萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第63話 残証act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2013-03-30 23:43:51 | 陽はまた昇るanother,side story
過去と現在、意志からの対話、



第63話 残証act.4―another,side story「陽はまた昇る」

『La chronique de la maison』 Susumu Yuhara

今、この手には古くて美しい本が一冊、午後の陽射しに照らされる。
祖父が居たはずの研究室で、祖父が30年以上前に記した本が自分に手渡された。
これは現実だろうか、それとも居眠りでもしている?それなら何時から眠ったのだろう?
解らなくなって頬つねると痛い、 その傷みに我に返って周太は目の前の教授に首を振った。

「だっ、ダメです。これは貴重書で手に入らないって僕、知っています。こんな大切な本は受け取れません、」

言いながら本を差出し返そうとして、けれど教授の大きな手は腕組んだ。
その明敏な目が可笑しそうに周太を見、浅黒い日焼貌ほころんで笑いだした。

「大切だから上げるんだろう?自分が要らないものを他人様にさし上げたら嫌な奴じゃないか、なあ?」
「あ、…それはそうですけど、」

言われた通りだ?そう気がついて途惑ってしまう。
けれど本の価値を知るだけに周太は姿勢を但し、真直ぐ教授を見つめ微笑んだ。

「田嶋先生、これはフランス文学の貴重本です。それもこの研究室の先生が記念出版されたんですよね、ここの学生にも大切な本のはずです。
ここの研究生でも無い、フランス文学の勉強もしていない僕が受取るなんて出来ません。だから一度だけお借りして読ませて貰えたら良いんです、」

祖父がフランス文学に懸けた想いを受け留めたい、だからこそ自分に受取る資格は無いと解っている。
それでも本当は自分が受けとりたい、写真も知らない祖父の声を文字を通して聴いてみたい。
そんな願いが本当はある、それでも孫である自分が祖父の願いを壊したくない。

―きっと自分の後輩に役立てて欲しいはずだよね、お父さんが大学に自分の本を寄贈したみたいに、

まだ父が英文学を諦め警察官になった理由は見えない。
それでも大切な英文学書を母校に寄贈した想いは解かる、きっと祖父も同じ想いだろう。
まだ顔も知らない祖父、それでも自分を生んだ血をくれた人を理解し、その想いを護りたい。
どうか祖父の誇りを護ってあげたい、そのために本を書架へ戻し微笑むと教授は笑ってくれた。

「君は本当に本好きで、勉強好きなんだな?そうか、」

頷いて田嶋は踵返すと大股で歩き、電話の受話器を取った。
その足跡には床積みの本が崩おれて、また一冊ずつ拾いあげ埃を叩いて積み直す。
どれもが翻訳した本よりは新しいふうで、祖父が揃えた本は書架に納めてあると解って嬉しい。
やっぱり田嶋は祖父の教え子なのだろうか?そんな思案と本を拾う向こう田嶋教授は受話器を置いた。

「すぐ戻る、ちょっと二人とも待っていてくれなあ、」

どこへ行くのだろう?
訊こうと顔を上げた先、扉は開いてワイシャツの背中が出て行った。
ばたんと閉まった扉を見、書斎机のバリケードから手塚が笑いだした。

「あーあ、田嶋先生また俺様ペースだよ。ごめんな、周太?」
「ううん…さっき俺、断ったの悪かったかな?」

せっかくの厚意を断って気を悪くさせたろうか?
つい頑固に言いはるのは悪い癖だ、反省しながら本抱えると手塚は笑ってくれた。

「いま出て行くときの顔、ご機嫌だったよ。周太に言われた事が嬉しかったからだろ?」
「そう?」

心配になりながら訊いて、また本を積む。
その向こうで手塚もファイリング整理しながら、眼鏡の瞳ほころばせた。

「田嶋先生って大らかでさ、見ての通り研究以外は無頓着なんだよ。あの恰好もな、朝はちゃんとしてるのにアアなるんだよな、」
「朝はちゃんとしてるんだ?」

意外で釣り込まれ訊いてしまう。
そんな周太に友達は笑って教えてくれた。

「ああ、ちゃんとしてるよ。先生の奥さんが朝は整えてくれるらしいんだ、でも1限が終わったらアアなってるけどさ、」
「あ、そっか。奥さんはちゃんとするよね?」

応えながら可笑しくて笑ってしまう。
身なりも部屋も端整だった父との落差が、逆に父を思い出させる。
いま父を偲びながら祖父のいた場所で本を片づけ、一緒に夢を学ぶ友達と笑いあう。
こんな時間が自分に与えられた事が嬉しくて楽しい、笑いあい本積んで、また扉が開かれた。

「お、ずいぶん綺麗にしてくれたなあ?ありがとうな、」

快活な笑顔ほころばせ田嶋教授は扉を閉めた。
そのまま真直ぐ周太の前に来てくれる、そして一冊の本と笑ってくれた。

「さあ、今度こそ受けとってくれ。私から君へのバトンだよ、」

言いながら日焼けした手は周太の手から本を取り、代わりに一冊のハードカバーを持たせてくれる。
古びても紺青色あざやかな表装と銀文字のタイトルに作者名、その見覚えに息呑んで周太は表紙を開いた。

“Je te donne la recherche”

万年筆の筆跡が、よく知っているブルーブラックで綴られる。
家の書斎に遺された父の万年筆、それから祖父の蔵書に記された購入日とサインの文字。
どれも懐かしい記憶の筆跡と似たフランス語のメッセージに、声が震えた。

「あの、…これ、図書館のですよね?…書庫にある貴重図書の、ですよね?」

どうして、あの本が今ここにあるのだろう?

この本は大学附属図書館の書庫に納められていたはず、貴重書扱いで平日の閲覧しか出来ない。
複写も専門業者に依頼すると言われた、その手続時間には間に合わなくて複写申請すら出来なかった。
当然のよう禁貸出扱いで、指定された閲覧場所でしか読むめなくて、通し読みを一度するのが精一杯だった。
それなのにどうして今、仏文研究室で自分は見ているのだろう?途惑って顔上げた先、田嶋教授は楽しげに笑った。

「やっぱりコレを君は読んでたのか、今時この本を読んでるなんて仏文科以外では珍しいよ、大したもんだ、」
「はい…あの、この本って、持ち出し禁止ですよね?」

答えながらも今、この本が手にある状況が解らない。
ただ途惑って本を持ったまま見つめた先、田嶋は可笑しそうに教えてくれた。

「寄贈主が取り戻しただけだよ、書庫に入れっぱなしは勿体無いから君にあげたいんだ。もし学生が読みたければココのを読めばいい、
発行された時にも1冊はすぐに文学部の図書館に納められて、今もあるんだ。だから君がこれを受けとっても何の支障も無いはずだ、だろ?」

寄贈主が取り戻した、そう告げてくれる言葉に驚いてしまう。
この本を田嶋は2冊も持っていた?その事実に途惑う前から教授は微笑んだ。

「いま君にあげた本は私が図書館に寄贈したんだ、だが正確に言うと、預けられた本を私の名前で納めたんだよ、」

今、田嶋は「預けられた本」と言った。
この言葉に鼓動が止められ推測が瞳を開く、その向こうに真実はある?
そんな想いに竦んで見つめた学者は、笑って作業机の椅子に腰を下ろした。

「ほら、君も座りなよ?手塚もおいで、この本の話は本気で学問する人間なら聴くべきだからな、」

言われるまま椅子に座り、その隣へ手塚も来てくれる。
そして周太の手にある紺青色の本へ微笑んで、田嶋教授は口を開いた。

「その本は部活の先輩から貰ったんだよ、この本を書いたのは私の先生でな、その先輩のお父さんなんだ、」

告げられた事実が推測を、過去の現実という素顔にさせる。
自分が想っていた通り、この本は祖父が息子である父に贈ったものだった。

―それなら“Je te donne la recherche”は、お祖父さんがお父さんに宛てて書いたってことだね、

このメッセージを最初に読んだとき「recherche」の意味を考えあぐねた。
あのときから抱いている疑問と未知は今、このまま披かれ見えてくる?
その期待と緊張に鼓動ひとつ打った前、教授は語り始めた。

「先輩は1つ上で英文学の人だったけど、私がフランス文学に進みたがっているのを知ってすぐに、お父さんに紹介してくれたんだよ。
お蔭で1年のときからこの研究室に通わせてもらえてね、3年間いろいろ教えて頂いて嬉しかったよ。本当に湯原先生にはお世話になった、」

やっぱり田嶋は祖父の教え子だった。
しかも父に部活の後輩として直接祖父に紹介され、この研究室に入っている。
こんなに近しい人に会えると想わなかった、嬉しくて微笑んだ隣から手塚が口を開いた。

「田嶋教授の先生は、湯原先生とおっしゃるのですか?」
「ああ、湯原晉博士だよ、」

日焼顔が応えてくれる名前が心響いて、温かい。
嬉しく微笑んで、けれど隣の友人の驚きが見えるようで気恥ずかしい。その含羞が熱く昇せる前で教授は続けてくれた。

「湯原先生はパリ大の名誉教授でな、この研究室と戦後の文学界を担ったお一人だ。たくさんの研究書を書かれてるが、どれも名文だよ。
世界的仏文学者って言われる方だ、そんな先生が唯一書かれた小説がこの本なんだ。全文がフランス語の推理小説なんだが悔しい位に面白いよ、」

文学界を担った、名文、面白い、そんな賞賛が目の前で笑ってくれる。
こんなふうに評価を祖父と同じ仏文学者から聴ける、その率直な言葉たちがただ嬉しい。

―お祖父さん?もう30年以上経っても、こんなふうに教え子の人に言ってもらえるんだね?…良かったね、

祖父の為に嬉しい、そして父の為にも嬉しい。
父は学者の道を生きられなかった、けれど後輩は今こうして研究一筋に笑っている。
きっと父も祖父も今、喜んでくれているはず。そう確信と微笑む隣から手塚は気遣うよう、けれど率直に尋ねた。

「あの、先生。その湯原先生と息子さんは今、どうされているんですか?」

友達の質問にそっと周太は瞳を閉じ、ゆっくり見開いた。
その前でも教授の瞳が瞑目から披かれて、哀しげに微笑んだ。

「亡くなられたよ、お二人とも。湯原先生はパリ第3大学で客死されてな、私が3年になった春の終わりだった、」

並んで座る友達が、ひとつ呼吸する音が聞える。
もう聡明な手塚なら気づいたろう、いま友人の驚きと途惑いに佇んだ前から田嶋は続けてくれた。

「当時のフランスは火葬場が少なくてな、大学葬にしたいって東大の意志もあって、先生のご遺体は火葬されずに帰国されたんだ。
ご遺体を空輸するにはエンバーミングっていう防腐処理をせんといかんのだが、他にも色んな手続きや何やかでお金が掛かったそうだよ。
それもあって先輩はオックスフォード大の留学を辞退されてな…まだ祖母の方がご存命で、独り置いて行く事も出来ないって言ってたよ、」

祖父の異国での客死、それが惹き起した父の変転。
世界最高峰の英文学を学べる資格とチャンスが父にはあった、それなのに諦めざるを得なかった。
約束されたはずの栄光が鎖された、これが英文学者を諦めて警視庁の警察官になった理由なのだろうか?

―それでも他の方法は無かったの?お金が理由で就職するにしても、大学の助手とか出版社とかの方がお父さんらしいのに、

なぜ父は別の進路を選べなかったのだろう?
その疑問に思案めぐりだす隣、息ひとつ呑んだ気配から友達の声が訊いた。

「先生、オックスフォードに留学って相当優秀な方ですよね?その先輩はウチの大学院に進んだんですか?」
「進学しないで警察官になられたよ。先輩は優秀な射撃の選手でな、それで湯原先生の友達で警察庁にいた方から勧められたんだ、」

応えてくれる声が、ふっとため息吐いて微笑んでくれる。
きっと田嶋は父の最期を知っているだろう、そう見つめた先で教授は口を開いてくれた。

「国家一種は締め切ってたけどな、警視庁の採用試験には間に合うからって受験したんだ。オリンピックにも射撃の選手で出ていたよ、
だけど殉職された、もう14年になる。先輩は大学時代の仲間と縁遠くしていてな、私も新聞の記事で亡くなったことをを知ったんだよ。
それすら事件から1週間経ってたんだ、ちょうどパリ大のシンポジウムに出張していてな、帰国して、溜めこんだ新聞で初めて知ったんだ、」

14年前の殉職事件、その当時が幼い記憶から呼び起される。
あのとき自分が向きあった現実と涙、苦しんだ悪夢、そして父の記憶ごと涙を眠らせた。
あのときには忘却だけが自分を救う手段だった、けれど全てを今は抱きしめ見つめる前で田嶋はため息と微笑んだ。

「驚いて、すぐご自宅に電話したんだが番号が変っていてな。留守番電話も Fax も確かめたけど、何も連絡の跡は無かったんだ。
大学の仲間は誰ひとり先輩の新しい電話番号を知らなくて、訃報も無くてな…先輩は縁を切りたかったのかと思えて、そのままなんだ、」

敬愛する友人の死に何も連絡が無かった、その傷みが学者の瞳を揺らがせ堪えている。
この貌に父と田嶋が学生時代に培った時間が見えて、涙閉じこめながら周太は父へ問いかけた。

―山の仲間で、大切な友達だったんでしょう、お父さん…なのに、どうして連絡先まで消しちゃったの?

この友人のことは勿論、母校のことは何ひとつ家族に話さず父は逝った。
きっと連絡先すらも残していないだろう、父の電話帳に書かれた全員へ母は連絡したのだから。
けれど父が山の仲間を求めていたと知っている、あの過去の現実を想う前から教授は微笑んで教えてくれた。

「私が修士1年の夏だったよ、この研究室に先輩は訪ねてくれてな。先輩が集めた英文学の本を大学図書館に寄贈してきたって笑ってた。
もう自分は学者として本を研究に役立てられないから、後輩たちに代わりに読んでもらって研究の足しにしてほしいって話してくれたよ。
先輩は本当に英文学を愛してる人だって改めて思えて、大学に戻ってくれって私は言ったんだ。でも、ただ笑って私にこの本を渡したんだ、」

この本、そう言って田嶋は周太の手にある本をそっと触れた。
その指先に銀文字の表題は煌めいて、静かに手を離すと教授は微笑んだ。

「この本は父から息子の自分に贈られたものだ、だから自分が図書館に持ちこんでも遠慮されて、たぶん受けとってもらえないだろう。
でも父はこの本も学問に役立てて欲しいはずだ、だから教え子の君にこの本をどうすべきか決めてほしい。そう言って私に預けてくれてな、
それで大学図書館に私が寄贈したんだよ、でも貴重図書扱いになって書庫に仕舞い込まれてなあ、当て外れだが保管庫代りと思ってたんだ、」

語ってくれる言葉から、父と祖父の想いが自分の推測と重なってゆく。
いま三十数年を超えて届く二人の願いと聲が温かい、その温もりが瞳から一滴こぼれて周太は微笑んだ。

「田嶋先生、そんなに大切なご本をなぜ、僕に下さろうとするんですか?僕は文学部じゃなくて農学部の聴講生なのに、」
「でも、フランス語と文学を君も愛してるだろう?」

明敏な瞳が真直ぐ周太を見つめ訊いてくれる。
その言葉へと自分の頭は、無意識なほど素直に頷いて声が出た。

「はい、」

短い返答、けれど迷い無く自分から現われてくれる。
今までフランス語も文学も「愛している」なんて自覚したことは無い。
ただ幼い日から空気のよう傍にあって、父と母との楽しい記憶をたくさん贈ってくれた。
そんな時間たちへ改めて向かい、自覚した想いの前から日焼顔の文学博士は嬉しそうに微笑んだ。

「それなら君がこの本を持っていることは相応しいよ、これはフランス語とフランス文学を愛した人が全てを籠めて書いた小説なんだ。
これを贈られた人もフランス語と文学を愛してた。言葉と文学を愛した二人が本に想う気持と、同じことを君はさっき私に言ってくれたね?
文学を研究していない自分は受け取れない、そう言った君の言葉も貌も先輩と先生のことを思い出させたよ。だから君に渡そうって想ったんだ、」

祖父達を知る顕子は周太を祖母似だと教えてくれた、たぶん父と自分があまり似ていないよう祖父とも似ていない。
それでも田嶋教授は父と祖父を自分に見つけてくれた、その真直ぐな視線がこんなに嬉しくて優しくて、温かい。
きっと田嶋教授は前にいる聴講生が誰なのか気付いていない、それでも厚意の瞳は周太に笑ってくれた。

「二人の気持ちが解かる君だから、この本を渡したいんだ。きっと君が読んでくれるなら二人も喜ぶよ、受けとってくれるかい?」

父も祖父も、この本を自分が持つことを望んでくれる?
それを二人ともに縁ある人から告げられるなら信じたい、この願いの証を持っていたい。
いま三十年以上の時を超えて廻り会えた本、この一冊を抱きしめて周太は綺麗に笑った。

「はい、頂戴します…本当にありがとうございます、僕、ずっと大切にします、」

抱きしめた紺青色の本から、シャツもTシャツも透かして何か温かい。
この温もりが欲しくて自分は父の軌跡を辿り、父を祖父を探し求めて過去の欠片を集めてきた。
まだ10歳になる前から始まった探し物、もう14年になる願いの結晶をひとつ今この胸に抱きしめられる。

―お父さん、お祖父さん、やっと1つ見つけられたよ?

胸の本へ心つぶやき微笑んだ横顔、隣の友人が見つめている。
この友人が今思うことは自分にも解る、そして本音は真実を知ってほしいと思っている。
けれど自分からは言えないまま本を抱きしめる隣から、決意が背筋を伸ばして田嶋教授へ質問した。

「先生、その先輩には、ご家族は?」
「奥さんと息子さんが一人いるそうだ、他は親戚も無いらしいが、」

明敏な瞳を和ませ答えてくれる、その眼差しが温かい。
自分たち母子の存在も知ってくれていた、この感謝に微笑んだ前で田嶋は言ってくれた。

「先輩が亡くなった時、息子さんも小学生位のはずだ。きっと母子ふたりきりで大変だったろう、なのに何もしてあげられんかった。
でも湯原先生も来年は三十三回忌になられるんだ。教え子で集まろうって話が出ているから、お孫さんに連絡出来ないか考えてるとこだよ。
たぶん先輩は奥さん達に大学の事も先生の事も話していないだろう、でも、お孫さんはお祖父さんのことを聴きたいかもしれないって思ってな、」

祖父の年忌法要を憶えてくれている、そして孫の存在にも気遣ってくれる。
もう31年も昔のこと、それでも教え子は正確に覚えてくれている。その篤実が嬉しい。
こんな教え子がいるほど祖父は立派な教師で学者だった、それなのになぜ父は何も話さなかったのだろう?

―こういう方達がいるなら法事もお知らせするのが筋なのに、お祖父さんの十三回忌の時も家族三人だけで…どうして?

普通なら著名な学者で教師なら、年忌法要の連絡は教え子にもするだろう。
自分が工学部に在籍したときも研究室の担当教授が恩師の法事に出席していた。
それが学者の世界の礼儀だろう、それなのに礼儀作法に篤い父がなぜ連絡もしていない?
こんな「らしくない」父の意図はまだ解らなくて、それでも秘密にしたがった意志だけは解かる。

父は自身の父親を息子と妻から隠してしまった、その理由は何?






(to be continued)

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兆す、萌芽の刻

2013-03-30 21:40:23 | 雑談
青、黒、芽吹きの瞬間、



こんばんわ、冷えこんでいる神奈川です。
花寒の手本みたいな今、薄墨の空に薄紅あざやかな桜を広げています。
そんな端境に樹木は今、芽吹きの季を迎えて緑やわらかです。

下記、加筆校正が終わっています。
 ↓
第63話「残証3」仏文研究室で父と祖父に向きあう周太の、過去と現在の対話。
今朝UPの短篇「花時雨」雅樹と光一の another sky 春の雨ふるワンシーンです。

短篇連載「雪花の掌1」もあと少しで校了です。
御岳剣道会にて朝稽古に立ち会う雅樹と光一、雅樹サイドになります。

このあと第63話「残証4」と「雪花の掌2」を予定しています。
もしかすると引用している詩その他について補記を書くかもしれません。

取り急ぎ、








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第63話 残証act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2013-03-29 00:50:34 | 陽はまた昇るanother,side story
And yet, it moves ― 端緒、伝言の扉



第63話 残証act.3―another,side story「陽はまた昇る」

陸橋に立ち、彼岸のキャンパスが緑に広がる。

ほんの3時間ほど前にも美代と歩いていた。
あのときは入試書類を受けとる期待と不安が隣で笑って明るんだ。
けれど今この橋を進む鼓動はいつもより速くて、それでも意識は澄みわたる。

“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る

大学図書館に納められる祖父の遺作小説には自著サインがあった。
そこに添えられたフランス語「recherche」の意味をずっと考えている。
まだ見つけていない答え、そのヒントが今から行く場所で見つかるかもしれない。
そんな想いに真直ぐ見つめて橋を渡る隣、明朗な瞳が笑いかけてくれた。

「仏語の部屋に行くのって俺、追試のとき以来だよ、」
「手塚が追試って意外だよね、ずっと首席なのに、」

英語はよく出来る手塚なのに、フランス語が苦手なのは意外だな?
そう笑いかけた隣はTシャツの肩を軽くぶつけると、明るく笑ってくれた。

「先月の飲み会で言ったろ?俺は仏語ボッコボコすぎて先生に顔、覚えられてるって。アレって追試の所為なんだよ、」
「あ…そっか、追試の常連ってこと?」
「何度も言うなって、黒歴史なんだからさ、」

笑いあって橋を渡り、向うのキャンパスに二人降り立った。
いつも図書館へ通う道を友達と歩く、その風景にも緊張が昇りそうになる。
やはり祖父の痕跡に直接ふれることに竦みそう、それでも隣の友達との会話に解かれる。

「湯原、9月の演習ってやっぱり参加できない?」
「ん、仕事があるんだ。感想とかまた教えてくれる?」
「おう、またレジュメとかのコピー渡すよ。あと院試の過去問、今度コピー貰うから湯原にも渡すな?」
「ん、ありがとう。いつもごめんね?…あ、帰りに本屋とか行く?対訳本の良いのって英訳の勉強になるから、」
「それ助かる、時間の余裕あったら一緒して?」

並んで話しながら歩く足元、並木の梢豊かに緑陰をゆらす。
午後の木洩陽きらめくキャンパスは陽射しが強くて、けれど風は幾らか涼しい。
きっと森の泉から風は吹く、その奥には大切にしている古いベンチが今日も鎮まっている。
あのベンチに自分の祖父母も憩っていたかもしれない?そんな想像とまだ見ぬ俤に周太は心笑んだ。

―お祖父さん、お祖母さん、今から研究室に行くんだよ?

  東大の仏文科の教授をされていたわ、パリ大でも名誉教授よね、晉さん。
  研究室は人気が高かったみたい、斗貴子さんは彼の研究室に入って恋に墜ちたのよ。
  年の差が15歳あったけれど素敵な恋愛結婚だったわ、学問で結ばれた恋ね?

英二の祖母、顕子が語ってくれた祖父母の物語は綺麗だった。
まだ写真ですら会ったことの無い肉親、それでも確実に二人の命は自分に流れる。
そう想うごと今から行く場所が嬉しい、嬉しく微笑んで周太は友達と話しながら文学部3号館の入口を潜った。

「ここの3階なんだよ、」

指さしてくれる階段を昇り、鼓動が心を静かに叩く。
この階段は祖父たちも歩いた道、そう想うだけで何か温かい。
そして気がついたことに周太は念のため、友達へとお願いした。

「あのね、手塚?先生に俺の名字は言わないで貰って良いかな、」

言ってしまって首筋から熱が逆上せだす。
こんなお願いは普通に考えたら、よく解らず奇妙だろう?

―でも俺のお祖父さんのこと知ってる人だったら、何か気を遣わせそうだし…そういうの悪いよね?

今から尋ねる相手は祖父の後輩にあたる。
青木准教授が学生時代に所属した山岳部OBと言っていたから、祖父の教え子かそのまた教え子だろう。
そんな関係からすれば自分を無料アルバイトで手伝わすことは遠慮が起きやすい。
それは困るから黙っていてほしくて笑いかけた先、友達は気さくに肯った。

「いいよ?じゃあ、先生の前では名前で呼ぶからさ、俺のことも賢弥で良いよ、」
「ん、ありがとう、」

承諾にほっとして微笑んだ足元、3階フロアに辿り着く。
けれど手塚は何も理由を聴かないでいてくれる、その快活な優しさが温かい。
この友人に感謝しながら並んで革靴の踵を響かす廊下、一つの扉の前で足音を止めた。

『文学部人文社会系研究科 フランス語フランス文学研究室』 

掲げらえた表札に、鼓動ひとつ想いを敲く。
その隣から日焼した手が軽やかにノックした。

「失礼します、」
「はあい、どうぞ?」

のんびりした返事に手塚は周太へ笑いかけ、慣れたふう扉を開いてくれる。
そこへ広がった書架の空間から微かに甘く重厚な香が微笑んだ。

―あ、うちの書斎と同じ香?

ほんの一瞬、けれど懐かしい香が心に届いた。
そして実感が響きだす、この場所は祖父の夢と信念が現実に生きていた。

―お祖父さん、ここに居たんだね?

ひとり呟く想いがめぐって、泣きたくなる。
けれど涙は深く溜めて微笑んだ隣、手塚が書架の向こうへと声かけてくれた。

「田嶋教授、手塚です。青木先生からの助っ人を連れてきましたよ、」
「おっ、来てくれたか?地獄で仏だよ、」

気さくな返事が聞えて、奥から腕まくりしたワイシャツ姿が顔を出した。
ネクタイ緩めた笑顔は髪もくしゃくしゃに無頓着で、浅黒い日焼貌に無精髭が馴染んでいる。
そんな風貌は熟練クライマーとしては相応しくて、けれど文学者と言うには意外で周太は驚いた。

―ワンゲルのOBって聴いてたけど、でもフランス文学の先生なんだよね?

同じよう文学と山を愛した父は逞しい体躯でも、穏やかに繊細な雰囲気があった。
顕子が話してくれた祖父も似たような感じで、けれど祖父の後輩であろう田嶋は全く違う。
なんだか予想外な姿に瞳ひとつ瞬いて、途惑いながらも微笑んでお辞儀した周太を教授は拝んだ。

「急にすまんなあ、ちょっと詩を翻訳してほしいんだ、英語と日本語で、」

もう話しながら周太の肩を抱きこんで、通路に積んだ本を避けながら窓際へ連れて行く。
明るい光ふる書斎机は書類と本が山積みされて、その立派な要塞化にまた目が大きくさせられる。
まるで本のバリケードみたい?そう見ている向こうで田嶋は一冊のハードカバーを発掘して周太に手渡した。

「この付箋貼ってあるとこだよ、1時間以内で仕上げてもらえるかな?うわっ、」

話す声に書斎机の上、バリケードが崩壊した。
ハードカバーもペーパーバックも文庫本も床に墜ち、アルファベットの紙が宙を舞う。
午後の光きらめく埃が雪のよう降ってゆく、その光景に呆気とられながら周太は咳込んだ。

―なんでこんな片付けがなって無いの?

咳込みながら心で呆れ声が起きてしまう。
きっと祖父はこんなふうには研究室を使っていない、それは父の几帳面さや家の空気に解かる。
それなのに後輩の男はこんなふう?あんまり予想外すぎて途惑い噎せる隣から、友達が笑い出した。

「田嶋先生、あいかわらずマジ酷いですね、ここは。大丈夫か、周太?」

可笑しそうに笑いながら手塚は辺りを払い、周太の背をさすってくれる。
咳込みながらもポケットを探り、いつもの飴を口に入れ落着くと周太は微笑んだ。

「ん、大丈夫。ありがとう、」
「ごめんな、こんなとこ連れてきちゃってさ。田嶋教授って片づけ方法が独特なんだ、」

呆れ顔で笑う手塚の言葉は容赦ない。
こんなふう言って大丈夫?すこし心配で見た山崩れの向こう、けれど仏文教授は大笑いで応えてくれた。

「あっはっは、本当にすまんなあ、二人とも。これでも秩序ある積み方なんだが、たまに雪崩が起きるんだよ?山と同じだな、」

悪びれない笑顔ほころばせながら田嶋は窓を開いてくれた。
緑薫る風ふきこんで息つける、ほっとした周太に教授はパソコンデスクを示してくれた。

「君はココで作業してくれ、ペンとか付箋や紙も好きに遣ってくれな。手塚、悪いが片づけ手伝ってくれるか?」
「仕方ないですね?ちょっと内線借りますよ、青木先生に遅くなるって言わないと、」

気さくに笑って手塚はサイドテーブルの電話をとった。
その様子を見ながら周太も落ちた本を拾い始めると、田嶋は笑って言ってくれた。

「君は片づけはイイよ、それより翻訳を頼むよ?どうしても1時間で仕上げてほしいんだ、明日の学習会で使うのに印刷があるんだよ、」

そんなに急な仕事だったんだ?
また無頓着な計画性に首傾げた前、なんでもない貌で田嶋は笑った。

「急がせてすまんなあ、でも本当は訳文を作ってあったんだよ?だけどデータ保存がドッカいってしまってな、頼むよ、」

素直に謝って手を合わせ拝んでくれる、そんな様子はなんだか憎めない。
くしゃくしゃ髪の貌は快活で若く見えて、けれど教授なら父と年齢は変らないだろうか?
そこには父のもう1つの人生と祖父が想われて、今この部屋で手伝えることが嬉しくて周太は綺麗に笑った。

「はい、解かりました。辞書もお借りして良いですか?」
「もちろん使ってくれ、手前の本棚の上から3段目に一通りあるから。データ保存はデスクトップに頼むよ、」

教えてくれる笑顔は楽しげで自由に明るい、その雰囲気は父とは全く違う。
それでも学問の夢に生きる誇りは同じはず、そんな共通点に微笑んで周太は辞書を選ぶと席に着いた。
そして渡された本の表題を見て、懐かしいタイトルと著者名に周太は微笑んだ。

Pierre de Ronsard『Les Amours』

幼い日、父が読み聞かせてくれた詩集と同じ本。
そう気がついて見直した装丁は、書斎にある本とよく似ている。
もしかして祖父が選んで研究室に置いたのだろうか?そんな思案に発行日と出版元のページを披いて見る。
その日付たちからも推測は当たりそうで、嬉しい気持ちごと記憶すると付箋が示すページを披いた。


Ciel,air et vents,plains et monts decouverts,
Tertres fourchus et forets verdoyantes,
Rivages tors et sources ondoyantes,
Taillis rases et vous,bocages verts,

Antres moussus a demi-front ouverts,
Pres,boutons,fleurs et herbes rousoyantes,
Coteaux vineux et plages blondoyantes,
Gatine,Loir,et vous mes tristes vers

Puisqu'au partir,ronge de soin et d'ire,
A ce bel œil adieu je n'ai su dire,
Qui pres et loin me detient en emoi,

Je vous suppli',ciel,air,vents,monts et plaines,
Taillis,forets,rivages et fontaines
Antres,pres,fleurs,dites-le-lui pour moi.


―この詩、雪の奥多摩に行った朝の、

幼い記憶が蘇えり、静かに心を温める。
まだ9歳だった早春の朝、初めて母が留守にする日に父が朗読してくれた。
初めに和訳を詠んで、それから原語で読み聞かせてくれる。それが父の外国詩を教えるお決まりだった。
あの日も同じようこの詩をよんでくれた、その後に車で雪道を走り奥多摩へ連れて行ってくれた。
あのとき初めてアイゼン履いて雪の森を歩き野うさぎの足跡を追い、そして山桜の下で光一と出会った。

―あの桜は雅樹さんの場所なんだね、だから光一、あのときも毎日ここに来るって言ったんでしょう?

懐かしい雪の日の記憶が今、前にする詩から煌めきだす。
そして語りだす父の声から詩は母国語に謳われて、よどみなく指はキーボードを敲いた。


空よ、大気と風よ、見遥かす平原と山嶺よ
連なりゆく丘、青い森よ、
弧をえがく川岸よ、湧きいずる泉よ
刈られた林よ、緑の草叢よ

苔に姿のぞかす岩の隠家よ 
緑野よ、蕾よ花よ、露に濡れた草よ
葡萄の丘、 金色の麦畑、
ガチーヌの森よ ロワールの川よ そして哀しき私の詩よ

心残りのままに私は旅立ってゆく、
傍近くとも遠くとも 私の心とらえる美しい瞳に、
さよならは言えなかったから

空よ 大気よ 風よ 山よ、遥かな草原よ、
林よ、森よ、岸辺よ、沸きいずる泉よ
岩屋よ、牧場よ、花たちよ、あのひとへ私の想いを伝えてほしい


一息に日本語を打ちこんで、そのまま英訳を作ってゆく。
それから辞書で正誤チェックをするとデータ保存し、印刷をかけ周太は立ち上がった。
そこだけは本に埋もれていないプリンターから用紙を取り、目を通しながら窓の席に戻る。
読み直しながら誤字脱字を確認して、英文のスペルチェックも終えると立ちあがり微笑んだ。

「田嶋先生、お待たせいたしました。チェックお願い出来ますか?」
「もう出来たのかい?」

書斎机のバリケードから驚いたよう声上がって、本の山から癖毛頭が現われた。
また髪型がひどくなった?そんな様子に笑いそうになりながら周太は訳文を手渡した。

「はい、日本語と英語でよろしかったですか?」
「もう2ヶ国語でやってくれたんだ、速いなあ、」

頭を書きながら田嶋は受けとり、紙面へ視線を奔らせてくれる。
その明敏な眼差しは学者だと感じさせられて、賞賛と見つめる向かい教授は微笑んだ。

「どっちも綺麗な訳文だ、私のよりずっと巧いよ。しかも速いな、もしかして帰国子女なのかい?」
「いいえ、外国には一度しか行ったことないです、」

褒められて気恥ずかしくなりながら、一度だけの海外行きを想いだす。
大学4年の時に研究発表で一度だけ渡米した、それが留学のチャンスも自分にくれている。
けれど母にも無断で留学は断ってしまった、その秘密に傷みながらも微笑んだ肩を大きな手が優しく掴んだ。

「君、ウチの研究室においで?これだけ出来るんならウチの大学ぐらい受かるだろう、外大も良いけどココも良いぞ。東京の高校かな?」

また高校生に間違われている。
どうやら青木准教授も周太のプロフィールは話していないらしい。
この状況に途惑っていると、堆い本の山から快活な声が笑ってくれた。

「ダメですよ田嶋先生、ウチの研究室に決っていますから。それに周太は高校生じゃないですよ?」
「なんだ、ウチの学生だったのかい?でも初顔だなあ、フランス語選択してないのかい?こんなに出来るのに、」

日焼顔ほころばせ、教授は髪をくしゃくしゃに掻いている。
どうも田嶋の髪型はこの癖も原因らしい?そんな憎めない学者に周太は微笑んだ。

「僕、青木先生の聴講生なんです。社会人で仕事しています、」
「そうだったのか、」

髪をかき混ぜながら感心したよう周太を眺めてくれる。
なんだか気恥ずかしくて首筋に熱が昇って、また赤くなりそうで困っていると田嶋は訊いてくれた。

「そういえば青木がバイト代はダメだって言ってたな、もしかして公務員かな?」
「はい、」

素直に頷いた前、教授は納得したよう微笑んだ。
あらためて周太と向かいあってくれると笑って田嶋は訊いてくれた。

「そうか、講義を手伝ってくれる語学が得意な聴講生って君のことか。だから青木はタイミングが良いって、さっきも言ったんだ?」
「はい、僕のことだと思います、」

笑って答えながら、教員たち二人の大らかさに楽しくなる。
どうやら二人は名前も飛ばして「語学が得意な聴講生」しか情報を通わせていない。
それでも互いに良しとしているのは信頼感があるのだろう、その絆が温かで微笑んだ前で田嶋は提案してくれた。

「ここにある中で好きな本を選んでくれないかな?こんなに出来るのにタダは申し訳ないからな、1冊なんでも進呈するよ、」

この研究室の本には、たぶん祖父が選んだものが多くある。
それを1冊貰えるのなら嬉しい、けれど甘えて良いのか解らなくて周太は訊いてみた。

「あの、すごく嬉しいんですけど申し訳ないです。それに研究室の本は大学の備品ではありませんか?」
「その心配なら無用だよ、私物の本から選んで貰えばいいからな。こっちの本棚がそうだよ、」

気さくに笑って田嶋は周太を手招いてくれる。
それでも申し訳なくて途惑っていると、書類をファイルしながら手塚が笑った。

「遠慮しても無駄だよ?黙ってると田嶋先生、どんどん勝手に選んで押しつけてくるからさ。好きなの選びな?」
「そうだよ、私は言いだしたら聴かないからね、おいで?」

田嶋も笑って促してくれる。
その気さくな雰囲気に周太は書架へと歩み寄った。
そして見た先の背表紙に、鼓動が大きく意識を打ちこんだ。

『La chronique de la maison』Susumu Yuhara

大学から記念出版された祖父の著作が、目の前にある。
これは元から発行部数も少なくて、現存は個人所有か図書館の貴重書扱いで入手は難しい。
自分でも大学図書館で寄贈本を一度閲覧したけれど、本当は何度も読んでみたいと思っていた。
けれど貴重書は土曜閉架の書庫に納められ聴講ついでに読めない、でも、この研究室にも置いてある。

「あの、田嶋先生。この本、お借りしても良いですか?」

出てしまった言葉に自分で驚いてしまう。
けれど祖父の本をきちんと読んでみたい、その願いに言葉を続けた。

「この本は貴重書だって知っています、だから他の本も頂かなくて良いです。一度だけでも貸して頂けませんか?」

祖父が書いた唯一の小説を、もう一度読んでみたい。
学者だった祖父は研究書なら数多く著している、けれど小説はこの一作品しかない。
きっと研究書よりも小説の方が祖父の肉声に近づける、そんな願い見つめた先で教授は笑ってくれた。

「この本のことかな、あげるよ?」

さらりと笑って大きな手は書架の一冊を出し、そのまま周太に手渡した。









【引用詩文:Pierre de Ronsard『Les Amours』Ciel, air, et vents, plains et monts découverts】

(to be continued)

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第63話 残証act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2013-03-28 00:51:38 | 陽はまた昇るanother,side story
明日と過去、記憶からの援助、 



第63話 残証act.2―another,side story「陽はまた昇る」

ふる木洩陽の緑が濃くなった。

2週間前より優しい光は八月の空から欠片ちりばめる。
豊かな緑陰をぬける風は幾らか涼しい、そんな風光に盆を過ぎたと感じさす。

―今年はお盆のお墓参り行けなかったな、お母さんと英二が行ってくれたけど…いつ行けるだろう、

例年と違う盆だった、その現実が緑のキャンパスを歩きながら小さく痛む。
そして葉月もあと十日で終わる、そして九月が過ぎれば十月がやってくる、その先は?
この日付と刻限への覚悟があらためて込みあげて、今この隣を歩く友人への想いに周太は微笑んだ。

「美代さん、募集要項とかの隠し場所って決められたの?」

問いかけに綺麗な明るい目が周太を振り向いて、悪戯っ子に笑ってくれる。
さっき受取ったばかりの書類封筒を抱きしめながら、美代は答えと微笑んだ。

「あのね、私の部屋に抽斗つきの本箱あるでしょ?あそこの底に封筒入れてから仕舞おうかなって、」
「その抽斗って、宝物入れって教えてくれた鍵付のとこ?」
「うん、そこよ。でもね、お姉ちゃんが帰って来たら開く可能性があるの。合鍵持ってるから、」

思案と歩きながら美代は封筒の半分まで書類を出した。
選抜要項と大学案内、入学者募集要項に願書、その一つずつを確認すると嬉しそうに微笑んだ。

「ね、こんなふうに書類を見ると、本当に受験するんだって感じするね?」

弾んだ声が笑って、いつも明るい瞳が木洩陽にきらめく。
学べるチャンスを掴みに行く、夢の一歩の扉を開く、そんな意志と希望が友達を輝かす。
この笑顔に夢を実現させてもっと笑顔にしてあげたい、その願いへ自分の願いも重ねて笑いかけた。

「ん、願書とか見ると受験だなって思うよね?でも美代さん、その前にセンター試験があるからね?」
「そうよね、センターで点数採れないと受験も出来ないもの、」

輝く笑顔を引き締めて、美代は書類を封筒に戻した。
また大切そうに抱きしめる横顔は緊張と希望がまばゆい、この真摯な横顔が好きだ。
こういう友達が隣に居てくれて嬉しくて、今朝の通学で聴いた先輩の事も想いながら周太は尋ねた。

「美代さん、この学校以外はどこか併願するの?」
「うん、ちょっと迷ってるの。お金を考えると国立か公立なんだけど、本当に森林学が学べるとこって限られてるし、」

困ったよう首傾げて「どうしよう?」と綺麗な目が訊いてくれる。
確かに学費の問題から考えると私大は難しいだろう、しかも美代は反対するだろう家族に無断で受験する。
きっとハイレベルの大学に合格しないと進学すら許してもらえない?そんな可能性に周太は思案の口を開いた。

「あのね、ご両親の説得って合格してからするんでしょ?それってよほど良い大学じゃないと進学も許してもらえそうにないからだよね?
「そうなの、」

ますます困ったよう頷いて、そっと華奢な手が書類を抱きしめる。
その仕草にも横顔にも「絶対に進学したい」意志が強い、この願いを叶えたい想いに微笑んだ。

「美代さんなら大丈夫って俺は思うよ、この間の模試もA判定だし。でも夏休み過ぎると現役生の追い込みが始るから油断はダメだけど、」

現役生は夏を過ぎると浪人生に追いついてくる、だから夏休みまでの模試結果は判断し難い。
けれど美代も仕事と受験を両立させているから条件的には現役生と変わらない、むしろ高校生や浪人生より分が悪い。
それでも美代はA判定、合格安全圏の得点を採れている。あとは自信と試験慣れを備えるだけ、そう笑いかけた先で美代も笑ってくれた。

「ありがとう、最後まで頑張るね?あ、私って浪人生だと六浪って事になっちゃうね?」
「あ、ほんとだね?」

言われた言葉が何だか可笑しくて笑えてしまう。
ちょっと美代には不似合いな言葉だな?そんな感想を素直に周太は口にした。

「でも美代さんはね、たぶん現役生だって思われるんじゃないかな?聴講でも最初は高校生って思われていたし、」
「あれは湯原くんが一緒だからよ?私一人ならせめて短大生だって思うけど、」

可愛い笑顔で言い返されて自分自身で可笑しい。
確かに自分もいつも高校生と間違われる、その事実が以前は嫌だった。
けれどに今は素直に認めてしまえる、こんな自分の余裕が「大人」だと想えて嬉しくて周太は笑った。

「その答えは美代さん、きっと4月になったら解かるね?」

4月になったら入学式、そのとき美代を同級生が何歳だと思うのか?
そんな明るい未来予想に笑いあいながら3号館の入口を潜って、いつもの学食へと入った。

「あれ、手塚くんまだみたいね?先に講堂出たはずなのに、」

美代の言葉に指定席を見ると、青木准教授ひとりで座っている。
友達の姿がないことが不思議で首傾げたとき、ポンと肩を叩かれ周太は振向いた。

「よっ、俺がドンケツだったな?」
「あ、おつかれ手塚、」

懐っこい眼鏡の瞳に笑いかけた視界の端、手塚も書類封筒を持っている。
なにか手続きがあったのかな?考えながらもメニューを眺めた隣で美代が頷いた。

「私、A定食にする。先生待ってるから、お先に行ってるね?」
「はい、すぐ追っかけるね、」

明るく笑って美代は書類封筒を鞄に仕舞いながら、注文カウンターへ歩いて行った。
その背中を送りだしメニューに戻した視線、書類封筒が差し出され友達が微笑んだ。

「湯原、これ俺のノートのコピーなんだ。専修になってからの講義全部が入ってる、だから4ヶ月分な、」

差し出された封筒は分厚い、その枚数を想うと手塚の努力と厚意が解かる。
解かるだけに簡単に手が出なくて、見上げた周太に友達は明るく笑ってくれた。

「大学院の専門科目試験、勉強するなら講義ノートが一番って思ってさ。配布資料のコピーも入ってるよ、あとはテキスト買えばOKだろ?」
「そんな、申し訳ないよ、手塚…」

息呑む想いで声が出て、この友人を見つめてしまう。
この書類封筒には森林生物科学専修3年生の講義が入っている、それを学部生では無い自分が受けとって良いのだろうか?
本当は読んで講義を知りたい、けれど手塚の努力を奪うようで申し訳なくて手が出ない。

―聴講の学費しか払ってないのにノート貰うなんて、図々しいよね…でも勉強してみたい、

森林学で最高峰と言われる世界の断片が今、眼前の封筒に詰まっている。
その世界への憧れと遠慮に竦んでしまう、そんな途惑いの前から明朗な笑顔が言ってくれた。

「申し訳ないとか言うなよ、湯原と院の同期になりたくて俺が勝手にやってるんだからさ?折角だから受けとってくれよ、」

懐っこく大らかな笑顔ほころんで、日焼けした腕が周太の手をとり封筒を渡してくれる。
その分厚い重たさに真情が掌から温かい、その温もりが瞳から一滴になって周太は綺麗に笑った。

「ありがとう、手塚。このノート大切にする、」

そっと抱きしめた書類封筒に一滴、温かい涙が吸われていく。
この友人の想いに応えたい、けれど本当は約束など出来ない自分だと解っている。
それでも精一杯に報いたい願い笑った真中で、大らかに明るい笑顔が言ってくれた。

「ノートぼろぼろになるくらい勉強してよ、一緒に合格して例の研究手伝ってくれな?またノートとかコピー渡すし、」
「ん、ありがとう。でも俺、甘えっぱなしになるの悪いよ?なんかお返し出来ること無いかな、」

嬉しくて笑いかけながら書類封筒を鞄にしまい、友達に提案を求めてみる。
大学の講義ノート以上に役立ち返せるものは何だろう?そう見つめた先で愛嬌の笑顔ほころんだ。

「じゃあさ、TOEFLの試験対策つきあってよ?湯原の語学って実用的だから勉強法とか教わりたかったんだ、」
「ん、俺で良かったら付合うよ?…あ、冷やしラーメンにしようかな、」

自分にも出来ることがありそうで嬉しい。
語学は幼い頃から父が自然と親しませてくれた、それを友達の援けに出来る。
こんなふうに父が今も援けてくれる、嬉しい感謝とメニューを決めると手塚も楽しそうに笑ってくれた。

「俺は冷やしの大盛にするよ。聴講の時は小嶌さんの勉強みる合間に教えてよ、あと仕事休みとかで空いてる時は声かけてくれな?」
「ん、ありがとう。またメールとかで休みの日、調べて連絡するね、」

こういう約束は嬉しい、素直に嬉しく微笑んでカウンターへと一緒に歩きだした。
もう美代は青木樹医と差し向かいで笑っている、その手元には書類封筒が初々しい。
きっと受験の話をしているのだろうな?そんな様子に微笑んだ隣から手塚が尋ねた。

「湯原は TOEFL 受けたことある?」
「ん、大学の時に受けたけど…だから1年半前だね、」
「そっか、スコア良かったんだろ、何点だった?」

あのとき何点だったろう?明るい声の問いに記憶を思い出す。
トレイを手に数字を答えて微笑んだ先、眼鏡の瞳ひとつ瞬いて友達の口から驚いた声が出た。



ふるい書物に新しいインクの匂い織られて、数枚の印刷が終わる。
その音に立ち上がるとプリンターから取り出して、読みながら周太は書架と机の間を歩いた。
問題集を広げる二人の背後を通りパソコン前に戻ると、書斎机から青木樹医が困り顔で微笑んだ。

「すみません湯原くん、こんな手伝いお願いしてしまって、」
「こちらこそ申し訳ありません、最初に読ませて頂いて、」

すこし困りながら微笑んだ手には、今、書かれたばかりの文章が紙面に充ちる。
この瞬間に誕生していく新しい学説、その文面を眺めた向こうで准教授は笑ってくれた。

「申し訳ないなんて言わないで下さい、タダで翻訳お願いするなんて私の方が図々しいんですから、」
「いいえ、僕の方が図々しいんです。謝らないで下さい、」

本当に図々しいのは自分の方なのに?
その途惑いに首傾げた傍ら、問題集から手塚が顔上げて笑ってくれた。

「湯原、ノートのことなら図々しいとか無しだからな?俺が勝手にやってるんだし、コピーも先生の許可得てるから、」
「そうだよ、あのノートは私が許可しました。なんの心配も要らないよ?」

若い准教授も気さくに笑ってくれる、その笑顔が素直に嬉しい。
けれどやはり申し訳なくて、周太は辞書を披きながら友達と教師を見比べた。

「でもノートはこの研究室でコピーしたんですよね?コピー代のこともあるのに論文の英訳なんて、逆に勉強させて頂いて申し訳ないです、」

貰った講義ノートのコピー代は結局どこから捻出されたのか?
なにより青木樹医がこの手伝いを依頼してくれた、本当の意図が何なのか?
それが解かる自分としては恐縮するしかない、そう見つめた先で准教授は困ったよう微笑んだ。

「専門書は翻訳料も高いのに、君はバイト代も受け取れないでしょう?勉強になるって言われると私こそ気楽になれます、ありがとう、」
「そう言って頂けると僕も気楽になれます、ありがとうございます、」

答えながら二人の人へ心が温められる。
いま恩師に言われる言葉が嬉しくて、それが父の夢のために嬉しい。

―ね、お父さん?教えてもらった英語のおかげ俺、森林学の最先端を読ませて貰えるんだよ?

英文学者を志した父、その学問へ向けた真摯が息子の自分を援けてくれる。
もし父から貰った語学力が無かったら?山で父が植物採集の手伝いをしてくれなかったら?
父と過ごした9年半があるから自分は今、植物学の一隅に座って夢を未来に叶えるチャンスを与えられている。

―お父さんの夢、今、俺と生きてるね?

大切な俤へと微笑んで今、改めて気づかされる。
ずっと自分は「警察官である父」を追っていた、それが父の真実を知る道だと信じていた。
けれど父の姿は警察官だけじゃない、もっと他の素顔で父は現実に生きていた、その全てを自分は知りたい。
そうして父の真実と願いの全貌を抱きしめて、父が生きた喜びも哀しみも、その全てを共に笑って共に泣きたい。

本当は生きている父と笑いあい泣きたかった。

その願いが死に奪われたとしても軌跡は辿ることが出来る。
その願いに自分は大学で機械工学を学び警察官になった、その選択が母を泣かせた。
きっと父をも泣かせている、そして今朝の会話から自分の傲慢さにも今もう気づいている。

 人生って自分だけのモノじゃない。
 自分に出来ること全部やって、きちんと生きたって胸張りたい。
 この一秒後だって終わるかもしれない、そのとき後悔するの嫌だからチャンスは大事にしたい。

通学する車窓で聴いた箭野の物語は、覚悟の意味を気付かせてくれた。
甘え、強情、傲慢、そして工学部と警察官を選んだことへ本当の責任を想う。
そんな朝があって今ここに座っている時間には、温かな懺悔と感謝と、そして幸せが目映い。

―お父さん、全部があって今があるね?たくさん間違えて、なんども赦されて、

 that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
 an unending dialogue between the present and the past.
 歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である

今、パソコン画面と辞書と論文に向かいながら想いめぐらす。
その合間には今朝も読んだ父の遺贈書が心へ映ってめぐりゆく。
あの言葉を光一は父からのメッセージと言ってくれた、その通り今も父の記憶と夢に対話する。
そうして交わされゆく過去と現在の物語りから、はるか未来へ指針は渡されて進む道が顕れだす。
そんな想いに母国語つづる学説を英文にも語らせて、手許の全てが完訳されたとき電話が鳴った。

「はい、青木です…あ、それなら、」

すぐ取った受話器に樹医は話しながら、周太の方を見た。
何の電話だろう?すこし首傾げた向こうから、青木准教授は可笑しそうに笑いかけた。

「湯原くん。申し訳ないのですが今、ちょっと出張してもらえるかな?」

ちょっと出張って何だろう?
解らないけれど恩師の役に立ちたくて、素直に周太は頷いた。
その肯定に青木は微笑んで、電話の向こうと少し話し受話器を置くと教えてくれた。

「湯原くん、仏文の研究室に出張してくれますか?前に話した先輩から緊急の依頼なんです、」

告げられた行先が、鼓動ひとつ心をノックする。
そして暁に見つめていた一文がメッセージのよう心に綴られた。

And yet, it moves ― それでも、それは動く







【引用文:Edward Hallett Carr『What Is History?』】

(to be continued)

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春の雨、今

2013-03-25 22:53:18 | お知らせ他
春宵一刻、花誘う



こんばんわ、雨ふり花寒だった神奈川です。

いま第63話「残証1」加筆校正が終わりました。
第七機動隊の先輩たちと会話する湯原の2シーン、過去と今に向きあう物語です。
また1つ気づいて大きくなる湯原の成長は、七機に異動して徐々に加速しています。

今朝というか昨夜の短編「恋慕、夢にも実らせ」もあとちょっとで校了します。
読まれて気づかれた方もあると思いますが、こちらは雅樹と光一のanother sky、もう1つの物語です。
本篇でも短編連載でも雅樹は23歳で早逝します、けれど、雅樹の生命に続きがあったなら二人の人生は?
きっと容易くは無い人生です、それでも二人がどう生きていくのか知りたいなと思いました。
そんな想いから古歌にからめながら始めてみました。

このあと短編連載をUP予定です。
取り急ぎ、




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第63話 残証act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2013-03-24 22:16:17 | 陽はまた昇るanother,side story
証、その発見と理解  



第63話 残証act.1―another,side story「陽はまた昇る」

My first answer therefore to the question 'What is history?'
is that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.

“ 問いかけ「歴史とは何か?」へ、まず最初の答えとして、  
 歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である ”

Edward Hallett Carr『What Is History?』

1961年にケンブリッジ大学で行われた連続講演「What Is History?」は同年秋に書籍化された。
この歴史学における著名な基本テキストは今、デスクライトに輝く古いページでアルファベットに綴られる。
ページを繰るたび古書らしい乾いた匂いと甘く重厚な香かすかに頬なでて、寮の小さなデスクが懐かしい書斎机に想えてしまう。

…この本をお父さん、何度も書斎で読んでいたんだね、

いま感じる香に俤を想い、独り周太は微笑んだ。
この本は今日の午後に大学図書館へ返却する、その名残りに今一度と読み返してゆく。
本と向きあう穏やかな時間に窓のカーテンはあわく明るみ、ゆっくりと朝の到来を告げてくる。
こんなふう本との対話に夜明けを迎えるのはどれくらいぶりだろう?大学卒業して以来になる?
ふと心の隅っこが歳月をカウントするのに微笑んで、周太は最後の一文を読んだ。

“And yet, it moves” それでも、それは動く

この言葉は、地動説を支持したガリレオ・ガリレイが1633年の宗教裁判で呟いたとされる。
日本では「それでも地球は回っている」の訳で著名だが、英訳「It」の方が実際の台詞に近く、そして続きがあった。

“All truths are easy to understand once they are discovered; the point is to discover them.”
 全ての真理は発見してしまえば理解することも易しい、重要なのは真理を発見することである

真理を発見すること、それは自分にとって父の実像を知ること。
父と死別するまでの9年半は家庭人の父しか知らない事に疑問は無かった。
けれど亡くなって父の記憶を辿るうち、自分が「父の人生」を全く知らない不自然に気がついた。

父の両親は、自分の祖父母はどんな人だったのだろう?
なぜ父は結婚前までのアルバムが無い?祖父母の写真すら1枚も無い?
父が大学で山岳部だったと知っていても何を学んだか知らず、母校の名前すら知らない。
そして父が警察官として「どこ」に通勤していたのかも、本当は何ひとつ知らなかった。

…警察官として仕事内容を言えないのは仕方ない、でも、どうして…お祖父さんたちの写真が1つも無いなんて、

あらためての疑問と共に見開きを広げ、ブルーブラックの筆跡を見つめてしまう。
すこし古びてもきれいな紙面に流暢なアルファベットと数字は綴られて、どれも父の俤が懐かしい。

“ 15.Mar.1978 Kaoru.Y ”

東京大学に入学した春、父はこの本を買い求めた。
このイギリスで出版された歴史学書を開く時、父は異国で育まれた幼い日々を懐かしんだろう。
父が7歳になる初夏、仏文学者の祖父はオックスフォード大学に招聘されて父子共に渡英した。
その4年間も帰国子女であることも父は話していない、そして母も同様に父の過去を何も知らない。
この「話していない」が逆に疑問を呼び起こす、なぜ父は自身の過去も両親のことも「隠す」のだろう?

…外国にいたことも話さない、大学のことも、お祖父さんのことも何も…普通なら隠す必要なんて無いことなのに、どうして?

湯原晉 仏文学博士。

東京大学文学部仏文学科教授、パリ第三大学名誉教授、フランス文学者の権威。
そんな肩書を持つ祖父は立派な教師で、卓越した研究者で、優しく頼もしい夫で父で家庭人だった。
こうした人柄なのだと調べた資料どれもが語り、祖母斗貴子と縁戚らしい英二の祖母も教えてくれる。
こういう祖父を自分は誇りに想う、生きて会ったことも無くまだ写真も見ていないけれど敬愛している。
誰にも賞賛される祖父、それなのに、どうして父は息子の自分に何ひとつ祖父の事跡を語らない?

…お祖父さんは立派な人だよって教える方がお父さんらしいのに、どうして写真も無いの?お祖父さんが書いた本だって家には一冊も無い、

家の書斎に祖父の蔵書は遺されて、どれも「Susumu.Y」と購入日が父と似た筆跡で記されている。
けれど祖父が著わした豊富な学術書たちが一冊も無い、普通は自著の初版は出版社から贈られるだろうに?
だから祖父を探して名前から検索した時も、該当者のうち湯原晉仏文学博士は祖父ではないと思ってしまった。
それなのに戸籍謄本と除籍謄本で調べた祖父の死亡地が「フランス国パリ市」だったから意外で、生年月日の一致にも驚いた。
そして湯原晉博士が自分の祖父なのだと英二の祖母、顕子から聴かされた時は嬉しくて、けれど疑問も同時に起きだした。

なぜ父は、立派な祖父の存在を「隠して」いたのだろう?

もし祖父の写真が1枚あったなら湯原晉博士が自分の祖父だと解かるだろう、けれど過去のアルバムは家に無い。
もし祖父の著作が1冊でも書斎にあったなら文章を読み、祖父の人柄を読取り父との共通点を気付くことも出来る。
けれど祖父の著作も写真も無い、祖父の生年月日も過去帳に記されていない、祖父と父の母校が同じであることも教えられなかった。
こんなにも祖父と父に対して無知に育てられていることは、まるで全てを「意図的に父が隠して」いたとしか思えない。

…お父さんが隠した理由を知ることが、俺には真理の発見になるね…お父さんたちの過去と話すことが真相を教えてくれる、

父は祖父を自分から隠してしまった、その理由を知りたい。
その理由はおそらく、顕子と父の血縁関係を英二が隠している理由とも重なるはず。
だから英二に真実を問い質してみたい、けれと英二が秘匿を簡単に教えてくれるとは思えない。
どうしたら英二から真実を訊けるのだろう?そんな思案と捲るページにアルファベットは語りかけ、過去の父を今の自分に繋ぐ。

that it is a continuous process of interaction between the historian and his facts,
an unending dialogue between the present and the past.
歴史とは歴史家と事実が対峙し続けるプロセスであり、現在と過去が交わす果てなき対話である

もし現在の人間と過去の事実が交わす対話が歴史なら、自分と父が過去の痕跡を通して会話する事は家族の歴史を示すはず。
そうして家族の生きた証を心に綴ったなら自分が何者か解かるだろう、そのとき生きるべき場所へ進む磁針は動きだす。
そんな願いに微笑んで見つめるページに曙光ゆるやかに射し、最後の言葉は静謐に光った。

And yet, it moves ― それでも、それは動く





土曜朝のどこか賑やかな廊下、行き交う先輩へ挨拶しながら歩いて行く。
世間では週末の休みの日、けれど警察では勤務日と曜日はあまり関係が無い。
それでも土曜や日曜は何となくでも寛いでいる?そんな感想と歩く付属寮は顔馴染が増えた。
その中でも親しい1人を見つけて、嬉しくて周太は笑いかけた。

「おはようございます、高田さん、」
「おはよ、湯原。今日って講義だよな、」

山岳救助隊服姿の日焼顔ほころばせて、涼しい一重目が笑ってくれる。
こういう山ヤらしい明るさは懐かしく話しやすい、楽しい気持ちで周太は微笑んだ。

「はい、そうです。そのあと先生のお手伝いしてきます、」
「そっか、もし晩飯まで戻れるんなら一緒しようよ、講義の話また聴かせてほしいんだ、」

気さくな提案と笑顔には会話と学問を楽しむ気持ちが明るい。
この先輩は学生時代の山岳部で森林学にふれている、その話も聴きたくて頷いた。

「いいですよ、6時半には戻る予定なので、」
「俺は上がりがちょっと遅いんだ、8時に食堂でいいかな?」

待合せを決めてくれる言葉から高田が所属する山岳救助レンジャー第2小隊の予定が解かる。
どうやら今夕は夜間訓練があるらしい、それなら夜、光一が部屋へ遊びに来るのは遅くなるだろう。
だったら図書館で本を2冊借りても読めるかな?思案しながら頷きかけた横から穏やかな声が微笑んだ。

「また勉強会の相談?」

あわい日焼け健やかな白皙の笑顔に、鼓動が少し跳ねあがる。
この先輩は懐かしい俤を想わせてしまう、そんな想い小さく深呼吸して周太は笑いかけた。

「おつかれさまです、浦部さん。朝食の時はありがとうございました、」
「こっちこそ一緒してくれてありがとう、穂高のことまた聴きたかったら声かけて、」

落着いた透る声が笑ってくれる、その声は違うけれどトーンが似ていて嬉しくなる。
今頃は御岳駐在所にいるだろうか?逢いたい俤をつい想いながら周太は微笑んだ。

「ありがとうございます、また質問させて下さい、」
「うん、いつでもどうぞ?あ、高田さん、今日の訓練は小隊長のご指名あるっぽいですよ?良かったですね、」

端正な瞳がすこし悪戯っぽい眼差しになって笑いだす。
その先で高田の顔が嬉しいと困ったの織り交ぜに笑った。

「マジ?ちょっと心の準備してかんとなあ、俺。湯原、もしも晩飯で愚痴ったら聴いてくれな、国村さんには内緒で、」

先輩たちの笑顔と言葉には光一が指揮官として立つ姿が覗える。
きっと良い上司なのだろうな?いつも底抜けに明るく怜悧な幼馴染を想い周太は微笑んだ。

「はい、口は堅い方ですから、」
「ありがとな。浦部、ちょっと部屋に寄ってイイか?あの資料を見せてほしいんだけど、」

拝むような眼差しで高田が笑いかけた先、白皙の貌が軽く首傾げこむ。
その端正な瞳ひとつ瞬くとすぐ笑顔になって、一つ上の先輩に笑った。

「7月に小隊長が講習やったヤツですね?高田さん、訓練の予習してくんだ、」
「そうだよ、もしミスったら国村さんのサドシゴキの餌食だろ?だから万全を備えたいんだよ、あ、」

困ったようでも愉快に一重目は笑って、けれど視線が向うに止められる。
その視線を追って振り向いた先、整然と歩く救助隊服姿へ高田は背筋を伸ばし笑いかけた。

「おはようございます、黒木さん、」

声に振り向いた日焼顔は、真直ぐ眼差しを向けてくる。
その水際立って精悍な瞳が高田を見、浦部と周太を眺めると微笑んだ。

「おはよう、今日も訓練よろしくな、」
「はい、よろしくお願いします、」

改まった態度で高田が室内礼をし、隣で浦部も姿勢を整え礼をした。
周太も一緒に頭を下げると、黒木は軽く会釈して廊下の角を曲がっていった。
なにか緊張した空気にひとつ息吐いて、ゆっくり頭を上げる端正な困り顔が微笑んだ。

「黒木さん、ちょっと俺たちの話を聞いたみたいですね?」
「ああ、微妙に機嫌悪かったよな、まあ仕方ないかな、」

ほっと息吐くと高田も困ったよう一重目を細めた。
いったい何が困るのだろう?首傾げ見上げた周太に穏やかな笑顔が教えてくれた。

「今の黒木さん、高田さんには大学の山岳部の先輩でね、次の小隊長だろうって言われてた人なんだ。だから国村さん褒めると、ちょっとね?」

…あ、光一が言ってた「アウェー」ってこのこと?

第七機動隊に着任した初日の夜、光一は所属する第2小隊を「アウェー」だと笑っていた。
あれから3週間が過ぎた今は小隊長として隊員に慕われて、愉しげな様子を日々見かけている。
けれど未だ全員という訳にはいかないらしい、そんな思案の前から高田は困ったようでも笑ってくれた。

「それくらい人望もある優秀な人なんだ、山岳部でも面倒見いい先輩だよ?ただちょっと堅すぎるって言うかさ、小隊長と正反対なんだ、」
「だから板挟みなんですよね、高田さんは。あ、湯原くん時間かな?」

左手首のクライマーウォッチを見、優しい笑顔が促してくれる。
確かにそろそろ行かないといけない、お互い笑いあって別れると周太は廊下を急いだ。

…優秀で面倒見が良くて物堅いって英二と似てるね、そうすると異動して来たら同じタイプ同士って感じになるけど、

思案しながら先輩たちと会釈交わすたび肩掛けの鞄ゆれて、本やテキストの重みが一緒に移動する。
つい傾ぎそうになる姿勢を整えながら談話室の前を通ると、快活な声が笑いかけてくれた。

「おう、湯原。今から東大か?」
「はい、今から行ってきます、」

笑顔で応えた向かい、同じ銃器レンジャーの先輩はテキスト片手にジャケット姿で笑っている。
この先輩も東京理科大学の第二理学部に毎夕通う、今も大学図書館か研究室に行くのだろうか?そんな雰囲気に周太は尋ねてみた。

「箭野さんも今から大学に行くんですか?」
「ああ、卒研のことでな。途中まで一緒に行くか?」

気さくに5年次上で1つ年上の先輩は誘ってくれる。
同じ社会人学生の相手と連れだつのは楽しそうで、嬉しく周太は頷いた。

「はい、お願いします。箭野さんは飯田橋ですよね、」

いま4年生の箭野は夏休みも卒業研究で忙しいだろうな?
そんな感想と並んで歩きだす隣から、少し驚いたよう尋ねてくれた。

「そうだけど、もしかしてウチの大学に来たことあるのか?」
「はい、機械工学科に資料を見に伺ったんです。そのとき理学部の方ともお話しさせてもらって、」

学生時代の記憶はまだ2年前のことでしかない、それでも今もう懐かしい。
懐旧に微笑んで扉を開き、街路へ出ると先輩は嬉しそうに笑いかけてくれた。

「そうだったんだ、湯原は大学で機械工学をやってたんだもんな。理学部のどんな話を聴いたんだ?」
「第二理学部の建学精神を伺いました、東京理科大の伝統がそこにあるって、」

あの話を聴いたとき本当は、自分の進路に対する疑問を抱いた。
だからこそ尚更に聴講生として学ぶ今を選んだのかもしれない、そんな想いに微笑んだ隣で誇らしい笑顔が教えてくれた。

「ウチは物理専門の夜学からスタートしてるって聴いたろ?その伝統と実力主義があるから日本で唯一、夜間の理学部があるんだ。
理学修士の授与数も私大ではトップだよ、だから俺はウチの学校に入ったんだ。夜学があるからってダケじゃなくて校風や実績が好きでさ、」

箭野の笑顔から2年前に話した学生の笑顔が思い出される。
あの学生も学ぶ誇りある良い貌だった、けれど自分は当時どんな貌だったろう?
あのころ自分は何の為に大学に居たのか、その過去と今を想いながら周太は微笑んだ。

「箭野さん、本当に勉強することが好きなんですね。修士課程も考えているんですか?」
「修士も行きたいけどな、退職しないと難しそうなんだ。理学専攻科なら夜間だから、そっちは行くつもりだよ、」

本当に学ぶことが楽しい、そんな笑顔が応えてくれる。
こんなにも勉強家なのに、どうして箭野は進学せずに高卒で警視庁に入ったのだろう?
疑問を思いながらもプライベートの事情を思うと聴き難くて、けれど改札を通ると思い切って訊いてみた。

「あの、どうして高校を出てすぐ大学に行かなかったんですか?箭野さんすごく勉強家なのに、」
「ま、金の問題だな、」

さらり答えてくれた貌が、明るく笑ってくれる。
その笑顔と言葉を見上げた向う電車が入線して、乗りこみ並んで座ると箭野は微笑んだ。

「俺、中1の時に事故に遭ってさ。そのとき両親が死んで、祖父さんに育ててもらったんだよ、」

そんな事情があったなんて知らなかった。
驚いて瞳ひとつ瞬いた隣、一歳年長の先輩は明るい笑顔のまま話してくれた。

「祖父さんは神田で古本屋やってるんだけど、正直家計は楽じゃない。だから俺、高校も働きながら定時制に行ってたんだ。
祖父さんは普通科で良いって言ってくれたし大学も奨めてくれたよ、でも3つ下に弟がいるから貯金は残しておいてやりたかったんだ。
警視庁を選んだのも安定収入が良いなって理由が大きいよ、きっかけは事故の時に世話になった警官がカッコ良かったからなんだけどさ、」

話すトーンは朗らかなまま、なんでも無いことのよう笑っている。
その声から言葉から気づかされて、心裡に周太は涙を呑みこんだ。

…やっぱり俺は傲慢だったかもしれない、だって本当の意味で真剣じゃなかった、

父は早く亡くした、けれど自分には母がいる。
あの華奢な体でいつも微笑んでキャリアウーマンをしながら独りで育ててくれた。
たしかに一人っ子の母子家庭は寂しくて、けれど母と援けあう温もりは幸せだと心から想っている。
なにより自分は経済的な不自由は一度も無かった、だから大学を選ぶ時も自分の目的だけで考えることが許された。
それも本当に「学びたい」目的では進学していない、そんな自分は箭野ほど真摯に大学時代を過ごしていなかった。

工学部を選んだことも警察官になったことも、本当は傲慢かもしれない?
いま気付き始めた自分の選択の意味、その隣から朗らかな声が笑ってくれた。

「それで弟の大学受験と同時に俺も進学したんだ、弟は現役合格で国立大の奨学金生になってくれてさ、お蔭で俺も余裕が出来たよ。
機動隊は進学を奨励してくれるから通学しやすいけど、訓練もキツイし両立は大変なのも本音だよ。でもやり残して後悔したくないだろ?」

やり残して後悔したくない。

その言葉も笑顔も真直ぐ心を敲く、そして自責が痛みだす。
もし今この場で死んだなら自分は植物学に想い遺してしまう、きっと生涯の後悔に泣く。
この想いごと右掌でクライマーウォッチを握りしめた隣、勤労学生は透けるよう明るく微笑んだ。

「本当は俺、事故で中1の時に死んでいたんだ。あのとき両親と警察官が救けてくれたから、俺は今ここに生きていられるんだよ。
だから人間の人生って自分だけのモノじゃないって思えてさ、だったら自分に出来ること全部やって、きちんと生きたって胸張りたいんだ。
特に今の部署なんか明日どうなるか解らないだろ?この一秒後だって終わるかもしらん、そのとき後悔するの嫌だからチャンスは大事にしたいよ、」

人生は自分だけのものじゃない、その意味を自分は解かっているつもりだった。
けれど一秒後に後悔する可能性を「現実」のものとして覚悟し考えていたと言えない。
どこか自分だけは大丈夫だと甘えがある、その傲慢に大学進学も就職もすべて捨て身にした。

今この瞬間に死んだなら、自分は「きちんと生きた」と父に胸を張れるだろうか?

そう自分に問いながら気づかされる心は何かが解かれて、生まれる涙を肚へ落しこむ。
こんな自分だから母を警視庁合格通知で泣かせてしまった、その懺悔と明日への願いが今、温かい。
この想いを生涯ずっと忘れないでいたい、そんな願い微笑んで周太は尊敬すべき先輩に笑いかけた。

「俺、箭野さんと一緒に電車に乗れて良かったです。ありがとうございます、」

自分ひとり苦労して努力している、そんな気持が甘えと傲慢に蟠っていた。
けれど今ひとつずつ解けながら心が温まる、気づかされた慈恵への感謝が肩の力を抜いてゆく。
そして父と自分の夢を真直ぐ見つめる視点がひとつ増え、視野は明るんでゆっくり大らかに広がりだす。

And yet, it moves.

向きあう過去を認める瞬間に、今、一歩また先へ証は綴られる。





【引用文:Edward Hallett Carr『What Is History?』】

(to be continued)


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言葉、文字、文章の存在とリアル

2013-03-23 23:33:00 | 文学閑話散文系
リアルと虚構→文責 



言葉、文字、文章の存在とリアル

何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのでしょうか?

万朶の桜あふれる今日、山に川に、町でも花見客を見かけました。
花に酒や食事を楽しむ、そういう日本って良いなあと思います。
そんな人の中で印象的だったのは携帯電話で桜を撮っていた青年です。
住宅街を奔る線路脇、連なる桜並木を通りがかりに見上げて立ち止まった。
そんな日常の一コマに花を撮る姿と心は、この国らしい優美が穏やかです。

そういう人や花がある国の言葉を綴り、物語を文章に変えて表し書いている。
そんな自分の今あることに、いつもパソコンの前から「文章の責任」を思います。

この文章を透して自分は、明るいプラスになる何かを読む方に手渡せているのか?
読んで温かい気持になれたら良いなあ、など考えながら写真やイラストを貼って物語を綴っています。
文章を読む時間は一瞬です、それでも言葉から受けとめた心は一生になることもあります。
そういう責任とかを想うほど、いつも一言一句どれもが大切です。

そんなふう自分は想うんですけども。
違う人もいるんだなあと、WEBで文章を書く中で知りました。

文章への敬意、リスペクトが無い。それがWEB小説の現実に対する率直な感想です。



剽窃、って言葉をご存知ですか?

文章や設定などを無断借用することを剽窃と言います。
これを本人に借用許可を得たり、引用文として紹介すればOKなのですが、それをしない。
自分のオリジナルのよう見せかけて言葉などを無断使用する、いわゆる著作権侵害にも抵触する行為です。
この剽窃について、大学時代に教授たちは「最も恥ずべき行為」と固く戒めてくれました。

大学とは「文章を書く」ことを学ぶ場でもあるかと思います。
自分も学生時代には何本のレジュメや論文を書いたか?記憶にないほど書きました。
そこで「剽窃」が嫌忌されるのは、誰もが文章を書く喜びと苦しみを実体験で解かるからです。
だから思ってしまいます、きっと剽窃を出来る人間は「文章を書く」意味も存在も何も解っていない。

WEBは匿名性が高いよう勘違いする為でしょうか?
安易な剽窃や盗作がWEB小説は多いと感じますが、それは「文章」と呼べないと思います。
たとえ書店に並んでいなくても、作品である以上はWEB小説も著作権が当然あることが理解できない。
それは「文章」そのものへの敬意=リスペクトが無いから、他者の創作した文章を「盗む」ことをNGだと気付けない。
そういう無神経な剽窃は、本気で文章を書いている人間には出来るはずがありません。

本気で文章を書く人ならば、その言葉を、表現を、一文を綴るまでには努力があります。
その努力はペンを持って(パソコンを打って?)文章を書くことは勿論、現実の経験を積むことも書く上の努力です。
人が小説を書く時、実際に見た・聞いた・触れた実体験を元にして物語の虚構を設定し、文章化します。
人が感じた感情考えた思考を実体験のフィルターに濾過して生み出された文章、それが小説の側面です。
そして読者の方も自身の実体験をベースに文章、小説を読んでいます。

実体験を透って生まれた文章を、実体験の記憶になぞって読む。
それが出来たとき文章は現実感をもって読み手に響き、そこにリアリティは生まれます。

人間が生きていれば様々な経験をする、その経験を文章化すればリアリティは心響くはずです。
どの人間も誰もが一本は名作を書けると思います、それが成功して一作だけだと俗にいう「一発屋」になります。
この一発屋ではなく幾作も名文を生みだしていける人間が、いわゆる文豪と呼ばれ天才とも言われる作家です。
そうした作家たちは多くの実体験と確かな知識を豊かにする努力をしています、その例外はゼロ・皆無です。
文章が面白くある為には面白い実体験は不可欠、それ無くしてリアリティの力ある名文は生まれません。
この「書き手の実体験」が剽窃作品にはありません、そこに本当のリアリティは生まれ得ない。

小説を描きだす場所は、机ではなく実体験と研究調査の現場です。



言葉、文字、文章、そして論文に小説に物語。

どれも形無く触れられない存在です、そして「無形」だからこそ不滅です。
ペンの力は剣より強い、あの格言が謂いたいことはソンナ無形の普遍性に立っています。
感情や感覚、記憶、想い、そうした形も無いモノの瞬間を結晶させる、そんな力が文章です。
だからこそ「言葉は消せない」とも言われます、無形だからこそ心に直接痕跡を残すのが言葉です。

そういう意味をWEBの書き手は、どれだけの方が理解しているのでしょうか?

WEB公開は誰にでも読めてしまいます。
たとえばR18指定にしても18歳未満の方が読んでしまうことが現実に多いです。
そしてWEB小説には選別がありません、印刷の出版物は校閲で公開の可否が選別されますがWEBには無い。
だからこそ書いて公開する人間の「責任」は重い、その現実に匿名性への甘えが許されるのか?

ぶっちゃけね、匿名性に甘ったれた文章を書くなら。
チラシの裏にでも書いていれば良いと思います、エログロとかは特にね。
そういうチラシ作家はBL小説の書き手に多いなあと、それは実際に読んだ感想です。

女性にとってBLが面白いのは、BL=男性だけの世界=女性は責任を持たなくていい世界だからです。
無責任だからストーリーも犯罪性や残虐性の高いモノも多くて、登場人物を玩弄している陰惨が昏いです。
だから現実に同性愛の方は大半がBL小説の愛好家、腐女子を嫌います。取材と称して入りこまれることも侵害と感じるようです。
そうした境界線を引かせているのは、BL特有のファンタジー=虚構性が作りだす偏見と根底の差別にあります。
この為に傷つく人が現実にいて、その加害者に安直な文章がなっている側面を知ってほしいトコです。

こういう少数派マイノリティへの「マイナス要因」に成り得る表現は「偏見」の温床となる現実があります。
もし「BLはファンタジーだから何やってもOK」って発言するなら、それこそ現実逃避の責任逃れです。
どうせ「知らなかったし、自分はそこまで影響力無いからイイじゃん」とか言うんでしょうけど。
無知を盾に責任逃れをする事は人間としても書き手としても馬鹿だと自覚しろ、と。

ホントの責任ある社会人だったら「公共性」ってモンを責任のなか常に考えます。
そうした公共性が欠落しているから「何やってもOK」ってプライド無く言えてしまう。

確かに小説とは、文章表現はある意味で個人的嗜好です。
けれどWEB公開するなら「責任ある」作品だけに自制することは、人間として当然の責務です。
文章は人間の心を明にも暗にも動かすことが出来る、それを理解できない書き手はチラシ作家です。
文章を読んだ人が感じることに「責任」がとれない文章は、書く事へのプライドに懸けて公開すべきではありません。

きっとチラシ作家さんは、こういうこと考えていないんだろうなって思います。
そんな難しいコト考えなくて良いじゃんとか言うのでしょうが、考えること放棄するなら書く資格すら無い。
だってね「書く」は考える「思考」の結果にある、で「読む」も考えるコトです。思考出来ない人間はロクでもない文章しか書けません。
そして、考えることなく書いた文章が無残な影響を招いた時「自分は無罪」って言えるのか?ってことです。

WEBで何げなく書いた一文が事件になる実例は、よくツイッターやスレッド版で問題になりますよね?
小説でもそういう事例は数多いです、たとえば青木ヶ原樹海が自殺の名所になったのは一冊の小説が原因です。
その小説が発行されて数十年が経っています、それでも今、樹海では自殺遺体の発見は哀しい現実です。
おかげで上九一色村の方達は定期的に山狩りを行って、自殺遺体の収容に務めていらっしゃいます。

その小説を書いた作者の意図は「生命力豊かな森に『再生』を懸ける」だったそうです。
けれど小説が招いた現実は「自殺への憧憬」でした、この作者は文豪と呼ばれるほど著名です。
そんな人間が別の意図で書いた文章ですら何十年もの惨劇を生むことがある、この事実をどう考えますか?
きちんと校閲を受けた小説ですらこの結果がある、それならチェックも通らないWEB公開作品はどうなのか?
意図はなく、何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのでしょうか?

いまブログにて文章の練習がてら小説を連載していますが、練習でも1つの言葉を大切にします。
ときおり感想やメッセージをコメントやメールで頂くとき、コンナ文章の責任を思うことも大きいです。
いま独りパソコンに向かい文章を綴る、それが会ったことの無い未知の誰かに何か影響を与えて、未知のまま繋がる。
そんな現実は匿名のようで違っている、実態が無いようでWEBに綴られた物語を透して対話しているんですよね。

何げなく書いた文章で破滅した書き手、読み手、いったいどれだけいるのか?
そしてまた赦されて救われて、泣いて笑って生かされる、そんな文章はどれだけ生まれる?

そんなこと思いながら、また今日も続きを書きます。

知っとけ1ブログトーナメント
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深夜日記:芽吹き、残照の寸刻

2013-03-23 03:33:39 | 雑談
流れの涯に、それでも



こんばんわ、というよりも、おはようでしょうか?

この写真、流木からの芽吹きです。
根っこも無いまま河原に転がされた丸太から、新芽が出ています。
樹皮だけが生き残って花を咲かせる桜の古木がありますが、樹木の生命力は驚かされます。

いま第63話「残照3」加筆校正が終わりました、宮田@青梅署独身寮の3人飲み会シーンです。
当初の倍以上に増筆しました、原&藤岡との3人では初飲みになります。
美代のことで悩む宮田の糸口がメインの話です。

ちなみに本日、神奈川はお花見日和だそうですね。
いま桜前線が明るく日本を賑わせていますね、本当に不思議な花です。

取り急ぎ、

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第63話 残照act.3―side story「陽はまた昇る」

2013-03-21 19:25:11 | 陽はまた昇るside story
残照から夜に語り、晨は   



第63話 残照act.3―side story「陽はまた昇る」

洗い髪をかきあげ歩く廊下、行き交う同僚との挨拶はいつものよう明るい。
今日もお疲れさま、そんなごく普通の挨拶だけれど一日の無事がそこには籠る。
自分と同じ山岳救助隊員はもちろん、刑事課の先輩も、警務課も交通課も警備課も互いの無事に笑いあう。
何を話すわけでもない、それでも同じ奥多摩山塊の峻厳に立つ共感はさりげない温もりをくれる。
そんな実感は日常の廊下から見つめられて、穏やかな感懐が心に微笑んだ。

―俺は、ここが家だったな

この十ヵ月前に義絶同然で実家を出た、分籍もして法律上から肉親と別れた。
そして自分で選んだ世界に立ち、最も長く暮らした場所はこの青梅署独身寮だった。
いつも川崎の家に帰ることは懐かしくて楽しみで、周太と周太の母が待つ場所が自分の幸せだと想う。
それでも、あと一週間で離れてしまう今いる場所はきっと、ずっと懐かしく慕わしい「家」の1つになる。
そんな想いと歩いてゆく廊下の見慣れた風景に、そっと英二は心から笑いかけた。

―ありがとう、

微笑んで食堂に入りいつもの席を見ると、予想どおりの二人が座っている。
人の好い笑顔と仏頂面に見えて笑っている顔、ふたつの日焼顔は愉しげに食膳を挟む。
あの笑顔も二十日前は片方違っていた、その懐かしい貌に一週間後また再び隣になれる。
だからもう光一と二十日も会ってない?そんな時間の経過に気がついて英二は首を傾げた。

―どんな気持するんだろう、光一の顔を見たら、

あと十日で第七機動隊に異動する、その時から光一は自分の上司だ。
アンザイレンパートナーであることは変らない、けれど公人としての関係は違う。
上司と部下、そんな立場での再会に自分と光一は何を想うのだろう?
そして始まる9月の1ヶ月間は所属部隊が別でも周太と同僚になる。
きっと、周太と同僚として過ごすことは最初で最後だ。

―この1ヶ月で、どこまで周太のバリケードを作れる?

最初で最後の1ヶ月、この期間が最初で最後のチャンスになる。
あと十日もせず始まりゆく1ヶ月の猶予時間、そこで最も援けてくれるのは間違いなく光一だろう。
唯ひとり帰りたい存在を救いたい、その為に不可欠なパートナーと自分はどれだけの繋がりに結ばれる?
そんな自信が今は正直ない、そんな時なのに駐在所で見てしまった涙は、尚更に不安を起こしてしまう。

―だから俺、美代さんの気持ちを気付きたくなかったんだ、

本音が心こぼれて溜息ついてしまう。
そんな前へ食膳と一緒に馴染みの笑顔が差し出された。

「お帰りなさい、宮田くん。ちょっとお疲れ気味かしらね?」

気さくな笑顔は軽く首傾げながら見上げてくれる。
この調理師とも毎日のよう顔あわせながら世話になってきた、その感謝と英二は微笑んだ。

「ただいまです、俺、疲れてる感じですか?」
「なんか元気ない感じよ、こんなときはシッカリ食べなさいね、」

からっと笑いながら手早く菜箸が動き、小鉢の惣菜が大盛になった。
それから小皿ひとつ追加してくれながら、母と同年配の調理師は微笑んだ。

「酢の物増量に梅干オマケしとくわ、夏場の疲れ気味は酢と梅が一番よ、」

体の回復に役立つ料理の意味を話してくれる、その言葉たちに恋人の笑顔が懐かしい。
よく周太も献立の話をしてくれた、あの穏やかな食膳につける時間は次いつ与えられるのだろう?
いまは見えない幸福の時を想いながら英二は素直な感謝に微笑んだ。

「お気遣いすみません、ありがとうございます、」
「どういたしましてよ、全部きちんと食べてね?体が資本なんだから、」

明るい笑顔から受けとったトレイの温かな湯気は旨そうでいる、それなのに空腹感がよく解からない。
こんな状態なのは美代の涙の所為だろうか?それとも15分前に決まった進路の緊張感だろうか?
そんな思案めぐらせながら食卓の間を歩いて、窓近い指定席の二人に笑いかけた。

「おつかれさまです、遅くなってごめん、」
「おつかれ、宮田。あれ?」

隣から笑ってくれながら、藤岡が軽く首傾げこんだ。
なんだろう?そう目で訊きながら箸を取ると、人の好い貌が笑ってくれた。

「アレだ、国村流に言ったらさ、悩ましい別嬪って顔になってんよ?なんかあった?」

悩ましげ、そんな言葉を藤岡が言うのが可笑しい。
可笑しくて箸を持ったまま笑いだすと、精悍な瞳が意外そうに笑った。

「国村さんってそういうキャラ?」
「そういうキャラだよ、見た目からだと意外ですよね?」

丼飯を抱えながら藤岡が応えてくれる。
その返答にも可笑しくて笑いながら英二は酢の物を口に運んだ。
確かに原にとっては意外すぎるだろうな?そんな納得の隣と前が話し始めた。

「ああ、気さくでも真面目だと思ってた」
「あははっ、確かに真面目なとこもあるけどさ。悪戯大好きってことは知ってます?」
「知らんけど、そうなのか?」
「はい、国村の悪戯の餌食になって無いヤツは青梅署にいないんです、」

箸を運びながら聴く会話に光一の悪戯が懐かしい。
それこそ自分は毎日のよう仕掛けられて、いつも可笑しかった。
そんな光一の悪戯も今、第七機動隊では一種の武器になっている。

From  :光一
subject:無題
本 文 :コッチはフェイクで捕物、電話出れなくてゴメンね。俺はちょっと無理だけどさ、隣人は電話するんじゃない?

光一と周太が第七機動隊に異動した五日目の夜「フェイクで捕物」を光一は仕掛けた。
おかげで第七機動隊は盗聴器に対する警戒を強め、ランダムな時間に毎日探索を行っている。
この状況を作りだして第七機動隊舎内では周太を「監視」から晦ますことに光一は成功した。

―あれから周太は電話で名前を呼んでくれる時もある、でも…光一の電話は短くなったのは、

心裡めぐらす現実が密やかに胸を噛む。
光一はもう自分を私人としては必要としない?そんな考えに竦んでしまう。
だから尚更に美代の好意を気づきたくない、美代は光一にとって大切な姉代わりと知っているから触れたくない。
もう自分は「雅樹」に踏みこんで光一を傷つけたと解っている、周太のことも結局は奪ってしまった。
もう、これ以上は光一の大切な存在に触れて壊したくない、光一を孤独に追い込みたくない。

―美代さんのことで光一に嫌われたくないんだ、俺は…やっぱり俺は自分勝手で、残酷だ、

美代は光一の大切な家族、そして周太の大切な友達。
そう解っているから余計に触れたくない、だから美代の好意は気づかないままでいたい。
そう想って今日まで「ただの憧れ」だと片づけてきた、けれど今日の涙から逃げる事は赦されない。

『宮田に惚れてるからだろ?大事な友達なら逃げんなよ、』

そう原に言われて、もう逃げられないと気がついた。
それでも本音の自分は今、余裕なんて無くて美代のことを考える隙が無い。
馨の日記帳と晉の拳銃、周太と2つの家、引継ぎと異動、後藤の体と責務、光一の補佐と登山計画。
そこに30分前から救急救命士の件まで加わった、こんなに公私とも熟考が求められる今は時間が足りない。

―それでも逃げる訳にいかないよな、そう解ってるけど、

情けないけど弱音が苦しくなる、だから食欲も感じられないのだろう。
それでも逡巡ごと箸を運び口を動かす、その味もいつものようには旨くない。
でも食べなければ体から保たない、そんな想いごと何とか膳を腹に納めて箸を置いた。

「おまたせ、行こうか?」

既に食べ終えている2人に笑いかけて立ち上がる。
一緒に立ってくれながら、精悍な瞳が膳と英二を見比べて低い声が尋ねた。

「飯、一杯しか食ってないな?」
「酒の前ですから、」

さらり笑って返答に言い訳してしまう。
いつも酒の前だろうが飯はきちんと食べたい方だ、けれど今日は欲しくない。
そんな想いごと下膳口にトレイを戻すと廊下を歩きはじめた。

「屋上、誰かの部屋、どっかの店。どれにする?」

陽気な声が提案してくれる、そのトーンも人好い笑顔も「酒だ」と笑っている。
明るい酒の同期に和まされて微笑んだ隣、日焼顔が愉しげに唇の端あげた。

「地元の酒あるけど?」
「飲みたい!」

藤岡の即答で、店呑みは却下になった。
そのまま持ちよりで屋上に車座組むと、LEDランタンと星明りで乾杯した。
山で使うチタン製のマグカップから酒は香る、その豊潤な風味に英二は微笑んだ。

「すごく良い香しますね、地元の酒ってことは静岡の?」
「ああ、静岡は酒処なんだ、」

頷いてくれる日焼顔が和んでほころぶ。
その横で満足げな笑顔が愉しげに訊いてきた。

「宮田、何か悩ましげだけどさ、今日なんかあった?話すの嫌なら別に良いけど、」

今日は色々とありすぎだ。
そんな今日の中でも話せることに英二は口を開いた。

「今日から町の人にも異動のこと、話して良いって岩崎さんから言われたんだ。あと俺、救急救命士になる話を頂いたんだよ、」

あと本当は美代のことがある、けれど藤岡にも言い難い。
原は現場を目撃しているから話した、でも他には言えないと想ってしまう。
美代の負けず嫌いな勝気は涙を見せたがらない、だから泣いた事実を言われることは嫌いだろう。
そんな想いに口噤むことを決めて微笑んだ英二に、人の好い同期は嬉しそうに言ってくれた。

「へえ、すごいなあ、宮田。ソレって公式の話で来たんだろ、後藤さんからの話ってこと?」
「ああ、全国の警察で山岳救助隊に救急救命士を育てるんだけど、まだ試験段階なんだ。今回の成果次第で継続するか決めるらしい、」
「それで警視庁のテスト生は宮田ってことか、選ばれるなんて凄いなあ。がんばれよっ、」

素直な賞賛に同期で同僚の男は笑ってくれる、その笑顔は明朗に温かい。
こういう率直さが藤岡は良い所だ、嬉しくて微笑んだ前から原が訊いた。

「公費で学校に通うってことか?」
「はい、七機で勤務しながら夜学に通います。来年4月から2年間の予定です、入学許可が下りたらですけど、」

10月一日に願書提出をして通れば本決まりになる、そうすれば2年間は忙しいだろう。
だから出来得ることなら「50年の連鎖」から周太を絶つチャンスが3月までに欲しい。
そんな思案を隠して微笑んだ手許のマグカップに、原は一升瓶を傾けてくれた。

「宮田なら大丈夫だ、」

いつもどおり短い言葉、でも日焼顔は信頼に笑ってくれる。
チタンのカップで酒は表面張力に堪えだす、その満水に藤岡が笑いだした。

「すげえ、きっちり一杯に注げてる。原さんって酒は器用なんだ?」
「まあな、」

精悍な瞳ほころばせ、逞しい手は藤岡のカップにも酒を注いだ。
車座の3つ全てのカップが充たされて、酒の水鏡は天穹の星きらめかす。
その光に黄昏の涙を見て、思わずため息吐いた横から藤岡が訊いてくれた。

「宮田、さっきから溜息やたら多いけどさ?異動のことを町の人に話すの、やっぱ寂しい?」
「うん?まあ、そうだな、」

図星の近くを言われて微笑んで、その笑みがほろ苦い。
こんな自分をもてあましながら酒を啜りこむ、同じよう酒ひとくち飲んで人好い笑顔が言った。

「宮田の場合さ、秀介と美代ちゃんには泣かれそうだもんなあ?あの二人に話すのって覚悟が、うわっ?」

だから図星を突くなよ藤岡?

そう言いたい本音が酒と一緒に噴き出されて、LEDランタンの前が酒浸しになった。
途端に甘く芳香が充ちた屋上の空間に、英二は盛大に噎せこんだ。

「ぐぉっほ、ごほっ、原さ、ごほっすみませ、ごほほんっ、」

原のLED灯なのに酒を噴きかけてしまった、この失態に困ってしまう。
そんな隣からランタンに手を伸ばしながら、精悍な瞳が笑い声を噴いた。

「ふはっ、あははっ!あんたホント噎せるよなあ、あははっ、」
「すみませ、ごほんっ、らんたん濡れ、けほっ、ごほほんっ、」
「気にするな、防水仕様だし今は濡れてない、」

笑いながら原はランタンを確認してくれる。
その言葉に安心しながら酒を呑みこんで、なんとか噎せが治まった。
ほっとして息ついた手許に一升瓶が傾けられる、ゆっくり一杯が充ちると藤岡が訊いてきた。

「あのさ、もしかして既に泣かれたとか?それで宮田、ため息吐いて凹んでる?」

もうバレてるんだな?
そう諦観が笑いながら英二は酒に口付けた。
それなら藤岡に相談も良いのかもしれない、けれど素面では話し難い。

―恋愛沙汰を話すのに酒の力を借りるなんて、らしくないな?

いつも女性関係を話すのに素面も酔いも関係なかった。
元から深酒に酔うこと自体滅多に無いから、呑んでも素面と大差ない。
それでも今はどういうわけか「酒でも呑まないとやってられない」というヤツらしい?
こんな自分がなんだか可笑しくて、笑って英二は白状した。

「秀介にはまだ言えてない。でも美代さんには泣かれたんだ、原さんも目撃してるよ、」

事実だけを正直に告げてマグカップに口付ける。
チタンふれた唇から芳香ふくんで喉おりてゆく、その通り道が温まる。
ふわり吐息に酒を感じながら、少し心軽くなったことに英二は微笑んだ。

―口から出しただけで楽になるって、あるんだな、

口から出せない、そんな時間に馴れっこになっている?
そう気がついて数えた時間は1年に満たなくて、そして抱いている秘密の最初を思い出す。
もし馨の日記帳を見つけていなかったら違う今だった、そんな思案に傾きかけたとき同期が口を開いた。

「やっぱり泣かれちゃったんだなあ?美代ちゃん惚れてるもんな、で、どうした?」

藤岡から見ても解かるらしい、そう知らされてまた逃げ道が絶たれてしまう。
こんな袋小路の気分は初めてだ?この初体験に困りながら英二は微笑んだ。

「泣いてる美代さんが出て行くのを見送っただけだ。どうして良いのか俺、今ほんとに解らない、」
「そっか、宮田でも解らないことあるんだな、」

人の好い笑顔は軽く首傾げてマグカップに口付けた。
酒を啜りながら考えるようランタンを見ている、その隣で原が片胡坐に頬杖ついた。
精悍な瞳も灯を映したままで、大きな手のマグカップを膝元に置くと低い声が微笑んだ。

「このままでいいだろ、」
「え、」

声に視線を向けた先、日焼顔がランタンに笑ってくれる。
すこし困ったような照れくさいような笑顔は英二を見、原は言ってくれた。

「惚れられたからって態度変えんなよ、大事な友達なんだろ?今まで通り友達で大切にすればいい、」

ずっと「大事な友達」で大切にすればいい。

それはごくシンプルなことだろう、けれど納得が肚に落ちてくる。
今、途惑うまま「美代」がどんな存在なのか見えなくなって、重荷にしかけていた。
どこか美代を責めたい気持すら起こしかけていた、そんな不甲斐なさに英二は笑った。

「俺が態度変えそうだなって、解かりました?」
「まあな、」

頬杖のまま頷いて精悍な瞳が笑う、その表情が温かい。
こんなふう話せるようになると20日前には思っていなかった、こんな予想外は嬉しい。
そしてもう一つ予想外なことに気がついて、英二は質問と笑いかけた。

「原さんって、告白されたこと何回あるんですか?」

問いかけに、ランタンの車座で空気が止まる。
凛々しい眉顰めた原の顔は仏頂面が蔽いだす、その瞳が返答に詰まる。
このまま黙秘されてしまう?そんな空気に人の好い笑顔で藤岡が乗っかった。

「1回って事は無いですよね、今のアドバイスも経験者って感じだしさ?結構モテるんですね、原さんって、」
「…結構、で悪かったな、」

ぼそっと低い声が言って唇の端上げて笑う。
いつも寡黙なだけに原はちょっとした笑顔が際だちやすい、そういう所もある意味で得している?
この先輩の口を割らせてみたくなって英二は一升瓶を持つと、原のマグカップを表面張力まで満たした。

「原さんって口数少なくてミステリアスな雰囲気ありますよね、なんか受身だし、小さい頃からコアなファンがいそうです、」

一升瓶を置きながら笑いかけた先、仏頂面がまた笑顔に近づく。
満水のカップから酒を啜りこんで、低い声が可笑しそうに訊いてくれた。

「受身でコアって俺はマニア向けか?」

マニアって凄い表現だな?
そんな言葉に笑わされながら英二は率直に答えた。

「正直なとこ、センターでモテるってタイプじゃないですよね?」
「まあな、」

短い言葉で頷いて精悍な瞳が笑う。
自分でも解かってるけど?そう言いたげな笑顔の隣から藤岡が、からり言った。

「あ、それって解るな?戦隊ものならアウトサイドのブラックか、訳アリで味方になる悪役って感じだよな、」

―戦隊ものに悪役って、どうよ?

しかも「訳アリ」って限定が面白い、けれど納得してしまう。
そんな心の声のまま英二は笑いだした。

「藤岡、その表現で言ったら藤岡は何になる?」
「俺はイエローとかじゃない?三枚目ってヤツな、」

さらっと自分を三枚目限定して人好い貌が笑う。
こういう所が藤岡は良い、この陽気な同期に原も愛嬌の笑顔ほころばせた。

「俺がマニア向けのブラックで藤岡が三枚目のイエローなら、宮田はレッドか?」
「そうそう、熱血王子なイケメンセンターのレッド。またはラスボスとかさ、超カッコいい最強悪役っているじゃないですか?アレで、」

センターか最強悪役って両極端だな?

そんな感想が自分ごとなのに可笑しくて噎せそうで酒を飲めない。
ただ笑っているその車座で、藤岡と原の掛け合いが始まった。

「それだと副隊長はやっぱり隊長か?」
「あははっ、まんま適役っすよね。で、国村はブルーで美形の飄々キャラです、」
「なるほどな、確かに国村さんは綺麗だよな、」
「でしょ?脱ぐともっと綺麗ですよ、筋肉の付き方も完璧でさ、」
「脱ぐとって…その表現ちょっとどうなんだ?」

二人の会話を肴に笑い堪えて酒を呑む。
この二人も最初は全て正反対で噛みあうのか疑問だった、けれど今は良いコンビだ?
そんな想いと笑って見上げた先、銀砂はるかな河を夜空きらめかす。

―この空も、あと一週間で遠くなる、

十ヵ月間の日常だった奥多摩の空は、今夜も星に輝く。
この空を望郷に自分は想うだろう、そのとき今この瞬間もきっと懐かしい。






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第63話 残照act.2―side story「陽はまた昇る」

2013-03-19 22:57:03 | 陽はまた昇るside story
発つ場所、迎えられる温もりに



第63話 残照act.2―side story「陽はまた昇る」

黄昏の光芒が長く朱色の光を投げかける。
携行品保管の手続きを終えた廊下、窓の残照が一日の暮を示して沈みだす。
二人並んで歩きながら原はクライマーウォッチと窓を見比べて、小さく微笑んだ。

「召集の待機、8時まで待つか?」
「はい、そのくらいでお願いします。俺も7時半位までは診察室にいるので、」
「じゃ、藤岡と食堂にいる、」

互いの予定を告げあって別れると、制服に登山ザックを背負ったまま英二は歩きだした。
足早に行く廊下はライトが灯り窓は暗く沈みだす、もう道迷いの救助要請が入りやすい時間になる。
そんな今のひと時に無事を祈りながら角を曲がると、自販機コーナーのベンチに白衣姿を見て英二は微笑んだ。

「吉村先生、」

呼びかけにロマンスグレーが振向いて、缶コーヒー片手に笑ってくれる。
いつものワイシャツに白衣をはおった姿は立ちあがり、穏やかに笑ってくれた。

「お帰りなさい、宮田くん、」
「ただいま戻りました、ここに先生がいらっしゃるのは久しぶりですね、」

帰りの挨拶に笑いかけた先、切長の目を優しく細めてくれる。
その眼差しが診察室の写真とよく似ていて、心そっと突かれた前で吉村医師は微笑んだ。

「ここで君を待てるのも後十日もありません、そう想ったら座っていたくなってね?まだ仕事やりかけなのに来てしまいました、」

君を待てるのも後10日も無い。
この言葉に篤実な医師の想いが温かい、そして切なくて英二は約束と微笑んだ。

「先生、異動しても休みの日はお手伝いに来ます。救急法も法医学も、教えてほしいことが沢山あるんです、」

本当に教えてほしいことが沢山ありすぎる。
医学以外にも聴きたいことは多くて、その為にも此処へ来たい。そんな想いに吉村医師は嬉しそうに頷いてくれた。

「はい、お待ちしています。本当はね、宮田くんにはお給料を払っても来て頂きたいんです。でも警察官だとバイト禁止でしょう?」

本音の願いと冗談と。そんなトーンで医師は笑ってくれる。
そのどちらも嬉しくて、笑って一緒に歩きだしながら英二は提案した。

「バイト代は受け取れません、でも先生?実は図々しいお願いがあるんですけど、」
「宮田くんが図々しいお願いって珍しいですね、なんでしょうか?」

何でも言ってごらん?
そんな笑顔が訊いてくれるまま、英二は思い切って甘えを言った。

「俺、御岳の剣道会は続けるんです。それで土曜が休みの時は朝稽古に出たいんですけど、前の晩は病院の仮眠室とかに泊めて頂けませんか?」

御岳の朝練に参加するなら出来れば御岳で前泊したい、けれど適当な宿も無くて困ってしまう。
たぶん光一に言えば実家に泊めてくれる、そう解かっているけれどアイガーの夜の後では甘え難くて言えない。

―もし一軒家で二人きりになったら俺、自制心とか自信あんまり無いからな…もう傷つけたくない、

アイガーを見上げる部屋の記憶は今も、本当は鮮やかに甘く熱い。
この熾火を再燃させかねない自分を信用できなくて、1月の前科があるだけに自分で困っている。
まだ七機の寮でなら自制も利く、山でも大丈夫だろう、けれど完全なるプライベートの空間は避けたい。
そんな想いから図々しく願い出たことなのに、吉村医師は嬉しそうに笑ってくれた。

「仮眠室なんて言わないで我が家に泊まって下さい、家内と私と雅人だけですから気楽ですよ?」
「すみません、ありがとうございます、」

受けとめてもらえた、その安堵に英二はきれいに微笑んだ。
けれど吉村の言葉に気になって診察室にザックを下すと訊いてみた。

「雅人先生は独身なんですか?」
「困ったことにね?今年で四十になるのですが、」

困ったな?そんな笑顔で吉村はデスクの写真立てを見た。
写真のなか医師の次男は美しい笑顔で佇んでいる、その眼差しを見つめながら吉村医師は教えてくれた。

「雅人はね、雅樹が亡くなってから医大に入りなおしたでしょう?雅樹より1つ上で、26歳になる春に学士入学で2年次に編入したんです。
だからインターンが終った時にはもう三十過ぎていてね、そのまま私から御岳の病院を引き継いでくれたんです。そんな雅人は忙し過ぎました、」

―…雅樹が亡くなって私は思ったんです、雅樹に私と一緒に生きて貰おう、って…私は、雅樹の夢に生きることにしました。
  私は自分だけで夢を見つけることは出来ない、雅樹も自力では夢は途中になってしまった、けれど兄弟ふたりでなら叶えられる。

春3月の雪崩に遭った後、検査をしてくれた時に雅人医師が語った言葉たち。
あの言葉は今もあざやかに「雅樹」がどういう男だったのか偲ばせる。
そして雅人の抱いている真摯を想いながら英二は微笑んだ。

「雅人先生も雅樹さんと同じで、きちんとした真面目な方って感じがします、」
「はい、本当に雅樹は真面目です。でも雅人はちょっと違うんですよ?」

可笑しそうに笑いながら吉村医師は抽斗を開き、いつものファイルを渡してくれる。
受けとりながら目で話を促すと、二人の息子の父親は愉快に笑いだした。

「雅人は器用なんですよ。医大に入る前は結構な遊び人でね、朝帰りもよくしていました。それを隠す手伝いを雅樹にさせたりしてね、」

あの雅人医師が遊び人だった?

それも生真面目な雅樹に隠匿を手伝わせていたなんて、意外過ぎる。
思いがけない過去に驚かされてしまう、驚いて瞳ひとつ瞬いた英二に吉村は教えてくれた。

「雅人は小さい頃からコミュニケーション能力が高くてね、話し上手で機転も利くし愛嬌があるから、女の子にも好かれていました。
出版社に勤めた頃までは恋人も女友達もいたようです、医大の時も何人かつきあっていたろうね、でも御岳で医者になったでしょう?
遠いし忙しいから別れたらしくてね、しかも出逢いの機会も少ないから今はフリーみたいです。もし良い方がいたら紹介してやって下さい、」

雅人は一見、父親の吉村医師とよく似ている。
けれど性格は父とも弟とも違う面があるらしい、そんな意外に英二はつい笑ってしまった。

「すみません、俺、雅人先生って吉村先生と似てるなあって思っていたんです。でも少し違うんですね、」
「外見はそっくりでしょう?今は中身も似てきましたけどね、でも雅樹の方が私と性格は似ています。頑固で堅物で、不器用でね?」

楽しそうに息子二人を話してくれる、その笑顔には愛惜が温かい。
こんなふう父親に話してもらえることは幸せだ、そんな想いに父のことが想われた。

―父さん、すこしは母さんと会話してるかな?

最後に父と母に会ったのは1ヵ月半ほど前になる。
ふたりの夫婦らしい会話が少しは増えていてほしい、そう願いながら父の本心が心に傷む。
それでも実の親は懐かしくて、今は遠い俤ふたつ想いながら英二はパソコンデスクに就くと仕事を始めた。

カタ、カタカタタッ、タタ…

キータッチが白い部屋に響きながら、紙を捲る音にペン先は奔る。
ふたり互いに集中し合う時間は穏やかに過ぎていく、こんな時間はいつしか自然に馴染んだ。
こうした時間を異動の後もほしい、そんな願いを意識の片隅に仕事を終えて英二は相談事を思い出した。

―美代さんのこと相談してみようかな、でもどうしよう?

きっと吉村医師に話したら気は楽になれる、けれど美代と吉村は旧知の仲だ。
そんな関係にある女性の事をどう話して良いのか?それすら解からなくて相談自体に途惑ってしまう。
周太のことも光一のことも話せたのに今回は何かが違って、この困惑ごと英二はパソコンを静かに閉じた。

「先生、お待たせしました、」

印刷した資料と記録媒体を携え振りかえると、ちょうど吉村医師もカルテをしまっている。
良い頃合いに仕事を終えられた、それが嬉しくて微笑んだ先で医師も笑いかけてくれた。

「ありがとうございます、もしお時間あればコーヒーお願い出来ますか?」
「はい、大丈夫です、」

答えながら見た時計は19時15分過ぎを指している。
まだ20分は大丈夫だろう、そう考えに微笑んで英二は流し台に立った。
マグカップ2つ並べてドリップ式のインスタントをセットする、そのときノックが響いて扉が開いた。

「お、やっぱり宮田はここだったな。吉村、邪魔させてもらうよ、」
「はい、どうぞ後藤さん、」

吉村医師の返答に、痩身でも肩の広いスーツ姿が入ってくる。
予想外の来訪者に驚きながらも嬉しくて英二は笑いかけた。

「おつかれさまです、副隊長、」
「おう、おつかれさん。俺にもコーヒー頼むよ、ホットでな、」

深い目を笑ませて後藤は椅子に腰を下ろすと、サイドテーブルに書類袋を置いた。
それらを視界の端に見ながら英二はマグカップを1つ追加し、ゆっくり湯を注いだ。
ゆるやかな芳香が昇っていく湯気がエアコンに揺れる、その背後で二人の会話が始まった。

「昨日見てきたんだけどな、なかなか良さそうだったぞ?でな、これが書類なんだ。ちょっと見てくれ、」
「拝見しますね…あ、私が見たのと同じですね。カリキュラムも変っていない、」
「じゃあここで申請出しておくかな、まあ本人次第なんだが。今、話しちゃってもいいかい?」
「もちろんです、早い方が良いでしょうから、」

二人の会話が何なのか、いま一つ解り難い。
今のタイミングで後藤が来るなら検査入院のことだろうか?
それとも手術が決ったのだろうか?そんな思案のなか淹れたコーヒーを英二は運んだ。
トレイから3つのマグカップをサイドテーブルに置き、いつもの席に座るとすぐ後藤が問いかけた。

「なあ宮田、救急救命士の免許を取ってみないか?七機で勤めながら夜学で2年間だがね、」

どういうことだろう?

急な提案に一瞬だけ意識が止められる。
それでも目で問いかけた英二に後藤は話し始めた。

「今の日本ではな、救急救命士って言えば消防かあとは自衛隊ぐらいだろう?官業独占だって言われてるが法律でもその通りだよ。
だがな、官業独占でも警察は外れてるんだ。でも実際には事故や傷害事件、特に災害救助の現場で警察官は人命救助が求められるだろう?
だから警察学校でも救急法を学ぶんだがな、現場になったら中々に上手くいかないのが現状だよ。でも改善が進まないのは何故だと思う?」

救急救命士法 第四十四条
 救急救命士は医師の具体的な指示を受けなければ、厚生労働省令で定める救急救命処置を行ってはならない。
 2 救急救命士は救急用自動車その他の重度傷病者を搬送する為の者であって、
 厚生労働省令で定めるもの「救急用自動車等」以外の場所においてその業務を行ってはならない。
 ただし、病院又は診療所への搬送のため重度傷病者を救急用自動車等に乗せるまでの間において、
 救急救命処置を行うことが必要と認められる場合は、この限りでない。

“救急救命士は救急用自動車その他の重度傷病者を搬送する為の者であって「救急用自動車等以外の場所」で業務を行ってはならない”

この条文がある為に救急救命士を職業とするならば「救急用自動車等」いわゆる救急車がある機関に所属するしかない。
それは日本では消防機関か自衛隊になってしまい官業独占と言われている、けれど警察機関は含まれていない。
この周辺事情は2年目の今なら解かる、今日までに見聞した事から英二は答えた。

「初総でも同期の話を聴きましたが、実際に救急法を使う機会が少ない上に、定期的な講習も行っていない所轄も多いそうです。
その代り術科の特練や昇進試験に時間を遣っています、いつ来るか解らないレスキュー現場の為には時間を割けない、そんな印象でした。
人命救助のモチベーションは個人差が大きいです、その為に京都府警の例にあるよう世論の評価も差が生まれて改善も進まないのだと思います、」

こうした現状は周太の所轄勤務に解かりやすいだろう。
射撃特練の練習か交番勤務、あとは手話講習に有志で参加、そこに救急法の定期講習は無い。
もちろん周太は救急法の勉強を続けていた、けれど所轄からの命令指示は無くて個人的な努力に過ぎない。
それは7月に光一が救急法講習を担当した時も感じたことだった、あのときのアンケート結果を思う前から後藤が尋ねた。

「ふん、おまえさん京都府警の件も知ってるんだな。宮田の知ってる警察レスキューの評価と問題をちょっと話してくれるかい?」

警察のレスキューに関する知識と問題点への考察、それを後藤は問うている。
なんだか口頭試問みたいだな?そんな感想と今まで考えて来たことに英二は口を開いた。

「はい、評価は賛否両論ですが軽んじられる傾向が強いです。その原因は現状が知られていない事だと思います、」

まず結論から応えると英二は困ったよう微笑んだ。
他の警察について話すなら言葉は慎重になる、思案廻らせながら話し始めた。

「まず京都府警は5名全員が自費です、免許を取る目的は大震災などの災害救助がメインですが、交通事故の対応等も視野にいれています。
このモチベーションに対しては評価する意見が大多数です、ただし救急救命士の救命処置には制限があることを理由に否定意見もあります。
また自費での取得を否定意見の核にもされています、警察では救急救命士の資格を生かす場所が無いのに自費など無駄だと言われていました、」

この5人の警察官たちは自身が大震災の被災経験がある、だからこそ自費でも技能の習得を目指していた。
これを単純に否定できる人間はたぶん「現場」を全く知らないから言える、そんな想いと英二は言葉を続けた。

「自費でも無駄と批難するなら公費での取得はより否定するでしょう、それくらい警察官の救命技能は不要だと考えているようです。
そこには救急救命士が必要なら消防に任せれば良いという意見があります、同じことを2005年の衆議院内閣委員会でも言われていました。
これはレスキューは初動が重要と知らないから言える意見です、救助の現実に理解が浅い為に警察のレスキューを軽視するのだと思います、」

京都府警の事例があった2007年当時は救急救命法の改正前だった。
いま事例にあげた内閣委員会も2005年だから、双方とも現在とは事情が異なる。
それでも「警察官のレスキュー」が軽視されがちな傾向は現在も大差ない、この現実への危惧に英二は口を開いた。

「心停止から4分で蘇生率は50%を切ります、ですが119番通報から現場到着の時間平均は5分から6分という統計があります。
意識不明者の発見後に救急車到着まで6分が経過して、その間に警察官が救命措置を行わずに亡くなった実例もある、それが現状です。
実際は6分を超える地域もあります、警察にレスキューが不要とは言えません。この現実が内外とも知られていない事が軽視の原因と思います、」

こうした軽視の傾向が世論からなのか?
それとも警察内部のブラッシュアップが不足している為なのか?
そう問われたらレスキューが常態の自分は「相互作用」と言うしかない、この溜息と微笑んだ向かい後藤が笑ってくれた。

「おい宮田、俺と国村の訓練を受けて吉村の手伝いもして、よくこんなに勉強してるなあ?おまえさんの一日は何時間あるんだい?」
「普通に24時間です、」

生真面目な言葉で答えながら英二は笑ってしまった、この程度ならWebですぐ調べられるのに?
そんな感想と面映ゆさに微笑んだ前で後藤が吉村医師を見、そして英二を真直ぐ見た。

「警察のレスキューは宮田が言ったような理由で改善が進まないよ、だけど俺たち山ヤの警察官にとっては全くの別問題だろう?
俺たち山岳レスキューは救急救命士と同じレベルが求められているよ、それが山の現場で現実だ。これは警視庁だけの問題じゃない。
だから全国警察の山岳レスキューで選抜して救急救命士を育てようって案が出たんだよ、警視庁は宮田を推したいんだがどうだい?」

警察の山岳レスキューなら救急救命士の免許を活かす現場にいる、それは救急救命士法 第四十四条の2
“病院への搬送のため重度傷病者を救急車等に乗せるまでの間において、救急救命処置を行うことが必要と認められる場合はこの限りでない”
この項目こそが自分たち山ヤの警察官の真骨頂でもある、そして、なぜ後藤が英二を推そうとするのか?
その理由を確かめたくて英二は上司へ問いかけた。

「副隊長が俺を推薦してくれるのは、吉村先生のお手伝いをする俺なら第四十五条が守りやすいと考えるからですか?」

救急救命士法 第四十五条  
“救急救命士はその業務を行うに当たっては、医師その他の医療関係者との緊密な連携を図り、適正な医療の確保に努めなければならない”
この「堅密な連携」をとれる強固なパイプを持つなら緊急時に迅速な対応が出来る、そんな人間を最初のテスト人員する方が安全だろう。
そう考えたままを笑いかけた先、後藤は嬉しそうに微笑んで口を開いた。

「その通りだよ、だから俺は吉村の手伝いするのも喜んで許可したんだ。それにな、こういう事や政治的な事情も宮田なら理解が速いだろ?
おまえさんの救命処置は真面目で正確で、ご遺体とご遺族への態度も立派だよ。だから適任だと思うんだがね、さあ、やってくれるかい?」

さっき自分で言ったように公費での免許取得は失敗すれば「批難」を浴びる。
その責任は光一の補佐役という立場にとって軽くは無い、その反面成功すれば大きい。
それに救急救命士は雅樹も取得していた、あの憧憬と嫉妬に想う男の軌跡を少し辿れる。
それが自分の生きる道を固め大切な人を援けることに繋がるだろうか?

―まずやってみること、だな?

心裡ひとり微笑んで、先への覚悟が肚に積もりだす。
その想い素直に笑って英二は後藤副隊長と吉村医師に頷いた。

「はい、やらせて頂きます。よろしくお願いします、」






(to be continued)

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