萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第53話 夏至act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-08-31 19:39:24 | 陽はまた昇るside story
呼び聲、明るませて



第53話 夏至act.5―side story「陽はまた昇る」

空が近い。

脚立から見上げる梢の向こう、明るい青が広がっている。
翳す木洩陽は光と影に交錯する、風透ける緑まぶしくて英二は目を細めた。
涼やかに吹く風に甘酸っぱい香が瑞々しい、芳香の果実へと長い指を伸ばすとやわらかく掴んだ。

かさっ…

葉擦れの音に、まるい実は掌へと滑りこむ。
あわい黄と赤みを帯びた果実は、あまやかな香が優しい。
こんなふうに果樹の実を摘むことは、この家に来るまで知らなかった。

―こういうの、なんか良いな

掌の果実は豊潤を昇らせながら、やわらかな感触を肌にくれる。
この実を使って周太は菓子や酒を造ると言っていた、そんな素朴な習慣がなにか愛しい。
こうした習慣を、斗貴子も楽しんでいたのだろうか?

湯原 晉  出生地 神奈川縣橘樹郡川崎町
妻 斗貴子 出生地 東京府東京市世田谷区  

父  榊原 幸匡
母  榊原 とみ
続柄 長女

さっき見た、周太の祖父を記録した除籍謄本が脳裏に浮かぶ。
おそらく「榊原幸匡」は自分の祖母の叔父、そして斗貴子は祖母の従姉だろう。
さっきから考え廻らす中で「東大に行った従姉がいる」と祖母が話してくれた記憶がある、だから確信できる。
そして斗貴子が在学していた頃、晉はソルボンヌから東大に戻り仏文科の教授として着任している。

―お祖父さんと斗貴子さん、15歳違いなのは教え子だからだ

あの時代に女性で大学進学者は少ない、それも東京大学に進学するような女性は稀だった。
たぶん自分の推測は正解だろう、今、電話を一本かけて祖母に確認すれば「正解」だと言われるだろう。
それなら自分は湯原家と無関係ではなくなる、法定親族では無くても血縁は変わらない、それは周太の望む存在に当る。

―…俺、本当は寂しかったんだ。お母さんと2人きりで寂しくて…だから知りたかったんだ、家と家族のこと

戸籍証明を見ながら告げてくれた、周太の「家族や親族がほしい」願い。
あの言葉は周太だけの寂しさを言っているのではない、周太は母のことを気遣って言っていた。
これから夏になって秋になる、その間の2度の異動で周太は危険な部署に配属されるだろう。
そうすれば周太の母は独りになる、そのことを周太は思って家族や親族がほしい。
だから本当は今すぐ教えてあげたい、自分こそ周太の血縁者だと告げたい。

―けれど、それは今は、まだ出来ない…知らない方が良い、

まだ今は、周太は「親族がいない」ことにする方が安全を護る。
きっと「自分がいなくなったら母は独りになる」と思わせた方が、周太自身の生存への意思は強い。
なにより真昼に聴いた、安本の情報から考えて親族の存在を知らすことは危険だろうから。

―…今朝、射撃指導員の会合が本庁で…新宿署のやつに訊かれた、湯原に親戚は居ないのかとね。これで2度目だ…
 湯原の命日に…あのベンチで…『湯原さんには息子さんが何人いるんですか』ってな。こんなこと新宿署長が訊くのは変だろう?

彼らは「亡霊」を探そうとしている、14年前に死んだ『Fantome』と似た男に怯えだした。
この「亡霊探し」を言ってくる者は畸形連鎖に関わるものになる、この炙りだしを止めたくない。
そして何よりも、この精神的ゆさぶりを壊したくはない。

―怯えればいい、正体を曝け出せ、そして…罪の意識を自覚したら良い

心に意図を見つめながら、梅の梢に手を伸ばす。
長い指が摘み取る果実はやさしい、けれど、このまま食べたら梅の実は淡い毒になる。
この毒のように少しずつ、畸形連鎖を腐敗させる傷の1つに「亡霊」はまだ使いたい。
14年前に死んだ『Fatnome』と似た男を「疑惑」という名の傷にしたい。

いま馨の息子が父と同じ道を歩み始めた、そのとき馨と似た男が現われたなら?
きっと馨と似た親族が復讐に現れたと考えるだろう、けれど馨には一人息子と妻しかいない。
もし他人の空似なら馨の存在した場所に現われる理由が無い、それならば『Fanome』と似た男は何の目的で現れたのか?
存在するはずの無い「馨の為に復讐をする男」が現われた、その理由不明は疑惑と混乱を醸していくだろう。
そうした疑惑と混乱に、きっと内部の懐疑が起きる。

法治の矛盾『Fantome』の鎖を知る仲間が裏切り、亡霊を送りこんでくる?

そんな懐疑が内側から食い荒らして崩れていく、そこに付け入るチャンスが与えられるだろう。
その崩壊と懐疑の涯には、裏切りの誤認で犠牲があるかもしれない。けれど、それは自分の知った事ではない。
そうして自壊してくれたら手間が省けて良い、存在する筈のない『Fantome』の復讐者、亡霊の幻に彷徨えばいい。

だから「湯原馨の血縁は一人息子と妻だけ」にしておきたい、自分が馨の血縁だと知らせたくはない。
それは英二自身の行動の自由を約束する、だから全てが終わる日まで告げることは出来ない。
それでも、この事実確認をしておきたい。それに出来るなら斗貴子のことを教えてあげたい。
たとえ親族と名乗ることは出来なくても、真実の一部を教えることは可能だから。

―葉山に行こう、早いうちに周太を連れて

祖母に会いに行く。祖母には事情を一部だけ話し、血縁関係は秘密のまま周太と会わせたい。
あの祖母なら余計なことは聴かずに、英二の求めに応じて話してくれるだろう。
そして祖母にも周太にも「斗貴子」への想いをすこし叶えてあげたい。

「英二、いちばん高い実は、ひとつ残しておいてね?…木守りだから、」

樹下からの声に、意識が戻された。
見下ろした向う、黒目がちの瞳が微笑んで見上げてくれる。
その瞳に明るい幸せが楽しげに笑って、木洩陽が肌を透かして美しい。

―きれいだ、

ほのかな風ゆれる黒髪が、やわらかに靡いて白く額を見せる。
あの額にキスしたいな?笑って英二は、まるい実に手を伸ばしながら答えた。

「木守り?」
「いちばん空に近い実はね、神さまへのお供物で木守りって言うんだ…そうすると、また沢山の実を付けてくれるの、」

木の神さまを信じている、そんな無垢な想いは周太らしい。
こういう純粋さを大切にしてほしい、護っていきたい。そんな祈りと笑いかけた。

「そういえば、夏みかんの時も1つ残したよな?あれも木守りなんだ、」
「ん、そう。同じだよ…りんごとか他の木も、同じようにするんだ、」

なんてことはない、他愛のない会話。
けれど、こんな時間こそ穏かな幸せが嬉しい。
このまま時が止まって、やさしい風の庭にふたり居られたら良いのに?
そんな叶わぬ願いをつい抱いてしまう、こんな自分の諦め悪さに微笑んだとき古い木の軋む音がした。

「周、ただいま。梅の実を採ってたの?」

梢の向こうから、やさしい声が聴こえてくる。
この声の主に今、幾つか話したい。その話題への緊張がゆっくり昇ってくる。
彼女は何て言ってくれるだろうか?きっと受けとめてくれると思う、けれど彼女にだけは罪悪感を抱いてしまう。

―いまの俺は、校則も、法律すら怖がっていないのに?

こんな自分でも、この世で唯ひとり頭が絶対にあがらない相手がいる。
そんな唯ひとり怖い相手と唯ひとり恋する相手の、楽しげな会話が聴こえてきた。

「おかえりなさい、お母さん…出来たら今日、すこし梅酒とか漬けようと思って、」
「あら、良いわね。甘露煮も作るのだったら、ゼリーよせにして欲しいな、」

愛する二人の声を聴きながら、英二は梢から書斎の窓を見た。
目視で東屋までの距離と角度を測っていく、その視野に山で距離感を掴む目視と登山図の比較感覚が働きだす。

―高さ4m、距離は25m圏内…拳銃の射程距離だ、

あの窓から東屋にいる人間を正確に狙撃できるのか?
拳銃の弾道と飛距離から考えて可能かを確認してみたかった、そこへ脚立に登れたのは幸運だった。
ある程度の高さを以て見ると角度など鳥瞰的に捉えやすい、あとは書斎から見て確認すれば今回のデータ収集が終る。

『書斎から東屋への狙撃を計画的に考案することは可能か?』

それを知りたい、もし可能なら50年前の事件は「意図的に惹き起された罠」と推論が成立する。
この推論には距離と角度に、あと1つの情報が揃えば裏付けが出来るだろう。
そして、もし推論が正解なら「あの男」の罪が、また1つ確定される。

殺人の教唆、それから殺人へ追い込む罠。
この2つの罪が50年の時を超えて、今、暴かれ出していく。
その証拠は少ないだろう、けれど追詰めるカードを並べ曝してやりたい。

―赦さない、どんなに時が経とうとも、時効だとしても

どちらの罪も、もう50年前では時効成立となる。それでも自分は赦さない。
たとえ法律で赦されても自分は赦さない、犯した罪を償わせてやりたい、愛する人達を苦しませた報いを投げつけたい。
その報いはどんなふうにするべきか?その答えも今、少しずつ考えは纏まっている。

―俺は、残酷だな

自分の思念へ自嘲が微笑んだ、その頬を梅の香がやさしい掌のよう撫でていく。
ゆるやかな風の馥郁はどこか優しい佳人を想わせる、この風の掌は彼女だろうか?

―斗貴子さん、あなたは赦せますか?あの男を…あなたの宝物を利用する者を、

吹きぬける風に笑いかける、その向こう古い写真の俤が微笑んだ。
彼女の雰囲気と馨は似ている、特に聡明な切長い瞳は母子だと思わせられた。
もし祖母の顕子と斗貴子が従姉妹同士で似ていれば、馨と英二が似ていることは当然だろう。
自分の目と父は似て、父と祖母の顕子は似ているのだから。そう考え廻らせながら脚立から降りたとき、やさしい声が呼んでくれた。

「ありがとう、周。英二くん、」

声にふり向いた先、明るい黒目がちの瞳が笑いかけてくれる。
この瞳には自分は全く敵わない、こんな全面降伏してしまう相手が嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「おかえりなさい、お母さん、」
「ただいま、英二くん、」

黒目がちの瞳が笑ってくれる。
その瞳は愛する人そっくりで、より闊達な光が明るい。
この瞳と山茶花の下に誓った約束は裏切れない、だから懺悔と許諾を受けとりに来た。

―どうか赦して下さい、そして共犯者でいさせて下さい、周太の誕生日の時の言葉のまま

心の裡で願いを告げて、英二は周太の母に微笑んだ。



かたん、

階上、扉の閉じる音が響く。
その音を合図に英二は、静かにステンドグラスの扉を開いた。
音も無く扉を閉じてホールを斜めに横切っていく、鋭利になる聴覚に微かな話し声が聞こえてくる。
いま母子は2階北西の部屋で話し始めた、だから1階南西に位置する仏間の音には気付かないだろう。
それでも英二はゆっくり和室の扉を開くと、音も無く静かに閉じた。

南面の障子戸から、午後の光は透かして影を畳に落とす。
その障子を全て開け放つと、テラスいっぱいの洋窓から畳へ影絵をゆらした。
ふるいガラス窓のやわらかな光は、テラスと和室を照らして光の梯子を伸ばしていく。
その先の仏壇へと踵返すと端坐して、英二は掌を合わせた。

「すこし、お騒がせします。どうか赦して下さい、」

合掌で笑いかけ、英二はミリタリーパンツのポケットから手袋を出した。
素早く両手に嵌めて経机を脇に寄せる、そのまま仏壇下の引戸へと片手を懸けた。

かたっ…

小さな音と開いていく手許から、ゆるく香の匂いが陽射しへ昇りだす。
引戸の奥へ射しこむ陽射しに目を透かし、英二は右掌を中へと入れた。

「…ん、」

注意深く引き出した大判の封筒は、予想した厚みを持っている。
この厚みは祖父の葬式を想い出さす、この記憶どおりだと良い。そんな想い封筒を開いて中身を引き出した。

「あった、」

馨の葬儀に使われた芳名帳。

これを今回は撮影謄写したくて帰ってきた。
微笑んで英二は卓上にページを広げ、ポケットからコンパクトデジタルカメラを出した。
レンズを向け、見開きごとに撮影していく。そのページには真昼に聴いたばかりの名前が幾つも並んでいく。

―安本さんの記憶力、さすが聴取の名人だ

昼食の席、光一の電話で周太を離席させた20分間。
あの間に安本から欲しかった情報を引き出した、そのうちの1つである弔問客リストは主要人物への記憶が明確だった。
あの短時間に安本は当時の役職と現職、その間の重要になるポストについても話してくれた。
あの話方はきっと、英二が何をしようとしているのかを大まかに気づいている。
それでも黙って英二の求め通りに情報を与えてくれた。

―…友達のことを俺は少し調べてるよ。子供の進路が作られたように異様で気になる。
 あの夜から俺は友達との約束が全てだ。昇任試験も受けず前線に残ったのも…こんな馬鹿には警告など解からんよ

きっと安本は周太と馨をとりまく闇に気づいた、遠野教官も気づいたように。
ふたりとも周太の「新宿署卒配」と「卒配期間の特練選抜」そして「卒配期間の術科大会出場」に違和感を持った。
この3つの異様さは全て「拳銃」に関わっている、特に「新宿署」に卒配されたことがあざと過ぎる。
新宿署はかつて馨が卒配され、そして最後に射撃指導を行った後に、狙撃され殉職した場所だから。
そして新宿署には馨に関わった人間が、何人も現時点で配置されている。

馨と周太、そして拳銃。この繋がりと上層部の意図は何だ?

その疑問を抱かれても仕方ない、その裏付けが今レンズを向ける書面からも昇りだす。
さっき安本に教えられたばかりの弔問客と所属の、大半がある1点に集中していく。

警備部警備第一課
捜査一課特殊犯捜査第1係、特殊犯捜査第2係
第六機動隊銃器対策部隊、第七機動隊銃器対策レンジャー部隊、第八機動隊銃器対策部隊

―どれもが、「銃」だ

銃火器のプロフェッショナル集団、その組織名が列挙されていく。
こんなにも銃火器に囲まれての葬儀だったことが、馨を取巻いた状況を思い知らされる。
そして彼らを統べる立場にいたのは「あの男」、当時80歳を超えていた1人の老人だった。

―…最後は神奈川県警の本部長だった…射撃大会で何度か見てるんだ。全国大会と警視庁の大会と、両方でよく臨席していた人だ
 優勝常連者の湯原を知っていたのは不思議は無い…通夜に来たのか不思議だった…周太くんに話しかけるのかも不思議で印象的だった

最後は、神奈川県警本部長だった男。

あの春の夜、男は馨の通夜に訪れた。その痕跡は今、レンズ向うの芳名帳に綴られている。
この男の持っていた「鎖」は、今も誰かが組織内で握りしめ、周太のことを見張っているだろう。
この芳名帳に記された名前たちから選んだろうか?それとも、この家と同じよう血縁に鎖持つ手も継いだ?
いずれにしても畸形の連鎖を生み出した「根源」が誰なのかは変わらない。
この家に繋がれた純粋な情熱を、醜怪に枉げた血塗れの手を壊したい。

「…赦さない、あなたのことは、」

微笑んで英二は、カメラをOFFにした。
撮り終えた4冊を封筒に元通り入れ、仏壇下へと戻し入れる。
静かに引戸を閉じて経机の位置を整えると、今度は床の間の前に片膝をついた。
その膝元に切られた正方形に、取りだしたメジャーを当てると1辺を計り手帳に記録する。
書き終えて手袋を外し、メジャー達とミリタリーパンツのポケットに納めると、英二は床の間を振向いた。

光ふる床の間に、紅萼紫陽花が静かに咲いている。
家に帰って着替えて、ふたり庭を散歩しながら、この赤い花を摘んだ。
花を映した黒目がちの瞳は穏かで、ふりそそぐ木洩陽の緑ゆれる髪は爽やかに香しかった。
なにげない光景、けれど幸せなひと時が優しくて、ずっと愛しいままに隣を見つめていたかった。
この願いのまま祈るよう唇から声は、静かに零れ微笑んだ。

「周太、花と木を見つめて生きてよ?…ほんとうに好きな世界で生きていてほしい、」

いま周太は、父の世界を見つめて向合っている。
それと同時に植物学の世界に夢を見始めている、警察学校にも専門書を持ちこむほどに。
この2月に再開した樹医から贈られた、青い表紙の学術書は今、周太の大切な宝物になっている。
いま通っている公開講座も楽しみにして、通学した日の電話は声のトーンも明るんで喜びが温かい。
そんなふうに笑ってくれる電話が本当は嬉しくて、その世界に生きてくれたらといつも願っている。

「でも周太、君は止めないね…お父さんと自分の誇りを懸けて、」

静かな呟きに、英二は深紅の花へと微笑んだ。
この花を斗貴子も見ていたのだろうか?馨も花を活けただろうか?
考え廻らしながら立ち上がり、テラスの障子戸を引き戻す。静かな木擦れの音に閉じられて、白い紙に木蔭がゆれる。
ゆらめく影絵の明滅がひるがえる、すこし風が出てきたらしい。この梅雨時ならば、風に雨雲は呼ばれるだろう。

―今夜は、雨か、

それでも夕月は見えるかもしれない、そんな予想をしながら扉を開いて音も無く廊下に出た。
そのままリビングへ入って、書棚から1冊取りだすと英二はソファに腰を下した。

めくる頁にはドイツ語が並んでいく。
もうセピア色が入りかけた古い紙、そこに綴られていく単語を拾い読んでみる。
何げなく手にした本、けれど読みとるアルファベットの意味に、心が傷みだした。

Eine Kanone、Unterseeboot、Handwaffe

並べられる軍事用語に、ため息がこぼれてしまう。
この本はきっと敦のものだった、それを単語たちが示して切ない。
このページを捲り懸命に学んだ痕跡が、ほら、いま指先に触れる微かな指痕に見えている。

―なぜ?

なぜ、こうならなくてはいけなかった?
なぜ努力の報いが凶弾なのだろう、どうして運命はこの家を銃火に燃やし尽くす?
そんな疑問がページから昇って息が詰まる、大きく呼吸して英二は本を閉じると書棚へ戻した。
そのとき階上で扉が開き、母子の声が階段を降りてきた。

「ケーキね、3種類あるんだ…オレンジのと、ブルーベリーのチョコレートケーキ、レアチーズ…どれが良い?」
「お母さんには、チョコレートのつもりで買ったでしょう?」
「ん、あたり…」

楽しげな会話が聞えて、ゆっくり扉が開かれた。
そして周太の母は微笑んで、英二に声をかけてくれた。

「お待ちどうさま、英二くん。テラスで話しましょうか?」
「はい、」

笑って廊下へと向かう視界に、彼女の白い手が映りこむ。
その手は大切そうに穴が開いた手帳を胸に抱いていた。

あの手帳について彼女は、話してくれるのだろうか?

そんな考え見つめながらホールをまた横切って、南西の部屋に入っていく。
障子戸ゆらめく梢の翳を開いて、それぞれラタンの安楽椅子に腰かけると彼女は、笑ってくれた。

「英二くんの話は、周との学校生活のこと?」

ほら、やっぱり彼女はお見通しだ。
やっぱり敵わない、素直に微笑んで英二は潔く頷いた。

「はい。お母さんにだけは謝りたくて、今日は帰ってきました。学校でも俺は、夜も周太を離せません、」

言った言葉に、快活な黒目がちの瞳が微笑んだ。
明るい愉しげな瞳が見つめてくれる、その瞳へと英二は率直に事実を告げた。

「警察学校では恋愛禁止の規則があります。だから俺は、初任科の時は周太に何も言えませんでした。でも、今は我慢しません。
もうじき俺と周太は離れることになります、だから今、一緒にいる時間は一番大切なことに使います。触れられる限り触れています。
この大切な時間を俺は離しません、何より警察の規則に邪魔されたくはないんです。こんなの子供っぽい意地かもしれないけれど、」

小さくため息吐いて、目の前の瞳を見つめる。
どうぞ話を続けて?そんなふう見つめ返してくれる瞳に英二は正直に微笑んだ。

「お母さん、俺は今、警察組織を憎んでいます。お父さんを追いこんだこと、周太を利用しようとすることが赦せません。
そんな組織の規則に、全ては従いたくありません。こんなの警察官として失格だろうと思います、でもプライドが折れません。
たとえ法の正義と言われても、ひとりの人間を不幸にして護る正義なんて俺は信じられません。俺は自分の信じる道に生きたいです。
だから今も、俺は学校のベッドでも周太を抱いています。後悔なんてしません、けれど周太を悩ませています。だから謝りに来ました」

こんな身勝手な自分を、彼女は何て想うだろう?
そう見つめた先で、黒目がちの瞳は穏やかに微笑んだ。

「いつも周は、微笑んで眠ってる?」
「はい、」

短い答えに英二は正直に頷いた。
そんな英二に黒目がちの瞳は愉しげに笑って、穏やかな声は言ってくれた。

「ありがとう、あの子を幸せな瞬間に攫ってくれて、」

言葉が英二に微笑んで、快活な瞳が見つめてくれる。
ゆるやかな木洩陽ふるなか微笑んで、彼女は続けてくれた。

「私も警察の規則は大嫌い。英二くんと同じ気持ちだったわ、周の父親と一緒の時間はいつも、」

微笑んだ声、けれど告げる想いは静かに激しい。
この静穏な怒りは自分と「同じ」だ、まるで合わせ鏡のよう向き合う想いに、彼女は微笑んだ。

「今も、心から警察の組織を憎んでるの。こんなの警察官の妻として母として、失格だろうけど。でも大嫌い、私の宝物を壊すから。
生真面目で誠実すぎる人を、いつも規則で縛って私から攫ってしまう。そして、最期は命まで奪ったわ。もう逢えなくされてしまった。
だから警察の全ては信じていないの、だって、いちばん大切なものを私から奪って、今度は周まで連れて行くわ。だから大嫌いなの、」

穏やかな微笑んだ声、けれど黒目がちの瞳ひとすじ涙がこぼれた。
窓の光に頬の軌跡が輝く、光の跡を見せながら彼女は愉しげに微笑んだ。

「英二くん、やっぱり私とあなたは共犯者ね?」
「はい、」

やっぱり彼女には敵わない、そして改めて彼女を好きだと想ってしまう。
こんなふうに笑って本音をぶちまけて「共犯者」と言われたら、もう絶対に裏切れない。
その想いのまま英二は正直な告白をした。

「お母さん。俺は周太と離れることが怖くて、俺…周太と心中しようとしました。眠っている周太の首に手を掛けました。
本当は俺、こんなに卑怯で弱虫です。周太に嫌われたくないから頑張ってるだけ、周太がいなくなると思うと簡単に崩れます。
お母さんの大切な周太を勝手に独占めして、死のうとしました。お母さんとの約束を破って、お母さんより先に周太を…死なせようとして」

声が熱くなって、喉にひっかかる。
それでも一息に告げて英二は、周太の母を真直ぐ見つめた。
もう怒鳴られても、引っ叩かれても仕方ない。覚悟と見つめた先で、けれど彼女は可笑しそうに笑いだした。

「困ったわね、英二くん?ほんとに私と英二くん、同じなのね?そっくりだわ、」
「…え、」

どういう意味だろう?
解からなくて見つめている先、彼女はより意外な言葉で微笑んだ。

「お願い、今、懺悔させてね?」

― 懺悔?

意外な言葉に呆気にとられてしまう。
驚いたまま見つめている先で黒目がちの瞳は微笑んで、彼女は教えてくれた。

「私も本当は、あの人を殺して一緒に死のうとしました。周がお腹にいる時よ、だから私の方が罪が重いわ、」

そんなことを、この人が?

この明るく強い女性が、そんな真似をするのだろうか?
予想外の懺悔に佇んでいる英二に、周太の母は笑いかけた。

「周の誕生日に独り言で言ったでしょう?あの人の仕事が何か気づいていた、って。それに彼が苦しんでいる事も知っていたわ。
だからね、周をお腹に授かって結婚して、いちばん幸せな瞬間のまま一緒に死んでしまえたら、あの人を救えるかもって考えたの。
そして私をいちばん救えると思ったわ、愛している人と愛している人の子供を抱いて死ねたら、もう離れなくて済む。そう思ってね、」

―俺と同じだ、

心に納得と、なにか温かい想いがこみあげていく。
彼女は両親を早く亡くし天涯孤独だった、そんな彼女にとって出逢った馨との幸福はどんなに救いだったろう?
ようやく掴んだ幸せと愛情に命懸けても「離れたくない」と願う、それを責めることが出来るとしたら幸福に傲慢な人間だ。
きっと彼女は自分以上に温もりと哀しみを抱いている、この理解と見つめる英二に穏やかな声は話してくれた。

「睡眠薬を買いに行ったのよ、私。あのひと、眠る前にホットミルクを飲む癖があったの。それに入れようと思って。
それで夜、ホットミルクを作って、入れようと思って蓋をあけようとしたらね、お腹をトンって周がノックしてくれたの。
すごく優しいノックで、手が止まったわ。そうしたらまたトンッって周が叩いてくれてね、それが初めて周が動いた時だった、」

生命を絶つと決意した、そのとき命の鼓動が呼応する。

それは母子にとって初めての対話だったろう。
家族の想いを懸けて、生命を廻らす分岐点に佇んだ瞬間に、母子は初めて心を通わせた。
その瞬間を語る黒目がちの瞳は、懐かしい幸福の瞬間を見つめている。まばゆいよう微笑んで彼女は続けた。

「やさしい温かいノックで、周は私のことを止めてくれたの。それで涙が出てきて、止まらなくなっちゃって。
キッチンで泣いていたら、あのひとが来てくれたの。すぐ薬瓶に気がついてね、中身を全部トイレに流しちゃったの。
そして抱きしめて言ってくれたわ、どうか生きて幸せになって下さい、絶対に生きて子供を生んで、幸せに育ててほしい、って」

見つめる先、ゆるやかに瞳は水を漲らす。
ゆっくり涙ひとつこぼれて、彼女は綺麗に笑ってくれた。

「あのとき約束をくれたから、だから私はあのひとが亡くなっても、生きて周太を育ててきたの。だから、解かるわ?
今の英二くんの気持ちも周の気持ちも、きっと私には解ってる。だから謝らないで良いの、生きて幸せになる決心も同じでしょう?」

ほら、やっぱり解ってくれている、このひとだけは敵わない。
こんなふうに全て赦して受け留めてくれる、この存在があるから自分は立っていられる。
この強く深い懐を抱く人へ、英二はきれいに笑いかけた。

「同じですね?俺たち、やっぱり共犯者ですね、お母さん、」

こんな共感は、本当は無い方が幸せだろう。
けれど、ここに立たされてしまったならば、共犯者がいたら救われる。
愛する人を否応なく腕から奪われる、裂かれる苦しみと憎しみと、哀しみの狭間に立たされたなら。





(to be continued)

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one scene 或日、学校にてact.14 ―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-31 12:48:45 | 陽はまた昇るanother,side story
約束、言いたくて



one scene 或日、学校にてact.14 ―another,side story「陽はまた昇る」

京王線は思ったより混んでいなかった。
平日なら通勤ラッシュが酷いだろうが、土曜の朝はそうでもない。
外泊日の朝、今日も関根と瀬尾と新宿方面に向かっている。けれど今日はいつもと違う。
今日は、英二が一緒だから。

…初任科教養のとき以来だな、学校から一緒に新宿へ行くの

あの頃は毎週末、新宿へと一緒に出て夕方まで共に過ごした。
本屋に行って、ラーメン食べて、缶コーヒーを買って公園に行く。帰りがけ買物をして、駅で別れる。
それがお決りのコースで、いつも英二が食事をご馳走してくれた、だから自分は缶コーヒーと入園券をお返しして。
そして閉演時間の夕方まで、いつものベンチに座って本を読みながら、缶コーヒーを飲んで時おり話す。
特に何もしない、何を話すわけでもない。けれど穏やかな隣の空気は安らげて、ただ楽しかった。

いつも英二の気配は自分を遮ることが無くて、隣に誰かいても楽だったことは初めてだった。
あのころ学校での英二は賑やかな方で、けれど寮の部屋で2人きりになると物静かな空気に変わる。
それは外泊日の時間も同じで、適度な会話は温かで楽しくて、穏やかな深い森に似た静けさが心地よかった。
そして、ひとりじゃない事が、隣に誰かいることが幸せだと教えらえれた。

そんなふうに2人過ごして実家に帰った夜は、ベッドが広く感じて不思議だった。
小さい頃からずっと使っているベッドだから馴れているはず、それなのに「広い」のはなぜ?
狭く感じるのなら自分の成長の所為だろう、けれどその逆だなんて?まさか自分が小さくなった訳でも無いのに?
やっぱり「寮のベッドが狭いから」だろう、そう結論付けていた。今なら本当の「広い」理由が解かるけれど。

外泊日、ふたり過ごせる時間が嬉しくて、夜は広いベッドが不思議で寂しかった。
ふたりでいる喜びと、ひとりでいる寂しさを心が知っていく時間だった。
そんな外泊日の最初の時に英二は、恋に墜ちたと言ってくれた。

…全然、気付かなかったな?

あの時は、楽しかった。
あんなふうに目的もなく誰かと出掛けることは、初めてだった。
朝から夕方まで、一日をずっと誰かと過ごして楽しかったことは初めてで、それが不思議だった。
ただ楽しくて嬉しい、そんな気持ちで過ごしたあの日に、英二が恋してくれたことは気付かなかった。
そもそも「恋」という感情すら自分はよく解っていなかった。

…でも、いちおう9歳の時、光一のこと好きになっていたんだよね

小学校3年生の冬、雪の森で光一に出逢って、初めて恋をした。
まだ男と女の区別もよく解からない時だった、男同士で恋することも不思議に思わなかった。
ただ、初めて両親以外の人を心から好きになれて、嬉しかった。家族以外と一緒にいて楽しいことが幸せだった。
あの頃の自分は「男なのに変」と言われることが増えて、それが哀しくて両親以外と話すことが怖くなりかけていた。
けれど光一は「俺は好きだね」と全てを肯定してくれた、それが嬉しくて幸せで、一緒にいることが楽しくて時を忘れた。

きっと、あのとき光一が受けとめてくれなかったら、自分は他人と話せなくなった。
いつも「男なのに変」と言われるたび傷ついて、自分自身を否定してしまう痛みに壊れたかもしれない。
けれど、あのとき光一はストレートに「大好きだ」と言ってくれた、それが呼び水のよう「この人を好きだな?」と自覚できた。
そして好きな人に「大好き」と言われることが嬉しかった、こんな自分でも「大好き」と言って貰えることが自信になった。
だから自分を否定しないでいられた、こんな「男なのに変」な自分でも良いのだと、素直に想えたことが温かく嬉しかった。
あのときの気持ちを今は想い出している、でも初任科教養の頃は記憶ごと喪っていて、自分が初恋をした事すら忘れていた。

それでもきっと、心は初恋を憶えていた。
だから初めての外泊日のときも、どこか心舞うよう楽しい気持ちに自然と成れていた。
ただ一緒にいることが嬉しくて楽しい、その感情の理由は解からないけれど、それでも優しい時間だった。
あの優しい「ふたり」の時間は、9歳の雪の森と似ていて少し違う。その違いは「寂しい」こと。
離れているとき、光一とは次に逢える時を楽しみに想うだけだった。けれど英二とは離れると寂しかった。
あの初めての外泊日も寂しくて、そんな自分に途惑った。それも大切な記憶になって英二への恋が育ってくれた。

けれど思い出してしまう、あのときシャツを買ってもらった直後のことが今も痛むから。
あのとき英二の元彼女に偶然会った、あの彼女の声と表情が哀しくて、そんな貌をする理由も解からなくて。
それより哀しかったのは、あのベンチで話してくれた英二の貌と涙だった。

―…さっきの泣いていた女。あれが、この間の元彼女。前はさ、昔の女に会って縋られても、軽く躱していたんだ
 相手に未練があろうが関係ない。相手の気持ち考えないから、平気だった…会えば傷つけるの解っているから、顔見たくなかった

英二自身を嘲るような笑顔が、どこか冷たくて遠い人に思えた。
けれど最初に出逢った頃の「仮面」とは違う、その違いが何か嬉しかった。
どうして嬉しいのか解らなかったけれど、ただ「今の方が良い」とだけ自分は伝えた。
そして今、改めて思うのは「前は昔の女に会っても」の所にひっかかる、それが尚更に哀しい。

…きっとね、これは嫉妬

嫉妬なら光一にしたことがあるけれど、あの感覚とは少し違う。
相手が誰か解らないし、何人なのかも解からない。けれど相手の誰もが「女性」なことが大きい。
もう過去だと解ってはいる、英二が自分を想ってくれていると解っている、けれどコンプレックスが軋んで痛い。

…女の人だったら、子供を生めるかもしれないのに…英二の子供を、抱っこ出来るのに

心裡の想いに溜息こぼれてしまう。
自分が男であることを嫌だとは思わない、けれど英二の「妻」としては男性であるとマイナスが多い。
まず正式な婚姻が出来ない、養子縁組の形しか取れない。社会的容認がされ難いから英二の進路に影響する。
そして何より、子供を授かる可能性が0%だということが、哀しくてならない。

…ほんとうは英二の子供が欲しい、自分が生みたい…愛して、育てて、家族になりたい

こんな願いを自分が抱くなんて?

こんなこと誰かに思ったことが無かった、けれどもう想っている。
もし自分が女性だったら、英二の子供を授かることが出来たかもしれない。
そうしたら英二の母だって素直に認めてくれやすい、彼女に孫を抱かせて、彼女の孤独を和らげてあげられた。
もし、それが叶うのなら、もう、父の真相を辿ることすら自分は止める。

父を亡くして14年間、全てを懸けてきた「父の軌跡を辿る」事は、自分が生きることを赦す理由だった。
けれど、もしも英二の子供を自分がこの世に送りだせるなら、その道を迷わずに選んで生きていたい。
この14年に積み上げた努力を無にしても良い、英二の子供を選びたい。そして新しい幸福を贈りたい。
愛する人の命を授かる、その可能性が自分にあるのなら、過去の死より未来の生命を抱きしめたい。

けれど、これだけは努力しても、どんなに祈っても叶えられない。
だからこそ過去の女性にまで嫉妬してしまう、こんなこと仕方ないと解っているのに?
昨夜も英二は愛してくれた、もう幾つの夜を愛しみ慈しんでくれただろう?それなのに自分は子供を生めない。
どんなに愛してもらっても、その想いを結晶させて「子供」を贈ることが自分には出来ない。

そんな自分は、どうしたら英二の想いに応えられるの?

女性だったら、英二の愛情を生命に変えてこの世に残すことが出来る。
それが自分には出来ない、こんなに愛しているのに、想っているのに、本当に何も出来ないの?
それでも好きな人の子供を抱っこしたい、英二の心と命を新しい生命に残したい。そんな叶わぬ願いを抱いてしまう。

…こんなこと考えたこと無かった、英二とこうなるまで…こんな哀しいこと知らなかった

英二と出逢って、たくさん幸せを与えられて、嬉しくて。
ずっと抱え込んだ孤独も哀しみも熔かされた、隣に誰かがいる幸せを教えてもらった。
けれど、こんな哀しみも教えられた。解決方法など見つからない、努力も叶わぬ願いを抱いてしまう痛みを知った。
もう婚約する時に覚悟して、温かい家庭を贈れたら良いと決めた。それなのに愛されるほど願いは募って、哀しみ深くなる。
この傷みと哀しみに、英二に抱かれた全ての女性に対して嫉妬の苛立ちが起きてしまう。

なぜ、子供を生めるのにそうしなかったの?
どうして快楽だけ求めて、あのひとに愛を与えてくれなかったの?
それならその体を自分が欲しかった、子供を生める体を自分にくれたら良いのに?

こんな願いは自分勝手、そう解っている。
こんな願いを抱くことは命と体を与えてくれた両親への裏切り、こんな自分が赦せない。
けれど想ってしまうことは止められなくて、ほら、今もまた嫉妬が血で廻って全身を灼きそうになる。
どうしようもないと解っているのに止まない、この想い密やかに沈みかけていると、関根と話す瀬尾の言葉が聞えた。

「うん、明月院は有名だけど混むんだ。でもね、奥の菖蒲園は別料金だから行く人も少なくて、綺麗な庭だからお薦めだな。
あとは東慶寺の紫陽花も、珍しい種類が色々あって綺麗だよ。でもね、縁切寺って別名があるから、デートにはどうかなって、」

…あ、東慶寺って「女の人の縁切寺」だよね?

もし自分が行ったら、英二の過去の女性関係を気にしないようになれる?
子供を生めないコンプレックスから過去にまで嫉妬する、そんな弱い心と縁切り出来るかもしれない?
そうなれたら良いなと想ってしまう、子供が生めない事は仕方ないけれど、せめて嫉妬だけでも絶ち切りたい。

それから菖蒲園は小さい頃に行った記憶がある、とても静かな良い庭で、好きだと思った。
優しい父と母の愛情だけが世界の全てで、こんな嫉妬も哀しみも知らず幸せだった時。
あの頃のような幸せだけの時は終わってしまった、けれど今、こんな想いまで抱くほど愛する人がいる。
あの場所に愛する人と佇んだら、どんなふうに花は見えるだろう?

…英二と一緒に行けたらいいな、

静かな空気のなか一緒に花を見たら、きっと嬉しいだろうな?
あの緑あふれる庭園で、もう一度だけでも良いから清々しい空気にふれてみたい。
連れて行ってと言ってみようかな?そんなことを考えている前で、関根と瀬尾が楽しげに戯れ合いだした。

「なんだよ瀬尾、てめえ何が言いたいんだよ、こら、」
「あはは、やめてよ関根くん、こんなとこでヘッドギアは無しだって、」

車内の片隅で関根と瀬尾は、笑いだした。
この2人は仲が良い、生い立ちは見事に正反対だし雰囲気も全く違うのに気が合っている。
こういう友達関係は楽しいだろうな?思いながら周太は英二に笑いかけた。

「鎌倉、俺も小さい頃に行ったことあるよ?紫陽花のときも…明月院の奥の庭、行ったことあると思うんだ。すごく綺麗だった、」

…また行きたい、今度は英二と一緒に

そんな気持ちのまま口にして、周太は婚約者を見上げた。
きっと英二は言わなくても解かってくれるだろうな?そんな期待の先で綺麗な笑顔は言ってくれた。

「周太、近いうちに鎌倉、行こうか?平日に休みが合う時なら空いてるし、」
「ほんと?」

ほら、やっぱり解ってくれた。
嬉しくて微笑んだ周太に、英二は約束の予定を贈ってくれた。

「うん。来月なら紫陽花も少し残ってるだろ?もう許可も出るから車で行ってもいいしさ、海も行けるよ?」

警察学校に入校すると運転免許証は預け、車両の保有は初任総合科が終了するまで出来ない。
けれど来月なら初任総合が終わって、自動車の保有も運転も許可されるから、英二の提案通りに出来る。
そして、自分が車で海に行ったのは、もう14年前だろう。あれは父との最後の海だった。

…確か鎌倉の海と、三浦の海で桜貝を拾ったんだ…

あわい紅色の、うすい貝殻は本当に桜の花びらのようで。
1月の晴れた海辺は小春日和に温かで、時を忘れて海の桜を集めた。
きれいな小瓶を父は持ってきてくれていた、たくさん拾って瓶に詰めて、大切に宝箱のトランクにしまって。
あの貝殻たちは今も、トランクに納めた綺麗な木箱のなかに、あのときのまま眠っている。
あのときのように貝殻を拾えたらいいな?素直に微笑んで周太は、婚約者に頷いた。

「海、良いね?もう随分、行ってない…行きたいな、」
「じゃあ決まりな、またシフト出たら教えて?あと行きたいところあったら、言ってくれな、」

行きたい所なら、あるな?
幸せに微笑んで周太は思ったままに口を開いた。

「ん、あのね、東慶寺に行ってみたいな…珍しい紫陽花も見たいし、」

あの寺には、深紅の紫陽花があるはず。だから尚更に行ってみたい。
あの「縁切寺」で女性たちへの嫉妬を断ち切って、あの写真で見た深紅の花を見つめたい。
英二がモデルを務めていた頃の、雨と花に抱かれた姿を写した場所に佇んでみたい。

“ Lover of PLUVIUS ” Hydrangea

雨の神の恋人、紫陽花。
そんな題名が付けられた写真だった、きっと英二が15歳くらいの頃の写真だろう。
雨のなか深紅の紫陽花を髪に飾った姿は、本当に雨ふる神に愛されるよう綺麗だった。
だから同じ場所で英二を見てみたいと、あの写真集を見た時から想っていた。

…新宿に着いたら、本屋で確認してみようかな?

あの写真集は人気があるから、たぶん駅の本屋にもあるだろうな?
それを見て、撮影場所を確認して、そして英二に気持を言えたら良いな?

あなたの笑顔が、世界で一番きれい

たとえ花が無くても雨が無くても、きっと一番に美しい。
あなたの笑顔は何処にいても輝くことを知っているから、だからそう思えてしまう。
この笑顔を少しでも多く見たくて、自分は叶わぬ願いに泣くようになった。この哀しみは苦しい、けれど笑顔の喜びが勝ってしまう。

そんな笑顔のあなたは自分にとって、なにより大切で美しい。




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soliloquy 風待月act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-30 21:18:57 | soliloquy 陽はまた昇る
記憶、香たちの聲



soliloquy 風待月act.5―another,side story「陽はまた昇る」

窓の向こう、ゆるやかに暮れる空の雲は黄金いろ。
まだ青い中天を仰ぐよう薄紅が空を藤色に染めていく、もう金色の太陽は眠りの支度を始めている。
あざやかな黄昏が少しずつ空を浸しだす、透明な色彩たちが天をひろやかに彩らせる。
けれど、雲が微かにくすんで見えるのは、きっと夜来の雨があるのだろう。

…夜中は雨かな?でも、夕月は見られるかな

いま、風待の月、まるい実を灌ぐ雫に空は水無しになる月。
だから雨降ることが季節の姿だと、遠い記憶に聴いた。
ふるい幸福だった時間の声、香、そして笑顔が懐かしい。

ことと、こととっ…

やさしい音が、サイフォンから香りだす。
ほろ苦く甘い馥郁が瑞々しい梅に織られていく、ほら、ふるい記憶が香に微笑みだす。
手許は竹串を動かし、まるい実からヘタを外していく。この今みたいにコーヒーを淹れながら梅を整えた、幼い日が懐かしい。

『周、実はやさしく持つんだよ?指の跡を付けないようにね…あと、実を刺してもダメだから、そっとね、』

ふわり、父の声が記憶から微笑みかける。
この季節の休日、晴れた日に梅の実を摘んで、こうして台所の椅子に座って父と手仕事をした。
母が好きなコーヒーを淹れながら、サイフォンの音をオルゴールにして、父の話してくれる異国の物語を聴いていた。

ケルト神話、グリム童話とアンデルセン童話、ローマの神々の物語。それからマザーグースの歌、ワーズワスの詩。
懐かしい遠い物語や詩を聴きながら、ここに座ることが毎年の楽しみだった。
あの優しい時間はもう、戻らない。

けれど今は、訪れてくれた幸せな笑顔がある。
父の合鍵を胸に提げて、この家の扉を開いて、母と自分の時を温めてくれる人がいる。
だからもう、戻らない時間に哀しむことはしない。

「周太、手伝えることある?あ、梅の実をきれいにするんだ?」

ほら、きれいな笑顔が笑いかけてくれた。
この笑顔のために今、サイフォンは動いてくれている、それから母の為に。

「ありがとう、英二…でも、もうじきコーヒー出来るから、お茶にしよ?」

笑いかけて竹串を置き、梅の実を籠に入れる。
ほら、サイフォンの音が止まる。そうしたら今の幸せを3つ並べたマグカップに充たす事が出来る。
ふるい懐かしい記憶のなかもマグカップは3つ並んでいた、その1つは今は戸棚に座っている。
紺青色のマグカップの持主は今、姿を見れず体温も消えてしまった。

『周、コーヒーが出来たよ?…蜂蜜たくさん入れて、ミルクもたっぷりにしようか?』

やさしい穏やかな低い声、ほろ苦く甘く深い香、異国の物語と詩の時間。
もう戻らない遠い日の風待月、梅雨の晴れ間の休日、きれいな笑顔。
あの幸せを喪った瞬間は、もう世界が滅んだのだと想った。

喪った。

その現実の哀しみに心は壊れて、記憶ごと笑顔は封じ込まれて消えていく。
そうして残された父への想いに辿り始めた、孤独への道と真相を探す挑むだけの日々。
けれど今はもう笑いかけてくれる人がいる、その笑顔の温もりが孤独の氷壁を熔かしてくれた。
そして蘇えった大切な記憶と心は、今、幸せに温かい。

…たくさんの幸せを、ありがとうございました

ただ懐かしく、温もりを思い出しては記憶への感謝が、あまやかに優しい。



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第53話 夏至act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-08-30 19:58:44 | 陽はまた昇るside story
ひとすじの赤、時超える祈りに呼ばれて



第53話 夏至act.4―side story「陽はまた昇る」

周太の勉強机には、4通の書類が広げられた。
戸籍全部事項証明書が1通、この戸籍の平成改製原戸籍を1通、それから紙面タイプの除籍謄本を2通。
これらの書類を取得することが、区役所での周太の用件だった。この幸運に英二は微笑んだ。

―この書類を見たかった、

こうした戸籍証明の請求は、戸籍に記載されている者の直系であれば出来る。
けれど英二には湯原家の戸籍証明を請求する権利は無くて、歯痒く思っていた。
もちろん弁護士などの資格者を通せば請求取得できる、けれど、そこまでして怪しまれることを避けたかった。

―運命は、味方してくれてる。そうですよね、お父さん?

証明書に記された名前に、そっと英二は微笑んだ。
いま机の上で、周太から馨、晉、敦までを4通の書類は途切れなく繋げられている。
きちんと周太は勉強をして書類を揃えたのだろう、けれど、この目的は何だろうか?
こうして一連の書類を周太は取得した、その理由と意図を考えながら英二は黒目がちの瞳へ微笑んだ。

「ちゃんと全員が繋がるように請求してあるな、周太、」
「ほんと?…抜けているのとか無いかな、改正があったからそれも貰ってきたけど…」

心配そうに見上げてくれる貌が、頼ってくれていると解って愛おしい。
微笑んで英二は書類を手に取ると周太に尋ねた。

「川崎は電算化されたの、平成19年?」
「ん、そう…お父さんが亡くなった後だった、ね、」

答えながら頷いた顔が、寂しげになった。
戸籍全部事項証明書は同一戸籍内全員の身分関係を公証し、電算化されていないものを戸籍謄本という。
この電算化以前に死亡等で除籍された場合は全部事項証明には記載されない。
だから馨も戸籍全部事項証明では「周太の親」としか記載は無く、馨自身の記載は抹消されている。
これでは馨の存在が希薄に見える、このことが周太の寂しさの原因だろう。英二は優しい婚約者に笑いかけた。

「改正前に亡くなった人のことも載せたら良いのにな、元の戸籍通りにさ。なんか寂しいよな、」

言葉に、黒目がちの瞳が「どうして言わないでも解かるの?」と尋ねてくれる。
そんなふう目で問いながら嬉しそうに周太は微笑んでくれた。

「ん、そうだね?…ありがとう、」
「思った通りに言っただけだよ、周太?」

さらっと笑って英二は、机に広げた書類へと目を落とした。
その視線の先、いちばん古い除籍謄本に予想への答えを見た。

湯原 敦  出生地 山口縣阿武郡萩町
妻 紫乃  出生地 山口縣阿武郡萩町

―やっぱり山口…長州藩だ、

長州藩は明治維新後、政権を握った派閥であり陸軍創設に関わっている。
この長州で砲兵指南を務める家だったと光一が調べてくれた、その可能性を「出生地」が裏付ける。
砲兵指南は銃火器の専門職であり、その時代ごと最高の軍事技術者として勤めてきた。
その世襲を、この家がしてきたという事実は今、馨と周太の立場からも頷けてしまう。

やっぱり「銃の連鎖」は、何世代にも亘ってきた?
この連鎖は途切れなく絡まりつき、時に犠牲を捧げながら護り繋ぎ、紡がれた?

「曾おじいさん達、山口の人だったんだ…ね、英二?」

黒目がちの瞳が見上げてくれる、その眼差しは幸せが優しい。
ずっと知りたかった自身のルーツを1つ探しだした、その素直な幸せが笑っている。

―でも、このルーツがお父さんを追いこんだんだ…

14年前の哀しい連鎖反応を惹き起した、家のルーツ。
その相関を知ったなら周太は、一体どれだけ傷ついてしまうのだろう?
出来るなら永遠に知らせたくない、そっと秘匿の覚悟を想う隣で周太は、嬉しそうに言葉を続けた。

「それなら夏みかんの砂糖菓子も、山口のものかな?…あの夏みかんの木、曾おじいさんが植えたっていうし、」
「うん、そうだな、」

微笑んで頷いた英二に、明るい瞳が幸せに笑ってくれる。
嬉しそうな瞳の笑顔で、周太は教えてくれた。

「俺の親族って、お母さんしかいないでしょ?他に誰もいない…だから自分のルーツみたいなのだけでも、知りたかったんだ。
それに俺、この家に残っている習慣とか好きだから、それが何所から来たのかも知りたくて…きっと、どれも山口から来たんだね、」

その通り、どれも山口から来たことを、既に自分は知っている。
祝膳の甘い澄し汁も、丸い漆塗りの人形も、夏みかんの樹と砂糖菓子も、きっと敦夫妻が大切に山口から持ってきた。
そのとき敦が抱いていた想いは、故郷を後にしても「家の本分」を全うする明るい責務だけだったろう。
だから敦も想像すらしていない、この家の本分が「銃の連鎖」が畸形化していく事を、いったい誰が想像出来たろう?

明治維新、敦が生まれた時代。
あの時代は、この国の転換期であり近代日本創世の時だった。
その新しい時代に立って敦は、ふるさと萩を愛しながらも川崎へ居を移した。
きっと、自家に伝わる銃火器の知識と能力を、新時代に活かすことが責務だと誇りをもって生きていた。
そのために近代の洋式技術を学び、望まれて川崎に移転し、ここで自分の才能と家伝の知識経験を以て勤めていた。

敦の心にあったのは純粋でひたむきな情熱。そんな性格は周太に、馨に晉に繋がっているから解かる。
新しい国家の為に、「家」の誇りの為に、自分の才能と時間の全てを懸けて敦は川崎で生きることを選んだ。
それなのに、その情熱の報いは「50年の束縛」哀しい畸形の連鎖を生み出すことだった。
この現実を敦は今、いったいどんな想いで見つめている?

―切ない…赦せない

赦せない、こんなことは。
こんなふうに純粋な想いが覆される、この切なさが胸を締め上げて痛い。
この痛み閉じ込めた微笑で机上を眺めている、その隣で周太は晉の除籍謄本を広げた。

湯原 晉  出生地 神奈川縣橘樹郡川崎町
妻 斗貴子 出生地 東京府東京市世田谷区

そう記された書面のなかに、英二は哀しみを見た。
あの紺青色の日記に記された哀しみの記憶、あの事実がこの書面に証される。

死亡地 フランス国パリ市第5区

晉はパリ第三大学で殺害された、その事実が一通の除籍謄本に明かされた。
もう馨の日記から教えられていた事実、それが今、現実に公証されて突きつけられる。
こうして見れば改めて心は軋む、たとえ知っていたことであっても「殺害」は嬉しくない現実だから。

けれど、どうして、この家は3代続けて「殺害」された?

馨は他殺に見せた自殺幇助だった、それでも「殺害」であることは変わらない。
同じ殺害でも敦の場合は「殺す目的」が見え隠れする、それは第三者の意図による「教唆」の可能性が昏く影おとす。
そして晉の「殺害」は親友による無理心中だった、けれど、ここにも教唆の可能性を考えさせられてしまう。

―お祖父さんの友達と、あの男の接点はあるだろうか?

無い、とは言い切れない。
あの男と晉は学部違いでも大学の同期だった、そう馨の日記には書いてある。
それなら晉との共通の友人が存在しても不思議は無い、その友人を介して晉の心中相手に影響を及ぼした可能性は?
そんな考え廻らしながら晉の除籍謄本を見ていく、その視線が一点に止められた。

父  榊原 幸匡
母  榊原 とみ
続柄 長女

―あ、

密やかに息を呑んで英二は、その名前を見つめた。
この姓は恐らく自分は知っている、この3月に見たばかりだから。

「見て?お祖母さんって、世田谷の人なんだね?英二と一緒だね、」

周太が嬉しそうに笑いかけて、意識の片隅が引き戻される。
けれど、見つめる姓名から目が離せない。

―こんなことってあるのか?…でも、

予想外のことに少しだけ混乱が騒ぎ出す。
いま自分が廻らしている推測は正解だろうか?そうだとしたら納得出来ることも多い。
この自分だけではなく父が、姉が、なぜ周太に一目で好意を持ったのか?その理由への説明になるだろう。

「…英二、」

呼ばれた名前に意識が、完全に引き戻される。
戻された意識のなか、カットソーの袖が握りしめられていく。
見つめた先から黒目がちの瞳が見上げてくれる、その瞳に周太が「気がついた」と見取れてしまう。
きっと周太は「死亡地」に気がついた、この予想に微笑んで英二は問いかけた。

「どうした、周太?」
「あのね、俺…お祖父さんが誰なのか、解かったかもしれない…」

告げてくれる今にも震えそうな声が、愛おしい。
ほら、もう周太は気がついたから震えそうでいる、自分の祖父が誰なのか「死亡地」で知ったのだろう。
すこし首傾げて英二は、黒目がちの瞳を覗きこみながら穏やか尋ねた。

「俺にも教えてくれる?」
「ん、」

短く頷いた瞳が、真直ぐこちらを見つめてくれる。
ふっと少し寛いだよう微笑むと周太は、口を開いてくれた。

「あのね、前に俺、おじいさんのこと調べたって話したでしょ?名前と年代で…英二と光一が北岳から帰ってきたときだよ?
あのとき俺、5人いるって答えたよね?それで大学の先生が2人いるって…そのうち1人がね、フランス文学の先生なんだ、」

ひとつ言葉を切って、純粋な瞳が微笑みかけてくれる。
ただ祖父のことを知りたい、家族の物語を探したい。そんな無垢な願いだけが瞳に温かい。
この瞳を哀しませたくはないと心から願ってしまう、祈るよう見つめる先で周太はまた唇を開いた。

「その先生はね、東京大学の仏文学科の教授で、パリ第三大学…ソルボンヌ・ヌーヴェルの名誉教授なんだ。
それでね、この死亡地のパリ市第5区って、パリ第三大学のキャンパスがある場所だと思うんだけど…このひとなのかな?
書斎の本、フランス文学ばかりでしょう?他の本棚もフランスのが多くて、それにお父さんもフランス語を話せたんだ…ね、このひとかな?」

あなたはどう想う?そう問いかけてくれる瞳を英二は見つめた。
この今のタイミングで周太が晉について知ることは、どういう影響があるだろう?
いま絡みつく畸形連鎖の正体、それに周太が気づいてしまう可能性は高まる?それとも現状維持できる?

―あの男は今、生きていたら90歳を過ぎてるな…

安本が教えてくれた14年前の通夜、あのとき男は周太に接触した。
あれ以降、あの男は周太の前には現われていないはずだ。周太が出場した2つの拳銃射撃大会にも、もちろん臨席していない。
あの男の生死については安本も特に言わなかった、けれど「番人」の誰かは50年前の事件を知っているだろうか?
そうだとしても、周太が晉の事跡を知ることが即、50年前と30年前の事件を周太に気付かせることは無い。
それくらい法治の闇底へ埋没させられた、隠された真相なのだから。

だからこそ晉と馨はそれぞれ書残した、いつか真相が必要とされることを祈っていた。
いつか贖罪を遂げて「連鎖」に解放される、その瞬間を見つめて父子は小説と日記を綴ったのだろう。
この真相を統べて知るためには、紺青色の日記以外に見つけるツールは無い。だから晉の事跡を知らせても良い、英二は口を開いた。

「うん、そうだな?これだけ一致していると、その方が周太のお祖父さんだって可能性は高いな、」
「…そう、」

ぽつんと声がこぼれて、周太の瞳に水の紗が張りだした。

「あのね、英二…俺、本当は寂しかったんだ。お母さんと2人きりで寂しくて…だから知りたかったんだ、家と家族のこと」

ぽつり、本音が素直にこぼれだす。
この本音を全て聴いてあげたい、受けとめたい。どうか自分に縋ってほしい、他のどこにも行かないで。
そんな願い見つめる想いの真中で、もう片方の掌でも周太は英二の袖を握りしめてくれた。

「俺、理系でしょ?それで戸籍とか思いつかなかったんだ…でも、警察学校で法律のこと勉強して、戸籍を遡る方法を知ったから。
だけど、俺ひとりは不安だったの…どんな人か解らないし、どんな事実が出て来るかも解からないから…だから英二と見たかったんだ」

握りしめたカットソーの袖を握りしめてくれる、その掌から体温が縋って温かい。
見つめる純粋な瞳から涙は、ゆるやかに愛しい頬を伝って微笑んだ。

「俺のお祖父さん、見つけられたかな?…こんな立派な学者さんなのかな、お祖父さん…庭を奥多摩の森にした人は、この人かな?」

―見つけたよ、この人なんだ、でも全てを教えてはあげられない…ごめん、

恋人の涙を指で拭いながら、密やかな謝罪を心で告げた。
小柄な体を座っている椅子ごと抱きしめる、ふわり黒髪から穏やかな香がふれていく。
近寄せた頬に頬よせて、そっと視線を隠しこんでから英二は、愛する婚約者に笑いかけた。

「うん…きっと、立派な優しい人だったよ、周太のお祖父さんは。たぶん今頃、孫に探してもらって、喜んでるな?」

きっと晉は喜んでいる、そして不安を見つめているだろう。
この純粋な嫡孫が傷つくことを恐れている。晉が犯した罪と陥った罠、この二つに綯われた畸形連鎖への自責に苦しんでいる。
この苦しみを解放してあげたい、必ずこの自分が絶ち切って終わらせる。そんな願いごと英二は恋人を抱きしめた。

―必ず護ってみせる、救けだす…絶対に殺させない、周太だけは

絶対に、殺させない。
もう誰も殺させない、どんな大義名分があろうと、この犠牲はもう赦さない。
もう二度とこの家の人間を殺させない、その為に自分はきっと周太に出逢い、恋をして愛して、ここにいる。

「ありがとう、英二…」

想い籠める腕のなか、優しい涙を湛えた瞳が見上げてくれる。
抱きついてくれる掌が背中で温かい、この温もり護りたい想い見つめる真中で、恋人は綺麗に笑った。

「ね、コーヒー淹れるね?そしたら庭の梅を一緒に摘んで?お菓子やお酒を作るんだ、」

コーヒー、庭、どれも幸せな言葉たち。
この唇からは、こんな言葉ばかりを聴いていたいのに?切ない願いと今の幸せに英二は微笑んだ。

「周太のコーヒー久しぶりだな。梅を摘むのって俺、初めてだよ?」

答えながら英二は、そっと幸せな言葉ごと唇を重ねた。
この今のまま時が止まればいい、そんな正直な願いがこみあげてしまう。
朝、あのベンチで見つめた怒りと挑みかかる想いは、この今も肚底を冷たく灼いていく。
それでも抱きしめた温もりも、重ねる想いも愛しくて壊したくなくて、ずっと時間よ止まれと叶わぬ願いが胸に熱い。
こんな埒も無い願いを自分はずっと知らなかった、このひとに出逢い、この想いに出逢うまで、本当の傷みを知らなかった。

こんなふうに人は、唯ひとつ恋したら、どこまでも弱くて強くなる?

想いに唇を熱で包みこんでいく、ふれる唇こぼすオレンジの香が少しほろ苦いのは、真昼の夏みかんの菓子だろうか?
この家にまつわる夏蜜柑の香が今この瞬間も融けている、この家にきっと自分は「呼ばれた」と、香にすら確信してしまう。
いま見つめる確信に微笑んで、離れて見つめた首筋が薄紅いろに染められていく。

―きれいだ、

ほら、こんなふうに美しい色彩で淑やかに恥ずかしがる。
こんなところが可愛くて惹かれてしまう、本当に腕のなか閉じ籠めていられたら良いのに?
すこし身勝手な愛しさに微笑んで見つめてしまう、この懐に羞んで周太は立ち上がった。

「先に下、行ってるね?コーヒー支度してるから…あまいもの欲しい?」
「お母さん帰ってきたら、お茶するんだろ?そのとき一緒に食べるから、」

彼女が帰ってきたら、話すべきことがある。
話すことを脳裡にまとめながら笑いかけた先、幸せに微笑んで周太は部屋の扉を開いた。

ぱたん…たん、たん、…

扉が閉じてスリッパの足音が遠ざかる、その音に注意を向けながら英二は鞄を開いた。
そして中からコンパクトデジタルカメラを取りだすと、机上の書類にレンズを向けた。
今回は幾つか証拠を撮影したいものがある、だから青梅署に帰ったときカメラを持ってきておいた。
それが思いがけなく今も役に立つ、机上の4通をそれぞれ撮影し終えると英二は再生画面を確認した。

「よし…読めるな、」

これなら細部の文字も読みとれるだろう、微笑んでOFFにすると英二はミリタリーパンツのポケットにカメラを納めた。
それから手帳とペン、メジャーと手袋を仕舞っていく。このパンツはラインが緩くポケットも多いから、道具類を隠し持ちやすい。
これから時間のチャンスを縫って家中の物証を集めていく、そのつもりで今日はこの服を選んだ。
けれど戸籍証明書まで読取り、撮影出来た事は予想外だった。

「ラッキーかな?」

独り言に笑って封筒をとり、丁寧に一通ずつ戻し入れていく。
周太はキスに恥ずかしがって、書類を放りだしたまま行ってしまった。
お蔭で撮影謄写も出来た、やっぱりキスしたのは色んな意味で正解だったろう。
本当にラッキーだったな?考えながら書類を仕舞いながら、その中で最も「予想外」の情報をくれた一通を改めて見つめた。

湯原 晉  出生地 神奈川縣橘樹郡川崎町
妻 斗貴子 出生地 東京府東京市世田谷区  

父  榊原 幸匡
母  榊原 とみ
続柄 長女

―そうかもしれない、やっぱり

3月に分籍手続きをとる時に取得した、宮田家の戸籍証明たち。
もう分籍するけれど自分のルーツを残しておきたくて、あのとき遡れるだけ戸籍証明を取得した。
そのとき見た祖父の除籍謄本には「榊原幸則」の名前があった。

宮田 總司 出生地 東京府東京市世田谷区
妻  顕子 出生地 東京府東京市世田谷区

父  榊原 幸則
母  榊原 妙
続柄 長女

同じ榊原姓、「幸則」と「幸匡」、同じ世田谷区出身。
これらの要素から導かれる解答は「幸則と幸匡は兄弟」が妥当だろう。
これが正答ならば、英二の祖母と周太の祖母は、共通の祖父を持つ従姉妹関係になる。

その場合、英二の父と馨は傍系血族七親等、所謂「はとこ」に当り、その子供同士は傍系血族八親等となり「三いとこ」と呼ぶ。
この三いとこに英二と周太は当たる、けれど法定親族は血族六親等または姻族三親等までだから、法律上の親族関係は無い。
自分から8代前、しかも傍系では普通は親族だと解からない。こんな遠縁だと互いに親戚と知らない方が普通だろう。
もし知るとしたら相続や家系図作成で戸籍を遡るとき位だろう、自分も分籍のとき遡及取得しなかったら解からなかった。
今から1世紀以上前の遠い血縁、それでも英二と周太は共通の高祖父に繋がっている。

―だから血の繋がりは、零じゃない、

とくん、

鼓動がひとつ叩いて、けれど納得が出来てしまう。
馨と周太と、自分の間に血縁がある。そう考えれば馨と英二が似ている事も不思議ではなくなる。
もし自分の推測通りだとしたら、今まで周りから言われたことも、ここに自分が惹かれる理由も道理だ。

―…俺、本当は寂しかったんだ。お母さんと2人きりで寂しくて

さっき周太が告げた想いを、自分が受けとめられるかもしれない?
この自分が周太の血縁者であるならもう、周太は母親以外の親族が遠縁でも存在することになる。
けれどこの可能性は、今はまだ周太に言わない方が良いだろう。今の周太は「親族がいない」方が安全なのだから。
そんな結論を想いながら、そっと肚の底が熱くなった。

―こんな微かな糸を頼って俺のこと、呼んでくれたんですか?

ずっと「湯原家」の直系親族を調べてきた、けれど傍系の血縁関係は盲点だった。
この家に嫁してきた傍系親族は周太の母しか考えに無くて、しかも彼女には親族が無いから視野から外している。
でも馨の母親の実家があった、この係累なら感覚的にも遠くは無いだろう。けれど現在の湯原家にはどの親族からも助力はない。
もう、斗貴子の実家とは交流が絶えて久しいのだろう。

周太の祖母・斗貴子は30歳の若さで早逝した。
その直後に晉は7歳の馨を連れて渡英し、オックスフォードで5年間の研究生活に入っている。
当時は昭和40年代、今ほど連絡ツールも無い時代だから音信が滞っても仕方ない。そして歳月に世代交代してしまった。
半世紀前に嫁ぎ若く亡くなった女性の係累を、忘れたとしても責められないだろう。

―お祖母さんに聴いたら、なにか解かるかな…斗貴子さんのこと、

祖母の顕子は今、葉山のマンションでお手伝いさんと暮らしている。
祖父の死後も同居を断って、気楽な暮らしを邪魔されたくないと世田谷から引越してしまった。
まだ70半ばの祖母なら従姉妹のことを憶えている可能性が高い、もし祖母が「斗貴子」を知っていたら英二の推測は正解だ。
そうしたら英二と湯原家の関係は遠い血縁に結ばれる。けれど法定親族ではない事はきっと、自分に味方してくれる。
今はまだ周太と英二の関係は、公には隠されている方が都合が良いのだから。

―無関係の方が動きやすい、気取られないで済む

いま湯原家に絡みつき苦しめる「畸形化させられた連鎖」を生み出したのは、周太の祖父をめぐる「あの男」という束縛の鎖。
この「連鎖」を解くのは、もう一本の係累である周太の祖母をめぐる、血縁の彼方から来た自分になる?
そう思うとこの血縁が、一本の赤いザイルのように想えて英二は微笑んだ。

「周太…本当に俺は周太のザイルかもしれないよ?君が自由を掴むための、」

これは運命だ、きっと。

きっと運命が、遠い血縁の糸を手繰り寄せ呼び寄せた、きっと斗貴子の祈りが自分を呼んだ。
あの古い家族アルバムに納められた写真のなか、この家で斗貴子は幸せに笑っていた。
この家に嫁いだ喜びに、愛する夫と家族と、息子に出逢えた幸福に彼女の笑顔は輝いていた。
彼女がこの家で生きたのは8年間、その十年にも満たない時に彼女は、幸福の喜びと惨劇の哀しみを見つめて、逝ってしまった。
義父の無残な射殺事件、夫の犯した罪と哀嘆、何も知らない幼い息子。
この罪と愛情のなかで彼女が祈ったことはきっと、夫と息子の無事と幸せだけだったろう。
けれど愛する夫と息子を死後すら縛りつける「連鎖」は、会うことの叶わなかった孫まで捕えかけている。

「…斗貴子さん、あなたの望みですか?俺がここに来たのは、」

静かな呟きと見つめる書面に、光がふれてくる。
ゆるやかな午後の陽は部屋に射しこんで、光の梯子が窓から伸ばされていく。
明るい輝きはが足元に届いて、書面を映す視界をまばゆく照らしだす。この光は半世紀前も変わらないだろうか?

半世紀前、この家で斗貴子は眠りについた。
そのとき最期に彼女が願った祈りは、息子と家族の幸福な未来。そして夫の贖罪のチャンスだろう。
けれど夫も義父のよう殺害され、遠く異国の地で無理心中を象られ斃された。そのとき彼女は泣いただろうか?
そして馨は「殉職」した、39歳になる直前だった、早過ぎる死に逝った息子を墓所に迎えたとき、彼女は何を想ったろう?

「斗貴子さん…あなたが俺を呼んでくれたんですか、息子さんの合鍵を…あなたが愛した家の鍵と、記憶を、俺に託させて」

呼びかける書面の名前から、そっと「運命」が微笑んだ。





(to be continued)

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第53話 夏至act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-08-28 23:42:17 | 陽はまた昇るside story
雲隠、見え初めるのは



第53話 夏至act.3―side story「陽はまた昇る」

11時15分、周太の携帯が振動する。

隣に座るスラックスのポケットからバイブレーションが伝わりだす。
予定通りに動いてくれたな?微笑んで英二は周太に声をかけた。

「周太、電話みたいだよ?」

笑いかけると、黒目がちの瞳が遠慮がちに安本を見た。
向かいに座る人好い顔は気さくに笑って、周太に言ってくれた。

「周太くん。遠慮しないでいい、電話しておいで?」
「でも、中座は失礼ですし…」

遠慮して周太は、ポケットに触れもしない。
けれど安本は温かに笑って提案してくれた。

「なにか大事な用かもしれないよ?少なくとも今、周太くんと話したい人なんだ、ちゃんと話しておいで?遠慮されると俺が哀しいよ、」

遠慮されると哀しい、こんなフレーズを言われると周太は弱い。
安本は面と向かって周太と話すのは、14年前を入れても3回目でしかない。
それでも周太の性格を把握していることが、この言い回しから解ってしまう。

―さすが、事情聴取の指導員だ

心裡に素直な賞賛がこぼれて、英二は微笑んだ。
安本は30年間を刑事として、射撃と事情聴取の指導員として現場に向き合っている。
それだけの経験と人柄が垣間見えてくる、そう思うと11月の時はよくも安本を落とせたものだと思う。

―吉村先生のお蔭だった、安本さんの先生への信頼があったからだ

あのときは吉村医師が一緒に行ってくれた、あれが先制攻撃になって安本を動揺させること出来た。
しかも吉村医師は何気ない会話から巧みに誘導して、安本から周太のことを自然と引き出し英二に繋いでくれた。
あの助勢が無かったら難しかっただろうな?記憶と感謝に微笑んだ隣で周太は、素直に安本へと笑いかけた。

「ありがとうございます、じゃあ、すみません、」

素直に頭を下げて周太は「行ってくるね?」と目で英二に笑いかけると、席を立って行った。
微笑んで応えながらテーブルの下、クライマーウォッチの時間計測をセットする。
そして扉が閉じると、英二は安本に頭を下げた。

「安本さん、11月のときは色々と失礼を申し上げました、すみません」
「どうしたんだ?急に改まって、照れるじゃないか、」

すこし驚いたよう言ってくれる声は、相変わらず温かい。
ゆっくり頭を上げると人の好い顔が笑ってくれる、その笑顔へ率直に英二は言った。

「いつも射撃場ではお会いしていますが、改めてお詫びを伝えたかったんです。本当に生意気なことを失礼いたしました、」
「いや、あのときは俺こそ本当にすまない。宮田くんに言われなかったら俺は、気づけなかった、」

すこし寂しげに、けれど温かな笑顔で安本は英二を見た。
そして、そのまま安本は頭を下げた。

「本当にありがとう、周太くんを止めてくれて、救けてくれてありがとう…俺の軽率の為に、すまなかった、」

『止めてくれて、救けてくれて』

この言葉に、あのとき周太が何をしようとしたか、安本も気づいていると解かる。
あのとき周太は父親の殺害犯に会いに行くつもりだった、射撃訓練の帰りがけに「拳銃」を手にして。
けれど何とか水際で止めることが出来た、あのときも光一の助力が無ければ間に合えなかったろう。
あれは11月だった、あれから安本は自責に8ヶ月間を過ごしてきたのだろうか?
そんな想いと見つめる下げられた頭は、思った以上に白い。

―悩んできたんだ、このひとも…もっと早く、この時間を持つべきだった、

目の前の白髪まじりに、馨の旧友の心労が見えてしまう。
もっと早く安本と話す時間を持つべきだった、そして少しでも早く心労を除いてやればよかった。
いくら忙しくても優先するべきだった。この謝罪と1つの意図に微笑んで、英二はお願いをした。

「まず頭を上げて下さい、俺は相手の目を見ないと話せないんです、」
「ふっ、」

小さく笑う声がこぼれて、安本は顔を上げてくれた。
その貌は困ったようでも嬉しそうで、そのままに安本は微笑んだ。

「宮田くんは巧いな?そう言われたら俺は、頭を上げざるを得ないよ、」

言われる言葉に安本の本音が見え隠れする。たぶん安本は本当に謝罪するつもりだったろう、けれど意図もある。
その聴取の名手らしい意図に対して、英二は思ったままを口にした。

「目の動きが解からないと、心理が読み難いでしょう?それでは信頼して話すのは、最初っから無理です、」
「ははっ、やっぱりバレたか?」

可笑しそうに笑って安本は、おしぼりで顔を一拭きした。
そんな仕草が率直で、本質的には嘘が苦手なお人好しだなと思わせる。笑って英二は素直に言った。

「今、頭を下げられたのは目を隠す意図と、本当のお気持ちと両方ですよね?俺は今日、安本さんの本音と話しに来ました。
だから本当のお気持ちに対して答えます。あの店のオヤジさんは、周太を常連客とだけ思っています。だからもう気にしないで下さい、」

安本は、周太が「復讐」に行ったことを心配している。
けれど、あの店へと周太が拳銃を持って向かおうとしたことは、言うことは出来ない。
本当は安本は明確な答えが欲しいだろう、けれど言うつもりは自分にはない。どこで綻びが出るか解らないから。

―言えるのは、ここまで

そんな穏やかな拒絶と笑いかけた先、人の好い顔が安堵に微笑んだ。
ほぐれた笑顔はそのまま可笑しそうに笑って、楽しげにノンアルコールビールを英二のグラスに注いでくれた。

「ありがとう、答えてくれて。しかしなあ、本当に君には降参だな?あのときも凄い迫力だったよ、俺は全く敵わなかった、」
「いえ、あのときは吉村先生のお蔭です。そうでしょう、安本さん?」

注がれたグラスを受けて、英二は微笑んだ。
あのとき自分は卒業配置2ヶ月目の新人だった、まだ経験も貫禄も何もなかった。
そんな自分が1人だけでは、あそこまで話を引き出すことは出来なかったと自分が一番知っている。
今度は英二が瓶を安本のグラスに傾ける、その手元を見ながら安本は可笑しそうに頷いてくれた。

「ああ、本当にあのときは意表を突かれたよ?まさか吉村先生が出てくるとは思わなかった、しかも巧いこと誘導尋問されてな、」

きっと安本としては意外だったろう。
けれど英二は青梅署での日常から知っている、少し誇らしい想いと英二は微笑んだ。

「はい、先生は警察医としても一流ですから、」

本当に最高の警察医で、山ヤの医師だと思う。

吉村医師は普段から、留置所でも診察室でも「聴き取り」が巧い。
いつもの穏やかなトーンで相手を寛がせながら、ゆったり訊き出してしまう。
あの聴取の巧さは見習いたいと、手伝いながら英二は観察して吉村の手腕を学ばせて貰う。
本当に多くを吉村医師には学ばせて貰っている、救急法に法医学、山岳遭難について、聴取のコツ、そして人間について。
吉村医師は英二に必要なことの多くを教えてくれた、もし吉村と出会えなかったら今頃どうなっていのだろう?

―青梅に戻ったら、たくさん手伝わせて貰おう。異動まで、出来るだけ

感謝に微笑んだ心に、白衣姿のロマンスグレーが佇んでくれる。
あの誠実な医師が向けてくれる、亡くした息子の分までも懸けた愛情がこんなときも温かい。
ふっと素直な心で微笑んだ顔に、いま前に座る馨の旧友は懐かしげに笑ってくれた。

「なんだろう?宮田くんの目は湯原と似ているんだ、他人の空似だろうけどな。でも、よく似ている瞬間があるよ」
「後藤副隊長にも、よく言われます。そんなに似ていますか?」
「やっぱり、後藤さんもそう仰るんだな?よく似てるよ、湯原の奥さんも言うだろう?」

ときおり救助現場で思うのだと後藤は言っていた。
それは遺体を前にした時の表情を見て、感じるのだろう。陰鬱な想いの顔は自分でも似ている自覚があるから。
この自分の顔に利用価値があるのは幸運だ、そんな想いとただ微笑んでいる前で、安本は扉を見遣って低く言った。

「今朝、射撃指導員の会合が本庁であったんだ。そこで新宿署のやつに訊かれた、湯原に親戚は居ないのかとね。これで2度目だ、」

ほら、やっぱり「亡霊」を探している。

思っていた通りの質問に、英二は黙って微笑んだ。
たぶん安本は今日、これを聴きたくて時間を作ってくれたのだろう。今「2度目」と言ったから。
ただ微笑んだ目だけで「それで?」と問いかける、その問いに安本は口を開いてくれた。

「前に訊かれたのは4月だ。俺は、湯原の命日には新宿署で、あのベンチでコーヒーを飲むことにしている。そこに署長が来たんだ。
休憩に来たと言って、俺に話しかけてきたよ。あの署長は卒配も新宿でな、そのころ俺達は機動隊で応援先は新宿が多かったんだ。
それで顔は知っている、湯原は何度か交番の応援要員で一緒になっていた。だから話が湯原のことになっても不思議とは思わなかった、」

一息ついて安本はグラスに口をつけた。
また扉の気配を見遣り、そちらに意識を残したままで安本は再び口を開いた。

「だが、あいつは変な質問をした『湯原さんには息子さんが何人いるんですか』ってな。こんなこと新宿署長が訊くのは変だろう?
新宿署には湯原の息子の周太くんがいる、署長なら署員の履歴書を閲覧することは出来るはずだ、それで解かるはずなのに訊いてきた。
だから俺は訊き返してやったよ、『湯原に似たヤツでも見たのか?』ってな。そうしたら署長の目は一瞬だが泳いで、変に竦んだんだよ」

『湯原に似たヤツでも見たのか?』

この問いに、新宿署長の答えは「Yes」だと自分は知っている。
あの日は周太に内緒で新宿署に行き、あのベンチに座ってココアを飲んだ。
それを署長は見に来た、「連鎖」の仲間と一緒に自分を見つめて「おまえは何者だ?」と怯えた目で問いかけてきた。
あの後に安本へと探りを入れてきた、馨の親友だったら何かを知っていると考えて当然だろう。

―箱庭の住人達が俺を探してる、お父さんの息子だと思って、

いずれ自分は周太と結婚するのだから、確かに「息子」は正解かも知れない?
けれど自分と周太の場合、英二の独立した戸籍に周太が養子縁組で入籍するから、馨との親子関係は生じない。
それでも「親戚」は正解だろう、今朝、安本に訊いてきた男の言う通りに。

―やっぱり、指導員も、か…

いま聴かされた事実は、予想の範疇どおり。
それでも、新宿署射撃特練の周太に近い存在が「連鎖」包囲の一部なことは嬉しくない。
けれど当然と言えば、当然の包囲網だと納得している。こんな考え廻らす前から、安本は真直ぐ英二に問いかけた。

「俺が知っている『湯原に似たヤツ』は、1人しかいない。そうだろう?」

人の好い顔が真直ぐ英二を見つめてくる。
穏やかな底の鋭利な視線が、馨の旧友の目から注がれる。
この事実確認をしたくて仕方ないのだろうな?そんな感想と微笑んで英二は、静かに口を開いた。

「お父さんの葬儀と通夜の弔問客を、憶えていますか?」

問われて、安本の目がすっと細められた。
すこし考える色がゆれ、けれど笑って安本は教えてくれた。

「ああ、憶えている。俺はどちらでも受付をさせてもらったんだ、湯原には親戚もなかったから、教場の同期が手伝ったんだ、」
「そうでしたか、お世話になりました、」

綺麗に笑って英二は頭を下げた。
そしてジャケットの胸ポケットから手帳とペンを出すと、メモをする体勢で微笑んだ。

「憶えている限りで良いです、弔問客で警察関係者の名前と経歴、今の所属を教えて下さいませんか?」

安本の目が少し大きくなって、英二を見つめた。
何を考えている?そう問いかける眼差しに英二は笑いかけた。

「無理なら結構です、」
「いや、無理じゃない。全員とまではいかないが、憶えているだけで良いなら、」

ひとつ瞬いて安本は、なにか決意したような目で微笑んだ。
その目は真直ぐで過去の哀しみがあっても、どこか明るい。きっと本当に話してくれるのだろう、英二は笑って頷いた。

「はい、お願いします。あと、お母さんや周太に話しかけた人がいたら教えて頂けますか?」
「周太くんに?…」

ふっと止まって、安本は記憶を辿るよう目を細めた。
そして英二の目を真直ぐ見つめたまま、馨の旧友は教えてくれた。

「ああ…周太くんに話しかけていた警察の人間がいた、通夜の時だ、」

その人物が誰なのか?

きっとラテン語表記では幾度も見た名前だろう。
そして漢字での表記は資料やWEBでも見ている、たぶん同じ名前だろうな?
そう見た先で安本の口が動いて、14年前の事実が知らされた。

「当時は80歳位のはずだ、たしか最後は神奈川県警の本部長だったよ。話したことは無いが、射撃大会で何度か見てるんだ。
全国大会と警視庁の大会と、両方でよく臨席していた人だ。だから優勝常連者の湯原を知っていたのは、不思議は無いんだが。
でも、そんなお偉いさんが、なぜ通夜に来たのか不思議だったよ。どうして周太くんに話しかけるのかも不思議でな、印象的だった、」

もう、それだけ聴けば予想通りだと解かる。
心裡ため息を吐きながら英二は、教えられたことを頭脳に記録した。
そして溜息の墜ちた先から、灼熱の感情がゆっくり瞳を啓いて冷徹に微笑んだ。

―赦せない、

まだ9歳と5カ月だった、周太は。
世界で2人しかいない肉親の1人を喪った、深い哀しみに呆然と竦んだ子供だった。
本当は楽しい約束がたくさんある春だった、それなのに一発の銃弾で愛する父親ごと全てが砕かれて。
周太は記憶すら消えていく自失の衝撃にいた、それを狙ったかのよう「暗示」を吹きこんだ男がいる。

「他の参列者は?」
「うん。警備部の男がいた、5年前に捜査一課に異動したやつで、名前は……」

いま手許は、安本が教えてくれる名前と経歴をメモしていく。
けれど心と肚は冷たい灼熱が密やかに起きあがって、脳髄を冷酷なほど醒ましていく。
いま怒りは熱い、けれど意識は冷徹に澄みわたって、語られていく名前と経歴に分析が始まりだす。

「六機の銃器対策、今は射撃の本部特練で指導員だ。それから八機の銃器、現在は……」

このなかで「連鎖」の番人はどれくらい存在する?
この今も番人で居続けている男は誰だ、どんな役割を果たしている?
メモを取りながら考えを纏めていく、そして安本が語り終えたときクライマーウォッチは「15′05」を表示した。

「ありがとうございました、」

手帳とペンをジャケットの胸ポケットにしまい、英二は微笑んだ。
クライマーウォッチの表示を時計モードに戻す手許を見、安本は笑いかけてくれた。

「もしかして周太くんの電話も、宮田くんだろう?時間を計っているなんてな、」

問いかけに、ただ微笑んで英二は呼び鈴を押した。
すぐ来てくれた店員にノンアルコールビールのお替りを頼むと、空き瓶を渡しながら笑いかけた。

「柑橘系のデザートってありますか?」
「はい、夏みかんの寒天など御奨めです、」

答えに、ふっと心が止められて言葉が反芻される。

―夏みかん、

黄金の実と白い花咲く庭の香と、古い写真の俤がふれてくる。
あの家にとって夏蜜柑は特別な想いがあるだろう、その木を今ここで聞くことに意味を想わさす。
きっと夏みかんなら周太も喜ぶだろうな?微笑んで英二は、品の良い着物姿へと笑いかけた。

「それも1つお願いします、」
「はい、かしこまりました、」

すこし頬染めた店員は丁寧な礼をして、静かに扉を閉じてくれた。
見送って安本に向き直り笑いかけると、感心したよう馨の旧友は笑った。

「本当に良い笑顔をするな?今の彼女、ちょっと見惚れていたぞ?」
「そうですか?ありがとうございます、」

さらり笑って英二は、膳の残りに箸をつけ始めた。
安本も箸を動かしながら、可笑しそうに笑って言ってくれた。

「その笑顔を見ると、こんな俺でも信じて口を割ってしまうよ?そして君からは、半分くらいしか引き出せない、」
「すみません。でも俺を信じて下さるのは、吉村先生のお蔭ですよね?」

吉村医師の信頼が英二にある、だから安本も初対面の時に信じて話せた。
そうでなければ卒配2ヶ月目の新人に、あんな話が出来る訳が無いのに?微笑みかけた向こう安本は、ぱっと笑ってくれた。

「本当に君には参ったな、よく解かってる。その通りだよ、でも今は君自身を信じてる。今日、周太くんと一緒のところを見たしな、」

水茄子の漬物を口に放り込んで、安本が微笑んだ。
飲みこんで水をひとくち飲むと、馨の旧友は楽しそうに話してくれた。

「前に君が言っていた通り、周太くんは聡明で、素直だけれど気難しい。そういう所は湯原とよく似てるよ、だから俺にも解かるんだ。
きっと簡単には、相手を信じて頼ることが出来ないタイプだろう?でも周太くんは、君を心から信頼している。だから俺も信じるよ、」

実直な目が英二を真直ぐ見つめて笑っている。
そして安本は率直に言ってくれた。

「今、俺から訊き出した事を、何に使うのかは訊かない。君が何をしているのか、詮索もしない。でも、俺に協力できることは言ってくれ、」
「ありがとうございます、」

心から礼を述べた英二に、安本は嬉しそうに微笑んだ。
そして扉を見遣ってから低い声で言った。

「これは俺の独り言だ、友達のことを俺は少し、調べてるよ。子供の進路が作られたように異様で、気になる。これは俺の勝手だがな、」

低く言って微笑んだ目から、隠した鋭利の眼差しが英二を見つめている。
その眼差しを真直ぐ受けながら、英二は穏やかに微笑んだ。

「手出しはしないで下さいと、前に申し上げました。本当にご友人を想うのなら、あれは警告だと考えて下さい、」

言葉に、馨の友人の目が細められる。
その目は扉を見遣って、低い声のまま明るく笑った。

「あの夜から俺は、その友達との約束が全てだ。昇任試験も受けず前線に残ったのも、その為だ。こんな馬鹿には警告など解からんよ、」

安本は、馨のために出世を絶って新宿署に残っていた。
馨が最期に願った「殺害犯の更生」を見届ける為に、犯人が釈放され就職する日まで新宿署に居続けた。
そして今、馨の息子が歩んでいる警察組織での進路に疑問を持ち、もう1つの馨の願い「周太」を守ろうとしている。
ただ約束の為に、14年前に逝った男との友情の為に、安本は動こうとしている。

―お父さん?こういう人なんですね、お父さんの親友は…それでも、頼れませんでしたか?

もし馨が安本を頼っていたなら?
いまは違う結果になっていたのだろうか?馨は死なないで済んだのだろうか?
けれど馨には頼ることなど出来なかったろう。この警察組織に於いて、馨にとって友人は「人質」でもあったのだから。
それでも違う未来を馨には探してほしかったのに?想いの底から見つめて英二は、馨の友人に綺麗に笑った。

「秘密であることが、ご友人の子供さんを護る唯一の手段です。けれど、あなたは友人であることを組織で知られ過ぎている。
あなたが動けば秘密は自然と壊れます。だから手出しはしないで下さいと、申し上げました。これは、あなただけの危険ではありません、」

秘密、秘匿、隠されたツール。

それが今は一番の攻撃になる、それが安本には出来ない。
安本が馨の友人であることは周知の事実だから、下手に動けば秘密はこぼれてしまう。
そうすれば危険は周太に及ぶだろう、それだけは防ぎたいことを安本に解からせておきたい。

「それなら、君はどうなんだ?」

刑事の目が英二を見透かす視線を送る。
その視線を受けとめながら意識の片隅、さっき見た「15′05」からの計測が5分を告げる。
時間感覚を知らす時砂が落ちきっていく、砂を心に見つめて英二は綺麗に微笑んだ。

「まだ2年目の新人に、なにが出来るんでしょう?」

こん、…こん、

扉叩く音は、聴き慣れたトーンで響く。
からり扉は開かれて、黒目がちの瞳が微笑んだ。

「随分と中座して、すみませんでした、」

ジャスト20分、光一は予告通りに動いてくれた。
頼りになる自分のアンザイレンパートナーに感謝しながら英二は、愛する人へ微笑んだ。

「おかえり、周太。もうじきデザートが来るよ?」



川崎駅に降りたのは12時20分だった。
もうじき駅に入線するとき、左手首の時計を見ながら周太は訊いてくれた。

「あの、区役所に行っていいかな?…12時半までに入らないといけないから、走るけど、」
「いいよ、行こう?」

区役所に行く用事は何だろう?
そう思ったけれど英二は、別のことを尋ねた。

「周太、さっきの電話ってなんだった?」

11時15分の電話。
あのとき光一は、何を話して20分間を作ったのだろう?
訊いてみたくて笑いかけた先、楽しそうに周太は口を開いてくれた。

「光一からだったよ、おばあさんのお店を手伝える人、探してるらしくて…お祭りで屋台をするんだって、だから誘ってくれて、」
「周太、なんて答えたの?」
「シフト出ないと返事は出来ないけど、楽しそう、って答えたらね?詳しいこと教えてくれて…それで時間かかったんだ、」

それなら長めの電話でも不思議は無いだろう。
巧い口実を光一は考えてくれた、感心して微笑んだとき停車して、扉が開いた。

「ごめんね、英二、急いで?」

足早に周太が歩きだし、英二も付いていく。
まだ人混みに呑まれる前の階段を駆け上がり、走りかけながら改札を出た。
そのまま駅から大通りにでる、駆け出した周太に英二は足幅を合わせた。

―周太、区役所に何の用だろ?

考えながら走って5分もかからず庁舎に着くと、1階のカウンターへ周太は歩いて行った。
そのときポケットの携帯が振動して、直ぐに取りだし開くと英二は微笑んだ。

「ありがとう、光一。さっきは助かったよ、」
「あんなんで良かったみたいだね?で、今はどこ?」

からりテノールの声が笑ってくれる。
その質問に英二はそのままを答えた。

「いま区役所だよ、周太の用事でね、」
「区役所?ふうん、書類が欲しいってコトだよね、」

テノールの声が言う「書類」に英二は周太の行方を目で追った。
その視線の先に映ったカウンターの名前に、莞爾と英二は微笑んだ。

「光一、もしかしたら、見たかった物が見られるかもしれない。リスクも高いけどな、」

いま周太は「区民課」に立っている、おそらく請求する書類は?





(to be continued)

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one scene 某日、学校にてact.14 ―side story「陽はまた昇る」

2012-08-28 04:49:00 | 陽はまた昇るside story
言われたことに、鼓動が止まる



one scene 某日、学校にてact.14 ―side story「陽はまた昇る」

京王線は思ったより混んでいなかった。
平日なら通勤ラッシュが酷いだろうが、土曜の朝はそうでもない。
久しぶりの車窓の光景に、ふっと懐かしさが微笑んだ。

―ここから新宿に向かうの、久しぶりだな、

初任科教養のとき以来だから、9ヶ月ぶり位になる。
あの頃は毎週末、周太と新宿まで一緒に出て夕方まで共に過ごした。
いつも外泊日ふたり過ごせる時間が嬉しくて、けれど本当は夜が一緒にいられないことが寂しかった。
あのころ周太は、どう想っていたのだろう?そんな質問を想いながら見つめる隣で、周太は楽しげに関根と瀬尾と話している。

「なあ、茶碗ってさ、こっちに回すんで良かったよな?」
「うちのお作法だとそう…でも、流派によって色々違うみたいだけど、」
「う、そうだよな?どうしよ、俺、今から緊張してきた、」
「最低限のマナーでいいんじゃない?堂々と飲んだら格好つくよ、関根くんなら大丈夫、」
「そっか、じゃあ気楽にいけばいっかな?」
「ん、大丈夫。楽しむことが、いちばん大事だよ?…それに正式のお茶会じゃないから、気楽で平気、」

茶の湯の話で三人が盛り上がっている。
いまどきの23、4歳の男がこういう話題なのも珍しいだろうな?
ちょっと可笑しくなって笑いながら英二は、話の輪に入った。

「茶席があるとこ行くの、今日なんだ?」
「おう、鎌倉まで行くぞ。俺、鎌倉は初なんだ、」

楽しそうに関根が笑って答えてくれる。
今日は姉の英理と関根はデートらしい、たぶん鎌倉は姉のリクエストだろう。
鎌倉だとあそこかな?考えながら英二は訊いてみた。

「もしかして浄妙寺の茶室?」
「詳しい場所は俺、まだ訊いてないんだ。そこ、英理さんが好きなとこなんだ?」
「うん、父さんが好きでさ、子供の時から何度か、姉ちゃんと連れてってもらってる、」

懐かしい記憶に、静かな石庭が心に映りこむ。
あの場所にも随分と行っていない、最後に行ったのは何年前だろう?

―周太の好きそうなとこだよな、連れて行きたいな?

そういえば周太と、きちんとした「デート」をしたことがない。
いつも川崎の家か奥多摩、あとは新宿で買い物をする程度だ?あらためて考えて英二は、すこし驚いた。
いろんな女性と付合っていた頃はデートを数多くして、美代とも映画に一緒に行ったことがある。
それなのに本命と改まったデートをしたことがない、8カ月も付合って婚約までしているのに、これでは拙いだろう?

―関根と姉ちゃんのデートどころじゃないな、

他人事より自分をなんとかしないと?
そんな考えに隣を見ると、気がついて黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
何げない瞬間の表情、けれど純粋な優しさが「どうしたの?」と受けとめてくれる。
ほら、こんなに可愛い恋人なのに今まで自分は何をやっていたんだろう?
そんな反省をして口を開きかけた時、瀬尾がバリトンヴォイスで提案をした。

「関根くん、鎌倉で今の時期だったらね、紫陽花とか綺麗だよ?英理さん、花好きなんだから連れて行ってあげなよ、」
「それいいな、おススメのとこある?」

快活に笑って関根が質問をした。
確かに英二も鎌倉で紫陽花を見た記憶がある、たぶん姉も連れて行ったら喜ぶだろうな?
そう考えていると瀬尾が考えながら口を開いた。

「うん、明月院は有名だけど混むんだ。でもね、奥の菖蒲園は別料金だから行く人も少なくて、綺麗な庭だからお薦めだな。
あとは東慶寺の紫陽花も、珍しい種類が色々あって綺麗だよ。でもね、縁切寺って別名があるから、デートにはどうかなって、」

最後は悪戯っぽく笑って瀬尾が、関根を見遣った。
そんな名前のところにデートで行くのは、確かに嫌だろうな?思わず笑った前で関根が快活な笑顔を顰めた。

「うわ、縁切りとかマジ勘弁。そこの寺には俺、一生絶対、英理さんとは行かねえ、」
「あれ?一生って、もう結婚してもらえるとか思ってるんだ?自信家だね、関根くん、」

やさしい顔をからかうよう悪戯に笑ませている。
そんな瀬尾に関根は当然と言う貌で、笑って答えた。

「自信持ってなきゃ、頑張れねえだろが?」
「ふうん、ま、自信持つのは良いことなんじゃない?」
「なんだよ瀬尾、てめえ何が言いたいんだよ、こら、」
「あはは、やめてよ関根くん、こんなとこでヘッドギアは無しだって、」

車内の片隅で関根と瀬尾は、少し戯れながら笑いだした。
こんなところを遠野教官が見たら、冷たい視線で「ふん」と言われそうだな?
そんなふう眺めている隣から、周太が嬉しそうに笑いかけてくれた。

「鎌倉、俺も小さい頃に行ったことあるよ?紫陽花のときも…明月院の奥の庭、行ったことあると思うんだ。すごく綺麗だった、」

楽しそうに記憶に微笑んだ顔は「また行きたいな?」と笑っている。
これはチャンスだな?閃いて英二は婚約者に提案と微笑んだ。

「周太、近いうちに鎌倉、行こうか?平日に休みが合う時なら空いてるし、」
「ほんと?」

黒目がちの瞳が嬉しげに笑ってくれる。
やっぱりデートの誘いは正解だったな?嬉しくなって英二は約束の予定と笑いかけた。

「うん。来月なら紫陽花も少し残ってるだろ?もう許可も出るから車で行ってもいいしさ、海も行けるよ?」

警察学校に入校すると運転免許証は預け、車両の保有は初任総合科が終了するまで出来ない。
けれど来月なら初任総合が終わって、自動車の保有も運転も許可されるからドライブデートも出来る。
寺で花と茶を楽しんで、海に行って。これならデートらしくなるけれど喜んでくれるかな、そう見た先で周太は笑ってくれた。

「海、良いね?もう随分、行ってない…行きたいな、」
「じゃあ決まりな、またシフト出たら教えて?あと行きたいところあったら、言ってくれな、」

これって初デートになるのかな?
そんな考えがなんだか幸せで笑った隣から、幸せそうに微笑んで周太が口を開いた。

「ん、あのね、東慶寺に行ってみたいな…珍しい紫陽花も見たいし、」

ちょっと待って?そこって「縁切寺」だよ周太?

そんなフレーズが頭に浮かんだのに、声に出ない。
だって「縁切寺」に初デートって、どういう意味なのだろう?
周太は自分との関係を「縁切り」解消したいのだろうか、そういう意味だろうか?

―俺、なんか嫌われた?

やっぱり学校でもキスしたり夜の情事を迫ったのは、ダメだった?
やっぱり生真面目な周太にとったら規則違反は嫌だろうし、不真面目で嫌われたろうか?
昨日も光一に「おまえマジで無理させすぎてるんじゃないの?だからこの間だって周太、倒れたんだろ?」と言われた。
あの通りに本当は無理させているのも解かっている、その癖に自分はいろんな理由で止めたくなくて、昨夜も色々したばかり。
しつこい嫌な男だと本当は思われている?まさか体目的だとか思われていないよね?変態エロ男は嫌いって思われているのかな?
それとも光一を抱きたいと考えていることとか、やっぱり本当は嫌だと思われている?それで嫌われても仕方ないってこと?
あと初任総合になってから周太は女性警官達から質問攻めに遭って困っていた、それだって俺の所為だから嫌われる原因になる?
それでも最近は質問攻めは減って、今度は俺へ直接なにか缶コーヒーとか持ってくるケースが増えてるけど、でも断っている。
あれだって「規則だから」と巧く断っているつもりだけれど、優しい周太からしたら冷たい酷い男に見えるかもしれない?
それによく考えたら、今までデートらしいことが出来なかったのも、訓練とはいえ好き放題に山に登ってばかりいた所為だ。

嫌われる要因、なんて考え出したらありすぎる。
自分の身勝手さを自分が一番よく解かっているから、こうなると余計に自信が無い。
本当は、女性と付合っても長続きしなかった原因は、上辺だけ合わせて良い恋人のフリしても無意識に気づくよう仕向けていたから。
そうして飽きる頃に離れてくれるよう仕向けては、絶対に踏みこまれないようガードした。そんな身勝手な恋愛ごっこは暇潰しだった。
どうせ本当の自分を見せれば「期待外れ」と言われるから、彼女たちの期待に応えられる嘘つきな疑似恋愛が優しさだとも思っていた。
けれど周太にはそういう嘘の恋愛ゲームはしたことがない、いつも悩んで本音で向き合って「愛してる」と伝えてきたのに?

―どうしよう、捨てられたら嫌だ、周太だけは嫌だ

たった一言で、東慶寺=「縁切寺」の一言で、こんなに凹まされるなんて初めての経験だ?
他の誰かに「東慶寺に行きたい」なんて言われても、こんなふうには考え込まなかったのに?
やっぱり今まで「恋愛ごっこ」を都合よく気晴らしに利用してきた、その報いなのだろうか?
そんな考えに沈みこんだ視界を、黒目がちの瞳が覗きこんだ。

「英二、もう着いたよ、行こう?」
「あ、うん…」

腑抜けた声が出て、ぼんやりとホームに降りた。
いつもどおりに周太は楽しそうに隣を歩いてくれる、けれどこっちは心の中で号泣しかけている。

俺のこと捨てたいの?
もしかして「縁切寺」で別れを言いだすつもり?
そんなことされても自分の性格だと、諦めなんかつかないのに?

―そうしたら俺、ストーカーになるんだろな、

ため息交じりに本音が心で、力なく泣いて笑う。
もし警察官がストーカーになったら大問題だろう、そのうえ相手も警察官なのに?
そうしたら雑誌を騒がせて免職は免れない、それで一緒に周太も免職になったら却って都合がいいかな?
そんな埒も無いことを考えながら英二は、今こそ「上辺だけ」笑顔で周太の隣を上の空で歩いた。

関根と瀬尾と別れて、改札を周太と出て行く。
そのままコンコースの書店に入って、周太の足取りをぼんやり辿って着いていく。
そして立ち止まった周太の隣でぼんやり立っていると、そっとワイシャツの袖を引いてくれた。

「…ね、正解だよ?見て、」

なにが「正解」なのだろう?
大好きな声に笑いかけられて、英二は周太の指さすものを覗きこんだ。

「あ、」

深紅の紫陽花をかざして微笑む、振袖姿の美少女。
この写真は知っている、そしてこの撮影場所も。

「ね、英二?これを撮ったところなんでしょ?東慶寺…」

訊いてくれながら周太はページを捲って索引を示してくれる。
そして目当ての一文を指さしてくれた。

“ Lover of PLUVIUS ” Hydrangea / Photography place:Temple Toukeiji

「うん、ここで撮影したな…中三の時だ、」

答えながら英二は懐かしさに微笑んだ。

あのとき、雨が静かに降っていた。
まだ朝早い寺は無人で、和傘を差しながら振袖姿で石畳を歩いた。
雨濡れる深紅の紫陽花が珍しくて、ふと立ち止まって眺めた、そのときシャッターは切られた。

―…So beautiful. Let's take,with this flower.

彼はそう笑って、『媛』の黒髪には深紅の紫陽花が飾られた。
そして雨ふるなか傘を外し、深紅の紫陽花と一緒に雨に濡れた姿が写真に収められた。
それが今、周太が捧げ見せてくれるページに映しだされている。

「あのね、この写真好きなんだ…」

そっと気恥ずかしげに笑って周太は、写真集を閉じると棚に戻した。
そして羞んだ黒目がちの瞳はこちら見上げて、内緒話のよう微笑んだ。

「この写真の場所、一緒に行ってみたかったんだ…すごくきれいに撮れてる所だから、ここでえいじのことみてみたくて、」

そんなこと言われたら、嬉しいです。

ほら、そんな首筋から頬まで薄赤く染めて可愛い顔して?
そんな恥ずかしそうに可愛い貌で言われたら、ちょっと嬉しいです。
嬉しくて、さっき凹んでいたのが誰なのかも思い出せない。けれど英二は注意を思い出して、恋人に笑いかけた。

「ありがとな、周太。でもこの寺、縁切寺って言って、離婚とかしたい人が行くんだよ?」
「ん、そうだってね?…でも、いいんじゃないの?」

いいんじゃないの?って、どういう意味?

また凹まされて、心が号泣する準備に入る。
やっぱり婚約破棄したいとかなのかな?どうしよう嫌われてる?
もう涙腺が熱くなるまま見つめた先で周太は、すこし首傾げて微笑んだ。

「東慶寺って、女の人の縁切寺でしょ?俺と英二なら男同士だから、関係ないよね?」

東慶寺=女性救済のための縁切寺

「あ、そっか、」

そっか、男同士だったら関係ないんだった、本当に良かったな?
ほっとして英二は、最愛の婚約者へと綺麗に笑いかけた。

「じゃあ周太、俺たちの場合、縁を切りたくても出来ないってことだな?ずっと一緒にいられるね、周太?」

どうか「Yes」って言ってよ?

ただ一言で良いから聴かせてほしい、言ってほしい、ただ素直に「はい」って言って?
その一言で幸せな鼓動を鳴らせて?そして永遠の音の記憶に刻ませてほしい、君の言葉と自分の鼓動と。
ほら、君の声を記憶に刻ませて?そして途切れることの無い永遠を約束してよ、今この瞬間も。

大好きな声の吐息で、幸せの鼓動を記憶に止めて?





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第53話 夏至act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-08-26 23:20:54 | 陽はまた昇るside story
“ Dryad ” 時を止めても



第53話 夏至act.2―side story「陽はまた昇る」

公園の道、光と影の明滅がコントラストゆれている。
まだ朝と言える時間、けれど足元の翳はあざやかで気温がジャケットを脱がす。
いま左手に提げている2つの缶も涼やかに思える、こんなふうに冷たい感触が心地いい時になった。
もう夏は近い、その兆しを梅雨晴れの空に仰いで英二は、ふっと嗤った。

―夏にも、秋にもなればいい

そう想えている自分が可笑しくて、気持ちいい。

夏が来て秋迎えるころには、周太は遠く引き離される。
そのレールを今頃も「法の正義」の許に敷き詰めていく人間たちがいて。
そんな一人が今、この新宿にもいる。他の仲間も一緒になって今頃は、一度目の異動書類でも作っているだろう。
自分たちの正義を信奉して跪いて、裏肚は利己の心で舌なめずりしながら、人柱を捧げる支度に勤しんで。
きっと彼らは自分たちの成功を疑わない、そして勝ち組になったツモリでいるだろう。

けれど、自分がいる。
馨と違って周太には、自分がいる。

馨は誰の援けも望めないまま、独り死を選んで「鎖」を解こうとした。
けれど「鎖」は諦めることなく、馨の息子に絡まりつき警察組織へと惹きこんだ。
きっと幼い周太が警察官の進路を選んだことは、「鎖」にとって正義の女神が微笑んだと思ったろう。
晉や馨の時のような、強引に誘導する手間が省けたのだから。

それとも、周太が警察官を選んだこと自体が、彼らの意図だったのだろうか?

「…もしかして、」

新しい考えに、頭脳が動き出す。
いま浮んだ可能性への事実関連、誘発するチャンスはあるだろうか?考え廻らしてすぐ答えが浮んだ。

―通夜と葬式だ、

馨の葬儀には、多くの警察関係者が弔問に訪れている。
あのとき周太と接触することは容易い、そして幼い心に暗示を懸けることも。
幼い子供が大好きな親のことを、それも失ったばかりの傷に言われたら一途に信じこむのではないか?

『お父さんの名誉を守るなら、君が射撃の優秀な警察官になれば良い。きっとお父さんは喜んでくれる、君になら出来るよ、』

こう言われたら幼い子供は、ひたむきに信じる可能性が高い。
これは単純すぎる方法だろう、けれど効果がゼロとは言い切れない。
それどころか深層心理の世界で時を経るごと、深く強く食いこんでいく可能性が高いだろう。
この自分自身も、似たようなものだったから。

―よく言われてた、お祖父さんや父さんみたいな、立派な法律家になれって、

父は、外資系自動車メーカーで法務を司っている。
余暇には弁護士として、法律相談のボランティアを区の寄託で務めてきた。
祖父は検事を務めていたと聴いている、退官後は事務所を開き弁護士をしていた。
そういう祖父や父の背中を見つめながら、ことあるごと親族達に言われてきた。

「英二も法律家になりなさい、お父さん喜ぶよ。お祖父さまもね、」

そんな言葉に包まれながら法学部を選んだ、そこに違和感は無かった。
よく父も英二に法律の話をしてくれていた、それを面白いと聴いている自分だったから。
そして学んだ法律の世界は興味深くて、知識試しに受けていく検定や資格の試験も順調に合格した。
けれど、法治国家の矛盾に自分はぶち当たった。

『法律は人間の良心を援けるために生まれた』

そう自分は信じている、祖父も父もそう教えてくれた。
けれど現実社会のなか「法の正義」には「犠牲の存在」が隠されていると気付いてしまった。
そして法を管理する体制の矛盾が透けだした、いつまでも草案のまま放置される法改正も疑問を助長した。
そういう矛盾と有耶無耶さに呆れて嫌になって、馬鹿らしくなった自分がいた。
だから、司法試験ではなく警察官採用試験を選んでしまった。

なんとか家を出て母から離れたい、それなら全寮制の職種を選べばいい。
それが一番の動機だった、とっくに母の理想の息子を演じることに疲れていたから。
求められるまま演じてしまう恋愛ごっこも面倒になっていた、表面的な恋のフリにすら縋る自分の孤独が疎ましかった。
もう「仮面」を被ることに倦んで生きる理由も見失っていた、それを変えたくて厳格な規律の世界に自分を放りこみたかった。
こんなこと達も警察官採用試験を選んだ動機だった、公務員なら母も文句は言わないだろうと計算もあった。

そして警察の世界は法治の最前線でもある。
そこで法治国家の矛盾を眺めてみたい、そこで自分が何を出来るか考えたい、そんな動機が本当はあった。
こんなふうに「法治国家の矛盾」を真面目に考えすぎた動機は、誰にも言うことなく警察学校に入った。
そして出逢った周太は「法治国家の矛盾」そのものだった。

英二が父と同じ法律の道を選んだように、周太も馨と同じ警察官の道を選んだ。
この共通点に今、ひとつの疑念と事実の可能性が現れだしていく。

もし「父親と同じ道を目指す」という動機を育てた原点が、幼い頃の「言葉」にあるとしたら?

14年前の春の夜は、警察関係者が周太に接触するチャンスだった。
あのとき弔問客として周太に近づくことは、誰も疑うはずがない。
もしかしたら幼い周太を慰める顔で「彼」は囁いた?

「…そうかもしれない、」

ぽつり独り言こぼれて、古い写真の染みが「連鎖」と一緒に映りだす。
もしも本当に14年前「彼」が周太に吹きこんだなら、周太の選択は「連鎖の意図」だ。
それが事実だったとしたら、10歳に満たない子供まで「鎖」に縛りつけたことになる。
まだ判断力も育たない未発達の自我、そこに暗示を懸けたら容易く縛されやすい。
もしこの推測が正解なら、惨酷な結論が導き出されてしまう?

周太が警察官の道を選んだこと、それは「父親たちを殺した犯人への従属」になる?

誇り高い周太にとって、これは残酷すぎる侮辱だ。
そんな侮辱が事実なら自分は赦せない、それも幼い子供の傷につけこんだなら尚更に。
この惨酷な侮辱が「事実」である可能性、そのパーセンテージを知ることなら容易く出来る。
いま纏めた考えに英二は立ち止まると、右手で携帯電話を開いた。

「おつかれ、光一。業務時間にごめんな、なにしてるとこ?」
「いま巡回中だね、天狗岩のトコ。おまえがコンナ時間に電話って、なに?」

からっと答えてくれるテノールの向こう、山風の聲が聴こえてくる。
いま風吹きぬける山の、葉裏に光る陽光が幻のよう心へ映りこむ。

―山に帰りたい、

ふっと願いがこみあげる、いま人間の醜悪を見ていたから尚更に。
けれど今、ここで為すべきことを自分に課していたい。その肚に英二は微笑んだ。

「11時半頃に周太へ電話してくれる?ちょうど昼休憩だよな、」
「まあね、今日は早めの予定だけどさ…ふうん?なんか事実確認に気付いたね、おまえ、」

相変わらず察しがいい、自分のパートナーは。
この信頼に笑って英二は正直に口を開いた。

「当たり、ちょっと周太には聴かれたくないんだ。そっちに戻ったら光一に話したい、」
「了解だね、電話するよ。20分くらい時間あればイイ?」
「そうだな、それくらいあると助かるな?」

20分あれば、確認したいことの全部が聴けるだろう。
そして多分、安本も英二に話がある。そんな予想に微笑んだ向こう、テノールが笑ってくれた。

「じゃ11時15分に架けるよ、事情聴取よろしくね、ア・ダ・ム。お姫さまの護衛もね、」
「うん、ありがとう、光一。おまえも巡回とか気を付けろよ、」

笑い合って通話を切ると、英二は再び歩き出した。
歩いていく道のむこう、ひとつのベンチが見えてくる。
豊かな常緑樹が緑蔭くるむベンチには、小柄なスーツ姿が座っている。
膝に広げた本のページめくる、穏やかな時が木洩陽ふるもと優しい静謐に佇んで。
こんなふうに樹の傍で過ごす時間を周太は愛している。そんな隣の安らいだ空気に自分は恋して、愛している。

こんな周太には拳銃も、警察も、闘争も似合わない。
たとえ訓練でも立たせたくない、現場など尚更に行かせたくない、このまま樹影に佇ませていたい。
ほら、願いが心締めあげ軋んでいく、憎悪と哀しみが同時に瞳を披いて本音を見透かしてくる。
この愛する空気を壊そうとする存在へ、叩きつけたい感情が肚に墜ちていく。
そして唇は微笑んで、つぶやきが嗤った。

「簡単だ…俺が勝てばいい、」

自分が勝利者になれば良い、答えはそれだけ。
14年前の馨は独りきり斃れた、けれど周太には自分がいる。
この違いにも意図にも彼らは気付かない、もし知る時は多分、この世の涯だろう。

―赦せない、俺には

昨日の夕方にも見つめた想いが、また自分を見つめてくる。
この想いはきっと終わらない、全てを終えて周太を解放する瞬間まで、ずっと。
いま歩くごとに想いは覚悟へ変貌する、木洩陽ふる道を大切なひとに近づいていく。
ほら、そろそろ声が届く位置だ?こっちを見つめてほしくて英二は、恋する名前を呼んだ。

「周太、」

やわらかな髪がゆれて、顔をこちらに向けてくれる。
きれいな笑顔が幸せに咲いてくれる、黒目がちの瞳は今きっと自分を映している。
いま視線を独り占めしている瞬間が嬉しくて、すこし足早に英二は木蔭を踏んだ。

「周太、お待たせ。すこし眠った?」
「ん、すこし寝てたみたい…気持ち良かったよ、」

木洩陽あわい笑顔は、いつもより肌を透かせて美しい。
やわらかい黒髪も緑翳ふらせて艶やかな緑にみせている。
微笑んだ瞳ふちどる睫が長く翳おとす、その陰翳は清楚な艶に心惹きこんでしまう。
こんなふうに樹影に佇むとき、周太はいちばん美しい。

「きれいだ、周太、」

本音が言葉になって、隣の首筋を赤く染めていく。
ほら、こんな恥ずかしがりの色彩も樹影の緑に映えて、薄紅の花ほころぶと想わせる。
こういう姿を昔、幼い日に読んだ絵本で見たかもしれない?ふと記憶の扉が開いて英二は、単語を口にした。

「ドライアドみたいだな、周太は。髪も光で、きれいな緑になってる」

“ Dryad ” ドライアド、美しい緑の髪つやめく樹の精霊。

ショートヘアの美しい精霊は、宿る樹木と運命を共にする。
だから宿る樹木が枯れてしまう時は、共にその命を閉じるという。
この精霊に恋されたなら樹木の中、ふたり時を過ごして外界と違う永遠を見つめることになる。
その時の流れは長く短くて、樹木のなかでは一瞬でも外は何百年もの時が経過していく。

「…どらいあど?あ…」

つぶやいた周太の声が、すこし途惑う。
黒目がちの瞳が大きくなる、なにか驚かせたのだろうか?そう見つめて思い当たって、英二は笑いかけた。

「木の妖精のことだよ。もしかして周太、知ってた?」
「ん、しってる…詩の本で読んでもらったから、」

黒目がちの瞳がすこし途惑うよう見つめてくれる。
なんだか可愛らしい様子に英二は微笑んだ。

「きれいな緑の短い髪で、小柄で可愛くて木を愛している。周太と似てるだろ?それに、もっと同じとこあるし、」
「…おなじとこ?」

冷たいココアを掌に持ったまま、首傾げこむ姿に心が留められる。
木洩陽の緑ゆれる髪は香って、艶やかに無意識の誘惑を投げかけてしまう。
ほら、そんなところも似ているな?見つめて英二は綺麗に笑いかけた。

「ドライアドは、恋した相手と木の中で過ごすだろ?その木の中での時間は1日でも、外の世界では何百年も経っている。
そういう時間の感覚がさ、周太とベッド中にいる時みたいだなって思うよ?いつも俺、何時間経っても短いって思うから、」

ふたりきり過ごす、ベッドの時間。
いつも短く思えてしまう、もっと時間が欲しいと貪欲な身勝手に起きれなくなる。
そんな勝手な心のまま昨夜も学校寮で、宥めようとする周太からシャツを奪って、素肌に抱きしめて眠りにつかせた。
心に隠しこむ怒りに規則違反を嘲笑わせて、そんな苛立ちも恋するひとの体温に安らがされた。
体を繋げるまではしなかった、それでも肌ふれあう時間は短くて愛しくて、永遠に離したくない。

―ほんとに、木の中にでも攫いこんでほしいな?

本音が心つぶやいて、自嘲してしまう。
昨日も光一と話したように「そんなことしても周太を本当の意味で救けたことにならない」目を背けても終わらないと解っている。
それでも本音はふたりきり幸せの時間を止めてしまいたい、ただ一緒に眠れたらそれで良いのに?
そんな想いと見つめる隣で、薄紅の花は首筋から頬へ額へと昇りだす。

「…そういうこといわれるとはずかしいから…でも、うれしい、ね、」

恥ずかくて堪らない、そんな貌で長い睫が伏せられる。
こういうところが初々しくて愛しくて、また惹かれて好きになっていく。
幸せな想い微笑んで、周太の手からココアの缶を取ると英二は、そっと唇をつけた。
あまい香が冷たく喉をすべりこむ、その香に微かなオレンジが優しい。この香に充たされた唇を離すと、英二は悪戯に微笑んだ。

「ほんとはキスしたいけど、間接キスで我慢しとくな?これから安本さんと会うのに周太、キスは恥ずかしいだろ?」
「…いまもうじゅうぶんはずかしいです…」

言ってくれる頬はもう、真赤になっている。
木蔭に赤い花が咲いたな?笑って英二は恋人の肩に頭を凭せかけた。
ふれたスーツの肩がすこし震えて、けれど黒目がちの瞳が幸せに笑ってくれる。
そっと頭こちらに傾けて緑の髪が頬ふれる、近づいた眼差し嬉しくて英二は綺麗に笑った。

「愛してるよ、周太、」

言葉に想いを伝えて、瞳を見上げる。
黒目がちの瞳はやわらかに微笑んで、その向こう交わす梢に青空がのぞく。
もう空の青は夏、そんな感覚にまた肚へと密やかな声が微笑んだ。

―夏が来て秋になればいい、勝つのは俺だから



予約したダイニングの個室は、いつもどおり静かだった。
扉を閉めてしまえば音は遮断される、店員も無闇と来ないから安心して話しやすい。
場所柄この店のプライベート配慮は行き届いている、だから今日の場所に選んだ。

「良い店だな、宮田くんは何度か来てるんだ?」

良い店、この言葉に2つの意味が笑いかける。こうした所は人の好い安本とはいえ、本職の刑事らしい。
この大先輩に笑いかけながら、英二はメニューを渡した。

「はい。父と一緒だと、昼はここが多いんです、」
「そういうの羨ましいな?今日はご馳走させて貰うよ、好きなものを好きなだけ頼んでくれ、」

人の好い笑顔が気さくに提案してくれる。
けれど隣から周太は、遠慮がちに口を開いた。

「ありがとうございます、でも、悪いです…俺、前もご馳走になりましたし、」
「いや、良いんだよ。ご馳走させてほしいんだ、」

答えながら安本は温かに目を笑ませた。
そして懐かしそうに微笑んで、馨の旧友は教えてくれた。

「湯原と約束したんだよ、いつか息子さんと呑ませてくれってね。まあ今日も酒抜きだけどな、俺にとって大事な約束なんだ。
息子と飯を食うの憧れなんだけど、俺は娘ばっかりでさ。だから湯原に約束させたんだ、息子がいる幸せを俺にも分けろってな、」

『いつか息子さんと呑ませてくれ』

この約束は当時、10年以上後への約束になる。
そんな約束を馨はしていた、この事実に馨の意志と本音が見えて、ことんと心が明るんだ。

馨は、生きることを諦めたくはなかった。
生きて、息子の成人を祝う酒の席で、親しい友人に自慢したかった。
そんな馨の想いと本音が温かい、そして怒りが肚底で燻り覚悟を炙りだす。
馨のささやかで偉大な願いと約束、それを踏み躙っても裁かれることのない「法の正義」への怒りが、熱い。

―赦さない、

また心につぶやき毀れて、けれど隣の笑顔に喜びと幸せは優しい。
この笑顔を見つめ続けたい、護りたい、そっと心祈る想いに周太は素直に頷いた。

「ありがとうございます、じゃあ遠慮なくご馳走になりますね?」
「ああ、そうしてくれたら嬉しいよ。宮田くんも好きなだけ頼んでくれ、」

楽しそうに笑って安本は奨めてくれる、そんなストレートな厚意が温かで嬉しい。
けれど自分が「好きなだけ」この店で頼んだら、いくらランチタイムでも大変だろうな?
なんだか楽しくて可笑しくて、この人の好い大先輩に笑いかけた。

「俺の好きなだけは相当ですよ?」
「お、ガタイが良いだけあるんだな?いいぞ、今、覚悟したからな。存分に食ってくれ、」

本当に大丈夫だよ?そんなふう実直な笑顔が楽しげにほころんだ。
こうまで言われたら受け入れないと失礼だろう、それに「品数を多くする」ことに安本の意図がある?
そう見た先で刑事の目は「気づいたかい?」と微笑んだ。

―やっぱり、俺に話があるな

今日は10時の約束で待ち合わせた、早めのスタートは「時間が多くほしい」という意思表示だろう。
そして今も示された意図に笑って、英二は素直に頷いた。

「じゃあ遠慮なく、」
「ああ、遠慮するなよ?宮田くんには借りがあるし、少しはここで返させてほしいよ、」

そんなふう笑って安本もオーダーを選び始めた。
やはり安本は「借り」を気にするような硬骨タイプらしい、こういう男は信頼を築きやすいだろう。
そんなことを考えながら食事を決めて、店員を呼ぶとオーダーを済ませた。
そして扉が閉じられ静謐が戻ると、周太は安本の目を真直ぐ見て尋ねた。

「安本さん、教えてください。父は、あのときボディーアーマーを着ていましたか?」

―…当日の様子だろ?なら、装備じゃない?

光一の予想が、当った。
そして自分も考えていた「ボディアーマーの着用有無」を周太なら訊きたがるはずだ。

周太も馨と同じように、拳銃射撃の術科特別訓練員として新宿署で任務に就いている。
だから交番勤務の時は必ず拳銃携行と制服内のボディアーマー着用を命じられている、いつでも狙撃任務に就けるように。
そういう周太の勤務状況なら、「馨の意思確認」を目的として、この質問を考えつくだろう。

護身用装備であるボディーアーマーを着たのなら、生存への意志がある。
だからそれを確認すれば馨が「殉職という自殺」をどう考えていたのか、その意思を垣間見れる。
そういう図式を頭に描くことは、周太にとって自然の成り行きだろう。
そんな想いに見つめる向う側で、人の好い笑顔は穏やかに口を開いた。

「ああ、もちろん着ていたよ、活動服の中にね。あの日、湯原は御苑の園遊会で警護に当ってくれた。だから当然、着ていたよ」

答えに、周太の肩から力が一息に消えた。
黒目がちの瞳は水の帳が張られだす、唇はゆっくり解かれるよう動いて、問いを重ねた。

「…ほんとですね?…撃たれた時も父は、ボディーアーマーを着ていたんですね?」
「もちろんだ。真面目なやつだからね、君のお父さんは。でも、それでも銃弾は防げなかったんだ、」

穏やかでも明確なトーンが、肯定してくれる。
真直ぐで実直な眼差しが「本当だよ」と見つめてくれる、その目は真実を言っている。
その真実を黒目がちの瞳は真直ぐ捉えて、父親の最期を見つめた目に問いかけた。

「それなら、父は、あの夜も生きたいと、家に帰りたいと思っていた。そう考えても良いのでしょうか?」

いちばん馨に近い友人で同じ警察官、馨の最期を見て遺志を繋いだ男、彼は真実を何と言うのだろう?
そんな想いと見つめる安本の目は、実直なまま温かに笑んだ。

「もちろんだ。あの夜も湯原、俺に周太くんの写真を見せてくれたよ。それでな、桜の花びらを2枚、手帳に挟んでいた、」

あの日、馨は桜の園遊会で警護に当たっている、そのとき咲いていた桜だろう。
その桜は馨が最愛のひとに出逢った、大切な桜の木が贈ったものかもしれない。
馨と周太の母は、新宿御苑の桜の下で恋に墜ちたから。

「あの夜もね、湯原と新宿署のベンチに座って休憩していたんだよ。俺はコーヒー、あいつはココア。いつもの定番だった。
あのときも手帳を開いてな、君の写真と、桜の花びらを3枚見せてくれたよ。花吹雪があって3枚、ちょうど掌に乗ったって言ってた。
湯原、きれいだろって笑ってな、1枚を俺にくれたんだ。きっと2枚は周太くんと、お母さんへの土産にするつもりだったよ、あいつ」

話しながら懐かしそうな眼差しが、周太を見つめてくれる。
その目は真直ぐ温かに誠実で、けれど少し寂しげなのは親友の死への自責だと知っている。
昨秋に武蔵野署で聴いた安本の本音は今も心で泣いている、今話してくれる目に隠す想いと一緒に安本は教えてくれた。

「あの日も湯原、大切な息子と奥さんのことを想いながら任務に就いていたんだ。本当はあの夜、君に話すべきだった。
でも、言えなかったんだ。その手帳も、写真も、花びらも、遺品として渡せなかった。でも今日、受けとって貰えるだろうか?」

ワイシャツの胸ポケットから安本は、白い封筒を取りだしてくれる。
そして封筒は静かに、周太の掌へと渡された。
封筒はすこし古びて、けれど丁寧に保管されていたことが解かる。
すこし震える手が封筒を開く、そこには焦げた穴の開いた手帳が納められていた。

―銃弾の痕だ、

心つぶやき脳裏へと1月に見た光景が映りこむ。
吉村医師のサポートで立会った弾道鑑識調査、あのとき何度も見たものと同じ姿が今、傷ましい。
そして、あの実験で得た周太の狙撃データを思い起こす。そんな思考に、ほろ苦い声が言った。

「それは銃弾の痕なんだ、中に写真と花びらもある、」

ひとつ呼吸すると周太は、手帳を開いた。
その手元を覗きこんだ視界には、予想通りの色彩が映りこんだ。

―お父さんの血だ、

開かれた白紙ページには、どす黒い染みが大きく広がっている。
挟まれた写真も血に染められ弾痕が無残な傷痕を残していた、けれど可愛い笑顔と背景の山桜はあざやかで。
2枚の桜の花びらにも黒い染みがある、けれど綺麗に押花になった姿には馨の本音が微笑んでいる。

―お父さん?帰りたかったんですね、愛する家族のもとへ

見つめる視界の姿たちに、そっと英二はワイシャツの胸元にふれた。
ふれる指先には布地透かして合鍵の輪郭が伝えられる、この鍵のように今、手帳が帰ろうとしている。
馨の約束への願いと、意思と、遺志が籠められた手帳は今、息子の手に渡されて妻の待つ家に帰る。
14年前の春の夜、銃弾にあふれた血潮と祈りを吸いあげた手帳。帰ってくる今、何を伝えたい?

「この血は、父のものですね?」

落着いた声が周太の唇から問いかける、その瞳は潤んでも堪えているのが解かる。
その前に座る安本の目も熱に耐えて、正直に答えてくれた。

「ああ、湯原の血だ。あいつ、手帳ごと胸を撃たれてな。惨くて渡せなかったんだ、あいつの気持ちも伝えられなかった。
あいつの帰りたい気持ちが銃弾に壊されたみたいで、悔しくて哀しくて。だから俺が預らせて貰ったんだ、いつか君に渡そうって、」

いま、告白される14年前の真実に、心が納得へ温められる。

生きていたい、けれど命を懸けても尊厳と誇りを貫きたい。
この矛盾の狭間に佇み続けた馨は、一瞬で信念に殉じ逍遥と死に赴いた。
そして16年間の彷徨を終わらせた、望まない名前『Fantome』を拒み贖罪と自由を死に見つめて、逝った。
きっと馨は、大切にしていた息子の写真への想いも、最愛の妻への想いも抱いて、幸せに死へと抱かれたのだろう。
まるで山ヤたちが山に抱かれる死へと微笑んで眠りにつくように、馨は摩天楼に奥多摩の山影を見たかもしれない。
自由に夢へと輝いた、紺青色の日記に遺した日々の幸福と、愛する二人の俤を見つめて、愛した山の懐へ眠りに逝ったろうか。

「写真、いつも持ってくれていたんですね、父は、」
「そうだよ、いつも持ってた。しょっちゅう俺に自慢してたよ、可愛くて優秀で、すごく良い子だって。奥さんのお蔭だってね、」

馨の息子と親友の対話に、語られる想いと本音が浮びだす。

もし、殺人の罪が無かったなら。
きっと馨は生きることを選び、大切な約束たちを叶えて、幸せに笑った。
あの夜も庭の桜を眺めたかった、愛する人と記憶を綴りたかった、大人になった息子と友人たちと酒を酌みたかった。
あの瞬間まで馨が遺した約束は全て真実の願いと真心、そして祈りの結晶だったろう。
この想いがワイシャツ越しに合鍵を温める、その隣から周太が端正に頭を下げた。

「教えて下さって、ありがとうございます、」

…ぽつん、

微かな音が周太の膝に、雫の跡をふりこぼす。
あとから後から雫の跡は落ちていく、周太の顔は上げられない。
“父の笑顔は真実だったのか?” 自分たち母子と、家族と共に生きて父は幸せだったのか?
その問いかけに還ってきた応えが今、周太の心をほどいて涙に変わって墜ちていく。

―この今、存分に泣かせてあげたい、

この今、14年間ずっと抱え込んだ涙をとかして笑顔にしてあげたい。
きっと安本も今、ひとり泣きたいだろう。だから独りにしてあげたい、馨の友人にも泣かせてあげたい。
本当は14年間いちばん泣きたくて泣けなかったのは、馨を最期に引留められなかった安本なのだろうから。
こんな想いごと婚約者の肩を抱いて、そっと英二は微笑んだ。

「周太、おいで?」

ゆっくり体を支えながら立たせると、俯いたまま周太は立ちあがってくれる。
ふるえる肩を抱きかかえて、英二は安本へと笑いかけた。

「安本さん、中座をすみません。すぐ戻りますから、待っていて下さいますか?」
「もちろん、遠慮しないでくれ、な…、」

穏やかに答えてくれる声が、かすかに詰まっている。
組んだ掌に半顔を埋めるよう頬杖ついて、安本は微かに光る眼で微笑んでいた。
この14年間を馨の手帳と向き合ってくれた、その実直な贖罪と純粋な友情への哀惜が涙に解かる。
こういう友人が馨に居たことは、どれだけ救いになっていただろう?

―14年間、本当にありがとうございました

感謝に微笑んで会釈すると、英二は周太を支えながら廊下に出た。
静かな廊下を歩いていく、支えた肩は小刻みに震えるまま両手で顔を覆っている。
そして奥の洗面室に着くと、静かに英二は木戸を開いて入った。

かたん、

そっと木造の引戸を閉めると、静寂が洗面室に空間を作る。
その途端、周太は英二の胸に抱きついてくれた。

「…っえいじ!」

ただ一声、名前を呼んで周太は泣き出した。
呼んだ名前が引金のよう、涙も嗚咽もあふれだしワイシャツを温もりに濡らしだす。

「うっ…う、うっ…あ、…っ、」

こんなふうに泣き虫で、子供のように純粋な周太。
それなのに父の現実を探し求めて、危険にも退かない誇り高い勇気を抱いている。
いま抱きしめている肩の骨格は華奢で、どんなに筋肉で鎧っても芯の可憐が隠しきれはしない。
この骨格のまま繊細で優しい穏やかな周太、本当に危険になど立たせたくはない、ただ樹影のもと幸せに笑っていてほしいのに?

―赦せない、

燻っている怒りと哀惜が灼熱になる、矛盾への苛立ちが冷静を呼び起こす。
どうしたら連鎖の呪縛を叩き潰せるだろう、最も手酷い方法で相手を傷めつけられる?
冷酷が怒りの熱に煽られて温度を下げていく、透徹されていく頭脳に計算と予測が動き出す。
そして心はただ最愛の恋人に添って、優しい涙ごと抱き寄せた。

「泣いて、周太…俺がいるから大丈夫、」

馨は独りだった、誰にも救い求めることが出来ないまま、最期の一瞬に息子への愛を親友に託して逝った。
けれど周太には自分がいる。この体も心も、能力も全てを懸けて周太を護りたい自分がいる。
きっと護ってみせる、周太の願いを叶えて、馨の真実と祈りを独りにはさせない。晉の屈辱も敦の無念も全て自分が背負いたい。
そして必ず「法の正義」の畸形連鎖を破壊に堕とす、もう誰も捕まえさせない。

―赦さない、絶対に俺は諦めない、だから、

だから自分は「力」を手に入れたい。
彼らが触れることの叶わない存在に自分は成りたい、そして支配を覆してやりたい。
自分が愛する人に、家族に絡みついた連鎖の呪縛『Fantome』を壊すため、きっと自分はここに居る。

そしていつか時の止まる日々に生きたい、Dryadの恋の呪縛に囚われたまま永遠の幸福を抱きしめて。




(to be continued)

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soliloquy 風待月act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-26 04:49:57 | soliloquy 陽はまた昇る
透明の青に



soliloquy 風待月act.4―another,side story「陽はまた昇る」

水浅葱、水の色、二藍、青、青藍、勝色、青たちのグラデーション。

グラデーションは『鰹縞』とても粋な縦縞の織。
縞の幅や濃淡で印象は大きく変わる、なかでも大きな縞は粋だと思う。

けれど自分には似合わない、小柄には大胆な意匠は似合わないから。
けれど、恋人にはよく似合う、そういう華やかな意匠の衣たちは。
だから嬉しくなる。
好きな意匠を好きな人が纏えば、見惚れる幸せが生まれるのだから。

軽やかに透ける、絹紅梅の織。
ブルーの濃い淡いに透明度も豊かな、美しい夏の衣。
白皙の肌を透かす夏衣の青は、水と深い風まとうように惹きつける。
ひろやかな背中は暁から夜を統べての空、懐の深みは海のよう佇んで抱きとめる。
どこか懐かしい藍の香は、ふるい遠くの記憶を優しい眠りから覚まさせて、ほら大好きな俤に重なりだす。

藍染めの透かす向こうには、幸せの瞬間が垣間見る。
ふるくて新しい夏の記憶、藍の香と透ける青色の優しい想いたち。
この青い薄絹へ交ぜ織られ続ける、どの瞬間も想いも、ただ幸せが愛おしい。




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第53話 夏至act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-08-25 23:30:30 | 陽はまた昇るside story
夏、至るときへ



第53話 夏至act.1―side story「陽はまた昇る」

空が青くなった。

昨日よりも今日の空は、青が濃い。
そして昨日より少しだけ光の時が短いのは、夏至が過ぎ去ったから。
空は梅雨の雫に洗われていく、雨の途切れに青空の濃さを見せて、夏の到来を告げていく。
そうして季は移ろって空も時間も色を変える、きっと自分の瞬間も変貌させて。

―それでも俺は、諦めない

見上げる空に笑って英二は、携帯電話を開いた。
窓辺の壁に凭れて発信履歴をリダイヤルさせる、コール2つで繋がって英二は笑った。

「おつかれ、光一。明日はごめんな、」
「おつかれさん、端っから謝っちゃうワケ?」

からりテノールが笑って答えてくれる。
その声の向こうに聞き慣れたエンジン音を感じて、光一に笑いかけた。

「うん、最初に謝るよ。今って移動中?」
「そ、署に帰るとこだよ。おまえは部活終わったトコだろ、明日、家に帰る準備できてんの?」

光一の声は、イヤホンマイクを通しても飄々と明るい。
この聴き慣れたトーンが懐かしい。数日前に会ったばかりだけれど「懐かしい」と想ってしまう。
こんなことに気付かされる。7カ月間を共に過ごした声はもう、当たり前のよう馴染んでしまった。
そんな馴染みへと英二は笑って答えた。

「このあと準備するよ、大した荷物は無いけどさ。ただ、心の準備は必要かなって思うよ、」

明日は安本に会う、きっと意味のある時間になる。

初めて会った11月、安本とは周太も一緒に呑む約束をしてきた。
けれど予定が難しくて先延ばして、それでも明日は何とか昼飯を一緒に出来る。
その2時間ほどの時間には意味があるだろう、安本は馨の同期で「最期の任務」のパートナーだったから。
きっと安本なら「警察官である馨」の素顔をまた教えてくれるはず、考えと空を見あげたときテノールが笑ってくれた。

「ふうん、武蔵野のひとだね。なにが出るかお楽しみ、ってトコだな、」

察しの良い相槌は、声が明るい。
この明るさが自分にとって救いになる、そんな感謝に微笑んで英二は頷いた。

「そうだよ。どんな話になるのか覚悟してるとこ、なにかヒントが貰えるかもしれないから、」
「だね、意識的にも無意識にも、教えてくれそうじゃない?ま、注意も必要かなって思うけどね、」

テノールの声が言ってくれる意味に、すこし不安が暗くなる。
それでも声の明るさに英二は微笑んだ。

「正直なとこさ、周太が一緒だと緊張するよ?でも、周太がいるからこそ引き出せる事も多くなると思う、」
「そりゃそうだね?頑張んな、」

からっと光一が笑った向こう側、エンジン音が響いていく。
もう日常になった音に安らぎながら、英二は綺麗に笑った。

「うん、頑張るよ。でも、明日はごめんな?畑とか忙しい時に、連続勤務にさせて、」

複数駐在所である御岳では常勤する駐在所長の岩崎と、英二と光一が交替性で勤務している。
だから初任総合の間も外泊日は青梅署に戻って光一に休暇を取らせたかった、兼業農家の光一は家業も忙しいから。
けれど今週末は川崎に帰らせて貰うから、光一は2週間ずっと勤務になってしまう。
それなのに光一はイヤホンマイクの向こうで笑ってくれた。

「気にしないでよね、おまえ戻ったら休み貰うしさ。それより、明日は色々よろしくね、」

安本との「明日」を光一も気に懸けている。
このパートナーに感謝しながら英二は素直に頷いた。

「そうだな、ありがとう。明日のことでさ、なんか気になることってあるか?」
「うん?そうだな、」

相槌にテノールが考え込んで、沈思にエンジン音が聞える。
どこか鼓動のような音がしばらく響くと、光一は口を開いた。

「たぶん周太、なんかしら質問するよね?それが何かに因っては、ちょっと危ないよね、」

光一の言う通りだろう、聡明な周太なら父の旧友から「事情聴取」出来る機会を逸さない。
この危惧は自分でも考えた、脳裏を纏めながら英二は口に開いた。

「うん、当日の様子とか訊くと思うよ。光一は、どんな質問だと思う?」
「当日の様子だろ?なら、装備じゃない?」

さらっと言われた答えは、頷けてしまう。
この「装備」が馨の「生存の意志」を確認する証拠ともなるから。
そのことを光一も示唆してくれている、そして「装備」で最も気にするだろう物が浮びだす。
その考えに微笑んで英二は、電話向うのパートナーに笑いかけた。

「そうだな、状況確認になるよな?あと、小説から何かあった?」
「ソレなんだけどさ、ちょっと話し合いたいコトあるんだよね。ま、来週までに読み直しとくよ、」
「わかった、よろしくな、」

話し合いたい事は何だろうか?考えながら外へ目を遣ると、雲に金色がかかりだす。
黄昏兆す雲の光彩は明るい、これなら明日は晴天だろう。
きっと奥多摩では山の客が多くなる、晴れた夏山は美しいから。

―山、行きたいな、

ふわっと起きあがる想いに、笑ってしまう。
こんなふうに山を恋うる自分を、一年前は考えられなかった。
この変化に時の流れたことを思い知らされる、そして訪れる瞬間への恐怖と覚悟が同時に座りこむ。
こんな自分は未練たらしい?それとも少しは強くなったろうか、そんな想い微笑んで英二はアンザイレンパートナーに言った。

「光一、そっち戻ったらさ、一緒に登ろうな、」
「おう、楽しみにしてるよ?…英二、」

気恥ずかしげなトーンに名前、呼んでくれる。
このトーンを何度もう聴いてきた?穏やかに微笑んで英二は、正直に頷いた。

「うん、楽しみにしてる。明日も気を付けろよ、光一、」
「ありがとね、」

電話に繋いだパートナーの無事を祈りながら、見た空は光芒が広がりだす。
蒼穹は薄紅と黄金へと彩を変貌させていく、窓ふる光も陽の終わりに夜を兆させる。
きっと今、山の黄昏は光彩あふれて、太陽の眠る壮麗を見せていく。

―あの世界に帰りたいな、

そして願っていいのなら、恋する人を連れて帰りたい。
この今すぐには出来ないと解っている、けれど、いつかを信じて願っていたい。
そう信じることでしか今、自分を押えることも出来ないから。
そんな想い佇んだ耳元へ、透明なテノールが問いかけた。

「周太の具合、その後どう?」
「うん、元気だよ。なるべく無理させないようにしてる、」

答えた向こうで、ほっと吐息の気配がゆれた。
やっぱり心配かけていたんだな?少し自嘲に笑った向こうから、率直に訊かれた。

「それって夜の色ゴトも、ってコトだよね?おまえ毎晩、周太の部屋にいるんだろ、」
「うん、いつも一緒に勉強してる。そのために俺、ここに来たんだしさ。あれからはベッドでも、眠るだけにしてるよ、」

ストレートな質問への答えに、電話向うで微かなが吐息こぼれた。
きっと、本当に光一は心配していたろう。英二の性格をよく知っている分だけ、光一には気遣わさせている。
そんな心配を大きくさせることを数日前に光一へと言ってしまった、自責に微笑んで英二は謝った。

「ごめんな、光一。こんな馬鹿な悪い男でさ、いつも心配かけてるよな?」
「まったくだね、この俺を心配する側にさせるって、マジ危険な男だよね、」

からっと言って、可笑しそうに笑ってくれる。
けれど光一は明瞭に言ってくれた。

「ちょっと嫌なこと言うよ。おまえは勝手な悪い男だから、ソレで幸せだろね?でも、周太の性格も考えてから、ヤってくんない?
えっちのことに口突っ込むの嫌いだけどさ、おまえマジで無理させすぎてるんじゃないの?だからこの間だって周太、倒れたんだろ?」

数日前、周太は低体温症で倒れた。

その日は吉村医師の特別講義があった、それで光一も補佐として警察学校を訪れている。
そのとき光一に周太を気遣うよう釘を刺されていた、吉村医師も周太を心配してくれた。
吉村医師は病理学的に周太の疲労を心配し、光一は英二の性癖から心配をして助言を聴かせてくれた。
それなのに見過ごして、周太をひとり屋上で雨に撃たれさせてしまった。そして疲労の溜った体は低体温症に斃れた。

あのとき、どうして周太の異変に気付けない?
あのとき、図書室に行くという言葉を真に受けて、目を離してしまった。
後にして思えば周太の行動は予想できたことだった、もっと注意深く見ているべきだった。
けれど全てに後悔しきれていない自分もいる、それに自責が痛みだす。あの雨の夜から見つめる想いに英二は正直に口を開いた。

「俺こそ酷いこと言うよ、光一?俺はね、いっそ周太が体を壊して、辞めてくれたら良いって思ってるんだ、」

電話の向こう、息を呑む。
想ったとおりの反応に英二は、静かに微笑んだ。

「もし、周太が体を壊して辞職すれば、あいつらも追いかけて来ないだろ?体がダメになった周太は用無しのはずだからさ。
あいつ等が欲しい能力を失えば周太は脱け出せる。そうしたら連鎖も終りだ、俺と周太には子供も生まれないから、次も無い。
そうしたらもう、全部終わりだ。あいつらの計画も目論見も、全部ぶち壊してやれる。そしたら俺は満足だ、いい気味だって笑うよ、」

連鎖の束縛が求めているのは「能力」だけ。
それなら周太から能力を奪ってしまえば良い、そうすれば周太を掴まえる動機は消滅する。
これが最も手っ取り早い「湯原家の連鎖」を絶ち切る方法、これで周太は完全に解放される。
けれどこれは最も残酷な方法。
それでも本当は選んでしまいたい自分がいる、そんな想い微笑んだ向こう、透明な声が問いかけた。

「おまえ、なに言ってるのか解ってんのか?…周太のこと、壊して良いって思ってるのか?」
「思ってるよ、」

迷わず即答して、微笑が口許を侵しだす。
穏やかに笑んだ唇から、本音そのままを英二は言葉に変えた。

「周太に死んでほしくない、傍にいて笑ってほしい。それが叶えられるなら周太の体、すこし壊れてもらって構わない。
それでも俺、周太を幸せにする自信あるから。それにさ、そうなったら周太のこと、完全に俺が独り占めできるだろ?好都合だよ、」

自分は残酷だ。

離れたくない独占したい、そんな理由で恋人の体を壊しても良いなんて想ってる。
こんな自分の恋愛は狂気だ、あの壊された本から消えた「異形の恋愛」と何も変わらない。
家の書斎に遺された『Le Fantome de l'Opera』あの恋愛小説から隠されたFantome「仮面の男」とは、自分こそが同類だ。

“ Fantome:化物、彷徨する、幻想 ”

切り落とされたキーワード『Fantome』の意味が自分に跳ね返る。
さまよう化物が見つめる幻想、その意味が自分にはよく解るから。
この『Fantome』を無理矢理に冠された人々よりも、自分こそがこの名に相応しい。

―本物の仮面の男が、『Fantome』の鎖を叩き潰すってことだな?

こんな考えが可笑しい、浅はかな人間たちの思惑が可笑しい。
きっと彼らは『Fantome』を手に入れたと喜んでいるのだろう、今も周太を見張りながら法の正義に酔っている。
けれど彼らは何も解っていない、本物の『Fantome』は恋愛に貪欲な化物じみた男なのに?
そして自分ほど「仮面」が得意な男もいない、自嘲と英二は綺麗に笑いかけた。

「でも俺、解ってるんだ。そんなことしても、周太を本当の意味で救けたことになんかならない。だからしない。
お父さんの真実を周太は自分で見つけたいんだ、それが終わるまでは14年前の夜は終わらない、周太は何も前に進めないんだ。
それが解かるから俺は、周太の体を傷つけない。だから安心して良いよ、光一?但し『夜のコト』は止めるつもり無いけどさ、許してよ?」

ほら、こんなに自分は身勝手だ?
けれどこれが正直な本音、身勝手な惨酷でも、これが自分。
こんな恋愛しか出来ない自分を、唯ひとりのアンザイレンパートナーはどう想うのだろう?

「ふん…マジ、危険な男だね、おまえ?」

透明なテノールが溜息にこぼした。
いま電話に繋がれながら、アンザイレンパートナーは応えに微笑んだ。

「周太のことだからね、ガッコでえっちするとかってストレスだと思うよ?おまえはヤバいの嫌いじゃないだろうけどね、
そういうの周太は本当は無理してる、だから周太に疲れが溜まるってことくらい、ホントはおまえなら気づいてるんだろ?
でも、おまえはヤりたいんだろ?奴らに肚立ってるから、余計に拍車が懸ってんだろ?でも、それだけで抱いてるんじゃないね?
この研修が終わったら、ちょっとすりゃ異動だ、もう『今』しかチャンスが無いってヤるんだろ?おまえの美しい笑顔か泣顔で迫ってさ、」

さすがに察しが良いな?
感心しながら英二は、きれいに笑いかけた。

「ぜんぶ当たり、」
「あーあ、マジ危険馬鹿男、」

呆れながらも可笑しそうにテノールが笑う。
仕方ないな?そんな寛容が困りながらも笑ってくれる、そんな相手だから「血の契」すら出来たとまた肚に落ちる。
この大らかな優しさが自分は好きだ、どこか山のような相手に笑って英二は、正直に言った。

「おまえなら解ってるだろうけど俺、ちょっと楽しんでるとこある。不謹慎だし軽蔑されるだろうけどさ、でも構わない。
正直に言うと今、苛々するくらい肚が立ってる。あいつらの正義と都合ってやつを全部を叩き壊したい、だから違反とか気持ち良いよ?
なにより今のチャンスを逃したら俺、ずっと後悔し続けると思う。この研修が終ったら夜も一緒にいられること、もう期待できないから」

法の正義、組織の都合。今、その全てに腹が立つ。

どうして馨は死んだ?
どうして馨は夢を諦めなくてはいけない?
どうして馨の家族は苦しみ続けてきたのか、重たい連鎖は何故生まれた?

50年前、川崎の住宅街で響いた一発の銃声。
そして放たれた一発の銃弾、生み出された2つの射殺遺体。
それを創りだした意図は何なのか、そこに偶発性なんか本当はもう、自分は見ていない。

なぜ敦の誕生日に家まで、解雇された男が尋ねてきたのだろう?
なぜ男は川崎の家を知っていた?まだ情報が今ほど流れていない時代なのに?
なぜ警視庁の男はあの瞬間すでに家にいたのだろう、まだ宴席は始まる前だったはずなのに?
そして銃撃事件にも関わらず全てがスムーズに「秘密裏」と出来た、これら全てのタイミングは本当に偶発?

あの事件の全てが「法の正義・組織の都合」なのではないか?

そう自分は疑い始めている。
そして確信は事実が見えるほどに、どす黒く変貌を見せていく。
あの古い写真たちに残された敦の血痕、あの色彩があざやいで、心の肚に怒りと哀しみを染めあげる。

―赦せない、俺は

恋する人と、その家族を踏み躙り続けることが赦せない。
本当は今すぐにでも滅茶苦茶にしてやりたいと思い始めている、けれど時を待っている。
いちばん相手を叩き潰せるチャンスを狙って見つめている、いろんな考えと計画を見張りながら。

なによりも「今」限られてしまった時間、それに向かう焦燥感は止まない。
だからこそ今を後悔しないよう生きていたい、自分の中の優先順位を間違えたくはない。
そんな想いと窓に佇んでいる向こうから、透明なテノールが笑ってくれた。

「今、止めるだけ野暮ってコトくらい解ってるよ?でも周太のこと傷つけないでよね、でないと俺がキレちゃうからさ、」
「うん、ありがとう光一、」

また受けとめて貰えた、こんなに惨酷で身勝手な自分なのに。
このパートナーへの信頼がまた深くなる、そして切ない罪悪感に英二は微笑んだ。

「ほんとにごめん、こんなこと光一に話すなんて酷いよな?でも、正直に話したかったんだ、聴いてほしかった、」

全てを聴いて、そして受けとめてほしい、唯ひとつの『血の契』に繋がれて。
そんな願いを唯ひとりのアンザイレンパートナーに想う、この想いへと光一も笑ってくれた。

「ホント酷い男だよ、オマエって。残酷なことばっかいう癖に、どうせ別嬪の笑顔でいるんだろ?」
「まあね、」

さらり短く答えて英二は微笑んだ。
そして素直な光一への想いを唇に載せて、綺麗に笑った。

「ありがとな。やっぱ光一じゃないと、俺のパートナーは無理だって思うよ、」
「なんだよ、俺まで誑しこむ気だろ?ま、嬉しいけどね、」

悪戯っ子なトーンで透明な声が笑う、こんなふうに明るく笑い飛ばされることが嬉しい。
あの雨に覚悟しても今、やっぱり心までは辛さも哀しみも誤魔化せないから。
だから笑ってくれると救いになる、こんなに救い求めるほど本音は苦しい。

けれど今の苦しみすらも恋人に繋がるのなら、それでいい。
いくら泣いても構わない、その分いつか笑えるのなら、それでいい。
幸せを掴みとる「いつか」を信じて今、なすべきことをなせばいい。

信じる瞬間を見つめて「今」を積み上げる、その向こうからほら、鎖が姿を見せる。
運命の瞬間は夏に化けて、鎖の思惑が凝視する。

けれど、鎖に曳きまわされ破壊に堕ちるのは、いったいどちらだろう?




デスクライトの灯りのなか、周太のペンが奔っていく。
ペンの滑るページは救急法の知識が詰められて、すでに沢山のメモたちが几帳面に並んでいる。
この初任総合が始まって2ヶ月ほど、その毎晩を学んだ軌跡が残されてある。

救命救急法、法医学、そして拳銃とライフルの狙撃データ。
周太に必要な知識を1つでも多く収集して、ファイルに綴じ込んだ。
もう2度目の異動後からは、英二が周太の傍にいることは出来ないだろう。
けれどファイルなら周太に付いていける、だから無事に周太が生還する援けをファイルに詰め込んだ。

たとえ0.1%でも多く、生還する可能性が増えてほしい。

その祈りと願いを籠めて7ヶ月間、このファイルを作りあげた。
このファイルがどうか救けになるように、そして心身とも無事に笑顔を見せてほしい。
この今も懸命に知識を心に映す、この体も心も想いの全てが、どうか自分の懐に帰ってきますように。
そんな想いと見つめるペン先が止められる、その隙を逃さす英二は、恋人の掌からペンを抜きとった。

「周太、今夜はここまでにしよう?」

微笑みながらファイルも閉じてしまう、その腕に花がふれる。
端正に活けられた青と白の花から清澄な香こぼれだす、この花は今日の華道部で活けた花。
それぞれ選んだ花を周太は、2つながら共に1つへ活けてくれた。

花すらも居場所を共にし、茎を合わせ共に咲く。
そんな姿に想ってしまう、人である自分も恋しい人と共にしたい。
ほらまた温もりの肌を求めてしまう、光一に釘をまた刺されたばかりなのに?
けれど自分のルールに今夜も従ってしまうだろう、そんな意図に英二は恋人へと笑顔ほころばせた。

「きれいに活けてくれたね、周太、」
「ん、ありがとう…気に入ってくれる?」

活けた花に気付いてもらえると嬉しいな?
そんなふう黒目がちの瞳は微笑んでくれる、この幸せ見つめながら英二は正直に笑いかけた。

「もちろんだよ、でも周太がいちばん綺麗だけどね、」

言った途端に周太の首筋へと紅さし初めていく。
こういう恥ずかしがりが可愛くて、血潮の紅が綺麗で見たくて、つい恥ずかしがらせてしまう。
そんな想いと首筋を眺めながら机を片づけて、英二は恋人の体を椅子から抱きかかえた。

「ほら周太、もう寝よう?」

この「寝る」の意味を、君は解かってくれる?
そんな想い籠めて見つめるけれど、純粋な瞳はきっと気づいていない。
こんな初心のままが愛しくて嬉しい、そんな想いと見つめる真中で周太は頷いてくれた。

「はい…寝るね?」
「素直で可愛いね、周太は、」

微笑んでベッドに抱き降ろすと、英二はデスクライトを消した。
ふっと夜の闇が部屋を満たして、視覚から静謐にとり囲まれる。
この闇に隠しこんで秘密に守られたい、願いを闇に見つめながらベッドに身を入れた。

この夜も、誰にも邪魔させない。

いつも自分が遵奉する規則、規律、そんなものは今どうでもいい。
あいつらの思惑が嫌いだ、あいつらが決めた都合に従うほどには、従順でもなければ善人でもない。
こんな自分を軽蔑するならすればいい、警察官らしくなくても自分らしければそれでいい。
ただ自分に正直なまま、本当に大切な記憶をこの掌に掴んで、後悔しない瞬間を重ねたい。

「周太、緊張してる?…かわいい、」

ほら、見つめる黒目がちの瞳が今も、途惑っている。
こんな純粋な瞳に見つめられたら黒い心まで侵略されて、こんな自分の愚かさも身勝手も浄化されそう?
こんなふうに誰にも想ったことが無かった、きっとこの先も他の誰にも想えない、この幸せな侵略の視線には出会えない。
この視線にもっと自分を侵略させたい、自分だけ見つめてほしい、恋する鎖で縛り上げられ曳きずられたい。
そんな願いに微笑んで英二は、恋人の肌に唇でふれた。

「あの、英二?…なにしてるの、寝るんじゃないの?」
「寝るよ、周太…もうひとつの意味でね、」
「もうひとつのいみってなに?…あ、」

問いかけに、唇で封印のキスをする。
これからの時間は言葉は要らない、お互いの温もりが想い交してくれるから。
この時間を誰にも邪魔させない、誰にも許可を願うつもりも無い、懺悔したい相手はいるけれど。

―明日、話さないといけないな

最後にそれだけを想って、深いキスに恋の主人を抱きしめる。
抱きしめてシャツのボタンをひとつ外す、夜の許しを強奪するために。
これは身勝手だと知っている、光一に言われた通り無理させると解っている、けれど赦しを奪いたい。

ただ幸せに攫いこみたい、この夜の帳を味方につけて、幸福の瞬間に今を染めあげて。




(to be continued)

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第53話 夏衣act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-24 23:58:38 | 陽はまた昇るanother,side story
想い、時を越えて抱きしめ



第53話 夏衣act.4―another,side story「陽はまた昇る」

まるい実を充たした籠から、ふわっと初夏が香りたつ。
笊に青梅と熟した黄色の実を簡単に分けていく、そのたび香は空気を染めて甘くなる。
あまずっぱく瑞々しい梅の香は馥郁として、台所の空気のいろが変えられる。

「周太、佳い香だな?」

端正な笑顔が幸せに咲いて、隣で作業を手伝ってくれる。
この香を悦んでくれることが嬉しい、嬉しさと周太は微笑んだ。

「ん、いいでしょ?俺、この香が好きなんだ、」

ざあっ、

水道水を盥に充たして、笊の実を漬けていく。
こうして水に漬けこんで灰汁を抜かせる、それから調理に使う。
たくさんの実をどれだけ何に使おうかな?そう考えながら蛇口を止めると英二が尋ねた。

「周太、お母さんに手帳を見せるの?」
「ん、そう…あのね、お母さんに渡そうと思うんだ。お父さん喜ぶかな、って、」

答えに微笑んで、周太は婚約者を見上げた。
あなたは何て想う?そう目で訊いた問いかけに、綺麗な低い声は穏やかに微笑んだ。

「うん、そうだな。それが一番、お父さんが喜ぶかもしれないな、」

同じように想ってくれるんだ?
嬉しくて周太は綺麗に笑いかけた。

「英二もそう思う?…だったら俺、間違っていないよね、」
「ああ、お母さんの所に帰らせてあげるのが、いちばん良いかなって思うよ。お母さんも本当のこと、知りたいだろうから」

きれいな笑顔の言葉たちが背中を押してくれる。
ほんとうは少し迷っていた、あの手帳は決して無残では無いと言えないから。
けれど、あの母なら真実を知りたいと本当は願っている。そして父も本当は知ってほしかった、そう想うから。
そんな想い微笑んで周太は、大好きなひとへ頷いた。

「ん、ありがとう…じゃあ俺、お母さんの部屋に行ってくるね?」
「行ってらっしゃい、周太、」

すっと優しい笑顔が近づいて、やさしいキスが唇ふれる。
その感触がなんだか安らかなのは、ここが家だからだろう。
本当は警察学校でこうされる瞬間は胸が痛い、けれど今はただ幸せが優しい。

…好きなひとに自由にふれられるの、いいな…

ほっと安堵のよう心に想いこぼれだす。
そして自覚が胸を刺す、こんな自分は本当に警察官など向いていない。
そんなことは何度も考えてきた、警察学校に入った時からずっと。けれど今、この初任総合の期間に尚更と気付かされる。
唯でさえ警察官は危険が多くて、なかでも適性を問われる部署への配属を望むことは、自分に向いている訳が無い。
それでも自分は引き返す心算も止めることも出来ない、今日も手帳に誓ったばかりだから。

誓って、また覚悟した「2度目の異動後」に自分がどう生きるべきか。

きっと苦しみが多い、けれど目的を果たすまで生きぬくには、仕方ない。
そんなふうに目的のため諦めることは、きっと自分は出来るはず。
諦めることは苦しいけれど、諦めることすら無いゼロよりずっと良い。

だから今この瞬間が愛しい、自由にふれられる幸せが温かい。
この今を記憶に刻みこんでおきたい、1つでも多く温もりを憶えていたい。
そしていつか諦めることを終わらせる瞬間まで、記憶の温もりに抱かれていられるように。
そんな想いにキスは離れて、きれいな笑顔が尋ねてくれた。

「周太、俺も後で、お母さんとすこし話して良いかな?」

英二も手帳のことを母に話してくれる?
そんな予想をしながら周太は素直に頷いた。

「ん、もちろん…コーヒー淹れる時間もあるし、お母さんも時間あると思う、」
「そっか、良かった、」

笑ってくれる切長い目は優しくて、温かい。
この笑顔を見ていたくて、その為に自分は何でも出来るとまた、想いが育つ。
この想いのために勇気ひとつ抱いて今日まで来た、この想いは何があっても変えたくない。

…この人のためなら、罪でも背負えるから

そっと心に呟きながら微笑んで、周太はステンドグラスの扉を開いた。
ホールは深として静謐が安らいでいる、階段を昇る軋みが軽く木の音を鳴らす。

ぎっ…ぎっ…

経年の木の音はどこか優しいのは、曾祖父や祖父たちの温もりが踏んだから?
そんな想いに見上げる踊場のステンドグラスから、青と赤の光が揺らいで降りそそぐ。
すこし今、風が吹いている?そうガラスから外透かすと、木々の梢たちは柔らかに風そよぐ。
この樹木たちも家族たちが植えて、育ってて、大切に守ってきた。
その人たちのことを今日、すこし知ることも出来た。
そのことも母に話してあげたいな?そんな想いと自室に入ると、机の抽斗から白い封筒を取りだした。

「…ん、」

古い封筒へ小さく頷くと、すぐ踵返して廊下に出る。
そして母の寝室をノックすると、やさしい声が応えてくれた。

「はい、どうぞ?」

声に扉を開くと、パンツとカットソーに着替えた母は窓辺に佇んでいた。
いつも見慣れた姿なのに緊張してしまう、今から見せる物への反応を想うから。
そんな緊張に見つめる先で母は笑って、チェストの上から畳紙をベッドに降ろしてくれた。

「見て、周太?」

笑いかけ母は畳紙を開いてくれる。
開かれた白い紙包みを覗きこむと、藍の鰹縞が鮮やかに映りこんだ。

「きれい…浴衣、絹紅梅だね?」
「そう、英二くんに作ってみたの。どうかな、」

言いながら博多織の角帯を包みから出して、合わせてみてくれる。
白地に紺と深紅が華やいだ帯は、藍染めの浴衣に映えて美しい。
こういう心遣いをしてくれる母の心が温かい、嬉しくて周太は母に笑いかけた。

「素敵だね、きっと似合うよ?ありがとう、お母さん、」
「でしょう?英二くん背が高くてスタイル良いから、大きな縞も着こなせると思って、」

楽しそうに笑って畳紙を閉じると、帯と一緒に置いてくれる。
きっと似合うだろうな?そんな楽しい想像の後、周太はひとつ呼吸して口を開いた。

「お母さん、俺、今日は安本さんに会ったでしょう?それで預ってきたものがあるんだ、」

闊達な黒目がちの瞳が、すこし大きく瞠られる。
きっと聡明な母は「安本に預かった」でどういう物かを理解した。
その理解を黒目がちの瞳に見つめて周太は、白い封筒を差し出した。

「お父さんの手帳だよ、お母さん…安本さんが、預ってくれていたんだ。いつか俺に渡そうって思って」
「…そう、」

ため息のよう呟いて、母は微笑んで封筒を受け取ってくれた。
窓辺に封筒を見つめる黒目がちの瞳が、すこし潤んでいく。それでも母は周太に笑いかけてくれた。

「座っていいかな、周?」
「ん、」

促されて、窓際のソファに母子並んで腰を下した。
ゆるやかな光がオレンジを帯びて、足元を照らすよう射してくる。
穏やかな光のなかで母は、静かに白い封筒から手帳を出した。

焦げた穴の開いた、古い手帳。
この手帳の記憶は周太にもある、よく父は息子との予定も書きこんでくれたから。
あのころ日常だった幸福を見つめながら、静かに口を開いた。

「これ、銃弾の痕なんだ…だから焦げてるの、それでね、これ、」

話しながら、そっと手帳のページをめくる。
開かれた弾痕の開いた白ページ、古い写真と2枚の花びらを示して、周太は微笑んだ。

「俺の写真をね、お父さん、いつも持っていてくれたんだ…いつも安本さんに自慢してくれていたんだって、教えてくれたよ?
お母さんのお蔭で、俺が良い子なんだって話していたんだ、お父さん…すごく幸せそうに自慢してくれたんだって、言ってたよ?」

母の瞳が、古い写真を見つめている。
古い写真は黒い染みに染められて、焼け焦げた穴が穿たれ当日の無残を伝えてしまう。
それでも写真の背景には、満開の桜はなやぐ山頂が、今も鮮やかに遺されていた。

「ね、お母さん?…これって、丹沢の山だよね?…家族三人で、一緒に登りに行った時のでしょう?」
「ええ、そうよ…ここがね、お父さんとお母さんの、初めてデートした山なの、」

答えてくれる母の横顔は、透明な笑顔を湛えて写真を見つめている。
その視線の先で、2枚の古い花びらが此方を見つめるよう、黒い染みのある白いページに佇んだ。
その花びらの意味を周太は、穏やかに笑って口にした。

「お母さん、この花びらはね?あの日、お父さんが園遊会の警護をしていたとき、掌に載った花びらなんだって。
全部で3枚、掌に載ってね?1枚を安本さんにあげたんだ…そしてね、この2枚は俺と、お母さんへのお土産なんだって。
ね、見て?きれいな押花になってるでしょう?…それでね、この黒い染みなんだけど、写真とページにもついてるんだけど、これ、」

言いかけて、言葉が咽喉にひっかかる。
瞳から熱がこみあげかける、それでも今はまだ泣きたくない。
今は、きちんと父の想いと真実を母に伝えなくてはいけない、それは二人の息子である自分の義務で権利だ。
だから泣くことを自分に赦したくない。ひとつ、想いと一緒に息呑みこんで、周太はありのままを言葉に変えた。

「これはね、おとうさんの血なんだ、ね、お母さん?お父さんはね、帰って来たかったんだよ…だから手帳に名残をつけたんだよ。
いつも持っていた手帳にも、お土産の花びらも、おれのしゃしんにも…おとうさんのちをつけてね…うちにかえってきたかったから」

声が、ふるえだす。
涙はもう際まで迫り上げて、けれどまだ泣きたくない。
また息を呑みこんで、ゆっくり瞬いて、そして周太は明瞭に想いを伝えた。

「お父さん、幸せだから帰りたかったんだよ、お母さんと俺との家が幸せだったから。この血も、生きていた証拠に残してくれたんだ」

きっとそれが、父の想い。

父の想いを最後に綴った、父の血痕。
きっとこれが父の最期のメッセージ、自分の血で想いを染めてある。
たしかに血痕は意図して付けられるものじゃない、それでも、これが偶然の結末の姿だとしても父の意志だと信じたい。

この想いを母は、なんて想ってくれるだろう?
そう見つめた横顔はゆっくり振向いて、周太に美しい笑顔を見せてくれた。

「そうよ、お父さん、すごく幸せだったのよ?この家で私と周太と過ごして、三人で山に登って、幸せに笑ってた、」

母も、同じように想ってくれた。
きっと、きちんと父の想いを伝えられた。それが嬉しくて心ほぐれだす。
つい大きく迫り上げかける嗚咽呑みこんで、周太は母に笑った。

「ん、そうだね?いつも三人で楽しくて、幸せだったね、お父さんも、お母さんも俺も、」
「ええ、ほんとにそうね、」

周太の言葉に母も頷いてくれる。
ふたり手帳を覗きこんで、そっとページを捲っていく。そこに文字を見て周太は指さした。

「ね、見て?」

開いた4月のページに、予定が書きこまれているのが読める。
その予定に懐かしさをつめて、周太は小さく笑った。

「お母さん、ここ。お母さんの旅行と、奥多摩に行く予定、書いてくれてあるね?」
「あら、ほんとね?お父さん、ちゃんと書いてくれたね?」

母も一緒に見つめて、笑ってくれる。
ページの殆どは血が染みて読めない、けれど、この予定は紺色のインクも鮮やかに残されていた。
ほら、こんなことからも父は想いを伝えてくれる。この伝えられた想い素直に周太は言葉に変えた。

「ね、お母さん?お父さんは約束を守りたかったね、帰ってきて約束を守ろうってしてくれてた…ね、」

語尾がすこし詰まってしまう、もう瞳は涙あふれる準備をしだす。
今にも泣いてしまいそう?けれど父の想いが温かで、嬉しくて微笑んだ先で黒目がちの瞳が微笑んだ。

「ええ、そうよ。お父さんは絶対に約束は守りたい人だもの、あの日も帰って来たかったわ、」

お母さんも、そう想ってくれる?
同じよう母も想ってくれる、それならきっと、これは父の真実と本音。

そう確信が心を温めて、ゆっくり瞳の熱が涙へ変わりだす。
すこしずつ紗に覆われていく視界のなか、白い手はそっと手帳を閉じた。
その手は捧げるよう手帳を包んで、静かに母の胸へと抱きしめる。そして穏やかなアルトの声は、時を越えて微笑んだ。

「おかえりなさい、馨さん、」

ふたり、黒目がちの瞳から、窓ふる光に涙こぼれた。



コーヒーを淹れるセッティングを済ませると、周太は静かに扉を開いた。
そっと扉を閉めたホールに、かすかな話し声がテラスから聞こえてくる。
綺麗な低い声と、やさしい穏やかな声、どちらも大切な人たちが話す声。

…やっぱり、しばらく終わらないね?

もうすこし話が続きそうな気配に微笑んで、周太は2階へとあがった。
静かに書斎の扉を開けると、ほろ苦く甘い、深い香が頬を撫でてくれる。この香は父の匂い、14年経っても気配と一緒にここに居る。
こうして遺された父の欠片たちに何度、自分は慰められてきたのだろう?

「おとうさん、聴いてくれる?」

書斎机の写真に笑いかけて、周太は書架の前に立った。
すぐ紺青色の背表紙を見つけ、手を伸ばす。厚みの割に軽い本を手に取ると父の写真へ微笑んだ。

「お父さん、安本さんから手帳を預ったよ?ずっと大切にしてくれてたんだ…それでね、お母さんに渡したよ、」

紺青色の本を抱いて、書斎机の椅子に腰かける。
紅萼紫陽花ほころぶ影の下、父の笑顔は写真から見つめてくれた。

「ね、お父さん…お母さんね、お帰りなさいって泣いて、幸せに笑ったんだ…帰ってきて嬉しかったね、お父さんも、」

話しかける写真の向こうから、記憶の声が笑ってくれる。
もう14年も過ぎ去った時の彼方、けれど父の声はまだ心の深くから響きだす。
ほら、こんなふうに記憶の想いは色褪せない。だから英二との記憶だって大丈夫、そう思った途端に熱は瞳あふれた。

「おとうさん…おれ、がっこうなのに英二とね…キスしたりしてるの」

告白が、あふれだす。

こんなこと言うのも変かもしれない、けれど誰かに聴いてほしい。
でも誰にも言うことは出来ない、それでも父にだけなら言うことは赦される?
なによりもう、この心が胸が軋んでしまう、せめて今を弱虫のまま抱きとめてほしい。

「ダメだって解ってる、警察官なのに規律を守れないのはダメでしょう?…軽蔑されても仕方ない、でも俺、ダメなんだ。
もう今しかないって思うと、嫌だって言えない…だって俺の方こそ本当はしたいから…記憶がほしくて、1つでも多く覚えていたい。
ね、おとうさん?こんなのずるいって思うけど…男同士だから今も一緒にいられて、キスしたりできるね…幸せなんだ、今、でもね…」

涙が頬つたう、ほらまた自分は泣いている。
今日は新宿で安本の前でも泣いて、帰ってからも英二の前で泣いて、母の前でも泣いた。
そして今また父の前で泣いている、こんな泣き虫の癖に13年間は心ごと涙を閉じこめてきた。
それが今もう心の壁あふれて止まらない、こんな泣き虫が警察官として生き残れるの?そんな想いに周太は微笑んだ。

「キスしてくれるの幸せで…ベッドでしてくれるのも幸せで…でも本当はダメだって思うの痛い、友達に嫌われるかもって怖い。
それなのに俺、止められないの…英二が笑ってくれるの見ていたいの、英二の体温を感じていたい、できるだけ近く傍にいたい。
おとうさん、ほんとは1月に俺、もっとひどい規則違反…威嚇発砲したよね、それも光一に…あのとき本気で殺そうとも思ってた、
あれも英二のことでして…あんな馬鹿なことするほど自分勝手なの、今も同じに身勝手で、規則違反でも恋人として一緒にいたい、
ね、おとうさん、ほんとに酷いでしょ、俺って…こんなでも首席だなんて変だよね、俺ほど向いてない人いない、でもやめたくない、」

ほんとうに自分は、ひどい。

こんな自分の癖に父を追い掛けたくて、そのためだけに警察官になった。
そして英二のために今を生きたくて、英二の笑顔を見たいだけの理由で規律違反でもしてしまう。
こんなに個人的理由ばかりの自分は、本当は警察官になるべきじゃない。この想い正直に周太は微笑んだ。

「ね、警察官って社会のためっていう仕事だよね?でも俺は、お父さんのこと知りたいだけ…ほんとは社会なんてどうでもいいの。
もう俺、英二の笑顔が見られることが一番なの、ほんとに大好き…英二の笑顔が見られるなら、規則違反でも何でもしちゃうんだよ?
だから…今すぐ警察官を辞めて一緒にいたいっても思う…でも俺、お父さんのこと知りたいから止められないんだ、止めたら後悔する、」

涙また零れて、けれど周太は微笑んだ。
こんな息子で父は呆れている?それとも笑ってくれるだろうか?

「こんな俺なのにね…それでも、お父さんのいた場所に立ってみたい、そこで精いっぱいに自分が信じていることをやってみたいんだ。
それにね、英二がいるからこそ、お父さんのいた場所でも生きていけるんじゃないかって思うんだ…だから俺、異動したら志願するね」

きっと、夏の間には異動するだろう。
そして暫くしたら志願を問われる、そのレールは既に敷かれたろうから。
けれど自分はレールのままには動かない、自分には自分の意志がある。この意志に周太は微笑んだ。

「SATに志願するね、お父さん?俺には、お父さんみたいには任務を果たせない。きっと無理だって解ってるんだ、それでも行くよ?
だって俺は、お父さんが本当にしたかったことが出来るかもしれない。俺には英二が教えてくれたことがあるから、出来ると思うんだ、」

何を息子がするつもりなのか、父にはもう解かってるだろう。前にも少し話したから。
そんなふう父の理解と紺青色の本を抱きしめながら、周太は訊きたかったことを問いかけた。

「お父さん、曾おじいさんは山口から来たんだね?それで、おじいさんは学者だったんでしょう?それもフランス文学の偉い先生で。
お父さんもフランス語、上手だよね?…英語も上手で、本のことも詳しくて、ラテン語まで出来たよね…これ普通のレベルじゃないね?」

問いかけに、写真の笑顔は穏やかに見つめ返してくれる。
その笑顔は「警察官」だとは本当に思えない、もっと相応しい姿を周太は口にした。

「ね…お父さんも本当は、学者になりたかったんでしょ?おじいさんみたいに…それなのに、どうして警察官になったの?」

どうして?

あの屋上の雨のなか、泣きながら考え続けた疑問。
あのときの想いが今もあふれだす、そして涙と言葉がいっぺんに溢れだした。

「おとうさん、ほんとは自殺したんでしょ?殉職に見せかけて、自分で自分を裁いたんだよね?それくらい任務が嫌いだったね?
どうしてこの本まで切っちゃったの?これ、おじいさんの本なんでしょう?そんな大切なもの壊して、自分まで壊すほど嫌なんだよね?
おじいさんのこと何も話してくれなかったけど、大好きなんでしょ?…大切な人の本だから壊しても捨てられないんでしょ、ね…どうして?」

紺青色の壊れた本『Le Fantome de l'Opera』大切な祖父の本。

この本を壊した理由は「自殺の覚悟」だとしたら、「大切なものを壊すこと=自殺」なのだとしたら。
それほど大切に祖父のことも思っていた筈、なのに自分にも祖父のことを話さなかったのは、何故?
それくらい哀しい理由があったのだというのなら、その理由に想えることは今は1つしか浮かばない。

「ね、ほんとうは、おじいさんと同じ学者になりたかったんでしょう?でも警察官にならなきゃいけなかったの?
だから哀しくて、俺にもおじいさんの話をしなかったの?どうして学者にならなかったの、お父さんならなれたでしょう?
変だよ?どうしてSATになんか、狙撃手になんかなっちゃったの?なぜ、死んで償うほど嫌いなこと志願したの?ね、変だよ?
だって志願制でしょう?いくら選ばれたって断れたはずでしょう?警察官を辞めることだって出来るはずだよね、なのにどうして…っ」

かたい嗚咽が喉をつきあげる、けれど飲み下す。
涙の向こうに父の笑顔を見つめて、周太は哀しい疑問を問いかけた。

「ね、死んじゃうほど嫌なこと、どうしてしちゃったの?どうして逃げなかったの、逃げても恥ずかしいことなんかじゃない、
死んでしまうんなら逃げてよ、なぜ辞職しなかったの?ほんとうは警察官になりたくなかったんじゃないの?なのにどうしてなったの?
教えてよ、おとうさんっ…どうして警察官にならなきゃいけなかったの?自分から殉職を選ばなきゃいけないなんて、どうしてそんな」

静かに涙はあふれていく、もう今日は泣くのは4度目なのに涙は尽きない。
こんなに泣いてしまう自分は泣き虫の弱虫、けれど父の想いを受けとめたくて周太は、壊された本を抱きしめた。
きっと祖父が大切にしていた本、そして父が壊してしまった「ページの欠け落ちた」古い本。
この本に遺された祖父と父の想いは、どうしたら見つめられる?

『Le Fantome de l'Opera』

まるで空木の枝のように、芯が抜かれたフランスの本。
この欠け落ちたページの空洞には、どんな理由と秘密が隠されている?
この空洞を作りだした父の真実と姿は、想いは、どうして隠されなくてはいけない?

「おとうさん、おれは探すよ?…おとうさんが苦しいことを一緒に苦しみたいよ、一緒に泣きたいんだ、独りになんかさせない。
おとうさんを独りぼっちのまま死なせたの、ほんとに哀しくて苦しいよ?…だから、お願いします。お父さんの素顔を見せて下さい…」

願いと一緒に笑いかけた頬を、涙が伝っていく。
そのとき階下で扉が開く音がして、周太は涙を拭った。

「お父さん、聴いてくれてありがとう…俺、コーヒー淹れてくるね?…お母さんと英二、待たせちゃうから、行くね?」

涙を納めながら微笑んで、周太は立ちあがった。
もう一度だけ壊れた本を抱きしめて、書架へと戻し入れる。
そのまま書斎の扉を開いて廊下に出ると、そっと扉を閉じて洗面台へと向かった。





(to be continued)

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