snow-blink 学者の灯
第77話 決表act.6-another,side story「陽はまた昇る」
窓すこし曇って白い、外は寒いのだろう。
あまい湯気ゆるやかな芳香すすりこんで喉から温まる、座るソファも柔らかい。
ならんだ書架ほろ苦いような甘いような乾いた匂いは古書、積まれた書類の束はインクの香る。
たくさんの本たちに一見は雑然として、けれど空気どこか清々しいのは掃除も換気もしているのだろう。
―でも片付けは苦手なんだね?
心裡ほっと笑ってしまいたくなる、だって部屋の主らしい?
ここの書棚は整然と並ぶ、大切に読み継がれてきたのだと背表紙で保管の良さが解かる。
これだけの蔵書を埃ひとつなく護ることは毎日の掃除が欠かせない、そして机に積まれた本たちは棚から溢れたのだろう。
そこにも埃や日焼の痕は無い、けれど書斎机だけは堆積された書類たちに埃も積もりそうで、すこし心配な想いに学者が笑った。
「周太くん、俺の机が雪崩そうだって思ってるんだろ?」
解ってるなら片づけられたら良いのにね?
そう言い返したくなって可笑しくなる、あまりに悪びれていないから。
浅黒い笑顔はくしゃくしゃ髪、ワイシャツの衿元はボタン外してネクタイ緩んでいる。
いま12月の雪の午後、それなのに袖捲りした姿は大学教授というより悪戯っ子で周太は微笑んだ。
「田嶋先生もそう思ってるんですか?」
「そりゃ思ってるぞ、でもこうなっちまうんだよなあ、」
からり笑った言葉遣いも気さくに明るい。
その瞳に雪あかり燈った虹彩が意外で、つい尋ねた。
「あの、田嶋先生のお母さんは外国の方ですか?」
学者の瞳は鳶色に見える、くしゃくしゃ髪も半白だけれど赤っぽい。
今まで気付かなかった風貌に学者はからり笑った。
「両親とも安曇野の人間だぞ、俺の髪と目が日本人ぽくないんだろ?」
「はい、あの、すみません、」
失礼なこと訊いたかもしれない?
そんな反省と謝ったティーカップ越し田嶋は笑ってくれた。
「謝ることないぞ、馨さんもアッチの人間の生まれ変わりだ言ってくれたしな?ガキの頃もソンナ綽名で呼ばれてたよ、」
父も同じように感じていた、そう告げられて遠い時間を見つめてしまう。
今より三十年は前の時間、けれど今この現実に向きあえる鳶色の瞳と紅い髪に笑いかけた。
「あの…もしかしてベートーヴェン?」
嵐がぶつかったみたいだな?
そう賢弥も言った通りのくしゃくしゃ髪から連想してしまう。
だから最初に思いついた解答へと父の旧友は愉快に笑った。
「あっはは、半分当たりだ、ガキの頃はソレだったが馨さんは違う名前をくれたよ、」
大らかな闊達が笑ってティーカップに口つける。
その茶器も真白に藍模様あざやかで手入れが良い、きっと大切に使っている。
こうした丁寧なところ研究室の主は優しい、そのくせ片づけられない自由過ぎる笑顔へ尋ねた。
「なんて名前を父は?」
「ははっ、ソレも当ててほしいとこだぞ?いつかで良いからさ、」
愉しげに答えてくれる眼差し悪戯っ子に笑っている。
こんな応答を父ともしていたのだろうか?そんな想い嬉しいまま学者は訊いてきた。
「さて、そろそろ馨さんの恋愛結婚を聴かせてもらおうじゃないか?周太くん知ってるんだろう、」
やっぱりその質問はされちゃうんだ?
こういう話題は困らされる、だってやっぱり照れてしまう。
それでも答えなかったら自分の質問権が無くなるようで周太は口開いた。
「あの…桜の下だってきいています、」
幼い日に聴いた記憶へ口開く、その言葉に物語が還ってくる。
“ 桜 ”
いつも父に咲いている花、そして母にも自分にも咲いている。
この花と向き合う紅茶の湯気に鳶色の瞳は微笑んだ。
「桜の下が出逢いか、馨さんは君のお母さんを桜のドリアードだって思ったんじゃないかい?」
どうして解かっちゃうんだろう?
いま花の名前ようやく告げただけ、それでも解かって訊いてくれる。
こんな人なら本当に父の友人だ、きっと唯一アンザイレンパートナーだった、この確信と尋ねた。
「はい、夜桜の下でドリアードに逢ったって…どうして解かるんですか?」
「やっぱりそうか、ロンサールだな?」
低く響く声が笑って肘掛椅子を立ち上がる。
書斎机の小山から一冊、そっと手にとるとページ開いてくれた。
「湯原教授の訳文つきだよ、馨さんも好きな詩だ、」
Dedans des Prez je vis une Dryade,
Qui comme fleur s'assisoyt par les fleurs,
Et mignotoyt un chappeau de couleurs,
Echevelee en simple verdugade.
Des ce jour la ma raison fut malade,
Mon cuoeur pensif, mes yeulx chargez de pleurs,
Moy triste et lent: tel amas de douleurs
En ma franchise imprima son oeillade.
La je senty dedans mes yeulx voller
Une doulx venin, qui se vint escouler
Au fond de lame et: depuis cest oultrage,
Comme un beau lis, au moys de Juin blesse
D'un ray trop chault, languist a chef baisse,
Je me consume au plus verd de mon age.
緑野に映るのは森の精ドリアード
花にかこまれ寛ぐ姿は美しい花
色あざやかな花冠を戴く翳は
緑艶めく髪の遊んで揺れる
その姿を見た瞬間に恋は悩み
心騒いで涙あふれて
恋の苦しみと悩みは積もるまま募り
恋の眼差しに苛まれて
私の瞳は甘やかな毒を注がれる
その毒が魂の奥深く浸みこんで
この心に傷深く刻みこむ
うつくしい六月の百合の花のように
太陽の熱に照らされるまま頭を垂れて
青春の季はすべなく過ぎてゆく
「ロンサールですね、カサンドラへのソネットシリーズの森の精ドリアード…僕も父に読んでもらいました、」
読みながら答えて懐かしい。
この詩も父に読んでもらった、あの朝に雪の森へ出掛けている。
幸せな冬の一日が異国の詞に微笑ます、その喜びに父の旧友は笑ってくれた。
「きっと君のお母さんにも読んでるぞ、告白の代わりにな?だから周太くんに教えたかったんだろうな、」
そうかもしれない、あの父なら。
そんな納得から素直が微笑んだ。
「そうですね…あの、田嶋先生とそんな話してたんですか?」
「してたぞ、ドリアードのことは最初の穂高だな、」
低い透る声は愉しげなまま温かい。
懐かしい時間がそこにある、その全て映した一冊に周太は口開いた。
「父の本も穂高だって仰っていましたよね、田嶋先生がまとめて下さった…夏山の緑と雪山の銀色と、」
「ああ、穂高の色だよ。栞の紐は空だ、朱色も青も、」
答えてくれる言葉に確信また深くなる。
この人は父を大切に想う、そんな信頼に尋ねた。
「どうして栞の色は空なんですか?」
親友でアンザイレンパートナー、そして文学の朋友でライバルなら聴いている。
きっと父の真実を見ていたなら解かっているはず、その答えに闊達な瞳が笑った。
「馨さんの名前が “空” だからだよ、ラテン語の空 “caelum” からカオルってご両親が付けたからな、空は馨の色だ、」
ほら、幼い日の記憶また呼んでくれる。
『僕の名前はね、ラテン語で空って意味なんだ。だから周太の名前も広い空のイメージで“あまねく”の字なんだよ?』
父とお揃いの意味が嬉しかった、だから今も憶えている。
まだこの事は誰にも話したことが無い、その秘密のまま父の友人へ笑いかけた。
「ありがとうございます、父のこと今でも憶えて下さっていて…すごく嬉しいです、」
「こっちこそ嬉しいよ、ずっと君に逢いたかったんだ。この研究室だって君を待ってたと思うぞ?」
鳶色の瞳が笑ってくれる聲にまた温められる。
自分こそこの人を探していた、その願いごと過去に問いかけた。
「僕も田嶋先生を探していたんです、父と祖父のこと知っている方に逢いたくて…ふたりはどんな友達がいたんですか?」
この質問には必ず答えがあるはず、田嶋なら。
『先輩は優秀な射撃の選手でな、それで湯原先生の友達で警察庁にいた方から勧められたんだ、』
この研究室を初めて訪れた、あの初対面にそう田嶋は話した。
あのとき自分が誰なのか田嶋は知らない、知らず話してくれた言葉こそ事実だろう。
あの事実そのまま今も話してほしい、この自分を湯原馨の息子だと知っても話してくれるなら?
「田嶋先生は1年生のときから研究室に来ていたんですよね、祖父の友人もここに来てたのかなって…もう亡くなられている方も多いでしょうけど、」
問いかけにティーカップの湯気かすかに揺らぐ。
この答えは必ず「来ていた」のはず、だって祖父が書いている。
『 La chronique de la maison 』
全文がフランス語で綴られている舞台はパリ郊外、ある一家に起きた惨劇から涯無いリンクの物語。
これは創作じゃない「記録」だった、そこに記された言葉たちが「来ていた」人物を示す。
Mon visiteur 訪問客
La même période de l'université 大学時代の同期
L'agent de police du Département de la Police Métropolitain 警視庁の警察官
フランス語の言葉たちが示す第三者は田嶋の言葉に重ならす。
あの惨劇に交錯した悲哀と憎悪の中心、あの第三者が「誰」なのか?
この解答を確かめたら自分は何を想うのだろう、願うのだろう、そして証人は口開いた。
「周太くんまで観碕さんとデュラン博士を訊くのか?」
なぜ「まで」そして二人いる?
「え…?」
なぜ田嶋は「まで」と問いかけるのだろう?
この言葉に途惑いごと見つめて、そして見える可能性に怖くなる。
だって「まで」をしそうな人間なんて一人しか自分は知らない、その推定に父の友人は訪ねた。
「二人の事を俺に訊きに来た男がいるんだ、馨さんと似ている男だよ、周太くんは彼を知っているのか?」
こんな「彼」は一人しか知らない、だから英二、あなたは誰?
(to be continued)
【引用詩文:Pierre de Ronsard「Dedans des Prez je vis une Dryade」】
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