萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

晦、綴ったものは

2012-12-31 23:58:21 | 雑談
ことば、描いていく色彩



こんばんわ、あと数分で年あらたまる時間です。
今朝UPした第58話を加筆校正を年内に終えたいなあと。笑
写真は今年、いちばん印象が深く感慨を想った秩父の黄昏です。

このサイトを初めて1年と4ヶ月、毎日書いてきました。
1万文字前後を日々綴っていますが、読んで下さる方がいるなと思うと書こうってなりますね。
いつも読んで下さる方、本当にありがとうございます。たまにでも読んで下さる方にも感謝です。
すこしは何か、あったかい気持ちになるような寄すがになっていますか?

こんなふうに毎日小説を書いていると、作中の人物と向き合う日々になります。
現実に触れられる人物たちではありません、けれど文章の中で泣いて笑って彼らは生きています。
そんな彼らのモデルは実在の人たちです、だから敬意を持って書きたいなあと日々想い、何度も読み直し描きます。
だからこそ、読んでだ方のメッセージを頂けると、なんだかときめきます。笑

物語も次の佳境へと向かっていきますが、彼らもまた互いの関係に変化を起こしながら成長しています。
第59話から新しい人物や環境へと変りながら、今まで描いてきた伏線の意味が明らかになると思います。
どんな展開になるな、とか読み手の方は予想ってされるのでしょうか?

今年も読んで頂いて、感謝です。
あと2分で新しい年ですが、より良い文章書けたら嬉しいですね。

明日朝、またUPの予定です。



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第58話 双壁side K2 act.18

2012-12-31 05:40:07 | side K2
「宝」秘すること、その真実 



第58話 双壁side K2 act.18

桜の香が靄となって、視界を朧に誘っていく。

湯を張ったバスタブに浸かりながら頭からシャワーの湯も被る、天辺からつま先まで湯が染みていく。
ほんの数時間前に北壁で得た昂揚を残しながら、疲労だけが湯へと解けて消えていくのが心地良い。
立ち昇る湯気は入浴剤が桜に香り、そっと閉じた瞳に幼い日の幸福が肌と香から蘇えりだす。
いつも雅樹と風呂へ入るたび馥郁とくるんだ桜の香、あれは雅樹が生来もっていた香だった。

「いい匂いだね、雅樹さんってさ。山桜が満開のときと、同じ匂いがするね?」

この香が自分は大好き、そして香の主はもっと大好きだ。
想い素直に笑って湯のなか抱きついた、そんな自分を抱きとめて雅樹は笑ってくれた。

「そうかな?僕はよく解らないんだけど。光一こそ佳い匂いがするよ、」
「雅樹さんがいい匂いって言ってくれんなら、俺は嬉しいよ?ね、もっとくっついてよ、」

もっと近づきたい、この大好きな人と離れたくない。
そう願うまま湯船に浸かり裸で抱きしめた、そんな風呂の時間は幸せでずっと習慣だった。
習慣と想うほど自然だった、けれど8歳の夏、自分の中で「幸せ」は色彩を深く変えたと自覚した。

―あの夏は特別だったね、俺にも雅樹さんにも…俺はあの夏から大人になったね、

穂高連峰を雅樹と縦走した、8歳のきらめく夏の記憶。
あの夏休みは殆ど毎日を雅樹と過ごし、吉村の家と国村の家を泊まりっこした。
そして穂高の他にも山に登った、奥多摩の山々を縦走し、北岳も谷川岳も、剱岳にも登りテント泊を楽しんだ。
沢で水遊びして、魚を釣って焚火して食べた。木の実も摘んで食べた、ブナの森で清水を飲んで、あの山桜の森でキャンプした。
そんな幸福が永遠に続くと自分は曇りなく信じて、信じた分だけ尚更に美しい山ヤの医学生を慕い、恋して、愛してしまった。

「…本気で惚れてるよ、あの時からずっと…だから本気でセックスしたかったんだ、」

湯のなか呟いて、シャワーの湯に涙が融けていく。
あの夏に自分が心から望んだ願いが今、異国の湯を浴びながら涙に変る。
あのとき8歳で体は子供だった、けれど恋慕の心は今と何も変わっていない。
だから言える、あのとき自分は本気で23歳の雅樹と体を交わしたいと願い、行動した。

「雅樹さん、俺とセックスして?」

そんなストレートな告白に雅樹は、屋根裏部屋のベッドのなか瞬きひとつした。
あのとき両親は山岳会の講習会に出掛け、祖父母は町内会の旅行にいき、雅樹とふたり3日間の留守番だった。
その初日の夜、早速に自分は告白をして雅樹を見つめ、梓川の時と同じよう唇を重ねあわせキスをした。

―大好き、大好き大好き、お願いだから自分と体ごと愛しあって?大好きだから、

重ねた唇に想いをこめて、白皙の頬を両掌にくるみこんでキスをして、そっと離れて見つめ合った。
見つめた切長い目は真直ぐ見つめ受けとめて、静かに微笑むと光一を抱きしめ優しいキスが唇ふれた。
やわらかな唇ふれる吐息は桜の香あまく熱い、大切に抱き寄せてくれる掌もすこし熱くて鼓動が早くなる。
今から全てを赦しあい繋がれる、そんな幸福の予兆に微笑んで離れて、けれど雅樹は起きあがってしまった。

「光一、今から話すことをよく聴いてくれるかな?そして僕と約束をしてほしいんだ、」

そう言ってベッドの上、向きあい座ってくれた。
いつものよう微笑んだ白皙の顔、けれど切長い目は真摯に真直ぐ見つめて常と違う。
その眼差しは、梓川で初めてのキスをしてくれた時と同じで、何を言われるのか見当がついて自分は言った。

「俺のこと、絶対に子ども扱いしないなら聴くよ。俺が本気でセックスしたいって言ってるコト、解かってくれるんなら約束する、」

自分は本気だ、もう自分は子供じゃない。
そう宣言して見あげた美しい瞳は、すこし困ったよう微笑んだ。
そして決心したよう頷いて雅樹は、ひとつずつ質問してくれた。

「光一、セックスの事をどうやって知ったの?」
「オヤジの本棚にある小説だよ、フランスの恋愛小説とかにセックスのことシッカリ書いてあるね。男同士ってのも読んだから安心して?」

正直に答えた光一に、切長の目が笑んで雅樹は笑ってしまった。
何をそんなに笑うのだろう?そう首傾げた自分に愉しそうな声は答えてくれた。

「明広さんらしいね、そういう本を堂々と本棚に置いちゃってるって、」
「あれって普通は隠すもんなワケ?」
「その人によるけど、隠す人の方が多いかな?でね、それは恋愛小説と少し違うかも?」
「へえ?でもね、どれも男女だろうが男同士だろうが、Je t'aime って言ってたよ?愛してますってさ、」
「うん、だけどセックスのシーンが多かったんだろ?そういうのってね、恋愛小説の中でも特殊なジャンルって言うか、ね?」

答えながら雅樹は頬染めて笑っている、可笑しくて堪らないと言う貌にこっちも楽しくなってくる。
そんなにも父がああいう小説を本棚に置いている事は可笑しいんだな?
そう感心していると雅樹は笑いを納めて、また質問してくれた。

「いま、男同士のセックスも読んだ、って言ったよね?具体的に何をするのか、光一はどこまで知っているの?」
「まず裸でお互い、抱きあってキスするね。そのキスが舌を使うようになってさ、」

そんなふう小説で読んだ知識に口を開き、知っている限りを話した。
話しながら雅樹はきちんと聴いて頷いてくれる、その顔がすこし恥ずかしそうに赤い。
つい含羞が現れる初心な様子に、雅樹がまだ未体験で自分以外とは想い交していないと解って嬉しかった。
自分より15歳上の雅樹、けれど自分と変らない経験値なのだと思うと嬉しくて、笑って話し終えた光一に雅樹は微笑んだ。

「うん、光一はセックスのこと、大体は解かっているね?でも大切なことを解かっていないんだ、聴いてくれるかな?」
「うん、聴くよ?俺を子ども扱いしないんならね、」

条件付きの承諾に頷いた前、赤い頬で雅樹が微笑んだ。
そして穏やかな決意が真直ぐ見つめて、誠実に自分と向き合ってくれた。

「光一の心は僕と同じで対等だ、でも光一の体はまだ成長途中だからセックスするのは難しいんだ。きっと無理にしたら光一の体を傷付ける。
だから解ってほしい、僕は光一のこと本当に大切で大好きだから、今の光一の体とはセックスが出来ない。光一を少しも傷付けたくないから、」

今の自分とは出来ない?
そう言われた言葉たちに納得は出来る、けれど心は頷けない。
頷けない心のまま正直に雅樹へ抱きついて、大好きな瞳を見つめ自分は訴えた。

「決めつけないでよ?俺の体がホントにまだセックス出来ないか、やりもしないで決めないでよね?俺のこと、ちゃんと見てよ?」

自分をちゃんと見てほしい、そう告げて腕を解きベッドから降りた。
そして雅樹の目の前で、パジャマから全てを床に落とすと素肌をさらした。

「見てよ、俺はまだ8歳のガキだけどね、身長だって普通よりずっとデカいんだ。ココだって釣合う位には成長してるだろ、解かってよ?
俺も山ヤだ、体が山ヤにとって大切だってコトよく解ってるから、無茶なんかする気が無いんだ。ちゃんと出来るって思ったから言ったね。
それに俺、ちゃんと知ってるよ?ガキを相手にセックスする趣味の大人もいるんだ、だからガキでもセックス出来ないってコトも無い筈だね、」

言ってフロアーランプを点け、体を全てオレンジの光に見せる。
こんなことをするほど自分は本気だ、そう目で告げながら雅樹を見つめ、ベッドに上がった。

「雅樹さん、俺はこの1週間で考えて決心して、セックスしようって言ってるんだ。俺は雅樹さんの一番になりたい、だから今したいんだよ。
俺が初めてのキスなんだから、雅樹さんって俺と同じで童貞なんだろ?お互いの初めてを今したい、キスと同じに初めての一番になりたい、」

この願い、どうか応えてよ?
どうか自分を拒絶しないで、この想い受け留めて?
そう見つめた想いの真中、切長い目は真直ぐ光一を見つめて、そして微笑んだ。

「ありがとう、そんなに僕を好きでいてくれて…本気なんだね、光一は、」
「本気だね、でなきゃこんなカッコ見せないよ、」

即答して笑いかける、その裸の肩をそっと抱きしめてくれる。
優しい抱擁に包んでくれながら、無垢な眼差しは光一を見つめて深い声は言ってくれた。

「光一、ふたつ約束してほしいんだ。ひとつめはセックスしていて少しでも嫌って感じたら、すぐに言うこと。もう1つはね、」

言いかけて、深い溜息ひとつ吐く。
なにか言い難いことなのだろうか?そう見つめた光一に雅樹は、困ったよう微笑んだ。

「あのね、18歳にならない人とセックスすることは、条例で禁止されてるんだ。だから僕、今の光一とセックスすると犯罪者になるんだよ?
それを解かって約束してほしい、今夜の次は10年後まで待つことを僕に約束してほしいんだ。それまで僕は、他の誰とも絶対にしないから、」

自分と雅樹が体ごと愛しあうことは、今の自分の年齢では禁じられている。
それでも雅樹は光一に選択を委ねてくれた、そうやって本気なのだと伝えてくれる。
本当は生真面目な雅樹にとって辛いことだろう、それでも自分を望んでくれる想いへ幸せに微笑んだ。

「うん、約束する。今夜の次は、俺の18歳の誕生日だね?それまで俺も誰とも絶対にしない、キスも雅樹さんだけだよ?だから、」

だから今夜、あなたを自分に下さい。

そう言いたくて、けれど声が熱に詰まった。
心深くから込みあげる熱は昇り瞳の奥から零れ、涙ひとつ墜ちる。
その涙を長い指がそっと拭って、切長い目が見つめて困ったよう微笑んでくれた。

「光一、やっぱり怖い?」
「…っ、ちが、うね…うれしくて泣いてる、ね…」

あふれる涙に微笑んで、大好きな人を見つめて伝える。
こんなに真剣に向き合ってくれる事が嬉しい、こんなに大切にしてくれることが嬉しい。
そう見つめた想いに綺麗な笑顔が応えて、そっと光一を抱き上げると雅樹はベッドから降りた。

「光一、男同士でセックスするなら準備が必要なんだ。だからお風呂、もう一回入るよ?」
「…あ、そうだったんだね?」

涙のまま首傾げて、大好きな人を見上げ笑いかける。
準備のことまでは小説に描いていなかったな?そう思った額に優しい額ふれて、深い声は言ってくれた。

「この準備がね、ちょっと恥ずかしいし手間が掛かるんだ。嫌だったら途中でもすぐ言ってね、ちゃんと止めるから、」
「絶対に止めるなんて言わないね、」

きっぱり自分は断言した通り、風呂場で施される支度を全て受けた。
体の奥深くから洗ってくれる、その初めての感覚に心が悶えて体の芯から熱が起きあがる。
あまやかな微熱に火照った体をバスタオルごと雅樹は抱きあげて、大切に抱えられて戻ったベッドに再び向きあうと言ってくれた。

「光一、今から光一を僕に下さい。僕の全部を光一に上げるから、体も心も全てを僕に赦してくれるかな?」

さっき自分が言えなかった言葉を、言ってくれる。
嬉しくて幸せで、幸せな想い素直に笑って自分も告白をした。

「俺も全部を雅樹さんにあげるね、だから雅樹さんを全部、俺に下さい。俺を雅樹さんの一番で初めてで、唯ひとりにして?」
「うん、光一は僕の唯ひとりだよ?梓川で言った通りにね、」

そう言って幸せに綺麗な笑顔ほころんで、そっとバスタオルを脱がせてくれる。
お互い素肌を見つめ合って、長い腕が優しく抱きよせると、静かに瞳を閉じて唇が重なった。
ふれあうキスは穏やかに甘く幸せで、温かな感覚に抱きあうままシーツの上に横たわる。
それからの時間は、ただ幸せで温かくて、あまい微かな痛みと深い共鳴に充たされた。

「雅樹さん、幸せだったよ?あの夜の俺は、…生きていて一番に幸せなのは、あの夜だ、」

そっと記憶に言葉こぼれて、涙あふれだす。
もうあんな幸せな瞬間は二度と自分には無い、そう解っている。
今夜、この数時間後に自分は英二に抱かれるだろう。それでもあの夏の幸福以上だと想えない。
だって英二にとって自分は絶対に「一番」には成り得ない、そして「初めて」にもなる事は出来ないから。

―だから英二、ごめんね?俺は嘘を吐かなきゃいけないんだ、雅樹さんのこと大切だから言えないよ、おまえにもね?

16年前、自分は雅樹と体を重ねあった。それが自分の初体験だった。
このことは決して誰にも言えないと、年経るごとに思い知らされて秘密は深くなる。
そして深まるほどに嬉しいと幸せ抱きしめる、これほどの秘密と知って雅樹が自分を愛してくれた真実が誇らしい。
だって自分は知っている、雅樹は生真面目で倫理観が強くて少年趣味も性的倒錯も無い、それなのに禁を犯しても一夜を選んでくれた。
あの一夜がどれほどの覚悟と愛情から生まれたものなのか?それを自分は誰よりも一番に知って、何よりも幸せだと誇りに想っている。

―これは俺と雅樹さんだけの宝物だ、だから英二にも言えない…アンザイレンパートナーで『血の契』でも、恋人でも言えないね、 

絶対に言わない、そう微笑んで秘密を抱きしめる。
この秘密を抱いたまま自分は今夜、英二との一夜を選ぶだろうか?
それとも敵前逃亡して止めるだろうか?そんな予想を自分に笑いながら光一は、浴槽の栓を抜いて立ち上がった。



グリンデルワルトのホテルで着いた夕食は、遠征訓練チームの全員が揃った。
ミッテルレギ稜を登った6人も予定通りに下山が出来ている、この互いの無事が素直に嬉しい。
本当に良かった、この想い微笑んで光一は後藤からの伝言を伝えた。

「全員無事に帰還ですね、後藤副隊長も喜んでいました。予備日の明日は休暇扱いですし、羽を伸ばせと伝言です、」
「連絡ありがとうございます、それと記録おめでとうございます。3時間切るなんて後藤さん、喜んだでしょう?」

第七機動隊の加藤が率直に祝辞を言うと、他の皆も祝福の言葉を掛けてくれる。
ひとめぐり祝いの言葉を聴き終えて、光一はグラスを持って機嫌よく笑った。

「はい、よくやったって泣いていました。まずは無事に乾杯しましょう?で、食いながら話しましょう、」

後藤らしい人柄のエピソードが食卓を和ませる、それくらい後藤は人望が厚い。
山ヤの警察官なら誰もが後藤を慕うのは、ただクライマーとしての技量だけでは無いと今の場にも解る。
そんな後藤の後継として自分は相応しく成れるだろうか?そう考え廻らせながら食事していると七機所属の村木が尋ねてきた。

「後藤副隊長、記録の事とか他に何か仰っていましたか?」

記録よりも後藤が大切にしていることがある。
この「大切」をちらり見遣って光一は、言葉を再現した。

「よくやったな、羽を伸ばせと伝言しろ、の次はね?宮田に替れって言われちゃったんです、あの方は宮田を大好きなんでね、」

本当に後藤は英二を大好きだな?そんな納得の向こう愉快に笑いだす。
後藤も雅樹を嘱望した1人だった、その想いの分も籠めて英二を愛し息子のよう大切にしている。
けれど言われた本人は困ったよう微笑んで、そんな奥ゆかしさに高尾署の三枝が笑いかけてくれた。

「後藤さんが宮田さんを好きなのって、解かります。前に講習会でお会いした時、帰りの電車で嬉しそうに話してくれましたよ。
山のセンスもあって努力家で真面目、息子ならいいのにって仰ってました。その通りだなって今回、一緒のチームになって思いますね、」

もし後藤が本当に英二の父親だったら、どうなっていたのだろう?
そんな考えにふっと、幼い日に後藤から聴いた言葉を思い、心が小さく傷む。
あの話を聴いたのは、両親と一緒に初めて雲取山をピークハントした5歳の時だった。

「さすが明広と奏子ちゃんの息子だな?いいぞ、光一。おまえさんなら最高のクライマーになれる、俺の息子の分も登ってくれよ?」

そう言って笑った深い眼差しが、嬉しそうでも泣きそうに見えた。
それが不思議で、奥多摩交番を後にした四駆の車内、父の明広に訊いてみた。

「後藤のおじさんトコってさ、子供は紫乃さんだけだよね?なのになんで、俺の息子の分までって言うワケ?」
「うん…本当はいたんだよね、」

静かに答えた声が、少し悲しそうに微笑んでくれる。
どういう意味だろう?そう見つめた先で父は教えてくれた。

「紫乃ちゃんが5つの時だったかな、息子さんが生まれたんだよ。ずっと息子さんが欲しかったからね、そりゃ後藤さんは喜んだよ、
でも生まれて一週間で亡くなってね…生まれつき体が弱かったそうだよ。それでも後藤さんは笑ったね、この一週間は本当に幸せだったって、」

そんなことがあったんだ?
この知らなかった事実に息を飲む、そして後藤の「幸せ」が不思議になる。
どうして待望の息子との生活が一週間だけでも「幸せだった」と言えるのだろう?この疑問への答えに父は微笑んだ。

「いつか息子とアンザイレンザイル繋いで最高峰を登る、そんな夢を見させてもらって幸せだったって、泣きながら幸せそうに笑ってた。
俺ね、あのときの後藤さんの顔って一生忘れらんないね。だから俺もさ、光一が生まれて元気なのって、ホントに幸せだなって思ってるよ?」

そんなふう笑ってくれた父の目には、フロントガラスの光が煌めいていた。
あのときの父が見せた涙と、後藤と息子の物語は今も心の深くに輝いて「体」への感謝が温かい。
そして想ってしまう、もし本当に英二が後藤の息子だったなら、どんな記録が山岳史に生まれていたのだろう?

―なによりね、きっと本当に幸せだったろうね、後藤のおじさんも英二も…いつも山の話で笑いあって一緒に救助隊やって、最高の山ヤ親子だね?

本当に後藤が英二の父親なら良いのにと、自分の方こそ思ってしまう。
もし英二が後藤の息子なら自分たちは、もっと早くに出逢ってザイルパートナーを組めた。
そうしていたら英二と自分の道も今と少し違っていたのだろうか?こんな仮定を垣間見る隣で英二が微笑んだ。

「褒めて下さって、ありがとうございます。でも、恐縮で困りそうです、」
「そんな困らないで下さい、それで電話では何て話したんですか?」

笑って三枝が訊いてくれる質問に、端正な顔はすこし首傾げこんだ。
生真面目な英二らしく正確に後藤の言葉を話すだろうな?そう見た隣で綺麗な低い声は言った。

「どこも怪我は無いか、体調はどうだ、って最初に訊かれました。あと風呂でしっかりマッサージして、明日はきちんと休むんだぞ。
気持ちは元気でも体は疲れている、そこらの山を登ったりするな、国村が言いだしたらブレーキかけてくれ。そんなふうに釘刺されました」

記録よりも体調を気遣う、そんな後藤の想いが温かい。
そして自分たちの行動を読んでくれる、それが可笑しくて笑ってしまう。
いま話した英二が笑いだし皆も笑いだして、七機の加藤が隣から訊いてきた。

「国村さん?もしかして明日の予備日は宮田さんと、メンヒかユングフラウに登るつもりでした?」
「あれ、ばれちゃいました?」

答えながら愉快に笑ってグラスに口付け、酒の馥郁を飲みこむ。
明日はどこか登りに行くのなら、それを言い訳にして「今夜」を止められる。
そんな逃げも本当は考えていた、けれど後藤の言葉で退路を断たれていくのが可笑しい。

―後藤のおじさん、逆に俺のブレーキを外しちゃってるよ?

本人は全く意図していないことなのに?
こんな偶然の顔した引金が可笑しくて笑ってしまう、そんな前から高尾署の松山が愉しげに尋ねた。

「本当にタフですね、明日は登るんですか?だったら全員で箝口令しますよ、」

登る、そう答えようか?
そんな逃げをまた考える、けれど観念したい気持ちが微笑んだ。

「宮田にお目付け役が言い渡されちゃいましたからね、もうダメです。宮田は真面目で堅物なんですよ、ね?」

この男には敵わないね?
そんな本音のまま笑った先、綺麗な笑顔ほころんでくれる。
穏やかで優しい眼差しで此方を見、綺麗な低い声が笑ってくれた。

「はい、堅物です。だから明日は、副隊長の言葉に従ってくださいね?俺に実力行使はさせないで下さい、」
「はいはい、明日はノンビリ昼寝と散歩にしますよ、」

明日はのんびり昼寝、そう言いながら「今夜」に覚悟が観念する。
それでも逃げたい気持ちに未練思いながらグラスに口付ける、そんな向かいから五日市署の佐久間が訊いてきた。

「宮田さんの実力行使って、どんなですか?」

訊かれて、ひと呼吸を英二は考えこんだ。
すぐ白皙の貌は穏やかに笑って、可笑しそうに綺麗な低い声が言った。

「たぶん、登山靴を隠しても脱出するでしょうしね?酒を呑ませながら一日中、抱え込むしかないでしょうね、」

一日中、抱え込む。

そんな言葉に鼓動が跳ねた。
そんな自分に「意識しすぎだ」と笑いとばそうとして、けれど出来ない。






(to be continued)

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Lettre de la memoire、永遠の雪―side K2

2012-12-31 00:39:13 | side K2
結晶、永遠の雪に言伝を 



Lettre de la memoire、永遠の雪―side K2

雪ふる夜、窓に六弁の花が幾つも咲いていく。

ほの明るいランプのオレンジいろに花は煌めく、小さな光がガラスを彩らす。
白銀に凍れる雪の華、その数と形を訊いて共に笑いあえた温もりは、もういない。
この輝く空の水の結晶になら、空の彼方へ逝った願いも祈りも籠もっているだろうか?

「…どうして?」

ぽつん、ひとりごと零れて涙あふれて落ちる。
誰もいない静かな屋根裏部屋、ただ独りで窓辺に雪を見つめて座りこむ。
パジャマ一枚を透かす夜気に肩は冷えていく、それすら自分でもう、どうでもいい。
今この瞬間、クリスマスイヴの深夜に世界は眠って幸せな夢を見る。
けれど自分だけは眠れない、幸せな夢が怖いから。

「帰ってきてよ?ねえ…雅樹さん…今日は終業式でクリスマスイヴだよ?帰ってき、て…ぅ、ぅっ」

ひとりごとも涙も零れて、今日という日が哀しくなる。
去年の今は温かい腕のなかに眠り、優しい香に幸せな夢を見ていた。
生まれた時から毎年ずっと「今日」大好きな笑顔は自分の元に帰ってきた、でも、その腕は逝ってしまった。
唯ひとつ、失いたくないと願ったのに消えてしまった温もり恋しくて、去年の自分の声と懐かしい声が蘇える。

  約束してよ?何があっても絶対に俺のとこ帰ってきて、ずっと一緒にいて?雅樹さんがいたら俺、来年からクリスマスプレゼント無くっていい
  約束するよ、光一。必ず君と一緒に生きるよ、一緒に夢も叶えるよ?だから僕ね、卒業したら此処で開業医するって決めてるんだ

ふたり結んだ約束、教えてくれた夢と幸せな日々の予告。
けれど、夢も約束も消えてしまった、幸せな日々は予告されたままもう永遠に訪れない。
一年前の今日は通信簿を見て笑ってくれた、あの山ヤの医学生の笑顔はもう、山から帰らない。
そんな絶望に膝を抱えて涙こみあげる、この今と去年の落差に傷は抉られ深くなって、孤独が痛い。

「約束、したのにね?…もうなんにもいらないって言った、のに…っぅ…ぅ」

嗚咽が喉を詰まらせ、顔をパジャマの膝に埋めこむ。
この2ヶ月ずっと自分はすこしも笑えない、顔だけ笑って心は笑えない。
もう永遠に笑うことなんか出来ない?そんな想いと少し顔あげたとき、視界の端に紙袋が映りこんだ。

―あの紙袋、何が入ってるんだろう?

ふと思いだし立ち上がると、大きな紙袋の傍らに座りこむ。
2ヶ月前、葬儀の帰りに老夫婦から渡された紙袋をまだ開いていない。
あのとき二人に何か言われて、けれど呆然とした心は何も聴こえないまま、顔だけ微笑んで頷いた。
二人は一体なんて言ってこの紙袋をくれたのだろう?そう考えながら開いた紙袋から、雪空色の生地が広がった。

「…このダッフルコート、」

明るい、白に近いグレーのダッフルコートに呼吸が止まる。
毎年ずっと晩秋から春3月まで、いつも大好きな人が着ていたコート。
いつも見るたびに雪空と似てると想って、白皙の肌と黒髪には似合って綺麗で、長身に映えていた。
あのコートが自分の手元に帰ってきた?驚きと喜びに抱きしめた温もりに、ふわり山桜の花が香った。

「…ん、いい匂いだね?…帰ってきてくれたんだ、ね、」

大好きな人の香が、こうして帰ってきた。
いつも大切に着ていたダッフルコート、何度も自分を抱き上げてくれた腕を包んでいた袖。
幾度も自分をおんぶした背中を覆い、健やかな鼓動を温かく守り、大好きな香を移しこんだコート。
そして、いつも手を繋いでは温めてくれたポケットに、そっと手を入れてみると小さな包みが出てきた。

「…なんだろ?」

不思議なままに小さな紙包みを開いて見る。
そこに小さな箱が現われて、上げた蓋に透明が輝いた。

「あ、」

小さなガラス細工の、雪の結晶。

初めて見た時には愛用のショルダーバッグに付いていた。
その後に見た時には常携する救命救急セットのケースに付いていた。
あれと同じガラス細工の雪の結晶が、新しい輝きにランプへきらめいて今、ここにある。

「…俺に、くれるつもりだった?同じの見つけてくれて…」

ひとりごとに微笑んで、そっと掌に載せてみる。
普通の雪ならば掌の体温に消えてしまう、けれどこの雪は消えることは無い。
いま掌にある雪の結晶と同じよう、あなたの想いも消えることなく永遠だと伝えてくれるの?

「きっとそうだね?…だって約束したんだ、何があっても帰ってくるって…だからきっと帰ってきてくれる、ね?」

消えない雪に微笑んで、雪空色のコートにパジャマの袖を通す。
冬夜の冷気に凍えたパジャマ一枚の体が、ふわり桜の香と温もりにくるまれ安堵の吐息こぼれる。
まだ子供の自分には大きすぎる大人用のダッフルコート、この大きさに逝った人の大らかな心が懐かしい。
たった2ヶ月前には自分を抱きしめ眠ってくれた、あの大好きな笑顔と気配が今、再び自分を抱きしめていく。

―幸せだ、寂しくて哀しいけど、でも…夢みたいに儚くってもね、この香と温もりが幸せだ、ずっと、

心リフレインする、この今に帰ってきた香と温もりに心が微笑む。
そっと掌の雪の結晶を握りしめて、静かに立ち上がって大きなコートに包まれたままベッドに入る。
そうして置きっぱなしの絵本を開いて、大好きな俤を映したイラストと歌詞のページに笑いかけ、そっと瞳を閉じた。
このベッドでふたり抱きあった幸福と、夢と約束を数え、残り香に抱きしめられながら。



夢のごと 君を相見て 天霧らし 降りくる雪の 消ぬべく思ほゆ  詠人不知




【引用詩歌:『万葉集』より作者未詳歌】

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特別編補記:冬三夜、 願い廻らす物語

2012-12-30 23:23:25 | 解説:背景設定
三つの空、その願いに天使は  



特別編補記:冬三夜、 願い廻らす物語

クリスマス特別編「冬三夜―Christmas Carol」が今、完筆しました。
introductionを含めて全12話、英二・周太・光一が小学校1年生に見つめたクリスマス・イヴの物語です。
物語の主軸として二つのクリスマス・キャロルをモチーフに、3つの物語がリンクするよう描いてみました。

ひとつめのクリスマス・キャロルは英国の文豪チャールズ・ディケンズが書いた小説『Christmas Carol』です。
読まれた方も多いと思いますが、強欲ジジイのスクルージーが1人の亡霊と3人の精霊に出会う四夜の物語になります。
最初の夜、友人の亡霊がスクルージーに「忠告」を与えに現れる、その台詞がintroductionにある引用文です。
二夜めには「過去」のクリスマスに再会させられ、幼い幸福を思い出した老人は失った物の価値に気付きます。
三夜めには「現在」のクリスマスを幻影として見せられて、自分を見つめ直し自身の罪を知りました。
そして最終夜、老人は「未来」のクリスマスに自分がどうなっているのか?その予言に震えます。

過去・現在・未来といった3つの時間にあるクリスマスと出会う。
この時間軸を超えて出会うクリスマスというモチーフを「冬三夜」の各話でも使ってみました。

第一章「Angel's tale」 自分と似た山ヤの医学生「未来」と出会い孤独を癒され今の幸福に気づく。
第二章「Graine du bonheur」 父親と同じ願いを持った男性「現在」と援けあい共に今の幸福を笑いあう。
第三章「Bonheur de l'ange」 尊敬する医学生と共に出産を見つめ「過去」の自分と母の姿を見つめ、今ある感謝を想う。
そして全話に登場する唯一の人物は、自身の過去から未来の全てに出会いながら3人の少年たちと幸福な瞬間を笑いあいます。

ふたつめのクリスマス・キャロルは古くから欧米で歌うクリスマスソングのことです。
その中から『Les Anges dans nos Campagnes』、邦訳では『野原の天使』また『荒野の天使』をイメージに登場させました。
この歌には全話登場する医学生雅樹の生き方と願い、そして未来を予知させる意味を穏喩させています。

第一章「Angel's tale」天使の物語

小学校1年生の英二が見つめるクリスマス・イヴは、孤独から始ります。
その原因は「母」の不在、これは人間の根源的ともいえる孤独で、精神的重傷になりやすいです。
この孤独が英二の思慮深い哲学的性質を育んでいきますが、それと同時に冷酷な程の人間不信になる温床でもあります。
冒頭で英二は同級生の女の子から恋の告白を受けますが、その告白が深い心の傷を抉ることになってしまいました。
それは彼女の告白内容が、いつも実母から言われている事と全く同じ内容であり「英二」と向きあわない為です。

いつも実母から褒められるのは勉強と運動と、容姿のこと。
どれも外的評価がしやすい点ですが、そこには英二という「人間性」への受容はありません。
けれど英二が重要視するのは能力や容貌よりも、心理的要素である性格や雰囲気・思考など内面的素養です。
そこを一番に実母から認められない現実に深い孤独を抱いています、この孤独感は他による補填も難しい。
英二には祖母、姉、家庭教師で乳母でもある菫といった佳き理解者が周囲に居ます。
それでも孤独は根源的に深すぎて、完全に治癒されることはありません。

子供の心に向きあわない母親、そう英二自身も解かっています。
それでも幼い7歳の少年は当然のよう母を慕い、期待して、けれど裏切られてまた傷つきました。
いつも褒めてくれる勉強と運動を評価する「通信簿」これがあれば母も喜んで自分を構ってくれるはず。
そう期待して終業式の後、寄り道せずに真直ぐ自宅へと英二は帰りました。けれど、母はもう出掛けて不在でした。

 自分が帰ってくるなら、最初に通信簿を見てくれると思った。
 自分の成績を喜んでくれて、昼ご飯を一緒に食べてから母は出かけると思っていた。
 けれど母はもう出掛けていない。そんな予想は今朝の雰囲気から察してはいた、けれど本当は期待していたのに?
 せめて今日だけは、母の作った食事を置いてほしかったのに?
 たぶん出掛けるなら料理しないだろう、そう予想はしていた。それでも「今日」は特別だと思ったのに?
 だって今日はクリスマス・イヴで世界中の家庭では皆、親たちは子供を楽しませようとしている筈なのに?

終業式で通信簿がある、しかもクリスマス・イヴ。
そんな特別な日であることに母も「特別」な対応をしてくれる。
その期待に母親の愛情を確かめたくて、英二は祖母の家に行く前に自宅へと帰りました。
けれど裏切られてしまった現実に、涙も流さず「もういい」と微笑んでメモをゴミ箱へ捨ててしまいます。
この瞬間、子供らしい母への期待はまた1つ捨てられて、英二の「母」ひいては女性に対する不信感がまた育つ。
こうした繰り返しが後に、美しい青年に育った英二の女性と母性に対する冷酷な態度と、相反する痛切な希求へと繋がります。

そんな孤独感を抱いて英二は、新宿の書店へと足を向けます。
その書店はたまの休日、父親が連れて行ってくれる大好きで大切な場所です。
英二は父親を愛しています、多忙で少ない時間を父が一生懸命「子供」に懸ける事を知っているからです。
けれど、こうした父・啓輔の態度が英二たちの母親を冷たい女性に仕立ててしまった、夫婦の哀しい現実があります。
そんな母の苦しみに英二が気づくのは、周太とその母である美幸に出逢ってからのことです。

最初、英二は孤独感のなか電車に乗り新宿駅に着きます。
けれど雑踏を歩くうち「ひとりも良いな?」と愉快な気持が起きだしました。
周りを歩く人や街の様子を観察し、自由に独り好きなよう歩き回ることを楽しむ。
こんなふう孤独感も楽しむ哲学的思考は、巡回や自主訓練で山を単独行する時間を好む基盤です。
このクリスマス・イヴの単独行という冒険で着いた書店、英二は美しい山ヤの医学生「未来」と出会いました。

片手に『First Aid  Emergency care 』救命救急医療の専門誌を持った「山に登ってるよ」と笑う青年。
これは後年の英二が山ヤの警察官として、応急処置を主担当し警察医の助手も務めていく姿の予言です。
予言「未来」を示す綺麗な笑顔の青年は、雪空色のコート姿で子供の英二にも対等に話し「通信欄」を認めてくれました。
この対等性と、求めていた心理面への讃美が英二の心を温め、自分自身の「今」ある幸福に気づく余裕が生まれます。
そして帰った成城の街で祖母と姉に迎えられ、聡明な家庭教師に「今日」の感謝を導かれて幸福なクリスマスイヴを過ごしました。

冒険で「未来」に出会い今の幸福に気付いた英二、そんな精神的成長への褒美に最高のクリスマスプレゼントが夜に贈られます。
このプレゼントが贈られるきっかけ「種」を蒔いてくれたのは、第二章「Graine du bonheur」の主人公である周太でした。

第二章「Graine du bonheur」幸福の種

母親と一緒にクリスマスの街を歩く、そんな幸福なシーンに物語は開きます。
周太と母の美幸、ふたりは寄り添って笑いあい、銀座の文房具店へと入りました。
そこで万年筆のインクを買い求めた後、クリスマスプレゼントを見つける宝探しを始めます。
そして周太は父への贈り物を探す「今」に、父親の馨と似ている男性に出会い声を掛けました。

涼やかな切長い目、知的で穏やかな雰囲気、同じような年格好。
そんな父との共通点を見つめた男性は、父と同じよう万年筆のインクを求めていました。
その男性は父と同じよう多忙で、子供と話す時間が無くて困っているのだと打ち明けてくれます。
この願いごとは父の馨と同じです、そう気づいた周太は応えてあげられると喜んで自分たち父子の「約束」を話しました。

 お手紙をノートに書くの。そうするとね、お返事を書いて僕の机に置いてくれます、おとうさんから書いてくれる時もあるの。
 そうしたら僕がお返事して、書斎の机に置くの。そうやってノートでお手紙をしたら会えなくても話せるし、後で何度も読めていいでしょ?

この湯原父子の「約束」習慣は、周太の祖父である晉が息子の馨と交わしていた約束の応用です。
9/28にUPした「P.S親愛によせて―from Oxford August.1966」7歳の馨が書いたエアメールにその習慣が記されています。
これを周太から教えられた男性は、その智恵に喜んでノートを子供達のクリスマスプレゼントに買うことに決めました。
そして周太に父親へのプレゼントは何が一番かを教えて、周太の心を温かく幸せにしてくれました。
そんな男性に尚更のこと馨の俤を見つめて、周太は父にいつも伝えたい言葉を幾つか男性に贈ります。

 お父さんとお話しできるの、いちばん良いクリスマスプレゼントになるって思います
 おとうさんが帰ってきてくれるなら、僕は何時でも嬉しいです。起きて会えなくても帰ってきたら、お父さんの空気はあるでしょ?

この言葉たちは多忙な父親である男性にとって、最高のプレゼントでした。
このプレゼントの返答に、馨とよく似た男性は幸せな笑顔で応えます。

 君のお父さんへのプレゼントだけど、いちばんは君の笑顔だって私は思うよ?
 私も同じだよ?息子たちが眠っている顔を見るだけでも嬉しいんだ、だから家に帰りたいよ?君のお父さんもきっとね

男性から贈られた「父」の願いと本音に、周太は心から喜びます。
この二人の掛け合う言葉は、クリスマスイヴの「現在」を過ごす親子たちに進行形です。
そして周太と馨にとっては、後年に訪れてしまう哀しい別離とその後「未来」を象徴する言葉でもあります。
このクリスマスイヴは小学1年生7歳のシーンです、その3年後に訪れる同じ日に馨は生きて家に帰ることが出来ません。
それでも馨の願いは変らず、周太の願いも変わらないまま大人になって繊細で強い男性へと成長します。

この周太と出逢った男性が誰なのか?きっと第一章と本篇も読まれた方はすぐ気がついたと思います。
彼は自分で万年筆のインクを買いに来ました、これは仕事の合間に来た買物で本当は妻に頼みたい所です。
それに対して馨のインクは妻の美幸が息子と買いに来てくれています、この対比が宮田家と湯原家の差です。
湯原母子が銀座に買物に来た目的は馨のインクとクリスマスプレゼント、あくまでも父親で夫である馨のためでした。
そんなふうに父かつ夫を心から愛し大切にする母子の姿に、宮田父子が後年に惹かれていく伏線ともなるシーンです。

銀座で馨の買物を済ませた母子は、新宿までケーキとクリスマスオーナメントを買いに行きます。
様々な事にお決まりの店がある湯原家です、けれど周太は通りがかった可愛い雑貨屋で気に入りのオーナメントを見つけました。
雪の結晶を象ったクリスタル製の小さなオーナメントセット、これを美幸はリビングのツリー用と息子用に2つ買い求めます。
そして馨が贈った小さなゴールドクレストに周太1人で飾り付けるよう、楽しく提案してくれました。
これは美幸が息子へ贈る深い母親の愛情から出た、自立した大人になる「未来」への祈りです。

美幸は息子の周太に、父親のクリスマスプレゼントを1人で選ばせました。
オーナメントを買う店も自分で決めさせてツリーの飾りつけも自分だけでするよう仕向けます。
いずれも「1人でも出来る」ことを息子に増やし、自立していく独立心を贈ろうと考えての提案です。
この湯原夫婦には親戚がありません、そして息子は一人っ子で頼るべき兄弟も無く、いずれ独りになる可能性があります。
そうした息子の将来へと誠実に向き合い、母として出来る限りの援けは何かを美幸は考えて息子を育てて来ました。
そんな美幸流教育が甘えん坊の息子を、家事も万能で教養も深く聡明な、穏やかで芯が強い男性へと成長させます。

こうした教育方針の一環としてプレゼントした雪を象ったオーナメントを、周太は出会った医学生に贈ります。
新宿駅で人に突き飛ばされてしまった周太は、けれど生来の運動神経に助けられて左掌の怪我だけで済みました。
この手当てをしてくれた医学生を好きだと想い、お礼をしたくて大切なクリスマスプレゼントのお裾分けをしました。
周太の怪我に雪だるま模様の絆創膏を貼ってくれた、そういう細やかな優しさを持つ医学生に報いたかった訳です。
この想いに医学生も応えてくれて、喜んで救急セットの入った鞄に付けると本当に綺麗な笑顔を見せてくれました。
その医学生を美幸と周太は「天使みたいだね?」と楽しく話しながら馨が好きなケーキを買いに行きます。

この第二章は主人公と母親の性格のままに幸せいっぱいで温かく、他2話に比べて穏やかな光景が続きます。
けれど他2話に比べて登場人物がとても少ないです、それは湯原母子には近しい間柄が少ない現実のためです。
そうした人間関係は、湯原家に絡まる「拳銃」の現実から家族を護り他人を遠ざけるために馨が選択したことでした。
そんな馨が息子から自分と似ている男性の話を聴きます、その男性が誰なのか?馨はすぐ気がつきました。
そして「僕の『今』のクリスマスの精霊に会ったのかな?」と微笑んで、相手の幸せを祈っています。

この日、馨は警備部としての任務で奥多摩に出張し、要人警護の指揮に当たっています。
第三章で光一と雅樹が気がつく様に、要人がクリスマス登山に奥多摩を訪れた警護の任務でした。
元来が山ヤであり警視庁随一の狙撃技術を持った馨には適任です、そしてこの任務のパートナーは後藤でした。
本篇にあるよう後藤は最高の山岳レスキューであり、拳銃射撃の名手であるため奥多摩をVIPが来訪するとガイド兼警護を務めます。
そのため「奥多摩交番の手伝いに来てくれた」馨を心配し、クリスマスプレゼントになる奥多摩土産を手配しました。
そうして美幸には四つ葉のクローバーの栞が贈られて、馨のクリスマスプレゼントとお揃いになります。

このとき周太に贈られた特大ドングリは「蒔いたらデッカイ木になるしさ、」と贈り主の祈りが籠められています。
そんな祈りは周太の樹医を志す夢「未来」への予言と、周太の人間性が大きく成長していく予祝です。

第三章「Bonheur de l'ange」天使の幸福

雪の通学路、光一と美代の帰宅から物語は始まります。
仲良く歩きながらクリスマスイヴの楽しい予定を話し、ほっぺにキスして別れる。
そんなシーンですが光一も美代もあっさりとして、光一の雅樹に対する感情の方が深いです。

本篇では4番目の主人公とも言える美代は、この冒頭シーンしか登場しません。
けれど第二章で美幸が受けとるクリスマスプレゼントの作り手かつ贈り主は、この美代です。
四つ葉のクローバーの押葉をプラスチック板に綴じ、赤いリボンをつけた栞は美代らしい純朴な端正があります。
これとよく似たデザインの栞を、金属製ではありますが周太は銀座の宝探しで見つけて父親の馨に贈っています。
こんなふう美代と周太は好みも似ていて、同じよう植物好きな幼少期を過ごしている情景は、後年のふたりへの伏線です。

帰宅した光一を待っていたのは、後藤の依頼と雅樹の遅刻という2つの報せでした。
がっかりしながらも雅樹の祖父母を思い遣り、後藤の依頼に応える行動を光一は選びます。
こういう責任感は旧家のひとりっこ長男らしい細やかで大きな優しさです。
そして成長した光一が備えていく強靭なリーダーシップへ繋がります。

予定より2時間ほど遅れて、雅樹は奥多摩の吉村家に帰ってきます。
ここから名前のある登場人物として「雅樹」は、等身大の青年として描写スタートです。
愛する郷里に帰りつき、可愛がっている山ヤの少年を抱きあげ、大好きな祖父に昼食をねだります。
炬燵に入って少年の通信簿に笑い、祖母の温かい食事を摂ったあと皆でクリスマスケーキを食べました。

本当は第一章にあるよう雅樹は既に英二と昼食を摂っています、それでも祖母の心づくしを無駄にしません。
また第三章の最終話で光一に訊かれて答えたよう雅樹は英二の孤食を哀しんだ為、第一章で英二に嘘を吐きました。
元々は雅樹は祖父母と光一と、昼食の約束があったわけです。けれど英二の孤独に自身の幼少期を想い、一緒に昼食を摂りました。
このとき雅樹は、光一が祖父母と昼食を共にして楽しませると信じています。だからこそ英二との食事を選ぶことが出来ました。

ケーキを食べ終えた光一と雅樹は後藤の依頼に応え、奥多摩交番へと雪道を向かいます。
その車中、光一は雅樹のショルダーバッグに付けられた、繊細にきらめく雪の結晶に気付きます。
初めて見る美しいガラス細工に見惚れながら由来を雅樹に訊き、贈り主の「ドリアード」へ嫉妬と憧憬を抱きました。
このとき雅樹が語る台詞は「周太」の不思議な一面を示し、光一の抱いた感情は後年の周太と英二との関係に繋がります。
そんな会話を交わしながら奥多摩交番に着き、そこで雅樹と光一は妊婦からの救助依頼を受けることになりました。

狭隘路を通り急斜の坂道を登った、山奥の一軒家。
そこが第三章3話めの舞台になります、こうした立地は実際に奥多摩では見られる所です。
自分も奥多摩に行った時、うっかり車で入ってしまった道が驚く急斜面や細道で難渋した経験があります。
そういう道も雅樹と光一が入って行けるのは、奥多摩の地形に慣れ、山ヤとして雪山登攀も苦にならない為です。
暗くなる時間帯、絶え間ない降雪、そんな悪条件のなか無事に2人は目的の家に辿り着きます。

待っていたのは泣きじゃくる5歳位の女の子と、既に破水してしまった若い母親でした。
いま来た道を搬送する事は不可能、そんな状況下に雅樹は速やかな判断でこのまま分娩する決心をします。
まだ医学部4回生の雅樹は医師免許の取得前です、けれど救命救急士の資格を持ち、父の伝手で現場立会いも数多くしてきました。
それに雅樹は15歳の春、雲取山頂での分娩に立会い父の助手をつとめ、誕生した光一を産湯を浸からせる経験をしています。
そうした経験と自身の碩学を信じて雅樹は、二人の子供に手伝ってもらいながら分娩を行い、無事に男の子をとりあげます。

この決意を雅樹が即断出来たのは、初めて医師を志した小学校6年生の時から山間医療の現実と向き合ってきたからです。
そんな雅樹の覚悟は常備する医療セットと白衣に現れています、それに光一は気づいて雅樹への敬愛を深め雅樹の姿を心に刻みました。
この経験が光一を後年、山岳レスキューとして警視庁に任官する意志に繋がって行きます。それだけ雅樹に対する敬慕が深い光一です。
こんなふうに雅樹は光一へと、山ヤとしてだけではなく人間として医療従事者として、深い影響と強い意志の力を与えています。

雅樹が真摯で冷静な対応を行っていく間、光一は出来る精一杯で雅樹を援けます。
自分とさして年の違わない女の子を励ましながら、シーツやタオルなどを準備して部屋も片付けました。
若い母親の娘にクリスマスを楽しませたい願いに応え、オムライスを作ってケチャップで絵も描いて出します。
このとき妊婦にも食事を作りますが、体調を気遣って彼女にだけは洋風雑炊を用意する細やかな優しさを示しました。
そんな光一の小学生ながら大人びた気遣いが出来る様子に、雅樹はより信頼と将来への嘱望を想い誇らしく嬉しく見つめています。

そして訪れた出産の瞬間、光一は気配に目を覚まし雅樹の隣に座ります。
そこで見た光景は、誕生したばかりの赤ん坊を産湯に浸からせる透明に優しい笑顔でした。
このとき光一は「過去」自分の出生と同じ時間を見つめています、不思議な感覚に心響かせていく瞬間です。
この同じ瞬間に雅樹も「過去」自分が山岳医療に希望を見出した、光一の出生に見つめた喜びを反芻していました。

こうして無事に母子3人を護りきった雅樹と光一の許へ、夜半ようやく救急隊と医師が到着します。
積雪と降雪の悪天候と、奥多摩に訪問した要人の安全確保。この2つの条件が阻んでいた救急が漸く動きました。
そして母子を無事に引き継いだ雅樹と光一は吉村家へ帰り、雅樹は風呂に光一を入れて着替えさせ、いつも通りお伽話もしてくれます。
そうして穏やかな眠りについて、雅樹と光一のクリスマスイヴは温かな布団のなか安らぎました。

迎えた朝、光一は雅樹の疲労を配慮して起こすことをしません。
大好きな雅樹には元気で笑っていてほしい、それに自分も独占めに眠っていたい。
そんな願いに優しい朝寝の時間を過ごし、ふたり幸福感を抱きあいながら笑いあいます。
そして雅樹は光一に、クリスマスイヴに出逢った「過去」の自分を語り、K2峰のカラビナに「未来」を託し贈りました。
この贈り物に喜びながらも光一は漠然とした不安を感じ、雅樹に「約束」をねだり全てと引き換えても雅樹の無事を願います。
けれどこの「約束」には、本篇を読んでいる方にだけ感じる感情があるかもしれませんね?


この「冬三夜―Christmas Carol」には唯一、雅樹だけが全編に登場します。
本篇でも雅樹は過去形で幾度も登場し、本篇主人公である英二を守護する存在です。
雅樹と英二、この二人を廻る関係を明らかにする物語としても「冬三夜」は書いてみました。
第一章で英二の祖母である顕子は「大人になった英二のよう」と雅樹を語っています。
その言葉のとおり雅樹はもう1人の英二、いわゆる英二の「another sky」です。

そんな英二を雅樹は他人事と思えません、だからこそ英二に2つの嘘を吐きました。
ひとつめの嘘は、祖父母と光一と昼食の約束があるのに「独りで食事するのは寂しいから一緒して?」と言ったこと。
これは英二が独りで食事をする状況に気付き、それを同情したと恩着せがましく思われる事を避けるために吐いた嘘です。
ふたつめの嘘は、両親と住む自宅は新宿駅から徒歩圏内にあるのに、英二の最寄駅である成城に自宅があると言ったことです。
これも小学1年生の英二が混雑する電車に独り乗ることを心配して、一緒に帰る申し出を遠慮なく受けて貰う為の嘘でした。
こういう優しい嘘を吐ける男が、雅樹が「天使」と想われる所以の1つでもあります。

雅樹の時間軸で各三章を解説すると、

1.英二と新宿で過ごし、成城の駅まで送る(第一章)
2.成城から民鉄で新宿駅に戻り、そこで周太の応急処置をする(第二章)
3.新宿でクリスマスケーキを買い、歩いて新宿の自宅に戻ると四駆で奥多摩に向かう(第二と三の幕間)
4.奥多摩に到着して祖父母の家で寛ぎ、光一と奥多摩交番に向かう(第三章)
5.奥多摩山中の一軒家で分娩処置を行い、終って祖父母の家に帰る(第三章)
6.翌朝、光一にクリスマスプレゼントを贈り話をする(第三章)

こんな感じで進んでいます。
ちなみに後日譚ですが、クリスマスイヴのバーベキューはクリスマス当夜にも行いました。
そこでは美代や美代の姉が雅樹と話すたびに嫉妬して、あれこれ邪魔する子供っぽい光一です。

本篇を読まれると、光一のみならず登場する山ヤたちの「雅樹」への想いが幾度も語られます。
誰もが素晴らしいレスキューで山ヤで、佳い男だったと語る「雅樹」とはどんな人間だったのか?
そんな疑問への答えがこの「冬三夜」で描かれる、天使のように無垢で真摯な山ヤの医学生です。

こういう雅樹だからこそ光一は生涯忘れることなく「約束」を信じ想い続け、最高の山ヤであろうと自分を信じ生きています。
雅樹の父親である吉村医師も兄の吉村雅人も、雅樹を惜しみ哀しんで、その遺志を継いで山岳医療に生きる道を選びました。
また後藤副隊長も雅樹を深く愛し惜しむ一人です、だから尚更に英二へと喪った夢と意志を見出し、助力を惜しみません。



主人公3人の小学校1年生だった「過去」から24歳の「現在」に繋がる物語。
そして今後の「未来」を予言する伏線を描いた物語でもあるのが第X話「冬三夜―Christmas Carol」です。
各話ごと3人の性格や能力、立場や生立ち等それぞれに個性を表しながら全員が「雅樹」と向きあっていく。
そして3人それぞれがクリスマスの贈り物で繋がっている、そこには美代も加わって4人がリンクします。

英二は雅樹と歌絵本『Christmas Carol』を選んで光一と美代に贈り、自身も雅樹から同じ絵本と絆創膏セットを贈られます。
周太は、英二に「ノート」父親と話す時間を贈り、雅樹には雪の結晶を贈ります。そして光一からドングリを贈られました。
光一は周太にドングリを、雅樹にオムライスを贈りました。そして雅樹から英二と選んだ絵本とK2峰のカラビナを贈られます。
美代は周太の母・美幸に四つ葉のクローバーの栞を贈り、雅樹から英二と光一とお揃いの絵本を贈られました。

英二と光一と美代は同じ絵本を雅樹から贈られています、この絵本は周太が元から持っている絵本と同じものです。
周太は英二には「父親との対話」を、雅樹に「水の結晶」と「樹霊」を贈り、光一からドングリ「巨樹の種」を贈られています。
光一は雅樹からK2峰のカラビナ「最高峰に立つ夢」を贈られました、そして英二は雅樹に「未来の自分」への憧憬を見つめています。
この贈り物たちには5人の関係性と進んでいく道が穏喩となっているのですが、何か解かるでしょうか?

この物語を読まれて、なにか少しでも温かいものや明るいもの、感じて頂けたら嬉しいです。






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第58話 双壁side K2 act.17

2012-12-23 00:13:49 | side K2
「祈」 約束の場所へ、君と



第58話 双壁side K2 act.17

“Eeger” その北壁の別称は「mordwand」死の壁。

そう呼ばれる現実を今、ナイフリッジの風に自分も見た。
常にまとう風の衣を動かして、近寄った者を気まぐれに払い落とす誇り高い山。
その気まぐれに今、自分のアンザイレンパートナーは捕まりかけ「山」に眠る死へ攫われかけた。

―どうして俺のアイザイレンパートナーは風に捕まる?気まぐれな山の風で、雅樹さんは…

槍ヶ岳北方稜線、16年前の北鎌尾根で吹いた気まぐれな暴風に雅樹は攫われた。そして知った別離の傷は痛すぎる。
もう大切な存在を失うことは怖いから、この山のよう気まぐれに見せて他人を踏みこませなかった。
そうして16年間ずっと本当は孤独を護っていた、けれど今もう「英二」を自分は知っている。
この自分と共に山で生き続けると誓ってくれる唯ひとり、その相手へと想いをぶつけた。

「俺と最高峰、行くんだろ?八千メートル峰に登るって約束したじゃないか!なのにこんなとこで勝手なことすんなっ!
か、風に煽られて転ぶなよっ、こんな風になんか捕まるんじゃないよ、英二まで風に捕まるな!な、なんでだよ…っ、お、俺の、」

16年前の激痛が今、涙に起こされて息を止める。
あの北鎌尾根で吹上げたナイフリッジの風が心を冷やす、そして罅割れる。
冷たく大きく裂けだしていく心の傷痕が、ふるい哀しみごと今を泣き出し、叫んだ。

「俺のパートナーは風に攫われるんだよ?や、山の風に雅樹さ…おまえまで今っ…」

もう嫌だ、こんなのは。

もう置き去りになんてされたくない、けれど山で生きていたい。
ずっと大好きなパートナーと山で生きたい、それなのになぜ山は風で攫おうとする?
なにか自分に責任があるのだろうか?そんな疑問と悲哀へと、深紅のウェアを着たパートナーは大らかに微笑んだ。

「大丈夫だ、光一。俺は生きてるよ?俺には最高峰の竜の爪痕がある、これって最高の御守なんだろ?だから今も無事だった、だろ?」

笑いかけ、うすく腫れた左頬を光一に示してくれる。
そこに横一文字、あざやかに細い深紅の傷痕は浮きあがっていた。

―富士の竜が、最高峰が英二を護ってくれた?

今年初めの冬富士で雪崩に刻まれた、鋭く小さな赤い傷痕。
いつもは見えないのに熱を持つと浮きあがる、どこか不思議な英二の頬傷。
なにか意味がある?そう思わせられる傷へと指先ふれて、グローブを透かす熱の気配が温かい。
この温もりに「山」の祝福が自分を見つめて心が凪ぐ、ほっと息ついて光一は穏やかに微笑んだ。

「うん、だね…いま爪痕が浮んでる、おまえはコレがあったよね…俺のキスだけじゃなくって、富士の竜の御守があったね、」

雅樹には、自分のキスしか贈ってあげられなかった。
雅樹には「山」の何かは無いまま死なせてしまった、けれど英二には富士の爪痕がある。
だから英二はきっと大丈夫、そう微笑んだ向かい綺麗な笑顔ほころんで幸せにねだってくれた。

「そうだよ、俺には爪痕がある。これに山っ子がキスしたら最強の御守になるだろ?だから今、またしてくれる?」

いま自分のキスに無力を感じた、それに英二は気づいて言ってくれるのだろう。
こういう優しさが英二の良い所だな?嬉しくて光一は綺麗に笑った。

「うんっ、だね、追加しとこっかね、」

そっと頬の傷痕へよせた唇に温もり触れる。
やさしい熱に生きている願いがうかぶ、そして本音が心から泣き出していく。

―諦めるなんて出来ない、離れたくないよ、

もし今、ザイルを止めることが出来なかったら?
もしも16年前と同じに救けられなかったら、自分はどうしたろう?
いま仮定に本音が泣きながら、援けられた今の現実に幸せが安らいでいく。
そんな自分に途惑うほど募る想いから、そっと離れると英二は綺麗に笑ってくれた。

「なんか俺、今、幸せだな、」
「だね、でも天辺に行ったらもっと幸せだよ?」

あの場所で、ふたり並んで立ったら幸せだろうな?
そんな想い素直に笑って光一はザイルパートナーの掌をとり、一緒に立ちあがった。

「行こう、英二、」

笑いかけ手を離し、ザイルを伸ばしながら先を歩き出す。
その背後にアイゼンの雪踏む音が生まれて、天空の雪原を足音ふたつ昇っていく。
凍れる白銀へ夏の朝はふる、まばゆい光のなか登りあげナイフエッジの狭い頂上に辿り着いた。

―雅樹さん、アイガーの雪と太陽はまぶしいね?

蒼穹の点に微笑んでカメラを出し、ゴーグル外して遥か東の涯を見る。
いま一日の始まりに生まれた太陽、その光輝が生まれる方角に故郷は佇む。
この体に生命を受けた山、この名前を与えられた山、そして夢と約束を育んだ山。
その全てがある故郷への想い、その全てに立ち会ってくれた俤を見つめる心は東へ還る。

―雅樹さん、約束を叶えたよ?夢がまた1つ叶ったね…英二がいてくれるから、叶えられるね、

午前8時前の標高3,975m、聳える岩壁の上に望郷の恋はナイフエッジの風に駈けていく。
その風追うようファインダーを向け、約束の頂と空の瞬間にシャッターを切った。
そのまま撮影していく隣、ふっと森の香くゆらせ綺麗な低い声が微笑んだ。

「光一、こっちに『MANASUL』を向けて?」
「うん?」

振向いた向こう、コンパクトデジタルカメラのスイッチを長い指が押す。
無音でシャッターを切らせホールドする掌、ワインレッドのグローブが甲を覆っている。
その色とデザインにツェルマットの記憶が笑って、楽しい気持ちごとパートナーにレンズを向けた。

「撮影ありがとね、英二。じゃ、ふたり一緒に撮ろっかね、」
「おう、」

頷いてカメラをおろし、左手の甲をこちら向けてくれる。
ファインダーに銀嶺と空を入れ深紅のウェア姿にセンター合わし、カメラを固定すると隣に立った。
ちょうどのタイミングでシャッター切られ、すぐカメラを抱えると再生画面で確認していく。
ふたり並んで時計の時刻と写っているのに微笑んで、振り向くと英二は山を見渡していた。

―イイ貌しそうだね、

愉しい予兆に笑ってカメラをホールドすると、ファインダーを覗きこむ。
レンズ越し見つめた長身は深紅のウェアを靡かせながら、ダークブラウンの髪に光冠きらめかす。
いつもの「山」に見惚れる貌が明るみだす、銀と青の世界ふる陽光は深紅を輝かせて綺麗な低い声が笑った。

「アイガーの雪と太陽は、まぶしくて綺麗だな、」

誇らかな笑顔が蒼穹の彼方を見た瞬間、シャッターボタンをそっと押した。



正午前、アルピグレンのベースキャンプに着いた。
手早くテントを片づけ北壁を見上げる、その高度1,800mの彼方に稜線が蒼い。
あの場所には氷雪と光だけがあった、そして今は緑のなか花を踏まぬよう歩いて行く。
なんだか夢みたいだね?そんな想い笑って携帯電話を定時前の日本へ繋いだ。

「おつかれさまです、後藤副隊長。国村です、今ベースキャンプの回収を終えました。ミッテルレギ稜チームも下山完了です、」
「おつかれさん、じゃあタイムは達成だな?」

まだタイムを言わぬまま、山ヤの警察官トップに立つ男は笑ってくれた。
きっと登山計画と時差を計算して電話を待っていた、そんな様子嬉しくて光一は笑った。

「はい、宮田と揃って3時間を切りました、」
「宮田もか?そうか、よくやったなあ…よくやっ…」

笑った語尾がくぐもって、涙のんだ気配が伝わらす。
この涙の意味は言われなくても解かってしまう、たぶん二人への想いが泣いている。
いま泣いてくれる後藤に雅樹は何を想うだろう?そう微笑んだ向こうから後藤が言ってくれた。

「よくやったなあ、おめでとう。明日の予備日は休暇扱いだしな、全員、羽を伸ばせと伝えてくれ。光一、宮田に替ってくれるかい?」

やっぱり後藤は英二が可愛いんだな?
そんな後藤の気持ちが嬉しく可笑しくて、電話向うへ笑いかけた。

「やっぱり後藤のおじさん、英二が一番だね?今すぐ変わってあげるよ、」
「おう、すまんなあ、」

愉しげに深い声が笑ってくれる、その陽気な雰囲気が懐かしい。
この陽気な山ヤが7年前は共に登り、まだ高校生だった自分に山頂を踏ませてくれた。
あの日があるから今日の記録も作られた、その感謝と微笑んで携帯電話を隣に差し出した。

「はい、ご指名だよ?」
「ごめん、ありがとな、」

綺麗な低い声で笑って、白皙の手に受取ってくれる。
歩きながら携帯電話を耳元に当て、いつもの端正な口調で話し始めた。

「おつかれさまです、宮田です、…はい、大丈夫です。…はい、そうしますね、…はい…」

電話で繋ぐ相槌の間、故郷の声が少しだけ聴こえてくる。
深い声が話す断片と、頷くアンザイレンパートナーの表情に会話内容が解かりやすい。
たぶん怪我と体調の具合と休養のことだろうな?そんな予想に心配性な旧知の山ヤが懐かしく愉しい。
隣に会話を聴きながら歩く草原は風ゆるやかに緑が香り、明るく静かな世界は陽気で、けれど隣に冷厳の世界は佇んでいる。
いま歩いて行く陽気な世界も好きだ、それでも青と白の世界へ立ちたいと願うまま蒼い壁に笑いかけた。

―アイガー、また逢いに来るからね?今度はもっと速く登らせてもらうよ、この男と一緒にね。そのときは風、吹かせないでよ?

北壁を登る間ずっと無風だった、けれど頂上雪田で風は英二を捕え惹きこもうとした。
あのとき見つめた恐怖と祈り映した心へと、小さな不安と緊張がゆっくり瞳を披いた。

―今夜、だね…ほんとに良いのかな

今夜、あの紙袋を本当に開くのだろうか?
この遠征訓練に発つ直前、周太が贈ってくれた紙袋の中身を自分は使う?
その問いかけが今また鼓動を響かせだす、ほんの1時間ほど前にいた白銀の世界から意識が夜へ向う。
こんなふうに自分が怯えて悩むだなんて、今まで一度も知らなかった。

―雅樹さんにはコンナに悩まなかったのにね、ほんとに雅樹さんのコト信じ切ってたから…でも今しかない、

英二と対等でいられるのは「今」しかない。

もう明後日には帰国の飛行機に乗る。
そして青梅署に戻ればもう2日後に自分は異動し、昇進する。
それから後はもう、英二と自分は部下と上司の立場に別れて、ただ「ザイルパートナー」だけではいられない。

―今しかない、それに機会が次あるのかなんて誰にも解からない、もう後悔するのは嫌だ、ね…

ほんとうに「今」を見つめる事しか出来ない、そう自分は16年前に思い知らされた。
あの夏に雅樹と見つめた夢と約束、そして想いと、その全てが絶たれた瞬間の恐怖と哀しみを繰り返せない。
あの夏にふたり見つめあい重ねあった時間と感覚、この永遠の秘密に泣いた傷痕から今、明日へと向き合いたい。

―雅樹さん、雅樹さんも望んでくれるのかな?俺が誰かと本気で想い合って、抱きあうこと…雅樹さんじゃないヤツとして、いいの?

きらめく夏に抱きあった永遠の秘密は、もう枯れることのない花となって今も心に咲いている。
季節が色を変えて幾度と廻っても、この永遠だけは輝いて自分の全てを明るく照らすだろう。
この永遠が愛しくて想い募るまま、懐かしい声が記憶から静かに微笑んだ。

『光一。大好きだよ、本気で。だから十年後を約束させて、十年、僕を待たせていて?』

まばゆい8歳と23歳の夏、あの時が自分たちの永遠で約束と夢と自分を造りあげた。
あのとき抱きあった秘密を信じたくて自分は待っていた、けれど十年の約束はもう叶わない。
訪れた十年後の残酷な現実に泣いて、諦めて、半分は「山桜」のためでも半分は自棄で女と一夜を遊んだ。
その夜は確かに快楽があった、けれど朝には虚無が世界を色褪せさせて、喪った約束の哀しみだけ鮮やかだった。

―虚しかったね、ほんとに…だからもう興味無くなったんだよね、遊びの生えっちにはさ、

明るい草地を歩きながら6年前の虚無を見る。
あの虚しさを知っているから、英二が夜の遊びに倦んだ気持が自分は解かる。
そんな同調もなにか嬉しくて、英二なら触れあうことも楽で安らげるようなっていた。
まだ今の想いを抱く前からずっと英二の体温も香も好きで、英二の隣に眠りたいと想えた。
そんなふうに想える相手は雅樹の他には英二しかいない、だから離れたくなくて繋ぎ留めたいと願ってしまう。

「光一、電話ありがとな、」

綺麗な低い声が笑って、意識ひきもどされる。
そっと溜息ひとつ微笑んで振り返り、携帯電話を受けとり笑いかけた。

「どういたしましてだね、後藤のおじさん、喜んでたろ?」
「うん、おめでとうって笑ってくれたよ。あとマッサージちゃんとして、良く寝ろってさ。それと光一のブレーキを命令されたよ?」

自分のブレーキ役を仰せつかった、そう聴いて笑ってしまう。
やっぱり行動を後藤には読まれていたらしい?愉快で笑いながら訊いてみた。

「明日、メンヒかユングフラウに登るつもりだったこと、バレちゃってるかね?」
「ああ、ばれてると思うよ。だから、ごめんな?」

困り顔で笑ってくれる、そんな笑顔は穏やかに優しい。
この笑顔を信じて夜を委ねればいい?そんな想いに微笑むと英二は言ってくれた。

「メンヒとユングフラウ、次回に延期してくれ。それで明日は一日、のんびり過ごして疲れをとろうな?」

次回に延期、そう言ってくれるのが嬉しい。
この約束が嬉しくて、笑って光一は素直に頷いた。

「うん、解かったよ?延期ならイイよ、」
「ほんとだな?勝手に登ったりするなよ、副隊長は本当に心配してくれてるんだからな、」

念押しに聴いてくれる生真面目が、なんだか可笑しい。
可笑しくて悪戯心が起きる、からかいたくなって光一は唇の端を挙げて笑った。

「ま、ほんとに登りたくなったらね、好きにしちゃうと思うけどさ?その時はフォローよろしくね、ア・ダ・ム、」

言った言葉に端正な貌が、困ったよう笑ってくれる。
そんな表情につい、諦めた「十年後」すら叶うと期待しそうで、鼓動が笑う。
そうして自分の本音に気付かされる、今夜ほんとうは自分がどうしたいのか?

あの約束すら叶うと信じて今夜、唯ひとりに託したい。






(to be continued)

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第58話 双壁side K2 act.16

2012-12-22 00:28:35 | side K2
「信」 共に生き、共に登って、



第58話 双壁side K2 act.16

縁側を風吹きぬけて、柿の木から木洩陽ゆらめく。
涼やかな夕風に前髪あおられる、頬撫でる心地良さに目を細め、門を見る。
ふるい頑丈な門柱から影は蒼く伸び、座りこむ木肌もすこし温くなった。その感覚に時の経過を知って光一は笑った。

―もうじき帰って来るね?

うれしい予兆と縁側から降りて、登山靴の足で横切る庭の木洩陽やさしい。
桔梗の青紫と白が風ゆらぐ、ほおずきの花と早生実の朱色は陽光はじいて、向日葵の黄色が青空映える。
真夏の17時は青空あかるくて、けれど時刻はもう夕暮れだから帰ってくるはず。
そう門から通りを見た耳へと、聴き慣れたエンジン音が届いた。

「帰ってきた、」

笑って縁側に戻るとザックを掴む、その背中へとエンジン音は近づいてタイヤの音も聞えだす。
もうじき門から四駆が入ってくる、そう振向いた視界に紺色の車体が現われて停まった。

「雅樹さんっ、」

名前を呼びかけた先、運転席の扉は開いて長い脚が庭に降りる。
Tシャツとカーゴパンツ姿の長身が扉を閉める、その腰へと思い切り抱きついた。

「お帰りなさい、雅樹さんっ!」
「光一、ただいま、」

綺麗な笑顔ほころんで、長い腕を伸ばし抱き上げてくれる。
ぐんと視界が高くなって夏蜜柑の枝を越し、ずっと青空が近い。
半袖から覗く日焼けと白皙の境界線がまぶしくて、光一は大好きな人の首元に抱きついた。

「アイガーの雪と太陽は、まぶしかったね?」
「うん、まぶしくって綺麗だったよ。おかげで僕、ちょっと焼けたんじゃないかな?」

愉しげに笑って答えてくれる、その快活な笑顔に幸せになる。
嬉しくて楽しくて、想い素直なまんま自分は早速ねだった。

「さ、雅樹さん。吉村のジイさん家に行こうね?」
「その前に僕、奏子さん達にも挨拶したいな。光一も明広さんに、お帰りなさいって言わないとね?」

笑顔で答えてくれながら、今降りた四駆を雅樹は振向いた。
その視線を追いかけた先の助手席、呑気に眠りこむ父の顔が見えて呆れてしまった。

「なに、オヤジってば雅樹さん運転してるのに、自分だけ寝てたってワケ?自分の仕事に付きあわせた癖にさ、ほんとガキだね、」

今回のアイガー北壁登頂は、山岳写真家の父が雑誌からの依頼で撮影目的だった。
それで雅樹をまたザイルパートナーに指名して、雅樹の研究に役立つだろうと口説き連れて行っている。
ちょうど大学も夏休みだったし雅樹も喜んで同行した、それでも父の都合が発端なのにと呆れながらも可笑しい。

―人間ってさ、体は大人でもガキなこともあるね?ガキで大人の俺とは逆だね、

前者の見本な父に笑ってしまう、こういう自由な父が自分は大好きで、嬉しくて可笑しい。
いつも父が雅樹と連れ立つ理由は、医学部2回生で救急法の資格を持ちクライマーの資質も豊かなことに因る。
まだ二十歳の雅樹、けれど理知的な分析力と穏やかで強靭な精神は頼もしくて、山ヤとして男として信頼も厚い。
そんな10歳下の友人を父は心から頼っている、そんな様子が安心しきった寝顔にも見えて子供のようで可笑しい。
可笑しくて笑いながら雅樹に抱きついて、そんな自分と一緒に笑いながら雅樹は教えてくれた。

「明広さん、昨夜は僕の家に泊まっただろ?父も家に居たから、兄も一緒に3人で夜通し宴会してたんだよ、アイガー北壁おめでとうって。
それで昨夜は明広さん寝ていないから、帰ったら現像の仕事もあるし寝て下さいって僕が言ったんだよ。僕はちゃんと寝たから大丈夫だし、」

愉しそうに笑って答えてくれる、その笑顔は透明なほど優しい。
いつも人の好い雅樹、そんな無垢が大好きで嬉しくて、だからこそ父が羨ましくて悪戯心が起きだした。

「なるほどね?じゃあ俺、オヤジを起こして家に入れるからさ、ちょっと降ろしてくれる?」
「うん、光一が起こしてあげたら明広さん、きっと喜ぶね、」

疑いの欠片も無い貌で笑って降ろしてくれる、その笑顔にすこし罪悪感がちくりと刺す。
それが尚更に嫉妬を煽ってしまう、雅樹とアンザイレンしてアイガー北壁を登った父が羨ましくて、タダで済ませない。
そんな気持ち素直に助手席の扉を音も無く開けて、カーゴパンツのポケットからオナモミの実を3つ取出した。
この3個とも父の衿元に入れてTシャツの奥へ落としこむと、呑気な寝顔の前で拍手ひとつ大きく打った。

ぱあん!

音に二重瞼の目が瞠かれて、驚いた貌をする。
そこへ間髪入れずに父の耳元、祖父の声真似で怒鳴りつけた。

「熊だっ、明広!」
「えっ、?」

がばり起きあがった父が、寝惚けたままに狼狽えだす。
祖父と違って猟銃を使えない父は熊が怖い、その恐怖と掴めない状況に周囲を見まわしている。
大柄な父がオドオドする様子は熊みたい?面白くて愉快で笑いが弾けた。

「あははっ、オヤジが寝惚けた熊みたいだね?お帰りなさい、あははっ!」

笑った視界の向こう、困り顔の雅樹が笑いを堪えている。
生真面目でもユーモアが好きな雅樹を喜ばせられた、それも嬉しくて笑っていると節くれた指に額を小突かれた。

「なんだい、光一の悪戯か。また今回もやられちゃったね、あれ?」

欠伸しながら飄々と笑ってくれる、その笑顔がすぐ顰めて首傾げた。
さっき父のTシャツに3個入れたオナモミ、あの草の実が棘で肌を不快にさせるだろう。
呑気に寝ていたお仕置きだね?そんな想い笑って踵返すと、雅樹に走りよって抱きついた。

「雅樹さん、ちょっと茶を飲んだら、すぐ吉村のジイさん家に行こうよ。吉村のジイさんもバアさんも雅樹さんのコト、心配してたよ?」
「うん、父達にも聴いたよ。うちのお祖父さん、何回か新宿の家にも電話くれたらしいね、」

笑って抱き上げてくれながら、雅樹は父の方を見て首傾げこんだ。
その視線を覗きこんで遮断して、父に構わず自分は促した。

「ね、俺ちょっと喉かわいちゃったよ、早く家に入ろ?おふくろ達も雅樹さんのこと待ってるね、」
「それなのに光一、ザック持って登山靴まで履いてるの?」

玄関へと歩きながら笑った言葉に、きっと雅樹は気付いてくれたと嬉しくなる。
嬉しい気持ち素直なまんま、気付いてくれたろう事に笑いかけた。

「おふくろ達に捕まっちゃうと、雅樹さんを独り占めするの遅くなるだろ?だから気付かれないうちに、行っちゃおうかなってね」
「そんなことされたら僕、奏子さん達に失礼な男だって思われちゃうよ、あれ?」

返事してくれながら、ふと気づいたよう雅樹が父を振り返りかける。
その貌へと頬よせ抱きついて、父の様子に気づかれないよう甘えて微笑んだ。

「大丈夫だね、おふくろなら俺がワガママ言ったってコト、ちゃんと解るね。ね、アイガーの話を今夜は聴かせてよね?」
「うん、たくさん話したい事があるよ。途中で光一、眠っちゃうかもしれない、」
「大丈夫だね、絶対に全部、ちゃんと聴くからね、」

会話に笑いあいながら玄関を潜った庭先、父はTシャツを脱いで笑っていた。
あのオナモミは秘密の場所に育つ特大サイズだから、さぞ痛痒かったろうな?
そんな5歳の記憶に笑って今、24歳の自分がアイガー北壁を登る。

―神々のトラバース、白い蜘蛛は落石注意で素早く、頂上雪田は転ぶな、そしてアイガーのキスだね、

雅樹が語ってくれたアイガーを想い、この先のポイントを想定する。
自分でも7年前に同じルートを登攀した、頭脳では何度も山図に道を辿らせデータを見つめ登っている。
初登した17歳の時は後藤とアンザイレンを組んだ、その後藤から「雅樹に匹敵する」と言われた英二と今、登っていく。

―雅樹さん、まだ及ばないとこ多いけど英二、ビレイヤーなら雅樹さんと近づいてるね?まだ1年も経ってないのにさ、あいつ天才だね?

ザイルに繋がれるパートナーへ賞賛が笑い、父が撮影したビデオを思い出す。
それは父と雅樹がザイルを組んだ7年間、高校2年生から23歳までの雅樹がクライミングする姿が遺されている。
山ヤの医師を志す雅樹の研究資料になればと7年ずっと撮り続け、コピーテープを光一にも贈ってくれた。
あのビデオを16年間、もう幾度なのか忘れるほど観て雅樹の動きも呼吸も記憶している。
だから自分には解る、まだ10ヶ月でも英二は雅樹のクライミングに近づいていく。

―来年にはもっと速く登れるね、その次はもっと良いクライミングが出来る、おまえとなら。そうだね、英二?

問いかけ笑って、岩つかむ左手を視界の端に見る。
手首にはクライマーウォッチ『MANASUL』が時を刻み、タイムと高度を示す。
予定より少し速いペースで昇ってきた、このハイペースも英二の澱みないビレイのお蔭だろう。
一昨日のマッターホルン北壁に続いて今日も、全く光一のペースを乱すことなく英二はハーケンを回収し、登ってくる。
その姿をトップの自分は見られない、それでも動きが赤いザイルに伝わり意識野の映像あざやかに見えている。

―ね、雅樹さんなら解かるね?あいつ巧いよ、後藤のおじさんと訓練してるとこ見たけど雅樹さんと似てる、ビデオ観たことないのにね?

こういうところも英二は不思議だ。
性格の根っこが雅樹と正反対、けれど思慮深い静謐は似ていて雰囲気や立ち姿がそっくりでいる。
全くの他人であるはずの二人、それでも二人とも同じに光一のアンザイレンパートナーになった。
この二人への感情は全く違うようで似ている、そんな想い見つめながらザイルの向うへ微笑んだ。

―さて、雅樹さん、英二。アイガーを口説き落とせるかどうか、こっからだね?

ふたりのパートナーに笑いかけ、狭い急峻な岩棚へと踏み込んでいく。
アイガー北壁終盤の第1関門「神々のトラバース」この急勾配のバンドで西へ平行移動をする。
慎重に素早い足許、岩壁を傷付けないよう通り抜けていくと、垂壁の窪みに氷壁地帯が広がらす。

―久しぶりだね、白い蜘蛛。今朝も美人だね、ちょっと通らせて?

常冬の北壁に住む「白い蜘蛛」夏にも吹き荒れるまま永久に凍りついた雪は、蜘蛛になって巣を構えている。
山の守主として住まう白銀の蜘蛛、彼女の機嫌が悪い時に訪れたなら落石を砲弾にして侵入者を拒んでしまう。
けれど今日という日と夜明け間もない今は通してくれるはず、そんな確信にハンマーをふるいハーケンを謳わせた。

コンコン、カンッ、キン、キンッ。

白銀の蜘蛛にハーケンが歌う、永い星霜を佇む者への畏敬を謳いだす。
太古の悠久を凍らす「白い蜘蛛」その年月の記憶に19年前を教えてほしい、そして自分に伝えてほしい。
あの大好きな山ヤはどんな喜びを謳い、ハーケンとアイゼンの軌跡を刻んでアイガーのキスを受けとったのか?

―白い蜘蛛、俺に教えてよ?19年前の山ヤの医学生のことを聴かせて、別嬪で明るくて優しい男だよ?変テコな写真家と登っていったね、

どうか大好きな人の「山」の時間を教えてほしい、そして自分に祝福のキスをして?
そんな想い誇らかにハーケンは謳い、赤いザイルに軌跡を描かせ蒼い壁へとアイゼンが立つ。
ハンマーを振りピッケルとザイルを操る、その指先は凍えることなく動いて三点確保で脚と登っていく。
末端の血流を支配するポイントに英二は薄手のカイロを貼ってくれた、お蔭で爪先まで冷えることなく自由に山を掴める。
こんなふう細やかな手法も英二は考えられる、そんなパートナーを誇らしく笑って静かな蒼白の世界を通過した。

―ありがとね、白い蜘蛛。このあと俺のパートナーがおじゃまするよ、19年前の医学生に負けない別嬪の山ヤだよ、通してやってね?

いま落石は起きることなく通過が出来た、どうか英二が通る時も静かに通してほしい。
その願いに笑って白銀の山守へとパートナーを頼み、そっと岩壁を撫でて祈ると次へ向かいだす。
このアイガーもマッターホルンと同様、氷で岩を固めた地質の為に北壁以外の地点でも落石が多い。
不意に風を吹かす気まぐれと同じに氷は溶けて抱擁をほどき、放れた岩は落石となってクライマーを拒む。
そんな気まぐれを起こす山を雅樹は「ピュアで依怙地な怒りんぼう」と穏やかに笑って話してくれた。

「アイガーの北壁ってね、山を真っ二つに割った断面みたいだろ?きっと北壁はね、アイガーの心を素のまま曝け出した所だって思ったよ。
だから相手を選んでしまうのかもしれないね?心は、誰にでも踏みこませるものじゃないから。そういうの、ピュアなほうが怒りやすいんだ、」

温かい懐に包んでくれる布団の中、綺麗な深い声が語ったアイガー北壁。
あのとき20歳の雅樹が見つめたアイガーの心と今、自分は向き合っていく。

―アイガー、あなたは雅樹さんには素顔を見せたんだね?だって言ってた、あの日は無風で落石も無かったってね。それは今も同じだね?

凍れる岩を透して笑いかけ登る先、頂上へ抜けるクラックは凍れる岩壁と氷雪が繰り返す。
太陽は朝に呼ばれて高度をあげていく、けれど蒼い陰翳の世界は陽光から遠く空気も凍てつく。
永久の時が育ます冷厳と岩壁に、人智の彼方から「山」の鼓動がゆっくり充ちていく。

―不思議だね、雅樹さん。本当に山は不思議で大きくて、きれいだね、

ふれる岩壁に19年の星霜と繋がり、二十歳の時を登った雅樹の背中に笑いかける。
この瞬間をアンザイレンザイルに繋ぎあい、共に登って行ける英二の存在に喜びは温かい。
そんな温もりくれる山が愛しくて、ハーケンを撃つ岩肌を少しでも傷少なく保ちたいと願う。
こうして登っていく記憶の対峙に16年が癒されていく、そんな優しい瞬間を与える「山」と恋しあう。

―ね、アイガー?ずっと俺の為に待っていてくれたね、雅樹さんの記憶を今日の為に抱いてくれてたね?英二と一緒に登る今日を信じて、

ゴーグル越しに垂壁の彼方、蒼穹の光と頂に笑いかける。
確実に昇っていく蒼い冷厳は悠久の記憶が眠る場所、そんな深い懐から天辺は近づいていく。
そして大いなる陰翳の時間は終わりを告げて、青と白の耀く頂上雪田をアイゼンは踏んだ。

―…アイガーの雪と太陽は、まぶしかったね?
   うん、まぶしくって綺麗だったよ。おかげで僕、ちょっと焼けたんじゃないかな?

見つめた白銀まばゆい世界に、幼い自分の声と大好きな声が笑う。
あのとき話してくれた光景に今、自分は佇んでパートナーの鼓動をザイル越し感じている。
どこか懐かしく微笑んで雪田の急斜にピッケル立て、蒼穹と銀嶺の境界線に目を細めさす。
ゴーグルを透かして眩しい青と白、いま天へ昇っていく白銀の竜の背に光一は笑った。

「まぶしくって、綺麗だね?アイガーの背中は、」

笑った視界がすこし滲んで涙、ひとつだけ頬伝って落ちた。
そのまま音も無く雪へと吸われて消えていく、その彼方へ蒼いウェアの幻が立ってくれる。
今の自分より4歳若かった雅樹の背中、けれど自分より広やかに頼もしい背中が山頂から笑う。
あの背中に追いつきたくて16年、ずっと山を一番にして自分は生きてきた。

「今、天辺に行くよ?雅樹さん、」

大らかな明るさへ笑って一歩、確実にアイゼンを踏みだし登りはじめる。
ピッケルを携え万が一の時に備えて氷雪を踏んでいく、その頭上から夏の陽光は降りそそぐ。
いま7月の太陽は光が強い、けれど標高三千を超えた世界は永遠の雪に彩られ壮麗なまま佇む。
この下界は緑豊かな季を生命が謳歌する、その同じ瞬間にここでは氷雪きらめき無垢なる光が目映い。

―こことアッチは異世界だね、でも同時に存在している。不思議で大きくて、怖くて綺麗だ、

アイゼンに踏む雪に想い廻らせ、いつものペースで進んでいく。
その胸に腰に繋がれるアンザイレンザイルにパートナーも動き、もう頂上雪田へ着くと解かる。
このまま無事にふたりで天辺へ辿りつきたい、そして約束の夢を一緒に笑い合って山とキスしたい。
そんな願いと踏みしめていく背後、ふっと空気が揺れて光一は咄嗟にピッケルを雪面に立てた。

―英二!

意識が叫んで振り返る、腕はピッケルを握りしめ重心を深く落し込む。
その視線の先でナイフリッジの大気が煽られ、深紅のウェア姿が横転し滑りだした。

「っ、嫌だっ!」

叫んだ心ごとダブルピッケルで体を支え、体重を錘にして腰を落とす。
無意識のまま腕が動いてザイルを繰りだす、ダイナミックビレイにアンザイレンザイルを制動する。
急にザイルを止めれば滑落者のハーネスが引き攣れ、皮膚から筋肉、骨まで痛めつけてしまう。
その衝撃を緩めながらザイルを止めて滑落を終わらせていく、その手ごたえ確実に生まれだす。
けれど、握りしめるザイルの一本がその彼方、かちりと冷たい音に金具が外された。

―チェストのザイルを外した?

かすかな金属音と手応え、けれど瞬間に状況が解かる。
その判断に光一は氷原の下方へ、思い切り怒鳴りつけた。

「ザイルを外すなっ!」

肚から怒鳴った声に、ザイルが的確に止まりだす。
滑落スピードは緩やかになり、深紅のウェアは白銀に留まっていく。
そうしてザイルは完全に停止し、光一は大きく喘いだ。

「…止まった、…ぁ、」

ザイルを掴んだまま姿勢を立て、ピッケルを雪面から抜き取る。
赤いウェアとザイルを見つめたままザイルを手繰り斜面を下っていく、その視界で深紅が起きあがる。
白銀の上に赤い花が咲いたよう座りこみ、黒いグローブの掌は雪を払い丁寧に体を確かめだす。

―無事だ、意識も体もちゃんとしてる、無事だ、

安堵が喉を詰まらせるよう込みあげながら、けれど怒りたくて仕方ない。
その想いに唇引き結んだまま深紅の花を見つめ、傍らに立つと頭ごなし怒鳴りつけた。

「馬鹿野郎っ!」

ぶつけた声に、白皙の貌が見上げてくれる。
その左頬が赤らんで痛々しい、風に倒された衝撃で打ったのだろう。
それでもゴーグルも割れずヘルメットも装着されている、この無事を見つめる向う綺麗な低い声が謝った。

「ごめん、こんなところで転んで。俺の不注意でタイム遅くして、すまない」
「そんなこと言ってんじゃないよっ!」

そんなことで怒鳴ったんじゃないのに?

この誤解が悔しくて哀しいまま、パートナーの隣に座りこむ。
どうして解かってくれないと、もどかしい想いごと深紅の肩を掴んで向かい合う。
ゴーグル越しに真直ぐ見つめて、切長い目の意識が無事な事を確認すると、肚から怒鳴りつけた。

「アンザイレン外すんじゃないよっ!馬鹿野郎っ、何のためにザイル繋いでんだよっ!」

お互いに援け合うため繋ぎあっている筈なのに?
おまえのこと、俺には救けられないと判断したから、外そうとした?
そんなに俺は頼りないのか、俺のこと独りぼっちに置き去りにするつもりなのか?

―もう置いて行かないでよ、俺のこと独りにしないでよ、もう嫌だ!

心が叫びだして奥深く、8歳の子供がもう泣きだしている。
泣き声に16年前の晩秋が蘇る、黎明の暗闇と哀切が今また心を引き裂きだす。
あのとき無力な子供だと思い知らされた、大切な人を救えなかった無念と懺悔が蝕んで、今また痛い。

「ごめん、」

綺麗な低い声が謝って、その声に心が引き戻される。
それでも喉には重たく冷たい塊が苦しい、そんな想いにゴーグル越しから切長い目が微笑んだ。

「光一を巻き込むの、どうしても嫌だったんだ。俺は光一のサポートをするビレイヤーだ、光一の無事を守るっていうプライドがあるんだ。
だから巻き込みたくなくて俺、ザイルを外そうって思ったんだ。だけど、ごめんな?絶対に止めてくれるって光一のこと、信じるべきだな、」

自分の無事を守るプライド、その言葉は嬉しい。
けれど、だったら何故と想ってしまう、ねだってしまう。そんな願いに怒鳴り声が叫んだ。

「そうだよっ…信じろよ!俺のこと信じて約束を守れよっ…」

雅樹が消えて思い知った孤独が今、もう怖い。
信じあって結んだ約束が途切れる、その孤独が怖くて不安で苦しい。
どうか信じてほしい、自分の力をもっと信じて認めて傍にいてほしい、もう置いて行かれたくない。

どうかお願い、俺の無事を守ってくれるんなら、ずっと生きて傍にいてよ?







(to be continued)

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冬夜日記:名残の一葉

2012-12-21 23:07:46 | お知らせ他
彩、華やいだ時の形見



こんばんわ、週末いかがお過ごしですか?

写真は津久井湖畔にて見つけた、ちょっと変わったワンシーンです。
湖面へ張り出すウッドデッキに立っていた、秋の名残に惹かれて撮ってみました。

これって自然と挟まったんでしょうかね?
それとも誰かが挿していった、お遊びなんでしょうか?
もし、この真相をご存知の方いらしたらご一報 or どなたか謎解きしてください。

あと少しで第58話「双壁K2・15」加筆校正が終わります。
で、日付変わる頃に続篇をUPの予定です。

取り急ぎ、




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第58話 双壁side K2 act.15

2012-12-21 00:09:37 | side K2
「迷」その本心を見つめて、



第58話 双壁side K2 act.15

標高3,026m、ミッテルレギヒュッテから見るアイガーは鋭利な頂で蒼穹を指す。
この東山稜も尾根は狭く、山小屋も土台を谷から支えた上に建築されている。
そして、この北側に切れ落ちた垂壁を自分たちは明日、登っていく。

―今回は俺たちだけだね、北壁は、

心裡に明日を見つめながら、打合せ内容に視線は手帳を奔っていく。
今回のアイガーは自分と英二以外はここで1泊し、ミッテルレギ東山稜をガイドレスで登攀訓練する。
その予定とルートファインディングに問題はないのか、昨日のマッターホルン北壁を登攀した記録から考えていく。

―たぶん高尾署のタイムだと、この予定は難しいね?12時間の山行した翌日なんだ、疲労も残ってるはずだね、

マッターホルン北壁で高尾署が遅れた理由は、ルートファインディングと確保支点の数、あとは登り方だった。
このうち先2点は七機の加藤たちの同行で解消されるだろう、けれど登攀技術の難点と疲労の残存が心配される。
やはり所要時間を増やした方が良い、そんな判断に光一は軽く手を挙げ発言した。

「所要時間を増やした方が良いかもしれません、ガイドレスのルートファインディングは難しいし、夜明け前30分は暗いですから、」

本当は高尾署の体力を考えての判断、けれど敢えてガイドレスと明度を判断材料に挙げておく。
既に本人たちが誰よりも遅れを感じている、それなのに今ここで指摘したら劣等感を刺激するだけだ。
そんな考えに示した提案に、リーダーの加藤が山図へ訂正を入れながら尋ねてくれた。

「所要時間をプラス30分、山頂8時半に変更します。ルートについてアドバイス頂けますか?」
「はい、最初の狭い岩場続きとタワーが連続する辺り、ここは強風も起きるので姿勢と重心に気を付けてください。とにかく集中を、」

応えて話しだすと、各自が山図を確認しながらメモを取り始める。
隣では英二もペンを奔らせている、そんなパートナーに微笑んで光一は続けた。

「FIXロープの辺りは足場がありません、そこでは腕力が頼りになります。なので足場があるポイントは脚力を使って腕力を温存して下さい。
FIXロープは50mの長さになる地点もありますが、救助訓練を想定すれば難しく無いです。下山の南稜ルートも上り下りの連続になります、」

下山ルートは自分たちも同じ南稜ルートになる。
東山稜も南稜も、鋸歯のようなエッジが連続する稜線であることは変わらない。
そのルートを脳裡に描きながら光一は自分たちの予定を告げた。

「私と宮田はこの後、アイスメーアに戻ってクライネシャデックからアルピグレンに入ります。ベースキャンプのデポはテント一式のみ。
天候確認の後、5時スタートで山頂に8時、下山は南稜ルート経由で9時半メンヒヨッホ、30分ほど休憩してユングフラウヨッホ駅に11時です、」

今夜は久しぶりのテント泊になる、だから今も装備を背負ってミッテルレギヒュッテまで登ってきた。
そのうちテントやコンロなど共有装備を英二が担当していることを、遠征メンバー全員が把握している。
いつものよう英二は軽々と背負い標高3,026mを笑って歩いていた、そんな姿への視線は「賞賛」だった。
こんな細かい所からも英二への信望を高めたい、そんな意図を想う隣から加藤が尋ねてくれた。

「私たち東山稜は8時半登頂の予定ですから、若干、国村さん達の方が速いな。でもアルピグレンBCのデポ回収は行きましょうか?」

リーダーの加藤はアイガー北壁登頂の体力消耗を配慮してくれる。
けれど英二と自分なら問題ないだろう、それを穏やかに伝える為に光一は一歩退いた言葉で笑った。

「自分たちでやります、それも訓練の内なので。でも疲れてダメそうだったら、お願いするかもしれません、」

全部を自分たちでやれる、そう言うのは「流石だ」と想わせると同時に嫉妬も買うだろう。
そんな考えにした表現へ、加藤は敬意の眼差しで笑ってくれた。

「本当に国村さんはタフだな、さすがです。俺たちも8時を目指して登頂しますが、遅れたら予定通りグリンデルワルトのホテルに集合で、」
「はい、登頂したら無線の連絡は入れますが、出れない状況なら無視してください、」

会話をしながら加藤の言葉遣いに変化が感じられる。
昨夜、ツェルマットのホテルでミーティングした時は殆ど敬語を遣っていなかった、けれど今は違う。

―たぶん高尾署の件があったからかね?

昨夜、夕食に遅参した高尾署の二人に対して自分は怒らなかった。
もちろんミスの指摘はした、技術の研鑽が訓練の目的であるなら是正は必要だろう。
この指摘内容は以前と変わらない、けれど語調や態度は随分と変わった自覚は当然ある。
そんな変化の一番大きな要因は英二から影響を受けたことだろう、それを加藤たちも気付いてくれると良い。

―俺が変ることで英二の評価も上がるってモンだね、一石二鳥だよ?その辺を加藤さんも気付いてるとイイけどね、

今回の海外遠征訓練のリーダーである加藤は29歳、自分たちより5歳上の大卒で年次は高卒任官の自分より1年上になる。
階級は光一が1つ上の警部補だけれど、警視庁山岳会でも加藤は1年先輩だから当然のよう態度は今まで「先輩」だった。
けれど今日の加藤は素直な敬意を示してくれる、そんな様子を視ながら打合せは終わりコーヒー1杯の後で英二と出立した。



午後9時、オーバーハングの岩壁は蒼く夜へと沈みこむ。
紺碧の中天に星は銀いろ耀いて、ベルニーズアルプスを静謐が充たしていく。
東の涯へ透明な朱金は沈みゆく、その方角にある故郷の山と優しい俤を見て光一は微笑んだ。

―周太、明日はアイガーの天辺に英二を連れていくよ?最高の写真を撮って、無事に君の許へ帰らせるからね。でも、明日の夜は、

明日、無事に下山して夜を迎えたら、自分は英二に告白するだろう。
周太が贈ってくれた紙袋を開き、恋人の時間を求め合いたいと告げる。そのことに心が痛い。
いま故郷は明日の午前5時、この8時間の時差を超えて大切な俤を見つめながらアイガーの前、英二と並んで座っている。
この隣を護りたいと願う、その願いはアンザイレンパートナーとしての想いが強くて、そして明日の夜に迷いが生まれる。

本当に自分は、英二と恋人関係になりたいのだろうか?

雅樹の山桜と周太を重ね、約束ごと今も雅樹を想い続けて、雅樹にまつわる全てが自分の宝物でいる。
いま見上げるアイガー北壁、その威容にも雅樹が登った瞬間の残像を追って、19年前の幻を見つめてしまう。
こんなに雅樹を想う自分、だから自分を疑ってしまう、英二への想いは「雅樹の身代わり」かもしれない?
そんな想いに周太への自責がこみあげて尚更に迷う、本当に自分は英二との夜を望むのか?

―雅樹さん、俺は本当に英二に抱かれても後悔しないのかな?

本当に現実になれば、周太が傷つかない訳がない。
あの紙袋を確かに周太は贈ってくれた、それが光一の背中を押す為と解っている。
その全てが周太の英二に対する深い愛情と、自分に対する願いだとしても、周太の傷つくことを案じてしまう。
こんな全てへの回答を周太はくれた、富士山を見上げる森で言ってくれた、その言葉を信じないことは出来ない。
明るい木洩陽のなか笑ってくれた黒目がちの瞳、あの眼差しの無垢な強靭を記憶に見つめて光一は微笑んだ。

―結局のとこ、俺がいちばん臆病ってことなんだろうね?雅樹さんのこと、今も待っていたいって未練だね、

自分の弱さが露呈する、それが可笑しくて楽しくもある。
ずっと16年間を向きあえなかった傷に、こうして向きあっている自分が愉快で良い。
そんなふう笑い飛ばして見上げたアイガーへ、心の芯から光一は笑いかけた。

―ね、アイガー?あなたのことを「人食い壁」ってみんな言うけど、プライドがちょっと高いだけだね、俺と一緒だね?

nordwand北壁、そして一字違いでmordwand殺人岩壁
いま見上げる蒼黒く沈む闇の壁に、数多のクライマーたちが挑んでは死へと墜ちた。
そんな山の気持ちは解かる気がする、自分も今まで近寄りすぎる者を散々払い落としてきたから。
この自分に触れていいのは雅樹と「山」だけ、そう想い続けた涯に出逢えたのは英二だけだった、この気持ちに山へと語り掛けた。

―あなたは19年前、雅樹さんに恋して良いタイムで登らせたよね?きっと英二のことも気に入るよ、だから無事に登らせてやってよね、

肚の底から山に笑いかけ、アンザイレンパートナーの無事をねだる。
そうして見上げる頂はアルペングリューエン耀いて、薔薇色の光彩は羞んだ紅潮を想わす。
マッターホルンよりずっとツンデレな恥ずかしがり屋、そんな山に笑って光一は隣をふり向いた。

「英二、なに考えてる?」

笑いかけてマグカップの熱いスープを啜りこむ、その視界に英二が振向いてくれる。
ほっとする熱が喉すべり落ちる向こう側、白皙の貌は凛々しい緊張がいつもより堅い。
どうしたのかな?そう見つめた先で英二は正直に想いを吐露してくれた。

「ここってさ、有名なクライマーが沢山登ってるだろ?みんな俺よりずっと経験も才能もあって、でも中止したり亡くなったりしてる。
そういう場所に俺が登っても良いのかな?って考えてた。まだ1年も山の経験が無い、そういう俺が登るのは烏滸がましい気がしてさ、」

まだ1年どころか10ヶ月、この短期間で英二はアイガー北壁に挑むだけの実力を身に着けている。
そう判断したから後藤と蒔田も経験年数を問わずに参加させ、英二に実績と信望を積ませようと考えた。
その期待に応えられるのか?そんなプレッシャーも正直なまま英二は口にした。

「本当はさ、今回の訓練に俺が参加することは、反対意見の方が多かったんだろ?青梅署以外では。それでも副隊長たちは信じてくれた。
それは俺にとって本当に嬉しいんだ、だから余計に今、ちょっとプレッシャーって言うのかな?失敗できないって肩に力が入ってるんだ、」

期待とその反対意見、信頼と不安、羨望と嫉妬。
そんな視線を受ける立場は容易ではない、それを初任総合が終わったばかりで英二は背負っている。
こうした英二の現実が決ったのは1年前、警察学校の山岳訓練で英二が周太を救助したことだった。
初心者が要救助者を背負い雨後の崖を登りきった、それが英二の素質を示し今に繋がっている。

―だから英二の場合、本人も周りも想定外すぎるんだよね、俺と違ってさ、

自分は警視庁に入る前提が警視庁山岳会長の後継だった、その為に実績を作って任官している。
そういう事情だから自身も周囲も最初から覚悟していた、けれど英二の場合はダークホースと謂うしかない。
本人も周りも今回の遠征訓練に対して強張ることは仕方ない、そう覚悟したとおりに加藤たちから意見もされている。
たぶん今の英二は体から強張っているだろうな?心ごと少しでも解したくて光一は笑いかけた。

「そりゃ無理ないかもね?どれ、」

スープを飲み干しカップを置くと、立ち上がって英二の背後に回りこんだ。
見おろすダークブラウンの髪に残照が艶めく、その耀きが宵の明星を想わせる。
ホント髪ひとすじまで別嬪だね?そんな感心をしながら声かけた。

「ほら、カップこぼさないように気を付けてね、いくよ、」
「え?」

なんだろう?そう見上げてくれる貌が白く薄暮へ浮ぶ。
その切長い目に笑いかけて、英二の両肩に手を置くとゆっくり揉み解しはじめた。

「うん?ちょっと凝っちゃってるね、下山の後と昨夜と、ちゃんとマッサージした?」
「したけど巧くないんだろな?ありがとな、」

笑って前を向き礼を言ってくれる、その気配が懐かしく温かい。
いつも雅樹にもこうしてマッサージしたな?なんだか嬉しく微笑んで今のパートナーに率直な気持ちを告げた。

「前にも俺は言ったよね?確かに山は卒配からで10ヶ月だ、でも毎日この俺がヤる訓練に付きあえるの、おまえくらいだね。
正直に言うとさ、おまえが付いて来れるなんて最初は思っちゃいなかったよ。でも、おまえは一度も弱音を吐かずに付いてきた。
いっつも笑って、山でも寮でも俺のペースに合わせてくれる。それで昨日も予定時間通りに登ってくれた、英二にしか出来ないね、」

初めて逢った時、雅樹と似ていると思ったけれど「山」の適性は未知数だった。
けれど10ヶ月に英二の素質と努力を見つめて確信は今もう深い、それと同じよう周囲も認めるだろう。
その予想に違わず今日もミッテルレギヒュッテで打合せの後、七機の村木は英二への呼び方が変わっていた。

―宮田くんから「宮田さん」になってたよね、ま、村木さんは宮田の次に若手だけどさ、

七機の村木は大卒任官4年目26歳、今2年目の英二に次いで年次が若い。
年齢も2歳差で真面目な明るい性質だから、今回のメンバーでは最も英二に馴染みやすいだろう。
そう考え廻らせ話しながら揉んでいく肩が徐々に解れてくれる、このまま精神的にも楽になってほしい。
そんな想いに微笑んで手を動かす肩越しに、英二は振向き笑いかけてくれた。

「ありがとう、俺のこと信じてくれて、」
「だよ?ホント俺には、おまえしか居ないんだからね。自信持ちな、絶対に明日も完登出来ちゃうね、」

本当に自分には、英二しかいない。
その本音に笑いかけた光一へ、前を向いた綺麗な低い声が訊いてくれた。

「光一、お祖父さんとお祖母さんにマッサージするんだ?」
「まあね、二人共ぼちぼちイイ歳だしさ。おやじとおふくろにもしてたね、」
「あと田中さんと、雅樹さんもだろ?」

質問に鼓動ひとつ、心を叩く。
ついさっきも北壁に見つめた俤を想い、素直に答えた。

「うん、山の時はよくしてたね、」

告げた答えに英二の体が解れて、緊張が寛いだことが解る。
これなら明日は大丈夫だろう、嬉しくて微笑んだとき端正な笑顔が振向いた。

「光一、終ったら交替しよう?そんなに俺は巧くないかもしれないけど、ちょっとでもお返しさせて?」

どうして、英二?

ぽつんと心が呟いて、16年前の声が記憶から微笑んだ。
いつも雅樹が言ってくれた台詞を今、そっくりにアンザイレンパートナーが言ったから。

―…ありがとう光一、交替しよう?そんなに僕は巧くないかもしれないけど、ちょっとでもお返しさせて?

奥多摩の山で、富士で穂高で、ふたり山に連れ立った後は必ずマッサージし合った。
いつも長い指が与えてくれた優しさが蘇える、懐かしさと愛惜が温められて瞳に昇りだす。
あのころ笑い合った「約束」の1つを見上げている今、言われたら心揺らされずにいられない。
どうして英二はいつも、こうなんだろう?途惑いながらも素直に嬉しいまま、光一は笑った。

「なに、おまえ?雅樹さんと同じ言い方して、」
「あ、そうなんだ?」

切長い目が穏やかに微笑んで、綺麗な笑顔ほころばせてくれる。
その笑顔がただ嬉しくて優しくて、想い素直なまま英二に抱きついた。

「そうだよ?ホントおまえって、不思議なヤツだね…なんでいつも、」

頬よせた頬を撫でるのは、深い森の香。
抱きしめた肩は鍛錬に逞しく広やかで、ウェアは深紅と黒。
香もラインも色彩も、どれもが「英二」だと教えてくれて、それが嬉しい。
いま抱きついている人が大好きで、そんな想いごと頼もしい腕がやわらかく抱きしめてくれた。

―ほっとするんだよね、英二にくっつくと…こういうの、えっちしたら変わっちゃうのかな、

温かな懐に寛ぎながら不安かすめて、相反する二つに涙こぼれる。
この温もりを失いたくない、そんな本音が8歳の子供のまま泣いて踏み出すことが怖い。
こんな途惑いは16年前のとき抱かなかったのに?そう気付かされて雅樹と英二の差に微笑んだ。

―雅樹さんのコト信じ切ってるからだね、俺のこと絶対に拒絶しないって…でも英二だと怖い、

出逢って10ヶ月、その月日では「絶対拒絶しない」と信じきることは未だ難しい。
だから昨日の下山後、英二がホテルの部屋から出て行ったとき、拒絶されたようで怖かった。
そんな不安が新しい関係を拒ませる、もう何度も考えて覚悟してきたのに明日の夜が今、怖い。

―怖いね、俺。北壁よりも告白のほうが怖いよ、アイガー?…雅樹さん、俺って臆病だね、

そっと山へ微笑んで懐かしい俤に笑いかける。
こんなふうに自分は今も雅樹に甘えたくて、そんな想いごと英二に抱きついてしまう。
本当に自分はどうしたい?この迷い真直ぐ見上げた北壁は、穏やかな沈黙のまま紺碧の黄昏に佇む。



“Eeger” アイガー 標高3,975m。

グランドジョラス北壁ウォーカーバットレス、マッターホルン北壁と並ぶ三大北壁として知られる。
いま登っていくアイガー北壁は高差1,800m、この高さと屏風状の地形に太陽光も届かぬ垂壁は冷厳が夏も蹲らす。
そして大西洋の荒天から影響が大きい、またヨーロッパ平原の北東風をバックネットのよう受けるため突発的暴風が凄まじい。
こうした地形と立地による悪天候の多発は落石の頻発と夏の吹雪すら起こさせ、クライマーの命を呑みこみ「死の壁」と呼ばれる。
不意に風の衣を動かしては人間を振り落す、そんな気まぐれの誇り高い山は自分と似ていて、愉快な想い登っていく。

―マッターホルンは雲だけど、あなたは風だね?自由に気ままに動き回ってさ、俺も同じだよ。似た者同士だね、だから素顔でいてよ?
  似た者同士なら恥ずかしがることもないね、だから俺と素顔でキスしてよ?19年前、すっぴんで雅樹さんと恋したみたいにさ?

声なき言葉で呼びかけながらハンマーをふるう、そしてハーケンは誇らかに歌いだす。
高い金属音に岩壁は楔を受入れていく、そしてカラビナとザイルをセットし確保支点を造り、登っていく。
見上げる傾斜は雪も積もり難いほど垂直に切れ落ちて、ゆっくり明けはじめる曙光に黒い山は耀きだす。

―アイガー、雅樹さんを憶えてるね?天使の笑顔した山ヤの医学生だよ、あなたのこと嬉しそうに話してくれた、だから俺は逢いに来たよ?

8歳の夏、梓川の畔で聴いたアイガー北壁。その3年前にも登頂した直後、雅樹は5歳の自分に話してくれた。
まだ自分は保育園児でなんのキャリアも無くて、医学部2回生の雅樹は三大北壁を2つと6,000峰2つに記録を持っていた。
けれど光一を子ども扱いせずに一人前の山ヤとして対等に話してくれた、そんな雅樹をもっと大好きになった。
幸せそうにアイガーを語る笑顔は心にあざやかで、今も登っていく先に蒼いウェアの背中を見つめている。

―雅樹さん、今日も一緒に登ってるよね?約束を叶えてくれてるね、

登っていく垂壁に集中しながら心深くは呼んでいる。
懐かしい笑顔と綺麗な深い声、穏やかで明るい眼差し、抱きしめてくれる懐の温もり。
そして山桜の香が時おり、ゆるやかな風になって頬を撫で髪を揺らし、そっと吹きぬける。
この気配に信じている、自分のアンザイレンパートナーは今も変わらずに、この心に生きて共に登っていく。

―信じてる、誰が違うって言っても俺は信じてる、俺の隣にちゃんと帰ってきて一緒に登ってるね?英二のことも守ってくれてるね?

祈りに笑いかけ登っていくのは、数々の栄光と悲劇を風の衣に纏わらせる岩壁。
けれど自分が見つめるのは19年前に駆け抜けた背中と、16年前の約束と夢と、大いなる垂壁への畏敬の想い。
モルゲンロートに耀く山の喜びを想い、手招くようオーバーハングする岩に導かれ、集中は深く壁を読みながら意識に雲と風を聴く。
三点確保で登攀して岩肌を撫で、ハーケンを撃ちこんでランニングビレイをとり、山懐に抱かれる歓びに笑ってハーケンの歌を聴く。
そうして山と向き合う胸と腰には赤いザイルが繋がれて、その先にアンザイレンパートナーの鼓動と呼吸が真摯に伝わってくる。

―英二、おまえを信じてる、生きて俺をビレイ出来るのは英二だけだね。雅樹さんの夢を叶えられる唯ひとりだ、雅樹さん、英二を護ってよ?

心の底から呼びかけながら登っていく、その右から太陽が生まれる。
陽光の届かない雪と氷と岩、蒼と白と黒の世界にも夜は薄れて青い翳の一日が目覚めだす。
明るんでいくゴーグルの視界に吐息は白く、規則正しいリズムで燻らせ朝の訪れを知る。
そして進んでいく岩壁の先、刻々と華やぎだす暁は蒼穹に向かうルートを顕わしだす。

この岩の向こう、約束の「点」はもう直ぐに。





(to be continued)

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冬夜日記:冬、時待つ桜

2012-12-20 20:10:45 | 雑談
夢現、寒に春の花を見る 



写真は桜@津久井湖畔です。
いま年の瀬、けれど桜の木は来春の芽を育んでいます。
寒空にも健やかな花芽たちに、春の豊麗な花を想わせられました。

桜は花ひらく寸前、蕾が膨らむ前に樹皮を剥いで草木染に使うのだとか。
冬の寒さに蓄えた力が花色になって春、あざやかに万朶と咲いていく。
そういう桜の冬姿は、なんだか心惹かれます。

朝一UPした第58話「双璧10」加筆校正が終わりました。
湯原サイド「双璧9」は2012.12.8にUPしたので2週間ぶり位ですね。
この続編10のUPにあたって9のラストが変っています、というか削ってあります。

今夜は国村サイド第58話「双壁K2・15」をUPする予定です。



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第58話 双璧act.10―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-20 04:54:47 | 陽はまた昇るanother,side story
会話と静謐、そして夜明へ  



第58話 双璧act.10―another,side story「陽はまた昇る」

If “manners maketh man” as someone said
Then he’s the hero of the day
It takes a man to suffer ignorance and smile
Be yourself no matter what they say
I’m an alien, I’m a legal alien
I’m an Englishman in New York

……

すこし掠れた渋めのテノール、刻むビートとサックスの聲。
黄昏か夜明けのような境界線、そんなトーンは午前3時の気配と似合う。
開いたパソコンから流れる旋律、時おり叩くキーボードの音、ページを繰る紙ずれ。
かすかな冷蔵庫の電気音に静謐が際立って、互いに無言の時間は流れ、けれど居心地悪くない。

…手塚といるのって、楽だな

英二と一緒にいるのも楽だと思う、けれど英二の場合は一緒に同じような事をしている。
周太が本を読むときは一緒に読んでいるか、隣でぼんやりと半分微睡んで気配を消してしまう。
けれど手塚はごく自然に別々の好きな事をして、のんびり同じ部屋でお互い寛いでいる。

…俺と手塚、ペースが似ているのかな?

そんなふう感じながら写真集のページを繰り、写される森の世界で心は遊ぶ。
オレンジいろのルームライトに夜は優しくて、静かな曲と光に心は穏かに微笑む。
いま午前3時という時刻、そのマイナス8時間に気づいたとしても、心に波は少ない。

日本時刻AM3時、スイスは一日前の午後7時。
今頃の英二は夕食の時間だろう、その2時間後にはきっと自室に戻る。
そうして光一は告白するのだろう、それから時は恋人の夜へと二人の色彩を変えていく。

…午前五時、まだここに居る時間だね…ありがとう、

時間への想いに、そっと感謝する「午前五時に独りじゃなくて、よかった」
そんなふう2時間前から感謝する、何も知らないのに今夜時間を作ってくれた友達が嬉しい。
この喜びを想うとマイナス8時間の傷みは癒されて、すこしだけ自分に自信が持てる。
だって自分はあまりにも、今まで「英二」だけしか無かったから。

英二だけが「隣」だった。

父を亡くして13年間に閉籠った孤独に、自分の隣は無人だった。
必要事項以外を話す「会話」の相手は母だけで、大好きな樹木と話す事も少なかった。
ただ父の軌跡を追うことだけを考えて、それだけ考えていれば罪悪感から楽になれていた。
父の軌跡を追う為に必要なこと以外は、母を護るために必要な時間以外は、全てを遮断した。

だから誰もいなかった、友達も、好きな人も、片想いすら知らずに13年間を過ごした。
そのまま父の13回忌を迎えた翌年、父と同じ警視庁へ任官して「英二」と出逢った。
そして英二は、友達になって恋人になって、婚約者になって庇護者になってくれた。

…どれも嬉しい、でも英二だけが世界になったら生きていけない、今だってそう

もし今、自分には英二しかいなかったら、そうしたら苦しすぎる。

英二しかいなかったら、英二が他の世界に行くことが怖くなる、そして引留める。
きっと引留めたら英二は傍にいてくれる、けれど、いつか英二は後悔すると解かる。
だって自分は知っている、英二が本当に生きたい世界がどこなのか、本人以上に解かる。

…光一が撮ってくれる山頂の英二を見たら、解かるから

どんな時の英二より、山頂の英二は輝いている。
その耀きは深く穏やかで、冷厳の白銀と広やかな蒼穹に佇む横顔の静謐が、無垢に眩しい。
あの貌が英二の素顔、そんな貌で居られるのは「山」が英二のいるべき世界だからと、解かる。
けれど、自分の体には高所適性が欠落している、それでは英二が望む高峰の世界に生きられない。

だからもう解かっている、自分の世界は「英二」ではない、英二の世界も周太ではない。
どんなに互いを深く想い合い繋がり合ったとしても、自分と英二は違う世界の住人だと認めざるを得ない。
違う世界に夢を見る、違う世界での才能を持って、違う世界に立って自分を活かす道を見つけるしかない。
あの写真を撮れる光一こそが英二の世界全てなのだと潔く認めて、夢を祝福し、送りだすことが自分の誇りだ。

…寂しくないって言ったら嘘、それでも笑顔で送りだして迎えるなら、俺の所に帰ってきて貰うことは出来る、

英二と同じ世界には生きられない、それでも同じ場所を帰る所にすることは出来る。
ふたり同じ場所に帰ってきて眠って、朝になったら出掛けて自分の世界へ生きて、また帰ってくる事は出来る。
そうして違う世界に生きても「帰る場所」ならば近くに居られる、夜と朝の英二を独り占め出来る。
だからいつも、何があっても、笑って送りだし続けて、温もりで迎え続けたい。
そう願うから今も、笑って現実を受容れたい。

…泣かない、絶対に。英二と光一が幸せであるようにって祈りたい、どうか一度でも多く幸せに笑って?

今夜は泣きたくない、だって自分も今が幸せだから。
英二には光一がいる、光一には英二がいる、ふたりは互いに「自分の世界」と呼びあえる。
ふたりは同じ夢を駈ける共犯者、親友で、アンザイレンパートナーで、そして恋愛し合う。

自分にはそこまで深い繋がりの相手はいない、それでも今こうして一緒に寛げる友達がいる。
英二と光一のような繋がりとは全く違う、けれど、だからと言って二人の関係より浅いとも決められない。
人間の繋がり方は様々で、どれが「いちばん」なのかを決めるのは結局は、自分の心が感じて決断することだから。

…だからね、英二?恋する相手は英二だけだけど、親友って気持なら英二以外のひとが一番になるよ、きっと

美代も親友と呼びあえる、男と女だけれど同じ夢を追いかける仲間で、同じひとに恋するライバルでいる。
きっと手塚もいつか親友になる。それは美代との関係とはまた違う、同性の友人ならではの関係になっていく。
そんなふうに自分の世界は広がっていく、そして強く大きくなって、いつか「大きな人」に自分はなれると信じている。
吉村医師が診察室で言ってくれたように、青木樹医が詞書に書いてくれたように、自分は成長していきたい。

…そのためにはね、まず今夜を笑って超えること。それから七機でもSATでも、俺が俺であることを忘れないこと

そんな覚悟に微笑んで、手許の写真集は最後のページをめくる。
そこに広がった深い常緑の林には、一本の黄金まばゆい樹木が佇んでいた。
深い杉木立の霧たつ森、金色の光を戴冠したブナは豊かな梢に天を抱く。その壮麗に周太は微笑んだ。

「立派だね、きれい…」
「だろ?」

隣から明朗な声が笑って、マグカップを渡してくれる。
受けとると柑橘と深い香が温かい、豊かな赤紫色に首傾げると手塚は教えてくれた。

「ホットワインだよ、オレンジジュースと赤ワインで作った略式だけどさ。夏だけど敢えてホットにしたよ、」
「初めて飲むよ、おいしいね、」

ひとくち啜りこんで、あまい飲み口が笑顔になる。
夏なのに熱い飲み物が今は似合う、そんな雰囲気がなんだか楽しい。
ゆっくりマグカップに口付けながら、眼鏡の奥が穏やかに笑って写真集を見た。

「このブナ、杉の純林で独りで大木なんだよな?ブナは他の種類の木に一本だけ交る方が、デッカくなるけど。なんか励まされるよ、俺、」

ブナの巨樹に励まされる、その言葉に自分が樹医を志す想いが重なる。
こういうのは嬉しいな?そう感じるまま素直に周太は訊いてみた。

「どうして励まされるの?」
「うん、俺の出身が木曽の山奥だからだよ、」

快活な目が眼鏡の奥で笑う、そんな様子は午前3時と思えない。
もう眠くなるはずの時間にもクリアな眼差しで、手塚は話してくれた。

「俺が見ていた世界は山と森と川、畑と田んぼ。町の人は皆知り合い。だから大学入って都心に来たら、違和感デカいんだ。
水道の水はぬるくて薬臭い、空気は排気ガスで埃っぽく霞んで、ビルで狭い空はネオンがうるさくって星も見えない真っ暗けだ。
人も他人だらけで知らんぷりするだろ?だから俺、東京にいるとエイリアンの気分なんだ。それがこのブナと杉の森みたいでさ、」

マグカップ片手に笑って、もう一方の指が写真集を指さしてくれる。
その示す大樹への想いに、自分の抱える想いごと周太は微笑んだ。

「自分だけ違う世界の人間って想うの、寂しいけど。でも寂しい分だけ色んなことが、よく見えて考えられるかなって想うよ?」
「湯原もそういの、感じる事あるんだ?」

周太の言葉に嬉しそうなトーンで笑ってくれる。
その笑顔がなんだか嬉しくて、嬉しい気持ちが素直に想いを言葉に変えた。

「ん、何度もあるよ?前も話したけど俺、男の癖に変って言われること小さい頃は多くて、そういう時に想ったし、今も想う時あるよ、」
「そっか、ナントカの癖にって遣い方によったら嫌な言葉だよな?そういうカテゴリーで違うって言われるの、何か理不尽だな、」

明朗な声が納得に微笑んで頷いてくれる、その様子に手塚の東京大学で過ごす想いが垣間見える。
自分たちは同じタイプかな?そんなふう目で笑いかけて周太は続けた。

「そういうカテゴリーが自分と同じタイプとしか居なかったら、きっと楽だよね。『変』って言われて傷つくことも無いし。
だけど成長も少ないと思うんだ、自分はこのままで良いってなるから。でも違う考え方を知るのはね、視野を大きくしてくれるでしょ?」

孤独だった13年間、自分と母だけで完結する世界は寂しくても楽だった。
誰も大切に想わないなら、誰かに何を言われても「どうでもいい」と思うから傷つかなくて、楽だった。
けれど心の成長は少なかったと今なら解かる、だから記憶喪失も13年間ずっと治らず精神年齢も止まっていた。
自分の重たい進路に他人を巻き込みたくなくて選んだ孤独、けれどある意味で「逃げ」でもあった。そんな想いを言葉に変えた。

「違う場所に交ると仲間はずれみたいで寂しいし、楽じゃ無い方が多いかもしれないけど、可能性みたいなの見つける努力するよね?
それにね、独りぼっちって気持ちを知っている方が、自分と同じタイプのひとに会えた時すごく嬉しいから、大切に出来るって想うよ。
そういう人の方が人として大きく成れるって、俺は想うんだ。ブナが他の木と一緒にいると一生懸命に大きく育っていくみたいに、」

父の軌跡という異世界は独りぼっちが寂しかった、けれど寂しかった孤独の記憶が今の自分を造ってくれた。
この今も英二と光一の世界では生きられない自分は、独り離れている。この置き去りが前は哀しかった。
けれど、それで良かったと今こうして心から想える。だからもう、泣く必要は何も無い。

…英二と光一の生きる世界では俺は生きられない、だからこそ自分に何が出来るのか一生懸命に向きあえて今、ここに来れたんだ

どうして英二と光一に自分が出逢ったのか?本当はそんな疑問を抱いたこともある。
どうせ自分は二人に追いつけない、自分は置き去りにされて泣くだけしか出来ない、そんな劣等感を感じた時もある。
けれど二人と自分の差に向きあうなかで「自分」を知ることが出来た、そして今こうして同じ世界に夢を見る友達と出会えた。
今それが本当に嬉しいのは、きっと「独り」を自分が知るから有難味も解かる。その感謝に微笑んだ周太に手塚が笑ってくれた。

「俺も同じこと考えてきたよ?違う世界で生きてみるのも良いかなって、よく想う。でさ、この曲ってそういうの励ましてるなって、」

笑って指さした先、パソコンからサックスが響きだす。
夜明を想わす旋律が部屋を染め、掠れたテノールが言葉を紡いだ。

……

I don’t drink coffee I’ll take tea my dear
I like my toast done on one side
As you can hear it in my accent when I talk
I’m an Englishman in New York

See me walking down Fifth Avenue
A walking cane here at my side
I take it everywhere I walk
I’m an Englishman in New York
I’m an alien, I’m a legal alien …

If “manners maketh man” as someone said
Then he’s the hero of the day
It takes a man to suffer ignorance and smile
Be yourself no matter what they say

I’m an alien, I’m a legal alien…

……

僕はコーヒーは飲まないんだ、飲み慣れた紅茶をもらうよ
僕のトーストは片面だけ焼くのが、お決まりなんだ
話している時 僕のアクセントが分かるだろう
僕はニューヨークにいるイギリス人

5番街まで歩いていく僕を見て 
歩いていく片手にはステッキ 
どこに行くときでも、いつも持ち歩く 
僕はニューヨークにいるイギリス人
 
僕はエイリアン 法に触れない異国人なんだ…

誰かが言った様に“礼節が人を作る”のなら
彼は日々、英雄なんだ 
人が向けてくる無知と嘲笑に耐えている
君らしくしなよ、あいつらが何を言っても関係ない

僕はエイリアン 法の余所者なんだ…

……

“Be yourself no matter what they say. I’m an alien”
君らしくしなよ、何を言われても問題ない。僕はエイリアン

このフレーズが自分は好きだ、なんだか自分と合っている。
男同士で婚約している自分は、今の日本の社会では“alien”線引きされる存在だろう。
英二と光一の生きる高峰の世界でも、高所に適応出来ない体の自分は余所者に違いない。
それでも自分を恥じることはしたくない、自分らしい誇りを抱いて笑って生きられたら嬉しい。

「ん、かっこいい歌だね?手塚、Ipodにダビングしてもらえる?」

素直な想い誇らかに、明るく笑って友達を振り向いた。
振向いた先に愛嬌の笑顔ほころんで、気さくに手を出してくれた。

「いいよ、貸して?同じひとの曲、他のも入れる?」
「ん、お願いします、」

胸ポケットから出して手渡す、その小さな機体にふと俤映りこむ。
このIpodは英二が最初にダビングしてくれた、その頃のシンプルだった感情が懐かしい。
けれど今の自分の方が少し、胸が張れている。そんな想い微笑んだ視界でダビングの準備がされていく。
そして再び流れるサックスの旋律に夜明け空を見、ふと想ったことを周太は訊いてみた。

「手塚は好きな人、いないの?」
「うん?なに、急に、」

振向いて笑った顔が、すこし寂しげでいる。
訊いてはいけなかったろうか?困りかけた時、生真面目でも愛嬌ある貌が笑ってくれた。

「湯原なら、なんか聴いて貰いたいな。ちょっと長くなるかもだけど、いい?」
「ん、話したいように聴かせて?」

向きあって笑いかけた周太に、眼鏡の瞳が微笑んだ。
そして立ち上がると冷蔵庫から缶を2つ出し、手塚は明りをスタンドライトに変えた。
ほの暗く明るい光に空気が変る、さっきより静謐が夜深くなって穏やかに優しい。

…すこし仄暗い方が人は話しやすいって、聴いたことあったな?

思い出す知識に友達の意図が解かる。
きっと、面と向かって話すのは苦しい、そんな想いを抱えているのだろう。
それでも自分には聴いて貰いたいと言ってくれて嬉しい、そう微笑んだ隣から缶が差し出された。

「はい、湯原、」

渡された缶を見ると、オレンジ酎ハイだった。
もう午前3時半、朝に近い時刻だから酒が残る可能性が高い。
それでも今日の手塚の予定は大丈夫かな?そんな心配に周太は訊いてみた。

「手塚、今から呑んでも今日は大丈夫?俺は良いけど、」
「うん、今日は午後から図書館行くだけだからさ、」

答えながら隣に腰をおろすと、手塚はベッドに凭れて胡坐をかいた。
そして缶ビールのプルリングを引きながら、照れくさげに周太へ微笑んだ。

「飲みながら話させて、素面じゃちょっとね、」

寂しげで照れくさそうな雰囲気は、きっとハッピーエンドの話とは言えない。
こういう貌を自分は見たことがある、その日の記憶ごと周太はプルリングを引いて笑いかけた。

「ん、とことん飲んでいいよ?俺、出来るだけ付きあうから、」
「ありがとう、じゃあ追加で買いだしもアリな?」

愉しそうに手塚は笑うと、缶ビールに口を付けた。
同じよう缶酎ハイを啜ってオレンジの香に息をつく、その視界でテーブルに開いたパソコンの白い光が明るい。
スタンドライトとパソコンだけの明りにハスキーヴォイスとサックスが流れていく、そして明朗な声が穏やかに話しだした。

「俺の町は皆が知合いで、親戚関係も多いんだ。そいうの温かくって好きなんだけどさ、でも重荷になったことが1度だけあるんだ。
俺のほうが勝手に重荷にしちゃっただけで、周りは誰も悪くない。だけど、あのときの俺にとったら故郷が一瞬で、知らない世界になった、」

自分の故郷が、一瞬で知らない世界になる。
そう言った眼鏡の瞳は寂しげに微笑んで、ビールの缶に口付ける。
自分も一緒に缶酎ハイに口付けて、そっと友達を見守った先で声は続けた。

「俺んちって親戚が多くてさ、オヤジは4人兄弟の長男で、おふくろは3人兄妹の真中なんだ。イトコもいっぱいいて皆が兄弟みたいだよ。
俺には姉貴と兄貴がいるんだけど、10歳と5歳上でさ。だから一番齢が近い1コ上の従姉と仲が良かったんだ、高校も一緒のとこだった。
学年は1コ上だけど、ほんとは1ヶ月も違わないんだよ。俺が4月生まれで弥生が3月生まれだから、数日の差で学年が別れちゃったんだ、」

3月生まれの弥生、その名前から雪に咲く花を想わせる。
そんなイメージにふと気がついて、そっと周太は訊いてみた。

「ね、さっき手塚が話してた冬バラみたいな女の子って、弥生さんのこと?」
「当たり、やっぱ湯原は解かるんだな?」

素直に笑って認めてくれながら、書架のほうを手塚は見た。
その視線の先には花の写真集がある、さっき一緒に冬バラの写真を見ながら「こんな女の子がストライク」と手塚は笑っていた。
あのときの笑顔は明るかった、けれど今は寂しげな微笑が切なくて「弥生」に哀しい予兆が軋みだす。
そんな想いの隣で、明朗な声は優しいトーンで懐かしく微笑んだ。

「弥生はガキの頃から頭良くて美人でさ、でも運動神経ダメでドジなんだよ。そういうとこ可愛くって俺、弥生を守らなきゃって思ってた。
保育園は一緒に入ったんだ、でも小学校から1年先に弥生が学年進んでいくだろ?それで俺、いつも弥生が心配でおふくろに文句言ってた。
もうちょっと早く生んでくれてたら、弥生と一緒に学校に行けるのにって。だから追いかけて学校入ると、いつも登下校は一緒だったよ。
部活も弥生と一緒に美術部でさ、高校も弥生の行った進学校に追っかけてったよ。先輩って呼ぶの嫌で、学校では『あのさ』って呼んでた」

笑って話してくれる「あのさ」に、幼馴染で従姉の少女を守りたい少年の一途が瑞々しい。
そして差に気付く、光一と美代も幼馴染だけれど雰囲気が全く違う、この差に弥生と賢弥の色彩が顕れだす。
きっと「冬薔薇の女の子はストライク」なのだろうな?そう予想した隣で手塚は、綺麗に笑った。

「高校卒業して弥生、信州大の教育学部に進学して木曽を出たんだ。それで初めて気付いたよ、俺は弥生が好きだって恋愛を自覚したんだ。
いつも一緒だったから周りにカップルって言われてたけど、本気で好きだって離れて初めて解かったよ?居ないのが寂しくて気づいたんだ、」

離れて初めて気付く、そういう想いは解かる。
自分も卒業式の夜に初めて英二への感情に気がついた、きっと手塚の方が自分より寂しかったろう。
18年間を共に過ごした少年と少女が別れる、その哀切と訪れた恋の自覚がなにか愛しくて、微笑んだ周太に手塚も笑ってくれた。

「気がついたら俺、逢いたくってさ。模試を受けるのに便利だから、弥生のアパートに泊めてもらうって家族にも言って、逢いに行ったよ。
俺たち双子の兄妹みたいに仲良いから誰も止めなかった。俺もね、いとこ同士は結婚できるって思ってたから、ただ嬉しくて逢いに行った。
それで模試を受けてから弥生と待ち合わせして、長野の街を歩いて告白したんだ。それで恋人同士になれて、初めてキスしてデートしたよ、」

さらり言った言葉に、幸せそうに手塚が笑った。
その笑顔が少し照れくさげになって、けれど話してくれた。

「弥生も俺のこと、ずっと好きだったって言ってくれた。大学行くのに木曽を離れて、俺と離れるの辛かったって言ってさ。喜んでくれた。
弥生のアパートに行ったら本棚のとこ、俺との写真が飾ってあったんだ。それ見て俺、すごい嬉しくて幸せで、結婚しようって言ったよ。
俺が大学卒業して就職したら、すぐ結婚しようって約束したんだ。それを弥生、本当に喜んでくれた。それで夜、本当に恋人になったよ、」

照れくさげに笑って、けれど眼鏡の瞳から涙こぼれた。
いぶし銀のフレームから涙は頬伝う、それでも手塚は笑って想いを言葉に変えた。

「お互い、初めてだったんだ。でも俺は結構エロいから、耳学問の予習があってさ?おかげで弥生のこと、ちゃんと愛することが出来たよ。
初めてキスした日にもうエッチしちゃってさ、すっ飛ばし過ぎかなっても思うけど俺たちには自然だったよ、18年ずっと一緒だったから。
朝になって一緒に飯作って食べて、俺は模試に行ってさ。終わって待合せて、俺は木曽に帰る予定を翌朝に変えたんだ。離れたくなかった、」

離れたくなかった、その言葉にまた涙ひとつこぼれだす。
静かな涙を拭うことなく、やわらかに手塚は微笑んで続けた。

「その夜も幸せだった、ふたりで約束をいっぱいしたよ。俺も弥生と同じ信大に行こうって思ってた、そしたらずっと一緒にいられる。
同棲して、一緒に勉強して、一緒に学校の先生になろうって約束した。俺は林業とか興味あるから、理科の先生しながら研究するとかさ。
弥生は一人っ子の跡取り娘だから婿を取るんだ、俺は次男坊でちょうど良かったって笑ったよ。親とかに話すのは結婚する時っても決めた、
やっぱり親戚だし何だか恥ずかしくってさ?話す時は驚かれるね、なんて笑ったりして。そんな将来のことや、色んなこと二人で約束した、」

話してくれる約束は、幸福に充ちている。
それなのに全てが過去形で語られていくことに、ふたりの物語がどうなるか解かってしまう。
けれど何故?そう見つめた先でひとつ、大きく呼吸すると手塚が笑った。

「でも、全部ダメだったんだ。俺たちイトコ同士でも結婚出来ないんだ、俺たちの祖父母がイトコ同士で結婚してたから、血が濃すぎて」

笑った頬に、涙ひとすじ零れていく。
眼鏡の奥で笑った目は泣いて、それでも微笑んで手塚は話してくれた。

「俺のおふくろの妹が、弥生の母親なんだよ。母親たちの両親がイトコ同士で結婚したんだ、でも俺たち、そんなの知らなかったよ。
祖母さんは隣村から嫁に来たっていうのは知ってた、その母親が木曽の出身で祖父さんの叔母だったんだよ、そんなの知らないよな?
知ったのは盆に弥生が帰ってきた時だった、墓参りに皆で行って宴会してさ。そのとき弥生とふたりで話していたら、言われたんだよ、」

涙と一緒に缶ビールを啜りこむ。
ほっと息吐いて、すこし笑って明朗な声は微笑んだ。

「おまえたち見ていると祖父さんと祖母さんを思い出すな、ふたりもイトコ同士で仲良くて夫婦だったから。そう伯父さんが言ってさ?
おまえたちはイトコでも双子みたいに仲良しだな、母さん同士が血の濃い姉妹だから、おまえ達は姉弟同然で気が合いやすいのかな?
そう言って笑われて、初めて知ったんだ。もう母方の祖父母は亡くなっててさ、そんな話は聞いたことも無くて、信じられなかったよ。
だから俺、役場に行って戸籍を初めて取ったんだ。自分のと祖父母のと取って、それで納得したよ。本当に祖父さんたちイトコ同士だった」

言われただけではなく現実を見つめに行く。
ひたむきな賢弥の生真面目さが逞しい、そして哀しくて見つめる隣は涙と笑って口を開いた。

「その戸籍を弥生と見てから、ふたりで墓参りに行ったよ。それで祖父さんと祖母さんにだけ正直に話したんだ、俺たち恋人になったって。
でも諦めるって、ふたりで墓の前で約束したんだ。法律では俺たちは結婚出来る、でも遺伝学で言ったら危険すぎて、結婚出来ないって、」

法で許されても、赦されない結婚。
この哀しみは自分には解る、自分と英二のことを思えば他人事に出来ない。
そういう周太の想いを見つめるよう笑って、手塚は涙と言ってくれた。

「もしも子供が出来ないんなら、一緒にいる選択もあるよ?でも弥生は跡取り娘なんだ、子供は欲しいんだよ。だから別れた、」

明るく笑って眼鏡の向こうから、真直ぐな哀しみが見つめてくれる。
その眼差しが自分の今まで抱いていた「男女の恋人」への羨望を解かしていく。

…子供が出来るならって俺、なんども考えてきたけど、でも手塚は逆なんだ、子供が出来るから別れたんだ、

男と女の恋愛なら子供に恵まれ、もっと英二を幸福に出来た。
そう羨ましく思う気持ちはある、けれど手塚と弥生の恋に自分の羨望は贅沢だと気付かされる。
人と人が、ふたり寄添いあって生きることは、どんなにか偶然の顔した奇跡が詰まっているのだろう?

「あのとき俺、故郷が解からなくなったんだ。いちばん一緒にいた弥生といちばん遠くに離れることになって、全部解らなくなった。
皆が知合いで親戚同士で仲良くって良い町だって思ってた、でも、そういう町だから弥生と血の繋がりが濃くなりすぎて、離れてさ。
ずっと木曽の山も川も全部が単純に好きだった、その全てに弥生との想い出が笑ってくれるんだよ。それが辛くて俺、東大を受験したんだ。
東京に行けば木曽と違い過ぎて、気が紛れるって思ってさ?でも合コンとかしても俺、ちっとも彼女とか出来ないんだけどね。仕方ないかな、」

ふたり寄添い合えなかった哀切が、潔く笑って缶ビールを飲み干した。
その笑顔と話してくれた言葉たちに、手塚のスケッチブックに描かれた木曽の森に気付かされる。
あの森のスケッチがどうして、あんなにも鮮明に描かれ優しく美しいのか?

…故郷の森に大切な人を見つめて描いたんだ、逢いたいけどもう逢えない覚悟と、それでも大切な想いをこめて、

手塚の故郷の森に見つめる想い、そして植物図鑑の夢の意味が解る。
愛するけれど帰れない場所、帰りつけない人への想い、その全てを手塚は森林学の夢に託そうとする。
そういう想いは哀しい、けれど頼もしい明るさが眩しくて周太は笑いかけた。

「手塚って、かっこいいね、」
「ありがとな、でも俺、こんな泣いてかっこ悪いだろ?」

眼鏡を外し手の甲で顔を拭いて、素顔の手塚が笑ってくれる。
その笑顔が綺麗で、感じたまま素直に周太は笑って言葉にした。

「かっこいい泣き方だよ、潔くて綺麗で強くて。こういう手塚を好きになった弥生さんも、強く綺麗に生きる人だね?必ず幸せになれる人だよ、」

きっと、冬薔薇のよう凛とした女性だろう。
そんなイメージに重ならす都会の花園の俤に、手塚の想いが解かる気がする。
そんなふう考え廻らせ思ってしまう、やはり手塚と自分はどこか似ているかもしれない?そう微笑んだ隣で友達は笑ってくれた。

「うん、弥生は最高に綺麗だよ。きっと幸せになるよな。ありがとな、湯原、」

ありがとう、そう言ってくれる友達が嬉しい。そして出会えて良かったと思える。
今こうして一緒に過ごせることが嬉しくて、周太は綺麗に笑った。

「ん、想ったこと言っただけだよ?俺のほうこそ、ありがとうね、」

ありがとうと心から想う、今、気付かせて貰えたから。
英二と自分は同性で、違う世界に夢を見て、本来なら結婚するのは難しい。
それでも寄添いあうことを選択できる、その幸せを気づかせて貰えたことが、ただ嬉しい。

そして心から願う、この真摯な友人とその想い人に、どうか其々に幸せな日々が訪れてほしい。



夜通しの酒と話に明けた朝は、眩しかった。

あざやかな青空と歩く道、街路樹きらめく木洩陽は名残らす徹夜の昂揚に心地良い。
日曜早朝の静かな改札を抜けて電車に座り、Ipodの曲に微睡みながら懐かしい駅へと着く。
いつものスーパーで買物をして、朝陽ふる住宅街の道を歩き、古い木造門の扉を開いて庭に入る。
ふわり、頬撫でる夏木立の透明な香に周太は幸せな想いと笑いかけた。

「ただいま、みんな綺麗だね?」

ひとり佇んだ庭の森は今、夏の朝にと空へ精一杯の花を開かせる。
濃やかな緑に繁らす森は朝露を名残らせて、きらめく夏の想いを映す雫こぼした。

「ん、…布団干して、掃除しよう、」

独りごと幸せに微笑んで周太は鍵を出し、玄関の扉を開いた。




【歌詞引用:STING「Englishman In New York」】

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