維持に頑張るな」

笑いながら広々とした間ノ岳の山頂へと登りあげた。
標高3,189.3m、間ノ岳は南アルプス第2峰。日本第4峰になる。
名前の由来は北岳・農鳥岳と合わせて呼称される「白峰三山」の中間に位置するとの説がある。
昏い4時の空は夜明けが遠い、それでも雪覆う間ノ岳山頂は青く闇に輝いている。
国村は三角点の雪に登山グローブの掌を押し込んで、満足げに笑った。

「うん、俺が一番乗りだね。に、してもさ、宮田?これ、温かくて良いな」

いま雪に入れた右掌の手首を、左手でふれながら底抜けに明るい目が笑ってくれる。
国村と英二はアンダーグローブの手首に、低温薄手のカイロを貼ってからアウターグローブをはめてきた。
この案は結構良かったかな、三角点の手形に自分の手形を重ねて抜くと英二は微笑んだ。

「簡単な対処法だけどね、末端は凍傷とか怖いだろ?
ここ北岳では死亡原因が凍死が一番だし、凍傷で切断した話もたくさん読んでさ。
だから吉村先生にも相談したんだ。それで、このカイロなら低温火傷も起こし難いし薄手で良いだろう、って教えて貰ったんだ」

「薄手なのが良いよ、手首の稼働を邪魔しない。足首にも入れてくれたけどさ、爪先まで温かいよ」

うれしそうに笑って国村は南方を指さして「行こう?」と促してくれる。
かるく頷いて歩き出しながら英二は凍傷予防の話をした。

「うん、『首』って言われるところを保温すると良いんだ。
だから首もネックゲイターで保温して体幹温度を保つ、背骨に沿った部位をカイロ保温すると効果あるよ。
でさ、特に手足の末端は血流が悪くなりやすい、それで凍傷が起きる。だから関節部分『首』を温めて血流を保てば凍傷が防げる」

雪山で身の安全を守るには「体温の保持」は重要になる。
低体温症の防止と凍傷の防止、この2つがクリアできないと生命の危険に直面する。
簡単な処置だけれど貼るカイロによる温湿布は効果が高い。ヘッドライトの下で細い目を笑ませながら国村は頷いた。

「そう考えるとさ、貼るカイロ考えた人って偉いよな?やっぱり山ヤなら、凍傷は避けたいからね」

「ほんとうにそうだよ。あとはね、水分と塩分の不足が怖いよ。
冬山はトイレが少ないから水分補給をしない、それが原因で血流を悪くして凍傷になるケースが多いんだ。
富士山でもちょっと話したけどさ、温かい飲み物をこまめに取るのが、凍傷予防には本当に効果的なんだよ。
体内から熱を入れられるし、水分補給も出来る。紅茶とかの発酵茶やスープなんか良いんだ、日本茶は冷えるからダメ」

凍傷で指を失ったクライマーは何人もいる。
それはヒマラヤなどではなく、国内の3,000m峰で普通に起きていることだった。
もし雪や悪天候などで濡れてしまえば冷えきって、末端は血流不足を起こして凍傷に繋がる。
そんな悪天候になったらどう対処するべきか?ほんとうは天候不順は避けた方が良い。
それでも当ってしまえば、それこそ命懸けになるだろう。そんな時の遭難救助に国村が首傾げた。

「ほんとにさ、凍傷も凍死も起きるよな?
唯でさえ冬山はさ、ちょっと天気を読み違えれば即、死になりやすい。
自己責任で、って言ってもさ?俺たち山岳救助隊は呼ばれたら行くしかないもんね?この間の雲取とか酷いよなあ」

奥多摩は降雪も多い、それを調べもせずに都心から気軽に訪れるハイカーも多い。
雪山の美しさにひかれて登ったはいいけれど、吹雪で下山できないケースも多くある。
この間の雲取山での救助を英二も想いだして、困り顔で微笑んだ。

「うん、凍傷が危なかったな。冬山はグローブ2枚重ねにしないとね?
でも間に合ったから、切断ってことは無かったし。よかったよ、次からは気を付けるって約束してくれたしさ」

「ほんと宮田、やさしいよな?その笑顔も反則だし。おまえに掛るとさ、大概の悪人でも改心しそうだね?」

半分呆れながら国村は褒めてくれる。
そんなに立派なもんじゃないのに?すこし首傾げて英二は綺麗に微笑んだ。

「そうかな?そうだと良いな。でも俺こそね、大切な人にいっぱい心配かけて、悪人だよ?」

雪山は美しい、けれど厳寒と雪氷の冷たさは生命の危険にそのまま直結していく。
それを周太はよく解っていて、いつも英二の心配をしてくれる。そんな心からの想いは幸せが温かい。
いまごろ周太はまだ眠っているだろう、どうか出来るだけ安心して眠っていてほしい。
遠い東の空に眠る大好きな面影を抱きながら、細い稜線と急登を辿って農鳥岳山頂に英二は立った。
ここもまだ今日の踏み跡はない、国村は三角点を掘り出すと満足げに微笑んだ。

「ここも俺が一番だね、」

農鳥岳の山頂は東西に分かれている。
南東側の農鳥岳は標高3,026 m、 北西側の西農鳥岳が3,051 mと西農鳥岳の方が高い。
けれど名称の上からは農鳥岳が本峰扱いされ、三角点も農鳥岳にしかない。
この三角点に国村はいつも通りに手形を付けて笑った。

「ほんとはさ、西農鳥にも三角点あるとイイのにな?ほら、宮田もやんなよ、」
「うん、ありがとう。なんで西農鳥には無いのかな?こっちが本峰扱いだからってことかな、」
「だな?まあ、名前の由来がさ、春に山頂の東面に白鳥の雪形が現れるからなんだよ。それに近い方が本峰扱いとか?」

話しながらクライマーウォッチの時刻を見ると5時過ぎだった。
途中の急登が時間かかるかなと思ったけれどなんとか予定通りのタイムで来れた。
少しほっとして辺りを見回すと、夜明をひかえた最も暗い黎明時に雪嶺も空も鎮みこんでいる。
夜明けを農取小屋から見たいと国村は言っていた、あと1時間半で戻ることになる。
いま往路で来た急登を今度は降ることになる、アイゼンワークに注意しないと滑落が危ないだろう。
そんな考えを巡らしていると、国村が今度は北を指して促した。

「さて、宮田?今度は復路だ、行きと帰りの山容の違いを見たいとこだけど、こう昏いんじゃねえ?」
「たしかに見えないな?でも体の感覚としての違いが解かるから」
「よし、解ってきたね?通常タイムで1時間10分、雪も締って歩きやすいから日の出には充分着けるね。じゃ行くよ」

からり笑うと国村は北へ向けて下り始めた。
そのトレースを英二は追っていく。国村みたいに先頭を行けるように自分も早く成れたらいい。
奥多摩の山にはこの5か月間でだいぶ慣れることが出来た。これからもっと多くの高峰を歩いて感覚を磨けたらいい。
かすかに明るみ始めた東の空を視界の端に感じながら、アンザイレンパートナーのトレースを英二は歩いた。



砂払に幕営したのは正午だった。
農鳥岳からの復路は農取小屋と間ノ岳で撮影に立ち止まり、その後も国村は歩を止めてはカメラを使った。
それから北岳山頂から昨日同様にバットレス第四尾根の往復をすると、昨日と同じ場所にテントを張って落ち着いた。
のんびり昼食の肉鍋をつつきながら、今後の予定について国村は口を開いた。

「明日の朝はね、また6時前にあのゲートを通過するわけさ。で、ここを2時に出るか。
それとも池山小屋まで今日のうちに戻って3時に出る、あとは、今日の夜中にゲート越えちゃうかなんだよね」

夜叉神ゲートの監視ボックス。
あの場所の通過時間が、行動にあたっての1つのポイントになってしまう。
いろんな事情が冬山には起きるから、あの監視ボックスも仕方ないのだろう。それでも困ってしまうのも事実だ。
どの方法が一番良いかな?考えながら英二は微笑んだ。

「今日明日まで天気は大丈夫だよな?だったら、明日は1時起きでいいんじゃないかな、寒いだろうけど雪も凍って歩きやすいし」
「よし、さすが俺の可愛いパートナーだね?じゃ、これ食ったらさ、ボーコン沢ノ頭にまた行こうよ。北岳を撮りたいんだ」

英二の答えに満足げに細い目を笑ませて今日の予定を楽しげに国村は決めていく。
国村もそうだけれど、英二もせっかく来て天候も大丈夫なら北岳をもう少し楽しみたい。頷いて英二は笑った。

「うん、いいよ。明日は1時起きで夜間登山になるからさ、今夜は6時には寝るからな?」
「いいけどさ、俺、夕方は富士山と北岳を撮りたいね。日没は17時20分位だろ?そのあと夕飯だけどイイ?」
「食ってすぐ寝る感じだね?でもいいよ、また写真見せてくれな」

そんなふうに決めた予定どおり午後はのんびり雪山を楽しんで、結局シュラフに入ったのは7時だった。
ちゃんと今夜は自分のシュラフに潜るかなと思ったけれど、やっぱり国村は英二の背中にくっついている。
なんだってこんな物好きなのだろう?理由は解かっていても徹底ぶりが可笑しくて英二は笑った。

「なあ、今夜もやっぱりさ、くっつくんだ?」
「そりゃそうだろ?凍死も凍傷も困るからね、」

涼しい顔と声で国村は答えてくれる。
ひとりっこで両親を早く亡くした国村は寂しがりなところがある、そんな素顔も今は見せてくれている。
それだけの信頼を持ってくれているのは嬉しい、ちょっと困りながらも英二は微笑んだ。

「うん、凍死も凍傷も困るな?でもさ、ちょっとさすがに狭いよ?」
「そうだね、じゃあさ、こんど家族用のシュラフ買おっかな。2.5人用とかってあるよね」
「そこまでして、俺と一緒に寝たいわけ?」

なんだか可笑しくて英二は笑ってしまった。
そんな英二の笑顔を肩から覗きこんで、愉しげに国村が言った。

「ああ、寝たいね?可愛い俺のアンザイレンパートナー。今夜も好きにさせて貰っちゃって、いいんだろ?」
「そういえばさ、昨夜も同じこと言っていたよな?好きにする、ってどういうことなんだ?」

昨夜、眠りにおちる最後の瞬間に抱いた疑問を想い出して、英二は訊いてみた。
その問いかけに、覗きこんでくる雪白の貌が悪戯っ子に笑いだして口を開いた。

「昨夜はね、ちょっと口さみしかったんだよね?で、ドラキュラさせてもらったよ、」
「ドラキュラ?あの吸血鬼の?」

どういうことだろう?
よく解らないまま見つめ返した細い目は、さも愉しいと悪戯に笑んだ。

「そ、吸血鬼だよ?気分だけ、だけどね。み・や・た、」

言いながら国村は白い指で首筋をすっと撫でた。
そんな動きに首傾げて英二は、すぐ気がついて自分の首筋に掌を当てた。

「…おまえ、首筋にキスマーク付けた?」
「おや、今頃気づいたんだね?ま、鏡見る機会も殆どなかったか。ね、宮田?明日これが周太に見つかったら、どうなるかな?」

やられた。
しっかり国村の悪戯に嵌められて、英二は笑ってしまった。

「明日はさ、川崎の家で泊まりだろ?絶対に見つかるよ俺、困るよ、お母さんと周太に説明しないと」
「ふうん、俺にキスされました、って言うんだね?そういうの、周太のおふくろさんって大丈夫なワケ?」

きっと見つかれば笑われて困るだろう、けれど見つかってしまう。
困りながらも可笑しくて、英二は笑いながら口を開いた。

「うん、聡明で真面目だけど、ユーモア好きな愉しいひとなんだ。だからこれ、すごい笑われると思うよ?」
「なるほど、素敵な感じのひとだね?なあ、周太のおふくろさんのこと、ちょっと話せよ」

背中から抱きついたまま国村が訊いてくれる。
ゆるやかな体温の温もりに微笑んで、英二は穏やかな黒目がちの瞳を想いながら口を開いた。

「見た雰囲気はね、周太によく似ているよ。周太ね、眉と口もとはお父さん似だけど、他はお母さん似。
睫が長い黒目がちの瞳とかそっくりだ。でも、お母さんの方が黒目の色が深いかな。穏やかで静かな雰囲気とかも似てる。
年齢より若い感じなのも似ているな、周太って高校生みたいだけど、お母さんもね、まだ40代前半って感じで、きれいなひとだよ」

「周太の将来図で女性バージョンって感じか、そりゃ別嬪で可愛いだろね。おまえ、おふくろさんのことも大好きだろ?」

国村の言い回しが面白い、けれどその通りかなと納得しながら英二は笑った。
笑っている英二を覗きこんで「ほら話せよ、白状しな」と底抜けに明るい目が笑ってくる。
そんな友人がまた愉しくて英二は笑いながら頷いた。

「うん。俺、お母さんのこと大好きだよ?昨日もすこし話した通りだ、穏かで静かで温かくってさ。寛げるんだ」
「家や庭もそんな感じだって言ってたな?やさしい想いと気配で充ちていて、安心するって。いいな、そういうひと」

一緒に笑いながら国村も頷いてくれる。
自分の顔のすぐ横にいる友人に笑って、すこし身じろぎすると英二は国村に向き直った。

「今回の任官書類もさ、湯原のお母さんが俺の第一身元引受人になってくれただろ?
あれも俺、すごい嬉しいんだ。本当に俺のことを、なにがあっても受けとめてくれる人がいるんだな、って嬉しかったんだ」

「あれな、家族や親族以外で認可されるって、珍しいよね?おふくろさん、なんて言ってくれたんだよ」

底抜けに明るい目が温かに笑んで「聴かせろよ」と促してくれる。
後藤副隊長と蒔田地域部長からクライマー任官の内定を承けた、射撃大会の日。
あの後、周太の母が帰宅する頃を見計らって英二は電話を架けた。
そのときの記憶をなぞるよう英二は口を開いた。

「書類のことで電話した時、最初にお母さんに訊かれたんだ。『絶対に私より、周太より先には死なないって約束出来る?』
もちろん俺はね、はい、って返事した。このことは周太と付き合う時からの約束なんだ、絶対に周太を独りぼっちにしないって」

山岳レスキューの人間にとって「死なない」ことは任務の完遂に繋がる。
もし山岳救助隊員が殉職すれば要救助者も共に死ぬ危険が高い、だから「死なない」意志が大切だと後藤もよく言う。
それでも危険が高いことには変わりない、現実に他県警の山岳警備隊では殉職者も出ている。
山岳レスキューに奉職する警察官なら誰もが危険を覚悟する、それでも生きる意志は捨ててはいけない。
それは英二も国村も同じことだった、細い目が温かに笑んでテノールの声がやわらかに微笑んだ。

「うん、…良い約束だな。俺たちにはさ、必要な約束だよ。俺もね、じいさん、ばあちゃんと、美代と約束した。
後藤のおじさんもね、じいさん達に言ってくれたんだ。絶対に死なせないって。だから俺、パートナー居ない間は国内だけだったんだ」

後藤が国村の祖父母に頭を下げに行ったことが、ごく納得が出来てしまう。
国村の祖父母は息子夫婦を山の事故で失っている、本当は大切なひとりきりの孫を同じ場所に行かせたくないだろう。
それでも孫を「山っ子だ」と笑って篤実に受けとめている、その笑顔を英二も見たけれど明るく愉しい勁さがあった。
この約束の為に後藤はきっと、アンザイレンパートナーが不在の期間は8,000m峰に国村を行かせなかったのだろう。
そんな温かな切なさを想いながら見る底抜けに明るい目が笑って、国村は英二に言ってくれた。

「ほんとに周太のおふくろさん、おまえと家族なんだな」

家族になりたい。
昨日の昼に英二は国村にその話をした、それを覚えて言ってくれている。素直に頷いて英二は微笑んだ。

「俺もね、そう思えて嬉しかったんだ。そしたら、お母さん言ってくれたんだ。
『約束は絶対よ?それでも万が一の時は、私があなたの骨を拾って我が家の墓に納めます』って言ってくれた。
『だから安心して自分の夢を生きなさい。私がすべて責任を負います、後の心配はいらないから』そう言って…くれて」

こみあげる想いが心から瞳の奥へと迫り上げていく。
あたたかな熱を瞳に感じながら、英二は迫り上げる想いに微笑んだ。

「お母さん、俺に湯原の印鑑を預けてくれてるんだ、今回も書類を捺印した印鑑だよ。
婚約を申し込んで承けてもらった時に渡してくれたんだ、何かあった時に遣えるようにって。
でさ、印鑑を渡してくれる時も言ってくれたんだ『あなたは、もうひとりの息子だから、持っていて』って。
『私に何かあった時、あなたが私の骨を拾うのよ?そして周太を支えてほしい、家を守ってほしい』そう言ってくれた印鑑なんだ。
家の鍵も同じだよ、お父さんの大切な遺品の鍵を俺にくれたんだ、いつでも帰ってきてって…だから明日も俺、帰るんだ。ただいまって」

頬を横切って涙ひとつこぼれた。
その涙を見つめてくれる友人の温かい笑顔に、英二は綺麗に笑った。

「あの家は俺の家だよ、お母さんは俺の大切な家族なんだ。ありのまま素顔の俺を受けとめてくれる。
あのひとは俺と支え合おうと本気で思ってくれる、家族だって心から笑ってくれるんだ。だから俺の居場所だよ?
俺はね、やっと帰れたんだよ、俺の本当の居場所に。だから国村?おまえと周太が恋仲になってもね、家は譲らないよ?」

自分の家族と家は譲れない。
ずっと探していた大切な居場所は渡せない、やっと帰れた「家」なのだから。
率直な想いに笑った英二に国村は、大らかな笑顔で笑ってくれた。

「うん…いい家だな、大切にしなね。でさ、たまには俺にも遊びに行かせてくれな?」
「もちろん。おまえは俺のアンザイレンパートナーだからね、遊びに来てほしいよ」

嬉しくて英二は友人に幸せに笑いかけた。
そんな英二の貌を見て国村は半分呆れて、けれど底抜けに優しい笑顔で笑ってくれた。

「ほら、その笑顔がさ、反則だよ?そんな顔するからね、美代も周太もさ、おまえに惚れるんだよな」
「え…普通に笑っただけだよ?ダメか?」

すこし驚きながら英二は訊いてみた。
訊かれて国村は、底抜けに優しい眼差しのまま英二の額を白い指で小突いた。

「時と場合に寄っちゃ、ダメかもね?でも俺もその貌は好きだよ。でさ、宮田?
おまえ、さっき俺と周太が恋仲になってもって言ったけどさ?確かに周太、俺に恋はしてくれているんだろね。
でも周太、おまえの方が一緒にいて安心なんだってさ。俺とはたまに一緒にいられたら満足で、おまえはずっと一緒にいたいんだ」

それは周太の態度からも英二自身が感じていた事だった。
このことは多分2つか3つの理由があると英二には解かっている、そのうち話せるものだけに英二は口を開いた。

「周太はね、お父さんが大好きなんだよ。でさ、俺、お父さんと少しだけ似ているんだ。
だからね、周太にとって俺は、父親代わりでもあるんだ。だから全面的に安心も出来るみたいだよ、甘えやすいんだと思う」

「それ、後藤のおじさんも言ってたね。おまえが似てるって。父親代わりね?こればっかりは俺、勝てない、どうしようもないね」

からり笑って国村は英二に抱きついている。
こんな国村も、どこか英二に父親か兄の代わりを求めている節がある。
俺って「お父さん」キャラなのかな?ちょっと可笑しくて笑うと英二は言葉を続けた。

「周太は甘えん坊でわがままで、繊細すぎる。繊細で純粋すぎて、周太は自分の世界が強いんだ。
その分だけ周太は優しいけれど傷つきやすいよ。だから周太、女性を守って生きていくことが難しいんだ。
周太、年上の女の人に憧れたりはするんだよ。でも恋にはならない、それって『男として女性を守る』図太さが無いせいだと思う」

女性と男性では考え方が違う、これは脳と体の構造からもう違っている。
この「違い」を許容できるかが男女の恋愛には大切だろう、数だけは多い経験から英二はそう思う。
ある意味その点で似ている国村はどう思うだろう?そう見た先で自分と似た友人も頷いた。

「うん、たしかにね。周太、子供の頃も中性的でほんと可愛かったんだ。
男の図太さがなくって、ただ繊細で透明感がきれいでさ、浮世離れした雰囲気でね。
マジで俺は女の子だって思ってたよ。ほんとにさ、周太がお父さんになって旦那様になってるのって、想像つかないよな?」

やっぱり同じように想うんだな?
思ったように同じ見解に頷いて英二は言葉を続けた。

「でも周太はプライドが高くってね、男としてのプライドも高いんだよ。
だから同じ男に女みたいに抱かれることもね、たぶん難しいんだ。合意なら良いけど、無理強いされたら本気で傷つくよ。
だから1月の時、俺は周太に嫌われたし、体のことを拒絶したんだ…恥ずかしいけれど、気づけたのは本当に、国村のおかげだよ」

あのとき、英二を諌めるために国村は狂言で英二を強姦しようとした。
あのときの恐怖は「プライドの崩壊」だったと今ならよく解る、男にとってそれは死にも等しいことだろう。
周太を対等な男として見ることを忘れかけていた、そんな自分の迂闊さが悔やまれてしまう。
後悔と羞恥に唇を噛みかけた英二に、からり国村は笑って言ってくれた。

「男が男に無理矢理で手籠めにされたらさ、プライドずたぼろだよな?
だからさ、周太が俺に威嚇発砲したのだってね?単に体についちゃう手垢が問題だったんじゃないよ。
宮田の誇り高さを知っているから、それも含めて守ってやりたかったんだ。同じ男だからこそ、辛いって解るからね」

「うん。俺ね…周太のこと、どこかで女の子みたいに扱っていたなって気づいたんだ。
確かに周太は優しくて繊細で、母性みたいな懐も持ってる。でも、男なんだよな。
誇りある1人の男なんだ。それを忘れたから俺、あのとき…無理にでも抱いちゃえば、解決できるように思ったんだ。
女のひとが相手だとさ、抱けばこっち向いてくれたし、色々と有耶無耶にも出来ていたから。でも、男はそんなの無理だ」

どれだけ自分は周太のプライドを傷つけてきたのだろう?
きっと自分が気づかぬうちに「男」として周太を傷つけてきた、無神経な事を他にもしていないだろうか?
そういう自分の無神経さが周太を尚更に追いつめて、威嚇発砲に繋がったのではないだろうか?
あの周太が拳銃を使った真意の哀しみに、ふっと憂い顔になった英二にテノールの声が低く透った。

「男のプライドと繊細な優しさ、か。この矛盾はね…ほんとは周太、疲れているよ。
だから周太、あんなコトしたんだ。威嚇発砲で処分されて、警察の道を絶たれても良いって想ってた。
俺に返り討ちされても良い、そう思ってたよね?死んでも構わない、終わればいい。そんな顔だったんだ。
だから俺、余計に哀しかった。俺のことを宮田の為に殺してもいい、って想われたことも、周太が死にたがったことも、嫌だよ」

―…俺の掌は、夏が来たらもう…きっと、今と変わって…
 どんな罪に堕ちても俺を捨てないで?…穢れても、愛して?心も体も愛して?
 どんなに穢れても、罪に堕ちても、傍にいて…英二の全てで、俺を受けとめてよ?

ブナの木の前で周太が話してくれたことに、国村は気がついている。
あの優しい掌が、周太が進む道に辿っていく運命を国村も知っている。そして周太が苦しんでいることも。
だからこそ国村はあの翌日に冬富士へと周太を連れて行ってくれたのだろう。
周太から聴いた国村のデートの話を想い出して英二は微笑んだ。

「最高峰の竜の涙を掌に貰った、そう言って喜んでいたよ、周太。自分の掌が信じられる、そう言ってた」

国村らしい純粋無垢な励ましは、同じように純粋な周太には嬉しかっただろう。
ほんとうに喜んでいたよ?そう目でも笑いかけると、すこし照れたように国村は唇の端をあげた。

「あれはね、おまえの頬の傷とさ、お揃いになれたら喜ぶだろうって思ったんだ。
周太さ、おまえのこと本当に好きなんだよな。悔しいけどね。ま、これから14年間分を俺も挽回するけどさ」

あの「竜の涙」でまた国村は挽回できただろう。
この大切な友人の願いを叶えてやってほしい、そんな想いの自分がいる。
普通なら恋人が他の人間と繋がることは嫌だろう、前の自分もそうだった。
けれど今はまた違う立場での自分に気づいている、想うままを英二は言葉に紡いだ。

「お揃いってね、俺にも教えてくれたよ?そんなふうに周太、俺にはいろいろ話せるんだ。
それってね、俺のこと父親みたいに見ている所もある所為なんだ。だから俺も敢えて、全部話すように言ってる。
何でも把握する方が周太のこと、守りやすいから。だから俺、国村との以外のことは大概は解かっていると思う。
だから思うんだけどさ。周太が俺には体を赦せるのって、父親に甘える感じでプライドも他より気にしなくていいからなんだ」

父親を求める想い、これが周太は大きいだろう。
13年間を肩肘張ってきた周太にとって庇護してくれる存在は大きくなってしまう。
けれどプライドが高い分だけ誰にでも甘えられる訳じゃない、そういう男っぽい誇り高さが周太にはある。
そういう誇り高さが入寮前に英二から「かわいい」と言われて腹を立てたし、髪もバッサリ切る潔癖さになった。
この周太の誇り高さを自分は二度と傷つけてはいけない、そんな誓いに微笑んだ英二に国村が笑いかけた、

「周太ってね、凛としてるよ?そこが俺、また惚れるとこなんだ。
だから俺、あのときも宮田が赦せなかったんだ。あのとき、いつも凛としている周太が萎れた花みたいだった。
しかも宮田に怯えていた。それですぐ気がついたんだ、おまえが何やったかってね。で、俺もさ、キレちゃったんだよね。
俺にとって周太は不可侵の存在だよ。マジで俺の『山の秘密』に関わるんだ、だから傷つけることは宮田でも赦せないね」

からり笑って底抜けに明るい目が宣戦布告をしてくれる。
いつもながら明るい恋敵宣言がうれしい、素直に英二は微笑んだ。

「ほんとうに俺、思うんだ。国村がいてくれて、俺にとっても周太にとっても幸せだよ?
俺きっと、おまえに気づかされなかったら周太のこと、どんどん女扱いして、ダメになったと思う。
周太は守らないといけない、そんな言い訳で俺ね、周太のこと籠の鳥にして独占したままでいたよ、きっと。
でも周太は男なんだ、俺たちと同じように。守られるばかりで良いなんて思っていない、誇りを懸けたいって願ってる。
だから俺は周太を信じることに決めたんだ。男として誇りを抱いて選んだ道を生き抜ける、そういう立派な男だって信じるよ」

唯ひとり愛するひと。
その全てを受けとめるなら、その強さと独立心も信じられなかったら嘘になる。
きっと周太は泣くだろう、苦しむだろう。それでも自分が支えればいい。
きっと泣いた先に苦しんだ先に、周太は誇りと一緒に掴むものがある。
そんな想いに微笑んだ英二に透明なテノールが微笑んだ。

「俺も信じてるよ?周太はね、純粋無垢な分だけ勁いから。で、おまえも信じてるよ、俺は」

こんな自分も信じてくれる友人がいる。
やっぱり自分は幸せだな?きれいに英二は笑った。

「ありがとう、俺もね、おまえを信じてるよ?俺のアンザイレンパートナー」

明日は川崎の家に、このパートナーと帰る。
どんなふうに、この最高の山ヤはあの家を見るのだろう?
それがなんだか楽しみに思いながら英二は、北岳の夜をゆったり友人と話に微笑んだ。



(to be continued)

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