見えない聲
harushizume―周太24歳3下旬
第85話 春鎮 act.7-another,side story「陽はまた昇る」
どうやって来たのだろう、憶えていない。
それでも辿りついた海はそうだ、君の海。
―…ほら、周太。裾が降りてる、
君が笑う、低い綺麗な声。
あの声が笑ってくれた海はここ、たった七ヶ月前の夏。
あのとき裾めくった手は今いない、それでも周太はソックスごと靴を脱いだ。
「…つめたい、」
さくり、素足に濡れた砂ふれる。
肌とおる冷感ざらり踏む、踏みしめる砂は冷たく脆い。
ダッフルコートひるがえす風、頬ふれて冷たい風、そして波に足濡れた。
―…周太、袖も捲った方がいいな?濡れたら困るから、
君の声が微笑む、でも現実の今は聞こえない。
飛沫おしよせ裾が濡れる、重たくなる、それでも進む脚にコートたなびく。
ライトグレーやわらかに黄昏ゆらす、朱色に黄金にコートきらめいて、ほら夏の海がよせてくる。
―…気に入ってくれたなら良かった、また連れて行ってあげるな、
飛沫に光る、夏にくれた約束。
あの約束の場所ここから見える、ほらあの店、あの遠い遠いシルエット。
―…じゃあ、9月の終わりは行かないとな?
そう君が笑ったのは七月、けれど九月に叶わなかった。
もう約束の九月は来ない、そんな現実を二時間前の声が告げる。
『男の愛人は邪魔な立場になったんだ宮田は、』
それなら英二、君に言ってほしかったのに?
「…っ、」
ざざん、波しぶき夏の記憶ひいてゆく。
大好きだった君の声、君の笑顔、君の肌がくれた温度。
どれも些細なことかもしれない、それでも自分には宝物で、世界の全てだったのに?
『いわゆる権力者だ、その後継者として宮田は鷲田になった、』
権力者、後継者、そんな言葉の意味くらい自分だって解かる。
だから解かるんだ、もう君は僕のこと、邪魔になってしまう。
「え…いじっ、」
声が叫ぶ、これ自分の声だ?
「っ…ぇ、いじぃっ…、」
波を裂いて哭いてゆく、ああ僕はこんな声なんだ?
こんなふう泣き叫んでしまうほど呼びたいんだ、唯ひとり君を。
―…周太、約束だよ?俺は何があっても君から離れない、ずっと、永遠にだ、
夏の声が呼ぶ、誓う、永遠だと君が告げる。
あの永遠いつまでを言ったのだろう、君は?
「…えいじっ…えい、っごほんっ」
咽ぶ声、ああ喉ふかく痛い。
また発作ぶりかえすのだろうか、ああ病気に逃げこむなんて嫌だ。
逃げこむより見つめて向きあって考えたい、唯ひとつ信じた想いそれだけを。
そうして、そうだ忘れられたらいい、君も僕も?
そのため、そうだ僕ごと消えてしまったらいい。
「ごほっ…ぅ、」
咳が止まらない、それでも脚が潮を浸す。
肌まとわりつく布が重い、ほら、冷たく静かに沈みだす。
波飛沫おしよせる、朱色はじいて黄金きらめいて、ひきよせる黄昏に夏が消える。
消えてゆけばいい僕の恋、それから、君の隣にあった僕の居場所。
「…えい…じっ…」
ざあっ、
飛沫ひっぱたく重たい打撃、水滴いくつも敲いて濡らす。
黄金うつ波うねらせ煌めく、もう色すこし変わる波が近い。
あの波すこし越えたら消えられる、踏みだしかけてコート曳かれた。
「おんっ、」
今なにか聞えた?
「おんっ、ぅぅぅっ!」
唸る声、そしてダッフルコート引っ張られる。
波かく音、飛沫の音、なにか懐かしくて振りむき、止まった。
「…カイ?」
名前こぼれた波間、茶色い耳が波ゆれる。
茶色い犬がコート咥えこむ、かわいい茶色い手が飛沫かく。
つぶらな黒い瞳は自分を映して、その挟間ゆらり波うねった。
「カイっ、」
波に腕のばし毛並ふれる。
水ゆれる体温ふれて抱き寄せて瞬間、がぼり沈んだ。
―カイ!
ああ救けたい、この温もりは。
冷たくなんてしたくない、だって何度も救ってくれた。
―カイ、どうして僕のためにカイっ、
この犬は自分の犬じゃない、それなのに追いかけてきてくれた。
また自分を救おうと来てくれて、そのまま海に巻きこんでしまいたくない。
どうしても救いたい、この犬を待つ人へ帰らせたい、願い温もり抱きしめ水かいて、けれど腕も脚も重たい。
がぼっ、
-コートが重たいんだ、濡れて巻きついて、
ダッフルコート全身からむ、それでも腕なんとか動く。
そうだ警察学校でも着衣で訓練した、きっと泳ぎ切れる。
ただ救けたい、ただ願い波をあがいた。
「はあっ…!」
ざばり水面ぬける、唇なびく風が辛い。
潮に冷たい重い腕、それでも抱きしめる温もりと波をかいた。
「ぅっ…はあっ」
重たい腕、重たい脚、でも波を進む。
暗くなる岸の色、それでも水面ゆれる黄昏が燈す。
あの光だけ見つめて行けばいい、ただ見つめて波を掻いて足に砂ふれた。
「カイっ、カイ…っごほっ、」
抱きしめた犬ごと膝くずおれる。
噎せながら座りこんで、暗い岸辺に黒い瞳きらめいた。
「くんっ、」
ちいさな鼻そっと頬ふれる。
やわらかな温もり頬なでて、つぶらな瞳まっすぐ見あげてくれた。
「カイ…、」
呼びかけて抱きしめる、やわらかな温もりニットを透かす。
濡れたコート濡れたニットパーカー、それなのに温かで微笑んだ。
「カイ、ごめんねカイ、ぼく…ごめんなさいカイ、」
微笑んだ視界にじむ、やわらかな紗に世界ゆれる。
あふれる熱こぼれて滲んで、ぺろり舐められた頬の温もり笑った。
「カイ笑ってるの?ばかだねって…こほっ」
「おんっ、」
ひとこえ鳴いて頬ぺろり、舐めてくれる温度やわらかい。
あふれる熱そっと舐められる、その温もりに知らされる罪が刺した。
「ごめんなさい、ぼくカイにまでたすけられてっ…」
たすけられている、自分の命は。
こんなふう何度も救われて護られて、それなのに今なにをした?
こんなこと解かっていたはず、それなのに棄てかけた温もり抱きしめた。
「ほんとうにごめんねカイ、ごめ…ね…っ」
こんなこと赦されない、だって護られた願い棄てることだ。
『もう後悔したくなくて今も無理やり助けに来ました、』
優しい低い声が響く、大叔母の涙の声。
『なぜ無理にでも助けなかったのかって、ずっとずっと後悔しているの。斗貴子さんと約束したのに私は…私は本当に愚かね、』
雪ふる夜に大叔母が泣く、あんなところまで救いにきてくれた。
ずっと苦労なんて知らなかったろう、それなのに雪の夜まで駆けてきた、あの声。
『十四年前こうするべきだったわ!あなたを引っ叩けてたら喪わないですんだのに、あなたも私も大事なものを!』
屈強な男を引っ叩いた手。
雪の街燈ひらめいた手は華奢に真白で、それなのに力強かった。
あんなに綺麗な手、それなのに逞しくて眩しくて、それは母も同じだ。
『民間人舐めてんじゃないわよっ、この殺人鬼!』
あの母があんなふう怒鳴った、あの穏やかで優しい母が。
あの全て誰のため何のため?解かっているから涙が熱い。
「ごめんなさ…ごめんなさいっ、こほっ」
温もりひとつ抱きしめ頬が熱い、その雫そっと拭われる。
やさしい吐息そっと頬ふれ鼻をならす、この優しい犬まで巻きこんでしまった。
こんなふう涙ぬぐってくれた想い、もう幾つもらったろう?
『だから湯原も絶対に帰ってこい、俺も援護するから絶対に帰れ、』
低い深い声が見つめる、あの声さっきも再会した。
さっきも涙ぬぐって受けとめてくれた、あの温もり裏切るところだった。
『俺が悪かった湯原、ごめんな…ごめん湯原、』
そうだ謝ってくれた、今もし死んだらきっと責めてしまうのに?
「すみませ…ごめんなさ、い」
声あふれて哀しい、だって忘れてしまっていた。
あのひとこそ本当は傷ついている、大切な人を殺されて仲間の自殺未遂まで見た瞳。
『俺は助けたい、』
雪の山懐そう告げた瞳、静かで深い涙が優しい眼。
あの手首いくつも刻まれた傷を知っている、それなのに自分は何しようとした?
『湯原が飯、うまいって言ってくれたから、』
笑った瞳は照れくさげ、そして優しかった。
あの優しい瞳どうなってしまう?こんな自分でも命ひとつ追い詰めてしまうのに?
こんな大切なことまで忘れて何をしたのだろう、それに、あの澄んだ明るい眼まで忘れて。
『ゆはらくんのばかっ…やくそくぜんぶわすれてっ、』
目覚めた最初、泣いて笑ってくれた。
あの瞳ずっと大切だ、出逢った最初から特別な女の子。
『一緒に勉強しようね、約束よ?』
一緒に、そう笑ってくれた最初の女の子。
あの笑顔あの瞳ほんとうに好きだ、笑ってくれるなら何でもしたくなる。
「ごめんなさい…みよさん…」
名前そっと声にして温かい、そうして自覚する。
こんなに温かいほど大切なんだ?そうして笑顔いくつも想いだす。
『周太ならスケッチブック見ていいよ、』
明眸さわやかな眼鏡の瞳、あの明るさ大好きだ。
何も知らない明るさじゃない、その潔さ逞しくて。
『白バラみたいな女の子だよ、弥生は、』
あんな話、きっと誰にでもするわけじゃない。
それでも話してくれた信頼も感情も、どうして棄てようと出来たのだろう?
『俺ずっと考えてることあるんだ、だから周太、一緒に大学院へ行こう?』
語ってくれた夢、あの夢と結んだ約束が誇らしい。
そうして願い進路この先も考えて、それなのに忘れて僕は何をした?
「ごめん賢弥…ごめ、ね」
名前を呼んで涙こぼれる、朱色に沈む海で懐かしむ。
沈みこむ太陽に墨色きらめく、そうだ、こんな海を謳う詩と父の名残り。
『そうだ君だ、君なんだ、』
鳶色の瞳が泣いた、父が大好きだったひと。
「すみません田嶋先生っ…、」
恩師を呼ぶ、そして父の微笑かすめる。
桜ふる夜まどろんだ父の死顔、あの最期を泣いてくれた瞳はすこし父と似ていた。
父を惜しみ祖父を尊敬し続けてくれる文学者、ふたり遺した夢を追い続けてくれるひと。
そのひとに引き合わせてくれた、もう一人の恩師が自分を見つめる。
青木真彦『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』
樹木の生命力について、樹木の医師である樹医が記した本。
幼い日に憧れた「植物の魔法使い」が書いた本は、本当に不思議で楽しく温かい。
あの一冊を手渡してくれた眼ざしが、あの繊細で頑丈な手が自分に語りかけた。
“君が掌を救った事実には、生命の一環を救った真実があります。君に誇りを持ってください。”
君が救ってくれた、そう綴ってくれた植物学者の手。
あの掌に導かれ再び見つめた夢はまぶしくて温かで、それすら棄てて自分は何をした?
「すみません青木先せっ…い、ごめんなさい…ごめんねカイ、」
涙あふれる想い滴る、今してしまった罪に。
それでも止まない想いごと茶色い温もり抱きしめた。
「ごめんねカイ僕はっ…でもぼくは、まだすきなんだ…」
ああ、まだ好きだ君のこと。
「…すきなんだっ…こほっ」
こんなになっても好きだ、あんなに言われたのに?
『男の愛人は邪魔な立場になったんだ宮田は、』
解かっていた、僕の恋は君の邪魔になる。
「…おとこどうしなんて…ぅこほっ…わかってた、でもぼくは…っ」
邪魔になるなんて解かっている、最初からそんなこと解かっていた。
解かっていたくせに言われたら痛い、苦しくて哀しくて、消えたくなる。
それなのに消せない、もう大切なもの多すぎて壊したくない、だってこんなに温かい。
「くん…、」
鼻そっと鳴らして頬ふれる、毛並やわらかに温かい。
こんなふう自分は温もり幾つも護られる?そっと抱きしめる温度に光を見た。
「あ…」
茶色い毛並やわらかな先、薄紅色ひとつ光る。
黄昏ためるような儚い光、それでも確かに煌めいて懐かしくて、そっと指のばした。
「…ふたつくっついて、」
桜貝ひとひら、黄昏に燈る。
(to be continued)
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