萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第44話 峰桜act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-05-31 23:58:43 | 陽はまた昇るside story
「Gan EDEN」最高峰の領域



第44話 峰桜act.4―side story「陽はまた昇る」

今日、初めての光が富士に射す。

遥かな東から茜いろ一閃、温かな光が紺青の地平に耀いた。
ゆるやかに茜色の帯は広げられ、あわい金色の雲が暁に呼びだされる。
薄紫やわらかに紺青色を抱きあげ中天へと還しだす、夜が空の彼方へと戻っていく。
黄金の光が茜と薄紫ひるがえし星を呼び、明けの星が瞳ひらいて朝を見つめだす。

紺青、紫、黄金、茜いろ。
天穹ながれだす色彩は、まばゆい光芒に朝を呼ぶ。
そうして呼ばわれた太陽は、今日、最初の光を天地に投げた。

光、射す。
朝に目覚めた白銀が、富士の高嶺に輝いた。

「…きれいだ、」

素直な賞賛の白い息こぼれて、最高峰の風に浚われた。
吹きつける風の塊は氷雪ふくんで頬を撫で、夜明けの冷気に体感温度が抱かれる。
ここは冷厳の支配する冬富士、その実感が皮膚感覚から心に響きだす。
いま、最高峰の壮麗な朝に、自分は佇んでいる。

「ここは、いいな…」

こぼれだす言葉は、白く靄に凍って風とける。
ただ静謐に充ちた光の朝、目覚めたばかりの最高峰は暁を氷雪に映しだす。
北西からの凍れる風が髪なぶる、雪面を駆けあがる風は芽吹きに薫る。
生命なき冷厳の殿堂に、春謳う風がふきぬけるなか英二は東の涯を見つめていた。

―周太?また俺は、ここに立っているよ。最高峰に、

いま、東の方に最愛の恋人は眠っている。
朝の眠りにやさしい吐息こぼして、微睡む夢に微笑んで。
おだやかな眠りの縁でも自分たちの心配と祝福を、夢に祈ってくれている。
それは昨日の夜と暁に告げてくれた、切ない優しい願いと祈りに同じ。この願いへの呼応を抱いて英二は微笑んだ。

「最高峰の朝は大きくて明るいな、きれいだ、」

東の涯を昇る太陽に、雪面に突き刺したピッケルのブレードが光る。
並んでピッケル掴むザイルパートナーは、透明なテノールで朝陽に笑った。

「だろ?これが神の領域の朝だよ、最高だろ?」

標高3,776m剣ヶ峰、富士最高峰。
遮るものない白銀の静寂が、ただ暁の色彩に耀いている。
いま4月の夜明けは零下11.5℃、ときおり風は浚うよう叩きつけ希薄な空気に髪を乱す。
低温、強風、低酸素。この生と死が隣り合わせる光芒の夜明けは、ただ静謐が光輝いて風の音が鼓動を打つ。
この静けさが自分は好きだ、全身を充たしていく歓びに英二は微笑んだ。

「うん、最高だ、」

心あふれる想いに英二は、きれいに笑った。
笑った隣も嬉しげに朝を見つめて、誇らかな自由の声が微笑んだ。

「最高だよね、ここの朝はさ?」

透明なテノールが歓び謳うよう笑っている。
アンザイレンのザイルに繋ぐむこう、底抜けに明るい目が幸せに笑いだす。

「いま、この国の最高に高い場所から、俺たちが見おろしているんだ。いま俺たちが、この国の朝を統べて見おろしているね、」

最高峰の朝、この国でいちばん高い場所の曙光。
その全てをいま、ザイルパートナーと並んで眺めている。
そんな今が愉しい、この場所に立っている「今」へと感謝が心ふれていく。
この想いに親しんだ詩が二節、静謐の朝から見つめだす。

The innocent brightness of a new-born Day  Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

  生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
  沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
  時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
  生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
  慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる

When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear- …
And on the melancholy beacon,fell The spirit of pleasure and youth‘s golden gleam

  祝福された季節に、
  この心親しき人と、ふたり連れだって…
  そして切なき山頂の道しるべ、その上に、あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ

ほんとうに今、この2つの詩みたいだな?
そんな想いに微笑んで眺める「今」この場所に立っている感謝が温かい。
ここは本当に美しい世界、けれど誰もが立てる場所じゃない。この実感が感謝に変わっていく。

― ここは神の領域、「Gan Eden」人間が生きることは、赦されないんだ

冬富士は「神の領域」、最高峰の積雪期は人間の範疇を消して魔の山と化す。
冬期最低気温は零下30℃を下回り気圧も低い、最大瞬間風速は90m/sも超える、冷厳と豪風が死に誘う世界。
この山頂に立つ想いは余人に見つめられない世界、無声の孤独まばゆい蒼穹の点。
この蒼穹の点はエデンのように、人間は氷雪に追放され存在を赦されない。

“Gan Eden”エデンの園、選別・赦されない世界

生命が赦されない冷厳の世界は、吹き抜ける風どこか切ない。
それでも今ここに立っていられる想いには、歓びと寂寥が交ぜ織られていく。
この切ない寂寥裏返し気づかされる感謝に、隣立つ人の温もりが尚更愛しくなる。
いま生命の気配すら赦されない場所で、自分は親友と立っている。ザイルで繋ぎあい共に立ち、喜び笑い合えている。
この神の領域に共に立つ親友との「今」あふれる喜びへ祝福は充ちていく。
この想いを詩に見つめるままに、英二は隣をふり向いた。

「光一?キス、しようか、」

底抜けに明るい目が、朝陽のなか瞠らかれる。
今、なんて言った?―そんな問いを無垢の瞳に見つめて英二はきれいに笑った。

「エデンのキスだよ、」

最高峰まばゆい黄金の朝、英二はザイルパートナーにキスをした。

「…あ、」

ふれた唇、すぐに躊躇いに逃がれて離れてしまう。
けれど心のまま腕掴んで抱きよせながら、英二は雪面へと座りこんだ。

「キス、嫌だ?」

きれいに笑って細い目を覗きこむ。
覗かれた無垢の瞳とまどいながら桜いろ頬そめて、透明なテノールが答えた。

「だから…俺、されるの慣れてないって、言ったよね?…友達でもキス、そんなにしちゃうワケ?おまえ、キス魔?」

初々しい綺麗な貌と、言っていることが不似合いで可笑しい。
ほんと面白いヤツだな?なんだか可愛くて英二は笑ってしまった。

「大好きな相手限定で、キス魔だな?俺、周太の顔見るたびに、キスしてるから、」
「周太は恋人で、婚約者だろ?俺は親友でザイルパートナーだ、そんなにキス、簡単にしちゃってイイわけ?」

桜いろの頬のまま訊いてくる口調が、途惑いから怜悧で明るい普段のトーンになっていく。
どうか幸せに笑ってほしいな?願い見つめながら英二は想ったとおりに答えた。

「いちばんの親友でザイルパートナーで、大好きな相手だよ?だから、キスしたかった、」
「それ、うれしいけどさ?でも、周太に悪いだろ。俺は、周太を泣かせるのは嫌だね、」

うれしい、でも嫌だ。
はっきりと自分の想い告げて、拒絶してくれる。
こんな貞節な面が普段のエロオヤジぶりから意外で、それだけ真剣なんだと伝わってしまう。
この大切な想いに英二は、正直に答えた。

「悪くないよ、周太は喜ぶと思う、」

言葉に、透明な目が大きくなる。
どういうことだろう?そんな問いかけ溢れさす瞳に英二は、昨日の夜と暁の記憶と微笑んだ。

「正直なままに、光一にも接して。そう周太に言われたんだ、俺。
大切な想いは、その時に伝えないと後悔する、いまの一瞬は2度と戻らないから、大切にしてほしい、って。
後悔することなく俺の笑顔がきれいに幸せでいるように、って言われたよ。だから俺は、正直な気持ちで、おまえにキスした、」

この場所で、大切なザイルパートナーとキスでふれたい。
ことん、と想いは自然に起きたから、そのまま自分はキスをした。周太に諭されたよう正直になって。
なにも問題はないよ?そう見つめた先から無垢の瞳が見つめ返して、透明なテノールがこぼれるよう言った。

「…誰かを大切に想うことは悪いことじゃない、恋愛は宝物かもしれない…だから、謝る必要なんてない。そう、周太に言われた、」

抱きよせられた英二の腕の中で、かすかに青いウェアの肩がふるえた。
ちいさく体ふるわせて、それでも無垢の瞳を温かに笑ませて、言葉を続けてくれた。

「謝るのなら、その分だけ英二を守ってほしい、英二の笑顔は俺の宝物だから、守って…そう言われたよ?
たくさん英二が笑ってくれるなら良い、俺が一緒にいると英二は笑えるから一緒にいてあげて、最高峰に連れて行って…って。
だから俺、おまえの傍にいられるんだ…周太のために宮田と一緒にいてほしい、って言ってくれるから…だから俺、いま傍にいられる、」

どうして君は、こんなに優しいの?

いま東の涯で暁に微睡む恋人へ、英二は問いかけた。
自分と国村と、どちらも受けとめ包んで肯定してくれている。
罪悪感を抱くより心のまま笑ってと、翳りない幸せな笑顔を望んでくれる。
この大らかで純粋な愛情が愛しく温かい、最愛の恋人への想いが全身に募ってしまう。
この純粋無垢の祈りに抱かれながら、いま腕に抱く親友へと英二はきれいに笑いかけた。

「傍にいてよ。おまえはさ、最高峰でも俺がキスできる、唯一の相手なんだから、」

唯ひとり、最高峰のキスが赦される相手。
生と死のはざまに立つ冷厳の風の中ですら、温もり与えあうことが出来る唯一の相手。
これは揺るがせない得難く幸福な事実、その想いの真中で底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「なに?こんなとこまで来ても、キスしたいワケ?」
「こんなとこだから、キスしたくなるだろ?おまえだって、剱岳で俺にキスした癖に。ほら、答えてよ?」

笑いかけて応じながら英二は、問いかけた。
なんの問いだろう?すこし不思議そうに見つめた目へと英二は微笑んだ。

「最高峰で、俺とキスするの、嫌だった?」

問いかけに、ゆっくり細い目がひとつ瞬きをする。
桜いろ赤らめたままの顔で困ったよう、けれど幸せに微笑んで応えてくれた。

「嬉しかった、驚いたけど…ね、」

答えて、底抜けに明るい目が羞みながらも笑ってくれる。
この笑顔うれしくて、きれいに笑って英二はザイルパートナーにキスをした。

ふれる唇は、もう逃げない。
ふれられるまま受容れて、ゆるやかに長い睫は伏せられた。

やわらかな温もり確かめ合う、冷厳さらされた頬に吐息がふれる。
重なりあう唇に体温ふれて、重ねられる心まで温度は融けていく。
この生命赦されない最高峰の冷厳に、唯ひとつ、キスが温かい。



浅間神社奥宮の鳥居は棟木だけ残し、真冬の雪に埋もれる。
いま積雪2mを超える山頂は厳冬の世界、けれど陽は明るい春の光に謳いだす。
春の陽に氷雪の鳥居は白銀かがやいて、東の太陽が富士に照り映えていく。
そして雄渾ひろやかな雪面は蒼穹の鏡になった。

「ほら、青氷だね、」

透明なテノールが笑いながら、登山グローブの指が眼下を示す。
示される吉田大沢の翳りには、透ける青磁が眠るよう広がっていた。

「ほんとに青いんだ…」

ひきこむブルーの清明が視線を奪う。
明るい碧玉、けれど深い謎ふくむよう霞むブルーは、高嶺の白衣を彩っていた。

「まさにアイスブルー、って感じだろ?きれいだよね、」

本当にアイスブルー。
密やかに輝く青に見惚れながら、英二はきれいに笑った。

「うん、本当にきれいだ。見られて良かったよ、」
「だろ?さて、一挙に6合目まで降りよっかね、」

笑いかけて国村は吉田口へと踵を返した。
並んで英二も雪面に踏み出し、眼下広がる白銀へ微笑んだ。

「すごいな、冬富士は。どこまでも真っ白で広い」
「うん、ホントに巨大滑り台だよね、」

からり笑う声が、愉快な楽しみに明るい。
やっぱりあれをやるのかな?予想を考えながら英二は、サングラスの向こうを覗き込んだ。

「七合目から、あれやるんだ?」
「そ。宮田は未体験ゾーンだね、やってみたいだろ?」

愉しそうなテノールが「勿論やるよね、」と聞いてくれる。
この誘い掛けに英二は素直に頷いた。

「うん、やってみたい」
「そうこなくっちゃね、」

サングラス透かして悪戯っ子の目が笑っている。
アイゼンを締雪に鳴らしながら、国村は注意を教えてくれた。

「ただヤリすぎはさ、後で後悔するはめになるからね。気をつけてよ」
「その辺も教えてくれな、」

笑いながら降りていく雪面がまばゆい。
ひろやかな空と光る斜面の青と白、それだけの世界を風の気配だけが通ってゆく。
春光にすこし緩んだ雪踏むアイゼンの音、自分とパートナーの吐息、それだけが微かに聞こえている。
無音、青と白。この時と空間が消える世界を下り、七合目に至った。

「うん、雪もちょうどイイ感じに腐ってる。お楽しみタイム、始めよっかね、」

振り向いた底抜けに明るい目が、愉快に笑いだしている。
ピッケルのピックを指さしながら国村は説明し始めた。

「このピックをブレーキにしてスピード調整するんだ、あんまり暴走するとケツ剥けるからね、」
「うん、おまえのスピードについていけば良いよな?」

話しながら英二はアンザイレンザイルを外していく。
国村も外してザイルを巻きとり、きれいに斜め掛けすると頷いた。

「だね。ちゃんと俺に着いて来てね、じゃ、行くよ」

愉快な笑顔を見せると国村は、白銀の斜面へとピッケル構えて滑りこんだ。
すこしの間で青いウェア姿が遠ざかる、真似て英二も足から雪に滑らせた。

ざりっ、

雪原に下肢が着氷する音が立ち、下降に体惹きこまれる。
薄い霙と分厚い締雪の感触が、ウェア透かして脚に伝わり、視界が流れ出す。
氷雪の大斜面が迫り後へ消えていく、風の低温が頬ふれ髪を乱し奔りぬける。

風が、気持ちいい。
おおらかな青と白の空間駆け下る、疾走感が愉しい。
駆け下るスピードを、ピッケルのピックを雪面に立て制動していく。
すぐに青いウェアが座りこむ地点へ到達して、英二もピック突き立てストップした。

「おめでとう、シリセード初・体・験。ご感想は?」

からり底抜けに明るい目が笑いかけてくれる。
たった今を奔りぬけた真白な大斜面を仰ぎながら、英二は笑って答えた。

「すげえ気持ちよかった。これ、いいな?」
「だろ?でもね、ヤリ過ぎるとウェアのケツが、ぼろぼろに傷んじゃうんだよね。これくらいの距離と雪質なら平気だと思うけど、」

話しながら立ち上がって、ウェアの雪を払い落とす。
お互いに確認してみるとウェアのパンツは無事だった。

「よかった、これなら問題ないね、」
「うん、スピード調整が良かったみたいだな、」

サングラスの顔見合わせ、笑いあう。
このスタイルの顔も今冬で互いにすっかり見慣れている。
こうして一緒に雪山の世界を幾度佇んだろう?この冬に微笑んで英二は最高峰を見あげた。

「最高峰の滑り台、すごい迫力だな、」

見あげる富士は、大らかな白銀の裾ひろげ見おろしてくる。
あの天辺にさっきまで立って、あっという間に下降してきた。
ほんとうに最高の滑り台になるんだな?そんな実感に国村も笑って答えた。

「だろ?マジ日本一の滑り台だよね、女神さまの着物はさ、」
「女神?」

訊き返し英二は隣のザイルパートナーを見た。
視線受けたサングラスの奥で、透明な細い目がひとつ瞬いて教えてくれた。

「富士山ってね、木花咲耶姫っていう女神さまの山なんだよ。馬返しで手に降ってきた桜の花、あれは彼女の花なんだ、」
「桜の花の女神、ってこと?」
「そ、」

頷いて国村も、視線を山頂へ向ける。
いま標高2,390m六合目付近、ここから山頂まで1,386mの高度差が聳え立つ。
ひろやかな白銀の裾ひいて、青氷の碧玉飾る優美な姿は女神と呼ぶに相応しい。
けれど、まとう冷厳に生命の住むこと赦さず、蒼穹から呼ぶ豪風と雪煙のベールに命浚いこむ。
この国で最も高く冬の冷厳険しい山が、春輝かす桜の女神。そんな相反する表裏備えた最高峰に英二は微笑んだ。

「エベレスト並に厳しい冬山の正体が、桜の女神なんだ?なんか、かっこいいな、」
「うん、最高な別嬪だよね、」

山頂から英二に視線を向けて、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
視線に英二も笑い返すと、ふっと雪白の貌が微笑んだ。

「おまえみたい、」

ひと言、透明なテノールは告げると踵を返した。




【引用詩文:William Wordsworth『ワーズワス詩集』「Intimations of Immortality from Recollections of Early Childhood」XI/「The Prelide(1805)」(5)Spots of Time―When,in a blessed season】

(to be continued)

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第44話 峰桜act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-05-30 23:02:14 | 陽はまた昇るside story
最高峰、この想い映しとって



第44話 峰桜act.3―side story「陽はまた昇る」

御岳で美代と別れて青梅線に乗り、21時半ごろ河辺へ戻ってきた。
改札をぬけて通りに出て、周太と国村が話す後ろすこし離れて歩いていく。
街路樹から山から、芽生えの緑薫る夜風が心地いい。
ぼんやりと歩く道すぐにビジネスホテルに着いて、寮に戻る国村に周太は微笑んだ。

「光一。今日は、ありがとうね?…明日は俺、美代さんと水源林に行ったあと、駐在所に向かえばいい?」
「いいよ?明日はね、白妙橋でルートクライミングしようと思うんだけどさ。それでいい?」

楽しげなテノールの声が明日の自主訓練に周太を誘ってくれる。
うれしそうに周太も頷いて微笑んだ。

「ん、よろしくね?…じゃあ、おやすみなさい、光一」
「おやすみ、周太、」

底抜けに明るい目が温かに笑んで、そっと長身が屈みこむ。
そのまま国村は周太の耳元にキスをした。

「お休みのキスだよ、周太?」

テノールの声が幸せそうに笑っている。
キスふれた耳元まで赤くなりながら、周太は困ったように、けれど優しく微笑んだ。

「ん、…ありがとう、光一、」
「こっちこそ、キスさせてくれて、ありがとね?」

黒目がちの瞳に無垢な目が幸せに笑いかけている。
こんなふうに、子供のまま純粋な初恋を交わす姿を見ても、自分は嫉妬しなくなった。
それはたぶん、この初恋が「人間」の範疇ではないと想い始めた所為かもしれない。

…俺にとっては周太、ホントは男でも女でも無いから…『人間』って言うこともさ、結局は人間の決めたことだろ?だから、違う

谷川岳の雪洞で国村が教えてくれた周太への想い。
あのとき自分は「結晶のような恋愛だ」と感じ、山の秘密に関わるのだろうと思えた。
きっと一介の山ヤである自分が踏みこんではいけない、そんなふうに想えたことが今、尚更に確信させられる。
もう今は、国村の恋愛対象になった自分との比較ができるから、確信出来てしてしまう。

いつも国村は、周太には宝物ふれるよう体にも無闇に触れない。キスも耳元の決った所にだけふれる。
けれど英二に対して国村は、遠慮なく「恋愛」の触れ合いを求めてしまう。
畏敬への愛と憧憬が織りなす恋と、人間感情の求め合う恋愛。全く違う色彩の想いだからこそ、同時に国村は抱いている。
このことについて、周太と国村は既に話をしているだろう。その内容が本音、ずっと気になっているのに聴けない。

「宮田、明日は7時半に、おまえの部屋で良い?」

透明なテノールの問いかけに英二は我に返った。
呼びかけに親友で同僚の顔を見ると、いつもの底抜けに明るい目が笑ってくれる。
なにか切ない想いに見つめた英二に、大らかな細い目は温かに笑んだ。

「どうした?7時半じゃダメ?」
「いや、…大丈夫だよ、」

気を戻して英二が頷くと、すこし安心したよう国村も笑ってくれた。
かすかに密やかな心を見つめながら、英二も笑いかけた。

「7時半には制服に着替えて、寮の部屋にいるな、」
「着替え中、でイイよ?朝の眼福タイムをしたいからさ、よろしくね?」

飄々と笑って国村はエロオヤジトークをしてくる。
こんな「いつもどおり」の笑顔に心が軋んで、本音のまま英二は周太に許しを尋ねた。

「ごめん周太、俺、今日やっておくことを忘れてきた。一旦寮に戻ってきてもいいかな?」

提案に、黒目がちの瞳が真直ぐ見あげてくれる。
きっと、この優しい瞳は気づくだろうな?そんな信頼と痛みに微笑んだ英二に、おだやかな声が言ってくれた。

「ん、行ってきて?…焦らなくていいけど、待っているから。安心してね?」

ちゃんと待ってる、受けとめるよ?
こんな優しい強さに恋人は、大らかに微笑んでくれている。この恋人の優しい気遣いが切なくて愛しい。
いつのまに周太は、こんなに大人になったのだろう?まぶしく見つめながら英二はきれいに笑いかけた。

「うん。ありがとう、周太、」
「ん。そのかわり、後でいっぱい、わがまま言うからね?」

わがまま楽しみです。
そんな内心の声はまるきり恋の奴隷、そんな自分は幸せだと思う。
そして今から僅かな時間でも、ひとり幸せにしたい相手と向き合いに歩く。
この願いに想い重ねてくれる背中をホテルのフロントへ見送って、英二は隣に笑いかけた。

「行こ?国村、」

笑いかけて英二は、ミリタリージャケットの裾を翻した。
黒い裾を夜風に舞わせ歩き出すとすぐ、白い掌が英二の腕を掴んだ。

「待てよ、宮田?」

透明なテノールの呼びかけに、英二は足を止めた。
すこし首傾げて見つめた先で、国村は口を開いた。

「どうして嘘、つくんだよ?」
「嘘なんか、ついていないけど、」

すこし微笑んで、英二は正直に答えた。
けれど透明な目は真直ぐ英二を見つめて、言ってくれた。

「忘れモンなんか、無いんだろ?俺に遠慮して、気遣ってるだけだろ?…そういうの嫌だ、俺は、本音だけしかいらない」

誇り高い自由の目が見つめて、想い告げてくれる。
同情なんかいらない、気遣いも遠慮も欲しくない。正直な本音だけ欲しい。
そんな誇らかな恋愛が、見つめてくる無垢の瞳にまばゆい。

―きれいだな、

まばゆい想い見つめる心に、素直な感覚がひとつノックする。
こんな目をする相手だから自分は親友になって、ザイルパートナーにもなった。
大好きな友人に笑いかけて、英二は正直に答えた。

「国村を寮まで送ること、これが忘れ物だけど?」
「…なんだよ、それ、」

テノールの声がすこし怒ったよう呟いた。
けれど英二は素直な想いのまま友人に笑いかけた。

「俺が、国村のこと送りたいだけ。大切な親友を大事にしたって、別に良いだろ?ほら、」

きれいに笑って英二は、Gジャンの腕を掴むと歩き始めた。
ひっぱられるまま歩き始めた友人は、それでも声を英二に投げかけた。

「周太との時間、おまえ、楽しみにしていたじゃないか?なのにさあ、俺に構っているんじゃないよ、時間が勿体ないだろ?」

透明なテノールの語尾に「さあ」が付く、これは機嫌が悪い時の癖。
けれど、不機嫌には途惑いも喜びも隠されていると解っているから、止めない。
ちいさな覚悟と歩きながら英二は、隣をふり向いた。

「俺の時間だよ?俺の自由に使ってなにが悪い、おまえが勝手に決めるなよ、」
「だって、」

短く言って、秀麗な貌に途惑いがうかびあがる。
それでも真直ぐ英二を見つめたままで、国村は率直に言ってくれた。

「こんなこと、されたらさあ?俺、期待しちゃうから…やめろ、よ……ね…残酷だって、わかんないの?」

透明な目から、涙ひとつ零れ落ちた。

「周太との時間より、俺を選ばれたら、さあ?俺…勘違いしちゃうだろ…変な期待するの、周太のこと裏切るみたいで嫌だ。
あのひと裏切るなんて辛いよ、痛い…よ?俺ほんとは罪悪感あって…でも周太が赦してくれたから、おまえを好きでいられる、のに…さ、」

美しい顔に、また涙が軌跡を描きだす。
きらめく涙を街燈に見せながら、透明なテノールが泣き出した。

「ほんとに俺…初めてなんだよ?こんなに傍にいたい人間、おまえが初めてなんだ…だから一番でいたい、嫌なんだよ、二番は。
恋人の一番がダメなら、親友の一番でいさせてよ?だから煽るなよ?変な期待させるなよ?…いちばんの親友のまま一緒にいてよ、
そう、俺、言っただろ?なのに、なんでだよ…俺のこと、なんだって思ってんだよ?こんな追い詰めてさあ…こんな泣かせるんじゃないよ、」

涙こぼしながら国村は、掴まれた腕を振りほどこうとする。
けれど掴んだまま離さずに、英二は隣に微笑んだ。

「どうせ泣くつもりだった癖に、」

そのつもりだったろ?目で訊いた先で薄紅の唇が吐息こぼした。

「…なぜ、」

濡れた無垢の眼差しが英二を見つめてくれる。
すこし驚いたような目が子供みたいで、そっと掌で涙拭ってやりながら愛しさに笑いかけた。

「俺たちと別れたら、歩きながら泣くつもりだったよな。それなら独りで泣くより、一緒にいて泣く方が楽だろ?」

きっと、国村は泣く。幸せに笑いながら泣く。

今夜、周太と英二ふたりが幸せな時間と同じ時、国村はひとり時間を見つめることになる。
そうした時間も誇り高い山っ子は、哀しみすら向き合って笑おうとするだろう。
誇らかな無欲と無垢、この透明な心のままに自分の幸せを抱きしめて笑って、そして泣く。

…国村くんは、大切なひとを次々失ってきました。だから彼は、大好きなひとが生きて傍にいる、それだけで満足なんです
 無欲で無垢な彼は、今、掌に与えられたものを大切にして、満足することを知っています

吉村医師が英二に教えてくれた、国村の透明な心の由縁。
この心が真直ぐ辿ってきた軌跡が、愛しい。愛しいだけ孤独と寂寥を抱かせることが辛い、だから少しでも楽にしてやりたい。
だから今、泣くのなら傍にいたいと願ってしまった。その本音のまま正直に今、隣にいる。

「おまえを独りで泣かせるの、俺が嫌なだけなんだ。一緒にいる方が俺が楽だから、一緒にいるだけ。その方が、おまえも楽だよな?」

思ったとおり、したいとおりを正直に言って英二は微笑んだ。
俺は正直にいるよ?そう見つめた想いの真中で、長い睫の涙はこぼれおちた。

「…そうだけど、だからって…期待させるようなこと、すんな、」

素直な言葉と素っ気ない言葉を、ふるえるテノールが口にする。
誇らかな国村らしい涙と怒りに微笑んで、英二は無垢な瞳を覗きこんだ。

「こんなの狡いかもな?でも、おまえのこと大切にしたい、って本音がさ。おまえと一緒にいたいって、今歩いてるんだ、」
「ほんと?…」

ちいさなテノールが短く尋ねる。
無垢な瞳がひとつ瞬いて、テノールは想いを続けた。

「大切にしたい、一緒にいたい、って…ほんとに本音か?それで今、ここにいるのか?」
「うん、ほんとだよ?」

答えながら、そっと掴んだ腕をひっぱり歩き出す。
ひかれるまま素直に歩き出す友人に、想うままを英二は笑いかけた。

「おまえは、唯ひとりの親友だよ。恋人とは違う、でも、大切だから一緒にいたい。それが俺の本音、」

透明に無垢な瞳が、涙の底から英二を見る。
こんな目で自分を見つめられる事は初めてで、切なくて愛しいと思っている自分がいる。
こんな想いに理屈も倫理もない。ただ誤魔化しようがない想いだけが自分を見つめてしまう。
この想いが素直に願いを告げる「傍にいたい、」この願いだけは、きっと互いに一緒だろう。

…親友のままでも、傍にいていいんだ。生きて笑って、傍にいてあげればいい。
 君が想う通りに、正直な心のまま隣にいればいい。

吉村医師がくれた「肯定」に、自分は狡いほどの正直を選んでしまう。
ほんとうは直情的で思ったことしか言えない出来ない自分だから、残酷と言われても仕方ない。
こんな開き直りに英二は、綺麗に友人へと微笑んだ。

「堅物で真面目な俺はね、ほんとうに直情的で、嘘とか苦手だから、きっと残酷だとも思うよ?
そんな俺の本音が、おまえと一緒にいたいって願ってる。おまえのこと、今みたいにまた、傷つけるかもしれない。
けれど、その傷の責任も俺がとれるとも思ってる。生涯ずっとアンザイレンして傍にいるから、そういうチャンスもあるだろ?」

こんなに自分は身勝手に、おまえと一緒にいたいんだよ?
想い正直に笑った英二に、細い無垢な瞳がすこし笑ってくれた。

「俺のこと、傷つけても一緒にいたいワケ?」
「うん、一緒にいたい。おまえといると楽しいし、大切なんだ、これでも、」

率直に想い告げて笑いかけてしまう。
そんな英二を見つめる秀麗な貌が困ったよう、けれど温かに微笑んでくれた。

「そこまでして一緒にいたいなんて、そんなに俺のこと、愛しちゃってるワケ?」

Yes、って言ってよ?
透明な目が告げる想いの本音に、英二はきれいに笑った。

「うん、愛してるな。でなかったら、傷つけても一緒にいたいなんて、想えないだろ?ザイルで命まで繋ぐんだしさ、」

これは自分の本音。
周太への想いと違うけれど、これも自分の愛する想い。
周太への優しい想いとは違う、もっと身勝手で、けれど信頼は堅くて。どんな危険すら共に笑ってしまえる、そんな絆が深い。
それは国村も、きっと同じ想いを抱いている。ただ「恋愛」が英二に欠けているだけで他はすべて重なるはず。
そんな信頼に見つめた先で、唯一のザイルパートナーは愉しげに笑ってくれた。

「だね?俺たち、ザイルで命もプライドも、人生まで繋いでるね…愛が無い相手とは、ちょっと出来ないよね?」
「うん、出来ないよ。愛してるから今も、一緒にいたいんだろな?」

思ったままを口にして笑う英二を、無垢の瞳が見つめてくれる。
ほっと溜息こぼして透明なテノールが、可笑しそうに笑ってくれた。

「悪い男だね、おまえって。マジ危険な別嬪、この俺を、こんなに泣かせるなんてね。どう責任取ってくれるワケ?」
「責任、取ってほしい?」

笑って訊きかえした英二を、無垢な瞳が笑ってくれる。
白い掌で涙ぬぐいながら、国村は愉快に笑って言った。

「こんなふうに泣くコトは俺、初体験なんだよ?俺のお初を捧げちゃったんだからね、責任キッチリとってよ、」

こんな時にまで得意のエロトーク混じりに明るくなれる、この友人が楽しくて英二は笑った。
ずいぶんと色っぽい言い回し、けれど今は相応しい。そんな想いに英二も合わせて応えた。

「初体験を頂いた責任、ってこと?」
「そ、俺の、初・体・験。さ、こんなに可愛い山っ子の俺を、コンナにしちゃった責任、キッチリとってよね?」

笑いあいながら独身寮への階段を上がって、扉を開く。
まだ人の往来がある廊下を通って、ときおり挨拶して、個室エリアに辿り着く。
そうして国村の部屋の前に来て、白い指が開いた扉に英二は迷わず入った。

「…なに、おまえ?なに、一緒に部屋に入っちゃってるワケ?」

テノールが呆れたよう訊いてくれる。
部屋の前で別れると思っていたのに?そんなふうに驚いた目が見つめてくれる。
そんなに意外だったのかな?英二は笑いかけ見つめ返して「ワケ」の答えを告げた。

「初体験の責任、とるんだろ?」

告げた答えのまま近寄せて、英二はザイルパートナーにキスをした。
ふれるだけのキス、すぐに離れてしまう。けれど温もりの残像のこして英二はきれいに笑った。

「おやすみのキスだよ。いい夢、見られそう?」

キスふれた唇が驚いたまま、雪白の頬に桜いろ咲いていく。
秀麗な貌が桜のいろに華やいでいく、友人のこんな貌を英二は初めて見た。
きれいだな?素直に見惚れて微笑んだ英二に、薄紅の唇が問いかけた。

「…これが、責任の取り方なワケ?」

透明なテノールが途惑い、ふるえている。
ふるえる声も眼差しも初々しい、さっき初体験だと言った言葉が尚更相応しいと想えてしまう。
けれど、この友人がこんな反応をすることが意外で、感じたままに英二は笑いかけた。

「うん、いい夢で笑って貰おうって思ってさ。おまえ今、顔が赤いけど。もしかして恥ずかしがってる?」
「当たり前だろ、ばか…」

ふるえるテノールの声が小さく怒っている。
それでも微かな幸せふくんだ声は、途惑うまま本音を告げてくれた。

「されるの、って、慣れていないんだからね、俺…周りが思ってるほど俺、エロで遊んじゃいない。ずっと、山ばっかりだから、」

桜いろの貌が困ったよう溜息に微笑んで、隠せない途惑いに見つめてくれる。
すこし唇かむようにして、けれど底抜けに明るい目は笑ってくれた。

「マジ、おまえの笑顔って反則だね?おかげで、いい夢が見られるんじゃない?」
「それなら良かったよ、」

笑って英二は部屋の扉開いて、廊下に出ながら振り返った。

「おやすみ、国村。また明日な、」
「うん、また明日。おやすみ、」

すこし寂しげでも幸せな笑顔みせて、国村は扉を閉めた。



チェックインして扉を開けると、室内は鎮まっている。
ジャケットを脱ぎながら見渡した部屋のなか、ソファで周太は眠りこんでいた。
そっと覗きこんだ寝顔は幸せに微笑んで、開いたままの青い本を抑える手は白いシャツの袖が長い。
愛しい寝顔の額にキスすると、ふわり石鹸の香が頬撫でた。

「…周太、疲れたよね、今日は、」

深い眠りの恋人に笑いかけて、やわらかに小柄な体を抱き上げた。
安らかな寝息を聴きながら運んで、静かにベッドに横たえ白いブランケットで包みこむ。
すこしだけ髪をゆらし微笑んで、気持ち良さげな寝顔は安らいだ。

「かわいいね、周太は、」

愛しくて堪らない宝物に笑いかけて、英二は浴室の扉を開いた。
着ていた物を脱ぎ去って、シャワーの栓を開き湯がふりそそぐ。
頭から湯をかぶりながら顔をあげて、ふる温度へと英二は微笑んだ。

「…ごめん、国村、」

仕方のないこと、この「想い」というものは。
けれど今きっと、ひとりの時間を見つめている親友の心が切ない。
それでも自分はこれから、愛する婚約者との幸せな恋人の時を過ごしてしまう。
こんな自分は、罪深い。そんな自責も心に軋みあげる。
こんなこと自分だって、慣れていない。ふたりも大切なひとが居たことなんて、無いから。

「心まで、こんなに求められる、なんて…無かったのに、」

ずっと自分は「体」ばかり求められてきた。
ずっとただ「美しい人形」だった自分だから、この心を求められる歓びが温かい。
この心を本気で求めてくれたのは、周太が初めてだった。求められ幸せで嬉しくて、唯ひとりの相手と見つめて約束を繋いだ。
唯ひとり、ずっとそう思っていた。そんな想いの日々に、他の意味に唯ひとりとして国村に出逢った。
唯ひとりの親友でザイルパートナー、この絆を結べたことが嬉しかった。男として生まれたら望みたい相手だと幸せで。
そんな相手といま、キスを交わすようになっている。こんな想いの交錯が不思議で、けれどごく自然だった。
この交錯を明日からは、どんな想いに見つめることになるだろう?

「正直でいればいい…それだけ、だよな」

温められた湯に微笑んで、英二は栓をとめた。
全身から石鹸の香が昇ってくる水気を拭い、白いシャツとコットンパンツに肌を隠す。
濡れた髪を拭きながら扉開いて、部屋におりると英二はコーヒーを淹れた。
マグカップを持ってソファに座ったとき、ベッドで身じろぎの気配がうまれた。

「…ん、…」

ちいさな吐息に立ち上がって、白いリネン埋もれる寝顔を覗きこむ。
起きてくれるのかな?そう見つめた先で、ゆるやかに長い睫が披いてくれた。

「…えいじ?」

まだ眠たそうな声で名前呼んで、幸せそうな微笑みが見つめてくれる。
大好きな笑顔に心ゆるめられてしまう、長い腕伸ばし抱きしめると白いシャツの肩に顔をうずめた。

「英二?…どうしたの?」

優しい声に、涙さそわれて白いシャツの肩を濡らしていく。
そのまま涙と嗚咽がこぼれて、英二は愛するひとの体に縋るよう抱きしめた。
ただ涙あふれていく、自分でも理由も解からない、なぜ涙があふれてしまうのだろう?

「ん、…大丈夫だよ、英二?」

おだやかな声が、涙の隣から微笑んだ。
この声に心がまた緩められてしまう、安らぎのまま涙あふれ止まらなくなる、自分で涙が解からない。
解からないまま涙ふるえる肩を、やさしい温かな腕が抱きしめてくれた。

「俺がいるから、だいじょうぶ…好きなだけ泣いて?」

なぜ君は、そんなに、やさしいの?

やさしい声と温もりに縋りついて、英二は泣いた。
こんなに泣くほど今、本当は不安で哀しくて、この温かい懐に縋りつかせて欲しくなる。
自分よりずっと小柄な周太、けれど懐は広やかに深い優しさが温かい。

「…っ、う…っ、…」

嗚咽が自分の鼓動をうって、ふるえる胸から涙あふれだす。
おだやかで爽やかな香に包まれるまま、溶かされていく哀しみが涙に変わる。
こんなふうに周太に抱きしめられて泣くのは、田中が亡くなったとき以来のこと。
あれから自分は強くなったと思っていた、また自分がこんなふうに泣くなんて、思っていなかった。

―あたたかい、

ただ涙あふれ、ただ受けとめられていく。
この温もりが幸せで、ゆるまり安らぐ心が寛がされていく。
ようやく傷みのこわばり解かれて、英二の唇から名前がこぼれた。

「…周太、」

「ん…?」

涙のはざま呼んだ名前に、おだやかなトーンが微笑んでくれる。
大好きな声が嬉しいままに英二は顔を上げた。

「ただいま、周太…俺のこと、待っててくれた?」
「ん、待ってたよ?…英二、」

問いかけに微笑んで、掌で頬を包みこんでくれる。
ゆるやかに掌導いてくれるまま近寄せた英二に、やさしい唇がキスをしてくれた。

「おかえりなさい、英二?」

やわらかな笑顔が恋人の顔に咲いてくれる。
ふれてくれたキスの温もりと幸せを追いたくて、英二は周太を抱きしめ唇を重ねた。



深夜0時、馬返し駐車場から歩き出す。
その頭上から、ふわりピッケル持ったグローブの手に花が舞いふった。

「あれ、富士桜だね。どっから飛んできたのかな、」

透明なテノールが楽しげに花の名を呼んで、グローブ外し指につまんでくれる。
英二もグローブを外すと花を受けとって、博学なザイルパートナに訊いた。

「富士桜、ってこの辺りの桜なんだ?」
「うん、山桜の一種なんだけどね、豆桜っても言うんだ。小振りの花が清楚で可愛いだろ?この花、周太のお土産にしてやりなよ、」

大切な初恋相手の名前を呼んで、底抜けに明るい目が幸せに笑っている。
この薦めに素直に従って、英二は胸ポケットの小さな手帳に花をはさみこんだ。
ページに綴じられた薄紅いろに国村は笑いかけて、愉しげなテノールでスタートを告げた。

「じゃ、いこっかね?」
「うん、今日もよろしくな、」

並んで歩きだす道に、霜柱が登山靴に砕けた。
いま4月下旬、雪は無いけれど寒気が頬を刺す。最高峰から吹く冷厳の風に、今冬1月の記憶が映りこんだ。

…大切なひとって誰よりもさ、一番きれいで失うの怖いよな…雪のなかで俺はよく感じるかな

この駐車場に初めて泊まった1月に、国村が言った言葉。
あのときはマナスルの雪崩に失った両親の記憶が「雪のなかで」なのだと思った。
それから周太と国村の出逢いが雪の日と聴いて、周太のことだったのかなと感じた。
そして今は、本当の意味がもう解っている。

―雅樹さんのこと、だったんだ

槍ヶ岳の北方稜、北鎌尾根。
あの冷厳な尖峰に抱かれて逝った、不屈の魂まばゆい山ヤの医学生。
彼を失ってしまった瞬間こそが「雪のなかで」だった。その瞬間を共に見つめて超えて、蒼穹の点に永訣を結んだ。
そして永訣の瞬間が、自分のザイルパートナーに心の変化を揺らがせた。

「よし、この時間ならぬかるんでいないね、歩きやすいだろ?」

ザイルパートナーが楽しげに雪踏んで振り返る。
ヘッドライトの下に咲いている笑顔に、英二は笑いかけた。

「うん。もう4月なのに、まだ寒いんだな、この辺は、」
「標高1,450mだからね。こんなだから、山頂はマジ寒いよ、」
「青氷が見られるかな、」
「たぶんね、」

いま登っていく山の話題が楽しい。
闇深い山に入る道も、共に辿れる相手がいるなら温かい。
ざくり霜柱に凍る道を踏みしめて、4合目手前から残雪をキックステップで登りあげる。
ざくざく雪鳴る音を響かせて、頬ふれる大気もヘッドライト照らす道も、冬の冷厳へと変わりだす。
そして5合目過ぎたとき、アイゼンを装着した。

「これ履くとさ、雪山だな、って実感が湧くね?」

透明なテノールが愉しげに笑っている。
大好きな雪山の世界に昇っていく、そんな喜びがライトの下で咲いている。
いま自分も同じ想いに立ちながら、英二も笑顔に頷いた。

「うん、そうだな。奥多摩でもまだアイゼン履くけど、ここは雪の量が違うよな、」
「そりゃね、なんたってココは最高峰だよ?まだ雪、腐っていないね、」

愉快に笑う笑顔は明るくて、捉われない自由が誇らかに山頂を捉えている。
どこまでも大らかに誇り高い自由に笑う山っ子と、隣に並んで歩きだす。

「雪のコンディション見ながらルート取ろう、9合目から上は氷化部分があるから、要注意だ、」
「コンクリートより堅い、ってヤツだよな?」
「そ。あんなトコ踏んじゃって、風に吹かれたらさ?あっというまに奈落だね。ソンナとこ墜ちずに、キッチリ天辺行くよ、」

快活な声が山の歓びに謳うよう話してくれる。
これから一番高い場所に立つ、その喜びが声を明るく響かせていく。
こんなふうに山っ子は「いちばん」が好きだ、だから自分のザイルパートナーにも一番が良いと願う。
その願いに自分はずっと、応え続けていきたい。

…英二?大切な想いはね、そのとき伝えないと、後悔するから…いまの一瞬は、2度と戻らないでしょ?
 だから、きちんと言ってあげて。大切にしてあげて?いつも後悔しないように、英二の笑顔がきれいに幸せでいるように、ね?

昨日の夜と暁に見つめた恋人との時間、こんなふうに愛するひとは言ってくれた。
どこまでも広やかに深い愛情と勇気が、黒目がちの瞳まばゆく微笑んでいた。
これは本当の願いなのだと瞳は告げて、やさしい祈りを教えてくれた。

…英二の笑顔をずっと、俺は見ていたい。きれいに笑っていてほしい、心からの幸せに笑って、生きていてほしいんだ
 心からのとおりに、言葉も、想いも、笑顔も…正直なままに、光一にも接して?
 それでもし、俺が拗ねたら、ご機嫌とって?…きれいな幸せな笑顔、俺に見せて?

やさしい祈りが、いま踏み出していく雪面に映りだす。
やさしい君の祈りも願いも、全てを叶えたい。
だって君のこと愛している、こんなに求めていて、いま胸ポケットに君の守袋だって入れている。
このいま高度を見つめるクライマーウォッチに、贈ってくれた君の笑顔を俺は見ている。

―だって、周太?俺は、君への想いから、今の場所に辿り着いたんだ…君が俺の、全てなんだ、

いま午前4時の黎明を迎える高峰は、すこしだけ目を覚ます。
かすかな太陽の兆しが雪面を青く闇に顕して、この心温める祈りと想いが映りだす。
唯ひとり、自分を目覚めさせてくれた面影は、この高峰にまで温もり届けて、行く道を明るく照らしだす。




(to be continued)

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第44話 峰桜act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-05-29 23:54:02 | 陽はまた昇るside story
想い、水うつる月と花と



第44話 峰桜act.2―side story「陽はまた昇る」

業務が終わり国村の四駆で青梅署に戻ると、ふたり診察室へと向かった。
活動服姿のまま扉をノックして開いた室内は、コーヒーの香と笑い声が愉しげに待っていてくれた。

「失礼します。吉村先生、こんばんは、」
「こんばんは。お二人とも、おつかれさまでした。こちらのお二人も、お待ちかねですよ?」

おだやかで楽しげな吉村医師の声が温かい。
医師の声に周太と美代が、マグカップを抱えたまま揃って振り返ってくれる。
そして英二の大好きな笑顔が、いつものトーンで声を掛けてくれた。

「お帰りなさい、ふたりとも…さっきは駐在所で、ありがとう。母も喜んでたよ?」
「よかった、でも大したこと出来なくて、ごめんな?」

ほんとうに一日、案内してあげたかったな?
そんな想いに困りながら笑いかけた英二に、周太は優しく笑いかけてくれた。

「ううん、活動服姿の2人が見れて、楽しかったって…喜んでたよ?」
「俺も、おふくろさんに貢献できたんだね?よかったよ、」

愉しそうに答えると、底抜けに明るい目が温かに微笑んだ。
やわらかな笑顔に頷きながら周太は、マグカップを置いて立ち上がってくれた。

「ん、光一のこともね、かっこいいね、って言ってたよ?…コーヒー淹れるね、」
「ありがと、よろしくね、」

折りたたみ椅子を2脚出しながら、うれしそうに国村は笑っている。
こんなふうに国村と周太は仲が良い、そんな様子に嬉しさと不思議な想いでいると、美代が笑いかけてくれた。

「おつかれさまです。あのね、宮田くんには悪いけど、お先に湯原くんの隣をゲットしちゃいました。いいかな?」

きれいな明るい瞳が楽しそうに英二と国村に微笑んだ。
ほんとうに美代は周太が好きなんだな?微笑ましい想いに英二は笑いかけた。

「おつかれさま。美代さんなら、良いよ?」
「よかった、ありがとう。私もコーヒー、お手伝いして来るね、」

素直に喜んで美代も席を立ってくれる。
そして周太と2人並んで、コーヒーを淹れ始めた。

「湯原くん、お湯を注ぐのって、これ位の速さで良い?」
「ん、いいよ?…ちょっと空気を入れる感じでね、こう、」
「そうか、空気ふくませると、香が空気に入るのね、」

楽しそうに2人並んでいる姿は仲良しで、なんだか双子みたいに睦まじい。
ちょっと妬けるかな?思いながら椅子を出して座ると、国村が悪戯っ子に笑った。

「いま美代に、嫉妬しただろ?」
「うん、ちょっとだけね、」

一瞬だけ、なんて答えようか本当は迷った。
けれど正直ありのまま答えた方が良い。そんな想いと笑った英二に透明な目が温かに笑んだ。

「おまえの正直なトコ、好きだよ。だから今、うれしいね、」

変な気を遣わないでよ?
そんなふうに国村の目が真直ぐ笑ってくれる。
こういう方が自分も好きだ、素直に頷いて英二は微笑んだ。

「うん。俺、おまえには全部、正直に言いたいよ?だって、生涯のアンザイレンパートナーは、何でも言い合うんだろ?」

生涯ザイルパートナーであることは変わらない、今、お互いの想いは少し違うけれど「親友」の想いは重なっている。
それでも違う想いがあって、だからこそ正直に言い合っていきたい。ずっと一緒にいたいなら「違い」こそ受け留めあう必要があるから。
この正直な想いが時に傷つけるかもしれない、けれど本音なら仕方ない。もし傷つけたら、その傷も自分が受けとめていけばいい。
そんな想いに微笑んだ先で、きれいな笑顔が咲いてくれた。

「だね?」

短く透明なテノールが答えて、笑ってくれる。
この笑顔も前より率直で、北鎌尾根で見た時以上に想いが深い。
これから自分たちはどうなるのだろう?そんな想い見つめた英二に、周太が熱いカップを持ってきてくれた。

「はい、英二…熱いから、気をつけてね?」
「ありがとう、周太、」

いつもどおりの芳香がうれしい、なにより淹れてくれた人の笑顔が温かい。
この笑顔がいま救いになってくれる、幸せな想いで英二はマグカップに口をつけた。
やさしい熱と香を楽しみ始めると、美代と周太が楽しげに吉村医師へ話し始めた。

「さっきの続きです、先生。青木先生は、私の本にもサインとメッセージをくれたんですよ、」
「それは嬉しかったですね、どんなメッセージですか?」
「扉の前に立つ君へ、っていう書出しなんです。成ろうと成るまいと、努力する勇気が大切です、って…ね、湯原くん、」
「ん、そうです…信じて夢に向かい努力を続けていく、その勇気こそが学問を志す者の資質であり、心大きな人の道です…かな?」
「それは素晴らしい言葉を頂きましたね。がんばって勉強しよう、って思えたでしょう?」

どうやらさっきまで、2人で東大の公開講座に行った話をしていたらしい。
周太は勿論、美代も年度末で忙しかったから、ふたりとも吉村医師に会うのは今日が久しぶりになる。
きっと自分たちが来るまで色んな話をしていたのだろうな?3人の楽しげな様子に微笑んだ英二に、隣から国村が話しかけた。

「あのふたり、マジで植物学が大好きだよね?俺も農家だから好きだけど、ちょっとレベル違う。すごいね、」
「あ、やっぱりハイレベルなんだ?あの2人は、」
「うん。だから俺、美代があそこまで楽しそうなのって、初めて見るんだ。周太とならレベルが合うんだね、」

頷いた底抜けに明るい目が温かに笑んでいる。
国村にとって美代は大切な姉代わりの幼馴染になる、そんな相手が楽しそうな様子は嬉しいのだろう。
国村が言うように美代にとっては周太は大切な話相手で、それは周太にとっても同じでいる。
あの2人が出会えて良かったな、うれしくて微笑んだ英二に国村は悪戯っ子に笑いかけた。

「だからさ?余計に美代の家族は、周太を婿に欲しがるってワケ。困ったね、」
「うん、困る…」

ほんとうに困るな?
心から途方に暮れるまま、素直に英二は溜息を吐いた。
そんな英二を覗きこんで、底抜けに明るい目が見つめて微笑んだ。

「ま、いざとなったらね、俺が奥さんやってあげるから。安心してよ、ア・ダ・ム、」
「ありがとな、」

ひと言だけ、けれどこれが一番自分の気持ちを素直に伝えられる。
きっと国村は家族がいない英二を気遣ってくれた、その想いに感謝したいから。

すでに分籍した英二は今、法律上は親族も家族も無い孤独な状態になっている。
もちろん現実には肉親があり、婚約相手の周太もいる。けれど法律上で保障された相互扶養を頼める相手は誰もいない。
そして分籍は、二度と元の戸籍に戻ることも出来ない。それが婚姻による戸籍の独立とは違う点になっている。
だからもし、何かの事情で周太が英二の戸籍に入籍できなければ、ずっと自分は孤独になる可能性が高い。

このことを英二は、周太には話していない。
既に分籍を済ませたことも、分籍によるリスクも、英二は敢えて周太に話してはいない。
もし話せば周太は責任を感じるだろう、そうした責任感で英二との人生を選んでほしくない。
責任や義務と関わりなく自由な想いに恋愛して、その結果として英二との人生を選択してほしいから。

けれど国村には分籍したことを話してある。
山ヤとして警察官としてパートナーを組む相手である以上、最も頼る相手同士だから互いの事情把握は欠かせない。
だからこそ国村は、いまの英二の寂しさも理解して言ってくれた。それが素直に嬉しい。
うれしいよ?そう目で笑った英二に、透明なテノールが嬉しそうに笑ってくれた。

「うん、安心してね、」

いつもながら飄々と軽やかな口調、けれど無垢の瞳は少しだけ羞んでいる。
この無垢の瞳は含羞にすら、最高の山ヤに相応しい誇らかな自由がまばゆい。
自分はこの瞳が好きで友達になった、そして一緒に最高峰に行こうと誘われたまま頷いて、任官もクライマーの専門枠に切替えた。
この大切な友人に導かれ今がある、この瞳を無垢なままに自分は支え続けたい。
その為には、痛みも見るかもしれないけれど。そんな想いと英二は微笑んだ。

「奥さんじゃなくってもさ、どうせ一緒にいるだろ?だから、安心してるよ、」
「だね、」

幸せそうに明るい目が笑ってくれた。
どうせ一緒にいる、この言葉の意味に国村は喜びを見つめ笑ってくれる。
笑顔のままコーヒーを飲干すと、軽く伸びをして立ち上がり2人に笑いかけた。

「そろそろ腹減っちゃったからさ?俺たち、着替えてくるね?」
「ん、ロビーで待っていればいい?」

テノールの言葉へと素直に周太が頷いてくれる。
こうして傍で見ているだけで、静謐がやさしい恋人に心は和まされていく。
いま大好きな恋人が近くにいてくれる、それが嬉しくて本音すぐ2人きりになりたいと思ってしまう。
こんな自分は、やっぱり婚約者の恋の奴隷だと、改めて自覚も起きてくる。
そして今抱いている想いも受けとめてほしいと、自分の恋の主人に見つめてしまう。

「うん、ロビーのベンチのトコにでも居てよ。すぐ行くからさ、」
「光ちゃん、私の車で行くので良いよね?」
「そ。よろしくね、美代。じゃあ俺、寮に行ってくるから、」

そう言って国村は、さっさとカップを洗うと「また後でね」と行ってしまった。
これから4人で食事に行く、この4人揃っては2月以来で久しぶりになる。
今夜はどんな話になるのだろう?考えながら英二は流しに立つと、自分もカップを洗い始めた。
あの2月と今では3人と英二の想いは変化している、それへの微かな不安と穏かな覚悟とが鬩ぎ合う。

―いま、先生に話、出来たら良いのに

ふっとそんなことを想った自分に、英二はすこし苦笑した。
剱岳から戻って以来、慌ただしくて吉村医師とゆっくり話す時間がとれていない。
朝の手伝いは毎日させて貰っている、けれど春山シーズンの忙しさと馨の日記帳解読を急ぐために、じっくり話す時間が無かった。
本当は自分が抱え込んでいる、国村への想いを話してアドバイスを貰いたい。
けれど、自分だけで向き合おうとも考えて、今日まで独り見つめてきた。
そうして今、覚悟と逡巡を繰り返しながら想いのはざまで揺れている。
そんな状態のままで明日の夜にはもう、雪山訓練へと発つことになってしまう。

―明日の夜から、国村とふたりきり向き合う…雪山の世界で、

剱岳を下山した時、振り返って見た山頂はブリザードに消えて行った。
まるで秘密を隠すよう消えていく姿に、国村と見つめたキスの時間は「山の秘密」が籠めた幻なのだと感じて。
あの時間をまた再び雪山の世界で見つめることになる?そんな予兆と一緒に雪煙に隠されていく鋭鋒を見あげていた。
あの予兆の時が明日にはもう、訪れるのかもしれない。

さああ…ざあっ、

流し台の水音が、カップを洗う掌にふれていく。
この水音を切ったら4人で向き合う時間になるだろう。
国村の想い、美代の想い、そして周太の想い。この3つと自分はどう向き合えば良い?
もう正直でいればいいと決めた、けれど不安も起きあがってしまう。だって、こんなこと自分は慣れていない。
そんな想いに迷子になりかけた時、ふっと隣に温かい気配が立ってくれた。

「手が止まっているのに、水が出ていますよ?宮田くんらしくないですね、」

おだやかな声が笑いかけて、頼もしい掌は水栓を閉じてくれる。
振向いた先で優しい目が微笑んで「大丈夫だよ」と音のない声で伝えながら言ってくれた。

「うん?すこし熱があるかな?明日から訓練ですし、早めに今、診察した方が良いと思うのですが。いかがでしょう?」

いま時間を作ろうか?そんなふうに吉村医師の目が笑ってくれる。
何も言わないでも気づいてもらえた、その安堵に微笑んで英二は頷いた。

「はい、お願いして良いですか?山で倒れても、困るので、」
「そうだね、念を入れましょう?小嶌さん、湯原くん。少し宮田くんは遅れますけど、ロビーで待っていてあげて下さいね、」

そんなふうに言って吉村医師は2人を促してくれる。
医師の言葉に、黒目がちの瞳が驚いてすぐ隣に来てくれた。

「英二、大丈夫?…ごめんなさい、仕事忙しいのに、今日お願いしたから…疲れさせた?」

優しい瞳が哀しそうに謝ってくれる。
これは勿論、吉村医師の方便だから英二の体は何ともない。
それなのに心配を掛けてしまう罪悪感に傷みながら、英二は笑いかけた。

「大丈夫だよ、周太。念のため、だからさ?心配しないで、すぐ吉村先生が治してくれるから、」
「ん、…そうだね、先生だったら、大丈夫だよね?…」

心配そうなまま微笑んで、周太は吉村医師の顔を見た。
そんな不安げな顔に穏かな笑顔を向けて、吉村医師は頷いてくれた。

「大丈夫です。ごく軽い風邪でしょう、すぐ治りますよ。湯原くんはね、せっかく小嶌さんと久しぶりに会ったんだ。
大学の話とか、今2人で話しておくこともあるでしょう?宮田くんの診察時間も、ちゃんと有効利用して話していて下さいね?」

自分に任せて大丈夫、そう頼もしい笑顔で周太に笑いかけてくれる。
信頼する医師の笑顔に周太は素直に頷いて、笑ってくれた。

「はい、ありがとうございます。先生、英二をよろしくお願いします…英二、ロビーに居るね?」
「うん、待っていて?」

笑いかけると、やっと少し安心したように黒目がちの瞳が微笑んだ。
その隣から美代も、すこし首傾げながら声かけてくれた。

「宮田くん、ごめんね?光ちゃんの訓練、キツイでしょ?その疲れが溜まっちゃったのかも、」
「大丈夫だよ?あいつの訓練、ほんと役立っているから、」

こんな女の子にまで心配させている。
それも仮病な上に心の問題と来ているから、ちょっと情けない。
我ながら未熟だなと思いながら2人を見送って、診察室の扉が閉められると医師に向き合った。

「先生、ご配慮をすみません。ありがとうございます、」
「いいや、こっちこそ、すまないと思っているんです。さあ、まず座りましょうか?」

そう言って、いつもの椅子を勧めてくれる。
ほっと息吐きながら座った英二に、吉村医師は笑いかけてくれた。

「君の風邪の原因は、おしゃぶり光ちゃんのことでしょう?違いますか?」

おしゃぶり光ちゃん。
そんな可愛い綽名で呼んで、穏かな目が笑ってくれた。
なんだか可笑しくなって、つい英二も釣られて笑いだすと吉村医師は微笑んだ。

「よし、笑ってすこし、緩められたかな?宮田くん、この部屋に入って来たときから、ずっと張りつめていたよ?」
「あ、…解かっていらしたんですね、」

やっぱり吉村医師には解るんだな?
そんな理解にほっとした英二に、穏かな笑顔は言ってくれた。

「はい。でも正確には、剱岳から帰って来たときから、かな?」

お見通しでいてくれた、それが今は嬉しい。
もう全部話したいな?英二は医師の目を見つめて口を開いた。

「先生、俺…国村と、キスしたんです、」

英二の言葉に、穏かな目が微笑んでゆっくり頷いてくれる。
なんでも話してご覧?そんな広やかな懐が笑いかけてくれて、想いが声になって出てくれた。

「俺、あいつのこと大切な友達だって、想っています。何でも話せて、信頼できて…いちばんの親友だ、って。
山ヤとしても、警察官としても最高のパートナーです。あいつとなら最高峰にも行ける、夢を一緒に掴むパートナーです。
俺、そういう相手に初めて出会いました。きっと、他には見つからない、そう思います。だから、失いたくないんです、絶対に、」

失いたくない、唯一の親友を。
これは心の底からの本音、だって男なら人なら、親友の存在はどれだけ人生を豊かにするだろう?
その得難さも自分は解かっている、だから今、悩んで逡巡してしまう。この想いそのままに英二は言葉を続けた。

「先生、俺…前にも話した通り、周太に逢うまでは色んな相手と寝ていました、求められて気に入った相手なら…だから、
だから俺、セックスのこと、なんとも思っていなかったんです。少し楽しめそうな相手なら、求められるままOKしていました。
そうやって寂しい自分のこと誤魔化してきました…でも、周太と出逢って…今は簡単に出来ません、体で傷つくことを知ったから、」

こんな赤裸々なことを、大人に話している自分がいる。
そんな今が不思議で、けれど安らかで、緩められた想いのまま瞳から涙がこぼれた。

「先生、国村は、俺と、したいんです…俺のこと、あいつ、本気で恋愛してくれてるんです。それで、キスしたんです。
剱岳で本気のキスされて、俺、途惑いました…でも、あいつのこと、俺、笑わせたかったんです。大切だから、笑顔見たくて。
だから言いました、恋人の一番は周太だけど、一番の親友はおまえだよ、って。それでよかったら、キスしよう、って言いました、
あいつ、心と体と、両方で繋がったことなくて。それが寂しいこと俺には解るから…親友って想いなら同じだから繋がれる、そう言ったんです」

頬伝っていく軌跡が、ゆるやかに膝へと落ちていく。
涙の軌跡を感触に見つめながら、英二は言った。

「親友のままでいいから、そう国村は言ってくれて。それで、あいつのキスを受け留めたんです。あいつ、抱きついてくれて。
愛しい、って、心から想いました…だから俺、自分から抱きしめたんです。そうしたら、あいつ、涙こぼして静かに離れました。
もうこれで良い、そんなふうに。でも俺、抱き寄せたんです、あいつのこと…抱きよせて、初めて自分からキスしました、それが、」

ひとつ呼吸して、英二は唇をいったん閉じた。
話しながら見つめる先、ずっと吉村医師は穏かに見つめ返してくれている。
いまも「いいんだよ」と微笑んでくれる目に英二は、すこし笑って告白した。

「俺が、あいつに自分からキスした、あの瞬間がたぶん、あいつが本気で俺を、好きになった瞬間です。だから…
俺が、あいつのこと、自分で惹きこんだんです。俺が、自分で種を蒔いたことです…だから責任は、俺にあるんです、
それなのに俺は、応えることも出来なくて…あいつを幸せにしたくて、キスして…それが逆に、あいつ苦しめることになって、」

またひとつ涙がこぼれて落ちていく。
ずっと自分が蔑ろにしていた事が、いま自分に跳ね返って平手打ちした。そんな想いのままを英二は言葉に変えた。

「ずっと求められるまま体を与えてきた、それなのに、大切な親友には躊躇ってしまう。なぜなんでしょう?
もし、この体を与えて喜んでもらえるなら。そんなふうにも思います、でも怖いんです…キスと同じことになったら、怖い。
俺があいつにキスして、親友と恋人とに想いが離れました。だから、あいつの願いを叶えた瞬間もっと離れてしまうかもしれない、」

剱岳からずっと見つめ続けた、自分の罪と罰。
それをこの医師には聴いてほしい、この願いに涙がまた1つこぼれおちた。

「先生?俺…ずっと体のこと、蔑ろにしてきました。だから体の感覚が狂っているんでしょうか?
だから、親友でもキス出来たんでしょうか?…あいつは恋愛に墜ちても、俺は親友のままなんでしょうか?
先生、親友のままでも、あいつを幸せに、出来ると思いますか?どうしたら、あいつを失わないでいられるんでしょうか…?」

この想いの出口が見つからなくて、親友を失いたくなくて。
この想いを周太に話していいのかも解らない、自分の想いの行く先さえ見えてこない。
あのとき剱岳のブリザードに心ごと浚われて、覚悟と逡巡のはざまに迷い込んでいる。

誰かに、救けてほしい。

「宮田くん、まず、私に謝らせて貰えますか?」

おだやかな声が、迷い込んだ心に笑いかけた。

「なぜ、先生が謝るんですか…?」

なぜ、吉村医師が謝ってくれるのだろう?
不思議な想いに見つめた先で、おだやかな笑顔の医師は言ってくれた。

「宮田くんが、雅樹の慰霊登山を国村くんにさせてくれました。あのときが国村くんの、最初の引金でしょう?だからです、」

ほっと息を吐いて、吉村医師が英二に笑いかけてくれる。
そして頭を下げて、想いを告げてくれた。

「私は雅樹の父であり、医者です。それなのに、国村くんを15年間ずっと、雅樹への想いに苦しめたまま、何も出来なかった」

深い眼差しの切長い目が、真直ぐに英二を見つめてくれる。
見つめて、吉村医師は静かに語りかけてくれた。

「そんな私の無力の後始末を、宮田くんがしてくれました。きっと、君にしか出来ない事だったと思います。
けれどもし、もっと早く国村くんが向き合えたなら、今の君の悩みも無かった。もし私が賢明な人間であったならと、思います。
だから私は謝らなくてはいけないんです、雅樹の父として、ひとりの医師として、人生の先達として、力不足を謝りたいんです」

ゆっくり瞬いた深い眼差しが温かに笑んだ。

「君は、私のことを救けてくれました。心からお詫びします、そして、お礼を言わせて欲しい。ありがとう、宮田くん、」

ありがとう、そう言ってくれる?
すこし呆然とする想いに見つめた英二に、優しい眼差しが笑いかけた。

「君はね、自分で想っている以上に、人を救けていますよ?だからまず、自信を持ちましょう、」
「…自信、ですか?」
「はい、そうです、」

頷いて、英二の目を真直ぐ見てくれる。
見つめたまま少しおどけたふうに笑って、英二に言ってくれた。

「まず、結論から言いましょう。国村くんはね、剱岳からずっと、幸せそうですよ?」
「…え、」

驚いて少し目を大きくした英二に、吉村医師が笑ってくれる。
深い眼差しの目を笑ませながら、医師は述べてくれた。

「彼のことだから、一度は泣いたと思います。でも楽しそうですよ、大好きなひとと一緒にいる、そんな笑顔で。
雅樹と一緒にいた頃の笑顔と似ていて、それよりも幸せそうだなと、私は思っています。きっと彼はね、今が本当に満足なんですよ、」

雅樹といた頃よりも、今を。
この言葉の想い見つめながら、英二は訊いた。

「満足、しているんですか?…今に、」
「はい、今が満足なんです、きっとね、」

頷いた医師の笑顔が、すこし切ない。
切ない微笑のままに吉村医師は話してくれた。

「国村くんは、大切なひとを次々失ってきました。だから彼は、大好きなひとが生きて傍にいる、それだけで満足なんです。
まだ8歳の時に雅樹を失って、ご両親まで13歳で…子供のときに次々と失うことを経験したから、子供のままに無欲なんです、
無欲なら、なにも捕われることがないでしょう?だから彼は、あんなに自由なんです。無垢な子供のまま大らかで、優しいんです」

大らかな純粋無垢、子供のままの無邪気。
どれも国村が好かれる部分で、そんな性格が尚更に「山っ子」だなと思わされる。
けれど、それが哀しみから象られた現実が、切ない。

…よかった、俺、1番なんだね…俺、ほんとうに、おまえのことは、離したくないんだ…離れないでよ

剱岳で国村が告げた言葉が、また響く。
大好きなひとが生きて傍にいる、この価値を知っているから国村は言ってくれた。
あの想いに自分はどうこたえるべきだろう?想いの糸口を見つめ始めた英二に、吉村医師が微笑んだ。

「無欲で無垢な彼は、今、掌に与えられたものを大切にして、満足することを知っています。
そして失う痛みも、知りすぎている。そんな彼を本当に苦しめることは、大好きな君が離れていくことです。
もし君が彼の笑顔を、本当に大切にしたいなら。ずっと傍で向き合い続けるしかない、悩んでも、痛くても、傍にいることです」

傍にいること、そう自分でも思っていた。
けれど誰かに肯定してほしかった、許されると言ってほしかった。
この肯定が今の自分には優しくて厳しくて、温かい。どこか山懐のように温められるなか、山ヤの医師は問いかけてくれた。

「それにね、君はさっき言いました。キスして抱きつかれて、愛しいと想った、って。だから、気づきませんか?」

剱岳の雪洞で見つめた瞬間のこと。
あのとき自分が感じたことは?心映ったままに英二は口にした。

「…体の繋がりから、心の繋がりが深まることもある、ということでしょうか?」
「はい、」

答えに、吉村医師は温かな笑顔で頷いてくれた。
それは自分も聴いたことがあること、けれど自分には自信が無い。思う通りに英二は言った。

「先生、俺は、心まで求められることに、慣れていないんです…周太に逢うまで、誰もいなかったんです。
だから途惑うんです、今の状況にも、国村に抱きつかれて愛しいと感じた自分にも…だから自信が持てないんです。
先生、もし全身で繋がったら、あいつに今よりも幸せに笑って貰えますか?…俺は、親友のままでも、ずっと傍にいていいですか?」

このまま傍にいることが赦される?
この願いを問いかけた向こうから、穏やかな声が応えてくれた。

「親友のままでも、傍にいていいんだ。生きて笑って、傍にいてあげればいい。君が想う通りに、正直な心のまま隣にいればいい。
体の繋がりを持つことも同じです。親友と恋人と違うとしても、幸せな瞬間を望みたいと想い合えたなら、もう心は重なっているでしょう?
お互いの体温に幸せを見つめたい、そう想い合った瞬間に心は繋がるでしょう?誇りと命をザイルに託し合う、この絆を結んだ君たちなら、」

「肯定」が、いま温かい。



御岳の河原は、岩陰に雪が残っても若草が月に光っていた。
ひさしぶりの場所で焚火に当たりながら見つめる先で、川面の月がゆれていく。
皓々と明るい月下の山嶺は、名残の雪を白銀に照らして稜線を夜に描き出す。
その山翳も月光のまま、雪代ゆたかな渓流に輝いている。

―冬が終わる…雪山の季節も、

この冬は、想いが深かった。
この想い深い季節が今、雪代に溶けだし終わりを迎えていく。
ふる雪の深さも初めて目にする光景で、同じよう心の深みを幾度見つめただろう?
奥多摩の雪に、冬富士に。北岳の高潔な姿へ想いを抱いて、雪山への日々を見つめ始めた。
いつも白銀と蒼の世界に心奪われて、その果てに山の申し子と幻を見つめ合った。

今その申し子は、隣で酒を呑んでいる。
自分と同じように流木に腰掛けて、ぼんやり雪代の流れに微笑んで。
その向こうでは、自分の恋人が大切な友人と楽しげに話している。
もう春が来ている、そんな空気のなか穏かな時がやさしい。

けれど明日の夜から、再び雪山に入る。これが今冬、シーズン最後の雪山になるかもしれない。
想い深い季節の終わりに立つ雪山で、どんな想いを抱くことになるだろう?
この今も心ゆらめく幻の瞬間を、また見つめあう時を過ごすだろうか?
そんな想いめぐらす頭上から、薄紅の花が山風に誘われ降りだした。

「…雪の桜、」

ふっとこぼれおちた言葉に、祝福を英二は見た。
ぼんやりと、水面ゆらめく月と雪稜を見つめながら。


(to be continued)

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第44話 峰桜act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-05-28 23:48:56 | 陽はまた昇るside story
想い、この記憶に祝福を、



第44話 峰桜act.1―side story「陽はまた昇る」

花霞かかる渓谷は、雪解けの水豊かに流れていく。
滔々と碧なす雪代を視界の端に見ながら、英二は白い自転車を走らせた。
きつめの坂登らすペダルも軽くなった、こんなところからも月日の積み重ねが感じられる。
卒業配置された最初の頃は本音大変だった、けれどこれもトレーニングになると思うと楽しめた。
そうして積んだ日々のお蔭で今は、容易く急坂も登っていける。

卒配の秋から七か月、今は春。いま走り抜ける頭上を時折、薄紅色の翳がさす。
この奥多摩にも桜花さく季節がやってきた、そして今日は大切なひとが奥多摩に会いに来てくれる。
きっと、もう着いているだろうな?
そんな予想と一緒に滝本駅に着くと、淡いブルーのウェア姿がふり向いてくれた。

「英二、」

大好きな笑顔が名前を呼んでくれる。
嬉しい想いに手を挙げた先には、もうひとりの大切なひとが微笑んだ。

「おはよう、英二くん、」

穏かで快活な黒目がちの瞳が笑ってくれる。
この笑顔に、この場所で会えたことが嬉しい。想い素直に英二はきれいに笑った。

「おはようございます、お母さん、周太。遅れてすみません、」

いつもの場所に自転車を停めると、英二は頭を下げた。
そんな英二の姿を見、うれしそうに周太の母が笑ってくれた。

「こっちこそ、お仕事の合間に御免なさいね?」
「すみません、今日明日とも仕事だなんて、」

いま御岳駐在所長の岩崎が雪山訓練で谷川岳に入っている。
そのため英二と国村は連続勤務の期間となり、これが終わる明日夜からはまた自分たちが訓練に入る。
こんまふうに、特に山のキャリアが浅い英二は、今シーズンは集中して訓練するため休暇が難しい。

―でも、お母さんの案内は、俺が全部したかったな?

仕方ないと思いながらも、残念になってしまう。
せっかくの彼女の14年ぶりの登山だから、本当は自分が全てつきあいたい。
それでも巡回コースだけでも一緒に歩けるのは良かったかな、考えながら英二は今日の説明をした。

「電話でも話した通りです、大岳山の山頂までは俺がご一緒しますね。そこからは、後藤副隊長が案内してくれます。
副隊長は最高の名ガイドですし、ご自身も楽しみにしていて。でも、俺がお誘いしたのに、途中までだなんて。本当にすみません」

後藤副隊長は皇族などVIPが登山に訪れる時は、必ず指名される名ガイド兼護衛官でいる。
だから誰に任せるより安心で、なにより副隊長自身が旧友の家族を案内したいと願い出てくれた。
きっと一番いい方法になっていると思う、それでも自分が言い出したことを最後まで出来ないのは悔しい。
そんな想いに複雑でいる英二に、彼女は愉しげに笑ってくれた。

「後藤さんのガイド楽しみよ?英二くんと一緒できないのは残念だけど、救助隊英二くんが見られて良かったわ、かっこいいね?」

こんなふうに彼女は「これで良かったな」と笑ってくれる。
こういう明るい考え方が、親戚もなく一人きりでも息子と家を守り抜いた強さになったのだろう。
こんな彼女だからこそ、心から尊敬し愛してしまう。嬉しい想い素直に英二は微笑んだ。

「ありがとうございます、なんか恥ずかしいですね?」

スカイブルーの冬隊服で笑いながら、英二はザックからアイゼンを出した。
登山道の入口から既に雪が見えている、ここから履いて貰った方が危険が無くて良いだろう。
自分の分と、ふたりの分を取りだすと周太が笑いかけてくれた。

「英二、俺、自分で履いてみるね?あとでチェックしてくれる?」
「うん、いいよ。お母さん、お手伝いしますね、」

周太にアイゼンを渡しながら英二は彼女をふり向いた。
けれど青紫色のウェア姿の彼女は、愉しげに言ってくれた。

「私も自分で履いてみるね?久しぶりに、おさらいしてみたいの、」

すこしだけ自信が香る彼女を見ると、きちんとゲイターも履いて装備が整っている。
そういえばそうだったな?英二はこの山の先輩にアイゼンを渡して謝った。

「お母さんの方が、俺よりずっと山のキャリア、長いんですよね?すみません、俺、」
「年数だけね?ブランクあるし、標高2,000mを越えたことも無いわ。英二くんみたいなプロからしたら、私は小僧よ?」

可笑しそうに笑いながら、馴れた手つきでアイゼンを装着していく。
きっと馨と雪山にも来たのだろうな?そんな想いに見つめている先で、きちんと履いて見せてくれた。

「どうかな?ちゃんと履けているかな?」
「はい、大丈夫です。雪山も何度かいらしたんですか?」
「ええ、丹沢と奥多摩くらいだけどね。最後に行ったのは、丹沢の塔ノ岳だったかな、」

懐かしそうにアイゼンを見ながら答えてくれる。
その隣で周太もアイゼンを履き終えて、母の言葉に微笑んだ。

「俺が、2度目にアイゼン履いたとき…だよね?」
「そうよ、周。奥多摩で最初に履いて、次が丹沢だったね。それまで周は、雪山は登ったこと無かったのよね、」
「ん、そう…光一に初めて逢った時が、最初の雪山だったね、」

愉しそうに母子が雪山の想い出を話している。
明るい声に心傾けながら英二は周太のアイゼンを確認した。
周太も今シーズン何度目かのアイゼンになる、もう馴れたらしく上手に履けている。良かったと微笑んで英二は立ち上がった。

「お待たせしました、じゃあ行きましょう、」

英二の言葉に、黒目がちの瞳が明るく笑ってくれる。
そして母子は一緒に雪道を歩き始めた。

「まだ朝で、ちょっと凍っているところもあります。気をつけて下さいね、」
「ええ、ありがとう、」

明るい返事をしながら、彼女は一歩ずつ確実なアイゼンワークで進んでいく。
さくり、ざくり、固い締雪を踏みしめる音が芽吹きの森に、どこか優しい。
今シーズン最後になるだろう雪を踏みしめながら、彼女は微笑んだ。

「雪を踏む感じ、アイゼンの音、懐かしいわ、」

懐かしげに嬉しそうに足元見ながら笑ってくれる。
思ったより速い足並みで着実に歩きながら、彼女は教えてくれた。

「この季節にも私、あの人と登ったことがあるの。桜と雪を見ませんか、って誘ってくれて。それが最初の雪山だったな、」

母の言葉に周太がすこし首を傾げこんだ。
そしてすぐに質問で笑いかけた。

「お父さんと、結婚する前…?」
「ええ、そうよ。お付きあいを始めてね、最初のデートがそれだったの、」

息子の質問に幸せな笑顔が花ひらく。
桜と雪の山が最初のデート、なんだか馨らしくて英二は嬉しくなった。

「どちらの山に行かれたんですか?」
「丹沢の権現坂、っていう所。その年はね、ちょうど4月の雪があったの。それで雪と桜の山になって、」
「雪と桜…きれいだね、」

見たことのない光景に周太が微笑んでいる。
このあと喜んでくれるといいな?そんな想いと英二は登っていった。
やわらかな春の陽ふる朝の御岳山は静かで、けれど時おりハイカーを見かける。
その度ごと目視点検をしながら、いつものように挨拶の声をかけた。

「おはようございます、良いお天気ですね、」
「おはようございます、巡回ですか?」
「はい、そうです。どちらまで行かれる、ご予定ですか?」
「大岳山から、奥多摩駅の方へ抜ける予定です、」
「鋸尾根のルートですね?まだ日陰は雪が凍っています、最後の階段も急斜ですので、膝に気をつけて下さいね、」

話しながらも、ハイカーのレベルと装備を確認していく。
もしも予定ルートや所要時間がレベルと合わないようなら、ルート変更も促す必要がある。
こんなふうに登山道巡回では注意を払いながら、奥多摩の警察官たちは遭難防止に努めていく。
また擦違うハイカーからは情報をもらう事もある。

「この先にすこし、崩れているところがありましたよ、」
「ありがとうございます、規模はどのくらいですか?」
「崖側に20cmくらいかな?人は充分に通れますけど、」
「解かりました、確認しておきます。ありがとうございました、」

教えてくれる事を手帳にメモして、また歩き出す。
そのポイントを通る時には、崩れた原因の確認をしていく。
もし人が滑落した形跡があれば、遭難事故の可能性も考えなくてはいけない。
いま聴いた情報を頭で整理しながら歩き出すと、周太の母が笑いかけてくれた。

「こんなふうに山岳救助隊の方は、山を守っているのね?英二くん、警察官の貌になってたわ、」
「あ、なんか恥ずかしいですね?」

このひとに見られると何だか気恥ずかしいな?
そんな想いになんだか、子供のころの父兄参観を思い出させられてしまう。
いつも母より父に来てほしくて、いつも参観日が来ると父にねだっていた。
懐かしくて、すこし痛みも残る記憶に微笑んだ英二に、周太が笑いかけてくれた。

「救助隊の英二、久しぶりに見るけど…やっぱり、かっこいいね?」

そんなこと言われたら、うれしいです。
うれしくて抱きしめてキスしたいです。

―でも、今はダメだろ?

途端に恋の奴隷モードになった心に、英二は自分で突込みを入れた。
いま周太の母もいて且つ勤務中なのに、我ながら不謹慎で困ってしまう。
つい無垢の誘惑を見る心を謹直に建替えて、英二は婚約者に微笑んだ。

「ありがとう、周太に言われると嬉しいよ?」
「ん、…そういわれるとはずかしいよ?」

言いながら首筋赤くして、アイゼンの足元に目を落してしまう。
相変わらず初々しい恋人の様子が愛しい。今、幸せだな?そう心で呟いた英二に、周太の母がそっと笑いかけた。

「いま、周にキスしたかったでしょ?」
「…っ、おかあさん?」

驚いて見た黒目がちの瞳が悪戯っ子に笑った。
いつもより快活で愉しげな笑顔が「解かるのよ?」と目だけで告げてくれる。
ほんとに敵わないな?素直に観念して英二は微笑んだ。

「その通りです、」

やっぱりね?そんなふうに快活な瞳が笑ってくれる。
こんな明るい貌が見られて嬉しい、嬉しい想いと笑い返した英二に周太が首傾げながら微笑んだ。

「ん?…なにがその通り?」

ちょっと君には、今は言えないよ?
こんな心の声に笑って、英二は婚約者に答えた。

「周太のことがね、大好き、ってことだよ?」
「…そういうことふたりではなしあわれても…はずかしいから、ね…」

また赤くなって俯くと周太はアイゼン見つめてしまった。
そんな息子を楽しげに見ていた彼女の目が、ふと空を仰いで微笑んだ。

「桜、ね?」

薄紅の雲が、花の梢いっぱいに空翳していた。
あかるい曇り空のした、桜は光るよう咲き誇っている。
雪道から見あげる花翳は、あわい紅色の光透かして彼女の頬に映りこんだ。

「…きれい、」

かすかに呟いた色白の貌が花を見あげている。
その隣で彼女の息子は、明るく花へと微笑んだ。

「ん…雪と桜、だね?きれいだね、」

黒目がちの瞳は花映して、嬉しげに笑っている。
息子の声に頷いて、彼女もやわらかに微笑んだ。

「うん、きれいね、…ほんとに、きれい、」

ふる花を映えさせる花曇の空の下、しあわせな笑顔が咲き初める。
幸せ見あげる彼女の白い頬に、涙ひとつこぼれおちた。

「雪と桜…お父さんと見たのと、同じに、きれいよ?」

桜の下で生まれた恋の、幸せな記憶に咲く雪の桜。
彼女の初恋が見つめていた初めてのデートの幸福が、奥多摩の桜に甦っていく。
幸せの春へ黒目がちの瞳は微笑んで、静かな声は花に笑いかけた。

「やっと、還ってこられたかな?私も…ね、馨さん、」

呼びかけた最愛の名前に、ふっと穏やかな風が梢を揺らした。
そして薄紅の花びらが、問いかけ応えるよう彼女にふりそそいだ。

「…かおるさん?」

微かな声は風に融けこみ梢ゆらし、桜の花が空へと舞いあがる。
薄紅の花は春の朝陽にきらめいて、やわらかな髪へと純白の光をふり零す。
ふりそそぐ純白の光の花に、英二はエデンの雪を見た。

―アダムとイヴにふる、祝福の雪の花だ

白い花びらは今、彼女を照らすよう風に輝いていく。
髪をゆらし頬を撫で、やさしく唇ふれながら懐くよう、白い花の風は彼女を包んで峰に吹きぬける。
祝福するような花の風のなか、彼女はきれいに笑った。

「ね、周。お父さん、いま一緒に登っているね?」

花に微笑んだ黒目がちの瞳から、涙ひとつこぼれだす。
その涙を彼女の息子は指で拭って、優しい穏かなトーンで笑いかけた。

「ん、一緒だね?…お父さん、お母さんのこと大好きだから、ね」

恋人の面影うつす笑顔が、彼女の隣で幸せに咲いている。
この恋人が遺した宝物に、彼女は幸せな自信で言葉を輝せた。

「そうよ?お父さんはね、私のこと大好きよ。初めての春からずっと、ね?」

常春の記憶のなか佇んで、現実に見上げる花へと幸せな笑顔が花ひらく。
きっといま永遠の恋人は、まばゆい記憶の花から彼女に微笑んでいる。
いま咲き誇る笑顔を見守りながら、英二は心の面影に笑いかけた。

―お父さん?今、一緒に、ご覧になっていますよね、

問いかけ想いながら、そっとウェアの胸元にふれる。
指ふれる合鍵の輪郭は、花と雪の記憶への想い象っていくようで、心映りこむ笑顔に英二はきれいに笑いかけた。



登山計画書のチェックが終わって、英二はひとつ伸びをした。
ガラス戸を透かしてふる陽光が暖かい、駐在所前の田園と森は萌黄色が昨日よりあざやかになっている。
ようやく訪れた春らしい光景に微笑んで、英二はパソコンデスクの前から立ち上がった。

「うん?宮田も、チェック終わった?」

デスクから顔あげて、国村が笑いかけてくれる。
見ると白い指もボールペンを机に置いて、書類をファイルに仕舞い始めていた。

「終わったよ。国村も拾得物の、終わったんだ?」
「おかげさまでね。やっぱり件数が増えてきたよね、落し物もさ。春だね、」

からり笑ってファイルを戻すと立ち上がって、給湯室へと入って行く。
英二も流しの前に立つと、インスタントコーヒーをマグカップに入れた。
その隣で冷蔵庫から包みを出して、機嫌よくテノールが微笑んだ。

「これ、食って良いんだよね?なんだろ、誰から貰ってきた?」

この包みは朝の巡回帰りに英二が貰ってきた。こんなふうに英二は何かしら頂いてしまう事が多い。
いつも申し訳なくて、けれど遠慮なく貰えばいいと駐在所長の岩崎が教えてくれる。それで今日も素直に受け取ってきた。
こういうのは、お返しも出来ないから途惑うな?困りながら微笑んで英二は答えた。

「うん、良いよ。御岳山の、上の方の民宿の奥さんからだよ。手作りシュークリームだ、って言ってたけど」
「お、イイね。カスタード、好きなんだよね、」

話しながら休憩所にあがると、インスタントコーヒーと菓子を前に寛いだ。
自主トレーニングの後で腹もすこし空いている、口に入れたクリームの甘さがおいしい。
甘さをコーヒーで流し込みながら、英二は口を開いた。

「今日、結構忙しいな。やっぱ桜が咲いたからかな、」
「だね、木曜休みの業種も多いしね?おふくろさんたち、そろそろ下山したかな?」

テノールの声が気遣って訊いてくれる。
うれしい気遣いに感謝して、英二は微笑んだ。

「うん、さっきメール入れてくれてあった。副隊長とお茶してから、こっちに顔出してくれるって」
「よかったね。でもさ、巡回しながらの登山じゃ、おふくろさんに悪かったね?」
「喜んでもくれたよ?俺の救助隊姿を見られて、よかったわ、って、」
「そっか、じゃあ、活動服姿も喜んでもらえそうだね?」

楽しげに笑って国村は菓子を口に運んでいる。
そして2つを呑みこむと、箱の中身を目で数えながらテノールの声が言ってくれた。

「これ、3つは残しておく方が良いよな?秀介と、周太と、おふくろさんと、」

こういう配慮が国村は、旧家の長男らしい細やかさに温かい。
相変わらず秀介は英二の勤務日には勉強に来る、特に今日は周太が来ると楽しみにしていたから必ずくるだろう。
そうして3人揃った時に茶菓子があれば、喜んでもらえる。友人の心遣いを嬉しく思いながら英二は礼を言った。

「ありがとう、3人とも喜ぶよ、」
「だといいね?おふくろさんには、旨い弁当の差入もらっちゃったしさ、ちょうど良いお返しが出来るね?」
「うん、ありがとな。たぶんね、どのおかずが一番おいしかった?って訊かれるよ、」

今朝、大岳山頂で別れ際に彼女は、昼食用の弁当を2人分渡してくれた。
その心遣いが温かくて、どの惣菜も美味しくて嬉しかった。だから質問にはすこし迷いそうになる。
けれど無邪気な友人は、からり笑って即答してくれた。

「唐揚げと煮玉子。あの煮玉子、半熟なのがイイよね。この間の周太のスコッチエッグも、半熟で旨かったよ、」
「うん。あれ旨かったな、黄身がソースになって、」

弁当のこと、自分はなんて答えようかな?
そう考えながら英二は、機嫌良くコーヒーを啜っている友人に笑いかけた。

「国村、あと1個食べていいよ、」
「うん?おまえ、まだ1個しか食ってないだろ?全部で7個だったからさ、あと1個おまえのだよ、」

ちょっと不思議そうな顔で首傾げこんで、言ってくれる。
けれど、周太の母にまで気遣ってくれたお返しをしたくて、英二は微笑んだ。

「これ、好きなんだろ?食べてくれて良いよ、」

元から国村は甘いもの好きだから、たぶん食べたいだろうな?
そんな想いと見た先で、秀麗な貌が嬉しそうに笑ってくれた。

「うん、ありがと。じゃあ、遠慮なく食うね、」

言いながら白い指は、器用に菓子を半分にしていく。
ちょっと気恥ずかしげに笑って英二を見ると、片方を渡してくれた。

「はい、はんぶんこ、食ってね、」

はんぶんこ、そう言った底抜けに明るい目が微かに羞んでいる。
これを断ったら、いけないだろうな?想い微笑んで素直に英二は受け取った。

「うん、ありがとう、」
「こっちこそ、だね、」

礼を言って菓子を口に入れた英二に、無垢な瞳が幸せそうに笑ってくれる。
こんな貌は無邪気で、子供のままの純心な想いがまばゆい。この笑顔に見える想いが切なくて、本音のところ愛しいと想う。
この感情の種類は複雑、傷みと薫る甘さの意味がよく解らない、ひとつ確かなことは「親友」という想いだけ。
そんな心に途惑う自分がいる、けれど途惑っても心のままにあるしかないと肚は決めてある。

…どんなときも、なにがあっても、俺は英二の居場所だよ?…光一のこと幸せにしてくれたなら、うれしい

…宮田にも俺しかいないよね?俺、ほんとうに、おまえのことは離したくないんだ…離れないでよ
 親友だけど、キスしたい。おまえとは…今は名前で呼んで…光一、って呼んでほしいんだ

剱岳で川崎で、見つめてきた周太の願いと国村の想い。
剱岳から帰路のまま川崎に行った、あのとき周太と国村は暫く話したようだった。
ふたり庭先に停めた車内で話して、そのまま買い物に行って帰って来た。あのときの国村の笑顔が忘れられない。

―国村、ほんとうは泣いたんだ…目が、赤かった、

あの日の朝、雪洞で目覚めて最後にキスを交わして、離れた瞬間から「いつものように」国村は笑っていた。
いつものよう機嫌よく朝食を仕度して、楽しげに雪山を歩き下山して、温泉では普段通り英二にちょっかい出してふざけていた。
けれど本当は、ずっと涙を堪えてくれていた。

本当は国村は泣きたかった、目覚めた瞬間からずっと。
それでも7時間を笑って四駆を走らせて、いつもどおりに底抜けに明るい目は笑ってくれた。
そして川崎で周太と買い物から帰って来たときも、泣きはらした痕隠して国村はいつものよう笑っていた。
そんなふうに、英二に涙を隠そうとする想いが、切ない。

そして国村の涙を受けとめてくれたのは、周太だと解ってしまう。
国村は周太を「特別」だといつも言う、その通りに周太を宝物のよう大切に護ろうとする。
そんな周太の婚約者である英二への想いに、真直ぐ無垢な心は苦しんで泣いて、きっと周太にありのまま告白した。
この苦しい想いを周太は、いつもの穏かで純粋な優しさのままに全てを受けとめ、肯定してくれた。そんな確信が温かい。
だからこそ、国村は気恥ずかしげな顔も素直に見せられるし、菓子ひとつに想いを差しだすことが出来る。
こんなふうに国村と英二とを包んでくれる、大らかな周太の愛情が愛しい。

ふたりは、もう覚悟している。
大切なふたりの想いと願いは、ふたり同じことを英二に求めている。
だから自分も覚悟して、大切な2人の求めに心のまま応えていけば良い。そんなふうに決めた。
途惑いも自責も背負うかもしれない、それでも与えられるなら全部を背負えばいい。
こんな想いと微笑んでコーヒー啜りこむ英二に、底抜けに明るい目が悪戯っ子に微笑んだ。

「今日もバッチリ、お美しいですね、『媛』?」

呼ばれた名前に困らされてしまう。
困ったまま笑って英二は口を開いた。

「その名前、絶対に人前では呼ぶなよ?ほんと、俺だってバレたら大変だから、」
「うん、山の秘密に懸けて言わない、」

愉しげに細い目を笑ませながら友人は、呑気にコーヒーを啜りこんでいる。
ほんとうに大丈夫だとは思うけれど、どきりと心臓打たれた記憶に英二は困り顔で微笑んだ。

「信じているけどさ?でも、写真集を見た時は俺、ほんと驚いたよ?」

あのとき屋根裏部屋で見るまでは、自分の写真が一冊になったことを英二自身が知らなかった。
だから、自分の写真が飾る表紙をふたり揃って眺めていた時は、本当に驚いた。
びっくりしたよ?そう笑いかけた英二に、テノールの声が遠慮がちに訊いてくれた。

「…周太に見せたの、嫌だった?」

マグカップから唇離して、無垢な瞳が心配そうに見つめてくれる。
すこし心細げな目のまま国村は、素直に謝ってくれた。

「嫌だったなら、ごめん…周太、喜んでくれる、って思っちゃって、俺…周太だけは、いいのかな、って、」

こんなふうに素直に心細げな国村は、すこし前まで見たことが無い。
いつも自信にあふれて大らかな自由のまま、誰に何を言われても気にしない。そんな国村が英二のことは気にしている。
こんなギャップに心すこし響かされてしまう。そんな心を素直に認めながら、英二は笑いかけた。

「うん、周太なら構わないよ?いつかは話さないと、って思っていたから。きっかけをくれて、ありがとな、」
「あ、よかった、」

からり明るい笑顔が雪白の貌に咲いていく。
自分の言葉1つで表情を変えてくれながら、透明なテノールが嬉しそうに笑った。

「俺もね、周太だけには、ちょっと内緒とか、嫌だったんだよね。おまえのことは特に、」
「そうだな?周太には内緒に、したくないな、」

本当に自分もそう思う。
素直な本音に笑い返した英二に、底抜けに明るい目が愉快に笑いかけてくれた。

「よかった、同じだね?それにしてもさ、おまえ、マジ美少女だったんだね?世界の巨匠が平伏したのも、納得の眼福だよ、」
「そう言われるの、ちょっと恥ずかしいな?」

あの姿だったのは、ほんの3年前のことなんだな?
そんな時間の経過を想う英二に、機嫌よく透明なテノールが言った。

「恥ずかしがること、ないね?だってさ、あの写真集、欧米では今トップの人気だよ?さすが花の女神、撫子姫だね、」

そんな事態になってるの?
知らない自分のことに驚いて、英二は訊きかえした。

「あの写真集、そんなことになってるのか?」
「うん、そうだよ?ちょっとこいよ、」

気軽に笑って携帯を操作すると、書籍のランキングページを開いてくれる。
そこに示された事実に、ほっと英二は溜息を吐いた。

「…ほんとだ、」
「ね?で、日本でも花丸急上昇中だよ?洋書なのに、すごいよね、」

あの最初の撮影のときも、その後も、自分は人助けだと思って引受けただけだった。
まさかこんなことになると思わなかった。いま示される過去の自分の事態に、英二は困りながら微笑んだ。

「途惑うな、さすがに…困るよ、」
「大丈夫じゃない?今のおまえ見てね、同一人物だ、ってすぐ気づくヤツはそういないね。性別も違うしさ、」
「うん、…そうだけど、」

確かに今の英二を見ても同一人物だとは、誰も気付かないだろう。
この3、4年で背も少し高くなって男の風貌が強くなっている、なにより山ヤの警察官になって体躯が格段に逞しくなった。
きっと大丈夫だろう、けれど念のための注意はしたほうがいいな?こんな考え巡らす背後で、からりガラス戸の開く音が立った。

「こんにちはー、」

すっかり馴染みの可愛い声が、駐在所に入ってくる。
たぶんそうかな?休憩室から出てみると、小さなお客が英二に笑いかけてくれた。

「こんにちは、宮田のお兄さん。おじゃまして、いい?」
「こんにちは、秀介。もちろんどうぞ?」

英二の言葉に嬉しそうに笑って、ランドセルの背中が休憩所に入って行く。
すぐに奥から愉しげな笑い声が聞こえてくる、国村と秀介は親戚同士でもあり仲が良い。
あんなふうに国村も雅樹と話していたのかな?ふと考えながら英二は茶を淹れ始めた。




(to be continued)

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第43話 護花act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-27 23:59:53 | 陽はまた昇るanother,side story
約束の花、今、ひらく



第43話 護花act.2―another,side story「陽はまた昇る」

午後の陽ふる運転席で、ひそやかに響いていた嗚咽が途切れた。
ゆっくり黒髪の頭が上げられて、濡れた睫の瞳がこちらを見てくれる。
透明な涙あふれるままの、きれいな瞳が周太を見つめて、泣笑いに微笑んだ。

「来てくれたんだね、ドリアード?…」

不安と安心と、切ない縋る眼差しが心に届く。
こんなに綺麗な涙を見せてくれるひと、この純粋な初恋相手が自分は好きだ。
おだやかな想い微笑んで、やわらかく周太は応えた。

「ん、来たよ?…駐車場、開けたから入って?」
「うん、ありがとう…、」

涙のままでサイドブレーキをあげて、動かしていく。
速やかに車庫入れを済ませると、エンジンキーを外して光一がふり向いた。

「…っ、ぅ、」

ちいさな嗚咽と一緒に、透明な涙があふれだす。
泣いている無垢の目が周太を見つめてくれる、そして透明なテノールが告白した。

「ドリアード…俺、君の大切なひとを、本気で…、っ…すきに、な、た…、」

ほとり、涙が白いカットソーに零れおちる。
きらきら光る軌跡を頬たどらせながら、光一は言葉を続けた。

「きのう、剣岳で…雪の原っぱ、あって…天空の雪原、きれいでね…エデンみたいだった。それで、俺…キスしたくなって。
いつもみたいに抱きついて、半分ふざけてキスして…エデンの、大人のキスを…そしたら、やさしくて温かくて…俺、うれしかった、」

ふたつの瞳から、涙が煌きこぼれていく。
ウィンドーからふる午後の陽ざしのなか、輝く涙ぬれる白い貌が微笑んだ。

「でも夜、言われたんだ。いちばんの恋人は周太だ、なのに国村がキスして恋人になったら、国村は二番以下になってしまう、って
これって、絶対に一番の恋人にはなれない、ってコト…でも、仕方ないって解ってる…だって、あいつが愛したのは君だから…
だって、山桜のドリアード…俺だって君が大切で、山と同じに愛してる。だから…山ヤのあいつが、君を一番にするのは当然なんだ、」

透明なテノールが美しく響いていく。
いつもどおり透けるよう明るい、けれど切ない声は、幸せに笑って言った。

「でも、言ってくれた。国村は一番の唯ひとりの親友でいてほしい、二番以下になってほしくない、って…
いちばんの親友だよ、たった一人のザイルパートナーで、大好きな友達だ、って言ってくれて…うれしかった、だって、いちばんって…
あいつの一番でいたいから、うれしかった。恋人じゃない、でも、親友でザイルパートナで一番になれた、嬉しかったんだ…いちばん、が、」

ほとり、涙が零れおちていく。
きらめく涙のなか微笑んで、ひとつ息吐くと光一は口を開いてくれた。

「それで、俺、ねだったんだ…エデンのキスしたい、って。親友のままでいいから、したい、って…キスだけでも、ふれたかった。
心ごと、体を繋げてみたくて…親友って想いなら、お互いに同じだから、心重ねて繋げられるから、だから…キスしたかったんだ、」

親友のままでいいから。
そう言った光一の想いが心ふれて、周太の瞳から涙がこぼれた。
だって、この想いは自分も知っている。あの警察学校時代に自分は、何度そう思っていただろう?
卒業したら離ればなれ、そう覚悟して、ときおり電話だけでも良いから声を聴きたい、そう願っていた。
あの想いは幸せでも辛い、けれど光一は一生ずっと英二の隣でならして良いと言っている。
その覚悟が切なくて哀しくて、綺麗で。心あふれる涙と見つめる先で、光一は微笑んだ。

「キスでふれあって、国村が幸せになれるんだったらしてもいい、そう言って、笑ってくれた。
それで俺、今だけは名前で呼んで、ってねだったんだ…そしたら、言ってくれたよ?『光一?キス、しようか、』って…それで、」

秀麗な貌は幸せに微笑んで、そして泣いた。

「幸せだった、」

ひとことが、心に響いてしまう。
透っていく綺麗なテノールは泣きながら、想い言葉に変えて微笑んだ。

「想い合ってキスする、幸せで、離れたくなか、った…温かくて、やさしくて、熱くて、あまくて…幸せで。
すこしでも多くふれあいたくて、あいつに抱きついていた…そしたら、抱きしめてくれ、て…なぜ抱きしめてくれるか、不思議で、
なぜ?って目で訊いたら…俺の頭を、掌で抱いてくれた。それが嬉しくて、涙、でて…これで良い、って想えて、離れた…そしたら、」

透明な無垢な瞳が、涙こぼして周太を見つめてくれる。
そして透明なテノールが言ってくれた。

「初めて、キスしてくれた…頭抱きよせて、唇にキスしてくれた、あいつから初めて…それで、それで俺、恋したんだ…!」

涙が、おおきく煌いて無垢の瞳をすべりおちる。
あふれる想いを言葉に変えて、テノールの声は心透り泣き出した。

「俺、恋した…!本気で、愛してる、今…あのとき、髪を抱かれた、唇にキスしてくれた、瞬間に、恋した…!涙まで、キスで…、
ごめん、ドリアード…俺、あいつのこと好きだったよ、最初から。でも、こんなになるなんて、想わなかったんだ…っあ、ぅっ、…
こんなに、こんなに誰かのこと、人間のこと、大切になるなんて想わなかった…ぅっ、あ…愛してる、あいつのこと、もう、はなれられな…い、」

涙ながれる美しい貌に、午後の陽が窓ごしふれていく。
きらきら光る頬の涙を、周太はそっと掌で拭って微笑んだ。

「ん、そうだね?…光一は、英二のこと、ほんとうに大好きで…誰より、愛してるね?」
「…し、ってたの?…ドリアードは、俺の気持ち…わかってた?」

純粋無垢な瞳が真直ぐに見つめてくれる。
子供のままに無垢できれいな瞳、この瞳に出会った時から自分は大切に想っている。
この想いのまま周太は、おだやかに笑いかけた。

「ん、愛するだろうな、って思ってたよ?英二は本当に綺麗で、かっこいいからね…隣にいたら、好きになるの当たり前、」
「うん、…ほんとうに、そうだ、った、」

無邪気なままの貌が、すこし笑ってくれる。
それでも涙は尽きないままに、光一は聲をあげた。

「ドリアード…俺、今も雅樹さん大好きなんだ、愛してる…でも、それ以上に、あいつのこと想ってる…おかしいくらい。
こんなに考えるなんて、こんなに一緒にいたいなんて…『山』以外は無かったのに…人間のこと、こんなに求めるなんて…ぅ、っ…
その相手が、君の大切なひとだなんて…ごめんね、山桜のドリアード…でも、自分でも、どうしようもなくて…お願い、赦して…よ…」

ずっと「山」が一番だった山っ子の光一。その山っ子が今、初めて「人間」に恋して苦しんでいる。
それを「山の秘密」の相手「山桜の精」に光一は告白してくれる。
こんなふうに光一は周太を敬愛する「山」の一部と信じて愛して、だからこそ光一は苦しんでいる。
大切な「山」を裏切ったと泣いて、赦しを願っている。この純粋で不思議な涙を、周太は心の木蔭に受けとめて微笑んだ。

「光一?好きになって良いんだよ、英二のこと…愛してあげて?」

周太の言葉に、無垢の瞳がゆっくり瞬いて涙こぼれる。
零れる涙を掌で拭って、泣いている瞳に周太は笑いかけた。

「誰かを大切に想うことは、悪いことじゃない。恋愛ってね、宝物かもしれない…だから、謝る必要なんてない。
謝ってくれるのだったら、その分だけ英二を守って?…英二の笑顔を守ってほしい。英二の笑顔は、俺の宝物だから、守って?光一、」

英二の笑顔を護ること。それはきっと、光一の笑顔を護ることにもなる。
この2つの願いに微笑んだ周太に、無垢な瞳はすがるよう見つめてくれた。

「…それで、赦してくれるの?ドリアード…俺は、あいつのこと好きでいても、いいの?」
「ん、好きでいて?…たまに俺、拗ねたりすると思うけど、でもね…光一が英二の傍にいると、英二、笑えるでしょ?」
「うん、…笑ってくれる、」

素直に頷いた瞳から、涙が降りこぼれてしまう。
子供のよう、けれど美しい泣き顔に笑いかけて、周太は涙を掌で拭ってあげた。

「じゃあ、いいよ?英二がたくさん笑ってくれるなら、それでいいんだ…英二と一緒にいてあげて?最高峰に連れて行ってあげて?」

これは本当の願いごと。
この願いに籠めた想いは言えない、けれど「ふたりが一緒にいてくれる」ことを自分が望むと伝わればそれでいい。
この先への想い隠したまま微笑んだ周太に、すこし笑って光一は頷いてくれた。

「うん、連れて行くよ?ドリアード…君の願いなら、俺は何でも叶えるよ?君から離れろと…あいつと離れろ、以外はなんでも聴く」
「ん、言うこと聴いてね?」

これで良い。
嬉しい想いで頷いた周太に、透明なテノールが問いかけをした。

「山桜のドリアード、教えてよ?…人間の恋愛は、どうしてこんなに苦しい?切ない?どうして…小さなことが、幸せなんだろう…」

傷みと想いが薄紅いろの唇からこぼれだす。
この問いかけに光一の途惑いと哀切が響いていく、玉響す想い見つめながら周太は応えた。

「きっとね…人は、限りがあるからだと、想うよ?」

これは難しい問いかけ。
けれど自分が想うことを正直に応えればいい、想う通りに周太は言葉を続けた。

「あのね…人の時間って、限られてるでしょ?だからこそ、この『今』を大切にできるな、って俺は思うんだ。
それでね、大切にしたいから、苦しくて切ないんだと思うよ?どうでもよかったら苦しくないよね、きっと、真剣な分だけ苦しい。
真剣に苦しんだ分だけ、一生懸命なだけね、幸せは嬉しいでしょ?…だから、小さなことにも幸せだな、って気づけるんだと思う」

父の姿に、雅樹に、自分は人の時の有限を知った。
だからこそ「今」を真直ぐ見つめることが出来る、本気で大切にしようと覚悟できる。
そして今もこうして、光一と目を逸らさずに向き合うことが出来てしまう。こんなふうに時の有限は、勇気にも変わってくれる。
この人間らしい勇気が愛しい、きれいに笑って周太は光一に言った。

「だからね、光一?…苦しい分だけ、幸せは見つけやすいかな、って俺は思うよ。苦しんで一生懸命な分だけ、幸せを見逃さない」

きっとそうだと、自分は思う。だって英二との時間がそうだったから。
警察学校での日々、それからの時間、いつも自分は苦しみと歓びを同時に見つめてきた。
いつか離れていく予兆の苦しみは、痛くて。けれど痛みの分だけ与えられた「今」共にある時が大切で、大切な分だけ幸せだった。
だから今もこの瞬間が愛しいと素直に思える。そんな想いに佇んでいる周太に、光一が微笑んだ。

「じゃあ俺、すごく一生懸命になれている、ってことかな?…一生懸命、好きなら…幸せに、なれるのかな、」

光一の恋する相手は自分の婚約者。
そして婚約者は周太以外を伴侶にはしないと、はっきり光一にも告げてしまった。
それでも、伴侶になれなくても光一は、この恋に生きようともう決めている。
たとえ人間的に見て不幸だとしても、山っ子にはそれが幸せなら、もう引き返さない。

山っ子は「山」の姿そのまま簡単には心動かさない、それでも「人間」の恋愛に墜ちたなら永遠の恋愛になるだけ。
この終わらない想いへと、今、懸けるべき言葉は?ゆっくり1つ瞬いて、周太は口を開いた。

「きっと、光一だけの幸せが見つかるよ?」

心定まってしまったなら、言祝ぎだけがあればいい。
そして言祝いだ想いを自分も、大切に見つめて支えて行けば良い。この想いと笑いかけた周太に光一も笑ってくれた。

「ありがとう、ドリアード。俺、幸せになるね?いっぱい嫉妬させるかもしれないけど、赦してね?君のこと、ずっと守るから」

真直ぐな想い告げながら、やっと底抜けに明るい目が笑ってくれる。
これならもう大丈夫。よかった、ほっと心に吐息ついて周太は微笑んだ。

「ん、ありがとう。遠慮なく嫉妬するね…そろそろ、家に入ろうか?」
「うん、ありがと、周太…でも、」

頷いて、けれど気恥ずかしげに光一が笑った。

「俺、すごい顔だろ?かなり泣いちゃったからさ。こんな顔、あいつに見せらんないね、」

涙の痕が残る笑顔はきれいで、けれど少しだけ目が赤くなっている。
治まるのに30分位はかかるかな?考えながら周太は、携帯電話を取出した。
ひらいて、着信履歴から発信すると1コールで通話が繋がってくれる。微笑んで周太は電話の向こうに話しかけた。

「英二?…あのね、買物、思い出しちゃったんだ…このまま光一と行ってくるから、留守番お願いしていい?…ん、ありがとう、」

短い通話にすぐ切って、周太は運転席をふり向いた。
気恥ずかしそうに底抜けに明るい目が笑ってくれる、そして透明なテノールが微笑んだ。

「ありがと、周太。ねえ、やっぱり君は、山桜のドリアードだね?…こんなに純粋で、やさしくて、賢くて強い、」

想い告げながら、エンジンを掛け始めてくれる。
こんなふうに言われると気恥ずかしい、けれど周太は頷いて大らかに笑った。

「ん、俺はね、光一の山桜の精だよ?…だから、光一のことも守るよ、」
「うん、ありがとう、ドリアード、」

しあわせな笑顔が、雪白の貌に咲いてくれる。
底抜けに明るい目は笑んで、透明なテノールが謳うよう笑った。

「さて、今から買物デートだけどね、行きたいとこ、教えてよ?」

いつものよう楽しげに笑ってくれる。
こんな「いつもの」が嬉しいな?素直に微笑んで周太は応えた。

「ん、スーパーと本屋かな?…大学のサブテキストを、ちょっと見たいから、」
「うん、本屋か?…いいね、俺も本屋は行きたいんだ、」

思いついた何かに、無垢の瞳は悪戯っ子に笑っている。
いったい何をたくらんでいるかな?不思議に思いながら周太は、きれいな涙の痕に微笑んだ。



買物から帰ってくると、玄関ホールに英二が出迎えてくれた。
きれいな笑顔を咲かせながら、おだやかな低い声が微笑んだ。

「お帰り。ココア、作ってみたんだけど。どこで飲む?」

ココアは自分の好きな飲み物。
うれしい想いに微笑んで周太は応えた、

「ありがとう、英二…屋根裏部屋で、どうかな?」
「うん、いいな。ふたりで先に行っていて?持って行くから、」

言いながら買い物袋を受けとって、台所へと持って行ってくれる。
この家にすっかり馴染んでいる、そんな背中をダイニングへの扉に見送りながら、透明なテノールが笑ってくれた。

「あいつ、この家で幸せなんだね?イイ顔してる。あいつホント、君の婚約者になれて、よかったんだね、」

心からの祝福の言葉を言ってくれる。
この言葉の想いが切ない、けれど泣いてはいけない。
そんな想い見つめる周太の瞳を、底抜けに明るい目が覗きこんで微笑んだ。

「周太?あいつが君に出逢って恋をした、それで今のあいつになって、俺は恋したよ?君のお蔭で俺は、人間の恋愛が出来るね、」

光一は「周太込の英二を好きだ」と周太を包んでくれる。
こんなふうに言われて嬉しいな?素直に周太は微笑んだ、

「ん、ありがとう…俺もね、初めて会ったとき光一が、俺のこと好きって言ってくれたから、色んな人と話せるようになったんだよ?」
「そんなこと言われると、うれしいね、」

楽しげに笑って光一は、周太の耳元にキスしてくれた。
いつもながらの早業に気恥ずかしくさせられながら、周太は光一と階段を上がっていった。
書斎の前を通りかかると、ふっと甘い香が頬撫でてくれる。

…英二、お父さんにもココア、あげてくれたんだね、

自分のココア好きは、父の遺伝。
この香くゆらす心遣いが嬉しい、幸せに微笑んで周太は自室の扉を開いた。

「うん、いつもながら、良い部屋だね?」

感心しながら光一は部屋を見渡して、バルコニーの窓に佇んだ。
買ってきたテキストを机に置くと、周太もバルコニーから外を眺めた。

「山桜が、咲いているね?」

白い花に目を留めて、嬉しそうに透明なテノールが笑っている。
この花への光一の想いは自分も愛しい、笑って周太はねだった。

「光一?あの山桜が咲いたら、見せてくれる?」
「うん、もちろんだね、」

雪白の貌に幸せな笑顔が花ひらいてくれる。

「来週くらいには咲くね。おふくろさんと奥多摩に来るのも、来週だよね?」
「ん、その予定だよ?…母は、そのまま温泉に行くらしいけど、俺は河辺に泊まるつもり、」
「そうだってね?あいつ、楽しそうに話してたよ、」

話しながら梯子階段を上がっていく。
屋根裏部屋は天井ふる光に明るく温かい、陽だまりに周太はいつものマットレスとクッションを敷いた。
その間にロッキングチェアーの「小十郎」を撫でて、それから光一はクッションに座りこんだ。

「さて、お待ちかねのコレ、開けてみよっかね?」

愉しげに笑って本屋の袋を開いてくれる。
きれいなハードカバーの洋書を取出して、白い手は器用にビニールカバーを剥がしていく。
モノクロ写真が飾る表紙は花と人のコラボレーションが美しい、ため息に周太は微笑んだ。

「ほんとに、きれいな表紙だね?」
「だろ?中は、もっと綺麗だと思うよ、」

底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
B4くらいの洋書はシックだけれど贅沢な表装で、アルファベット綴りの題字もきれいだった。
なんて書いてあるのかな?題字を読もうとしたとき梯子階段の足音が聞えた。

「お待たせ、あれ?国村、本買って来たんだ、」
「そ、欲しかったんだよね、コレ、」
「へえ、どんな本?」

ココアのトレイをサイドテーブルに置くと、周太の隣に英二も座ってくれる。
そして覗きこんだ表紙に、切長い目が大きくなった。

「…国村?これ、どうやって探した?」
「洋書の写真集コーナーで、すぐ見つかったよ?ね、周太、」

テノールが可笑しそうに笑って訊いてくれる。
話を振られて周太は、素直に頷いた。

「ん、平積みされていたね?…人気があるみたいだったよ、すごく、きれいな表紙だし、」
「だよね?さ、周太、なか開いて見よう?」

白い指がページを開いてくれる。
そこには振り袖姿の美少女が、桜の花咲く下に佇んでいた。

豊麗な桜の花翳に、黒い振袖姿が浮かび上がる。
黒髪を花の風に遊ばせて、ひるがえる黒い袂は襦袢の紅がこぼれだす。
白皙の横顔は端麗で、真直ぐな瞳の強靭は高潔なまでに輝きまばゆい。
どこか神秘的な雰囲気の少女は、薄紅ふる世界で美と凛冽のはざまに佇んでいた。

「へえ…マジ、美少女だね。凛として、華やかで、さ…大和撫子だね、」

透明なテノールがため息まじりに見惚れている。
周太も一緒になって見惚れながら、頷いた。

「きれいなひとだね…日本で撮影したのかな?」
「そうじゃない?なかなかイイ桜だね、でも美少女が最高、イイね、」

愛しげに眺めながら、白い指がページを繰っていく。
顕わされていくページには、モノクロにフルカラーに、あざやかな花と美少女が描き出されていた。

艶めく花を翳した微笑は謎めいて、高雅な眼差しに惹きこまれてしまう。
ふる花に振袖ひるがえす佇まいは切ないほど美しくて、花を抱いて黒髪なびかす様子は初々しい。
長い黒髪と花々まとう姿は神々しいほど眩くて、秘密ふくんだような微笑みせる凛冽な妖艶に魅惑される。

艶麗こぼれる振袖姿と花の写真は、どれも嫋々と神秘的に美しい。その舞台になる光景も雪月花を鮮やかに心残す。
謎と美の微笑みが花に風に抱かれて、月と太陽が照らしだす大らかな翳と光の世界を響かせる。
白い指が大切に繰っていくページは、花の微笑が導く夢幻の世界を描き続けていく。
ただ美しい夢幻に惹きこまれ見つめて、そして最後のページを残すだけになった。

「…あ、次で、もう最後のページ?」

時計を見ると、もう1時間ほど経っている。
何時の間に時間が過ぎたのだろう?首傾げた周太に光一も笑いながら最後のページに指を伸ばした。

「うん、こんなに分厚いのに、もう、って思っちゃうね?良い写真だ、ってコトだ、」

開かれた最後のページから、黒椿を抱いた美少女が微笑んだ。
白銀の振袖に藤紅の襦袢ひるがえし、黒紅いろの花舞う風は黒髪の艶と靡いていく。
高雅な笑顔は慈愛やさしげで、けれど黒い瞳の輝きは女神の神秘に充ちている。
まばゆい純白の衣姿は花嫁のようで、この姿写し撮る想いが切なく温かい。

「…きれい、」

ほっと溜息ついて、周太は微笑んだ。

「俺、こういう写真集って初めて見たよ?…すごく素敵だね、俺も買おうかな、」
「写真集も楽しいだろ?でも、これはイイね。買って良かったよ、マジ眼福…きれいだ、」

満足げに笑んだ細い目は、最後のページを愛しげに見つめている。
名残惜しい想いに一緒に眺めながら、ふと思ったことを周太は口にした。

「すごく、きれいなモデルさんだね?振袖と長い髪が良く似合ってて…背が高いけど、日本人かな?」
「うん、日本人だと思うね?だって、題名がコレだろ、」

白い指が、表紙の題名を指さした。

『CHLORIS―Chronicle of Princesse Nadeshiko』

「クロリス、ローマ神話の花の女神、だね?…ん、この女の人、ほんとにそんな雰囲気、」
「だね?で、Nadeshiko、大和撫子のことだよね。このカメラマン、日本が好きで有名なんだよ、」
「あ…光一、お父さんカメラマンだから、詳しいんだ?」

なにげなく訊いて笑いかけた先、底抜けに明るい目が悪戯っ子に笑っている。
そして唇の端を上げて、一言に笑った。

「まあね?」

笑って腕を伸ばすと光一は、白い指で英二の額を小突いた。
小突かれた英二は困った顔で微笑んで、額をさすっている。
そういえば、ずっと英二は黙りこんでいるけれど、どうしたのだろう?周太は婚約者に笑いかけた。

「ね、英二?すごく綺麗な写真集だよね?」
「…あ、…そう?」

すこし困ったように切長い目が笑ってくれる。
なんで困っているのかな?不思議に思いながら周太は、英文綴りの解説ページに微笑んだ。

「どの撮影場所も、花がきれいで…都心が多いみたいだね、行ってみたいな?ね、英二の知っている場所、ある?」

どこも美しい花の場所ばかり、行ってみたいと想わせられる。
英二とデート出来たら良いな?そんな想像に熱くなりかけた首筋を撫でていると、英二が答えてくれた。

「うん、知ってるよ?どこも、全部、行ったことあるから、」
「全部、すごね…今度、連れて行ってほしいな?いつ英二は、行ってきたの?」

おねだりに微笑んだ周太に、切長い目が笑ってくれる。
そして英二は、きれいな低い声で告白してくれた。

「うん、連れて行ってあげる。俺はね、この写真撮るときに、行ってきたよ、」

この写真、撮るときに。
この言葉が示してくれる、その意味するものは?



静かな黄昏の屋根裏部屋で、周太は目を覚ました。
ゆるやかに顔を上げると、白皙の貌は午睡に微睡んだまま微笑んでいる。
きれいな寝顔の肩には、無邪気な寝顔が白皙の頬に頬くっつけて眠りこむ。
ふたりの穏かな寝顔に微笑んで、そっと周太は英二の腕を抜け出した。

「…よく、ねむってるね?疲れたよね、ふたりとも、」

剱岳のある立山連峰から、7時間。
下山して温泉で寛いだ後、真直ぐここまで帰ってきてくれた。
そして今夜ここを発って、また明日から2人は奥多摩での勤務に戻る。
こんなふうに訓練と勤務とに山を駆けていく、そんな2人の夢と誇りに生きる姿が好きだ。
すこしでも今、ゆっくり眠ってほしいな?そっと周太はブランケットを2人に掛けなおした。

音をたてないよう写真集を手にとると、豪華な装丁らしい持ち重りがする。
静かに床を踏んで黄昏の明るい場所を選ぶ、そこへクッションを敷いて座りこんだ。
ひそやかに大切にページを繰っていく、そこに顕れる英二の姿はどれも美しくて、謎と光が充ちている。
ほんとうに綺麗だな?ため息まじりの想いに周太はすこし困った。

…こんなにきれいな人が、俺の婚約者、だなんて…

気恥ずかしい、そして嬉しい。
ひとり赤くなりながらページを繰って、知らなかった婚約者の姿を見つめていく。
黒髪ひるがえす白皙の、耀く艶麗は中性の神秘まとうまま女神の姿を描きだす。
生来の美貌が艶やかな肌を透し内から光あふれさす、そんなふうに内面から英二を写していく。
そして瞳の眼差しは、英二の心があざやかに映しだされていた。

秘密を隠すよう微笑を湛えた切長い目、その瞳は真直ぐ見つめる想いがまばゆくて。
いつも光一が見つめて撮る山の英二と同じ、峻厳に向きあう正中の想いがここにも写されている。
だから解かってしまう、このカメラマンも光一と同じなのだろう、と。

…どちらも、きれい…映されるひとも、写す想いも

想い見惚れるまま、大切にページを繰っていく。
そうして見つめていく想いの真中に、最後の写真が開かれる。

「…これが、最後の、なんだ…」

最後のページを飾る、黒椿を袖に零した純白の振袖姿。
この写真はモデル最後に撮ったものだと、英二が教えてくれた。
花嫁のような衣姿、黒髪なびかせる微笑は優美だけれど謎めいて、永遠の秘密を想わせる。
この「永遠」にこめた、カメラマンの想いが切ない。

偶然に出会った大和撫子を「Princess」と呼びかけて、自分の専属モデルに指名して。
ファインダー越しに見つめ合い続け、記憶と想いを写真に描き続けて。
そして「彼女」から告げられた別離への想いを、純白の衣姿で写真に綴じこめた。
そうして別れて、けれど写真集に記憶の欠片まとめて、表題に想いを永遠にした。

『CHLORIS―Chronicle of Princess Nadesiko』

花の女神、大和撫子の姫君の年代記。
この表題から、この写真家の想いが伝わってしまう。
きっと彼は、恋をしていた。

けれど、彼の大和撫子は実在するけれど「彼女」は一時の幻。
どんなに自分のもとへ留めたくても「彼女」は自らを語らぬまま、微笑だけが遺された。
そんな掴めない夢への届かぬ想いが、尽きせぬ憧れと恋慕と愛惜が、永遠の秘密となって輝いている。

―…人間の恋愛は、どうしてこんなに苦しい?切ない?どうして…小さなことが、幸せなんだろう…

山っ子の問いかけが、改めて心に響く。

幾星霜の「山」を愛する山っ子には、百年もない人間の時は一瞬のことだろう。
山っ子が見つめるのは悠久の時と遍くめぐる生命の世界、けれど今、その「一瞬」に恋をしている。
ほんのひと時だけ生きる人間、それを愛した想いはきっと、幻を見つめるような想いかもしれない。

ひととき一瞬、けれど永遠に美しい幻。
色褪せることなく想いは募り、求め得られぬ恋愛の翳は去らない。
去ることのない翳を永遠に遺したくてレンズ向け、ファインダー越し見つめて艶麗な翳を写しとる。
この美しい幻を現実のものに抱きたくて、過去と今の写真を映す2人はそれぞれ掌を伸ばす。

カメラマンは名声と地位により、専属モデルとして手許に納めようとした。
光一は「山」と警察官、ふたつの夢と誇りをもってザイルパートナーに繋がり留めている。
けれど英二の恋愛は、どちらの手にも入らない。ひと時の幸福を微笑に与えても恋愛は与えずに、美しい幻として佇んでいる。
これは自分だって同じかもしれない。

もうじき、父の軌跡の核心に自分は立ちに行く。
遠い黙秘のむこうに独り立ち、父の想いを探す日々が始まる。そのときにはもう今ある幸せは遠くなる。
いまここで眠る2人とも離れなくてはいけない、ときおり逢うことは出来ても、多くの秘密を背負う分だけ遠くなる。
だから今、こうして恋愛の幸せにくるまれていても。訪れる孤独の時には「今」は美しい幻のよう感じられるだろう。
この幻のよう美しい記憶を時おり見つめて、心温めて。そして希望を見出し、自分が立つ苦悩の現場にも笑顔を探し出す。

いま手許にある幸せは、幻なのか現実なのか?途惑いと、それでも手にある喜びに人の心は玉響す。
そして想う、この幻のような一瞬が、今が、自分は愛おしい。
だから願う、この美しい記憶と想いの人を、護りたい。




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第43話 護花act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-05-26 23:43:55 | 陽はまた昇るanother,side story
萌いずる季節に、



第43話 護花act.1―another,side story「陽はまた昇る」

当番勤務が明けて、周太は風呂を済ませると食堂へ行った。
ゆるやかな朝陽の明るいなかトレイを受けとると、深堀が声を掛けてくれた。

「おはよう、湯原。佐藤さんもいるんだ、おいでよ、」
「おはよう、佐藤さんと食堂でご一緒するの、久しぶりだな?ありがとう、」

素直に礼を言って、佐藤の据わっている窓際のテーブルに周太も付いた。
そうして3人での食事を始めてすぐ、快活に笑って佐藤が口を開いた。

「昨夜、遠野さんと久しぶりに飲んだよ、」

刑事課勤務の佐藤は、捜査1課在籍当時の遠野教官と仕事を一緒にしている。
それ以来たまに2人は呑みに行くらしい、懐かしい名前に周太は微笑んだ。

「教官、お元気でしたか?」
「うん。元気だったよ、相変わらず仏頂面だけどね。でも、飲むと笑うんだよ?」

あんまり想像できないな?
そんなことを想った向こうで、佐藤がすこし声を低めて教えてくれた。

「それで遠野さんに言われたんだ、『俺の教場は特例になりそうだ、』って、」
「特例、ってなんですか?」

押えた声の深堀が、そっと佐藤に訊きかえしてくれる。
軽く頷くと佐藤はまた口を開いてくれた。

「普通はな、初任科教養と総合はクラス替えをするんだよ。でも、遠野教場は今回、クラス替えをしないらしいんだ、」

この特例扱いの理由は見当がつく。
深堀と顔見あわせると、同じ考えだよと頷いてくれる。
やっぱりそうなのかなと考えながら、周太は口を開いた。

「立籠りの事と、卒業式の事が原因ですよね?」

安西立籠り事件、それに続く卒業式のボイコットと卒業生代表の警視総監への反論。
この2件とも、遠野教場が渦中になった事件になる。
けれど佐藤は首傾げながら確かな事だけを言ってくれた。

「立籠りはそうだと思うよ?やっぱり重大犯罪に巻き込まれたら、PTSDの問題があるだろ?そのケアも今回はあると思う、」

たしかに佐藤が言う通りだろう。
けれど自分には卒業以来、ずっと見つめてきたことがある。それを正直に周太は口にした。

「あの2件とも、俺の責任なんです、どちらも、」

あの立籠り事件で最初に捕まり人質にされたのは、周太だった。
そして卒業生代表として警視総監へ意見したのも、周太だった。

あのとき安西を易々と信じてしまった。
こんな子供っぽい単純さが自分の最大の弱点、そう解っているのに掴まってしまった。
そして自分を盾に英二が脅かされ2人目の人質になって、それから教場全員が誘いこまれ人質にされた。
卒業式の事は遠野教場の皆で話しあい、決めたことだった。
けれど自分の言い方がもっと上手だったら、あんなに問題に成らなかったかもしれない。

あのとき校門で安西に対峙したのが、光一だったら、瀬尾だったら、英二だったら?
きっと誰もが「おかしい」と気がついて警戒して、あんな事件には成らなかったろう。
卒業式の時だって、光一だったらきっと2月の拳銃射撃大会の時のように、警視総監を論破できた。

どちらの事件も発端は自分、結局は周太自身のミスだと解っている。
だから本当はずっと自責が痛くて、この痛みに尚更、警察官である自分に自信が持てなかった。
そしてあのミスのために、教官と遠野教場全員が「特例」対象にされてしまう?

…自分に責任が無いなんて、言えない。教官に、皆に、どんな顔をして会えば良いのか、解からない

警察組織は縦社会、だから上からの低評価は苦しい。
この評価に「特例」がどう響くのだろう?自責を見つめた周太に、深堀が首を振ってくれた。

「湯原、あれは俺たち全員で選んだことだよな?安西のことだって、湯原だから隙を作って反撃できたんだ、」
「でも、元はと言えば俺が油断したからなんだ…ごめん、」

周太は深堀に頭を下げた。
ほんとうに自分は警察官に向いていない、だから遠野教官も「適性が無い」とはっきり言ってくれた。
いくら父のためとはいえ、周囲に迷惑をかけてまで奉職している事が正しいのだろうか?
この自分の選んだ道に自責が痛い。痛みと頭下げている周太に、佐藤が笑いかけてくれた。

「湯原、遠野さんはな?おまえに伝言があるから、昨夜は俺と呑んだんだよ、」
「…伝言、ですか?」

そっと頭を上げて周太は佐藤の目を見た。
見つめた先、頷きながら目を笑ませ教えてくれた。

「遠野さん、こう言ったよ。『安西の事は俺の責任だ、卒業式も無理をさせた。済まない、』そう、恥ずかしそうに言ってな?
面と向かって謝るのはガラじゃないから、伝言で済まん。そう伝えてくれだってさ。遠野さんらしくて俺、笑いそうだった、」

言い終えて、佐藤は快活な笑い声をあげた。
朗らかな笑い声に深堀も微笑んで、人の好い笑顔を周太に向けてくれた。

「誰も湯原の所為だなんて、思っていないよ?それに俺、また皆一緒になれたら嬉しいな。遠野教場が俺は好きだから、」

同期に、笑って受けとめて貰える。
そして遠野教官まで周太のことを気遣ってくれた。
こんなふうに自分は、この警察組織の中でも温かい想いに、幾つ出会えてきたのだろう?

…すこしでも、この恩返しをしたい。「いつか」の瞬間までは、

いま与えられた温もりは、こうして1つの覚悟に変わってくれる。
いま、警察学校入校から1年になる。この間に自分は、こんな温もりに幾ど援けられ、勇気や覚悟を抱けただろう?
この今が自分は幸せだ、想い素直に微笑んで周太は頷いた。

「ん、ありがとう。俺も、皆と一緒になれたら嬉しい、」

初任総合まで、あと半月。
この半月が過ぎて、初任総合の2カ月が終われば本配属になる。
そうしたら自分はきっと、この同期とも先輩とも遠く離れた部署へ召喚されるだろう。
だからこそ、今この一瞬を大切に過ごしたいな?いま、この食卓の時間に周太は、心から微笑んだ。



庭の夏みかんが、大きな実に重たげな風情で梢揺らしている。
艶やかな緑の葉は午後の陽きらめいて、黄金の実が宝珠のよう輝いていく。
野菜籠かかえて見上げながら、周太は樹へと笑いかけた。

「…重たそうだね?でも、あと一月、待ってね?」

この木の収穫適期は毎年5月上旬、今年もきっと同じ頃だろう。
いつも収穫したら、黄金いろの皮は砂糖菓子に作りあげる。
その菓子は1年分作りおいて茶の席での干菓子に出す。これは昔から家では決まりごとだった。
だから5月になると、さわやかであまい香が家中に立ちこめる日がある。その日は幼い頃から周太にとって楽しい。
この5月は警察学校にいる期間だけれど、外泊日があるから大丈夫だろう。
すこし先の予定を考えながら、ひとりごとが唇こぼれた。

「…今年は英二、手伝ってくれるかな?」

英二は山岳救助隊の召集に備えて、外泊日は青梅署に戻る予定でいる。
それでも1日は川崎に帰ると言っていたから、手伝ってもらえるかもしれない。
この夏みかんの砂糖菓子づくりを、英二と一緒に楽しんでみたい。この年に一度の楽しい日を一緒に過ごしてほしい。
来年は、一緒に出来るか、もう、解からないから。

「それでもね、夏みかん?…来年も、俺が作るよ。再来年も、ずっと、」

ほんとうは解らない、あと数か月で自分は危険な場所に行ってしまうから。
それでも必ず帰って、自分がこの家の菓子を作り、家の楽しい日を守っていきたい。
どうしても守りたいから、だから英二には今年一緒に作って貰いたい。きっと英二なら護ってくれるから。
ただ一言「守ること約束して?」そう言えば英二は、必ず約束を護ってくれる。

帰りたい、必ず。それでも、解らない。
不屈の意志を抱いた雅樹ですら、山の眠りに抱かれてしまったように。

あの昏く危険な場所でも希望と生き、父の想いを探し出して、ここに帰りたい。
それでも、どんなに帰りたいと願っても意志が強くても、不可能な時がある。
だから「今」出来ることは、どんなことも全て終えておきたい。
万が一の時にでも、守るべきものを護りきれるように。

…守ることが、出来ますように、

願いと意志に微笑んで、周太は携帯をポケットから出した。
そのまま少しあるいてベンチに座りこむと、受信BOXを開き微笑んだ。


From :宮田英二
subject:どんな時もずっと
本 文:いま晴れています。
    メールの言葉に救われたよ、俺。周太は俺の、最高のレスキューだなって改めて思う。
    俺には周太が最愛のひとです、どんな時も、ずっと。
    どんな時も周太の隣に帰りたい、だから、どんな時も俺を受けとめてほしいよ。
    こんど食べたいもの、1番はここに書けません。2番はスコッチエッグ。
    
    逢いたいです。


最高のレスキュー。
そう言ってくれる言葉の意味を、もう自分は解かっている。
このメールを受けたのは昨日の夕方だった、きっと今頃はもう結果が出ている。
きっと英二と光一には、新しい絆が生まれた。

光一は、この庭の緋牡丹にキスをした。
あの花は英二に準えて活けた茶花と同じ花だった、そう知っていて光一は周太の前で花にキスをした。
周太を愛するように英二を愛したいと笑顔で告げて、花に口づけを贈った。
だからきっと光一は、剱岳で英二とキスをした。

…今までみたな悪戯や御守りじゃない、新しい絆のキス、だね?

それは英二が選び光一が選んだこと。
最愛の婚約者と初恋相手、ふたりが選んだのなら自分は受容れる。
それくらいの覚悟はもう、何度も見つめ心に刻み込んである。だからもう、大丈夫。
もう自分は、どんな時でも英二を光一を受けとめていく。
そう決めてある。

光一の記憶が戻り「初恋」と「最愛」が分たれた瞬間から、自分は決めてきた。
この心が、英二と光一とのはざまに迷子になった、あの瞬間から何度も泣いて考えた。
もう何度泣いたか解らない、けれどその涙ごとに自分の心に一本の樹が育っていく。
心に大きく梢ひろげ、木蔭をつくり、憩えるような空間が自分の中に育っている。
この場所になら2人を受容れることが出来る、きっと美代の事も。

それでも、自分は弱虫だから。
ふたりの新しい絆に、自分は拗ねて泣くかもしれない。
幾ど覚悟しても、わがままで甘えん坊の泣き虫は、堪えないで泣くかもしれない。
けれど、それならそれでもいい。泣けるなら、泣いておく方が良い。

もう自分には時間が無いかもしれない、だから泣くなら精いっぱい泣けばいい。
あと数か月で危険に自分は立ちに行く、必ず帰って来る意志は固いけれど、それでも人の運命は解からないから。
だから今を大切にしたい、今ある時間も感情もすべて抱きしめていたい。こんな今はもう、迷っている暇なんかない。
そんな覚悟が余計「今」正直にある事を肯定してくれる。

そしてこの覚悟が、ふたりの絆を肯定してしまう。
もしも自分が命終わる時が近いなら、あの大切なふたりに支え合って生きてほしいから。
もし、ふたりが各々に、周太のことだけ愛していたなら、周太がこの世から消えた時にどうなってしまう?
あの2人は誰より真直ぐな心を持っている、そんな2人はきっと「唯ひとり愛するひと」を喪えば自棄になってしまう。
きっと追いかけようとしてしまう、いま自分が危険な場所に行くことを護ろうとしてくれるように、死の旅でもきっと付いてくる。
けれど、そんなことだけはして欲しくない。

だから、あの2人に愛し合ってほしい。
もしも自分がいなくなっても、2人が元気に笑って生きられるように、支え合う絆を結びあってほしい。
そうして最高峰に登り続けて、夢と誇りに輝いていく笑顔を、ずっといつまでも見せてほしい。
もしも自分が生きて帰ってこれなくなったとしても、必ず最高峰の山頂で笑ってほしい。
いちばん空に近い場所の笑顔なら、きっと自分にも見えるから。

これは本当は、酷いワガママ。
こんな本音を知ったらきっと、2人とも泣いて怒るに決まっている。
だからこの本音は秘密、あの2人にだけは絶対に明かさない、たとえ命尽きても教えない。
きっと自分は生きて帰って来られると信じている、それでも心残りは無くしておきたい。

…どうか、ふたりが、支えあえる愛情の繋がりを、結べていますように

この願いは、泣いても拗ねても、自分の真実の願い。
これは愛する笑顔を見続けたい自分の、望みを叶えるために必要な事だから。
だから自分は今も、素直に想える。この想い微笑んで周太は、婚約者からの言葉に応えた。

「ん、…逢いたいね?」

画面に笑いかけて携帯を閉じると、ふっと風が庭をゆらした。
あわい紅色の花がふっていく、風揺れる染井吉野の梢には薄緑の葉がちいさく萌え出した。
今週末には花が終わり、いま咲き初めの八重桜が満開になって、翠きれいな新緑の時になるだろう。
そうして今月が終われば、もう初任科総合が始まる。

「…寮の部屋、どうなるかな…」

こぼれた独り言に首筋が熱くなってくる、だって今ちょっと考えた。
「また英二と隣の部屋になりたいな?」それから「そうしたらまた毎日来てくれるかな?」
こんなふうに初任科教養の時の幸せを、来月から再現出来たら良いなと考えてしまう。
けれど、寮の部屋でふたりきりになったとき、どんなふうに過ごすことになるだろう?

「もし英二が…したらダメだよね、こまるよね、どうしよう?」

こぼれていく心配事に花がふる、この心配事には頬まで赤くなってしまう。
こうした心配事も、もしクラス分けで違う教場になれば少なくなるかもしれない。
けれど、

「でも…特例だろう、って遠野教官も言っていたから…きっと、一緒だね?」

また同じ班だったら教場でも一緒にいられる、それは素直に嬉しいなと思う。
けれど「婚約者」であることを意識しそうで、そんな緊張を今もう起こしている。
教場で寮で、すこし周囲の視線が気になるかもしれない。なによりきっと風呂が一番困るだろう。

ほんとうは風呂は、結婚してから一緒に入る約束をした。
けれど英二が3月に静養で帰ってきた後は、何度か一緒に入っている。
そのたびに周太は目の遣りどころに困って、英二のしてくれる事に恥ずかしくて仕方ない。
そんな日常を過ごしてしまっている今、寮の大浴場でも英二と一緒に入れば、必ず意識しそうで困ってしまう。

「…でも、今から困っていても、仕方ないよね?…それより、ね、」

それよりも、英二の履歴書が問題になるだろう。
警察学校入校時の履歴書と、今とでは身元引受人が変わった。
もう今は周太の母となっている、そのことがきっと遠野教官に疑問を抱かせるだろう。

「…遠野教官には、呼びだされるかな、」

理由を訊かれた時、英二は何て答えるのだろう?
山桜を眺めながら考えていると、ふっと携帯の着信ランプが点灯した。

「あ、」

急いで開いて見ると、待っていた名前が表示されている。
嬉しい名前に笑いかけて通話を繋ぐと、大好きな声が名前を呼んでくれた。

「ただいま、周太、」

きれいな低い声が周太に笑いかけてくれる。
あの山からも帰ってきてくれた、感謝を抱いて周太は微笑んだ。

「ん、お帰りなさい、英二?」

呼びかけた名前に、電話の向こう笑顔の気配が咲いていく。
ほら、どんな時も英二は自分のことを想ってくれる。そんな喜びが胸に温かい。
喜び素直に微笑んだ周太に、きれいな低い声が言ってくれた。

「周太の声聴くと、ほっとする…逢いたい、」

最後の一言が、心を突いた。

どうしてそんなに、切ない声で言ってくれるの?
昨夜ふたりは、幸せな時間を過ごせたはずなのに?
この自分が居なくても大丈夫になったはず、それなのに、どうしてそんなに切ないの?

「周太、今すぐ逢いたい…応えてよ?」

切ない声が、名前呼んで求めてくれる。
そんな声で呼ばれたら、覚悟も決心もゆらぎそうで怖い。
それでも求められることは嬉しくて、この想い正直に周太は微笑んだ。

「ん、逢いたいね?」
「ほんとう?周太も逢いたい、って思ってくれる?」

縋るような声、切ない。
切なくて愛しくて、抱きしめてあげたい。
昨日の夜がどんなだったのか解らない、けれど自分を求め縋ってくれる想いは、ほんもの。
こんなふうに自分が愛されている今が幸せだ、素直に周太は頷いた。

「ん、逢いたいよ?スコッチエッグ、食べさせてあげたい、」
「周太、作ってくれるの?」
「今夜のおかずにね、練習で作ってみるんだ…お母さんに試食してもらおうと思ってて、」
「今夜?」

確認するよう訊いてくれた声が、幸せそうに笑ってくれる。
そして微かな音がなにか聞こえて、それから受話口から少しだけ遠い声に話しかけられた。

「本音を応えてよね、周太?俺にも逢いたいって、想ってくれる?」

透明なテノールの声が、泣きそうに聞えた。

ふたりは今一緒にいて、剱岳から帰ってくる途中だろう。
たぶん光一は運転しながら、英二が翳した携帯で話している。

…光一も、俺のこと気遣って、不安がってくれる

ふたりして、こんなだなんて?
なんだか可笑しくて、すこし笑いながら周太は応えた。

「光一?いま運転中だよね、携帯で話してたら、ダメだよ?」
「大丈夫、俺は携帯持っていない、宮田が持ってるから。それより、応えてよ…逢いたい?」

いまにも泣きそうなテノールの声。
こんな光一の声は初めて聴かせてくれる、「嫌われたら?」そう不安がっているのが伝わってしまう。
いつも自信に満ちて飄々と笑う光一が、こんな声を出すなんて?なんだか可愛くて周太は微笑んだ。

「ん、逢いたいよ?また山の写真を見せて?」
「うん、見せる。だから…俺が宮田を好きでも、俺のこと、嫌わないでくれる?」

嫌うわけなんかないのに?
おだやかな木蔭を見つめながら周太は笑いかけた。

「嫌いになんかならないよ?拗ねたりはするけど、」
「嫉妬もする?…それでも、俺のこと嫌わない?好きでいてくれる?」
「ん、するよ?でも、嫌いにはならなよ。光一のこと、好きだよ?」

応えた言葉に、嬉しそうに笑ってくれる気配が伝えられる。
ほら、こんなふうに2人とも、一生懸命に自分を想って気遣ってくれる。
こんなふうに想われていたら、やっぱり心配になってしまうから。だから尚更思ってしまう、願ってしまう。

この2人に、愛し合ってほしい。
もし自分が居なくなっても、笑顔で生きて行けるように。
たとえ周太を想い続けても、違う形の愛情であっても、もう1つの愛情を抱けたなら、きっと絶望することは無い。
もう2度と、英二が冷酷な仮面をかぶることが無いように。
もう2度と光一が、約束ごと置き去りにされることが無いように。
この2人がきちんと生きて、最高峰で笑顔を見せ続けてくれるように、願いたい。

この願いと祈りに微笑んだ周太に、透明なテノールが訊いてくれた。

「周太、今すぐ宮田と俺に、逢いたい、って思ってくれる?」
「ん、逢いたい。2人に、ごはん作ってあげたいな、」

素直に即答して周太は笑顔で頷いた。
笑顔で座っている庭先のベンチは、陽だまりが温かい。
ふる花と陽射しに微笑んだ向こう、エンジンの音が聞こえて家の前に止まった。

郵便屋さんでも来たのかな?
そう見た先には、見覚えのある四駆が止まっていた。

「…あ、」

思わずこぼれた声のむこう、助手席の扉が開いていく。
すぐに長身のカットソー姿が現われて、木造の門が軋む音が庭に響いた。

「周太!」

きれいな低い声が名前を呼んで、ふる花の向うから駆けてくる。
ゆれる枝垂桜とおり、八重桜の花翳ぬけて、懐かしいひとが駆けてくる。
これは幻なのかな?ぼうっと見つめる想いの真中に、きれいな笑顔が跳びこんだ。

「周太っ、」

長い腕が頼もしい力に抱きよせて、温もりが体を包みこむ。
深い森のような香が頬ふれる、きれいな切長い目が見つめて切なげに笑いかけてくれる。

「…英二?」

どうして今、ここにいるのだろう?
どうして今自分は、このひとの腕に抱きしめられている?
わからない事態に途惑って、けれど温もりも香も声も嬉しい。
これは幻なのかな?それでも良い、周太はきれいに微笑んだ。

「英二、お帰りなさい…もしかして、俺、また眠っちゃって、夢見てるの?」
「違うよ、周太。本物だよ、」

きれいな顔が困ったよう微笑んでくれる。
そして瞳見つめて、真直ぐ周太に訊いてくれた。

「周太、俺、国村とキスした…本気のキスだったよ、でも俺には、親友としてのキスだった。キスして…前より愛しいと想った。
けれど俺の恋人は君だけしかいない、君の夫になりたい。教えて、周太?あいつとキスした俺でも、君にキスする権利はある?」

きれいな真剣な目が見つめて訊いてくれる。
こんなこと答えは決まっているのに?微笑んで周太は頷いた。

「どんなときも、なにがあっても、俺は英二の居場所だよ?それに、言ったでしょ?」

ひとつ言葉切って、切れ長い目を真直ぐ見つめ返す。
さあ、この愛するひとを心から、安心させてあげなくちゃ?
この今、婚約者としての幸せな責務に、思い切り周太はツンケンした貌と声になった。

「光一のこと幸せにしてくれたなら、うれしい。でも、俺だって、寂しいんだから、ちゃんといっぱい、愛してよ?
俺の奴隷なんでしょ、言うこと聴いて?でなきゃもう赦してあげない、ごはん作ってなんかあげない…いっしょにもねない、」

ほら、こんなにワガママなんだから?
それでも好きなら、言うこと聴いて?
こんな拗ねた貌して見つめた先に、幸せな笑顔が咲いてくれた。

「うん、俺は周太の恋の奴隷だよ?いっぱい君を愛したい、今すぐだって…周太、今、ベッドに連れて行って良い?」

午後明るい庭先で、こんなこと言われたら困ってしまう。
困るまま首筋を熱が昇りだす、きっともう頬まで赤い。けれど周太は微笑んで、きっぱりと言った。

「光一もいるんでしょ?だからべっどはダメです、でも…きすはして?いうこときいて、」

だんだん気恥ずかしさに声が小さくなりそう。
それでも言い切った言葉に、きれいな低い声が幸せそうに言ってくれた。

「はい、」

きれいな笑顔が幸せに咲いて、唇にキスがふれる。
ふれるだけの優しいキスが幸せで、やわらかな温もりが優しい。
ふれるだけ、それでも想いが次々こぼれこんで、心充たしていく。

逢いたかった、不安だった、愛している、きみがほしい、どうかずっと傍にいて?
ふるように想いが花と一緒に周太へとふりそそぐ。

ほら、こんなに愛してくれるひと。
だから尚更、ひとりきり置いて行くことが出来ない、誰かもう1人も見つめてほしくなる。
もしも自分が帰られなくて幸せな約束が途絶えても、まだ他の誰かとの幸せが残されているように。

そしてもし自分が帰ってこられたら、どちらの愛も大切に抱いていてほしい。
そうして信じてほしい「自分は心から愛される幸福な人生、心身ともに求められている」そう自信を抱いて生きてほしい。
自分が共に生きる時も、遠く見守ることになった時も、いつも。

…どうか、幸せに笑っていて?ずっと、いつまでも

心あふれる祈りと願いこめて、静かにキスから離れた。
そして婚約者を見つめて周太は、幸せに笑いかけた。

「英二、お帰りなさい。夕食は、食べて行けるね?」
「うん。スコッチエッグ、俺にも食べさせてよ?」

嬉しそうな笑顔が大好きなひとに咲いている。
今夜、この献立で良かったな?嬉しくて微笑んだ周太に、英二が訊いてくれた。

「周太、俺たちがいると材料が足りないよな?買物に行くだろうから、って国村、通りで待ってくれているんだ、」

光一が待っているのは、それだけが理由じゃない。
それが自分には解ってしまう、そして光一は今どんな想いなのかも。
この事に関しては自分が一番解かるだろうな?考えながら周太は英二に微笑んだ。

「材料足りるから、買物行かなくて大丈夫…駐車場開けて、光一に声かけてくるから。英二、これお願いしていい?」

穏かに笑いかけて野菜籠を渡しながらお願いする。
渡された野菜籠に、嬉しそうに笑って英二は頷いてくれた。

「うん、お願いされるよ?これ、台所で洗っておけばいい?」
「ん、洗っておいてください…たぶん、庭を案内してから家に入るから、のんびりしていてね?」
「あいつ、庭見るの好きだもんな。俺、書斎でお父さんと話してるよ、」
「ありがとう、よろこぶね?…お昼寝するなら、ちゃんとブランケット掛けてね?」

恋人と笑いあってから、周太は駐車場の門を開き通りへ出た。
そして四駆の助手席扉を開くと、静かに中へ乗り込んだ。

「光一?…泣かないで、」

そっと掛けた声に、ハンドルに腕組んで突っ伏す黒髪がゆらいだ。




(to be continued)

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第43話 護標act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-05-25 23:59:59 | 陽はまた昇るside story
繋がる一本の線 護り、眠れるもの 



第43話 護標act.4―side story「陽はまた昇る」

雪洞を照らす蝋燭の灯りの、オレンジ色がやわらかい。
おだやかな空気のなかで、英二は10年間の秘密に口を開いた。

「俺ね、モデル、やっていたんだ」

細い目がちょっと大きくなって首傾げこんだ。
ひとつ瞬いて、テノールの声が笑って訊いてきた。

「ヌードモデル?」

どうしてそうなるんだろう?
いつもながらのエロオヤジ発想に、呆れながらも笑ってしまった。

「ちがうよ、服を着ている方のモデルだよ、」
「へえ?意外だね、」

なんで意外なんだろう?
たぶん国村なりの推理があるのだろう、英二は訊いてみた。

「どうして意外?」
「だってさ、ヌードモデルならソンナに顔が出ないだろ?だから秘密にしやすいよね、」
「あ、なるほど、」

それは気がつかなかったな?感心して英二は素直に笑った。
そんな英二の顔を見ながら酒を啜りこんで、国村はまた首傾げこんだ。

「でも、服着ている方のモデルだと、雑誌とかに載るってことだよね?でも秘密だった、ってさ?よくバレなかったな、おまえ、」

普通はそう考えるだろうな?
秘密を通せている理由に少し困りながら、部分的に事実を言った。

「かなりメイクするし、プロフィールも全部伏せてあったから、」
「よく伏せられたよね?それに、メイクしたって普通は解かるんじゃない?なによりさ、おまえの性格でよくモデルやったよな、」

なんか事情があるんだろ?そんなふうに細い目が温かに笑みながら訊いてくる。
やっぱり国村は理詰めで考えてくる、もう最初から話した方が良いだろう。
でも恥ずかしいなと思いながら、英二は微笑んだ。

「最初はね、頼まれたんだ」
「頼まれて、か。おまえらしいね?」

英二のコップに酒を注いで、細い目が温かに笑んでくれる。
自分の性格をよく理解してくれている、そんな安心感に自然と口は開かれた。

「家から少し行った所に、桜で有名な公園があるんだよ。花の時期は混むんだけど、静かな所にベンチがあってさ。
そこで俺、本を読むの好きだったんだ。その日も本読んでいて、声かけられて。困っているから、助けてくれって言われたんだ」

静かな桜の下のベンチは自分の特等席だった。けれど実家に帰らなくなってからは、一度も行っていない。
あのベンチは今でもあるのかな?懐かしい想いに微笑んだ英二に、テノールの声が訊いてくれた。

「助けてくれ、って何があったワケ?」
「モデルさんが急に来られなくなったんだ、車が渋滞に巻き込まれたらしい。それで俺にモデルをしてほしいって。でも俺、断ったんだ、」
「うん、おまえなら当然、断るだろね、」

そりゃそうだろう?そんな顔で頷いてくれる。
こんな理解が嬉しくて、英二も素直に頷いた。

「うん、嫌だったんだ、そういうの。でも偉いカメラマンを待たせていて、撮影の時間も限られているから、って言うんだ。
どうしても今すぐ撮影しないといけない、代わりのモデルがどうしても必要なんだ、って…その人、俺に一生懸命に頼んでくれて。
きちんとした仕立てのスーツ着た、30歳くらいの女の人がさ?泣きそうな顔で一生懸命に頭下げてくれて、放っておけなくなったんだ、」

「ソンナに頼まれたら、おまえなら断れないだろうな?で、引受けたんだ、」
「うん、」

頷いて酒をひとくち飲むと、ほっと息を吐いた。
あのときの困ったことを思い出しながら、英二は続けた。

「でも俺、中学生だったんだよ、」
「あ、それはマズいね?おまえ、私立だったろ?」

すぐに気づいて相槌を打ってくれる。
その通りに、ほんとうは「まずい」ことだった。

「そう、所謂お坊ちゃま学校でさ、バイトとか絶対禁止。それ以上に、両親に知られたら大変だったと思う。
だから俺、条件を出したんだ。俺がどこの誰なのか探らないこと、写真も俺だって解らないように出来るなら良いです、って。
そうしたら、絶対にプライバシーは守ると約束しますって言われてね。その場で一筆書いてもらって、受けとってからOKしたんだ」

あのときは驚いたけれど、それなりに冷静だった。
当時の自分にすこし感心した英二に、国村も感心気に笑いかけてくれた。

「一筆書いてもらうなんてさ、周到なオマエらしいね。それで、プロフィールは一切伏せられたんだ?」
「うん。もし俺の身元とかを調べれば、そちらにご迷惑がかかります。そういうふうに警告もしたんだ、ほんとのことだから、」
「だね。嫌がる中学生を、無理にモデルにした、なんてね?オヤジさんが知ったら、怖いことになるだろね、」

言わなくても国村は解かるんだな?
相変わらずの察しよい怜悧さが嬉しい、笑って英二は頷いた、」

「そう。きっと訴訟とかするよ?だから俺、事務所の人にも自分のこと、全部黙秘したんだ。それなら、知らなかった、で済むだろ?」

もし父が知ったなら、きっとモデル事務所を訴えるだろう。
父は弁護士資格を持って大企業の法務室を担う、ビジネス法務のプロフェッショナルでいる。
しかも外資系企業だから国際的に知人が多い、こうした情報網もバックボーンに訴訟すれば事務所を潰すくらい容易い。
それが一番怖いと自分でも思ったから、だから最初にはっきり言わせて貰った。

「黙秘することで、自分が責任を負ったんだ?おまえらしいね、中学の時から真面目堅物くんは変わらないんだな、」
「堅物で真面目は、根本的な性格だからね?」

笑って頷いて英二はコップに口付けた。
あまい香が喉を下りていく、ふわり抜ける芳香に微笑んで話しを続けた。

「それで俺は、撮影の待機場所になるテントに連れて行かれたんだ。そこでメイクと衣装をしてくれてさ?
名前とか、誰も訊かないでくれた。そして出来上がった俺はね、黒い振袖に赤い帯を締めた、長い黒髪の女の子になっていたんだよ、」

あのとき鏡を見た自分は、困ったけれど安心もした。
そんな記憶に笑った英二を、大きくなった細い目が見つめた。

「美少女モデルだった、ってことか?」
「うん、性別から違かったし、お蔭でね?俺が誰なのか、全く解からなくなってた、」
「そりゃ、誰だか解からなくなるね?さぞ美少女だったろな、いいね。で、どんな写真とカメラマンだったワケ?」

愉しそうに笑って底抜けに明るい目が見つめてくれる。
その目が前と少し違う雰囲気があるのは、きっと「恋人」のキスの所為だろう。
いつもどおり、けれど少しの変化を見つめながら英二は、記憶を話しだした。

「桜の下で女の子が佇んでいる、そんな写真だよ。カメラマンはイギリス人だった、40代くらいの男の人で。
帰国スケジュールがあるから、その時間しか撮影できなかったんだ。どうしても大和撫子を撮影したい、って希望だったらしい」

「なるほどね。それじゃ、どうしてもピンチヒッター欲しいよな。ポラとか貰ったんだろ?」
「うん、」

彼はポラロイドの試写を記念にプレゼントしてくれた。
自分だと思えない姿に驚きながらも、いい記念かなと思って素直に貰ってきてある。
あの写真を見たら、国村と周太はなんて言うんだろう?思いながら微笑んだ英二にテノールが笑った。

「でも、大和撫子の正体は、サムライだったんだ?で、彼は全く気づかなかったんだ?」
「気づかなかったよ。可笑しいよな、男が大和撫子だなんて。きっと今の俺を見たら、驚くんじゃないかな?」

大和撫子、このフレーズが当時も本音は困った。
今話を聴く友人も可笑しそうに笑いながら、けれど褒めてくれた。

「でも、宮田ならね?そりゃあ美少女で満足したんじゃないの、彼?」
「うん、だから困ったんだよ、」

そこから始まる困った話に、英二は口を開いた。

「そのカメラマンの人、世界で有名な人だったんだ。それで俺の写真で、なんか大きい賞を取っちゃったんだよ。
それもあって、俺を気に入ってくれてね?また撮影をしたい、って事務所にオファーを掛けてきたんだ。それで事務所の人は困って。
桜の時は、その場でバイト代もらって別れたし、もちろん連絡先教えなかったから。そしたら俺、またベンチのところで捕まったんだ、」

あのときは驚いたな?
もう10年前になる記憶に困って笑った英二に、テノールが可笑しそうに訊いてきた。

「事務所の人、ずっと待ち伏せしていた、ってコト?」
「うん、オファーが来てから毎日、誰かしら見に来ていたみたいでさ。いつもどおりベンチに座って本開いたら、捕まった、」
「で、また美少女に化けて、例のカメラマンに写真撮られたんだ?」

それだけで終わらなかった。
10年前のまま困った顔になって、英二は微笑んだ。

「写真撮って、カメラマン本人から契約書を差し出されたよ。彼の専属モデルをやる、っていうね、」
「ふっ、」

感心と呆れがハーフになった顔が、おかしそうに噴出した。
ほら、やっぱり笑われた。仕方ないと思いながら英二は、肚を括って話しだした。

「そこの事務所の人達がね、自分のところのモデルだ、って苦し紛れで、彼に嘘をついていたんだ。
それで必死に俺のこと、探していたらしい。そのときも俺、また1度きりだと思って行ったから、もちろん専属のことは断った。
そうしたらね?このカメラマンの機嫌を損ねたら、事務所の存続にかかわります、路頭に迷います、お願いしますって、頭下げられて。
もう必死で、皆さんに一生懸命お願いされて。だから俺は条件だしたんだ。この間も言ったように、全て秘密で通してくれるなら、って。
だから契約書は芸名でのサインだけ、あとは連絡とれるように事務所名義の携帯を預った。で、俺は彼の専属モデルになったんだよ、」

ひと息に話して、英二はコップに口をつけた。
馥郁と甘い香にほっと息をついて落着くと、10年間の秘密を話したことが不思議に思えてくる。
まだ中学生から始めて、モデルのような派手な仕事、それも女装だった。
こんなことは、とても自分には人に言えない。
まして父が知ってしまったら訴訟騒ぎになるだろうし、息子を愛玩していた母の反応は想像するのも怖い。
もう一生内緒にしようと思っていた、それを話せる相手がいることは幸運かもしれない。
そんな相手は同じようにコップの酒を呑みこんで、英二に尋ねてきた。

「世界の巨匠の専属か、なるほどね。ソレじゃあ高額ギャラで、貯金も出来るワケだ。で?おまえの芸名ってなんだったの?」

これは本当に言いたくないんだけど。
そう思いながらも、もう全部ぶちまけたくなって、英二は口を開いた。

「『媛』、」

ひとつ瞬く間があって、テノールの声が尋ねた。

「princesse、の姫?」
「そうだよ。カメラマンが俺を、そう呼んだから」

最初の撮影の時から彼は「ヒメ、」「princess、」と英二を呼んできた。
まだ声変わりの前だったし、きっと彼は本気で女性だと思っていたのだろう。
今までの人生で「困った事ベスト3」に入る記憶に、友人は容赦なく質問をした。

「カメラマンが、宮田を、姫って呼んだから、それが芸名になった、ってこと?」
「そうだよ、救援の援と旁が同じ方の、『媛』だけどね、」

応えた英二を、底抜けに明るい目が見つめてくる。
その目を愉快に笑ませると、テノールは笑い声をあげた。

「あはははっ!『媛』、」

透明な笑い声が、蝋燭照らす雪洞に響いた。

「なるほどね、媛、か?あはははっ。世界の巨匠の専属美少女、大和撫子モデルには、ピッタリだね?へえ、彼もねえ?
ははっ、彼、『媛』って呼んじゃうくらい、おまえの美貌に跪いちゃたんだ?この俺と好みが同じだなんて、お目が高いね?あははっ」

やっぱり笑われた。
だから尚更に秘密にしたかったのにな?困りながら英二は友人に微笑んだ。

「そんなに笑うなよ。ほんと恥ずかしいんだから、俺、」
「恥ずかしがるなよ?世界に誇れる大和撫子の代表なんだからさ、おまえはね?はははっ、俺のパートナーは撫子媛だったんだね、」

ご機嫌なテノールが雪洞に響きわたっていく。
誰もいないところで話してよかったな、その点では安堵しながら英二は諦め半分で言った。

「そんなに笑ってもらえて、光栄だよ?」
「ふっ、大いに光栄がれよ?こんなに俺が、大笑いするのも珍しいんだからね、あはははははっ、」

底抜けに明るい目が愉快で堪らないと言っている。
きっと今は何を言っても無駄だろうな?英二は困りながら鍋の具合を見、椀によそった。
熱い椀を大笑いしている前に置いて、自分の分もよそうと英二は黙々食べだした。

「うん、旨いな、」

熱い味噌味のスープが、寒い空気に1日いた体に沁みていく。
雪山では温度だけでも充分ご馳走になる、そのうえ国村は味付けのセンスが良い。
味噌仕立ての鳥鍋を楽しみながら酒を呑んでいると、ようやく笑いを納めたテノールが訊いてきた。

「でも大和撫子なんてね、そりゃあ欧米人のハートを掴んだろ?おまえ、大人気だったんじゃないの?」

ほら、気づかれた。
この洞察力と論理力の鋭い同僚に、半分自棄で英二は自白した。

「そうだよ。俺の写真は、アメリカとかヨーロッパの雑誌を飾ってるよ、」
「だから日本では、あまり知られないで済んだ、ってワケか。でも、逆輸入もあっただろ?」
「みたいだな。でも俺、自分の写真がどこに載ったとか、よく知らない。興味なかったし、」
「おまえらしいね?で、いつまでモデルやって、どうやって辞めた?」
「大学2年まで。もう勉強と就職に専念したかったし、20歳になって男っぽくなってきたから、って言った、」

あの頃までは中性的な雰囲気が強かったと、自分でも思う。
懐かしい困った記憶に微笑んだ英二に、国村が笑いかけた。

「よく20歳まで、男だってばれなかったな。カメラマンは、ずっと宮田は女の子だって思ってたんだろ?おまえ、声と身長はどうだった?」

「うん。もちろん声は途中から低くなったけど、ハスキーヴォイスだと思われていたんだ。咽仏も20歳まではあまり無かったし。
身長は日本人では高いけれど、海外の女性モデルは同じくらいあるだろ?それで、イギリス人から見ると不自然はなかったらしい、」

「そっか。外人だから、海外規格で見て来るもんな?で、この経験のお蔭で宮田、キングスイングリッシュが得意なんだ、」

なぜ国村が知っているのだろう?
青梅署で英語を使ったことは今のところ殆どない、不思議に思って英二は訊いてみた。

「なぜ国村、俺の英語のこと知ってるんだ?」
「周太が言っていたんだよね。ワーズワスを綺麗なキングスイングリッシュで読んでもらって、楽しかった。って、」

馨の命日の夜のことだ。
おだやかな幸せの記憶に英二は微笑んだ。

「あのとき周太が教えてくれたんだ。お父さんは、ワーズワスを使って周太に英語を教えていたらしい。
だから周太、キングスイングリッシュの発音を良く知っているんだ。お父さんが自分で、周太に英語を教えていたから、」

周太の父、馨は英文学者になる夢を持っていた。
けれど「ある事情」から警視庁の警察官になっている。この謎のすべてはまだ解けてはいない。
きっと馨は、本当は英文学を諦めたくなかった。それでも諦めざるを得ない状況に追い込まれている。
この哀しみは、息子にだけでも英語を教えることで少しは癒されただろうか?そんな想い佇んだ英二に国村が言ってくれた。

「おやじさん、息子に英語を教えられて、幸せだったろうね?きっとワーズワスも、好きだったんだろうな、」

同じように国村も感じている。
あの紺青色の日記帳を思い出しながら、英二は頷いた。

「うん、好きだったと思う。たぶん、オックスフォードにいた頃に読んでいた本なんだ、お父さんが子供時代に、」

…子供時代を過ごしたオックスフォード、あの時ふれた美しい豊かな文章たち。
 その思い出と記憶が私を支え援けてくれた…私は日本人でも私の心を育てたのは英文学、だから知っている。
 文章と想いには国境は無い、このことを私はオックスフォードの日々に教えられた…
 あの美しい文章から自分が得たように、生きるにおける喜びと美しさを次の人々へ贈らせてほしい…
 あのときは母を失った想いが辛く、日本に置いてきた祖母との別れも哀しかった。
 けれどオックスフォードで出逢った文章たちが私を勇気づけ励まし、哀しみも受とめ豊かな心を贈ってくれた。母のように。
 だからこうも想う、私にとっての「母」は英国の美しい文章たちだったのだと。
 英国の文章を母にし、フランス文学者の父に愛されて、私の子供時代はオックスフォードに豊かな文学の時を過ごせた。

馨が遺した日記帳、最初のページに記された想いたち。
きっと、あの想いの最初が「William Wordsworth」だったのだろう。
だから馨は 『Wordsworth詩集』を捨てられなかった、そして幼い息子に伝えた。
他の英文学書すべてを捨て、英文学への夢を捨て去ってしまった後でも、最初の一冊は捨てられなかった。
その想いが切ない、想いのまま英二は切なさに微笑んだ。

「俺、周太を救いたいよ、国村?…周太のお父さんの夢を、すこしでも叶えたいんだ。周太を援けることで、」

輝くよう幸福な夢と才能にあふれていた、あの日記帳の最初のページ。
あの書き手の想いを少しでもかなえたい、この想い見つめる向うから透明なテノールが笑ってくれた。

「うん、きっと叶えられるよ?おまえならね、大丈夫、」
「ありがとう、」

誰かに大丈夫と言ってもらえるのは、温かい。
嬉しいなと笑った英二に、底抜けに明るい目が微笑んで言った。

「おまえの初モデル写真、こんど見せてね?モチロン嫌だ、なんて言わないよね。大和撫子の、媛・サ・マ?」

やっぱり格好の餌食を与えたらしい。
きっと「嫌だ」といったら、自分の過去は強請の種になるのだろうな?
困ったまま英二は、自分のアンザイレンパートナーに微笑んだ。



21時になると馬場島派出所との定時交信を国村は始めた。
雪洞の入口から気象状態を報告し、互いに情報交換をしていく。
その内容を聴きながら英二は、空になった鍋を片づけた。ちょうど終わったとき無線を終えた国村が笑った。

「飯も食ったし、定時交信も終わったし、広げよっかね、」

機嫌良く言いながら国村はザックを開けている。
何を広げるのかなと見ている先で、見覚えのある大きい袋が取りだされた。
やっぱりこれを持って来たんだ?ちょっと笑った英二の前に、2Lサイズのシュラフが広がった。

―ちょっと、途惑う、かな?

こころ独り言つぶやきながら、すこしだけ首傾げこんでしまう。
あの雪原でのキスが、今夜この友人と一緒に寝ることを緊張させていく。
意識し過ぎなだけかなとも思うけれど、いま隠す途惑いも心にまでは隠せない。
どうしたらいいのかな?ぼんやり眺めていると、青いウェアの腕が英二を引っ張り込んでシュラフに座らせた。

「さあ、媛。今宵のお褥が出来ましたよ?」
「その名前、絶対に人前で呼ぶなよ?」

きっぱりと英二は断言した。
この名前を業界では覚えている人間が居るかもしれない、その可能性が怖い。
こんな懸念に向けた目線を、底抜けに明るい目が笑って受けとめた。

「当たり前だね、山の秘密に懸けて内緒の約束だ。それにさ、こんな可愛い呼び名、そう簡単に教えられないね、」
「そういうもんか?」

なんだか可笑しくて英二は笑ってしまった。
愉しげに一緒に笑いだしながら、国村は約束してくれた。

「そういうもんだね、山限定の呼び名にするよ。さ、媛サマ?お支度をいたしましょうね、」

可笑しそうに笑った国村は、がばり英二を組み伏せてシュラフに押倒した。
ひっくり返されて驚いていると、勝手に登山靴が脱がされていく。

「ちょっと、国村?それくらい自分でやるってば、」
「ご遠慮なく。媛の手を煩わせることはございませんよ、」

底抜けに明るい目が愉快に笑っている。
どうやら新しい悪ふざけとして「媛」が餌食になったらしい。
困りながら見ているうちに、脱がされた登山靴はきちんと袋に納められ、シュラフの中に入れられた。
もし靴が凍りつけば凍傷を招き、遭難にも繋がりかねない。その予防として靴が万が一にも凍らないようにしておく。
同じように自分の靴も仕舞いこむと国村は、さっさと英二の背中に抱きついてシュラフに潜りこんだ。

「さ、媛?私が添い寝いたしますから、安心してお休みくださいね、」

やっぱりこうなるんだな?
困りながらも可笑しくて英二は笑ってしまった。

「なあ?今夜はずっと、俺って『媛』なわけ?」
「俺が飽きるまでね、」

テノールの声が楽しげに答えて、英二の肩に白い顎が乗せられる。
雪白の頬を英二の頬にくっつけながら、国村は愉快に笑った。

「媛?今宵は私が、シッカリ温めて差上げますからね。熱い夜を、お過ごしくださいませ、」
「もう熱いから、遠慮するよ?」

笑って答えた英二を、愉しげな笑顔が覗きこんだ。
そして可笑しそうに笑いながら、白い指を英二のウェアの衿元に掛けた。

「あれ、熱いんだ?じゃ、遠慮なく、」

言いながら白い指が、ウェアのファスナーを引きおろした。

「ちょっ、国村?」

驚いた英二を悪戯っ子に細い目が笑う。
そして衿に手を掛けると、一挙に肩からウェアが脱がされた。
どういうつもりだろう?驚いているうちに国村は自身もウェアを脱いで、英二のものと纏めてシュラフに入れた。

「はい、これで熱くないよね?ちゃんとシュラフに仕舞ったから、朝は温いの着られるからね、」

無邪気に笑って、フリースの背中に抱きついてくる。
ほんとうに英二が熱いと思っただけらしい、すこし緊張ほどいた英二にテノールの声が笑った。

「アレ?いま、ほっとしただろ?おまえ、俺に襲われちゃうとでも思ったワケ?」

なんて答えたら良いのかな?
いつもなら簡単に答えを返せるのに、心に一瞬詰まってしまう。
ちょっと途方にくれそうな心に、ふっと周太からのメールが映りこんだ。

 …想いのまま素直に山の時間を過ごしてください。
  英二のすべてを信じているから、英二の応えかたは正しいと信じます。
    
身構えることなんか、必要ない。
メールがくれた想いとコンパスに心定めると、自然と微笑が零れてくれる。
ゆるやかな心のまま微笑んで、くるり寝返り打つと英二は国村に向かい合った。

「うん、ちょっと思ったよ?だって国村、昼間だって、いきなりキスしただろ?俺、驚いたんだからな、」

真直ぐに目を見て英二は笑いかけた。
見つめた細い目が微かに途惑って、けれど透明なテノールは応えてくれた。

「あそこでは俺、キスしたかったんだよね。…嫌、だった?」

No、そう言ってほしい。
そんな想いが細い目に切なく浮かび上がる。この眼差しに英二は3か月ほど前の記憶を見つめた。

― 御岳小橋のときの目だ

御岳小橋で発見された投身自殺。その遺体を英二だと思った国村は、心と言葉を喪うほどに衝撃を受けた。
あのとき国村は英二を失った悲嘆と、自分の初恋が英二を死に追い込んだと自責した。
そして純粋無垢な魂のままに、自分の心を壊してしまった。
国村は無言のまま岩崎の呼びかけにも反応しなくなった、瞳はただ真黒に一点を見つめ、蒼白の顔は人形のように固まっていた。
けれど英二の呼びかけに国村は戻った。底抜けに明るい瞳は笑い、透明なテノールの声で名前を呼んで、泣いてくれた。

―…ほんとうに大切なんだよ、おまえのこと。おまえが死んだと思った時にね、すべてが終わったんだ、俺
  なにも考えられなかった、世界の音も色も消えたんだ。おまえを失って絶望したんだ、俺は
 
率直に想いを言ってくれた目は、どうか離れないでと訴えてくれた。
ほんとうに、英二を失ったら心を壊すほど大切に想っている、そんな国村の想いが嬉しかった。
あのときの気持ちと今とは変わらない、素直に笑って英二は応えた。

「驚いたけど、嫌じゃなかったな?でも、途惑うよ、」
「途惑う?」

すこし意外そうに訊きかえしてくれる。
いつも心のまま正直に生きる無垢な国村からしたら、英二の途惑いは不思議かもしれない。
これも、そのまま言えばいい。笑って英二は応えた。

「うん、途惑ったよ?だってさ、いちばんの友達がキスしたら、何に変わるんだろう、って思ったんだ。
俺はね、いちばんの恋人は周太だろ?それなのに国村がキスして恋人になったら、国村は2番以下になってしまう。
それが哀しかった、国村にはさ?1番で唯ひとりの親友、って呼べる相手でいてほしいから。だから、2番以下になってほしくないんだ」

見つめる先で、ちいさな呼吸が桜色の唇からこぼれる。
無垢の瞳で英二を見つめてくれながら、透明なテノールが訊いた。

「俺、いまはもう、2番以下になった?それとも…1番の親友、ってポジションにいる?」

不安そうな揺らぎが声にある。
こんな国村は初めて見る、それが不思議な想いのまま英二は微笑んだ。

「いちばんの親友だよ、たった一人のザイルパートナーで、大好きな友達だ、」
「よかった、俺、1番なんだね?」

安堵が雪白の貌に花のようほころんだ。
きれいな笑顔だな?思わず見惚れながら笑った英二に、白いフリース姿が抱きついた。

「キスくらいじゃ、俺たちは変わらないよね?そんな脆い関係じゃないよね?俺たち、…ずっと一緒だよね?」

小さな子の様に抱きついて、頬よせてくれる。
フリース越しの鼓動がすこし速くて、けれど温かい。
どこか大らかな想いのままに英二は、そっと背中を叩いてやりながら微笑んだ。

「うん、ずっと一緒だ。キスでも壊れないよ、俺たちは。お互いに、たった1人のザイルパートナー同士だ。他なんていない、」
「そうだよね?…宮田にも、俺しかいないよね?…俺、ほんとうに、おまえのことは、離したくないんだ…離れないでよ、」

頬を離し、間近くから無垢な瞳が真直ぐ見つめてくれる。
どうか離れないで?その想いが北鎌尾根で見つめた慟哭に重なって、英二の目の奥が熱くなった。

「離れないよ?唯一の親友だから。なにがあっても俺は、国村のザイルパートナーだよ。お前と一緒に、最高峰に登りたいんだ」

これが自分の素直な想い。
唯一無二の存在、親友でザイルパートナー。この大切な存在を離したくはない。
どうか笑っていてほしい、守っていきたい。想い微笑んだ英二を、無垢な瞳は見つめて微笑んだ。

「キス、して…いい?」

すこしだけ困ったよう英二の目が大きくなる。
それでも微笑んだまま見つめる想いの真中で、視線を結んだまま透明なテノールが微笑んだ。

「エデンのキス、したい…親友だけど、キス、したい。おまえとは、」

エデンのキスは「恋人」のキスだった。
それなのに「親友だけど、」と告げる想いが切なくさせられる。
ひとつ心に呼吸して、英二はきれいに笑いかけた。

「うん、いいよ?キスしよ、」

応えた向こう、無垢な瞳が瞠られる。
いま言ったことは本当なの?そんな問いかけを黒い瞳に浮かべながら、桜色の唇が開いた。

「…ほんとに、いい?」
「いいよ?」

笑顔のまま応えて、少し困りながらも穏かな想いは温かい。
いま凪いでいる心のまんま、自分は応えればいい。無垢の瞳と見つめあって英二は言葉を続けた。

「おまえ、言っていたよな?心を繋いだ相手と、体ふれ合ったことが無いって。
でも俺とくっつくと安心する、温かいって想えるって。無条件に許す安心があって信じられる、そう言ってくれたよな。
だからさ?俺とキスでふれあって、国村が幸せになれるんだったら、してもいいな、って思うんだけど。それじゃダメかな?」

率直に想いのままを告げていく。
こんな男同士で友達同士、キスでふれあうなんて変かもしれない。
けれど今はこれが自然に想えて、想いのままに英二は親友に笑いかけた。

「どうする?国村、キスする?」
「…うん、」

うなずいて気恥ずかしげに雪白の貌が笑ってくれる。
英二の肩に腕をまわして、瞳見つめて。そして透明なテノールが願った。

「俺のこと、今はさ、名前で呼んでくれる?…光一、って、呼んでほしいんだ、」

名前で呼ぶこと。
呼び方もすこし近づけて、体のふれあいをしたい。
どこかいつもと違うトーンの声、羞んだような笑顔、真直ぐで切ない瞳、なにもかも少しずつ「いつも」と違う。
これもきっと「山の秘密」なんだろうな?この想いに親友の瞳見つめ、きれいに英二は笑いかけた。

「光一?キス、しようか、」

呼ばれた名前に、幸せな笑顔が咲いてくれる。
そっと雪白の貌が近寄せられて、ゆるやかに長い睫は伏せられていく。
そうして桜色の唇ふれて、薄紅のキスに夜は惹きこまれた。

あまやかで清明な香が頬撫でて、花の馥郁が口移しされていく。
ふれるだけの温もりのキス、口づけのはざま零れこむ香が不思議で、どこか神秘を想わせられる。
やさしい温もりが唇ふれて撫でていく、艶やかな花びらふれるようなキスが重なっていく。
まるで花とキスするようで、けれど瞳開いたままの視界には大切な友人の貌が映っている。
この相手の貌とキスの感触に見惚れながら、惹きこまれている意識のなか自問した。

― どうして、頷けたのだろう?

どうして自分は、キスに頷けたのだろう?
受容れた自分が不思議で、けれど、いちばん自然だった。
いま重ねあう唇もしっくり馴染んで、おだやかな熱に心地よさがふれてくる。
こんなキスを周太以外とするなんて、考えたことがなかった。それでも自然と自分は肯えた。
そして今、唇のはざま吐息と想いがふれるままに自分は受けとめている。

…愛してる、好きだ、離れないでよ?

ふれる唇のむこう、想いがおくられてくる。
この想いに自分自身の想いが重なる部分もある、この重なりに応えたい。
キスのまま英二は微笑んで、光一の背中に掌を回すと穏やかに抱きしめた。

「…っ、」

キスのはざま、透明な吐息がこぼれた。
瞳開いたまま見つめている視界に、長い睫がすこし上げられる。
きれいな睫を透かす無垢の瞳が、英二を見つめて問いかけてくる。

…どうして抱きしめてくれる?

そんな問いかけを透明な目が告げる、けれど言葉の応えなんか解らない。
見つめる問いかけの目に微笑んで、そっと黒髪の頭を右掌に抱いた。
そのとき、光一の目から涙がこぼれおちた。

「…あ、」

こぼれる涙に、かすかに唇はなれて声がこぼれる。
こんなふうに泣いてくれる、こんな貌に切ないまま英二は唇を近寄せた。
ふたたび重ねたキスのむこう、微かな驚きと歓びのふるえが伝えられる。
そして躊躇いがちに、唇から熱が偲びこんでキスを甘くした。

…大好きだ、ふれるところで想いを交してよ?融けあいたい、

偲びこむ熱に想い連れられ、心、訪ないにキスで扉開かれる。
甘い熱が蕩かす蜜のようで、ふれる香も唇の感触もどこか花ふれていく。
そうしてキスふれる花の唇が、ふっと微笑みにほころんだ。

 『いま、しあわせだ、』

微笑伝えられるキスに、目の前の睫から涙こぼれていく。
あふれ夜露ぬれるよう煌いていく、この幸せの雫を唇で拭い、また花のキスに唇ふれさせる。
花に口づけされるよう、そんなキスに繋がれたまま雪山の夜に微睡んだ。



翌朝は晴れていた。
スノーシューで雪を踏みわけ下山していく、そのスピードが共に速い。

「宮田、すっかり馴れたね?」
「うん、先生が良いからさ、」

笑って話しながら、どんどん高度が下がっていく。
2時間ほどで馬場島派出所に到着すると、下山報告の挨拶をして山タンを返却した。
この山タンは遭難者の捜索用に携行させられるもので、受信機能しか付いていない。

「ようするにさ、遭難死の場合の、ってコトだもんね、あれ」

派出所を後にして歩きながら、からりテノールの声が笑っている。
こんなふうに、遭難死を想定するほど積雪期の剱岳は険しい。この実感を想いながら英二は微笑んだ。

「うん、本当に厳しい現場だな、」
「だな?条例も勧告もある、それでも遭難者が多いんだよね、ここは」

相槌を打って話す国村は、いつもどおりに明るい。
こんなふうに歩いていると昨夜の時間は、幻だったようにも思えてくる。

切ない甘い、花のようなキスに繋ぎ合った微睡みの時。
どこまでも無垢で真直ぐな想いが、大らかな強さのまま泣いていた。
泣きながら幸せに微笑んで、キスに全身と心の全てを繋いで幸福を見つめていた。
お互いの想いはすこし違くて、その違いが切なくて、けれど重なる想いの幸福だけを友人は見つめていた。
いま与えられる幸せを、心から歓び籠めて受けとろうとする、そんな無垢な想いが愛しかった。

そうしてキス繋いだままに目覚めた朝は、いつもどおりだった。
微睡みから覚めて、最後にキスを交わして、そして離れた瞬間から「いつも」になっていた。
けれど唇には花の香が、今もまだ遺されている。

― あれは「山の秘密」の時間だ、

山の秘密の時は、ありのまま。
ただ本物の想いと心だけが、隠さず見つめてくれる。
だから、どんなに夢のような不思議な時だったとしても、その夢すら真実だろう。
だから、自分があの時に抱いた想いは、きっと本音が映りこんでいる。

あの時間に山で、また逢うのだろうか?

雪洞で見つめた時を想いながら、英二は剱岳を振り返った。
遥かな山頂へ昇っていく早月尾根は、もう雪煙に染まりだしている。
さっきまで晴天だった剱岳は、今、吹雪を纏いだした。

「お、やっぱり吹雪になったね?さっさと下山して、正解だったな、」

隣を歩きながら、透明なテノールが元気に笑っている。
そんな様子を嬉しいと感じながら、英二は相槌に微笑んだ。

「そうだな。本当に、天候が不安定なんだな、」
「そ、だから晴天の登頂なんてね、ほんとラッキーだったんだよ、」

底抜けに明るい目も、早月尾根を見あげている。
あの吹雪まとう場所に自分たちは2時間前までいた。そして昨夜、あの場所で幻を見つめ合った。
この隣は今、あの尾根に何を見つめているだろう?

あの尾根に見た幻と、山の秘密は眠りにつく。
きっと山にはこんなふうに、たくさんの秘密が眠っている。
青と白の世界にめぐらす生と死を抱いて、想いと秘密を眠らせて、風雪が山を巻いていく。
純白の帳おろし人の視線を塞いでいく、氷雪に「秘密」護るよう天の剱が消えていく。

おだやかに見あげる想いの先、剱岳はブリザードの彼方に消えた。
消えた剱を慕うよう尾根奔る、白銀の竜が切なく、そして愛おしい。




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第43話 護標act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-05-24 23:05:39 | 陽はまた昇るside story
峻厳にみる夢、



第43話 護標act.3―side story「陽はまた昇る」

雪洞を掘り終えると正午過ぎだった。
昼飯の鍋を火に掛けながら、国村は富山県警馬場島派出所に幕営場所の無線連絡をしてくれる。
定時交信する20時までの予定を簡単に告げ、今の気象状況について情報交換をしていく。
こんなふうに積雪期の剱岳では「勧告の基準」によりトランシーバー携行が求められる。

剱岳は山容が険しく、特に日本海側気候により豪雪となる積雪期は毎年遭難者が出てしまう。
そのため富山県は1966年に富山県登山届出条例を定め、この剱岳周辺を「危険地区」と指定した。
この条例により12月1日から翌年5月15日の間に危険地区に立入る者には「登山届」の提出義務がある。
これは登山する日の20日前までに富山県自然保護課宛に提出、電子申請フォームでも届出ができる。
もし登山届の不提出、虚偽記載などの違反行為を犯した時は違反者に罰金が科されていく。
そして条例には、入山者への「勧告の基準」が設けられている。
この基準は4月15日を境に異なり、4月上旬に入山の英二たちは前半期の申請だった。

ア.単独登山に対しては中止を求める
イ.パーティの構成メンバーは、原則2分の1以上の積雪期登山の経験者で構成、リーダーは積雪期登山経験の豊富な者を求める。
ウ.特別危険地区に登山することを計画した届出は、中止またはコースの変更を求める
エ.登山方式、パーティー編成、行動計画などから判断して日程が少ない時は再検討を求める。
  なお、予備日は12/1から2月末までは少なくとも7日以上、3/1から4/15までは少なくとも5日以上を求める。
オ.登山方式、パーティー編成、行動計画などから判断し、
  装備及び食料が積雪期登山に対しあきらかに不備と認められる場合は、再検討及び必要な物の携行を求める。
カ.パーティー間及び基地との連絡のため、とくにトランシーバーの携行を求める。

この基準の為に英二たちも、予備日を5日設けて入山した。
この予備日は剱岳の急激な天候変化により定められ、悪天候時の無理な行動による遭難の防止項目と言える。
また、勧告基準の「特別危険地区」は池ノ谷と東大谷を指す。
いずれも雪崩の巣であり悪天候時は死の谷となる、この池ノ谷に山岳警備隊の2人目の殉職者は呑みこまれた。
あの彼は富山県警山岳警備隊で分隊長を務めるほどのエキスパートだった。それでも死に呑まれてしまう。
それが剣岳だからこそ、富山県登山届出条例は、登山者の安全を守るために作られた。

―富山県警ですら亡くなる、この山は

いま無線連絡をするパートナーの報告内容を聴きながら、英二は視界に広がる雪嶺を見た。
広やかな立山連峰は白銀の竜の背が連なり、ナイフリッジの峻厳な山容が険しくも美しい。
その中核である剱岳は一般登山者が登る山として、国内で危険度が最も高いとされる。
この危険度ゆえに国村も、英二が積雪期経験を経たシーズン終盤の4月に入山を決めてくれた。
そんな山域を管轄とする富山県警山岳警備隊は、日本警察の山岳レスキューでは最強と謳われ本にもなっている。
その本の一冊を英二もクリスマスの朝に、新宿に向かう電車で読んだ。

『尽くして求めぬ山のレスキュー』

この一文が、今の自分の柱の一つになってくれた。
自分は国村にアンザイレンパートナーとして選ばれ、8,000峰14座に登頂する運命に繋がれた。
けれど自分は本来、世界中の山頂を目指すようなアルピニストになる性格ではないだろうと思う。
もし国村に言われなければ自分は8,000m峰14座への登頂など考えない、遠征訓練でサポート要員に入る程度だろう。

けれど、こんな自分でも「尽くすレスキュー」ならと思えた。
いちばんの友人を最高峰でも守りサポート出来る、最高の山岳レスキューを目指そうと考えた。
この自分が国村の唯一のザイルパートナー、だから最高のクライマーを支える専属レスキューとして一緒に登って行こうと決めた。
それから後藤副隊長と吉村医師に個人教授をお願いして、8,000峰に必要な技術と知識を教えて貰う日々が始まった。
そして今、最高難度の山に座って青と白の広い世界を眺めている。

最初に「山」で生きようと思ったのは、周太を助ける為だった。
そして山岳救助隊になって国村と出会い、トップクライマーのレスキューを目指すことを選んだ。
最愛の伴侶と最高の友人、この大切なふたりを守りたい想いが、自分を「山」の世界に昇らせた。

そんなふうに辿り着いた今、この場所は美しい。
生命すら抱きとって眠らせる冷厳の山、その危険を知っていても青と白の壮麗な世界に惹かれる自分がいる。
この世界を知らないで生きてきた23年間が勿体ないと思う、そして今、ここに立てた喜びが眩い。
ここは誰もが辿りつける場所じゃない、適性と努力と正しい指導がなければ「死」に墜ちる。
さっき天空の雪原で国村が言った通りだと、そんなふうに自分も想う。

―…ここはね、祝福の雪の花が作った、エデンだよ

ここはエデンかもしれない、本当に。
純白の氷雪に彩られ生と死がめぐる世界は、人間の範疇を越えている。
ここで見つめるのは白銀と星霜と天空の色彩たちしかない、すべてが人間の意志通りになど動かない。
すべてが雄渾な美しさに充ちて、ただ心と視線を奪っていく。

この場所に立てるのは、隣の友人がザイルで自分を繋いでくれたから。
このことの幸運と感謝が山に1つ登るごと、大らかに心温め信頼と幸福を深くする。
この友人に出逢えて、本当に良かった。そんなふうに自分の人生を感謝出来る。

けれど天空の雪原で、友人は自分にキスをした。
そして自分の心は迷子になった。

この友人は、山の教師で唯一のアンザイレンパートナー、そして恋敵でもある。
それなのに「恋人」のキスをされて、自分が置かれる感情の位置が解からなくなった。
いちばん大切で唯一の親友が「恋人」のキスをする、そんなことしたら「唯一の」親友は何になる?
もう唯一の恋人がいる自分は、他に恋愛なんか出来ない。それなら唯一の親友が「恋人」のキスで何に変わる?
唯ひとり大切な存在、親友でザイルパートナーはもう、今の自分には欠けてはいけない存在、それなのに。
それが何かに変わって、消えてしまったら、自分は人として山ヤとしてどう生きればいいのだろう?

唯一の大切な友人が解からない、不安になって涙が出た。
いつもの堅物もストイックも冷静も役立たず、感情のルートファインディングが出来ない。
けれど、さっき雪洞の中で婚約者から届いたメッセージが、この友人と向き合うコンパスをくれた。


 From :湯原周太
 subject:どんな時も
 本 文:いま晴れていますか?
    想いのまま素直に山の時間を過ごしてください。
    英二のすべてを信じているから、英二の応えかたは正しいと信じます。
    俺も必ず英二の全てを受けとめるから、隣に帰ってきてね。
    どんな時も、俺の隣は英二の居場所です。
    
    明後日は非番だから実家に帰る予定です。
    こんど食べたいものがあったら教えて?練習してきます。


素直に想う通りにいればいい、そう周太は言ってくれている。
英二が国村にどう応えても、全てを受けとめるといってくれる。
すべてを許容される安らぎは、心に支点を与えクリアな思考を覚ましだす。
何があっても信じている、愛し居場所になってくれる、その安心感が涙を止めてくれた。

きっと周太は英二よりずっと前から、国村の想いに気がついていた。
ただ静かに見つめながら考えていてくれた、そして今、英二に方向を示してくれている。
こんなふうに周太は穏かに英二を支えてくれる、こうした静謐の強さと純粋な優しさが好きで、なおさら惹かれてしまう。
この優しく強い、聡明な恋人の面影に英二は微笑んだ。

― 周太、俺には君が、いちばんなんだ。愛してる、どんな時も、ずっと

この想いのままにメールにも返事して、肚も静かに決まった。
もう悩んでいても仕方ない、生真面目な自分は考えすぎるけれど、いまは感じたままにいればいい。
届けたい想いに遠く南東の方を見つめている、その隣で無線通信が終わっていく。
そうして連絡が終わり無線を切った国村に、英二は口を開いた。

「国村さ?朝、馬場島の派出所で挨拶していたよな。K2の時はどうも、って。あのひと、メンバーだった方?」
「そ。K2に一緒に登頂した人だよ、」

無線をしまいながら、いつもの調子でテノールが答えてくれる。
底抜けに明るく透明な潔癖、大らかな優しさが温かい無垢、そんな眩い山ヤの心が笑ってくれる。
こんな「いつもの」が嬉しくて、やっぱりこの友人とはずっと一緒にいたいと素直に思う。
いま友人は何を想うのだろう?そっと考えながら英二は訊きたかったことを口にした。

「あの方、国村のこと『K2』って呼んでいたけど、」
「あれね、なんかさ、『K2』が俺のクライミングネームなんだよね、」

細い目が可笑しそうに笑っている。
なんか面白い話がありそうだな?楽しそうで英二は訊いてみた。

「どうして『K2』?」

『K2』

K2は標高8,611m、世界第2位の高峰の名前。
中国・新疆ウイグル自治区とパキスタンの境、カラコルム山脈に世界第2峰はある。
この8,000m峰は人外の奥地に位置するため、19世紀末までは無名の山だった。
しかし1856年からインドの測量局によりカラコルムの測量が始められ、以来、K2の存在が知られることになっていく。
この「K2」という山名は、測量時に無名の山にはカラコルムの「K」にK1, K2と測量番号が付けられたことによる。
測量の後にはK2以外の山は名前がつけられたが、K2だけは測量番号がそのまま山名に残された。

きっとこのK2と国村のクライミングネームは関係するんだろうな?
そんな考え通りに透明なテノールが愉しげに答えてくれた。

「最初に登った8,000m峰がK2だったのと、俺のイニシャルがK.Kだから?」
「あ、イニシャルもそうだよな?」

なるほどなと頷きかけた英二に、テノールの声が笑った。

「あとはね、『キケン・キワモノ』って意味だよ、」

K2の別称は「非情の山」という。
その理由は遭難者の多さと、登頂が世界一難しい山と言われることによる。
この高難度はアプローチの困難から始まり、傾斜も急峻なうえ天候は不安定で強風が酷く、気象・地形とも悪条件が揃うことに由来する。
これらのため日数もかかりアタック自体が難しく、登頂成功者も250名とエベレストより少ない。
そうした峻厳な現実とK2峰を描いた著作名から「非情の山」とも呼ばれるようになった。
だから「危険・際物」の意味を含ませるのも道理だろうし、確かに国村自身もそんな性質を持っている。
知能犯の悪戯っ子でエロオヤジには似合いだな?こんな素直な感想のまま、英二も笑いながら訊いた。

「その意味の比重が大きい?」
「そ。おまえも、よく解ってるね?危険際物の『K2』が俺だよ、」

いつもどおりの快活で、底抜けに明るい目が愉しげに笑んでいる。
こんなクライミングネームが付けられたなら、面白いエピソードがあるのだろう。
このK2峰の話は一度訊いてみたいと思っていた、笑いながら英二は雪山のエキスパートにねだった。

「K2の話、してくれる?」
「うん、いいよ、」

鍋の火加減を見ながら、気楽に笑って国村は頷いてくれる。
すこし遠く空を眺め、記憶を覚ますと微笑んで口を開いた。

「アレってね、全国の警察山岳救助隊で合同の遠征だったんだ。
まだ俺は卒配期間だったけど、クライマーの専門枠で任官してるからって、後藤副隊長が推薦してくれての参加だった。
だから俺、BCでのサポートだったんだよね。そしたらアタック隊の1人が体調不良になってさ、で、代打で俺が入ったってワケ」

透明なテノールは8,000m峰の第2座について話しだした。



のんびりと午後はK2峰を始め、山の話に過ごした。
平日の4月上旬、条例の対象期間どおりに人は少なく2組ほど見かけただけだった。
そんな静かな雪嶺に、ゆっくり黄昏の陽が光を投げ始めだす。

遥かに見渡す山波が、白銀から黄金へと色彩を変え、時の経過を刻々と示していく。
黄金と薄紅が、白と青の世界をゆるやかに染めあげて、紫色の薄暮が空を染めあげる。
あわく霞んでいく遠い雪嶺が、中天から覆いだす夜の翳へと沈んで、また銀色の光を放ちだす。
西の彼方へ太陽は眠りに入り、真赤な残照が今日最後の光を投げていく。
金の帯を地平にひるがえし、今日という陽が沈む。
そうして白銀の山々に、深い青紫の天蓋ふり仰ぐ夜が訪れた。

―夜が、来た

心に吐息こぼれて、そっと英二は微笑んだ。
少し離れたところから、シャッター音が生まれたばかりの夜に響く。
ファインダーに雪山の残照を捉える真直ぐな視線は、ただ山と空に心遊ばせている。
いつもどおり。そんな様子の国村が嬉しい、大切な友人の愉しげな姿は良いなと思う。
この友人が真昼の雪原で自分にキスをした。
あれは真昼の夢だったのかな?そんなふうにも想えるけれど、あれは現実だった。
この現実に夜は、すこし直面する時が来るだろう。そんな心の支度をしながら、英二は空を見あげた。

星々が、深い青紫の空に銀砂となって耀きだす。
ひとつ、またひとつと星は光を現して、深まりゆく夜に明りともしていく。
そうして銀の星たちが、光ふる雄渾な夜空を描きだした。

「きれいだな、」

素直な感想が白い吐息と笑顔にこぼれた。
いま気温は低い、けれど風が少ない分だけ体感温度は低まらない。
明日の天気も悪くない、そんな空を読み取っていると、透明なテノールが笑いかけてくれた。

「写真もとったし、おまえのボケッも終わったしさ?呑もうね、宮田」

底抜けに明るい目が、ヘッドライトの下で愉しげに笑っている。
いつもの機嫌良いトーンを、いつもより嬉しく感じながら英二は微笑んだ。

「うん、国村のいちばん楽しい時間が、始まるな?」
「だよ?雪山はね、雪洞で飲むのが愉しいよ。ま、イイ雪洞じゃないと水害に遭うけどさ、」

話しながら雪洞のなかに入って、夕食の支度を始めていく。
味付けなど下拵えを済ませてからパッキングした材料を、鍋に入れて火に掛ける。
煮えるのを待つ間用のチーズなど手軽な肴を並べて、雪からビールを掘り出した。

「じゃ、乾杯、」

こつんとコップをぶつけあって、冷えた泡を喉に入れる。
普通より甘い風味が広がるのが旨い、感心しながら英二は微笑んだ。

「雪にビール埋めて冷やすとさ、なんでこんなに味、違うんだろな?」
「俺もよく知らないんだよね。最初、オヤジに教わったんだけど、オヤジもなんでかな?って言ってたね、」
「そうなんだ…ん?」

国村の父親は、中学校入学の春に亡くなっている。
だから教わったのは、それ以前と言うことだろう。
なんだか嫌な予感を想いながらも、ちょっと英二は訊いてみた。

「あのさ?最初に教わった時って」

訊きかけて、やっぱり止めようかなと英二は口を閉じこんだ。
けれどビール片手の友人は機嫌よく口を開いた。

「うん、そりゃもちろん、の」
「いい、そこでストップして?」

即座に話を打ち切って、英二は次の話題を考えた。
なにか別の話題に変えて話を転換しよう、そう思った脳裏に確認事項がうかんだ。

「川崎の家の庭、どうだった?」
「うん?土のことか、」

すぐに意図を察して細い目が笑ってくれる。
すこし考えるようビールを飲みこむと、テノールの声は教えてくれた。

「一周したけどね、それらしい土質変化の場所は無かった。まあ、深く埋め込んでたら解からないと思うけどね、」
「そっか、俺も見たけど、解からなかったんだ…庭じゃないのかな?」
「うん、ソッチの可能性が高いね。家の内部か、あとは家の真下だな」

家の真下。
確かにそこなら隠し場所として最適だろう。
それなら引越しをしなかった理由も解かる、考えながら英二は頷いた。

「おじいさんは、奥多摩の森を庭に映すほど、奥多摩が好きだった。けれど、引越しはしていない。
それに普通なら、あんなことがあったなら引越した方が、リスクは低くなると思うんだ。それでも引越していない。
もし家の真下に隠したのなら、引越しや建替たりしないで、貸すこともしなかった説明がつくかな、って思うんだけど。どうかな?」

「おまえの言う通りだと思うね。アレはそう簡単にバクテリア分解もされない、建替えたり引越せば、発見されるリスクが高いね、」

やっぱりそうなのかな。
溜息を吐いてビールを飲みこむと、英二は口を開いた。

「隠す場所、なんだけどさ?家の真下だと、隠せるポイントって少ないよな?」
「だね、床板とか剥がせば大袈裟になるし。他人の手を借りないで済む場所、だろね。おまえ、どこか見当つけたんだろ?」

すぐに察して底抜けに明るい目が笑ってくれる。
ちいさく笑って英二は頷くと推論を言った。

「仏間の炉の下。あれなら取り外すのも簡単だし、形跡が残り難いよな?」

仏間には茶の湯に使う炉が切られている。
炉の造作は床を切り取った所に箱型を埋め込んであるから、あの箱型を外せば床下ということになる。
この造りを周太に教えて貰って以来、考えていたことを英二は口にした。

「炉は床を切って箱を埋め込むだろ?だから屋敷の床下に侵入されても、炉の箱型が邪魔になるから、その直下は調べられない。
もし調べるなら仏間の中から炉を外さないと難しいから、家の人間にしか探せない。良い隠し場所になるかな、って思ったんだけど、」

「うん、俺も同意見だな、」

さらり答えて国村が微笑んだ。
ビールに口付け飲みこんで、ほっと息つくとテノールの声が考えを述べた。

「ほんとはさ?炉を外して確認したいとこだけど、さすがにそれは難しいよね、」
「うん、まず無理だと思う。灰が詰まっているし、俺一人の作業だと時間が掛りそうで、怖いな、」
「だね?…でも、いつかは掘り起こす必要があるね、」

ほっと息吐いて国村は、ビールを飲みほした。
英二もコップを空けると目を細めて、国村に笑いかけた。

「俺さ、出来れば5年以内に、引越そうって思うんだ、」
「うん?川崎の家を、か?」

日本酒のペットボトルを開けながら、国村の目がすこし大きくなる。
めずらしく驚いたらしい友人の様子に英二は微笑んだ。

「奥多摩に、あの家を移築したいんだ。庭木も全部、出来るだけ移そうって考えてる、」
「へえ、豪気だな?でも、あの家が奥多摩に、か…良いね、」

驚いきながらも感心して笑ってくれる。
英二のコップに酒を注ぎながら、テノールの声は愉しげ笑った。

「そしたら俺とご近所サマだな?土地なら俺も、どっかしら協力出来るね。俺んちので良かったら、格安提供するよ、」

国村の家は旧家で、代々の土地を広く持っている。
きっと川崎の家屋敷を移築するスペース位なら、多く心当たりがあるのだろう。
こうした申し出は心からありがたい、無二の友人への感謝に英二は素直に頷いた。

「ありがとう、きっと世話になるよ。でも、ちゃんとした値段で買わせてよ。代々、守ってきた土地なんだろ?」
「おまえは真面目だね?ま、そこがイイとこだけど、」

笑って酒のコップを渡してくれる。
受けとって、軽くコップぶつけあってから互いに酒を啜りこんだ。
いつもの山の夜と変わらない時間、そんな今に微笑んだ英二にテノールの声が訊いた。

「でもさ、費用がかなり掛かるだろうね?家は普通の大きさだけれど、100年の擬洋館建築だ。
アレを分解して組直すには、施工業者も限られる。庭木や草花の移送と植替も結構なモンだよ、気候や土質の違いもあるし。
ここらへんは、宮田の事だからさ?もう考えた上で俺に話してるんだろうけど。これだけの費用を5年以内で準備できるんだ、おまえ?」

やっぱりそう普通は考えるだろうな?
ちょっと困りながらも英二は笑って口を開いた。

「うん、たぶん出来るんだ。もちろん見積もまだ無いから、正確には言えないけれど、」
「この齢で5年以内って、普通は難しいだろ?おまえ、なんかやらかしたワケ?」

なんか、って何のこと?
そんな疑問のままに笑って英二は訊き返した。

「なんか、って何だよ?」

訊かれた細い目が悪戯っ子に微笑んで、愉しげにテノールの声が応えてくれた。

「うん?まあ、オマエの美貌と床上手だったらさ?金持ちパトロンとか、高級えっちクラブとか、幾らでもあるだろ?」

こんなこと言う唇が、自分にあんな「恋人」のキスをしたなんて?
ちょっと憮然とする想いと、いつも通りのエロオヤジぶりが可笑しくて嬉しい想いで英二は笑ってしまった。

「どれも違うよ。そんなことやってたらさ?さすがに警察官になるのは、まずいだろ?」
「そう言えば、そうだったな?」

笑いだした細い目が愉快に明るい。
ほんとうに普段通りの愉しい空気が、今夜も2人の間に通ってくれる。

―キスひとつでは、自分たちの関係は壊れない。

ふっと信頼感が温かく心寛がせてくれる。
たとえ国村が英二を「恋人」と見つめる欠片を心抱いたとしても、自分たちは変わらないでいられる?
この今の時間と交す言葉たちが素直に嬉しい、微笑んだ英二を底抜けに明るい目が真直ぐ見た。

「で?なにやったんだよ、おまえ?」

ちゃんと話せよ?
そんなふうに純粋無垢な目が真直ぐ見てくれる。
生涯のザイルパートナーとして互いに話そう、あの言葉通りに国村は聴こうとしている。
ほんとうは話したくないこと、けれど話した方が良いかな?考えながら英二は笑いかけた。

「小遣いを貯め込んだ、じゃダメ?」
「おまえのオヤジさん、そこまで馬鹿親じゃないよね?」

的確な指摘で刺して、英二の退路を遮断する。
きっと国村は、土地の提供という形以外でも移築の件では世話になるだろう。
それに公私ともパートナーである以上は、隠し事はリスクを招くかもしれない。
やはり話すべきだろうな?重たい口を英二は、ゆっくりと開き始めた。

「これはさ、本当に俺の秘密なんだ。宮田の家族にも、周太にも湯原のお母さんにも、まだ話していない。内緒にしてくれる?」

底抜けに明るい目を見つめて、英二は訊いた。
見つめた先で明るい目は温かに笑んで、透明なテノールが言ってくれた。

「俺はね、山の秘密を護る男だよ?自分のパートナーの秘密は、それと同じだね、」

山っ子が「山の秘密」に懸けて黙秘を約束してくれる。
誇りも命も懸けて秘密を護るよ?そんな微笑に英二は素直に笑いかけた。

「ありがとう、じゃあ話すな?」

ちょっと笑われるかもしれないな?
そして「格好の餌食」を与えることにもなるかも?
そんな予想をしながら英二は、すこし困りながら微笑んで口を開いた。



(to be continued)

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第43話 護標act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-05-23 23:52:39 | 陽はまた昇るside story
circulate 想い、青と白にめぐる



第43話 護標act.2―side story「陽はまた昇る」

標高2,999m、剱岳。
山頂は祠も雪に埋もれて、ただ白銀が無垢にまばゆい。
遮るものない視界には穂高、後立山や北方稜線のラインが耀き映えていく。
見遥かす彼方を波のよう銀嶺は連なって、陰翳の蒼く鎮まるコントラストが美しい。
そして北東の最果ては、富山湾の海岸線が青い。

―海が、雪の山に抱かれている

あまねく輝きわたす銀竜の彼方、青く深く海がきらめている。
白と銀の織りなす壮麗と雄大なる紺青は呼応し、山と海は世界の涯に繋がっていく。
ひろやかに白銀が抱く青の雄渾な世界に、英二は微笑んだ。

「広いな…雪山と海、きれいだ」

素直な賞賛が風にこぼれて、海と山に融けていく。
白銀の山と豊穣に凍らぬ海、このコントラストが見られる国は限られている。
そして積雪期の晴天すらも稀だ、そんな幸運に微笑んだ隣から透明なテノールが笑いかけてくれた。

「見られてラッキーだよね、おまえ。天気好くなきゃ、日本海まで見えないからね、」
「そうだな、冬に晴れるのって珍しいもんな?」
「だよ?だから今日は、絶好の撮影日和だね、」

カメラをカイロで温めながら、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
笑いながら登山グローブの指を伸ばすと、国村はひとつずつ山を指し示してくれた。

「北は猫又山、毛勝三山、白馬岳から鹿島槍、針ノ木岳へ続く後立山連峰。
で、その右が八ヶ岳、富士、南アルプス。剱沢の向こうは別山、立山、室堂。東は大日岳。それから手前がね、槍だよ、」

「槍」は、槍ヶ岳を指す。
槍ヶ岳は国村と雅樹の「永訣」永遠の別離と連理の約束が、山頂に刻まれている。
いま見える蒼穹を指す点に、底抜けに明るい目は温かな想いのまま微笑んだ。

「ここから俺は、あの点を撮るからね。そして海と山を撮るよ、だから宮田は存分にボケっとしててね、」

雅樹が遺した誓いの点を、写真に納め残すこと。
このことに籠める国村の意志は、まばゆい笑顔に明るく輝いている。
こんな顔で笑ってもらえて良かった、嬉しい想い微笑んで英二は頷いた。

「うん、ボケっとしてる。だから国村も、存分に写真撮りなよ、」
「ありがとね、」

からり笑って登山グローブの手にレンズを構えると、底抜けに明るい目はファインダーを覗きこんだ。
ナイフリッジの風にシャッター音が響きはじめ、他は風音だけが吹き抜けていく。
白銀の剣尖は、雪山の静謐に安息が流れはじめた。

―静かだな、

風の音とシャッターの音、他に何もない。
ただ陽光おだやかに降りそそぎ、他に人も無く白銀と蒼だけが広がっていく。
こういう静謐は、好きだ。おだやかに微笑んで、英二は北東に視線を向けた。

白銀の竜の背波ふる朝の光が、視界を光に照らしだす。
あふれゆく光は太陽の高まりに白の耀きを増し、紺青深い海にも光の欠片が浮びだす。
純白まばゆい雪陵の壮麗充たす冷厳に、きらめく海の豊穣が春の訪れを告げている。

冬、山は氷雪に凍え命の気配は消える。
けれど春迎えたなら、雪解けの水が生まれだす。
大地に沁みこんだ雪解け水はやがて地表に湧きいでて、すべての生命を育んでいく。
川になる雪解けの水は海に流れこみ、豊穣なる海の営みを生成する。そして海水は蒸発し雲となり、雪に変わって山にふり積る。
こんなふうに山の雪はひろやかに世界を廻り潤し、生命と終焉を廻りゆく。

いま雪山は冷厳の死が蹲る、冷たい氷雪には永遠の眠りが息潜めている。
けれどこの氷雪は命育み潤す雪代水になって、世界を生の歓びに潤していく。
こんなふうに世界は、死と生が一環の和になって廻っていく。
この摂理がいま眼前の、雄渾かがやく白銀と紺青の世界に実感となって温かい。

―青と白の、大きな世界だ

こんな世界が見られる国に生まれて、良かったな?
こんな想いが父と母への感謝を、深く呼び起してくれる。
この国で父と母が出会い自分を産んでくれたから、自分は今ここに立つ事が出来る。

けれど父母は愛し合っていない、そう知っている。
ふたりは決して幸せな恋人とは言えない、心から笑いあう姿を見たこともない。そう気づいた時からずっと、子として寂しかった。
それでも、父と母が結婚してくれたから自分はこの体を与えられ、ここに立つ能力を鍛えられた。
ふたりは幸せな夫婦ではないかもしれない、愛もない、それでも。
いま英二が山ヤとして生きる、この幸福を掴める「体」を生んだのは、両親だ。

―父さん、母さん?…俺はね、ふたりのお蔭で幸せなんだよ?
 愛が無い結婚だとしても、父さんと母さんが夫婦になったからこそ、俺の幸福を生めたんだ…

このことを、両親に伝えたい。
ふたりに「ありがとう」を言って、そして知ってほしい。
たとえ幸せな恋愛の結びつきでは無くとも、ひとつの幸福な人生を産んだのは、自分たち夫婦なのだと知ってほしい。
そうして父と母が結婚し夫婦になったことを、誇りに想ってほしい。
ほんの少しでも、いいから。

―すこしでいいよ?夫婦になったことを「良かった」って想ってほしいんだ…湯原のお母さんたちみたいに、

終わらない恋人なのよ、ずっと愛してるの。
そう言って周太の母は幸せに微笑む、馨の妻で幸せだと息子の周太に胸を張る。
そして息子を褒められる度に「あのひとに良い所をたくさんもらったの」と堂々惚気て、夫と息子への愛を隠さない。
あんなふうに恋し愛し、結婚し夫婦となり、伴侶として生き抜けたなら、幸せな生涯だと最期も笑えるだろう。
あんな生き方を出来る彼女を自分は、心から愛している。
この愛する想いを、すこしでも実の両親にも抱きたいと、本当は心から願っている。
だから願いたい、祈りたい、ほんの少しで良いから「夫婦になって良かった」と笑ってほしい。

―ふたりが出逢った、そのことを後悔してほしくないんだ…俺を産んだのは「ふたり」だから、

ふたりが出逢わなければ、自分は生まれなかった。
だから後悔してほしくない。ふたりが後悔し否定することは、自分が生まれたことへの否定でもあるから。
だから本当は川崎の家に父が訪問した時も哀しかった、あのとき父が見せた母への壁が哀しかった。
奥多摩に母が来てくれた時だって、寂しかった。父に愛されていない母の傷みが、寂しかった。

たしかに夫婦間の寂寥は母の否が大きい、そう自分も姉も解かっている。
けれど、そんなふうにしか生きられない母の寂しさも、自分には解ってしまう。
この自分も母と同じように、前は冷酷な仮面をかぶっていたから。
無理に作った仮面の底に、想いも本音も封じ込んで。
刹那的な恋愛ゲームに寂しさ紛らせて、自分の本心すら無視して楽しいフリして嘘ついた。
この自分自身の本当の望みに、性格に、心の想いに願いにすらも、嘘ついて誤魔化して、要領良いフリして生きていた。
けれど自分は、周太に出逢えた。

周太に出逢って、穏かな静謐と純粋な優しさにふれた。
いつも黙って受けとめてくれる温かな居場所、そんな周太の隣が居心地良くて、毎日毎晩を周太の隣で過ごして。
そうして当然のように、初めての恋を自覚した。恋をして愛して、守りたいと願った自分は本音で生きる勇気を抱けた。
素顔の自分に戻って正直な想いを周太に告げて。そして生涯を隣で生きる約束をして今がある。
こんなふうに母も、素顔の母に戻れないのだろうか?

―素顔の母さん、は…きっと、甘えん坊

きっとそうだろうな?そんな確信がなんだか楽しい。
たぶん母は不器用な甘えん坊でワガママで、ツンデレなところがある。
そんな性格は誰かさんと似ていて、だから大丈夫じゃないかなと想えてくる。
だって父は「誰かさん」を「きれいな人だ、大事にしろ」と英二に言いながら、見惚れていたから。

だから、もし、と期待してしまう。
もし母が素直になって、ありのまま正直に父に接したのなら。
もしかしたら父は母に恋するかもしれない、父の性格と好みは英二とよく似ているから。

父と母は、夫婦になって26年になる。
ふたりの間は本当の意味では始まっていないまま、壁だけが凍りついていく年月だった。
もう26年だから遅いかもしれない、けれど今から始まっていく恋愛があっても良い。
この青と白の世界では、死の存在すら生を育む水に変わっていく。
だから心の氷壁だって、融けて、雪代の水に変わって、温かな想い育む可能性があるはずだ。
この自分がそうだったように。

「…父さん、母さん、恋してよ?」

想いこぼれて、ナイフリッジの風ゆるやかに吹きぬけた。
この風はどこまで届くのだろう?ぼんやり想い見つめる横顔に、登山グローブの指が頬を小突いた。

「お待たせ、宮田?ほら、行くよ、」

小突いた指の持主が、底抜けに明るい目で笑ってくれる。
楽しげなザイルパートナーの笑顔が嬉しい、うれしくて英二も笑い返した。

「うん、今度はここ、ピッケルで下降?」
「だね。裏返って、アイゼンの前歯しっかり刺していこう。じゃ、行くよ」

からり笑って青いウェア姿は、さっさとカニのハサミを下降し始めた。
素早い動きは身ごなしも軽い、その動きを見て記憶すると英二も真似て降り始めた。



シシ頭、エボシ岩と越えて早月尾根を下っていく。
まだ午前の低温に雪質は締り歩きやすい、さくさく雪踏みわけて平らなポイントまで戻ってきた。
先行する青いウェア姿が明るい雪原に立ち止ると、行動食の飴を口に入れている。
英二も歩きながらパッケージを取出して、オレンジ色の飴を口に入れた。
口動かしながらアンザイレンのザイルを手繰り、国村の隣へと並ぶと英二は笑いかけた。

「おつかれ、国村、」

笑いかけた英二に雪白の横顔が振り向いてくれる。
そしてサングラスの底で細い目が笑んで、青いウェア姿は英二に抱きついた。

「エデンに戻ってきたね、ア・ダ・ム?」

無邪気な笑顔が明るく英二に笑ってくれる。
この笑顔に北鎌尾根で見た、雅樹に向けられた笑顔が映りこむ。
そして笑顔を見つめる心どこか、慈しむような温もりが起きあがっていく。
この温もりは雅樹の心の欠片だろうか?この穏かな欠片に英二は微笑んだ。

「そうだな、確かにここは、楽園かもしれないな?」

天嶮に白銀かがやく平原は、午前の陽光に耀きまばゆい。
風の音が吹きぬけていく聲だけが響いていく、この静謐が現実から遊離させていく。
もし天に楽園があるのなら、こんな感じかもしれない。思いながら飴を噛み砕く英二に、透明なテノールが笑った。

「ここはね、祝福の雪の花が作った、エデンだよ、」

首に腕まわし抱きついて、同じ目の高さで無垢の瞳が笑っている。
細い切長の瞳は楽しげに明るんで、冷厳の風に頬赤らませた笑顔は幸せに咲いている。
そんな国村の笑顔は眩しくて、英二はすこし驚いた。

―こんな貌で国村、笑っていたかな?

やっぱり北鎌尾根からの変化だろうか?
かすかに途惑いながら微笑んだ英二を、まばゆい笑顔が嬉しげに見つめてくる。
こんな笑顔が不思議で見つめていると、透明なテノールが悪戯っ子に笑いかけた。

「エデンのキス、しよ?」

どういう意味?

そう訊いた英二の目に、透明な目が無垢に笑った。
その眼差しがいつもより綺麗で、初めて見る友人の貌に心が途惑いへ墜ちかかる。
途惑いのなか微笑んだ目に、ふっと桜色の唇は微笑んで、英二の唇を薄紅のキスに浚いこんだ。

― どうして?

心こぼれる途惑いに、澄明な甘い香ふれて口移しされる。
花と似た香はどこか記憶にふれていく、透けるよう清い馥郁はどこか懐かしい。
清雅に香る温もり心惹きこみながら、あまやかに蕩かす感触が唇から偲びこむ。
やさしい唇が唇ふれてくる、大らかで切ない熱は純粋のままに絡めとっていく。

どうして、こんな本気のキスを、国村が自分にしている?

今ふれる唇は、誰?
なぜ今ここで、自分がキスされている?
そんな疑問に見つめられながらも、キスは馴染んで融かされていく。
もうキスなんて、どんな相手と何人としたのかも自分は忘れた。ただ周太のキスだけを大切に覚えている。
それなのに「こんなのは馴れていない」と、そんな途惑う声が心こぼれていく。

惑うまま見開いている目に映るのは、瞳閉じた美しい貌。
この貌の持主は、自分の一番の友人でザイルパートナー。

なぜ、この友人のキスは、自分の心浚い蕩かされそうになる?
なぜこんなキスを、このザイルパートナーは自分にしてくる?
どうして本気の恋のキスが、今、自分にされているのだろう?

「…ん、」

かすかな吐息に、キスの時が終わりを告げる。
いくつもの疑問と謎が心に跡を残して、ゆっくりキスが離れていく。
ずっと驚きに見開いたままの目の前で、美しい睫が披かれていく。
ゆるやかに披いた睫から、底抜けに明るい目が英二を見ると愉しげに笑った。

「俺のキス、イイだろ?」
「…あ、」

なんて答えていいのか、解からない。
途惑ったまま見つめたザイルパートナーは、幸せな笑顔を見せて腕を解いた。
そして早月小屋の方を指さして、歩き出しながらテノールの声が微笑んだ。

「さて、とっと降りるよ?雪洞掘りがあるからね、早く作業やりにいこ?」

いつものよう無邪気に秀麗な貌が笑っている。
笑いながら青いウェア姿は前を見て、輝く白銀の平原から一すじの稜線へと歩き出した。



スノーソーで雪洞の奥を切りだしていく。
蒼く凍結した雪は青磁の耀きと似ている、この色に、緋牡丹を活けた青磁が重なって英二は微笑んだ。
あれは今から24時間ほど前、周太に教わりながら茶花として活けた。
大きな緋牡丹の蕾はそれ1つで華やいで、青磁の肌と映え美しかった。

「…周太、いまごろ勤務中だよな、」

ひとりごと呼んだ名前に、ほっと溜息が零れてしまう。
いますぐ逢えたらいいのに?そんな望みを想いながら英二は、唇を引き結んだ。
さっき国村にキスされた、この謎が心を締めあげてくる。

前にも国村にはキスされたことがある。
冬富士の後に「罰」として無理矢理されたことが最初だった。
次が遭難事故の昏睡状態から目覚めた後「護符」だといって一瞬のキスをされた。
あとは悪戯で首のあたりにキスされたことが何度かあるけれど、どれも冗談だった。

けれど、さっきのキスは今までと意味が全く違っている。
この意味の違いに心軋んで痛い。キスの後も国村は今まで通りで、普通に話せたけれど心は軋む。
いま軋む心に、昨夕の川崎で周太が言った言葉が静かに疼いていく。

―…光一のこと温めてあげて…寂しいから、ね?

言われたときは「雅樹の身代わりとして受けとめる」ことだと思っていた。
幼い日の国村は、雅樹にはワガママも言い夜は一緒に眠っていた。その身代わりは何度か既にしている。
周太が嫌がるなら止めようと思っていた、けれど周太が「温めて」といった意味はそれ以上を指していた。
あんなふうに、英二が他の誰かと体の繋がりを持つことを周太が願う。
それが意外で、けれど納得も出来てしまう。
こんなことにも、周太の精神年齢は、ゆっくりでも大人になっていると気付かされる。

けれど、たとえ身代わりでも周太以外と、体の繋がりを持つ気は自分には無い。
なにより、自分が他の誰かとそうなれば周太が泣いて嫌がると思っていた。
けれど周太は「きっと泣くから、いっぱい愛してね」と笑ってくれる。
こんな優しさが切なくて愛しくて、決意がまぶしくて、なおさら周太に恋をした。

この「英二」は周太に恋焦がれて、余所見なんて出来ない。
けれど「雅樹」なら最愛の山っ子を唯一に見つめて、体の望みも叶えてやっただろう。
だから、周太が泣いて決心してでも「光一を温めて」と望むなら、一夜だけ「雅樹」に成っても良いと思った。

―…雅樹は…年頃なのに恋人らしい女性もいなかったんです…女性とキスしたことも、無かったんじゃないのかな
  定期的に逢ったのはね…国村くん位なんですよ。可笑しいでしょう?…小さな男の子に逢いに通うなんて
  でも雅樹はね、国村くんと山に登ることが、本当に楽しかったんです。だから想いました、年齢を超えた繋がりもあると

父親の吉村医師が語ってくれた雅樹の想い。
生真面目で脇見も出来ない性格のまま、夢と誇りを懸けた山と医学だけを真直ぐ見つめた、美しい山ヤの医学生。
その真直ぐな視線のなかに入れたのは、山が結晶したような山っ子だけだった。
そんな雅樹も国村と同じ。心ごと体繋ぐ幸せは知らないままに、槍ヶ岳で永遠の眠りに鎮んでしまった。

―…ほんとうに雅樹は、山か医学ばかりの男でした。親として困る位、真面目でね

そう言って困ったよう微笑んだ吉村医師は、愛する息子が幸せだったと知っている。
それでも親として一度だけでも、恋人同士の幸福の時を知ってほしかったと、そんな願いに困ったよう笑っていた。
だから身代わりになっても良いと思えた、敬愛する吉村医師の願いをこんな形でも叶えられたら嬉しい、そうも思っていた。
なによりも、大切な友人の切ない痛みの願いを、自分で良いなら叶えてやりたいと思った。

―…逢いたかったんだ、待っていたんだ。名前を呼んでほしかった、見つめてほしかったんだ…
  あの日の続きを生きたい、あの笑顔を見つめて『好き』だって、『愛している』って、ほんとうは俺、言いたかったんだ

警視庁の拳銃射撃大会の夜、国村の実家で告げられた言葉。
この言葉は周太のことだと思っていた、けれど雅樹への想いも重ねられていたのだと、今なら解かる。
きっと国村が14年間ずっと周太を待ったのは、死に裂かれた雅樹への想いがあったから。
生きているなら、約束したなら、必ず逢いに来てくれる。そう信じたかったから国村は待ち続けていた。
自分は孤独な独りぼっちじゃないと、幸せに抱きあえる相手がいると信じたかったから、国村は待つことを止められなかった。
最愛の山ヤとの約束を叶えたかった、その愛惜の傷が約束を信じる強さになっていた。

―…俺さ、体のふれあいって遊びしかしてないだろ?
  心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ
  宮田はさ、恋愛じゃないけど、俺にいちばん近いよ。宮田とくっつくと安心するよ、温かいなって想える。
  無条件に許してもらえる、そういう安心があってさ、信じられるんだ、温かいよ?

あの夜に御岳の部屋で、国村が英二に言った言葉たち。
なぜ英二には安心し温かいと想えたのか、今やっと解かったと想う。
最愛の山ヤと似ているから「恋愛じゃない」身代わり、けれど「俺にいちばん近い」一番の友人だと言ってくれた。
身代わりでもある、けれどそれだけじゃない。対等な友人として最高の相手だ、そう言ってくれていた。
こんなふうに大切に想ってくれる友人、だから英二も身代わりになって良いと想えた。

心ごと体繋げて愛しあう幸福を共にしたいのは、英二には周太しかいない。
けれど周太は、大切な初恋相手をこの幸福で温めてほしいと、英二に願う。
そして吉村医師は、愛する息子がそうした幸福を知らずに逝ったことを、親心に傷んでいる。
そんな雅樹自身はきっと、愛する山っ子が願うのなら体を繋げることすら望んだだろう。
だから雅樹の身代わりになって良いと思った。

敬愛する山ヤの医学生の為に、唯一のザイルパートナーで親友のために、望まれるなら身代わりになろうと思った。
北鎌尾根で雅樹として国村のザイルパートナーを務めたように、一夜だけ雅樹の身代わりとして国村の望みを受けとめる。
そうして心と体で繋がる幸せを、国村と雅樹に一夜だけでも贈ってやれるだろうか?
そんなふうに自分は、川崎から立山連峰に向かう7時間のなか考えていた。

けれど、さっき国村が自分にしたキスは、身代わりだけじゃない。
だからいま途惑っている、解からなくなった、7時間の覚悟も想いも真新の白に戻ってしまった。
どうしたらいいのだろう?途惑う想いのまま、唇から想いが零れた。

「ね、周太…解かっていたんだろ?…あいつの気持ち、」

こぼれた想いに、スノーソー使う手が止まる。
雪氷を切りだす音が止んだ蒼白の室に、静謐が包みこむ。
この静謐の底、かすかに壁の向こうから雪削る音が聞こえてくる。

…ざりっ、が…きしっ、がり…

いま、この雪凍れる壁の向こうで国村も雪洞を掘り進めている。
お互いに掘って向うとこちらを繋げて、ひとつの雪洞に作り上げないといけない。
そんなふうに互いに空間を繋げたときには顔を合わせる、けれど、どんな顔をすればいいのだろう?
こんな作業の合間にすら、もう顔合せる瞬間に途惑っている。
ただ蒼い氷壁を見つめた瞳から熱の雫があふれだした。

どうして?

見つめる青磁の壁に、愛するひとの面影を探してしまう。
いますぐ逢いたい、そして確かめさせてほしい。

どうして君は初恋相手に俺を差しだせるの?
どうして君はあいつのことを、そんなに思い遣っているの?
どうしても俺は君と一緒にいたいから、君の言うことなら何でも聴く「離れろ」以外なら。
だから身代わりなら務めようと思った、だって自分の心は片時も君から離れられないから、君以外と心を繋げられない。
こんな自分は自身の心を求められたとしても心は繋げられない、体だけしか繋げられない。
けれど君の初恋相手は「英二」の心も求めている、だから身代わりはもう出来ない。
そう知っていて君は「光一のこと温めてあげて、」と俺に願ったの?

「…周太、どうしてほしいんだ?俺に…」

雪と氷の静寂に、自分の声が反響する。

国村は大切なザイルパートナーで一番の友人。
だから、自分で良いなら心の傷を寂しさを癒してやりたい、そんな想いは勿論ある。
けれど友情と恋愛は違う、自分自身として友人と一線を越えるのは難しい。
まして男同士なら尚更に難しい。

以前の自分は気軽だった。
求められ、相手の容姿もそれなりなら気軽に頷いて、一夜限りの快楽を楽しんだ。
それが誰だろうが関係なくて、たとえ友達でも愉しめそうな相手なら、共にベッドに入ったこともある。
でも男とだけは避けてきた。
男の時は友人に限らず一時の相手でも避けた。
誘われても相手が笑って諦めるよう誘導して、関係を壊さないようにしてきた。
女性なら「本気で恋人になるつもりは無い」と解れば飽きて離れていくし、避妊さえすれば後腐れもない。
けれど男同士だと社会のなか公人として関わる可能性が誰ともある、そのリスクを避けてきた。

国村は男で、先輩で同僚で、唯一のザイルパートナーで一番の友人。
同じ山ヤの警察官として任務に共に立ち、生涯のアンザイレンパートナーとして共に最高峰に立ちたい。
ずっと一緒に山に登って笑いあっていたい、お互いに最高の理解者で親友であり続けたい。
そんなふうに想える相手は出会い難い、そんな唯一の大切な相手として国村を想っている。
それは愛とも言えるかもしれないほどに、強く真直ぐな想いが温かい。
けれどこの愛情は周太への想いと違う、ひとつに融けあうよう愛し合う伴侶とは違う。
ザイルパートナーも親友も、互いが個として独立しているからこそ、認めあい援けあい固い紐帯に繋ぎあえるのだから。
こんなふうに生涯を共にしたい大切な相手と、体の一線を越えてしまうことは怖い。

身代わりとしてなら、お互いにラインを引ける。
身代わりの一夜が明けたなら、元の自分に戻って今まで通りに友人として隣に立てばいい。
けれど、本気で大切な友人と、自分自身として「恋人」の夜を交わすなんて出来るのだろうか?
そうして一夜が明けたなら、目覚めた瞬間から自分は、どんな立場の顔になる?

もし、いちばんの友人を喪ったら怖い。
最大の理解者で絶対的信頼の相手が消えたら、怖い。
もし、唯ひとりのアンザイレンパートナーを喪ったら、山ヤとしてどう生きればいい?

「周太、…俺だって、怖いんだよ?」

ぽつん、涙がひとつ雪の床に零れおちた。
そのとき胸ポケットに振動が起きて、英二は胸に手を当てた。
携帯が、振動している。

「…電源、切ったのに?」

ポケットのファスナーを開き手にとると、受信ランプが確かに明滅している。
そのまま画面を開いて見るとメールが1通受信されていた。
その送信人名を、ちいさく英二は呼んだ。

「…周太、」

いま逢いたい、応えてほしい。
そう願った人が今、メールをおくってくれた。
とくんと心を鼓動が打って、英二はメールを開封した。


(to be continued)

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第43話 護標act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-05-22 23:54:11 | 陽はまた昇るside story
険峻、護り手の道標



第43話 護標act.1―side story「陽はまた昇る」

払暁、早月尾根は白銀に輝いた。
北アルプス三大急登といわれる早月尾根は、急斜度を一挙に標高2,200mを登りつめる。
この天に昇っていくような銀陵を、今日初めての陽光が煌めいていく。
まばゆい暁に目覚めだす山へ、笑顔が真白な吐息と風にこぼれた。

「…きれいだ、」

急登の鋭利な稜線は、長大のびやかに聳え立つ。
アップダウンの軌跡描いて空駆け昇っていく早月尾根、この姿が竜のように見えてくる。
いま朝陽きらめく雪陵は、天を裂く剱の頂めざし諒闇から光に顕れだす。
そうして光輝く白銀の竜は、蒼穹の点を呑もうと馳せていく。
この白銀の背中にいま、自分は立っている。

「剱岳もね、別嬪だろ?」

透明なテノールが隣で笑いかけてくれる。
ほんとうに言う通りだな、素直に頷いて英二も笑い返した。

「うん、すごい別嬪だな?雪山は俺、やっぱり好きだな、」
「だろ?雪の季節の山はね、そりゃ別嬪だよ。ただし、危ない別嬪だけどね、」
「そうだな、凍傷ってヤケドの危険もあるしね、」
「だね、」

笑いあい眺める彼方、遥かな稜線から茜色の光は大きくなっていく。
陽光まばゆくなる雪稜に、英二はサングラスのゴーグルをかけた。
その隣でザックからカメラを取出しながら国村が微笑んだ。

「宮田、ちょっとカメラ使ってイイ?」
「うん、もちろん、」

頷いた英二に笑って、底抜けに明るい目はファインダーを覗きこんだ。
シャッター音が風に雪に消えていく、ちょっとプロみたいなカメラホールドが決っている。
さすが山岳カメラマンの息子だな?そんな感想に微笑んで英二も携帯のカメラでシャッターを切った。
すぐに電源を落として電力温存のためポケットに仕舞いこむと、代わりにオレンジのパッケージを取出した。
2粒取りだして1つを口に放り込む、ふわりオレンジの香と蜂蜜の甘さが優しい。

―周太も、今頃は起きているかな?

遠い白銀の稜線の彼方を眺めながら、この飴の味に婚約者の想い馳せてしまう。
いま口にふくむ優しい味の飴は、元々は周太が幼い頃から口にしていた物だった。
すこし喉が弱い周太は飴をよく口に入れていて、この「蜂蜜オレンジのど飴」が好みでいつも持っている。
それで英二が卒配先の青梅に発つ別れ際、この飴を周太は口に放り込んでくれた。
以来ずっと英二もこの飴を持ち歩いて、山では行動食としてよく口に入れている。
この飴を初めて口にしてから、半年以上が過ぎた。
あの頃はまだ、自分が本当に高峰を目指せるのか?それすら不確かなまま山岳救助隊を希望し、御岳駐在所に赴任した。
そして今、警視庁山岳会のエースとアンザイレンを組んで冬期最高難度の高峰に続く尾根に佇んでいる。

―人の道は、解からないな…

こんな自分の進路を1年前は、誰も想像できなかった。
いま目の前に広がる青蒼と白銀だけの世界は、あの頃ポストカードの世界だった。
きれいな所だ、どんな場所だろう?そんなふうに眺めながらも、自分には行けない世界だと思っていた。
けれど今、その世界に立っている。

…父とこうして山を下りたんだ…山岳地域の警察官なら、警視庁は奥多摩方面

ふっと口に香るオレンジと蜂蜜の甘さが、この世界に導いた一言を呼んでくる。
あの警察学校での山岳訓練で、初めて周太をこの背中に背負った。あのときの言葉と体温が懐かしい。
あの時は不慣れなザイルが肩に擦過傷を刻みこんで、今も湯に温まると傷痕が浮びあがってしまう。
この傷痕は勲章、そして不甲斐ない自分への自戒だと想っている。

あのとき自分は判断ミスを犯し、周太を遭難させた。
そして周太を、下山まで背負い切ることも出来なかった。
もう二度と、あんな力不足は嫌だ。この悔しさを傷痕に刻み込んできた。
この想いが訓練と勉強に集中させて「堅物」が青梅署の綽名になった。

あのとき自分は周太の60Kgもない体重すら支えきれなかった。
けれど今は、この背に60Kgの荷を軽々背負い1,500mの高度を一挙に登りあげてきた。
そして青と白の世界の真中で、最高のクライマーのアンザイレンパートナーとして佇んでいる。
ただ周太の為に努力した、その結果が「今」を作りあげた。

唯ひとり恋をして、ずっと傍にいてほしくて、だから守りたいと願った。
その為に周太と同じ道を選びたくて、けれど身長も適性も合わなくて、諦める時は本当は泣いた。
それでも諦められなくて、足掻きたくて。こんな不甲斐ない自分を作りかえたかった。
なんとか周太を守る力を付けたい、そのためなら厳しい現場に向き合いたいと望んだ。
そうして掴んだ「今」は、自分自身の夢と誇りを白銀かがやく峻厳に見つめている。

―人の道は、運命は、解からない…他が無くて選んだ道で、望みが叶うこともある

想いと見遥かす稜線の純白たちは、朝陽にまばゆい。
この氷雪の世界が今はもう、自分の本当の居場所だと馴染んでいる。こんな今が大切で大好きで、そして切ない。
この風雪と低温、気圧のプレッシャーが強い高峰の世界には、周太は共に立つことが出来ない。
いちばん愛するひとに世界一美しいと想う光景を見せられない、それが切なくなってしまう。

―周太?この世界は、ほんとうに美しいよ。見せてあげたい、ここに一緒に立って

この願いは叶えられない。
この氷と雪が支配する冷厳の世界では、適性無い者は生命すら奪われるから。
たとえ適性があったとしても、どんなに優秀な山ヤであっても、生命を落とすこともある。
そうした危険は、山岳レスキューのプロであっても例外ではない。
この哀しい事例を英二は、白銀の竜の背に見つめた。

「お待たせ、宮田、」

テノールの声にふり向くと、カメラをしまい終えた国村が口をごりごり言わせている。
好物のアーモンドチョコを食べているパートナーに英二は、出しておいた飴を差し出した。

「はい、歩きながら口に入れて」
「さんきゅ。ほら、こっちも食いなね、」

礼を言いながら受けとって、アーモンドチョコレートを2つ渡してくれる。
受けとって口に入れながら、英二はパートナーに笑いかけた。

「ありがとな。写真、あとで見せてくれる?」
「もちろんだね。今夜、愛の巣でご披露するよ、」

相変わらずのエロトークに明るい目が笑っている。
雪洞が「愛の巣」だなんて寒そうだな?可笑しくて英二は笑った。

「その言い回し、ちょっとヤダな?」
「嫌じゃないね。俺たち運命のパートナーだから、愛があるのは当然だろ?さ、こっから一挙に1,000m登るからね、」

ちょっと違う愛だと思うけどな?
そんな疑問に首傾げながらも英二は確認をした。

「目標タイムは、3時間で良かった?」
「そ。馬場島からここまで、3時間半で来れたからね。コンディションにもよるけど、俺たちなら充分だろ?体調はどうだ、」

俺たち、そうに山っ子に言われることは山ヤとして光栄だ。
けれど自分はまだ、遠く国村に及ばないことを一番自身が知っている。
この短時間での山行は、国村のルートファインディング能力無しには出来ない。
こうした肌感覚と地形の読解力を自分で出来るようになって、一人前の山ヤと言える。
だから自分も早く備えられるよう今日も学びたい。この卓越した先輩に敬意想いながら、英二は笑って答えた。

「いつもどおりだよ、高度障害もない。」
「よし、宮田も標高差には強いみたいだね?おまえ、ほんとタフだよな、」
「国村こそだろ?川崎からここまで運転して、2時から歩いてるんだから、」
「俺はガキの頃から馴れてるからね。でも宮田は、今シーズンがお初だろ?それでこれだけ出来りゃ、大したモンだね、」

クライマーウォッチの高度計を見、話しながら歩き始める。
スノーシューで登っていく足元は、浮力が強くラッセル能力が高いため進みやすい。
けれど相応の重量があるから馴れないと歩き難い、それでも英二の足元はきちんと進んでくれる。
コツがきちんと掴めているらしい、よかったなと思いながら英二は口を開いた。

「奥多摩ではさ、これ履くこと少ないよな?」
「だね。でも宮田、ちゃんと歩けてるな?良かったよ、」
「国村に言われると、自信持てるな、」

雪深い尾根を踏み、早月小屋の前を通って標高2,400m付近に着いた。
ここでスノーシューからアイゼンに履き替えていく。

「靴の裏の雪、キッチリ落としなね?でないと脱げちゃうからさ、」
「うん、ありがとう。風、少なくてよかったな」

もし風があれば、バランスを崩されやすくなる。
特に安定感を欠きやすい足元の装備確認時は、風に煽られやすくなる。
それが原因となって転倒したまま、滑落に繋がり亡くなった山ヤも多い。

雅樹の滑落も、おそらく同様の原因だったと推定されている。
雅樹を浚いこんだ突風のことを国村は、滑落現場から槍ヶ岳に向け怒気をぶつけた。

―…槍ヶ岳っ、雅樹さんを、返せよっ!…なんで突風なんか吹かせたんだよ!
  おまえが変な風で無理矢理に浚ったんだ、返せよぉっ、俺のパートナーを返せ!槍ヶ岳ぇっ!俺の大好きな人を返せ!

あの悲痛な叫び声は、今も英二の心から消えない。
あの北鎌尾根の時から国村は、前以上に英二の傍にいたがる。
おかげで川崎ではまた、周太と国村に取りっこされるはめになった。

―それなのに周太は、…やさしすぎるから、

純粋すぎ優しすぎる恋人に、心へ吐息がこぼれていく。
こぼれる吐息に心から、「書斎の記憶」がそっと起きあがる。

川崎を発つ直前、英二は周太を書斎に誘った。
書斎にある馨の写真に挨拶したい、そう言って周太と2人きりの時間を作った。
馨に出立の挨拶をして、それから周太を抱きしめキスを交わした。
離れたくないキスを離して見つめた先で、黄昏そまる光のなか黒目がちの瞳はやさしく英二に微笑んだ。

―…英二、光一の傍にもいてあげて?光一のこと温めてあげて…寂しいから、ね?

いつも周太は見すごせない、人の痛みを抛り出せない。
誰よりも英二の温もりを求めてくれている周太、それでも国村の痛みを無視できない。
けれど、英二が光一の痛みを「温めて」受けとめたら?

でも周太は泣くだろ?そんなの俺は嫌だ。

そう英二は答えた。
けれど周太は優しい笑顔のまま、ゆるやかなトーンで言ってくれた。

―…ん、泣くね、きっと…だから、英二が泣き止ませてね?…いっぱい愛して?

そんなふうに優しいおねだりをして、温かいキスをしてくれた。
その笑顔は優しくて穏やかで、純粋に美しかった。

本当は甘えん坊の泣き虫で、きっと泣くに決まっている。そう周太は自分で解かっている。
それでも周太は国村の孤独を抛り出せないで、純粋な優しさのまま英二にあんな願いを言ってしまう。
だからこそ尚更に想いが深くなる。あの純粋な婚約者の隣にずっといたい、離せない、そう願ってしまう。

―周太、こんな場所に居ても俺はね、君を恋しがってるよ?…ほんとうに、愛してるんだ、

こんな自分は本当に恋の奴隷で、恋人の願いを無視なんて出来ない。
あの優しい恋人が願ってくれるよう、自分自身の意志でもアンザイレンパートナーを守りたい、そう願っている。
この自分の願いに恋人は、心から願いを重ねて告げてくれた。こんなふうに同じよう想って心繋げてくれる、あのひとが恋しい。
この恋しさがきっと、どこからも自分を無事に婚約者の許へ帰らせるだろうな?
素直な恋慕に微笑んで、英二はこの山に抱いた想いをザイルパートナーに言った。

「ここは、厳しい現場だな。雪も地形も険しくて、」

現場、そんな単語が自然に口から出てくる。
山岳レスキューとしての視点でも自分は、山を見てしまう。
特にこの山は、そんな想いが強くなる。

「だね。俺たちの現場とは、また違う世界だね、」

隣で国村も頷いて、山頂を見あげている。
この山頂を目指す人々と、この山域を守るレスキューたちの現場。
同じ山ヤの警察官として、この現場で起きていく現実を何も想わないことは出来ない。
この山に起きた哀しい現実の現場を見あげながら、透明なテノールが英二に微笑んだ。

「じゃ、行こっかね?あのカニのハサミまで、」
「うん、」

ザイルパートナーに頷きながら英二は、この尾根に鎮まる形なき道標を仰いだ。
いま見えている鋭鋒のすぐ近く、難所と呼ばれるポイントにそれはある。
この道標に眠る20年以上前の軌跡へと、英二は歩き出した。

「風は少ないし、雪も悪くないね、」
「朝早いと、雪が固くて良いな、」

時折声かけあいながら、アイゼンで雪を踏み分け高度を稼いでいく。
標高2,470mに登りあげ、東方を見あげると剱の山頂が正面から見おろしてくる。
複雑にトレースされる稜線が威容を魅せて、要塞のように聳え立つ。この姿に納得して英二は微笑んだ。

「ほんとうに『岩と雪の殿堂』って感じだな、要塞みたいだ、」
「だろ?鉄壁の別嬪、って感じだよね、」

アンザイレンするザイルの向うから、からり笑ってくれる。
肩越しに細い目が笑んで、また先を見ながらテノールの声が教えてくれた。

「早月尾根はね、厳冬期の正月あたりは今より雪が少ないんだ。で、岩場の登下降の難度はややアップするね。鎖場とかさ、」
「積雪量だけでは難度は決められないな、ほんとに」
「だね?季節ごとそれぞれに、難しさは違ってくるな。美しさが変わるようにね、」

楽しげに山を透明なテノールが話してくれる。
こんなふうに山を愛し続けている山っ子を、きっと雅樹も愛していただろう。
そして今も雅樹は、見えないザイルで愛する山っ子とアンザイレンを組み歩いている。
そんな確信に微笑んで英二は、白銀かがやく稜線を辿って行った。

登っていく道の南側、右手に広がる毛勝谷の源頭が稜線に迫る片側が切れ落ちている。
そこから急登を越えあげていくと白銀ひろやかな尾根に出た。
まばゆい天空の雪原に英二は笑った。

「きれいだ、」

真青な空うかぶ純白の平原を微風が吹き抜けていく。
おだやかな風に銀の粒子が陽光きらめいて、凍れる天の原を輝きにくるみこむ。
蒼穹はしる風の音、太陽うつす雪の耀き。中天ふる音と光そそぐ平原は、高潔な静穏厳かに充たされる。
この明るい静謐に佇む天空の雪原は、ナイフリッジ険しい道のなか別世界だった。

「ちょうど朝陽も良いしね、輝くエデンって感じだろ?」

透明なテノールが愉しそうに応えてくれる。
ほんとうに言う通りだな?パートナーの言葉に英二は素直に頷いた。

「うん。人の世界じゃない、って感じがするな?…荘厳、っていうのかな、」
「人間の領域じゃない世界だからね?この雪と氷の時は、特に好いんだ、」

この世界が愉しい、そんなトーンに透明なテノールが笑っている。
心から楽しんでいる細い目が笑んで、登山グローブの指が剱の頂を示した。

「まずは行こうよ?で、帰りにノンビリ眺めよう、」

楽しそうに指さす先に、氷食鋭鋒の尖端が輝いている。
あの場所にこれから登る、その期待と緊張に英二は微笑んだ。

「おう、雪のコンディション良いうちに、詰めたいよな、」
「そ、解かってきたよね?宮田もさ、」

笑いあいながら雪の平原を、再び進みだした。
さくりさくりアイゼン踏みしめ雪原を抜け、エボシ岩を越え2800付近の斜面を直登していく。
そしてシシ頭に来ると、先行していく国村が声を掛けてくれた。

「ここはね、冬山のセオリー通りに行くよ」
「岩稜通しに行くんだな?」
「そ、トラバースは無し。じゃないと訓練にならないからね。じゃ、行くよ、」

楽しげに細い目を笑ませると登攀を始めた。
青いウェアが相変わらずのスピードで登りあげていく。
すこし間隔をとって英二も登っていくと、雪庇のはり出しはほとんど見られない。
ここからコルへの下降はザイルをフィックスする。
無事にコルへと降りると、左手の剱尾根側からブリザードが吹きつけた。

「この先だね、」

凍れる風に頬赤らめた横顔が、先のルンゼを見た。
頂上直下、氷が詰まったルンゼは雪の状態もしっかりしている。
ここが「カニのハサミ」と呼ばれる場所になる。
以前ここには2本の岩塔が聳え、それが蟹の鋏に似ているところから呼称がついた。
けれど1969年に崩壊し今は名称だけが残っている。そして難所であることも変わっていない。
この凍れるルンゼに「難所」の意味を見つめ、英二は頷いた。

「うん、行こう、」

コルの雪面踏んで、間もなくルンゼの前に立つ。
ルンゼ基部の雪上に片膝をつくと、英二は小さな酒瓶をザックから取りだした。
瓶の蓋を開けて手渡す、受けとって国村は微笑んだ。

「じゃ、お先にね、」

奥多摩の酒を提げ、国村はルンゼの基部へとしゃがみこんだ。
そして池ノ谷にすこし寄った場所へ、登山グローブの手は静かに酒を注いだ。
この酒は、谷で眠りについた山ヤの警察官に向けられる。

1990年3月、富山県警山岳警備隊は積雪期山岳遭難救助訓練を行った。
このとき早月尾根を登頂中だった隊員を、表層雪崩が襲いこんだ。
危険を察知した分隊長は咄嗟に、後続の隊員に注意を促すため「ピッケルを刺せ」と大声で怒鳴った。
そして彼自身は雪崩の爆風に飛ばされて、池ノ谷へと滑落してしまった。

厚さ2m、幅200mの雪崩。
このとき谷底から舞い上がった雪煙は、稜線まで立ち昇った。
この池ノ谷は雪崩の巣窟、相次ぐ雪崩と土石流がふいに襲う場所になる。
そのため捜索は難航し、彼が発見されたのは7月の中旬すぎだった。

彼は、富山県警山岳警備隊2人目の殉職者になった。

―立派な先輩だ。山ヤとして、警察官として…だから、亡くなったんだ

分隊長の責務と山ヤの誇りのもとに、彼は仲間の安全を叫んだ。
仲間の信頼が厚い立派な山ヤの警察官だったと、彼を知るひと皆が言う。
こういう先輩がいてくれるから、今、自分達は遭難救助の現場に立っていける。

山ヤの警察官が立つ現場は、山の最も峻厳な場。
どんなに険しい場所であったとしても、遭難者が待っているなら駆けつけない訳にいかない。
生きて救助を待っていても、死して生命の抜け殻になっていても、家族のもとに帰す責務が自分達にはある。
いずれも山では一刻を争う、標準タイムの半分で山行する位は当たり前に出来なくてはいけない。
そのために山ヤの警察官は、卓越した山岳技術と体力、的確な判断力が要求される。

だから厳しい訓練を誰もが積んでいく。
50Kg以上の荷を負う登攀訓練も当たり前、危険個所でこそ人を背負い救助するのだから。
積雪期訓練が危険でも遂行する、経験値こそが現場での救助活動に安全と成功を与えるのだから。
こんな自分たちの任務は訓練だって命懸け、現場ならば尚更に体を張るのは当然のこと。
こんなふうに山ヤの警察官は、生と死の分岐点で生きていくのが日常になっている。
だから後藤副隊長が、いつも言ってくれることがある。

『必ず皆、無事に帰ってくるんだよ?絶対にだぞ、いいな?』

この山域守る山岳警備隊でも、隊長は隊員たちに言う。

『全員、無事帰還せよ』

こんなふうに山ヤの警察官は互いの無事を祈り合う。
レスキューである自身が無事に帰らなくては、遭難者を家族のもとに帰すことは出来ないのだから。
なによりもまず、自分が無事に生きて帰ること。それが最大の任務かしれない。
そうして山をめぐる生と死の現場に、山ヤの警察官は立ち続けていく。

『いかなる遭難死も哀しいよ、』

後藤副隊長はそう言って寂しく微笑む。
どれも哀しいからこそ、繰り返さないために哀しい実例から学ばせて貰う。
そうして山ヤは謙虚に努力重ねて、二度と同じ悲哀が起きないよう心身に刻みこむ。
そんなふうに哀しみと向き合って、山に眠った仲間たちの想いを繋ぎトレースを繋いでいく。
それは山ヤの警察官にも言えること。
ここに眠る山ヤの警察官から、同じ道に立つ自分たちは多くを学ぶ。
そうして、この先輩が遺した軌跡は道標の1つになって、今の自分たち山岳警察の安全と成功に繋がっていく。

「宮田、」

底抜けに明るい目が温かに笑んで、酒瓶を手渡してくれる。
微笑んで受け取ると、英二はそっと酒を雪へと傾け注いだ。
見つめる剱岳の雪は、ゆるやかに奥多摩の酒を呑んでいく。
雪そそがれる酒に、もう一つの運命が英二を見つめた。

―酒を手向けられるのは、自分だったかもしれないんだ

この3週間ほど前、英二自身が巡回中に雪崩に巻き込まれた。
同じよう、急斜に取り付いている最中を突如襲った表層雪崩に、谷底へと滑落させられた。
それでも英二は奇跡的に助かった。この奇跡は1つ間違えば起きることなく、自分の運命は「死」だった。

―本当に、紙一重なんだ…生も死も

山に生きる。
この峻厳な掟に生きる道では、紙一重の差で運命が分岐する。
この「紙一重」が、どんな基準で分たれるのか?
この問いかけに100%の可能性として解答できるものなど誰もいない。
だから山ヤは謙虚に山を学び、最善の努力を積みあげ、いかなる状況においても「自助と相互扶助」が出来る力を備えていく。
そんなふうに山に謙虚な姿勢に接していく「山の鉄則」を守る、それが山を登る自由を守る唯一の道になる。

ただ紙一重、生と死に分たれていく峻厳の運命。
そんな運命に山ヤの警察官たちは、立ち会い続けていく。
山のレスキューに生きることは、哀しみと向き合うことになる。
救助者として、当事者として、2つの立場の哀しみを見る。そして自らが哀しみの対象となる時もある。
このことを英二は自身の遭難事故から心に刻み込んだ。もう、ここに眠る山ヤの警察官を他人事に想えない。

「なあ、国村?…俺と、この先輩との差は、何だったのかな?」

心に映る問いかけが、ナイフリッジの風に零れだす。
どこにも完全なる答えなど無い問いかけ、そう解っていても溢れた想い。
この問いかけに、透明なテノールは温かに微笑んだ。

「運命、」

言葉に、英二はウェアの胸ポケットを静かに掴んだ。
ここには紺色の房がついた紅い守袋が、大切に納められている。
この守袋の作り手は祈りながら、無事の願いと「不可思議の偶然」を籠めてくれた。
この「不可思議の偶然」こそが、運命と言えるのかもしれない。そんな想い見つめた先、アンザイレンパートナーは微笑んだ。

「それだけだよ、」

無垢の透明な目は深淵を見つめ、英二に笑いかけている。
これ以外の答えなんてないね?そんなふうに目は笑って、青いウェア姿は立ち上がった。

「ここはね、アイゼンをガッチリ効かせて駆け登るよ?で、天辺にまっしぐら。いいね?」

前に進もう?山を楽しもう?
そんなふうに細い目が愉しげに笑いだす。

「さっさと登って堪能しよ?で、さっきのエデンで休憩してさ。そのあとは雪洞掘って、ノンビリ飲みたいね、」

テノールは楽しげに笑ってくれる。
けれど国村こそ、この場所に最愛の山ヤの姿を重ねていただろう。
それでも笑って立ち上がって、山に生きる道を登って行こうとしてくれる。
こんなふうに国村は、まばゆい強さが美しい。こんな男とパートナーを組んでいる自分は、きっと最高に幸せな山ヤだろう。
この与えられた幸せに笑って、英二も立ち上がった。

「うん、頑張って付いてくよ?」
「よし。じゃ、行くよ、」

笑う細い目は、最高の山ヤの魂がまぶしい。
まぶしい底抜けな明るさのまま、無邪気に悪戯な山っ子は白銀のルンゼを駆けだした。
見るまに駆け登っていく青いウェア姿に微笑んで、英二も氷雪にアイゼンの刃を立て登りあげる。
ブリザードも消え、風も少ない。ざくざくアイゼンの刃は雪に音立て氷を噛んでいく。

そして午前8時半すぎ、剱岳山頂に立った。




(to be continued)

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