光、あわくとも温かな
雪が青いと知ったのは、この町だ。
「運転で痛みは?」
「はい、ありません、」
答えながらドアかちり施錠して、足もと白く青く埋もれる。
3月終わる午前の町、銀色そまる森と稜線に英二は笑った。
「いいですね、奥多摩は、」
笑った唇ふれる風が甘い。
甘い香かすかに渋い、漲らす冷気に額も髪も染められる。
もう3月、けれど雪満ちる山里ひろがる隣で山ヤが笑った。
「いいだろうよ、奥多摩は宮田の場所だからなあ、」
肚底じわり響く声、告げてくれる。
こんな言葉きっと2年前なら信じられない、けれど今ただ笑った。
「はい、奥多摩は俺の場所です、」
自分の場所、そう言える。
だって全てを懸けた時間がここにある、その長さと笑いかけた。
「でも後藤さん、俺はまだ一年半です。それでも俺の場所だって言っていいんですか?」
「もちろんだろうよ、」
さらり、肚響く声が笑ってくれる。
その横顔あざやかに雪焼け浅黒い、眦の皺やわらな眼がこちらを見た。
「おまえさん、もう山ヤで生きようって決めちまってるんだろう?」
「はい、」
即答すなおに肯いて、肚ことり落ちる。
鼓動ふかく熱をもつ、軋みだす温度に山ヤが言った。
「山ヤの宮田が産声あげたのは奥多摩だろう?おまえさんが山ヤとして鍛えられて育ったのは、この奥多摩だからなあ、」
産声をあげた、そして鍛えられて育った場所。
そんなふうに言ってくれるんだ?
「後藤さん、俺が、そう言って良いんですか?」
問いかけて見つめる真中、雪焼けの目もと皺ほころぶ。
温かな深い眼ざしは英二を映して、いつものように笑った。
「だってなあ、宮田?この俺が、この奥多摩でおまえさんを山ヤにしたんじゃあないのかい?」
山の経験者が卒業配置される。
それが山岳救助隊を務める駐在所の常識で、だから自分の着任は異例だった。
それでも敢えて選んでくれた上司は、ぽん、大きな掌で背を敲いてくれた。
「吉村にも光一にも宮田は育てられとるだろ、二人とも生粋の奥多摩人だよ。奥多摩が今のおまえさんを生んだんだ、」
奥多摩が自分を生んだ。
そんなふうに言えるなら、どれだけ幸せだろう?
「俺、ずっと憧れてきたんですよ…山育ちの山ヤに、」
想い声になる、ほら息が白い。
3月終わる今もう都心は春、桜も咲く、けれど今ここは雪。
こんなに凍えて、桜も遠くて、それでも愛しい場所に微笑んだ。
「ここが俺の帰る場所です、きっと、」
自分を山ヤとして生んだ場所、そして自分は山に生きていく。
ありのままの想い見つめる右腕すこしだけ重たい、けれど温かい。
巻かれたサポーターさっきより馴染んで、そんな感覚ごと笑いかけた。
「後藤さん、七機から青梅署に戻れること多いんですよね?期待していいですか、」
今は第七機動隊の山岳レンジャー所属、そこから所轄に戻る者は多い。
また山の警察官として暮らせたら?すなおな願いに上司も笑った。
「俺だけで決められんよ、それになあ?五日市もおまえさん欲しがってるぞ、」
五日市署は青梅署と隣接、奥多摩の管轄を分け合う。
それに顔見知りもいる、懐かしい遠い山に微笑んだ。
「五日市の方には研修と遠征でお世話になりました、」
「そのとき宮田を気に入ったらしいぞ、今の七機は元五日市が多いしなあ、」
答えてくれる深い瞳、どこか誇らしげに明るい。
こんなふうに笑ってくれること嬉しくて、想い素直に笑いかけた。
「はい、黒木さんと浦部さんも元五日市です、」
「あの二人なら、そりゃ山ネットワークに乗るだろうよ、」
さくり、雪埋もれる道を歩きだす。
登山靴なじます冷気の音、凍てつく風かすかな甘さ慕わしい。
任務でもなくただ山の雪を踏む、のどやかな氷冷に上官が言った。
「黒木から聞いたろうが、おまえさん次の昇進で現場ちっと離れて警大だ。専門学校と時期が重なるが、融通でダブルスクールになるよ、」
昇進、警大、学校。
もう告げられる近い未来たち、その言葉に問いかけた。
「ありがとうございます、でも警察大学校とダブルスクールなんて可能なのですか?」
警大、警察大学校の略称。
一般的な大学とは異なる省庁大学校、いわゆる研修施設。
そんな場所で「融通」など可能だろうか?疑問に上司が口をひらいた。
「蒔田がなんとかする言ったから可能だろうよ、おまえさんも骨休めにちょうどいいんじゃないかい?」
ちょうどいい、そうかもしれない。
『症状が軽い初期なら数ヶ月で回復することが多いです。ですが無理をして、もし神経が強いダメージを受けると軸索変性という状態になります。』
ほら、現実が脳裡めぐりだす。
まだ3時間くらいだ、吉村医師に告げられた現実たち。
『軸索変性になると回復速度は1日1mmとも謂われているんだ、そして肘から指先まで30cm以上あるだろう?もし放置すれば完全な回復が得られないかもしれないんだ』
山の警察医が告げたこと、そのためにも「融通」はちょうどいいのだろう。
息ひとつ吐いて英二は微笑んだ。
「はい、しっかり学んで休みます、」
「うんうん、それがいい、」
肯いてくれる雪焼けの笑顔ふっと緩む。
このひとも緊張いくらかしていたのかな?つい見つめた真ん中に言われた。
「あとな、筋トレも負担かけない方法でやるんだぞ?おまえさんはマジメだから心配だよ、休養もマジメにとってくれな、」
こんな心配されるんだ、この自分が?
2年前と違いすぎる今、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
「はい、まじめに負担かけない方法でやります。きちんと休養もしますね、」
「ぜひそうしてくれよ?よくよく体は大切になあ、」
返してくれる声、深く響いて温かい。
大切にと言ってくれるんだな?素直な感謝に笑いかけた。
「はい、大切にします。自由に山を歩けるように、」
声にした想い、稜線はるか銀色にじむ。
雪曇やわらかな銀色が青い、頬ふれる冷気ほろ苦く香る。
ただ歩いてゆく静寂ほの明るい、否定も肯定もなく、ありのまま自分でいる。
(to be continued)
第86話 花残act.30←第86話 花残act.32
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英二24歳4月
第86話 花残 act.31 side story「陽はまた昇る」
雪が青いと知ったのは、この町だ。
「運転で痛みは?」
「はい、ありません、」
答えながらドアかちり施錠して、足もと白く青く埋もれる。
3月終わる午前の町、銀色そまる森と稜線に英二は笑った。
「いいですね、奥多摩は、」
笑った唇ふれる風が甘い。
甘い香かすかに渋い、漲らす冷気に額も髪も染められる。
もう3月、けれど雪満ちる山里ひろがる隣で山ヤが笑った。
「いいだろうよ、奥多摩は宮田の場所だからなあ、」
肚底じわり響く声、告げてくれる。
こんな言葉きっと2年前なら信じられない、けれど今ただ笑った。
「はい、奥多摩は俺の場所です、」
自分の場所、そう言える。
だって全てを懸けた時間がここにある、その長さと笑いかけた。
「でも後藤さん、俺はまだ一年半です。それでも俺の場所だって言っていいんですか?」
「もちろんだろうよ、」
さらり、肚響く声が笑ってくれる。
その横顔あざやかに雪焼け浅黒い、眦の皺やわらな眼がこちらを見た。
「おまえさん、もう山ヤで生きようって決めちまってるんだろう?」
「はい、」
即答すなおに肯いて、肚ことり落ちる。
鼓動ふかく熱をもつ、軋みだす温度に山ヤが言った。
「山ヤの宮田が産声あげたのは奥多摩だろう?おまえさんが山ヤとして鍛えられて育ったのは、この奥多摩だからなあ、」
産声をあげた、そして鍛えられて育った場所。
そんなふうに言ってくれるんだ?
「後藤さん、俺が、そう言って良いんですか?」
問いかけて見つめる真中、雪焼けの目もと皺ほころぶ。
温かな深い眼ざしは英二を映して、いつものように笑った。
「だってなあ、宮田?この俺が、この奥多摩でおまえさんを山ヤにしたんじゃあないのかい?」
山の経験者が卒業配置される。
それが山岳救助隊を務める駐在所の常識で、だから自分の着任は異例だった。
それでも敢えて選んでくれた上司は、ぽん、大きな掌で背を敲いてくれた。
「吉村にも光一にも宮田は育てられとるだろ、二人とも生粋の奥多摩人だよ。奥多摩が今のおまえさんを生んだんだ、」
奥多摩が自分を生んだ。
そんなふうに言えるなら、どれだけ幸せだろう?
「俺、ずっと憧れてきたんですよ…山育ちの山ヤに、」
想い声になる、ほら息が白い。
3月終わる今もう都心は春、桜も咲く、けれど今ここは雪。
こんなに凍えて、桜も遠くて、それでも愛しい場所に微笑んだ。
「ここが俺の帰る場所です、きっと、」
自分を山ヤとして生んだ場所、そして自分は山に生きていく。
ありのままの想い見つめる右腕すこしだけ重たい、けれど温かい。
巻かれたサポーターさっきより馴染んで、そんな感覚ごと笑いかけた。
「後藤さん、七機から青梅署に戻れること多いんですよね?期待していいですか、」
今は第七機動隊の山岳レンジャー所属、そこから所轄に戻る者は多い。
また山の警察官として暮らせたら?すなおな願いに上司も笑った。
「俺だけで決められんよ、それになあ?五日市もおまえさん欲しがってるぞ、」
五日市署は青梅署と隣接、奥多摩の管轄を分け合う。
それに顔見知りもいる、懐かしい遠い山に微笑んだ。
「五日市の方には研修と遠征でお世話になりました、」
「そのとき宮田を気に入ったらしいぞ、今の七機は元五日市が多いしなあ、」
答えてくれる深い瞳、どこか誇らしげに明るい。
こんなふうに笑ってくれること嬉しくて、想い素直に笑いかけた。
「はい、黒木さんと浦部さんも元五日市です、」
「あの二人なら、そりゃ山ネットワークに乗るだろうよ、」
さくり、雪埋もれる道を歩きだす。
登山靴なじます冷気の音、凍てつく風かすかな甘さ慕わしい。
任務でもなくただ山の雪を踏む、のどやかな氷冷に上官が言った。
「黒木から聞いたろうが、おまえさん次の昇進で現場ちっと離れて警大だ。専門学校と時期が重なるが、融通でダブルスクールになるよ、」
昇進、警大、学校。
もう告げられる近い未来たち、その言葉に問いかけた。
「ありがとうございます、でも警察大学校とダブルスクールなんて可能なのですか?」
警大、警察大学校の略称。
一般的な大学とは異なる省庁大学校、いわゆる研修施設。
そんな場所で「融通」など可能だろうか?疑問に上司が口をひらいた。
「蒔田がなんとかする言ったから可能だろうよ、おまえさんも骨休めにちょうどいいんじゃないかい?」
ちょうどいい、そうかもしれない。
『症状が軽い初期なら数ヶ月で回復することが多いです。ですが無理をして、もし神経が強いダメージを受けると軸索変性という状態になります。』
ほら、現実が脳裡めぐりだす。
まだ3時間くらいだ、吉村医師に告げられた現実たち。
『軸索変性になると回復速度は1日1mmとも謂われているんだ、そして肘から指先まで30cm以上あるだろう?もし放置すれば完全な回復が得られないかもしれないんだ』
山の警察医が告げたこと、そのためにも「融通」はちょうどいいのだろう。
息ひとつ吐いて英二は微笑んだ。
「はい、しっかり学んで休みます、」
「うんうん、それがいい、」
肯いてくれる雪焼けの笑顔ふっと緩む。
このひとも緊張いくらかしていたのかな?つい見つめた真ん中に言われた。
「あとな、筋トレも負担かけない方法でやるんだぞ?おまえさんはマジメだから心配だよ、休養もマジメにとってくれな、」
こんな心配されるんだ、この自分が?
2年前と違いすぎる今、なんだか可笑しくて笑ってしまった。
「はい、まじめに負担かけない方法でやります。きちんと休養もしますね、」
「ぜひそうしてくれよ?よくよく体は大切になあ、」
返してくれる声、深く響いて温かい。
大切にと言ってくれるんだな?素直な感謝に笑いかけた。
「はい、大切にします。自由に山を歩けるように、」
声にした想い、稜線はるか銀色にじむ。
雪曇やわらかな銀色が青い、頬ふれる冷気ほろ苦く香る。
ただ歩いてゆく静寂ほの明るい、否定も肯定もなく、ありのまま自分でいる。
(to be continued)
七機=警視庁第七機動隊・山岳救助レンジャー部隊の所属部隊
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