会話と静謐、そして夜明へ
第58話 双璧act.10―another,side story「陽はまた昇る」
If “manners maketh man” as someone said
Then he’s the hero of the day
It takes a man to suffer ignorance and smile
Be yourself no matter what they say
I’m an alien, I’m a legal alien
I’m an Englishman in New York
……
すこし掠れた渋めのテノール、刻むビートとサックスの聲。
黄昏か夜明けのような境界線、そんなトーンは午前3時の気配と似合う。
開いたパソコンから流れる旋律、時おり叩くキーボードの音、ページを繰る紙ずれ。
かすかな冷蔵庫の電気音に静謐が際立って、互いに無言の時間は流れ、けれど居心地悪くない。
…手塚といるのって、楽だな
英二と一緒にいるのも楽だと思う、けれど英二の場合は一緒に同じような事をしている。
周太が本を読むときは一緒に読んでいるか、隣でぼんやりと半分微睡んで気配を消してしまう。
けれど手塚はごく自然に別々の好きな事をして、のんびり同じ部屋でお互い寛いでいる。
…俺と手塚、ペースが似ているのかな?
そんなふう感じながら写真集のページを繰り、写される森の世界で心は遊ぶ。
オレンジいろのルームライトに夜は優しくて、静かな曲と光に心は穏かに微笑む。
いま午前3時という時刻、そのマイナス8時間に気づいたとしても、心に波は少ない。
日本時刻AM3時、スイスは一日前の午後7時。
今頃の英二は夕食の時間だろう、その2時間後にはきっと自室に戻る。
そうして光一は告白するのだろう、それから時は恋人の夜へと二人の色彩を変えていく。
…午前五時、まだここに居る時間だね…ありがとう、
時間への想いに、そっと感謝する「午前五時に独りじゃなくて、よかった」
そんなふう2時間前から感謝する、何も知らないのに今夜時間を作ってくれた友達が嬉しい。
この喜びを想うとマイナス8時間の傷みは癒されて、すこしだけ自分に自信が持てる。
だって自分はあまりにも、今まで「英二」だけしか無かったから。
英二だけが「隣」だった。
父を亡くして13年間に閉籠った孤独に、自分の隣は無人だった。
必要事項以外を話す「会話」の相手は母だけで、大好きな樹木と話す事も少なかった。
ただ父の軌跡を追うことだけを考えて、それだけ考えていれば罪悪感から楽になれていた。
父の軌跡を追う為に必要なこと以外は、母を護るために必要な時間以外は、全てを遮断した。
だから誰もいなかった、友達も、好きな人も、片想いすら知らずに13年間を過ごした。
そのまま父の13回忌を迎えた翌年、父と同じ警視庁へ任官して「英二」と出逢った。
そして英二は、友達になって恋人になって、婚約者になって庇護者になってくれた。
…どれも嬉しい、でも英二だけが世界になったら生きていけない、今だってそう
もし今、自分には英二しかいなかったら、そうしたら苦しすぎる。
英二しかいなかったら、英二が他の世界に行くことが怖くなる、そして引留める。
きっと引留めたら英二は傍にいてくれる、けれど、いつか英二は後悔すると解かる。
だって自分は知っている、英二が本当に生きたい世界がどこなのか、本人以上に解かる。
…光一が撮ってくれる山頂の英二を見たら、解かるから
どんな時の英二より、山頂の英二は輝いている。
その耀きは深く穏やかで、冷厳の白銀と広やかな蒼穹に佇む横顔の静謐が、無垢に眩しい。
あの貌が英二の素顔、そんな貌で居られるのは「山」が英二のいるべき世界だからと、解かる。
けれど、自分の体には高所適性が欠落している、それでは英二が望む高峰の世界に生きられない。
だからもう解かっている、自分の世界は「英二」ではない、英二の世界も周太ではない。
どんなに互いを深く想い合い繋がり合ったとしても、自分と英二は違う世界の住人だと認めざるを得ない。
違う世界に夢を見る、違う世界での才能を持って、違う世界に立って自分を活かす道を見つけるしかない。
あの写真を撮れる光一こそが英二の世界全てなのだと潔く認めて、夢を祝福し、送りだすことが自分の誇りだ。
…寂しくないって言ったら嘘、それでも笑顔で送りだして迎えるなら、俺の所に帰ってきて貰うことは出来る、
英二と同じ世界には生きられない、それでも同じ場所を帰る所にすることは出来る。
ふたり同じ場所に帰ってきて眠って、朝になったら出掛けて自分の世界へ生きて、また帰ってくる事は出来る。
そうして違う世界に生きても「帰る場所」ならば近くに居られる、夜と朝の英二を独り占め出来る。
だからいつも、何があっても、笑って送りだし続けて、温もりで迎え続けたい。
そう願うから今も、笑って現実を受容れたい。
…泣かない、絶対に。英二と光一が幸せであるようにって祈りたい、どうか一度でも多く幸せに笑って?
今夜は泣きたくない、だって自分も今が幸せだから。
英二には光一がいる、光一には英二がいる、ふたりは互いに「自分の世界」と呼びあえる。
ふたりは同じ夢を駈ける共犯者、親友で、アンザイレンパートナーで、そして恋愛し合う。
自分にはそこまで深い繋がりの相手はいない、それでも今こうして一緒に寛げる友達がいる。
英二と光一のような繋がりとは全く違う、けれど、だからと言って二人の関係より浅いとも決められない。
人間の繋がり方は様々で、どれが「いちばん」なのかを決めるのは結局は、自分の心が感じて決断することだから。
…だからね、英二?恋する相手は英二だけだけど、親友って気持なら英二以外のひとが一番になるよ、きっと
美代も親友と呼びあえる、男と女だけれど同じ夢を追いかける仲間で、同じひとに恋するライバルでいる。
きっと手塚もいつか親友になる。それは美代との関係とはまた違う、同性の友人ならではの関係になっていく。
そんなふうに自分の世界は広がっていく、そして強く大きくなって、いつか「大きな人」に自分はなれると信じている。
吉村医師が診察室で言ってくれたように、青木樹医が詞書に書いてくれたように、自分は成長していきたい。
…そのためにはね、まず今夜を笑って超えること。それから七機でもSATでも、俺が俺であることを忘れないこと
そんな覚悟に微笑んで、手許の写真集は最後のページをめくる。
そこに広がった深い常緑の林には、一本の黄金まばゆい樹木が佇んでいた。
深い杉木立の霧たつ森、金色の光を戴冠したブナは豊かな梢に天を抱く。その壮麗に周太は微笑んだ。
「立派だね、きれい…」
「だろ?」
隣から明朗な声が笑って、マグカップを渡してくれる。
受けとると柑橘と深い香が温かい、豊かな赤紫色に首傾げると手塚は教えてくれた。
「ホットワインだよ、オレンジジュースと赤ワインで作った略式だけどさ。夏だけど敢えてホットにしたよ、」
「初めて飲むよ、おいしいね、」
ひとくち啜りこんで、あまい飲み口が笑顔になる。
夏なのに熱い飲み物が今は似合う、そんな雰囲気がなんだか楽しい。
ゆっくりマグカップに口付けながら、眼鏡の奥が穏やかに笑って写真集を見た。
「このブナ、杉の純林で独りで大木なんだよな?ブナは他の種類の木に一本だけ交る方が、デッカくなるけど。なんか励まされるよ、俺、」
ブナの巨樹に励まされる、その言葉に自分が樹医を志す想いが重なる。
こういうのは嬉しいな?そう感じるまま素直に周太は訊いてみた。
「どうして励まされるの?」
「うん、俺の出身が木曽の山奥だからだよ、」
快活な目が眼鏡の奥で笑う、そんな様子は午前3時と思えない。
もう眠くなるはずの時間にもクリアな眼差しで、手塚は話してくれた。
「俺が見ていた世界は山と森と川、畑と田んぼ。町の人は皆知り合い。だから大学入って都心に来たら、違和感デカいんだ。
水道の水はぬるくて薬臭い、空気は排気ガスで埃っぽく霞んで、ビルで狭い空はネオンがうるさくって星も見えない真っ暗けだ。
人も他人だらけで知らんぷりするだろ?だから俺、東京にいるとエイリアンの気分なんだ。それがこのブナと杉の森みたいでさ、」
マグカップ片手に笑って、もう一方の指が写真集を指さしてくれる。
その示す大樹への想いに、自分の抱える想いごと周太は微笑んだ。
「自分だけ違う世界の人間って想うの、寂しいけど。でも寂しい分だけ色んなことが、よく見えて考えられるかなって想うよ?」
「湯原もそういの、感じる事あるんだ?」
周太の言葉に嬉しそうなトーンで笑ってくれる。
その笑顔がなんだか嬉しくて、嬉しい気持ちが素直に想いを言葉に変えた。
「ん、何度もあるよ?前も話したけど俺、男の癖に変って言われること小さい頃は多くて、そういう時に想ったし、今も想う時あるよ、」
「そっか、ナントカの癖にって遣い方によったら嫌な言葉だよな?そういうカテゴリーで違うって言われるの、何か理不尽だな、」
明朗な声が納得に微笑んで頷いてくれる、その様子に手塚の東京大学で過ごす想いが垣間見える。
自分たちは同じタイプかな?そんなふう目で笑いかけて周太は続けた。
「そういうカテゴリーが自分と同じタイプとしか居なかったら、きっと楽だよね。『変』って言われて傷つくことも無いし。
だけど成長も少ないと思うんだ、自分はこのままで良いってなるから。でも違う考え方を知るのはね、視野を大きくしてくれるでしょ?」
孤独だった13年間、自分と母だけで完結する世界は寂しくても楽だった。
誰も大切に想わないなら、誰かに何を言われても「どうでもいい」と思うから傷つかなくて、楽だった。
けれど心の成長は少なかったと今なら解かる、だから記憶喪失も13年間ずっと治らず精神年齢も止まっていた。
自分の重たい進路に他人を巻き込みたくなくて選んだ孤独、けれどある意味で「逃げ」でもあった。そんな想いを言葉に変えた。
「違う場所に交ると仲間はずれみたいで寂しいし、楽じゃ無い方が多いかもしれないけど、可能性みたいなの見つける努力するよね?
それにね、独りぼっちって気持ちを知っている方が、自分と同じタイプのひとに会えた時すごく嬉しいから、大切に出来るって想うよ。
そういう人の方が人として大きく成れるって、俺は想うんだ。ブナが他の木と一緒にいると一生懸命に大きく育っていくみたいに、」
父の軌跡という異世界は独りぼっちが寂しかった、けれど寂しかった孤独の記憶が今の自分を造ってくれた。
この今も英二と光一の世界では生きられない自分は、独り離れている。この置き去りが前は哀しかった。
けれど、それで良かったと今こうして心から想える。だからもう、泣く必要は何も無い。
…英二と光一の生きる世界では俺は生きられない、だからこそ自分に何が出来るのか一生懸命に向きあえて今、ここに来れたんだ
どうして英二と光一に自分が出逢ったのか?本当はそんな疑問を抱いたこともある。
どうせ自分は二人に追いつけない、自分は置き去りにされて泣くだけしか出来ない、そんな劣等感を感じた時もある。
けれど二人と自分の差に向きあうなかで「自分」を知ることが出来た、そして今こうして同じ世界に夢を見る友達と出会えた。
今それが本当に嬉しいのは、きっと「独り」を自分が知るから有難味も解かる。その感謝に微笑んだ周太に手塚が笑ってくれた。
「俺も同じこと考えてきたよ?違う世界で生きてみるのも良いかなって、よく想う。でさ、この曲ってそういうの励ましてるなって、」
笑って指さした先、パソコンからサックスが響きだす。
夜明を想わす旋律が部屋を染め、掠れたテノールが言葉を紡いだ。
……
I don’t drink coffee I’ll take tea my dear
I like my toast done on one side
As you can hear it in my accent when I talk
I’m an Englishman in New York
See me walking down Fifth Avenue
A walking cane here at my side
I take it everywhere I walk
I’m an Englishman in New York
I’m an alien, I’m a legal alien …
If “manners maketh man” as someone said
Then he’s the hero of the day
It takes a man to suffer ignorance and smile
Be yourself no matter what they say
I’m an alien, I’m a legal alien…
……
僕はコーヒーは飲まないんだ、飲み慣れた紅茶をもらうよ
僕のトーストは片面だけ焼くのが、お決まりなんだ
話している時 僕のアクセントが分かるだろう
僕はニューヨークにいるイギリス人
5番街まで歩いていく僕を見て
歩いていく片手にはステッキ
どこに行くときでも、いつも持ち歩く
僕はニューヨークにいるイギリス人
僕はエイリアン 法に触れない異国人なんだ…
誰かが言った様に“礼節が人を作る”のなら
彼は日々、英雄なんだ
人が向けてくる無知と嘲笑に耐えている
君らしくしなよ、あいつらが何を言っても関係ない
僕はエイリアン 法の余所者なんだ…
……
“Be yourself no matter what they say. I’m an alien”
君らしくしなよ、何を言われても問題ない。僕はエイリアン
このフレーズが自分は好きだ、なんだか自分と合っている。
男同士で婚約している自分は、今の日本の社会では“alien”線引きされる存在だろう。
英二と光一の生きる高峰の世界でも、高所に適応出来ない体の自分は余所者に違いない。
それでも自分を恥じることはしたくない、自分らしい誇りを抱いて笑って生きられたら嬉しい。
「ん、かっこいい歌だね?手塚、Ipodにダビングしてもらえる?」
素直な想い誇らかに、明るく笑って友達を振り向いた。
振向いた先に愛嬌の笑顔ほころんで、気さくに手を出してくれた。
「いいよ、貸して?同じひとの曲、他のも入れる?」
「ん、お願いします、」
胸ポケットから出して手渡す、その小さな機体にふと俤映りこむ。
このIpodは英二が最初にダビングしてくれた、その頃のシンプルだった感情が懐かしい。
けれど今の自分の方が少し、胸が張れている。そんな想い微笑んだ視界でダビングの準備がされていく。
そして再び流れるサックスの旋律に夜明け空を見、ふと想ったことを周太は訊いてみた。
「手塚は好きな人、いないの?」
「うん?なに、急に、」
振向いて笑った顔が、すこし寂しげでいる。
訊いてはいけなかったろうか?困りかけた時、生真面目でも愛嬌ある貌が笑ってくれた。
「湯原なら、なんか聴いて貰いたいな。ちょっと長くなるかもだけど、いい?」
「ん、話したいように聴かせて?」
向きあって笑いかけた周太に、眼鏡の瞳が微笑んだ。
そして立ち上がると冷蔵庫から缶を2つ出し、手塚は明りをスタンドライトに変えた。
ほの暗く明るい光に空気が変る、さっきより静謐が夜深くなって穏やかに優しい。
…すこし仄暗い方が人は話しやすいって、聴いたことあったな?
思い出す知識に友達の意図が解かる。
きっと、面と向かって話すのは苦しい、そんな想いを抱えているのだろう。
それでも自分には聴いて貰いたいと言ってくれて嬉しい、そう微笑んだ隣から缶が差し出された。
「はい、湯原、」
渡された缶を見ると、オレンジ酎ハイだった。
もう午前3時半、朝に近い時刻だから酒が残る可能性が高い。
それでも今日の手塚の予定は大丈夫かな?そんな心配に周太は訊いてみた。
「手塚、今から呑んでも今日は大丈夫?俺は良いけど、」
「うん、今日は午後から図書館行くだけだからさ、」
答えながら隣に腰をおろすと、手塚はベッドに凭れて胡坐をかいた。
そして缶ビールのプルリングを引きながら、照れくさげに周太へ微笑んだ。
「飲みながら話させて、素面じゃちょっとね、」
寂しげで照れくさそうな雰囲気は、きっとハッピーエンドの話とは言えない。
こういう貌を自分は見たことがある、その日の記憶ごと周太はプルリングを引いて笑いかけた。
「ん、とことん飲んでいいよ?俺、出来るだけ付きあうから、」
「ありがとう、じゃあ追加で買いだしもアリな?」
愉しそうに手塚は笑うと、缶ビールに口を付けた。
同じよう缶酎ハイを啜ってオレンジの香に息をつく、その視界でテーブルに開いたパソコンの白い光が明るい。
スタンドライトとパソコンだけの明りにハスキーヴォイスとサックスが流れていく、そして明朗な声が穏やかに話しだした。
「俺の町は皆が知合いで、親戚関係も多いんだ。そいうの温かくって好きなんだけどさ、でも重荷になったことが1度だけあるんだ。
俺のほうが勝手に重荷にしちゃっただけで、周りは誰も悪くない。だけど、あのときの俺にとったら故郷が一瞬で、知らない世界になった、」
自分の故郷が、一瞬で知らない世界になる。
そう言った眼鏡の瞳は寂しげに微笑んで、ビールの缶に口付ける。
自分も一緒に缶酎ハイに口付けて、そっと友達を見守った先で声は続けた。
「俺んちって親戚が多くてさ、オヤジは4人兄弟の長男で、おふくろは3人兄妹の真中なんだ。イトコもいっぱいいて皆が兄弟みたいだよ。
俺には姉貴と兄貴がいるんだけど、10歳と5歳上でさ。だから一番齢が近い1コ上の従姉と仲が良かったんだ、高校も一緒のとこだった。
学年は1コ上だけど、ほんとは1ヶ月も違わないんだよ。俺が4月生まれで弥生が3月生まれだから、数日の差で学年が別れちゃったんだ、」
3月生まれの弥生、その名前から雪に咲く花を想わせる。
そんなイメージにふと気がついて、そっと周太は訊いてみた。
「ね、さっき手塚が話してた冬バラみたいな女の子って、弥生さんのこと?」
「当たり、やっぱ湯原は解かるんだな?」
素直に笑って認めてくれながら、書架のほうを手塚は見た。
その視線の先には花の写真集がある、さっき一緒に冬バラの写真を見ながら「こんな女の子がストライク」と手塚は笑っていた。
あのときの笑顔は明るかった、けれど今は寂しげな微笑が切なくて「弥生」に哀しい予兆が軋みだす。
そんな想いの隣で、明朗な声は優しいトーンで懐かしく微笑んだ。
「弥生はガキの頃から頭良くて美人でさ、でも運動神経ダメでドジなんだよ。そういうとこ可愛くって俺、弥生を守らなきゃって思ってた。
保育園は一緒に入ったんだ、でも小学校から1年先に弥生が学年進んでいくだろ?それで俺、いつも弥生が心配でおふくろに文句言ってた。
もうちょっと早く生んでくれてたら、弥生と一緒に学校に行けるのにって。だから追いかけて学校入ると、いつも登下校は一緒だったよ。
部活も弥生と一緒に美術部でさ、高校も弥生の行った進学校に追っかけてったよ。先輩って呼ぶの嫌で、学校では『あのさ』って呼んでた」
笑って話してくれる「あのさ」に、幼馴染で従姉の少女を守りたい少年の一途が瑞々しい。
そして差に気付く、光一と美代も幼馴染だけれど雰囲気が全く違う、この差に弥生と賢弥の色彩が顕れだす。
きっと「冬薔薇の女の子はストライク」なのだろうな?そう予想した隣で手塚は、綺麗に笑った。
「高校卒業して弥生、信州大の教育学部に進学して木曽を出たんだ。それで初めて気付いたよ、俺は弥生が好きだって恋愛を自覚したんだ。
いつも一緒だったから周りにカップルって言われてたけど、本気で好きだって離れて初めて解かったよ?居ないのが寂しくて気づいたんだ、」
離れて初めて気付く、そういう想いは解かる。
自分も卒業式の夜に初めて英二への感情に気がついた、きっと手塚の方が自分より寂しかったろう。
18年間を共に過ごした少年と少女が別れる、その哀切と訪れた恋の自覚がなにか愛しくて、微笑んだ周太に手塚も笑ってくれた。
「気がついたら俺、逢いたくってさ。模試を受けるのに便利だから、弥生のアパートに泊めてもらうって家族にも言って、逢いに行ったよ。
俺たち双子の兄妹みたいに仲良いから誰も止めなかった。俺もね、いとこ同士は結婚できるって思ってたから、ただ嬉しくて逢いに行った。
それで模試を受けてから弥生と待ち合わせして、長野の街を歩いて告白したんだ。それで恋人同士になれて、初めてキスしてデートしたよ、」
さらり言った言葉に、幸せそうに手塚が笑った。
その笑顔が少し照れくさげになって、けれど話してくれた。
「弥生も俺のこと、ずっと好きだったって言ってくれた。大学行くのに木曽を離れて、俺と離れるの辛かったって言ってさ。喜んでくれた。
弥生のアパートに行ったら本棚のとこ、俺との写真が飾ってあったんだ。それ見て俺、すごい嬉しくて幸せで、結婚しようって言ったよ。
俺が大学卒業して就職したら、すぐ結婚しようって約束したんだ。それを弥生、本当に喜んでくれた。それで夜、本当に恋人になったよ、」
照れくさげに笑って、けれど眼鏡の瞳から涙こぼれた。
いぶし銀のフレームから涙は頬伝う、それでも手塚は笑って想いを言葉に変えた。
「お互い、初めてだったんだ。でも俺は結構エロいから、耳学問の予習があってさ?おかげで弥生のこと、ちゃんと愛することが出来たよ。
初めてキスした日にもうエッチしちゃってさ、すっ飛ばし過ぎかなっても思うけど俺たちには自然だったよ、18年ずっと一緒だったから。
朝になって一緒に飯作って食べて、俺は模試に行ってさ。終わって待合せて、俺は木曽に帰る予定を翌朝に変えたんだ。離れたくなかった、」
離れたくなかった、その言葉にまた涙ひとつこぼれだす。
静かな涙を拭うことなく、やわらかに手塚は微笑んで続けた。
「その夜も幸せだった、ふたりで約束をいっぱいしたよ。俺も弥生と同じ信大に行こうって思ってた、そしたらずっと一緒にいられる。
同棲して、一緒に勉強して、一緒に学校の先生になろうって約束した。俺は林業とか興味あるから、理科の先生しながら研究するとかさ。
弥生は一人っ子の跡取り娘だから婿を取るんだ、俺は次男坊でちょうど良かったって笑ったよ。親とかに話すのは結婚する時っても決めた、
やっぱり親戚だし何だか恥ずかしくってさ?話す時は驚かれるね、なんて笑ったりして。そんな将来のことや、色んなこと二人で約束した、」
話してくれる約束は、幸福に充ちている。
それなのに全てが過去形で語られていくことに、ふたりの物語がどうなるか解かってしまう。
けれど何故?そう見つめた先でひとつ、大きく呼吸すると手塚が笑った。
「でも、全部ダメだったんだ。俺たちイトコ同士でも結婚出来ないんだ、俺たちの祖父母がイトコ同士で結婚してたから、血が濃すぎて」
笑った頬に、涙ひとすじ零れていく。
眼鏡の奥で笑った目は泣いて、それでも微笑んで手塚は話してくれた。
「俺のおふくろの妹が、弥生の母親なんだよ。母親たちの両親がイトコ同士で結婚したんだ、でも俺たち、そんなの知らなかったよ。
祖母さんは隣村から嫁に来たっていうのは知ってた、その母親が木曽の出身で祖父さんの叔母だったんだよ、そんなの知らないよな?
知ったのは盆に弥生が帰ってきた時だった、墓参りに皆で行って宴会してさ。そのとき弥生とふたりで話していたら、言われたんだよ、」
涙と一緒に缶ビールを啜りこむ。
ほっと息吐いて、すこし笑って明朗な声は微笑んだ。
「おまえたち見ていると祖父さんと祖母さんを思い出すな、ふたりもイトコ同士で仲良くて夫婦だったから。そう伯父さんが言ってさ?
おまえたちはイトコでも双子みたいに仲良しだな、母さん同士が血の濃い姉妹だから、おまえ達は姉弟同然で気が合いやすいのかな?
そう言って笑われて、初めて知ったんだ。もう母方の祖父母は亡くなっててさ、そんな話は聞いたことも無くて、信じられなかったよ。
だから俺、役場に行って戸籍を初めて取ったんだ。自分のと祖父母のと取って、それで納得したよ。本当に祖父さんたちイトコ同士だった」
言われただけではなく現実を見つめに行く。
ひたむきな賢弥の生真面目さが逞しい、そして哀しくて見つめる隣は涙と笑って口を開いた。
「その戸籍を弥生と見てから、ふたりで墓参りに行ったよ。それで祖父さんと祖母さんにだけ正直に話したんだ、俺たち恋人になったって。
でも諦めるって、ふたりで墓の前で約束したんだ。法律では俺たちは結婚出来る、でも遺伝学で言ったら危険すぎて、結婚出来ないって、」
法で許されても、赦されない結婚。
この哀しみは自分には解る、自分と英二のことを思えば他人事に出来ない。
そういう周太の想いを見つめるよう笑って、手塚は涙と言ってくれた。
「もしも子供が出来ないんなら、一緒にいる選択もあるよ?でも弥生は跡取り娘なんだ、子供は欲しいんだよ。だから別れた、」
明るく笑って眼鏡の向こうから、真直ぐな哀しみが見つめてくれる。
その眼差しが自分の今まで抱いていた「男女の恋人」への羨望を解かしていく。
…子供が出来るならって俺、なんども考えてきたけど、でも手塚は逆なんだ、子供が出来るから別れたんだ、
男と女の恋愛なら子供に恵まれ、もっと英二を幸福に出来た。
そう羨ましく思う気持ちはある、けれど手塚と弥生の恋に自分の羨望は贅沢だと気付かされる。
人と人が、ふたり寄添いあって生きることは、どんなにか偶然の顔した奇跡が詰まっているのだろう?
「あのとき俺、故郷が解からなくなったんだ。いちばん一緒にいた弥生といちばん遠くに離れることになって、全部解らなくなった。
皆が知合いで親戚同士で仲良くって良い町だって思ってた、でも、そういう町だから弥生と血の繋がりが濃くなりすぎて、離れてさ。
ずっと木曽の山も川も全部が単純に好きだった、その全てに弥生との想い出が笑ってくれるんだよ。それが辛くて俺、東大を受験したんだ。
東京に行けば木曽と違い過ぎて、気が紛れるって思ってさ?でも合コンとかしても俺、ちっとも彼女とか出来ないんだけどね。仕方ないかな、」
ふたり寄添い合えなかった哀切が、潔く笑って缶ビールを飲み干した。
その笑顔と話してくれた言葉たちに、手塚のスケッチブックに描かれた木曽の森に気付かされる。
あの森のスケッチがどうして、あんなにも鮮明に描かれ優しく美しいのか?
…故郷の森に大切な人を見つめて描いたんだ、逢いたいけどもう逢えない覚悟と、それでも大切な想いをこめて、
手塚の故郷の森に見つめる想い、そして植物図鑑の夢の意味が解る。
愛するけれど帰れない場所、帰りつけない人への想い、その全てを手塚は森林学の夢に託そうとする。
そういう想いは哀しい、けれど頼もしい明るさが眩しくて周太は笑いかけた。
「手塚って、かっこいいね、」
「ありがとな、でも俺、こんな泣いてかっこ悪いだろ?」
眼鏡を外し手の甲で顔を拭いて、素顔の手塚が笑ってくれる。
その笑顔が綺麗で、感じたまま素直に周太は笑って言葉にした。
「かっこいい泣き方だよ、潔くて綺麗で強くて。こういう手塚を好きになった弥生さんも、強く綺麗に生きる人だね?必ず幸せになれる人だよ、」
きっと、冬薔薇のよう凛とした女性だろう。
そんなイメージに重ならす都会の花園の俤に、手塚の想いが解かる気がする。
そんなふう考え廻らせ思ってしまう、やはり手塚と自分はどこか似ているかもしれない?そう微笑んだ隣で友達は笑ってくれた。
「うん、弥生は最高に綺麗だよ。きっと幸せになるよな。ありがとな、湯原、」
ありがとう、そう言ってくれる友達が嬉しい。そして出会えて良かったと思える。
今こうして一緒に過ごせることが嬉しくて、周太は綺麗に笑った。
「ん、想ったこと言っただけだよ?俺のほうこそ、ありがとうね、」
ありがとうと心から想う、今、気付かせて貰えたから。
英二と自分は同性で、違う世界に夢を見て、本来なら結婚するのは難しい。
それでも寄添いあうことを選択できる、その幸せを気づかせて貰えたことが、ただ嬉しい。
そして心から願う、この真摯な友人とその想い人に、どうか其々に幸せな日々が訪れてほしい。
夜通しの酒と話に明けた朝は、眩しかった。
あざやかな青空と歩く道、街路樹きらめく木洩陽は名残らす徹夜の昂揚に心地良い。
日曜早朝の静かな改札を抜けて電車に座り、Ipodの曲に微睡みながら懐かしい駅へと着く。
いつものスーパーで買物をして、朝陽ふる住宅街の道を歩き、古い木造門の扉を開いて庭に入る。
ふわり、頬撫でる夏木立の透明な香に周太は幸せな想いと笑いかけた。
「ただいま、みんな綺麗だね?」
ひとり佇んだ庭の森は今、夏の朝にと空へ精一杯の花を開かせる。
濃やかな緑に繁らす森は朝露を名残らせて、きらめく夏の想いを映す雫こぼした。
「ん、…布団干して、掃除しよう、」
独りごと幸せに微笑んで周太は鍵を出し、玄関の扉を開いた。
【歌詞引用:STING「Englishman In New York」】
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