萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

温赦、真想act.3 ―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-31 21:33:00 | 陽はまた昇るanother,side story
赦し、温もりの場所



温赦、真想act.3 ―another,side story「陽はまた昇る」

この隣を、信じて良かった。
この隣から離れないでいて良かった。

父の真実はまだ隠されたピースがある。
それは冷たい真実かもしれない?けれどきっと、どんな冷たい真実があっても大丈夫。
この隣がこうして温かな穏やかな強さで自分を掴んで幸せに浚ってくれる。
きっとずっと大丈夫、この隣をずっと信じて自分は生きていける。
もう二度と自分は孤独に戻らない。

救助服が涙で透けた頃、周太は顔を上げた。
空にはもう月が掛かり始めている。
額に感じた風は冷たかったけれど、抱きしめられた体は温かかった。
きれいな笑顔で宮田が笑ってくれる、周太も微笑んで唇を開いた。

「ありがとう…掴んでくれて離さないでくれた…うれしい、」
「俺も嬉しいよ。だって、俺が離れたくないんだ」

そんなふうに言ってもらえて、うれしい。
こんなに思って求められている、それなのに自分は13年間の悲しみに負けそうになった。
それでもまだこうし求めて離さないでくれる、嬉しくて、今はもう素直に甘えてしまえる。

「俺を離さないで。ずっと…隣にいてほしい」
「ずっと隣にいるよ。約束しただろ?」

周太は笑った。
幸せで、嬉しくて、きっと今きれいな笑顔になっている。

笑った唇にそっと体温がふれる。
こういうのは恥ずかしい、けれど嬉しい。
この隣の為ならすこしくらい恥ずかしくても構わないと思ってしまう。

静かに温もりが唇を離れてゆく。
それからねと切長い瞳がこちら覗きこんだ。

「あの店に行こうとしたの俺に隠しただろ?もう隠さないって一昨日、約束したのに」
「…ん、ごめんなさい」
「隠しても俺は必ず見つける、でも隠されたら悲しい。俺だって傷つくよ?」

この隣が傷つく。
自分が傷つけるだなんて周太は驚いた、そして悲しくなった。
自分はきっと本当に残酷なことをした、その事にようやく気付いて声こぼれた。

「…ごめん、なさ、い…」
「俺を本当に傷つけられるのは誰なのか、いいかげん気づいて?」

きれいな切長い目が少し怒っているよう見える。
どうしよう、どうしたらいいのだろう。

「…なんでもするから…ゆるして…」

どうしたら許してもらえるのか解らない。
哀しくて途惑って、そのままに唇が動いてしまう。
怒られても呆れられても仕方ない、覚悟しながら周太はそっと隣を見上げた。

「じゃあさ、」

言って、宮田がにっこり笑った。

「周太、外泊許可とってよ」
「…え、?」

どういう事なのだろう。

「癒してよ、傷ついたんだから俺」

癒すってどうするのだろう、宮田は何を言っているのだろう。
解らなくて見つめていると、端正な唇の端があがった。

「俺さ、昨日のうちに外泊許可、出しておいたんだよね」
「…どういうこと?」
「今日は俺さ、週休なんだよ。訓練が終わったら来るつもりだったから、念のため許可を貰っておいた」

言って嬉しそうに、隣が笑った。

「朝までずっと添い寝して。周太の体温だけが、俺を癒せるんだよね」

どうしてこういつも手際が鮮やかなのだろう。
それもこんないいかたするなんて。
恥かしい、けれど嬉しい。でも、もう、首筋が熱くなってきた。
俯く顔を覗きこんで、宮田が微笑んだ。

「独りになんかしない、離さない。約束通りに幸せに浚うから」

明日は日勤だから朝一で帰るけどね。
そんなこと言いながら、宮田は笑っている。

13年分の辛く冷たかった現実の、涙の余韻がまだ残る。
このまま独りの夜に抱えるのは、本当は辛いし切ない。この隣はそれを解ってくれている。
涙の余韻が辛い自分を、独りにしないと言ってくれる。

いつもこんなふうに、言わなくても解ってもらえる。
もし解ってもらえなかったら、今頃きっと、自分は冷たい孤独の中に沈んでいた。
この隣はいつもこんなふうに、そっと寄り添って救ってくれる。

幸せで、嬉しい。
けれど、外泊のことは、やっぱりちょっと恥ずかしい。
途惑ったまま周太は口を開いた。

「りゆう…なんていえば、いいんだよ」
「同期が来たって、本当のこと言えば良いだろ?所轄内だし、すぐ許可出るよ」
「…新宿署は厳しいかもしれないけど?」

そんなふうに言いながら寮へ戻って、とりあえず外泊申請書を書いた。
新宿署のはどんな用紙?と宮田が眺めながら、担当窓口までついてくる。
それを取上げて提出したら、あっさり通ってしまった。

「すぐそこですね」と聞かれたから、同期が来ているんですと正直に言った。
担当は、山岳救助隊服姿の宮田を見、楽しんでおいでと笑って判を押してくれた。

なんだかまた、宮田の罠に嵌められていく。
そんな気がしながらも、周太は白いシャツを鞄に納めた。

廊下に出ると、救助隊服姿の宮田は、壁に凭れて深堀と話していた。
こんなところを見られるなんて、ちょっと気まずい。
そんなふうに周太が思っていると、深堀が笑ってくれた。

「宮田とオール飲みだってね。楽しんできて」
「あ、ん。ありがとう」

当番勤務の休憩にちょっと戻ったんだと言って、行きかけながら深堀が言った。

「宮田、雰囲気良くなったね。なんか頼もしくなった?」
「おう、さんきゅ」

きれいに笑って宮田は返した。
けれどなんだか、周太はその隣で困ってしまう。首筋が熱くなっていくのが、困る。

それから寮を出ると宮田が笑った。

「俺、正直に言っただけだから」
「…なんのこと」

深堀に言ったことだよと言いながら、きれいな切長の目が笑う。

「前にもオールしたところ、今夜も行くからさ」

前にオールしたところなんて、卒業式の夜の、あのビジネスホテルしかない。
懐かしくて気恥ずかしい、あの記憶の場所。

「…っ」

もうどうしていつもこうなのだろう。
けれどいつも、こんなふうに、掴んで離してくれない事が、嬉しい。
逃げようとしても、無理矢理に掴まえて、温もりで離さない腕が、嬉しい。


先に浴室使ってと、宮田は微笑んでくれた。
けれど、今日ばかりは周太は固辞した。
山岳救助隊服を早く着替えさせて、宮田を楽にしてやりたかった。

宮田が浴室にいる間、周太はコーヒーを淹れた。
ドリップ式のインスタントコーヒーをセットして、ゆっくりポットの湯を注ぐ。
芳しい香が、和やかに部屋の空気を暖めていく。

あの卒業式の翌朝は、フィルターを透って色を変える湯が、切なかった。
あの一夜で変えられた、心と体と声を持て余して。
すぐ後の別れを想って、涙があふれた。

けれど今きっと、自分の顔は微笑んでいる。
あの隣が離さないでいてくれる。その安らぎと幸せが、心と体に充ちて温かい。

1杯のコーヒーを淹れ終わった時、扉が開いて周太は振返った。

「お待たせ、先にごめん、」

髪から雫をこぼしながら、きれいな笑顔が咲いていた。
気遣って急いでくれたのだろう、カラーパンツの長い脚の上、上半身はタオルを羽織っただけでいる。
その火照った胸や腕が、また前よりも、きれいに引締まっていた。
なんだか恥ずかしい、周太はそっと目を伏せた。

「…コーヒー、飲んでて」
「周太、淹れてくれたんだ?」

嬉しそうな声が近い。顔を上げると、すぐ隣から微笑んでくれていた。
そんな格好で近づかれると、なんだか途惑ってしまう。
どうしよう、こんなことは慣れていない。
それなのに隣は、嬉しそうに顔を覗きこんでくる。

「周太のコーヒー、すげえ嬉しいんだけど」
「あ、…そうよかった」

お願いそれ以上は今ちょっと近づかないで。
なんだか解らないけれど緊張してしまう。
それでもなんとか、周太は声を押し出した。

「…風呂、」

ぼそっと言って着替えを掴むと、周太は浴室の扉を開けた。
たぶん今もう、真っ赤になっている。
そしてたぶん扉の向こうでは、あの隣はきっとなぜだか喜んでいる。

頭から温かい湯を浴びる。
ぬくもりと湯の肌ざわりに、少し心が落着いてきた。

今日の昼間は、絶望して冷たい孤独の底にいた。
そして宮田が来てくれて、温かい幸せに抱きしめられた。
それから、あの店の主人と父の温もりに、涙が止まらかった。
そうして今はこんなふうに、なぜだか緊張して恥ずかしくて仕方ない。

今日はなんて起伏の多い日なのだろう。
こんなことは初めての事、周太はそっとため息を吐いた。

けれど宮田が来てくれてからは、どれも嫌なことじゃ無かった。
むしろ本当に、幸せなことだと思える。

どうしてこんなふうに、幸せになるのだろう。
どうしていつもこんなふうに、あの隣は幸せにしてくれるのだろう。
嬉しくて、温かくて、ずっとこのまま離れたくない。

髪を拭きながら、周太はふと鏡を見た。
どこか恥ずかしげで、けれど明るい幸せそうな顔。
一昨日は関根達に「きれいになった」と言われて恥ずかしくて困った。お姉さんにまで言われて。
安本も幸せそうだと、言ってくれた。

人は心が貌に顕れると言うけれど、その通りなのかもしれない。
だって今、この扉の向こうで待つ人。
その人を想うと幸せで、もうじき扉を開く今、恥ずかしさも幸せも充ちていく。
心が顕れるなら、今の貌はきっと、きれいになって当然だろう。

周太は静かに扉を開けた。
そっと部屋へと降りると、気配が静かに鎮まっている。

温かなライトの下、卒業式の夜と同じような部屋、なんだか懐かしい。
サイドテーブルには香だけ残るマグカップが置かれている。
ソファで宮田が眠っていた。

座ったまま器用にアームに頬杖ついて眠っている。
訓練後すぐに来てくれた、疲れているだろう。
このまま静かに休ませてあげたい、周太は声を掛けない事にした。

そっと隣に座って端正な寝顔を周太は覗き込んだ。
濃い睫毛の影が相変わらずきれいだった。
警察学校の寮で毎日のように眺めた寝顔、懐かしくて、けれど前と少し違っている。

白皙の頬が少しシャープになった。
ただよう穏やかさと静けさが、また深まった。
かるく閉じられた唇に強い意思の気配がある、白いシャツの襟元の首筋がなんだか頼もしい。

卒業から1ヶ月と10日程。
それだけの間に随分と、宮田は大人の男の貌になった。

良い男になったのは、周太のおかげ。宮田の姉はそう言ってくれた。
本当に、そうだと嬉しい。
そんなふうに静かに眺めていたのに、ふっと切長い目が開いた。
きれいな瞳がこちらを見て、嬉しそうに微笑んだ。

「…見惚れてた?」

そんなふうに率直にきかないでほしい。途惑ってしまうから。
けれどなんだか今は、恥ずかしいけれど、素直に口が開いてしまう。

「…ん、みとれていた」

きれいに笑って隣が腕を伸ばす。
肩から抱き寄せられながら、きれいな低い声が聞こえた。

「俺の方がね、いつも見惚れてるって、知ってる?」

そんなふうに言われるとなんて答えていいのか解らない。
けれどそんなふうに、いつも求められている。そのことが嬉しい。
だから気持ちだけでも伝えたい、周太は唇を開いた。

「…うれしい、」

そっと微笑む隣が嬉しそうに笑ってくれる。

「周太が嬉しいと俺は幸せだよ、」

懐かしい空気の中でゆっくりと甘やかされていく。
きれいな低い声だけが自分の心に響いてくる。

「周太は、きれいだ」

ほんの2時間前までの、冷たかった孤独な現実。
まだ残っていた、13年分の想いの涙の余韻。
けれど今はもう、穏やかさに甘く温かくとけていく。

「大好きだ周太、いちばん大切で、いちばん欲しい。だからずっと隣にいさせて」

そんなふうに告げてくれる。
そんなふうに告げながら、そっと自分にふれてくれる。

「俺にとって何よりきれいで惹かれるのは、周太だけだ、」

髪に頬に額に、唇に、ふれていく。
体の全てにふれて、そっと寄り添って離れない。

「何があっても離さない、約束だろ周太」
「…ん、」
「俺は絶対に約束を守る、だからもう離れていかないで」

抱きしめて告げてくれる真直ぐな瞳。
きれいで、きれいな瞳があんまり綺麗で心が締めあげられる。
こんな自分の現実にこんなに綺麗な瞳をひきこんでしまう、それが哀しい。

けれど求められることが嬉しくて見つめられると拒めなくて。
それにもう。とっくに自分は、この隣から離れられない。
奥多摩の氷雨の夜にもう思い知らされてしまった。
この隣を失ったらきっと自分は生きてもいられない、そんなふうに心が痛い。

だからもう、素直になってしまっている。
体も心も言葉も、なにもかも、自分ですら閉じられない。

ほら、もう、唇がほどかれてしまう。

「…離さないで。約束を守って」
「必ず守る、絶対だ。だから俺だけを見て」

きれいな笑顔、きれいな低い響く声。
もうとっくに拒めない。

「…うれしい。ずっと見てる、だからずっと隣にいて」

きれいに笑って、隣がねだってくれる。

「大好きって言ってよ」

前ならきっと言えなかった。
今だって本当は恥ずかしくて、言えるわけがない。
けれど今日、山岳救助隊服の姿で、冷たい現実から救ってくれた。
もうどうやって拒めばいいのかなんて、わからない。

「…だいすき、」

そっと告げて周太は、きれいに笑った。




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温赦、真想act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-31 21:30:10 | 陽はまた昇るanother,side story
ぬくもりは、そっと佇んで



温赦、真想act.2 ―another,side story「陽はまた昇る」

いつものように暖簾を潜ると、客は誰もいなかった。
昼時の瀬戸際の時間、静かな店内は、けれど湯気はいつも通りに穏やかだった。

「こんにちは、」

ウィンドブレーカーの背中に「警視庁」を背負った姿のまま、宮田は店内に入った。
青いウィンドブレーカーの下、オレンジ色の救助隊服には胸にも「警視庁」と鮮やかに書かれている。
警視庁の救助隊制服姿を、主人が少し驚いたように見て、それから微笑んだ。

「お客さん、警視庁の人だったんだ」
「俺のこと、覚えてくれていたんですか」

はいと主人は頷いて、答えた。

「笑顔がね、とてもいいなと思って、いつも拝見していました」
「ありがとう、」

きれいな笑顔で宮田が笑う。
そして主人の正面になる、カウンターの席へと座ってしまった。

「ほら、隣座ってよ」

力強い掌で、周太の腕をそっととって、座らせてくれる。
宮田はこれから、何をするつもりなのだろう。
けれど見上げる横顔は、いつも通りに穏やかで、きれいな微笑みを浮かべていた。

「おやじさんのラーメン、俺、好きなんです」
「おや、嬉しい事を言ってくれるね」

そんなことを言いながら、笑って宮田が訊いた。

「おやじさん、どうしてラーメン屋になったんですか」

一瞬、主人の手元が止まった。そして宮田の顔に、視線を向けた。
それでも隣の横顔は、いつも通りに微笑んで、やさしく静かに佇んでいる。
主人の顔が穏やかになった。

「俺はムショ帰りなんですわ…人さまをね、殺しちまって。お客さんと同じ、警視庁の警察官でした」

きれいな切長い目が、真直ぐに主人の顔を見つめる。
それからそっと、やわらかく宮田は微笑んだ。

「そう、…辛かったですね」

一言だけ、けれど温かく優しいトーン。穏やかに宮田は主人を見つめていた。
主人の目が少し大きく、そして温かくなっていく。
主人はゆっくりと話しだした。

「あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです、けれど撃たなかった。
 その隙に振向いた俺と、その警察官の目が一瞬だけ合いました」

「うん…」

「彼の目は、生きて償ってほしい、そう言っていると感じました。それなのに怯えていた俺は、そのまま撃ってしまった」
「…うん、」

穏やかで静かな宮田の空気が、ゆっくりと主人を受けとめていく。
安堵するように、主人は口を開いていった。

「あのひとの目を、俺は一生忘れられません。」

父の目を、この男も記憶しているというのだろうか。
その記憶を見られたらいいのにと、周太は思った。
周太の視線の先で、主人は噛み締めるように言葉を接いでいく。

「取り調べてくれた刑事さんがまた良い人でね、俺の話をよく聴いてくれました。
 亡くなった警察官の友人だと言っていましたよ…それでも俺を受けとめてくれて、嬉しかった」

遠野教官にも教えられた「取り調べは最期の砦」
生きて償いをさせる為、安本はこの男を立ち直らせたのだろう。
きっと安本は、友人の死を無駄にしない為に、取調室で刑務所で向かっていた。
そんな安本の想いが、今なら解る。

周太は瞳をとじた。
父の笑顔がそっと心に寄り添ってくる。
父も今きっと、この男の話を一緒に聞いている。そんなふうに思えた。

「ムショ出て、もとの組に行ったら追い出されました。
 お前なんか存在しない、そんなふうに無視されて辛かったです。
 寒い日でね、体も心もすっかり冷えちまった、それなのに腹は減って、なんだか情けなくってね、

「そう、…悲しかったね、」

ええと主人は頷いて、そっと言った。

「それで目の前に現われた、ラーメン屋に入りました」
「…うん、」

そっと微笑みかけて、宮田は受けとめる。それから目だけで、優しく主人を促した。
少し嬉しそうに笑って、主人は続ける。

「そのラーメンが、旨かったんです。
 ひとくち啜ったら、あったかくて。あったけえなあ、思ったら涙が出てね。そうして思っていました、」

ちょっと切って、主人が微笑んだ。

「ああ俺が殺しちまった人は、もう、食えねえんだ。そう思ったら、涙がもう止まらなくて。
 そうしたら店の親父さんがティッシュくれて、それから奥の部屋で話を聞いてくれました」

周太の心に、ひとつ、何かが響いた。
手を動かしながら、主人はゆっくりと話していく。

「親父さんの心とラーメンの温かさが、じんわり肚にしみました。それで思ったんです、
 俺もこんなふうに誰かを温めてやりてえ、そう思ってね、そのまま店の親父さんに弟子入りしました。
 けれど去年春に親父さん、急に亡くなって。親父さん家族が無かったんです、奥さんは亡くしたって言っていました。
 それで俺がこの店を守らせて頂いています。なかなか親父さんの味には及びませんがね、だけど、いつも思うんですよ、」

目を上げた主人は、悲しそうで、けれど温かな明るい顔をしていた。
そのまま主人は、宮田と周太を真直ぐ見て微笑んだ。

「俺が殺しちまったあの人が、うまいと言ってくれるような、あったけえ味が出せたらいい。
そうして誰かを温めてやれたら少しだけでも罪が償えるかもしれない、そんなふうに頑張らせて頂いています、」

温かな丼をふたつ、はいとカウンターに置いてくれる。
その掌が、大きくて、火傷の痕といくつかの皺が刻まれていた。
ずっと仕事に動かし続けてきた人の持つ、きれいな掌だった。

頂きますと一口啜って、宮田が笑った。

「うまいです、肚に沁みて温まります」
「そうですか、」

微笑んだ主人に、きれいに笑って宮田が言った。

「きっとね、亡くなられた警察官も、うまいなあって言ってくれますよ?」

主人の目が大きく瞠り漲った、そのまま深く頭を下げる。

「…ありがとう、ございます」

深々と下げた頭をあげると、温かな笑顔が主人の顔に咲いていた。
その目からは、光るものが零れていた。

その涙を、きれいだと周太は思った。

傍らのティッシュ箱に手を伸ばす。
そうして1枚とると、そっと主人へと差し出した。
主人は少しだけ左足を引き摺りながらカウンターへ近寄って、腕伸ばし微笑んだ。

「すみません、ありがとうございます」

大きな働いている掌が、受け取ってくれた。
手渡した指に温もりを感じながら、周太は言った。

「こちらこそ、ありがとうございます」

きれいな笑顔で周太は笑った。



いつもの公園のベンチにふたり並んで座った。
もう11月で寒くなりかけている、けれどベンチは小春日和に暖かだった。

周太は泣いた。
涙が流れる頬を温かな胸が受けとめてくれる。
宮田の救助服は、かすかな汗と山の樹木の香りがした。
山の懐で穏やかさに包まれる、そんな感覚に抱かれながら涙が流れていく。

―けれど彼の目は「生きて償ってほしい」そう言っているように感じました。あのひとの目を、俺は一生忘れられません、

温かい胸に抱いてくれながら、そっと宮田が教えてくれる。

「犯人を救けてほしい。周太の父さんは、そう言ったそうだよ」

安本さんに会って訊いたんだ、そう微笑んで続けてくれる。

「生きて償う機会を与えて彼に温かな心を教えてほしい。そう周太の父さんと約束したから、安本さんは事件担当を続けたんだ」

「…お父さんが、」

そうだよと、宮田が頷いた。
抱きしめる腕に、やわらかく力籠めながら、静かに宮田が話してくれる。

「それから『周太、』そう言って眠られたそうだ」

父は殺された。
けれど父は犯人を許したくて、温めてやりたくて、死んでいった。
そして父を殺した男は温かく生きていた。

さびしい独りのとき自分はあの店の暖簾を潜った。
そうして主人が作ってくれる寛げる温もりに座って、そっと隣を想って安らいだ。
あの男の作ってくれた温もりに自分は気づかずに助けられていた。

この新宿で寂しいと思った時に訪れていた温もりは、父の死から生まれたものだった。
自分を受けとめたように、客として訪れる他の大勢もあの男の温もりが受けとめて来たのだろう。

父は温かい人だった。
その父は自分を殺した人間すら温かな形見に変えて、遺してくれていた。

父の死は、ただ苦しみだけを遺したのでは無かった。
その事が本当に嬉しくて、父の死に苦しんだ年月すらもゆっくりと今、とかされていく。

ゆるやかに抱きしめてくれる温もりが優しい。
周太の瞳を覗きこんで、そっと宮田が微笑んだ。

「周太の父さんの遺した約束は、二人の命を救ったんだよな」
「ふたり?」

そうだよと頷いて、宮田が言ってくれた。

「安本さんはね、本当は犯人を殺そうとしたんだ」
「…安本さんが、」

周太は息を呑んだ。
穏やかな今の安本から、そんな激しさは想像できない。
でもそうだと納得できる。13年前のあの夜、検案所で会った安本の目は、真っ赤だった。

「でも、周太の父さんと約束した。犯人を救けてほしい、そう言って。
 だから安本さんは犯人を殺せなかった。そしてあの店の主人として、犯人は生まれ変われただろ?」

「…ん、」
「そして、安本さん自身も殺さないで済んだ」

周太は隣の切長い目を見つめた。
きれいに優しく微笑んで見つめ返して、宮田は言った。

「周太を見た時にね、安本さんは思ったそうだよ。自分が大好きな男の面影と射撃の名手、懐かしくて嬉しかったと。
 そして周太の瞳は明るくて幸せなのだと感じたそうだ、だから何も知らせたくなかった。
 それでも、どうしても周太の父さんの面影に会いたくて会いに来られたそうだよ、」

声を掛けてきた安本の顔。食事しながら父を語ってくれた、安本の眼差し。
穏やかで優しい気配が、周太に温かかった。
だから信じてしまったし、素直に話を周太は聴いていた。

それでねと宮田が微笑んで続けてくれる。

「許して欲しいとも私には言えない。安本さんはそう言ったよ。安本さんは本当に周太の父さんが好きだった、
 だから本当は許してほしいと周太の父さんに言いに行きたかった。自ら死を選んでも周太の父さんの所へ行きたかった、そんなふうに俺は感じたよ」

奥多摩は自殺者が多く訪れる、宮田も既に自殺遺体の見分を経験した。
自ら死を選ぶ人間の気持ちをそういう宮田には理解できる。
だからこんなふうに安本の気持ちも解ってしまう。

温かく周太を見つめながらも、どこか寂しげだった安本の目。
安本もきっと13年間苦しんでいた。

父の事を想って泣いていたのは自分たち母子だけじゃなかった。
そんなふうに父を想ってくれた、そのことが嬉しいと素直に周太は思えた。

「そうやって、安本さんが思い詰める事をさ、周太の父さんには解ったのだと思うよ。
 だから約束をさせた、犯人を助けてほしいと。そうしたら安本さんは、約束の為に生きていけるから。
 犯人も安本さんも救けたい、それが周太の父さんの願いだった。そんなふうに俺は思う」

きれいな低い声が静かに言ってくれた。

「周太の父さん、俺は尊敬する」

瞳から温かな涙がまた溢れてしまう。

どうしていつも、こうなのだろう。
どうしていつも、この隣は、こんなにきれいで真直ぐなのだろう。

父が殺された現実、冷たい真実。
それすらも真直ぐな瞳で見つめてくれた。
そうしてこんなふうに真実の向こうを教えてくれる。

冷たい真実の向こうには温かな心が遺されていた。
13年間の冷たい重荷が全て温かい形見へと姿を変えていく。

宮田が微笑んで言ってくれた。

「俺ね、安本さんに飲みに誘われたんだ、周太も一緒にいこう」
「…ん、一緒にいく…連れて行って、みやた」

温かい涙がとまらない。
13年間の冷たい悲しい涙は今はもう、温かい。



(to be continued)

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温赦、真想 act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-30 19:25:48 | 陽はまた昇るanother,side story

ほんとうはいつも、あたたかくて


温赦、真想 act.1―another,side story「陽はまた昇る」

術科センターでの訓練が終わると、特練の先輩に声を掛けられた。
これから昼飯をどうだ、そんなふうに気さくに誘ってくれる。
でもどうして急に、そう言ってくれるのだろう。

尋ねてみた。

「安本さんから、湯原に昼飯の店を教えてくれって」


 こころのなかで、ごとんと何かがおちた。


「すみません、今日は先約があって」

周太は微笑んで頭を下げた。
詫びた周太に、また今度行こうと、快く先輩は笑ってくれた。

術科センターの片隅に周太は立った。
9日前の、全国警察けん銃射撃競技大会。
あの日に宮田はここに立って、不安な自分を抱きとめてくれた。

宮田の凭れた壁に、今は自分が凭れてみる。
少しでも温もりが残されていないのか、こんなふうに探してしまう自分がいる。
ほんとうは離れるなんて、出来ないのに。

周太はそっと携帯を開いた。
今日は週休だけれど、午前中は訓練だと言っていた。今はまだ、訓練中かもしれない。
けれど留守電の、メッセージの声でもいいから、聴かせてほしい。

どうかまだ、自分が汚れる前に、きれいな声を聴かせてほしい。
きれいな声を聴ける資格を、失う前にどうか、もう一度だけ聴かせて。

けれどほんとうはずっと、ずっと聴かせていてほしい

着信履歴から通話に繋ごうとした。
けれどコール音もなく、すぐに電話が繋がった。

「泣いてる?」

どうしていつも、この隣は、こんなに解ってくれるのだろう。
きれいな低い声。聴けばやっぱり恋しくて、今すぐ来てと甘えたい。

けれど今、ごとんと落ちてしまった。
本当は離れたくない、離さないで救けてと言いたい。

それなのに。13年間の重荷が今、ごとんと落ちて動けない。
もう、どうしていいのか解らない。
それでも、唇は開いて、なつかしい場所のことを訊く。

「…いま、奥多摩は晴れている?」
「ああ、青空が気持ちいいよ。周太に見せたいな」

よかった、今日は晴れている。
それならきっと、宮田は無事に訓練を終えるだろう。

「晴れているならいいんだ…それだけ。訓練中にごめん」

言い終わって周太は電話を一方的に切った。
宮田の声、きれいな低い響く声。大好きだった。ほんとうはもっと、ずっと声を聞いていたい。
けれどもう、13年間の想いが自分を突き飛ばしている。
だってもう、右掌は左腕の時計を握り締めている。

術科センター退出の窓口は少し混んでいた。
ぼんやりとした心なのに、手も顔もきちんと動いて、手続きを終えてゲートを出た。

術科センターからの帰路はいつも、2つある。
真直ぐ新宿署へ向かって、保管庫へ携行品を戻して、私服に着替える。
真直ぐ東口交番へ向かって、そのまま勤務に着く。
けれど、今日は、どちらとも違う。このまま今日は、あの場所へ行く。

昨日の当番勤務前、なぜか昼に先輩から誘われた。
理由は「安本さんから、湯原に昼飯の店を教えてくれって言われた」から。
そしてさっきも術科センターで、特練の先輩から昼に誘われた。
理由は「安本さんから、湯原に昼飯の店を教えてくれって言われた」から。

同じ事を言われた、そして気づいてしまった。

安本を連れて行った時、あの店は、ちょうど臨時休業だった。
臨時休業とかかれた札を見た時の、安本の顔は安堵していた。
よく来るのだと周太が告げた時の、安本の目に映った一瞬の光。

―新宿署に勤務した頃、ここで食中毒騒ぎがあったので
あれは嘘だ。
だから気づいてしまった。
安本は、周太があの店へ行かないように、仕向けている。

―今日は久しぶりに射撃訓練に来ましたが、会えて嬉しいです
あれも嘘。
なぜ安本は、偶然を装ったのだろう?
本当は周太に会う目的で来た。それくらい解る。

なぜ安本は、嘘を吐くのだろう?

そして思い出してしまった、記憶の奥底の顔。
無残な父の遺体との面会、そこに立ち会った刑事の顔。
これが父の手錠だと、見せてくれたあの刑事。

「私は、お父さんの友達なんだ。犯人はもう、捕まえたから。必ず、お父さんの想いを、私が晴らすから」

そう言った、真っ赤な目をしたあの、刑事。
優しそうで哀しそうで、けれど真摯な目をした、父の同期だという刑事。

安本の、13年前の顔は、あの刑事。

安本は父の友人で、犯人を逮捕した刑事。
父の事件の顛末、犯人のその後、全てを知っている。
そして安本はきっと、自分の顔を周太が覚えているなんて、気づいていない。

あの店から周太を、安本が引き離したがる理由。
そして今まで集めた資料の、ファイリングが示す事。
父を看取ったホームレスが、父の殺害現場に、新宿に、居続けた理由。

父を殺した犯人は 新宿に今もいる

そして、安本が周太を引き離したがる、あの店は、新宿にある。
そして、犯人のその後を、安本は知っている。

犯人は あの店の主として 生きている

周太はそっと瞑目した。本当は信じたくなんか無い。
けれど、安本の行動が、今まで見つめた事実の全てを裏付けて。
全てが納得できてしまう。

「…どうして、」

ぽつんと呟きがこぼれる。

初めて宮田と一緒に行った、あの店。
温かい湯気と寛いだ空気。あの店で、いつも笑っていた宮田の気配が、懐かしい。
初めて行った時からずっと、大切な場所になっていた。

それなのにどうしていつも、現実は残酷なのだろう。

大切なひとの大切な場所、そこが冷たい現実の元が棲む場所だった。
どうしていつも現実は、こんなに残酷なのだろう。
せっかく見つけた温かさも、素顔は冷たい現実だった。

「…どうして、いつも」

ぽつんと言葉がこぼれてしまう。

警察官が拳銃の行使を許される時。
それは、相手が明らかに拳銃を所持していることが、明白になった場合だけ。
この場合も、独断的に発砲していいという事にはなっていない。
正当防衛の為に止むをえない場合、他の市民に危害が及ぶ恐れがある場合。
その場合に限って、独自判断での発砲が行える。

だから、20年間一度も発砲しなかった警察官というのも珍しくない。
それなのに、父は拳銃で死んでしまった。
普通の現実には無いことで、父の命は奪われた。

どうしてこんなに、いつも現実は、自分には残酷なのだろう。

そして思ってしまう。
自分はこの現実では、幸せになんかなれないのかもしれない。
こんな残酷な現実ばかりが、自分の前に横たわる。

だから思ってしまう。
自分はきっと、現実から拒絶されてしまう存在。

自分と一緒にいたら、あのきれいな笑顔を、冷たい現実に巻きこんでしまう。
そんなふうに思えてしまう。
きれいな笑顔を、冷たい現実になんて、引き擦り込みたくない。
もう自分は、あの隣には、いられないのかもしれない。

けれどお願い、掴まえてほしい。
もうとっくに、孤独になんて自分は戻れない。
どうか信じさせてほしい、あの隣で幸せになれること。

それなのに、自分は今、あの店へ向かおうとしている。
携行品を保管に戻さないまま、拳銃を携行したまま、向かおうとしている。
無残な父の遺体が着ていたのは、紺色の警察官の活動服。同じその姿で、自分は今、あの店へ向かっていく。

これからしようとする事、その意味を解っている。
けれど、どうしたらいいのだろう。
心はこんなに救けてと叫んでいる、それなのに、体は冷静に歩いていく。

それでも、周太の唇がかすかに動いた。

「…みやた、救けて」

ちいさな呟きが、ぽつんと零れた。
瞳の底が熱くなる、けれどもう、涙にしてこぼせない。
こんなに心が叫んでも、体を冷静に動かしてしまう。
自分はもう、壊れているのかもしれない。

けれど心だけは叫び続けている。

たすけて、たすけて いますぐ隣へきて さらってほしい
きれいな笑顔にあいたい もういちど抱きしめて
 
あの、きれいな低い声で 名前をよんで


「周太、」


あの声がきこえた。じぶんのなまえを、あの声が。

幻聴だろうか?

こころに不意に、気配がふれる。
不意に、そっと、穏やかな気配が隣に訪れた。

「…あ、」

あたたかさが体を抱きとめる。
すこし早いけれど規則正しい鼓動、すこし熱い温もり、強い腕。
かすかな山の樹木の香が、ふわっと心に融けこんだ。

「周太、」

懐かしい声が、すぐ隣から聴こえた。
見上げると、きれいな笑顔が見下ろしてくれていた。

「ほら、周太」

きれいな長い指が、周太の唇に何かを含ませてくれる。
さわやかな甘さが、口の中に広がった。はちみつとオレンジの味、馴染んだ好きな味。
きれいな笑顔が周太に笑う。

「うまいだろ?」

どうしていまここにいるのだろう?
訓練中だったはず、それなのになぜいま?

固く結ばれていた、周太の唇がそっとほどかれた。

「…どうして、みやたが…ここにいるんだ」

なんでも無い事だというふうに、きれいな笑顔が笑ってくれる。

「だって、呼んだろ?」

やっぱり、と思い知らされる。
やっぱり自分はもう、この隣から離れられない。
こうしていつも強く、掴んで離さないでいてくれる。

嬉しくて、心がほどけてしまう。
さっきまで固まって冷たくなっていた心、けれど今はもう、こんなに温かい。

今日は宮田は、週休だけど訓練だと言っていた。
けれど隣で今、宮田が微笑んで話してくれる。

「電話の様子が気になった。それで、そのまま来たから、ほら」

笑って宮田が、ザックとそこに提げたヘルメットを示した。
隣の格好を見て、周太は驚いた。
宮田は、警視庁山岳救助隊の制服姿で立っていた。

「ちょうど訓練が終わった時に電話したんだ。それで、そのまま来た」

どうして。
自分から掛けた電話なのだと、周太は思っていた。
けれど本当は、宮田も電話をかけてくれていた。

「…俺も、あのとき、電話かけようとして、」
「じゃあ、同時にかけたんだな。俺達ほんと気が合うな」

新木場から新宿と、河辺から新宿。
20分ほど新木場からが早いけれど、術科センターの退出手続きが混んでいて、その分ロスがあった。
それでも速すぎる、どうやって来たのだろう?
けれど、なんでも無いように、隣はきれいに笑っている。

「俺すごいタイミング良かったよな」
「…タイミングよすぎるよ」

背中に白く「警視庁」と染め抜いたウィンドブレーカー。
登山服仕様の救助隊服姿が、なんだか眩しい。
本当に宮田は、山ヤの警察官になったのだと実感される。

山岳救助隊の姿で、宮田が隣に来てくれた。
自分を助けるために、なつかしい奥多摩の山からそのまま来てくれた。

周太の瞳から涙があふれた。
ほらと笑って、長い指が目許を拭ってくれる。

「ちゃんと甘えて俺を頼ってよ。だから我儘きちんと言って」
「…ん、いう…」
「今日はもう非番だろ、とにかく携行品戻しに行こう」
「…わ、かっ、た」

声が震えてしまう。
宮田にはきっともう、解っている。自分が何をしようとしていたか。

それでも自分を見る、この隣が優しくて、きれいで、嬉しい。
宮田は解っていて、自分を受けとめてくれている。

微笑んで、静かに宮田が口を開いた。

「必ず周太のところへ俺は帰る。絶対に周太をひとりになんかさせない。
 どんなに辛い現実と、冷たい真実があったとしても、俺は周太を手放せないから」

「…ん、」

どうしていつも、こうなのだろう。
本当は、きれいな笑顔を傷つけたくなくて、巻き込みたくなくて。
それなのにいつも、こうして隣に佇むから、拒めない。
そしていつも願ってしまう、もう、離さないで欲しい。

涙がとまらない瞳を覗きこんで、宮田が静かに告げてくれた。

「だからお願い、ずっと隣にいさせて」

きれいな笑顔が今、こうして佇んでくれる。
嬉しくて、うれしくて、もう、ひとりでなんか立てない。


新宿署で携行品を保管へ戻して、独身寮の自室に着替えに戻る。
寮の廊下では、宮田の救助服は目立って、皆の目を惹いていた。
ちいさな寮の部屋へと、宮田は入って見回した。

「相変わらず、きれいにしているな」

そんなふうに笑って、けれどベッドには腰掛けないでいる。
どうして座ってくれないのだろう。
そう思って見ていると、微笑んで答えてくれた。

「そのまま来たからさ、座ったらベッド汚しちゃうだろ」

見ると確かに救助服には、泥や飛沫の跡がついている。
きっと着替えたいだろうなと、自分だけ着替えるのが申し訳ない気がした。
悪いなと思いながらも、クロゼットから服を取り出そうとしたら、宮田が横から選んでくれた。

「俺のセレクトで着てよ。その格好で連れて歩きたいから」

そんなふうに笑って言われて、前に言われた事をすこし思いだしてしまった。
なんとなく恥ずかしくなって、背を向けて着替えてしまう。

選んでくれたのは、真白なTシャツとあわいグリーンのニット、きれいな茶色のカーゴパンツ。
きれいな明るい色ばかりを選んでくれた。
自分のしようとした過ちを、宮田はもう解っている。
それなのに、きれいな明るい色ばかりを選んでくれた。

着替え終わると、背中から温もりが包んでくれた。
Gジャンを着せてくれて、そのまま背越しに腕が回されて、そっと抱きしめられる。
きれいな落着いた声が、静かに言ってくれた。

「彼に会いに行くのなら、一緒に行かせて」

やっぱり宮田は気づいていた。
自分がどんな過ちを犯そうとしていたか、全てを解って抱きとめている。

犯人に会いに行って、本当はそのまま、銃口を向けそうだった事。
父と同じ活動服姿で、同じように前に立って、父がされた事を犯人にしようとしていた。
その全てをきっと、宮田は解ってくれている。

それなのに、こうして抱きしめる腕は、強く掴んで離してくれない。
罪を犯そうとした自分を、温もりで受けとめて、ほどいてくれる。
温もりが穏やかさが嬉しい、嬉しくて安らかで、今もう自分は、幸せになっている。
冷たい孤独へ向かおうとしたのに、もうこうして、幸せに浚ってくれている。

素直に言葉が周太の唇からこぼれた。

「…好き、」

嬉しそうに笑いながら宮田は、長い指を周太の前髪に絡めてくれる。
それから頬寄せて、そっと答えた。

「知っているよ。けれど俺の方がもっと周太を好きだ」

顔が声が笑えてしまう。
こんなに自分は幸せで、甘やかされて、頼っている。
現実は冷たいと、さっきまで思っていた。
けれどこの腕の中の現実は、こんなに幸せであたたかい。



(to be continued)

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黎風act3.顕光―side story「陽はまた昇る」

2011-10-29 09:30:20 | 陽はまた昇るside story

真実にこめて、




黎風act3.顕光―side story「陽はまた昇る」

怯えた目で、安本が英二を見つめた。

「…犯人の居場所に、気づくと言う事か」
「多分、明日の昼には気づくでしょうね」
「明日…」

安本の呟きに、はっきりと英二は言った。

「もうこの件については、手出しはしないで下さい」
「…どういう、」

言いかけた安本に、かぶせて英二は告げた。

「残念ですが、あなたにはもう何も出来ない。なぜなら、あなたは今既に彼の信頼を失っている」
「なら、なおさら私は彼の、信頼を取り戻すべきだろう」

安本は食い下がった。
そうして英二の心の裡で、不満と怒りが、がちりと噛みあわさった。

どうしてこんなにも、甘いのだろう?
なぜこんなにもまだ、緩いことを言えるのだろう?

今の時間は13時。
もう24時間も経たないで、周太は事実に気付いてしまう。
もう時間の余裕なんか無い。

もう時間が無いこの時なのに。
あの頑なで純粋な心を今から開くことが、明日のリミットに間に合うと言う?
そんなこと不可能に決まっている。

そして馬鹿にしている。そんな手軽に考える事は。
あの頑なで純粋な孤独を、壊した自分の努力と想いまで、軽視していると何故気付けない?

こういう善意の無神経が、13年間の、周太とその母の、孤独を作りだした。
その現実が今こんなふうに、英二自身をも叩いてくれた。

善意が心を、深く傷つけることがある。
周太と彼女の痛みを、少しは自分も経験できた。
そのことが英二は嬉しい。こうして同じ痛みを知って、繋がりが強まるといい。

けれどねと英二は思う。
周太と彼女のようには、自分は純粋でも優しくもない。
直情的で身勝手で、思ったことしか言えないし出来ない。
だから悪いけれど、叩かれたら倍以上、返させてもらう。

英二はそっと目を細めた。
たぶん今、ぞっとするほど冷酷な目になっている。

「そういう勝手な自己弁護は、いい加減にして頂けませんか?」

けれど端正な口許は、きれいに微笑んでいる。

ほら傷ついた目に安本はなった。
思い知らせてやりたい、そして気づいて欲しい。
善意だけでは、優しい顔だけでは。本当には人を守ることなんか出来ない。

時には自分が悪者になったって、相手の為には惜しまない。
そんな覚悟が無かったら、本気で人は守れない。
そうしてそれは、強くなかったら、出来やしない。

強くなれ―警察学校で、山で、出会いの中で、いつも教わってきた。
だから自分は強くなって、今、目の前の人間を傷つける。
この人間も、自分と同じ警察官で男、どうか気づいてほしい。
そしてもう二度と、優しい嘘の過ちを犯してほしくない。

「安本さんは、周太に嘘を吐いた。
 信頼しない相手には、彼は固く心を閉ざします。
 そうして自分の殻に籠るでしょう。その事が、彼を誤った方へと導いていく。解りませんか?」

安本の目が怒っている、そして本当は泣いている。
当然だろう、卒配1ヶ月程度の新人に言われたら傷つくだろう。

けれど自分は、ひとりの警察官として男として、ここに来た。
彼と自分は対等、それが当然だと思っている。
だから遠慮なんかしない。

「周太は13年間ずっと孤独でした。
 父親の殉職という枷と、それに絡まる善意の無神経さ。その全てが彼を孤独へ追い込んだ」

安本の目が揺れる。
きっと彼が周太を思う気持ちは善意。
けれどそれだけじゃ甘いのだと。この今からでもいい、だから気づいてほしい。

「彼の孤独を壊したのは私だけです。
 私よりも優しい言葉をかけた人は、たくさんいたでしょう。
 けれど、彼の為に全てを掛けた人間は、私だけです。
 きれいな想いも、醜い欲望も、私は全部を彼に晒します。
 隠しているものがない。だからこそ、彼は私を信じて孤独を捨てました。
 他の誰にもそれは出来ない、私だけです。だから言います、彼が本当に信じて頼るのは、私だけです」

真直ぐに安本を見て、英二は言った、

「彼を救えるのは、私だけです。
 残念ながら、どんなに想ってくれても、あなたじゃない。
 けれどもし、彼を少しでも助けたいと思うなら、私に全てを教えて下さい。そうして周太を守らせて下さい」

英二を安本は見つめている。
その視線を受けとめて、ふっと英二は微笑んだ。この目の前の男が、かわいそうだと思った。
方法は間違えたけれど、彼の真心もまた一生懸命なのだから。

見つめたまま、安本が訊いた。

「…では、どんな方法なら、周太君を救えるんだね?」

簡単ですよ。
そう言って英二は、口を開いた。

「真実を告げて示して、その底にある想いに気付かせてやる。それで彼には解る、そしてそれが、唯一の選択です」

きれいに英二は笑った。
安本の瞳がじっと、英二の笑顔を見つめる。そして、安本の口は開かれた。

「周太君を見た時、驚きました。私が大好きだった男の面影、そして射撃の名手。懐かしくて、嬉しかった」

語りだした安本の口調に、切ない懐旧が滲みだす。
この人も苦しんだのだ。そんな想いがそっと英二に寄り添ってくる。
静かに、英二は彼の声をみつめた。

「けれど違いが2つありました。
 周太君は片手撃ちです、湯原は両手撃ちだった。そして周太君の方が瞳が明るい。
 周太君は幸せなのだと、感じました。
 だから何も知らせたくなかった、きれいな瞳をそのままにしてやりたかった。
 それでも懐かしくて。どうしても湯原の面影に会いたくて、私は会いに行きました」

すこし憔悴した顔で、安本が語っていく。
静かに英二は佇んで、そっと聴いていた。

「13年前のあの日、新宿署への応援を湯原に依頼したのは、私です。
 大きな公園があるでしょう。例年通りに桜の園遊会が開かれた。それで警邏のために、応援要請をしました」

桜の咲く時に、周太の父は殺された。
きっと花見に明るくて。そんな時に突きつけられた残酷な現実。
明るい時に落ち込む闇は、本当に暗くて悲しい。そのぶんだけ、周太と彼女の傷は深かったろう。
さりげなく英二は制服の胸元に触れた。ちいさな鍵の感触が、いとしかった。

「桜の季節、そしてあの年は雨天などで、花見の会の延期も多かった。
 それであの日、花見の日程が集中した。
 どこも人数が手いっぱいで。それで人員がなかなか集まらなかった。
 SPの人数が足りなくて、警護の人数も勿論足りない。けれどどうしても1名、腕ききがほしかった」

13年前。英二と周太が10歳を迎える春。
あの年は春の嵐があった。3月の雪と4月の雪を見た、そんな記憶が英二にもある。

「当時彼は警備部の射撃指導員になっていた。
 誰か適当な人材を寄越してくれないか、そんなふうに私は依頼した。
 そして彼は笑ってくれた、ちょうど自分は非番だから予定が空いている。そう言って」

安本の声が掠れる。かわいそうだと、英二は思った。
その結末を知る今、話させる事すらも、ほんとうは残酷だと知っている。
けれど話す事でしか、安本はもう償えない。

それはきっと苦しく辛く、古傷を抉りだす。
けれどきっと、話して暴かれる事で、安本自身も救われる。

「警邏の後は、新宿署の射撃指導もしようと提案してくれた。
 一流の彼からの指導は、ありがたくて。そんな気さくな彼が大好きだった。
 それから一緒にコーヒーを飲んでいた。彼はココアだったけれどね」

彼はチョコレートが好きだった。
そんなふうに、周太の母も言っていた。
それから幼い周太の記憶でも、山でココアを飲んでいる。
垣間に見えるエピソードの温もりが嬉しくて、けれど、結末を思うと切なかった。

「そして、連絡が入った。暴力団員による強請、その通報だった。
 犯人の一人は拳銃を持っていた、そして犯人は恐慌状態にあった。
 恐慌状態の犯人は危険だ、発砲の可能性が高い。そして犯人が逃げた先は、歌舞伎町だった」

安本の瞳が揺れる。
きっと今、涙をこらえているのだろう。
ただ黙って英二は、目の前の男を見つめ続けた。

「繁華街での発砲、その危険をおそれて、万が一は射殺やむなしと判断された。
 繁華街での狙撃は、射撃の精度が問われる…そして射撃特練だった私と…湯原に、発砲許可が下された」

もし、その日、周太の父が呼ばれていなければ。
無駄なことと思っても、英二はそう思ってしまう。
そして誰よりも、安本がそう思いながら、今、話している。

「私と湯原は現場へ走った、単独での追跡はしないものだ。けれど、
 けれど、湯原は、足が速くて…あっという間に私を置いて…ひとりで、犯人に追いついて…それから」

周太の父は、周太と同じように有能だった。
その事が、彼の命を縮めてしまったのだと、告げられる。
その残酷さが悲しい。英二はただ安本を見つめて、佇んでいた。

「着いた時には、もう、…あいつ、もう」

安本の頬を一筋、とうとう涙が奔った。

「まだ若い男が、湯原を介抱しながら泣いていた。
 息が止まった湯原、けれど私は諦められなくて。止血と人工呼吸をした…あいつは一旦息を吹き返した」

安本の声が揺れて、涙が数滴こぼれて砕ける。
涙の底から、安本が英二を見つめて言った。

「あいつ、なんて言ったと思うかい?…犯人を救けてほしい、そう言ったんだ。
 生きて償う機会を与えてほしい、彼に、温かな心を教えてほしい。そう言って、」

安本の瞳を見つめたまま、黙って英二は頷いた。

「それから、『周太、』そう言って…」

息子の名前を呼んだ、彼の想い。
英二の長い指は、制服の上からそっと鍵に触れた。

周太の父は、立派な男だった。
ほんとうに、本当に立派で、きれいな男だった。その事が英二は、嬉しかった。
その男の鍵は今、自分の首に提げられている。

「ほんとうは犯人を殺してやろうと思った。けれど、あいつが、湯原が言ったから。
だから私は、犯人に向かい続けた。何年かかっても、絶対にこいつを真人間にしてやる、そう思ってな。
事情聴取で、刑務所で、語りかけ続けた。きっと湯原も一緒に、今ここにいる。そう信じて語り続けてきた、」

安本は心から、周太の父を好きだった。
そのことが解る、そう感じながら英二は、安本を見つめていた。

「だから、あの店で彼が働いて、立派に勤め始めて嬉しかった。
それを見届けられた。だから私はようやく、異動の辞令を受け入れて、ここに赴任したんだ」

ふっと微笑んで、けれどすぐに安本は瞳を閉じた。

「…私が、私が湯原を死へ追いやったんだ。殉職の枷を負わせてしまった」

安本を、崩れるように涙が覆う。

「有能な警察官、射撃の名手でオリンピック選手、そして温かい男…それなのに、殉職、その一言で。
 私の所為だ、私があの男を貶めてしまった。あいつは本当に、きれいな男だった、それなのに、私が、」

掠れても、叫ぶような声が、安本の喉から生まれた。

「…赦して欲しいとも、私には言えない…っ」

安本は泣いた。
それを黙って英二と、吉村は見つめていた。

13年間、この男もずっと苦しんできた。
大切な存在を、自分の所為で貶め失った。ずっとそう思って泣いて、苦しんで生きていた。
そうして涙の底からきっと、犯人を更生させようと必死になっていた。

あの店の主人。
3年前から何度も、英二は見ている。
3年前はすこし、怯えたような目をしていた。
そして今はいつも、すこし寂しげだけれど、温かな目をしている。

周太は一人でもあの店に行く。
きっとあの店の空気を気に入っているのだろう。

周太は純粋で、本質は人を疑う事を知らない。
繊細で優しい心は、感受性が豊か過ぎて傷つきやすい。
だからいつも相手を気遣いすぎて、遠慮してしまう。
だから周太は、人に心を開くことが難しい。

そういう敏感な周太は、簡単には居場所を作らない。
けれどそんな周太が、あの店は気に入って、一人でも行っている。

あの店の主人を、信じてもいいのかもしれない。

心開く事が難しい周太が、ひとりで行っても寛げる。
そんな気配を作れる主人の、話を聴いてみたならば、真実が解るかもしれない。
真実の底にある、想いを語って聴かせてほしい。

安本が涙をおさめる頃、吉村が自販機へ行って来てくれた。
缶コーヒーを3つと、ココアを1つ。
そうして3人で、ココアの缶を眺めながら、コーヒーを飲んだ。
飲み終わる頃、ふっと安本が英二に訊いた。

「宮田くんは、周太君の友達なんだね」
「いいえ、違います」

安本が驚いた顔で、英二を見た。
ならばどうしてと目で訴えながら、安本は訊いた。

「ではどうして、こんなに君は一生懸命なんだ」
「おかしいですか?」

きれいに笑って英二は答えた。

「警察官なら、今この一瞬に生きるしかありません。だから今を大切に見つめるだけです」

そうだなと安本の目が微笑んだ。
目を細めながら、英二は言った。

「周太は私の一番大切な存在です。だから今を大切に彼を見つめている。それだけです」

コーヒーの最後の一口を飲みこんで、英二は立ちあがる。
それから制帽を手に持ったまま、きれいに礼をした。

「今日は、ありがとうございました」

吉村も立ちあがって、英二に微笑みかけてくれた。
踵を返しかけて、安本が声を掛けた。

「宮田くん。いずれ、飲みに誘わせてくれるかい?」

安本は周太の父のために、必死で13年間を生きた。
そして犯人を、あの店の主へと成長させてくれた。それが周太の父の意思だったから。
こういうのは嬉しいなと素直に思える。

「ええ。その時は周太も誘います」

きれいに笑って、英二は答えた。


その晩は周太は当番勤務だった。
英二は早めに風呂を済ませて、自室で時間を過ごす。
いつものようにメールして、周太が電話を掛けてくるのを待っていた。

救急法のファイルを開いて、買ってきた本からメモを取る。
そういう作業に集中しながらも、意識の片隅で携帯を気にしていた。
そしてふっと掛かってきた電話で、周太が言ってくれた。

「今日ね、当番勤務の前に、昼に行こうって誘われた」
「へえ、そうなんだ」

何気なく相槌を打ちながら、英二は軽く緊張をした。
けれど周太は気づかぬふうに、続けた。

「安本さんから、湯原に昼飯の店を教えてくれって言われたらしい」

安本のミステイク。
今はもう、本人の告白を聞いてしまった。だから責める事はもういらない。
けれどこれから起こることへの推測と、対応は考える。

「うまい店だった?」

そんなふうに話しながら、デスクのファイルを手にとった。
外泊申請書を1枚とりだして、ペンを走らせた。
それから明日の訓練の、ザックの中へと着替えを一組追加する。

「ん。…でもあの店のほうが、俺は好きだな」

電話の向こうが初々しく微笑む。
どうかこの笑顔を守れますように。
英二はそっとシャツの上から鍵に触れた。

周太の父の真実はまだ、ほんの少ししか見えていない。
けれど、どんな真実にもきっと彼は、温かな想いを抱いていた。
まだ真実は、全ては見えない。けれどもう、自分は彼を信じている。
きっと彼ならどんな場所にも、きれいに立って笑っていた。

だからきっと大丈夫。
彼の遺した全ては見つめれば、きれいで温かい想いが遺されている。
その事を自分は、この隣に伝えたい。
そうして伝え続けることが、周太の孤独も痛みも拭って、笑顔に変える。

それが出来るのは、自分だけしかいない。
自分だけしかいないから、周太の隣は自分だけの居場所。
そうして独占欲もまた、認められて許される。
こんな考えは狡いだろう、けれど許してほしい。きっと必ず離れずに、ずっと幸せへと浚い続けるから。

鍵に触れながら、きれいに笑って英二は言った。

「俺もね、あの店が好きだよ。周太と一緒の場所だから」
「…恥ずかしいけど…うれしい、」

電話の向こうで、いとしい隣が笑ってくれる。
きっとあの、きれいで明るい大好きな笑顔。
どうか願いを叶えたい、俺にこの笑顔を守らせて。

明日は何が起きるのか。
そして自分は間に合うのか。
そんなことほんとうは、きっと誰にも解らない。
けれどきっと自分は、全てを叶える事が出来るだろう。

直情的で、思ったことしか言えない、出来ない。
自分勝手で我儘で。誰が泣いても、欲しいものは離せない。
だからきっと大丈夫。この隣を自分は掴んで、きっとずっと離さない。




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黎風act2.追捕―side story「陽はまた昇る」

2011-10-28 19:55:08 | 陽はまた昇るside story
やさしい嘘なんて、

黎風act2.追捕―side story「陽はまた昇る」

手続きを済ませて、射撃訓練場に入った。
与えられたブースに入ると、遮蔽された空間が集中力を作ってくれる。
こういうの久しぶりだな。
そんな事を思いながら、英二はイヤープロテクターを装着した。

ホルスターから拳銃を抜く。
シリンダーを開いて、装填された弾の雷管に傷が無いか確認する。
それから両手で拳銃を固定し、フロントサイトに意識を集中した。
これが基本の構え方になる。

遅撃ちの訓練から始まる。
遅撃ちは15秒に1発と余裕がある。そのぶん狙いを定めて撃つから精密射撃ともいう
一発撃つごとに、腕を45度下に向ける。そうして一旦、腕を休ませながら撃つ。

最初の6発を終えて、英二はシリンダーを開いた。
空薬莢を取出すと、スピードローダーで装填して閉じる
着弾結果は10点と9点が3:3だった。
久しぶりにしては良いのかな。そう思いながら今度は、両手撃ちのノンサイト射撃に構えた。

両手撃ちのまま、けれどフロントサイトはもう使わない。
両目で的を捕らえた視線上に、拳銃のサイトを突き出すように構える。
普通、ノンサイト射撃は近距離、10m位の場合に使う。
けれど周太は距離に関係なく、ノンサイト射撃の片手撃ちで的中させる。
それを真似して、英二もノンサイト射撃の練習をした。
着弾結果は10点と9点が3:3。サイトを使わなくても同じ結果だった。

シリンダーを片手で開いて、今度はバラ弾で装填する。
それからシリンダーチェックをして閉じた。
次の的が現われる準備が始まる。
そろそろ、やってみようかな。そう思いながら英二は、右足を少し前に出した。

背中を真直ぐに伸ばし、的へ向かって体をやや斜めにする。
英二の右腕だけがあがり、左掌は腰へ固定に置く。

片手撃ちのノンサイト射撃に、英二は構えた。

射撃の構えは、体格差による差異が出る。
けれど英二の構え方は、周太の構えそっくりだった。
要領のいい英二は、人を真似て身につける事が上手い。
だから今も、山では国村の真似をする。そして射撃は、周太の真似で身につけた。

両目の視線の集中が、的の一点へ向かう。
視線の上へと右腕を伸ばし、拳銃のサイトを突き出しておく。
引金を「霜が降りるがごとく」ひいた。
体を抜ける衝撃にも、随分と馴れ始めている。弾は10点を撃ち抜いていた。
ゆっくり45度に下げて、いったん右腕を休ませる。

本当は、周太と同じ進路を選びたかった。ずっと傍から離れたくなかった。
だから射撃も、周太の真似をした。
体格が全く違うけれど、英二は要領が良い。
自分に合った片手撃ちを、なんとか身につけた。

けれど、同じ進路は選べない。それは直ぐに気がついた。
能力は努力で補える。けれど、身長制限だけは、諦めざるを得なかった。
周太の進路はおそらくSAT、身長170cm前後の小柄が条件。
身長180cmの英二には、望めない場所だった。

武道も射撃も周太には敵わない。
進路も全く同じ場所では選べない。
けれど少しでも周太に近付けたら、役に立てるかもしれない。
そう思って努力した。

射撃はそれなりの適性があった。
結果と原因を分析する、そして対応を考える。
そうやって次には、同じ失敗をしなければいい。
そういう英二の要領の良さが、射撃の訓練を助けてくれた。

長い指と握力の強さは、片手撃ちには向いている。
長い腕はリーチがとれる、その分だけ的を捉えやすい。
細身で長身だけれど、筋肉質で体幹も背筋力も強いからブレ難い。

元から、握力も背筋力も、体幹バランスも良い方だった。
それを利用して、周太のトレーニングにつき合って、今の体力を身につけた。
そういう努力をしなかったら。奥多摩へ、山岳救助隊には配属されない。
そうして少しでも、周太を背負えるだけの、自分になりたかった。

2弾撃ち終わって、素早くシリンダーを開いた。
普通は両手でシリンダーの操作をする。けれど長い指は器用だから、片手で素早く作業が出来る。
開いている方の左手で、バラ弾の雷管をチェックしながら補充する。
遅撃ちは、標的出現の間隔が1回/15秒。その間なら2弾位は補充できる。

また右腕だけをあげて、ノンサイトで構え狙撃する。
装填に11秒、狙う時間は4秒だった。けれど的は10点が撃ち抜かれた。

撃つごとに、着弾の精度があがっていく。
発射の衝撃による、銃口の角度がブレる感覚。
衝撃を抜けさせるための力加減。引き金を引く強さ。
一発ごとに本当は、きちんと計算して撃っている。

遅撃ちが終わって、速撃ちの訓練に移る。
グリップを軽く持ち直した。遅撃ちと速撃ちではグリップの握り方を変える。
少しオープンな姿勢に構えも変えた。
ノンサイト射撃の片手撃ちで、このまま速撃ちもする。

速撃ちは、3秒間現われる標的を1発ずつ撃つ。
遅撃ちでは腕を下に向けて、いったん休ませることが出来る。
けれど速撃ちは3秒の間に1発。構え直す時間は無い、腕はあげたままになる。
発射の衝撃に、片腕で耐え続けられるだけの、筋力とバランスが必要だった。

5発続けて撃って2:2:1。1回8点になってしまった。
けれど、その8点は初弾。最後はちゃんと10点だった。

「半年でこれだけ出来たら立派だよ」

そんなふうに周太は褒めてくれる。
それなりの努力はもちろん積んだ。けれど周太とは努力の質が違う。
自分は骨格が大きく、筋肉質でバランス感覚もいい。
器用な指は長く、掌は大きい。
生まれつき恵まれていただけ。

周太の骨格は華奢で小柄だ。
それでも筋力と体幹を無理にも鍛え上げて、周太は身につけた。
けれど本来は、こんな操法に耐えられる体躯じゃない。

片手撃ちのノンサイト射撃。
周太には、どれだけの努力と無理が必要だったのか。
同じ操法を身につけた今、英二にはその努力が解ってしまう。
だからいつも、あの隣を真似た構えで撃つたび、切ない。

速撃ちも終わって、ブースを片付ける。
その英二の背中には、視線が刺さっていた。
片手撃ちノンサイト射撃に構えた時から、ずっと背中に視線を負っている。

周太を真似た構え方。
射撃指導員の安本ならば、直ぐに気がつくだろう。
そしてきっと声を掛けたくなる。

なぜ周太と同じ構えなのか。
それくらいは、同期か友人で教わったのだと推測できるだろう。
けれど。どうして、その男が自分の前に現われたのか。
それは訊かなければ解らない。だからきっと声を掛ける。

現われた目的、周太との関係。
それから13年前の事件と安本の関係。
それらをどこまで知って、何の目的の為に来たのか、きっと探るだろう。

きっと声を掛けられる。
そう思いながら出口の方へ、英二はゆっくり踵を返した。

「こんにちは、初めての方ですね」

50代の人の好い笑顔が、目の前に立っていた。
澤野の刑事課ファイルで見た、履歴書の写真と同じ顔。
感じていた視線と同じ目が、こちらを見て立っていた。

「はい、初めて伺いました」

微笑んで英二は答えた。
たぶん直ぐに質問されるだろう、そう思っていると安本が訊いた。

「なかなかの射撃操法でした。お名前を伺っても宜しいですか?」

ほらやっぱり訊かれた。微笑んで英二は安本を見た。
それから姿勢を正して、すっと英二は敬礼をした。

「青梅署所属の宮田です」
「宮田くんですね。武蔵野署の射撃指導員で安本と言います」

頷いて英二は微笑んだ。
安本も微笑みながら、英二に言った。

「業務がら、射撃に優れた方にはコツを、教えて頂きたいのです。宮田くんも是非、お話を訊かせて下さいませんか」

半年でこれだけ出来たら立派だよ。そんなふうに周太は言ってくれる。
本当にそうだなと、今はちょっと思えてしまう。

長い指と握力の強さは、片手撃ちには向いている。
長い腕はリーチがとれる、その分だけ的を狙いやすい。
細身で長身だけれど、背筋も体幹も強いお蔭でブレ難い。
そういう生まれつきに、自分は恵まれている。
だから思ってしまう、運命はきっと自分の味方だろう。

きれいに長身の体を傾けて礼をする。
それから顔あげて、真直ぐに安本の目を見て、英二は微笑んだ。

「はい。こちらこそ教えてください」

同行の方に声を掛けてきますと言って、いったん安本と別れた。
まだ訓練を続ける澤野へは、担当官にお願いして伝言を残す。
それから英二はロビーへ向かった。

ロビーをぐるっと見回して、自販機を探す。
青梅署のように自販機の傍で、吉村はゆっくりコーヒーを啜っていた。
英二に気がつくと、穏やかに微笑んだ。

「彼に、会えたんだね」
「はい、」

短く答えて、英二は微笑んだ。

「では、面会の申し入れは必要ないですね」

そう言って吉村は立ちあがり、微笑んで英二に言った。

「待ち合わせ場所へ、行きましょう」
「はい、」

ふたり並んで歩きはじめる。
吉村の方が英二より背が低い。けれど背中は大きくて、温かな空気に充ちている。
こんな背中の人が、奥多摩には多い。

岩崎も、あの田中も、それから後藤。穏やかで温かな背中を、みんな持っている。
自分もこんなふうになれたらいい。そう思いながら英二は歩いていった。


安本は小さな会議室で待っていた。
一緒に入ってきた吉村を見、安本は驚いて立ちあがった。

「医科大付属の、吉村先生ですか?」
「はい、お久しぶりです。お元気そうですね」

ええと答えながら、安本は英二と吉村を交互に見ている。
いきなりのカウンターを喰らわせたかな。そう思いながら英二は眺めていた。
なぜここに吉村がと言いたげな安本に、穏やかに吉村は微笑んだ。

「こちらの警察医の方へ、資料を届ける用がありました。それで宮田くん達の車に便乗して、お邪魔しています」
「吉村先生は、ご郷里で開業されたと伺いました。では今は、青梅で?」
「はい、青梅署の嘱託警察医として勤めています」

話しながら吉村は、ゆったりと席に座った。
それを見て安本も席に着き、英二にも椅子を勧めてくれる。
英二は敬礼し、制帽を脱いで席に着いた。

茶が運ばれて、安本はひとくち啜る。
やや落着きが無いかな。そう眺めながら英二も、茶を啜った。

「宮田くんから伺いました、」

いつものように、吉村は静かに口を開いた。

「彼の射撃をご覧になって、声を掛けられたそうですね」
「…ええ、良い射撃姿勢だと思いまして」

安本の、話し出しの声が少し揺れた。
意外な展開に、安本は少し途惑っている。

新人の英二なら御しやすい、そう普通は考えるだろう。
けれど思いがけない吉村の出現に、途惑っている。
それに気付かぬふうに、おおどかな口調で吉村は話していく。

「射撃姿勢ですか、私はあまり見た事がないので、比較が出来ないのですが。そんなに良いのですか?」
「ええ。ああいう姿勢はまだ、一人しか見た事がありませんでした。だから驚いて」
「そんなに稀なのですか、私はよく解らなくて。それだけの稀を、どちらでご覧に?」

釣りこまれるように頷いて、安本が言った。

「先日の全国警察けん銃射撃競技大会です、あの日の優勝者はまだ卒配したての新人で…」

言いかけて、ふっと安本の声が止まった。
けれど穏やかに微笑んで、吉村は訊いた。

「新人の方とは素晴らしい。その方のお名前は?」
「…え、」

安本が一瞬詰まった。
それに気付かないふうで、吉村は英二に微笑みかける。

「新人という事は、宮田くんの同期ですね。お知り合いですか?」

そろそろどうかな?
そんなふうに吉村の瞳が穏やかに促してくれた。
吉村医師は取調官としても有能かもしれない、少し英二は可笑しかった。

「はい、」

短く返事して、そっと少しだけ息を吐く。
それから英二は安本を真直ぐに見て、きれいに笑った。

「湯原と私は同じ教場で、一番大切な男です」

安本が息を呑んだのが解った。
表情は保っても口許が固い、動揺が見てとれる。
吉村のお蔭で先手をとれた、そのまま英二は口を開いた。

「安本さん。私は、あなたに会うために来ました」

安本は息を呑んだまま、英二を凝視している。
真直ぐに安本の目を見て、英二は話し始めた。

「私は思ったことしか言えません。だから率直にお話しさせて頂きます」
「…はい、」

短く安本が答えた。
さっきより幾分は落着いたようだが、かすかに瞳が揺れている。
英二は明確に言った。

「安本さん。あなたは湯原に、周太に罪を犯させるつもりですか?」
「…どういう意味ですか?」

安本の瞳が大きく揺れる。
善意の塊のような瞳には、すこし残酷な言い方だと自分でも思う。
けれど躊躇している時では今はない。

「食中毒だなど。そんな見え透いた嘘こそが、彼を追い詰めるからです」

動揺が安本の顔を掠める。
きっと安本は何も解っていない、そして悪意もなかった。
だからと言って英二は、手加減するつもりはない。

「あなたは、彼を見くびりすぎている。その事が彼を誤らせるでしょう。何かあったら全部、あなたの責任です」
「…何を見くびっていると、」
「あなたが彼を、嘘で固めようとした事ですよ」

静かに、けれど叩きつけるように英二は言った。

「彼は純粋な男です、すぐ人を信じる。けれど聡明で怜悧です、嘘などすぐに見抜きます」

安本が黙りこくろうとする。
何か言いたくない、言い難い行動を隠している。
たぶん英二の予想通り、余計な根回しをしたのだろう。
迷惑だと腹が立つ。けれど英二は、穏やかに微笑んで言った。

「あの店から彼を遠ざけたい理由、私から言った方が良いですか?」

俯いたままの安本を見つめる。
そして、安本の口が開いた。

「…君はどこまで知っているんだ」
「そうですね、」

微笑んだままで、英二は一息に、ゆっくりと告げた。

「13年前に殉職した当時、周太の父親は警備部に所属していました。
 あの日、彼に応援要請をして新宿へ招いたのは、同期である安本さんです。

 あの時に、犯人を追跡したパートナーも、安本さんでした。
 そして犯人逮捕をしたのも安本さんです。そのまま事件担当も、あなたになっている。

 それから、検案所での遺体引き渡しも、安本さんでした。

 犯人の刑事裁判では、あなたは情状酌量を申し出ています。
 そして犯人は、死刑は免れ、懲役13年となった。

 それから10年間ずっと。
 新宿署刑事と機動隊派遣と所属が変わっても、あなたは新宿から離れずに勤務し続けている。
 犯人の釈放は3年前です。その同時期に、安本さんは新宿を離れました。

 釈放された3年前の日、犯人はあの店へと弟子入りしました。
 そうして去年に主が亡くなって、今は彼が、あの店の主になっています」

英二が話す間、安本は黙って聴いていた。
隣の吉村は穏やかに、すこし褒めるような視線をくれながら、静かに聴いてくれていた。

「私が知っているのは、これでほぼ全部です」

微笑んで英二は、口を閉ざした。
安本の肩がかすかに震えている。きっと本当に意外だったのだろう。

卒業配置から1ヶ月1週間。
そういう周太なら、ベテランの自分には掌の上と思うだろう。

けれどこんなふうに、事実を羅列して突きつける人間が現われた。
それも周太と同じ、卒配されたての新人。
ベテランの自分が、そんな新人に暴かれて、驚きと悔しさが安本を覆っている。

同じ男で同じ警察官だから、その気持ちは英二にも解る。
かわいそうにも思う、けれど今は手加減なんて出来ない。多分時間が、あまりない。
追い詰めるなと思いながら、英二は言った。

「周太は13年間、ずっとこの事件を調べています」

大きく安本の目が開かれた。
きっと意外で、心底から驚き、怯えているのだろう。

安本の目には、周太は穏やかで優しい青年に映っている。
その通りだと思う、それが周太の本質だから。
けれどそれは甘すぎる。
周太は聡明で怜悧で優秀だ。そして優しいからこそ心を開かず、本心をきれいに隠してしまう。
そんな周太の心の底は、このお人好しな男では、数時間では見抜けない。

ややあって、苦しそうに安本が声を押し出した。

「…彼もこの全てを知っているのか?」
「いいえ、周太はまだ、ここまでは知りません。けれど」

ほっと英二はため息を吐いて、それから訊いた。

「最初の質問を繰り返します。安本さん、あなたは周太に罪を犯させるつもりですか?」
「君こそ、なぜそんなに調べる必要があるんだ?」

安本の目の底に怒りが掠める。
けれど英二は真直ぐ見詰めて、低く明確に言った。

「質問に答えて下さい、」

ベテランの安本の目が怯んだ。
きっと今、彼はショックだろう。新人にこんなふうに気押されて。
かわいそうだけれど、だって仕方無いと英二は思う。

だって、周太に対する想いの、強さも本気も違いすぎる。
この件に関しては、自分以上に真剣になれる人間が、いるわけがない。
全てを惜しまない気迫には、敵う人間などいない。
そういう余裕を、自分は自分で知っている。

たぶん今の自分の目は、拒絶して冷たい。
きれいな低い声を、英二は冷静に響かせた。

「私の理由は簡単で単純なことです、後回しでいい」

ゆっくりと安本の目が閉じる。視線の交錯に耐えられない、そんな疲労が漂った。
そろそろ話してくれるだろうか、やわらかく英二は微笑んだ。

「安本さん、あなたの行動は周太を追い詰め過ぎている。
 それが悪意なのか善意の過ちなのか。私には知る権利があります。
 だからお訊きします。あなたは罪を犯させたくて、嘘を吐いているのですか?」

安本の口が、苦しげに呟いた。

「違う。そんなつもりではなかった。私はただ、彼を守りたかった」

良かったと、英二は心で微笑んだ。
周太の父の友人に、悪意があるなど思いたくなかった。
けれど声は冷静なまま、はっきりと英二は言った。

「もし守るつもりなら、真実を告げるべきだった」

安本が唇を噛むのが見える。たぶん、自分の非を認め始めている。
このまま気づいてくれるといい。
すっと微笑んで、英二は続けた。

「安本さん。あなたは昨日、周太に余計な嘘を吐いた。
 彼を守りたくて、事件から遠ざけたかったのでしょう。
 けれど多分それは、逆にヒントを与える事になる。そうして彼を、追い詰めてしまうでしょう。
 それを防ぐ必要があります。だから正直に教えてください。他に、周太に、何かしたのではありませんか?」

重たい安本の口が開いた。

「…昼に、誘うように、周りの人間に頼んだが」

やっぱりそんな事だと思った。英二は心で舌打ちをした。
あの店へ行かせないようにする。その一番単純な方法は、他の店へ行かせればいい。
けれどそんな事では、周太は直ぐに気づくだろう。

「昼に誘わせる、そんな見え透いた手を?」

ぼそっと言った英二の声は、自分で思った以上に冷たい。
けれど仕方ない、こんな邪魔のされ方はもうたくさんだ。
このくらいは怒りが零れたって仕方無い、だって自分はまだ若い未熟者だ。

そして解っていながら、やっている。
こんな卒配1ヶ月少しの自分に、こんな言い方をベテラン刑事がされたら。
普通なら我慢ならないだろう、そして上下関係を利用して、部屋から出て逃げればいい。

けれど今は、吉村が一緒に座っている。怒って部屋から出るなんて出来やしない。
ゆすぶられて動揺して恥を晒しても、こんな新人の前で暴かれるしかない。

吉村の気遣いは、こうして英二を救けてくれている。
そっと心で礼をいいながら、英二は畳みかける。

「周太は普段、ひとりで昼食を摂っています。
 それが急に、続けて昼に誘われだしたら、当然、不思議に思うでしょう?
 きっと彼の事です、不思議に思って、相手に理由を尋ねます。
 まだ1度目は気づかない、あなたの善意だと素直に受ける。でも2度目できっと気づいて意図を知るでしょう」

どうしてと思う。
どうして本当に、善意なら正しいなど思っているのだろう。
こういう無神経な善意、無理解な善意、自己満足な善意。
それがいつも、周太の事を追い詰める。

純粋で人を疑えない、きれいな穏やかな周太の心。
けれど聡明で怜悧で、真直ぐな瞳で真実に気づいてしまう。
そうして気づかされた真実に、純粋な心が傷ついて孤独へ追い込まれていく。

やさしい嘘なんて、いらない。



(to be continued)



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黎風act1.支柱―side story「陽はまた昇る」

2011-10-27 21:48:46 | 陽はまた昇るside story

いちばん昏くても、




黎風act1.支柱―side story「陽はまた昇る」

飲み会の翌日、英二は非番だった。
すこしだけ遅く起きて、寝起きのシャツ姿のままで食堂へ向かう。
入れ違いで、藤岡と国村に入口で会った。
ちょっとごめんと藤岡に声をかけ、国村は英二の顔を覗きこんだ。

「あのさ、なんで昨夜は電話しろなんてメールくれた?」

ああ、と英二は笑って答えた。

「ごめん、中座の口実が欲しかったんだ。俺、嘘は苦手だからさ」

昨夜の飲み会で、中座する口実が欲しかった。
あの店のことを確認したくて、姉に電話するためだった。
けれど上手い嘘なんて、英二には吐けない。
それで本当に、先輩の国村に電話をかけさせて、英二は中座した。

高卒の国村は年次は先輩だけれど、同じ年の気安さもあって仲が良い。
国村が、少し呆れたように言った。

「用件がさ、もいだ柿どうするの。ってさ、笑ったよ俺」
「うん。それも、本当に聴きたかったし」

国村は昨日は非番で、青年団での柿もぎだった。
庭や畑の柿を目当てに、ツキノワグマが里に降りると人身事故が怖い。
その予防のために柿を採ると聞いた。
そして後になって、その柿の行末がふと気になった。

答えは「干し柿にする」だった。

出来上がったら町の人へ配る、季節の風物なのだとか。
青梅署でも配られるらしい。

けれど国村の細い目は、納得していない。
国村は賢い上に勘が良いところがある。そして、ふっと言った。

「雲取山の電話に、大事なことだね?」

雲取山訓練で電話の繋がる場所を、国村は英二に教えてくれた。
理由は「電話かけたい人いるんでしょ」だった。
それ以来こんな言い回しで、国村は訊いてくれる。
英二は微笑んで答えた。

「まあね、」

ふうんと言って、国村は英二の目を見た。
国村の細い目が、少しだけ顰められて、それから少し笑った、

「今晩のおかず、鶏の味噌漬けだってさ」
「まじ?あれ旨いよな、」

嬉しそうに英二が笑うと、国村は細い目を微笑ませた。

「明日の訓練は5時集合だしね、今日は早く帰ってこいよ」

何か気づいているのだなと英二は思った。
自分と同じ年だけれど、国村は一流クライマーの素質を嘱望されている。
山に生きる人間は純粋で、どこか鋭い。
御岳駐在所の同僚でもある国村には、今日の外出も告げてある。

「おう、ちゃんと早く帰って飯食うよ」
「じゃ、また夕飯にね」

さらっと笑って国村は言ってくれた。
こういう距離感が絶妙で、国村はいい奴だなと思える。
またなと笑ってから入った食堂は、明るい光が眩しかった。

昨日は帰ってから風呂を済ませて、周太に電話した。
コール1つですぐ繋がって、待っていた気配が嬉しかった。
そして、いつもより困ったような気配が、かわいかった。

「…あんまり皆の前で、…いじめないでくれ」

恥ずかしそうな声で言われて、逆にテンションが上がってしまった。
なんだっていつもこんなに、初々しいのだろう。
嬉しくなって、つい、また言ってしまった。

「いじめない。可愛がるのは止められないけど」

本音をまたつい言ってしまった。
そうしたらまた、なんだか可愛い口調で、一息に罵られた。

「もうばかみやたほんとうにおれこまったんだから」

罵られたけど、かわいいから嫌じゃない。
あの隣が何してくれたってもう、全て喜びだから仕方ない。
こういう自分は馬鹿だなあと、自分でも思う。

昨日は姉と周太は話していたようだった。
ふたりとも良い笑顔だったから、楽しい話だったのだろう。
あの姉はきっと、周太を受けとめて微笑んでくれた。

たぶん姉はすこし、何か気付いているだろう。
それでも姉ならば、判断を間違わないから安心できる。

けれどあの姉、関根と親しくなっているとはね。
姉と関根の顔を思い出しながら、英二はちょっと微笑んだ。
けっこうお似合いだなと思う。
いつか、姉の相手になる人には、自分達の関係を告げざるを得ない。
けれどもし関根だったなら、あいつなら大丈夫かなと思える。

昨夜は3時間ほど、あの隣の顔を見られた。
それでも、いつもより少し長く話してから、電話をきった。
それから、買ってきた本全冊の目次チェックと、ポイントの斜め読みをした。
その後は明け方まで、ファイルを眺めた。

澤野の協力で作ることが出来た、13年前の事件のファイル。
周太には、ここまでの情報はまだ無い。

周太は優しすぎて、すぐに遠慮する癖がある。
甘えること、頼ることは、相手の迷惑だろうと気遣ってしまう。
だから13年前の事件についても、自力でしか調べられない。

けれど英二は、目的の為なら何でも利用する。
直情的で、思ったことしか言えないし、行動できない。遠慮もしない。
だからいつも、率直に人と接している。
そうしていつも、誰かに協力を願っては、目的を果たすことが出来る。

周太の方が自分より、ずっと聡明で怜悧だ。
けれど周太は、純粋で繊細すぎて、不器用過ぎる。
けれど自分は、正直すぎる分だけ図太くて、狡い。そして能力は要領が良い。

だからきっと自分は、周太より先手を打つことが出来る。この先もずっと、必ず。
そうしてきっとずっと、周太を手放す事なく隣にいられるだろう。
そんなふうに英二は、自分を信じている。

昨夜ずっと眺めていた、13年前の事件のファイル。
英二が自分で調べた情報と、澤野のPCから閲覧した情報。
当時の経過から現況の事実、そのほとんどを網羅出来ている。
こういう作業は、法学部在学時代に慣れていた。
この程度の情報収集と分析が出来なければ、例えば弁護士なら裁判も出来ない。

安本正明。
周太の父の同期で、13年前の事件の担当刑事。
彼の履歴と経歴、それから犯人の履歴と現況。
13年前の事件の裁判記録、懲役中の犯人の素行と、安本の行動。
今は、全てが頭に入っている。

そうした事実の羅列の底に、どんな真実があるのか。
そしてその真実の向こうには、どんな想いが隠れているのだろう。
それを英二は知りたい。

いつものように、大盛の丼飯を3杯食べると、英二は自室へ戻った。
いつものように着替える。
シャツを脱ぐときに、長めの革チョーカに結んだ鍵に触れた。
周太の実家の合鍵を、こうして肌身離さず持っている。

この鍵の元の持ち主は、周太の父だった。
ひとりの警察官として男として、尊敬する人の鍵。
他人から見たらありふれた鍵でも、英二には宝物だった。

英二は、制服に着替えた。
昨日のうちに、澤野に約束を取りつけてある。
これから武蔵野警察署の射撃訓練に、連れて行ってもらう。

武蔵野警察署射撃場は、多摩地域では調布署に次ぐ二番目の射撃場になる。
2004年に新造された庁舎は設備も新しい。
そのため、近隣警察署からも射撃訓練に利用している。

卒業配置以来、英二はまともに射撃訓練をしていない。
それを告げると、澤野が声を掛けてくれた。

そして、武蔵野警察署には安本正明がいる。

安本は現在、武蔵野警察署で指導員として勤務している。
指導担当は事情聴取と、射撃だった。

安本が以前の所属した部署の一つは、第七機動隊の第1中隊レンジャー小隊。
現在の銃器対策レンジャーだった。
その同時期に重複して、周太の父も所属している。
そして当時の二人は、射撃の特別訓練員だった。
そんな経歴から、安本は射撃指導員になっている。

自分は幸運だと、英二は思う。
奥多摩地域に配属になり、その射撃訓練場に安本がいる。
そしてこんなふうに、表向きの理由も整えて、彼に会いにいく事が出来る。
こんなふうに、運命が味方をしてくれるなら、きっと自分の願いはかなうだろう。
そしてきっと周太の父、彼の意思も守ってくれている。

デスクから1冊のファイルを英二は手に取った。
救急法など医療系ファイルになる。
携行品引きとりへ行く前に、吉村医師の診察室へ寄るつもりだった。
昨日の遭難救助の処置についてと、買った本について訊きたい。

ノックして扉を開けると、朝陽がさした白い診察室は明るんで温かい。
けれどこの温かさは、吉村の人柄もあるなと英二は思う。

「おはようございます、」
「お、宮田くん。おはよう」

吉村医師は今日も元気そうに、診察道具の消毒をしていた。
今朝はまだ、吉村はネクタイをしていない。
神経科の医師は首を絞められるのを警戒し、ネクタイはしない。
それと同じ理由で、警察医も留置人の診察ではネクタイを外す。

きっと留置人の診察を、終えたばかりなのだろう。
英二はファイルをデスクへ置くと、洗面台で手の消毒を始めた。

「手伝わせて頂いて、よろしいですか」
「ああ、助かるよ」

吉村を手伝って、一緒に器具の消毒を始めた。
手を動かしながら、昨日買ってきた本について質問を始める。
腕まわりの動き方を訊いてみたかった。

「腕橈骨筋、長橈側手根伸筋、上腕二頭筋、上腕三頭筋、
 指伸筋、尺側手根伸筋、短橈側手根伸筋、橈側手根屈筋、円回内筋。この9つであっていますか?」

「そうそう、よく覚えましたね」
「9つが連動するって、すごい仕組みですよね」

笑いながら吉村が答えてくれる。

「その連動には、尺骨は非常に重要です。それから橈骨」
「尺骨と橈骨、前腕の骨ですよね、」
「そう。ヒジから小指側の手首まで、腕を触ってごらん。骨が繋がっているのが解るだろう?」
「ここの固いのですか?」
「そうだ、それが尺骨です。橈骨は腕橈骨筋の真裏にあります。この2本の骨がX状に、交差するように動く」

消毒した器具をしまいながら、吉村が人体図を指さしてくれる。
片付けながら英二も、吉村の指先を目で追った。

「この二本の骨です。これを、腕橈骨筋やその他の筋肉で動かすことで、手首を回転させている」
「はい、」

こんなふうによく、英二は吉村の手伝いをさせてもらう。
青梅警察署診療室では、全てを吉村がひとりで対応する。
英二にはまだ、救急法初級免許と機動救助技能検定初級しかない。
けれど人手が足りないから、堂々と手伝わせてもらっている。

「今のところを確認させて下さい」
「はい、どうぞ」

持ってきたファイルで確認しながら、訊いた事をメモする。
それから昨日の救急処置を確認して、吉村にアドバイスをもらった。
それもまたメモをとっておく。
こうして教えてもらえる事は、英二にとって大切だった。

「良く解りました、ありがとうございました」

微笑んでペンを置いた英二を、吉村が眺めた。
今は9時、出勤時間は過ぎている。
休日で無ければ英二は、この時間ここにいない。
たぶん制服姿を訊かれるかな。そう思いながら英二は吉村を見た。

「今日は非番でしたよね、なぜ制服姿なのですか?」
「武蔵野警察署に、これから行きます」

やっぱり訊かれたな。英二は答えながら微笑んだ。
英二の目を見て、吉村は訊いてくれる。

「用事は、なんですか?」

いつものように温かい穏やかな眼差し。
けれど、すこし心配そうだった。たぶん、何か気づいてくれている。

吉村は、次男を遭難事故で亡くしている。
山好きの吉村に似て、幼い頃からの山ヤだった。
国立医大に入学した彼は、休日には単独でも登山を楽しんだ。
そして秋でも厳寒の高山で、不運な滑落事故に遭い、足の骨折で動けないまま凍死した。

―救急セットを持たせていたら。応急処置で息子はなんとか、下山出来たのじゃないか

その痛切な後悔の底から、吉村は警察医の道に立った。
この診察室のデスクには、写真の彼が山を背景に微笑んでいる。
亡くなった時は医学部5回生、今の英二と同じ年だった。

吉村と初めて話したのは、縊死自殺者の死体見分の時だった。
吉村の言葉のお蔭で、英二は遺体への敬意を学んだ。
「死体見分の君の姿勢が私は嬉しかった。今時の若者にも、こういう真摯な男がいるのだと」
吉村はそう言って、以来、英二と親しくしてくれる。

そして初めての雲取山訓練の朝、専用の救急用具を英二に譲った。
「君に無事戻って欲しい私の、お節介な我儘だよ」
亡くなった息子へ向けたかった気遣いを、そう言って英二に与えてくれた。

英二は、周太の隣を選んだ事で、実の母親を捨てた。
だからこそ、吉村医師の想いは心から嬉しくて、あたたかい。
この医師を英二は好きだった、本当の事を全て告げたいと思う。

「射撃訓練と、人に会いに行きます」
「そう、人に。なんのために?」

微笑んで吉村が訊いてくれる。
吉村は青梅署警察医だ、警察官のカウンセラーも行う。
何か澤野から聞いたのかもしれない。それで良かったと思う。
英二は率直に答えた。

「13年前の事件の為に、悲しい人生を作りたくない。そのために会いに行きます」

そうかと頷いて吉村は、ゆっくりと英二の目を覗きこんだ。
真直ぐ英二を見つめながら、吉村は口を開いた。

「澤野くんから、すこしだけ聴いています」

私は君たち警察官のカウンセラーでもあるからね。
そう言いながら、書類ケースに手を伸ばして微笑んだ。

「私も一緒に行くよ、」

意外な申し出だった。
驚いて吉村を見つめると、実はねと教えてくれた。

「以前、医科大の付属病院に勤務していた事は話しましたよね。その時に、彼と知り合っています」
「誰に会うのか、お解りなんですね」

微笑んで吉村は答えた。

「宮田くんが『13年前の事件』と教えてくれました。それから澤野くんの話と、武蔵野署。これで推測が出来ます」

医科大付属病院は新宿にある。
故郷の奥多摩で開業し警察医になる前、吉村は10年前までそこにいた。
そして安本は武蔵野警察署へ3年前に着任するまで、新宿にいた。
新宿署所属刑事だった時期と機動隊派遣で新宿にいた時期がある。
どちらにしても、勤務地が新宿なことは変わらない。

言われてみれば、可能性に気づける事だった。
けれど英二にとって盲点だった。
自分はまだまだ甘い、そっと英二は微笑んだ。

「武蔵野警察署の医師から、頼まれている資料もある。届けがてら、彼に面会を申し出ましょう」

言いながら、吉村は書類をケースへとしまっていく。
吉村の申し出はありがたい。
吉村の為なら安本は、自然に面会を受けるだろう。

けれど、吉村の事は巻き込みたくない。
吉村が自分によせてくれる好意。
それは、亡くした息子への気遣いを、代りに向けてくれる真心だと知っている。
その底にある痛切な悲しみと、あたたかな温もり。それを全て英二は解っている。
そういう真心は、利用したくない。英二は口を開いた。

「いいえ、ご遠慮させて下さい。先生には、ご迷惑かけたくありません」
「いいんだ、甘えてほしい」

でもと言いかけた英二に、静かに吉村は笑いかけてくれる。
これは勝手な気持ちだけれど、そう言って吉村が訊いた。

「よく私と、ロビーで会うでしょう?」
「はい、」

訓練や練習の日も、御岳山巡回に行く通常勤務でも。
吉村とロビーで会う事が、確かに多い。
そんな時はいつも、自販機のコーヒーを二人で飲んで、それから吉村は帰宅する。

「あれはね、君を迎えに行っているんだ」

迷惑だったら悪いねと微笑んで、吉村が話し始めた。

「山から帰ってくる君を見るたびにね、息子が帰って来てくれたように、想ってしまうんです。
 妻に似て、我が息子ながらハンサムでね。同じ山ヤだからかな、君と、どこか雰囲気が似ている」

英二はデスクの写真を見た。
明るい朝の光の中で、写真の彼が山を背景に微笑んでいる。
医学部5回生。今の英二と同じ年の、彼の笑顔。
快活で穏やかで、健やかな笑顔が、きれいだった。

「君は今朝、鏡を見たかい?」

そういえばあまり見ていない。
いいえと答えると、そうだろうねと吉村が頷いた。

「今朝の君の目は、覚悟をしている。だから私は放っておけない」

他人が見ても気づかないかもしれないが。
そう言って吉村は、英二の目を真直ぐに見つめて、微笑んでくれた。

「君の事は信用しています。
 けれど、そんな目をしている君を、近くで見守っていたい。
 だからどうか、一緒に行かせて欲しい。ただ見送って後悔するのは、あの一度だけでいい」

どうしてこんなに、想ってもらえるのだろう。
自分は身勝手で、思ったことしか言えなくて出来ない。
そうして母親まで傷つけて、それでも後悔が出来ない程に我儘で。
唯ひとりの事だけしか考えられない、その為なら何をしてもいいとすら思っている。

そんな自分にこんなふうに、真心を向けてくれる。
嬉しくて、ありがたくて。
吉村には、自分の想いを、知ってほしいと思えた。
英二は口を開いた。

「俺には、大切なひとがいます」
「うん、…素晴らしいな」

吉村の笑顔が温かい。
その笑顔を嬉しいと思いながら、きれいに笑って英二は言った。

「その人を守る為だけに、安本さんに会いに行きます」

そうかと微笑んで、吉村が言ってくれた。

「宮田くん。君は今とても、いい顔をしている。
 きれいな心と美しい想いが表われた、とてもいい顔です。
 私は警察医を10年やって来た。だから、私にはきちんと解ります。君の覚悟と目的は、きれいで正しい事だ」

「はい、」

真直ぐに見つめて、英二は笑った。
そして吉村は書類ケースを閉じながら、訊いてくれた。

「君は警察官として会いにいく?それとも宮田英二として、ひとりの男として会いにいく?」

そんなことは、とっくに決まっている。
きれいな低い声で、英二は短く応えた。

「全てです」
「じゃあ、制服姿は相応しいね」

そんなふうに吉村は微笑んでくれた。

澤野とは、青梅署ロビーで待ち合わせた。
吉村の同行を快く頷いて、3人一緒に澤野の車に乗った。
車中で1時間ほど話し、11時前に到着した。

武蔵野警察署庁舎に着いて、吉村は約束の医師の元へ向かった。
見送ってから、英二は澤野に訊いた。

「中庭へと挨拶に行っても、よろしいですか」
「宮田、よく知っていたな」

澤野は微笑んで、英二を案内してくれた。

武蔵野警察署の中庭には、若い警察官の胸像が立っている。
銃に撃たれて殉職した、若い巡査の胸像だった。
ここに赴任した警察官は、この胸像に任務の無事を祈る事から勤務を始める。

昭和31年9月23日の早朝。
不審な乗用車の男を職務質問しようとした彼は、短銃で撃たれ殉職した。
彼は22歳だった。

この胸像の先輩は、自分と同じ年頃で、同じ世界で任務に殉じた。
そして吉村の息子が亡くなったのも、同じ年齢だった。

そっと長い指で、英二は自分のホルスターに触れた。
拳銃を持つ警察官として危険の中に、自分は生きている。
そして吉村の息子を眠らせた山に、山ヤとして自分は生きている。

けれど、自分は絶対に死なない警察官で山ヤでいる。
あの隣との約束を、必ず自分は守って生きる。その為に今ここに立っている。

若い警察官の胸像は、秋の陽射にあたたかく佇んでいる。
「殉職」任務の為に死ぬこと。
それは、殺した犯人がいると言う現実。
その現実に周太は、13年間苦しみ続けている。
この青年の家族も、周太と同じように苦しんだろう。

―幸せな人生が幸せな死になるんだ
 だから大丈夫、おじいさんは今、きっと、幸せでいるよ

吉村医師が、田中の孫の秀介に言った言葉。
大切な人を見送った時、この言葉はどれだけ救いになるだろう。
そして、逝った本人にとっても。

この青年の死は、早すぎ、残酷だった。
けれど、せめてどうか、幸せな眠りであってほしい。

胸像の瞳を、英二は真直ぐ見つめた。
そして静かに右腕を挙げて、敬礼をおくった。


(to be continued)

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光陰、輪郭 act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-26 22:20:45 | 陽はまた昇るanother,side story

照らしてくれる、光のもとで




光陰、輪郭 act.2―another,side story「陽はまた昇る」

約束の時間に20分ほど遅れた。
関根と瀬尾は先に呑んでくれている。
楽しそうな雰囲気に、なんだか周太は安心した。

「おう、久しぶり」

相変わらず快活に笑いながら、関根が瀬尾の隣へと移動した。
なんでわざわざ席を動くのだろう。
そう思っていたら、宮田に奥の席へと座らせられた。
それから当然という顔で、隣に宮田が座ってくれた。

「元気そうだな、二人とも」
「ああ、お前らも元気そうだな」

笑いながら、関根がメニューを渡してくれた。

「なに飲む?注文するよ」
「あ、ありがとう、」

メールや電話はするけれど、二人に会うのは卒業式以来だった。
そして、隣と、こうなってから、会うのは初めてだった。
ただでさえ緊張するのに、さっきあんなことをされたばかり。
なんとなく二人の顔を見られない。

「じゃ、コロナビール2つ」

勝手に宮田が注文してしまった。まだ考えていたのに。
でも、本当は、それ飲んでみようと思っていたけれど。
どうしていつも解るのだろう。ライムも好きだって、知っているのだろうか。

「おう、あと食いもん頼もうよ」
「あ、俺、すごい食うけど、いい?」

そんな会話を関根と宮田が交わしている。
そう、ほんと、宮田は最近すごい食べるよ。
そんなこと独りごとみたいに、心で呟く自分がいる。
こういうのは、なんだか幸せだなと思う。

「じゃ、とりあえずこんだけ注文するから。足りなかったらまた言って」

気軽に店員に声かけて、関根が注文してくれる。
関根はこういう所が偉いなと思う。
それから、相変わらずの優しい笑顔で、瀬尾が話しかけてくれた。

「相変わらず仲良しだね、宮田くんと湯原くん」

どきんと心が跳ね上がる。
仲良いけれど、でも、相変わらずと言えるのだろうか。
純真そうな瀬尾の笑顔が、余計に緊張させてくれる。
けれど隣は、きれいに笑って答えた。

「ああ。卒業前より仲良いよ」

もうきっと赤くなっている。
それを隣はきっと喜んでいるだろう。
どうしていつもこうなのだろう、それもこんな場所で。

「仲良いのは嬉しいよね、」

相変わらず優しい笑顔で、瀬尾が答えてくれた。
なんだかそれも、逆に気恥ずかしい。
おかげで何を話していいのか、全然頭に浮かばない。
話したいこと、聞きたいこと、色々あったはずなのに。
そんなこと考えていたら、笑顔で関根が言った。

「なんかさ、湯原すっかり、きれいになっちゃったな」
「…は、?」

呆気にとられた声が出た。
どうしてそんなこと言うのだろう。
なんだかよく解らなくていたら、前から瀬尾が微笑んでくれた。

「うん、湯原くん雰囲気良い。すごく、きれいになった」

髪型が変わったのもあるけど。なんて、笑顔で瀬尾が言ってくる。
無垢な瀬尾の笑顔にまで、こんなこと言われるなんて。
そして隣がなに考えているのか、解ってしまうのが今は嫌だ。
それなのに、きれいに笑って隣は言った。

「ずっと俺が一緒にいるんだから、当然だろ」

ほら、言った。
たぶん言うのだろうなと思ってはいた。
けれど本当に言うなんて。
やっぱりみやたはばかなんだ。

「そっかあ、」
「へえ、なんだか男前だなあ、宮田」
「だって俺、男前じゃん?」

瀬尾は素直に笑顔で返事するし。
関根もなんだか感心して見ているし。
なんだか3人みんなして、俺を肴にしていない?

もう早く、飲むものでも来てほしい。
なにも言えずに3人を眺めていたら、瀬尾が話しかけてくれた。

「湯原くん、服の趣味も変ったね。前よりずっと似合ってる」
「…あ、これは」

言いかけて、隣がさらっと口を挟んだ。

「だって俺が選んだのだから、似合うの当たり前だろ」

確かに本当のこと。
でも待って、ちょっと恥ずかしい。こういうの慣れていない。

「あ、通りでね。なんか垢抜けたって俺も思った」
「すごく似合ってるよ。宮田くんて、湯原くんの事、よく見てるんだね」

二人ともあまり、宮田の話に乗らないで。
そう言いたいけれど、口を挟む勇気なんて無い。
そろそろきっと、また、隣が何か言いだしてしまう。
なんて思っている傍から、きれいな口許を綻ばせた。

「うん、いちばん俺が、周太のこと見ているよ」

もうきっといま、真っ赤になっている。

宮田は思ったことしか言わないし、やらない。
だからいつも素直で、健やかな心のままに笑ってくれる。
そういうところが、好きだ。
けれど、こんなところで、こんなふうに言われたら。

お願い二人とも、もうこれ以上は勘弁して。
宮田の言うことは、ちょっと横に置いて他の話をしてほしい。

それなのに関根は、快活に笑って言ってしまった。

「ほんと宮田、湯原のこと大好きだよな」
「ああ、大好きだけど?」

きれいな笑顔で、宮田が笑う。
本当はこの顔、大好きなんだけど。今はちょっと憎たらしい。

こういうことになるなんて、もうどういうことなのだろう。
そう思っていたら、コロナビール?がやってきた。
相変わらずの快活な笑顔で、関根が手渡してくれた。

「はい、湯原」
「あ、ありがと」

受取ろうと右腕を伸ばしたら、袖がすこし下がってしまった。
あわい水色のシャツから、赤い色がかすかに覗く。
あれ?と瀬尾が見て、訊かれてしまった。

「湯原くん、腕に痣なんてあったっけ?」
「…あ、」

打ち身、って言おうと思った。
けれどさっきの宮田の怒った姿に、口の動きを封じられる。
どうしようと思っていたら、隣に顔を覗きこまれた。

「最近だよな、その痣できたの」
「…え、あ、」

こんなのって酷い。
さっきの事をそんなにも、怒っているのだろうか。
それが心配になって、あんまり強気に出られない。
それなのに、きれいに笑って宮田は言ってくれた。

「俺はその痣、すごくきれいで好きだな」

それはそうだろうあたりまえだなんてこというんだ。
もう本当に、勘弁してほしい。

でも、そんなふうに、堂々と言われるのは、本当は嬉しい。
胸張っていいんだと、いつもそうして笑ってくれる。
この隣が好きだと、幸せだと思える。

けれどやっぱり、この場は恥ずかしい。
今夜はずっとこんなだろうか。
そう思うと居たたまれなくて、思わず一気に飲み干してしまった。

「あ、一気飲みしちゃったね。湯原くん」

のど乾くよねと優しく瀬尾が笑って、関根に追加注文をお願いしてくれる。
瀬尾のこういうところは、和めていいなと思う。
隣はすこし驚いている。それがなんだか小気味いい。

それから、ちょっと気分が良くなった。
なんとなく話しやすくなって、緊張がすこし楽になっている。

瀬尾は、似顔絵捜査官の講習をずっと続けていた。
スケッチブックをとりだして、今も描きながら話してくれる。
関根は、白バイ隊を目指している。
狭き門が余計に、チャレンジしがいあるよなと、相変わらず前向きで明るい。

それから松岡と上野と内山の近況も、関根は話してくれた。
優等生で東大出の内山と、元ヤンキーで走り屋だった関根は仲が良い。
最初の外泊日に居残り組をした、それがきっかけで仲良くなっている。
自分と関根もそうだった。

宮田が最初に隣に来て、それから関根や瀬尾と仲良くなれた。
こんなふうに、友達と呼べる存在と、他愛ない話をする。
普通の事なのだろうけれど、周太には得難くて、そして嬉しかった。

もしこの隣と出会えなかったら、自分は今きっと、孤独の底で泣いている。
脱走の夜からずっと、きれいな笑顔でいつも、隣にいてくれた。
そして今はもう、この隣だけが自分の居場所と、周太も思っている。
本当に大切で、好きだ。たまに本当に困らされるけれど。

ちょっと先輩から電話と笑って、宮田がすこし席を外した。
その背中を見送って、関根が微笑んだ。

「宮田さ、なんか背中が格好よくなったな」
「うん、僕も思った」

瀬尾も頷いて、ふたりして宮田の背中を見送っている。
なんだか気恥ずかしい。周太はグラスに口をつけた。
さっき宮田が選んでくれた、オレンジ色のこれは、おいしい。
オレンジブロッサム?とか言っていた。

「湯原くん、どのくらい宮田くんと会ってるの?」

あやうく吹きかけた。
呑みこんだ後で良かった。でもこの質問どうしよう。
仕事の職務質問は、最近すっかり上手くなったのに。
こういうことは本当に、言葉がちっとも浮かばない。

とりあえず何か言わないと。
そう思っていたら、急に横から抱きつかれた。

「ほんとうに湯原くんだ、嬉しい。元気?」

見たら、宮田の姉だった。
隣とそっくりの、きれいな切長い目が明るい。
懐かしくて、そして嬉しい。周太は微笑んだ。

「お久しぶりです。会えて、俺も嬉しいです」

宮田と少し似ている、率直な雰囲気が好きだなと思う。
自分達のことも、真直ぐ見つめて肯定してくれたと聞いている。
今の態度からもそれが解って、周太は嬉しかった。

「姉ちゃん、そこは俺の席だからどいて」

ちょっと不機嫌な声が、上から降ってきた。
見上げると、声は低いのに、宮田は笑っている。

「なによケチ。ちょっと位いいでしょ、小さい男ね」
「小さい男でいいから早く代って。ほら、勝手に触んないでよ」

お互い言葉はきついのに、二人とも笑顔はきれいだった。
ほんとうに絵になる、きれいな姉弟だなと改めて思う。
でもどうしてお姉さんが、ここにいるのだろう?

「ちょうど近くで、軽く飲んでたの」
「遠くで飲んでいたら、良かったのに」

笑顔で宮田が憎まれ口を言う。
きれいな長い指で弟を小突いて、彼女は二人に会釈した。

「ほら英二、早く紹介してよ」
「あ、うちの姉。俺らの一歳上」

仕方ないなという顔で、笑いながら宮田が言った。
はじめましてと穏やかに瀬尾は微笑んだ。
けれど関根は、びっくりした顔で彼女を見つめている。

どうしたのだろう。
普段は快活な関根らしくない様子に、みんな関根の顔を見た。

「あら、」

彼女は小首を傾げて、それから笑った。

「いつもの、おまわりさんですね」

言われて、関根が笑った。

「やっぱり、いつもの方でしたか」

答える関根の笑顔が、なんだかいつもと少し違う。
快活な雰囲気はいつもと同じだけれど。
すこし仕事の雰囲気の、凛々しい顔になっている。

「英二のお友達だったんですね」
「宮田のお姉さんだとは、驚きました」

そういえば関根は電話のたびに話してくれた。
最初は、落し物を届けてくれた人が、きれいだった。
次は、落し物を届けてくれた、きれいな人に、偶然に道であった。
それから次は、買物に行ったコンビニで、彼女とまた会った。
そんな話をもう何回、聞いたかちょっと覚えていない。

そういえばと周太は関根に訊いた。
たしか関根の卒配先は、世田谷区だった。

「そういえば関根、第三方面だったよな」
「おう、成城署だけど」

聞いて宮田が呆れたような声を出した。

「なんだ、うちの実家の辺りか。どこの交番?」
「ああ、成城交番」
「なんだ、駅前か」

そうかあと宮田が驚いている。
同じ世田谷出身の瀬尾は知っていた。実家へ帰るたびに声をかけるらしい。
けれど、宮田は卒配後、まだ一度も実家へ帰っていない。
その理由は自分だと解っている。それが周太は悲しい。
少し俯けた顔に、宮田の姉が笑いかけてくれた

「湯原くん、風に当たるのつき合って?」

一緒に店のデッキへと出た。
11月の夜は風が冷たい、けれど宮田に贈られたマフラーが、温かかった。
ストールを風に遊ばせながら、宮田の姉が笑う。

「湯原くん、きれいになったね」
「え、あの」

さっきも皆に言われて困った。
また彼女にも言われてしまった、そんなに自分は変わったのだろうか。
でも、変わったと本当は、自分でも思う。
鏡の中の顔は前より明るい、子供の頃の顔を想いださせる。

「英二のお蔭って、思っても良いのかな」

真直ぐ目を見つめて、彼女が訊いてくれる。
このひとには嘘をつきたくない。
恥ずかしかったけれど、微笑んで周太は答えた。

「はい。俺を幸せにしてくれる、そのお蔭です」
「良かった、」

嬉しそうに彼女が笑う。
そんなふうに笑ってもらえて、周太は嬉しかった。

けれど、と周太は思う。
彼女の母親を、傷つけているのも自分。
それを謝りたい、周太は口を開いた。

「でも、俺の為に、ごめんなさい」

上手く言えない。なんて言えば伝わるのだろう。
けれど彼女は笑って言ってくれた。

「母のことは気にしないで。私も父も大丈夫、湯原くんのこと好きよ」
「そう言ってもらえるのは、嬉しいです。でも、お母さん…」

いいのよと微笑んで、彼女が訊いてくれる。

「じゃあ、英二と離れられるの?」
「できません、」

即答してしまって、周太は自分で驚いた。
けれどそれは本音。きっともう離されたら、自分は壊れてしまうと知っている。
こんな自分は身勝手で、狡い。
それなのに宮田の姉は、とてもきれいに笑って、言ってくれた。

「それって、とても素敵なことよ。だからお願い、胸張ってほしい」
「…でも、」
「ほんとうのことよ。唯一つの居場所を見つけられる。とてもきれいで、素敵な事よ」

ほんとうにそうだと思う。
大切な場所だった父、それを失った自分には、その意味が解る。
ちょと座ろうかとデッキのベンチに腰掛けて、彼女は話し始めた。

「英二はね、見た目があんなでしょ?だから女の子にも恋愛にも不自由しなかったわ。
 けれどそれが、逆に孤独になっていたの。
 お洒落で自慢のできるイケメンで、とりあえず優しい男。それだけが彼女達の目的だったのね。
 ほんとうの英二を見つめて、それで好きになってくれる。そういう人に英二は、ずっと会えなかったの」

なんだか解るなと周太は思った。
出会った頃の宮田は、端正な顔で自分を隠して、気楽なフリをしていた。
周太自身、それが最初は嫌いで、宮田をそういう人間なのだと思っていた。

「でもほんとうの英二は、そうじゃないでしょう?
 直情的で一途で物堅くて、いい加減なことが出来ない。
 きれいで素直で健やかな心は、繊細で、人の気持ちが解りすぎる。
 思ったことしか言えないし、思った通りにしか行動できない。穏やかで静かな空気が好き。
 けれど、それは少し生き難くて。だから英二は、要領良く生きるフリをするようになっていったの、」

彼女が話してくれる、あの隣。
それは周太も思う事だった。

「でも気づいたのね。自分を偽る方が、人間は生き難いって。
 そして素直に、英二は生きるようになったわ。それからすごく、佳い男になっていってる。
 それは全て湯原くんのお蔭だってね、きれいに笑って胸張って、英二は私達家族に言ってくれたわ」

ほっと彼女がついた息が、夜に白くとける。
冷たい風のなか、温かく彼女は微笑んだ。

「英二ね、ほんとうに湯原くんを大切に想ってるわ。
 全てをかけて、湯原くんを大好きで、幸せにしたくて今を生きている。
 今日、顔を見て、それが私には解ったの。そして嬉しかった。英二は幸せなんだな、それが解って嬉しかったの」

嬉しそうに彼女が微笑んでくれる。
あの隣とそっくりで、けれど違う、きれいな切長い目が笑ってくれる。

「だからお願いよ、英二を大切にして頂戴。離れずに幸せにしてやって」

そんなふうに言われて、嬉しい。
あの隣は、自分を変えて幸せにしてくれた。
自分も同じように、あの隣を幸せに出来たらいい。
上手く言えないけれど、伝えたい。周太は唇を開いた。

「俺も、大好きです。もう、離れられないんです。そして幸せです。だから大切にします」

きれいな明るい笑顔が笑う。

「ありがとう、」

明るいきれいな声で、彼女は言った。

「会うのは今が2度目だけれど。あなたのこと、私は大好きよ。
 だからもう、湯原くんをもう一人の弟だと思ってるわ。
 だからいつでも、私の所にも帰ってきて。あなたの居場所はちゃんと、ここでも待っているから」

ほんとうに周太は嬉しかった。
自分がこんなふうに、受け入れてもらえるなんて、思っていなかった。
このひとも大切にしたい。そっと周太は彼女の幸せを祈りながら、微笑んだ。

「ありがとうございます。俺も、お姉さんのこと大好きです」

22時過ぎになって、帰路についた。
関根は宮田の姉を送って帰ると、一緒に私鉄の改札を通っていった。
瀬尾は別れ際、きれいなファイルを一つくれた。

「これね、プレゼントに」

開いてみると、きれいなペン画が現れた。瀬尾はまた上達している。
この隣と周太の穏やかで幸せそうな笑顔の肖像、二人寄り添う姿が優しい温かなタッチで描かれていた。
いつのまに描いてくれたのだろう?嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ありがとう、瀬尾。大切にする」
「僕はね、ふたりの姿を描くの好きなんだ。今日は描かせてもらえて、嬉しかったよ」

そう言って優しく微笑んで、また描かせてねと瀬尾は帰っていった。
そう言えば宮田の誕生日にも、瀬尾はふたり並んだ姿を描いた。
ふたつ並べてみると、おもしろいのかもしれない。

周太は宮田を見送ろうとしたけれど、逆に寮の前まで送られてしまった。
別れ際、静かな木蔭でそっと唇を重ねて、宮田が微笑んだ。

「周太に約束してほしい」
「やくそく?」

そうと頷いて、きれいに宮田は笑った。

「もう何も、俺に隠さないでいて。隠してもきっと、俺は見つけてしまう。
 だからもう、最初から何も隠さないでほしい。そうして俺だけに甘えて、俺だけを見つめていて」

そんなふうに言ってもらえて、嬉しい。
素直に周太は頷いた。

「…ん、かくさない」
「ずっと俺だけの隣でいて、俺から離れていかないで」

もう自分こそ本当は、ずっと隣にいたいと願ってる。
そしてもう離れることなんかできない。
でもどうしたらそれを伝えられるのだろう。周太にはまだ、上手く言えなかった。
けれど少しでも伝えたくて、周太は笑って隣を見あげた。

「ん。ずっと隣がいい」

明日は当番勤務で夕方からの出勤になる。
そして明後日は当番明けで、そのまま術科センターで特練がある。
きっと午前中で終わるから、そうしたらこの隣にメールしよう。

たしか隣の明後日は、午前中は訓練だと言っていた。
この隣は、午後は疲れて眠っているかもしれない。けれど、メールなら眠りは妨げない。

でもきっと、声を聴きたくなって電話するだろう。
体を休ませてあげたいとも思う、けれどきっと、この隣は電話に喜んでくれるから。
そうしてまた、会いに来てくれたらいい。




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光陰、輪郭 act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-26 19:57:39 | 陽はまた昇るanother,side story

あなたがいつも照らしてくれる




光陰、輪郭 act.1―another,side story「陽はまた昇る」

術科センターでの射撃訓練が終わって、周太は射撃場から出た。
窓の向こうの青空が、抜けるように高い。あわい雲の位置も高い。
奥多摩も今日は、きっと晴れているのだろう。
今日は宮田は、大岳山の巡回だと言っていた。だから周太は、晴天が嬉しかった。

今日は日勤だから、このまま東口交番へと出勤する。
昼はいつものパン屋でクロワッサンを買って、軽く済ませるつもりだった。

今夜は関根と瀬尾と飲む、宮田も来てくれる。
先に宮田と待ち合わせるから、二人で軽く何か食べるだろう。
あの隣は最近よく食べるから、きっと新宿へ着く頃には空腹が我慢できない。
そしてたぶん、いつものラーメン屋に行く。
宮田はいつも周太の好みを訊いてくれる。そして周太は、あの店以外は思いつけない。

あの店は、英二の父親が好きな店だと聞いた。
まだ会ったことは無いれけど、英二の話に訊くその人を、周太は好きだなと思う。
いつかあの店もご一緒出来るのかな。近々、一緒に呑む約束だけど。
そんなことを思いながら手続きを済ませ、ゲートを潜った。

ゲートを出た途端、声を掛けられて周太は振り向いた。

「湯原くん、ですね」

50代くらいの優しい雰囲気の男だった。
どこかで見たような気もする。けれど記憶の奥底にある顔は、容易に名前と一致しない。
穏やかに微笑んで、彼は口を開いた。

「安本と言います。湯原くんのお父様の同期です」
「父の、ですか…」

呟いて周太は、制帽を脱ぐと、きれいにお辞儀をした。
制帽を被って外にいる今は本来、警察官としては敬礼をする。
けれど父の同期と名乗られた以上、父の息子として礼をしたかった。

「父がお世話になりました」
「いや、こちらこそ、お父様にはお世話になりました」

制帽を被りなおして、周太は真直ぐに安本の目を見た。
ふっと安本は目を和ませて、口を開いた。

「似ていますね、口許と眉と。そして視線が、とても懐かしい」
「最近、そう言われます」

周太の顔は基本が母似だった。とくに瞳はそっくりだと言われる。
けれど眉と口許と、真直ぐ見た時の視線の雰囲気は、父に似て来た。
父の顔をよく知る人だけが、それに気付く。
安本は、本当に父の同期なのだろう。

「先日の競技大会で見かけて、ご子息かなと思っていました」
「名字が少し、珍しいですから」

先週の全国警察けん銃射撃競技大会。
表彰式の時に周太は視線を感じた。
父を知る誰かが自分を見ている、そう思った。
多分近いうちに、その人は自分に会いに来る。そう覚悟していた。

「今日は久しぶりに射撃訓練に来ましたが、会えて嬉しいです」

思っていた通りに、父の同期だと言う安本が現われた。
けれどなぜ安本は、偶然を装うのだろう?
たぶん本当は、周太に会う目的でここに来た。それくらい解る。
なぜ安本はこんな、見え透いた嘘を吐くのだろう?

安本は周太に笑いかけた。

「昼を食べながら、すこし話しませんか?」

警察官としての父の姿を、安本は教えてくれるだろう。
周太も母も知らない「警察官」の父。
壊されたままでいる、父の人生を描いたパズルの、大切なピースのひとつ。

父の話を訊いてみたい。
けれど今日は日勤だから、なるべく早く戻らないといけない。
そう安本に告げると、新宿で構わないと言われた。

「湯原くんが、行き慣れているお店にしましょうか」

そんなふうに提案されて、一緒に新宿へと戻ることになった。
予定より少し、交番への戻りが遅くなるだろう。
念のため連絡を入れると、今日一緒に日勤の柏木は、安本を知っていた。
機動隊時代にお世話になったらしい。

「安本さん久しぶりだな、良い人だよ」

そんなふうに笑って、ゆっくりしておいでと言ってくれた。
新木場からの電車内で安本は、すこし昔の話をしてくれた。

「現場では、第七機動隊の時が一緒でした」
「現在の、銃器対策レンジャー部隊ですね」
「はい。当時はまだ、第1中隊レンジャー小隊と呼ばれていました」

ご存知なのですねと安本は微笑んだ。
本当は周太は、父の所属は一切を教えられていない。
警察官になるにあたって調べて、推測したに過ぎない。
けれど安本は、あっさり答えてしまった。

安本は人が良いようだ。
そういう人が父の傍にいたことが、周太は少し嬉しかった。

もう一線からは引きましたと、穏やかに安本は微笑む。
第一線で活躍する刑事の大半は20代~30代、この年代なら管理職か指導担当が普通だった。
刑事は40代で既にベテラン級であり、階級としてはほぼ全員が巡査部長以上になる。

「今は、事情聴取などの指導担当をしています」

被害者の事情聴取は精神的な問題が大きい事もある。
「やさしく丁寧な口調」を心がけることだと、警察学校でも現場でも学んだ。
きっと現場時代の安本は、事情聴取が上手だったろう。


自分が行き慣れている店と言われて、周太は困った。
慣れている店は、パン屋かラーメン屋しかない。それも一軒ずつだけ。
父の同期をパン屋で済まさせるのは、さすがに気が引ける。
あのラーメン屋しかないかなと思う。
けれど本当は、誰もあの店へは連れて行きたくない。

宮田と最初に食事したのは、あのラーメン屋だった。
それから卒業式の昼と、急に会いに来てくれた夜、競技大会の昼。
もう4回、一緒に行った。

あと自分だけで何回か。
あの隣と座った空気をなぞりたくて、行く時がある。

あの店はいつも、あたたかな湯気と、くつろげる雰囲気がいい。
主人もなんだか覚えてくれて、時折、おまけしてくれる。
そういうふうに、どこかの店に通うのは、周太には初めての事だった。

普通は、ありふれた事だろう。けれど周太には特別だった。
そういう特別な場所へは、本当は、誰も連れて行きたくない。
あの店に感じられる、あの隣の気配を、誰にも邪魔されたくなかったから。

けれどそこ以外の店なんて、周太には解らない。
仕方ないかなと思いながら、その店へと安本と向かう。
けれど周太の心配は、杞憂だった。
「本日、臨時休業」そんな札が出されて、店は閉まっていた。

札を見て、周太はほっと安心した。
けれど今、どうしよう。
困ったなと思いながら安本を振返って、周太は怪訝に思った。

安本の目が笑っていない。
安本の目は、さっきまでずっと和やかだった。
けれど強張ったように、店の看板を眺めている。

この店に、なにかあるのだろうか?
そう思って見ていると、安本は気がついて笑いかけた。

「すみません、この店は以前から知っているのです」
「ご存知でしたか、」

はいと頷いて、安本は言った。

「新宿署に勤務した頃、ここで食中毒騒ぎがあったので」
「そうですか、」

そんなこと宮田は言っていなかったけど。
そう思いながら、周太は素直に相槌をうった。

「そんなわけですから、もうあまり来ない方が良い。ここより良い店が新宿はたくさんありますし」

そう言って、他のお店を教えましょうと、安本は連れて行ってくれた。
安本と行った店は、交番から近かった。
それなりにはおいしかったけど、やっぱり周太は、あの店の方が好きだった。

安本の語ってくれる父は、優しい警察官だった。
交番勤務の頃は、迷子を泣きやませるのが上手だった。
横断歩道で転んだお年寄りを、背負って運んで、応急処置をした。
それから射撃の特別訓練員の頃は、ずっと優勝し続けた。
けれど、ずっと気さくで、温かいままだった。

「私は、そういう湯原が大好きでした」

そう言って安本は微笑んでくれた。
「警察官の父」の姿は、あの隣を想いださせる。
父と宮田は、どこか似ている。

そういえば宮田は、射撃の訓練は続けているのだろうか。
警察学校時代は、よく周太に質問してくれた。検定も好成績で合格している。
たった半年であれくらい出来たら立派だ。
そんなことを考えながら、周太は箸を置いた。


東口交番での勤務は、今日はあまり忙しくなかった。
夕方の巡回以外は、交番表で柏木と話して過ごした。
柏木は、安本との第七機動隊時代の話をしてくれた。

「安本さんはね、機動隊でもここで勤務することも、多かったんだ」
「この東口交番でですか?」

そうだよと笑って、柏木は教えてくれた。

「署や交番からの要請で、機動隊員がパトロールに駆り出されることも多いんだよ」

そういえばそんな話を、読んだことがあった。
父も若い頃、新宿署にいたことがあると、母から聞いている。
けれどなぜ、そこのガード下で撃たれることになったのか。そのピースはまだ見つかっていない。

「道案内を求められると、機動隊の応援要員は困るんだ。でも安本さんは元々新宿署にいたから」

さっきもそんなことを安本は言っていた。
父と同じ頃にも居たのだろうか。
もう少しちゃんと話を訊けばよかったかな。自分のうかつさを周太は反省した。

定時になって新宿署の独身寮へと戻った。
携行品を保管へ預け、今日の特別訓練の報告を済ませる。
それからさっと汗をながして、私服に着替えた。
あわい水色のストライプシャツと、明るい茶色のカーゴパンツを着た。

クロゼットは、宮田から贈られた服の比率が高い。
周太は、元々はあまり服を持っていなかった。
そんな興味も無かったし、着ていく場所も無かった。
そんなわけで今は、周太の服は宮田好みばかりになっている。
それが嬉しくて、なんとなく気恥ずかしい。

そんなことを考えていると、携帯が3秒鳴った。
受信したメールは、待っていた送信元だった。

From :宮田
subject:1時間後に
File  :【夜明け前の奥多摩の稜線】
本 文 :もうすぐ周太の隣へ帰るから。本当は延長したいけど

「帰る」が嬉しい。周太は微笑んで画面を見つめた。
けれど「延長」ってなんのことだろう。宮田のメールはなんだか、謎かけが多い。

怪訝に思いながら画像を見て、どきっとした。
こんなふうに、夜明け前の写真を送るなんて。
これはまるで誕生日の翌朝を想いださせられる。

誕生日は幸せだった。だから、別れ際の夜明けが悲しかった。
体はまだ重くて、起き上がるのは辛かった。
それでも、一瞬でも多く顔を見ていたくて、庭先まで見送った。
そして本当は思っていた、このまま浚って連れていって。

新宿署の生活は、そんなに嫌なわけじゃない。
けれど田中の葬儀で出会った、奥多摩が懐かしい。
出会う人の瞳はきれいで、山も空気も草木も美しかった。
そういう故郷に生まれ愛して、その地に眠った田中が羨ましい。

もしも「いつか」があるのなら、自分もそういうふうに生きたい。
そんなふうに最近、思ってしまう。

―この鍵は、ずっと大切にする。だから隣にずっといさせて

母は宮田に鍵を渡した。
あの鍵でずっと、いつも自分の隣に帰って来てほしい。

だからメールも素直になってしまう。
そっと周太はメールを作って、送信した。

To   :宮田
subject:ずっと
本 文 :隣にいて、ひとりにしないで

時計を見ると18時40分だった。
少し早いけれど、もう一人で座っているのは嫌だった。
少しでも早く会いたい。周太は部屋の扉を鍵かけて、外へ出た。

19時の約束だった。
けれど10分前、南口改札の向こうから懐かしい姿は来てくれた。

「おつかれさま、」
「ん、おつかれ」

笑って見あげた隣は、なんだかまた大人びて見える。
今日も山で色々あったのだろうか。

「俺さ、急な遭難救助で、腹減っているんだ。いま軽く食いたいな」
「ん、いいよ」

微笑んで頷くと、瞳を見つめてくれながら訊いてくれた。

「何食いたい?」

ラーメン、と言おうとして止まってしまった。
今日、他の人を連れて行こうとした。結局は休業だったから、良かったけれど。
でもなんだか後ろめたくて、本当の事が言えない。
ぼそっと周太は言ってしまった。

「…サンドイッチ、かな」

けれど宮田は、周太の瞳を見つめたまま、笑って言った。

「俺、ラーメン食いたい。いつもの店に行こうよ」
「…っ」

軽く息を呑んでしまう。
宮田は何かに、気づいているのだろうか。
けれど微笑んだまま宮田は、周太の腕をかるく掴むと歩き始めた。
何か言わないといけない。なぜかそう思って周太は口を開いた。

「…あ、あのさ」

どうしたと、いつも通りに宮田が振り向く。
いつも通りに少しほっとして、周太は言った。

「あの店、今日は、休みらしいんだ」
「へえ、なんで周太、知っているんだ?」

半分だけなら正直に言っても差支えないかな。
そんなふうに思いながら、周太は続けた。

「昼間に行ったら、休みだった」
「ふうん、そっか」

軽くうなずいて、宮田は言った。

「あの店うまいのに、食えなくて残念だったね、その人」
「ん、」

頷いて、はっと周太は息を呑んだ。

残念だったね、その人 ―

「その人」宮田は今、そう言った。
誰かと行った事に、気づかれている。

宮田は美形だけれど、物堅くて実直で、思ったことしか言わないしやらない。
何でも器用にできるのは、冷静に物事を見つめて、考えられるから。
そして、鋭くて、賢い。
だからいつも、自分の事も気づいて解って、受けとめてくれている。
だからきっと気づかれた。

それなのに。
そんな宮田を知っている癖に、誤魔化そうとしてしまった。
そういう事がきっと本当は、宮田は大嫌いだ。
だって宮田の心は真直ぐで、健やかだ。
そういう真直ぐな人間が、誤魔化しを許してくれるのだろうか。

どうしたらいいのだろう。
悲しくて、後ろめたくて、顔が見られなくて周太は俯いた。

「おいで、」

呟くように言って宮田は、長い指の掌で、周太の右腕を掴んだ。
そのまま東口方面へと、黙って歩き始める。

見上げた横顔は、端正なまま無言でいる。
宮田は、美形で整っていて、だから怒ると、余計に冷たくみえる。
どうしよう。
こういう顔をするなんて、ずっと無かった。

警察学校の山岳訓練で、場長を探しに歩き出した時。あの時くらいだった。
あの時もこんなふうに、腕を掴まれて無言で歩かれた。

そして今、掴まれているのは、右腕。
掴まれた腕が、かすかに震えてくる。
宮田がいつも、赤い痣を刻む腕。その痣を掴んで、宮田が歩いていく。
刻んだ痣を掴んでいる。それなのにこんなふうに、冷たい顔で、無言で歩いている。

いつも思ったことしか言わない、行動しない。
そんな宮田に、どうして隠しごとを、したくなったのだろう。
自分の浅はかさが恥ずかしい。
…もう、嫌われてしまったのだろうか。
どうしよう。どうして、どうしたらいい。

周太の視界がかすかに滲む。
俯けた顔から、今にも雫が零れそうだった。

そのまま、書店のビルへと入った。
エレベーターを4階で降りて、医書センターのカウンターで宮田は手続きをする。
書店にいる間、宮田は周太に何も話しかけてくれなかった。
ただ黙って微笑んで、腕を掴んだまま離さないでいる。

どうして何も、言ってくれないのだろう。
でも、ほんとうは、どうしてかきっと解っている。
本当は、今日あったことを全部、話してしまいたい。
けれどそれが、重荷を背負わせることに、なるかもしれない。
それが悲しくて、さっき言えなかった。
けれど、こんなふうに、怒らせてしまうなんて。
途惑いと不安ばかりがこみあげて、どうしていいのか分からない。

気がつくと、南口のテラスエリアを歩いていた。
そこのコーヒーショップの扉を宮田が開ける。
書籍の紙袋を肩にかけながら、カウンターへと宮田は微笑んだ。

「オレンジラテと今日のお勧めをブラックで。テイクアウトにして下さい」

自分の好きなものを、覚えてくれていた。思わず周太は、隣を見上げた。
見上げた隣は、無言のままだけれど、微笑んでくれる。
嬉しくて、周太は少しだけ微笑んだ。

宮田は器用に、片手でコーヒーを2つとも受取った。
そのまま外の一番隅のベンチへ連れて行かれる。
並んで座ると、紙カップを周太に渡してくれた。

「…ありがとう」

ちいさく言って、紙カップに口をつけた。
ふっとオレンジの香りが、夜闇にただよう。

オレンジの飴、オレンジのケーキ。それからこの、オレンジラテ?
だぶん宮田は、自分の好みを知ってくれている。
そのことが嬉しい。

そしてきっと、こんなふうに。
好みの物を差し出してくれるなら、まだ、きっと、嫌われていない。

ほっとして、震えがすこし治まってきた。
まだ間に合うのかもしれない。

この隣を、巻きこみたくない。
けれど嫌われて、離れられてしまうのは、もっと嫌だ。
だってもう、離れたくないのは自分の方。

巻き込む癖に、そんな願いは狡いかもしれない。
けれどそれでも、嫌われたくない、離れたくない。
全部を話して、許してと、お願いしたい。

そっと周太の唇が開いた。

「…父の、同期だって言う人に会ったんだ」
「…うん、」

宮田が静かに、頷いてくれた。
いつものように穏やかに、静かに佇んでくれている。
その気配に抱かれながら、周太は続けた。

「術科センターで、訓練が終わった時、その人が来た。安本だと名乗った」

穏やかに隣が見つめてくれる。
ほっと、周太の強張りが抜け始めた。

「昼を食べながら、話そうと誘われて。でも俺、今日は日勤だからって言った」
「うん、」
「じゃあ新宿で飯食おう、そう言われて…あの店しか俺、知らないから」
「そうだな、」

少し笑って、宮田は言ってくれた。
笑ってくれて嬉しい。少しでも笑顔が見られて、周太は嬉しかった。
なんだか話せそうな気がして、それでねと周太は続けた。

「で、行ったら、臨時休業だったんだ。そうしたらなんか、知っている店だったみたいで」
「安本さんが、知っていたってこと?」
「ん、新宿署に居たから、知っているって」
「そうなんだ、」

いつも通りの優しい相槌。
心がだいぶほぐれて、周太は少し微笑んだ。

「あと、ここは前に食中毒出したよ、とか言われて」
「ふうん、そうか」

微笑んで頷いてくれる。
よかった、いつもどおりに宮田はやさしい。

けれど本当に、宮田は怒っていないのだろうか。
だってさっきはあんなにも、冷たい顔をしていた。
もしかしたら本当は、怒っているのかもしれない。

優しいから隠して、見せてくれないだけなのかもしれない。
そんな嘘は、吐かれたくない。
怖い、でも、ちゃんと訊いておきたい。

「…あのさ、みやた」

周太がぽつんと呟くと、隣は黒目がちの瞳を覗きこんでくれた。
きれいな切長い目が、優しい。
きれいで嬉しい、そう思った時には、そっと唇を重ねられていた。
そして、きれいに笑って宮田が言ってくれた。

「よく話せたな、周太。話してくれて、嬉しかった」

笑顔が優しい。
それでも不安で、周太は訊いてみた。

「…ん、あの、おこってないのか」

なんで?と目だけで、宮田が訊いてくる。
言いにくい、けれど素直に周太は口を開いた。

「その、他の人とあの店、行ったし…父の同期と会ったことも、隠そうとして」
「ああ、」

きれいに笑って、宮田は周太の前髪に指を絡めた。
髪にふれる指が、やさしくて、周太は嬉しかった。
きれいな微笑みで、宮田は言ってくれた。

「もう怒ってない。ちゃんと話してくれたから、許す」
「…ほんとか?」

まだ不安で、つい、訊いてしまった。
そうしたら宮田は、すっと目を細めた。

「じゃあさ、怒っているなら、どうしてくれるわけ?」

やっぱり本当は怒っている?
言われた途端、心がきりりと絞めつけられた。
どうしよう、こんなの、どうしたらいいのだろう。
いつものように、微笑んでほしい。笑ってほしい。

お願いだから、何でもするから、許して欲しい。
もうなにも考えられなくて、周太は思ったままを口にした。

「…何でもする…だから許して」

小さな声だったけれど、なんとか言葉に出せた。
怖いけれど、なんとか真直ぐに隣を見つめた。
なんて言われるのだろう。
不安で見上げた視線の先で、きれいな唇が静かに言った。

「じゃあさ、関根と瀬尾の前でキスしていい?」

何でも、と自分は言った。
けれど、そんな、どうしてそんなことをいうのだろう。
許して欲しい、けれどもうきっと、顔も首筋も真っ赤になっている。
どうしよう、周太は唇を開いた。

「…あのっ…っ」

開きかけた唇に、唇を重ねられた。

ふれられて、熱い。
ここは外のベンチ、人通りは少ないけれど、でも、待って。
けれどもう、こんなふうにされたら、逃げられない。
熱くてなにも考えられない。

「周太、かわいい」

やっと離してもらえて、瞳を覗かれて微笑まれた。
そのまま掴まれている右腕の袖を、そっと捲られていく。

「…み、」

宮田待って。本当はそう言おうとした。
けれど言いかけた時にはもう、右腕の赤い痣には唇がふれていた。

だからお願い待って。
だって今からすぐに、関根と瀬尾に会うのに。
それなのにこんなことされたらもう、どんな顔していればいい?

そっと唇が離れた時には、腕に真っ赤な花が落ちていた。
それに長い指でふれて、隣が静かに笑った。

「きれいだね、周太」

そんなふうに、きれいに笑わないでほしい。
もう恥ずかしくて何も言えなくなるから。

でもこれ飲まないと。
そう思って周太は、左手にもったままの、オレンジラテに唇をつけた。
でもたぶん、首筋も頬もいま赤い。

「周太かわいい」

そんなことを言って、隣は嬉しそうに笑っている。
けれど一気に飲み干して、すこし落着いた周太は口を開いた。

「…だから眼科行ってきて」
「そのうちね」

そう言って軽やかに笑いながら、隣はコーヒーを飲みほした。
ほんとうにたまに憎たらしい。
けれどやっぱり、この隣が自分は、好きだ。
だっていつもこんなふうに、自分の心を開いてくれる。



(to be continued)

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黎闇、輪郭―side story「陽はまた昇る」

2011-10-25 21:15:30 | 陽はまた昇るside story

夜明の直前が、いちばん暗い。




黎闇、輪郭―side story「陽はまた昇る」

5時半のアラームで英二は目を覚ました。
カーテンを開けると、稜線は闇の底へ沈んでいる。
今日は岩崎と、大岳山の巡回へ行く。その前に御岳山の巡回を済ませるつもりだった。
食堂へ行くと、今日は週休の国村がもう座っていた。

「やけに早いな、」

お互い同時に言って、笑ってしまった。
大岳の前に御岳の巡回へ行くと話すと、国村が感心してくれた。

「宮田くんも、タフになったよね」

そういう国村は常に、息切れする姿を見せたことがない。
つい昨日も二人で行った、ボルダリングの自主トレでもそうだった。
英二が1/3も登らないうちに、もう頂上から飄々と見下ろしてくる。
このひとサルなのかなと、英二は心中呟く時がある。

本気を出せばファイナリストになれる。
そう後藤副隊長に言わせる程の実力を、国村は持っている。
けれど国村の素顔は、祖父母と共に梅林と蕎麦畑を営む、兼業農家の警察官だった。
たぶん週休の今日は、実家で農業青年になるか、山に登るかのどちらかだろう。

「国村さん、今日は山?それとも畑?」
「どっちとも言える」

笑って国村が答えてくれた。

「あのね、柿もぎなんだよ」
「柿?」

そうだよと笑いながら、国村は教えてくれた。

「ツキノワグマが奥多摩には多いだろ。それがね、庭木や畑の柿を食べにくる」

ああと英二が頷くと、国村がわかっただろと目で笑った。
後藤副隊長も、その話をしていた。

奥多摩には数十頭のツキノワグマが生息していると言われている。
奥多摩にある東京都所有の水源林。そこにはブナやミズナラといった広葉樹林が多い。
そこがツキノワグマの生息地になっている。
そして、最近のクマは人を恐れなくなった。けれど、クマが人家近くに来れば、人身事故の可能性も高くなる。

「柿や栗を採らない家が、最近は多いだろ。事故予防のために、青年団で採りに行くんだよ」

それで今日は俺も当番なんだ。そういって国村は卵焼きを口に放り込んだ。
そういえば秀介の家にも柿の木があった。
田中の遺作にも、柿の実の写真がある。朝陽にすける朱色が、美しかった。

朱色と言うと、英二は懐かしい姿を想いだしてしまう。
その色に、すぐ首筋や頬を染める、あの隣。誕生日は夕方と夜と、きれいで幸せだった。
今夜は関根達との飲み会で会える。でもその前に少しでも、あの隣を独占めする時間をとりたい。
そんなことを考えていたら、国村が唇の端をあげて笑った。

「宮田くん、顔、エロくなってる」

いつもながら国村は鋭い。この男はこう、どうして鋭いのだろう。
でも指摘は本当の事、別に嫌じゃない。きれいに笑って英二は答えた。

「そう?まあ俺、エロいから」

笑ったまま英二は、茄子炒めを口に放り込んだ。
あははと笑って、国村は茶を啜ってから口を開いた。

「こういう話でも爽やかだね。そういうとこいいよな、宮田くん」

雲取山の訓練で国村は、携帯の繋がる場所を教えてくれた。
そして、ついこの間の夕食時。藤岡が言ったことから、たぶん気づかれている。
けれど国村は厭味にならない、飄々とした明るさがいい。
そのうち話す事もあるのかな。そう思いながら2杯目の丼飯を平らげた。


いつもより早い時刻の御岳山は、やわらかな曙光に眠っていた。
今日は急がないといけない、早いペースで歩きだす。

天狗岩まで登った時、東から太陽が射しこんだ。
きれいだなと光の線を辿ると、青い花が一群、咲いている。
見覚えのある姿に、英二は片膝を付いた。

田中の最後の一葉、氷雨に咲くりんどう。
あの隣の姿を重ねた花は今、朝陽の温かさに凛と穏やかに咲いている。
こんなふうに周太にも、今日の一日を穏やかに過ごして欲しい。
ここからも遠く望める市街地へと、そっと英二は祈った。

御岳駐在所を7時半前、岩崎の運転するミニパトカーに乗った。
昼過ぎには戻りの予定で、岩崎の妻に留守番を頼んでいく。

「お腹ふさぎにね、」

そう言って、握飯を持たせてくれた。
こういう細やかさが、駐在所夫人の適性なのかもしれない。
岩崎夫婦は寄り添う姿が温かで、いいなと思える。

自分と周太は、どんなふうに見えるのだろう。
普通の夫婦とは違うけれど、温かい姿であったらいい。
岩崎と話しながら、そんなことを英二は考えていた。

登計峠に8時前に着いた。
鋸尾根から鋸山頂と大岳山頂を通り、芥場峠までを往復する。

「普段の巡回は鋸山頂から御岳山までだが、鋸尾根は知っておくほうがいいだろう」

鋸尾根には大きな岩場がある。迂回ルートなどもあるが、滑落事故が多い。
田中が亡くなった氷雨の日、昼間に岩崎から教えられた事だった。
足許をきちんと固めること。
それは登山の基本だが、それを怠る登山客も奥多摩には多い。

「登山靴の紐を確認しておけ」
「はい、」

きちんと硬く結ばれている。
もうじき1ヶ月半、随分この靴も馴染んだ。
こういうのは、なんだか嬉しい。そう思いながら英二は、腕時計の高度メモリーをセットした。

奥多摩への卒業配置希望を出した時、英二は時計を買換えた。
卒配希望が通るか解らなかった。けれどその時から、クライマー仕様の腕時計をずっとしている。
方位計測に気圧・温度計測、高度計測。
高機能になると高くて、本命は買えなかった。けれど、これも気に入っている。
最近は、文字盤フレームの濃紺が、りんどうの色と似て良いなと思っている。
そして1ヶ月以上をこの時計と過ごしてきた。

高度メモリーは特に、今の自分にとって心強い。
地図の等高線と照らし合わせて使用することで、登下降した高度の確認ができる。
また、1時間ごとに高度差表示をリセットすれば、1時間で登れるペース把握もできる。
そうした記録は、無理のない登山計画を立てることにも役立つ。

歩きだして直ぐの天聖神社付近で、急坂になった。
足運びは速いが、口調はゆったりと岩崎が教えてくれた。

「登山口に近いからな、下りだと気の緩む場所になって、スリップも多い」

こういうポイントは、雨天や降雪時は特に、スリップの危険度が増す。
その後も鉄梯子が数か所、鎖場と、危険個所が続いた。
これから迎える冬山シーズンのために、岩崎はこのルートを選んだのだろう。

鋸山頂に着いた。ここは大岳山と御前山への分岐になる。
英二は腕時計の高度メモリーを、ここでまたセットした。
登りルートでは、尾根の分岐点などの重要ポイントの標高を、任意に記録していく。
そして下りの時には、この記録ポイントの標高を確認しながら下る。
そうすることで、ルートを外れて下り過ぎることを防ぐ。

今日は岩崎がいるが、いずれは単独で巡回する。
奥多摩の山は、仕事道や巡視路が縦横に走っている。そうした道の錯綜が、道迷いを生じやすい。
ポイント記録は捜索の時にも役立つだろう。そんな理由で、今歩く道もデータにしておきたかった。
そんな英二の様子を、岩崎は微笑んで眺めながら声をかけた。

「よし、宮田、いくぞ」
「はい、」

岩崎の笑顔はいつも頼もしい。
自分もこんなふうに、少しでも早く一人前の山ヤの警察官になりたい。
ひとくち給水をしてから、また大岳山へと歩き出した。

前を歩く岩崎の背中が、大きい。
身長178cmだと言っていた、182cmの英二より少し低い。けれど岩崎の背中はずっと大きく見える。
岩崎は御岳駐在所長に赴任前、山岳救助レンジャーとして第七機動隊に在籍していた。
逮捕術の特別訓練員でもあったと聞いている。
2つの訓練と、救助レンジャーの任務で鍛えられた体躯。ちょっと憧れるなと、眺めながら英二は歩いていた。

警察学校時代、英二は、逮捕術は元々苦手だった。
けれど学内警邏の時に、高校生のケンカ仲裁が出来なくて、悔し泣いた事がある。
それがきっかけで、中の上くらいになった。周太に練習の相手をしてもらったお蔭だ。

藤岡も言うように、周太は武道も強い。
自分よりだいぶ小柄な周太に、いつも投げ飛ばされていた。
今思うと、ちょっとみっともないと思う。
今もきっと武道は敵わない。けれど力なら絶対に負けない。

在学中の山岳訓練では、周太を背負い続けられなかった。けれど今はもう、軽々と抱えられる。
あの頃は、心ごと背負わせてほしいと思っていた。
もう今はきっと、背負わせてもらえている。

―困難に打ち勝つ、それが周太の花言葉

先週は周太の誕生日だった。
その日、周太の母から、花言葉と一緒に合鍵を贈られた。
贈ってくれた彼女の言葉は、ひとつひとつが、きれいだった。

―何があっても受けとめて、決してあの子を独りにしないで
 あの子の純粋で潔癖で、優しい繊細な心。それを見つめ続けて欲しい

本当は、罵られても文句は言えないと思っていた。
男同士で警察官、普通じゃない関係だと解っている。
大切なひとり息子を、そこへ引き擦り込んだのは自分だから。

―あなたなら、息子と同じ男で、同じ警察官のあなたなら
 きっと息子の世界に入って寄り添って、息子を救う事が出来る

本当は普通の幸せを、彼女も願いたかっただろう。
けれど彼女は、そう祈らざるを得ない現実に生きている。
それが切なくて、悲しい。

それでも自分は、あの隣を離さない権利を得られて、喜んでいる。
そういう自分は狡くて、独占欲が強すぎる。
それでも、隣への想いは手離せない。ほんの少しの後悔すら、自分は出来ない。
そして、そういう自分を、彼女は解って受け入れてくれた。

―そして我儘を言わせて欲しい、どうか息子より先に死なないで
 そして今度、またここへ帰って来て。約束よ。お帰りなさいって言わせて

母親としての愛情、人としての美しさ。
彼女は息子だけではなく、自分にもそれを向けてくれる。
そういう彼女の想いに、全て自分は応えていくだろう。
過去も現実も、それからこれからも。
周太を、周太の背負うものを、周太の家も、全てを受けとめていく。
それが自分の罪滅ぼし、そして、与えられた権利だと思う。

豊かに枝交す梢から、午前中の陽光が清々しい。
秋涼にも瑞々しい笹藪を、左右に見ながら道を辿る。
こんなふうに山を歩いていると、いつも考えが廻りだす。
そしていつも必ず、周太のことを想ってしまう。

周太の誕生日、周太の部屋で抱きしめた。陽光あたたかな時と、月のしずむ時。
どちらの時も、周太はきれいで、いとしくて、止められなかった。
別れ際の夜明け、庭先で周太は見送ってくれた。
きっと周太の体は辛かった。見送らなくていいと言いたかった。
それでも、一瞬でも多く顔を見ていたくて、断り切れなかった。
暁に白く明るい山茶花の下で、周太の笑顔はきれいだった。
本当はあのまま、浚って連れて来たかった。

右掌で救助服の胸元にそっとふれた。
グローブ越しに、固い感触がかすかに触れる。
細いけれど頑丈な革紐で、あの鍵を通して首にかけてある。
ちいさな鍵。けれど英二には、得難い大切な鍵だった。

岩場混じりの急坂を登ると、大岳山頂に着いた。
標高1,262m、開けた展望をそのまま通り抜けて、芥場峠へと向かう。
時計は11時前を指している。良いペースかなと、岩崎が笑ってくれた。

危険個所には鎖場が設けられている。急斜面のトラバースも交えながら進む。
ゆっくり歩けば問題ないだろうが、凍結の始まる季節はもう近い。
このポイントもまた、帰ったらメモしておこう。
そう心に留めながら英二は、確実に素早く足を運んだ。

芥場峠から下の斜面を下ると、御岳のロックガーデンになる。
今日はここから往路へと引き返す。
登りと下りの感覚差と、道確認をするためだった。

大岳山頂に戻ると11時半過ぎだった。
昼にするかと岩崎が言い、二人で岩場に座る。
開いた英二の包みには、大きな握飯が5個並んでいた。
あたたかな岩崎の笑顔が、楽しげになった。

「最近、宮田も食うからなあ」
「はい、」

この1ヶ月ちょっとで、英二は食事の量が増えた。
相変わらず細身だが、体重が増えて体脂肪率は減っている。
筋肉質になったせいだろう、体を動かすと余計食べるようになった。
そのあたりも、岩崎の妻は気遣ってくれる。
そういうのは嬉しい、ありがたく英二は頬張った。

富士山が美しかった。
すこしかすんだ青い姿は、優美で雄大に裾引いている。
奥多摩は富士山の眺望が美しい。
眺めながらいつも、周太に見せたいと思ってしまう。

食べ終わって水を一口飲んだ時、無線が受信になった。
岩崎の無線も受信になっている。
ほぼ同時の受信、おそらく遭難事故の発生連絡だろう。

「起きたかな、」

呟いて岩崎が無線をとった。英二も岩崎に倣う。
奥多摩交番の畠中が、英二にはかけてくれていた。

「海沢のネジレの滝下流で滑落だ。沢を渡ろうと落ちたらしい」

海沢探勝路はこの大岳山の裾野になる。
ここからなら急行出来る。そう考える横で、急行と無線に答える岩崎の声が聞こえた。
空いている方の手でザックをまとめながら、無線へと英二も応えた。

「了解。現在は大岳山頂です。ここから急行します」
「あ、今日は宮田くん、岩崎さんと大岳の巡回練習か」

急に無線の向こうが和やかになり、ちょっと可笑しかった。
そうですと英二が答えると、畠中がすこし安堵の声で話す。

「遭難者は足を怪我して動けないらしい。あの救急用具は今あるか?」
「はい、」

よかったと畠中が笑う気配がして、無線を受け渡すような音が聞こえる。
誰かと無線を替ったらしい。なんだろうと思いながら立ち上がると、後藤の声が聞こえた。

「宮田くん、怪我の手当ては慣れてるな」
「はい、」

岩崎と目で合図しあって歩きはじめる。
その耳に、後藤の楽しそうな声が言ってくれた。

「遭難者はすこしパニックを起こしている。足と一緒に、気持ちも手当てしてやってくれ」

後藤らしい。ふっと心が和まされる。
こういう後藤が英二は好きだ、やっぱり尊敬してしまう。
そういう後藤に、こんなふうに言ってもらえて、嬉しかった。
きれいに英二は笑った。

「了解。副隊長、ありがとうございます」
「おう、頼んだよ。俺ももう出るから」

無線を切ると岩崎が笑いかけてくれた。

「後藤さん、俺と話していたのに、宮田だって言って、切っちゃったんだよ」
「そうなんですか?」

そうだよと笑ってくれる。
後藤は、一流の山ヤで最高の山岳救助員だけれど、そういう軽やかさがある。
そういう所も英二は好きだ。
このあいだ後藤さんと飲んだんだけど、と岩崎が続けた。

「宮田は息子みたいで、かわいいってさ」
「副隊長が?」

ああと言って岩崎が笑う。
歩きながら大きな掌で、英二の肩をぽんと軽く叩いてくれた。

「俺もさ、弟みたいで、かわいいよ」

あたたかい岩崎の笑顔が、英二は好きだった。頼もしい背中は、超えたいと思わされる。
後藤は一流の山ヤで山岳救助員で、ブナの木を自分に譲ってくれた。
そういう人達に、こんなふうに自分が思ってもらえる。

自分は身勝手で直情的で、思ったことしか言えなくて出来ない。
その果てに、実の母親に拒絶されてしまった。
あの隣の為に選んだ結果だから、後悔なんか少しも出来ない。
それでも、実の母親を悲しませた自分は、罪深いと解っている。
それなのに、こんなふうに言ってもらえる。そのことが嬉しくて、きれいに英二は笑った。

「嬉しいです。でも、似ていないですよ」
「なんだ、お前。まあ確かに、俺は美形じゃないよ」

素直な英二の言葉に、岩崎が笑って冗談を返してくれる。
人の温かさが嬉しい、素直にありがたいと思う。笑う英二の、切長い目の底が熱くなった。

海沢探勝路の遭難者は50代女性、左足首捻挫と擦傷だった。
岩崎と二人で安全な場所へ移し、全身と意識の観察をする。
怪我は深刻ではないけれど、顔色が悪い。

履いているのは、気軽なウォーキングシューズだった。
軽装からして気楽な気分だったのだろう、それが事故になって動揺している。
微笑んで英二は、彼女の顔を覗きこんだ。

「大丈夫です、これくらい大したことじゃないです」
「…でも、こんなに騒ぎになって、…夫に叱られるかも」

涙眼で彼女は訴えてくる。
自分の母親と同年輩の女性に、どうかな。
そんな事を思いながらも、胸ポケットからオレンジ色のパッケージを出した。
片手では吉村医師から譲られた救急道具を準備しながら、右手だけで一粒とりだす。

「掌を出して下さい、」

言いながら、そっと彼女の掌をとって飴を乗せてやった。
それから彼女の目を見て、英二は微笑んだ。

「私にとって、元気になる飴なんです。お恥ずかしいですけど、良かったら召しあがって下さい」
「…まあ、」

すこし目を見張って、英二を見つめてくる。
そのまま見つめ返しながら、英二は笑った。

「こんな大の男が飴なんて、おかしいでしょう?どうぞ笑って下さい、そして少し元気になって下さい」

いいながら英二は、擦傷の手当てを始めた。
それから固定包帯をとりだして、腫れあがった足首の処置をする。
手際良く動く、英二の長い指を見ながら、彼女は飴を含んだ。

「…おいしい」

ほっと彼女が笑ってくれた。瞳が随分と落着いている。
良かった。これで落着いて、彼女は下山できるだろう。
包帯の巻き終わりを整えながら、英二はきれいに笑った。

「やっぱり笑顔の方が素敵です。だから笑って山を降りましょう」
「…はい、」

はにかんだ様子で、けれど元気そうに笑ってくれた。
海沢駐在所の田辺も駆けつけ、対応してくれる。
すっかり落着いた彼女は、無事に下山して市立病院へと搬送された。
別れ際に礼を述べてくれた彼女に、微笑んで英二は言った。

「どうぞお大事に。次に奥多摩へ来る時は、ぜひ登山靴でいらしてください」
「はい、登山靴で、また来ます」

素直に頷いて彼女は笑ってくれた。

良かったなと見送って、気が付いたら田辺と岩崎が笑っている。
なんだろうなと思っていると、トンと岩崎に指で額を押された。

「宮田はさ。適性あるよな、ホント」
「そうですか?」

真面目に答えたのに、また二人に笑われる。なんだか腑に落ちない。
そんな英二の顔を見て、田辺が可笑しそうに答えてくれた。

「遭難者はまず落着かせて、元気にさせるのがいいだろ?」
「はい、」
「宮田くんはさ、女性受けがいいだろう?だからな、女性遭難者には、特に効果的にってこと」

なるほどと英二は思った。
確かに自分はこんな風貌だから、女性に受けることは知っている。
けれどそれが、仕事にも役立つとは思わなかった。
それは嬉しいことかもしれない、英二は笑って頭を下げた。

「なんでも適性があるなら嬉しいです、」
「そうだな、」

岩崎が笑いながら、軽く肩を叩いてくれる。
こういう雰囲気が、ここはいいなと思える。
こんなふうに1ヶ月と少しで、自分を成長させて、今の自分にしてくれた。
今夜また話す事が出来たな、思いながら英二は微笑んだ。


新宿で20時からの約束になっていた。
定時に駐在所を出て寮へ戻ると、ざっと汗を流して私服に着替えた。
それから青梅線に乗って、周太へとメールした。
今日の周太は日勤で、午前中は術科センターでの訓練に行くと言っていた。
そのことが気になる。

先週の全国警察けん銃射撃競技大会。
あの時に周太を見ていた男が2人いた。
50代刑事風の男と、40代半ばで小柄だけれど闘士型体型の男。

40代の男はたぶん、SAT幹部だろう。
彼が実際に動くなら、本配属が決まる時になる。
術科センターに様子を伺いには来るかもしれないが、今はそこまでだろう。

けれどもうひとりの男。
年恰好から周太の父の同期ではないかと、英二は考えている。
周太の父が殺害された事件。それを彼が知っている可能性がある。
たぶん彼は、犯人の居場所を知っているだろう。

13年前の事件を、英二は自分でも調べている。
過去の事件ファイルから、周太の父の殉職事件をトレースした。
刑事課のファイルを見たかったけれど、自分の権限では難しい。
けれど英二は、青梅署刑事課の澤野に協力を願って、情報を手に入れた。

澤野は、縊死自殺の死体検分の時、英二に立ちあった刑事だった。
その縁で英二は、澤野とは親しくしている。
現時点での英二の知人で、刑事課所属は澤野しかいなかった。

13年前の事件に関連するファイルを見たい。
申し出ると英二は、澤野に目的を訊かれた。

「13年前の事件の為に、悲しい人生を増やしたくありません。目的はそれだけです」

思っている事をそのまま、率直に英二は答えた。
訊いた澤野は黙って頷くと、ファイル閲覧のPCを開いてくれた。
一緒に検索してメモをとり終わると、澤野は英二の目を見て言った。

「宮田の目は、きれいで真直ぐだな」
「そうですか?」

微笑んで英二が答えると、澤野が笑ってくれた。

「また、きれいな笑顔だな。こんな俺でも信用したくなる」

こんなふうに、信じてもらえることが、心からありがたい。
自分はまだ卒配から1ヶ月と1週間しか経っていない。本当に小さな存在だと解っている。
こういう協力がなければ、周太を守ることは難しいだろう。
だから信用が、ほんとうに嬉しい。

「ありがとうございます、」

英二は心から頭を下げた。
そして真直ぐ澤野を見て、きれいに笑った。

車窓には、夜に沈む奥多摩が流れていた。
視線だけ外へ向けながら、澤野の協力で得た情報を、頭の中で眺めていく。
50代のあの男と照合できる名前が、一つだけある。
彼は周太の父と同期で、刑事で、当時は新宿署勤務だった。
そして犯人の今の居場所も、おおよその見当がついていた。

この間の競技大会で彼は、周太に気がついた。
そして、周太と犯人が接触する可能性に気付いただろう。
その事を恐れて、なるべく早く彼は周太に接触する。

きっと彼は、犯人の居場所を周太には、隠そうとするだろう。
けれどそれは逆に、周太に気付かせる事になる。
周太は自分でも事件を調べている、あと少しのヒントで犯人に辿りつくだろう。
それを彼は、解っていない。

競技大会が終わって一週間、今のところ周太の様子に変化はない。
けれど今日は、競技大会後では最初の、周太の訓練日だった。
接触するなら今日以降の可能性が高い。
そのことが気になって今日は、少しでも早く会いたかった。

飲み会いつにすると、関根に訊かれた時。そんな理由で、今日にしてもらった。
周太は「約束」をとても大切にする。
飲み会の約束があれば、何があっても周太は、他の場所へはいけないだろう。
もし今日に彼と接触しても、約束が周太を引き留める。

本当は自分では、手に負えないことなのかもしれない。
けれど自分は諦めが悪くて、独占欲も強くて、身勝手だから。
だから、こんなことで、失うつもりなんか少しも無い。

直情的な自分は、思ったことしか言えない。
けれど、それが逆に人を惹きつけて、思うように動いてくれる。
要領よく生きる事はやめた。けれど、能力は相変わらず要領が良い。
それに自分は結構図太くて、そして狡い。
だからきっと、あの隣との約束を守りきれる。そんなふうに英二は、自分を信じていた。

握ったままの携帯が振動して、英二は開いた。
待っていた名前が、受信されている。
そっと開いた文面に、英二は微笑んだ。


南口改札の向こうに、懐かしい姿が佇んでいる。
フード付のニットカルゼGジャンが思った通り、かわいかった。
長い手足を捌いて、さっさと英二は周太の目の前に立った。

「おつかれさま、」
「ん、おつかれ」

笑って見あげてくれた周太の、瞳がすこし寂しげだった。
何かあった。
すぐに勘付いたけれど、あえて英二は、今は訊かない。
そうして微笑んで、周太に言った。

「俺さ、急な遭難救助で、腹減っているんだ。いま軽く食いたいな」
「ん、いいよ」

黒目がちの瞳が微笑んで、頷いてくれる。
頷いた襟足が、シャツのあわいブルーに惹き立ってきれいだった。
いつもならそこで眺めるけれど、英二は周太の瞳を見つめて訊いた。

「何食いたい?」
「…サンドイッチ、かな」

間があって周太が答えた。
けれど英二は、周太の瞳を見つめたまま、笑って言った。

「俺、ラーメン食いたい。いつもの店に行こうよ」
「…っ」

軽く息を呑んだのを、英二は見ていた。
けれど微笑んだまま、周太の腕をかるく掴んで歩き始めた。

「…あ、あのさ」

視線が横顔にささる。
どうしたと、いつも通りに振り向いた。

「あの店、今日は、休みらしいんだ」
「へえ、なんで周太、知っているんだ?」
「昼間に行ったら、休みだった」

ふうんと軽くうなずいて、英二は言った。

「あの店うまいのに、食えなくて残念だったね、その人」
「ん、」

頷いて、周太がはっと息を呑んだ。
黒目がちの瞳が俯いていく。
英二は長い指の掌で、周太の右腕を強く掴んだ。

「おいで、」

呟くように英二は言って、東口方面へと歩き始めた。
周太の腕を掴んだまま、英二は歩いていく。
掴んだ腕が、かすかに震えている。
それでも英二は気づかない顔で、書店のビルへと入っていった。

エレベーターを4階で降りる。
医書センターのカウンターに真直ぐ向かって、英二はメモを取りだした。
借りた専門書を返しにいった昨夕、吉村医師が書いてくれたメモだった。
すみませんと微笑んで、カウンターの中へと声をかける。

「この本を頂きたいのですが」
「はい、少々お待ち頂けますか」

店員は眺めて、手早く検索してくれる。
5分後には、目的の書籍を数冊、紙袋へと入れてくれた。
書店にいる間、英二は周太に何も話しかけなかった。
ただ黙って微笑んで、腕を掴んだまま離さないでいた。

店を出て時計を見ると、19時半前だった。
周太の右腕を掴んだまま、英二は歩きだす。
俯く隣の歩調がだんだん遅くなる、それでも英二は黙っていた。

南口のテラスエリアまで戻って、そのまま歩く。
そこのコーヒーショップの扉を英二は開けた。
書籍の紙袋を肩にかけながら、カウンターへと英二は微笑んだ。

「オレンジラテと今日のお勧めをブラックで。テイクアウトにして下さい」

やっと隣が見上げてくれた。
無言のまま微笑みかけた英二に、すこし微笑んでくれる。
片手でコーヒーを2つとも受取って、英二は外へ出た。
一番隅のベンチに座って、片方を周太に渡す。

「…ありがとう」

ちいさく言って、紙カップに口をつけてくれた。
ふっとオレンジの香りが、夜闇にただよう。
掴んだままの右腕の、震えがすこし治まってきた。
英二もブラックコーヒーを啜った。

ちょっと遅刻するだろうな。
そんなことを思いながら英二は、眼下を走る列車の明りを見つめていた。
このベンチは見晴らしがいい、周りには人が隠れる場所も無い。
そして人通りも少なくて、静かだった。

コーヒーが1/5ほど減った頃、ふっと隣の空気が穏やかに変わった。
そろそろ話してくれるかな。ゆっくりと英二は隣を振り向いた。

「…父の、同期だって言う人に会ったんだ」

ことんと英二に確信が落ちた。
やっぱり今日だった。もう言われなくても、何があったのかが解る。
けれど英二は、静かに頷いた。

「…うん、」
「術科センターで、訓練が終わった時、その人が来た。安本だと名乗った」

穏やかに英二は隣を見つめた。
掴んでいる右腕から、強張りが抜けていく。

「昼を食べながら、話そうと誘われて。でも俺、今日は日勤だからって言った」
「うん、」
「じゃあ新宿で飯食おう、そう言われて…あの店しか俺、知らないから」

周太は店をあまり知らない。
何回か行って知っているのは、あのラーメン屋だけだろう。
そういうところが、かわいいな。
こんな時なのに、そんなことを考える自分が、英二は可笑しかった。

「そうだな、」

少し笑って言った英二に、周太も少し笑ってくれた。
それでねと周太は続けた。

「で、行ったら、臨時休業だったんだ。そうしたらなんか、知っている店だったみたいで」
「安本さんが、知っていたってこと?」
「ん、新宿署に居たから、知っているって」

そうなんだと相槌を打ちながら、英二は内心舌打ちをした。
新宿署に居たことを、自分から安本はバラしてくれた。
こんなヒントを易々と、周太に与えてしまうなんて。
そういう人の良さは、職務質問や取り調べには向いている。
けれど今この件では、はっきり言って迷惑だ。

安本のフルネームは、安本正明。
13年前のデータから、その名前はもう知っている。

けれどまだ、そこまで周太は気がついていない。
けれどすぐに気付くだろう、明日か明後日には。
周太は純粋で本質は人を疑わない。だからこそ、立籠り事件でも安西を信用してしまった。
けれど周太は、聡明で、怜悧だ。

「あと、ここは前に食中毒出したよ、とか言われて」
「ふうん、そうか」

微笑んで答えながら、英二は安本を嘲笑したい気持になった。

あのラーメン屋には、幼い頃から英二は通っている。
英二の父が常連だったから、そのまま英二も常連になった。
父が通い始めたのは、学生時代だから30年以上になる。
新宿署に安本が赴任する以前から、父は通っている事になる。

けれど、そんな話は、聞いた事がない。

そして記憶がひとつ、引き出される。
あの店の主人は代替わりをした、それは何年前だったろう?

たぶん、自分の推測は正解だろう。
飲み会の合間にでも、姉に電話で訊けば、正解だと確定する。

こんなことになるとはね―英二は少し笑った。
運命というものに少し呆れ、そして感謝できる。
そして確信が出来る、やっぱり自分はこの隣を、救うことが出来るだろう。
そうでなければこんなふうに、自分に有利に事は、運ばない。

「…あのさ、みやた」

隣がぽつんと呟いて、英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。
物言いたげで、困った顔をしている。
かわいいな。そう思った時には、そっと唇を重ねていた。
すぐに離れて、英二は微笑んだ。

「よく話せたな、周太。話してくれて、嬉しかった」
「…ん、あの、おこってないのか」

なんで?と目だけで訊いてみる。
自分が怒るとしたら、理由は二つ考えられる。
けれど周太の口から訊いてみたかった。
言いにくそうに、けれど素直に周太は口を開いた。

「その、他の人とあの店、行ったし…父の同期と会ったことも、隠そうとして」

両方言ってくれた。
でも先に「他の人と」が来るところが、かわいくて可笑しかった。
きれいに笑って、英二は周太の前髪に指を絡めた。

「もう怒ってない。ちゃんと話してくれたから、許す」
「…ほんとか?」

この隣はたぶん、英二は本気で怒ったと思っただろう。
そう思わせようと、わざと英二はそういう態度をとった。
周太は遠慮して、ひとりで抱え込もうとする癖がある。
けれど、英二に本気で怒られたら、きっと不安が勝って口を開く。

訊かされたことは全部、自分が先に解っている事だと知っていた。
それでも周太に、自分から話させたかった。
そうして話す事で、周太の信頼と安心を引きだしてやりたかった。

周太は、まだ不安のままでいる。
こういう時は、笑わせて信じさせようかな。
英二は目を細めながら、言ってみた。

「じゃあさ、怒っているなら、どうしてくれるわけ?」

言われた途端に、黒目がちの瞳が悲しそうになる。
こんな顔させるんじゃなかった、少しだけ英二は後悔した。
けれど周太が呟くように言った。

「…何でもする…だから許して」

こんな顔させても、こういう事を聴けるなら嬉しい。
かわいくて、可笑しくて、つい英二は意地悪を言った。

「じゃあさ、関根と瀬尾の前でキスしていい?」

みるまに隣が真っ赤になる。
どうしてこうも、初々しいのだろう。
かわいくて、嬉しくて、英二はそのまま唇をよせた。


約束の時間に20分ほど遅れた。
関根と瀬尾は先に呑んでくれていて、ちょっと英二は安心した。

「おう、久しぶり」

相変わらず快活に笑いながら、関根が瀬尾の隣へと移動してくれる。
英二は周太を奥へと座らせて、その隣に自分が座った。
相変わらずの優しい笑顔で、瀬尾が話しかけてくれた。

「相変わらず仲良しだね、宮田くんと湯原くん」

きれいに笑って、英二は答えた。

「ああ。卒業前より仲良いよ」

たぶん今、隣は赤くなっている。
それが解るのが、なんだか嬉しい。


飲む合間、英二はさり気なく外へ出た。
姉の番号を呼び出して、携帯を耳に当てる。
3コールで直ぐに出て、ひさしぶりと笑ってくれた。
ひさしぶりと微笑んで、英二は訊きたいんだけどと切りだした。

「あのラーメン屋。主人が変わったの、いつか覚えてる?」

お父さんが常連の店だよねと確認してから、姉が答えた。

「1年前かな?おやじさん亡くなって、弟子の人になったよね」
「その弟子って、いつから働いてたっけ?」

そうだなあと考える間があって、姉は言った。

「私が初めて見たの、たぶん3年前かな。大学のゼミが始まった時だから」

犯人は態度良好で刑期切り上げになっている。
切り上げ期間は3年。

そしてもとの懲役期間は、13年だった。

「そっか、」

切長い目が細くなる。

安本はもう、ミスをしてくれた。
けれど、まだ周太は気づいていない。
けれど、安本はもう、こんな簡単なミスをしてくれた。
きっとまた、隠そうとして逆に、ミステイクをするだろう。

競技大会の日、見かけた安本は人が好さそうだった。
たぶん嘘など、苦手なタイプ。
嘘をついてもどこからか、綻びが出てしまう。
だからもうこんなふうに自分には、安本のミスが解ってしまう。

周太は純粋で、本来の性質は人を疑わない。
安本が、周太の父の同期なことは本当だ。
安本が、周太を心配している善意も本物だろう。
だからまだきっと周太は、安本のミスにも気づいていない。

けれど周太は聡明で怜悧だ。
安本のミステイクがヒントになって、周太に気づかせてしまう。

たぶん今頃は、古巣の新宿署で、安本は根回しをしている。
それが逆に、周太にヒントを与えてしまうだろう。

きっと近々、周太は気づくだろう。
早ければ明日にでも。

明日は周太は当番勤務、明後日は非番になっている。
明後日は非番だけれど、午前中は訓練で、周太は術科センターへ行く。



明後日、周太には、射撃の特別訓練員として、拳銃使用許可がおりる。





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望見、花翳―another,side story「陽はまた昇る」

2011-10-24 20:52:32 | 陽はまた昇るanother,side story
※終盤1/4念の為R18(露骨な表現はありません)

花よせる想いは、




望見、花翳―another,side story「陽はまた昇る」

懐かしい家は、端正な静けさで迎えてくれた。
ゆっくりと年経た木肌の門を開けると、馴染んだ木々の風が迎えてくれる。
ふっとあの香りが頬を撫でた。今年も咲いてくれたのだろう、周太はそっと微笑んだ。

「庭を見ていい?」

そう言って宮田は、飛び石を逸れて、庭木の繁る方へ足を向けた。
門を閉じてから、周太も庭をのぞいた。

「…あ、」

宮田は、あの木を見あげていた。
常緑の梢に浮かんだ白い花。陽の光に透けながら、凛と佇んで咲いている。
今年もちゃんと咲いてくれている、嬉しくなって周太は微笑んだ。

「山茶花だよ。これは雪山っていう名前」
「雪山?」

宮田が花を見つめたまま微笑んで、木の名前を呼んでくれる。
なんだかそれが嬉しくて、気恥ずかしい。

「そう、」

この木の事を、話そうか。
なんだか、気恥ずかしい話だと思う。
それでも、この隣なら、知りたいかもしれない。

―大切な人のこと、何でも知りたいだろ?

昨日の競技大会前に、そんなふうに言ってくれた。
やっぱり言ってみよう。周太は口を開いた。

「俺の誕生花なんだ。生まれた時に両親が植えてくれた」

似合うなと呟いて、きれいに宮田が笑ってくれた。

「きれいな木だな、」

ふっと抜ける風に、白い花弁が一枚ずつ舞った。
幼いころから親しんできた香が、花弁と一緒に降ってくる。

この花は椿と似ているけれど、花弁が一枚ずつ舞うように散る。
急ぐことなく、風に手をとられるように、穏やかに花をふらして散っていく。
そういうところも、周太は好きだった。

視線を感じて、隣を見あげた。
すこし不思議な雰囲気で、宮田が周太を見つめてくれる。
こんなふうに、見つめてくれて嬉しい。嬉しくて、周太は微笑んだ。
微笑んだ頬に、そっと長い指の掌がふれた。

「好きだ、」

覗きこむ静かな笑顔が、すっと周太に近づいて、唇に唇がふれた。
どうしていつもこんなふうに、ふれてくれるのだろう。
いつも本当は途惑って、けれど、どうしても嬉しくて、こんなふうにされている。


昼前に、仕事から母は帰って来てくれた。
贈られた花束を抱えて、母は幸せそうに微笑んだ。

「秋明菊と、チョコレートコスモスが嬉しいな」

こういう母の笑顔は、久しぶりに見た。
宮田はいつもこんなふうに、母まで笑顔にしてくれる。

久しぶりの実家の台所は、相変わらず清潔で使いやすかった。
さっき庭から摘んできた野菜達も、きれいで瑞々しい。
母の好みの料理を作りながら、少し迷った。
宮田の好みの料理。この材料でも何か、作れるだろうか。

「周太、」

想っていた声に名前を呼ばれて、じゃがいもを落としてしまった。
ほらと拾ってくれて、宮田が笑いかけてくれる。

「お母さんに、庭を案内してもらっていい?」
「あ、ん。いろいろ、きれいだよ」

なぜだか宮田に笑われた。
たまにこんなふうに、宮田に笑われてしまう。
途惑うけれど、でもなんだか嬉しくて、悪くない。

リビングの窓ごしに、木蔭のベンチに座る二人が見える。
木洩日が二人の髪に揺れる、やわらかな秋の陽が穏やかだった。
並んで座る二人は、なんだか似合って、そして、きれいだった。
それが不思議で、けれどそんなに嫌じゃない。

前にアルバムを眺める二人を見た時は、すこしだけ妬いてしまって、なんだか悲しかった。
けれど今はもう、そんなふうには思わない。
なぜなのか、周太には不思議だった。

仕度がほとんど終わって、皿を選んでいたら母が来てくれた。
この皿かなと渡しながら、母が微笑んだ。

「周太が着ているの、宮田くんが選んだ服?」

見ればそれは解るだろうと思う。
きっと今日は訊かれる、そう思っていた。
けれどやっぱり、訊かれるのはなんだか恥ずかしい。
それでも、小さい声だけれど、周太は答えた。

「…ん、そう」
「よく似合ってる。ちゃんと周のこと見てくれている、それが解るな」

素敵ねと、笑った母の顔が明るい。こういう顔で笑う母は、随分と久しぶりだった。
それが嬉しくて、周太も微笑んだ。

「ありがとう」

こんなふうに話せるのは、嬉しい。
母が笑ってくれる、その笑顔が明るくなった。
宮田と母は庭で話した。きっとそのことが、こんなふうに母を明るくした。

母の目許が少し赤い。きっと母は、素直に涙を流せた。
そのことが嬉しい。

周太が母の涙を見たのは二度。
父が殉職した夜に一筋、自分が警察学校へ行くと告げた夜は幾筋も。
だからこれは、三度目の母の涙。
母は二度とも自分で涙を拭った。けれどきっと三度目は、宮田が拭ってくれただろう。
だって母は今、笑っている。

母は簡単には泣けない。そういう気高さは、周太が好きで悲しいところだった。
それでも母が涙を流すとき。それは心が壊されかけて、悲鳴が涙に変わる時だけ。

庭での会話で、母はきっと心の痛みを宮田に晒した。
そんなふうに誰かに、心開いて痛みを晒して、涙を流して頼る姿。
そんな母の姿は周太は知らない、息子の周太にすら母はそれが出来ないから。
だからそんなふうに、母が誰かに心を開くことは、13年絶えてなかった。

父が亡くなってから、母は書斎に籠る時間を持つようになった。
たぶんあの安楽椅子に座りこんで、そっと静かに泣いている。
遺された父の気配に抱かれて、かすかな父の残像にだけ心を開く。
たぶんきっとそんなふうに、13年過ごしていた。

父を失う前からもずっと、母は周太の大切な場所。
そして父を失ってからは、お互いだけしかいなかった。

ふたりだけで寄添う日々は、穏やかだけれど寂しくて。
相手の痛みが解るから、お互い涙を見せられない。そんなふうにお互いに、開けない心を持て余していた。
二人でいるのに本当は、孤独がふたつ並んでいるだけだった。

けれど今日、宮田が母を泣かせてくれた。
きっと静かに佇んで受けとめて、きれいに笑って涙を拭ってくれた。
あの隣の、きれいな笑顔。
いつも自分を受けとめてくれるように、今日、母を受けとめてくれた。

―大切な人のことは何でも知りたい。そして全部受け止めて、大切にしたいから

母の花束を携えて、宮田が言ってくれた言葉。
その言葉の通りに、母をも受けとめて、大切にしてくれた。
こんなふうに宮田は、言ったことは現実に叶えていく。

穏やかで静かな気配。きれいで優しい笑顔。健やかで素直な心。
それから端正な顔と。心に響く低い、きれいな声。
いつも力強い腕、無駄のない背中。

そういう全てを掛けて、自分の隣に寄り添ってくれている。
だから信じてしまう。この隣はきっと、どんな場所からも自分を救ってくれる。
そしてもう解っている、きっとずっと、隣にいてくれる。

今日は11月3日、自分の誕生日。
交番での夜明けは、現実の重みが悲しかった。けれどそれすらも、一通のメールで救ってくれる。
そうして今こんなふうに、母の笑顔を取り戻してくれた。
幸せで、嬉しくて、あたたかい。
きっと自分の顔は今、子供のころと同じ顔で笑っている。

肉ジャガだけで、宮田は3杯ごはんを食べた。
他の惣菜も食べながら、じきに6杯めを平らげそうだ。

「今まで食った中で、この肉ジャガが一番うまい」

そんなふうに健やかに笑って、母の笑顔までひきだしてしまう。
思いついて付足した料理、それなのに喜んでくれる。
なんだか少し申し訳なくて、そして、嬉しい。

それにしても、よく食べる。
健やかな食欲は、見ていて気持ちが良い。
警察学校時代は、こんなに食べていただろうか。

箸を動かす指は相変わらず、きれいで白く長い。
けれど、あわい紫のシャツの袖、すこし捲ってのぞく腕は、頼もしくなっている。
山ヤの警察官としての日々が、この隣を成長させている。
なんだか、眩しい。

そんなことを思いながら、つい見てしまう。
すこし周太が箸を止めた時、宮田が隣から笑いかけた。

「ごめん。飯、まだあるかな」
「ん、たくさんある」

5合炊いておいて良かった。でも次はもっと炊いたほうが良いのかも。
そんなふうに思いながら、おかわりの茶碗を受け取った。

食事の後で食べた、ケーキが懐かしかった。
幼い頃からよく、母が選んでくれる。オレンジの香りと軽い甘み、母も好みの味。
そして今日は、宮田も一緒に食べてくれている。
結構この隣も気に入っている。そんな様子が解るのが、周太は嬉しかった。

食器を洗っていると、母が声をかけてきた。

「じゃ、お母さん出かけるね」
「え、」

振り向いた母は楽しそうに笑っている。
一泊だけどねと、小さな荷物を見せられて言われた。

「職場のお友達とね、温泉に行く約束なのよ」

なんでもないふうに笑う。
でも今日明日と、せっかく母と過ごそうと思っていたのに。
そう言いかけた周太に、母は微笑んだ。

「ずっとこの家で、私は毎晩を過ごしてきたもの。
 お父さんの気配も、周太の事も、一人にしたくなかったから。
 でも、今日は大丈夫だろうから、他の場所の夜を見に行こうと思って」

たぶん母は、昨日この予定を決めた。
当番勤務前の電話で、宮田も一緒と聞いたから決めたのだろう。

他の場所の夜を見に行く。
そういう自由を持つ方が、母にはきっといい。

でもふたりきりでのこされるのもなんだか困る。
そんなふうに途惑ってしまう。
けれど宮田が母に、きれいに笑いかけて答えてくれた。

「明日は仕事です。だから、夜明けまでなら留守番ひきうけます」
「うれしいわ、お願いね」

父の殉職からずっと、遺された父の気配と共に夜を過ごしてきた。
周太自身、それが当然のようになっていた。たぶん母もそうだったろう。
けれど今日、ようやく母の中で何かが変わった。
今まで通りに穏やかな、けれど庭から戻った母の表情は、眩しくて明るい。

母の行動は今までにない事で、途惑う。
それにこんなふうに、ふたりのこされるのも、途惑う。
けれど、母を送出してあげたい。周太は頷いた。

「ん、わかった。楽しんできて」

楽しんでくるわと微笑んで、母がおねだりをしてくれた。

「でもお昼は家で食べたいな。たぶん、帰りはお昼過ぎ」
「ん、仕度しておく」

こんなふうに言ってもらえると、嬉しい。
宮田を母が頼るのは、仕方ないなと素直に認められる。
けれどやっぱり自分にも、少しは頼って甘えてほしい。

だって母が愛したひとの息子は、自分。
だからきっと、父が母を愛した想いのかけらが、自分の中に遺されている。
だからいつも思う。父の想いの為にも少しくらい、自分にも甘えてほしい。
そのためにこんなふうに、家事だって上手に自分はなったのだから。

母の荷物を持って、門まで宮田が見送ってくれた。
荷物を受け渡しながら、ふたりは何かをささやき合って、そっと笑う。
なんの話をしているのだろう。
良く解らないけれど、母の楽しそうな顔が、周太は嬉しかった。

それから母は顔をあげて、宮田へと笑いかけた。

「宮田くん、明日は行ってらっしゃい。そして今度、またここへ帰って来て」

父の殉職から誰も、この家に入れる事は無かった。
遺された父の気配を壊されたくなくて、誰へも門を閉ざしてきた。
けれど今、母は言ってくれた―またここへ帰って来て 
こんなふうに、この家に、宮田の居場所を示してくれる。

卒業式の翌朝、宮田は母親に拒絶された。
それが自分の為だと言うことが、それが悲しくて苦しい。
それでも、この隣から離れる事が出来ない。そんな自分は狡いと思う。
自分の母親を捨てても宮田は、自分の隣に来てくれた。
だからこうして自分の母親が、この隣を受け入れてくれる事が、嬉しい。

母の心が開かれたのは、この隣の笑顔のため。
いつもこんなふうに、この隣は願いを叶えてくれる。
母の変化に途惑う、けれど、嬉しい。
隣を見あげると、きれいな笑顔が母へと笑いかけた。

「はい、必ず。ただいまって言わせて下さい」
「約束ね。お帰りなさいって言わせて」

そんなふうに明るく笑って、軽やかに母は行ってしまった。
母のこういう姿は嬉しい、けれど、やっぱり少し途惑う。
あんまり急で、頭は理解しても、心は途惑ってしまう。
門の前から母を見送って、周太は首を傾げた。

「急にどうしたのかな、お母さん」

隣を見あげると、きれいな切長い目を細めて、見つめてくれていた。
ただ微笑んで、隣に静かに佇んでいる。


父の書斎の窓を開ける。
山茶花の香が、ここにも流れこんで頬を撫でた。
重厚でかすかに甘い、父の遺した懐かしい香り。窓からの風と一緒に、そっと流れていく。

書斎机に活けられた、山茶花の白さがきれいだった。
白い花の翳から、父の笑顔が笑いかけてくれる。
その前に、宮田が一葉の写真を供えてくれた。

青空を梢に抱いた、大きなブナの木。
写真の中で、不思議な包容力と一緒に、きれいな姿で佇んでいる。
きっと話してくれた、あの木だろう。そう思って周太は訊いてみた。

「話してくれたブナの木?」
「ああ、」

きれいに宮田が笑いかけてくれる。
メールの写真ではなくて、実際に見せてあげたい。そう言ってくれている木。
けれど周太の父に見せたいと思ってくれたのだろう、そんな心遣いが嬉しかった。
そっと周太は微笑んだ。

「きれいだね、」

真直ぐに穏やかに佇む、ブナの木。
山の水を抱いて立つ木なのだと、このあいだ教えてくれた。
真直ぐで穏やかで、抱きとめる包容力。
写真を撮った、この隣の心が映っている。そんなふうに思えた。


木枠にはめこまれた、昔のガラス窓からの光は、やわらかくて好きだ。
久しぶりの部屋は、馴染んだ空気が居心地いい。
けれど、こんなふうに居心地いいのは、たぶん隣のせいだろう。

窓辺に凭れながら他愛ない話をしていたら、ポケットの携帯が3秒振動した。
なにげなく開いてみたら、関根からだった。

From  :関根
subject:誕生日おめでとう
本 文 :近々飲みいこう、瀬尾も誘ってさ。宮田は来られる?

こういうのは嬉しいと、素直に思える。
よく誕生日なんて覚えている、関根はこういう優しさがある。
久しぶりに会えたらいい。

けれど、ちょっとひっかかる。
どうして宮田のつごうを俺にきくのだろう?
これじゃあまるで一緒にいるのを知っているみたい。

「お、関根じゃん」

隣から覗きこんで、笑って携帯を取られてしまった。
どうするのと訊く間もなく、さっさと返信メールをされた。
どうしていつも、こう素早いのだろう。

「はい、どうぞ」

隣は涼しい顔で、返信したメールを見せてくれる。

To   :関根
subject:Re:誕生日おめでとう
本 文 :行く。周太の隣は俺の指定席

どういうこと、だろう。
隣を見あげると、楽しそうに笑っている。

「俺もさ、関根とは電話したりするから」
「…どういうこと?」

きれいな唇の端をあげて、悪戯な目の宮田が言った。

「今日は周太とあうよ。昨夜電話で、そう言っただけ」
「…あのさ、もしかして、一言一句、」

きれいに笑って宮田が答えた。

「そのまま俺は言ったけど?もちろん『周太』って呼んでるし」

宮田の率直さは好きだ。
田中の葬儀でも、秀介に堂々と言ってくれて嬉しかった。
でもちょっと待ってほしい、なんだか同期に知られるのは恥ずかしい。
でも、呼び名と、今日の予定を話したくらいなら、何でも無いことだろう。

そうは思ったけれど、一応やっぱり訊いておきたい。
すこし覚悟しながら周太は訊いた。

「…あの、なんて関根には話しているんだ?」

きれいな切長い目が、嬉しそうに細められる。
そしてきれいな端正な口許を綻ばせた。

「一番大切だから、いつも周太と一緒にいる。それだけだけど?」

なんで隠す必要があるんだと、きれいな顔が笑っている。
こういう顔はちょっと狡い。
こんなに恥ずかしい想いをさせられたのに、許してしまいたくなる。

こういう健やかな素直さが、本当に好きだ。
こんなふうにいつも、胸張っていいんだと伝えてくれる。

でも、恥ずかしくて、しばらくは関根には電話できない。
だから一言くらい文句言いたい、小さい声で周太は言った。

「やっぱりみやたは馬鹿なんだ」
「どうせ馬鹿ですけど?」

ほら、またこんなふうに。軽々と笑ってくれる。
たまに憎たらしいけれど、でも、本当は、どれも全てが、嬉しい。


明るい陽射がふるベッドで、ふたり並んで本を読み始めた。
ほんのすこしだけ凭れた、隣の肩があたたかい。
気持よくて眠りかけた視界に、隣が開いたページが映る。
なんだか覚えのある内容に、ふっと周太は気がついた。

「宮田の本、題名なに?」
「はい、」

表紙を見せられて、周太は笑った。

「俺のと同じ」

周太は原文で宮田は日本語訳だけれど、同じ著者の同じ本だった。
お互いの感想を少し話してみると、周太の方が先まで読んでいた。

「先はまだ言うなよ、」

宮田に言われて少しだけ、周太は意地悪をしたくなった。

「それで登山家はね、チベットの国境で」

構わずに話そうとして、見上げた宮田の瞳にすこし途惑った。
なんだか不思議な雰囲気で、惹きこまれるような、きれいな瞳。
いつもと違う。

きれいだけれど、途惑ってしまう。
黙っているのがなんだか苦しい、こんなこと、この隣では今まで無かった。

「…あのさ、み」

言いかけて、そのまま周太は抱きしめられた。

体が動かない。
力強い腕に体を絡め取られて、身動きが出来ない。
埋められた白いシーツが、陽光にまぶしくて瞳を閉じる。
閉じた瞼にそっと、やわらかく唇でふれられた。
ゆるく見開いて、見上げた切長い目は、やっぱり不思議で、きれいなままでいる。

「…みやた、」

呟こうとした唇を、そっと唇でふさがれた。
ふれられた熱が、熱い。
熱くて、なんだか何も考えられなくなっていく。

どうしてしまったのだろう。
ついさっきまで、本の話で笑っていた。つい5秒前のこと。
それなのに、こんなことになっている。

そっと唇が離れて、瞳を覗きこまれる。
瞳の奥まで曝そうと、見つめられる瞳が熱い。
どうしていいのか解らない、こんなことは慣れていない。

けれどもう、なんとなく解る。
なんとなくじゃない、きっと、そうだと、ほんとうは知っている。

きっと、これから、この隣に浚われる。

見上げる瞳に、本当は声をかけたい。けれどもう、声が出なくなっている。
抱きしめる腕に、少しでも拒みたい。けれどもう、力がなぜか入らない。

こんなふうに、なってしまったら、きっと、

孤独に生きるのだと、ずっと思って生きて来た。
自分の背負う痛みは、誰に背負えるものじゃない。
だからずっと自分はひとり、孤独の中で生きるだろう。そんなふうに思っていた。

けれど気がついた時には、この隣が佇んでいた。
気がついた時にはもう、そっと心を開かれて、隣を受け入れていた。
そして卒業式の夜、声も体も変えられて、心まで変えられていた。
それから奥多摩の氷雨の夜、不安に揺すぶられて、心は素直なままに曝された。
もう孤独へなんて戻れない。

瞳の底まで見つめてくれる、きれいな切長い瞳。けれど視線が熱くて、怖い。
穏やかで静かな、やさしい隣。けれど今は、抱きしめられる全てが熱い。

長い指の掌が、自分の服へとかけられる。
何か言わなくては、少しでも拒まなくては。そう思うのにもう、動けない。
呼吸が止まる、それなのに。
見つめられた瞳を、ただ閉じる事すらできない。

「…っ」

かすかな声が、ようやく漏れる。
それでももう、隣へは届かない。
長い指がただ、着ている服も心ごと、絡め取って奪っていく。
心ごと素肌を露わにされて、明るい陽の光へと曝される。

どうしてこんなふうに、求められていくのだろう。
心ごと体も何もかも、求めて抱かれて奪われてしまう。

右腕の赤い痣への視線が熱い。もう、なにをされるのか、解ってしまう。
腰にまわされる腕が、熱い。重ねられていく肌が、熱い。
右腕の痣、強く吸われて、刻まれる。この隣の想いが、深く刻まれる。
刻みこまれる熱が痛い、噛まれて歯がふれる肌、深く刻まれる心。
もうきっと、この痣は消えてはくれない。

本当はこんなふうに、刻まれることは、怖い。
だって、もしも、ひとりにされたら。刻まれた数と深さだけきっと、絶望する。

けれど、今、この見つめてくれる瞳。
きれいで熱い瞳、こうする間中、ずっと語りかけてくれる。
絶対に離さない、孤独になんか戻さない、自分だけ見つめていればいい―
こんなふうに見つめられて、どうして拒むことができるだろう。

声なんてもう、出ない。
この体も動けない、ただ思うがままにされていく。
この隣の想いのたけを、好きなだけ刻まれて、身動きできない。

ただ見開いた瞳の先で、赤い痣が肌に散らされていく。
きっとどれも全て、明日の夜までには消えるだろう。
けれど、あの、右腕の痣。あれだけは消えてくれない。

それから、それから、いま、ふれられる肩。
ようやく消えかけていた痣が、いままた深く刻まれていく。

こんなふうにいつも、逃げようと、消そうとしても、無駄なこと。
こんなふうに、必ず掴まれて、離してなんて貰えない。
そしてそんなふうに、ずっと離されたくないと、願ってしまう自分がいる。


ゆっくり瞠いた視界は、静かな夜になっていた。
透明な夜闇の真中に、きれいな切長い瞳が映る。
この瞳はさっき熱くて。その熱に、瞳の底まで灼かれて、とかされた。
でも今は、ただ穏やかで静かに、そっと微笑んで見つけめてくれる。

「大好きだ、」

きれいな低い声が、そっと告げてくれる。
そんなふうに想われて、嬉しい。自分も応えたくて、周太は微笑んだ。

「…ん、うれしい。お…」

言いかけて、急に恥ずかしくなった。
おれもだいすき。そんなふうに言えたら。でもどうしても、なんだか今は言葉が出ない。

だってこんな。まだ明るいうちに、あんなふうにされて。
きっと何もかも、体も心も、見られてしまった。
ずっと孤独に生きようと隠していた、自分の全て。
それを見られた事が恥ずかしくて、でも嬉しくて、どうしていいのか解らない。

けれど隣は、微笑んで言ってくれる。

「うん、知ってるから」

ゆるやかに力をこめられて、隣が抱きしめてくれる。
きっと本当に、この隣は知っている。
だってもう、陽の光の中で、全て見られてしまった。

そっと見つめてくれる瞳が、夜の底でも明るい。
こんなふうに見つめられる事、こんなに幸せだなんて知らなかった。
この隣にこうして教えられた、あの夜までは知らなかった。
卒業式の夜と今日と。隣にいるのは同じ、けれど、今日はただ幸せが温かい。

これだけなら作れるんだ。
そう言って作ってくれた、クラブハウスサンドがおいしい。
でもこんなふうに、自分のベッドで食べるだなんて。
このシャツすら、着せてもらった。
本当は、夕食も作ってあげたかったのに、気怠さに動けない。
前より痛くは無い、その分なんだか、力が抜けている。

ほんとうにどうしてしまったのだろう。
あんまり恥ずかしすぎて、なんだかもう、頭なんか動かない。
きっと今は、想ったことが、そのまま口に出てしまう。

「ほら周太、ここついてる」

きれいな長い指が、そっと口許を拭ってくれる。
その仕草が優しくて、こんなふうに触れられることが嬉しい。
嬉しくて、きっと顔が笑ってる、そして言葉が出てしまう。

「ありがとう。嬉しい、…もっと触れて、」

隣の切長い瞳が大きくなる。きっと、すごく驚いて困っている。
でも仕方ない、だっていまは頭が動かない。
それに仕方ない、だってこうしたのは、この隣なのだから。

それでも隣は笑って、そっと前髪に指を絡めてくれた。
きれいに笑いながら、きれいな低い声が訊く。

「どういう罰ゲーム?」
「…ばつ、げーむ?」

よく解らなくて訊き返したのに、隣は笑う。
笑ってそのまま、穏やかに唇を重ねてくれた。

そっとまたシーツへ沈められる。
抱えてくれる温もりが、やさしくて嬉しい。なんだか幸せで、周太は微笑んだ。

「あのさ、…訊きたい事あった」

穏やかに微笑んで、なに?と目だけで宮田が訊いてくれる。
見つめられて嬉しくて、微笑んで周太は訊いた。

「どうして、あの木を…見つめていたんだ」
「周太の山茶花のことか、」

そうと周太が頷くと、きれいな笑顔で答えてくれる。

「香に惹かれたんだ。それで見上げて、もっと惹かれた」
「そう…なのか、」

そうだよと微笑んで、きれいな切長い目が見つめてくれた。

「凛としてきれいで、惹かれる香りに佇んで、周太に似ている」
「そう、かな…」

あの木は自分も好きだから、そんなふうに言われると嬉しい。
ただ微笑んでしまう周太に、そっと宮田が教えてくれた。

「困難に打ち勝つ、それが周太の花言葉。ほんと似合ってる」
「ありがとう…でもよく知ってるな、花言葉なんて」

宮田は美形で、こういう台詞は似合うと思う。
けれど性格は物堅くて実直だから、花言葉を知っているのは意外だった。
そうしたら、種明かしだよと宮田が笑って言った。

「お母さんがさ、周太の言葉だからって贈ってくれたんだ。これと一緒にね」

はいと見せられたのは、鍵だった。
どこの鍵だろう。
そう思って見たキーウェイの、刻み方になんだか見覚えがある。

「この家の合鍵だよ、」

嬉しそうな声と、きれいな笑顔。
笑いながら、やさしく抱きしめて、静かに見つめて言ってくれる。

「この鍵は、ずっと大切にする。だから隣にずっといさせて」

今日は11月3日、自分の誕生日。
今日は母が13年ぶりに、心を開いた日。
そしてこの隣が、この家の鍵を受け取った日。

自分だけじゃなくて、この家ごと、この隣は背負ってしまった。

父の真実も辛い現実も、母の痛みも喜びも、そして自分の背負うもの。
すべて抱きとめて軽々と、こんなふうに笑って背負ってくれる。

この隣の、きれいな笑顔。
どうかずっとこのままで、きれいな笑顔のままで、隣にいてほしい。

その為にならきっと、自分だって何でも出来る。そんなふうに思えてしまう。
きれいに笑って周太は、穏やかに隣へ告げた。

「ずっと約束して、ずっと隣で大切にしていて」




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