「Gan EDEN」最高峰の領域
第44話 峰桜act.4―side story「陽はまた昇る」
今日、初めての光が富士に射す。
遥かな東から茜いろ一閃、温かな光が紺青の地平に耀いた。
ゆるやかに茜色の帯は広げられ、あわい金色の雲が暁に呼びだされる。
薄紫やわらかに紺青色を抱きあげ中天へと還しだす、夜が空の彼方へと戻っていく。
黄金の光が茜と薄紫ひるがえし星を呼び、明けの星が瞳ひらいて朝を見つめだす。
紺青、紫、黄金、茜いろ。
天穹ながれだす色彩は、まばゆい光芒に朝を呼ぶ。
そうして呼ばわれた太陽は、今日、最初の光を天地に投げた。
光、射す。
朝に目覚めた白銀が、富士の高嶺に輝いた。
「…きれいだ、」
素直な賞賛の白い息こぼれて、最高峰の風に浚われた。
吹きつける風の塊は氷雪ふくんで頬を撫で、夜明けの冷気に体感温度が抱かれる。
ここは冷厳の支配する冬富士、その実感が皮膚感覚から心に響きだす。
いま、最高峰の壮麗な朝に、自分は佇んでいる。
「ここは、いいな…」
こぼれだす言葉は、白く靄に凍って風とける。
ただ静謐に充ちた光の朝、目覚めたばかりの最高峰は暁を氷雪に映しだす。
北西からの凍れる風が髪なぶる、雪面を駆けあがる風は芽吹きに薫る。
生命なき冷厳の殿堂に、春謳う風がふきぬけるなか英二は東の涯を見つめていた。
―周太?また俺は、ここに立っているよ。最高峰に、
いま、東の方に最愛の恋人は眠っている。
朝の眠りにやさしい吐息こぼして、微睡む夢に微笑んで。
おだやかな眠りの縁でも自分たちの心配と祝福を、夢に祈ってくれている。
それは昨日の夜と暁に告げてくれた、切ない優しい願いと祈りに同じ。この願いへの呼応を抱いて英二は微笑んだ。
「最高峰の朝は大きくて明るいな、きれいだ、」
東の涯を昇る太陽に、雪面に突き刺したピッケルのブレードが光る。
並んでピッケル掴むザイルパートナーは、透明なテノールで朝陽に笑った。
「だろ?これが神の領域の朝だよ、最高だろ?」
標高3,776m剣ヶ峰、富士最高峰。
遮るものない白銀の静寂が、ただ暁の色彩に耀いている。
いま4月の夜明けは零下11.5℃、ときおり風は浚うよう叩きつけ希薄な空気に髪を乱す。
低温、強風、低酸素。この生と死が隣り合わせる光芒の夜明けは、ただ静謐が光輝いて風の音が鼓動を打つ。
この静けさが自分は好きだ、全身を充たしていく歓びに英二は微笑んだ。
「うん、最高だ、」
心あふれる想いに英二は、きれいに笑った。
笑った隣も嬉しげに朝を見つめて、誇らかな自由の声が微笑んだ。
「最高だよね、ここの朝はさ?」
透明なテノールが歓び謳うよう笑っている。
アンザイレンのザイルに繋ぐむこう、底抜けに明るい目が幸せに笑いだす。
「いま、この国の最高に高い場所から、俺たちが見おろしているんだ。いま俺たちが、この国の朝を統べて見おろしているね、」
最高峰の朝、この国でいちばん高い場所の曙光。
その全てをいま、ザイルパートナーと並んで眺めている。
そんな今が愉しい、この場所に立っている「今」へと感謝が心ふれていく。
この想いに親しんだ詩が二節、静謐の朝から見つめだす。
The innocent brightness of a new-born Day Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.
生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる
When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear- …
And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth‘s golden gleam
祝福された季節に、
この心親しき人と、ふたり連れだって…
そして切なき山頂の道しるべ、その上に、あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ
ほんとうに今、この2つの詩みたいだな?
そんな想いに微笑んで眺める「今」この場所に立っている感謝が温かい。
ここは本当に美しい世界、けれど誰もが立てる場所じゃない。この実感が感謝に変わっていく。
― ここは神の領域、「Gan Eden」人間が生きることは、赦されないんだ
冬富士は「神の領域」、最高峰の積雪期は人間の範疇を消して魔の山と化す。
冬期最低気温は零下30℃を下回り気圧も低い、最大瞬間風速は90m/sも超える、冷厳と豪風が死に誘う世界。
この山頂に立つ想いは余人に見つめられない世界、無声の孤独まばゆい蒼穹の点。
この蒼穹の点はエデンのように、人間は氷雪に追放され存在を赦されない。
“Gan Eden”エデンの園、選別・赦されない世界
生命が赦されない冷厳の世界は、吹き抜ける風どこか切ない。
それでも今ここに立っていられる想いには、歓びと寂寥が交ぜ織られていく。
この切ない寂寥裏返し気づかされる感謝に、隣立つ人の温もりが尚更愛しくなる。
いま生命の気配すら赦されない場所で、自分は親友と立っている。ザイルで繋ぎあい共に立ち、喜び笑い合えている。
この神の領域に共に立つ親友との「今」あふれる喜びへ祝福は充ちていく。
この想いを詩に見つめるままに、英二は隣をふり向いた。
「光一?キス、しようか、」
底抜けに明るい目が、朝陽のなか瞠らかれる。
今、なんて言った?―そんな問いを無垢の瞳に見つめて英二はきれいに笑った。
「エデンのキスだよ、」
最高峰まばゆい黄金の朝、英二はザイルパートナーにキスをした。
「…あ、」
ふれた唇、すぐに躊躇いに逃がれて離れてしまう。
けれど心のまま腕掴んで抱きよせながら、英二は雪面へと座りこんだ。
「キス、嫌だ?」
きれいに笑って細い目を覗きこむ。
覗かれた無垢の瞳とまどいながら桜いろ頬そめて、透明なテノールが答えた。
「だから…俺、されるの慣れてないって、言ったよね?…友達でもキス、そんなにしちゃうワケ?おまえ、キス魔?」
初々しい綺麗な貌と、言っていることが不似合いで可笑しい。
ほんと面白いヤツだな?なんだか可愛くて英二は笑ってしまった。
「大好きな相手限定で、キス魔だな?俺、周太の顔見るたびに、キスしてるから、」
「周太は恋人で、婚約者だろ?俺は親友でザイルパートナーだ、そんなにキス、簡単にしちゃってイイわけ?」
桜いろの頬のまま訊いてくる口調が、途惑いから怜悧で明るい普段のトーンになっていく。
どうか幸せに笑ってほしいな?願い見つめながら英二は想ったとおりに答えた。
「いちばんの親友でザイルパートナーで、大好きな相手だよ?だから、キスしたかった、」
「それ、うれしいけどさ?でも、周太に悪いだろ。俺は、周太を泣かせるのは嫌だね、」
うれしい、でも嫌だ。
はっきりと自分の想い告げて、拒絶してくれる。
こんな貞節な面が普段のエロオヤジぶりから意外で、それだけ真剣なんだと伝わってしまう。
この大切な想いに英二は、正直に答えた。
「悪くないよ、周太は喜ぶと思う、」
言葉に、透明な目が大きくなる。
どういうことだろう?そんな問いかけ溢れさす瞳に英二は、昨日の夜と暁の記憶と微笑んだ。
「正直なままに、光一にも接して。そう周太に言われたんだ、俺。
大切な想いは、その時に伝えないと後悔する、いまの一瞬は2度と戻らないから、大切にしてほしい、って。
後悔することなく俺の笑顔がきれいに幸せでいるように、って言われたよ。だから俺は、正直な気持ちで、おまえにキスした、」
この場所で、大切なザイルパートナーとキスでふれたい。
ことん、と想いは自然に起きたから、そのまま自分はキスをした。周太に諭されたよう正直になって。
なにも問題はないよ?そう見つめた先から無垢の瞳が見つめ返して、透明なテノールがこぼれるよう言った。
「…誰かを大切に想うことは悪いことじゃない、恋愛は宝物かもしれない…だから、謝る必要なんてない。そう、周太に言われた、」
抱きよせられた英二の腕の中で、かすかに青いウェアの肩がふるえた。
ちいさく体ふるわせて、それでも無垢の瞳を温かに笑ませて、言葉を続けてくれた。
「謝るのなら、その分だけ英二を守ってほしい、英二の笑顔は俺の宝物だから、守って…そう言われたよ?
たくさん英二が笑ってくれるなら良い、俺が一緒にいると英二は笑えるから一緒にいてあげて、最高峰に連れて行って…って。
だから俺、おまえの傍にいられるんだ…周太のために宮田と一緒にいてほしい、って言ってくれるから…だから俺、いま傍にいられる、」
どうして君は、こんなに優しいの?
いま東の涯で暁に微睡む恋人へ、英二は問いかけた。
自分と国村と、どちらも受けとめ包んで肯定してくれている。
罪悪感を抱くより心のまま笑ってと、翳りない幸せな笑顔を望んでくれる。
この大らかで純粋な愛情が愛しく温かい、最愛の恋人への想いが全身に募ってしまう。
この純粋無垢の祈りに抱かれながら、いま腕に抱く親友へと英二はきれいに笑いかけた。
「傍にいてよ。おまえはさ、最高峰でも俺がキスできる、唯一の相手なんだから、」
唯ひとり、最高峰のキスが赦される相手。
生と死のはざまに立つ冷厳の風の中ですら、温もり与えあうことが出来る唯一の相手。
これは揺るがせない得難く幸福な事実、その想いの真中で底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「なに?こんなとこまで来ても、キスしたいワケ?」
「こんなとこだから、キスしたくなるだろ?おまえだって、剱岳で俺にキスした癖に。ほら、答えてよ?」
笑いかけて応じながら英二は、問いかけた。
なんの問いだろう?すこし不思議そうに見つめた目へと英二は微笑んだ。
「最高峰で、俺とキスするの、嫌だった?」
問いかけに、ゆっくり細い目がひとつ瞬きをする。
桜いろ赤らめたままの顔で困ったよう、けれど幸せに微笑んで応えてくれた。
「嬉しかった、驚いたけど…ね、」
答えて、底抜けに明るい目が羞みながらも笑ってくれる。
この笑顔うれしくて、きれいに笑って英二はザイルパートナーにキスをした。
ふれる唇は、もう逃げない。
ふれられるまま受容れて、ゆるやかに長い睫は伏せられた。
やわらかな温もり確かめ合う、冷厳さらされた頬に吐息がふれる。
重なりあう唇に体温ふれて、重ねられる心まで温度は融けていく。
この生命赦されない最高峰の冷厳に、唯ひとつ、キスが温かい。
浅間神社奥宮の鳥居は棟木だけ残し、真冬の雪に埋もれる。
いま積雪2mを超える山頂は厳冬の世界、けれど陽は明るい春の光に謳いだす。
春の陽に氷雪の鳥居は白銀かがやいて、東の太陽が富士に照り映えていく。
そして雄渾ひろやかな雪面は蒼穹の鏡になった。
「ほら、青氷だね、」
透明なテノールが笑いながら、登山グローブの指が眼下を示す。
示される吉田大沢の翳りには、透ける青磁が眠るよう広がっていた。
「ほんとに青いんだ…」
ひきこむブルーの清明が視線を奪う。
明るい碧玉、けれど深い謎ふくむよう霞むブルーは、高嶺の白衣を彩っていた。
「まさにアイスブルー、って感じだろ?きれいだよね、」
本当にアイスブルー。
密やかに輝く青に見惚れながら、英二はきれいに笑った。
「うん、本当にきれいだ。見られて良かったよ、」
「だろ?さて、一挙に6合目まで降りよっかね、」
笑いかけて国村は吉田口へと踵を返した。
並んで英二も雪面に踏み出し、眼下広がる白銀へ微笑んだ。
「すごいな、冬富士は。どこまでも真っ白で広い」
「うん、ホントに巨大滑り台だよね、」
からり笑う声が、愉快な楽しみに明るい。
やっぱりあれをやるのかな?予想を考えながら英二は、サングラスの向こうを覗き込んだ。
「七合目から、あれやるんだ?」
「そ。宮田は未体験ゾーンだね、やってみたいだろ?」
愉しそうなテノールが「勿論やるよね、」と聞いてくれる。
この誘い掛けに英二は素直に頷いた。
「うん、やってみたい」
「そうこなくっちゃね、」
サングラス透かして悪戯っ子の目が笑っている。
アイゼンを締雪に鳴らしながら、国村は注意を教えてくれた。
「ただヤリすぎはさ、後で後悔するはめになるからね。気をつけてよ」
「その辺も教えてくれな、」
笑いながら降りていく雪面がまばゆい。
ひろやかな空と光る斜面の青と白、それだけの世界を風の気配だけが通ってゆく。
春光にすこし緩んだ雪踏むアイゼンの音、自分とパートナーの吐息、それだけが微かに聞こえている。
無音、青と白。この時と空間が消える世界を下り、七合目に至った。
「うん、雪もちょうどイイ感じに腐ってる。お楽しみタイム、始めよっかね、」
振り向いた底抜けに明るい目が、愉快に笑いだしている。
ピッケルのピックを指さしながら国村は説明し始めた。
「このピックをブレーキにしてスピード調整するんだ、あんまり暴走するとケツ剥けるからね、」
「うん、おまえのスピードについていけば良いよな?」
話しながら英二はアンザイレンザイルを外していく。
国村も外してザイルを巻きとり、きれいに斜め掛けすると頷いた。
「だね。ちゃんと俺に着いて来てね、じゃ、行くよ」
愉快な笑顔を見せると国村は、白銀の斜面へとピッケル構えて滑りこんだ。
すこしの間で青いウェア姿が遠ざかる、真似て英二も足から雪に滑らせた。
ざりっ、
雪原に下肢が着氷する音が立ち、下降に体惹きこまれる。
薄い霙と分厚い締雪の感触が、ウェア透かして脚に伝わり、視界が流れ出す。
氷雪の大斜面が迫り後へ消えていく、風の低温が頬ふれ髪を乱し奔りぬける。
風が、気持ちいい。
おおらかな青と白の空間駆け下る、疾走感が愉しい。
駆け下るスピードを、ピッケルのピックを雪面に立て制動していく。
すぐに青いウェアが座りこむ地点へ到達して、英二もピック突き立てストップした。
「おめでとう、シリセード初・体・験。ご感想は?」
からり底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
たった今を奔りぬけた真白な大斜面を仰ぎながら、英二は笑って答えた。
「すげえ気持ちよかった。これ、いいな?」
「だろ?でもね、ヤリ過ぎるとウェアのケツが、ぼろぼろに傷んじゃうんだよね。これくらいの距離と雪質なら平気だと思うけど、」
話しながら立ち上がって、ウェアの雪を払い落とす。
お互いに確認してみるとウェアのパンツは無事だった。
「よかった、これなら問題ないね、」
「うん、スピード調整が良かったみたいだな、」
サングラスの顔見合わせ、笑いあう。
このスタイルの顔も今冬で互いにすっかり見慣れている。
こうして一緒に雪山の世界を幾度佇んだろう?この冬に微笑んで英二は最高峰を見あげた。
「最高峰の滑り台、すごい迫力だな、」
見あげる富士は、大らかな白銀の裾ひろげ見おろしてくる。
あの天辺にさっきまで立って、あっという間に下降してきた。
ほんとうに最高の滑り台になるんだな?そんな実感に国村も笑って答えた。
「だろ?マジ日本一の滑り台だよね、女神さまの着物はさ、」
「女神?」
訊き返し英二は隣のザイルパートナーを見た。
視線受けたサングラスの奥で、透明な細い目がひとつ瞬いて教えてくれた。
「富士山ってね、木花咲耶姫っていう女神さまの山なんだよ。馬返しで手に降ってきた桜の花、あれは彼女の花なんだ、」
「桜の花の女神、ってこと?」
「そ、」
頷いて国村も、視線を山頂へ向ける。
いま標高2,390m六合目付近、ここから山頂まで1,386mの高度差が聳え立つ。
ひろやかな白銀の裾ひいて、青氷の碧玉飾る優美な姿は女神と呼ぶに相応しい。
けれど、まとう冷厳に生命の住むこと赦さず、蒼穹から呼ぶ豪風と雪煙のベールに命浚いこむ。
この国で最も高く冬の冷厳険しい山が、春輝かす桜の女神。そんな相反する表裏備えた最高峰に英二は微笑んだ。
「エベレスト並に厳しい冬山の正体が、桜の女神なんだ?なんか、かっこいいな、」
「うん、最高な別嬪だよね、」
山頂から英二に視線を向けて、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
視線に英二も笑い返すと、ふっと雪白の貌が微笑んだ。
「おまえみたい、」
ひと言、透明なテノールは告げると踵を返した。
【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI/「The Prelide(1805)」(5)Spots of Time―When,in a blessed season】
(to be continued)
blogramランキング参加中!
にほんブログ村
第44話 峰桜act.4―side story「陽はまた昇る」
今日、初めての光が富士に射す。
遥かな東から茜いろ一閃、温かな光が紺青の地平に耀いた。
ゆるやかに茜色の帯は広げられ、あわい金色の雲が暁に呼びだされる。
薄紫やわらかに紺青色を抱きあげ中天へと還しだす、夜が空の彼方へと戻っていく。
黄金の光が茜と薄紫ひるがえし星を呼び、明けの星が瞳ひらいて朝を見つめだす。
紺青、紫、黄金、茜いろ。
天穹ながれだす色彩は、まばゆい光芒に朝を呼ぶ。
そうして呼ばわれた太陽は、今日、最初の光を天地に投げた。
光、射す。
朝に目覚めた白銀が、富士の高嶺に輝いた。
「…きれいだ、」
素直な賞賛の白い息こぼれて、最高峰の風に浚われた。
吹きつける風の塊は氷雪ふくんで頬を撫で、夜明けの冷気に体感温度が抱かれる。
ここは冷厳の支配する冬富士、その実感が皮膚感覚から心に響きだす。
いま、最高峰の壮麗な朝に、自分は佇んでいる。
「ここは、いいな…」
こぼれだす言葉は、白く靄に凍って風とける。
ただ静謐に充ちた光の朝、目覚めたばかりの最高峰は暁を氷雪に映しだす。
北西からの凍れる風が髪なぶる、雪面を駆けあがる風は芽吹きに薫る。
生命なき冷厳の殿堂に、春謳う風がふきぬけるなか英二は東の涯を見つめていた。
―周太?また俺は、ここに立っているよ。最高峰に、
いま、東の方に最愛の恋人は眠っている。
朝の眠りにやさしい吐息こぼして、微睡む夢に微笑んで。
おだやかな眠りの縁でも自分たちの心配と祝福を、夢に祈ってくれている。
それは昨日の夜と暁に告げてくれた、切ない優しい願いと祈りに同じ。この願いへの呼応を抱いて英二は微笑んだ。
「最高峰の朝は大きくて明るいな、きれいだ、」
東の涯を昇る太陽に、雪面に突き刺したピッケルのブレードが光る。
並んでピッケル掴むザイルパートナーは、透明なテノールで朝陽に笑った。
「だろ?これが神の領域の朝だよ、最高だろ?」
標高3,776m剣ヶ峰、富士最高峰。
遮るものない白銀の静寂が、ただ暁の色彩に耀いている。
いま4月の夜明けは零下11.5℃、ときおり風は浚うよう叩きつけ希薄な空気に髪を乱す。
低温、強風、低酸素。この生と死が隣り合わせる光芒の夜明けは、ただ静謐が光輝いて風の音が鼓動を打つ。
この静けさが自分は好きだ、全身を充たしていく歓びに英二は微笑んだ。
「うん、最高だ、」
心あふれる想いに英二は、きれいに笑った。
笑った隣も嬉しげに朝を見つめて、誇らかな自由の声が微笑んだ。
「最高だよね、ここの朝はさ?」
透明なテノールが歓び謳うよう笑っている。
アンザイレンのザイルに繋ぐむこう、底抜けに明るい目が幸せに笑いだす。
「いま、この国の最高に高い場所から、俺たちが見おろしているんだ。いま俺たちが、この国の朝を統べて見おろしているね、」
最高峰の朝、この国でいちばん高い場所の曙光。
その全てをいま、ザイルパートナーと並んで眺めている。
そんな今が愉しい、この場所に立っている「今」へと感謝が心ふれていく。
この想いに親しんだ詩が二節、静謐の朝から見つめだす。
The innocent brightness of a new-born Day Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.
生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる
When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear- …
And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth‘s golden gleam
祝福された季節に、
この心親しき人と、ふたり連れだって…
そして切なき山頂の道しるべ、その上に、あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ
ほんとうに今、この2つの詩みたいだな?
そんな想いに微笑んで眺める「今」この場所に立っている感謝が温かい。
ここは本当に美しい世界、けれど誰もが立てる場所じゃない。この実感が感謝に変わっていく。
― ここは神の領域、「Gan Eden」人間が生きることは、赦されないんだ
冬富士は「神の領域」、最高峰の積雪期は人間の範疇を消して魔の山と化す。
冬期最低気温は零下30℃を下回り気圧も低い、最大瞬間風速は90m/sも超える、冷厳と豪風が死に誘う世界。
この山頂に立つ想いは余人に見つめられない世界、無声の孤独まばゆい蒼穹の点。
この蒼穹の点はエデンのように、人間は氷雪に追放され存在を赦されない。
“Gan Eden”エデンの園、選別・赦されない世界
生命が赦されない冷厳の世界は、吹き抜ける風どこか切ない。
それでも今ここに立っていられる想いには、歓びと寂寥が交ぜ織られていく。
この切ない寂寥裏返し気づかされる感謝に、隣立つ人の温もりが尚更愛しくなる。
いま生命の気配すら赦されない場所で、自分は親友と立っている。ザイルで繋ぎあい共に立ち、喜び笑い合えている。
この神の領域に共に立つ親友との「今」あふれる喜びへ祝福は充ちていく。
この想いを詩に見つめるままに、英二は隣をふり向いた。
「光一?キス、しようか、」
底抜けに明るい目が、朝陽のなか瞠らかれる。
今、なんて言った?―そんな問いを無垢の瞳に見つめて英二はきれいに笑った。
「エデンのキスだよ、」
最高峰まばゆい黄金の朝、英二はザイルパートナーにキスをした。
「…あ、」
ふれた唇、すぐに躊躇いに逃がれて離れてしまう。
けれど心のまま腕掴んで抱きよせながら、英二は雪面へと座りこんだ。
「キス、嫌だ?」
きれいに笑って細い目を覗きこむ。
覗かれた無垢の瞳とまどいながら桜いろ頬そめて、透明なテノールが答えた。
「だから…俺、されるの慣れてないって、言ったよね?…友達でもキス、そんなにしちゃうワケ?おまえ、キス魔?」
初々しい綺麗な貌と、言っていることが不似合いで可笑しい。
ほんと面白いヤツだな?なんだか可愛くて英二は笑ってしまった。
「大好きな相手限定で、キス魔だな?俺、周太の顔見るたびに、キスしてるから、」
「周太は恋人で、婚約者だろ?俺は親友でザイルパートナーだ、そんなにキス、簡単にしちゃってイイわけ?」
桜いろの頬のまま訊いてくる口調が、途惑いから怜悧で明るい普段のトーンになっていく。
どうか幸せに笑ってほしいな?願い見つめながら英二は想ったとおりに答えた。
「いちばんの親友でザイルパートナーで、大好きな相手だよ?だから、キスしたかった、」
「それ、うれしいけどさ?でも、周太に悪いだろ。俺は、周太を泣かせるのは嫌だね、」
うれしい、でも嫌だ。
はっきりと自分の想い告げて、拒絶してくれる。
こんな貞節な面が普段のエロオヤジぶりから意外で、それだけ真剣なんだと伝わってしまう。
この大切な想いに英二は、正直に答えた。
「悪くないよ、周太は喜ぶと思う、」
言葉に、透明な目が大きくなる。
どういうことだろう?そんな問いかけ溢れさす瞳に英二は、昨日の夜と暁の記憶と微笑んだ。
「正直なままに、光一にも接して。そう周太に言われたんだ、俺。
大切な想いは、その時に伝えないと後悔する、いまの一瞬は2度と戻らないから、大切にしてほしい、って。
後悔することなく俺の笑顔がきれいに幸せでいるように、って言われたよ。だから俺は、正直な気持ちで、おまえにキスした、」
この場所で、大切なザイルパートナーとキスでふれたい。
ことん、と想いは自然に起きたから、そのまま自分はキスをした。周太に諭されたよう正直になって。
なにも問題はないよ?そう見つめた先から無垢の瞳が見つめ返して、透明なテノールがこぼれるよう言った。
「…誰かを大切に想うことは悪いことじゃない、恋愛は宝物かもしれない…だから、謝る必要なんてない。そう、周太に言われた、」
抱きよせられた英二の腕の中で、かすかに青いウェアの肩がふるえた。
ちいさく体ふるわせて、それでも無垢の瞳を温かに笑ませて、言葉を続けてくれた。
「謝るのなら、その分だけ英二を守ってほしい、英二の笑顔は俺の宝物だから、守って…そう言われたよ?
たくさん英二が笑ってくれるなら良い、俺が一緒にいると英二は笑えるから一緒にいてあげて、最高峰に連れて行って…って。
だから俺、おまえの傍にいられるんだ…周太のために宮田と一緒にいてほしい、って言ってくれるから…だから俺、いま傍にいられる、」
どうして君は、こんなに優しいの?
いま東の涯で暁に微睡む恋人へ、英二は問いかけた。
自分と国村と、どちらも受けとめ包んで肯定してくれている。
罪悪感を抱くより心のまま笑ってと、翳りない幸せな笑顔を望んでくれる。
この大らかで純粋な愛情が愛しく温かい、最愛の恋人への想いが全身に募ってしまう。
この純粋無垢の祈りに抱かれながら、いま腕に抱く親友へと英二はきれいに笑いかけた。
「傍にいてよ。おまえはさ、最高峰でも俺がキスできる、唯一の相手なんだから、」
唯ひとり、最高峰のキスが赦される相手。
生と死のはざまに立つ冷厳の風の中ですら、温もり与えあうことが出来る唯一の相手。
これは揺るがせない得難く幸福な事実、その想いの真中で底抜けに明るい目が笑ってくれた。
「なに?こんなとこまで来ても、キスしたいワケ?」
「こんなとこだから、キスしたくなるだろ?おまえだって、剱岳で俺にキスした癖に。ほら、答えてよ?」
笑いかけて応じながら英二は、問いかけた。
なんの問いだろう?すこし不思議そうに見つめた目へと英二は微笑んだ。
「最高峰で、俺とキスするの、嫌だった?」
問いかけに、ゆっくり細い目がひとつ瞬きをする。
桜いろ赤らめたままの顔で困ったよう、けれど幸せに微笑んで応えてくれた。
「嬉しかった、驚いたけど…ね、」
答えて、底抜けに明るい目が羞みながらも笑ってくれる。
この笑顔うれしくて、きれいに笑って英二はザイルパートナーにキスをした。
ふれる唇は、もう逃げない。
ふれられるまま受容れて、ゆるやかに長い睫は伏せられた。
やわらかな温もり確かめ合う、冷厳さらされた頬に吐息がふれる。
重なりあう唇に体温ふれて、重ねられる心まで温度は融けていく。
この生命赦されない最高峰の冷厳に、唯ひとつ、キスが温かい。
浅間神社奥宮の鳥居は棟木だけ残し、真冬の雪に埋もれる。
いま積雪2mを超える山頂は厳冬の世界、けれど陽は明るい春の光に謳いだす。
春の陽に氷雪の鳥居は白銀かがやいて、東の太陽が富士に照り映えていく。
そして雄渾ひろやかな雪面は蒼穹の鏡になった。
「ほら、青氷だね、」
透明なテノールが笑いながら、登山グローブの指が眼下を示す。
示される吉田大沢の翳りには、透ける青磁が眠るよう広がっていた。
「ほんとに青いんだ…」
ひきこむブルーの清明が視線を奪う。
明るい碧玉、けれど深い謎ふくむよう霞むブルーは、高嶺の白衣を彩っていた。
「まさにアイスブルー、って感じだろ?きれいだよね、」
本当にアイスブルー。
密やかに輝く青に見惚れながら、英二はきれいに笑った。
「うん、本当にきれいだ。見られて良かったよ、」
「だろ?さて、一挙に6合目まで降りよっかね、」
笑いかけて国村は吉田口へと踵を返した。
並んで英二も雪面に踏み出し、眼下広がる白銀へ微笑んだ。
「すごいな、冬富士は。どこまでも真っ白で広い」
「うん、ホントに巨大滑り台だよね、」
からり笑う声が、愉快な楽しみに明るい。
やっぱりあれをやるのかな?予想を考えながら英二は、サングラスの向こうを覗き込んだ。
「七合目から、あれやるんだ?」
「そ。宮田は未体験ゾーンだね、やってみたいだろ?」
愉しそうなテノールが「勿論やるよね、」と聞いてくれる。
この誘い掛けに英二は素直に頷いた。
「うん、やってみたい」
「そうこなくっちゃね、」
サングラス透かして悪戯っ子の目が笑っている。
アイゼンを締雪に鳴らしながら、国村は注意を教えてくれた。
「ただヤリすぎはさ、後で後悔するはめになるからね。気をつけてよ」
「その辺も教えてくれな、」
笑いながら降りていく雪面がまばゆい。
ひろやかな空と光る斜面の青と白、それだけの世界を風の気配だけが通ってゆく。
春光にすこし緩んだ雪踏むアイゼンの音、自分とパートナーの吐息、それだけが微かに聞こえている。
無音、青と白。この時と空間が消える世界を下り、七合目に至った。
「うん、雪もちょうどイイ感じに腐ってる。お楽しみタイム、始めよっかね、」
振り向いた底抜けに明るい目が、愉快に笑いだしている。
ピッケルのピックを指さしながら国村は説明し始めた。
「このピックをブレーキにしてスピード調整するんだ、あんまり暴走するとケツ剥けるからね、」
「うん、おまえのスピードについていけば良いよな?」
話しながら英二はアンザイレンザイルを外していく。
国村も外してザイルを巻きとり、きれいに斜め掛けすると頷いた。
「だね。ちゃんと俺に着いて来てね、じゃ、行くよ」
愉快な笑顔を見せると国村は、白銀の斜面へとピッケル構えて滑りこんだ。
すこしの間で青いウェア姿が遠ざかる、真似て英二も足から雪に滑らせた。
ざりっ、
雪原に下肢が着氷する音が立ち、下降に体惹きこまれる。
薄い霙と分厚い締雪の感触が、ウェア透かして脚に伝わり、視界が流れ出す。
氷雪の大斜面が迫り後へ消えていく、風の低温が頬ふれ髪を乱し奔りぬける。
風が、気持ちいい。
おおらかな青と白の空間駆け下る、疾走感が愉しい。
駆け下るスピードを、ピッケルのピックを雪面に立て制動していく。
すぐに青いウェアが座りこむ地点へ到達して、英二もピック突き立てストップした。
「おめでとう、シリセード初・体・験。ご感想は?」
からり底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
たった今を奔りぬけた真白な大斜面を仰ぎながら、英二は笑って答えた。
「すげえ気持ちよかった。これ、いいな?」
「だろ?でもね、ヤリ過ぎるとウェアのケツが、ぼろぼろに傷んじゃうんだよね。これくらいの距離と雪質なら平気だと思うけど、」
話しながら立ち上がって、ウェアの雪を払い落とす。
お互いに確認してみるとウェアのパンツは無事だった。
「よかった、これなら問題ないね、」
「うん、スピード調整が良かったみたいだな、」
サングラスの顔見合わせ、笑いあう。
このスタイルの顔も今冬で互いにすっかり見慣れている。
こうして一緒に雪山の世界を幾度佇んだろう?この冬に微笑んで英二は最高峰を見あげた。
「最高峰の滑り台、すごい迫力だな、」
見あげる富士は、大らかな白銀の裾ひろげ見おろしてくる。
あの天辺にさっきまで立って、あっという間に下降してきた。
ほんとうに最高の滑り台になるんだな?そんな実感に国村も笑って答えた。
「だろ?マジ日本一の滑り台だよね、女神さまの着物はさ、」
「女神?」
訊き返し英二は隣のザイルパートナーを見た。
視線受けたサングラスの奥で、透明な細い目がひとつ瞬いて教えてくれた。
「富士山ってね、木花咲耶姫っていう女神さまの山なんだよ。馬返しで手に降ってきた桜の花、あれは彼女の花なんだ、」
「桜の花の女神、ってこと?」
「そ、」
頷いて国村も、視線を山頂へ向ける。
いま標高2,390m六合目付近、ここから山頂まで1,386mの高度差が聳え立つ。
ひろやかな白銀の裾ひいて、青氷の碧玉飾る優美な姿は女神と呼ぶに相応しい。
けれど、まとう冷厳に生命の住むこと赦さず、蒼穹から呼ぶ豪風と雪煙のベールに命浚いこむ。
この国で最も高く冬の冷厳険しい山が、春輝かす桜の女神。そんな相反する表裏備えた最高峰に英二は微笑んだ。
「エベレスト並に厳しい冬山の正体が、桜の女神なんだ?なんか、かっこいいな、」
「うん、最高な別嬪だよね、」
山頂から英二に視線を向けて、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
視線に英二も笑い返すと、ふっと雪白の貌が微笑んだ。
「おまえみたい、」
ひと言、透明なテノールは告げると踵を返した。
【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI/「The Prelide(1805)」(5)Spots of Time―When,in a blessed season】
(to be continued)
blogramランキング参加中!
にほんブログ村