萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第85.5話 祈望に春は―P.S ext,side story「陽はまた昇る」

2017-10-12 21:53:21 | 陽はまた昇るP.S
REAL―現実になるのなら、
美幸51歳・周太24歳3月下旬


第85.5話 祈望に春は―P.S ext,side story「陽はまた昇る」

繰り返す物語、そんな現実すこし疲れた。
そうして息子に恋が訪れる、前とは違う未来ある戀。

「美幸さん、お仕事のめどついたかしら?」

やわらかなノックふたつ、深いアルト呼んでくれる。
呼ばれた指キーボート停まって、呼吸ひとつ微笑んだ。

「いま休憩しようと思ってました、おばさま何か?」
「おいしいお菓子を買ってきたの、テラスでお茶はいかが?」

朗らかにアルトが微笑む、この声いつも懐かしくなる。
それだけ「血は争えない」?いつもの疑問とデスクを立った。

「ありがとうございます、ちょうど甘いもの欲しかったんです、」
「じゃあよかった、いらっしゃいな?」

アルトが笑って足音そっと遠のく。
おだやかに落ち着いた音、でも気遣いが見える。

「…周太のこと、よね?」

ため息ひとつ微笑んで、さあどうしよう?

―美代ちゃんと英二くんのどっちってことよね、さて?

息子の恋の行方、それが叔母の関心事だろう?
自分も他人事にしていられない、そんな現実とひらいた扉つい振りむいた。

「馨さん、どう思う…?」

あなた、あなたなら何を願いますか?

そうやって訊けたらいい、現実の今このときに。
けれど死んでしまった声は聴けない、この孤独に微笑んでテラスに出た。

「は…、」

深呼吸ひとつ風があまい、潮と花の香。
かすかに辛い甘い潮風、馥郁あまやかな春の花、海をながめる陽だまりのテラス。
ウッドデッキあふれる緑、花の香、のどやかな犬のあくび、そんな平和の王国に女主人が呼んだ。

「いらっしゃい美幸さん、紅茶とコーヒーどちらがいいかしら?」

朗らかなアルト、ほら、世界はこんなに明るい。

「紅茶でお願いします、お花の香のでもいいですか?」
「マルコ・ポーロね、私もそれにするわ、」

深いアルトが花に笑う、紫に白に三色すみれ揺れる。
あわく濃く高雅な香、ヴィオラの匂い、あなたの声。

―…ヴィオラは香るんだ、すみれらしいって僕は想う…な、

深い穏やかな、ちょっと自信がない声。
けれど優しくて包まれていたかった、あの春にずっと。

「美幸さん?どうしたの、」

あ、呼ばれた、またぼんやりしてしまった?

「ヴィオラかわいいなって見てました、おばさまと菫さんだけで手入れされるんでしょう?」

なにげなく答えて、ほら?あなたの知らない私。
こんなふう器用だなんて気づいてもいなかった、そんな遠い若さに微笑んだ。

「うちでも周太が庭をきれいにしてくれるんです、そういうとこ馨さんとそっくりで、」

あなたを語る、恋しくて。
こんなふう声にすることもできなかった、恋しすぎて前は。
それでも微笑んで名前を呼べる相手の手、ことん、ティーポット置いて笑った。

「そうね、私も馨くんの面影よく見ちゃうわ?ちょっとした仕草とかね、」

もう皺のある笑顔、けれど白皙なめらかに美しいひと。
その切長い瞳こそ「面影」見えて、慕わしさ笑いかけた。

「あら、叔母さまもそう見えます?」
「そう見ちゃうわよ?さあ座って、どうぞ?」

切長い瞳やわらかに笑う、ほら?あなたの面影。

―…座って美幸さん、どうぞ?

ほら、幸せの面影が映る。

あのころ当たり前だった笑顔、でも消えてしまった。
それでも血縁やわらかに彼女が笑う、そんな瞳の前ガーデンソファに座った。

「ベリーたっぷりのガトーショコラですって、ほろにが甘酸っぱくておすすめだそうよ?苺やいろいろ焼きこんであるみたい、」

アルトが笑って皿を出す、その言葉なんだか不思議だ?
つい笑った茶話会のテーブル、美しい瞳が笑った。

「あら?ころころ笑い転げて、こんなオバアサンでも楽しませてる?」
「ケーキの説明が、なんだか楽しくて、」

笑ながらティーカップ口つけて、花が甘い。
あまやかな芳香やさしい湯気、おだやかな青空に笑いかけた。

「おばさま?英二くんと、美代ちゃんと周太のこと話したいのでしょう?」

単刀直入、そんな話し方で今はいい。
それだけ近しくなった相手は濃やかな睫ゆっくり瞬き、微笑んだ。

「ええ、美幸さんはどちらが幸せだと思う?」

華やかな笑顔まっすぐ問いかける、こんなところは似ていない。
それとも似ているだろうか、あなたは大切な話だとそうだった。

「美幸さん?どうしたの?」

呼ばれて引き戻される、ああ、今はあなたの叔母と話していたんだ?
そんな血縁くゆらす不思議に笑いかけた。

「おばさまが今、馨さんとダブって見えたんです。馨さんに質問されているみたいで、」

あなたなら、なんて答えるのだろう?
たどりたくなる想いの真中、面影の瞳そっと笑った。

「馨くんを私に、ね…かなしいのに、幸せな感じするわ?」

切長い瞳やわらかに笑う、ほら?こんな貌よく似ている。
やさしい深い憂い顔、なつかしい花香る貌が自分を見た。

「ねえ、美幸さん…馨くんなら周太くんのお相手、どう考えるかしら?」

どうするだろう、あなた?

―きっと困ったように笑うわ、すごく優しい貌で…そうでしょう?

深く、ふかく鼓動まどろむ貌に訊く。
そうして確かめる想い問い返した。

「おばさま?お義母さまなら、斗貴子さんならどう考えますか?」

あなたの母親、それならきっと?
たどる予想に切長い瞳は瞬きひとつ笑った。

「あら?いい質問返しされちゃったわ、でも、そうよねえ?」

納得だわ?

そんな視線が笑いだす、切長い瞳まどやかに明るむ。
もう気づいてくれたのだろう?そんな聡い瞳へテーブルの上、春の菓子を指した。

「そうですよ?今はとにかく、ほろにが甘酸っぱいを食べましょう?」
「そうよ、せっかくのケーキが風で乾いちゃう、」

濃やかな睫やわらぐ、美しい瞳ほがらかに笑う。
どこまでも華やかな貌は齢にもきれいで、紅茶あまやかな香に温かい。

こんな会話ほっとする、愛しい未来に祈りながら。


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堕天使の盃―P.S ext.side story「陽はまた昇る」

2017-10-05 00:54:00 | 陽はまた昇るP.S
like Adamant
第84話 整音×side ext.Horiuchi


堕天使の盃―P.S ext.side story「陽はまた昇る」

まばゆい夜、そんな男だ。

「それなら山と同じです、山は自己責任ですから、」

不思議な言葉だ、それにこの声。
低く徹って沁みてとけこむ、惹く。

「なあ英二くん、なぜそこまで山に懸ける?」

問いかけて酒が薫る、あまい美酒。
あさい春三月の月が照る、ゆるやかな静謐しずむ庭。
そんな夜の縁側で青年が見つめる、この瞳に訊きたい。

「どうしても友達に山を登らせたいってな、そのために輪倉さんは土下座したんだろう?あんなこと官房審議官に就くような人間は普通しない、」

問いかける唇に酒が薫る、そして馥郁。
もう咲いてしまった夜に白皙まばゆい、その眼に訊きたい。

「なにかの罠とも思ったが嘘の眼じゃなかった。それだけ懸けたい何かが山にあるんだろうが、私にはよく解らんよ?」

問いかけに瞳が微笑む、切長い端整な眼。
この眼あの男と似ている、けれど違う視線が惹きこむ。

―きれいな子だとは思っていたが、なんだろう…宮田先生と似ている、けど違う?

青年の祖父をよく知っている、自分の恩師で上司だった。
その面影くゆらす白皙の端整、誰が見ても「美しい青年」だろう、でも違う。

「…、」

端整な唇が微笑む、盃ふくむ。
酒ふくらかな香たつ、その口もと無言に笑う。

『うまいな、』

声はない、けれど響く。
なにも彼は言っていない、それなのに伝わる。

―この感じ似ているんだ先生と、でも違う…顔立ちの問題じゃない、

無言でも意思がひびく、そんな男の孫。
月明り映える鼻梁まばゆい白皙、夜風つやめく濃茶の髪。
胡坐くんだ脚のびやかに長くて、自分と同じ種族とも想えない。

―宮田先生も脚長くてかっこよかったな、でも…英二くんと先生は似て、違う?

その姿は面影がある、その横顔どこか懐かしくて、でもそれだけじゃない。
いま隣にいるのは「美しい男」そういうのだろう、でもそれだけじゃない?

「山はすべてが自己責任です、」

端整な唇がひらく、またこの声だ。

「山はすべてが自己責任です。自分の責任をとることが正義なら、山も正義なのかもしれませんよ?」

山、自己責任、不思議な言葉だ。
それを正義だと声は言う、甘い馥郁とそれから土の匂い。
唇かすめる風あわく樹肌が香る、花におう、その静かな微笑が唇ひらく。

「たとえば司法の正義は人間が作ったものです、でも山は人間が作ったものじゃありません、」

ああ、そういう世界で生きているのか?
それが「違う」のだろうか?

「そういう山に自分の責任と登っています、」

端整な唇が笑う、きれいだ。
こんなふうに恩師も笑っていた、でも違う言葉に問いかけた。

「山も正義か、復讐も正義になり得るってことかい?」

声にする、その言葉に鼓動がうつ。
この言葉が「違う」のだろう、その瞳がきれいに笑った。

「解りません、ただ俺は花を見せたいだけです、」

花、ああ、まただ。

また「違う」のだと告げてくる、似て非なる相違の翳。
この忘れ形見はある意味で残酷だ、そして惹きこむ聲に問いかけた。

「花、誰にどんな花を?」

あのひとは真紅の花、その聲が忘れられない。
この青年は誰に、どうして、どんな花をなぜ?

「世界でそこだけに咲く花を、唯ひとりに、」

低く響く声、徹って沁みて、鼓動とけこむ。
あのひともこんな声だった、けれど違う詞。

「世界で唯一の花を、唯一人に…、」

言葉なぞらされる、そんな自分を見つめてくる瞳。
睫ふかい翳から視線まばゆい、眩暈ひきこまれる。

「さぞ美しいのだろうね?その花も、その人も、」

声やっと応える、この顔きちんと笑っているだろう。
けれど鼓動が波うつ、泡だって渦は兆して、盃ごし聲を見る。

―これだけ美青年だと「唯ひとり」想われる相手も、なんだかプレッシャーだろうな?

こんな孫に恩師は何想うだろう?
めぐらす想いに青年が笑った。

「堀内さんは気になりますか?俺の相手のこと、」
「気になるよ、尊敬する人の孫なんだから、」

素直に笑って、自分の言葉になつかしい。
あの恩師も今ここにいるだろうか、そんな想像と口ひらいた。

「英二くんは美形だろう?普通の女性では難しそうだと思ってね、女性は自分より美しい人の隣は嫌がるだろう?」

自分より美しい者の隣に立ちたくない、

それが女の性だ、それくらい自分でもこの齢になればわかる。
そんな心配させる白皙の青年は端整な瞳さわやかに笑った。

「その心配はいりません、嫌いだから、」
「嫌い?」

訊き返しすぐ考える、何を「嫌い」なのだろう?
その答えを切長い瞳あざやかに笑った。

「見た目にこだわる女は嫌いです、殺されますよ?」

かすかな馥郁あまい、けれど言葉は違う。
そんな声に酒ひとくち、啜って尋ねた。

「現役の警察官が言うには物騒だな、まずいだろう?」

司法にたずさわる、その立場は自分も彼も同じ。
けれど若き警察官は笑った。

「警官としては言いません、堀内さんも知ってることです、」

ああ、そうか?その「違う」だ。

「もう一人の祖父殿がゆるさんか、」

あの男はゆるさない、それが「当然」なのだろう。
そんな噂しずかな男の孫はきれいに笑った。

「もう殺しているかもしれません、誰も知らなくても、」

誰も知らない、それは「ない」と同じだ。

―やりかねないな、あの男は…その孫でもある、か、

二人の祖父、そのはざまに生きている。
そんな青年の瞳は穏やかに笑って、そして淵がある。
この淵に惹きこまれてしまうのだろうか?想いながら、口ひらいた。

「それでも唯一人、花を捧げたい相手が英二くんにはいるんだろう?彼女は祖父殿のおめがねクリアしたのかい?」

もし「クリア」できなければ?
その先にある暗澹と酒すすった盃、低い綺麗な声が言った。

「クリアしたと思いますよ?彼女ではないから、」

酒ゆれて、月が映る。

「…ぉ?」

盃ゆれる月まぶしい、その光ゆっくり言葉を見つめる。
いま隣に酒かたむける白皙の端整、その微笑んだ瞳しずかに美しい。

「絶対に花を見せます、約束したんです、」

うつくしい、眩暈がする。



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P.S 雪郷山籠act.2―P.S ext.side story「陽はまた昇る」

2014-10-10 22:10:10 | 陽はまた昇るP.S
雪の夢、現
side story第78‐79話の幕間@黒木サイド



P.S 雪郷山籠act.2―P.S ext.side story「陽はまた昇る」

浮上した視界、ゆっくり天井が白く映りこむ。

もう明るい色彩に時刻が解かる、たぶん7時前だろう?
こんな時間に目覚めるなんて久しぶりで、だから要は思いだした。

「…きょぉぁぅぃぁ、な?」

今日は休みだったな?

そう言ったつもりが発声がおかしい、けれど昨日よりマシだ。
体もいくらか軽くなった、これなら熱も下がっているだろう。
そんな期待と起きあがったベッドの向う、がたり扉が開いた。

「ぁ?」

なんで扉が開くのだろう施錠したはずなのに?
いぶかしく見つめたまま開かれた影、さらり雪白の笑顔が現れた。

「おはよ黒木、調子どうかね?」

だからなんでこのひとがくる?

「ぅぃむぁぁんっぅぁんでぁぎあぇてんでぅかっ?!」

国村さんなんで鍵開けてるんですか?

って言ったつもりなのに声やっぱり変で言葉にならない。
それでも昨日よりは通じるだろう?そんな期待に秀麗な笑顔は言った。

「あははっ、ホントひどい声だね?宮田が言ってた通りだよ、黒木は明日も代休取得しな、小隊長命令だからね?」

命令されてしまった、でもこちらの発言への返事は無い。
発声が悪くて通じないのだろうか、それともワザと無視されている?
そんな思案しながらも状況に混乱させられてしまう、けれど夢を見ていなくて良かった。

―あの夢の直後だったらさすがにちょっとな?

昨日は見てしまった雪山の夢、あの笑顔そっくりな顔がベッド近くに立っている。
だけど現実の「これ」は男で上司でファイナリストにもなれるクライマーだ、あの夢の人じゃない。
その認識させたくて頭いつもの仕草に振って、ぐらり目眩が座りこんだままベッドよろけた。

「っぅ、」

しまった熱あるのに頭振るなんて?
後悔ごとベッドに手をついて体支える、でも自分で腹が立つ。
こんな弱っている醜態なんか見せてしまった、そのプライドに額へ白い手が触れた。

「ぅあっ!?」

叫んで避けて白い手に固まらされる、だって今この手に触られた。
そんな認識すぐ逆上せだす、そして自分で情けなくなる。

―なんだって男に触られてアがるんだよ俺、夢と混濁してんじゃねえよ?

独り声なく毒づきながら困る、今きっと変に想われたろう?
けれど白い手の持ち主は底抜けに明るい目で笑った。

「やっぱまだ熱あるね、だのに頭ふっちゃダメだよ黒木、それくらい救急法で知ってるだろが、」

ああ今なんかダメ救助隊員って罵られてる?

こんな自分が不甲斐ない、なんだって今こんなに調子狂うのだろう?
その元凶はもう片方の手を伸ばして、ことん、ペットボトル2本置いてくれた。

「水分きっちり摂って寝ときな?飯食えそうなら持ってきてやるけどね、ちっと喉見せてみな?あーんって、」

それはお願いです勘弁して?

そう言いたいけど声また変だろう、そして通じない。
または敢えて無視される、そんな予想に口の前で両手クロスさせ謝絶した。

―今ほんと近づかないでくれよ国村さん、なんか調子狂っちまう、

ほんとに今は近づかないでほしい、喉見せるなんてトンデモナイ。
そんな意志表示したのに雪白やさしい笑顔は強硬に微笑んだ。

「ほら手をどけな?上司が直々に診てやろうって言ってるんだよ、黒木は命令違反しちまうツモリ?」

だからその言い回しホント卑怯だ?
そう言いたいけど言えない、ただ追い詰められるベッドに笑顔が腰下した。

「ほら遠慮するなって、喉の具合で食える飯も変わるだろ?だから診せなって、」
「っぇんぃぉぃますっ」

遠慮します、

即答に声押しだして、けれど言葉になってくれない。
これだと解釈また勝手されるだろうか?そんな心配の向こう低い綺麗な声が笑った。

「おはようございます黒木さん、昨夜は国村さんと一緒に寝たんですか?」

それは誤解だ酷すぎるだろ?

「っみぁたっそぇはごぁぃぁっ、ぉまぇこぉあさがぇぃぁっ?」

弁明の声あげて、けれど声また言葉になってくれない。
それでもこの男なら汲んでくれるだろう?そんな期待に白皙の端整な笑顔は言った。

「誤解じゃなくて冗談ですよ?俺は朝帰りで正解ですけどね。国村さん、今日の訓練のルートを確認したいので来て下さい、」

ああホントこの男は頼りになるな?



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P.S 雪郷山籠―P.S ext.side story「陽はまた昇る」

2014-09-03 01:15:05 | 陽はまた昇るP.S
雪の記憶に
side story第78話「冬暁act.2」黒木サイド



P.S 雪郷山籠―P.S ext.side story「陽はまた昇る」

雪、白い空から降ってくる。

真白おおらかな空から雪ふってくる、これは空の欠片だ。
ひらひら雪舞うごと背中じわり冷えてゆく、もう凍えてしまうかもしれない。
それでも見あげる白銀から視線が離れない、そんな視界すぐ気がつかされて要は寝返りうった。

―まずい俺すぐ起きろ、起き上がれ夢だ、

すぐ起きろ起きあがれ、そう自分に命じても目覚めない。
こんなこと困ってしまう、だってこの夢は次の展開がマズイと知っている。

―お願いだから俺起きろってば、ぜっ、たいにマズイダメだ、

ひたすら念じても目覚めない雪空は白銀まばゆい。
この空になればもうじき現れてしまう、ほら、子供の自分が雪の河原に起きあがる。

―…落っこちたんだ俺、

子供の自分が思案して雪の河原から尾根を見あげる。
こうなったらもう次のシーン出てしまう、それは4ヶ月前まで幸せだった。
けれど今は困る、だって次に出てくる貌は今もう毎日見ていて、だから止めたい願いに呼ばれた。

「黒木さん?」

ほら、自分を呼んでいる。

「宮田です、有休の申請書を持ってきたので開けて下さい、」

ノック2回、そして綺麗な低い声が呼びかける。
この音と声に睫ゆっくり上げられて視界は披く、そして見あげた天井に要は笑った。

「は…ぇーぅ、」

セーフ、って言ったつもりが声やっぱり出ない。

こんなに酷い風邪は久しぶりだ、あのとき以来だろう?
あの雪から今ちょうど23年が経つ、けれど雪山に見あげた笑顔は忘れられない。

『あ、泣いてないね?泣かないのカッコいいわ、』

やわらかに澄んだ声で笑って白い手さしのべてくれた。
長い黒髪ゆれて雪風に舞う、あの雪白まばゆい笑顔は人だった、たぶん。

―人間にしては神々しかったよな、雪女っていうより女神で、

遠い雪山の記憶なぞりながらベッドから立ち上がる。
くらり、体傾きかけて熱の度合い自覚させられる、たぶん38度を下がらない。
こんな高熱も23年ぶりで懐かしいと思ってしまう、そんな意識何だか可笑しいまま扉開いた。

かちり、かたん、

開かれた廊下に白皙の笑顔がこちら見る。
この笑顔に今も救われてしまった、そう納得するから素直に言った。

「…ぅぁん、」

すまん、すら今は言えないんだ?

こんな自分の声帯が物珍しい、だって23年ぶりだ。
そんな思案の真中で端正な笑顔が書類封筒とコンビニ袋を示し笑いかけた。

「ほんと声が出ませんね?申請書の提出も俺が行きます、引継ぎも伺いたいのでお邪魔して良いですか?」

言われた言葉に首傾げさせられる、だって今日この男は休みだろう?
いつも憶える同僚たちの予定表たどり訊いてみた。

「ん…ぃぁた、ぁぅぃぁぉ?」

宮田、休みだろ?
そう尋ねたつもりが声やはり言葉にならない。
それでも同僚で後輩はレポート用紙を見せ応えてくれた。

「休みですけど、国村さんに引継ぎのメモ入れてから出ます。そんな顔と声じゃ黒木さんも小隊長の前に行けないでしょう?うつしたら大変だし、」

だから今その名前を言うなって?

「ぃぁたっ、んぁぉとぅぅぁぇぁぃぁぉっ…ぅごほっ、ごほほんっ!」

宮田、そんなことするわけないだろう?

そう言ったのにやっぱり言葉にならず咳だけ音になる、こんな不自由は困ってしまう。
これでは誤解おかしなことになる、もう誤解されているかもしれない?ただ困惑と高熱の混乱に端正な笑顔は言った。

「そんなことするわけ無くても風邪はうつりますよ?インフルエンザかもしれないですしね、とりあえず部屋に入りますよ?」

綺麗な笑顔が部屋に踏みこんでくる、その空気どこか貫禄が厚い。
まだ24歳で自分より6歳下、それなのに老練だと想わせる男が微笑んだ。

「黒木さん本が好きなんですね、似合います、」

なんで似合うんだろう?
そう訊きたい相手は端正な切長の瞳を書棚へなぞらせる。
穏やかな眼差しは本が好きそうで、また少し親近感を見つめた前に有給休暇の申請書とレポート用紙さし出してくれた。

「欠勤ではなく有休でと国村さんから伝言です、差入はスポーツドリンクが国村さんからで食糧は浦部さんと高田さんからです、岡田さんも昼に来ます。
あと診察室は行かれましたか?インフルエンザなら5日間は自室待機ですから届を出します、解熱しても2日はダメです、ウィルスの排出期間はNGですよ?」

説明しながらペットボトル窓際に並べてくれる。
こうすればガラスを透かす外気に冷たさを保ちやすい、そんな気遣いに渡されたレポート用紙へペン走らせた。

“ 急性扁桃腺炎だ、薬もらって来た、今日明日寝れば治る、 ”

朝一で診察室に行ったきた、だから心配はいらない。
そう伝えたメモに綺麗な低い声は笑って釘刺してくれた。

「扁桃腺炎なら2日で大体治るでしょうね、でも薬や治療を途中で辞めると慢性化しますよ?無理せず体を休めて下さいね、」

今やっぱり見透かされたろうか?
そんなお見通しは多分「同類」だからだろう、そんな堅物は止め言ってくれた。

「今日は俺も休みで不在です、もし無理して業務に就けば部屋に運びこんで看病するのは国村さんでしょうね?小隊長の責任とか言って、」

だからその名前だされると熱高くなるのに?
こんな繰り返しに気づかされる、この男は結構Sだ。

―こいつ俺が「あのひと」に意識してんの解かって言ってんだよな、でも半分は誤解だってば、

ほんと誤解されている、そう訊くことも誤解また生みそうだ?
まず説明して解ってもらえる自信が無い、だから口噤んだまま引継ぎ事項にペン走らせる。

だって女神に逢った、なんてこの優秀堅物な実務男には笑われるだけだ?



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第66.5話 陽溜―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

2013-07-26 22:39:09 | 陽はまた昇るP.S
Fantasy―諦めかけた願いを、今



第66.5話 陽溜―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

水曜日、終業定時の空はまだ明るい。

それでも9月の空は秋の初め、きっと次に窓を見る時は夕暮れになる。
今ごろ息子たちは調布の空で何をしているだろう、訓練に汗を流している?
どうか怪我など無いようにと祈り微笑んだデスク、明るいトーンに笑いかけられた。

「湯原課長、今日ってお時間ありますか?」
「はい?」

話しかけられて振向いた先、デスクを片づけながら青年達が笑いかけてくれる。
今日は早く帰ろう、そんな楽しげな空気に美幸は笑って答えた。

「この報告書が終われば自由ですけど、」
「じゃあ良かったら飲み行きませんか?俺と松山と花田さんってメンバーなんですけど、」

楽しそうに誘ってくれる笑顔は、本当に話したそうでいる。
こういう付合いも課長職になればあるだろう、美幸は笑って頷いた。

「一時間くらい遅れて良いなら途中参加させてくれますか?ただし、お財布をあんまりアテにされちゃうと困るけど、」
「はい、いつもお話してる安いトコですから大丈夫です。これ店の地図です、」

楽しげにワイシャツ姿が手渡してくれる。
受けとって笑いかけた先、すっきりした纏め髪の笑顔が尋ねてくれた。

「課長、お手伝い出来ることありますか?報告書のデータ検算とかあれば残ります、その方が早く一緒に飲めますし、」

訊いてくれるソプラノの声は何か物言いたげでいる。
彼女がいちばん話したいことがあるのかもしれない、そんな様子に美幸は微笑んだ。

「じゃあ遠慮なく花田さんにサポートお願いしようかな、早帰り日なのに申し訳ないけど良いですか?」
「はいっ、お願いします、按分率のチェックからで宜しいでしょうか、」

嬉しそうに笑顔ほころんでノートパソコンを開いてくれる。
やるべき仕事も見当つけられる俊敏さが彼女は良い、そんな部下の能力に微笑んで美幸は資料を手渡した。

「はい、それでお願いします。これが各支店の集計です、今日のメールで送られた最終データと差が無いかチェックお願い出来ますか?」
「はい、15分でやります、」

終了時間を告知して花田はパソコンに向きあった。
もう資料を捲りながら画面を開きだす、そんな同僚に青年二人も美幸に訊いてくれた。

「湯原課長、俺たちもお手伝い出来ることありますか?」
「ありがとう、もう大丈夫です。花田さんとなら40分で片づけて追いかけられるから、滝川さんたちは先に良い席をとっておいて?」

この後の時間についてお願いしておく、そうすれば青年たちは先に出やすいだろう。
そう考えて笑いかけた先、若い笑顔ふたつ頷いてくれるとオフィスを退出して行った。
他のデスクも退勤してゆく中パソコンと向きあい花田と進める、そして17時半すぎメール送信して終わった。

「お疲れさま、花田さん。ちょっと缶コーヒー飲んでいかない?お礼にご馳走させて、」

話したいことがあるなら今この時間に話せるだろう。
そんな思案と笑いかけた美幸に花田は嬉しそうに頷いてくれた。

「はい、遠慮なくご馳走になります、」
「じゃあ鞄も持って行きましょうか、ここも戸締りして、」

笑いかけビジネスバッグを抽斗から出す部屋は、もう自分たち以外に誰もいない。
そして窓のブルーは夕暮れ染まりだす、けれど思ったより明るい空は嬉しくなる。

―まだ周太も英二くんも30分くらい集中時間ね、私はお先に仕事終わっちゃうけど、でもこれからかな?

同じ東京の空の下、息子たちを想い自分の今日これからを考える。
そんな想い微笑んで廊下を歩き出した隣、遠慮がちなソプラノの声が訊いてきた。

「あの、湯原課長って一度、寿退社されてから復職されたんですよね?」

訊かれた質問に、花田の聴きたいことが見当つけられる。
きっとこういう事かな?予想つけながら美幸は総合職4年目の後輩に微笑んだ。

「はい、復職しました。予定より4年早かったし昇進するつもりも無かったけど、元から復職する予定はしていたの、」
「そういうの普通は難しいって伺いました、課長はどうやって今みたいになれたんですか?」

訊いてくれる笑顔は真剣な眼差しでいる。
女性の総合職なら結婚と仕事の両立は悩む、それは自分も通った道だから知っている。
こういう相談は乗ってあげたい、そんな想いに美幸は休憩スペースで鞄置きながら微笑んだ。

「私を今みたいにしたのはね、ぶっちゃけると息子よ?」
「え、」

意外だ、そんな瞳が見つめてくる。
そんな表情が楽しくて笑って美幸は自販機へ踵返し、コーヒーふたつ買うとカフェテーブルに戻った。

「花田さん、冷たいカフェオレで当たりかな?」
「はい、私の好みご存知だったんですか?」

また驚いたよう訊いて笑ってくれる、こんな素直な反応ひとつずつが楽しい。
いま26歳の彼女は4年目以上の仕事をこなす、けれど一人の女性として素直に瑞々しい。
こういう心を失くさないでほしい、そんな願いに笑った美幸に花田は尋ねてくれた。

「あの、息子さんが湯原課長を今みたいにしたって、どういう意味ですか?」

周太がお腹に入ってくれたからなのよ?

そう応えかけて、けれど出来ちゃった結婚を正直に告白だなんて今の立場では駄目かもしれない?
それでも自分にとって大切な真実だから誤魔化したくない、それなら正直に何と言えば良い?
考えながらブラックコーヒーのプルリング引いた時、パンツスーツのポケットが振動した。

―まだ終業前なのに、周太?英二くん?

息子たちを想い一瞬竦んだ心が、14年前の春にフラッシュバックする。
あの夜は夫からの電話だと思って受話器を取った、けれど、違う声から告げられたのは幸福の終わりだった。
あの一本の電話で潰えたのは、最愛の恋人の生命と約束と、そして息子の笑顔が夢に生きてほしい願い。
あのとき見つめた絶望は今も電話ひとつに思い出す、けれど開いた電話の画面に美幸は微笑んだ。

「噂の息子から電話が来たわ、ちょっと話してきても良い?」
「はい、どうぞ、」

明朗な笑顔が勧めてくれるのに微笑んで美幸は席を立ち、明るい窓際で通話を繋いだ。
見あげる空は青色やわらかくなる、この空に繋がる息子が電話の向こう笑ってくれた。

「おつかれさま、お母さん…まだ会社にいるの?」

いつも通り穏やかなトーン、けれど何だか羞みが明るい。
きっと良い報せを話してくれる、そんな様子に竦み解けて美幸は笑いかけた。

「はい、会社で缶コーヒー飲んでるとこよ、周は?」
「ん、今日は非番でトレーニングだけなの…だからお母さんの仕事が終わるかなって思って今、架けて、」

今日は非番、そう教えられて安堵が納得する。
前とは違う息子の勤務形態に慣れていない、そんな自分に微笑んだ向こう息子は教えてくれた。

「あのね、俺、大学の研究生にならないかってお話もらったの、森林学とフランス文学の研究室と掛持ちでね、授業料は免除なんだ、」

一息で話してくれる言葉に、懐かしい笑顔が心を占めてゆく。
もう14年前に消えてしまった大好きな声が笑う、その記憶見つめて美幸は微笑んだ。

「フランス文学の研究室って、お祖父さんとお祖母さんが居た所でしょう?周、このあいだ翻訳のお手伝いしたって話してくれた、」
「ん、そうなの。お祖父さんの本をくれた田嶋先生のこと話したよね、お父さんの友達の。その田嶋先生がお話勧めてくれたんだけど、」

羞んでいる息子の声に、最愛の人の軌跡が垣間見える。
夫は出逢う前のことは殆ど話してくれなかった、けれど今、夫の俤がこうして教えてくれる。
そして夫と願った宝物の未来が今ようやく姿を顕わす、その瞬間へ美幸は心いっぱい笑いかけた。

「文学部の研究室と掛持ちするなんて、やっぱり周はお父さん達から良いもの沢山もらってるのね?」

夫のことは何も知らない、けれど夫の真実なら自分は知っている。
夫の両親の事も友達も、出身大学も職務も何も知らなくて、けれど夫の心と願いは知っている。
そして何を幸福だと笑ってくれるのかも知っている、その想い笑った向こう宝物も笑ってくれた。

「お母さん、俺が研究生になりたいって思ってること、もう解かるんだね?」
「はい、解かります。もう英二くんにも話したんでしょう?」

即答で問いかけた電話、気恥ずかしげな空気が伝わらす。
こんなふう恥ずかしがりの息子は年齢より幼くて、それが愛しくて心配な想いに羞んだ声が明確に応えてくれた。

「…ん、英二に話したよ?お話もらってから3日考えて、やっぱり勉強したいからって決めてお母さんに電話したんだ、」

やっぱり勉強したい、

この言葉を夫は喜んでいる、きっとその両親も笑ってくれる。
そして自分も嬉しくて幸せで見あげた空は、あわい茜雲が輝き初めてゆく。

―馨さん、周太は学者になるかもしれないわ、あなたが願っていたように樹医になって、文学を愛して、

心に呼びかける先、冬の陽に佇んだ幸福な時間から笑顔が応える。
もう15年前になる冬の休日の陽だまり、あまいココアの香と新聞紙のインクの香。
それから綺麗な笑顔に輝いた涙ひとつ、果てない願いと愛情に輝いて今も自分の心に生きている。

『周、きっと立派な樹医になれるよ?本当に自分が好きなこと、大切なことを忘れたらダメだよ?…諦めないで夢を叶えるんだよ、』

懐かしい愛しい声が記憶から笑ってくれる、そして諦めかけた夢が息づく瞬間を今、ここで生きて見ている。









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Introduction 水無月の青―「此花咲く」side P.S extra

2013-06-22 23:15:50 | 陽はまた昇るP.S
Innocent blue 花に眠る君へ、



Introduction 水無月の青―「此花咲く」side P.S extra

空が青いことを、忘れていたかもしれない。

青空の視界に遥か連なる山は蒼い。
山嶺は麓に渓谷を奔らす、その川も碧い。
木洩陽の梢も青、いま立つ道も叢蒼く匂いたつ。
香から見る全てブルーがある、この風光に美幸は笑った。

「ね、馨さん?世界はこんなに青かったのね、」

笑った隣、木洩陽やわらかな癖っ毛が振り向いてくれる。
あわい日焼けに切長い瞳ほころばせ穏やかな声が微笑んだ。

「はい、こんなに青いです…世界は青いなんて詩的ですね、」

詩的だなんて言われたら、なんだか気恥ずかしい。
こんなこと不慣れで戸惑う、けれど楽しいかもしれない。

―この私が詩的だなんて、倫子に聞かれたら笑われそうね?

会社の同期を思うと可笑しくて笑いたくなる。
職場の姿を知る彼女からしたら別解釈したいだろう。
そんな想像に笑った美幸に、やわらかな深い声が尋ねた。

「美幸さんは詩とか好きなんですか?」
「詩はあんまり読んだこと無いの、小説とかも読んでいなくて、」

答えながら少し恥ずかしくなってしまう。
この青年が住む書斎には立派な本が端正に並ぶ。
そんな彼に読書経験を告げるのは恥ずかしい、けれど美幸は正直に笑った。

「私が読んできたのは教科書やテキスト、あと経済学とかの実用書ばっかりなの。要するにガリ勉ね、」

ガリ勉、そんな単語は自分と似合う。
優等生になってエリートになって高給取りになる、それが目標だった。
そんな自分だから勉強以外の余裕なんて社会人になるまで無い。

―だから面白みが無いって言われるのよね、

そんな自分だから今、空の青にも驚いてしまう。
そして、靴底を透かす土の感触も忘れかけていた。

「登山靴の調子、大丈夫ですか?」

穏やかなテノールに振り向くと切長い瞳が笑ってくれる。
優しい綺麗な笑顔が嬉しくて、美幸は笑って頷いた。

「大丈夫よ、ありがとう、」
「良かった、…もう尾根に出ます、」

穏やかな深い声で笑いかけ歩く、その端整な顔に陽光ふる。
そして樹林を抜けた笑顔の遥か、白雲と蒼穹あざやかに拓いた。

―大きな空、

息呑んだ聲に天空が鼓動へ広がらす。
五月雨の晴れ間に青は澄む、その色彩まばゆいブルーが空亘る。
高らかに広やかに青は透けて深い、この空に笑顔あふれた。

「ここの空は本当に綺麗ね、だから特別って言ってたの?」

特別な空を見せてあげます、
そう言って夜明前に青年は車を出してくれた。
そして今、初めて歩く標高3,000mを超えた空と山を見ている。

「ん、ここは特別なんです、」

嬉しそうに馨も頷いてくれる、その笑顔がいつもより明るい。
こんな笑顔を見せてくれるから、きっと好きは恋になる。

「美幸さん、ここで昼にしましょう、」

ほら、また綺麗な笑顔で言ってくれる。
その顔が初対面よりも寛いで明るい、そんな雰囲気に鼓動そっと掴まれる。

―笑ってくれるだけで嬉しいなんて、なかったな、

心独りに見つめる向こう、馴れた手つきが小さなコンロで湯を沸かす。
長い指は器用にナイフを使ってオレンジを剥き、パンをカットして火に炙る。
あざやかな手に見惚れるうちにホットドックとオレンジティーのカップが差し出された。

「イスタントの粉末紅茶ですけど、生のオレンジを入れてみました…温かいうちにどうぞ?」

穏やかな声に勧められてマグカップに口づける。
ふわり甘く爽やかな香が美味しい、嬉しくて美幸は笑いかけた。

「おいしい、オレンジも紅茶が滲みて美味しいわ、デザートみたい、」
「よかった、」

嬉しそうなトーンで瞳細めてくれる、その笑顔に瞳から鼓動がすくむ。
こんなこと今まで無い、だからもう確定なのだろう?
そんな想い独りでに唇こぼれて声になった。

「…もうなってるわ」
「え、…何?」

声に切長い目が見つめてくれる、その眼差しが鼓動に透る。
この瞳を初めて見た2ヶ月前からもう、とっくに決まっていた。
この想い素直に伝えてみたい、そう願うまま美幸は笑った。

「もう恋になってるわ、馨さんが私の初恋になっちゃった、」

笑って告げた向こう側、切長い瞳ゆっくり瞬いた。
何を言われたのか?すこし考えるふう端整な顔傾げて、すぐ真っ赤になった。

「あ、あのっ…本当にすみませんでした、僕あんなことしてそのっ…は、はじめてをそのっ」

深い声は戸惑うまま謝って、あわい日焼けの頬が色彩を変えてゆく。
そんな様子に青年の誠実が見えて嬉しいまま美幸は笑った。

「そんなに謝らないで、馨さん?だって本当は私が積極的だったんでしょう?」

きっとそれが真相、そう記憶が告げてくる。
あの朝に馨は優しい嘘を吐いてくれた、それくらいもう解る。

あの桜ふる夜に恋を抱きしめたのは、きっと一瞬だけ、自分の方が先だった。






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花弔 The tide of hours―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

2013-06-19 10:57:13 | 陽はまた昇るP.S
花、記憶、それから約束



花弔 The tide of hours ―P.S:ext,side story「陽はまた昇る」

書類から上げた視線、窓が黄昏に紫染まる。

例年通りの桜の園遊会は何とか無事に終わった。
春の雪と嵐が多かった今年は、ようやく晴天の今日、桜の宴が集中してしまった。
東京中で花見が催され華やかな春の陽気が首都に満ちている。
幸せな光景だな、そんなふうに素直に想う。

けれど、そんなに一遍にイベントがあると警邏の人数が足りない。
警視庁の立場からしたら本当に困る、特にこの新宿の、あの公園の園遊会。
VIPばかりが集められる、そんな場の警邏は人選も難しい。

「誰か適当な人材を、寄越してくれないか」

警備部で射撃指導員をしている湯原に依頼した。
いちばん親しい同期で友人の湯原。温かくて、優しい穏やかな彼の気配が大好きで、ずっと親しくしている。
同じノンキャリアでも出世していく有能な男は眩しくて、けれど気さくなまま優しい彼は笑って答えてくれた。

「ん、大丈夫。ちょうど俺、非番だから予定が空いている」

そう言って彼自身が引き受けて、警邏の後は新宿署の射撃指導も提案してくれた。
一流である彼からの指導はありがたい、そんな厚意を示してくれる湯原が大好きだった。
そして警邏も射撃指導も無事に務めくれて、自分も報告書類を何通か書き上げ今日を過ごした。
そんな春の一日が終わり、休憩所でいつものベンチに並んで腰かけた。

「今日は本当に助かった、ありがとう」

笑って礼を言いながらココアの缶を手渡した先、綺麗な笑顔が受けとってくれる。
いつもながら綺麗な笑顔だな、そんな感想と見つめた湯原は穏やかに言ってくれた。

「いや、役に立てたなら嬉しいよ、」

笑顔で長い指がプルリングを引き、チョコレートの甘い香りがふっと昇って頬撫でる。
缶に唇つけて一口啜ると綺麗な切長い瞳がほころんで、そんな同期の貌になんだか嬉しくて笑いかけた。

「ココアばっかり飲むな、湯原は」
「ん、好きなんだよ」

鋭利で有能で温厚な湯原、けれど好みは何でも結構かわいい。
結婚式で会った彼の妻は黒目がちの瞳が印象的な、かわいい華奢な女性だった。
そして彼の胸ポケットには可愛い息子の笑顔を写真に納めてある、とても優秀で良い子だといつも話してくれた。
あのときも胸ポケットから手帳を出して、また写真を見せながら自慢話でもするのだろう?そう思った通り彼はページを開いた。

「これ、」

言いながら開いた手帳には可愛い笑顔の写真と、桜の花びらが3枚納められていた。
今日の昼間あの公園で、桜の園遊会に警邏で立ちながら見つけたのだろうか?
そんな推測と見つめた前に長い指は1枚つまみ差し出してくれた。

「花吹雪があったんだ。その時に掌にね、ちょうど3枚が乗った」
「なんだ、くれるのか?」

いわゆる武骨な自分に花をくれる?
それが意外で訊き返した隣、穏やかな声が頷き笑ってくれた。

「ん、きれいだろ?」

綺麗な切長い瞳を微笑ませ、花びら1枚この掌に載せてくれた。
残りの2枚はきっと妻と息子への土産にするのだろう。有能で武道も強い湯原、けれどこんなふうに可愛い所がある。
そんな男の優しい手土産が微笑ましくて、そこに籠る気遣いへ感謝が嬉しくて自分は笑いかけた。

「ありがとうな、おかげで今年の桜が見れたよ」

本当に今年の桜はこれが自分にとって最初、そして最後かもしれない。
この春は忙しくて桜をゆっくり見られそうにない、今日も報告書類の処理に追われ署から出られなかった。
湯原はそれを知っていて今こんなふうに桜を見せてくれる、そういう繊細な優しさがこの友人は深く温かい。
こういう所が和まされて好きだ、そんな想い微笑んで手帳に花びら一枚挟みこんだとき呼び出しが掛けられた。

自分と湯原、ふたり揃って呼ばれる事は久しぶりだった。

機動隊銃器対策レンジャー時代まではいつも一緒に呼ばれていた。
けれど新宿署と警備部と、配属が分かれてからは仕事で一緒になるのは久しぶりだった。
しょっちゅう会って飲んではいるけれど仕事で組める、それは事件現場であっても単純に嬉しかった。

暴力団員による強請、その通報だった。
犯人の一人は拳銃を持っていた、そして犯人は恐慌状態に陥っている。
恐慌状態の犯人は発砲の可能性が高く危険、そして犯人が逃げた先は雑踏の歌舞伎町だった。

「繁華街での発砲は危険だ、万が一は射殺も止むを得ない」

そう告げられて、射撃特練の自分と射撃オリンピック代表の湯原に発砲許可が下された。
繁華街での狙撃は間違えれば周囲に当たる、射撃の精度が問われる現場だった。

「単独での追跡はするなよ、」

新宿署を出るとき湯原に一言、釘刺した。
湯原は正義感が強くて足が速い、だからいつも現場へとあっという間に走っていってしまう。
被害者の事もその周囲の事も、そして犯人の事すらも放っておけない、そういう優しさが湯原にはある。
けれど拳銃所持者の追跡に単独行動は危険過ぎる、それでも湯原はきっと走ってしまうのだろう?
そんな危惧に釘刺したけれど、綺麗な切長い瞳はいつものよう笑った。

「ん。解っている。だから安本、追いついてくれ」

綺麗な笑顔ひとつ残して、湯原は全力疾走に駆けだしてしまった。
自分がいかなければ、救けなければ、そんなふうにいつも湯原は走って行ってしまう。
心やさしい湯原は絶対に人を放りだせない、誰かの為にいつだって全力で駆けつけて救ってしまう。

「追いつけって…あいつ、」

自分だって決して遅い方じゃない。
けれど警察学校時代からずば抜けて速いタイムで走っていた湯原。
全力で走られたら追いつけるわけがない、けれど仕方ない、そんな想いに制服の背中を見つめ走り続けた。

駈けてゆく視線の真中、活動服の背中が停まる。
北口へ抜けるガード下、歌舞伎町の雑踏より手前で湯原が立ち止まった。
繁華街へと入る前に犯人を捕捉したらしい、さすがだと思いながら早く援護射撃をしてやりたくて自分は走った。

けれど銃声一発、鼓膜の底を切り裂いた。

発砲したのか湯原?
きっと犯人の命も無事なポイントに適確な狙撃だろう。
そう思った視線の真中、けれど崩れ落ちたのは紺青色した制服の背中だった。

―嘘だ、

スローモーションのよう制服姿が倒れ込む、そして制帽が空を舞う。
こんな光景あるはずない、視ている光景に意識を呑まれて、それでも自分は駆けたらしい。
どうやって走ったのか覚えていない、けれど気がついた時には倒れた湯原の隣で跪いていた。

「湯原ぁっ、」

若い男が湯原の傍で泣いていた、その彼は拳銃を持ってはいない。
叫んで見上げた視線の先、もう赤いジャンパーの背中が遠ざかっていく。
たぶんあの男が犯人、捕まえなくてはいけない、けれどそれよりも倒れた湯原の介抱が先だ。
そう思って診た端正な顔は、息が止まっていた。

「湯原っ、起きろ!目を開けろっ、」

けれどまだ間に合う、きっと大丈夫。
信じて呼びかけ続け、圧迫止血をしながら腕と膝で気道確保を行う。
警察学校から学んだ応急処置は体を勝手に動かしてくれる、けれど意識は叫ぶ。

「湯原っ」

うそだ、嘘だ、湯原が死ぬなんて、絶対に無い。
まだ間に合う、きっと間に合う、諦めてなどやらない。
信じて叫んで見つめる真中で癖っ毛がゆれ、端正な貌は蒼白になってゆく。

「起きろっ、湯原おきろ、寝てる場合じゃないだろう?起きるんだっ!」

人工呼吸は本来はタオルや何かをはさむ。
けれど猶予が無くて湯原の唇にそのまま自分の唇を重ねた。
呼吸が止まっているなら一刻の時間も惜しい、人は心肺停止から3分で死んでしまう。
どうか起きてほしい、蘇えれ、そんな願いごと吹きこんだ2回の人工呼吸で切長い瞳が開いた。

「湯原っ、」

良かった、間に合った。
そんな安堵へ切長い瞳が微笑んで、少し厚い唇がゆっくり動いた。

「…や、すもと、」

いつもの落着いた穏やかな声、けれど掠れている。
それでも声がまた聴けた、嬉しくて自分は微笑んだ。

「もうじき救急車が来る、大丈夫だ」
「…ん、」

切長い瞳が見つめてくれる、瞳の光はいつものよう澄んでいた。
これだけ意識が清明なら大丈夫、きっと助かってくれる。
そんな願い見つめた先で湯原はゆっくり唇を開いた。

「やすもと、お願いだ…犯人を…救けてほしい、」
「解った、俺が救ける」

きっと湯原は助かる、助かってくれるに決まっている。
その為なら何でもいい、どんな願いも聴いてやりたい、そう願い安本は微笑んだ。

「生きて、償う…チャンスを与えてほしい、彼に、温かな心を…教えてほしい」
「解ったよ、俺が必ずそうしてみせる」

頷いた自分を真直ぐ見つめて切長い瞳が微笑んだ。
いつもの綺麗な笑顔、温かくて穏やかで少しだけ寂しい湯原の笑顔。
警察学校で出会った時から変わらない、この笑顔が大好きで友達になった。
大丈夫、こんなふうに笑ってくれるなら助かるだろう、それが嬉しくて約束を告げた。

「お前と一緒に、俺も彼に向き合うよ。約束だ、湯原」

笑いかけた視界の真中で嬉しそうに湯原は微笑んだ。
そして微笑んだ厚めの唇が、ぽつんと呟いた。

「…周太、…」

首を支えるよう抱えた腕の中で、がくんと癖っ毛の頭が崩れた。

「…湯原?」

切長い瞳は、睫の下に閉じている。
さっきまで笑っていた瞳、けれど睫が披かない。

こんなこと、嘘だ。

「湯原っ、」

嘘だ、だって今、笑っていたじゃないか。俺の目を見つめて、今、きれいな微笑みが。

信じたくなくて、そのまま唇を重ねて人工呼吸を施していく。
1回目の呼気に胸を押し、そして2回目、湯原の喉から鮮血が逆流した。

「ごほっ、…ごふっ、」

撃ち抜かれた肺から昇った血、それが喉を強打して咽かえらす。
それでも諦められなくて呼吸を吹きこんで、けれど2つの唇から鮮血が止まらない。
そして蒼白な頬を血潮あふれおち、噎せた飛沫からアスファルトに真赤な花が散った。

「…嘘だ、」

さっきは2回目で蘇ってくれた。
けれどもう、切長い瞳は笑ってくれない。

―どうして?

どうして、そんなはずあるわけがない
ずっと一緒に笑っていた、さっきも一緒にココアを飲んで笑っていた。
たった10分前までベンチで笑っていた、それなのに、こんな事があるわけがない。

警察学校で出会って、射撃特練に一緒に選ばれた。
それから新宿署に一緒に卒配されて、そのあと一緒に第七機動隊に配属された。
それから自分は新宿署へ湯原は警備部にと分れた、それでもこうして今日も一緒に任務についている。

ずっと、ずっと、一緒に歩いてきた。それなのに、なぜ、どうして?

救急車のサイレンが聞こえる。
どこからか桜の花びらが吹き寄せられて、湯原の頬に舞い降りた。
もう蒼白な貌は摩天楼の夜の底にまばゆい、その頬に深紅の花と白い花びら一片、ただそこにある。

「…約束、だな、」

ぽつり、呟きに血潮の香が意識を刺す。
さっきの約束を果たさなくてはいけない、自分は行かなくては。
そんな想いに意識が細められるまま、傍らの若い男に血だらけの口が頼んだ。

「…この男を、頼んでいいか」

泣きながら若い男は頷いてくれた。
それからと呟くよう唇が微笑んで、涙の紗を透かし男の目を覗きこんだ。

「君の事務所は、どこだ?」

彼は素直に口を開いてくれた。
その事務所は歌舞伎町でも奥の方、きっとまだ、犯人は辿りついていない。
そう思考がすばやく判断したまま立ち上がり、安本は走りだした。

不夜城のネオンが禍々しい。
ここで生みだされた暴力が、自分の友人を奪って逃げた。
絶対に許さない、絶対に追いついて、捕まえて、それから、

―殺してやる、

安っぽく着飾った人の群れ、互いを伺うような欲望の眼差し。
ただ歓楽を求めあう視線の交錯、原色の騒がしいネオンサイン。
それら全てが今、灰色の視界の底に沈んで見える。

―赦さない、絶対に、

吐く息が熱い、呼吸が乱れる。
唇から喉まで残る湯原の血の潮と香だけが、現実の感覚になっている。

どこだ、どこだ、どこに今、あの男はいる?

隠れても逃げても、絶対に探し出してそれから。
だって今それだけが、自分だけが生き残らされた理由になっている。

灰色の視界の中で、一か所、赤い色が見えた。

赤いジャンパー。
逃げる後姿、遠目に見えた、あの背中の色。
視認した瞬間、片手撃ちノンサイト射撃で安本は発砲した。

撃つぞ。
本当はそんな威嚇が必要だった。
けれどそんな余裕なんてない、絶対に逃がすものか、ただそれだけ。

けれど、唯ひとつだけが自分を止めた。

―犯人を救けてほしい

あの綺麗な眼差し、最後に見せてくれた綺麗な笑顔。
どんな怒りも悲しみも、あの笑顔だけは裏切れない。

殺してやる、死の恐怖におびえるがいい、血に塗れて這い蹲ってのたうちまわれ。
痛みの底で叫べばいい、苦しみに引き攣れて歪めばいい。
死んで、湯原に謝るがいい。

そう思ってトリガーを引いた、けれど照準は外される。
あの綺麗な微笑みが少しだけそっと、フロントサイトを押し下げてくれた。
そうして下げられた銃口から発砲された銃弾は、犯人の左足へと向かった。

左足に真赤に鮮血が飛び散って、赤いジャンバーの背中は道に倒れた。

本当は殺してやりたかった。
それでも自分の足許には、血塗れの脚を抱えた男は、生きている。

このまま放っておいたなら、きっとこの男は死ぬだろう。
流れだす血液、零れだす生命の熱、この全てが流れ出てしまったらこの男は死へと浚われる。
湯原のように。

けれど、

 生きて償う機会を与えてほしい、彼に、温かな心を教えてほしい
 お前と一緒に俺も彼に向き合うよ、約束だ、湯原

してしまった約束。

約束に縛られて、もう、この男を殺せない。
あのきれいな微笑みだけは、裏切ることなんか出来ない。

転がった男の拳銃をハンカチで拾い上げ、自分の手元にしまう。
それから衿元のネクタイを引き抜くと、犯人の左足付根を結束止血した。
動かす血塗れた手を怯えた目が見つめてくる、その物言いたげな唇は痛みに震え動けない。
いま怯えるこの男を本当は殺してやりたい、けれどもう約束をしてしまった。

―最期の約束だ、

大切な友人との最期の約束は、破れない。
この約束を護り続ける為に自分は生きるだろう、そんな願いを肚に落しこむ。
願いに瞑目して見開いて、定まった肚から安本は血塗れた唇のまま微笑んだ。

「大丈夫だ、私は君を必ず救けるから」





湯原と次に会えたのは、新宿署の検案所だった。
清められた顔にはもう血の痕はない、けれど真白になった頬が生命の不在を示して、苦しい。

もしも今日、俺が、警邏の依頼をしていなかったなら?
もしもさっき、俺が湯原に追いついて、援護射撃が出来ていたのなら。

たくさんの「もしも」が廻ってしまう。
ただ見つめたままめぐる想いに竦んで、今はもう、何も考えられない。
そんな想いのまま手は動き遺品の手帳を開き、息を呑んだ。

「…っ、」

鮮血滲んだページの間では、可愛い少年の笑顔の写真が銃痕に裂かれていた。

『ほんとに優しいんだよ、周太は。いつも庭木を可愛がってくれるんだ、』

いつも見せてくれていた幸福の笑顔、けれど彼の命ごと撃ち抜かれてしまった。
警察官の制服の胸ポケットで、愛する息子の写真ごと彼の全てを世界から去らす。
そんな現実の象徴は無残で悲しくて、遺品として家族に渡すことが正しいのか解らない。

―預ろう、いつかの日まで、

そうして写真一葉、桜の花びらと一緒に自分の手帳にはさみこんだ。


目の前の検案所の扉が開く。
湯原の妻と息子が静かに廊下へ出、室内へと礼をする。
そして振返って安本に気がついた。

―哀しい、

結婚式の日、礼装姿の湯原の隣で微笑んだ綺麗な黒目がちの瞳。
幸福に輝いていた瞳、けれど今はもう憔悴の底に沈んでしまった。
その変貌が哀しくて辛い、それでも背中を真直ぐ伸ばし安本は礼をした。

「お久しぶりです、」
「…同期の、ご友人の方でしたね」

彼女は覚えてくれていた。
それが今こんな時でも嬉しくて、その分だけ切ないまま頷いた。

「はい、」

彼女の穏やかで優しい綺麗な雰囲気は湯原の気配と似て懐かしい。
その隣から華奢な少年が見つめてくれる、母親そっくりな可愛い顔。
けれど視線の澄んだ強靭は、大好きなあの切長い瞳とそっくりだった。

安本は一つの手錠を取出した。
傷はあるけれど歪みも錆も無い、湯原の手錠。
それを両手に捧げ持つと、静かに片膝ついて安本は少年に微笑みかけた。

「これが、お父さんの手錠だよ」

黙って少年は受取って、小さな両掌に捧げ持ち見つめてくれる。
それから安本の目を真直ぐに見て、静かに手錠を返してくれた。
見つめてくれる聡明な眼差しに安本は約束と微笑んだ。

「私は、お父さんの友達なんだ。犯人はもう、捕まえたから。必ず、お父さんの想いを、私が晴らすから」

そう、自分が想いを晴らす。

だって約束してしまったんだ。
俺が湯原と一緒に向き合うと、もう約束をした。
だからもう自ら死んで彼の元へ今すぐ謝りにいく事すら、もう許されない。

ほんとうは、本音の自分は今すぐに犯人を殺してしまいたい。
そうして自分も自ら死を選んで、あの大切な友人の元へ謝りに行きたい。
けれどもう約束をしてしまったから、だから自分は約束のために生きていく。

湯原が眠りについた瞬間の、がくんと落ちた頭の重み。
悔恨と罪と現実と真実、あの瞬間に背負った全てずっと抱きしめて生き続ける。
湯原との約束ごと全てを抱いて背負って、いつかの涯まで自分は生きていく。

けれど苦しい、痛い、悲しい。
それでも、その痛みも苦しみも悲しみも、死んだあいつと繋がっている。

だからもう、それでいい。




そんなふうに13年の時を越えた今、目の前に端正な視線が座る。

「周太は13年間ずっと孤独でした。父親の殉職という枷と、それに絡まる善意の無神経さ。その全てが彼を孤独へ追い込んだ」

目の前に座る、制服姿も端正な長身の青年。
きれいな笑顔で微笑んで、静かに語りかけてくる。
きれいな切長い瞳は、真直ぐに見つめて揺るがない。

13年前に失った大切な友人で同期の湯原、彼は射撃の名手だった。
そんな湯原の忘れ形見、息子の周太君もまた射撃の名手として現われた。
そして周太君とそっくりの射撃姿勢が鮮やかだった、この青年。

射撃姿勢は本来、体格によって差異がでる。
そして小柄な周太君と長身の彼とでは体格が全く違う。
それなのに、彼は周太君と全く同じ射撃姿勢を見せつける。
こんなこと、本来なら出来るはずがない。

いったいどれだけの努力を彼は重ねたのだろう。
いったいどれだけ近くで彼は周太君を見つめ続けているのだろう。
どうして?何故そんなにも彼は、周太君を見つめているのだろう。

「彼の孤独を壊したのは私だけです。私よりも優しい言葉をかけた人は沢山いたでしょう。けれど彼の為に全てを掛けた人間は私だけです。
きれいな想いも、醜い欲望も、私は全部を彼に晒します。隠しているものがない。だからこそ、彼は私を信じて孤独を捨てました」

綺麗な低い声が真直ぐ告げてくる、その声に迷いは欠片も無い。
どうしてこんなに彼は迷わない?その問いかけに見つめた青年は断言した。

「他の誰にもそれは出来ない、私だけです。だから言います、彼が本当に信じて頼るのは、私だけです」

相手のために全てを掛けて。
どうしてそんなふうに、この青年は生きられるのだろう。
きれいな笑顔が眩しい、そんな一途な生き方が本当は羨ましい。
真直ぐな視線は美しくて、こんな自分ですらも彼を信じてしまいたくなる。

13年前のあの日、自分は湯原に追いつけなかった。
そして今また湯原の息子にも追いつけない、けれど、この青年ならば追いつくことが出来るのかもしれない。
そうであってほしい、そんな願いごと見つめたまま安本は訊いた。

「…では、どんな方法なら、周太君を救えるんだね?」
「簡単ですよ」

そう言って青年は、端正な唇を開いた。

「真実を告げて示して、その底にある想いに気付かせてやる。それで彼には解る、そしてそれが、唯一の選択です」

端整な青年は綺麗に笑っている。
綺麗な笑顔はなぜか、見つめるほど静かに信頼を寄り添わす。
この青年に任せてみたい、惹きこまれるように安本の口は開かれた。

「周太君を見た時、驚きました。わたしが大好きだった男の面影、そして射撃の名手。懐かしくて、嬉しかった」

語りだした口調には切ない懐旧が滲んでしまう。
そう、懐かしい、そして嬉しい。

大切な友人で同期の湯原、彼が遺した周太君。
綺麗な強い視線と穏やかな気配が懐かしい友人と似て少し違っていた。
忘れ形見、そんな存在の明るい瞳は幸せそうで、それがただ嬉しかった。

あの春の夜に引裂かれた、可愛い幸福な笑顔。
あの笑顔が今もまた、きちんと蘇って笑ってくれた。
あの笑顔を取り戻してくれたのは、きっとこの青年なのだろう。
この青年は幸福に追いついて、捕まえて、そんなふうに彼を笑顔にさせている。

13年前のあの日から、今も背負っている悔恨と罪と、現実と真実。
今からその全てを青年に託したい。きっと彼なら大丈夫、そんなふう信じられるから。


全てを語り終えて、私は泣いた。
13年間を縛り続けた約束と枷が外れて解ける、そんなふう感じられた。
端正な青年は、きれいな笑顔で静かにそっと見守ってくれていた。

旧知の吉村医師が自販機へ行って来てくれた。
缶コーヒーを3つと、ココアを1つ。
そうして3人でココアの缶を眺めながらコーヒーを飲んだ。
いまきっと一緒に湯原もココアを飲んで、あの綺麗な切長い瞳を綻ばせている。
そんな想いと飲み終わる頃、聴きたかったことを青年に尋ねてみた。

「宮田くんは、周太君の友達なんだね」

きっと良い友達で、親友というやつだろう?
そんなふう想って訊いてみた、けれど青年は綺麗に笑って否定した。

「いいえ、違います」

どういうことだろう?
友達ではないならば、なぜこんなにも彼は真剣なのだろう。
それ以上の繋がりがあるのだろうか、解らないまま重ねて訊いてみた。

「ではどうして、こんなに君は一生懸命なんだ」
「おかしいですか?」

綺麗に笑って青年は答えた。

「警察官なら、今この一瞬に生きるしかありません。だから今を大切に見つめるだけです」

綺麗な低く響く声。
本当にその通りだ、そしてなんて懐かしい言葉だろう。

『警察官は、いつ死ぬか解らない。だから今を、精一杯に生きていたい』

湯原、どうしてだろう?

お前の心はそのままに、この青年の中に生きているよ。
なぜ他人の青年の言葉に、お前の心が生きているのだろう?
そんな疑問と懐旧に見つめた真中で、綺麗な笑顔は教えてくれた。

「周太は私の一番大切な存在です。だから今を、大切に彼を見つめている。それだけです」

ああそうか、この青年にとって「一番大切」それだけなんだ。

そんな納得にまた羨望がまぶしくなる。
こんな生き方が出来る男が羨ましくて、ただ眩しい。
そんな想いごとコーヒーを飲み終えた前、青年が立ちあがった。
それから制帽を手に持ったまま、端正な礼を自分に向けると微笑んだ。

「今日は、ありがとうございました」

吉村医師も立ちあがって青年に微笑みかけて踵を返す。
ロマンスグレーのスーツ姿に伴う制服姿の背は広やかで頼もしい。
その真直ぐな横顔ともっと話してみたい、そう願ったまま声を掛けた。

「宮田くん。いずれ、飲みに誘わせてくれるかい?」

断られるだろうか、そうも思った。
自分は周太君を傷つけた、そして青年の怒りをひきだしたから仕方ない。
そんな諦め半分だった提案、けれど切長い瞳は優しく微笑んで言ってくれた。

「ええ。その時は周太も誘います」

綺麗な笑顔が、ただ温かい。
この懐かしい温もりに願ってしまう。

どうか周太君を幸せにしてほしい。
あの春の夜、追いつけずに死なせてしまった大切な人。
彼の分までどうか幸せになってほしい、どうかずっと幸せが君に寄り添いますように。

そしてどうかこの青年も綺麗な笑顔のままで、ずっと笑っていてほしい。







2011.11.02掲載「花弔」改訂版


罪・・ブログトーナメント

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P.S 親愛によせて―from Oxford August.1966

2012-09-28 04:00:49 | 陽はまた昇るP.S
親愛なる俤へ、



P.S 親愛によせて―from Oxford August.1966

顕子おばさま、お元気ですか?
こちらの夏は涼しいです、しつどが低いとお父さんが教えてくれました。
そのせいか今、バラの花がたくさん咲いています。家の庭と同じ花も咲いていて、なつかしいです。

ぼくはいま、本をたくさん読んでいます。
お父さんが大学の図書館で借りて来てくれるんです、どれも英語かフランス語で書いてあります。
お父さんが先に読んで、スペルの読み方と意味を教えてくれるから読めます。そういうノートをぼくの机に置いてくれました。
このノートにぼくは、本の感想と次に読みたい本と、今日あったことを書いておきます。
そうすると、ぼくが寝た後にお父さんが帰ってきても、ノートでおしゃべりができるんです。
だから夜は会えなくてもさみしくないです、ノートのお話たちと借りてくれる本が、ぼくを元気にしてくれます。

こういうことが出来るお父さんが好きです、すごいなって思います。
それで、ぼくもお父さんみたいに文学の学者になれたらいいなって、いま考えています。
たくさんのお話がぼくを元気にしてくれるように、きっと他の人もお話で元気になれると思うんです。
そういうお手伝いができるひとになりたいです、だから勉強がんばります。
英語で授業だからついていけるか心配だけど。
でも、お父さんとお母さんに教わってきたから、おしゃべりは出来ます。
おかげで仲良くしてくれる子がふたり出来ました、ぼくと同じ学校になるので9月からいっしょに行きます。

いつも家にはナニーがいてくれて、ごはんとおやつを作ってくれます。
チョコレートのケーキがおいしいです、おかあさんのチョコレートケーキとすこし似ています。
レディ・ヴァイオレットは元気ですか?遊びに行ったときに作ってくれたケーキ、おいしかったです。
けいすけくんは元気ですか?このあいだは遊べて楽しかったです。日本に帰ったら、また遊びたいです。

こんどのお休みは、お父さんと山にいきます。スノードンという山です。
イギリスで2番めに高い山で羊がいるそうです。てっぺんの近くまで鉄道でも行けるのですが、ふつうに登るよていです。
お父さんはすこし元気がありません、だから好きな山に行って元気になりたいのだと思います。

おばさま、山は亡くなった人に会えるってほんとうですか?
日本で亡くなった人でも、イギリスの山で会えますか?やっぱり海をこえたら、むずかしいですか?
でも、もし会えるなら花を持って行ってあげたいです。イギリスでも咲いている花で、お母さんが好きな花はありますか?
もし知っていたら教えてください。

おばさまは、ずっと元気でいてください。いつかまた会いに行きます、まっていてください。  1966年8月 馨




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P.S 斑雪、希望は消せない ―ext,side story「陽はまた昇る」

2012-07-21 04:33:23 | 陽はまた昇るP.S
時に、永遠を抱けることもある



P.S 斑雪、希望は消せない―ext,side story「陽はまた昇る」

叔父が死んだ。

まだ35歳、結婚も控えていたのに、叔父は亡くなった。
路面凍結によるスリップ事故、歩道に突っ込んだ車体に叔父は巻き込まれた。
集中治療室の扉の向こう側、心拍停止の音が響き渡って、叔父の命は消えた。

「…うそだ、」

ぽつり、父の唇こぼれた言葉が、心刺す。

本当に、これが嘘だったら良いのに?
だって叔父は死ぬべき人じゃない、まだ生きるべき人だから。

働き盛りの35歳、今春4月には結婚式を控える、多忙でも幸せな時だった。
名門大学に留学して、ビジネススクールを修了して、外資系企業に3年勤務した後、実家に入社して。
瀬尾家の跡取り、次期代表取締役、輝かしい後継者として将来を嘱望されていた。

そして、父が誰より愛する末弟。
たぶん息子の自分よりも、父は弟を愛している。



カーン…カーン…

礼拝堂の鐘が鳴る。
あわい雪が時おりふるグレーの空は、春とは名ばかりだと思い知らされる。
冷たい雪風が吹きつける墓地への道、あわい雪は消えながらも静かに積もりだす。
降りそそぐ雪のなか、警察官の礼服に抱いた骨壺が温かい。

まだ名残る火葬の熱はまるで、逝ったひとの体温のようで。
幼い日に何度も抱きあげて貰った、あの日の温もりが懐かしい。
いつも励ましてくれるとき、肩に置いてくれた大きな掌の温もりが懐かしい。
懐かしさに込み上げる涙を密やかに呑み下す、その背中に様々な声が聴こえてくる。

「…まだ35歳だなんて、ご結婚も控えて…」
「MITでMBAを取ったって伺いましたが、亡くなってしまっては…」
「後継者は……だけど、不登校で……警察官…」
「ああ、それではね……どうするか…」

参列者の密やかな会話が全て聞えてしまう。
彼らは聞えないと思って話しているのだろうか?それとも、わざとだろうか?

―僕のこと話してるんだね…不出来だ、って

心裡の声が自分で、苦い。
言われなくても解かり過ぎている、自分が「不出来」だということくらい。
そんな自分だからこそ、優秀な叔父に憧れて尊敬して、大好きだった。

だから、想ってしまう自分がいる。
参列者が呟く泰正への批評も、叔父を惜しむ声ならば、それすら嬉しい。
そんな想いと眺める黒い喪服の群れは、斑に積もった雪の芝生を静かなざわめきと進んでいく。
自分より少し前、支えられて歩く女性の後ろ姿に心が痛い。
彼女は、叔父の婚約者だった。

喪服に包んだ背中にやつれが見える、彼女の深い悲しみが滲んでしまう。
彼女はこの先どうするのだろう?どうか幸せになってほしい、そんな祈りと雪を歩く。
そして真白い墓標の前に着いて、泰正は胸に捧げた骨壺を抱きしめた。

「泰正、」

父の声に、泰正は顔を上げた。
その視線の先には憔悴しきった父の顔が、それでも静かに微笑んでいた。

「聡嗣に、最後の別れをしなさい、」
「はい、」

静かに純白のカバーをほどき、白い骨壺を取りだす。
自分の手から墓守が受けとって、まだ温かい骨壺が掌から離れてしまう。
白い墓石の元へ納められていく姿を見つめて、クロスを切ると泰正は最後の合掌を捧げた。
見つめる骨壺が小さく見えて、大柄だった叔父との比較に呆然とさせられる。
身長180cmも、今は20cm程度の壺に納められてしまった。

「…聡嗣にいさん、」

ぽつり、大好きな人の名前がこぼれて、涙がひとつ落ちた。

泰正が不登校になったとき、聡嗣は仕事の合間に勉強を見てくれた。
けれど三流大学しか合格出来なくて、それでも聡嗣は一緒に喜んで褒めてくれた。
そして、警視庁に合格した時は、本当に喜んでくれた。

「よくやったなあ、泰正!すごいな、子供の頃からの夢だったもんな、」

快活な笑顔が心から笑って、合格通知を見つめて喜んで。
褒められて嬉しかった、けれどコンプレックスが痛くて自分は言ってしまった。

「ありがとう、聡嗣にいさん。でも…僕、やっぱり落ちこぼれだよね?」

『落ちこぼれ』

ずきり、言ってしまった言葉が古傷を抉る。
名門の中高一貫校に自分は入学した、けれど高校2年から不登校に陥り、ドロップアウトした。
その発端は、声変わりを殆どしなかったことだった。この記憶の現実が心締め上げるまま、泰正は続けた。

「聡嗣にいさん、正直に教えてほしいんだけど。こんな声で警察官になって、やっていけるって思う?」

この声に纏わる記憶が、痛い。
この痛みのまま正直に、自分は聡嗣へと話した。

「僕、女の子みたいな声でしょう?背も高くないし、女顔だし…高校のときの不登校は、本当は、これが原因なんだ、」
「…泰正、ドライブに行こうか、」

優しく微笑んで聡嗣は、泰正を家から連れ出してくれた。
夏7月の終わり、土曜日の午後。静かな車窓を眺めながら着いたのは、海だった。
真青な海に太陽は傾きかけて、すこしずつ人が減っていく浜辺を並んで歩いた。

ざあん、ざあ…

単調な音がやさしい、潮の香がいつもの生活から離してくれる。
ずっと車内では黙ってしまっていた緊張が、潮騒に凪がされていく。
ほっと吐息に心ほぐして、泰正は口を開いた。

「聡嗣にいさん。僕、イジメられたから学校行かないって、あのとき言ったよね?でも、本当は違うんだ…」

言いかけて、ひとつ呼吸する。
このことを話すのは勇気がいる、知られることが怖くて秘密にしてきたから。
それでも自分の理解者には話したくて、泰正は口を開いた。

「僕、告白されたんだ。クラスの人と、部活の先輩に、ね」

聡嗣の足が止まった。
泰正も足を止めると、軽く首を傾げて聡嗣が尋ねた。

「泰正、あの学校は、今も男子校だよな?」
「うん。聡嗣にいさんが卒業した時と、変わらないよ?ずっと男子校…」

ため息がこぼれてしまう、それでも泰正は微笑んだ。

「男ばっかりだからかな?ちょっと可愛いタイプの子はね、なんか大事にされるんだ。告白したとかの噂も聞いてたよ。
でも、僕まで言われると思っていなかった。だけど、高1くらいまでに皆は声変わりしたのに、僕はこんな声のままでしょ?
身長も伸びなくなって。周りはどんどん大きくなるのに、僕は中学の時とあまり変わらない。でも僕、気にしていなかった、」

周りは体つきから大人びて、男らしくなっていく。
けれど自分は大して変わらない、この現実が刻んだ傷みが、苦い。苦い古傷を見つめて泰正は続けた。

「けど、高2になったころから、なんとなく周りが変わってね。それでも自分は子供っぽいだけって思って、気にしなかったよ。
でも、クラスの友達に告白された、好きだって…男なのにって驚いた。僕には真紀ちゃんがいるし、断ったよ。それで気まずくなって。
その友達、委員会でも一緒だったんだ、それで委員会の時間が辛くなって。そうしたら今度は、部活の先輩に告白されて…また断って、」

ぽつん、

涙が頬つたって、砂浜に吸いこまれる。
消えていく涙を見つめて、また顔を上げると聡嗣の目を見つめて、泰正は微笑んだ。

「クラスでも委員会でも、部活でも気まずくなっちゃったんだ。それで居場所が無くなって、学校に行けなくなったよ、」

こんな理由は恥ずかしい、それでドロップアウトしたなんて?
こんな理由は誰にも言いたくなくて、いじめに遭ったからと家族に嘘を吐いていた。
けれど大好きな叔父には、もう、嘘を吐きたくない。泰正は正直に口を開いた。

「ふたりから、同じことを言われたよ。僕のこと女の子みたいに可愛い、つきあいたいって言うんだ。でも、僕は男だよ。
ふたりとも悪気はないんだって解ってる、でも、そういうふうに見られていると思うと気まずくて、話せなくなったんだ、」

微笑んで見つめる聡嗣の目は、真直ぐ見つめてくれている。
きちんと受けとめ聴いてくれている、そんな眼差しが嬉しい。この信頼に泰正は言葉を続けた。

「こんなふうに僕は、男の癖に女扱いされるような人間なんだよ。こんな僕だけど、本当に警察官になれると本気で思う?
運動も得意じゃない、そんなに頭が良いわけでもない、自信なんて無い。だから本当は、記念受験のつもりで受けたんだ、
ずっと警察官に憧れていたから、だから、受験して落ちて、諦めよう。そう思って僕、本当は諦めるために受験したんだ、」

ぽつん、ほとり、

本音の言葉に涙あふれて落ちる。
これが弱虫な自分の本音、諦めるために落ちるために受験だなんて、馬鹿だ。
こんな馬鹿な自分をもう、聡嗣は呆れてしまったかもしれない。そんな想い見つめる真中で、年若い叔父は口を開いた。

「泰正は、優しいな、」
「え…、」

どういう意味だろう?
そう見上げた先で叔父は、快活な目を温かに笑ませた。

「その友達や先輩のこと、傷つけるかも、って気を遣い過ぎて、学校に行けなくなったんだろ?違うか?」

どうして?
どうして叔父には解るのだろう?

「うん…僕の顔見たら、傷つくかなって…でも、断った罪悪感が、嫌なだけかもしれない、」
「どうして泰正は、そんなに罪悪感を感じるんだ?」

海風のなか、快活な笑顔が率直に訊いてくれる。
黄昏が長身を照らすのを見上げて、泰正は思うままを言った。

「男同士で告白するのはね、きっと勇気が必要だって思うんだ。だって、普通じゃない、って思われるの怖いでしょう?
ふたりとも一生懸命に言ってくれたと思う、でも僕は話すことすら避けて、逃げるようになって…卑怯だから罪悪感、感じるよ、」

ようするに自分は無視をした。こんな自分こそイジメの加害者だ、せめて友達として普通に話せたら良かったのに?
けれど、そんな解決も出来なかった自分を、時が経つほど赦せなくなってしまう。こんなふうに自分は弱い。
こんな自分が警察官になって、やっていけるのだろうか?後悔と疑問に佇む泰正に聡嗣は快活に微笑んだ。

「そんなに罪悪感を感じるほど、泰正は相手を思い遣っている、ってことだよ、」

闊達な声が笑って、ぽん、と肩に掌を置いてくれる。
大きな掌は温かい、ほっと肩から力ぬけて微笑んだとき、聡嗣は言ってくれた。

「警察官ってな、相手を思い遣れることが必要だ、って俺は思うよ。加害者でも被害者でも、どちらも心に怪我した人間だろ?
どっちも心が弱っているんだ、そういう人間を思い遣れる優しさが心を開かせて、弱った心も癒す切欠に出来ると俺は思うよ。
そうやって心を癒せたら、たぶん、犯罪は世の中から減っていくんじゃないかな?だから泰正、おまえは有利だってことだよ、」

なにが有利なのだろう?
そう見上げた泰正を、聡嗣は温かな眼差しで受け留めてくれた。

「泰正は、人の顔と名前を一度で憶えるだろう?これは帝王学の初歩として必要だって、兄さんにも言われたと思うけど、
これは経営だけじゃなくて、人間関係全てに共通だ。人ってな、自分のことを憶えられて、気遣ってもらえると嬉しいものなんだ。
しかも泰正は優しいから、相手のことを忘れないで気遣えるだろう?きっとな、警察官として出会った人にもそう出来たら、喜ばれるよ」

大きな掌が、ぽん、と優しく肩を叩いた。
そして快活な笑顔で聡嗣は、泰正に約束してくれた。

「泰正は良い警察官になれるよ。出会った人を癒せるような、優しい警察官になれる。そうやって犯罪が減る手伝いが出来る」

自分が良い警察官になれる?
そんなふうに敬愛する叔父に言われたら嬉しい、嬉しくて素直に泰正は笑った。

「ほんと?僕でも良い警察官になれるかな?でも、能力的な適性っていうと、困るよね?」
「そんなこともないぞ、泰正は絵が得意だろ?」

浜辺を歩きだしながら、聡嗣は教えてくれた。

「似顔絵捜査官、っているんだよ。俺もアメリカにいた時に知ったんだけどな、1,200件以上の事件を解決に導いた人もいるらしい」
「1,200件?すごい、」

さくりさくり、砂の踏む音が足元を温める。
ゆっくり潮風を歩きながら聡嗣は、快活に笑って言葉を続けてくれた。

「泰正は肖像画を描くのが巧いだろ?それに人の話を聴くのも上手い。おまえなら、目撃者や被害者の話をよく聴いて描ける。
だから俺は、泰正が警視庁を受けるって聴いた時から、似顔絵捜査官を目指したら良いかもしれない、って思っていたんだ。
似顔絵捜査官になって色んな人に出会ったら、泰正は大きい男なれると思うぞ。人の話を聴くことは、心の器を大きく出来るから、」

似顔絵捜査官。
人の話を聴いて、似顔絵を描く仕事。それなら自分の個性が活かせるかもしれない?
そうして自分が大きい男に成れたら嬉しい、そう素直に想えて泰正は叔父にねだった。

「聡嗣にいさん、本屋に連れて行ってくれる?僕、似顔絵捜査官の本が欲しいんだ、」

そして海からの帰り道、聡嗣は似顔絵捜査官の本を数冊買ってくれた。
合格祝いだと言って笑って「楽しみだな」と言祝いでくれた。
あのときが、似顔絵捜査官という夢との出会いだった。

カーン…カーン…

礼拝堂の鐘が鳴り、雪の粒が小さく冷たくなっていく。
いまは冬1月、あの夢と出会った夏の海から1年半が過ぎ去った。
あのとき隣を歩いていた快活な笑顔は今、冷たい純白の墓標の下で永遠の眠りについた。

「…っぐ、」

込み上げた涙を飲み下す。
ここで今、泣きたくない。だって今、自分は警察官の礼服を着ている。
今日の葬儀の為に礼装許可を申請して、警察官として今、自分はここに立っている。
今、見送られる人も一緒に望んでくれた警察官の夢、その夢を叶えた姿で見送っていたい。
きっと叔父の死によって自分は、この制服を脱がなくてはいけないから。

瀬尾の家で後継者になれる男は、もう自分しかいない。
いまは女性経営者も多い時代だろう、けれど従姉妹たちも妹も経営は何も知らない。
いくら不出来だろうが何だろうが、唯一の男子である泰正が背負うしかない、相応しくなるまで努力するだけ。
それが出来なければ瀬尾の家も会社も離散してしまう、そうすれば一体どれだけの人が職を失うことになる?
こんな世襲制は今時珍しい、けれど世襲によって信頼を積んできた以上は自分が継ぐしかない。

そういう意味でも聡嗣の存在は、泰正の庇護者だった。
聡嗣という若く優秀な叔父がいてくれたから、泰正は長男の息子でありながら自由に進路を選ぶことが許されていた。
家族のなかで泰正の進路と夢を最も理解して応援してくれたのも、聡嗣だった。兄のように父のように見守り支えてくれた。
だからこそ今日は、聡嗣と見た夢の姿で立つことを選んだ。微笑んで立ち上がると泰正は、背中を真直ぐ伸ばした。

「聡嗣にいさん、ありがとうございました、」

23年間の想いに微笑んで、泰正は愛する墓標へと敬礼を送った。



海は、白かった。

雪染まる海岸は波打ち際、凍れる潮の波紋が残され、波にまた消え、形を変えていく。
葬儀の後、夜をこめて降り続いた雪は今朝も残り、ときおり小雪が海風に舞う。

ざくり、

踏みしめる砂も凍って、雪と砂がブーツの下を砕けていく。
髪なぶる潮風も雪まじり、冷たい頬が風に痛い。コートを透かし冷気が沁みこんでくる。
こんな場所でも手を繋いで歩いてくれる隣へと、泰正は笑いかけた。

「真紀ちゃん、寒いよね?車で待っていてもいいよ、」
「ううん、平気。一緒に歩きたいの、」

隣で薔薇色の頬が明るく笑ってくれる。
この笑顔に自分は今まで、なんど心を照らしてもらっているだろう?
幼い頃から見慣れた愛しい笑顔に、泰正は微笑んだ。

「真紀ちゃん、ごめんね。俺、5年経ったら警察官を辞めるんだ、」

自分の言葉を、笑顔が受けとめてくれる。
この女の子と幼い日に結んだ約束に、泰正は謝った。

「お巡りさんの奥さんになるって、真紀ちゃんが言ってくれた時ね、嬉しかった。だから俺、ずっと頑張れたよ?
本当は俺、ダメもとで採用試験を受けたんだ。でも受かった時は、真紀ちゃんとの約束が果たせる、って嬉しかった。
だから、警察学校とか辛かったけど、頑張れたんだ。でもね、5年後に俺、家の会社に入ることになったんだ。約束、ごめんね、」

長い髪を雪風にひるがえし、優しい目が見つめてくれる。
そっとマフラーを掻きよせながら、可愛い声が尋ねてくれた。

「やっぱり、泰くんが叔父さまの代わりをするの?」
「うん、」

短い返事と頷いて、泰正は微笑んだ。

「聡嗣にいさんみたいには、俺は優秀じゃないよ。でもね、俺は警察官になったよ。だから夢を叶える自信なら、少しあるんだ、」

こんな自分に優秀な叔父の代わりが務まるはずがない、そう解っている。
けれど自分はもう決めた、この想いを泰正は言葉に変えた。

「警察官になって俺、たくさん泣いたし悔しい事もあった。それ以上に嬉しい事もあって、すごく良い友達も出来たんだ。
この9カ月間は俺にとって、23年間の全部を足した以上の意味がある。だからね、あと5年の間に俺は、もっと成長できる。
警察官の5年間で俺は、家も会社も護れる大きい男になってみせるよ。だから父さんから5年貰ったんだ、それに、約束だから、」

雪風に真紀のマフラーがひるがえって、泰正は手を伸ばした。
そっと衿元に戻してあげると、優しい瞳が泰正に微笑んだ。

「ありがとう。約束って、叔父さまと?」
「うん。聡嗣にいさん、似顔絵捜査官になって大勢の人と出会って、大きい男になれ、って言ってくれたんだ、」

きちんとマフラーを巻きなおして、また手を繋ぎ直す。
ゆっくり歩きだしながら泰正は、自分の許嫁に尋ねた。

「この5年の間に俺は、似顔絵捜査官になるよ。聡嗣にいさんに言われたように、俺は大きい男になる努力をする。
でも5年経ったら俺は辞職する、そして家の会社で平社員からスタートし直すんだ。だから給料も安いし、贅沢は出来ない。
社長になっても気苦労が多いよ。それでも真紀ちゃん、俺のお嫁さんになってくれる?大学卒業したら、本当に結婚して良いの?」

もちろん警察官も簡単な道ではない、けれど企業経営者は社員と家族の人生を背負うことになる。
それは生半可な事ではないと、父と叔父を見て育った自分は知っている、母の姿にも見つめてきた。
父は元気だけれど、50代なのに白髪に近い。それは母も同じで染めていなければ真白だろう。
そんな気苦労を自分の伴侶には、共に背負わせることになる。それを謝る言葉を泰正は告げた。

「真紀ちゃん、俺との結婚が嫌だったら、婚約解消して?遠慮なんかしないで、正直に言ってほしい、よく考えてほしい。
真紀ちゃんと俺は、小さい頃に婚約したよね?俺が小学校に入る時に親が決めて、もうじき17年になる。許嫁な事が当然になってる。
でも、真紀ちゃんも去年、成人式が終ったよ。俺たち、もう大人になったんだ。もう、自分の意志で結婚相手を決められる、だから、」

言いかけた頬を、急に抓られて言葉を呑んだ。
頬を抓った指が冷たくて、寒風に真紀を晒しすぎたことが心配になる。
大丈夫かな?そっと頬抓る指を掌でくるんで、泰正は尋ねた。

「まひちゃん、はむいんやない?ゆひ、ふめたいよ?」
「もう、泰くん、」

抓った指をそのままに、薔薇色の顔が笑いだした。
可笑しくて堪らない、そんなふう笑いながら、けれど優しい瞳から涙がこぼれだす。
その涙がきれいで、泰正は指を伸ばすとそっと目許を拭った。

「泰くんの指こそ、冷たいね、」
「ほう?ほめんね、ふめたかった?」

冷たい指で拭って悪かったな?
そう謝ると真紀は、泣笑いの顔で訊いてくれた。

「泰くんこそ正直に言って?私のこと、好きですか?」

そんなこと決まっているのに?
だって雪の浜辺を延々と歩いてくれる子なんて、そう滅多に見つからない。
頬抓られたままで泰正は微笑んだ。

「ふん、好き、」
「ほんと?…私に、恋してくれてるの?」

そっと頬から指を離して、真紀が見つめてくれる。
その指を掌にくるんだままで、泰正は素直に笑いかけた。

「うん、恋してる。正直に言っちゃうけど、初めて会った婚約の食事会のときから、好きだよ。あのとき俺、ひとめ惚れしたんだ、」

これは自分の本音。真紀は初恋、自分の大切な人。
だからこそ自分の困難になった人生に、真紀を曳きこんでいいのか迷っている。

「あのとき俺、将来は警察官になります、って言ったよね?それで真紀ちゃんが、お巡りさんのお嫁さんになる、って言って。
それで俺、訊いたんだよ。警察官って贅沢とかできないから、今着ているみたいな綺麗な着物とか買えないけど良いの?って。
そうしたら真紀ちゃん、綺麗な着物はいらないから、好きな人と自由に一緒にいたいって言ったんだ。それで俺、本気で好きになった、」

まだ7歳と5歳だった。
おままごとの恋だと笑う人もいるだろう、けれど自分は17年間ずっと、本気だった。
ひとりの警察官として男として、贅沢は出来なくても、ふたり自由な幸せを贈ってあげたかった。
けれどもう、それは叶わない。密やかに涙を飲みこんで泰正は微笑んだ。

「俺は17年間ずっと真紀ちゃんが好きです、ずっと本気で恋してきたよ。だから自由をあげたい、大切だから幸せになってほしい、」

どうか君は幸せでいてほしい。
こんな自分の隣でずっと手を繋いで、いつも支えて来てくれた。笑顔で励ましてくれた。
だから自分に縛られること無く、自由に幸せを選んでほしい。この願い見つめる真中で、幸せな笑顔が花咲いた。

「私は17年間ずっと、優しい泰くんが大好きです。ずっと本気で恋してます、だから約束を守ってね、」

可愛らしい声が、雪曇りの空に明るく響いた。
いま言ったこと本当なのかな?すこし首傾げて泰正は大切な人の目を見つめた。

「ほんとうに良いの?若白髪とかなるかもしれないんだよ、苦労すると思うけど、」

真紀はお嬢様育ちの苦労知らず。
そんな彼女が本当に耐えられるだろうか?そう見つめた先で真紀は笑ってくれた。

「苦労も好きな人と一緒ならね、きっと幸せに出来るんじゃないかなって想うの。そうなるよう、努力するね、」

苦労も幸せに出来る、そう言ってくれる女の子は、きっと滅多にいない。
それを自分に言ってくれる人は、もっといないだろう。
もう自分は覚悟するべきだ、泰正は約束と微笑んだ。

「俺も一緒に努力するよ?だから真紀ちゃん、お嫁さんになって下さい。来年、真紀ちゃんが卒業したら迎えに行かせて、」

どうか「Yes」を訊かせてほしい。
笑顔で応えを見つめた向うから、笑顔が幸せに輝いた。

「はい、お嫁さんにして下さい。きっと卒論忙しいけど、結婚式の準備も頑張ります、」

17年間分の「Yes」を聴かせてくれた。
この想いが幸せで、温かい。この温もりに笑って掌を繋ぎ直すと、泰正は尋ねた。

「婚約指輪、どんなのがいい?見に行こうよ、」

来年の春に結婚するなら、秋には正式な結納だろう。
どんな指輪が真紀には似合うかな?考えながら笑いかけると真紀も微笑んだ。

「好きなデザインでオーダー出来るお店、ってあるかな?安くていいお店、探したいの、」
「うん、探してみようよ。どんなデザインが良いの?」

もう、考えてくれていたんだ?

しかも「安くていいお店」と真紀は言ってくれた、「泰正の給料で買えるもの」がほしいと望んでくれる。
こんなふうに真紀は、家同士が決めた結婚では無くて、自分たち同士で決めた結婚だと想ってくれていた。
こういうのは嬉しい、嬉しくて微笑んだ隣から幸せな笑顔が答えてくれた。

「桃の花のデザインが良いの。初めて会った料亭のお庭に咲いていて、綺麗だったから、」

花好きの真紀らしい答えが可愛らしい、そして記憶の花が愛おしい。
花と許嫁の愛しさに微笑んで、泰正は足を止めた。

「真紀ちゃん、ちょっと待っててくれる?」
「うん、」

素直に頷いてくれる笑顔に笑いかけて、泰正は小さなガラス瓶をコートのポケットから出した。
小瓶の蓋を開いて波打ち際に屈みこむ、その向かいから白い波が静かに浜辺へと走り寄った。
打ち寄せる波が指先と小瓶を浸し、また引いていく。
そして小瓶には、透明な海の潮が納められた。

「この海岸、聡嗣にいさんが好きな場所なんだ。俺のこともよく連れて来てくれてね、ふたりで歩きながら話したんだ」

そっと小瓶に蓋を閉めて、その手元に真紀がハンカチを差し出してくれた。
素直に受け取ると小瓶と指先を拭い、コートのポケットに仕舞いこむ。
そして手を繋ぎ直すと、元来た道を歩き始めた。

「このあと、墓参りして良い?この海の水、聡嗣にいさんに持って行きたいんだ、」
「うん、」

優しい目が微笑んで頷いてくれる。
雪風ひるがえす黒髪を掌で押さえながら、ふと真紀が訊いてくれた。

「泰くん、今日はずっと『俺』って言ってるのね?昨日までは『僕』だったのに、」

気付かれて、ちょっと照れくさい。
けれど素直に笑って泰正は答えた。

「うん、昨夜から『俺』にしたんだ、聡嗣にいさんの後継ぎに決まった時からね、」

笑って答えた向うの彼方、雪の海岸と空の境が明るんだ。
まばゆい白銀の耀きに、もう、青空が映りだす。



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第5話より 道刻―P.S:side story 「陽はまた昇る」

2012-01-02 23:59:46 | 陽はまた昇るP.S
それは道しるべ、道程への鍵




第5話 道刻―P.S:side story 「陽はまた昇る」

ビルの谷間を熱風が吹き抜ける。
コンクリートジャングルなんて新宿を呼ぶけれど、本当にそんな暑さに歩きながら英二はネクタイを弛めた。
アスファルトの照り返しが頬にも熱い、陽射しに目をすこし細めながら隣の黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「湯原、足の調子どう?」
「ん、大丈夫」

ちょっと微笑んで黒目がちの瞳が見上げてくれる。
その額が聡明に清らかで、ちょっと見惚れながら英二はお願いをした。

「なるべく早く買いもの済ませるな。でも湯原、辛かったら絶対すぐ言ってくれよ?」
「ん、解った…でも大丈夫だよ?」

隣は頷いて見上げてくれる、けれど英二は隣がすぐ遠慮する癖を解っている。
少し前に湯原は山岳訓練で怪我を負った、もう大丈夫と校医にも言われているけれど痛みはまだ多少残るだろう。
ここは念押ししたい、英二は口を開いた。

「うん、湯原。我慢とかさ、俺には絶対しないでくれよ?」

言われて隣の瞳がすこし大きくなる。
この顔かわいくて好きだな、うれしくて微笑んで英二は覗いた瞳を見つめた。
見つめられた瞳は1つゆっくり瞬くと、そっと微笑んだ。

「ん、…ありがとう。俺、宮田には割と言えてる、から」

うれしい、「宮田には割と」が嬉しくて仕方ない。
でも、もっと言ってほしいな?うれしくて英二はきれいに笑った。

「おう、言ってくれな?」
「ん、」

素直に頷いてくれる頭が可愛くて、ちょっと英二は困った。
この頭かかえて抱き締めたくなってしまう、けれどそれは出来ないことだから。
こんな想いを自覚して2ヶ月過ぎになる、あの日は英二の外泊禁止が解けた初めての外泊日だった。
あの日は書店で湯原は本を買った、そして初めて一緒に外食して服を贈って。
その街角で元彼女を見かけ嫌な気持ちから、湯原の腕を掴んでひたすら歩いた。
そして偶然たどり着いた公園にある森の中で座ったベンチで、湯原への想いは自覚となって心から肚へ座りこんだ。

― きっとこれが、俺の初恋 誰より居心地のいい隣、これは得難い居場所、唯ひとつの想い

けれど湯原は自分と同じ男で寮の隣人で親しい同期だ、勘違いだろう。そう疑いを自分でも思った。
そして警察学校内での恋愛禁止という規則がある、これを破れば辞職の可能性すら否めない。
この想いは勘違い、どうせ求められないような想いを自分が抱くわけもない。
そう諦めようと何度も自分を納得させようとした。
けれど毎日見るたび心がどこか響いてしまう、そして英二の確信が深まっていく。いま歩いているだけでも。

…きれいに見えるなんて、今まで誰にも無かった

アスファルトとコンクリート、はでやかな看板の埃っぽい街角。
けれど今この隣を歩くひとは、どこか透明で穏やかな静けさに端正な姿勢で佇んでいる。
こんな都会の真ん中でも、陽射しけぶる睫が清らかで見つめてしまう。
きれいで見惚れて目が離せなくて、本音もっと近づきたい。
けれど出来ない、湯原の道と想いを邪魔することは自分には出来ない。

…掴んではいけない

だって知っている、この隣がどんな想いで警察学校に入ったのか。
湯原は殉職した父の真相と想いを見つめるため、警察官の道に立っている。
きっとそれは危険が多い道になる、それも承知で湯原は任官した。
だから湯原は危険に誰も巻き込みたくなくて孤独に生きてきた。そんない端正な姿勢に惹かれてしまう。
なにより湯原の素顔は穏やかで繊細で、優しい純粋な少年のままでいる。そんな湯原の隣は居心地良くて英二は離れられない。

…離れられない、けれど、掴んではいけない

解っている、自分がどういう選択をしたのか。
これは報われない想い、きっと自分こそ孤独な生き方を選んでいる。
それでも自分を誤魔化せなくて、それでも湯原の為に生きたいと想ってしまった。
それがどんなに馬鹿な選択かと思う、きっと尽くしても尽くしても想いは報われないと解っている。
それなのに、この隣が笑ってくれるならそれだけで良い、そんな想いがもう心に座って動けない。

…だからせめて、支えてやれる立場を手に入れる そうして少しでも近くから見つめさせてよ?

だから湯原が立つ道を、支えてやれる道を自分は選ぶ。
この隣を支えてやれるなら、この想いに殉じて自分は生きてみたい。
だって唯ひとりだけ、自分の本音を受けとめ泣かせてくれたひと。
唯ひとりだけだった「きれいな人形」だった自分を解放してくれたひと。
そして唯ひとり、生きる誇りも生きる意味も、その行動で示して教えてくれた、自分の生き方を変えてくれたひと。

…ね、湯原?俺はね、湯原に出会えなかったら、一生ずっと人形だった そしていつか壊れて心すら失ったと思うんだ

だから選ぶ。唯ひとり自分を生かしてくれた、きれいな瞳を守りたいから。
この隣を支えてやれる道に立つことを選んで生きていく。
その覚悟をいまから想いごと時間に刻んで生きていく。

「湯原、ちょっと待ってくれな?」
「ん、…ゆっくり選んで?」
「おう、ありがとうな。でももう見つけたから、すぐだよ」

隣に微笑んで英二は店員に声をかけた。

「すみません、このクライマーウォッチを頂けますか?」

クライマーウォッチは、登山に必要な情報計測の機能が搭載された腕時計。
たとえば高度計を使って、標高差に対する登高タイム計測をすることでペース把握の参考にできる。
これを英二は自分の進路を決めたときから買おうと決めて、2つの候補から1つを選んだ。
在庫があってよかったな、ほっとしながら店員の手元を眺めていると隣から湯原が訊いてくれた。

「宮田、…クライマーウォッチって、登山に使う腕時計か?」
「うん、そうだよ。高度計や気圧計とかさ、コンパスも全部ついているんだ。山では便利でさ、ほしかったんだ」

すこし隣へと体傾けると英二は微笑んだ。
そんな英二を黒目がちの瞳が見上げて、また英二に質問をした。

「…もしかして、本当に奥多摩地域への配属を考えている?」

警視庁の奥多摩地域は東京都では山岳地域になる。
奥多摩は最高峰でも2,000m程度の低山脈だが、都内という気軽さが原因ともなり遭難事故が多い。
そして登山道へのアクセスが容易なゆえに自殺志願者が迷い込みやすく、その死体見分も珍しい業務ではない。
なかでも青梅警察署は東京最高峰の雲取山を管轄にし、年間40件を超える遭難事故が起きている。
その状況は英二も調べて知っている、それでも選びたい。きれいに笑って英二は頷いた。

「うん、俺、出来れば青梅署に行きたいんだ」
「青梅署だと…山岳救助隊を兼務する駐在員だな…原則は経験者しか配属されない、難しいぞ?」

すこし眉を顰めて湯原は英二を見あげている。
これは湯原が言うとおりだと英二も解っていた、山岳経験が無くては山岳救助隊員への任官は難しい。
けれどそのための努力を自分は惜しまない、左手首の腕時計を外しながら英二は微笑んだ。

「うん、解ってる。だから俺さ、努力するよ?最近の俺ってちょっと真面目だろ?」
「ん、…そうだな、宮田は変わったな。…この間の救急法の講義でも、真剣だった」
「だろ?」

湯原と同じ道は自分は選べない、適性も体格も違い過ぎるから。
けれどこの道は適性も能力も自分にはある、そのことに山岳訓練の時からずっと向き合って気づけた。
この道は厳しい道、そして自分には経験すらも未だ無い未踏の道。それでもこの道を選んで自分は守りたい。
この山岳レスキューの道に立つ、それはきっと警察社会の暗部へ向かう湯原すら救うことが出来る道だから。
だからどんなに辛くても、自分はこの道を投げ出さない。

「お待たせいたしました、こちらのお品でよろしいですか?」
「はい、このまま嵌めたいので箱から出していただけますか?」

店員は箱だけ別に包んで、クライマーウォッチを英二に渡してくれた。
濃い紺青色のフレームと濃紺のナイロン生地ベルトが特徴的なクライマーウォッチ。
これからこの腕時計に時間を見つめて、自分が立つ道への想いも努力も刻んでいく。
うれしくて左手首に嵌めながら英二は隣へと微笑んだ。

「湯原。俺はね、山岳救助隊員になりたいんだ」

自分は警視庁山岳救助隊を目指す。
そして職人気質のクライマー、山ヤに自分はなる。
山ヤの警察官である山岳救助隊員は、誇らかな自由に生きる厳しさに立っている。
その厳しさに自分を立たせて強くなりたい、賢くなりたい、そして大切なひとを背負える背中を手に入れたい。

きっと、この道は湯原を支えていく為に自分が出来る唯一つの道。だから自分はそこへ立つ。




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