萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第67話 陽向act.6―another,side story「陽はまた昇る」

2013-07-31 20:55:10 | 陽はまた昇るanother,side story
手紙、永遠の約束へ 

 


第67話 陽向act.6―another,side story「陽はまた昇る」

そっと抱きしめるブックバンドの一冊に、懐かしい俤が温まる。

さっき贈られたばかりの一冊は無名かもしれない、けれど自分には宝物。
たぶん母にも宝物になる、そして祖父にとっては何よりも掌中の宝だろう。
そんな想いごとブックバンド抱きしめて歩く隣、青いギンガムチェック姿が振向いた。

「私、図書館に本返すの忘れちゃってた。ちょっと返してくるね、湯原くんたち先に帰ってても良いよ?」

あわい木洩陽に髪ゆらし美代は笑って訊いてくれる。
その逆隣りから闊達な声が笑いかけた。

「俺はバイトも予定も無いから大丈夫だけど、周太は急ぐ?」
「俺も今日は大丈夫、賢弥は図書館に用事ある?」

もし賢弥も用があるなら皆で図書館に行こうかな?
そんな思案と笑いかけた先、愛嬌の笑顔は軽く首振った。

「俺は無いよ、周太も無いならココで待ってよっか、」
「ん、そうだね、」

答えながら左腕のクライマーウォッチを見ると16時半、この時間ならちょうど良い。
前から考えていた事を今日はしたくて、その提案に周太は笑いかけた。

「美代さん、ここで賢弥と待ってるね、でね、良かったら帰りにラーメン屋さん一緒しない?」
「あ、宮田くんといつも行くお店ね?ぜひ一緒させて、待っててね、」

嬉しそうに笑って踵返すと青いシャツ姿は駈けだした。
小気味よく走っていく小柄な背を見送りながら、愉しげに賢弥が訊いてくれた。

「周太、ラーメン屋って俺も一緒していい?」
「ん、もちろん。今日はふたりと行きたいなって思ってたんだ、」

即答に笑いながら懐かしい顔が記憶から温かい。
あの店に行くのは異動してからは初めてになる、そして多分、今日行かなかったら次はいつか解らない。
だから今日は友達二人と行っておきたい、そんな想いの隣で眼鏡の瞳が明るく笑ってくれた。

「周太の常連の店って良さそうだな、どこにあんの?」
「新宿だよ、俺も去年教えてもらったんだけど…好きなお店なんだ、」

去年、そう言いながら首筋が店の記憶に火照りだす。
初めて連れて行ってもらった夏の一日、真相を聴いた秋の日、それから青木樹医と再会した冬の日。
あの店に自分の分岐点が廻ってくれた、そこにある父の俤を見つめる想いに友達が笑った。

「じゃあ周太には俺がオゴリな、小嶌さんの真似っ子だけど研究生になる祝ってやつ、」
「え、俺の方こそご馳走しようって思ってるんだけど…前に泊めてもらった御礼もしたいし、」
「あのとき酒とか買ってくれたろ?アレで充分だから気にすんなよ、あそこ座ろっか、」

ふたり笑いあいながら木洩陽を通り1号館の階段脇に座りこんだ。
9月の空はまだ明るくて農正門に陽は照りかえす、けれど大樹の翳にキャンパスは薄暮が蒼い。
その樹影から夕涼みの風が吹いてくる、額ふれる心地よさに瞳細めた隣で闊達な声が笑った。

「風透って気持ち良いな、もう秋だ、」
「ん、秋だね、」

微笑んで応えた季節に、もう心は波立たない。
秋が来ることは2度めの異動の時、その瞬間が本当はずっと怖かった。
けれど今は穏やかなまま恐怖は小さい、そんな心は知ってゆく事実と真実に支えられている。

―お祖父さん、お父さん、今日知ったこともぜんぶ大好きだから…きっと、どんなことでも俺は好きになるよ?

今日も辿れた祖父と父の過去、ふたりを想う人の心、その全てがただ愛おしい。
そんな想い微笑んで膝のブックバンドを見つめる隣から、温かい声が尋ねてくれた。

「周太、そこに挟まってる本の名前って、もしかしてオヤジさん?」

問いかけられた言葉の先、手許のブックバンドで布張表紙が温かい。
微笑んで周太は丁寧にバンド解くと深緑の一冊を両掌に捧げた。

「ん、父の名前だよ、」

答えた掌のなか、ふっと深緑が明るんで光やわらかに照らされる。
座る講義棟の階段にランプが灯った、その黄色やさしい光に銀文字が煌めいた。

『MEMOIRS』Kaoru Yuhara

今日、手渡された一冊は厚みの重さが温かい。
この本に籠められた想いへの感謝に周太は口を開いた。

「父の論文集なんだ、田嶋先生が父の為に作ってくれたの、」

微笑んで言いながら瞳の奥へ熱が生まれだす。
この本に籠められる全てが自分の瞳に熱を灯す、その想いを声にした。

「父が学生時代に書いた論文がね、全部これに納まってるんだ。父が亡くなったとき、田嶋先生が父の論文を全部纏めてくれたの。
大学の事務室に問い合わせて父の履修講義を全部ピックアップしてね、その担当だった先生たち全員を尋ねて、集めてくれたんだ。
文学以外の一般教養のレポートもある、父の大学4年間の全部がこの一冊に納めてくれてあるんだ…こんなに綺麗に装丁もしてくれて、」

父の論文集はシンプルだけど丁寧に造られて美しい。
きっと費用は安くなかった、そんな装丁に田嶋の父へ寄せてくれる友情と敬意が篤い。
その想いを自分の友達にも聴いてほしくて周太は深い緑色を見つめながら微笑んだ。

「田嶋先生はね、父のことを天才だって信じてくれてるんだ、父の研究を全て大切に遺したいからって私費出版してくれたの。
だから部数も少なくて買えない本で…だけど文学部の図書館とね、仏文と英文の研究室に納めてくれてあるって教えてくれたよ、
この一冊は俺にあげようって持って来てくれてたの、研究生になるお祝いにしたかったって…まだ俺が誰かも知らなかったのに、ね?」

微笑んで話しかけた先、眼鏡の瞳にランプの燈火きらめく。
この友人なら心全部で受けとめてくれる、そう信じた通りの瞳に周太は笑いかけた。

「この表紙、緑色なのは先生と父が一緒に登った山のイメージなんだよ?アンザイレンパートナーへの気持ちを籠めてくれた色なの、」

微笑んだ頬を風ふわり撫でて、シャツの衿元が涼む。
やわらかな夕風とランプに佇んで周太は素直な想いを声にした。

「俺ね、父にこういう友達が居てくれることが本当に嬉しいんだ…いつも優しくて穏やかな父だったけど、どこか寂しそうで。
だから青木先生にも感謝してるんだ、田嶋先生に翻訳のことで紹介して下さったから今、こうして父と祖父のことも教えてもらえる、」

去年の冬、青木樹医と出会えたことが父と祖父の軌跡に繋がっている。
その感謝に微笑んだ隣から友人も笑ってくれた。

「その本、もう開いて見た?」
「まだ見てないんだ…今、開いて見ても良い?」

笑いかけた真ん中、愛嬌の笑顔が頷いてくれる。
いつもの快活な優しさに微笑んで周太は緑深い表紙を開いた。

―立派な本…保管も、きちんとしてる、

開いた本の手触りに心ため息こぼれだす。
内張の紙材は厚く軽やかな手触りに経年の劣化も無い。
ふれる指にも田嶋の篤実は温かで嬉しくて、微笑んで捲ったページに瞳が響いた。

I give it to an epitaph of savant Kaoru Yuhara.

And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
 So long as men can breathe or eyes can see,
 So long lives this, and this gives life to thee.

[Cited from Shakespeare's Sonnet18]

アルファベット綴る英国詩の一節が、温かく視界を滲んで心に滴る。
世界で愛されるソネットの詩節は深く懐かしく父の口遊みに記憶が謳いだす。

「この詩はね、周…シェイクスピアが愛する人に捧げる気持ちを詠っているんだ、」

木洩陽きらめく庭のベンチ、穏やかな笑顔は澄んで温かい。
涼やかな風に父の袂ひるがえり陽に透ける、その風に染めの藍が凛と香る。
爽やかな浴衣姿は広げたページに愉しげで嬉しい、この嬉しい気持ちに思い切って訊いてみた。

「ん…じゃあらぶれたーってこと?」

質問しながら覚えたての言葉が気恥ずかしい。
入ったばかりの小学校でそんな話を聴いてきた、そういう話は何だか照れてしまう。
少し解かりかけている「らぶれたー」に羞んでシャツのボタンいじる隣で父は涼やかに笑った。

「ん、確かに愛の手紙だね、シェイクスピアが大切な人に贈った詩だから…恋愛より深い気持がある相手への、手紙みたいな詩、」

大切な人に贈った手紙みたいな詩。
その言葉がなんだか嬉しいまま大好きな笑顔を見上げた。

「お父さん、れんあいじゃない…らぶれたーってあるの?」
「ん、あるよ、」

穏やかな声に微笑んで父が膝の本を持ち上げてくれる。
その仕草に嬉しく笑って浴衣の膝へ登ると、切長い瞳は涼やかに微笑んだ。

「家族とか友達とかね、大切な人へ大好きって気持を書いた手紙、真心を贈る手紙はね、どれもラヴレターだよ、」

そんなふう父が教えてくれた夏の朝が今、見つめる詩から記憶に響きだす。
夏の庭に咲いた綺麗な笑顔、あの幸福の永遠が父の遺作集に詩の一節で輝いている。

―ね、お父さん、これは田嶋先生からお父さんへのラヴレターだね、

静かな想いに微笑んだ視界、滲んだ温もり一滴が頬を伝う。
父の母校に佇んで父の遺愛の詩に回り逢う、この時間を贈ってくれた人の想いが温かい。

『いつか馨さんはここに、文学に戻る…それが馨さんの正しい運命だって俺は信じている、君のお父さんは学問に愛される人なんだ』

夏の午後ふる仏文研究室、明るい光のなか聴かせてくれた想い。
あの言葉を父が愛した詩によせて遺作集に言祝いでくれた、その篤実は涙になる。
父に寄せてくれる哀惜と真直ぐな敬愛が嬉しい、嬉しく微笑んだ隣で闊達な涙声も笑ってくれた。

「カッコいいな、周太のお父さんも田嶋先生も…っぅ…俺、こういうの弱いんだって、」

詰まらす声にそっと振向いた真中で愛嬌の笑顔に涙ひとつ伝う。
こんなふう一緒に泣いて笑ってくれる友人が自分にも居てくれる、その幸せに周太は笑った。

「ん、俺のお父さんってカッコいいよ?でね…あんまり顔は似ていないけど声は似てるって、田嶋先生に言われて嬉しかった、」
「やっぱり周太、おふくろさん似なんだ?でも語学の才能とかはオヤジさん似だよな、お祖父さんにも、」

笑いながら賢弥は眼鏡を外して指に涙を払った。
また眼鏡を掛け直し、その視線が向うを見て照れくさげに微笑んだ。

「やばい、小嶌さんがコッチ見ながら走ってくる、泣いてるトコ見られたな?」

友達の声に振り向いた向こう、薄暮のキャンパスを白いサブリナパンツが駈けてくる。
近づいてくる日焼あわい貌は不思議そうに真直ぐ見つめて、すぐにランプやわらかなエントランスに駆けこんだ。

「どうしたの?二人で、泣いたりして…なんかあったの?」

すこし息弾ませ訊きながら綺麗な瞳が気遣わしく見つめてくれる。
その瞳へと周太は父の論文集を差し出して綺麗に笑った。

「これ、田嶋先生が父の為に作ってくれた本なんだけど、先生が父に贈った手紙を読んでたんだ…美代さんも見て?」




研鑽たゆまぬ学者、湯原馨の碑銘に捧げる。

夏の限られた時は短すぎる一日。
天上の輝ける瞳は熱すぎる時もあり、
時には黄金まばゆい貌を薄闇に曇らす、
清廉なる美の全ては いつか滅びる美より来たり、
偶然の廻りか万象の移ろいに崩れゆく道を辿らす。
けれど貴方と言う永遠の夏は色褪せない、
清らかな貴方の美を奪えない、
貴方が滅びの翳に迷うとは死の神も驕れない、
永遠の詞に貴方が生きゆく時間には。

人々が息づき瞳が見える限り、
この詞が生きる限り、詞は貴方に命を贈り続ける。






(to be continued)

【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」より抜粋】

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Circuit of the mind ―English×日本語

2013-07-30 12:26:03 | 文学閑話散文系
Words,The force of this expression.


Circuit of the mind ―English×日本語

いわゆる隠れ家ちっくな場所に、雑誌とか自由に読めるカフェがあるんですけど。
そこでスープ飲みながらGARDENなんたらいうミニブックを読んでいたら、

茶道の茶会=tea ceremony 

って英訳にちょっと感動しました。
たぶん直訳英語なら茶=tea、会=partyで「tea party」ですけど、
ceremony=儀式・作法 っていう精神性の高い意味を含んだ言葉を遣ってるんですよね。
茶道の茶会が単なる茶飲み会じゃなくて「道」=精神性が高いってトコ理解して英訳されている。
この訳し方は言語×文化と双方の造詣が無いと出来ないなあと。
で、自分もコレ遣わせてもらおうって思いました、笑

この本は「GARDEN」と題名にある通り世界の名園をガイドしている本です。
日本の名園も幾つか取り上げられる中で、金閣寺か銀閣寺の解説に「tea ceremony」が出ていました。
この二寺は教科書やポスター等でも多く取り上げられる有名ドコですが、政治的背景も濃厚な寺です。
そこら辺の解説もキッチリ載せてる辺り、ガイドというよりも「庭物語」ってカンジの本だなと。



他に西芳寺の説明が印象的です。

苔のgreenが布みたいでmysteriousな空気感が神秘的で素敵、
ってカンジの庭自体を称える文章が4/5を占めて、寺史とかはホボ触れてないんですけどね。
けれど苔庭の空気感を表す文章は文語文としての英語が綺麗だなと思わせられました。

で、自分的には詩仙堂と醍醐寺三宝院の庭も載っけてほしいとこです、笑



The cataracts blow their trumpets from the steep;
No more shall grief of mine the season wrong;
I here the Echoes through the mountains throng,
The Winds come to me from the fields of sleep,
And all the earth is gay;

峻厳な崖ふる滝は、歓びの旋律と響き
この歓びの季節はもう、僕の深い哀しみに痛むことはない
連なる山々が木霊を廻らす歌が僕に聴こえる、
微睡む野から風は僕のもとへ駈けて来る、
そして世界の全ては高らかに明るく笑う

William Wordsworth「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」IIIの抜粋です。
この一節は言葉の遣い方も言い回しが人間の五感を惹きだすようなカンジで綺麗だなって思います。
滝の水音に山の谺、風のやわらかさ、太陽の明るさ、聴覚から触覚に視覚へと展開する。
こういうのって、英語から日本語に訳すのに感覚的な言葉を充てたくなります。

この詩の想いは昨日から書き始めた「初陽の花、睦月」も同じ空気です。
昨日UPしたact.1だと前半部「The cataracts blow their trumpets from the steep」って感じですけど、
これから「I here the Echoes through the mountains throng」以降の光景が描かれていくかと思います。
ソンナこともあって載せてみました、自訳がちゃんとしてるかお恥ずかしいんですけどね、笑



昨日UPした「初陽の花、睦月act.1」と日付け変わる頃の短篇「secret talk13 夏霧月」は加筆校正終っています。
今夜は昨日予定だった第67話と「初陽の花」の続き、または「七彩の花」を掲載予定です。

休憩合間ですが取り急ぎ、


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secret talk13 夏霧月―dead of night

2013-07-30 00:25:01 | dead of night 陽はまた昇る
夏霧、風ゆく涯に



secret talk13 夏霧月―dead of night

夏の一日が果てる、その落日が雲に隠される。
雲興らす谷から風が頬撫でてゆく、ひるがえる前髪に額は涼む。
孟夏に濡れたTシャツが冷えてゆく夕の眺望、見遥かす涯に霧が生まれだす。

「…朝は雲海かな、」

独り風に微笑んで彼方を見つめる視界、大らかに光あふれゆく。
今日終わらす光芒は刻々色彩を変えて輝き、いま佇む山頂に黄金が充ちる。
ゆるやかな静謐が光に風に棚引かせ、いま単独に登ってきた稜線が夜に沈みだす。

―単独行って、こんな静かなんだな、

心呟く想い微笑んで、初めての空気に英二は腰下した。
いつもアンザイレンパートナーのセカンドとして登ってきた、けれど今日は独り山頂を踏んだ。
こうした経験も自分には必要になる、そうパートナーとも話し合い辿り着いた時間はただ、静謐が優しい。

「…いいな、」

ぽつり本音こぼれて風に声とけてゆく。
駈ける風ゆるやかに眼下の霧を流す、広がりゆく白い闇に黄昏が映りゆく。
黄金の霧は海になる、落日きらめく水蒸気の海は光の鏡になって天穹と呼応する。
黄金色の静謐の時間、そこに独り佇む安らぎは癖になりそうで、英二は微笑んで独り言に諌めた。

「でも単独は、公的立場からすると止めてほしいけどな、」

単独行は万が一の危険が怖い、それは「山」に生きるほど思い知らされる。
発病しても受傷しても援けなど来ない、これは山の静寂に在るリスクの現実的可能性。
この可能性に自分の任務は創設され今こうして訓練の時を過ごす、そんな廻りに思案は廻らす。

―きっと心配させてるんだろな、携帯も繋がらないし…ごめんな、

見つめる遥かな日没に遠い家を想う、そこに大切な人が自分を待っている。
自分の無事を祈りながら明日を想い、帰りを信じて明日の夕食を考えてくれている。
そんなふうに心配も心遣いも自分は与えて、それでも共に生きてくれる人が高峰の時間にも慕わしい。

「…必ず帰るよ、」

独り風に微笑んだ唇を左腕の時計によせて接吻ける、このキスを今、あのひとに届けたい。





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第67話 陽向act.5―another,side story「陽はまた昇る」

2013-07-27 23:58:32 | 陽はまた昇るanother,side story
芳蹟、翳に光に



第67話 陽向act.5―another,side story「陽はまた昇る」

『文学部人文社会系研究科 フランス語フランス文学研究室』 

二度めに立つ扉の前、掲げられた表札を呼吸ひとつ見つめる。
書かれた文字から鼓動が想い敲く、その響きに微笑んで周太はノックした。

「失礼します、」
「はあい、どうぞ?」

のんびりした返事がこの間と同じに温かい。
なんだか嬉しくて緊張すこし解かれるまま開いた扉、書架の空間が広がる。
そっと踏み込んだ空間は甘く重厚な香かすかに頬撫でて、窓の陽射し埃きらめいて本の山が影おとす。
先週よりは少し低い書類と書籍の積まれた山向こう、書斎机から癖っ毛くしゃくしゃの笑顔ほころんだ。

「おっ、来てくれたな、良い返事も一緒って貌に見えるけど?」

もう視ただけで解かる、そんな言葉と眼差しは明朗に笑ってくれる。
その笑顔に周太は素直なまま頭を下げた。

「はい、研究生として学ばせて下さい、よろしくお願いします、」
「よしっ、決まりだな?そこに掛けてくれ、」

答えに笑って教授は書斎机を立って作業机を指さしてくれる。
勧められるまま席に座ると差し向かい、日焼あざやかな手が資料を手渡した。

「人文社会系研究科の研究生用資料だ、聴きたい講義は好きなように履修登録してくれ。出席も出られる時だけ出るんで構わんよ、
社会人しながらだから自由出席って前提だ。手続きだが、もう青木から農学部のを受けとってるだろうが殆ど同じになる。登録書類はコッチだ、」

話しながら登録用書類を見せてくれる。
その氏名欄に視線を止めて田嶋教授は笑い出した。

「そういえば君の名前って聞いてなかったな?なのに勝手に話を進めてすまん、どうも俺はせっかちでなあ、」

可笑しそうに笑ってくれる底抜けに大らかな眼差しは明るく温かい。
この笑顔をきっと祖父も父も好きだった、そんな確信に微笑んで周太は名前を告げた。

「湯原周太です、よろしくお願い致します、」

名乗りと笑いかけた先、日焼あざやかな笑顔が瞳ゆっくり瞬いた。
いま聴かされた言葉を廻らす、そんな眼差しが周太を見つめて太く響く声が尋ねた。

「君は、湯原先生のお孫さんかい?」

名前を言っただけ、それだけで祖父の俤を辿ってくれる。
祖父の教え子が祖父の姿を自分に見つけてくれた、それが嬉しくて幸せで周太は綺麗に笑った。

「はい、祖父と父がお世話になりました、ご挨拶が遅れて申し訳ありません、」

笑いかけて頭を下げた向こう、がたり椅子の音が立つ。
顔上げた前でワイシャツ姿が身を乗り出す、その明敏な瞳が真直ぐ見つめてくる。
ただ驚き、喜び、懐旧が親しく笑顔になって、それから涙ひとつ日焼の頬こぼれ落ちた。

「湯原先生の孫なんだ、馨さんの息子なんだ、そうか、君だ…そうか、」

確かめるよう声にする、そんな笑顔を涙また落ちてゆく。
泣いてくれる瞳は真摯が篤く温かい、この想いが父に祖父に只嬉しい。

―お祖父さん、お父さん、こんなふうに泣いてくれるね?だから話せることは正直に話させて?

この大学と祖父に纏わる全てを父は秘密にしたくて、この友人とも父は音信を絶っていた。
それが友人を家族を護る方法だと父は信じて、だから息子にも妻にも何も言わず独り秘密を抱いて逝ってしまった。
それが父の友情で愛情なのだと解かる、そう解かるからこそ父の為に泣いて笑ってくれる人に伝えてあげたい。

―だってね、お父さん?本当に想う相手なら「知らない」ほど残酷なことって無いんだ、お母さんも俺もいっぱい泣いたよ?

14年前の春の夜からずっと、どれだけ母も自分も泣いたろう?

あの夜から泣いた涙は後悔だった「父を知らない」現実に苦しんだ。
父の真実を何も知らないまま永訣した後悔が苦しくて、苦しくて苦しんだ。
父が秘密に隠した想いを知りたかった、けれど父の声は二度と聴けず、父の涙を癒すことは不可能になった。

『銀河鉄道の夜』

小学校の図書室で読んだ『銀河鉄道の夜』は不慮の事故に遭った少年の死出の旅路の物語だった。
だから父も銀河鉄道に乗っていると思った、その夜から屋根裏部屋の天窓の下にマットレスを敷いた。
毎晩マットレスに寝んで夜空を見上げ朝まで起きていた、父の乗った銀河鉄道が通ることを願い天窓を見つめた。
夢でも良いから父に会いたくて2週間ずっと天窓を見あげたまま夜は眠った、けれど銀河鉄道は通らなかった。

あの天窓に待ち疲れた2週間、微睡む夢に現われる父は銀河鉄道の席に座ってはいなかった。
検案所で面会した命が消えた姿、現実には見ていない狙撃された瞬間の姿、そんな哀しい姿ばかりだった。
毎晩ずっと泣き叫んで目覚めるたび洗面室に駆けこんだ、吐いて声を殺して泣いて、泣き疲れ眠った床で朝を見た。
毎晩ずっと本当は母の懐で泣きたかった、けれど母も父を失った苦しみに耐えていると解っていたから出来なかった。

そうして2週間の夜が明けた朝、父の銀河鉄道が通らない事は自分への罰なのだと想った。
父に与えられた幸福を抱く資格など自分には無い、そう想えた。
そして9歳の自分は絶望を知った。

―お父さん、お父さんのこと何も知らない癖に幸せだって想ってた俺を、俺は赦せなくて…だから忘れたんだ、大切だから忘れたの、

父のことを何も知らない自分、父を本当には理解していない自分、そんな自分だから父は夢でも笑ってくれない。
そう想い募らす後悔が哀しくて苦しくて、そんな自分を赦せなくて大切な屋根裏部屋を鎖して心を閉じた。
父に纏わる記憶ごと夢も採集帳も何もかも、大切な宝物全てを屋根裏部屋ごと封印してしまった。
この絶望に泣いてきた自分だから田嶋の涙が解かる、この理解に周太は笑いかけた。

「田嶋先生と父は、アンザイレンパートナーなんですか?」

山岳部の先輩後輩で文学を語り合った友人、そう田嶋は前に教えてくれた。
その言葉は幼い自分が見ていた父の姿ありのままで、そして記憶ひとつ夏山を映す。
あざやかな緑と岩壁のグレー織りなす穂高の夏、あの涸谷でザイル担いだ青年二人組を見て父は微笑んだ。

『生涯のアンザイレンパートナーはなかなか出会えないよ…でもね、周、居てくれたら山ヤにとって本当に幸せなんだ、』

穏やかな深い声は微笑んで、けれど寂しげで、それでも父の眼差しは温かだった。
懐かしい遠くを見つめる、そんな切長い瞳は澄んだまま山を映して綺麗で、そして切なかった。
あのとき山ヤの青年たちに父が見つめた背中は誰なのか?その答えが目の前の学者に笑ってくれた。

「ああ、俺が君のお父さんのザイルパートナーだ、馨さんは俺の最高のアンザイレンパートナーだ、」

太やかに響く声は明るく笑って、その明敏な瞳ふたつ涙あふれだす。
午後の光きらめく窓に涙は落ちる、けれど幸せに日焼の貌は笑って口を開いた。

「マッターホルンの北壁も登ったんだよ、アイガーとグランドジョラスはノーマルルートだけどな、3つとも一緒に俺たちは登ったよ。
冬富士は3回一緒に登った、穂高も夏と冬と3回ずつだ、俺が1年の時から馨さんはパートナーに選んでくれたから3回ずつ、ずっと。
本当は俺が4年になったら六千峰もアタックする約束だったんだよ、オックスフォードにいる馨さんと現地集合しようって約束してた、」

低く明るい声は笑って教えてくれる。
大らかに明敏な笑顔はどこまでも温かい、その声が微かに詰まってゆく。

「だけど、な…馨さんが留学を辞めて警察官になったから延期になってな、そして本を寄贈に来てくれたのが会った最後になったんだ、
あの後から電話が通じなくなった、手紙を送っても返事が無くて、家にも行ったけど留守でな…近所の人に訊いたら独りだって言われた、」

武骨な手の甲が日焼の頬から涙を拭う。
ぽとん、ネクタイ緩まった衿元に涙ひとつ落として田嶋は教えてくれた。

「馨さんが、君のお父さんが留学辞退した理由の一つは、君の曾お祖母さんを独り残してイギリスに行けないからだって話したろう?
その曾お祖母さんが亡くなっていた、馨さんが警察官になった翌年の夏の初めだったそうでな、本を寄贈に来てくれた直前ってことだ。
もう留学に行けない理由なんか無いはずだ、そう思って俺は川崎駅の改札口で待ってたよ、どうしても馨さんと話したかったから待ってた、」

ひとつ吐息して日焼顔が笑ってくれる。
その瞳が窓ふる光に潤んで、けれど涙落とさず父の友人は微笑んだ。

「どうしても学問の世界に戻ってほしかったんだ、君のお父さんは文学の天才だって俺は信じてるから帰って来てほしかったんだ。
馨さんが心からイギリスの文学を愛しているって俺は知ってる、それを活かせることも俺は知ってる、あのひとの卒論は最高なんだよ、
だから帰って来てほしかった、馨さんのために文学のために、湯原先生のために、帰って来てほしくて俺は信じて待っていたんだ、ずっと、」

ずっと信じて待っていた、そう告げて逞しい手が目許を拭う。
くしゃくしゃ髪の学者はそれでも呼吸ひとつ微笑んで、言ってくれた。

「川崎駅で待っても会えなくて、だから警察庁に入った同期にまで頼んで探したんだよ、でも馨さんは警察の内部でも所在不明だった。
それが警察でどういう意味なのかは教えて貰えなかったよ、ただ馨さんに俺から連絡を取ることは不可能なんだって事だけが解かった。
それでも俺は信じて待っていたんだ、いつか馨さんはここに、文学に戻るって信じていた、それが馨さんの正しい運命だって俺は信じている、」

静かな仏文研究室の陽だまりに、堰を切ったよう想いは声あふれる。
いま14年の時を超えて父の友人が吐露してくれる、その想い見つめる真中が笑ってくれた。

「君のお父さんは学問に愛される人なんだ、だから必ず学者の道に立つべき人だって信じている、どんなに遠回りでも帰るはずだってな?
それが何年懸っても構わないから待とうって俺は決めてな、馨さんの寄贈書と湯原先生の研究室を守るためにもこの大学で教員になったんだ、」

お父さん、今、この人の言葉を聴いてるでしょう?

そう心裡に語りかけて記憶から笑顔が振り向いてくれる。
懐かしい切長の瞳は気恥ずかしげにほほ笑む、その俤に微笑んだ前で涙ひとつ零れた。

「だからあのとき、新聞のニュースで名前を見つけた時は嘘だって思った、こんなことあって良い筈が無いって信じたくなかった、
警察庁の同期に電話して確認して何とか納得したよ、それでその週末は穂高に登って泣いたんだ、オッサンがみっともないけどな、今も、」

また日焼の手に頬拭いながら田嶋は笑った。
その笑顔が父の為に嬉しくて、嬉しくて幸せで周太は綺麗に笑った。

「僕と穂高に行ったとき、父は大学生の二人組を見て、生涯のアンザイレンパートナーが居ることは山ヤにとって幸せだと教えてくれました。
そのとき懐かしそうに幸せに父は笑っていたんです…きっと田嶋先生のことを想いながら父は言ったんですね、一緒に穂高に登った時を想って、」

懐かしい夏の父の笑顔、あのときの父の想いを今ようやく伝言できる。
この想い嬉しくて笑いかけた先で日焼顔ひとつ幸せに笑ってくれた。

「ありがとう、君は馨さんと顔はあまり似てないのに声と話し方がそっくりだな?そうやって笑った貌が湯原先生と似てるよ、
君の声を聴いて君の笑った貌を見ていると信じた通りって想えるよ、君のなかに生きて馨さんも湯原先生もここに帰って来たって、なあ?」

自分の中に父も祖父も生きて、二人が愛した場所に帰ってきた。
そう言われることは自分にとって幸せで今、銀河鉄道に見つめた絶望が解かれだす。

―お父さん、お祖父さん、今なら銀河鉄道の窓から俺に笑ってくれてるね?

いま大学の窓は夏の午後に明るくて、空に銀河鉄道は通らない。
けれど遥か遠く近くで父も祖父も笑ってくれる、その全てが研究室の本たちから温かい。
ここは祖父が愛した場所、祖父が祖母と出逢い父が生まれる原点で、父が夢に笑っていた場所。
そこで今こうして祖父と父への果てない想いを聴かせて貰えた、この幸せに微笑んで周太は現実に問いかけた。

「先生、田嶋先生とアンザイレンパートナーを組んでいたんなら、父も先生と同じような背格好だったんですか?」

問いかけた学者の身長は自分より5cmは高い、その身長に真実のパズルはピースひとつ嵌まる。
この欠片に笑いかけた向こうティッシュで顔ぬぐった笑顔は答えてくれた。

「ああ、俺と馨さんは同じ身長だったよ、体格のバランスが良いからアンザイレンパートナーに選んで貰えてな、嬉しかったよ、」

ことん、
微かな音を立てて今、過去の真相がひとつ正体を見せる。
この真相にもう一つ事実を重ねて知りたい、その願いに周太は真直ぐ微笑んだ。

「祖父も山岳部だったんですよね、父が射撃部と山岳部を掛持ちすることに祖父は賛成だったんですか?」

山岳部、射撃部、この2つに真実の鍵がある。
この鍵が開く本の扉を見つめた先、過去の証人は懐かしそうに口を開いた。

「それがな、湯原先生も学生時代は射撃部と掛持ちされてたそうでな、それが大変だったから馨さんには射撃部は反対していたんだよ、」

『 La chronique de la maison 』

あの小説に描かれた主人公「彼」は学生時代、山岳部と射撃部に所属していた。
それが「彼」を罠へと惹きこんでゆく、その涯に罪は築かれて一丁の拳銃に相克は始まる。
祖父が一冊に遺したフランス語綴りの文章たち、それは物語でありながらきっと現実の記録。

“Je te donne la recherche”

祖父が父へ贈った一冊に遺したメッセージ、あの意味が2つながら今この場所で息吹きを還す。











(to be continued)

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夕霧の風―William Wordsworth×万葉集

2013-07-27 23:56:57 | 文学閑話韻文系
澹、夕霧山霞



夕霧の風―William Wordsworth×万葉集

Our cheerful faith, that all which we behold
Is full of blessings. Therefore let the moon
Shine on thee in thy solitary walk;
And let the misty mountain-winds be free

僕らの信じるところ、僕らの目に映る全ては
大いなる祝福に充ちている。だからこそ月よ
独り歩く貴方の頭上を明るく輝いてくれ、
そして霧深い山風も自由に駈けてくれ

William Wordsworth「Lines Compose a Few Miles above Tintern Abbey」の抜粋です。
本文は岩波文庫『対訳ワーズワス詩集―イギリス詩人選(3)』の引用ですが、和文は自訳になります。
なので一般的な訳とは違ってるかもしれませんが、自分はコンナ感じかなって読んでいます、笑
今日の丹沢方面は夕霞が濃くて、ちょうどコンナ感じだったので載せてみました。



夕去れば 美山を去らぬ布雲の あ是可絶えむと 言ひし兒ろはも 詠み人知らず
ゆふされば、みやまをさらぬ にのぐもの あぜかたえむと いひしころはも

夕に太陽が沈み空を去っても、あの山に寄添い去らない布雲のように
僕から離れないと言ってくれた、あの女の子は今どうしているのだろう?
あの美しい山に雲懸るたび想ってしまう、夕陽の透ける雲に恋人の薄絹を見つめて、

これは『万葉集』第十四巻に載っている詠人未詳の相聞歌です。
夕暮時の山雲に言寄せて告白してくれた、そんな恋人を夕山に想ってしまう。
記憶に愛しい風景が眼前の風景に重なって想い馳せる、そういうのって今も昔も同じかなと、笑

連載中の小説でも記憶の光景×現在の光景ってシーンは多いですけど。
いわゆるデジャブだったり、言葉からの連想だったり、パターン色々描いています。
そういうのを伏線に使ってたりするんですけどね、ソレを逆手にしている事もあります。



第67話「陽向5」加筆校正を今から始めます、
で、朝になったら短編一本UPする予定です。
が、眠くなったら寝ると思います、笑

取り急ぎ、




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第66.5話 陽溜―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

2013-07-26 22:39:09 | 陽はまた昇るP.S
Fantasy―諦めかけた願いを、今



第66.5話 陽溜―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

水曜日、終業定時の空はまだ明るい。

それでも9月の空は秋の初め、きっと次に窓を見る時は夕暮れになる。
今ごろ息子たちは調布の空で何をしているだろう、訓練に汗を流している?
どうか怪我など無いようにと祈り微笑んだデスク、明るいトーンに笑いかけられた。

「湯原課長、今日ってお時間ありますか?」
「はい?」

話しかけられて振向いた先、デスクを片づけながら青年達が笑いかけてくれる。
今日は早く帰ろう、そんな楽しげな空気に美幸は笑って答えた。

「この報告書が終われば自由ですけど、」
「じゃあ良かったら飲み行きませんか?俺と松山と花田さんってメンバーなんですけど、」

楽しそうに誘ってくれる笑顔は、本当に話したそうでいる。
こういう付合いも課長職になればあるだろう、美幸は笑って頷いた。

「一時間くらい遅れて良いなら途中参加させてくれますか?ただし、お財布をあんまりアテにされちゃうと困るけど、」
「はい、いつもお話してる安いトコですから大丈夫です。これ店の地図です、」

楽しげにワイシャツ姿が手渡してくれる。
受けとって笑いかけた先、すっきりした纏め髪の笑顔が尋ねてくれた。

「課長、お手伝い出来ることありますか?報告書のデータ検算とかあれば残ります、その方が早く一緒に飲めますし、」

訊いてくれるソプラノの声は何か物言いたげでいる。
彼女がいちばん話したいことがあるのかもしれない、そんな様子に美幸は微笑んだ。

「じゃあ遠慮なく花田さんにサポートお願いしようかな、早帰り日なのに申し訳ないけど良いですか?」
「はいっ、お願いします、按分率のチェックからで宜しいでしょうか、」

嬉しそうに笑顔ほころんでノートパソコンを開いてくれる。
やるべき仕事も見当つけられる俊敏さが彼女は良い、そんな部下の能力に微笑んで美幸は資料を手渡した。

「はい、それでお願いします。これが各支店の集計です、今日のメールで送られた最終データと差が無いかチェックお願い出来ますか?」
「はい、15分でやります、」

終了時間を告知して花田はパソコンに向きあった。
もう資料を捲りながら画面を開きだす、そんな同僚に青年二人も美幸に訊いてくれた。

「湯原課長、俺たちもお手伝い出来ることありますか?」
「ありがとう、もう大丈夫です。花田さんとなら40分で片づけて追いかけられるから、滝川さんたちは先に良い席をとっておいて?」

この後の時間についてお願いしておく、そうすれば青年たちは先に出やすいだろう。
そう考えて笑いかけた先、若い笑顔ふたつ頷いてくれるとオフィスを退出して行った。
他のデスクも退勤してゆく中パソコンと向きあい花田と進める、そして17時半すぎメール送信して終わった。

「お疲れさま、花田さん。ちょっと缶コーヒー飲んでいかない?お礼にご馳走させて、」

話したいことがあるなら今この時間に話せるだろう。
そんな思案と笑いかけた美幸に花田は嬉しそうに頷いてくれた。

「はい、遠慮なくご馳走になります、」
「じゃあ鞄も持って行きましょうか、ここも戸締りして、」

笑いかけビジネスバッグを抽斗から出す部屋は、もう自分たち以外に誰もいない。
そして窓のブルーは夕暮れ染まりだす、けれど思ったより明るい空は嬉しくなる。

―まだ周太も英二くんも30分くらい集中時間ね、私はお先に仕事終わっちゃうけど、でもこれからかな?

同じ東京の空の下、息子たちを想い自分の今日これからを考える。
そんな想い微笑んで廊下を歩き出した隣、遠慮がちなソプラノの声が訊いてきた。

「あの、湯原課長って一度、寿退社されてから復職されたんですよね?」

訊かれた質問に、花田の聴きたいことが見当つけられる。
きっとこういう事かな?予想つけながら美幸は総合職4年目の後輩に微笑んだ。

「はい、復職しました。予定より4年早かったし昇進するつもりも無かったけど、元から復職する予定はしていたの、」
「そういうの普通は難しいって伺いました、課長はどうやって今みたいになれたんですか?」

訊いてくれる笑顔は真剣な眼差しでいる。
女性の総合職なら結婚と仕事の両立は悩む、それは自分も通った道だから知っている。
こういう相談は乗ってあげたい、そんな想いに美幸は休憩スペースで鞄置きながら微笑んだ。

「私を今みたいにしたのはね、ぶっちゃけると息子よ?」
「え、」

意外だ、そんな瞳が見つめてくる。
そんな表情が楽しくて笑って美幸は自販機へ踵返し、コーヒーふたつ買うとカフェテーブルに戻った。

「花田さん、冷たいカフェオレで当たりかな?」
「はい、私の好みご存知だったんですか?」

また驚いたよう訊いて笑ってくれる、こんな素直な反応ひとつずつが楽しい。
いま26歳の彼女は4年目以上の仕事をこなす、けれど一人の女性として素直に瑞々しい。
こういう心を失くさないでほしい、そんな願いに笑った美幸に花田は尋ねてくれた。

「あの、息子さんが湯原課長を今みたいにしたって、どういう意味ですか?」

周太がお腹に入ってくれたからなのよ?

そう応えかけて、けれど出来ちゃった結婚を正直に告白だなんて今の立場では駄目かもしれない?
それでも自分にとって大切な真実だから誤魔化したくない、それなら正直に何と言えば良い?
考えながらブラックコーヒーのプルリング引いた時、パンツスーツのポケットが振動した。

―まだ終業前なのに、周太?英二くん?

息子たちを想い一瞬竦んだ心が、14年前の春にフラッシュバックする。
あの夜は夫からの電話だと思って受話器を取った、けれど、違う声から告げられたのは幸福の終わりだった。
あの一本の電話で潰えたのは、最愛の恋人の生命と約束と、そして息子の笑顔が夢に生きてほしい願い。
あのとき見つめた絶望は今も電話ひとつに思い出す、けれど開いた電話の画面に美幸は微笑んだ。

「噂の息子から電話が来たわ、ちょっと話してきても良い?」
「はい、どうぞ、」

明朗な笑顔が勧めてくれるのに微笑んで美幸は席を立ち、明るい窓際で通話を繋いだ。
見あげる空は青色やわらかくなる、この空に繋がる息子が電話の向こう笑ってくれた。

「おつかれさま、お母さん…まだ会社にいるの?」

いつも通り穏やかなトーン、けれど何だか羞みが明るい。
きっと良い報せを話してくれる、そんな様子に竦み解けて美幸は笑いかけた。

「はい、会社で缶コーヒー飲んでるとこよ、周は?」
「ん、今日は非番でトレーニングだけなの…だからお母さんの仕事が終わるかなって思って今、架けて、」

今日は非番、そう教えられて安堵が納得する。
前とは違う息子の勤務形態に慣れていない、そんな自分に微笑んだ向こう息子は教えてくれた。

「あのね、俺、大学の研究生にならないかってお話もらったの、森林学とフランス文学の研究室と掛持ちでね、授業料は免除なんだ、」

一息で話してくれる言葉に、懐かしい笑顔が心を占めてゆく。
もう14年前に消えてしまった大好きな声が笑う、その記憶見つめて美幸は微笑んだ。

「フランス文学の研究室って、お祖父さんとお祖母さんが居た所でしょう?周、このあいだ翻訳のお手伝いしたって話してくれた、」
「ん、そうなの。お祖父さんの本をくれた田嶋先生のこと話したよね、お父さんの友達の。その田嶋先生がお話勧めてくれたんだけど、」

羞んでいる息子の声に、最愛の人の軌跡が垣間見える。
夫は出逢う前のことは殆ど話してくれなかった、けれど今、夫の俤がこうして教えてくれる。
そして夫と願った宝物の未来が今ようやく姿を顕わす、その瞬間へ美幸は心いっぱい笑いかけた。

「文学部の研究室と掛持ちするなんて、やっぱり周はお父さん達から良いもの沢山もらってるのね?」

夫のことは何も知らない、けれど夫の真実なら自分は知っている。
夫の両親の事も友達も、出身大学も職務も何も知らなくて、けれど夫の心と願いは知っている。
そして何を幸福だと笑ってくれるのかも知っている、その想い笑った向こう宝物も笑ってくれた。

「お母さん、俺が研究生になりたいって思ってること、もう解かるんだね?」
「はい、解かります。もう英二くんにも話したんでしょう?」

即答で問いかけた電話、気恥ずかしげな空気が伝わらす。
こんなふう恥ずかしがりの息子は年齢より幼くて、それが愛しくて心配な想いに羞んだ声が明確に応えてくれた。

「…ん、英二に話したよ?お話もらってから3日考えて、やっぱり勉強したいからって決めてお母さんに電話したんだ、」

やっぱり勉強したい、

この言葉を夫は喜んでいる、きっとその両親も笑ってくれる。
そして自分も嬉しくて幸せで見あげた空は、あわい茜雲が輝き初めてゆく。

―馨さん、周太は学者になるかもしれないわ、あなたが願っていたように樹医になって、文学を愛して、

心に呼びかける先、冬の陽に佇んだ幸福な時間から笑顔が応える。
もう15年前になる冬の休日の陽だまり、あまいココアの香と新聞紙のインクの香。
それから綺麗な笑顔に輝いた涙ひとつ、果てない願いと愛情に輝いて今も自分の心に生きている。

『周、きっと立派な樹医になれるよ?本当に自分が好きなこと、大切なことを忘れたらダメだよ?…諦めないで夢を叶えるんだよ、』

懐かしい愛しい声が記憶から笑ってくれる、そして諦めかけた夢が息づく瞬間を今、ここで生きて見ている。









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朱夏、翠風花波―万葉集×Wordsworth

2013-07-26 13:21:53 | 文学閑話韻文系
夏色彩、花に風に


朱夏、翠風花波―万葉集×Wordsworth

霍公鳥 喧き渡りぬと 告ぐれども 吾れ聞きつ我受 花波過ぎつつ 大伴家持
ほととぎす なきわたりぬと つぐれども われききつがず はなはすぎつつ

時鳥が高らかに啼き響くと、
時が渡りゆくと啼き告げても、僕は聞いてないって受けとめるよ?
花が波うつ草叢を通りながら、ゆれる花の香に君を想い、君との時へ渡って逢いにゆく

これは四月に謳われた夏歌で『万葉集』第十九巻に掲載されています。
「吾れ聞きつ我受」の原文は「吾聞都我受」とあるので万葉仮名のまま訳しました。
また「花波」の万葉仮名「波」は平仮名「は」の元字ですが、敢えて「花波」のまま花咲く草叢のイメージを採ってます。

で、歌に合わせた写真は八ヶ岳山麓で撮影した萼紫陽花です。
薄紅色の萼、青紫あわい花、翡翠色の葉、色彩のコントラストが綺麗でした。
先週末に山歩きした時に撮ったんですけど、時鳥ではなく鶯が綺麗な声で歌っていました。笑



コレ↑は下野「シモツケ」って花です。
現在の栃木県あたり=昔の下野国で発見されたので、まんま名前になったのだとか。
どう見ても草って感じですけど、落葉低木に分類されるバラ科シモツケ属の花木です。
牛首山下部の賽の河原付近にある群落のワンショットですが、風ゆれるピンク色は夏の太陽に映えます。

で、下に張ったのは岩場に咲いた一輪です。
賽の河原は岩場の小さなピークから砂礫の尾根が続き、その先の藪へ登山道は繋がります。
その岩場にも花は咲いていました、どれも丈が小さくて小ぶりでしたが引力みたいなモンがあります。



Though nothing can bring back the hour of splendor in the grass,
of glory in the flower, we will grieve not.
Rather find strength in what remains behind.

何ひとつ戻せない、草に光宿らす時も、
誇らかな花の輝きもそう、けれど哀惜に沈まなくていい
むしろ後に名残らすものにこそ強い力は見いだせるから

William Wordsworth「Splendor in the Grass」作中にも引用してる詩ですが。
山や森の花は一期一会、次訪れた時には全く違う花が咲いています。
その時ごとに姿を変える草花は、ホントこの詩みたいです。笑



今回の花たちを撮った八ヶ岳は国定公園になっています。
で、念のために言っておくなら動植物の勝手な採取は禁止です、笑
たまに居るらしいんですよね、山のルール解ってない困ったサンたちって。
山野草が珍しいって持って行っちゃうそうなんですけどね、でも気候風土が変ったら草木は萎えます。
白眼視されながら盗んだトコロで結局は無駄ってことです、そういう骨折り損はしないでくださいね?笑

なにより、花って咲くべき場所で咲いてるから綺麗なんだろなって思います。
人間も動物もソウイウのってあるけど、って考えると今居る場所と時間に「of glory in the flower」
ソウイウの見たくて山や森を人って歩くんでしょうけど、くれぐれも装備&天候の備えは万全で楽しんで下さいね?



今シーズンはGW前から遭難者数が例年より増加しています。
いま懸念される富士山もそうですが、山が天候や季節で難易度も危険度も変化する事を知らないと事故ります。
下界は30度の真夏日でも標高2,000mは気温が下がることは勿論、風や湿度が急転することも珍しくないです。

低体温症は連載中の『side story』第52話「露籠act.4」に取り上げましたが、夏の屋上でも起き得ます。
肌が濡れた状態で陽光=熱源が無いまま風に晒されると気化熱にエネルギーは奪われ体温低下するわけです。
それが登山中の場合、たとえば気温18度でも濃霧に巻かれ風が吹けば低体温症を起こして最悪死亡します。
こうした低体温症による遭難事故はあっちゃいけないけど多いそうです。

自分が富士山に登ったのは真夏8月でしたが、山頂は想像以上に寒かったです。
五合目では暑いなって思っても八合五勺あたりから気温と気圧は変貌して、景色も変りました。
いわゆる単独峰の富士は風を遮る壁も皆無です、なので風の影響がモロで天候変化も急激に起きます。
自分の時は晴天に恵まれましたが、それでも雲は何度か体を透りぬけて湿度に冷やされました。
友人も8月に登ったんですが、急転した雷雲に巻き込まれて髪がリアルに逆立ったそうです。

天候変化を読む観天望気を知ることも、山で楽しむ大切なコトです。
人ソレゾレの感覚差はあると思いますが、雨が降る時は特有の風が吹きます。
冷やりと肌なでる水の匂いの風が吹くと雨が降るんですけど、その直前には虫や鳥の声が止みます。
雨雲が近づくと空気自体も香が変化します、湿度上昇のために樹木の香が濃くなってくるんですよね。

そういう時に樹林帯にいるなら雨風が避けれますが、もし吹きさらしの尾根だと低体温症&道迷いが怖いです。
北斜面も気温低下が大きいです、奥多摩で吹雪いた時でも北斜面と南斜面どちらにビバークしたかで生死が分かれます。
こういう判断を正確にするためにも登山図&コンパスは持って行ってくださいね、
クライマーウォッチだと高度&方位計測機能があって便利です。



で、こういうのは富士山に限らず低山でも同じ現象が起き得ます。
先週末の八ヶ岳も標高2,500m付近は何度も雲に覆われていました。
あの雲に入ってしまうと降雨や濃霧に阻まれて道迷いも怖いです。
道に迷えば崖から転落って可能性は大きい、ホント濃霧は要注意。

八ヶ岳も分岐や獣道などで迷いやすいポイントがあります。
で、富士山も実はあるんですよね、コレ間違うと全く違う登山口に出て難儀します。
そういうので歩き疲れて疲労凍死ってヤツもあるんですよね、数年前に身延山の駐車場近くで亡くなっています。
この方は低山&身延山は寺への山道っていう軽い気持ちで横道に入ったことから迷い、遭難死に至ったそうです。

山に行くなら最低限、登山靴+懐中電灯+水+雨具は必須です。
登山靴には厚手の靴下を履く、新品なら二重履きして足を傷めない工夫をする。
雨具はレインスーツなら防寒着にもなります、晴天でも天候急転に備えて必携です。
そして山には鹿や熊などが住んでいます、特に奥多摩はツキノワグマ遭遇率が高いので熊鈴はつけて無難です。
山中にはコンビニなんか無いし援けを呼んでも無人が当り前、ソノヘン対処すれば山って楽しい世界です。



昨夜UP「光紗の香The latter half 3」加筆ほぼ終わっています、あと少し校正する予定です。
今夜は第67話の続きと、日付変わる頃に短編一本UPするかと思います。

ココンとこ夏風邪っぽくて眠いです、笑
なので予定通りUPが進まないんですけどね、更新を楽しみにしてる方います?

昼休憩に取り急ぎ、





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取り急ぎの一瞬

2013-07-25 17:45:12 | お知らせ他



おつかれさまです、夕方になって晴れた神奈川です。
写真は土曜日に行った八ヶ岳某所、ここのブックカフェ好きなんですよね、笑

昨夜UPの第67話「陽向4」加筆校正が終わっています。
祖父について素顔ひとつ明らかになり、それが周太の道に繋がっていく。
そんなとこです、笑

今夜は短編UPの予定です、ホントは昨夜UP予定でしたが寝落ちしました、笑
もし楽しみにして下さった方いらしたなら、今日その分も楽しんで下さると嬉しいです。

取り急ぎ、

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第67話 陽向act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2013-07-25 00:03:18 | 陽はまた昇るanother,side story
俤、光陰の軌跡に 



第67話 陽向act.4―another,side story「陽はまた昇る」

銀杏の木蔭くぐって農学部3号館の階昇り、いつもの学食へ入っていく。
友達ふたりと一緒に眺めたテーブルたちの窓近く、お決まりの席でワイシャツの袖捲り姿は座っている。
眼鏡かけた生真面目な横顔は丼片手に資料を捲る、いつも通り熱心な准教授を見ながら周太は二人に笑いかけた。

「賢弥、美代さん、俺ちょっと先に青木先生と話してくるね、」

今日は先に話すことがある、この決意の前で笑顔2つ違う貌をする。
その日焼明るい笑顔は愉しい闊達な声で訊いてくれた。

「周太、決めたんだ?」
「ん、お世話になる事にする。偶にしか通えないだろうけど、出来るだけ勉強したいから、」

微笑んで応えた向こう綺麗な明るい目が大きくなる。
いま初めて聴かせることに周太は微笑んだ。

「美代さん、俺ね、森林科学専攻と仏文研究室の研究生になろうと思って、」

告げた言葉に澄んだ瞳が尚さら大きくなる。
その綺麗な睫ゆっくり瞬かせて美代は嬉しそうに笑ってくれた。

「すごい、ふたつ掛持ちなんてすごいね?この間の翻訳のお手伝いから仏文でもってなったのね?」
「ん、そう…このあいだ話した田嶋先生がね、色々ご配慮くださって青木先生にも話してくれて。だから先に先生と話してくるね、」

話しながら何だか気恥ずかしくて首すじから熱昇りだす。
その肩を日焼の手がぽんと軽くひとつ叩いて、眼鏡の愛嬌が笑った。

「周太、先生がこっち気づいたぞ?ほら、行ってこいよ、」
「ん、ありがとう、」

頷いてブックバンドの本を抱え直し、一歩を踏み出す。
その隣から可愛い声が笑いかけてくれた。

「ね、湯原くん今日は何食べたい?一緒に持ってくよ、」

ゆっくり青木准教授と話せるよう気遣ってくれている。
この配慮が嬉しくて周太は素直にお願いした。

「ありがとう、じゃあ鯖塩メインでお願いして良い?」
「うん、お惣菜も見繕って持ってくね、」

明るい瞳は笑ってサンプルケースを覗いてくれる。
その隣から賢弥も笑ってくれるのに微笑んで周太は食堂を歩き出した。
窓際の明るい席から快活な笑顔が手を挙げてくれる、その前に真直ぐ行くと周太は恩師へ頭を下げた。

「青木先生、研究生のお話のこと、ありがとうございます、」

端正な礼から直って微笑んだ先、眼鏡の明るい目が笑ってくれる。
その大きな手が勧めるまま席に着くと准教授は訊いてくれた。

「田嶋先生のお話、受けられるんですね?」
「はい、」

素直に頷いた前で笑顔は頷いてくれる。
長い指の手に資料を閉じながら朗らかな声が笑った。

「それで、私の研究生にもなって頂けるんですか?」
「ぜひお願いします、」

即答で頭下げた想いに、ふと母の声が温かい。
今回の話を受けた3日後に家へ電話した、そのとき母は言ってくれた。

『文学部の研究室と掛持ちするなんて、やっぱり周はお父さん達から良いもの沢山もらってるのね?』

父から良いものを受継いだ、そんなふう母はよく褒めてくれる。
読書、語学、茶道に山、それから料理と庭仕事、勉強から家事まで多く父に教わった。
そんな全てと同じよう学ぶチャンスも祖父から父が継ぎ、そして自分へと繋がっている。
この大いなる遺産は愛惜と感謝が温かい、この温もり微笑んだ前に大きな手が資料を置いてくれた。

「農学科学生命研究科の研究生用パンフレットです、履修方法やシラバスが載っています。解らない事があれば聴いて下さい、」
「はい、ありがとうございます、」

受けとった冊子はさっき青木が開いていた表紙と同じデザインでいる。
きっと渡す為にチェックしてくれた、その厚意に笑いかけた先から准教授は言ってくれた。

「手塚くんから聴いてるだろうけど湯原くんは学費免除の特待生です、でね、学生登録は名前をどうしますか?」

学生登録の名前、その問題が自分にはあった。
すっかり忘れていた迂闊さに小さく息吐いて周太は微笑んだ。

「田嶋教授とは僕の名前について、もう話されたんですか?」
「それがね、まだ名前を聴かれて無いんだ。だから宮田くんとも湯原くんとも言ってないけど、学籍は戸籍名で登録だからね?」

周太の意志と現実を量って話してくれる、そんなトーンに准教授の厚意は温かい。
以前、青木には祖父たちと田嶋教授の関係を話して、文学部では宮田姓を遣いたいとお願いした。
けれど正式に研究生となる以上は戸籍名を遣う必要がある、けれど文学部で実名を名乗ることは気遣わしい。

―お祖父さんの孫って解かると田嶋先生に気を遣わせるかもしれない、お父さんの事もあるし…でも戸籍の名前じゃないと駄目だし、

湯原晉博士、この名前はフランス文学の世界で大きい。
その人が祖父と同一人物だと23年間ずっと知らなくて、けれど知った今は考えてしまう。
逝去30年を経ても一流の学者であり続ける、そんな祖父と同じ分野に立つことは周囲にどんな影響があるのだろう?

「湯原くん、私の考えを言ってみても良いかな?」

明るい落着いた声に問われて周太は瞳ひとつ瞬いた。
戻した意識の向こう燻銀フレームの瞳は快活に微笑んで、学者は口を開いた。

「湯原晉博士がフランス文学で大きな存在なことは、専門違いの私でも知っています。湯原先生はこの大学全体の功労者で、学者だからです。
そういう方のお孫さんであることは君の事実で、君という個性の大切な要素です。だから先生の名前も背負って君は学ぶべきかもしれません、」

いつもの明るい落着いた声、けれど静かに話してくれる。
土曜の臨時開業である食堂は空いて人も少ない、その話し易い空間で学者の声は静かに続いた。

「湯原先生のお名前で学術基金が今もあるんです、これは先生が書かれた研究書の印税で賄われていますが、目的は文学に限っていません。
学問を私物化せず広く活かすこと、その人材に優れた学者を育成すること、この目的とシステムを湯原先生ご自身が決められたと伺っています、」

印税の受取人は本人かその遺族、本人死後50年まで支払われる。
その全額を学術基金に祖父は遺した、こうした考え方はきっと祖父らしい。

―ね、お父さんも大賛成だったんでしょ?…お祖父さんと同じ気持ちだから、お父さんも本を寄贈したんだよね?

父も祖父と同じに学問を愛していた、だから大切な蔵書も母校に寄贈した。
それは学者である父親の願いを継ぐ意志だろう、そんな父と祖父が嬉しくて微笑んだ想いに准教授は教えてくれた。

「私は父を早く亡くしたので、働きながら高校と大学に通ったんです。4歳下の妹も進学させたくて、私は学部卒で就職するつもりでした。
でも担当教授が湯原先生の基金に私を推薦してくれて、大学院も卒業出来ました。だから先生の基金が無ければ今ここにいる私はありません。
きっと樹医にはなったと思います、だけど進学して研究出来なければあの本は書けません、博士号が無ければ大学の教員にもなれませんでした、」

語られる言葉たちに、親しい笑顔ふたつ思い出す。
友達の関根は高校時代に父親を亡くして大学は夜間部に通う勤労学生だった、そして希望通り警察官になった。
そして今朝も通学の電車を共にした箭野は今、青木准教授の若い日と同じ悩みに向きあっている。

―箭野さんも本当は大学院に行きたいけどお金のことで進学は難しいって…だけど、青木先生みたいに成る人かもしれないのに、

第七機動隊銃器対策チーム、そこでも箭野の立場は軽くない。
その立場を羨む人は沢山いるだろう、けれど箭野が望むのは青木と同じ研究を生かす道にある。
それでも儘ならない現実に望む道を歩けない、そうした才能たちを祖父は援けようと遺産を学問に遺した。

―ね、お祖父さん…もしお祖父さんが罪を犯していたとしても、それ以上にお祖父さんは立派だよ?

“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る

そうメッセージを遺した祖父の著作に綴られた、ある男の罪と祈りの記録。
あの全てが過去の現実だったとしても自分は祖父が誇らしい、この想い微笑んだ周太に青木准教授は言ってくれた。

「だから君の名前が湯原くんだと聴いた時、湯原先生の基金のことを思いました。そして今度は私が君を援けようって決めたんです。
あのラーメン屋さんで再会してあの本を渡した時、本当に湯原くんは嬉しそうに本を抱きしめたからね、本気で学びたい人だと解かりました。
なにか事情があって植物学を学べなくて、けれど本気で学びたい心があって、しかも名前も先生と同じで。なにか縁があるかとも思ってました、」

何も言わなくても気づいて、けれど黙ってくれていた。
そんな教師の眼差しは明るいまま温かい、この篤実な学者に周太は感謝を笑いかけた。

「僕も祖父のことを知ったのは本当に最近のことなんです、父は早く亡くなって、母も父から何も聴いていなくて、名前しか知りませんでした。
だから青木先生からご本を戴いたとき僕は、祖父がこの大学の先生だったことも知らなかったんです。だけど、祖父は喜んでいると思います、
青木先生が僕みたいな人間にも学ぶ道を開いて下さったことは、祖父の学問への気持ちと同じです、きっと祖父は先生を誇りに想っています、」

きっと祖父ならこう想う、その確信は揺るぎなく眩しくて温かい。
この想いは父も同じだろう、父も祖父と同じ志を抱いてこの大学で学んでいた。
こんなふうに父と祖父の足跡を自分の恩師に見つめられることは幸せで、微笑んだ周太に青木は言ってくれた。

「湯原くんにそう言ってもらえると本当に嬉しいです、ずっと湯原先生とご家族にお礼を言いたいって想ってたんだ、ありがとう、」

ありがとう、そう言ってワイシャツ姿は姿勢を正してくれる。
そして燻銀フレームの瞳は快活に微笑んで、きちんと頭を下げてくれた。

「ありがとう、君のお祖父さんのお蔭で私は学者でいられます。だから私に出来る限り、君に学ぶ機会を贈らせて下さい、」
「先生、僕に頭なんて下げないで下さい、僕こそよろしくお願いします、」

困りながら自分も頭を下げて、その瞳から熱ひとつ膝に零れた。
この立派な学者が自分に頭を下げるのは祖父への敬意、それが嬉しくて涙はただ温かい。

―ね、お祖父さん、お父さん、こんなにお祖父さんは立派だね…カッコいいよ、お祖父さん?

こんな祖父で良かった、そう心から誇らしい。

あの小説が事実なら、祖父は人を殺したかもしれない。
戦争の現場で殺して、その後も一人殺して遺体遺棄もした、それでも自分は信じられる。
こんなふうに真直ぐな心を遺せる祖父ならば、どんな罪を犯していてもそこに必ず懺悔と温もりはきっとある。
だから全てを知りたい、祖父と父の現実を全て知って受けとめて、ふたりに伝えたい想いがあるから自分は扉を開く。

“Je te donne la recherche”

このメッセージに籠められる想い全てに、自分の全てで応えたい。
そんな願い微笑んで頭あげた時、向こうから闊達な声が笑ってくれた。

「先生、周太、もう席に着いて良いですか?」

声に振り向いた先、賢弥と美代がトレイを携え笑っている。
自分たちが話し終るタイミングを待ってくれていた、その気遣いに周太は笑いかけた。

「お待たせしてごめんね、座って?」
「はい、遠慮なく、」

笑って美代は隣にトレイ2つと座ってくれる。
その前に賢弥も座りながら感心気に教えてくれた。

「小嶌さん、ひとりでトレイ2つ持っちゃってさ?細いのに力持ちだよな、」
「農家の娘でJA職員ですからね、力持ちじゃないと務まりません。はい、どうぞ、」

涼しい顔で笑って美代はトレイを前に据えてくれる。
お願いした通り鯖の塩焼きと相性の良い皿たちに周太は微笑んだ。

「ありがとう、全部で幾らだった?」

訊きながらポケットから財布を出して値札を思い出す。
たぶん全部で430円くらい、そんな暗算に可愛い声は言ってくれた。

「今日はご馳走します、だから残さず食べてね、」
「え、」

驚いて見つめた隣、綺麗な明るい目が楽しく笑ってくれる。
その華奢な掌を3つ軽く拍手して美代は言ってくれた。

「研究生になるんだもの、ささやかだけど進学のお祝いさせて?おめでとう、湯原くん。ずっと一緒に勉強してね?」

ほら、こんなふうに美代は真直ぐ一緒に喜んでくれる。
この優しさも明るさも共に夢追う約束も、自分には幸せで泣きたい。

―ごめんね美代さん、俺、明後日から本当に危ない場所に行くんだ。でも約束は守ってみせるから、信じてね、

言えない別離を心で告げるのは今日、これで何度めだろう?
その回数分だけ自分はこの友達が大切で、こんな相手がいる幸せに周太は笑いかけた。

「ありがとう、美代さん。じゃあ遠慮なくご馳走になるね、」
「うん、また今度ちゃんとするからね、」

笑って頷いてくれる笑顔が今日はなんだか眩しい。
それは明後日から始る時間との対比が見せる?そんな想いごと箸を取った前から賢弥が訊いてくれた。

「周太、学籍登録は実名だから仏文で研究生になると、田嶋先生に名字バレるよ?まだ俺から先生には言ってないけど、」

やっぱり賢弥も青木准教授と同じ心配をしてくれていた。
その配慮に感謝しながら周太は素直な答えに笑った。

「湯原ですって名乗るよ、今日ちゃんと田嶋先生にお話してくるね?」











(to be continued)

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惜瞬、花ちる光―万葉集×Ben Jonson

2013-07-24 12:01:13 | 文学閑話韻文系
夏雨、花零すなら 



惜瞬、花ちる光―万葉集×Ben Jonson

宇乃花の 過ぎば惜しみ香 霍公鳥 雨間も置かず 木間に喧き渡る   大伴家持
うのはなの すぎばをしみか ほととぎす あままもおかず こまになきわたる

卯の花の季節が過ぎてゆく、
季惜しむよう花の香は名残らす、この香に時鳥の声が立つ、
花零す雨音にも絶間なく響きだす声は、木立のはざ間より高らかに啼き渡る。
花披いた君の残り香に僕も惜しむよ、戀しい君を呼ぶ聲は雨すら渡るほど高く、君へ届け。

これは『万葉集』第八巻、霍公鳥=時鳥の声を雨に聴いて詠んだ歌です。
宇乃花=卯の花とは「空木うつぎ」なんですけど、以前も紹介しましたが貼付写真が卯の花じゃなかったんですよね、笑
あのときは似ている花でもってカンジで萵苣、学名エゴノキの花写真を載せたんですけど、今回は本物の卯の花になります。
上に掲載の花は三頭山@奥多摩、下のは富士山一合目に咲いていたモノなんですけど花の開き方・葉の形など少し違います。
この辺まだ調べてないんですけどね、全く違う気象状況のトコだから別種のウツギなんだろうなって思います。

最後の「木間に喧き渡る」の原文は「従此間喧渡」と書かれています。
これを「こゆ鳴き渡る」と読ますことが多いですが、万葉仮名に従って解釈してみました。
此間は音から「このま=木間」と充てると木立の間、青葉茂れる夏山イメージから時鳥の季節に合います。
喧渡の「喧」という字は「喧しい・やかましい」と読むように、聴こえすぎるほど響く声を表してくれる字です。
木立に喧しいほど響き渡る時鳥の声、そんな風景が「此間喧渡」って文字から浮んで上述の訳が出来上がりました。
ちなみに「従」は「~より、~に、」なんて意味を含む字です、で、訓読の時は字余りを考えて「に」と読んであります。

卯の花は夏を告げる花です、この時期に山を歩いていると多く見かけます。
標高1,000~1,500mあたりなら6月下旬~7月上旬が花の季、純白の花と翡翠色の葉は初夏の木洩陽に映えます。
写真を撮った地点は上掲の三頭山1,100mあたり、下掲の富士山1,400m付近でした。



A lily of a day
Is fairer far in May,
Although it fall and die that night―
It was the plant and flower of Light.
In small proportions we just beauties see:
And in short measures life may perfect be.

ただ一日の百合は
初夏のなか遥かに美しい
たとえ夜に枯れ落ちる命としても、
それは草木の命、そして光輝の花。
小さな調和に端整な美しさを見る、
そして短い旋律たちには完璧なる命が謳う。

Ben Jonson「It is not growing like a tree」の抜粋です。
前にも引用したんですけどね、上の万葉歌と似てるなって想って載せてみました。
卯の花の散る香に想い寄せる歌と、百合の短い花時に輝きを謳う詩。
どちらも白い花の散る瞬間に無形の永遠を見つめる視点です。



昨日UPの第67話「陽向3」と昨夜掲載「光紗の香The latter half 2」の加筆校正は終わっています。
今夜は第67話の続きと短篇一本UPする予定です、が、もしかして早寝するかもしれません、笑

休憩合間に取り急ぎ、




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