萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

奥津城、掌の中―side story「陽はまた昇る」

2011-09-30 21:12:10 | 陽はまた昇るside story

奥津城―おくつき 死体遺棄による古代葬法、柩を置く場所
      奥深い所にある遮断された境域  




奥津城、掌の中―side story「陽はまた昇る」

目覚めると青空が眩しかった。奥多摩の稜線が、あざやかに目に映る。
カーテンが開いたまま、掌には携帯が握りしめられていた。
湯原と電話を繋いだまま、昨夜は眠ってしまったらしい。布団も掛けていないけれど、体調は爽やかだ。
湯原の声を聴いて眠った効果だなと、英二は我ながら可笑しかった。

昨夜、青梅署で吉村医師を見送った後、隣接する寮へそのまま帰ってきた。
着替えだけ持って、すぐ浴場で体中を洗った。
死体見分の死臭が染みついているようで、早く洗い落してしまいたかった。
多少さっぱりはしたけれど、心は本音重かった。

自室に戻って気が付いた携帯の着信メールに救われた。
あの声を聴いて眠って、今の気持は随分と晴れている。湯原の声が仄暗い心を静かに拭ってくれた。
一晩中ずっと声を聴いたはずなのに、今また声を聴きたい。


洗面を済ませて着替えると、気持は大分落着いていた。
きちんと腹も減っている。
頬をぱんと両手で叩いて、英二は食堂へ歩いていった。

朝食のトレイを受取って振り返ると、同じ御岳勤務の国村が立っていた。
おはようございますと声を掛けると、国村が一緒に食おうと誘ってくれた。
ちょうど空いていた窓際に、向かい合って座る。山嶺が目に眩しかった。
いただきますと合掌して箸を持つと、国村が口を開いた。

「宮田くんはタフだね」

英二が箸を止めようとすると、食べながらで良いからと国村は笑ってくれた。
警察官は上下関係が厳しい、けれどここでは皆が気さくだ。山の所為なのかなと英二は思う。
昨日はお疲れさまと労って、国村は続けた。

「僕はね、最初の見分の後、食事できなかった」
「国村さんが?」

意外だった。
物静かだけれど冷静な雰囲気の国村が、そんなふうになるとは想像し難い。

駐在所は二種類ある。隣接の官舎に居住常駐する警察官一人の駐在所と、複数の警察官が勤務する複数駐在所。
そして英二が勤務する御岳駐在所は複数駐在所で、二人勤務制になっている。
ここは御岳山から大岳山を管轄にもつため巡回パトロール時間も長く、単独駐在では不在がちになる為だった。
現在は岩崎が居住常駐し、青梅署付設の独身寮から二名が交替で通勤駐在をしている。

そのため、国村と英二が一緒に勤務する事はごく稀になる。
まだ勤務を共にはしていないが、署付の独身寮でよく顔を合わせていた。
けれど国村が感情を揺るがす姿は、まだ英二は見た事が無い。
食事中の会話じゃないけどねと微笑んで、国村が言った。

「2,3日は肉系は食べられなかったかな」

そう言う人けっこう多いよ。言いながら国村も箸を運んだ。
自分は結構、無神経なのだろうか。口を動かしながら、英二は考え込んだ。
ちょっと英二を見、国村が微笑んだ。

「山岳救助の適性、宮田くんは有ると思う」
「俺がですか?」

思わず「俺」と言ってしまった。
慌てて言い直そうとする英二に、気にしなくて良いと国村が軽く手を振った。

「期は僕の方が先輩だけど、年齢は変わらないと思うから」

僕は高卒で入ったからと国村が言った。
落着いているから、もっと年上だと英二は思っていた。
そんな英二を眺めて国村は、すこし悪戯っぽく口の端をあげた。

「意外だって顔してる」
「いや。国村さん落着いているから」

よく言われるよと国村は味噌汁を啜り、そうだとまた口を開いた。

「来週、訓練あるって聴いている?」

青梅署では山岳救助隊の訓練が多いことは知っている。けれど来週の話はまだ、聴いていなかった。
昨日の事件で、岩崎は話しそびれたのだろうと、国村は軽くうなずいた。

「雲取山で合宿訓練になるから」

雲取山は標高2,017m、警視庁管轄では最高峰になる。決して高い標高ではないが、遭難者も多い。
奥多摩は観光地と山岳地が重複する。ある種、特異なエリアになっていた。
それだけに、軽い気持ちで装備も持たず、入山して下山できなくなる例が多い。

「初訓練だね、宮田くん」
「はい、」

訓練は、厳しいと聞く。警察学校時代の訓練など、楽に感じるのだろう。
山岳訓練で湯原を背負った、遠野教官の背中が懐かしい。
絶対にあの背中を越えてやろう。昨夜すこし曲げられた背筋が、すっと伸びた。



今日は本来当直の日だが、岩崎が常駐している為、実際は日勤になる。
朝早くから、登山届の受付が多い。
日々あざやかになる黄葉に惹かれて、山を歩いてみたくなるのだろう。
世田谷の街中で生まれ育った英二は、その気持は分かるなと思う。

駐在所の入口には、よく晴れた青空と稲穂の黄金が眩しい。
遠く子供の声が響く、登校時間なのだろう。
さっき届を出したハイカーの夫婦の、楽しそうな話声が遠ざかっていく。
のどやかな田舎の、平和な風景だった。

それでもここでは、昨日のような事が起きる。
相反する表裏を持つ場所。昨夜と今朝の落差に、少し途惑う。
けれど思っていたより、自分は落着いている。

警察学校の資料で、鑑識資料など湯原と眺めてはいた。死体見分の写真も見てはいる。
昨夜は実物の凄みに混乱もした。けれど、どこか冷静に行動する自分がいた。
顔を強打するような異臭にも、吐くようなことは無かった。
ぽつんと英二は呟いた。

「立籠り事件のせい、かな」

遠野教官が狙撃され、実物の血を見つめ臭いを嗅いだ。
犯人の狂気も間近に見つめた。
あの経験が、冷静になる基盤となったのかもしれない。

あの事件は何時間も続いた。
その間なんども英二は、湯原の瞳を見た。
理不尽な拘束にも勁さを失わない、湯原の瞳がきれいだった。
自分もあんなふうに、強くなれたらいい。

ぼんやり眺めていた田園風景に、のっそり岩崎が入ってきた。
おはようございますと英二が挨拶すると、おやっと岩崎が微笑んだ。
おはようと答えながら、英二の前の椅子に腰を掛ける。

「宮田は、良い男だな」
「なんですか。急に」

朝から何を言うのだろう。英二は笑った。
岩崎も目を和ませて、口を開いた。

「昨日の後なのに、今朝も良い笑顔だ」
「ありがとうございます」

英二は微笑んで、登山届のファイルを渡した。
既に提出された通数を申し送りし、朝の巡回パトロールに出かける。
自転車には、緊急用のザイルや懐中電灯を積んでいく。

行ってきますと通りへ出ると、自転車牽引のリヤカーがやってきた。
いっぱいに野菜を積上げて、おばさんは重そうに漕いで行く。
英二は笑顔で声を掛けた。

「おはようございます」
「おはよう、」

頬を紅潮させながら、おばさんは笑いかけてくれた。
その荷台から黄色いカボチャが、ごろんと道へ転げた。
拾い上げて呼びかけたけれど、おばさんは気付かない。漕ぐので精一杯なのだろう。
駐在所の入口から、岩崎さんが笑った。

「それ多分、娘さんに届けに行くのだと思うぞ」

おばさんの娘は、御岳山の旅館へ嫁いでいた。出す料理の食材として、毎朝届けに行っている。
御岳駐在所の巡回コースには御岳山も含む。崖崩れなどの不備や遭難者がいないか、確認のため登山道を毎朝歩く。
怒られるかなと思いながら、英二は口を開いた。

「このカボチャ、巡回の途中で届けてはいけませんか?」
「ああ、全く構わないよ」

そうしてやってくれると助かると、岩崎は微笑んだ。
御岳駐在所は、こんなふうに穏やかだ。こういう所が好きだなと英二は思う。


田園風景を抜けて、渓谷沿いの道を自転車で走る。
ゆるやかな傾斜が、結構きつい。これも全部が訓練になる。
強健な足腰が山岳救助には欠かせない。遠野の背中からも英二が学んだ事だった。
ボルダリングやラフティングを楽しむ人達が、早くも渓谷に入り始めている。
滑落や転覆が起きないよう祈りながら、渓谷にかかる橋を渡った。

滝本駅の隅に自転車を置かせてもらい、登山道を登っていく。
最初はきつい巡回だと思ったが、随分慣れたと足許から感じる。
梢から降る木洩れ日が、山道に揺れている。落葉の色も、日毎に色鮮やかになってきた。
11月には紅葉が見ごろだろうと、町の人たちが言っていた。
11月には、全国警察けん銃射撃競技大会が行われる。出る事になったと、昨夜の電話で湯原が言っていた。

「これが終われば、時間作れると思う」

どこか含羞んだように言われて、かわいくて嬉しかった。
昨夜は事件の後だったというのに。どれだけ自分は、湯原中心なのだろう。

山上につくと、新宿方面が遠望できる。秋晴れの今日は空気も澄んで、遠い市街地が見えた。
湯原はどうしているだろう、今日は日勤だったはずだ。
昨日は週休だったけれど、特錬の練習後には急きょ日勤になったと言っていた。
きちんと体を休めているのだろうか。

カボチャを届けると、若い女将さんは喜んでくれた。
母さんたら仕方ないと言いながら、丁寧に礼を述べてくれる。

「御礼にサービスするわよ。お友達といらっしゃいな」
「これくらいで、気にしないでください」

微笑んで英二は辞すと、ハイキングコースへと戻った。
ロックガーデン、綾広の滝と廻ったが、特に異常は無い。
水の色がきれいだ。ここも東京なのだと思うと、不思議な感じもする。

―山歩きとか、小さい頃は行ったりも、していたんだけど

初めてあの公園を歩いた時、湯原はそんなことを話してくれた。
連れてきたら喜ぶのかなと考えながら、周囲に目を配りつつ下山へ向かった。

駐在所に戻ると、岩崎の妻が昼食を用意してくれていた。
いつもながら申し訳なくて、英二は頭を下げた。

「若者は気にしないでいいの。それより、たくさん食べてね」

ごはんを丼によそって手渡してくれる。見た目と違って、結構豪快な奥さんだ。
駐在所の裏には家庭菜園も作ってある。
見た目は華奢なのに、しっかりと地に足をつけた穏やかさが、湯原の母に少し似ている。
外泊日に一度泊めてもらって以来、彼女には会っていない。きちんと挨拶に行こう、考えながら英二は箸をとった。

午後、昨夜一緒に見分を行った刑事が、英二を尋ねてくれた。
刑事課の澤野だと改めて名乗ると、早速に話を切りだした。

「死体見分調書は、あのまま上へ上げさせてもらったよ」

ありがとうございますと言いながら、すこし英二は安堵した。初めて公式に書くことは、やはり緊張する。
初めてなのに良く書けていたと、澤野に褒められて気恥ずかしかった。
湯原と勉強した日々が、こんなふうに生きている。それが英二には嬉しい。
茶を一口啜ると、澤野は口を開いた。

「昨日の女性の、遺書の話をしに来たんだ」

掌に握られていた、封筒の事だろう。
縊死自殺者は普通、遺書を残さない事が多い。そのために身元特定が苦労させられる。
けれど昨日の遺体は、遺書を握りしめていた。出来心では無く、覚悟の上での自死だった事が分かる。
自分が見つけた遺体なら、その想いも聴いてやる義務がある。小さく息を吸って、英二は澤野を真直ぐ見た。

「はい、伺わせて頂きます」

澤野は微笑んで、軽くうなずいた。
胸ポケットからメモを取り出し、眺めながら話しだす。

「理由は、ご主人を亡くしたからという事だった」

数年前から、彼女は夫の闘病生活を支えていたらしい。
夫の葬儀と後事を全て済ませた上で、彼女はあの場所を訪れた。

「夫と共に逝きたいと、遺書の最後には書かれていた」

まだ40歳だったそうだと言って、澤野は小さくため息を吐いた。
警察医の吉村先生から伝言だと、澤野は続けた。

「離婚も多いこの頃と言うが、深い繋がりが保たれている夫婦はいるのだね。
 自殺は悲しい事だ。それでもその繋がりは美しいと、むしろ心が安められた」

吉村医師の言うとおりだとも思う。
けれど生きてこそ、出会える喜びもあったかもしれない。
ふと気になって、英二は訊いてみた。

「ご両親は、どうされているのですか」
「彼女の両親は既に亡くなっているそうだ。妹さんが今夕、引取りに来る」

そうですかと呟いて、英二は唇を結んだ。
もし自分だったら、どうするのだろう。もし湯原を失っても、自分は立っていられるのだろうか。
とても考えられない、英二は頭を振った。



業務を終えて青梅署に戻ると、ロビーで吉村医師と会った。
若い女性と話している様子に、英二は会釈をして通り過ぎようとした。
ところが吉村は静かに手を上げて、英二を呼び止めた。

「すまないが、すこし時間はあるかい」
「はい、」

こちらへと薦められ吉村の隣に立つ。
いいかい、と目だけで吉村に訊かれ、英二は気が付いた。
前に立つ女性が、深々と頭を下げる。

「この度は、姉がお世話になりました」

ゆっくり上げた顔は、昨夜の面影に重なった。けれど生きている顔だった。
すこし憔悴したような、それでも透明な笑顔が、英二に微笑みかける。

「姉から言付かっていたんです。お詫びとお礼を伝えて欲しいと」

どういうことなのだろう。英二は黙ったまま彼女の顔を見つめた。
すこし潤んだ瞳で英二を見上げ、彼女は言った。

「遺書に、書かれていました。自分を見つけた方へ伝えて欲しいと」

見知らぬ誰かに、何かを託し、託される。
不思議だけれど、そうなのかと納得させられる何かが、英二に響く。
黙ったままの英二の前で、彼女は口を開いた。

「私を見つけることは、その方に辛い思いをさせるでしょう。
 けれど見つけてもらえなくては、私は夫の隣に葬ってもらえない。
 ご迷惑は本当に申し訳ありません。けれど見つけて頂いて、心からの感謝を申し上げます」  

これが姉からの伝言です。言い終わって彼女はまた、深く頭を下げた。
静かに英二は息を吐いた。

―見つけてもらえなくては、隣に葬ってもらえない
 見つけて頂いて、心からの感謝を申し上げます

握りしめられていた、命を失った白い掌。
その掌の中に、彼女の真実が握られていた。

―このような死に方を選んだ人の気持ちが、少し解るなと思うようになりました

吉村医師の言葉が今、解る。
いつか命終わる時を迎えたら。きっと自分も、湯原の隣に葬られたいと願うだろう。
死んだ彼女と自分は、きっと同じ思いを抱いている。
英二は口を開いた。

「お姉さまに、お線香をあげさせて頂けますか?」

自分にも姉が居るんですと、英二は微笑んだ。
前に立つ彼女の目から、涙が零れ落ちた。



食堂へ行くと、ちょうど藤岡と入口で一緒になった。
お互い腹が減っている。しばらく箸を動かす事に専念し、丼飯をお替りしたところで、藤岡が口を開いた。

「昨夜の事、訊いたよ」

ひとこと言って、藤岡は英二を見つめた。
人好い藤岡の困ったような顔が、なんとなく可笑しい。英二は笑ってしまった。
なんだよ宮田と、すこし拗ねたように藤岡も笑った。

「お前の事、タフだって先輩たちが言ってた」
「ん、よく言われる」

軽く冗談が出るようになっている。自分はもう、大丈夫だなと英二は思えた。
お互い食べ終わって、茶を啜りながら英二は口を開いた。

「さっき、検案所で線香上げさせてもらった」

そうかと頷いて、藤岡は湯呑を置いた。
両腕を机において、聴こうと姿勢で示してくれる。同期っていいなと英二は微笑んだ。

「警察医の吉村先生にさ、言われたんだ。
 いくつも見ていくうちに、この死に方を選んだ人の気持ちが、少し解るなと思うようになるって。
 そうしたら、ご遺体を同情の気持ちで見られるようになって、気持ち悪さは無くなるだろうと」

うんと藤岡は頷いて、英二に訊いた。

「宮田は同情の気持ちで、見られたのか」
「ん。ついさっきだけどね」

検案所の霊安室で、彼女は横たわっていた。焚かれる香が、静かにくゆらされている。
眼窩と小鼻が落ちた様子は、死者の顔だった。縊死の跡を隠す、包帯の白が痛々しい。
けれど彼女の顔は、透明な明るさに満ちてみえた。
美しい、と英二は思った。

整えられても遺体は、冷たく無残な事は否めない。
けれど彼女の表情は、彼女が抱いて逝った想いが表われて、美しかった。

生命が消えた遺体にも、心の軌跡は残されていた。
冷たい静謐の底には、温もりがある事を、英二は初めて知った。

―このような死に方を選んだ人の気持ちが、少し解るなと思うようになりました
 ご遺体を同情の気持ちで見られるようになっていました
 そして、気持ち悪さは無くなっていきました

吉村の語った言葉。真実の先を示す鍵を、今なら感じとれる。
彼女が掌の中に遺した遺書、最期の表情。
彼女が遺してくれた想いが、教えてくれた。

彼女に出会えて良かった。
最初に出会えたのが、彼女で良かった。

心から線香を手向け、英二は合掌した。



風呂でまた一緒になった藤岡と、来週の山岳訓練の話をしながら浴槽に浸かった。
気持はすっかり、爽やかになっている。
部屋へ戻ってカーテンを開けると、今夜も星がふるように見える。

彼女は荼毘に付され、妹に抱かれて夫の元へと帰った。
自分もいつかは、この世と別れを告げるだろう。
そのときは、湯原の隣に眠る事ができるのだろうか。

きっと今日は、湯原は眠かっただろう。
それでも今日も、声を聴かせて欲しいと願ってしまう。
携帯を開いて、発信履歴を英二は呼び出した。

「はい、」

いつもの落着いた声が、英二に響く。
ああこの声が好きだ。今すぐに、逢えたらいい。




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奥津城、掌―side story「陽はまた昇る」

2011-09-29 23:43:06 | 陽はまた昇るside story

あざやかな空の下で




奥津城、掌―side story「陽はまた昇る」

実況見分調書を英二は読み込んでいた。
トラクターと自転車の接触事故の現場から戻ってきたばかり、その調書をチェックしている。

よろけた自転車が、トラクターに掠って転倒した。
トラクターのおじさんも自転車のお爺さんも、揃って怪我は無い。
それでも駐在さんに連絡しようじゃないかと、被害者と加害者は仲良くやってきた。
両方の供述調書をとってから、実況見分調書を作り、皆で実況見分に行った。

「へえこんなふうにやるんだねえ」
「お兄サン若いのに、しっかりしているねえ」

のどやかに言いながら、お爺さん達は笑っていた。
今は、英二が調書をチェックする机の向こうで、御岳駐在所長の岩崎と茶飲み話をしている。

「岩崎さん、ここ来てどのくらいだったかね」
「もうじき、一年ですよ」
「へえ早いなあ。そんなになるかねえ」

岩崎は御岳駐在所の常駐だった。駐在所に隣接された官舎に、妻と3歳になる息子が一緒に住んでいる。
他に御岳駐在所には、登山経験の豊富な国村が配属されている。国村と英二が交替で、岩崎と二人で勤務していた。
国村とは独身寮で話したが、物静かで芯の強そうな、頼もしい雰囲気だった。
山に関わる人たちは、気持の良い人柄が多いなと英二は思う。

「今年はよ、黍の作付けがいいな」
「そろそろ刈取だね」
「また今年も、大福こさえて持ってきてやるよう」

目は細かく調書を確認しながら、口許だけで英二は微笑んだ。
紅葉シーズンを迎えるこれからは、山の事故が増えると聞いた。危険に身を晒すことが増えるだろう。
そう思うと、こんな穏やかな空気はやっぱり嬉しい。
この駐在所の雰囲気は、岩崎の人柄なのだろう。

― 君も笑顔で行くと決めたんなら それを通せばいいじゃないか 
  甘くなんかない 警察官が笑顔でいる事は一番難しい事だ

遠野教官の言葉を、岩崎を見るたびに英二は思い出す。
山岳救助レンジャーに所属していた岩崎は、多くの辛い現実を見てきただろう。それでも岩崎の笑顔は明るい。
自分に必要な事が、きっと岩崎から学べるだろう。
ここに来られて良かったと、まだ一週間程なのに思える。

「宮田、お客さんだよ」

先輩の岩崎に声かけられて、確認の終わった調書をファイルへ納めた。
ほら早くと皆に急かされながら、英二は表に出た。

「こんにちは、宮田のお兄ちゃん」
「おう、秀介。学校の帰りか?」

そうだよと頷きながら、秀介はにこにこ笑っている。
卒配初日の午後、英二は崖で滑落した秀介を背負った。それから毎日、秀介は駐在所へやってくる。
きれいに色づいた稲穂が、秀介の顔の向こうで揺れている。陽射しがやや穏やかになった。
そろそろ巡回の時間だなと思っていると、秀介が口を開いた。

「あのさ、算数ちょっと教えてくれない?」
「またかよ秀介」

英二は笑った。秀介の主な目的は宿題だった。
滑落した後、駐在所で母親の迎えを待っている時、時間潰しにと英二は九九を教えてやった。
それが面白かったらしい、秀介は学校帰りに宿題を持って来るようになった。
日曜は英二が非番だったが、土曜は学校が休みなのに、ちゃんと来ていた。

「いいよ宮田。少し勉強見てやってくれ」

岩崎が笑って促してくれる。
すみませんと頭を下げて、英二は駐在所前の土手に座った。
広がる秋の田から、稲穂の風が吹き上げて心地良い。ああ良い所だなと目を細めた。
秀介も並んで腰かけ、ランドセルから教科書を取り出している。
英二は時計を秀介に見せ、時間を区切った。

「15分だけだぞ」
「うん、」

嬉しそうに頷いて、秀介は教科書とノートを開いた。
これから毎日、こうして勉強に来るのかなと思った時、警察学校の寮が懐かしくなった。
自分も毎日、湯原の部屋へ教本とノートを携えた。
勉強も勿論大事だったけれど、それ以上に湯原の隣は居心地良くて、嬉しくて毎日通った。
本当にもう、あの隣ばかり自分は見ている。
今日の湯原は週休のはずだ、今頃どうしているのだろう。


なんとか15分で終わらせて、英二は巡回パトロールへ出た。
秀介は自転車の横にくっついて、歩いている。自分の家の近くまで一緒に行くのだろう。
歩きながらも、ここは?と教科書を見せてくる。
昨日月曜も英二は週休だったから、今日と合わせて3日分の質問を持ってきたらしい。

「秀介は勉強好きなのか」
「うん、ちゃんと解るまでやりたい」

疑問をそのままに出来ない性質らしい。
名前もそうだが、性質まで湯原を思い出させる。幼い頃の湯原の笑顔を、秀介に重ねてしまう。
湯原は、決して楽ではない生き方をしている。
この横を歩いている「しゅう」には、普通の幸せな生き方をして欲しいと思ってしまう。

「あ、美紀だ」

秀介が嬉しそうな声を上げた。
小さな指が差す方を見ると、秀介と同じ年格好の女の子が川縁の土手に立っている。
おーいと秀介が呼んでも気付かずに、なにやら土手を覗き込んでいた。
赤いランドセルが、小さい肩にはまだ重そうに見える。
バランスを崩しそうで危ない、英二は自転車を土手へと向けた。

「美、」

秀介が呼びかけようとした瞬間、赤いランドセルが大きく傾いだ。

水音と、水柱が跳ね上がった。



英二の目の前で、女の子が笑っている。
スカートに泥が付いたが、美紀は怪我もなく濡れもしなかった。
美紀が立っていた場所はえぐれ、あるはずの土手石が無い。今頃は、谷川の底に沈んでいるのだろう。

放り出された自転車が、車輪をくるくる回しながらひっくり返っている。

間一髪だった。
土手を滑りかけた瞬間、英二の長い指の手は、赤いランドセルの肩と小さな掌を掴んでいた。
尻もちついた美紀を抱きかかえ、安全な場所でおろす。
良かった。大きなため息が、胸をせり上がって吐かれた。

「お兄ちゃんありがとう」

かわいい笑顔で英二を見上げている。
やれやれと英二は笑った。

「ここは危ないから、端を歩いちゃいけない所だろ?」

学校でも言われている場所だった。
けれど美紀は悪びれずに、土手の斜面に咲く花を指さした。

「あれ、摘みたかったの」

あわい紫色の花が、ゆらゆら風に咲いている。女の子が好きそうな、かわいい花だった。
立ちあがり、英二は腕を伸ばして摘んでやった。

「危ない所は絶対、歩いちゃ駄目だ。約束を守れるならあげる」
「うん、もう行かない」

嬉しそうに手を伸ばした美紀に、花を渡してやった。
約束だぞと微笑んだ英二を、ちょっと驚いたように美紀が見上げた。

「お兄ちゃん、きれいね」
「え、」

意外な言葉に、英二はすこし目を見開いた。秀介も美紀を見つめている。
見上げる美紀の頬が、すこし赤らんだ。

「なんかね、笑った顔すごくきれい」
「そっか、」

ありがとうと英二は笑った。
この事を湯原に言ったら、なんて言われるだろう。
今夜は何時に電話が出来るだろうと、考えながら自転車を起こした。


ふたりを送って巡回を続ける。
暮れ初めた山里は、淡い紫色の靄がかって霞む。
秋の夕は早まわしに暮れる、自転車のライトを点けた。

―彼誰時

かはたれどき。湯原が読んでいた本に、載っていた言葉。あの時は珍しく日本語訳が付いていた。
すこし離れた場所にいる人の、顔が解り難くなる程度の夕暮だと言っていた。
ちょうど今自分を言うのだろうか、確かに遠目が利き難い。
英二は目を細めて、山林の奥を眺めた。

木々の奥に、白っぽいものが見える。
自転車を止め英二は、持っていた懐中電灯のスイッチを入れた。
林道に入ると、夜の気配が濃くなる。それでも白っぽいものは見えていた。

奥多摩の山は、自殺志願者が大勢やってくる。
卒配先を決める時にも調べ、着任挨拶の研修でも聞いた。
登山道が整備されて山に入りやすく、都心からも近い為だろうか。疲れた人間が決意と一緒に迷い込む。
傾斜の急な暗い道を歩きながら、英二はそっと覚悟をした。

ライトを向けた先に、黒髪と蒼白の顔が照らしだされた。
その足許は、地面から離れている。



無線の連絡で、岩崎がミニパトカーで駆けつけた。青梅署刑事課からも派遣され、現場検証と収容が始まる。
状況撮影が終わると、梢から降ろされた遺体は毛布を掛けられた。

「宮田、出来るか」

岩崎に体温計を渡された。
警察官は「死体見分」遺体の直腸温度を計り、死後経過時間の確認をしなくてはならない。
凍死者や自殺死体等に関しては、公衆衛生、身元確認といった行政目的のために、警察官は行政検視を行う。
いわゆる死体見分を行い、死体見分調書を作成する。
奥多摩地域の配属なら、避けられない実務だった。

「はい、」

英二は短く答え、遺体に向き合った。
瞑目して合掌する。死者に対する礼は失してはいけない。
目を開けると、毛布から蒼白な掌が出ていた。命の気配が無い白さが、胸を刺す。
掌には、封筒が一つ握られていた。

毛布を捲ると、人の死の凄まじさが露わになった。
異臭が英二の顔面を打つ。
遺体は筋肉弛緩が始まっていた。全身の穴から、透明な血と内容物が流れ出る。
命終わることの、生々しい現実が横たわっていた。

それでも触れなくてはいけない。
警察官として生きると選んだ時から、覚悟はしていた。それでも息を呑まれる。
共に見分を行う刑事が、大丈夫かと声をかけてくれた。
小さく頷いて英二は、異臭の中に手を動かした。



死体見分調書を作成し終わって、英二はほっと息を吐いた。
青梅署に戻って、これを刑事課で確認してもらわなくてはいけない。
今は何時なのだろう。時計を見ようと顔を上げると、岩崎の妻が立っていた。

「おにぎり作ってみたのだけど」

食べられるかなと微笑んで、皿を示してくれた。岩崎から話を聴いて、支度してくれたようだった。
不意に姉を思い出した。湯原の事を家族に告げた夜、姉もこんな風に来てくれた。
胸元は何かが詰まっているけれど、英二は微笑んで受取った。

「いただきます」

掌に取ると温かい。
ひとくち齧ると、塩味と白胡麻だけのシンプルな味が口に優しい。
食べ始めると、きちんと腹に納まっていく。自分は結構図太いのだなと、英二は思った。
温かいお茶を手渡してくれながら、岩崎の妻が口を開いた。

「宮田さんは、強い人なんですね」
「そんなこと、無いです」

最後の一個を呑みこんで、英二は茶を啜った。
本当にそんなことは無いと思う。いつも湯原の強さが、眩しくて羨ましい。
微笑んで、彼女は続けた。

「初めての見分は、主人は食事できなかったそうです」

あの岩崎がと意外だった。
考え込んでいると、彼女は机を片付けながら、英二に笑いかけてくれた。

「宮田さん、お皿受取る時。微笑んでくれたわ」

だからね強い人だと思ったのよ。言いながら茶を注いでくれた。
今もちゃんと微笑んでいるのか。英二は自分で意外で、少し嬉しかった。

父の殉職に向きあっても、遠野教官の被弾を前にしても。
どんな時も湯原の隣は、穏やかでいる。
少しは近付けたのかなと、英二は嬉しかった。


青梅署に戻って書類を提出する。
岩崎は一緒に行くと言ってくれたが、英二は大丈夫だと微笑んで御岳駐在所を出た。
手続きを済ませ廊下を歩いていると、白衣を着た初老の男に声を掛けられた。
宮田くんだったねと笑いかけて、男は名乗った。

「嘱託警察医の吉村です」

死体見分の時、立会いの医師がいた事を思い出した。
現場が暗かった事もあるが、顔を見る余裕が英二には無かった。
失礼を謝ると、吉村医師は微笑んだ。

「ちょっと休憩、つきあってくれませんか」

帰る前にコーヒー1本飲むのが楽しみでと、ロビーを指さした。
はいと微笑んで、英二は一緒に歩き出した。

自販機で買うと、英二にも1本渡してくれた。礼を言って受取る掌に、熱さが沁みた。
新宿の公園で、湯原がくれた缶コーヒーの温かさが懐かしい。ふっと英二の胸が温かくなった。
ひとくち飲んで、ほっと息をつく。
吉村医師も口をつけながら、英二に微笑んだ。

「ご覧になったのは、初めてでしたか」
「はい、」

そうでしょうねと吉村は頷いた。

「私は嘱託警察医として、十年になります。その間、たくさんの遺体に出会いました」

たくさんの死と向き合ってきた人なのだと、英二は思った。
それでも吉村は、穏やかに微笑んでいる。
静かに吉村が口を開いた。

「今日の方は、良いお顔です」
「…良い顔?」

自殺自体が苦しいと英二は思う。自分から死ぬなんて辛すぎる。
そして今日、現実に見た縊死自殺の姿は、辛いものだった。
なぜ、良いと言えるのだろう。英二は吉村の顔を見た。

「今日の方は、定型的縊死でした。一気に苦しむことなく、亡くなっています」

コーヒーを啜って、吉村は続けた。

「縊死の場合、紐の跡があります。
 それが左右同じに顎の下側を通り、耳たぶ下から首の後ろへと深い皮膚の溝が見て取れる事。
 そして足が地面についていなかった事。
 このような状態を、定型的縊死と呼んでいます。この場合、苦しみも無く表情も良いのです」

要点をまとめて話してくれる。
納得出来る話し方が、ありがたかった。こんな時は、論理的に頭を整理されると、落着きやすい。
それでもまだ、死の醜悪な一面を目の当たりにしたという思いが強い。
英二は口を開いた。

「吉村先生は、気持悪くは無いのですか」
「私も最初は、気持ち悪かったですよ」

同じなのだなと、すこし英二は安心できた。
吉村は微笑んで続けた。

「けれど多く見るうちに、このような死に方を選んだ人の気持ちが、少し解るなと思うようになりました。
 ご遺体を同情の気持ちで見られるようになっていました。そして、気持ち悪さは無くなっていきました」

同情の気持ち。
遺体は40代女性のものだった。掌には遺書らしきものを握っていた。
決意しての死だった事が、それだけでも解る。なぜ彼女は死ななくてはいけなかったのだろう。
英二の目を真直ぐ見つめ、吉村は言った。

「今は、楽に亡くなった様子が見て取れると、密かに安堵するようにさえなっています」

吉村の目は穏やかで静かだった。

― 知りたいだけ。真実の先に、何があるのか

湯原が言った言葉が、今は解る気がする。
この奥多摩で警察官として立つ事を、自分は選んでここに居る。
吉村医師と同じように、これから多くの死と向き合うのだろう。
その真実の先にあるものと、自分も向き合っていけるだろうか。



寮の自室へ戻ると、22時を過ぎていた。
窓に広がる星空に、きれいに月がかかっている。新宿でも見えているだろうか。
携帯を開くと、メールが1通入っていた。
受信ボックスを開いて、差出人名に英二は微笑んだ。

今日は何度、想い出しただろう。
穏やかなあの隣には、距離は関係ないのかもしれないと思える。

発信履歴を呼び出して、英二は通話ボタンを押した。






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不夜城、居場所―another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-28 22:54:21 | 陽はまた昇るanother,side story

眠らない街でも、ひとすじの光




不夜城、居場所―another,side story「陽はまた昇る」

初めて周太は、父が殺された場所に立った。
それでもあの夢は蘇らなかった。

ガード下は、どことなく薄暗い。急ぎ足の雑踏が、ただ行き交っていく。
新宿駅の東口と西口を結ぶこの場所で、父は狙撃されて死んだ。
父が最後に立った場所は、この辺りだったのだろうか。周太は足許を見つめた。

目を上げると歓楽街が目に入る。
東洋一の歓楽街という歌舞伎町。ここに約120箇所の暴力団事務所拠点があり、推定1,000人の構成員が居る。
父を殺害した犯人もここに居た、けれど今はもう居ない。
服役後、組から追放された事までは調べられた。その後はまだ解らない。

父が殉職した夜は、新聞配達の音で明けた。
被弾する父の血塗れた幻は、幼い周太を眠らせなかった。ただ自室の天井を見つめ、バイクの音に朝だと気付いた。
そっと玄関を開けてポストへ向かい、新聞をこっそり取り出した。
自室で広げ、父の記事を探した。そこには犯人の名前と所属暴力団の名が記されていた。

周太は母に黙って、父の記事を集め続けた。
ただ真実を知りたかった。

犯人を担当した弁護士は、威嚇発砲が偶然当たったと主張し、認められた。
懲役13年。それが与えられた刑罰だった。そして態度良好により刑期を切り上げられ、釈放された。
父は死んだ。けれど犯人は生きて、今もどこかで暮らしている。

周太は踵を返し、巡回の続きへと歩き出した。
ガードを出た脇に、一人のホームレスがぼんやり蹲っている。
以前は何をしていたのか、今はもう解らない襤褸を着ていた。

巡回を終えて、所属の新宿駅東口交番に戻った。
おつかれと当直の若林が声を掛けてくれる。この先輩の体格は威圧的だが、笑顔は穏やかだった。

東口広場に立つ交番は、格好の待合わせ場所になっている。そのため、地理指導や遺失物等の届出が非常に多い。
そして歌舞伎町にも近い為に、喧嘩の仲裁も多いという。
穏やかな笑顔と立派な体格は、きっと適任だろう。

おつかれさまですと答えると、若林が話しかけてきた。

「卒配初日だが、特錬の話がもう来たぞ。射撃だそうだ」

やっぱり来たと周太は思った。
警視庁は警察署、機動隊、交通機動隊など所属ごとに「特錬」が居る。
「特別訓練員」の事で、年に1~2回行われる剣道大会、駅伝大会、その他色々な大会に出る選手たちの事を言う。
署の特練なら経験者は間違いなく入ると、警察学校で白石助教に言われていた。
若林は気さくに笑って、訊いてきた。

「普通は2年目以降が多いらしいが、湯原は全国大会の実績があるらしいな」
「はい、」

あまり本当は、この手の話はしたくない。自分を宣伝するような事は、周太は得意ではなかった。
周太の短い返事にも、若林は気にせず話を続けた。

「11月の大会だが、あまり時間が無い。術科センターに明日から通っていいとの事だ」

新木場の警視庁術科センターには、大きな射撃場がある。
新宿から新木場まで40分程かかる。勤務の合間に行く事になるのだろう。
詳細はまた署で説明があると言われ、日勤扱いで新宿署へ戻る事になった。


新宿署へ向かう途次、ガード下をまた通った。
先程のホームレスはまだ蹲ったまま、ぼんやり座り込んでいる。
これから寒くなる季節はどうするのだろう。そんな事を考えながら通り過ぎた。

父も射撃の特錬だったと聞いた。そしてオリンピックの代表選手になった。
射撃の名手が交番勤務で終わる訳が無い事を、今の周太は知っている。
父はここで撃たれた。その時の父が所属していた部署は、まだ知らない。

父と同じように射撃の特錬に選ばれた。
オリンピック代表になる事は無くても、警視庁での進路は父とほぼ同じ道だろう。
父が歩いた道を、追体験して辿る。それしか父の殉職にある真実は解らない。
その為に周太は今、ここにいる。


夕暮が降りてくる。
ふと振り返ると、歌舞伎町にネオンの原色が点り始めていた。
夜が迫る時、この町の本番が目覚める。
この街の歓楽に遊ぶ事はないだろう。けれど、そこに蹲る闇とは向き合わざるを得ないだろう。

― 人の闇と付き合う仕事

遠野教官の言葉どおりだと、周太は思う。
自分で望んで選んだ配置先は、特に闇が多い場所だと解っている。
父が殉職した現場だと思うと、その闇は濃密さを増して圧しかかった。

ガード下を抜けて、周太は空を見上げた。
高層ビルの頂上の、ライトが点灯し始めた。たしか民間障害標識という名前だった。
摩天楼に囲まれて、大勢の人が歩いている。
けれど周太は孤独だった。

6ヶ月、いつも隣に居た笑顔が懐かしい。
ちょっと馬鹿じゃないかと思うけれど、きれいな優しい笑顔が好きだ。
この雑沓も並んで歩いていた。そんな時でも静かで、やさしいあの隣が好きだ。

今どうしているのだろう。
宮田の赴任先は今頃は、きれいな黄葉が山里を彩っているのだろう。
きれいな空気で、星も見えるだろうなと思う。

でも今、周太には星は見えない。
目的のために選んだこの場所は、昨日までとの落差が大きすぎる。
昨日までの時間が、夢だったのではないかと思えてくる。
周太の唇がかすかに動いて、小さな声が零れた。

「宮田、」

雑沓に紛れて誰にも聞えない。
寂しさが募った。けれどふと、一軒の明りが目に入った。見覚えがある。

「あ、」

宮田と行ったラーメン屋だった。あれは何度目の外泊日だったろう。
懐かしさに周太は微笑んだ。
こんな所でも、あの隣は佇んでくれている。

非番の日が来たら、あの公園に行けばいい。
あの書店に行って、本を買おう。一昨日行った、あのラーメン屋で昼を食べよう。
自分がここを選んだ、もう一つの理由を周太は思い出した。胸が、ゆっくり温かくなる。
孤独ではないという事が、こんなに嬉しい。

空をまた見上げると、暗さに慣れた目に一つだけ星が見えた。
汚れた空気で遮られてはいるけれど。本当は、星は今も見えている。宮田の見上げる空と同じ数だけ。


新宿署に着くと、射撃の特別訓練員に選抜された旨の、正式な話があった。
明日からのスケジュールなどを教えられて、寮に戻ると夕食の時間になっていた。
食堂に入ると、同じ教場出身の深堀が、トレイを受取っている所だった。
おつかれさまと笑って、一緒に食べようと誘ってくれた。

「東口交番、どんな様子だった?」
「ん、道案内が一番多かったかな。百人町は?」
「外国の人、やっぱり多かったよ」

発音が上手く聞きとれなくて困った事など、にこにこ話してくれる。
深堀とこんなふうに話すのは、周太は始めてだった。

「巡回行ったら、アジア系のお店多かった。近くのアパートは多国籍みたい」
「じゃあ深堀には適任なんだ。何ヶ国語、話せるのだっけ」

他愛ない会話が楽しくて、緊張がほぐれてくる。
周太は少し、自分で驚いている。気さくに話が出来るように、何時の間に自分はなったのだろう。
やっぱり宮田の隣に居たからなのかな。そんな事を思いながら、焼魚に箸を伸ばした。
きれいに骨を外しながら相槌をうっていると、不意に深堀が黙った。
なんだろうと目を上げると、深堀は不思議そうな顔をしていた。

「湯原、雰囲気なんか変わった?」

思わず、魚に箸を突き刺してしまった。
けれど深堀は気付かずに、卒業式の日となんか違うねと笑っている。
こんな時、顔に出にくい方で良かったと思う。

どうしていきなりそんな事を言われるのだろう?
雰囲気変わった心当たりなんて、有りすぎて。自分でも途惑っている時なのに。

昨日、立川から戻って、新宿駅の洗面で前髪を上げた。
ネクタイもきちんと締めて鏡を見た。
それでも自分の顔は、卒業式の、あの夜の前とは違っている。
どうしようと思ったけれど、でも嫌な顔じゃなかった。

けれど同期に、こんなふうに図星を言われてしまうと、余計に途惑う。
全部もう宮田のせいだ。けれど今それを言える訳がない。
どうしたらいいのだろう、こんな事には慣れていない。

そうだ。こういう時は、質問で返せばいいか。
周太は深堀に訊き返した。

「どう変わった?」

とりあえず黙りこむのは避けられた、ちょっと安心して水のコップを手に取った。
そうだなあと深堀は考えながら口を開いた。

「なんか宮田に、ちょっと似てきたかな」

水に口つける前で良かったと、周太は思った。もし後だったら、きっと盛大に吹きだしていた。
それにしても図星をついてくる。首筋がいつ熱くなるかと不安になる。
コップをトレイに戻しながら、そっと溜息を吐いた。
なぜそう感じるのだろう。周太は訊いてみた。

「どうして宮田?」
「うーん、いつも一緒に居たからかなあ」

いつもどおりの人好さげな微笑みで、深堀が答えた。
いつも一緒、確かにそうだった。けれど改めて言われると、なんだか恥かしい。
困ってしまう、けれど深堀は何も気付いていないようだった。
そうだねと深堀は頷いて、口を開いた。

「宮田も随分と変わったよね、穏やかに落着いてさ。うん、湯原に似てきたよ」

どうしてこんな恥かしい事を、にこにこと同期に言われるのだろう。
これは一体何の罰ゲームなのかと思ってしまう。
首筋が少し熱くなってきた。いま食べている煮物の味も、なんだかよく解らない。
もう全て宮田のせいだ。どうしたらいいのだろう。

困惑してもう、何言っていいのか解らない。
周太はすっかり途方に暮れながら、箸だけ動かしていた。
それでも深堀は、にこにこと頷いた。

「でもそういうの、羨ましいよ」

意外な事を言われた。
思わず周太は、ぼそりと言った。

「そうかな」

そうだよと笑って、深堀は言った。

「一緒に居てさ。お互いに良い影響与えられるって、良い関係だよ」
「良い関係?」

思わず訊き返してしまった。
本当は宮田との関係を、今はもう他人に堂々とは言えない。後悔なんてしないけれど、少し胸が刺される。
それでも、あの隣を諦める事は出来ない。
どんなに痛くても、やさしい静かな笑顔から離れられない。今だって会いたい。

良い関係だよ。
深堀は相変わらず、人の好い笑顔で答えてくれた。

「宮田も湯原も、話しやすくなった。なんかね、雰囲気良くなったと思う」

そうかなと周太が言うと、深堀が微笑んだ。

「正直に言うとさ、俺、ちょっと苦手だったから。
 宮田は、気さくだけど本音が分かりにくかった。湯原は周りに無関心な感じがしてさ。
 でも今は二人とも話しやすいよ。だから俺、湯原と同じ配属で嬉しいんだ」

率直に言ってごめんと謝りながら、深堀が煮物の鶏団子をくれた。
良い奴なんだなと周太も嬉しくなった。

「いや、ありがとう」

周太は微笑んだ。
深堀が笑い返して、感心したように言った。

「良い笑顔するね、湯原。なんか宮田みたい」

宮田の笑顔って良いよねと、にこにこ深堀は焼魚をほぐし始めた。
首筋が見られていなくて良かったと、周太は心から思った。
深堀は良い奴だけれど、なかなか油断が出来ない。


風呂を済ませて自室に戻ると、21時前だった。
デスクライトを点けると、システム手帳と携帯を取り出した。自分のシフトを確認して、特錬のスケジュールも加える。
丸一日休める日は、なかなか少なそうだ。
宮田のシフトと合わせられるだろうか。少し不安になる。

それでも、会う予定を考えられている。今、それ自体が嬉しい。
手帳を眺めて考えていると、携帯の着信ランプが灯った。

液晶を見なくても、着信音で誰なのか分かる。
すぐに開いて耳に当てた。

「はい、」
「俺だけど、」

きれいな低い声が聴こえる。
この声を、いつからこんなに好きだと、思うようになったのだろう。

「勤務のシフト分ったから。メモしてくれる?」
「こっちもシフト分かる」

答えながら手帳を開いて、ペンを持った。
自分のシフトに宮田のシフトを加えていく。休みが合いそうな日が、2回位ありそうでほっとした。

電話の向こうから、楽しそうな気配が伝わった。
笑っているのかなと思って、すこし気恥ずかしくなった。もう気配だけで解るようになっている。
どれだけ一緒に居て、ずっと隣を見ていたのだろう。

― いつも一緒に居たからかなあ

深堀に言われた通りだな、と改めて思う。
いつも気がつくと、宮田は隣で笑っていてくれた。
やさしい静かな笑顔の、隣が好きだ。
昨日会ったばかりなのに、今もう会いたい。スケジュール帳の、休みが重なる日が嬉しかった。

「…なんか宮田、笑ってる?」

周太の問いに、宮田の声が嬉しそうになった。

「うん。ちょっとさっき、藤岡がさ。俺の事、なんか湯原と雰囲気が似てきた。って言ったんだ」
「え、」

なんで藤岡までそんな事を言うのだろう。
二人にも言われるなんて、そんなに解りやすいのだろうか。途惑いが周太の首筋を熱くする。
それでも、宮田は嬉しげに続けた。

「お前ら仲良いだろ、いつも一緒に居たしって言われてさ」

本当にその通りだと思う。けれどそんなに、二人揃えたように言わなくたっていいだろうに。
途惑いばかりが大きくなる。こんなこと慣れていないのに。
けれど宮田は、のんきに笑っている。そんな電話の向こうに、少しだけ周太は腹が立った。
ぼそっと周太は言ってやった。

「俺も、同じ事を深堀に言われた」

えっと息を呑む声が聞えた。珍しく宮田を驚かせてやれたらしい。
周太は、ちょっと満足だった。

「お互いに良い影響与えられるって良い関係だよ、って」

深堀がそう言ってくれたよと、周太は笑った。
電話の向こうから、少し照れたような気配が伝わってくる。

「俺もさ、同じ事を藤岡に言われた」

離れているのに、同じ時に同じ事を言われている。
おかしくて、そしてなんだか嬉しい。
離れていても、同じような時を過ごせている。そんな隣がいてくれる事が、嬉しかった。

今日は初めて、父の絶命した場所に立った。
幼い日の絶望と、濾過されたような今の悲しみと、犯人への鋭い感覚。
人の闇に向き合う事が、心を重くしていった。

けれど今、こうして自分は笑っている。
この隣があれば、自分は大丈夫だと思っていた。それは本当だと今、思える。
闇に向き合っても、闇に捕まえられずに、自分は居られるのかもしれない。

今もう、逢いたい。



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山黄葉、居場所― side story「陽はまた昇る」

2011-09-28 21:29:54 | 陽はまた昇るside story

季節がすこし早い場所




山黄葉、居場所― side story「陽はまた昇る」

活動服に着替えて、胸ポケットに絆創膏などを入れた。
指が長いせいか、英二は書類など紙で手を切り易い。学生時代も大抵、ポケットに2,3枚入れていた。
ハンカチを取出した時、オレンジ色のパッケージが一緒に出てきた。手に取り英二は微笑んだ。
立川駅での別れ際、湯原がくれたのど飴だった。それも一緒に胸ポケットへと仕舞った。

扉を開けて廊下へ出ると、窓に青空が広がっている。
昨夜は豪雨だった。新宿では晴れていたのに、青梅署に着いて夕食頃から降り出した。
夜半の雨は、英二には懐かしい。
初めての外泊日前夜、湯原に昼は何が食べたいか訊いた。あの夜も強く雨が降っていた。

昨夜は、初めて湯原に電話をした。
雨の音を聴きながら、あの日があって良かったと湯原に言った。
そうだねと答えた声が、電話越しにも恥かしそうで、懐かしかった。
昨日会ったばかりで、昨夜も声を聴いたばかりだけれど、今もう会いたい。

警察学校に入ってから6ヶ月間。湯原の顔を見なかった日は無かった。
外泊日も一緒に新宿へ立ち寄って、帰りも新宿で会えた。それとなく帰りの時間を訊いて、京王線改札で一緒になれた。
今日からは暫く顔を見られない。朝だというのに、寂しくなる。
それでも初めての勤務は、緊張感で背筋を伸ばしてくれた。

御岳駐在所は二人勤務だった、強靭な雰囲気の所長が優しい笑顔で英二を迎えた。
元は山岳救助レンジャーだという岩崎は、気さくな性格らしく何でも教えてくれた。
駐在所の説明を一通り済ませると、一服しようと声掛けられて、英二は茶を淹れた。
のんびり茶を啜りながら、岩崎が訊いた。

「卒配でここを志願するなんて、山が好きなんだ?」

御岳駐在所では、署員は山岳救助隊として活動をする。
警視庁山岳救助隊は、青梅・五日市警察署と管轄駐在所の署員、第七機動隊山岳救助レンジャーで構成される。
卒配先に決まった時、遭難の通報が入ると直ちに奥多摩交番に招集されて、捜索と救助に当たると教えられた。
田舎の駐在所とはいえ、経験者しか選ばれないような部署だった。

それなのに、山岳部経験も無い自分が選ばれた。
駄目もとで希望を出し、選ばれて嬉しかった。けれどなぜ自分が選ばれたのか、英二は不思議だった。
少し考えて英二は、率直に答えた。

「山岳訓練で、同期が崖から落ちた事がありました」
「それがここを志望した動機?」

はいと答えて、思い出しながら要点を話した。

「他の同期を助けようとして、彼が代りに転落したんです。
 前夜の雨が地盤を緩めていて、踏張った足が滑り落ちたのが原因でした」
「大雨の後か。かなり滑落しただろう?」

穏やかな目で岩崎は頷いてくれる。
少し父さんと似ているかな、と思いながら英二は続けた。

「崖下の谷川近くまで転落しました。足の負傷で自力は難しい状態でした。
 それで、教官の許可で装備を利用して、私が崖下へ降りました」
「ふん、足場が大変だったろう?」

足場は無かったですと笑って、英二はひとくち茶を啜った。
湯呑を掌に包みながら、岩崎が言った。

「なぜ自分が行こうと思ったんだい?」

好きだったから。とはさすがに英二でも、ここでは言えない。
けれど後半の理由だったら、言っても構わない。

「絶対に自分が助けたいと思ったんです」

あの時、他の誰でもなく自分が助けたかった。
だから下山の時も本当は、ずっと自分が背負って降りたかった。
それが出来ない自分が不甲斐なくて、湯原を背負って平然としていた遠野の言葉を、ずっと考えていた。

―背負い方、歩き方を知っているだけだ

あの後、怪我した湯原を助けたくて、いつも階段では湯原を背負って昇り降りした。
救護の教本も読み込んで、包帯の巻き方や応急手当も練習した。
湯原の為と思って始めたけれど、やってみると意外と性に合った。

―うまいじゃん宮田
 練習したんだ。川でさ、俺、遠野にボロクソ言われただろ
 ふーん。ちゃんとやるんだ、宮田も

湯原にも褒められて嬉しくて余計に頑張った。それと同時に山岳救助隊を知って進路に選んだ。
そうして気付くと、救助関連は学科も実習も一番身に付いていた。

湯原の怪我が治ってからも時折、練習させろと言っては背負った。
あの背中の温もりが懐かしい。湯原は今頃、どうしているのだろう。
ぼんやり湯呑を眺めていると、岩崎が微笑んだ。

「俺もいつもね、絶対に助けたいと思って山へ入るよ」

同じだな、と英二に笑ってくれた。この先輩は好きだな、と英二は思う。
交番勤務は、先輩によって当たり外れがあると聞いていた。
そんな事よりも英二は、自分の目的にあう場所と思って青梅署管轄を志願した。
自分の実力なら小さな交番と言ったけれど、本当は目的があるから選んだ場所。自分の適性を活かして目的を果たせる進路だろう。
どれも湯原を助けたくて学んだこと、選んだ道。結局自分は湯原がいつも中心だ。我ながら仕方ないなと思うけれど、悪くない。


初めての巡回に自転車で行く。
駐在所にはパトカーが1台常駐している。それでも隘路が多い山里では、自転車の方が小回りがきく。
山間の小さな平地に、畦道と渓流を曳いた用水路がはしる。田を渡る風が、稲の香に馥郁として心地良かった。
ずいぶんと黄葉が広がって、秋の風情が山を染めている。

やっぱり秋が早いのだなと思って、昨日の新宿でみた黄葉が懐かしかった。
ほのかな風に散る黄葉が、やさしく見える。
緊張に穏やかさが忍び入って、すこし心がほぐれた。

山道の入り口にさし掛かった時、不意に啜るような細い声が聞えた。
子供の声だろうか。自転車を止めて、崖の上を透かして見る。その視界に、青っぽいものが映った。
誰か人が蹲っている。怪我を負って動けないようだった。
自転車から降り英二は山道を登った。昨夜の雨で道が滑りやすい、山岳訓練の時もこんな足許だった。

慎重に足を運び、すこし平らな場所へ這い上がると、男の子が蹲っていた。
6、7歳くらいだろうか。泥だらけになった膝小僧に、擦り傷が出来ている。
驚かさないようにゆっくり近付いて、片膝で座ると静かに声を掛けた。

「どうした?」

泣きながら男の子が顔を上げた。頬にも薄く血が滲んで、痛々しい。
大丈夫だよと声をかけながら、英二は取出したティッシュで顔を拭いてやった。膝も拭くと、血がまだ止まっていない。
絆創膏をポケットから出して貼り、男の子の顔を覗き込んだ。

「迷子になったのかな」

小さな男の子は泣きじゃくって、話も出来ない。
こういう時はどうしたらいいのだろう。途方に暮れた英二に、ふっと立川駅での事が思い出された。
胸ポケットを探って、オレンジ色のパッケージから一粒を取出した。

「はい、」

男の子に差し出すと、嗚咽が止まった。
オレンジと蜂蜜の香が、二人の間に漂っている。涙目で英二を見上げて、途惑ったように首を傾げている。
切長い目を和ませて、英二は微笑んだ。

「はい、あーんしな」

素直に男の子が開いた口に、飴を入れてやる。爽やかな甘い香が広がって、男の子は微笑んだ。
良かった、男の子の笑顔が嬉しかった。
英二は微笑んで、男の子の目を覗き込んだ。

「名前は言えるかな?」
「…たなか、しゅうすけ」

へえと英二は笑った。
この子も「しゅう」と呼ばれているのだろうか。遠い市街地にいる、懐かしい隣を英二は思い出した。

「しゅうすけ。良い名前だな」
「うん、」

笑って、男の子は英二の手を握った。警戒を解いてもらえたようだった。
足許は相変わらず、昨夜の雨に緩まっている。手をつないで降りるのは、危険かもしれない。
英二は活動服の上着を脱ぐと、背中を男の子に差し出した。

「おんぶで行こう。しっかり掴まって」

うんと素直に頷いて、男の子が背に飛び乗った。
男の子の上から活動服を羽織って、袖を子供の肩から股に斜め通す。その袖を自分の肩上と脇下から斜めに縛った。
少し体を傾けてみると、子供の体は固定されている。背負い紐の代りになりそうだった。
英二は背中に声を掛けた。

「ちゃんと手を組めよ」

男の子の手が喉元で組まれたのを確かめて、立ち上がると軽い。
湯原を背負った重みが懐かしかった。

駐在所に戻ると岩崎がすぐに、田中さんとこの子だと連絡を入れてくれた。
待っている間、水道で顔や手足を拭いて、絆創膏を貼り直してやった。
名前の字を訊くと「田中秀介」と自分で漢字で書いて見せた。1年生だから書けるよと、得意げに秀介は笑った。
そのまま機嫌良く、英二に話しかけてくる。

「山の斜面にね、あけびがあるんだよ」

それ採りに行ったら滑っちゃった。言いながらポケットから薄紫色の実を出して見せた。
薄紫色の厚い皮と、中に覗く白い果実が瑞々しい。初めて見た英二には珍しかった。
英二を見上げて、秀介は嬉しそうに笑った。

「これね、妹が好きなんだ」

大切そうに仕舞おうとする秀介に、思いついて英二はティッシュを1枚差し出してやった。
どうするのだろうと首傾げた秀介に、英二は笑いかけた。

「これでくるんでおけよ。その方が実が壊れにくいから」

そうかと頷いて、ありがとうと秀介は受取った。
無邪気で明るい笑顔が、幼い頃の湯原の笑顔を思い出させた。
こんなところにも、あの隣が佇んでいる。思うだけで心が温かかった。
こんなにいつも思い出せるなら、寂しいけれど大丈夫かもしれない。


青梅署の独身寮に戻ると、すぐ夕食の時間だった。食堂には遠野教場で一緒だった藤岡が先に座っていた。
山岳救助レンジャーを希望する藤岡は、青梅署を志願して配置されている。
宮田、と気さくに声を掛けられて、英二はその前に座った。

「初日から宮田、活躍したらしいな」

何のことだろう。怪訝に首傾げていると、藤岡が笑って英二の肩を叩いた。

「ほら、子供を崖から助けたって」
「あ、その事か」

大した事じゃないよと笑って、英二は味噌汁を啜った。
ほっとする香に、腹減っていたんだなと思う。箸を動かしながら、藤岡の話を聞いた。

「卒配初日なのに、対応がしっかりしていたってさ。ちょっと噂になってたよ」
「そんな大した事じゃないよ」

笑って英二は煮物を摘んだ。
湯原の実家に泊まった朝も煮物があった。湯原の手料理、旨かったなと思いながら箸を運ぶ。
からりと藤岡が笑った。

「俺なんかさ、午後ずっと柔道指導の手伝い」
「あ、鳩ノ巣駐在は柔道指導あったよな。さすがヤワラ」

他愛ない会話だけれど、同期と話すのは良いものだった。
初日の緊張が少しほぐれてくる。
藤岡も箸を動かしながら、話を続けた。

「俺さ、山岳救助レンジャーに行きたいだろ」
「うん。山岳訓練の時にも話していたな」

訓練の時、川で流された中仙道を助けようと、最初にロープを離したのは藤岡だった。
けれど中仙道を捕まえたのは、湯原だった。本当に何でも、湯原は良くできる。
今頃あっちも飯かなと考えていると、藤岡が口を開いた。

「今日の宮田の話を聴いてさ、俺だったら、どうかなって考えた」

ごはんを一口放りこんで、うん、と英二は相槌を打った。
ちょっと箸を止めて、藤岡が英二の顔を見た。

「宮田ってさ、前はもっと、チャラいと思ったんだけど。雰囲気変わったよな」
「うん、まあ、我ながら?」

英二は笑った。いい加減な奴だったと自分でも思う。
もし湯原が隣の部屋じゃなくて、湯原の部屋で泣くことが無かったら。あのまま、要領だけ良くても何も無いままだった。
今日は何時に電話できるだろう、水の入ったコップをとりながら考えてしまう。
少し考えるような顔をして、藤岡が続けた。

「ちょっと宮田、なんか湯原と雰囲気が似てきた?」

水を吹きそうになった。
咽かえって、顔が赤くなる。何でまた藤岡に言われるのだろう。
藤岡とは同じ教場だから話す事はあったけれど、こんな風にゆっくり話すのは初めてだ。
特別に親しかった訳でもなく、班も別だった。

大丈夫かよと、藤岡が水を汲んできてくれた。
受取って飲み干すと、すこし落ち着いた。けれど疑問は落着かない。なぜ藤岡はあんなことを言うのだろう。
小さくため息を吐いて、英二は訊いた。

「どうして、湯原が出てくるんだ?」

逆に藤岡が不思議そうに、英二を見た。

「だってお前ら、仲良いだろ。いつも一緒に居たし」

当然のように藤岡は言った。
そう見えていたのかと思い、まあその通りだなと英二は納得した。
いつもの体育会系な笑顔で、藤岡が言った。

「最初はさ、遠野教官に言われて、仕方なくコンビ組んでたろ」

ああそうだったなと英二は思った。職務質問の実習で組まされた。
けれどあれが無かったら、脱走した夜に湯原の部屋を訪れる事も無かった。
そう思うと遠野が仲人みたいで、英二は可笑しかった。
藤岡が、でもお前ら結局は仲良くなったよなと、笑って続けた。

「なんかさ、湯原は明るくなったよ。宮田は落着いて、頼もしい男になった?」
「そうかな」

そんなふうに見えるんだなと、英二は妙に感心した。そして他人の口から「湯原」と聴く事が、なんとなく面映ゆい。
けれど藤岡は全く気付かないで、生姜焼きを丼飯に乗せながら言った。

「一緒にいてさ、お互い影響しあって成長できるって、良いよな」 

お前ら良いコンビだよな。笑って藤岡は飯を掻きこんだ。
そうかなと返事しながら、英二は笑った。


風呂を済ませて自室に戻ると、21時過ぎだった。部屋のライトを消し、カーテンを開ける。
夜空が星をあざやかに見せて、窓いっぱい広がっていた。ああやっぱり星がきれいだと英二は微笑んだ。
デスクライトだけを点け、手帳を取り出しペンを用意する。それから携帯の着信履歴を呼び出した。
液晶の画面に映る名前に、ふっと微笑んで発信ボタンを押した。

「はい、」

懐かしい声が嬉しかった。
昨日は一緒に午前中を過ごして、夜は電話もした。それなのにもう、こんなに懐かしい。
俺だけど、と言ってから英二は続けた。

「勤務のシフト分ったから。メモしてくれる?」
「こっちもシフト分かる」

あ、たぶん手帳を用意して待っていたんだ。英二はなんとなく解る。
もう声だけでも、考えている事が解るようになっている。

― いつも一緒に居たし

さっき藤岡に言われた通りだな、と改めて思う。
本当に、湯原ばかり自分は見ていたと、我ながら可笑しかった。

「…なんか宮田、笑ってる?」
「うん。ちょっとさっき、藤岡がさ」

手帳に書かれたシフトを眺めながら、英二は話し始めた。
たぶんきっと、今頃は首筋が赤くなっている。





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緑翳の下、秋風の雫 ― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-27 21:44:41 | 陽はまた昇るanother,side story

離れても隣に




緑翳の下、秋風の雫 ― another,side story「陽はまた昇る」

抱き寄せられた肩が、あたたかい。
吹く風が淡い黄葉を、ゆっくり降らせながら頬を撫でていく。
居心地が良くて、このまま眠ってしまえたらいいなと思う。本当は昨夜、あまり眠れなかった。

「周太、」

かすかな声が耳元で呟いた。
きれいな低い声が、こんなに懐かしくて嬉しい。自分はきっと、一昨日の夜からどうかしていると周太は思う。
けれどそれでいいと、素直に「今」に添ってしまう。

周太。名前をまた呼ばれて、長い指の掌が周太の左頬を包んだ。頬にそっと掛けられた掌が、あたたかい。
おろした前髪に長い指を絡ませながら、宮田は頬を寄せてくる。
ふれられている事が、恥かしいけれど嬉しい。

きれいな切長い目が、至近距離から瞳を覗きこんでくる。こんなに近いと緊張する隙も無いのかなと、ぼんやり見ていた。
その目の前で、切長い目がゆっくり瞑られた。

やわらかな熱が唇にふれる。
一昨夜の事が夢では無かったと、同じ感触に確かめてしまう。

ああ全部やっぱり、現実だったんだ。
怯えと痛みに裂かれても、あたたかで透明な甘さが嬉しかった、一昨夜に刻まれた記憶。
一夜の記憶がこんなにも、自分を変えてしまっている。
これから自分は、どうなってしまうのだろう。

今日の午後には、卒業配置先の新宿署へ入る。
罵声、暴力、汚職、事故。きらびやかな光の底にも、倦怠わだかまる副都心。
けれどこの街には、宮田の記憶が残っている。

隣にこうして居られるのは、あと2時間位だけれど。やさしい静かな隣の記憶が、街のあちこちに佇んでくれる。
目的の為に選んだ赴任先。きっとこの街で、辛い真実に向き合う事になる。
それでもきっと、この記憶があるなら大丈夫と思える。

やわらかな熱が深くなる。恥かしいけど嬉しい、けれど周太はすこし焦った。
自分の赴任先にある公園、もし同僚に見られたら困る。
喘ぐように少し顔を逃がしたけれど、やわらかい髪ごと長い指が絡めとって、離してはくれない。
あたたかさが嬉しくて、流されてしまう。それでも小さな声が零れた。

「…っぅ」

ゆっくりと唇が離れて、周太は目を開いた。眦から一すじ、涙が頬をおりていく。
きれいな唇がそっと涙にふれて拭うと、やさしい笑顔が周太の瞳を覗き込んだ。

「泣き虫、」

嬉しそうに宮田が言った。
ゆっくり瞳を瞬かせてから、周太は口を開いた。

「宮田の責任だから」

そうだなと宮田がきれいに笑う。
こんなふうに素っ気なく言っても、どうしていつも嬉しそうに笑ってくれるのだろう。
周太はたまに、きれいな笑顔に途惑ってしまう。
こんなにきれいな笑顔の隣に、自分が居てもいいのだろうか。

けれど自分から離れるなんて、きっともう出来ない。
目を上げると、やさしい静かな笑顔が見つめていた。
ああもう、どうでもいいや。あんまり嬉しくて、考えても無駄だと周太は思った。
本当はもう、心は決まっている。

座りなおして隣の顔を眺める。
相変わらずの笑顔で、隣は見つめ返している。けれどふと周太の目が止まった。
宮田の左頬が、ほんの微かだけれど赤い。
そっと周太は手を伸ばし、触れてみる。底の方に微かな熱が残っている。

「叩かれたのか、宮田」

まあねと何でも無いように、宮田は笑った。
その笑顔が周太に刺さる。

普通の幸せな家庭の、宮田の家。
男同士なんて普通じゃない事、拒絶されて当たり前だと思う。
普通に幸せだった家に、影を落としてしまった。その重さが周太を責める。
それでも、この隣を手放す事なんて出来ない。自分勝手だと思っても、周太は自分に嘘がつけなかった。

笑いながら宮田は、きれいな切長い目を和ませた。

「羨ましい、って父に言われたよ」

意外な言葉だった。どういう事なのだろう、周太はすこし茫然と隣を見つめた。
きれいな唇を微笑ませたまま、宮田は口を開いた。

「生きる事に、誇りと意味を教えてくれた人」

湯原の事をそう話したんだ。笑って言われて、周太は少し気恥ずかしかった。
自分はそんなに立派な事は、出来ていないと思う。けれど、そう話してくれた宮田が、嬉しかった。

「私には、そんな人が居なかった。良い学校を出て良い会社に入り、良い妻を迎える。
 それで人生は無事に過ぎていくと、ただそれだけだった。誇りも意味も、私の人生には見つかっていない」

父はこんな風に言うんだ。少し切ってから宮田は続けた。

「誇りと意味をもって生きられたら、人生を悔いることは無いだろう。
 男なら人間なら、そんなふうに生きてみたいと憧れさせられた。そう言ってさ。
 俺の事をさ、雰囲気が変わったな、良い男になった。そんなふうに言ってくれた」

宮田の父の言うとおりだと、周太も思う。
宮田は本当に雰囲気が変わった。出会った頃の要領の良い冷たさは、今もうどこにも無い。
静かでやさしい強さが、切長い目に湛えられている。
これが本来の宮田なのだろうと、周太は思う。

それでさ、と宮田は嬉しげに微笑んだ。

「きっと彼は良い男なのだろう。写真は無いのか、って父は言うんだ。
 それで写真を見せたら、きれいな良い顔だな、って褒められたから」

そんなふうに言われて、恥かしいけれど嬉しい。周太の首筋がすこし熱くなった。
けれどふと周太の心に引っかかった。

「写真てなに?」

どうしてそんなもの見せられたのだろう。
写真を撮ったことなんて、いつあったのだろう。周太の記憶には無い。
少しバツが悪げに、けれど悪戯っぽく宮田が笑っている。

「いや。一昨日の昼間に、ここでさ」
「ここで?」

どういう事だと目で問い詰めると、まいったなと笑って、宮田は携帯を取り出した。
メモリーを呼び出してから、周太の前に差し出した。

「良く撮れているだろ?」

画面を覗き込むと、自分の横顔が写っていた。
緑の木々が輪郭いろどった、すこし俯き加減の横顔。周太が、自分でも知らない顔だった。

「これ本読んでいる時?」
「うん。きれいだな、と思ってさ」

どうして、すぐそう云う事を言うんだろう。
恥かしくて削除してやろうとしたが、保護ロックがかけられて操作できない。
お見通しだよと笑って、宮田に携帯を取り上げられてしまった。

「うちの父、そのうち三人で呑みに行きたいって」
「…ん、」

そんなふうに、宮田の父に認められて嬉しい。
無事に勤めて、家庭を守っている宮田の父。きっと立派な大人の男なのだろう。
警察官で男同士でなんて、未来どころか明日も解らない。
世間一般から見たら、異様な事だと解っている。それなのに、そんな立派な人に受け留めてもらえた。
周太は嬉しかった。

けれど宮田の頬は腫れている。誰かが拒絶をした事は、明らかだった。
隣の頬を見つめると、笑いながら宮田は左頬を示した。

「母はね、予想通りで、これ」

それが当然の反応だと、周太は思う。
宮田の母はきっと、宮田に似た美しい人なのだろう。そのひとを追い詰めた事が、悲しい。
黙って唇を噛んで、周太は涙をこらえた。
そんな周太に笑いかけて、宮田は続けた。

「でもさ、姉ちゃんは図星指してきた」
「お姉さんが?」

新宿で偶然、会った事がある。宮田と一緒に母の誕生日祝いを選んでくれた。
快活な笑顔で、宮田そっくりの美人だった。
一つ上だと聞いたけど、どこか大人びて落着いた雰囲気が、もっと年上のようにも感じた。

「新宿で会った時さ、俺、湯原の隣ですごく良い顔していたらしい」

それで解ったって言われた。笑いながら宮田が周太を見つめた。
そんなふうに言われるような顔を、自分の隣でしてくれているのか。周太には意外で恥ずかしくて、嬉しかった。

「姉ちゃんさ、湯原のこと好きだなって言うんだ」
「…なぜ?」

お姉さんは随分と、意外な事を言ってくる。
油断ならない姉なのだと、宮田が以前言っていた事が思い出された。
なぜだと思う?と訊きながら、宮田が答えた。

「瞳がきれいだから。そして俺を良い男にしてくれたから」

宮田もそうだけど、どうしてそう云う事をお姉さんまで言うのだろう。
姉弟そろって周太を途惑わせ、気恥ずかしくさせてくる。けれど本当は、周太は嬉しかった。
首筋をすこし赤くしながら、小さく呟いた。

「…そうなんだ」

もう家族まで、巻き込んでしまった。
ただ一夜の時が、自分も家族も、何もかもを変えていく。
初めての感情と寄せられる想いに、途惑いながらも、あたたかさが周太を抱きとめていた。



周太は一緒に改札を通った。そのまま宮田の乗る、列車のホームへと並んで歩く。
今日はこのまま、新宿署の寮へ向かう。改札に入る必要なんてない。
けれど少しでも長く、隣で顔を見ていたかった。

休日のホームは少し混んでいた。けれど、昼前の下り線に乗る人は少ない。
ゆっくり隣の顔を見上げて、今ひと時を惜しむ事が出来る。
さっき抱きとめられた隣が、今また遠く離れていく。

卒業配置先では、寮生活になる。独身者の場合は通常、所属署の寮生活が基本と教えられた。
所属署が違う以上、離れる事は止むを得なかった。
それでも心通じた今は、あたたかな想いは消えない。

物理的距離は離れていても、心はすぐ隣に居られる。
それにお互い生きている。離れた場所に立っていても、同じ空の下に生きて居られる。
明日が解らないから、約束は出来ない。けれど、会えると信じることは許される。
離れた場所だとしても、同じ時間を刻んでいけることが、周太には幸せだった。

列車がホームに入ってくる。列車の起こす風が、髪を煽った。
振向いて宮田が微笑んだ。

「また、連絡する」

扉が開いて、乗り込むと宮田は扉際に立った。
雑踏できっと聞こえないだろう、けれど周太は小さく言った。

「さびしくなる」

言った端から泣きそうだった。けれど周太は微笑んで、軽く手を上げた。
上げた手の袖元から、淡く赤い痕がわずかに覗く。それを見て、周太の首筋が熱くなった。
しまったと思っていると、不意に腕を掴まれた。

扉が背後で閉じられた。
驚いて目を上げると、すこし悪戯っぽい笑顔がきれいだった。



休日の昼前、列車はちょうど空いていた。
周太は少しむくれていた。卒配先の寮で挨拶があるのに、予定を狂わされて困る。
それでも隣は、幸せそうに笑顔で座っている。周太の腕を引きこんで、宮田が抱き留めた瞬間、扉は閉まった。

「…特急だと降りられないだろ」

ぼそりと言って周太は、ため息を吐いた。
立川駅乗換で、宮田は特急券を買っていた。少しでも長く居たいだろと、宮田は笑っていた。
機嫌良く微笑んで、宮田が話しかけてくる。

「電車代分、今度おごるから許してくれない?」

今度、という言葉を聴けた。
次の休暇がいつなのか、お互い解らないけれど。再会を求められる事だけでも、周太には幸せだった。
けれど周太は、呆れたように言った。

「高くつけるから覚悟しろよ」
「おう、任せとけ」

にっこりと宮田は、きれいに微笑んだ。
ああやっぱり、宮田って馬鹿なんだ。どうしていつもこうなのだろう。
宮田の顔を見つめて、周太は口を開いた。

「宮田やっぱり馬鹿なんだな」
「うん、いいじゃんか」

全く問題ないという顔で、のんきに宮田は笑っている。
仕方ないなと思いながら、すこし喉が痛い事に周太は気がついた。
さっき買っておいた飴を取り出し、オレンジ色したパッケージを少し破く。
一粒とって口に含むと、爽やかな甘い香が穏やかだった。馴染んだ風味に、ほっと心が寛いだ。

「はちみつオレンジのど飴?」

宮田が周太の掌を覗き込んできた。

「かわいいものを食べるんだな、湯原」

こういうの好きなのかと宮田の目が言っている。
確かに好きだけれど。今これを食べなくてはいけない原因は、誰の所為だと思っているのか。首筋が熱くなってきた。
のんきな宮田の顔に、何だか腹が立つ。

「元はと言えば、宮田がっ…」

言いかけて、口噤んでしまった。
何と言えばいいのだろう?言えば言うだけ、自分を追い詰めるに決まっている。

「俺が、なんだよ?」

宮田が話しかけてくる。
周太は俯いたまま、顔があげられない。首筋が相変わらず熱くて、耳まで熱い。
きっと今、真っ赤になっている。

それなのに、隣からの視線が無視できない。
何か言わないといけないと、焦るけれど何て言えばいいのか。
こういう事は馴れていない。途方にくれてしまう。

そうだと周太は思いついた。事実だけ、言えばいいのか。
小さな声で周太は言った。

「…昨日から声が出にくいんだよ」

事実だけしか言っていない。
それなのに、宮田はちょっと口の端だけで笑った。

「周太、声大きかったから」

何気ないふうに、さらっと言う。
どうしていつもこうなのだろう。首筋の熱が頬まで昇る、きっともう真っ赤だ。
周りが聞いても普通の会話だけれど、それが逆に恥ずかしくてならない。

それにそんなに、大きな声は出していないと思う。
一昨夜の時、怯えと不安で声は詰まってしまった。出ない声が喉で裂けて、呼吸が掠れて痛かった。
体だけではなく声ですらも、拒絶も抵抗も出来なかった。
心も体も怖くて痛くて、けれど温もりが嬉しくて、止めて欲しくなくて。どうしていいのか解らなかった。
気付いた時には、透明な甘さと熱が体の芯に刻みこまれていた。

初めての事に、今だってこんなに途惑っているのに。
宮田はたまに、残酷だ。

けれど隣では今も、きれいな笑顔は静かで優しい。
この隣から離れたくないと、思っている自分がいる。心だけじゃなくて体も、傍に居たい。

今回は、日程が幸運だった。
卒業式と着任挨拶の翌日が、ちょうど休日に当たった。それで休暇で、時間がとれた。
もし翌日が平日だったら、着任挨拶のまま卒業配置先での勤務が始まっていた。
そうしたら、一昨夜のような事は無かっただろうと思う。

その方が楽だったのかもしれない。
仲の良い同期で、初めての仲良い友人。たまには会って一緒に呑んで、他愛ない話をする。
寮での日々とあまり変わらない気持で、過ごせていただろう。
家族にとってもその方が、きっと気楽だった。

―周の痛みをきちんと理解できる人、周の笑顔を願って笑わせてくれる人
 そして周が寛いで一緒に居られる人。そう簡単には見つけられない
 周がひとり孤独でいるより、誰かが隣に居てくれる方が、ずっと幸せだとお母さん思ったの

母の言葉が心をよぎる。
ああ本当にそうだと、素直に思えた。自分と母にとっては、幸せな事なのだ。
宮田の母には本当に、顔向けできなくて辛い。けれど、いつか会えたら嬉しい。
この隣を産んで育んでくれたひとを、否定する事なんか出来ない。

他愛ない話をするうちに、列車が駅に着いた。
一緒に降りるけれど、宮田は乗換えて先へ行き、周太は折返して新宿へ帰る。
今日別れたら、いつ次の約束が出来るのか解らない。

今は一緒に歩いている隣を見上げた。きれいな切長い目は、真直ぐ前を見ているけれど潤んで光っている。
ああやっぱり泣き虫だ。周太はすこし微笑んで、オレンジ色のパッケージを取り出した。
一粒、取り出す。

「帰り気をつけ、」

言いかけた宮田の口に、飴を投げて放りこんでやった。うまく口に納まると、爽やかで甘い香が広がる。
涙ぐんだまま驚いている目許を、指で拭ってやった。

「泣くなよ宮田」
「ありがと、」

言いかけた宮田の掌に、ぽんとオレンジ色のパッケージを乗せてやった。
やわらかな熱が、周太の掌を暖める。そっと手を離して周太は微笑んだ。

「これやる」

オレンジ色のパッケージを、宮田は眺めて笑った。
良かった笑ってくれた。周太も微笑み返した。

「待っているから」

言い残して、周太は自分の乗車ホームへと歩き出した。
宮田は周太に笑いかけてくれた。

「待っている」と言えるのは、いいなと思う。
連絡待っているから、あう日を待っているから、「いつか」を待っているから。
明日が解らないから約束は出来ないけれど、求めても良い事が嬉しい。
約束したい相手が居ることは、あたたかく穏やかだった。

上り列車に乗る。まだ気怠さは体に残るけれど、心が充ちて穏やかだった。
車窓がゆっくりと動き始めた。宮田との距離が遠く離れていく。
けれど心だけは、一番近くに隣に居ることを知っている

孤独でも目的を果たせるのなら、それで構わないと思っていた。
けれどそれは、本当に父が願っていた事じゃない。宮田がくれた6ヶ月間が、気付かせてくれて今はそう解る。

もうじき目的を果たす場所に着く。
自分は迷うかもしれない。その瞬間を手に入れた時、自分を制する事が出来るのか不安もある。
けれどもう今は、やさしい静かな隣の気配が、あの街には佇んでくれている。
きっと自分は道を外さない。死なない警察官で、自分はいたい。

強くなりたい。





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緑翳の下、秋風― another,side story「陽はまた昇る」

2011-09-26 23:55:49 | 陽はまた昇るanother,side story

ほんとうは決まっている




緑翳の下、秋風― another,side story「陽はまた昇る」

実家での目覚めは、爽やかだった。
気怠さの名残が体幹に蹲るけれど、心は少し晴れていた。
母に全て受け留めてもらえた、幸せと後ろめたさが、心で存在感をみせている。
それでも、また宮田に会える事が、周太は嬉しかった。

いつものように、庭掃除と朝食の支度をして、実家を後にした。
次はいつ、帰って来られるのか解らない。それでも母と穏やかな朝を過ごして、いってきますと微笑んで出た。

30分ほど電車に乗ると、新宿に着く。
扉のそばに立って、窓の外を見る。前髪がかすかにガラスに触れた。
車窓の緑が淡く色を増している。昨夜は幾分、涼しかったからだろうか。
昨夜は、開けた窓からの風が、ひんやりと涼しくて快かった。

昨夜、初めて宮田に電話を掛けた。

自室で窓枠に凭れて、携帯を開いた。
なかなかボタンを押せない背中に、窓枠の木肌は温かい。
こんなふうに、宮田と並んで話した事を、不意に思い出して懐かしかった。
そして、会いたかった。

あいたい、会いたい、今もう逢いたい― 想いが漸く、指を動かした。

「湯原?」

ワンコールで出た声に、心が泣きだしそうになった。
また声が聴けた、それだけで嬉しくて温かで、泣きそうだった。
震えそうな声を呑みこんで、いつもの声で周太は言った。

「明日何時に新宿を発つ?」
「あ、そうだな…11時半位かな」

昼過ぎには青梅署に着こうと思う。言って、電話の向こうで宮田が笑った。

「見送り来てくれるの、湯原?」

嬉しそうな声が、嬉しい。
周太の首筋が熱くなってくる。それでも抑揚無い声で、素っ気なく言ってしまった。

「そう、じゃ南口改札に9時で」
「おう、また明日な」

また明日な。
いつも警察学校の寮で、あの小さな部屋で眠る前、掛けられていた言葉。
一昨日まで何気なく聞いていたのに、もうこんなに懐かしい。

どれも小さな事だけれど、携帯電話を通した一つひとつが嬉しかった。
携帯を切った後、ひとすじの涙の軌跡が頬に残っていた。


新宿駅の南口改札を抜け、途中でキオスクに寄った。
昨日から何となく喉が痛い。目当ての飴を見つけて、すこしほっとした。買って、私鉄の改札前に向かう。
すこし早めに着いたから、宮田はまだ来ていない。
ここからなら、階段を上がって来る姿が見やすい。そう思っていると、懐かしい姿が目に映った。
すぐに気がついて、宮田は微笑んだ。

「おはよう」

いつものように、やさしい静かな空気が迎えてくれる。
それでも、どこか初対面のように初々しい。
6ヶ月間馴染んだ空気の変化が、一昨夜を現実だったと思わせた。

ここで別れて、まだ1日しか経っていない。それなのに随分久しぶりの様で、面映ゆさがもどかしい。
結論もまだ話していない。それでも周太は、宮田の笑顔がただ嬉しかった。

そのまま歩きだす。無言だけれど、息苦しくない。
こんな時でも変わらない。やさしい静かな隣は、きっと今も微笑んでいる。
まだ何も話していない。けれど今、隣に居ることが嬉しい。

もう、会えないと思っていた。
二度とこの隣には、戻れないと思っていた。

―大切な一瞬を積み重ねていったなら、後悔しない人生になっていくはずよ

母の昨日の言葉を、本当だなと思う。
今、この一時を大切にしたい。

「湯原、」

呼び掛けに、周太は振り向いた。
やっぱり、いつもの笑顔で、宮田は笑っていた。

「パン買わせて。俺、朝飯まだなんだ」

周太は微笑んだ。顔を上げると、瀟洒なパン屋の前に立っていた。
軽くうなずいて、パン屋の扉を押した。


いつもの公園に着く。
昨日も来たばかりなのに、木々はまた淡く色彩を深めていた。
ぼんやり見上げる宮田に、いつものようにチケットを渡した。

「いつものように」は、一昨日で終わりだと思っていた。
けれど、その続きに今は立っている。それだけで周太は嬉しかった。

言葉は無いまま、いつもの小道を歩いていく。
足許を樹影が揺れて、白い道をモノトーンに染めて光る。その合間に時折、黄葉が落ちていた。
たった1日だけで、景色が移り変わっている。

この隣とも1日で、少し違う空気が挟まれている。
やさしい静けさは変わらないけれど、かすかな緊張と微妙な温もり。
ただ一夜で、こんなふうに変わってしまう事があるなんて、周太は初めて知った。

明日があるか解らない。そんな自分達に差し出された「あの時」
たった一度の「時」で、自分がこんな風に変えられるなんて、知らなかった。

いつものベンチに着いた。
いつものように座ると、木洩日がやさしい。木立からの風が、頬を撫でていく。
そうだと思いついて、周太はそっと立ち上がった。

いつもの自販機を見上げると「あたたかい」の表示が目に入る。
もうそんな季節になったのだな、とコーヒーを2本買った。掌の熱さから、もう秋だと実感が伝わった。
「秋は恋を始めるに良い季節」と書いてあったのは、どの本だったろう。
そんな事を思った端から、首筋が熱くなりかける。周太は首を振った。

ベンチに戻ると、宮田はもうクロワッサンを齧っている。
微笑みが幸せそうで、周太は思わず微笑んだ。目の先に、缶コーヒーを差し出してやる。

「おごってやる」
「お、ありがとう」

いつもの笑顔が変わらず優しい。
きれいで見惚れそうになる笑顔は、一昨日の夜もそうだった。
こんな顔で言われたら、いったいどうしたら拒めたのだろう。

そんな事を思った端から、また首筋が熱くなりかける。
いけないと軽く首を振って、周太はプルトップを開けた。
香ばしい匂いがほっとする。ひとくち飲んで、周太は鞄から本を出すと、ページを捲った。

葉摺れの音が、風に揺れていく。いつもより早い時間の公園は、いつも以上に静かだった。
クロワッサンが口で崩れる音が、静けさに混じる。
風が涼しくなったなと思いながら、ゆっくりとページを捲っていく。ここでの読書が周太は好きだった。

紙袋を丸める音が聞えた。宮田の朝食が終わったらしい。
そろそろ、話さないといけない。

ゆっくり目を上げ、宮田を振り返ると、きれいな笑顔で周太は見つめられていた。
こんな顔されると、どう話していいのか解らなくなる。
どうしよう。
途惑ったまま、ぼそっと周太は言った。

「旨かった?」

宮田の肩の力が、抜けたように見えた。
きれいな切長い目が見つめている。そんなに見られると余計困る、緊張してしまう。
周太は眉を顰めたまま口を開いた。

「…パン、旨かったか訊いてるんだけど」

黙ったまま、宮田が見つめている。
どうしようと思うと、首筋が熱くなってくる。もう赤く染まり始めているだろう。
ぼそぼそと周太は言った。

「…旨いなら、今度また、買って、一緒に食おうと、思ったんだけど」

らしくない、たどたどしい物言いになって恥ずかしかった。
とりあえず、周太は本を開いた。たぶん頬も赤くなっている。

「今度、一緒」

隣から呟きが聞えた。
不意に、ゆっくりと肩に重みが掛って来る。
宮田が肩に凭れかかっていた。そのまま、隣は微笑んだ。

「旨かったよ。今度、一緒に買いに行こう」

解ってもらえた、受取ってもらえた。それがこんなに嬉しいと、周太は思っていなかった。
誰にも理解されなくて構わないと、すこし昔の自分は思っていた。
それなのに今、こんなに嬉しい。

周太の頬を、涙が零れた。
その頬に、あたたかな柔らかさが触れた。宮田が、涙に唇を寄せている。
嬉しくて、幸せで、周太の心がほどけていく。

「…宮田、」

ぼそりと呟いた。
どうしたと目で答えて、宮田が瞳を覗き込んでくれる。その目を周太は見つめた。

「このベンチで、昨日、母と話した」
「うん、」

宮田は体を起し、周太に向き合うように座り直した。
きちんと聴いてくれようとしている。宮田の繊細さはいつも、こんなふうに優しい。
周太も少し体を傾けて、宮田の目を真直ぐに見て、口を開いた。

「母は気付いていた、と言った」

静かに宮田は、周太の瞳を見つめている。ゆっくり瞬いて、周太は言葉を続けた。

「宮田の、俺の写真を見る目が、父が母を見た目と同じだったから、気付いたと言った」

外泊日に湯原の家に泊まった夜、母がアルバムを見せていた事が懐かしい。
あの時、自分はどんな顔をしていたのだろう。

「その隣を得難いと思うなら、そこで一瞬を大切に重ねて生きなさい。
 大切な一瞬を積み重ねて行ったなら、後悔しない人生になるはずだから」

母はそう言って笑ったんだ。
言って真直ぐ宮田を見つめたまま、周太の瞳から涙があふれた。

「宮田、母は、我儘を言ったんだ。『お母さんより先に死なないで』と」

自分より先に死なないで―
夫を殉職で亡くした、母の痛みが改めて悲しい。
それでも息子を警察学校へ送り出した母。母の瞳はいつも、静かな覚悟を満たしている。
申し訳なくて、ありがたくて、周太の頬を涙はとめどなく零れていく。

「そして俺に、生れてきてよかったと、最後の一瞬には笑ってほしいって。
 その時はきっと、母は父の隣で、その俺の笑顔を見ている。そう言ったんだ」

震える肩が、宮田に静かに抱かれた。
あたたかい。

嗚咽が宮田の胸元で、あたためられていく。
静かで穏やかな、やさしい隣が、自分の全てを抱き止めようとしてくれている。
周太はただ、嬉しかった。

そっと身を離すと宮田は、涙の頬を長い指で拭ってくれた。
涙は、零れることは治まっていた。

訊いても良いのだろうか。
すこしの不安と、それでも訊いてみたい心が混じり合う。
周太は微かに、唇を開いた。

「宮田、俺は、隣に居ても、いいのかな」

きれいに宮田は微笑んだ。

「俺の隣に居て欲しい。湯原の隣に、俺は居たい」

淡い黄色と緑の翳で、きれいな切長い目が笑った。
風が梢を揺らして、木々の葉が降りかかる。静かに宮田が、肩を抱きしめてくれる。
もう二度と逢えないかもしれないと、昨日離れた肩が今ここに温かい。
ぱさりと軽い音をたてて、本は膝からすべり落ちた。




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第10話 樹翳、明けの風― another,side story 「陽はまた昇る」

2011-09-26 21:16:59 | 陽はまた昇るanother,side story
祈り、おだやかな緑の翳に



第10話 樹翳、明けの風― another,side story 「陽はまた昇る」

初秋の陽射しが、木々を揺らして光落とす。
ゆっくり歩いていく周太の足許に、街路樹の木洩日が青く揺れている。
いつもと違う体の感覚を、周太は持て余してしまう。こんな事は慣れていない。

卒業式だった昨日の夜は、非現実だった。
透明な甘さと哀しみに、心ごと抱かれてほどかれた。
隣はずっと、いつものように穏やかだった。あたたかさが切なくて、嬉しい分だけ不安をくれた。

…全てが現実だなんて。

こんなこと信じ難くて、不安が募る。
けれど気怠い体が、昨夜の全ては現実だと教えてくれる。

首筋に肩に腕に、体中に残された痕には、まだ熱が燻っている。その熱が心にも、痕を残してしまう。
喉もすこし痛い、かすかに声が掠れる。声も体も昨日と違ってしまった自分に、ただ途惑う。
なにもかも初めての感覚が、途惑いと寂しさを張りつめさせて、苦しい。

昨日の今頃は、何も知らなかった。
たった一日で、世界も感覚も、何もかもが違う空気で佇んでいる。

おろしたままの前髪を、風が撫でていく。
その感触に、昨夜の掌を想ってしまう。こわれものに触れるように、やさしい掌。
昨夜の時間を取り戻したいと、心の底で望んでしまう、もう願っている。
けれどそれは、二度と望むことが許されなくなるかもしれない。

今から母に告げなくてはいけない、そしてこの願いは殺される?そんな可能性がもう怖い。

もう、逢えないかもしれない。
けれど今朝、宮田に別れを告げる事は、周太には出来なかった。
隣に居たい気持ちを、裏切るような事は言えなかった。なによりも「逢えない」ことを認めたくなかった。

…こんなことになるなんて、どうして…でも逃げたくない、だけど

心あふれだすまま、想いは募る。
こんな物想いも初めてに途惑う、そして涙を堪えている自分がいる。
いま瞳の奥に涙を見つめて歩く道、その街路樹が途切れて大きな緑陰が見えてきた。
公園と街を区切る重厚な門扉を周太は見上げた。とうとう、約束の場所に着いてしまった。

…あ、お母さんもういてくれる

公園の門前で、母は待ってくれていた。
淡く黄葉をみせる緑陰に佇む母の姿、もう見つけた途端に心は惑って泣きそうになる。
どんな顔を今、自分はしているのだろう。そんな想いの向こうで母がゆっくり振向いた。

「周、」

すぐに見つけて、母がそっと歩み寄ってくれる。
おはよう、と穏やかな声で微笑んで、一人息子の周太を見上げた。

「ご卒業、おめでとうございます」
「ありがとうございます」

面映ゆくて、周太は笑った。けれど卒業の明るい気持はすぐに、締め上がる様な気持にかわる。
これから母に、真実を話さなくてはいけない。きっと話したらもう、母子の関係も変化する。
その変化の行方が怖い、この不安の前で母は公園の門を見上げ、穏やかに微笑んだ。

「懐かしいわ、」

遠くを見つめるような瞳は、父との若い日を想っているのかもしれない。
齢を忘れたような初々しい母の表情が、とても眩しく見える。

「見ていないで、入ろうよ。お母さん」

二人並んで、緑の中へ入っていく。
昨日、宮田と歩いたばかりのこの場所が、昨日と今日で全く違う世界のように目に映る。
木もベンチも何もかもが同じ筈、なのに違う。

…隣に、宮田がいないから、かな

今は、隣に母が歩いている。
いつも通りの穏やかで、優しい空気が周太を包んでくれる。
この空気を壊してしまいたくない。それでも真実を秘密にする事は、大切な人を二人ながらに傷つける。

…言うんだ、正直に

呼吸ひとつに覚悟と涙を呑みこんで、周太は口を開いた。

「お母さん、」

どうしたのと瞳で訊いてくれる。
そんないつもの穏やかな空気に誘い込まれるよう、周太は続けた。

「昨夜は、急に外泊して、ごめん」

ふふっと母が声を出して笑った。
可笑しくて堪らないという顔で、楽しげな声が言ってくれた。

「社会人で男なら、それくらい無かったら困るわ」

母の言葉に、肩からすこし力が抜かれる。
こんなこと初めてで途惑う、そんな息子に微笑んで、悪戯っぽく瞳を輝かせた母は言った。

「それに、昨日は帰ってこないだろう。って思っていたし」
「…どうして?」

どうして母はそう思ったのだろう?
不思議で問いかけた隣で、穏やかな黒目がちの瞳は微笑んだ。

「なんとなくよ、」

言って母は、楽しそうに息子の顔を眺めている。
今言わなくてはと、周太は少し唇を噛み締めて、口を開いた。

「呑んだのは本当。だけど、一緒に泊まったのは、友達じゃない」
「…ん、」

もう、昨夜の後では、宮田をただ、友達とは呼べない。
ちらっと周太の顔を見、また景色を眺めて、母は歩いて行く。一瞥した母の瞳は、悪戯っぽいままだった。
聡明な母は、何か気づいているのだろうか?そうだとしても、自分の口から言わない訳にはいかない。
ひとつ息を吸って、周太は声を押し出した。

「大切な人と、一緒だった」

振り返った母の瞳は、穏やかだった。静かに母の唇が開く。

「それは、恋人?」

恋人 ― 宮田が。と思うと周太は不思議な、複雑な気持ちになった。
恋人という括りだけでは、ちょっと違う。けれど今は、他に似つかわしい言葉も浮かんでこない。
ただ母の言葉に黙って頷いた周太に、ふっと母は微笑んだ。

「良かった。周に、そういう人が居てくれて嬉しいわ」

それが男だと告げたら。この穏やかな母に、どんな顔をさせるのだろう。
知らない方が幸せだと言う事も、あるかもしれない。
けれどこの母に、真実を告げない事は、裏切りになってしまう。

―これからは2人、助けあって生きようね。お互い隠し事をしないと約束しましょう、隠し事は人の間に溝と壁を作ってしまうから

幼いあの日。父の弔いをすべて済ませた後で、母が言った言葉。
ふたり約束を守る事で、今日まで真直ぐ母と向き合い、生きてこられたと思う。 
隠し続ける事なんて、出来ない。

…それでも、口を開くのが、怖い

殉職者遺族、母子家庭。普通とは違うと、言われ続けてきた。
ドラマチックに生きたいと口では言っても、現実には平凡な幸せを、誰もが望むだろう。
平凡とは遠い家庭、それを更に普通から、遠ざかると告げる。

なんて自分は、親不幸なのだろう?

右掌は左手首の時計を握りしめ、その掌に秒針の鼓動がどこか温かい。
父の遺品の腕時計、その鼓動にすこしだけ心が凪いでくる。

…お父さんごめんなさい…お母さんを今から泣かせてしまう、よ

不自由なく育ててくれた母。普通の家庭より劣ると感じた事は、一度も無かった。
華奢な母の肩で、それは決して楽ではなかった「普通に近く」暮らす事。
それを壊すような事を、自分は望んでしまった。

…男同士だなんて知ったら、普通じゃないって知ったら…おかあさん

大切な母を、傷つける事が怖い。怖くて、怖くて、苦しい。
けれど、自分を誤魔化す事なんて、もう出来ない

…言わなくちゃ、

口の中が、渇く。
声を押し出そうとするけれど、胸に大きく詰まってしまう。
苦しい、息が出来ない、呼吸がおかしくなっていく。このまま心臓が止まりそうになる。

…息、できない、

その時、ふっと隣の空気が揺れた。

「やさしい嘘なんて、私達には要らないのよ」

穏やかな声が、周太に響く。隣からは、黒目がちの瞳が見上げていた。
青く澄んだ落着いた光を湛え、周太を見ている。
もう、黙っているのは嘘になる。
周太の口が動いた。

「宮田と、一緒だったんだ」

母が立ち止まった。
周太は瞑目し、ゆっくり見開く。真直ぐに母の瞳を見詰めて、言った。

「俺、宮田の隣に、ずっと一緒に居たい」

梢が揺れて黄葉を降らせた。強張りそうな頬を、木の香りが撫でていく。
母の白い額に、揺らめく木漏れ日が明滅する。
見上げる黒い瞳がすこし揺れ、すっとほのかに微笑んだ。

「腰、掛けましょうか」

母が指差したベンチは、宮田との指定席だった。
木漏れ日の緑に照らされた、端正な顔が心に映る。
昨日も、ここに座り背凭れていた。綺麗な切長い目を細めては、ぼんやり空を見ていた。

…けれど、もう二度と、隣に座れないかもしれない

母を泣かせてまでも、宮田の隣には居られない。
この母を守りたくて、今まで生きてきた。母を置き去りにするような事は、出来る筈が無かった。
父の無残な遺体に誓った、その生き方を変える事など出来ない。

それでも、宮田の隣が好きだ。

寮の小さな部屋で。教場、運動場、学習室、それからこのベンチ。どれも、何でも無いような風景だった。
でもそれが、どんなに得難いものだったのか。偽ることなど出来そうにない。
ふっと周太の瞼が熱くなりかけ、ゆっくり瞬きして閉じ込めた。

今は、母が隣に座っている。梢から降る陽射しが、霜を隠した黒髪に揺れて映える。
風ゆれる木洩陽のなか、静かに母の唇が開いた。

「警察官は、いつ死ぬか解らない。だから今を、精一杯に生きていたい」

お父さんが言った言葉よ。母は微笑んだ。
黒目がちの瞳を細め、記憶を辿るように、ひとつひとつの言葉を紡ぎはじめる。

「警察官の自分は、一秒後すら、生きているのか分らない。今、この一瞬を生きる事しかできません。
だからこそ、愛するあなたの隣で、一瞬を大切にしたいと願います。あなたを遺して明日、死ぬかもしれない。
けれど、今、この一時を精一杯に努力して、あなたを幸せにします。これがね、お父さんのプロポーズの言葉だったのよ、」

これがプロポーズ、そう言った母の黒目がちの瞳は、幸せに微笑んだ。
父がこんな言葉を言う人だと、周太は初めて聴いた。
そして、その通りに父は生きていたと思う。

― 明日があるのか分らない。だから、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい

昨夜、宮田に言われた言葉。父の言葉と宮田の言葉は重なる。
今この時を精一杯、大切に生きていく。自分にとって大切に生きる事は、何と向き合う事だろう。

…今は、お母さんと向合うことだ

そっと心に思う隣、緑繁る明るい光の中で母の顔がほの白く浮かんでいる。
ふだん通りに穏やかな、母の声。警察学校に行くと告げた時は、あんなに取り乱していたのに。
あのときとの落差が不思議で、周太は母に問いかけた。

「落ち着いて、話してくれるんだ」

ふっと笑って母は、何でも無いように答えた。

「覚悟なら、警察学校に行くと決めた時に、したもの」

どんなに辛い、選択をさせたのだろう。周太の心が軋んだ。
けれど目の前の母は、静かに微笑んで座っている。

「周太も警察官だから、お父さんのように生きるしかないわ」

静かな瞳で母は、穏やかな口調のまま、続けた。

「刹那的だと、笑う人もいるでしょう。でも、死と隣り合わせで生きる事を選んだのなら、明日なんて無いかもしれない。
明日を考える前に。今の一瞬を後悔しないで、生きるしかないでしょう?それが警察官って仕事を選んだ人と、家族の選択だわ」

隣から母が見上げた。黒目がちの瞳が漲り、陽光にきらめいている。少し悲しそうで、奥に決意をともした瞳。
黙ったまま、だけれど穏やかに、周太は母の視線を受止めた。

「でも一つだけ、お母さんに我儘を言わせて欲しいの」

母は何を言うのだろう。
宮田の事だろうか。もし拒絶されたら、周太は母に従わざるを得ないだろう。

― あなたを遺して明日、死ぬかもしれない。けれど、今、この一時を精一杯に努力して、あなたを幸せにします

そんなふうに父と過ごし、たった独りで自分を育ててくれた母。
寂しくなかったと言えば、嘘になるだろう。そんな母を独りにしたくない。

…宮田、さよならかもしれない

思っただけで胸が崩れそうになる。本当は、さよならなんて出来やしない。
あの隣から離れる事なんて出来ない。もう、他の誰の隣も求めない。

さよならなんて、本当は出来ない。
それでも、母を独りには出来ない。

すこしだけ瞑目してから瞠いて、周太は黒目がちの瞳で母を見た。
見詰めた母の唇が、ふっと開き呟いた。

「周太、お願い。お母さんの我儘を訊いて?」
「はい」

短く答え、周太は母の瞳を見詰めた。自分とよく似た黒目がちの瞳が、真直ぐに自分を見返してくる。
その瞳が、やわらかく微笑んだ。

「お母さんより先に、死なないで」

母の声はいつも通り、穏やかだった。瞳も静かなまま、母は普段通りに座っている。
周太の中で、すっと何かが肚に落着いた。

「あなたが生き抜いて、この世と別れるとき。生まれて良かったと、心から笑ってね」

微笑んだままの母が言う。周太の眦が熱くなり、一筋の熱が、頬伝って零れ落ちた。
穏やかな母の声が、静かに周太に響く。

「周が、後悔しない人生であったなら、それでいい」

後悔しない人生―
訊いたばかりの、父の言葉が響くように思い出される。

  一秒後すら、生きているのか分らない。今、この一瞬を生きる事しかできません
  だからこそ、愛するあなたの隣で、一瞬を大切にしたいと願います
  あなたを遺して明日、死ぬかもしれない。けれど今、この一時を精一杯に努力して、あなたを幸せにします

…お父さん、かっこよすぎるよ?

そんな父が誇らしくて、そして、やっぱり大好きだと思ってしまう。
もう父は亡くなって13年が過ぎた、それでも父の温もりはこうして自分を包んでくれる。
その温もりに佇む息子を見つめ、微笑んだまま母は言葉を続けた。

「周太。お母さんは、お父さんの妻で幸せよ」
「…ん。俺も、そうだと思う」
「だから、あなた達も自信を持ちなさい」

周太は母の顔を見た。いつもどおりの穏やかで、きれいな笑顔だった。
美しい黒目がちの瞳が微笑んで周太を見つめてくれる、そして静かに母の声が言った。

「宮田くんの隣を、得難いものだと思うのなら。そこで一瞬を、大切に重ねて生きなさい」

…宮田の隣

ただ言葉で聴いただけなのに、心が温かくなる。
ほら、もうこんなに求めている、そんな自覚が浸しだす。
ただ木洩陽ゆれる膝のうえ握りしめた掌を、そっと母の手が包んだ。

…あったかい、お母さんの手

自分の手が冷え切っていたと今、包まれて気がつかされる。
穏やかな温もりが掌から心にながれる、ほっと心ほどかれていく。
やわらかに手を包んでくれたまま、穏やかに母は言葉を続けた。

「大切な一瞬を積み重ねていったなら、後悔しない人生になっていくはずよ」

周太は目の前の、母の瞳を茫然と見つめた。
泣かれると思っていた。けれど母は、穏やかに黒目がちの瞳で見つめてくれる。
ゆっくり瞬いて、周太は口を開いた。

「男同士だなんて普通じゃ無い…それでもお母さんは、いいの?」
「そうね、お母さんも本当は、ちょっと悩んだわ。でも、なんとなく気付いていたし」

すこし気恥ずかしそうに母は笑って、包んだ周太の手を軽く叩いた。
その手に梢から青い翳が落ちている。周太は疑問を口にした。

「気付いていた、て…?」

宮田くんにアルバム見せた時よ。
周太の手を戻すと、木洩日の中、母は静かに微笑んだ。

「宮田くんのね、周の写真を見る目が、お父さんそっくりだったの」

父さんと宮田が。周太は少し驚いて、母の目を覗き込んだ。
懐かしげに初々しい表情で、黒目がちの瞳が周太に笑った。

「お父さんが私を見つめていた目と、宮田くん、同じ目をしていた」

だから好きなんだろうと思ったわ。
楽しそうに微笑んで、母は髪を掻きあげた。

「でも、男の子同士でしょう?男女で結婚して、家庭を持つ様には出来ないわ。だからお母さんも少し悩んだの。でもね。周は誰かの隣に居ることを、簡単には望まないでしょう?繊細で優しすぎるから、相手のこと気を遣い過ぎて、」

母の言うとおりだと、周太も思う。
誰かの隣に居る事が、こんなに居心地良い事を、ずっと知らなかった。
それは、そんな相手に出会える可能性が、自分には少ないという事だろう。
そんなふう納得を廻らす周太の目を、真直ぐ穏やかに見つめて母は言葉を続けた。

「周の痛みをきちんと理解できる人、周の笑顔を願って笑わせてくれる人。そして周が寛いで一緒に居られる人。
そう簡単には見つけられないな、て思ったの。だけど宮田くんと一緒にいる周は、たくさん笑ってくれるもの?だからね、」

すこし言葉を切って母が周太を見つめる。
真直ぐに互いを見つめ合って、きれいな笑顔が母にほころんだ。

「だから宮田くんの事、お母さん好きだわ、」

そう言ったトーンが、明るく優しい。
大切な宝物の言葉を告げて、黒目がちの瞳は嬉しそうに微笑んだ。

「男の人が相手では子供は出来ないけど。周がひとり、孤独でいるより誰かが隣に居てくれる方が、ずっと幸せだとお母さん思ったの」

子供を望めない。
母にとって、辛い事だと周太には解る。
二人きりの食卓を、いつか周太の子供達で賑やかにしたいと、母は願っていた。

…ごめんなさい、ほんとは解かってるのに出来なくて…子供のことも、警察官のことも

自分の選択はいつも、ごく普通のささやかな母の願いを裏切ることになってしまう。
それでも、警察官として生きる事も、宮田の隣を望む心も、偽ることは出来ない。
何も言えずに唇を少し噛んで見つめた母の瞳は、それでも綺麗に微笑んだ。

「それにね、周、あなた良い顔してたもの」
「え…」

母の意外な言葉に、思わず結んだ唇を解いてしまった。
悪戯そうに黒い瞳を動かして、母は笑った。

「待合せて顔を見た瞬間に、ああ幸せな夜を過ごした顔だなって」

首筋に熱があっというまに昇る。
赤くなる息子の顔を見て、母は嬉しそうに微笑んだ。

「そういう幸せを、周にも大切に重ねて欲しい」

穏やかに周太を見つめて、母は口を開いた。

「宮田くんの隣が大切なら手放さないで、そこで一瞬を大切に重ねなさい。大切な一瞬を積み重ねて行ったなら、後悔しない人生になるわ」

黒目がちの瞳が、にっこり微笑んだ。
そして母は穏かなトーンに、息子の人生へ言祝ぎを贈ってくれた。

「生れてきてよかったと、最後の一瞬には笑うのよ。きっとその時、私は、お父さんの隣で、あなたの笑顔を見ているから」

自分は幸せだ―温かな想いが、周太の胸から全身を満たして行く。
この母の子で、父の子で、本当に良かった。温かさは目の奥底で、熱くなった。

「ありがとう、ございます」

周太の視界が温かく揺らいで、頬を伝って零れ落ちた。





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第9話 緑翳、黄葉ふる― side story「陽はまた昇る」

2011-09-25 21:05:45 | 陽はまた昇るside story
時は変えていく



第9話 緑翳、黄葉ふる― side story「陽はまた昇る」

プラットホームから見上げる空が、昨日より高い。

新宿駅の南口改札を抜けると、湯原が立っていた。
いつものように、静かで穏やかな空気が迎えてくれる。けれど、どこか初対面のように初々しい。
6ヶ月間馴染んだ空気の変化が、一昨夜を現実だったと思わせた。なにか面映ゆい切なさが浸して英二は微笑んだ。

「おはよう、」
「ん…おはよう、」

どうしていいか解らない。

そんな表情に長い睫が瞳を隠しこむ、こんな所も前と違う。
けれど、ネクタイをせず第一ボタンを外したスーツ姿が、最初に出会った日と重なる。
前髪もあの日のように瞳を透かせ長い。校門で出会った日が、半年前以上に遠く、懐かしかった。
同じよう一昨夜も懐かしい。ここで別れて、まだ1日しか経っていない。それなのに随分久しぶりの様で、面映ゆさがもどかしい。

おはようと互いに言ったまま、何となく黙ってしまう。
そのまま歩きだす。無言だけれど、息苦しくない。こんな時でも変わらない、穏やかな隣に英二は安らいでいた。
まだ結論も聴いていない。それでも湯原の顔が見られるだけで嬉しくて、今の瞬間が切なく甘い。

―明日何時に新宿を発つ? …そう、じゃ南口改札に9時で

昨夜の電話は短かった。
いま隣で真直ぐ前を見る瞳は、前髪に隠れて表情がよく解らない。
まだ何も聴いていない。けれど今、隣に居ることが嬉しい。もう、会えないと思っていたから尚更に。
二度とこの隣には戻れないと思っていた、だから尚更に今を大切にしたい。街路樹の葉色を眺めながら、英二は微笑んだ。

温かな香ばしい匂いが、ふっと掠めた。顔を上げると、瀟洒なパン屋が建っていた。
今朝はまだ何も食べていない事を、英二は思い出した。

「湯原、」

呼び掛けて、隣が振り向く。この名前をまた呼べた、それだけの事で温もりが添ってくる。
黒めがちの瞳が、なに?ときいている。英二は笑って言った。

「パン買わせて。俺、朝飯まだなんだ」

ちょっと驚いたように瞳が揺れ、けれどすぐに湯原は微笑んだ。
軽くうなずくと、湯原はパン屋の扉を押した。


温かい袋を提げて、いつもの公園に着く。
一昨日も来たばかりなのに、木々はまた淡く色彩を深めていた。昨夜の風が、涼しかった所為だろうか。
ぼんやり見上げていると、いつものように湯原がチケットを渡してくれた。

「いつものように」は、一昨日で終わりだと思っていた。
けれど今また、その続きが掌にある。それだけでも、英二には幸せだった。

言葉は無いまま、いつもの小道を歩いていく。
足許を樹影が揺れて、白い道をモノトーンに染めて光る。その合間に時折、黄葉が落ちていた。
一昨日と今日。たった1日を挟んだだけで、景色が移り変わっている。

この隣とも1日で、少し違う空気が挟まれている。
穏やかな静けさは変わらないけれど、かすかな緊張と微妙な温もり。
6ヶ月ずっと、壊すことを恐れていた隣の空気。それを一夜で、自分で崩してしまった。
もう二度と戻れないと、解っていた。それでもあの時、触れずに済ます事なんて誰が出来るだろう?
明日があるか解らない。そんな自分達に差し出された「あの時」を、どうしたら諦める事が出来たのだろう。

いつものベンチに着いて、いつものように座ると木洩日がやさしい。
木立からの風が頬を撫でていく、涼しさにほっと息を吐くと英二は袋を開けてクロワッサンを取り出した。
さくり、齧るとまだ温かい。うまいなと微笑んだ目の先に缶コーヒーが差し出された。

「おごってやる」

ぼそりと言って、湯原は瞳を微かに和ませた。
ありがとうと受取った缶は、掌に熱かった。熱いコーヒーが旨い季節になったのだと、改めて時の移りを実感する。
プルトップを開けると、香ばしい匂いが立ちのぼった。
昨日の朝は、湯原が淹れたインスタントコーヒーが嬉しかった。買ってくれただけの缶コーヒーが、今また嬉しい。
缶コーヒーを開けるたびに、今を思い出すようになるかもしれない。そのとき自分は、何を思うのだろう。

葉摺れの音が、風に揺れていく。いつもより早い時間の公園は、いつも以上に静かだった。
クロワッサンが口で崩れる音が、静けさに混じる。その音にかすかに、ページ捲る音がふれた。懐かしい音だった。
隣を見ると、湯原は本を読んでいた。長い睫毛が頬に影おとすのを、長めの前髪を透かして見せている。
ああいつもの横顔だ。英二は微笑んで、最後の一かけらを飲み込むと、紙袋を片手で丸めた。

ゆっくり隣の横顔が目を上げ、英二を振り返る。黒目がちの瞳が、木洩日を映しながら英二を見つめた。
こんな顔の時は、なにか大事な話をする。

それでも「きれいだ」とこんな時でも思っている。
結論を訊く事に、緊張しているはずなのに。英二は可笑しかった。
結局、感情は正直だ。二度と会えなくても、諦められず忘れられない。もう自分の結論は、とっくに決まっている。
それでも湯原の母と、湯原の結論を、きちんと受け留めたい。
微笑んで湯原の視線を享けとめた時、ぼそっと湯原が言った。

「旨かった?」

予想外の言葉だった。
こんな時に湯原は何を言っているのだろう?英二の肩の力が、抜けた。
ぼんやりと黒目がちの瞳を見ていると、焦れたように湯原の眉が顰められる。

「…パン、旨かったか訊いてるんだけど」

湯原どうしたのだろう。どうして今、そんな事を訊くのだろう?
黙って英二が見つめていると、隣の首筋が赤く染まり始めた。黒目がちの瞳が揺れる。
ああきっと困っているなと見つめていると、湯原が口を開いた。

「…旨いなら、今度また、買って、一緒に食おうと、思ったんだけど」

らしくない、たどたどしい物言いをして、また本を開いてしまった。前髪の影で、頬も淡く赤い。
きれいだなと眺めながら、ぼんやりと英二は考え込んだ。
湯原は何を言っている? 英二は湯原の言葉を、繰り返してみた。

「今度、一緒」

あ、また会えるのか。思った途端、肚にすとんと何かが落ちた。

あたたかい想いが体の芯から、指先まで、ゆっくりと浸して広がっていく。英二はそのまま、隣の肩に凭れかかった。
すこし傾けた視界を、淡黄の葉が降ってくる。風ゆらす梢から陽ざしに舞って、黄葉は淡く木蔭の帳のようにふる。
穏やかで潔い香が頬を撫でて、英二は微笑んだ。

「旨かったよ。今度は一緒に食おう」

肩に寄せた頬に、かすかな震えと熱が伝わってくる。
目だけで見上げると、やわらかい前髪の先が木洩日に揺らいでいる。その下で、黒目がちの瞳が揺れて、涙が零れた。
なめらかな頬を一筋、軌跡えがいて降りてくる。英二は少し顔を動かして、涙に唇を寄せた。
かすかな潮の味と温かな熱が、口に残っていく。

「…宮田、」

ぼそりと湯原が呟いた。
どうしたと目で答えて、英二は黒目がちの瞳を覗き込んだ。その瞳が動いて、英二の目を見つめる。

「このベンチで、昨日、母と話した」
「うん、」

体を起し、湯原に向き合うように、英二は座り直した。
湯原も少し体を傾けて、英二の目を真直ぐに見て、口を開いた。

「母は気付いていた、と言った」

静かに英二は、黒目がちな瞳を見つめている。
ゆっくり瞬いて、湯原は言葉を続けた。

「宮田の、俺の写真を見る目が、父が母を見た目と同じだったから、気付いたと言った」

外泊日に湯原の家に泊まった夜を、英二は思い出した。湯原の母が、アルバムを見せてくれた事が懐かしい。
幼い湯原の快活な笑顔と、その後の表情の落差が、胸に痛かった。
あの時、自分はどんな顔をしていたのだろう。細やかに人を見る目が、湯原の母らしいと思った。

「その隣を得難いと思うなら、そこで一瞬を大切に重ねて生きなさい。
 大切な一瞬を積み重ねて行ったなら、後悔しない人生になるはずだから」

母はそう言って笑ったんだ。
言って真直ぐ英二を見つめたまま、黒目がちの瞳から涙があふれた。

「宮田、母は、我儘を言ったんだ。『お母さんより先に死なないで』と」

自分より先に死なないで―
湯原の母の、夫を殉職で亡くした痛みが、英二の胸に寄り添った。
そんな彼女が、息子を警察学校へ送り出した。覚悟の底に佇む彼女が、きれいで切なかった。
今、目の前でも、黒目がちの瞳が泣いている。

「そして俺に、生れてきてよかったと、最後の一瞬には笑ってほしいって。
 その時はきっと、母は父の隣で、その俺の笑顔を見ている。そう言ったんだ」

震える肩を、英二は静かに抱いた。嗚咽が、英二の胸元に沁みいって、温まっていく。
湯原の母の覚悟と温もりが、湯原の涙にとけこんで流れていく。
穏やかな静けさに、涙の熱が鮮やかだった。

そっと身を離すと英二は、涙の頬を長い指で拭った。
黒目がちの瞳は漲ったまま、けれど零れることは治まっていた。
宮田、と湯原の唇が呟く。

「宮田、俺は、隣に居ても、いいのかな」

隣に居ても。
湯原の言葉が英二に触れる。きれいに英二は微笑んだ。

「俺の隣に居て欲しい。湯原の隣に、俺は居たい」

淡い黄色と緑の翳で、黒目がちの瞳が笑った。風が梢ゆらして、木々の黄葉がふりかかる。
静かに英二は、目の前の肩を抱きしめた。もう二度と逢えないかもしれないと、昨日離れた肩が今ここに温かい。
ぱさりと軽い音をたてて、本は膝からすべり落ちた。



湯原は一緒に改札を通った。そのまま英二の乗る、列車のホームへと並んで歩く。
今日はこのまま、新宿署の寮へ向かうと言っていた。改札に入る必要があるのだろうか。
なぜ改札入るんだと訊いたら、きっと、むくれるのだろうな。思いながら、隣の横顔を英二は見ていた。
休日のホームは少し混んでいた。けれど下り線に乗る人は、この時間は少ない。

隣の口数が、減っていく。
さっき抱きとめたばかりの隣から、今また遠く離れなくてはいけない。
卒業配置先では、寮生活になる。独身者の場合は通常、所属署の寮生活が基本と教えられた。
所属署が違う以上、離れる事は止むを得なかった。それでも今は、通じた心が暖かい。

列車がホームに入ってくる。電車の起こす風が、髪を煽った。
隣を振向いて、英二は微笑んだ。

「また、連絡する」

扉が開いて、乗り込むと扉際に立った。
湯原が何か言ったが、雑踏で声が聞こえない。けれど、唇だけ動くのが見えた

さびしくなる―

きれいな微笑だけれど、瞳が悲しかった。それでも湯原は、軽く手を上げた。
上げた手首に覗いた淡く赤い痕が、英二の目に映った。
思わず英二は、湯原の腕を引き込んだ。

扉が、湯原の背後で閉じられた。



休日の昼前、列車はちょうど空いていた。
隣には、少しむくれた顔が座っている。それでも英二は、単純に嬉しかった。
湯原の腕を引きこんで、抱き留めた瞬間に扉は閉まった。

「…特急だと降りられないだろ」

ぼそりと湯原は言い、ため息を吐いた。
立川駅乗換で、英二は特急券を買っていた。少しでも長く公園に居たくて、移動時間を短くしたかった。
立川まで止まらない特急は、30分は一緒に居られる。
機嫌良く微笑んで、むくれた横顔に英二は話しかけた。

「電車代分、今度おごるから許してくれない?」

今度、という言葉を遣えて嬉しい。
次の休暇がいつなのか、お互い解らないけれど。再会を求められる事だけでも、英二には幸せだった。
黒目がちの瞳が英二を見、呆れたように言った。

「…高くつけるから覚悟しろよ」
「おう、任せとけ」

にっこりと英二は、きれいに微笑んで見せた。
まじまじと湯原が英二の顔を見つめて、口を開いた。

「宮田やっぱり馬鹿なんだな」

仕方ないかという顔で、湯原はポケットから何か取り出した。
オレンジ色したスティック状のパッケージを少し破き、一粒とって口に含んだ。爽やかな甘い香が口許から漂う。
湯原の掌を、英二は覗き込んだ。

「はちみつオレンジのど飴?」

随分と、かわいいものを食べている。
こういうの好きなのか、と考えている英二の目の前で、湯原の首筋が赤くなっていく。

「元はと言えば、宮田がっ…」

言いかけて口噤んでしまった。
俺がなんだよと英二が話しかけても、湯原は俯いてしまっている。首筋が相変わらず赤い。
こういう時は、じっと見詰めていると話しだす。

瞳を揺らして、小さな声で湯原は言った。

「…昨日から声が出にくいんだよ」

確かに昨日の朝も、すこし湯原の声は嗄れていた。
一昨日の夜を思い出して、英二はちょっと口の端だけで笑った。

「周太、声大きかったから」

何気ないふうに、さらっと言う。けれど本当は、呼んだ名前が少し震えた。
聴いた湯原の、首筋の赤さが頬まで昇った。周りが聞いても普通の会話だが、それが逆に恥ずかしいだろう。
真っ赤になる湯原が、英二はかわいくて仕方なかった。
こんな姿を見られるのは、次は、いつになるのだろう。

今回は、日程が幸運だった。
卒業式と着任挨拶の翌日が、ちょうど休日に当たった。それで休暇で、時間がとれた。
今日別れたら、いつ次の約束が出来るのか解らない。

列車が駅に着き、一緒に降りた。英二は乗換えて先へ行き、湯原は折返して新宿へ帰る。
それでも少しでも長く、一緒に居られた事が英二は嬉しかった。
けれどやはり別れ難さは、誤魔化せない。視界がすこし滲んで、英二はゆっくり瞬いた。
それから隣を見て、きれいに笑った。

「帰り気をつけ、」

言いかけた口に、何かが放りこまれた。
爽やかで甘い香が口に広がる。目許にふっと温かさが触れた。
湯原の指が英二の眦をなぞって、涙を払ってくれる。

「泣き虫、」

指からも微かな甘さが香る。甘い味と香りに、英二の寂しさが少し和らいでいく。
ありがとうと言いかけて、掌に湯原の掌が重ねられた。やわらかな熱が、英二の掌を暖めて、また離れる。

「それやる」

オレンジ色のパッケージが、英二の掌に置かれていた。
英二を見上げて、湯原は微笑んだ。

「待っているから」

言い残して、湯原は乗車ホームへと歩いて行った。
遠ざかる穏やかな空気を、本当は引きとめたかった。けれど英二はもう、動かなかった。ただ湯原へ笑いかけた。

乗換えて英二は、窓を開けて座った。
しばらく走ると、稲穂の風が窓から吹いてくる。
着任地が近付くなと英二は思いながら、オレンジ色のパッケージを胸ポケットに仕舞った。

明日があるか解らないなら、約束も出来ない。
それでも、約束したい相手が居ることは、あたたかく穏やかだった。

今夜、何時に電話できるだろう。




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第9話 朝靄act.2出立― side story「陽はまた昇る」

2011-09-24 19:20:46 | 陽はまた昇るside story

育まれた場所




第9話 朝靄act.2出立― side story「陽はまた昇る」

自室へ戻るとジャケットを脱ぎ、窓を開けた。涼しい風が部屋に吹きこむ。
ベランダへ出ると、見馴れた庭の風景が眼下に広がる。青空が明るい。夏の名残りの入道雲が、東の方に白く眩しい。
湯原は、どうしているのだろう。考えかけて、扉を叩く音に振り返った。
入るよと、軽やかに姉が扉を開けた。

「英二、ほら挿し入れ」

お昼まだ食べてないからね。笑って、手に持った皿を示して見せた。
言われて英二は、空腹感を思い出した。意外な自分の図太さに、英二は我ながら笑った。
たった一つ違いなのに、この姉には本当に敵わない。ありがたく皿を受取った。

ベランダのベンチに座って、おにぎりを頬張る。隣で姉も、おにぎりとお茶を持っていた。
昔からよく、こうして座って、おやつを食べたり、喋ったりしてきた。
けれどもう、ここに座るのも、最後かもしれない。両親の顔が思い出され、英二は茶を一口呑みこんだ。

「大丈夫よ、英二」

隣の声に姉の顔を見た。
英二を見上げると姉は、指についたご飯粒を舐めとって、微笑んだ。

「良い男すぐに捉まえて、結婚して、私が孫を見せてあげるから」

お父さんとお母さんの事、気にしなくて大丈夫。
言って茶を啜ると、英二に静かに微笑んだ。

「湯原くん、でしょう?」
「…っ」

息が一瞬止まり、英二は咽かえった。
はい、と姉が渡してくれた茶を呑みこむ。一体、どういう意図でその名前を出したのだろう。
改めて姉の顔を見ると、悪戯そうで、だけど優しい沁みるような瞳で、笑っている。

「新宿で会ったでしょう?あのとき英二ね、湯原くんの隣で、すごく良い顔してた」

湯原の家に泊まりに行った時、新宿で偶然、姉と会った。
ほんの30分くらいしか一緒に居なかったのに、どうして姉には解ったのだろう。
やっぱりそうかと、姉は笑った。

「私、湯原くん好きだわ」
「…なぜ?」

英二が訊くと、可笑しそうに英二を見ながら、姉は卵焼きを摘んだ。
わざとゆっくり口を動かして、英二の顔を見ている。たまに姉は意地悪だなと、思うけれど憎めない。
茶を啜って、姉は口を開いた。

「瞳がきれいだから。そして、英二を良い男にしてくれたわ」

きれいな瞳の人は好きよ。言って姉は微笑んだ。
快活で話しやすくて、この姉が英二は好きだ。けれど、と英二は疑問を訊いてみた。

「男同士とか、嫌じゃないの?」

そうね、と姉は考えこんだ。
ベンチに降る陽の光が、あたたかい。少し強い陽射しだけれど、解放感が心地良い。
英二は、ネクタイを緩めて第一ボタンを外すと、ワイシャツの袖を少し捲った。喉元を風が通り、涼しい。
姉がふっと口を開いた。

「ふたりとも、きれいだもの」

だから嫌じゃないかな。
英二に微笑んだ姉の顔が、穏やかだった。

「きれいって、どういう事?」
「お互いが、相手の事を一生懸命考えて、大切にしているの」

新宿で見ていて思っちゃったと、姉は打明け話のように告げた。
この姉には、本当に敵わないなと英二は思う。
膝を抱え込んで座り直し、笑いながら、姉は言った。

「でもやっぱり、なんだか寂しいな」
「なぜ?」

英二が訊くと、ふふっと笑って姉は英二を見た。

「英二ってさ、人当たり良いんだけど、恋人でも友達でも、本気にならなかったじゃない」
「…うん、」
「だから、私がね、一番近くに居るのかなあって思っていたの」

要領を良く、人とも付き合ってきた。他人には、本音の所を話しはしなかった。
姉の言うとおりだったと思う。
快活で賢くて、ちょっとお喋りなこの姉が、一番話しやすくて楽だった。

「でも、もう、一番は湯原くんだね」

それで幸せだと思うよ。言ってまた、穏やかに優しく微笑んだ。
姉はこんなに優しく笑うひとだったろうか。思って英二は、気になった。

「姉ちゃんは、頑張らないの?」

リビングで言っていた「好きな人」
ああと姉は微笑んで、彼が独身だったら頑張りたかったかな、と呟いて、言った。

「奥さんも子供も、彼のパーツだと思うんだよね」
「パーツ、って一部分って事?」

英二の問いに、そう、と答えて姉は続けた。

「私が入ったら、奥さんも子供も、傷つくでしょう?
 彼のパーツを傷つけたら、彼が傷つくもの。
 好きな人をそんな風には、傷つけたくないじゃない?」

だから頑張らないのよと、笑った姉の顔は、すっきりと清々しかった。
この姉なら大丈夫だな、と英二は思う。
青い空を、雲がゆったり流れていくのが見える。いまごろ、湯原はどうしているのだろう。

ぽつんと姉が呟いた。

「英二が、遠くになっちゃうね」

振向くと、すこし寂しそうに姉が微笑んだ。でもそれでいいのよと、姉の、自分そっくりの切長い目が言っている。
英二は家族より、湯原を想う事を選んでしまった。そして明日の朝には、初任地の山村へ発つ。
いつ、ここにまた座れるのか。
母を泣かせた自分に、帰る権利があるのか。そして現場に立てば、再会の約束すら解らない。

「でも姉だからね。いつでも何でも話してよ。私はずっと英二の味方でいるから」

いつでもこのベンチに帰っておいで。
長くて華奢な指を伸ばして、英二の額を小突いた。

「ありがと、姉ちゃん」

英二は心から、微笑んだ。


夕飯も、姉が挿し入れてくれた食事を、自室で済ませた。
月を見ながらベランダで、ベンチに並んで姉とクラブサンドを頬張った。
月夜のピクニックだね、とビール片手に微笑んだ姉の顔が、昔と変わらず無邪気で、嬉しかった。

そっと風呂を済ませて、洗濯物を鞄にしまっていると、扉がノックされた。
はい、と返事をすると、静かに扉が開いた。

「英二、呑まないか」

グラスを2つ持った父が、微笑んで立っていた。

ベランダのベンチに、父と並んで座る。ここに父と座るのは、どの位振りだろう。昔より少し、狭く感じた。
久しぶりのウイスキーを呑みながら、喉が熱いなと英二は思った。

「明日があるか分らない、か」

呟くような、父の低い声が聞こえた。
隣を振向くと、静かに微笑んで、父が見つめ返した。

「警察官になると聴いた時、公務員だしいいか。その位の気持だった」

グラスに口をつけて、ひとくち啜ると父は、ほっと息を吐いた。
グラスの氷を見つめながら、父は口を開いた。

「昼間、英二に言われて、真剣に息子の事を考えていなかった自分に、気づかされたよ」

かすかな音をたてて、グラスの氷が溶けて割れた。
少しグラスを揺らして、父はほろ苦く微笑んだ。

「警察学校の立籠り事件を聴いても、偶然の事故だ、程度にしか考えなかった。
 危険に身を晒す事が、警察官の日常だと解っていなかった。息子をそこへ行かせた現実を、気付かずにいた」

父の横顔が、すこし疲れたように見えた。ああ心配させてしまっている。英二は胸が軋んだ。
月が中空に高い。月の明るさに、雲の流れが速い様子がみとれる。かすかな風が、このベランダにも届いた。
夜の静かさに、低く父の声が響いた。

「生きる事に、誇りと意味を教えてくれた人」

湯原の話をするのだと、英二の胸裡が張り詰めた。それでも心はどこか穏やかだった。
人は決意をしてしまえば、強くなるのかもしれない。父の次の言葉を、横顔を見つめて待った。
静かに、父が言った。

「英二が、羨ましいと思った」

目を上げて、父は英二を見つめた。きれいな切長い目が、自分や姉とよく似ている。
切長い目が、ふっと細められて切なげに笑った。

「私には、そんな人が居なかった。
 良い学校を出て良い会社に入り、良い妻を迎える。
 それで人生は無事に過ぎていくと、ただそれだけだった」

誇りも意味も、私の人生には見つかっていない。
呟くように言い、父は続けた。

「誇りと意味をもって生きられたら、人生を悔いることは無いだろう。
 男なら、人間なら、そんなふうに生きてみたいと、憧れさせられたよ」

苦み隠した微笑みが、父の口許をいろどっている。英二はただ、黙って聴いていた。
いつも自分の話を聴いてくれた、湯原の姿を自分に重ねて、座っていた。
静かに英二を振向いて、父がふと口にした。

「英二、本当に雰囲気が変わったな」
「…そうかな」

微笑んで答える英二を、父は凝っと見つめている。
すこし面映ゆさを感じるけれど、切長い目を和ませて、英二は父の視線を受け留めた。
軽くうなずいて、父が微笑んだ。

「良い男に、なったな」

たった6ヶ月だったのにと、静かに驚きを父は伝えてくれた。
その6ヶ月は、厳しくて温かい濃密な時間だった。その隣にはいつも、湯原が穏やかに居てくれた。
あんなふうに生き様を変えてしまう時間は、そうは無いと思う。
少し笑って、英二はグラスに口をつけた。氷が溶けだして、透明な香が頬を撫でる。冷たさが喉をすべり落ちた。

「無言でいても、居心地の良い隣」

低く父が呟いた。グラスから顔をあげて、英二は父を見た。
切長い目が、英二を真直ぐに見返してくる。
父の背後で、月が明るく見えるのを、きれいだなと英二は思った。

「きっと彼は、良い男なのだろうな」
「うん、」

迷わず英二は頷いて、きれいに微笑んだ。
穏やかで落ち着いた、やさしい空気を思い出す。今頃、どうしているのだろう。
古いけれど清々しい、居心地の良いあの家で、木製の窓枠に凭れているだろうか。

おもむろに父が口を開いた。

「会社でも、同性で付き合っている部下がいる」

呑みながら相談されるんだ。
そう微笑む父の顔が、社会の大人の男になった。
とても苦労が多いようだよと、告げてまた、グラスに口をつける。

「普通の生き方は出来ない。差別もある。秘密も増えていく。
 心の負担も、それなりに増えていくだろう。子供も勿論、望めない。
 それでも一緒に居たいと、後悔しないと、今、決める事なんて出来るのか?」

真直ぐに父が見つめてくる。
英二はやわらかく視線を受け留めて、すこし笑った。

「6ヶ月、その事を俺は考えていた。
 リスクは考えるほど、厳しくて辛くて、生き難いと思った」

すこし息をついて、英二は続けた。

「きれいな瞳をしているんだ。
 少し頑固だけれど端正で、繊細で強くて、穏やかで。真直ぐに生きてきた男だよ。
 だから、そんなリスクを、背負わせたくなかった。きれいなあいつを、引き擦り込みたくなかった」

風がベランダを吹き抜けていく。庭木の梢が葉を鳴らして、風にあそぶ音が静寂に響いた。
静けさが心地良いと、思いながら英二は口を開いた。

「立籠り事件で、あいつは犯人に銃口を、突きつけられ続けた。何時間もずっと。
 それでも最後には、犯人から自分で銃を奪い返した。本当に強い男なんだ。
 けれど、どの瞬間も、俺は後悔し続けていたよ。何も伝えないまま、失いたくない。って」

頬を風が撫でて、髪を揺らしていく。
まだどこか、湯原の残り香を感じられる。英二の心は穏やかだった。

「俺は警察官だから、明日なんて解らない。今、この一瞬に生きていくしかない。
 大切な人と、いつまで一緒に居られるのか、次また会えるのか、解らない。約束すらも、何一つ出来ない。
 だからこそ、今この瞬間を、大切に重ねて生きていくしかない。いつまで続くかなんて、解らない。
 ただ、大切な人の隣で、この一瞬を大切に過ごしたいと、俺は思うんだ」

黙って父は聴いてくれている。その瞳が穏やかだった。
英二はグラスの氷を見つめ、啜った。氷から溶け出した冷たさが、ウイスキーの熱と混じって喉を降りる。
静かで、どこかほろ苦い時間が、ゆっくりと過ぎていく。こんな風に父と呑んだのは、初めてだった。

「写真は、無いのか」

父の言葉に、英二はポケットから携帯を取り出した。軽い音を立てて開くと、メモリーを呼び出す。
木蔭に輪郭を滲ませた、湯原の横顔が映っていた。
昨日の午後、公園で本に集中している隙に、そっと撮ったものだった。
父に渡すと、暫く眺めて、また英二に返してくれた。

「きれいな、良い顔だな」

そのうち三人で呑みに行きたいな。穏やかに微笑んで、父はグラスを傾けた。
少し笑って、英二は父の横顔を見ながら、グラスに口をつけた。
英二、と父に呼びかけられて、顔を上げた。

「休暇には、家へ帰って来るんだぞ」

母さんなら気にするな。微笑んで父は立ち上がった。
グラスを英二から受取ると、おやすみと言って部屋を出て行った。
ありがとうと言いたかったけれど、声が詰まって上手く言えなかった。朝、家を発つ前には、伝えられるだろうか。

ベンチに座ったまま、空を見上げた。
明日はもう、ここを発たなくてはならない。いつまた帰って来られるのか、解らない。
携帯の画面を見ると、きれいな湯原の横顔が、夜の闇の中で、あざやかに見えた。

逢いたい、今、どうしているのだろう。
今日、湯原の母は、何と言ったのだろう。

片膝を立てて抱え、頬を膝ついて英二は、ぼんやりと遠くを眺めた。
その時、携帯電話に着信ランプが灯った。



頬は大して、腫れなかった。
母の不慣れな平手打ちは、体より心に効いている。ネクタイを締めながら、軽いため息が吐かれた。
窓を開けると、珍しく庭に靄が立ちこめていた。空を見上げると、高い位置に白い雲が、薄く棚引いている。
きのう見上げた空よりも、青が深くて高い。秋がまた濃くなった。

見馴れた景色、見馴れた部屋。
次の休暇には、帰って来られるのか、解らない。そう思うと懐かしくて、出足が遅れそうになる。
それでも、待ってくれる人がある事が、英二に扉を開けさせた。

階下に降りると、リビングの扉から母の背が見えた。
台所に立っている華奢な背中に、英二は黙って礼をした。
姉と父には、昨夜ゆっくり別れを話し、今朝も部屋を訪れた。
けれど母は、頑なに英二を避けている。仕方のない事だと、英二は思った。

靴を履き、玄関の扉を開ける。朝靄の冷気が頬を撫でた。
見馴れた庭の風景が、靄の向こうで門扉まで続いて見える。次には、何時また見る事が出来るだろう。
懐かしく、惜しむ気持で、英二は少し佇んだ。

扉を閉めて鍵を掛け、エントランスを歩き出すと、ふと気配に顔を上げた。
母が、靄の漂う庭先に立っていた。リビングの窓から出たのだろうか。

英二は穏やかに微笑んで、母に頭を下げた。
顔をあげると、母は黙ってこちらを見ていた。無言のままだけれど、顔を見せてくれて、嬉しかった。
もう一度微笑んで、英二は歩き出した。

「…英二っ」

声に振り返ると、母が立ちつくしていた。その瞳が潤んでいるのが、見えた。
ああ泣いてくれるんだ。心が温もって、英二は笑った。

「母さん、また」

短く言って、踵を返した。
あんなに傷つけたのに、母は見送ってくれた。
まだ目が少し腫れていた、夜も泣いたのかもしれない。英二の胸が軋んだ。
母の涙を、忘れないでいようと思った。

たくさんの傷と選択を、家族に強いてしまった。
それでも自分に嘘が吐けない。真実が傷つけると知っていても、家族を偽る事も出来ない。

何の約束もできず、何も生み出さないかもしれない。
それでも、自分は湯原の隣を選んでしまった。その隣にも、居られるのかまだ、解らない。
独りになるかもしれない。それでも、自分に嘘を吐くなんて、出来なかった。





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第9話 朝靄act.1名残 ― side story「陽はまた昇る」

2011-09-23 21:59:48 | 陽はまた昇るside story

なごりの時




第9話 朝靄act.1名残 ― side story「陽はまた昇る」

車窓を街並みが流れていく。ぼんやりと英二は扉の窓に凭れて、外へ視線を向けていた。
公園に向かう湯原とは、駅でわかれた。

「じゃあ」

短く、それだけを湯原は言った。再会の言葉も、別れの言葉も無かった。
微笑みがただ、透ける様にきれいだった。

どんな結論が出るのかは、まだ解らない。
あまり考えたくも無かった。

窓に頭を、ごつっとぶつけた。ふっと穏やかで潔い香りが、頬を撫でる。
残り香が、英二の髪から肌から、かすかに滲んでのぼっていた。
朝は腕の中にあった、穏やかな温もり。今は切ない痛みになって、胸裡で未練と一緒に蹲っている。

人の記憶は、どのくらい保存が効くのだろう。
けれど拳銃を見る度、制服に袖を通す度、湯原の記憶は何度も再生されるだろう。
毎日再生されていたら、記憶はきっと消えてはくれない。

ときおり、横顔に視線が掠めていく。
女の子たちの視線を浴びる事に、英二は慣れている。
普段なら微笑み返す位はするけれど、今はとてもそんな気分になれない。

想いが通じても、一緒に居れない事もある。そんな事は、昔は知らなかった。
かわいいなと思って微笑めば、大概の女の子と恋愛が出来た。
こんな容貌だから、老若男女から視線を受けるけれど、本当に受け止めたい視線には、出会えなかった。

無言でも居心地の良い隣。それがどんなに得難いものか、英二はよく知っていた。
けれど、想いが通じたのに、その隣とは一緒に居られない。
6ヶ月間ずっと考えて、納得して、覚悟してきた。それでも、なせ、どうしてと思ってしまう。

車窓に、なつかしい駅舎が見えてきた。降りて、改札を抜けると、見慣れた景色が待っている。
けれど今までとは、なんだか違う景色に見えた。
昨夜はほとんど眠っていない。けれど、その所為じゃない事は、英二には解っている。
満たされたものと、それと同じ位の喪失感が、心も感覚も、変えてしまった。

瀟洒な住宅街を、ぼんやり歩く。木洩日さす街路樹の、葉が淡く黄色い。
昨日、あの公園で見上げた梢も、こんな色になっていた。
その下で座っていた、湯原の横顔が、きれいだった。

英二はため息をついた。こんなところにも、あの隣が佇んでしまう。
もう何を見ても、自分の想いから逃げられないと、思い知らされる。


「ただいま」

一声かけて、玄関で靴を脱ぐ。見馴れた色の煉瓦敷きに、見慣れた家族の靴が並んでいる。
日常の風景だけれど、今は何を見ても非現実に感じる。
昨夜の事が、腕に髪に残っている。その記憶を手放したくなくて、目に映る現実を、心が拒絶してしまう。

こんなことでは駄目だと、解っているのに。胸の底から、ため息が吐かれた。
玄関先に座り込んだまま、今、閉めたばかりの扉を眺める。
ここを開いて、あの隣へと戻りたい。ぼんやりと思いながら、身動きが出来ない。

「おかえり、英二」

明るい声が頭から降って、英二は見上げた。快活な姉の笑顔が、隣に立って見下ろしている。
見馴れた姉の笑顔は、ほっとする。英二はすこし笑った。

「ただいま、姉ちゃん」

自分とよく似た笑顔で、姉が微笑んでいる。その瞳がすこし考え、また笑った。
姉は、何かを気付いたのかもしれない。それも今は、どうでも良かった。
今の自分はどんな顔をしているのだろう。

「お茶の支度して、父さんも母さんも待ってるよ」
「おう、ありがと」

微笑んで、英二は立ち上った。
湯原は今頃、母親に真実を告げているだろう。自分も、家族に向き合わなくてはならない。
拒絶され泣かれても、考えを変えられない自分を、よく知っている。だからこそ、家族に拒絶される事が怖い。
拒絶されたら、考えを変えなければ、家族には受け入れてもらえない。
けれど自分に嘘をつく事は、英二には出来ない。家族の許へ二度と、帰れなくなるかもしれない。

 独りになるかな、俺は

湯原の母にも拒絶され、家族にも拒絶されたら。英二の隣には誰もいなくなるだろう。
それでも、家族に真実を告げたい。
黙っていれば済む事かもしれない、けれど、湯原は母親と向き合っている。
湯原と同じように、英二も向き合いたかった。

6ヶ月間、躊躇い続けたリスク。
そのリスクを湯原は、昨夜共に背負おってくれた。
今、家族に真実を告げる痛みと、湯原は向き合っている。だから英二も向き合いたい。
もう二度と湯原に逢えないかもしれない。ならばせめて、リスクも痛みも、共に背負いたかった。

リスクと痛みだけの繋がりなんて、不幸だと嗤われるかもしれない。
独りになるかもしれない。
それでも英二は、湯原と繋がっていたかった。

荷物を自室に置いて、スーツのままで英二はリビングに降りた。
扉を開けると、淹れたてのコーヒーの香が頬を撫でた。

「おかえりなさい、英二」

卒業おめでとうと母が微笑んだ。自分と似た、きれいな母の笑顔に、英二は胸が痛んだ。
この笑顔を、きっと自分は壊すだろう。まだ何も知らない母の笑顔が、眩しかった。
ありがとうと微笑み返して、いつもの席に座る。父は先に座って待っていた。
実直な笑顔を向けて、おめでとうと言いながら、英二を見た。そして少し怪訝な顔で、また笑った。

「スーツのジャケットくらい、脱いで来ればいいだろうに」

英二は黙って笑った。
これから真実を話さなくてはならない。そうしたらもう、この家に二度と帰れないかもしれない。
今が家族と、最後に会う時になるかもしれない。自分のきちんとした姿を今、見ておいて欲しかった。

母がコーヒーを運んでくる。勧められて口元へ運ぶと、芳香が漂う。
今朝のインスタントのドリップコーヒーとは、比べ物にならない良い品だろう。
けれど、湯原が淹れてくれた今朝のコーヒーが、英二には懐かしかった。
コーヒーの一杯にも、あの隣が佇んでしまう。朝には抱きしめていた、穏やかな空気の記憶が、今、胸を裂いていく。

 あいたい 会いたい 今、逢いたい

きれいな切長い眦に熱がうかぶ。零れて一滴、頬を伝っていく。
涙が、軌跡を一筋、描いて顎へ伝い、落ちて砕けた。
自分がこんな風に泣くなんて、英二は思っていなかった。こんな事は、初めてだった。

目を上げると、父も母も、隣に座る姉も、驚いて自分の顔を見つめている。
今、自分はどんな顔をして、家族の前で座っているのだろう。
当たり前のように居ると思っていた、家族だった。でも今はもう「当たり前」だと思えない。
本当はずっと、この家族の許を、帰る場所にしておきたい。
それでも自分の心には、嘘は吐けない。英二は、口を開いた。

「俺、大切な人が出来た」

父も母も、驚いた顔になった。そしてすぐに笑った。
でもまだ、半分しか英二は話していない。ひとつ息を吸って口を開こうとした時、母が微笑んだ。

「どんなお嬢さんかしら。英二がこんなに真剣に話すなんて、本当に素敵な方なのでしょう?」

どんなお嬢さん―
そう思うのが普通だろう。母の嬉しそうな顔が、胸に、突き刺すように痛い。
それでも、真実を告げたい。
あの公園で今、たった一人の家族と向き合う湯原の痛みを、自分も分かち合って、繋がっていたい。

ゆっくり瞑目して、英二は目を上げた。
目の前で、両親が楽しそうに笑っている。隣の姉の顔は見えないけれど、笑顔だろうか。
すこし唇引き結んでから、英二は静かに口を開いた。

「警察学校の同期で、首席卒業した男なんだ」

空気が止まった、と思った。
きれいな母の笑顔が、強張って消えていく。実直な父の笑顔が少し険しくなった。
目の前で、端正な母の唇が震えるように開いた。

「冗談、でしょう?英二」

怯えるような、救いを求めるような、母の目。こんな母の表情を、英二は初めて見た。
沢山の彼女を次々と連れてきても、いつも笑顔で迎えてくれていた。
母の目が、痛い。これからきっと泣かせてしまう。

冗談だよと言えば、全て上手くいくのかもしれない。
けれど家族を「当たり前」では無いと気付いた今は、真っ直ぐに家族と向き合っていたい。
何よりも、自分の気持ちを偽る事など、出来ない。
真直ぐ母の目を見て英二は、静かに言った。

「本気だよ」

強く鈍い音がして、英二の頬が叩かれた。

初めて、母に手を上げられた。
叩いた手を上げたまま、母が泣いている。
頬に鈍い痛みが広がっていく。その衝撃以上に、叩かれた現実が痛い。

「不潔よ…っ」

初めて聞く母の叫び声が、痛い。
いつも美しい母の顔が冷たく強張っている、こんな貌は初めて見た。
ただ「人に迷惑さえ掛けなければ良い」と「手元にいれば良い」、この2つを守って母の理想に逸れないこと。
それが母を喜ばすと知っているから、刃向わないで生きてきた。
母に嫌われることが怖かったから。

美しい賢い息子、自慢の息子。

そう言って母は英二を愛してくれる。
けれどそれは「理想通り」を英二が演じてきたからだと、自分が一番知っている。
ただ母が喜ぶように、要領良いフリしてただ笑って生きていた。だから拒絶されなかったことは当然だ。
その母が今、全身で英二を拒絶している。

―責められて当然だ、

英二は唇をかみしめた。
ずっと嘘を吐いていた、この母に本音を言ったこともなかった。
それが今、突然に本音を告げた。それだけでも母に拒絶され責められても仕方ない。
しかもこの本音は「母の理想」と真逆のこと、それどころか世間的にも受容れられ難いこと。
この母が受容れてくれる訳が無い、そんなこと解っていた。

このことはずっと考えていた、湯原への想いを自覚した時から。
そして昨夜、選択をした瞬間に覚悟は肚に落とされた。そのまま今も帰省の道で考えてきた。
6ヶ月考え続けたリスクは、現実に今、この目の前で、哀しんでいる。

解ってはいたこと、けれど痛い。
覚悟は出来ている、それでも今、現実になれば哀しい。
とっくに諦めていた「受容」けれど本当は微かな望みを持っていたから、今、母の声が痛い。

「どうして、なぜ、そんな事を言うの?英二あなた、いつも女の子を沢山連れてきていたじゃない?」
  
震える母の声が、沈黙の上に圧し掛かる。
父はただ黙って座っていた。隣の姉は、どんな顔を今しているのだろう?
震える声は次々と、母の唇から溢れだしていく。

「あなたちょっと疲れているのよ、英二。
 きっと警察学校で男だけの生活だったから、自分で勘違いしているだけよ。
 ねえ、きっとそうに決まっているわ。だからもう、忘れましょうよ、英二」

独り決めした母の顔が、悲しい自己満足の笑顔を浮かべている。
こんな母の顔は見たくなかった、けれどこれは、自分が追い込んだ顔だった。
どんなふうに自分が愛されてきたのか?それが今もう逃げられない現実に思い知らされる。

「英二?私の言うことを聴いて頂戴、今までずっと、言うこと聴いてくれたじゃないの?それで笑顔を見せて?」

言うこと聴いてきた、今までは。
でも納得して聴いていたわけじゃない、本当は言いたいことが一杯あり過ぎた。
それなのに、こんな時にまで、こんなふうに言われたらもう、諦めるかしかない。

どうして、俺の言葉を聴かないで、母の言うことだけを聴いてと言うの?

こんなところから解ってしまう、母の愛は独善的でしかない。
この独善に嫌われたくなくて、要領良いフリして自分は生きることを選んでいた。
けれど、もう戻れない。もう今の自分は素顔で生きることを選んだから。
叩かれた頬のままで、英二は母の瞳を静かに見つめ、言った。

「6ヶ月間考えた。自分には、嘘は吐けない」

息子の真っ直ぐな目に、母の瞳が引き攣ったように怯えた。
ああこの母を苦しめている。罪悪感が、重たく英二の胸裡に座り込んでいく。それでも自分は、偽れない。

「親戚にご近所に、なんて言い訳すればいいの?
 お願いよ英二、今ならまだ間に合うわ。そんなおかしな事、気持ち悪い事、もう止めて」

不潔、気持悪い―母の言葉が、心を刺していく。
何度も自分で考えた事だった。普通じゃない、おかしいと思おうとした。
けれど、日を重ねるごとに、あの隣の居心地は穏やかで、安らいでいった。
自分の感覚を、安らいでいく心を、誤魔化す事なんて出来なかった。
一体、どんな言い訳と言葉が、諦めさせてくれるのだろう。

「気持ち悪いとは、思えないよ、私」

静かに隣から声が響いた。振向くと、姉が微笑んでいた。
自分とよく似た姉の、微笑みが温かい。姉は言葉を続けた。

「私、英二の気持ち、わかるから。私のいま好きな人、妻子持ち。好きって言っても、憧れみたいなものだけど」
 
父と母が呆気にとられている。
予想外な援護射撃だと、英二も姉の横顔を見つめた。

「好きになろうなんて、思わなくても、好きになってしまうでしょう?
 恋に堕ちるなんて、相手を選んで出来るものじゃないわ。
 どんなに気持を誤魔化したって、自分に嘘なんてつけない。惹かれてしまったら、もう、不可抗力だわ」
 
自分とそっくりな、切長い目が真直ぐに両親を見つめている。
明朗で快活な姉の、知らない一面。不思議な、けれど納得出来る、姉の一面だった。
力無い目で、母が顔を上げた。

「どうして、ふたりともそんな事を言うの?
 どうして普通に、相手を選んでくれないの?
 子供が家庭を持って、普通に幸せになることを願って、何が悪いの?私は間違っているかしら」

姉の目がすうっと細くなった。穏やかで優しい、けれど強い眼差しは、英二も初めて見る姉の表情だった。
静かだけれど強い声で、姉は言った。

「お母さん、私は普通に結婚したいわ。
 今の相手はそんな事、出来はしない。彼は何も知らないし、知らせるつもりもないの。
 でも、もし彼が独身だったら、ちょっと頑張りたかったけどね。英二の様に」

落ち着いた姉の声が、静かにリビングに響く。
父は黙って座っている。その隣で母の目がすこし、落ち着きを取り戻し始めた。
正直に言うとね、と姉は言葉を続けた。

「英二が、誰かをそこまで大切に想うなんて、意外だった。
 ちょっと手を伸ばせば、簡単に恋愛も出来る。英二は要領が良いから、そんな冷たさもあったでしょう?
 けれど、それでは相手だって、本気で英二を大切にしないわ。あのままだったら、女遊びが好きな独身男で一生終わったと思う」

母の目が途惑ったように、隣の父の顔を見上げた。父は黙って、姉の顔を見つめ聴いている。
二人を見つめ返しながら、姉は笑った。

「英二が、本気で誰かを想える方が奇跡。幸運だわ。
 このまま女遊び好きな独り者になるより、身持ちが固くなる分、ずっとマシね」

姉の言うとおりだと、我ながら英二は思う。あのままだったら、きっといい加減な人生だった。
この姉は自分とそっくりの顔だけど、よく見てくれている。姉の気持ちが、ありがたかった。
姉は、やわらかく微笑んだ。

「警察学校に行ってから英二、ずっと良い男になった。
 英二を変えてくれたのは、その彼なのでしょう?だからきっと、彼は英二には必要なパートナーだと、私は思うわ」

父がため息を吐いた。実直なその顔は、すこし疲れて見えた。
外資系の自動車会社に法務のエリートとして、真面目に勤め続けている父。普通の常識に生きる父には自分はどう映るのだろう。
すこし寡黙だけれど、温かい懐を持つ父が、英二は好きだった。けれどもう、呆れられたかもしれない。
母は真っ赤な目をして、姉と英二を見つめて、言った。

「私には今は、わからない」

母のこんな姿は、本当は見たくなかった。それでも自分は選んで、家族と向き合った。
やさしい嘘を吐いて、家族を欺き続けるよりも、真実で向き合う方が、ずっといい。
大切な家族だからこそ、英二は嘘を吐きたくなかった。もう仮面の自分で接することは止めたい。
目の前の両親を、英二は見つめた。もう二度と会えないかもしれない。きちんと顔を記憶して、言った。

「ごめん、父さん、母さん」

二人とも黙っている。
寡黙なままの父の目と、泣き腫らした母の目。自分はこれから、この目と向き合っていく。
辛い、と思う。それでも、あの隣でみつけた想いを、裏切る事は出来ない自分を知っている。
もう選んでしまった。けれど両親に伝えたい事がある、英二は口を開いた。

「警察官の俺には、明日があるのか分らない。危険に身を晒していく仕事だから」

母の目が瞠かれて、漲り、涙があふれる。父の眉間が顰められ、真剣な視線が英二を見つめ返した。
ふたりだけの親の目を真直ぐ受け留めて、英二は言葉を続けた。

「明日があるか分らないなら、今この時を大切に重ねて、俺は生きたい。
 いつかなんて約束は、俺には出来ない。
 だから、大切な人に出会えたなら、俺は今、その人を見つめていたい」

リビングの窓から風が吹き込んだ。風は英二の髪を撫で、かすかに、穏やかで潔い香がこぼれた。
静かで穏やかな空気が、ふっと英二の隣に寄り添った。今きっと、湯原も母と向き合っている。
離れていても、同じ時を共有できる事が嬉しいと思った。

「警察官として、男として。生きる事に、誇りと意味を教えてくれた人だよ」

落ち着いた声が、ゆっくりと話す。
叩かれた頬のままで、英二は微笑んだ。

「無言でいても居心地の良い、そういう相手なんだ。
 あいつの笑顔の為に何かしたい、生きていてよかったと思えた。
 初めて、誰かの為に、何かしたいと、出来るかもしれないと、そう思えた」

静かな午後の太陽が、リビングを暖かく照らしだした。いつの間にか昼時も過ぎている。
黙ったままの両親へ、英二は微笑んだ。
 
「俺を生んでくれて、育ててくれて。ありがとう」

母は両手で顔を覆って、肩を震わせた。
その白い掌から、とめどなく涙が零れていく。

―やっぱり泣かせてしまった、

自分の為に母が泣いたのを見たのは、英二は初めてだった。
今までは母の機嫌を壊さないことが、母を大切にすることだと想っていた。
だから当然、母が英二の為に泣くことなどある訳が無い。

この涙の意味は多分、普通の母親の愛情ではないと知っている。
この母が自分をどう想って接してきたのか、自分が一番知っているから。
だから解かっている、もう母は英二を赦すことは無い。

この母は理想の息子という「美しい人形」を愛している。
だから今日も、受け容れては貰えないと最初から解っていた。

それでも本当は、すこしだけ期待していた。
それでもやっぱり与えられたのは「拒絶」だけだった。
最後に母を抱きしめたい。けれど今はもう、触れる事も許してくれないだろう。

きっと母は、息子を赦さない。
もうこれで、この家には帰れない。ここは自分の帰るべき場所では無くなった。

この確信は苦い、孤独の寂寥感が痛い。
それでも嘘を吐いて、都合よく騙し続けるよりもずっと良い。
本当の自分を少しでも両親に示せた、その正直な喜びと伝えられた勇気が温かい。
大切な存在だからこそ、偽りのまま終わりたくないから。




(to be continued)



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コメント (2)
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