萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第35話 曙光act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-02-29 22:30:14 | 陽はまた昇るside story
敬愛なるひとへ




第35話 曙光act.3―side story「陽はまた昇る」

2時間ほどの映画を観終わるとカフェに座りこんだ。
本と植物が好きだと周太から聴いていたから、花屋が併設されたブックカフェに美代を連れて行った。
ときおり姉が利用する店でちょっと隠れ家風の場所にある。店内に入ると美代は笑ってくれた。

「こういうお店、好きよ。カラオケ屋から逃げちゃった潜伏先もね、こんな感じのお店だったの。湯原くんに聴いの?」
「潜伏先は聴いていないよ。でも、本と植物が好き、って聴いたから。ここ、姉が好きな店なんだ」
「お姉さん?」

席に座って温かい飲み物を選びながら美代が訊いてくれる。
そういえば家の話は美代にしたことが無い、軽く頷いて英二は口を開いた。

「年子の姉がいるんだ、俺には。イギリスの本が好きでね、今は本社がイギリスの食品メーカーで通訳してる」
「英語が得意なお姉さんなのね。宮田くんのお姉さんだと、きれいな人ね、きっと。似てる?」
「そっくり、ってよく言われるよ」

笑って正直に英二は答えた。
姉も英二もお互いに、この顔を見た友人達から「紹介してよ」と言われる事に馴れている。
けれど英二は一度も紹介したことは無い、姉の友達には紹介されたことがあるけれど。
そういえば実家近くの交番に卒配された同期の関根と姉は知り合いになっていた、あのふたりは今どうなったのだろう?
関根とも姉とも11月に新宿で呑んだとき会ったきりで、電話でも特にその話はしていない。
周太なら何か知っているだろうか?考えながらオーダーを決めて注文すると、ほっと美代が笑いかけてくれた。

「ね、お姉さんと仲良しでしょ?宮田くん、」
「そうだね。姉には、大概のことは話せるよ。あと本の影響も姉から受けているかな、」
「イギリスの本?宮田くん、原書で読むの?」

本好きだと言う美代らしく、楽しそうに本の話を訊いてくれる。
すこし共通の話題が持てるかな?ちょっと笑って英二正直に話した。

「翻訳の方が多いよ?やっぱり日本語の方が楽だから。でも姉は基本、原書で読んでいるかな。
この店も洋書の品ぞろえが良いって気に入ってるんだ。あと、植物の本も多いよ、花屋だからね。本、選びに行こうか?」

「うん、見たいな、ありがとう」

お互いに好きなコーナーへ立つと本を選び始めた。
ひさしぶりに原書を読もうかと英文書コーナーに立つと、ふっと周太の父の日記が想い出されてくる。
昨日の朝に初めて現れた単語を英二は心裡で見つめた。

「dirigentes」 射撃

警視庁拳銃射撃競技大会、その当日の朝にあの単語が出現した。
まるで周太の運命が転換する警告の様で、何の意味があるのだろうと考え込んでしまう。
そして、昨日は他にもあの日記帳が示した言葉通りに「転換」は起きた。

「cacumen」 山頂

この言葉は前から出てきてはいる。
けれど自分の正式なクライマーとしての任官が内定される予告だったようにも思える。
これで自分は一生ずっと山ヤの警察官として任務に山を駆けていく。

いつか周太の危険な「時」も終わりがくる、それは英二の援けは要らないと言われる日かもしれない。
そのときは成し終えた充足感があるだろう、そして寂寥感が辛くなる、きっと孤独感もあるだろう。
けれど、自分は山の穏やかな時間と生命への尊崇を抱いて生きていく道を与えられた。
だからきっと大丈夫。
いつか周太の隣の全てを他の誰かに明け渡す、そんな日が来ても自分には「山」が生涯ずっと寄りそってくれるのだから。
自分がクライマーの警察官になる、そんなこと誰が一年前は想像できたろう?
ほんとうに人生は何が起きるか解らない、そんな想いに微笑んで英二は一冊の本を手にとった。

『The Collected Poems of William Wordsworth』

イギリスの詩人ワーズワスの詩選集。
姉に勧められ初めて読んだとき、自然描写に心や想いをのせた詩が美しいなと思った。
それから周太の屋根裏部屋でこの詩集と再会したとき、心に残った一篇がある。
ページを繰って目当ての詩を見つけて英二は微笑んだ。

The innocent brightness of a new-born Day  Is lovely yet;
The Clouds that gather round the setting sun
Do take a sober colouring from an eye That hath kept watch o’er man’s mortality;
Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.

 生まれた新たな陽の純粋な輝きは、いまも瑞々しい
 沈みゆく陽をかこむ雲達に、謹厳な色彩を読みとる瞳は、人の死すべき運命を見つめた瞳
 時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
 生きるにおける、人の想いへの感謝 やさしき温もり、歓び、そして恐怖への感謝
 慎ましやかに綻ぶ花すらも、私には涙より深く心響かせる。

山岳救助隊員となって5ヶ月が過ぎ去ろうとしている。
この5ヶ月の間に自分は、様々な姿の「死」を見つめてきた。
奥多摩の森に終焉を求めた自死、彼らが遺す最後の表情と遺書に見つめる「心と死」の深い絆。
峻厳な山の掟のなか不慮の事故で生死をさまよう遭難者、山に抱かれる「死」の姿。
そして語り聴いた数々の山ヤたちの「死」の姿。
高峰マナスルに抱かれた「国村の両親」の死、山ヤの医学生「雅樹」の長野での死。
山を愛しながら新宿のアスファルトに抱かれた「周太の父」の殉職、その死を招いた一発の銃弾が砕いた周太と国村の約束。

そうして向き合う「人の死すべき運命」から自分が見つめたもの。
峻厳な「山」に見つめる自然の雄渾な懐の深さ、ここにある「今」生命への謹厳な想い。
ここに「今」生きてある「想い」への感謝、やさしい温もり歓び。恐怖すら自分を鍛える引金だと感謝が出来る。
こんなふうに自分が生きることを見つめられるなんて、想っていなかった。
そして「今」が幸せだと心から想える。

あのとき警察学校を選んで、よかった。
あの日に周太と出会えて、山岳訓練で救助に志願できて、よかった。
周太の為に生きることを選んだから、国村のパートナーに選ばれたから、今がある。
この新宿の片隅にあっても、山岳レスキューとして立てる自分になれた、今が幸せだ。
自分は「山」に出会えて良かった、幸せに微笑んで英二は手にとった本を持って席へと戻った。

座ってページを捲りだすと、ちょうどオーダーが届けられた。
温かなコーヒーを啜りながら懐かしい詩を眺めていると、寛いだ心地が気持ちいい。
医学書や山岳関係以外の本は久しぶりに英二は開いた。ただ楽しむため、そうした穏やかな本の時間に心がほぐれていく。
こういうの久しぶりだな、ほっと微笑んで英文詩の韻や単語の美しさを英二は楽しんだ。

きっと周太の父もこんなふうに英文学に親しんだのだろう。
彼の若すぎる死、途絶えた英文学への夢は想うほどに切なさが募ってしまう。
どうにか彼の想いを拾い集めて、ひとつでも多く彼の願いを叶えてあげたい。
彼の最後の一言は「周太」だった、だからまず周太を笑顔にしていくことだろう。
そんな考えのなか詩を読んでいて、ふっと英二は微笑んだ。

いつのまにか自分は「周太のため」ではなく「周太の父のため」とも考えるようになっている。
こんな考え方をするのは、きっと心から周太の父が好きだからだろう。
一度も生きて会ったことは無い、けれど彼の日記帳をこの1ヶ月とすこし読んで、親しい友人のようにすら感じられる。
英文学の研究に誇りを懸けたかった、ひとりの山ヤ。そして拳銃に斃れた警察官としての先輩。
哀しいけれど美しい生き方をした、そんな姿があの日記帳を読み進め、周太と母に接するごとに見えてくる。
いま周太はどうしているかな?ふっと顔をあげると戻ってきた美代が数冊の本をテーブルに置いて微笑んだ。

「珍しい本がたくさんあったの、どれにしようか迷っちゃって。だいぶ絞ったんだけど、…欲張りね、私?」

植物の学術書から料理のテキストブックまで、きれいな本が5冊ほど置いてある。
そのうちの一冊に製菓の本があって英二は微笑んだ。

「バレンタインの手作り用?」
「あ、ばれちゃったね?…そうなの、もうすぐでしょう?バレンタイン。ね、どれが美味しそうかな?」

話しながら愉しそうにチョコレート菓子の頁を見せてくれる。
マグカップを置くと一緒にページを覗きこんだ。

「これとか旨そうだね、ガトーショコラ?マーマレード使うのがいいな、」
「オレンジとチョコレートの組みあわせね?湯原くん好きよね、そのふたつ。このあいだ聴いたの、」
「そうなんだよね。周太、そのふたつが好きでさ。美代さん、いつもバレンタインは手作りするんだ?」

味噌まで手作りする美代だったら菓子くらい簡単だろう、なにげなく英二は訊いてみた。
ところが美代は首を振って微笑んだ。

「ううん、今年が初めてよ?」
「そうなんだ?じゃあ、国村にはいつも買ってあげてたの?」

それも意外だな?なにげなく訊いて英二はコーヒーをひとくち啜った。
けれど美代はかるく首傾げて笑って教えてくれた。

「ううん、光ちゃんにはね、あげたことないの。他の人にもね。だからね、私にとっては今年が初めてのバレンタインなのよ、」

これは意外だった。
すこし驚いて英二は美代のきれいな明るい目を見つめた。
見つめた先で美代はすこし頬染めて、気恥ずかしげに微笑んだ。

「あのね、光ちゃんってアーモンドチョコばっかりなのね。それに、なんか恥ずかしいし、しなかったの。
でもね、今年は湯原くんに贈ってあげたくなって。あまいもの好きでチョコレート好き、って言っていたから」

そういえば最近は「友チョコ」が流行りと聴いた事がある。
上質なチョコレートをあげても男は解らないけれど、女同士なら価値が解るから楽しいらしい。
それと似たような感覚で周太に贈るのかな?素直に英二は訊いてみた。

「周太に、なんだ?」
「うん、そう。宮田くんと藤岡くんにもね、あげようって思ってるんだけど。あまいもの好きかな?」
「ありがとう、好きだよ?藤岡もたぶん好きだと思う、ていうか、バレンタインなんて大喜びだと思うよ?」

こんなバレンタインの会話からも国村と美代の繋がりが「恋人ではない」と示されてしまう。
お互いに一緒にいることが自然、けれど恋と言うには近すぎるのかもしれない。
マグカップの温もりを片手に他愛ない話をしていると、不意に英二は肩を叩かれた。

「英二?あんた、なにやってるの?」



なつかしい声に振り返ると想った通りの相手がこっちを眺めてくれる。
ちょっと驚いた顔へと英二は素直に笑いかけた。

「ひさしぶり、姉ちゃん。土曜だから会うかなって俺、思ってた」
「土曜だから、来たわよ?で、なにやってるの?」

きれいな笑顔で笑いながらも切長い目が「なぜ周太くん以外とデートしてるのよ?」と訊いてくる。
たしかに驚くだろうな?きれいに笑って英二は答えた。

「今日の俺はね、周太の代打なんだよ。紹介するよ?俺のアンザイレンパートナーの幼馴染で、美代さん。周太の友達なんだ、」
「初めまして、小嶌美代です。あの、お気に入りのお店にお邪魔して、すみません」

気恥ずかしげに微笑んで美代は素直に頭を下げた。
そんな美代の様子を見て姉はすこし不思議そうにし、けれどすぐ微笑んだ。

「こちらこそ、お邪魔してごめんなさいね?英二の姉の英理です。このお店、気に入った?」
「はい、こういうお店、大好きです」

きれいな明るい瞳がうれしげに笑った。
そんな顔を見て姉はすこし首傾げ考えると、すぐに微笑んだ。

「うん、周太くんとお友達なのわかるな?雰囲気が似てるもの、」
「姉ちゃんも、そう思う?」
「思うな、ちょっと遠慮がちな感じとか、純粋なところ?で、すごく可愛いわ」

やわらかな髪をかきあげながら華やかな笑顔を姉は見せた。
そんな姉の笑顔と英二を見比べて、すこし遠慮がちに美代も口を開いた。

「湯原くんとは、話しやすくて。仲よくしてもらっています」
「よかった、仲よくしてあげてね?で、この不詳の弟もよろしくね。じゃ、そろそろ行かなくちゃ。英二、また電話するね」

さらり笑って姉は店を出て行った。
たぶん来ているかな?と思った通りに姉もこの店で座っていた。きっといつもの指定席でのんびりしていたのだろう。
見送ってまたソファに座ると美代が褒めてくれた。

「お姉さん、きれいね?やっぱり似てるのね。美人で、気さくで。素敵なお姉さんね?」
「そう?ありがとう、」

微笑んで英二はコーヒーをひとくち啜りこんだ。
美代もストロベリーティーを飲んで、それから英二を見ると口を開いた。

「あのね?宮田くんて、いつもあんな感じでお姉さんのこと、見てるの?」
「あんな感じ?」

どの感じかよく解らなくて英二は訊いてみた。
すこし首傾げながら美代は説明した。

「さっきね、お姉さん見送る時とか、話している時とか」
「うん、いつも、あんな感じかな?」
「そう…」

素直に英二が頷くと、美代は考え込むようにカップを抱えこんだ。
英二と姉の様子から気づいた「何か」を掴もうとするような表情でいる。
ゆっくり考えさせてあげたいな、微笑んで英二はコーヒーを啜るとまたページを開いた。

My heart leaps up when I behold A rainbow in the sky :
So was it when my life began,
So is it now I am a man
So be it when I shall grow old Or let me die!
The Child is father of the Man : 
And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety.

 私の心は弾む 空に虹がかかるのを見るとき
 私の幼い頃も そうだった
 大人の今も そうである 
 年経て老いたときもそうでありたい さもなくば私に死を!
 子供は大人の父
 私の生きる日々が願わくば 自然への畏敬で結ばれんことを。

「…The Child is father of the Man …And I could wish my days to be Bound each to each by natural piety…」

声無く呟いて英二は微笑んだ。
子どもは大人の父、そんなフレーズが国村と重なっていく。
今朝までずっと背中にくっついていた大きな子ども、そんな国村が昨日は警視庁拳銃射撃競技大会を制圧した。
ずっと子供のままのように純粋無垢な目は真直ぐに物事を見て、ちいさな人間の世界を笑いとばす。
そんな国村の日々は「natural piety 自然への畏敬」で充ちている。
山に生きる山ヤとして大切な核心「自然への畏敬」これに日々を生きて終えて行けたなら、山ヤとして本望だろう。
自分もこんなふうに生きられると良い、そんな想いに微笑んで目をあげると美代もちょうど目をあげた。

「あのね、…宮田くんは、お姉さんのこと、どんなふうに好き?」

遠慮がちに美代が訊いてくれる。
やっぱりこのこと考えていたんだな?微笑んで英二は素直に答えた。

「俺の場合ね、いつも受けとめてくれる相手だよ。そしてね、母代りでもあるんだ」
「お母さんの、代わり?」

すこし不思議そうに美代は小首傾げている。
ちょっと重たい話になっちゃうな?想いながらも英二はありのままを話した。

「母はね、『きれいな息子』しか見ない人なんだ。
だから俺が転んで汚れたり、怪我をした時は見ないフリしちゃうんだ。それで、そんなときは姉が面倒見てくれた」

「…そんな、どうして?」

ちいさく息を呑んで、きれいな瞳が見つめてくれる。
哀しい顔させちゃったな?すこし困ったように笑って英二は続けた。

「母は『理想の息子』が大切なんだ。だからね、理想から逸れた息子は見たくない」
「逸れる、なんて…そんな」

きれいな瞳がうるんでしまう。そんな様子もどこか周太を想い出させてくれる。
やっぱりどこか似ているんだな?想いながら英二は言葉を紡いだ。

「いま俺は山岳レスキューの現場で泥まみれになるだろ?
応急処置で手が血だらけにもなる、亡くなった方の見分もする。きっとね、知ったら母はショックで倒れると思う。
けれど俺は、この山岳レスキューの道に生きていたい、山と向き合いたい。そんな俺を受入れろって言っても母には無理だ。
だから俺、実家には帰らないんだよ。そしてね?こんな俺の『帰る場所』になってくれているのが、周太と、周太のお母さんなんだ」

じっと見つめて美代は話を聴いていてくれる。
見つめてくれる眼差しに微笑んで英二は言った。

「そしてね、姉は受けとめてくれる。
周太のことも、山のことも。そんな姉がね、俺は大好きだよ。
母の代わりでもある、そしてね、憧れでもある。だからずっと、きれいでいてほしい人だよ。姉はね、特別で大切な存在」

きれいに笑って英二は美代に笑いかけた。
明るい瞳が英二に笑い返してくれる。ちいさなため息を吐くと軽く頬杖ついて、美代は口を開いた。

「あのね、光ちゃんが私を見る目とね、宮田くんがお姉さんを見る目が、同じだったの…あのね、聴いてくれる?」
「話してくれることはね、聴かせてもらうよ?」

ちゃんと聴くよ?目でも言いながら微笑んだ英二に、美代は嬉しそうに笑った。
そして安心したように彼女は話し始めた。

「こんな私でも、ね?…男の人に、告白されたのよ。つい昨日なんだけど、」

きれいな瞳の明るい美代は、きっと男性からも好かれるだろう。
今までそういう話が無かったのは国村が自分で言ったように、寄せ付けないようにしていたからに過ぎない。
そして告白の相手はきっとそうかな?自分の予想をそのまま英二は言ってみた。

「昨日、この映画のチケットをくれた職場の人、かな?」
「そうなの。やっぱり、宮田くんには解っちゃうのね?」

英二の答えに美代が驚きながら微笑んだ。
その相手は美代をデートに誘うつもりだったろう、けれど美代がチケットだけ持っているということは?
答えは決まっているだろうと思っていると美代が微笑んだ。

「好きです、って言ってくれて。それで、一緒に映画に行きましょう、って誘ってくれたの。
でも私、考えたことなかったし…ね?お付き合いできない、ってお断りしたらチケットだけくれたの。
それでね、そのひとが私を見てくれた目とね、光ちゃん全然違うなって。…前からね、ちょっと思ってはいたのね?
友達と彼氏が一緒にいるとこ見たり、湯原くんの話とか…自分と光ちゃんの場合とは全然違うなって。それでね、…あの、笑わない?」

「笑わないよ?」

安心して聴かせてよ?そう微笑んだ英二に嬉しそうに美代が笑ってくれる。
そして美代は口を開いた。

「あのね、これは湯原くんにしか話したことないことなの。ね、宮田くん?妖精って信じる?」
「妖精?…詩とかに出てくる、花や木の精霊のことだよね?」
「うん、ね、信じる?」

急に話が飛躍したな?すこし驚きながら英二は首を傾げた。
きっとこういうことを聴く以上は、美代の話したいことに関わるのだろう。頷いて英二は微笑んだ。

「そうだね、山にいるとね?不思議な雰囲気には出会うよ、」
「不思議な雰囲気?」

そっと訊きかえしてくれる。
かるく頷いて英二は、よく自分が想うことを素直に話した。

「うん、大きな木とかは、なんだろうな?
意志みたいなね、なんか不思議な気配があるなって思うときがある。
山も…山が吼えている、そう感じる時があるよ、大風の時や雪崩の時とか。
ふっと風が吹いて木洩日が揺れる、そんなときは森が笑っているみたいだ。すこし風が強い木洩日は涙みたいな時もある。
そんなふうにね、山にいるとさ?言葉にならないけれど、気配みたいなものは感じる。だから俺は、妖精に会ってもね、驚かないかな」

「そう…やっぱり山には、妖精がいるのね…」

ほっと溜息ついて美代はお茶をひとくち飲んだ。
カップを受け皿へ戻すと今度は、内緒話のように声を低めて美代は言った。

「あのね、ドリアードって木の妖精がいるの。それで、きっと光ちゃんの恋の相手は、ドリアード…こんなこと言うと、変?」
「国村らしいなって思うよ?」

きれいに微笑んで英二は正直な感想を述べた。
あの山っ子だったら木の妖精と恋におちても不思議はないだろう。
そして、と解ってしまうものがある。
きっとこの国村の「ドリアード」は生身の人間で、自分もよく知っている相手だろう。
この話を美代は周太にもしたと言っていた、きっとなにも気付かずに話したろうけれど周太は困っただろう。
そして多分これは「山の秘密」と国村が言っていたこと。
だから自分はこれ以上聴くべきではないだろう、おだやかに英二は口を開いた。

「それで美代さん?国村が美代さんを見る目は、どんな種類だって想ったの?」

ほんとうは話しを折ることは好きではない。
けれど友人と愛するひとの大切な「秘密」を勝手に知ることは、出来ればしたくない。
このまま美代さんが話を向け直すと良いな?そう見つめている先で美代は小さく微笑んだ。

「うん、宮田くんとお姉さんを見て、気がついた。きっと『姉』なのかなって。そしてね…」

ふっと言葉を切ると美代はお茶を啜りこんだ。
なにか決心するように飲みこんで、真直ぐ英二を見ると美代は言った。

「私もね、光ちゃんのこと、『恋人』と違うかなって想ったの。だってね、…あの、嫌いにならない?」
「うん?美代さんのことを、俺がってこと?」

一生懸命なきれいな瞳を英二は見つめ返した。
ちいさく英二に頷いた美代に、大らかに英二は笑いかけた。

「嫌いになんて、ならないよ?美代さん、どうしたの?」
「ほんと?じゃあね、思い切って言っちゃうけどね、…」

なにを思い切って言うのかな?
ちょっと楽しみに見つめる先で美代は口を開いた。

「あのね、光ちゃんよりも、宮田くんの方が、どきどきします。…以上です、」

言って美代は真赤になってしまった。
あんまり可愛い言い方に微笑ましくて、なんだか温かい気持ちになってしまう。
この美代の「どきどき」はまだ恋とは違う、憧れに近いものだろう。
けれど国村への気持ちとの差を、英二を切掛けに美代が気づけたなら。きっと美代は本当の恋愛ができるようになるだろう。
そして幸せになってくれたらいい、目の前の人の幸せを祈りながら英二は、きれいに笑いかけた。

「ありがとう、美代さん。きっとね、それ『憧れ』っていうやつだよ?」
「あこがれ?」
「うん、『憧れ』じゃないかな。恋と似ているけど、ちょっと違う。でも国村への気持ちよりはね、きっと、ずっと恋に近い」

ふっと周太に出逢ってからの想いの変化が重なって英二は微笑んだ。
自分も最初は憧れから周太への想いを自覚した、懐かしく想いながら英二は話した。

「まだ相手をよく知らない、けれど素敵だなって所を見つけて、そのひとが気になって。
そうして見ているだけでも、楽しくて。傍に来ると『どきどき』もするね?そう見ているだけでもいい、それが『憧れ』かな?」

最初は、周太の真直ぐで繊細な視線。
それから端正な姿勢、ひたむきな努力の姿が好きになって。
そして素顔の穏やかで優しい周太を知って、きれいな静かな空気が居心地良くて隣から立てなくなった。
ほんの数か月前に自分の想いが辿った軌跡たち、ずっと前のように見つめながら英二は佇んだ。

「うん、…なんか、それは解る、かも?…じゃあ、ね?恋とは、どこが違うの?」
「恋だとね、相手のことを丸ごと知りたくなる、かな?知って、好きで、相手のことをね、全部、欲しくなる」

相手の全部を欲しくなる。きっとここが美代と国村の間には無い部分。
ほんとうに恋したら独り占めもしたくなる、ふたりきりで居たくなる。
ずっと自分は周太にそうだった、懐かしく想いながら英二は微笑んだ。

「恋したら。その相手にはね、他の人は見てほしくなくなる。独り占めしたくて、ふたりきりで過ごしたい。
ずっと腕のなかから離したくなくて、ちょっと離れるのも哀しくて、苦しいよ?
ずっと見つめていたい、声を聴いて、肌にふれて…体温を感じて、抱きしめていたい。好きだって言い続けて…」

話す言葉の合間に、ふっと瞳の奥へと熱が昇りかけては呑みこんでいく。
ほんとうは周太にずっとそうしていたかった。そんな想いが懐かしい、そして諦めきれない想いもある。
これからの自分は、周太にとって保護者であり続けることは変わらないだろう。
そして、また恋人の立場に戻ることはあるのだろうか?
自分の想いを見つめる英二に、そっと美代が口を開いた。

「ね、私、光ちゃんとは『恋愛』じゃないみたい…ね?だってね、ふたりきりで過ごしたい、って想ったことないもの?」

きれいな明るい瞳が英二をに笑いかけてくれる。
気恥ずかしげに微笑みながら、美代は素直に話してくれた。

「さっきも話したドリアードをね、光ちゃんが好きだって解ったときは、寂しかったの。
もし光ちゃんが他の人のところに行っちゃったらきっと寂しい。光ちゃんと宮田くんがお似合いで、ちょっと妬けたけし。
でもね?だからって恋してるのとは違うなって…好きは好きよ?いつも心配したりはするし。でも、家族にも同じように想うものね?
だって私、光ちゃんのこと全部ほしいとか、想わない。ずっと見ていたい、とか無い。抱きしめたいとか考えられない…恋とは違う、ね?」

クリスマスイヴの時に美代も国村も「ふたりきりは寂しかった」と言っていた。
クリスマスイヴの夜に「ふたりきり」を望まない恋人同士なんて居るんだ?そんなふうにあのとき不思議だった。
「ふたりきりで過ごしたい」そんな恋人同士のささやかな願い。この願いが無かったら「恋愛」と言えるだろうか?
この願いに国村はきっと、最初に周太と出逢った9歳の時に気づいただろう。
その願いの為に国村は14年の歳月を、ひたむきに周太を待ち続けていた。
ふたりの初恋を想いながら英二は美代に微笑んだ。

「美代さんならね、きっと素敵な恋愛が出来ると思うよ?きっとね、どこかに相手の人が待ってる、」
「ほんと?…うん、楽しみね?でも…ね、宮田くん?」

嬉しそうに微笑んだ後で急に心配そうに美代は首を傾げた。
どうしたのかな?やさしい笑顔を向けた英二に美代はまた赤くなって口を開いた。

「もしね?この宮田くんへの『憧れ』がね、恋に成ったら…困っちゃうね、私?だって、湯原くんの恋人、でしょう?」

赤くなりながらも一生懸命に心配してくれる。
なんだか可愛らしくて微笑ましい、きれいに笑って英二は言った。

「うん、ごめんね?俺はね、周太のものだから。でもね、きっと美代さんにしか幸せに出来ない、運命の恋人と逢えるよ」
「ほんとう?…うん、楽しみね?…あ、」

微笑んだ美代が何かに気がついて首を傾げた。
なにかなと見た英二に美代が訊いてくれる。

「ね?宮田くんのね、携帯。いま、振動したんじゃないかな?」
「そうだった?ありがとう、」

礼を言いながら携帯を見るとメール受信の表示があった。
誰からだろうな?受信ボックスを開いていくと、今着たメールが表示される。
そのメールの差出人名に英二の顔が微笑んだ。

「ね?湯原くんから?」

うれしそうに美代が訊いてくれる。
メールを開いて読みながら、うれしくて素直に英二は微笑んだ。

「うん、周太から。いまね、新宿に戻ってきたみたいだ、」

from :湯原周太
subject:いま
本 文:今、どこにいますか?こちらは講習会が終わって新宿に戻りました。

短い文章、確認と報告だけのメール。
けれどこの文章に込められている想いはなんだろう?




【引用詩文:『 William Wordsworth詩集』】


(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第35話 曙光act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-02-28 22:22:19 | 陽はまた昇るside story
ことなる色であったとしても




第35話 曙光act.2―side story「陽はまた昇る」

ふっと瞼にふれた光の温もりに英二は目を覚ました。
艶やかな黒栗の床が曙光に映えて輝いている。磨き抜かれた床色に、ここが国村の屋根裏部屋だと想いだし微笑んだ。
布団に横になったままの背中には、おだやかな鼓動と体温がカットソー越しにふれてくる。
そっと肩越しに振り返ると、秀麗な顔が安らかな寝息に眠りこんでいた。
美しくて、どこかあどけない寝顔に英二はそっと微笑んだ。

「…こどもだな、ほんと…しっかり、くっついて」

昨夜の国村は泣き止んで酒を呑み始めても、ずっと英二の背中にくっついていた。
英二の肩越しに腕を伸ばしては漬物をつまんで、酒を満たした蕎麦猪口にご満悦でいる。
そうやって時おり自分の肩から伸びてくる腕が二人羽織みたいで可笑しかった。
こうまでして背中にべったりくっつく国村が可笑しくて英二は笑ってしまった。

「なあ?呑む時までさ、くっついてるのかよ?」
「うん、このほうが温いだろ?なんか不都合でもあるわけ?」

飄々といつもの調子で答える様子と、甘える子供のようにくっついている現況のギャップが可笑しかった。
なんか不都合があったらどうするのかな?すこし考えて英二は言ってみた。

「俺、さっきからずっと肩越しに話してるだろ?ちょっと首が痛くなりそうだけど?」

かるい不都合を言って英二は微笑んだ。
さあどうするのかな?そう見ている英二に底抜けに明るい目は頷いた。
そして右肩から顔を離すと、こんどは左肩に顔をのせて楽しげに英二に笑いかけた。

「これならさ、逆に顔を動かすから、痛いのとれるだろ?」

そんな調子で国村は「遠慮なく抱きついていい」と英二が言ったとおり素直に抱きついていた。
いつも御岳駐在所に勉強を教わりに来る秀介でも、ここまでは甘えない。
こいつ小学1年生より子どもだな?昨夜の国村を思い出して、ちょっと英二は笑った。

「…ほんとにさ?寝る時までって、思わなかったな?」

酒も終わって、国村の祖母が延べてくれた布団に入った英二はまた背中から掴まった。
どうしたのかと訊く間もなく国村は、さっさと布団に入ると背中から抱きついて落ち着いてしまった。
背の高い英二のために大きめの布団を用意してくれてあった、それでもお互い身長180cm超える同士が並べば狭い。
あまりのことに英二は笑ってしまった。

「なあ?ちょっと狭いだろ、さすがに。おまえ、自分のベッドで寝ろよ?」

笑いながら肩越しに提案すると底抜けに明るい目が愉しげに笑って見返してくる。
さも当然と言わんばかりに国村は、きれいなテノールの声を艶めかせて言った。

「今夜はね、俺たちがアンザイレンパートナーだって公認された記念の“初夜”だろ?ちゃんと同衾して、お祝いしないと、ね?み・や・た」

さも可笑しそうに細い目が悪戯っ子に笑っている。
また大好きなエロトークを愉しむつもりなのだろう、ちょっと笑って英二も乗ってやった。

「ごめん、俺、知らなかった…心の準備が出来ていないから、ちょっと今夜は勘弁して?」

すこし気恥ずかしげな顔で英二は答えてみた。
そんな英二の顔を見て愉しそうに笑うと、雰囲気を出しながら抱きついてエロトークで微笑んだ。

「ダメだよ?この俺と公認の仲になりますって、おまえは宣誓しちゃったんだからね?
生涯伴侶となる誓いの初夜なんだ…今夜はね、こうすること解っていたはずだろ?さ、俺に任せて大人しくして?可愛い俺のパートナー」

嫣然と微笑む国村に、英二も笑いかけた。
どうして国村がエロトークをしかけ始めたのか英二には気持ちが解る。
きっと一緒に愉しんで笑いあうことでアンザイレンパートナーとして友人として絆を固めたい。
そんな想いが今お互いにある。

今夜、思い切って国村は、重たい苦しみを隠さず話してくれた。
美代のこと、周太のこと、この大切なふたりへの罪悪感。そして英二に対する罪悪感と離れたくない想い。
そうした自身の隠したい想いと罪の意識すべてを話して、それでも受けとめ信頼し合えるか問うてくれた。
そしてお互いに「山の秘密」以外は隠すこと無くいようと確かめ合って、アンザイレンパートナーの絆を繋いだ。
こんな洗いざらいの話と真剣に向き合った。

そんな後は、どこか照れそうで途惑いも生まれそうになる。
それを国村は一緒に笑い飛ばそうとしている、そんな照れ隠しと愉快な明るさが楽しくて英二は微笑んだ。
さっき話した過去と「これから」を互いの心に馴染ませるために笑えたら、きっと楽しい。
もう今夜はとことん乗っかって笑おうかな?笑って英二は国村のトーンに合せた。

「お願い、待って?ほんとに、なにも知らなくて…ね?疲れたし、今夜はこのまま寝かせて?」
「初心で可愛いね?そそられちゃうな…やっぱり寝かせてあげられない。
これからね、愉しい時間だよ?知らないコト、ぜんぶ俺が教えてあげる。一生ずっと可愛がってやるからね」

可笑しそうに笑った目でも嫣然と微笑んで、肩越しから英二を覗きこんでくる。
いま可笑しくって愉しくって仕方ない、そんな底抜けに明るい目をしながらも雪白の肌うつくしい顔が凄艶だった。
こんな艶めいた雰囲気で迫られたら、墜ちるひとは多いだろうな?そんな感想を想いながら英二は微笑んだ。

「だめ、待って?一生、って約束なら、今夜に、なんて、急がなくっても…お願い、待って?」
「待てない…俺は、ずっと今夜を待っていたんだから。さ、もうお喋りは無しだよ?今夜はね、イイこといっぱい教えてあげる」

艶めいたテノールの声で囁いて、しっかり英二に抱きついて国村は微笑んでくる。
こんなことが好きなんて困ったアンザイレンパートナーだ?可笑しくて英二は笑ってしまった。

「待っていてくれたのは、うれしいけどさ?イイことって、どんなことだよ」
「あれ?ホントに教えてほしいんだ、宮田?じゃ、ちょっとコレ脱がしちゃうけどイイ?」

からり笑って白い指がカットソーとカラーパンツに伸びてくる。
その手を握りこんで動きを封じながら英二は笑った。

「ダメ、脱いだら寒い、風邪ひくだろ?そしたら俺、北岳に行けなくなる。困るからダメ」

雪山に行けなくなる、これはてきめんに効いたらしい。
呆気ないほど簡単に指を離すと国村は、また元通りに背中から抱きついて無邪気に笑った。

「うん、そうだね?じゃ、雪山シーズン終わったらさ、この続きはやろうな?」
「シーズン終わっても、この続きはやらなくていいよ?」

いかにも愉しげな笑顔に英二は、きっぱりと告げて微笑んだ。
けれど無邪気で楽しげな笑顔も「嫌だね」と、きっぱり意思表示を告げてきた。

「嫌だね、こんな愉しいこと止めたくないね。こんな最高の別嬪とエロトーク実演つきなんてさ、最高のお愉しみなんだからね」
「嫌だよ、俺、周太がいい。でも俺、おまえのためにも周太にしないって、我慢してるんだからさ。ほっといてくれよ?」
「俺のためって言うならさ、なおさら遠慮するなよ。おまえだったらね、いくらでも可愛がってイイ想いさせてやるよ?」
「いらない、遠慮じゃなくて要らない、ほんとに要らない、」
「ふうん?でもさ、試しちゃったら、ハマるんじゃない?真面目人間ほどハマるっていうしね…試そう?み・や・た」
「試さない、要らない、真面目だから無理、」
「俺は『要る』し、試したいね。大好きな宮田のためにさ、いっぱい可愛がるよ?」

お互い笑いながら問答を繰り返して、国村はずっと背中にくっついていた。
そんなふうに抱きついたまま国村は離れないで今に至っている。
すっかり英二に懐いてしまった。そんな雰囲気の無防備で無垢な寝顔が幼げで、きれいだった。

「…ほんと、俺のこと、好きでいてくれるんだな?」

こうして寝顔を見ていると「弟」のような気持にもさせられて英二は微笑んだ。
吉村医師の次男で山ヤの医学生だった雅樹のことを国村は兄のように慕っていた。
その雅樹と英二は似ているとよく言われる、外見的な雰囲気も性質も共通点が多いらしい。
それにまた、ひとりっこ長男で両親も失っている国村は甘えて頼れる「兄」の存在に憧れる想いがあっても当然だろう。

きっと国村も寂しかったのだろうな。
そんな孤独を想うほど、国村が周太へ寄せる一途な想いを叶えてもあげたくなってしまう。
けれどこの国村の家の造りは由緒ある旧家であることを示している。
こうした家の長男である国村が、もし公的にも周太と生きようとすれば「家」を傷つけずに済ますことは不可能に近いだろう。
この「家」を守り、孫の成長と幸せを実直に守ってきた国村の祖父母たちの温かな笑顔を想うと、そんな傷は哀しく辛い。
それは大らかで繊細に優しい国村にとって苦しみになってしまうだろう。

どうしたらいいのだろう?
ふっとため息を吐きかけた英二の目に、きれいな曙光が床にまばゆいだ。
曙光のまばゆい美しさが、いま哀しみと悩みへ落ちかけた心を拭うように慰めてくれる。
きっと何か良い方法が見つけられる?そんな予兆をふっと曙の色彩に見つめて英二は微笑んだ。
この光の雰囲気はきっと6時位だろうな?クライマーウォッチに手を伸ばしかけて動きが止められた。

「…ん、」

かすかな吐息と長い腕に捉まえられて、英二はまた肩越しに振り向いた。
背中は無邪気な顔でねむる大きな子どもに抱きつかれて動けない。
すこし困ったなと思いながらも、なんとか掴めた携帯を静かに開いた。
昨夜の受信メールから返信にして手早く美代への返事を書き上げていく。
待ち合わせの時間と場所の提案を送信したとき、ふっと着信ランプが点灯して英二は微笑んだ。
きっと当番勤務あいまの休憩時間なのだろう、すぐ繋いだ電話の向こうへ笑いかけた。

「おはよう、周太」
「ん…おはよう、英二。起きていたの?」

気恥ずかしげな声が朝のあいさつを贈ってくれる。
どこか含羞んだトーンに相変わらず幸せな気持ちにさせられながら英二は笑った。

「うん、さっき起きて、美代さんへメールしたとこ」
「ん、…ごめんね?俺、勝手に英二の予定を話して…」

この話をしたくて周太は電話をくれたのだろう。
謝る必要はないのにな?笑って英二は答えた。

「大丈夫だよ、周太。美代さんなら、別に構わないよ?午前中は俺、訓練があるから無理だけど、午後なら空けられるから」

英二は週休の日は後藤の個人訓練か吉村医師の講習を受けている。
今日は土曜日で吉村医師は休日に当る、それで後藤が午前中だけでもと時間を作ってくれた。
そのあと国村との自主トレーニングに行っても13時には青梅署に戻れるだろう。
そんな時間の計算をしながら話した英二に、ちいさく驚くような吐息が聞こえた。

「あ…、行くことにしたの、英二?」

意外だった、そんな空気を感じられる周太のトーンに英二はすこし驚いた。
美代に英二と行くよう提案したのは周太、なのに意外だったのかな?英二は訊いてみた。

「うん、美代さん映画、楽しみにしてたみたいだし。ダメだったかな、周太?」
「ん…ううん、俺がね、誘ってもらったのに行けなくて。それで、今日は英二は訓練が午前だけって聴いていたから…」

言ってくれる声がどことなく元気がない。
もしかして?ちらっと想ったことを英二は素直に口にした。

「ね、周太?すこしはね、妬いてくれているの?」

ちいさな吐息が電話をとおして届いてくれる。
なんて答えてくれるのかな?すこしの間のあとで気恥ずかしげな声が答えてくれた。

「ん、嫉妬しちゃった…自分で言ったのに、わがままだよね?」

わがままも嫉妬も嬉しい、素直な喜びに英二は微笑んだ。

「周太、嫉妬してくれるんだね、うれしいよ?俺のこと、まだ少しでも好きでいてくれるんだな、って想える」

まさか、嫉妬してもらえるなんて思っていなかった。
嫌がる周太を無理やりに犯した自分を、「誰かにとられたくない」と少しでも想ってもらえるなんて?
いまもう本当の初恋を想い出して、その想いに生きている周太。それでもまだ自分を少しでも想ってもらえるなんて?
この「少しでも」が嬉しくて素直に笑った英二に、気恥ずかしげな声が言ってくれた。

「ん、好きだよ?英二…いま他のひとを好きで、身勝手だけど、でも、ほんとうに…英二をね、愛してるんだ」

愛してる。
まだそう言って貰える、それだけで自分はこんなに嬉しい。
嬉しくて、ただ幸せで微笑んで、英二はきれいに笑った。

「ありがとう、周太?その言葉をね、聴けただけでも俺は幸せだよ?…だから、
ね、周太?正直に言ってほしい。俺は美代さんと映画に行ってもいいの?ほんとうに俺、美代さんとデーとしていいのかな?」

そっと息を吐く気配が伝わってくる。
英二は周太と出会ってから、周太以外の誰とも「デート」はしていない。
だから美代とデートする今日が周太にとって「初めて英二が他の人とデートする」ことになる。
こんな初めては本当は無い方がよかった、そんなふうに思う反面で、自分はきっと美代の気持ちも解ってしまう。
だから会って話を聴いてあげたいとも思う。
こんな想いのはざまに微笑んでいる英二に、ひとつ呼吸すると周太は言ってくれた。

「ん…ね、お願い、英二。美代さんの話、聴いてあげて?」
「うん、わかった。じゃあ、美代さんのこと、たくさん笑顔にしてくるな?」
「ん、してあげて?だって…きっと、俺の所為だから、」

哀しそうな声で告げて、ふっと言葉は途切れてしまった。
そんなに自分を責めないでほしい、そっと英二は周太に話しかけた。

「違うよ、周太?きっとね、周太の所為じゃない。美代さんにも『時』が来たんだよ、それだけだから」
「ん、…『時』?」

「そう、美代さんね。きっと今、いろんな話を聴いてみたい『時』なんだ。
だから、周太の所為とかじゃないよ?周太と国村が再会したように『時』が来たんだよ。ただそれだけのことだ、」

きっと美代にも「時」が来た、国村との関係を見直していく、そんなときなのだろう。
自分が周太への愛情を見つめなおしたように、美代も国村への想いを見つめなおす。
きっとそういう瞬間は誰にもあるのだろう、きれいに笑いかけて英二は電話越し周太に告げた。

「だからね、周太?周太が悪いとかは全くないよ、誰も悪くない。
それにね、周太。俺はね、周太がいちばん大事だよ?だから嫉妬も嬉しい、わがままも嬉しいんだ。もっと甘えて?」

うれしそうな気配が電話越し届いてくれる。
こんな小さなことでも幸せを感じられる「今」は自分にとって幸せなんだろうな?微笑んだ英二に周太が訊いてくれた。

「ん、ありがとう、俺もうね、いっぱい甘えてる…ね、英二?ゆうべは国村の家に泊まったんだよね…?いまどこで話しているの?」
「うん、まだ布団の中だよ?」

素直に答えた英二の肩に、トン、とかるく重みがかかった。
そしてテノールの声が透って電話へと笑いかけた。

「おはよう、周太?宮田はね、いま、俺の腕のなかにいるんだよ?」

「…え、」

ちいさな声の驚きが携帯越しに伝わって途惑いが一緒にながれこむ。
この途惑いが可哀想で、けれどなんて言ってくれるのかも聴いてみたくて、ふいっと英二は黙り込んだ。
そっと振向いた肩からは愉しげな底抜けに明るい目が「なんて言うと思う?」と笑ってくる。
また国村の転がし癖が出たんだな?ちょっと笑った英二の耳に、哀しげな吐息まじりの声が届いた。

「…ね、えいじ…英二は、国村と、あの…したかった、の?」

そうだよ。
そう言ったらなんて答えるのだろう?
でも嘘をつくのも嫌で口を開きかけたとき、肩ごしにテノールの声が言ってしまった。

「大好きな宮田が嫌がるのにさ、えっちしたりなんか俺は出来ない。君もそれはよく解っているはずだろ?」

底抜けに明るい目は笑っている、けれど声はきっぱりと迷いなく透って言い切った。
こんなふうに大切に思ってくれるのは嬉しい、でも周太が変に誤解したらどうするつもりだろう?
ちょっと意地悪すぎないのかなと口を開きかけたとき、哀しげでも決意した声が言ってくれた。

「ん、そうだね。ふたりが良いなら、それで良いんだ…ごめんね、邪魔しちゃって…」
「邪魔なんかじゃないよ、周太。君の電話は大歓迎だね、声、聴けてうれしいよ。で、さ?教えてほしいんだけどね、周太」
「ん…なに?」

元気がない声がすこし涙ぐんで聞こえてしまう。
あんまりいじめ過ぎないでほしいな?そう肩越しに見ると底抜けに明るい目が笑いかけ、言ってくれた。

「あまえんぼうの俺は、一晩中ずっと宮田の背中に抱きついて眠っただけ、なんだけどさ?
さあ、聴かせてよ、周太?俺と宮田の状況についてね、君は一体どんな想像しちゃったのかな?そこんとこ詳しく教えてよ?」

愉しげにテノールの声が笑っている。
その声と言葉の内容に、ふっと電話の向こうで声が寛いだ。

「からかったの?…そう、よかっ…あ、」
「よかった、そう言おうとしたね、周太?ほら、素直になりなよね、俺と宮田がホントにえっちしちゃったらさ、嫌なくせに」
「ん、…ごめんなさい、でも俺…もう英二を止める権利とか、ないから…」

安堵と哀しみが入り混じった声に、ほっと英二は微笑んだ。
まだ自分の「体」を周太は想ってくれるのかな?
肩に乗っている笑顔へと笑いかけてから英二は電話の向こうへ問いかけた。

「周太、俺も聴かせてほしいよ?
俺が誰かと体を繋げることは嫌、まだそう想ってくれる?俺のこと、独り占めしたいって想ってくれるのかな?」

すこしの困惑と恥じる空気が届いてくる。
そしてちいさな勇気と一緒に大好きな声が言ってくれた。

「ん、独り占めしたい…他のひと好きな癖に、わがままで狡いけど、でも…俺だけの英二でいてほしい、それも本音…ごめんね、」
「わがまま言って、周太。本音を話してもらえると俺、うれしいよ?」
「ほんと?…ん、英二が『話す約束』をしてくれたから、俺、わがままも、本音も言いやすいよ?…ありがとう、英二」

この「わがまま」な独占欲は、いったいどんな想いから生まれているのか?
父親に対する想い、兄に対する想い、息子に対する想い。それとも恋愛なのか?
それはまだ周太自身にも解らない。10歳の子供と変わらない周太には、英二への「愛」の種類がまだ解らない。
それは美代もよく似て、国村への感情を一度も見つめ直したことが無い為に、美代自身「愛」の種類が解らない。
だから美代に少しでもヒントをあげられたら良いなと思う、やさしい想いに英二は口を開いた。

「うん、そう言って貰えると嬉しいよ?でね、周太。きっと美代さんは、俺と話してね?
美代さんにとって国村がどういう存在なのか、きちんと見つめて考えるヒントがほしいんだと思うんだけど。周太はどう思う?」

「ん、…そうだね?最近の美代さん、電話でも『私、どうしたいのだと思う?』って訊いてくれる…
でも、俺、よく解らなくて。それで英二なら解るのかな、って考えてて…だから、つい、英二を誘ったらって言っちゃったんだ」

すこし哀しげな困惑と甘えを大好きな声に聴いてしまう。
こんなふうに頼って貰えることも嬉しい、うれしい想いに微笑んで英二は、もういちど確認をした。

「頼ってくれたんだね、周太?うれしいよ。じゃあ一応、もう一度訊くよ?美代さんとデートして話を聴いて来て良いかな?」」
「ん、聴いてあげて?それでね、英二…帰ったら俺に、電話してほしい。待ってるから…」

美代と英二が会うことで何かが変わる?そんな不安が隠した溜息から伝わってくる。
たしかに変わるものはあるだろう、けれど英二が周太の隣にいることは変わらない。
周太の隣以外どこにも行かない、そう安心してほしくて英二は微笑んだ。

「わかった、ちゃんと帰って電話する。だから心配しないで?俺はね、周太のものだよ、それは変わらない。だから安心して?」
「ん…ありがとう、英二?約束、守ってくれてるんだね、…『必ず帰ってくる約束』まだ、守ってくれて…」

初雪の夜に結んだ「絶対の約束」は「周太の隣にどこからも必ず帰ること」だった。
あの約束も結んだ想いも、もう枯れることは無い。
たとえ周太がどんな道を選択しても、周太が望み続ける限り、自分はずっと周太の隣に帰る。
やわらかく耳にふれる大好きな声へと英二はきれいに笑いかけた。

「うん、周太。絶対の約束だろ?周太が望んでくれるなら、俺はずっと約束を守るよ。そう約束する、」

きれいに笑って英二は告げた。



河辺駅で美代と待ち合わせたのは13:30すぎだった。
御岳の国村の家から直接、後藤との訓練登山へ向かってヨコスズ尾根を登ると早めの昼食を終えた。
それから御岳駐在所へと後藤が送ってくれ、国村との自主トレーニングを終えて青梅署へと英二は戻った。
さっと汗を流して着替えると、いつものように蜂蜜オレンジ飴のパッケージとipod、文庫本を一冊、ポケットに入れる。
そしてブラックミリタリージャケットを羽織って英二は独身寮を出た。
駅のホームですこし待って約束の電車に乗ると、美代は座って熱心に本を読んでいた。

「こんにちは、美代さん、」

きれいに微笑んで英二は声を掛けた。
すぐ顔をあげた美代がいつものように明るく笑ってくれる。そして、ポンと隣の席を軽くたたいて勧めてくれた。

「こんにちは、宮田くん。ほんとに急で、ごめんね?迷惑じゃなかったかな?」
「大丈夫だよ?今日は午後は、特に予定いれてなかったから」

隣に座りながら笑いかけて、ふと美代の手元の表紙が目に付いた。
題名の雰囲気で果樹について書かれた本らしい、何気なく英二は訊いてみた。

「美代さんの家も、梅とか柚子をやってる?」
「そうなの、うちは柚子。柚子にも色んな種類があってね、花柚子とか…」

訊かれて楽しそうに美代は柚子の木について話し始めた。
柚子の木の特徴、なぜ棘があるのか?花の香、柚子の新しい商品。そして美代が愛する柚子の古木のこと。
英二は植物にそれほど詳しくは無い、けれど美代の話す柚子の木の話は楽しかった。

「種から育てるとね、結実まで10数年掛かってしまうのよ。だから、枳に接木して数年で収穫可能にするの」
「からたち、って棘がいっぱいある木だろ?へえ、棘のある木が、実を結ぶのを早くする…うん、人間みたいだね?」
「苦労が人を育てる、そういうこと?」
「そう。なんかね、俺って植物をさ、人間に見立てるとこあるんだ。周太の影響かな?」

いまごろ桜田門で手話講習会を受けているのだろうな?
ふと出した名前に懐かしく微笑んだ英二に、美代が笑いかけてくれた。

「ごめんね、宮田くん。ほんとは湯原くんと映画、行きたいよね?なのに、図々しくお願いしちゃって、」
「大丈夫だって、美代さん?周太、いまごろ真面目な警察官の顔して講習受けてる、元から逢えない予定だし。
それに俺、美代さんと話すのだって好きだからさ。俺、自分の意志で来たんだよ?そんな謝る必要ない、今日はよろしくね?」

思ったままを英二は率直に言った。
初めて会った時から美代は英二を「光ちゃんのパートナー」としては見ても、外見だけで判断はしていない。
そんな実直なきれいな瞳をした美代を英二は好きだった、だから国村のことでも何でも聴いてあげたいと思える。
ほんとに気にしないでよ?目で言いながら笑いかけると、素直に美代は頷いた。

「うん、ありがとう。じゃあね、遠慮なく楽しませてもらうね?」
「はい、楽しんで?」

大らかに笑って英二は頷いた。
ほっと安心したように明るい目で笑うと美代はチケットを見せてくれた。

「今回の映画のチケット、この辺だと新宿がいちばん近くて。
でも新宿でしょ?都会って感じで気後れしちゃって、映画は見たいけど行き難くって。
それもあって湯原くんと一緒に行きたかったの、湯原くんならお喋り楽しいし、新宿でも一緒に歩いていて楽しいだろうって」

きれいな瞳の無邪気な笑顔で美代は話してくれる。
ほんとうに美代は周太を大好きでいる、男も女も無く、ただお互いに友達として好きで一緒にいて楽しい。
そんな優しい関係が美代の無垢な表情から伺えて、英二は嬉しかった。

「この映画館なら学生時代に行ったよ、でも周太と一緒ほどには楽しませてあげれないかも?ごめんね、美代さん」
「ううん、宮田くんともね、お喋りしてみたかったの。湯原くんがいつも話してくれる宮田くんのこと、とても素敵だから」
「ありがとう、でも今日、ガッカリさせたらごめんね?」

代打で申し訳ないね?目で言いながら愉しいまま英二はきれいに笑った。
そんな英二に美代はすこし頬染めると、率直に言ってくれた。

「宮田くん、やっぱりすごく、かっこいいね?ちょっと緊張しちゃうな、いつも湯原くんも言ってるけど」
「そう?ありがとう。周太、なんて言ってるの?」

なんて言ってくれているのかな?聴いてみたくて英二は素直に尋ねた。
すると美代は笑って教えてくれた。

「すごく、きれいで見惚れちゃうって。やさしくて、我儘も受けとめてくれる、お願いを叶えてくれる。
きれいで頼もしくて、いつも援けてくれて、笑顔をたくさんくれるって。だからね、天使みたいにも思う、って湯原くんんは言うのよ?」

「天使?」

すこし驚いて英二は訊きかえした。
自分は周太に酷いことをした、それでも自分をそう言ってくれる事が意外だった。

「うん、天使。それでね、私もそうだなあって想ったのよ。あ、電車が着くね?」

話しているうちに青梅特快は新宿駅のホームへと入って行く。
美代と降りて歩きながら英二は、不思議だなと思った。

いつも新宿駅はひとりで降りるか周太を送る為に一緒に降りる。
けれど今日は美代とふたりで降りて周太の話をしている。
その周太は英二がよく知っている周太で、けれどすこし違う顔の周太だなと感じてしまう。
同じように、いつも周太と歩く新宿、けれど美代と歩く新宿はまた違う顔の街に感じるかもしれない。
きっと今日はいろいろ不思議な感じがするだろうな?そんなふうに考えながら英二は新宿駅改札を通った。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第35話 曙光・予警act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-02-27 22:38:01 | 陽はまた昇るside story
想い、真実と温もりを背負って




第35話 曙光・予警act.6―side story「陽はまた昇る」

無条件で受けとめられたい

そんな想いが背中越しふれてくる体温と鼓動に伝わってくる。
自分は受けとめるに決まっているのにな?後ろから抱きしめるように回される国村の腕を、ポンと叩いて微笑んだ。

「俺たち、もう生涯のアンザイレンパートナーだよな?お互いきちんと話していこう、約束だろ?」
「うん、…宮田、」

テノールの声がすぐ傍で英二を呼んでくれる。
どうした?と微笑むと、底抜けに明るい目は真剣に真直ぐ英二に告げた。

「俺がなに話してもね?絶対に、いなくならないでくれ」
「うん、いなくならないよ」

素直に英二は頷いて微笑んだ。
いまなぜ国村がこういう質問をするのか、気持ちが解ると思えた。
大丈夫だから話せよ?そんなふうに見つめ返すと、背中から英二を抱きしめたままテノールの声が話し出した。

「宮田。俺にはね、おまえが必要だ。山でも仕事でも、友達としても」

しずかな灯が黒栗の床を艶やかに照らしている。
その温もりを視界の端に見ながら英二はテノールの声に心傾けた。

「俺はね、山がいちばんだ。そういう俺を本当に理解できるヤツにはね、ずっと会えなかったんだ。
でも、おまえに会えた。おまえはね、俺が『山』を大切にする想いも、仕事に向き合う想いも解ってくれる。
俺がすべて『山』を軸にして考えているって、おまえは本当によく解ってくれる。そしてさ…美代のことだって、そうだろ?」

ふっと言葉をいちど切って国村は唇をかるく噛んだ。
ちいさな沈黙に英二はかるく頷いて「大丈夫だ、」と真直ぐ目を見て笑った。
ふっと国村の緊張がほどけて唇が開いた。

「もう宮田はね、解ってるだろうけどさ?俺は、美代を抱いたことは無いよ」

言って国村はすこし笑った。
純粋無垢な目が真直ぐ英二を見つめている、そしてゆっくりテノールの声は言葉を続けた。

「俺と美代はね、幼馴染だ。赤ん坊の頃から恋人同士みたいに育った。
いつも手を繋いで、おでこにキスしてきたよ。一緒にいるのが自然でさ、大切で特別だよ。
でも恋愛じゃない、美代を抱きたいと思ったことは一度も無い。恋愛と違うけれど大切で、遊びじゃないから、俺には抱けない」

いつも御岳の河原で呑むとき帰り道は、美代が代行運転をしてくれる。
その別れ際に国村は美代の額にキスをする、そして切なげに去って行く美代を見送る。
けれどそのキスと視線にこもる意味と国村の想いを、英二は冬富士の時から気づき始めた。
きっと自分の考えは当たっている、そんな確信をすぐ傍から見つめ返す瞳に見ながら英二は微笑んだ。

「大切だからこそ、おまえは抱けないよな」
「うん…いま宮田にね、こうしてるように抱いたことも、一度も無いんだ…違うって解っているから出来ない」

心が軋むのを英二はしずかに見つめた。
国村の美代に寄せる「特別」の意味、そして美代との擦れ違いを話そうとしてくれている。
国村と美代は似合いで、穏やかな信頼感がきれいだと英二は見てきた。でも「信頼感」の本当の意味を冬富士から気づいた。
多分この信頼感と「特別」はこんな意味だろう、英二はうなずいて微笑んだ。

「うん、…姉さんはさ、抱けないな」

ぐっ、と国村の腕に力が入って抱きしめられる。抱かれる肩口でテノールの声が微笑んだ。

「解ってくれるんだね、」
「うん、俺、姉ちゃんいるしさ。それにね、おまえのことは解るよ?」

英二には姉がいる。だから英二には気づけてしまった、国村が美代に寄せる視線の意味が。
いちばん身近な異性で時に母の顔もしてくれる、憧れと不可侵の対象ともなる「姉」は大切な「特別」な存在。
妹なら庇護の対象だからまた違う、けれど「姉」には母の面も見るから彼氏が出来ると嫉妬したくなるケースも多いと言う。
自分も姉にはそういう想いがある、だから自分と似ている国村も同じだろう。思ったままを英二は口にした。

「姉さんはさ、男にとられたくないな?ずっと、きれいでいてほしい、自分を見つめていてほしい。そうだろ?」
「うん、そのとおりだよ?…俺にはね、姉さんなんだ、美代は」

底抜けに明るいから涙がこぼれた。
あふれだした想いは静かに涙になって、言葉となってこぼれ出した。

「俺にはね、もう、じいちゃんと、ばあちゃんしか肉親はいない。
おふくろはさ、家出同然でおやじと結婚したんだ。だから俺、おふくろの両親と弟には葬式で会っただけなんだ。
だからね、俺にとって美代は家族で、肉親と一緒なんだ…だからさ、失いたくなかった。これ以上は家族を盗られたくなかった。
だから俺、美代に他の男を近づけなかった…身勝手だってね、俺でも解ってるよ?でも、嫌だったんだ。居なくなってほしくなかった」

13歳を迎える春に突然両親を亡くした国村。
ひとりっこ長男の国村にとって「家族」は祖父母と両親だけだった、その両親が同時に消えた。
そして遺された祖父母は確実に自分より先にこの世を去るだろう、けれど兄弟も無く父の兄弟も無く、母の家は頼れない。
いつか自分の家族は肉親は誰も居なくなる、その哀しみを13歳で国村は向き合わされた。
この国村の状況と孤独は周太と似ている、ふたりが惹きあうことは当然だろう。

 ― 良い両親だよ、

そう国村はいつも話してくれる、そんな良い両親がふたり同時に消えた。
だからこそ喪った存在が大きすぎた、そして肉親が少ない痛みはより大きくなってしまった。
そんな大きな喪失に「家族の愛」はひとつでも多く残したいと願う、その想いと哀しみを誰が責められるのだろう?
しかも国村は母親も亡くした、その分も「姉」の存在に見つめたとしても仕方がない。
この「母を姉にも見る」想いは実母の無償の愛を得られない英二にはよく解る、姉は母の分まで自分を見つめ理解してくれるから。
美代と国村の想いに擦違いがあるとしても「特別」な存在として美代を大切にする国村の想いは真実だ。
国村の想いが自分にはよく解る、穏やかに頷いて英二は微笑んだ。

「そうだな。喪いたくない、姉さんは。だから、国村はさ?姉さんだから、美代さんの前では泣かないんだろ?」

男だったら恋人の前では涙を流せても、女きょうだいの前では涙は流せない。
姉や妹の前ではまず泣かない。それでも、ずっと一緒に育った姉と離れるときは涙も出るだろう。
だから国村は美代の前では、警察学校入校で初めて離れるとき1度しか泣いたことが無い。
自分も姉と離れるとき哀しかった、想い出しながら英二は微笑んだ。

「俺もね、姉ちゃんの前では泣かないよ。周太の前では泣くけどね」
「うん、美代の前では泣けない。でもね…『あのひと』のまえでは、俺、泣けるんだ…素直になれるんだ、」

あのひと、は周太のこと。
おだやかに微笑んで英二は国村に言った。

「愛するひとにはね、自分を解ってほしくて、受け留めて欲しいだろ?
だから素直になれるんだって俺は想うよ。だから泣けるんだよな?好きなひとの前では、男でも女でも、関係なく」

「うん、俺ね、『あのひと』が女でも男でも、一緒だよ。…だって俺さ、再会するまで、女の子だって思ってたんだ」

幼いころの周太の写真を想いだし英二は微笑んだ。
母親そっくりの華奢で可愛らしい様子は中性的な雰囲気に優しくて、女の子と言って不思議はなかった。
幼いころから大柄だったという国村からしたら、華奢で小柄な周太はさぞ可愛い女の子だったろう。
幼い日のふたりを想った心が優しいままに温かで、やわらかに英二は微笑んだ。

「周太、可愛いからね。大人になった今でも中性的な雰囲気があるし」
「ほんとに可愛い。いちばん可愛くて、誰よりも、きれいなんだ、俺には。だから、もう失いたくないんだ」

英二の肩に温かな涙がときおりふれる。
どうして国村が自分を抱きしめて今話しているのか、その理由が解ると思った。
美代を、周太を失いたくないように英二を失いたくない。だから抱きしめて掴まえているのだろう。
なんだか弟みたいだな?やさしい穏やかな想いに英二は微笑んだ。

「大切なひとは誰よりも一番きれいで失うのは怖い、それを雪のなかで国村はよく感じる。そう言っていたな、富士の山小屋でさ?」
「うん、話したな。おまえ、蝋梅の光の話をしてくれた」

ふっと細い目が記憶に微笑んだ。
その目に穏かに頷きながら英二は言葉を続けた。

「あのときは俺、ご両親がマナスルで亡くなったからだと思った。そして、大切なひとは美代さんだと思ったんだ。
きっとそれも正解だろう、でも、おまえはさ?本当は誰よりも、周太のこと言っていたんだろ?
おまえと周太は9歳の雪の日に出逢った、でも14年ずっと周太は記憶を失っていた。そう周太に聴いて俺、気がついたんだ」

9歳の雪の日に奥多摩で出会った、そう周太は言っていた。
新雪のなかで出逢った恋愛への想いはきっと、国村の新雪と雪を愛する想いを強くした。
その後に国村は両親を高峰マナスルの雪に失った。そんな国村が雪に「大切なひとを失う恐怖」を感じても無理はない。
それでも国村は雪を愛することを止めなかった、この想いの中心はきっと「周太」、雪に生まれた恋愛だと今は解る。
そうなんだろう?目で問いながら微笑んだ先で、純粋無垢な目は真直ぐに笑った。

「うん、そうだよ。俺はね、14年間ずっと待っていたんだ。
俺は『あのひと』と雪の山で出逢ったんだ、それが俺の唯ひとつの恋愛を見つけた瞬間だった。
ひとめで恋したよ。話して、一緒にいて、大好きになった。だからまた逢いたくて、毎日ずっと待ってるって約束した」

なつかしい記憶と想いに国村は微笑んだ。
微笑んだ純粋な黒い瞳から想いが温かな涙となってこぼれ落ちた。

「けれど、あの日に雪のなかで別れたまま、ずっと逢いに来てくれなかった。
それでも俺は『あのひと』の言葉を信じていた。信じて毎日ずっと約束の場所で待っていた。
ずっと待っていて朝になった日もある、夜なら来るのかなって思ったからさ。それでも、失うのかなって怖い時もあった。
このまま逢えないまんま、俺の恋愛は終わるのかなって、絶望しそうになった。でも俺、待つことを、どうしても止められなかった」

こくんと涙を呑んで国村は微笑んだ。
涙を込めたテノールの声は、また想いを紡ぎながら微笑んだ。

「ずっと『あのひと』だけ待っていた、他はいらなかった、だからお互い納得づくの遊びしかしなった。
ずっと『あのひと』しか見つめられなかった、また逢えるって信じていた。美代が傍にいても誰が来ても、待つことは止めれなかった」

微笑みと涙があふれて英二の肩をそめていく。
国村の想いをただ見つめながら英二はテノールの声に心傾けていた。

「俺、ずっと待っていたんだ…俺、『あのひと』の笑顔にずっと逢いたかったんだ、それだけなんだ。
そのまま14年が経って、吉村先生の診察室で再会した瞬間、俺には『あのひと』だって、すぐ解った。
でも男だったから、俺のこと覚えてないから、似ているけれど違うのかなって思った…でも、逢うたびに、声聴くたびに…」

しずかな屋根裏部屋に涙を呑むかすかな音が響く。
ゆるやかに涙に温められる肩ときれいな瞳をただ英二は見つめていた。

「やっぱり『あのひと』だって、逢うたびに俺は想った。逢うたびに、好きだって想った。
そして13年前の事情を聴いてさ、ショックで俺のこと忘れたんだって気がついた。それでも俺、満足だった。
また笑顔が見られる、友達の恋人なら近くで見ていられる…たまに電話を横取りしたのもさ、声、聴きたかったんだ。
なんでもよかったんだ、笑顔が見られて、声を聴けたら。それで俺はね、本当に幸せだった。たとえ友達の恋人だったとしても」

英二の瞳から涙ひとつこぼれた。
大切な友人の苦しみとその想いが心に響いて、涙が英二にも届いた。
英二の涙に泣きながら笑って国村は、抱きしめながら白い指で英二の目許を拭うと微笑んだ。

「そりゃね、悔しい気持ちもあったよ?でも、『あのひと』が愛しているのは宮田だ。
だから『あのひと』の宮田への想いを守りたかった、心からの幸せに笑わせてあげたかった。
そうして笑顔を見せてほしかった。ただ心から幸せな笑顔を見られたら、声聴ければ幸せだって想って。
だから俺たまにさ、おまえに聴きたかったんだ。ちゃんと幸せに抱きしめてくれてるか、笑顔にしてくれているのか。
ただ幸せな笑顔が見れたらいい、『あのひと』が俺を忘れているなら、それでいい。俺の恋愛は夢のままでも構わない、そう想ってさ」

涙の中から底抜けに明るいが英二を見つめてくれる。
そして大らかな温もりに笑ってくれた。

「そして俺はね、おまえが大好きで大切なんだ。だから一生、俺は黙っていようって想っていた。俺、おまえの笑顔が大好きなんだ」

またひとつ、英二の瞳から涙がこぼれた。国村の想いが幸せで切なくて温かかった。
14年間ずっと国村が想い続けた唯ひとり愛する存在、願い祈り続けた幸せな笑顔との「再会」の瞬間。
その願い続けた再会の現実は「アンザイレンパートナーの恋人」としてだった。
こんな残酷な現実にも国村は「それでも傍にいたい」と願い、英二のことも心から大切に想い一緒に笑ってくれていた。
そんな国村の想いを踏み躙るように自分は周太を体ごと傷つけてしまった、その罪の重さが軋んで痛い。
それでも「離れたくない」と英二を抱きしめてくれる国村の想いが申し訳なくて嬉しくて、涙になっていく。
ただ静かに流れる英二の涙を見つめ国村は、ひとつ息を呑んだ。

「冬富士から戻った次の日、ザイル狙撃の実験の日だよ。
実験場を移動する雪道で『あのひと』は俺に9歳の時に遊んだ雪の奥多摩を話してくれた。
俺と出逢った日のことだよ。まだ俺のことは想い出せていない、けれど奥多摩へ来たことは想い出せていた。
きっと記憶が戻り始めた。それが解って俺、うれしかった。俺のこと想い出してくれるかもしれない、そんな期待をした。でもその後、」

ふっと声が途切れて白いのどが涙を呑みこんだ。
それでも純粋無垢な瞳から流れた涙のなかで国村は哀しみを告げた。

「その後だった。威嚇発砲されて、銃を向けられて…哀しかった。
おまえの為には、俺のことも殺すんだって、哀しかった。どうしようもなく哀しかった。
だから俺、話したんだ。もう黙っていられなかった哀しくて、かなしくて俺、自分の想いを解ってほしくて、俺は話したんだよ」

涙の向こうから純粋な想いが英二を見つめてくれる。
その目がきれいで大好きだと英二は想った、その想いのまま「話してよ?」と微笑んだ。
そして透明なテノールの声は、心から泣いた。

「俺は、『あのひと』に告白したんだ、おまえの婚約者なのに、苦しめるって解っていたのに…!」

真っ直ぐ見つめる透明な瞳から涙があふれる。
あふれていく想いはそのままに透明なテノールの声になった。

「逢いたかったんだ、待っていたんだ。名前を呼んでほしかった、見つめてほしかったんだ。
想い出してほしかった、出逢ったあの雪の日のように、好きだって、逢いたいって、言ってほしかったんだ。
あの雪の日の続きを生きたい、あの笑顔を見つめて『好き』だって、『愛している』って、ほんとうは俺、言いたかったんだ…!」

あふれる温かい涙と想いが英二の肩へとしみいって温めていく。
ゆるやかに浸す温もりと想いを見つめる英二に、国村の想いが泣いた。

「ごめん、宮田…!苦しめているって解ってる。
おまえも、『あのひと』も、俺の告白のせいで苦しめている。でも俺、ずっと逢いたかったんだ…!
もう離されたくない、笑顔を見つめていたい。また会えなくなるのは嫌なんだ。また忘れられるのは絶対に嫌だ…!」

告げられていく純粋無垢な恋と愛。
こんな想いを誰が否定なんて出来るだろう?
そしていま話してくれている信頼と率直な想いが英二はよく解る、自分と国村はよく似ているから。
まわされた腕をポンと軽くたたいて、英二はきれいに微笑んだ。

「大丈夫だよ、周太はね、幸せだよ?おまえのこと想いだして、愛して、きれいになった。だから大丈夫だ、」

透明な瞳から涙がこぼれていく。
そっとテノールの声がまた想いを声にして英二に言った。

「おまえが言うならさ、本当にそうなんだね?でも、宮田を苦しめている…ごめん、宮田…でも、俺、おまえと離れたくない…!」

背中を抱きしめる力に「離れないでくれ」と想いこめられる。
苦しめてしまう、けれど離れたくない。大らかな優しい国村には、こんな想いは苦しい。
ずっと国村はこの想いを告げたかったろう、もし英二に嫌われたらと不安に思い、けれど正直に告白したかった。
そして信じて話してもらえたことが嬉しい、うれしくて英二は笑った。

「大丈夫だよ、国村。たぶんね、そうでもない。だってさ、俺、今日も笑顔を褒められたろ?」

大丈夫だと目でも言いながら英二はすぐ横の純粋無垢な瞳を見た。
見つめながら頷いて国村はすこし照れくさそうに微笑んだ。

「なんで俺がさ、今、この話をしたのか?それも宮田は解ってるんだろ?」

なぜいま国村はこの話が出来たのか?
きっと「離れたくない」が理由だろうな、笑って英二は答えた。

「今日、公式的にアンザイレンパートナーに決まって、もう俺と国村は離れられない。そう決まったから、かな?」
「正解。俺、ちょっと卑怯だよね?…でも俺、それくらい離したくないんだよ。大好きで大切なんだ、おまえが、」

泣いたままの顔で笑いながら率直に想いを告げてくれる。
こんな真直ぐな友人が自分は大好きだ、愉しい想いで英二も口を開いた。

「うん、俺もね、おまえと離れたくないよ。だから今日も即答したんだ。あとさ、別に卑怯じゃないよ?
それ言ったら俺の方が卑怯だ。なんとなくだけど、俺、ずっと感じていたからさ。おまえの周太への想い。
でも俺は美代さんを言い訳にして、気づかないフリしていた。周太は天然で鈍いから、言うまで絶対に気づかないしね」

素直に自分の想いを話せることは気持ちが良い。
やっぱり自分は本来が直情的で腹に収めるのは好きじゃない、話せる今が楽しくて英二は笑った。
そんな英二に呼応するように国村も笑って口を開いた。

「気づかれちゃってたんだ?どうりでさ、嫉妬深いなって想ってたよ。ふうん、じゃ、もう俺、遠慮しなくていいかな?」
「おう、遠慮せずに、周太と逢ったりしなよ。自由に好きにしてほしいよ?」
「自由に…それってさ、ほんとにいいのか?」

純粋無垢な目が英二を見つめてくれる。
この「自由」の意味がすこし自分には痛い、けれど認めなかったら意味が無いだろう。
ほんとうに自由をあげたいよ周太? おだやかに抱いている愛しい面影に英二は微笑んだ。

「このあいだも言っただろ、周太はね、自由だ。
自由に人と会って友達つくって、恋愛をしてほしい。そうしてね、周太には幸せになってほしいんだ。だから、
周太が望んで、おまえも望むんだったら。国村、周太のこと幸せに抱いてやってほしいよ?それでさ、幸せな笑顔を見せてほしい」

底抜けに明るい目が涙をこぼしていく。
そんなに泣かなくても良いのに?長い指で拭ってやりながら英二は笑った。

「周太と、おまえと。ふたりの幸せな笑顔が見られたら、俺は幸せだよ?」

背中ふれる鼓動も温もりも、想いが温かい。
肩まわされる腕にやさしい力がこめられていく。
そうして泣き出すテノールの声が想いを告げてくれた。

「うん、…宮田。俺、やっぱり、おまえが大好きだ、ずっと離れるなよ?ずっとアンザイレンパートナーでいろよ?」
「ずっと離れないよ、生涯のアンザイレンパートナーだ。安心しろよ?」

大切な友人に抱きしめられながら英二はきれいに笑った。
きれいな笑顔を見つめて底抜けに明るい目も笑ってくれる、そして国村は真直ぐ英二を見つめて言った。

「だから、俺からも言いたい。もし、『あのひと』が…『周太』が、宮田を選んだとしても。俺はおまえから離れない」

真直ぐな目は透明なほどに率直できれいだった。率直な想いのまま英二と同じように「周太」と呼んでみせた。
そんなふうに「俺たちは対等でいよう」と告げてくれる想いと、国村の周太への想いは真直ぐだった。
そんな真直ぐな想いが嬉しくて英二は頷いた。

「うん、俺もね、遠慮はしないよ?周太が望んだら俺は、また恋人に戻る。そして国村とも離れない、」
「そうだよ、俺から離れるんじゃないよ?」

底抜けに明るい目が笑ってくれる。
そして透明なテノールの声が想いのままに告げてくれた。

「もし周太が、どちらも選べないと言うなら。俺はそれでも構わない、選ばなくても良い。
周太が俺とも宮田とも一緒にいたいなら、それで構わない。俺はね、宮田と周太と、ふたりと一緒にいられたらそれで良い。
こういうのってさ、きっと変だって言われるだろうね?でも俺はね、大切なふたりと離れたくないんだ。だから我儘でもそうするよ」

純粋無垢な怒りのままに国村は今日、警視庁拳銃射撃競技大会に真直ぐ立ち、場を意志と能力で支配し誇らかな自由に笑った。
こんな愉快な男と自分は今日、警視庁山岳会の会長と副会長に乞われ正式にアンザイレンパートナーになった。
あのとき突然迫られた意志表明の選択だった、けれど答えはもうとっくに決まっていた。
そしていま国村が迫ってくれる意思表明の選択も答えは決まっているだろう。きれいに笑って英二は頷いた。

「うん、俺も同じだよ?国村。だから俺はね、分籍もする、周太も周太の家も守っていく。最高峰も行くよ。なにも変わらない」

周太と国村の想いの行方がどうなるのか?この先に何が起きるのか。
どうあろうとも自分は揺るがないでいたい、ただ周太も国村も大切にして守っていきたい。
それが自分の想いも大切にすることだろうから。そんな想いに微笑んだ英二に底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「変わらないでくれ、宮田。俺はね、ほんとうに大切なんだ。そしてさ…ありがとうな、」
「こっちこそ、ありがとうだよ?よく話してくれたな、国村」

話してくれて嬉しいよ?まわしてくれる腕をポンと叩いて英二は笑った。
そんな英二を見て安心したように大らかな笑顔が底抜けに明るい目から咲いた。

「うん、俺さ、ずっと話したかったんだ。でもね『山の秘密』は話せないよ?これだけは無理だ、俺は山っ子だからね」
「わかってるよ?そういう『秘密』はさ、俺も好きだよ。大切に秘密にしておくといい、そう想うよ」

こういう「秘密」はきっと自分もこの先いくつか持つだろう。
いま既に「ブナの木」の秘密は持っている、そしてまた山で秘密に出逢い自分も山ヤへとなっていく。
そんな想いを楽しみに微笑んで、けれど、ひとつの気懸りに英二は口を開いた。

「国村、周太はね?美代さんを大好きな友達だって想ってる。それは、知っているよな?」

すっと細い目が哀しい苦しい想いにそまっていく。
きっと苦しんでいただろうな?そう見つめる先で透明なテノールの声が言った。

「告白したときにね、『初恋の幼馴染、大切な恋人でしょ?』そう周太から、美代のことを訊かれたよ。
だから俺、こう答えた『美代は一緒にいるのが自然で特別だ、人間の恋愛として。だから君とは別次元』そう言った。
いまは美代、俺のこと、まだ恋愛対象だって見ているよ?それが解るから『姉さん』だって言えなかった。
きっと美代は周太に俺の話もする、そのときに俺がほんとうは美代を『姉さん』って想ってるって周太が知っていたら?
きっと周太は美代と俺の想いがまったく重ならないことを哀しむだろう、余計に辛い想いさせる。そう想うと俺、言えなかったんだ」

大胆不敵で豪胆な国村、けれど繊細な優しさも抱いている。
こんな配慮は、本来が想った通りしか言えない国村にとって苦しかっただろう。
この苦しみをすこしでも楽にしてやれるだろうか?そんな願いと一緒に英二は口を開いた。

「国村は、美代さんが泣いたところを見たことってある?」

肩越しに微笑んだ問いかけに、純粋無垢な目はすこし考え込んだ。
そして記憶の扉を開け終えた国村は素直に答えた。

「警察学校に俺が入るとき。あのとき少しだけ泣いた、それだけだね、」
「だろ?」

やっぱり想った通りだろう。
自分の考えと周太の話をまとめながら英二は、気づいたところを話し始めた。

「周太から聴いたんだ。カラオケ屋で美代さん、周太の前で泣いたんだ。
そのときに美代さんはね『泣いたなんて光ちゃんには絶対に見せたくない』って周太に話したらしいよ。
それってさ?おまえが美代さんに涙を見せないのとさ、きっと同じ理由じゃないのかな。俺の姉ちゃんもね、俺の前で泣かないんだ」

「きょうだい」は最も身近で親しい反面、ライバルでもある。
だから「絶対に涙を見られたくない」とも考えるし、近すぎて心配かけたくない想いもある。
そのことを英二は姉がいるから解る。けれど美代はまだ気づけていないのだろう、そう考える英二に国村が訊いた。

「俺と、同じに…でも、美代の態度はさ、『彼女』になるときがある…」
「うん、美代さんはさ、歳の離れた姉さんと兄さんがいるんだろ?だからね、逆に気づけないのかもしれない」

すこし途惑った秀麗な顔に笑いかけて、英二は思ったままを話した。

「歳が離れているからね、姉兄といっても親と同じように甘えて泣いてきたんじゃないかな。
そんな美代さんだからね、自分がなぜ国村の前で泣きたくないのか?自分でもよく解らないんだと思う。
俺もさ、最初はちょっと意地っ張りなのかと思ったよ?でも、周太の話を聴いているとね、そんなことでも無いみたいだし」

きれいな黒い目がゆっくり1つ瞬いた。
すこし不思議そうに首傾げながら呟くようにテノールの声が言った。

「俺も想ってたよ?意地っ張りで、気が強いからだって…でも、違うんだ?」
「うん、だって美代さんね?周太の前では素直に泣いたんだよ、それから笑って楽しんで、笑顔で帰ったらしい」

新宿に戻った周太が電話で話してくれた、美代と周太の「エスケープ」は楽しかった。
周太は美代と一緒に泣いて、それから笑って。ケーキを食べながら国村の相談も聴いたと言っていた。
きっと2人とも楽しかったんだろうな?周太から聴いた話を想いだしながら英二は微笑んだ。

「美代さんね、おまえには本当に恋する相手がいる、そう言っていたらしいよ。
周太ね、相談されて困ったらしい。もちろん周太は、おまえに想われているなんて言えない。
でも相談に乗ってあげられたらしいよ?そんな話もしながらさ、あのとき周太と美代さん、ふたりでデートしてたんだよ」

きっとあれこそ「デート」だろうな。
周太から聴いた可愛い「エスケープ」を想いだして英二は微笑んだ。
そんな英二を肩越しから国村が覗きこんで、ちょっと驚いたように訊いてくる。

「あのふたりで、デート?」
「うん。カラオケで女の子の曲を3つ歌ってさ。カフェでお茶して本買って、帰り際には周太、花を買ってプレゼントしたんだ」
「へえ、花まで?…うん、周太らしいよね?やさしいな…やっぱり可愛いな。萌えた、俺、」

きれいな泣顔を英二の肩に乗せたまま国村は、感心して頷いている。
すこし元気になり始めた顔に微笑んで、おだやかに英二は言葉を続けた。

「女の子同士みたいなコースだけどね。でも、立派なデートだろ?
こんどは新宿の公園に一緒に行くって約束らしいよ、いつも俺と周太が行くとこだけどね、めずらしい植物があるから」
「ふうん、今度は公園デートなんだ?そっか…美代ってさ、そういうこともするんだ」

ふっと国村は笑った。
すこし寂しげで、けれど靄が晴れたような清々しい笑顔で国村は口を開いた。

「俺と美代だとさ、畑か卓袱台か、あの河原ばっかりなんだ。
店に行っても定食屋とかくらいで、どっか一緒に行きたいって言われたことないんだよね。
だから俺、美代がそういうデートするって知らない。宮田が言う通り美代にとっても、本当はずっと俺は弟とかだったかな?」

恋人同士ならカフェや映画にも行って、ふたりだけの時間も楽しみたいだろう。
けれど幼馴染で「家族」のまま国村と美代は接してきた、そんな雰囲気が国村の話にも解る。
自分が想った通りかもしれないな、ふと疑問に思っていた考えを眺めるように英二は話した。

「そうだな。いま思うとさ、クリスマスイヴの時も俺は不思議だったんだ。
あのとき美代さん『いつもふたりきりで寂しかった』って俺に言ったんだよ。恋人同士なら、ふたりきりになりたいだろ?
美代さんも家族の感覚かなって思う、そういう姉弟感覚の夫婦もたくさんいるけどね。だからさ、国村?そんなに自分を責めなくていい」

まわされた腕をまたポンと軽くたたいて英二はきれいに笑った。
大らかな笑顔に国村も、底抜けに明るい目で笑ってくれる。
きれいな純粋無垢な目を見ながら英二はすこし冗談めかして教えてやった。

「美代さんも純粋だろ?だから余所見しないんだよ、だから気づけなかったかもしれない。
でもね、周太と出会った。きっと美代さん、周太と話していく中でね、いろいろ気づくと思うよ。
それから美代さんね、俺にも結構いろいろ話してくれるんだよね?でさ、国村?俺もカミングアウトだよ、」

言いながら英二は携帯電話と出して開いた。
片手でかるく操作すると、さっき届いた1通のメールを開いて肩越しに画面を見せた。

from :小嶌美代
subject:急なのだけど
本 文:こんばんは。あのね、急なのだけど、明日はご予定ありますか?
    明日までの映画のチケットを今日、職場でもらったのね。よかったら一緒にいかがでしょう?
    ほんとは湯原くん誘ったのだけど講習会あるからって、ふられちゃったの。
    それで宮田くんは休みだし誘ったら、って言ってくれて。お返事、明日の朝でもOKです。急でごめんね?

「へえ…いつ、アドレス交換した?」
「カラオケ屋の時だよ、美代さんと河辺駅のカフェで待合わせした時。あのときにアドレス交換したんだ」
「ふうん、…ね、宮田?これこそさ、デートの誘いだよな?」

携帯の画面を眺めて国村は不思議そうに首傾げている。
珍しいことに驚いているらしい、そんな様子が可愛らしく可笑しくて英二は笑った。

「うん、デートのお誘いだ?まあ、周太に言われたからだけど。きっと美代さん、おまえのこと俺に聴きたいんだと思うよ」
「俺のこと?」

なんで?そう目で言いながら肩に乗せた秀麗な顔が訊いてくる。
こういう機微も国村は他人だとよく解る、けれど自分と美代の間だとよく解らないのだろう。
そんな所からも国村と美代の関係が解るな?ちいさく納得しながら英二は微笑んだ。

「うん、たぶんね?周太と仲良くなって、周太と俺の話を聴いていてさ。
美代さんも気がつき始めたんじゃないかな。美代さんの国村に対する気持ちが恋人と違うのかな、って。
それでさ、俺に訊いてみたくなったんだと思うよ。恋愛の感覚とか、そういうの。それで考えてみたいんじゃないかな」

美代は周太に国村の相談をして以来、電話でも周太と「恋愛」の話をしているらしい。
なんだか本当に女の子同士のような付きあい方だな、と英二は聴くたびに微笑ましい。
そんな美代が周太から聴く英二の「男」視点を直接聴いてみたくなっても不思議はないだろう。
これに国村はどう反応するのかな?ちょっと可笑しくて笑いながら見た英二に底抜けに明るい目が笑った。

「そっか、ま、宮田だったらいいよ?美代のこと、よろしくな」
「お許しくれるんだ?じゃ、ちょっと明日はね、デートしてくるな。で、国村?こんどは俺から、おまえにお誘いだよ」
「うん、酒か?それとも山?」

うれしそうに肩に乗った顔が笑っている。
俺からの誘いは酒か山しかないのかな?そんな解釈が愉しくて笑いながら英二は言った。

「周太の家に行こう、国村。周太のお母さんがな、おまえに会いたがってる、」

細い目がすこし大きくなって英二を見た。
透明な目が真直ぐ見つめてくれる、そしてテノールの声が微笑んだ。

「うん、俺も会ってみたい。それでさ、川崎の奥多摩の森を見てみたいよ」

英二の肩に乗ったまま、きれいな笑顔を国村は咲かせた。
周太の家の庭は奥多摩の森を映して作ってある、それを国村も聴いているのだろう。
大らかに綺麗に笑って英二は頷いた。

「静かでね、おだやかな、きれいな庭だよ。周太らしい雰囲気でさ。周太の誕生花がある、俺、あの庭が好きだよ」
「山茶花の『雪山』だよね。山桜もあるって聴いたよ、それから雪の花と、水仙と…みやた、」

きれいなテノールの声が名前を呼んでくれる。
どうした?目で訊きながら微笑んだ英二に透明なテノールの声が言った。

「受けとめてくれたね、宮田。美代のことも、俺の恋愛も、『山』への想いもさ。
全部なんでも、俺のことをね、宮田は受けとめてくれるんだな、俺、こんなに誰かに全部なんでも話したの、初めてだ」

すこし照れたように底抜けに明るい目が笑ってくれる。
こういうのは素直に嬉しい、英二も正直な想いのまま笑った。

「うん、俺もね、おまえが初めてだよ?富士でも話したよな。で、話してもらったのも、初めてだ」
「そっか、初めて同士か?それで俺ね、こんなに泣いて、ずっと抱きついてるのもね、初めてだよ」

言いながら抱きつく腕がやわらかく力をいれてくる。
さっき国村が言っていた「このほうが温いだろ?」の通りに背中が温かい、おだやかな温もりに微笑んだ。

「抱きつくの、たのしい?」
「うん、こういうのってさ、いいな?」

素直に頷いて細い目が温かく笑んだ。
そしてすこし気恥ずかしげに率直な想いをテノールの声に乗せてくれた。

「俺さ、体のふれあいって遊びしかしてないだろ?
心を繋いだ相手とね、体でふれ合ったことって、俺は無いんだ。
だから俺はね、おまえ見るといつも、じゃれつくんだよ。宮田はさ、恋愛じゃないけど、俺にいちばん近いよ。
宮田とくっつくと安心するよ、温かいなって想える。無条件に許してもらえる、そういう安心があってさ、信じられるんだ、温かいよ?」

心を繋いだ相手。それは「周太」しかいなかった、
けれど14年間ずっと離ればなれになって、その間ずっと国村は誰とも心を繋げられなかった。
しずかな哀しみと孤独が背中にそっと伝わってくる、まわされた腕をポンと叩いて英二は笑いかけた。

「俺で良かったらさ、抱きついていいよ。いつもね、おまえのこと、俺は受けとめたいからさ。遠慮するなよ、」
「うん、…ありがとう、俺のこと、受けとめてくれて…ほんとにさ、ありがとう、」

自分をこんなふうに必要としてもらえる。そして自分もこの友人が大切でずっと一緒にいれたらいい。
おだやかな祈りと想いに微笑んで英二は言った。

「俺こそだよ?いつも俺のこと、受けとめてさ、山のこと教えてくれる。
山ヤになりたい俺の想いを理解して信じて、アンザイレンパートナーに選んでくれたのは国村だ。
そして周太のことも一緒に守れるのはね、おまえだけだよ。俺、おまえと会えて良かった、おまえと友達になれて幸せなんだ、」

山の経験すら浅い自分の素質と可能性を信じてくれる、そして対等な「山ヤ」だと認めてくれる。
そうやって国村が認めて一緒に訓練をしてくれるから、自分は認められて正式にクライマーとして任官することが出来る。
そうして掴んだ立場が周太を守ることに繋がる、そして自分の「山」にかける夢まで繋いでくれた。
なによりも、この「友人」の存在にどれだけ自分は励まされ笑わされて、楽しい時間を沢山もらってきただろう?
ほんとうにこの友人に会えて幸せだ、きれいに微笑んだ英二にテノールの声が真直ぐ告げてくれた。

「うん、…みやた、俺こそ、おまえに逢えてよかった…!」

肩にふれる涙が温かかった。
背中にふれる鼓動と体温が温かで、信じられることが嬉しかった。
こんなふうにずっと、自分と国村は寄りそって、援けあって最高峰にも登っていく。
そしてきっと、このふたりでなら「周太」の人生も救うことだって出来るだろう。

肩に背中にふれる涙と想いの温もり。
やさしい頼もしい熱を背負いながら、おだやかな夜に英二はきれいに微笑んで佇んだ。
曙光を見るまでずっと、ねむりのなかでも背負ったままで。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第35話 予警act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-02-26 23:36:20 | 陽はまた昇るside story
「絶対零度」 罠、悪戯な支配者




第35話 予警act.5―side story「陽はまた昇る」

青梅署の観覧場所へ戻ると後藤がゼッケンを外して待っていた。
他の補欠ふたりも既に外し終えて、寛いだ雰囲気に3人で愉しげに話している。
戻ってくる英二を見つけると後藤が嬉しげに手招きで呼んでくれた。

「よかったよ、宮田。もう始まるからな、探しに行こうかと思っていたよ」
「あ、すみませんでした。ちょっと外の空気吸ってきたんです」

素直に謝る英二に構わんよと笑って後藤が隣を勧めてくれる。
そして後藤の隣に英二が立つと愉しげに後藤が教えてくれた。

「宮田、今日はな?おまえさんに会ってほしい男がいるんだ。
駐車場での短時間だが、ヤツは時間がとれなくてなあ。また改めて話す時間はとるが、まずは今日、この場で会ってほしいんだ」

地域部長蒔田警視長。
警視庁全所轄を統括する地位、警視庁ナンバー3の階級を持つ幹部。
開会式で国村に「賛同」の拍手をおくってくれた、警視庁山岳会副会長を兼任するノンキャリア出身の山ヤの警察官。
きっと彼のことを後藤は言ってくれている。
さっき国村が推理した通りにやはり、このために後藤は英二をこの場へと連れてきたかったのだろう。
この面会が英二の進路を決定する、そして周太を守る為の立場と権利を得ていく土台初めとなるだろう。
いま動き出す自分の運命に微笑んで、きれいに英二は頷いた。

「はい、よろしくお願い致します」
「こちらこそな、よろしく頼むよ。きっとね、おまえさんも好きな男だ。そしてヤツはおまえさんを好きだろうよ」

素直に頷いた英二をうれしそうに見て、後藤は大らかな目を愉快に微笑ませた。
後藤に笑い返しながら何げなく会場を見渡すと「あいつ」がさり気なく視線を会場に走らせる姿が視界に映った。
たぶん「あの扉」の前で遭った『ココアの缶の男』を彼は探している、けれど彼は英二だとは気づけないだろう。
さっきの英二と今ここに立つ英二では気配が全く違うから。

さっき英二は雲取山麓のブナの木と呼吸を合わせ、自分の気配をあの森の空気に変えてしまった。
こういう「気配を変える」ことを英二は秋に雲取山麓を国村と巡視中、ツキノワグマの「小十郎」に出会ったとき教わっている。
山では時に気配を潜ませて、山に住む動物の邪魔をしないことが礼儀であり、互いの静穏を守る「山」のルールだった。
それを使って英二は「正体不明の男」として彼の前に立ち、ココアの缶を見せつけて微笑んだ。

あの男の視線が第10方面からこちらへとやってくる、そして彼の視線は英二を見たけれど気づかずに通り過ぎた。
ほら、やっぱり俺のことは掴まえられないね?ちいさく笑って英二は前髪を透かして彼を観察した。
どこか途惑いと焦り、混乱が彼のようすから強くなっていくのが英二には解ってしまう。
きっと彼は「13年前の亡霊」に遭った気持ちだろうな?可笑しくてちいさく英二は微笑んだ。

周太の父と英二は顔の造りは似ていない。
けれど周太の父の同期だった安本や、後藤副隊長によると笑顔の雰囲気が時おり似ているらしい。
遭難救助現場で遺体収容となると英二は憂いがちの笑顔になってしまう、そんなとき後藤に「湯原と似ている」と言われる。
さっき「あの扉」の前で彼と出遭ったとき、英二は扉の向こう側と周太の通る道への陰鬱な哀しみに微笑んだ。
そんな英二に声を掛けられた瞬間の彼はまさに「亡霊に遭った」ような顔で機先を制されていた。

この男もそう、「あの扉」の世界の住人は「ココアの缶を持った男」にすこし脅かされたらいい。
13年前の春の日までココアの缶をよく持っていた男、その存在を感じれば周太の扱いを粗雑には出来ないだろうから。

こんなふうに自分は「周太の父」の想いを抱いて、この警察組織で周太を守っていくだろう。
今日この大会で周太の進路はほぼ確定する、その哀切を見つめて自分はここで見守った。
そして自分もまた周太と同じように今日この場で、2つの側面の運命が決まっていく。
この2つの側面の鍵は「周太」そして国村が並び立つ。この運命すらも自分は結局このために利用していくだろう。

おだやかに心に据わっていく覚悟と意志を見つめながら英二は、そっとシャツ越しに合鍵にふれて真直ぐ前を見た。
視線の先、壇上を見あげると幹部達がもう並んでいる。
そして閉会式の開始が告げられ、閉会の次第が進み始めた。

進んでいく閉会の次第のなか、英二は周太と国村の横顔を見つめた。
これから表彰されるふたりは最前列に並んでいる。
穏やかな静謐の表情と底抜けに明るい誇らかな自由の顔と、ふたりらしい表情が対照的だった。
満点優勝で並んだ2人はどちらから先に表彰台へ昇るのかな?そう見ている先で次第は表彰式へと移って行った。

「それでは表彰式を行います、センター・ファイア・ピストルの部、優勝者2名。壇上へと上がりなさい」

言葉に国村が軽く頷いて「先に行きな?」と周太へ掌を延べて先を譲った。
すこし遠慮がちな顔を周太が見せると、笑って国村は小柄な背中を前へ押し出した。
そして周太を先にして壇上へあがり、賞状授与も先に立たせて国村は微笑んだ。
その様子を見て警視総監は周太の賞状を受けとり読み上げた。

「表彰状、湯原周太殿。警視庁けん銃射撃競技大会において優秀な成績を修め…」

読み上げられる賞状の前に佇む小柄な背中は静かだった。
その背中に向けられる視線を英二は瞳の端に捕えながら心裡で嘲笑った。
さっきの競技中に比べれば「あいつ」の視線は随分とおとなしくなっている。
たぶん「あの扉」の前で英二と、「亡霊」と遭遇してしまったことが遠慮を生んでいるのかもしれない。

彼もきっと周太の父を知っている、だから「ココアの缶」に反応して英二を問質そうとした。
あの、英二と目があった瞬間の、機先を制された驚きと亡霊でも見るような怯懦がひらめいていた顔。
きっと彼は上手に表情を隠したと思っていただろう、けれど英二には解ってしまう。
先ほどの遭遇は英二も意図していなかった、けれど、どんな偶然でも周太を守る方へ少しでも傾くなら良い。
やさしい想いに微笑んだ視線の向こうで、小柄な背中は端正な姿勢で賞状を受けっている。
そして踵を返し階段を降りようとした黒目がちの瞳が、英二の視線を見つけて微笑んだ。

―…英二?見ててくれたよね、

真直ぐに微笑んだ瞳からちいさな言葉が聞こえて英二は微笑んで頷いた。
ほんの一瞬の見交わし合いの時、けれど温かで英二は嬉しかった。
嬉しく見守る先で周太は、壇上から降りて選手の列に戻っていく。
良かったなと微笑んだ先で今度は国村の表彰が始まった。

「表彰状、国村…光一殿、」

いま「国村」の後で一瞬の間があった。
なんだろうと見ている英二の横で可笑しそうに後藤がちいさく笑っている。
その様子に英二は思い出し納得に微笑んだ。

去年の春先に国村は「勲章をいっぱいつけた人」が奥多摩へ視察に訪れたときに案内役を務めている。
そのときは積雪があった、けれどその男は注意を聴かずアイゼンを履かないで転び滑落しかけた。
それを国村に責任転嫁しようとした男はキツイお灸を国村に据えられてしまった。
この恥を黙秘させたい男の意図から、昇進試験で巡査部長になったばかりだった国村を特進で警部補に任命している。

そのとき以来の再会が今まさに壇上で、表彰状1枚をはさんで行われているのだろう。
きっと「勲章をいっぱいつけた人」は悪夢が蘇ったような想いだろうな?
そんな同情を寄せて眺めている先で賞状の読み上げが終わった。
そして国村へと賞状を授与しようとしたとき、ぱん、と賞状が警視総監の斜め後方へと飛んでしまった。

「ずいぶんとイキの良い賞状みたいですね?」

テノールの声が楽しげに会場に透って笑っている。
笑いながら国村は壇上のすこし奥まった場所へ進み、すっと端正な姿勢で片膝をついた。
そして賞状を拾いあげるとまた立ち上がって、幹部席へ向き直り姿勢を整えた。

「横切る無礼を失礼いたしました」

端正な敬礼をおくると国村は、警視総監の立つ演台の前に戻り会釈すると微笑んだ。
そして儀礼通りの持ち方をして真直ぐ立つと、警視総監を一瞥して階段へと踏み出していく
降りていく国村の底抜けに明るい目が笑って、かすかな一瞬だけ英二に目配せを送ってよこした。
これは何か意味があるんだろうな?
考えながら見ている壇上で、国村と入替わり階段を昇った3位受賞者が壇上で転んだ。

衆目を集める壇上で転ぶのは心身とも痛そうだな?
素直な同情を寄せながら見ている先で、今度は制服警察官の部の表彰式が始まった。
そしてまた壇上に上がった途端に滑りかけ、講演台に寄りかかると選手は踏みとどまった。
また転びかけたな、そう見守っていると今度は2位の選手も壇上で転んだ。

どうもおかしい。
なぜ3人も立続けに転ぶのだろう?こんな偶然なんてあるものだろうか。
怪訝に見ている先で選手達は皆、軽く滑りかけまた転んでいく。

―…賞状授与とかはさ、絶好のチャンスだな
 ただ俺の歩いた跡はさ、ちょっと滑落事故が増えるかな
 もともと滑りやすいよねえ、ああいう壇上ってさ。まあ何人すっ転ぶかはね、その日によって違うよな

武蔵野署へ射撃の練習に行くミニパト車中で「当日なんとか楽しむ努力の手間」を国村は話していた。
どうやら国村は「手間」を省かなかったらしい、そんな状況が壇上で繰り広げられていく。
たぶん周太を先に壇上へ行かせた意図は、これに巻き込まない為だったのだろうな?
納得しながら困ったなと微笑んでいると横から後藤が、ごく低めた声で英二に訊いてくれる。

「…宮田?おまえさん、この状況をな、どう思うかい?」
「たぶん、副隊長と同じこと思っています」

可笑しくて笑いを飲みこみながら英二は答えた。
そして答えながら1つの心配を壇上の1名へ向けていた。

―…勲章がいっぱいついている人はさ、一個くらい軽くした方が体に良いよな。ねえ?
 うん、賞状授与とかはさ、絶好のチャンスだな

あのとき話していた「当日なんとか楽しむ努力」はこのことがメインだった。
きっと警察組織に対して本気で怒った国村は努力の手間を惜しまなかったのだろうな?
確信しながら見つめる先で表彰式が終わり、警視総監が自席へ戻ろうと斜め後ろへと歩を進めた。

がったん、 大きな音響と一緒に警視総監は転倒し、プライドが滑落した

警視庁けん銃射撃競技大会。
その最後を飾るはずの閉会式の壇上1点に視線が統べられた。
全102署・第10方面と本部その全てから集まった警察官全員の面前で、その頂点に立つ男は呆気なく転んだ。
そうして「勲章がいっぱいついている人」は転倒の衝撃に、勲章が1つ外され落っこちた。

やっぱりやっちゃんたんだな?
予想通りの展開に英二は心裡に大笑いしながら首傾げ、介抱に慌ただしい壇上を見つめた。
こんなこと可笑しくて仕方ない、けれど転んだ心身への受傷状態がレスキューとして心配になる。
きっと脈拍は早く掌は汗ばんで冷たくなっている、高血圧だとまた心配だ、きっと右の肩と大腿部に軽度の打撲、でも大丈夫だろう。
そして「存分にやってこい」と国村にGOサインを出したのは自分だったと想い出し、すこし英二は困った。
自分は教唆犯になるだろうか?

「…なあ、宮田?あれはな、そういうことかね?」

大らかな目で笑いながら低い声で「困ったもんだな」と後藤が微笑んでいる。
きっと国村が「なにかやる」予想はしていただろう、けれどここまで徹底するとは思わない。
でもいまは何を言っても仕方ないだろう、微笑んで英二は短く答えた。

「はい、」

短く答えながら英二は自分のポジションに潜む意外な影響力を考え込んだ。
この競技大会で国村は「山」に育まれた能力を使い、怜悧な論破と能力の誇示で「悪戯」をしかけ警視庁を制圧した。
それは純粋無垢な怒りを容赦なく叩きつけた結果だろう、その怒りを英二も肯定したことで国村は一切の手加減を止めたらしい。
この大胆不敵な友人のアンザイレンパートナーであることは、どうも責任が大きいらしい。
こんどからもっと慎重に発言しよう、そんな反省と約束を自分にしながら英二は閉会式を最後まで見届けた。

すべて終わって後藤たちと戸外へ出るとき、新宿署の先輩達と歩いていく周太に会えた。
すぐに気がついて周太は先輩に断りを入れると、青梅署の皆といる英二と国村の許へ駆け寄ってくれる。
そして周太はまず後藤副隊長へ挨拶をした。

「おひさしぶりです、先月はありがとうございました、」
「湯原くん、こちらこそだよ。先月は助かった、ありがとうな。
そして優勝おめでとう。ずっと見させてもらったよ、きれいな姿勢でなあ、本当にすばらしかったよ。君の誠実さがな、見事だった」

大らかに温かな目で笑って後藤は率直に賞賛と祝辞を周太に贈った。
その眼差しは懐かしさと哀切に温かい、周太の父とは警視庁山岳会の先輩後輩として親しかった後藤は周太に友人の姿も見たのだろう。
そんな温かい率直に褒められて周太は、気恥ずかしげでも嬉しそうに微笑んだ。

「はい、ありがとうございます。でも、国村さんのスピードに比べたら全然出来ていません」
「いいんだよ、湯原くん。君の射撃はね、君だけのスタイルだろう?それになあ、こいつの射撃はね、クマ撃ち用だから」

笑って国村の肩を叩きながら後藤は周太を励ましてくれる。
今日の競技会は後藤にとって、国村の両親と周太の父と、若くして逝った友人たちの代わりに遺児を見守る日でもあった。
きっと後藤は警察官である以上、今日の結果が周太の進路にもたらす不安を知っている。
それでも大切な友人の遺児2人の優勝を見守ったことは後藤にとって喜びだろう、こんな後藤の実直な温かさが英二は好きだ。
そんな後藤に周太は素直に頭を下げて微笑み返すと、今度は国村と英二に向き合った。

「国村、優勝おめでとう。ほんとうにね、すごかった。俺も頑張りたいって思えた、よ?」

微笑んで国村を見上げる周太の顔はすっきりとして楽しげでいる。
心から整理がついている、そんな落ち着きが解って英二は嬉しかった。
そんな周太を底抜けに明るい目で温かに見つめて、けれど笑って国村は率直に思う所を言った。

「ありがとうね。俺もさ、眼福だったよ?ストイックな湯原は色っぽくてさ。
もし競技中に見えたら、マジあぶないとこだったよ?ブースの壁があってよかったって、俺は初めて思ったね」

「…そういうことここでいわれてもほんとこまるから…こういうとこでは、ね?」

術科センターだろうがお構いなしのエロトークに、素直に反応していく周太の首筋が赤らんでいく。
こんな様子が可愛いなと見守っている英二に、見上げた黒目がちの瞳が訊いてくれた。

「英二?ずっと、見ててくれたね…俺、出来ていたかな?」
「大丈夫、周太はね、ちゃんと出来ていたよ。お父さんも見てた、きっとね」

きれいに笑って英二は「ほんとうだよ」と目でも答えた。
そんな英二の笑顔にうれしそうに笑って、周太はまた新宿署の輪へと戻っていった。
小柄な後姿を見送ると、英二たち青梅署も往路と同じ2手に分かれて駐車場へと向かった。
駐車場へ着くと青梅署パトカーの前で初老の男がコート姿で佇んでいる。
その姿を認めると後藤副隊長が嬉しげに笑って手をあげた。

「よお、久しぶりだなあ、蒔田」
「はい、後藤さん、ご無沙汰しています。山井くんもお元気そうですね。国村くん、優勝おめでとうございます」

お互いうれしそうに旧交の挨拶を交わしながら、蒔田は気さくに国村にも笑いかけている。
いつもの底抜けに明るい目で笑って応え、国村は頭を下げた。

「はい、ありがとうございます。蒔田さん、開会式はありがとうございました」
「いや、こちらこそ礼を言いたいです。山ヤの警察官を代表してくれて本当にありがとう、うれしかったです」

あかるい声で笑って蒔田は国村に頭を下げた。
ほんとうに蒔田は気さくで謙虚な山ヤらしい人柄のようだった、そんな蒔田に国村は素直に頷いて微笑んでいる。
その国村と並んで見ている英二を振り返ると、後藤は蒔田に言った。

「蒔田、彼がよく話している宮田だよ。吉村にも好かれてな、警察医の手伝いまでしてくれている」
「はい、吉村先生にも伺っています。初めまして、宮田くん。地域部長の蒔田です、警視庁山岳会の副会長をさせて頂いています」

穏やかに微笑んで英二に握手を求めてくれる。
こういうフランクな幹部は警察組織では珍しいだろう、まず敬礼をすると英二は素直に握手をして微笑んだ。

「初めてお目にかかります、青梅署山岳救助隊所属の宮田です」
「うん、伺っている通りですね。誠実で、きれいな笑顔をされている。これじゃあ国村くん、君は大好きでしょう?」

率直に英二を褒めてくれながら蒔田は国村に笑いかけた。
笑いかけられて国村は頷くと、いつもの調子でからり笑って答えた。

「はい、蒔田さん。俺のアンザイレンパートナーは宮田だけです。だってね、この俺のフォロー出来るヤツは少ないでしょう?」
「そうですね?うん、いい信頼関係が出来ている、なるほど」

愉しそうに頷くと蒔田は後藤に笑いかけた。

「後藤さん、仰る通りだと思います。私の方からも人事部に掛けあいましょう、」
「ああ、よろしく頼むよ?さて、では本人に聴いてみよう、」

大らかな目で笑って後藤は英二を真直ぐに見た。
おだやかに微笑んで英二が見つめ返すと後藤は言ってくれた。

「宮田、こんな駐車場での話で済まないが、この蒔田が時間が無くてな。聴いてくれるかい?」
「はい、なんでしょうか?」

心裡に1つ呼吸して英二は後藤の深い目を真直ぐに見つめた。
見つめた目は楽しげに笑って、率直に話してくれた。

「おまえさんをな、警視庁のクライマーとして正式に任官させたいんだ。
そして警視庁山岳会に正式に所属してくれ。宮田にな、国村と一緒に最高峰の踏破を始めてほしいんだ。
クライマーの警察官として山岳レスキューのプロを目指してほしい、そしてトップクライマーになって国村の踏破を援けてほしいんだ。
宮田はな、まだ卒配期間で山ヤの年数も浅いが、国村の信頼が固いよ。そして素質がある、努力を積んで山と任務に向き合っている。
だから、おまえさんの素質と姿勢に俺たち山岳会は懸けたい、国村のパートナーをお前さんに決めたいよ。さあ、宮田の意見はどうだい?」

クライマーとしての任官。
それは山ヤの警察官として生涯を生きることを意味している。
山に廻る生と死に「人間の尊厳」を守るため自分の生命と誇りを懸け、山の峻厳な危険に立ち続けること。
そして最高のクライマー国村と完全に並んで、世界最高の危険地帯「最高峰」の頂点に共に立ち続けることを選ぶ道だった。

いま周太を廻る国村との想いの交錯がある、けれど最高の山ヤで一番の友人と並ぶ権利は手離せない。
こんな自分はまだ山ヤの道に立って半年も経っていない、それでも信じて最高峰の夢を懸けようと言ってもらえる。
こんな自分でも求められ信頼され、可能性を見つめてもらえる。この外見だけじゃなく体ごと意志と心を認めてくれている。
この喜びたちが最高の危険と背中合わせであっても自分は迷うことは無い、真直ぐな想いに英二は頷いた。

「はい、お願いいたします」

短いけれど明確な意思表示に英二は誇らかに微笑んだ。
その笑顔に後藤と蒔田が楽しそうに頷いてくれる、隣からは国村が肩をごつんとぶつけて笑った。

「よし、宮田?これでね、俺たちは名実ともに公私ともアンザイレンパートナーだ。
これでもう、誰にはばかることなく俺たち、ずっとこれから一緒だよ?よろしくね、俺の生涯のアンザイレンパートナー」

底抜けに明るい目が愉しげに笑っている。
笑って頷きながら英二は答えた。

「うん、よろしくな。でも『誰にはばかることなく』とかはさ?ちょっと…違うんじゃないか?」
「なにが違うんだよ?じゃあなにさ、俺たちってさ、誰かにはばかる必要があるわけ?」
「う、ん…なんだろ?ニュアンスの問題?」

普通は「誰にはばかることなく」なんて恋人同士で使うんじゃないのかな?
この疑問をうまく国村に言えなくて英二は笑いながら困った。
そんなふうに笑いながらやりとりする国村と英二を眺めて、後藤と蒔田は愉しげに笑った。

「な、蒔田?宮田だとな、国村はこんな感じでリラックスするんだよ、冬富士でも仲良く帰って来た」
「はい、良いですね。これだったら、難所でも一緒に越えられますよ、きっと」

そんなふうに笑って頷きあう後藤と蒔田は、山ヤの警察官の親しい先輩後輩同士そのものだった。
そうして暫く話すと蒔田は青梅署の4人に端正な礼を送ってくれた。

「では、そろそろ戻らなくてはいけません。宮田くん、近々に書類が届くかと思います、お手数ですがサインなどお願いします」
「はい、よろしくお願い致します」

きれいに大らかな笑顔を英二は敬礼と一緒におくった。
そんな英二の顔を見て蒔田はうれしそうに笑ってくれた。

「ほんとうに君は、良い笑顔をしますね。こんどはお酒もご一緒したいです、またお願いしますね」

そう笑って蒔田はパトカーに乗り込んで自分の職場へと帰って行った。
都心方向へ戻っていく姿を見送ると、英二達も国村の運転するパトカーに乗りこんだ。
そうして青梅署へと戻る車中で、後藤が愉しそうに言ってくれた。

「宮田。おまえさん、蒔田に気に入られちゃったな?あいつ、きっと本当に酒を誘ってくるよ、一緒に呑んでやってくれな?」
「はい、いろんな山のお話が伺えそうですね?」

素直に頷いて英二は答えた。
頷く英二に笑って後藤はそうだなと言葉を続けてくれる。

「そうだな、あいつはね、いろんな山を知っているから愉しいよ。でもな、たぶん国村も一緒だからなあ、ちょっと宮田は大変かもな」
「うん?なんで俺が一緒だと大変なんですかね?」
「だってな、おまえ場所とかお構いなしで自分のペースだろう?真面目な宮田はな、おまえの分まで気を遣って大変だよ」

後藤の言葉に国村が聞き咎めて笑い、後藤がまぜっかえしている。
それを笑って訊きながら英二は、今日の自分に起きた転換を心裡しずかに考えていた。
このことは近いうちに周太と周太の母には話しておく必要があるだろう。どう話そうと考えながら英二はシャツ越しふれる合鍵に微笑だ。



その晩、英二は以前の約束通り国村に酒をおごった。
この大会出場を嫌がっていた国村に愉しみを作ろうと「大会後は酒を飲ませる」と英二は約束をしていた。
その約束通りに英二は酒を買い、そして初めて国村の御岳の家を訪れた。
いつも国村の祖母は差入にと、心づくしの重箱を国村に持たせては英二や藤岡にもご馳走してくれる。
すでに藤岡は訪問して礼を述べているが、英二は個人訓練や吉村医師の手伝いなどで時間が取れず、ずっと気にしていた。
そんな英二に国村は、大会の結果を祖父母に報告しがてら帰りたいと提案してくれて決まった訪問だった。
こんなふうに友人の家に泊まりで遊びに行くことは英二には初めてになる、すこし緊張して英二は国村家の門を潜った。

「さあ、たくさん食べてね?」

そう言って国村の祖母は、重厚な栗材の食卓いっぱいに惣菜を並べて英二をもてなしてくれた。
祖母と言ってもまだ60代で孫の年の割に若い。そんな彼女は楽しげに英二の御岳での評判を話し始めた。

「宮田くんね、すごく評判良いのよ?やさしくって、しかもすごいイケメンでしょ?
だから羨ましがられるのよ、光一の友達だなんていいわねって。一緒に食事して泊まって貰って、また自慢の種が出来たわ」

あかるいトーンの話し方は年齢より若くて、祖母と言うより母親のようだと英二は思った。
その隣で国村の祖父は楽しげに話を聴きながら、たまに悪戯っ子のような目で英二に笑ってくる。
温かい雰囲気がうれしいと思いながら、惣菜の心づくしに遠慮なく箸をつけて英二は微笑んだ。

「ありがとうございます、でも、なんか申し訳ないですね?もし今日、俺、ガッカリさせたらすみません」
「がっかりなんかしないわよ?まあ、そんなこと言うなんて、可愛いわー、光一と大違いね」

朗らかに笑って英二に「お替りは?」と掌をさしだしてくれる。
ありがたく茶碗を差し出す隣から、からり笑って国村が言った。

「だろ?こいつはね、そりゃ真面目で可愛い別嬪なんだよ。不真面目な俺とは違うね。
だから比較するんじゃないよ、ばあちゃん。だいたいさ、こういう俺に育てちゃったのはね、ばあちゃんだろ?」

「あら、あんたはね、勝手に山で育っちゃったのよ?だから私の責任じゃないわね。ねえ、あなた?」

急に話をふられて国村の祖父は、蕎麦猪口で呑んでいた酒に軽く咽た。
すぐに治めて軽く笑うと悪戯っ子な目で彼は笑った。

「うん、そうだな。光一は山っ子だからなあ?わしらの責任ばっかりじゃないね。
ま、そんな山っ子でもさ、警視庁の射撃大会で優勝できるんだからな。山っ子もまあ、大したもんかな。ねえ?」

どことなく国村と似た話し方で笑って、また酒をひとくち飲みこんだ。
この祖父が国村にクマ撃ちを教え込んだと聴いている、きっと山でのこともよく知っているのだろう。
すこし訊いてみたいな?英二は口を開いた。

「山っ子、おじいさんもそう思われるんですか?」
「うん、思うとも。宮田くんも思うだろ?」

英二の質問に愉快気に頷いて彼はまた酒を呑んだ。
そして機嫌よく笑うと「山っ子」の話をしてくれた。

「光一はね、山と畑が育てたようなもんだよ。まだ3歳くらいからか、ウチの山の畑をよく手伝ってね。
で、手伝いが終わるとな、ふいっと居なくなるんだよ。そんなときは光一、たいてい山で遊んでいるんだ。
けれどこいつはね、絶対にどの山で遊んだとか言わない。そんな調子で朝まで帰らないで、ずっと山にいたこともあるよ」

「朝まで、」

思わず訊きかえした英二に、国村の祖父は愉快そうに頷いてくれる。
愉しげな目を英二の隣で飄々と食事している孫へ向けて、教えてくれた。

「そ、朝までだよ。最初は9歳の時だったかな?
晩飯になっても帰ってこない、でもまあ腹が減ったら帰るだろうって、わしらは思ったね。
ところがちっとも帰らないでな?どうしたもんかと思ったんだよ。で、朝になったらね『朝飯は?』って帰って来たよ」

最初の朝帰りが9歳、しかも祖父母は大して動じないで待っていた雰囲気でいる。
なんだか大らかな家なんだな?そんな感想も国村らしくて英二は笑った。
そんな英二を見て国村の祖父母は嬉しそうに笑って、また話してくれた。

「光一はね、山に行ったら満足するまでは、絶対に帰らない子だったのよ。
だからね?最初の朝帰りの時も、きっとまだ山にいたいのだろうって、私たちは思ったの。
それで朝になって帰ってきたからね、朝ごはん食べさせながら、夜はどうしていたのか訊いてみたらね?
光一は『木と話していたよ』って笑って言うのよ。あとは何にも言わないで、笑っているだけ。ね、光一?覚えてるでしょ、」

「うん?まあね、」

からりと笑って応えると、国村はまた食卓のものに箸つけて満足げに口を動かした。
朝まで山にいて夜はどうしていたのか?たぶん国村が前にも言っていた「山の秘密」の領域だから言わないのだろう。
きっと大切な「秘密」なのだろう、なら静かにそのままで大切にさせてやりたい。
こういう「秘密」なら自分は好きだ、祖父母が話してくれる友人のエピソードを楽しく聴きながら英二は優しい想いに微笑んでいた。

そんなふうに温かい食事を終えて風呂を借りると、酒と蕎麦猪口2つを持って国村の部屋へとあがった。
豪農らしい黒栗の梁や床が美しい白と焦茶の空間は清々しい、清澄で古材の温かみある雰囲気は国村らしくて英二は微笑んだ。
きちんと片付いた簡素な部屋には、雪山の写真が窓のように額縁に収められ白銀と青空を魅せている。
田中や国村の父、そして国村自身が撮影したという写真たちは、まばゆい雪山の荘厳な空気が美しい。
きれいだなと眺めながら床に片胡坐で座って、差向かいに酒を呑み始めると英二は訊いてみた。

「表彰式の時、どうやって壇上でさ、あんなに何人も転ばせたんだ?」
「うん?ああ、冬山と同じ理屈だけど?」

からり笑って国村は酒を満たした蕎麦猪口を片手にご機嫌でいる。
もうすこし詳しい説明がほしいな?そう目で訊くと可笑しそうに国村が教えてくれた。

「冷媒ガスと水、それだけだよ。で、壇の床をさ、人工的に凍らせてやったんだよ、うすーい氷を張ってね」
「それってさ、おしぼりとかの瞬間冷凍するスプレーと同じ原理?」

前にWEBで見た冷媒ガスの製品を英二は思い出した。
でもどんな仕組みだろう?思っている先で国村は謎解きを始めてくれた。

「そ、あれよりね、ちょっと強力なやつが出来るんだよね。
で、靴底にさ、ちょっと仕掛けしといたんだ。前に言っただろ?俺の歩いた跡はさ、ちょっと滑落事故が増えるかなって」
「へえ、おまえ、ほんとに色々と器用だな。賞状をあの位置に飛ばしたのも、おまえだろ?」
「ま、ね。俺はね、悪戯も全力だよ?知ってるだろ、宮田だったらさ」

ある意味で思った通りの回答が楽しげに寄せられる。
今日の国村は本気で怒っていたことを考えると、これ位で済んだのは幸運かもしれない。
感心と可笑しさに笑いながら、英二は訊きたかったことを口にした。

「うん、そうだな。でさ、優勝を決めた最後の弾丸。あれはわざと『あの扉』を撃ったんだろ?」
「当然だね、」

さらっと答えて国村は酒を啜りこんだ。
底抜けに明るい目を酒に笑ませながら、こんどはテノールの声が訊いてきた。

「言っただろ?プライドを粉々に砕いてやるってさ。でも俺の真意はそれだけじゃないね、おまえには解っているんだろ?」

やっぱり『あの扉』に弾丸を埋め込んだ理由は2つある。
きっと自分と同じ考えで、このアンザイレンパートナーは狙撃したのだろうな?思ったままを英二は言った。

「あの場所を通るとき、あの弾丸を必ず見ることになる。ひとつには『あの扉』に対する侮辱として。
そして、あの弾丸を見ることで周太が心の支えに出来るように、おまえと俺の存在を周太に想い出させること。じゃないかな?」

静かに微笑んで訊いた英二に細い目が満足げに笑いかける。
満足げに笑いながらテノールが楽しげに透った。

「正解、」

そのとおりだと同意を表明する笑みを英二に投げて国村は酒を呑んだ。
ふっと香る吐息をついた口が愉快そうに笑った。

「やっぱり解るんだね、おまえはさ?俺たち、体格バランスだけじゃなくて、ほんと考え方の相性もイイな。
やっぱり宮田が、俺の唯ひとりのアンザイレンパートナーだ。あんな場所に立っても意思の疎通が出来ている、文句なしだね」

底抜けに明るい目が温かに笑って英二を見つめてくれる。
まだ出逢って5ヶ月足らず、けれど国村と英二は一緒に山岳救助の現場と山に立ち命綱を共にしてきた。
その度ごとに「確信」が深まっていることを国村は率直に今日も告げてくれる。
これは自分も同じ想いだろう、きれいに笑って英二は頷いた。

「ありがとな、俺もそう想うよ。でも俺はね?
まだ国村の技術にも経験にも遠く及ばない、並ぶなんておこがましいよ。
でも必ず俺は、おまえの専属レスキューに相応しい力をつける。そして誰もが納得するようなアンザイレンパートナーになるよ」

素直に笑って英二は頷きながら今日はじめて会った蒔田を思った。
この警視庁で幹部になった今も、謙虚なまま「山ヤの警察官」に誇りを持っていた姿は自分もこうありたいと思える。
自分も今日のこの謙虚な想いを忘れずに山ヤの誇りに立ち続けていたい、想いに微笑んだ英二に国村が愉しげに笑いかけた。

「おう、信じてるよ?ま、もう今日さ、ほぼ公式に俺のパートナーに決まっちゃったけどね。
たぶん北岳の前には書類が来るよ。で、クライマー任官の同意書とか山岳会登録してさ、決まりだね。生涯かけて山ヤの警察官だ」

「うん、生涯ずっと俺は、山ヤの警察官でいたいよ。そして国村のアンザイレンパートナーをずっとやる。約束だ、」

まだ卒配期間5か月目、警察学校入校から1年経っていない。
それでも自分はこの進路に駆けて誇りを懸けることを決められる、もうその確信は据わっている。
この道に立つことが周太を援けられる道となる、そして自分はこのパートナーが大切だ、だから命も生涯も懸けられる。
きっと約束だよ?そう微笑んだ英二の笑顔に、底抜けに明るい目が愉しげに笑いかけた。

「俺たちの約束だね、しかも公式文書で俺たちは公認パートナーになる。
そしたらさ、み・や・た?俺たち、もうプライベートでも仕事でもさ、一生ずっと離れられない仲になっちゃうね?」

「そうだな?でもさ、なんかその言い回し、ちょっと嫌だな」

ずっと一緒なら自分は出来れば周太がいいな?そんな率直な自分の感想に英二は微笑んだ。
過ちを犯した自分は償いのためにも今は、周太と恋人として接することはしない。
償いと、そして周太の父の遺志を探すために、自分は今は周太の「父」の立場で見つめることを決めている。
この立場がいつ終わるのか、その先がどうなるのか。まだ解らない、けれど周太が望むなら一生ずっと傍にいて離れたくない。
それが一生ずっと恋人や伴侶ではなく「父」や保護者の立場であっても構わない、ただ傍にいて支え守ってやりたい。

たとえどうあろうとも、愛してる想いに嘘はつけない。
ただ尽くし支えて、幸せな笑顔が見られたらそれで良い。
そんな穏やかな想いに微笑んだ英二を見て、底抜けに明るい目がすこし深くなった。
深い目がすぐ悪戯に閃いて国村は、蕎麦猪口を盆に置くと長い腕を伸ばし、背後から英二の体を固めて笑った。

「まったくさ、きれいな笑顔だね、宮田。
最高の別嬪でエロいおまえがさ、公私とも俺の専属パートナーなんてホント嬉しいよ。一生可愛がってあげるからね、み・や・た」

可笑しそうに笑いながらテノールの声が囁きに媚びふくませた。
こんなふうに国村は、お得意のエロトークで英二のかすかな寂しさを一緒に笑い飛ばそうとしている。
国村は英二の周太に対する大らかな想いと寂しい想いをよく解ってくれている、そのために国村は数日前に御岳の河原で泣いた。
そんな国村の気持ちが自分にはよく解る、きれいに微笑んで英二は肩越しにふり向いた。

「褒めて可愛がってくれるのはさ、うれしいんだけど。でもさ、なに抱きついてんだよ?」
「うん?このほうがさ、温いだろ?ちょっと寒いなあって思ってさ、」
「うそつけ、寒くないよ、ストーブついてるだろ?なんの悪戯企んでるんだよ、」

この男の悪戯ならきっと愉しいだろうな?
可笑しくて肩越しに笑いかけると底抜けに明るいは真直ぐ英二を見つめてくれる。
その眼差しが真剣で、どこかもどかしげに感じられた。英二はふっと訊いた。

「どうした、国村?言いたいことあったらさ、言えよ?」

訊きながら英二は長い腕を伸ばすと酒を満たした蕎麦猪口を床の盆に置いた。


(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第35話 予警act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-02-25 23:43:41 | 陽はまた昇るside story
生、死 ひとつの弾丸と鍵  



第35話 予警act.4―side story「陽はまた昇る」

優勝候補筆頭の周太に国村は並んだ。
同じ満点での同点1位で予選通過、会場中が意外な予選結果への驚きと勝利の行方に沸いている。
11月の全国大会で満点優勝した周太のスコアは誰もが予想していただろう、けれど国村は初出場でノーマークだった。
しかも国村の射撃法は、標的確認から狙撃までのスピードがずば抜けて速い。その速射と精密能力は群を抜いている。
文字通りダークホースとして現れた国村への注目は射撃能力に於いても今大会随一になった。
そうして開会式で視線を統べた「度胸」に「能力」を加えて国村は、この警視庁術科大会で「視線」の支配権を掴んだ。

このスコアと国村が作り出す状況は、聡明な周太なら当然予想していただろう。
第4方面のブースを見ると周太は微笑んでいた。
緊張や肩肘の気配もない様子で、やわらかな空気は素直な賞賛と憧憬があかるい。
ライバルと想いの相手、対照的なふたつの対象であっても自然と国村を受け入れられたのだろう。
良かったな、ほっと心に安堵の吐息をついて微笑んだ英二の、こめかみを横から白い指が小突いた。

「こら、またかよ?ま、可愛いのは見たいからさ、気持ち解るけどね」
「また、だよ?国村だって見ているから、俺の視線に気がつくんだろ」

突いてくる指の主に英二は笑いかけた。
そんな英二に底抜けに明るい目が愉しげに笑んだ。

「射撃のときはやっぱイイよな、可愛い子がストイックなのはさ、色っぽいよね。それよりさ?」

唇の端がすうっとあげられる。
かすかに細い目の底へ冷ややかな気配を見せながら愉快気に国村は英二に訊いた。

「あいつ、がっかり?」

この「あいつ」は闘志型体型の男のことだろう。
きっと彼はこの警察組織では重要なポジションにいる、けれどその「立場」こそが国村も英二も気に入らない。
それでも「あいつ」呼ばわりされている男にすこし同情しながら英二は正直に答えた。

「複雑な顔だったよ。嬉しいとのハーフ&ハーフってとこだったかな?やっぱり良い射撃を見れば嬉しいみたいだよ、」
「ふうん、じゃあアレだ?嬉しい分だけ悔しい、そういう感じ?」

見つけた魚の大きさに喜んで釣り逃せばショックは大きい。
まさにそう言う感じだったな?英二は微笑んだ。

「うん、当たり」

聴いて秀麗な口元がすうっと上がっていく。
純粋無垢なままの酷薄さを滲ませた悪戯な目で、うれしげに国村は笑った。

「ざまあみろ、」

ただ一言だけれど、あんまり的確に想いを表現されて英二は笑ってしまった。
けれど笑った視線の先に映りこんだ姿に、心裡での笑いは治まって目はさり気なく記憶を始めた。
その英二の目に気がついて国村がかすかに笑って訊いた。

「ふうん?『あいつ』見に来たんだ?」
「いま第10方面の辺りにいる。気になって仕方ないって顔かな」

英二と国村がいる第9方面の観覧場所から隣になる第10方面、そこの射撃指導員と話しながら闘志型体型の男が見てくる。
さっきも国村の背中を見ていた物欲しげな視線が、ひそやかに投げかけられ煩い。
どこか貪欲で押しつけがましい視線は好きになれそうにない、そんな感想に英二はついため息がこぼれた。
そんな英二の目を覗きこんで底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「おまえさ?『あいつ嫌い』って想ってるだろ、」
「うん、おまえには解っちゃうよな。そうだよ、苦手だな。値踏みする視線が傲慢だ」

穏やかに微笑みながら英二はキツい言葉を口にした。
どんなに男が求めようとも国村は、大きな体格とトップクライマーに嘱望される立場が男の手を払いのけていく。
けれど周太は違う。そんな実感が今この場に立ち迫って重たく哀しい、その哀しみがついキツイ言葉になって顕れてしまう。
自分もまだ未熟だな?ちいさな反省と哀切を治めて微笑んだ英二に国村が言ってくれた。

「俺のアンザイレンパートナーからも嫌われたんだね、あいつはさ?
よし、これで俺は遠慮なくやらせてもらえるね。せめて今日この場だけでもさ、プライドごと粉々にしてやる」

からり底抜けに明るい目が誇らかな自由に笑った。
その顔に遭難救助現場での「国村の一言」を思い出して、すこし英二は心配になった。

「ありがとう、気持ちは嬉しいよ?でもさ、『一言』言うにしても気をつけろよ。
今日の青梅署の責任者は後藤副隊長だ、何かあると迷惑と責任が掛ってしまうだろ?それはちょっと申し訳ないよ」

「うん?なに言ってんのさ、宮田」

英二の言葉に国村は目を細めてみせた。
そして唇の端をあげると細めた目に悪戯を笑みながら、低くテノールの声が宣言した。

「こういう俺だって、後藤副隊長は解っていて出場させたんだ。
俺が何やっちゃうかなんてね、当たり前に解って覚悟しているに決まってるね。だからさ、宮田?
パートナーのおまえさえ構わないなら俺はね、この大会を好き放題に愉しませてもらうよ。ほら、早く俺に許可をよこしな?」

悪戯な細い目が「いまも一緒に愉しもう?」と半ば強引に誘ってくれる。
この誘いに乗ったらきっと楽しいだろう、けれど大会運営の心配を真面目な英二はついしてしまう。
どうしようかな?そう考え込みかけたとき、闘志型体型の男が視界に映りこんで急激に英二の心が決った。

「国村、存分にやってこい。俺も愉しませてもらうよ?」

言って英二は自分で驚いた。なんだか大胆な言葉が飛び出したな?言ってから首傾げつつ、けれど愉しくて微笑んだ。
あの男が周太を見ている視線、あの無遠慮に狙い定めるような目が穏やかな英二の神経を苛立たせた。
苛立った神経のまま大胆な言葉も出る、いつも鎮まっているだけに目覚めてしまえば怒りは急に起き上がっていく。
ちいさく嗤って英二はきれいな低い声のまま国村に言った。

「俺もね、たまには好き放題ってヤツをしてみたくなるな?
まあ、俺の性分だとさ。副隊長にも誰にも、バレないように迷惑かけない様に、って方法になるけどね」

きっと今の自分は冷酷な目になっているだろう。
こういう気持ちになるのは13年前の殉職事件の真相を問質しに安本を訪れた、あのときが初めだろう。
あのときは安本の無神経な善意に怒りが起きた、今は周太を利用しようとする無機質な欲望に明快な憎悪がある。
きっと3カ月前の時よりもっと冷たい仮面の顔になってしまっている、そんな自嘲をしながら英二は微笑んだ。
そんな英二の様子に国村も視界の端で第4方面観覧場と「あいつ」を捉えながら軽く頷いて唇の端をあげた。

「ふうん?真面目宮田を怒らせたね、あいつ。
ほんとにさ、バカな男だね?真面目人間こそ怒らせたら怖いのにさ。
で、もちろん俺はね、とっくに怒りっぱなしだよ?もちろん宮田はさ、ずっと俺が怒ってるって解ってるんだろ?」

愉しげで悪戯に充ちた細い目が、底抜けに明るく大らかな怒りを表明してみせる。
もう自分も止める気にはなれないな?英二は微笑んで頷いた。

「周太のお父さんのこと、周太のこと。そして『山』の掟に背いた『人間の尊厳』への冒涜。これで合ってるかな?」

「そ、全問正解。俺はね、ちょっと本気で怒ってるんだよ?きっと宮田は解ってるだろうけどね。
さあ、これからが見モノだ。なにか気がついたらフォローよろしくな、これからちょっと『ライバル』やってくるからさ」

これからセンター・ファイア・ピストル第2回戦が始まる。
第1回戦の予選グループリーグ上位者が出場して得点を競い、それで個人優勝者が決定される。
この2回戦に出場した場合、1回戦と比較して高得点の方が団体戦の加点に採用されて団体優勝もそれで決められる。
特に高い技術を要求されるセンター・ファイア・ピストルは射撃競技でも花形で、この優勝者は射撃で頂点に立つこととなる。
その頂点を国村は周太とこれから競いに行く。この運命的な場に英二はきれいに微笑んだ。

「想い合って、ライバルで。おまえにとっても『Femme fatal』だな?」

冬富士の夜に国村が言ってくれた「Femme fatal」フランスの言葉で「運命のひと」
こんなふうに英二にとっての周太を表現して国村は、幸せを心から喜んで一緒に笑ってくれた。
さっきも、さらりと言って英二の周太への想いを認めて肯定をしてくれている、こんなふうに国村は恋愛も大らかだった。
いま国村にこそ周太は「運命のひと」だろう、素直な祝福に微笑んだ英二に国村はすこし照れた眼差しでからり笑った。

「お、宮田もフランス語を使い始めちゃったね?
こんな最高の別嬪に、フランス語のロマンが加わっちゃったらね。ちょっとモテ過ぎてヤバいんじゃないの?青梅署に苦情来るよ」

これから唯ひとり愛する相手と頂点を競い、誇りを懸けて「この場」の支配を掴みに行く。
そんな勝負へ向かう今も国村は軽やかに笑っている。
こういう身軽さと大らかさが、実直すぎる英二にとって呼吸を思い出させて楽にしてくれる。
ふたりの大切な存在、国村と周太。どちらも自分の目的を見つめて戦ってほしいな?そんな想いに英二は微笑んだ。

「苦情が来たらさ、国村にフォローお願いしよっかな?」
「うん?いいけどさ、おまえが困るくらいモテさせて楽しませて貰うけど?」

からりと「楽しみだねえ」と笑って国村は集合場所へと歩いて行った。
あざやかなオレンジとカーキの背中は普段通りに端正で、すっきりと頼もしい。
きっと国村は頂点を掴むだろう、そして並ぶように周太もそこへ立つことになる。
愉しみな結果と、危険なメビウスリンクへの哀切に英二はただ微笑んだ。

周太の父はここで頂点に立ちオリンピック選手にも選ばれた。
けれどこの晴れがましい面の裏には「秘密」のメビウスリンクが冷たく棲んでいる。
この重たい哀しみと「秘密」の前にはきっと何の栄誉も無意味だったろう、あの紺青色の日記帳の主にとっては。
今朝も読んだばかりの輝かしい彼の学生時代と終結した哀しい結末、この落差の哀切を抱いて英二はシャツ越しの合鍵にふれた。

いま、ご覧になっていますか?
どうか俺で良かったら、この俺の目を通して「今」を見守ってください。

穏やかな覚悟と強い意志に微笑んで英二は射場を見た。
濃紺の制服や活動服に白いゼッケンをまとった背中が射場へと一斉に入って行く。
そのなかに姿勢よく進んでいく小柄な活動服の背中を見つめて英二は微笑んだ。
きっと周太の父もいま一緒に見ている、ワイシャツの下で温まる合鍵の想いを受けとめ英二は見ていた。
そしてオレンジとカーキのあざやかな背中にも英二は笑った。
いまあの背中の主は大らかな怒りのために立って、きっと底抜けに明るい目は誇らかに笑っている。

国村は警察組織に怒りを抱いている。
周太の父は「あいつ」が所属する場所へ惹きこまれ、その涯に殉職に追い込まれた。
この「殉職」で周太と国村は引き離された、そして周太は13年間の孤独に生きて危険な道に立ってしまった。
この親子に見た人間の尊厳を踏みつける組織的傲慢、それは山岳警察への侮辱にも現れた。

自分が何より大切にする「山」への侮辱は許さない。
山で人間の尊厳を守ることに誇りを懸ける男たちへの侮辱を許さない。
山で結ばれた唯ひとつの想い、唯ひとり大切な存在を、組織の都合で苦しませる傲慢と横暴は許せない。
その許せないまま宣言通りに国村は「あの扉」も闘志型体型の男もプライドを粉々に打ち砕くだろう。

真直ぐな「許せない」を抱いた国村は、明るく誇らかに笑って与えられたブースに入った。
その2つ挟んだ隣のブースに周太が入っていく。
区切られたブースに入ってしまえば表情は見えない。
けれど周太は微笑んでいる、それが小柄な活動服の背中から英二には解る。
いま周太はきっと父の姿を見つめているだろう、この場に立っていた父の想いを真直ぐ見つめて微笑んでいる。

誇りを守るために警視庁へ戦いを挑む国村の背中。
父の想いを抱きとめるために佇む周太の背中。
あざやかな山岳救助隊服をまとう長身で広やかな後姿と、濃紺の活動服に真直ぐ立つ小柄な後姿。
ふたりの大切な存在が見せる対照的な後姿、このどちらも本当に自分にとっては大切で守りたい。
やさしい祈りを想う美しい微笑の奥底、冷たく冴える脳裏の片隅で「あいつ」を標的に捉えながら英二は射場を見守っていた。

ふたりの後姿がホルスターから拳銃を抜いた。
リボルバー式拳銃のシリンダーをそっと開き、装弾の傷などチェックして閉じる。
居並ぶ選手たちのシリンダーチェックが終わると規定の試射が始まった。

周太は教本のような美しい姿勢で片手撃ちノンサイト射撃に構える。
国村はすこし頭を傾けて片手撃ちノンサイト射撃に構える。
ふたり真直ぐな瞳に的を捕らえ、視線の直線上に拳銃のサイトを突き出し構えた。
視線25m先に標的が向かい合い、ふたりの視線は引き絞られていく。
そうして向き合わされる盤上へコンピュータ制御の標的が明示され、引き金は絞られる。

試射の標的が点灯した、瞬時、国村の的は的確に撃ち抜かれていた。
すこし遅れて周太の的が的確に撃ち抜かれる。
国村の標的反応スピードに会場がざわめき、他の選手にかすかな焦りの空気が生まれていく。
けれど唯ひとり小柄な背中だけは静謐に佇んで、与えられた標的に真直ぐ向き合っていた。

クマ撃ちの家系に生まれ幼少から跡取りとして特殊な射撃法を身に備えた国村。
そんな国村にとり射撃は「緊急措置」動物と命懸けた生存の手段であり、競技射撃は「お遊び」で冒涜とすら考えている。
それに対して周太は父を拳銃の為に失った。
大切な父を殺した拳銃と射撃は、周太自身の哀しみと苦しみの原因であり「死」の手段でしかない。
けれど父の想いを辿るため周太は、恐怖も悲哀も生来の聡明さで抑え込み、父と同じ「射撃の名手の警察官」に立った。

生存の手段として備えた射撃と、死を見つめ受けとめる為の射撃。
この対照的な「射撃」に国村と周太は立っている。

ふたりは14年前に出逢いながら一発の銃弾で引き裂かれ、14年後に一発の威嚇発砲で再び想いを通わせた。
そして今この警視庁射撃競技大会で、警視庁随一の射撃名手として頂点をめぐり並び立っている。
国村と周太、「銃と射撃」を廻るふたりの不思議な運命を真直ぐに英二は見つめ佇んだ。

もし周太の父が銃に命を奪われなければ。
きっと国村と周太は幼い想いを通わせながら「山」で時おり逢い、幸せに一緒に大人になったろう。
そうして穏やかな日々に育ったなら周太が警察官の道に立つことは無かった。
そして英二と周太が出逢うことも無かった。
もし英二と周太が出逢えなければ、英二は山ヤの警察官とならず国村とも出会えなかった。
そして国村はアンザイレンパートナーと出会わずに単独行のクライマーになっただろう。

いまふれるシャツの布を透かした周太の父の合鍵。
この鍵の持ち主が一発の銃弾に斃れ命を奪われた、その瞬間が国村と周太と英二の「はじまり」になった。
ただ一発の銃弾だった、けれどその弾丸がもたらした波紋に運命と人生の数々が洗われ浸されていく。

― おまえは俺の大切な時を動かす『鍵』になっている。だから宮田、おまえの居場所はここだ

数日前の早暁いつものように新雪の山に登ったとき、国村に告げられた想い。
英二が周太に廻り逢ったことが、国村と周太の時が甦るための道筋となった、国村の最高峰への夢を動かした。
そして国村の「予告」通りなら、今日このあと英二自身が「最高峰踏破の夢」を正式に警視庁と警視庁山岳会から認められる。
いま周太の進路が定まる場で英二自身の運命まで動いていく。そして自分の運命の変化がまた国村と周太の運命も動かす。

「…鍵、」

こぼれた一言の単語に英二は静かに微笑んだ。
自分達の運命を動かした銃に斃れた男「周太の父」の合鍵を持つ自分、国村の「鍵」である自分。
鍵と銃を廻る自分たちの運命の不思議、こうした自分たちの出逢いの意味はなんだろう?
この運命を真直ぐ見つめる英二の先で、センター・ファイア・ピストル2回戦が開始された。

精密射撃の標的が的に現れる、その瞬間に国村は間髪入れず狙撃した。
第1回戦より速い反応速度と「10点」的中、スピードと精密度に呑まれた他の選手たちに動揺が広がり狙撃がずれる。
精密射撃「遅撃ち」は1発につき15秒の時間がある、けれど国村は標的出現の瞬間に狙撃し腕を下げていく。
さっきのように「ほら、さっさと撃てよ?」と挑発に嗤いあげる狙撃に、他選手は揺すられて精度を欠き始めた。

けれど落ち着いて「10点」的中していく的がひとつだけある。
国村のような速射ではない、けれど的確で姿勢を崩さない狙撃に的中が淡々と積まれていく。
嵐のように国村の狙撃が場を占拠していく渦のなか、周太だけが真直ぐ立って端正な射撃を守りぬいている。

会場中に向けて嗤う山岳救助隊服の背中。
ただ父の姿を見つめて静謐のなか佇む活動服の小柄な背中。

ふたりの対照的な狙撃の姿勢を英二は真直ぐ見つめていた。
いまふたりの想いは、それぞれの目的を見つめて佇んでいる。その目的も想いも自分が守ってやりたい。
射場を見る切長い目の端で英二は「監視」も同時に行いながら静かに微笑んでいた。
予想の通り「あいつ」は周太と国村の背中を見つめている、英二を苛立たせる視線のままで。

どこか物欲しげで値踏みする視線が不躾だった。
ひろやかな長身の背中へ向ける賞賛と嫉妬と歯噛みするようなもどかしさ。
そして小柄な背中へ向ける満足げな、標的圏内へ獲物を収めたような傲慢な目つき。
まるで組織の囚人のような価値観が透ける姿は、どこか滑稽で、そして漂う憔悴の空気が哀れに思えてしまう。
たしかに憔悴するほど任務に懸けている姿勢は認めるべきだ、けれど自分の大切な存在へ向けてくる視線は許さない。
切長い目の端に自分の標的を捉えながら、射撃の発砲音が響きあう会場で英二はかすかに嘲笑った。

「…調子づくんじゃないよ、」

発砲音に融けこむ呟きは横にいる後藤副隊長にも聞こえない。
きれいに微笑みながら英二は射場を見つめていた。

精密射撃が終了して後半の速射が始まる。
ここまでのスコアは周太と国村の2人だけが200点満点で同点1位。
この後半戦で優勝者が決る、そんな緊張感と注目が会場を占拠していた。

グリップの握り方と構えを速射用に選手達が変えるなか、国村だけは相変わらず心もち首傾げた姿勢で立っている。
そんな国村の背中を「あいつ」は尚更に物惜しげに見つめているのが滑稽で英二は内心苦笑いした。
どうせまた「背が15cm低ければ」など考えているのだろうね?声無き声に呆れながら英二は大切なふたりの背中に微笑んだ。

後半の速射が始まった。
すべての選手に向き合う的へ標的が現れ、標的出現の瞬間すぐ国村は狙撃した。
国村の的は的中し、すこし遅れて周太の的が「10点」的中をする。

速射「速撃ち」は7秒ごとに標的は3秒間だけ現われる、この3秒間に標的を撃ち抜かなくてはならない。
7秒に3秒間現われる標的を1発ずつ5回、これを4回行うから140秒、2分20秒が競技時間となる。
片手で1.4kgの拳銃を構え続け姿勢を保ち、発射の衝撃に片手で2分20秒間を耐え続ける必要がある。

けれど国村は標的点灯の瞬間に狙撃しては次の標的出現まで6秒を残し、首を傾げたまま4秒間を腕を下げて佇む。
残り2秒間になると腕をあげて構え、瞬時、標的捕捉し狙撃しては「的中」を外さない。
クマ撃ちの出猟時に重量4kgからある大口径狩猟ライフルを担いで山野を走り、時には片手撃ちする国村。
そんな国村にとって1.4kgの拳銃を3分ほど保持するのは簡単で、わざわざ腕を下げる必要はない。
けれど第1回戦と同じように国村は、腕を下げることで時間の余裕を表明しては他選手と会場を挑発し嗤っている。

余裕を見せつけ「速射にしては随分と遅いよね?」と嗤って国村は術科センターを睥睨していた。
自分の標的捕捉スピードと的中精度の高さには、警視庁の他選手誰にも追随できないことを誇らかに見せつけ嗤っている。
こうして国村は山岳で育ち培った「山」射撃が、設備が整う競技場で鍛えた警察組織の射撃に勝ることを誇示してみせた。

選手の間はブースで区切られて互いの様子は見えない。
それでも国村の的が標的出現の瞬間に狙撃され「10点」的中することは見えてしまう。
誰より速く響かせる発砲音と空気の振動、的中の表示に選手間の空気がどこか浮ついていた。
きっと今日の出場選手には、警察学校入校すぐ国村が遭遇した本部特練の不用意な発言者もいるだろう。
該当者は開会式から揺すられただろう、そして始まった競技では本部特練で国村が「腹いせ」に行った狙撃の記憶も蘇る。

どこか揺れていく競技の空気のなかで、唯ひとり周太だけが平静に狙撃を進めていた。
この自分が揺さぶる空気を愉しみ嗤っている国村と、淡々と真直ぐ標的を見つめる周太。
ふたりの的だけが「10点」を刻み続ける。
優勝はどちらだろうか?新宿署所属の実力ある新人巡査と青梅署所属のダークホースの勝負に視線が集まっていく。
そして最後の1弾を残したとき、ふっと国村の構えが微妙に変化したのを英二は見た。

最後の標的が出現する。
即時に国村は狙撃し「10点」的中した、けれど的中を撃ったあと弾丸が跳ねた。
跳ね返った弾丸は的からの反動に弾道を変化させ、真直ぐ斜めに空気を切って術科センター奥へ飛ぶ。

その軌跡の涯、国村の弾丸は「あの扉」を撃った。

固い装甲と弾丸の衝突音が術科センターに反響し谺する。
鋭利な空気振動は発砲音達を制圧して響き裂いて視線が集まった、その統べられた視線の先で扉には1弾が喰い込んでいた。
術科センター奥「あの扉」は国村により狙撃の傷が刻まれた。

そして「あの扉」が被弾した瞬間その同時に、周太の的も「10点」的中していた。

会場を喧騒がゆらいでいく。
周太と国村の満点での同点首位、そして「奥の扉」を弾丸が撃ったこと。
この2つの異例な事態にどこか慌ただしい空気が術科センターを覆っていく。
ゆれうごく空気に佇んで英二は、さっき国村が言っていた言葉に微笑んだ。

― 俺はね、あの扉を嗤ってさ、粉々にしてやりたいんだ

術科センター奥にある「あの扉」はSAT訓練場への扉。
冷たく重たい「秘密」を孤独と共に背負わされる警察組織の暗部への扉。
そんなの大嫌いだと宣言した国村は「あの扉」を満点勝利を決めた最後の弾丸で狙撃した。

歴然たる高身長、トップクライマーを嘱望される立場と能力。
そんな国村は狙撃手の潜在能力が高くてもSAT任官には条件外すぎて「あいつ」は国村を惹きこめない。
彼が欲しがる警視庁随一の射撃能力を見せつけながら「俺には無関係の世界だね?」と国村は嗤って虚仮にする。
その嗤いで警視庁射撃で頂点に立った弾丸を「あの扉」に喰い込ませ「狙撃」の傷を刻みつけたのは痛烈な皮肉だろう。
そんなふうに国村は、この競技会で「あの扉」へ惹きこむ人間を探す眼前で「あの扉」に傷つけてプライドを傷つけた。

宣言どおりに嗤って粉々にしたんだな。
愉しく可笑しい想いを心に収めて微笑んだ英二に、横で観覧していた後藤副隊長がふり向いた。

「なあ、宮田?国村の最後の1弾、すごい跳ね返り方だったなあ?」
「はい、ちゃんと標的は撃ち抜きましたけどね」
「うん、ほんとになあ…あいつ、満点優勝しちゃったなあ?」

驚きながらも誇らしげに後藤が笑っている。
きっとこの結果は後藤にも解っていたことだろうな?微笑んで頷くと英二は訊いてみた。

「副隊長、閉会式まで少し間がありますよね?ちょっとコーヒーでも飲んできていいですか、喉が渇いてしまって」
「お、そりゃ行って来い。のどを乾燥させてな、おまえさんが風邪でも引いたら困るよ。もう北岳もすぐなのに」

快く後藤は頷いてくれて、ありがたく英二は自販機コーナーへと向かった。
並ぶ商品を見ていくと、焦茶色の缶が目に映って思わず英二は微笑んだ。
そして長い指でそのボタンを押すと、温かいココアの缶を受取口から取り出した。
熱い缶を長い指に下げて、すこし外へ出ようと歩きかけた視界に「あの扉」が映りこんだ。

きっと周太の父が日々ずっと危険に身を晒していた場所。
その場所を見つめる想いに自然と足が扉へと向けられて、英二は歩きだした。
閉会式前の喧騒が行き交うフロアーを、ゆるく躱すように長身をさばいて歩いていく。
そして見つめる先の「あの扉」の前に英二は立った。

いつも管理者が監視するこの場所にいまは誰もいない。
いま閉会式の準備など慌ただしい、誰も気付かない静謐に英二は扉の1か所を見つめた。
国村が撃った弾痕はあざやかに弾丸を埋め込ませている。これを摘出するのはきっと難しいだろう。
きっとこの弾丸はずっとここにあるだろう、そしてこの扉を通る者は見つめることになる。

この扉に弾丸の痕跡を国村が残した、その理由と意志はおそらく2つの意味がある。
アンザイレンパートナーの意志を想いながら英二は片膝をつき、ココアの缶をそっと扉の前に供えた。
ここを通っていた周太の父の想い、扉に弾丸を撃ち込んだ国村の意志、そして自分の想いと周太の運命。
ココアの缶と1発の弾丸を前に英二はしずかに瞑目し、周太の父へと祈りを捧げた。

どうか自分が正しく、あなたの想いを見つめられますように。
どうか自分は無事に、あなたの息子と大切な相手を守りぬけますように。
そんな2つの優しい祈りをこの扉へと手向けて、ふっと英二は瞳を披いた。

自分の背中を見つめる視線がひとつある。
この視線の持ち主を自分は知っている、それは不愉快な部類に入る視線だった。

クリスマスの朝に新宿署でも似たような視線を向けられた、そしてまた違う人間から同じ視線が向けられる。
周太の父に関わる場所へ佇むとき、こんな視線があることは予想通りとも言えるだろうな?
すこし可笑しくて微笑みながら、長い指の右掌に温かなココアの缶を持つと静かに見つめた。
そんな英二の手元へと向けられた視線にどこか動揺が感じられてくる、英二はかすかに嘲笑った。
きっと話しかけたいと思われているな?端正な口許かすかに笑みを浮かべて英二はゆっくり立ち上がった。

フロアーにおちる自分の長い影にすこし微笑んで踵を返す。
切長い目にかかる長めになった前髪の翳から闘志型体型のシルエットが見える。
いつものように、すこしだけ俯き加減に歩き始めるとシルエットが揺れるように動いた。
頭を動かさず英二は前髪を透かして瞳だけでシルエットの主を見、その顔に微笑んだ。

なぜ、あの場所に、その缶を持って膝まづいていた?

そんな問いかけが憔悴した顔の鋭い目から聞こえてしまう。
けれど自分はいま、閉会式を見たいからこの男に関わっている暇はない。
近づいてくるシルエットの間合いを見つめながら英二はブナの木を想い呼吸を整えた。
東京最高峰の雲取山、その麓に佇むブナの巨樹。あの木の呼吸を想いだし微笑んで英二は自分の気配の変化を見つめた。
そうして自分の気配とブナの呼吸が重なったとき、不意に英二は顔をあげ「あいつ」を真直ぐに見た。

「おつかれさまです、」

さらり綺麗な低い声であいさつして、端正な会釈と憂いの微笑を英二は送った。
前髪透かす向こうでは「あいつ」は機先を英二に制された驚きと、亡霊でも見たような動揺に揺れている。
そして、おだやかな微笑のまま行き過ぎようとする英二を、かすかに慌てた気配の男は呼び止めた。

「待ちなさい、誰の許可であの扉の前にいた?」

上からものを言う独特のトーンが神経を逆撫でる。
それでも英二は振り向かないまま、右掌だけを肩の高さにまで上げてココアの缶を示した。

― これだけで、きっと意味は解りますよね?

彼の「問い」にココアの缶と背中だけで笑いかけ、英二はそのまま術科センターの外へ出た。
戸外の空は青く冬晴れがまぶしい、陽ざしに英二は微笑んだ。

左手のクライマーウォッチを見ると閉会式まで10分程時間がある。
英二は朝にも行った静かな場所で壁に背もたれ、ほっと息を吐いて微笑んだ。
プルリングを引いた音が乾いた空気に軽やかに響いて、あまい香りが冬の空気にとけていく。
おだやかな香に微笑んで英二は缶に唇をつけた、すこしだけ冷めた温かいココアがゆるくのどをおちていく。
やさしい甘さが懐かしい。年明けに川崎の家で飲んだ周太の作ったココアを想いながら、静かに甘い温もりを啜りこんだ。


(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第35話 予警act3―side story「陽はまた昇る」

2012-02-24 23:15:58 | 陽はまた昇るside story
光、視線、支配 もうひとつの意味




第35話 予警act3―side story「陽はまた昇る」

濃紺の制服とダークスーツの群集に一点の温かい光彩。
暗色の群れの中で一か所だけ、あざやかに明るい色彩が誇らかな微笑みで佇んでいる。
警視庁術科センターを埋める昏い群衆のなか、オレンジとカーキの山岳救助隊服姿の国村だけが光彩を帯びていた。
まわりの選手たちが呆気にとられて国村を見つめている、その気配はじわりと会場を浸していく。
そして英二の隣で後藤副隊長がその異様な空気に気がついた。

「おい、宮田?あいつ、なんで隊服で選手の列に立っているんだい?」

いつにない呆気にとられたトーンの声に英二は笑いを飲みこんだ。
横を見るといつも穏やかで大らかな目が「驚いたなあ」と言いながら真直ぐに国村を見つめている。
そんな視線に気がついたのか、濃紺の制服姿の列から山岳救助隊服姿の国村が、片目をつぶってみせた。

「あっ、光一?あいつ、なんか悪戯を企んでいるな?いや、もう悪戯が始まっているんだな?」

やられた、と声に滲ませながらも後藤の目は笑いだしている。
他の青梅署のふたりも驚いて国村を眺めて、すぐ可笑しそうに笑い始めた。

「国村、いつも通りですね。今日はどうするんだろ?」
「ですね?あいつ、いつもこうですよね、」

刑事課の加納と交通課の木村も青梅署独身寮にいるから、国村のことはよく知っている。
警察組織でこんな規定外のことをして「いつも通り」なんて言われるなんて?けれど国村らしくて可笑しい。
どうなるかなと微笑んでいる英二に、後藤副隊長が訊いてきた。

「なあ、宮田?おまえさんなら、あいつの考えが解っているんだろう?なんで光一は、活動服から隊服に着替えたんだ?」

いつも後藤は警察官として公式の場にいるときは上司の立場で「国村」と呼んでいる。
けれど思わず「光一」と呼んでいる後藤は、驚いて素の立場「亡親の友人」に戻ったままでいるのだろう。
こういう後藤の温かで正直なところが英二は好きだ、なんだか色々愉しく想いながら口を開いた。

「副隊長、国村は知っているんです。今回の『青梅署の意地』について、」
「あっ、あいつ知っちゃっていたのか?まあ、でも気づくかな、あいつなら」

仕方ないなあと後藤は苦笑いしている。
でも本当は気づくだろうと後藤も解ってはいただろう、微笑んで頷きながら英二は話した。

「国村、今日は山岳地域の警察官として出場するんです。
山ヤの警察官の誇りと意地を懸けて『警視庁』に勝ちに行っています。
だから山岳救助隊服で出場したんです、これが山ヤの警察官の正式な制服だから一番相応しい格好だろう、って」

こう考えて国村は救助隊服で立っている、それが英二にはよく解る。そして英二が理解していると国村も解っている。
英二の答えに後藤は愉快気に笑った、けれどもう1つ英二に尋ねてくれた。

「そうか、あいつらしいよ、うん。でもな?
あいつ、さっきまで活動服姿で俺たちと居たんだよ。どうして開会式の直前になってから、隊服に着替えたんだ?」

この疑問も当然だろうなと英二は微笑んだ。
いつもの国村の考えなら青梅署から隊服姿で来れば「楽ちんで良いよね、」だろうから。

「それはきっと、青梅署に迷惑をなるべくかけない為だと思います」
「迷惑?どういうわけだい、」

大らかな目が首傾げながら謎解きの続きを促してくれる。
穏やかに笑いながら英二は謎解きをした。

「開会式直前に着替えれば、誰も止めることが出来ないでしょう?
他の誰も、青梅署の人間であっても、国村があの格好で出場すると解らない。
そうやってね、国村は自分の独断でやったことだ、ってしたいんです。そうすれば青梅署にかかる迷惑が少しでも減りますから」

この大会に国村は山ヤの警察官として男として戦いに行っている。
この戦いを国村は誰にも止められたくない、そして独断で行うことで青梅署への迷惑を減らしたい。
そういう怜悧な優しさと男気を国村は豊かに持っている、そんな国村だから同じ男で同じ山ヤの警察官たちに愛されている。
ほっとため息をついた後藤は心から嬉しそうに笑った。

「そうか、光一。俺たち山ヤの警察官の怒りと誇りをな、ひとり背負って勝ちに行ったんだな?
まったく困ったもんだ、敵わんよ。あいつはな、最高の山ヤで男だよ。本当に国村にはあれが正装だよ、なあ?」

ほんとうに国村は最高だ、こういうアンザイレンパートナーが嬉しくて英二も笑った。
加納と木村も愉しそうに笑っている、きっと澤野と山井も笑っているだろう。青梅署の皆が山岳警察の誇りを国村に見つめている。
でも警視庁の人間達は黙って見過ごすことはしないだろうな?思いながら見守る先で幹部達が壇上へと上がり始めた。
それでも会場はまだざわめいている、それを見ながら司会者がマイクの前に立ち、怪訝そうに会場を見渡しながら指示をした。

「静粛に、これから開会式を…っ、?」

司会者の視線が一点に止められ、声が止まった。
その視線を会場中の人間が怪訝そうに追い、そして皆が気がついて息を呑んだ。
ダークカラーの制服とスーツ姿から総べられる視線の真中で、オレンジとカーキの山岳救助隊服姿は端然と佇んでいる。
佇む秀麗な横顔は誇らかで静謐が美しかった、こういう国村の顔を英二は見たことがある。
それは遭難救助の現場の中で、遭難死した遺体を危険地帯から無事に救い出したときの顔だった。

これから国村は警視庁に、警察組織に対して宣戦布告をする。
そしてある意味の「終焉」を叩きつける気でいる、既に始まっている「謹厳な悪戯」で場を支配し目的を遂げようとしている。
そんな今の国村には、この警視庁のざわめきは終焉していく者の声に聞こえるのかもしれない。
これを理解できる人間は今この会場にどれ位いるだろう?
そうした想いに微笑んで見上げる壇上では慌ただしく司会者が実行委員と話している。
短く話し終え、またマイクの前に立つと司会者が呼びかけた。

「開会前に注意があります、制服とスーツ以外の服装での出場は許されません。違う衣服の者、至急着替えて出場しなさい」

呼びかけながら司会者が国村を見た。
その視線を追って会場中が国村を見つめ、しん、と会場中が静まった。
事が起きる前の地雷をふくんだ静謐、それはどこか冬富士の雪崩が起きる一瞬前に全山を覆った静謐と似ていた。
その静謐を、透明なテノールの声が真直ぐに響き渡った。

「発言を失礼いたします、青梅警察署山岳救助隊所属、警部補国村光一が申し上げます」

いつもどおりの底抜けに明るい目で壇上を真直ぐ見、朗々と国村は名乗りを上げた。
見つめられた司会者が怯んだのが見てとれる、きっと国村の瞳の底の怒りが届くのだろう。
それでも落ち着いて明るいテノールの声は、いつものように真直ぐ透って会場を響いた。

「仰るところの『違う衣服の者』がもし私であるというのなら、私は異議を申し上げなくてはいけません。
なぜなら、青梅署山岳救助隊員の私には、この山岳救助隊服こそが正式な制服であるからです。
それを『違う』と仰ることは、警視庁警察官として託された任務への侮辱に繋がります。何卒、ご発言の撤回をお願い致します」

会場中が透明なテノールの声が述べた言葉に呑みこまれた。
呑みこまれた静謐の中から、まず五日市署のメンバーが微笑んで、高尾署の警察官達が笑った。
それから第七機動隊山岳救助レンジャーの隊員達も愉しそうに国村を見た。
そして壇上にいる幹部でも一人の初老の男が小さく頷いて微笑んだ。
そんな空気のなか国村に気を呑まれながらも司会者は指示を出そうとした。

「だが活動服か制服での出場が当然だ、それを君も解っているはずです。即刻着替えなさい、」
「お言葉ですが、着替える必要はありません」

全く動じる気配もなく、透るテノールの声は朗々と発言した。
その声に衆目がまた統べられていく、視線と好奇心の中心で国村は所信を透明な声に乗せた。

「山岳救助隊員にとって隊服こそ制服であり『活動服』だからです。
この隊服は仰るところの『活動のための制服』すなわち『活動服』の規定から外れていません。
そして出場規定には『制服』とあるだけです。この山岳救助隊服での出場は規定に適っています。それとも、」

一瞬だけテノールの声が止まった。
その停止に衆目がオレンジとカーキの山岳救助隊服姿に集まっていく。
警視庁の射撃名手と幹部の視線を統べた頂点で、誇らかな底抜けに明るい目が真直ぐに壇上を見つめた。

「それとも、山岳救助隊服は正式な『制服』として認められないのでしょうか?
それは山岳地域の警察官と山岳警察の任務を、警視庁では『正式』と認めていない。これが本意なのですか?
そうした『非公式』とされる被差別的存在が、私の所属する山岳救助隊であり山岳地域の警察官だ、そういう事ですか?」

静謐のままに会場中の人間が、透明なテノールに呑まれている。
そんな静謐の中で英二は微笑んで、大切なアンザイレンパートナーの山岳救助隊服姿を見ていた。
いま国村の救助隊服姿に込められた意志がもう1つある、きっと国村は周太に一番伝えたいだろう。
たぶんそれも国村は「宣言」するだろうな?そう見つめる横顔が誇らかに言葉を続けた。

「山岳救助隊は山の安全を守っています。そして人命救助と遺体収容が主務となります。
いかなる危険地帯であっても、生命の危機を救い、遺体を捜索して死者への礼を尽くし、人間の尊厳を守る。
これが私の任務です。山と人間の生命と尊厳を守る、そのために自分も命を懸け、毎日任務に就いています。
これは山岳警察に所属する警察官全てが同じです。そして警察官として当然の姿勢です。
人間の尊厳を守るため命を懸け任務に就く、これは全ての警察官に同じ誇りです。その誇りに私も任務に就いています」

透明なテノールの声は「人間の尊厳を守るために自分は山ヤの警察官である」と誇りを謳いあげ意志を宣言した。
この宣言は警察組織への宣戦布告、そして国村が誰より周太に伝えたい誇りと想いの真直ぐな宣言だろう。
この警察組織に周太の父は「人間の尊厳」を踏み躙られた、そして周太の苦しみが始まり今も終わっていない。
国村は峻厳な掟「山」の規範に則り「人間の尊厳」を尊重している、これを遵守出来ない無法な世界として警察組織を見た。
だからこそ国村はこの場で宣言した。
この競技会が射撃の名手を選び周太の父と同じ道に進ませる底意の愚かさを嗤ってみせた。
そうやって警察組織に「人間の尊厳」を警告し、周太に「人間の尊厳も懸けて君を守る」と告白し誇らかな自由に微笑んだ。

国村が謳いあげた「人間の尊厳を守る警察官としての誇り」の宣言に静謐は息を呑んでいる。
きっと同じ警察官なら誰もが想念を惹きとめられてしまう宣言だろう。

人間の尊厳を守る誇り、「山」を守る誇り、そして愛するひとを守る誇り。
警察官として山ヤとして男として、誇らかな自由に立って国村は宣言をし、この場を統べて従え支配した。
こんな自分のパートナーが本当に大好きで誇らしく、大切だ。大切な横顔を見つめて穏やかに英二は微笑んだ。
きっと周太にも国村の想いと意志は届いて、微笑んでいる。

いま会場を支配する静謐の底かすかに、賞賛と微笑が生まれ育っていく。
青梅署はもちろん、五日市署と高尾署、そして第七機動隊へと国村の宣言は飛び火している。
その飛び火と国村を点に「賛同」が山ヤの警察官から一般警察官を浸すのを、ゆるやかな風紋のようだと英二は見つめていた。
いま場を支配する雪山にも似た静謐のなか、真直ぐに国村は透明な声を響かせ「問い」をこの場の全てへ投げかけた。

「司会者の方を始め、ご列席の皆さまにお伺いします。
人間の尊厳を守る任務に山で着用する、この山岳救助隊服は正式な『活動服』とは認められないのでしょうか?
私が誇りをもって命を懸ける山岳警察の任務は、警察官として正式に認められない、差別されるべき存在でしょうか?」

ホールに朗々と響くテノールの声は、警視庁けん銃射撃大会の開会式を制圧した。
制圧された静謐のそこから賞賛と微笑が湧きあがる温度が英二の頬を撫でていく。
きっと、今なのだろうな?素直に感じる想いのままに英二は、長い指の掌を、ふたつともに胸の前に挙げた。

パンっ、

大きな拍手がひとつ、術科センターの静謐に響き渡った。
続けて英二は両掌に大らかな拍手を起こし静謐に大きく響かせ「賛同」の意志を明確に表明した。
その拍手に続いて五日市署、高尾署から拍手が湧きあがっていく、それは第七機動隊へとすぐに広がった。
それから各部門、各警察署の、山ヤらしい雰囲気の警察官達へと漣のように広がっていく。
温かな拍手の波紋が広がっていく波に、司会者が焦ったようにマイクへ叫んだ。

「静粛に…!」

ぱんっ!

司会者が叫んだと同時に、司会者の背後から大きな拍手がひとつ起きあがった。
壇上の拍手は朗らかに響いていく、その響きに会場中の視線が壇上の1点に向けられてく。
その視線の先には、愉しげに微笑んだ初老の幹部が大きな拍手を響かせていた。
初老の男は先ほども頷いて微笑んだ幹部だった。

「はい、わかりました」

微笑んで立ち上がると、彼は警視総監を振り返った。
視線を受けて途惑った顔のまま警視総監が見返すと、彼は穏やかに口を開いた。

「警視総監に提案いたします、どうか、任務に命を懸ける警察官の1人としてお聴き頂けるでしょうか?」
「うむ、聴こう、」

渋々と言う雰囲気で警視総監は頷いた。
そんな彼を英二はすこしだけ同情しながら、初老の男の穏やかな微笑みを見つめた。

「命懸けで任務に就く、これは我々警察官のあるべき姿です。
この姿は全ての警察官の当然の姿です。本部勤務でも都心でも、山岳地域でも同じです。
そして都心の警察官が活動服で任務に就くように、山岳警察官が着用する山岳救助隊服は立派な『活動服』と言えます。
ならば命懸けで任務に就く同じ警察官として、私たちは国村警部補の意見を尊重すべきだと思います。いかがでしょうか?」

穏やかで落ち着いた声は静かに会場を浸していく。
その声が告げる言葉と想いへと波のように賛同が打ち寄せていくのに英二は微笑んだ。
きっとこれで決まりかな?そんな想いで見つめる先で、警視総監が頷いた。

「うむ、認めよう。山岳救助隊服での出場を許可する」

会場の空気が花開くように静謐のまま沸いた。
警視総監へ頷きながら初老の男は微笑んで、口を開いて告げた。

「お聞き及びの通りです、青梅署山岳救助隊所属の国村警部補、山岳救助隊服で出場してください」

会場から拍手が大らかに賞賛と賛同の意志の表白に湧きあがった。
一部には苦々しい顔の空気もある、それでも山ヤの警察官達の誇らかな笑顔は温かで明るさに充ちている。
そんな二色の視線の真中で国村は、いつもどおり底抜けに明るい目で真直ぐに見つめて、誇らかな自由のまま佇んでいた。

「司会の方、お待たせいたしました。どうぞ開会式を始めてください。よろしくお願い致します」

幹部らしい初老の男は穏やかに司会者へ促すと壇上の自席へと座り微笑んだ。
司会者は途惑いながらも安堵の顔でマイクの前に向き直った。

「では、これより。警視庁けん銃射撃競技大会の開会式を始めます」

予定より幾分か遅れ、警視庁けん銃射撃競技大会の開会が告げられた。
進んでいく式次第を眺めながら英二は、壇上の初老の男を真直ぐ見つめていた。
あの幹部は誰だろう?顔を記憶する英二の横から、そっと後藤が教えてくれた。

「蒔田警視長だよ、山ヤなんだ」
「じゃあ、警視庁山岳会のメンバーですか?」

訊くと後藤の目は少し悪戯っ子に笑っている。
そして愉しげに低い声で教えてくれた。

「ああ、副会長でな、山岳会では俺の部下だよ。
蒔田は大卒のノンキャリから出世してな、今は地域部長を務めているがね。元は山ヤの警察官でな、俺の後輩なんだ」

警視長は警察法第62条に警視総監、警視監に次ぐ第3位の階級として規定され、ノンキャリアの最高階級となっている。
そして「地域部」は本部セクションとして警視庁をはじめ道・府および主要県警察本部に設置されている。
この地域部は市民生活に身近な交番や駐在所、110番受付など事件対応配備を担当する通信指令室の運用管理を統括していく。
ようするに英二たち駐在員のトップにあたるのが蒔田が就任している地域部長だった。
そういう人でも警視庁山岳会では会長の後藤にとって部下で後輩になる。山ヤらしい横の繋がりが楽しくて英二は笑った。
そんな英二に笑いかけてくれながら、さりげなく後藤は目許を拭って微笑んだ。

「しかしなあ、光一のヤツ…あいつは男だよ、そして立派な山ヤの警察官だなあ。うん、うれしいな」

トップクライマーとして育てるため後藤は、自分の警視庁山岳会に入れようと国村に警察官への任官を勧めた。
そうして後見を務めて友人の遺児を最高のクライマーに育てることが、亡くなった友人に対するはなむけだと見守っている。
そんな国村がクライマーとしてだけではなく、親代わりともなる後藤が生涯を懸ける「山ヤの警察官」に対しても誇りを表明した。
きっといま後藤は温かな喜びに充ちて誇らしい、そういう後藤と国村がうれしくて英二はきれいに笑った。

「はい。国村は最高の山ヤの警察官です」
「うん、…ありがとうよ、宮田。ああ、今日はなあ、思わぬプレゼントをもらえたな?」

温かい想いに笑いあいながら2人、ダークカラーの群集に唯一あざやかな光彩で佇む横顔を見た。
この競技会に懸ける国村の戦いは「開会式」にまず勝利した、その横顔は静かで底抜けに明るい目は真直ぐ揺るがない。
この開会式を制圧し国村は台風の目になった、競技でもその座に立ち続けるだろう。
そんな確信と友人への信頼に微笑んで英二は開会式に佇んだ。


警視庁けん銃射撃競技大会の競技が始まった。
その競技種目は、センター・ファイア・ピストルの部、制服警察官の部、私服警察官の部の3種。
1人400点満点で正選手3人の合計点を団体戦では競い、各種目ごと出場選手全員で競う個人競技成績も出される。
警視庁は102の警察署を有し、第1方面から第10方面に分けられている。
これに加えて各機動隊、本部からの選手が出場するため、各部ごと出場選手は100人を超えていた。

英二と国村が所属する青梅署は第9方面、周太の新宿警察署は第4方面となる。
全く違う方面同士で周太とは観覧場所も離れている。それでも遠目に様子が見えて英二は微笑んだ。
先輩の言葉に素直に頷いて微笑んでいる周太の様子には、緊張は少なく疲れも見えない。
もう周太は1回目の射撃を終えている、予想通りの満点でそのグループを1位で通過した。
大丈夫そうかな?そう眺めている英二の額を白い指が小突いた。

「こら、ぼけっとしてんじゃないよ?まあ、気持ちは解るけどさ、」
「あ、国村。そろそろ時間?」
「だよ。で、さ?おまえ以外にね、もうひとつ視線が同じとこ見てるんだけど?」

言いながら救助隊服姿で腕組だ国村は、組んだ腕に乗せた手から白い指先で一点を刺し示す。
すこし体をずらし英二は国村の顔の向こうへと、白い指先が刺す一点を視界へと入れた。

身長170cm程、闘志型体型、憔悴の翳と鋭利な目をした40代の男。

11月の全国警察けん銃射撃大会で見た顔の記憶が素早く引き出された。
その記憶の顔といま遠目に見る顔の照合が脳裏でかちり合さっていく。
穏やかな微笑みのまま英二は国村に頷いた。

「うん、11月も見たな、」
「ふうん、やっぱりそうなんだね?ま、見るからにって感じだよな」

からり笑って国村はぐるり首をひとつ回して英二を見た。
そして組んでいた腕をほどくとポンと英二の肩をひとつ叩いて悪戯っ子に細い目が笑んだ。

「さて、ちょっと俺はこれから『競技』ってヤツに付きあってくるよ。
で、宮田?この視線がさ、俺の射撃を見てどんな変化するのかも見ておいてよ?たぶん見モノだろうからさ、」

SATはテロリストと渡り合う際に狭い通路や屋根の低い室内で動くため、身長170cm程という採用条件がある。
そのため180cm級の長身では採用が出来ない、そして国村の身長は184cmで英二よりもわずかに高い。
この高身長では国村は、どんなに射撃の天才でもSAT狙撃手には絶対に指名できない。
採用条件外でありながら高能力を誇る国村の姿を見つけた「彼」がどんな表情をするのか?
それを面白がろうと国村は英二に持ちかけている。
きっとこれも国村の戦いのひとつ、ならそれを一緒に見届けたい。きれいに笑って英二は頷いた。

「おう、よく見ておくよ。だから安心して10点ちゃんと撃ち抜けよ?今日は練習じゃないからな」
「そのつもりだけど?ってね、宮田。そんなこと言わなくってもね、おまえは解っているんだろ?この場で俺が出すスコアは、さ」

それは充分にきっと解っているだろう。
けれどいつもの癖でつい念押ししてしまうな?そんな世話焼きの自分も可笑しくて英二は笑った。

「うん、解ってるよ。それも大切なポイントだもんな?」
「そうだよ、宮田?俺はね、あの扉を嗤ってさ、粉々にしてやりたいんだ」

可笑しそうに片目をつぶって国村が笑う。
その視線が見ている「あの扉」が何なのか英二には解る。穏やかに微笑んで英二も頷いた。

「ああ、あの扉は、…必要なんだろう、けれどね、全てを肯定することは俺には出来ない」
「だろ?だいたいさ、『あの扉』の全てを肯定が出来る人間なんてさ?いたら変態だよな、ねえ?」

『あの扉』

術科センター射撃場の奥の扉はSATの練習場と言われている。「射撃に秀でた小柄な警察官」はあの扉に惹きこまれていく。
もしSATに射撃で選ばれたら重たい秘密を背負わされ、警察官としての履歴も抹消されて存在を消されていく。
そうして負わされる秘密は家族にも口外できず、ひとり孤独に秘密を見つめることを強いられる。
その秘密に隠され負わされる重たすぎる荷は、一生涯ずっと死ぬまで背負わされてしまう。

「うん…もし肯定できるなら、それは傲慢だろうな?『秘密』の重さが理解できないほどに、」

そんな傲慢さは哀しい。
どんなに必要な「秘密」であったとしても、では誰がその「秘密」の贖罪をするのだろう?
かすかにため息を吐いた英二の肩越しに、「あの扉」を見ながら底抜けに明るい目が、すうっと細まった。

「俺はね、そんな肯定は大嫌いだよ。そういう『秘密』はつまらないね、」

細まった目の底から怒りが冷たく起きあがるのを英二は見つめていた。
この国村の怒りは雪崩と似ている、きっと容赦なく「この場」も呑みこむだろう。
さっきの開会式での拍手も雪崩のようだと英二は佇んでいた、この怒れる雪崩は今日を統べ呑みこみ尽くすつもりでいる。
その怒りに素直に英二は頷いた。

「そうだな、俺も苦手だな。きっと国村と同じくらいに、」
「そりゃそうだろね?」

ぱっと底抜けに明るい目が愉しげに笑った。
悪戯がひとつ成功して喜んでいる子供の顔になって、うれしそうに国村は英二の額を小突いた。

「さっきもさ?おまえ、絶妙の間合いで拍手を入れただろ?イイ合いの手だったよ、」
「あ、俺だって気づいてたんだ?」

あのとき国村は真直ぐ壇上を見つめたままだった。
よく気がついたな?目でも訊きながら微笑んだ英二に当然だと細い目が笑んだ。

「気づくよ、おまえの拍手ぐらい解るね。しかも俺の呼吸をよく読んでいた、おまえ位だろ?あんなこと出来るのはさ」
「そっか、解ってくれてなんか嬉しいよ。ありがとな、」

こんな信頼は嬉しい、うれしくて英二はきれいに笑った。
おや美人だねとまた英二を小突きながら国村は悪戯っ子の目で言った。

「こっちこそだよ?おかげでさ、蒔田さんを巧いこと引っ張り出せたね」
「あ、やっぱり知ってるんだな、国村は。じゃあさ、やっぱり蒔田部長も計算に入れていたんだろ?」

英二の拍手の後に湧き起った満場の拍手、それを司会者が止めようとした機先を制した壇上の拍手。
その機先の制し方が絶妙だった地域部長蒔田警視長、ノンキャリアから警視庁第3位のポジションに昇った男。
どんなひとなのだろう?考えながら見る先で国村が笑って教えてくれた。

「そりゃね?あの人は地域部長だ、当然観覧に来るだろ?で、もちろん俺の味方するに決まってる。
元が山ヤの警察官だ、しかも後藤副隊長とタッグ組んでさ、俺をトップクライマーに仕立てようとしてる人だからね。
だから多分ね、もう宮田のことも知ってるんじゃない?きっとさ、後藤のおじさん今日は会わせるつもりかもしれないよ」

この大会に英二は国村の付添として参列している。
けれど、ただの付添では終わらなそうだ。意外だけれど納得できる展開に英二は微笑んで首を傾げた。

「うん?そうなのか?」
「たぶんね。そしたらもう、おまえはクライマーとして任官することが決定だよ。
警視庁でも山岳会でも、公式的に俺のアンザイレンパートナーに認められていく事になるだろね。
そしたら堂々と登山の為に公休が取得出来るようになる。その為にも後藤副隊長はさ、宮田を俺の付添にしたんじゃない?」

このことを国村は後藤から聴いたわけではない。
生来の怜悧で冷静沈着な判断力から考え導き出した解答なのだろう、そしてきっと正鵠をまた射ぬいている。
こういう男と友達でパートナーとなっている今がちょっと不思議だ。
けれど、こうして並んでいるのは自然で楽しい。楽しい想いと「今日」の意外で納得できる真相に英二は微笑んで低く言った。

「そっか。今日、俺も進路が決まるんだな…周太と一緒、か」
「そういうこと。…お?なんかさ、ちょっと妬けちゃうね?ま、仕方ないかな。おまえもね、あのひとのFemme fatalだしさ」

さらり言って笑いながら大らかな想いのまま認めてくれている、こういう大らかさが好きだなと素直に英二は微笑んだ。
この大らかさのまま国村は開会式で誇らかな宣言をして、今この場を統べるポジションに立った。
いまこの会場中で、オレンジとカーキの青梅署山岳救助隊服姿を知らない人間は1人もいない。
この統べた視線を掴んだまま国村は競技に立ち、更に支配を強めていくのだろう。競技場を振向いて英二は微笑んだ。

「そろそろ前のグループが終わるよ、」
「お、急がないとね?じゃ、宮田。観覧と観察、両方よろしくな、」

からりと笑うと国村は、底抜けに明るい目を悪戯っ子に笑ませて集合場所へと歩いて行った。
オレンジとカーキがあざやかな青梅署山岳救助隊服の背中を見送って、ふっと英二は気がついた。
警察学校時代に見た写真の、警視庁青梅署山岳救助隊員の背中。
あれは隊服の上から「警視庁」と白く染め抜かれたスカイブルーのウィンドブレーカーを着ている背中だった。
誇らかな自由がまばゆい頼もしい背中から、この山岳レスキューの道に希望と夢を英二は見つめた。
いま国村は自分の誇りをかけた戦いに行く、その背中とあの写真に見つめた救助現場に戦う背中が重なっていく。

「…そうだったら、ちょっと納得、かな?」

ちいさく呟いて英二は微笑んだ。
もしそうだとしたら自分は出会う前から国村を見つめていたことになる。
これもまた運命的だな?そんな想いが可笑しくてちょっと笑っていると後藤副隊長が訊いてくれた。

「お、宮田。なんだか楽しそうだな?なにかあったのかい…て、まさか光一、また何かやる気なのかい?」
「いいえ、違います。たぶん競技中はなにもしないですよ、きちんと10点を狙撃すると思います」

自分が可笑しそうにしていると、国村がなにかする。
そんなふうに思われているんだな?それも可笑しくて英二は笑いを飲みこんだ。

「そうかい?なら良いんだが…うん?おまえさん、いま『競技中は』って言ったな?」
「あ、副隊長。始まりますよ?」

ちょうどよく競技が開始されて英二は微笑んだ。
言われて後藤はすぐに国村の姿を探すと、真剣に見つめ始めた。

センター・ファイア・ピストル、略してCP。
1.4Kgの拳銃を片手で持ち、立ったままの姿勢で25m先の標的を狙撃する。
真中に命中すると10点、真中から離れるほど点数は低くなっていく。
CPでは「速撃ち」で精密と速射の合計得点を競い「遅撃ち」では精密のみの得点を競う。

選手たちが射場へと入って行く、そのダークカラーの背中達でひときわ高身長の背中だけが明るい生彩に充ちて見える。
いつも通り姿勢よく歩く国村の明るい、広やかに端正な背中の向こうに扉が見える。その扉を英二は真直ぐ見つめた。
国村は「あの扉」を嗤って粉々にすると言っていた。そこにあの闘志型体型の男も含まれるだろう。
きっと国村は自分の能力を見せつけながら「あの扉」に入るには自分が「大きすぎる」ことを誇示する。
そのためのスコアを今日は真剣に作り上げていくのだろう。

そんな想いと見ている先で国村は、射場の与えられたブースに入った。
ホルスターから拳銃を抜く。シリンダーを開いて装填された弾の雷管に傷が無いか確認して閉じた。
そして規定の試射が始まり、いつものように国村はすこし頭を傾けノンサイト射撃に構えた。
きっとあの細い目は真直ぐに的を捕らえている、直線的な視線上に拳銃のサイトを突き出すように構えているだろう。
そして白い指は引き金を絞る、そう感じたとき国村の的は的確に撃ち抜かれていた。

ノンサイト射撃は普通10mまでの近距離で用い、25m先の標的を狙うCP競技では普通ノンサイト射撃は使わない。
けれど周太は距離に関係なくノンサイト射撃を使う、それは国村も同様だった。
それどころか国村はクマ撃ち用の猟銃ですら片手撃ちノンサイト射撃を行う。
クマ撃ちの家系に伝えられた特殊な射撃法があるらしい、その離れ業で数百m先のザイルですら国村は撃ち落とした。
そんな国村にとって競技射撃はまさに「お遊び」だろう、そう見ている先で国村の狙撃が始まった。

標的が的に現れる、その瞬間に国村は狙撃した。
そのスピードに他の選手誰もが息を呑んだのを英二は感じた、そして的は的中されている。
いま始まった遅撃ちは精密射撃ともいい、5分間の制限時間内に5発撃ちを4回。計20発
ようするに1発につき15秒ほど時間が与えられる計算になる、だから普通は確実に狙って撃っていく。
けれど国村はお構いなしに標的が現れた瞬間に狙撃する、そして残り14秒は腕を斜め45度に下げて待っていた。

その背中が「さっさと撃ちな、速くしろよ?」と嗤っている。
そんな山岳救助隊服の背中を会場中が驚いて見つめていた。
そしてあの闘志型体型の男は賞賛の目で見つめている、けれどその底には落胆が蟠っていく。
あの腕で背が低かったら―そんな心の呟きが漏れ聞こえるようで英二は軽く眉を寄せて微笑んだ。

遅撃ちが終わると後半の速撃ち競技が始まる。
遅撃ちと速撃ちではグリップの握り方と構えを変える、選手たちは軽くグリップを持ち直し少しオープンな姿勢に変えた。
けれど国村はさっきと同じ姿勢でノンサイト射撃に構え、軽く首を傾げるように頭を傾けた。

速撃ちは速射ともいう。
7秒ごとに3秒間現われる標的を1発ずつ5回撃つ、これを4回行い計20発。3秒の間に1発の計算になる。
そのため遅撃ちのように構え直す時間は無いく、良い姿勢を保ち的確に撃つため銃を持ち上げた姿勢を一定に保持する。
そのため発射の衝撃に片手で耐えられるだけの筋力とバランスが要求されるのが速撃ちになる。

速撃ちが始まり標的が現れる、また国村は標的出現の瞬間に狙撃した。
そして次の標的が現れるまで残り6秒間のうち4秒間、のんびり腕を下げて佇んだ。
すこし首を傾げて、残り2秒間になると徐に腕をあげまた構える。そして標的出現の瞬間に狙撃した。
瞬間に標的を捉えると同時に狙いを定め、放たれる銃弾は決して外さない。
クマ撃ち用の大口径ライフルを片手で軽々支える国村にとって、拳銃をずっと支える程度は容易い。
だから本当は腕を下げる必要はないだろう。それでもわざと下げ時間の余裕を見せつけ「ほら速く撃てよ?」と挑発している。

きっとこの調子で勝ち進むつもりだろうな?そんな想いで例の闘志型体型の男を見た。
彼は国村の射撃に喜びながら不本意といった、ごく複雑な顔で国村の背中を見守っている。
そういう複雑な視線、素直な賛嘆の視線、様々な視線を統べながら国村は「規定外」といった射撃で的中していく。
そのまま速撃ちも終えて、満点スコアの国村はグループ1位で通過した。



(to be continued)

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第35話 予警act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-02-23 21:20:29 | 陽はまた昇るside story
誇り、そのままの姿で 





第35話 予警act.2―side story「陽はまた昇る」

スーツのパンツを履きネクタイを締めると時計はまだ6時を指している。
デスクライトを点けると英二は、抽斗の鍵を開いて1冊の分厚い冊子をとりだし椅子に座った。
それは紺青色の布張りされた表装が美しい日記帳だった。
ラテン語の辞書も手元に置き、ルーズリーフとペンも出すと英二は紺青色の冊子を丁寧に繰っていく。
繰り開いたページはラテン語が連なっている、それを英二はすこしずつ辞書で調べながら翻訳を始めた。

この日記帳を英二は川崎の周太の実家で見つけている。
一冊目は英文で最初は書かれているが途中からラテン語と英語を交えた文章にとなっていく。
そして少しずつ日記の文章は英文からラテン語へと変わって、書出しから2年目の終わりには全てラテン語表記の文章となる。
ラテン語で綴られた紺青色の日記帳、これは周太の父が書き遺した日記帳だった。

紺青色の日記帳は、周太の父が使っていた書斎机の抽斗に眠っていた。
その抽斗は他の抽斗と違う鍵が取り付けられていた、その鍵はいま英二が首から提げている合鍵でしか開けられない。
この合鍵には根元部分に小さな凹みが刻まれている、この凹みは周太と母の鍵にはない。
おそらく周太の父が刻んだ凹みらしい、書斎の鍵穴は鍵の根元まで入らないと開けない造りになっていた。
この凹みが無い鍵は鍵穴には根元まで入らず抽斗は開けない、だから英二以外は誰もあの抽斗を開けていなかった。
この合鍵の秘密に英二は、年明けに川崎を訪れた時に気がついた。そして抽斗の鍵は13年ぶりに英二の手で開かれた。

合鍵の秘密に隠された4冊の分厚い日記帳の1冊目、この最初の頁をその場で英二は目を通した。
この日記帳の最初の頁はすべて流麗な英文で綴られている、英文なら英二でも意訳で読めた。
意訳で読み取った内容に英二の心が軋んだ、この哀切に周太と母には見せられないと感じた。
そうして英二はふたりに無断で4冊の日記帳を奥多摩へと持ち帰っている。
あのときの想いに、ふっと翻訳の手を止めて英二は最初の1頁を開いた。

  I will remember this day always. I'm hopeful of success.Be ambitious.Never give up,always be hopeful.

 “決して今日を忘れない。成功を信じている。志を持て、希望を持ち続け、決してあきらめるな”

自分の進むべき道への意志と誇りにあふれた冒頭の一文。
この4冊の最初の日付は1978年4月、周太の父親の大学入学式の日付だった。
この冒頭文に続く文章は入学した英文学科で学んでいく喜びにあふれ、彼の進路への希望が綴られていく。
この道に全てを懸けて生きる意味と誇りを見つめた19歳の春、その想いと真実が最初の頁には英文で記されていた。

―…子供時代を過ごしたオックスフォード、あの時ふれた美しい豊かな文章たち。
 その思い出と記憶が私を支え援けてくれた、今を作り上げてくれた。この全てに深く感謝を想う。
 この感謝に自分は報いていきたい。だから今度は自分が文章を守り伝えていく担い手になろう。
 私は日本人でも私の心を育てたのは英文学、だから知っている。
 文章と想いには国境は無い、このことを私はオックスフォードの日々に教えられた。
 だから私は国境を越えて学び伝えたい。自分が愛し感謝する英国の文章たちを守り伝え、次に続く人々へ贈りたい。
 あの美しい文章から自分が得たように、生きるにおける喜びと美しさを次の人々へ贈らせてほしい…

周太の父が希望した道。
それは英文学者として学問に生涯を捧げる道だった。

この頁には周太の父の父親、周太の祖父についても記されている。
周太の祖父について周太も母も何も知らされていない、だから英二もこの頁で初めて知った。

―…フランス文学の研究のため渡英した父、そのときに自分も一緒に行けたことが幸運だった。
 あのときは母を失った想いが辛く、日本に置いてきた祖母との別れも哀しかった。
 けれどオックスフォードで出逢った文章たちが私を勇気づけ励まし、哀しみも受とめ豊かな心を贈ってくれた。母のように。
 だからこうも想う、私にとっての「母」は英国の美しい文章たちだったのだと。
 英国の文章を母にし、フランス文学者の父に愛されて、私の子供時代はオックスフォードに豊かな文学の時を過ごせた。
 そして5年をすごし私は父と故郷日本に帰国した、父は母校へ呼び戻され最高学府の仏文学者として教授の席に着いた。
 父はフランス文学の美しさを故郷に伝え、その学問の故郷にあるパリ大学、ソルボンヌ・ヌーヴェルにも時おり出向く。
 そんな国境を超えた文学者の姿は私の尊敬と憧憬。そうした父の母校で私も学びたいと想えた、そして今日の入学式を迎えた…

周太の祖父はフランス文学者だった。
そして周太の父が入学した大学のフランス文学科の教授だった。
その前にオックスフォードに研究員として招聘され、その渡英直前に妻を亡くしたため息子も連れて行った。
そうして周太の父はオックスフォードに住み、子供時代を英文学にふれて過ごしている。
このことが父親と同じ文学者の道を志すきっかけになった、そう文章は続いていく。

―…私の故郷、日本。この国で最高学府と言われる大学で私は学び始める。
 ここで基礎を修めたらソルボンヌで父が学んだように自分も留学したい、あの懐かしいオックスフォードで学びたい。
 今度は学者の卵として私はオックスフォードに帰り、学徒の1人になりたい。
 あの幼い日、父に借りて来てもらった図書館の蔵書たち、今度は自分であの世界最高峰の図書館に立ち、本を選ぶ。
 その喜びが今から待ち遠しい、そして喜びのために自分は努力を惜しまない…

この息子の文学への志と進学に周太の祖父は喜んだ、その喜びをこめたのがこの4冊の日記帳だった。
この日記帳は紺色の布張りがしっかりとした表装、ハードカバーのような特徴的で立派な作りをしている。
分厚く頑丈で一冊に5年分が記せる外国メーカー製の希少な型で、限られた大学の購買か専門店でしか扱われていない。
この日記帳も祖父が大学の購買で買い求め、自分と同じ文学者の道に立った息子の門出に贈ったものだった。

―…私はこの大学の門を潜った、そして英文学者への第一歩が始まった。
 このことを父は喜んでくれた、この祝にと日記帳を贈ってくれた。それがこの日記帳になる。
 父はこのように言って私に4冊の日記帳を贈ってくれた。

 「この日記帳は一冊が5年分、それを4冊だから20年分を君は記すことが出来る。
  ここに綴る20年が君にとって英文学にとって、あかるい希望と幸福に充ちたものであるように。
  20年が綴り終るころ君は39歳を迎える、きっと学者として自分の道を確立した頃だろう。
  その実りある日が必ず来ること私は信じ、祈っている。
  君と英文学の豊かな20年間とその先の20年後を予祝して、私はこの20年分の日記帳を君に贈りたい」

  フランス文学者として国境も民族も超えて想いを繋ぐ父、私にとって夢と誇りの象徴でもある父。
  この父が私の20年後の成功を信じてくれる、私を後輩として認めてくれている、それが誇らしい。
  私はこの誇りを忘れず20年を真摯に英文学と向き合いたい、父の、尊敬する先輩の信頼に応えたい。
  この20年を学び修め、父の息子として後輩として恥じない文学者になっていく。この20年の先もずっと。
  想いが籠められた4冊の日記帳を私は喜びと感謝に受けとった、そんな私に父は喜んでくれた。
  そして父は文学者の先輩として日記につづる言語についてアドバイスを贈ってくれた。

  「学者になるなら、その使用言語で日記を書いてみなさい。
  その言語をもうひとつのマザーズランゲージとして思考言語としても完璧にマスターしなさい。
  研究対象の文章を記した言語での思考でなくては、その文章に籠る想いを理解することは難しい。
  君は英文学だから英語で日記を書きなさい、自分の想いを毎日表現することで君のマザーズランゲージに育てなさい。
  そして英語を正確にマスターしたら、ヨーロッパ言語の原点といえるラテン語を学ぶといい。ラテン語は学問語にも多い」

  私は父に感謝する。そして息子として父と出会えた運命に感謝したい。
  文学者の先輩として私の父として愛情と知識と心を惜しみなく教えてくれる、その想いは私には最高の幸せで温かい。
  だから私は今日この日に約束したい。息子として文学者の後輩として、この与えられた想いを繋ぎ次の人へ必ず手渡そう…

周太の父の日記帳の最初のページ。
そこには英文学者として生きる誇りと感謝に報いたい純粋な想いが、英文で綴られていた。
そしてこの「最初に綴られた日付」が心を軋ませる。
この誇りと希望に満ちた1頁目が綴られたのは、周太の父の大学入学式の日付。
この日の20年後にあたる春の日は、周太の父が殉職した日だった。

―…20年が綴り終るころ君は39歳を迎える、きっと学者として自分の道を確立した頃だろう

望まない道での「殉職」哀しい結末の日は、彼の父親が心から祈った「学者として自分の道を確立した」20年後その日だった。
桜咲く希望に満ちた門出の19歳を迎える春の日、けれど彼は文学への志を奪われる運命だった。
そして19歳の門出と同じ日の20年後、満開の桜咲く夜に彼は一発の銃弾で生命まで奪われた。
ほんとうは19歳の門出に歩みだした道で誇らかに学者として立つはずだった日、その日に迎えてしまった哀しい結末。
どうしてこんな悲劇が起きたのだろう?ひとすじの涙が疑問と共に英二の頬を零れおちた。

「…どうして、好きな道を歩めなかったんですか?…こんなに才能があって、なぜ?」

彼は大学2年の終わりにはラテン語で全文を書き始めている、これだけの語学力はきっと稀有な才能だったろう。
そしてラテン語で記されている内容も、英文学者への道を周囲にも嘱望された希望あるものだった。
それでも周太の父は学者にはならなかった。
いま書斎の蔵書に英文学書は数冊しかないのは、おそらく英文学者の道を諦めた時に処分したからだろう。
処分して視界から消さなくては未練が残るほど、きっと彼は英文学者の道を望み能力も認められていた。
あの書斎に遺された英文書の少なさが、英文学者として歩み通せなかった彼の深い絶望と哀しみを告げてしまう。

それでも彼は父が遺したフランス文学書を息子へと読み聞かせていた。
学者にはなれなかった、けれどせめて息子には自分を豊かにしてくれた文学を贈りたい、そんな切なる願いが見えてしまう。
そんな姿から彼の文学への真摯な想いが失われていないことが解ってしまう、その情熱の行方が痛ましい。
きっと周太の父は文学への真摯な想いを抱きながら警察官の道に斃れた、その想いが哀しい。

周太の父が辿った軌跡の絶望と哀しみ、その痛切の深さはこの最初の1頁から始まっていた。
この最初の頁を全て読んだとき英二は涙が止まらなかった、いまこうして読みかえしても心が軋んでしまう。
周太の父の現実を知る人間が読むのには、この日記帳はあまりに辛く哀しい。
だから英二はこの日記帳の存在を周太と母には隠すことに決めた。

この日記の翻訳を進めるたび、なぜ?と疑問が起き上がってしまう。
なぜ英文学者の道を歩めなかったのだろう?
なぜ学者志望だった男が警察官になったのだろう、警察官以外の選択肢もあったはず、それなのになぜ?
しかもなぜノンキャリアで任官してしまったのか、キャリアを目指す方が妥当な学歴なのになぜ?
そしてこんなにも尊敬し憧れた実の父について、なぜ妻や子供に何も話さなかったのだろう?
まだこれらの謎を解く記述は出てこない、根気よくラテン語を今は翻訳して読み進むしか謎を解く方法は無いだろう。
数々の疑問と哀しみの運命たちにため息を吐きながら翻訳するページへと目を落とした

いま英二は大学3年生の4月を読んでいる。
ここまで記されている内容は今のところ大学生活がメインになっていた。
またペンを持って辞書を見ながら訳していきながら、ときおり現れる単語に英二は微笑んだ。

「mons」山 「jugum」尾根 「cacumen」山頂

周太の父は大学で山岳部に入った。
忙しい勉強の合間にも時間を作っては、仲間と登ったり単独行もしている。
幼いころに周太も父に連れられ奥多摩や近隣の山で遊んでいた、その時間は周太にとっても幸せな記憶としていま甦っている。
そうした息子との幸せな時間を作れたベースがこの頃には周太の父に出来上がっていた。
愛する英文学と山に向き合う日々、幸せで楽しい空気の文章に彼の大学生活が充実していたと読めるのが嬉しい。
自分も彼と一緒に山へ登りたかったな?そんな想いで訳をメモしていくと、ふっと英二の手がとまった。

「dirigentes」

初めて見る単語だった。
この意味はなんだろう?なにげなく辞書の頁を繰って英二の長い指の動きが止まった。
今日は警視庁拳銃射撃大会の当日、その日にこの単語とあたるなんて?
ほっと息を吐いて英二はルーズリーフにペンを走らせた。

「射撃」

大学3年生の4月、周太の父は友人の誘いでもう1つ部活に入った。
その部活は「射撃部」だった。

きっとここから周太の父の軌跡が変わっていく。
そんな哀しい予感と重たさに英二はクライマーウォッチを見つめた。
時刻は6時半をさしている、時を見つめながら英二はやさしく文字盤のフレームにふれた。
この腕時計を贈ってくれた、黒目がちの瞳を文字盤に見つめて静かに英二は微笑んだ。

「周太、俺はね、ずっと守っていくから。なにがあっても、どんな場所、どんな時でも」

このクライマーウォッチに周太は想いをこめて贈ってくれた。
最高峰に登る時もこのクライマーウォッチを見れば周太を想い出す、想い出せば英二は無事に帰ろうする。
そんなふうに「帰りたい」意志を英二が失わないようにと願ってくれた、英二の無事と幸せを祈ってくれた。
やさしいこの想いを周太は初恋を想いだし見つめる今も、変わらずに英二に贈ってくれる。
唯ひとり愛する相手ではなくても大切な「隣」であることは変わらない。

それに今はもう解っている、雪崩の翌日に英二が周太に体を無理強いしなければ「唯ひとり」だったかもしれない。
けれど、あの日に気づけなかったら今も自分は独善的な盲目の愛しか知らなかった。
そんな自分と今の自分と、どちらの方が自分は好きだろう?
おだやかに微笑んで英二はデスクの上を片づけて抽斗に仕舞うと施錠した。
デスクライトを消して窓を振向くと曙光が山嶺をあざやかに染め始めている。
山が目を覚ましていく明るい色彩に英二はきれいに笑った。

「きれいだ、」

今日は拳銃射撃大会で色んなことが起きるだろう。
せめて空だけでも風通し良く晴れていてくれたら嬉しいな?そんな想いにすこし笑って英二は食堂に向かった。
朝食のトレイを受けとって窓際の席に座ると、空があわい紅に明け染めていく。
きれいだなと見ながら食事に箸をつけ始めるとテノールの声が降ってきた。

「おはよ、宮田。なに?おまえ、今日はネクタイ締めてるんだね。ひょっとしてスーツで行く?」

話しながら国村が向かいにトレイを置いた。
確認すると国村はきちんと活動服姿だった、大会出場の格好に安心して英二は微笑んだ。

「うん、俺は、公務じゃないからね。11月に岩崎さんに連れて行ってもらった時もスーツだよ」
「ふうん、なるほどね。おまえのスーツ姿って卒配のときだけかな、俺が見たのは」

山芋の千切りを器用に混ぜながら底抜けに明るい目がネクタイを眺めてくる。
物珍しいかなと目で訊いてみると愉しげに笑って国村は言った。

「うん、似合ってるね、宮田。こういう格好も美人でいいな、おまえ礼装とか似合うだろ?」
「どうだろ?国村こそ似合いそうだよ、」

他愛ない会話をしながら手早く朝食を済ませていく。
それでもしっかりどんぶり飯を4杯ほど平らげて一緒に食堂を出た。

「ロビーに7時でよかった?」
「うん、俺はすぐ出れるよ?宮田は?」
「すぐ出れるよ、じゃ仕度しだいすぐ降りるな?」

笑って自室へ戻ると英二はスーツのジャケットを着た。
クロゼットからコートを出し、救助隊服と登山靴を登山ザックに入れて背負う。
もし緊急召集が掛っても対応できるよう山岳救助隊員は隊服など一式を大抵は備えている。
今日は新木場の術科センターへ行くけれど帰路に救助要請が入ったときに対応できるよう準備した。
コートは腕に懸けたまま下へ降りると国村が活動服にザックを背負って待っていた。

「お待たせ、国村。保管庫は行ってきた?」
「これからだよ、おまえも今日は行くだろ?待っててやったよ」

からり笑うと国村は英二の腕を掴んで歩き出した。
一緒に保管庫へ行って持ち出しの手続きを取る、国村は警察手帳と拳銃の両方を出した。
英二は警察手帳だけを受けとって内ポケットにきちんとしまうと、国村の装備を目視確認した。
拳銃はきちんとホルスターに入っている、制帽も被っている。靴も既定どおり、警察手帳も胸ポケットに収めている。
どうやら大丈夫そうだ、軽く頷いて英二は笑いかけた。

「よし、忘れ物ないな?」
「大丈夫だよ、拳銃もほら、持っただろ?おまえこそさ、吉村先生にはちゃんと言ってある?」
「うん、もうだいぶ前からね。国村にね、ほどほどに楽しんでくださいね、って伝言だよ」
「ほどほど?…ああ、なるほどね、先生らしいね、」

話しながらロビーへと戻ると後藤副隊長と鳩ノ巣駐在所長の山井が活動服姿で待っていた。
立って4人で話していると刑事課の澤野が後輩と交通課の人を連れて急いでやってきた。この7人でパトカー2台に分乗していく。
今日は澤野が私服警察官の部、山井が制服警察官の部で正選手として出場する。澤野の後輩と交通課の2人はこの補欠だった。
そしてセンターファイアピストル部は国村が正選手に、後藤副隊長が補欠としてエントリーされている。
国村の運転するパトカーに山岳救助隊4人で乗り込んで出発すると、後藤副隊長が笑いかけてくれた。

「うん、宮田。おまえさん、スーツが似合うな?大人びていい雰囲気だよ」
「恐縮です。この格好でお目にかかるの、卒配のとき以来ですね?」
「そうだな?あれから5ヶ月か、でも俺はな、宮田?おまえさんは前から居たような気持ちになるよ」
「国村にも言われました、俺、態度大きいですか?」

馴染んでいるのは嬉しい、けれど失礼なことしていると困るな?
そう想って訊いてみると国村が笑った。

「そうだね、宮田?俺のことも操縦上手いしさ、吉村先生の手伝いもするしね。ちょっと卒配期間ってカンジじゃないね」
「たしかに国村の言う通りだよ?宮田のことは消防の小林さんも褒めていらしたよ」

鳩ノ巣駐在所長の山井も笑って言ってくれる。山井は英二の同期でもある藤岡の直属の上司にあたる。
山井が出場するために今日は藤岡が鳩ノ巣に残っていた、きっと他管轄に配属された同期もみな留守番組だろう。
本来なら卒配期間で術科の大会に出場することは少ない、けれど周太は特別に出場する。
このことを廻る警察組織の思惑を想うと気が重い、きっと今日の結果が翳射すのは本配属の夏以降と解ってはいる。
それでも、今日も読んだ周太の父の日記帳に寄せた想いを考えると、周太の進む道に哀切を想ってしまう。
思わずちいさな溜息を吐いた英二を、底抜けに明るい目がちらっと運転席から見た。
そして透明なテノールの声で言ってくれた。

「大丈夫だよ、宮田。あまり背負い込むなよ?」

国村は周太の事情はすべて把握している。
自分で勘付いて調べたものと英二から聴いたこと、そして周太からも聴いただろう。
11月の全国警察拳銃大会の時は英二は1人で全て抱えるしかなかった、けれど今日は違う。
この隣に座るアンザイレンパートナーは頼りになることを自分が一番知っている。
こういうのは素直に嬉しい、けれど今日の気懸りは国村にこそあるだろう。英二は国村に微笑んだ。

「うん、ありがとう、国村。でもさ、おまえこそ大丈夫か?」
「なにが?」

飄々とした顔で運転しながら細い目がちらっとこちらを見た。
いちおう周太から聴いたとだけは告げようかな?
後部座席の様子を計りながら英二は低めた声で言った。

「『ちょっと驚くだろうけど、気にしないでね』のことだよ?心配してたよ、」
「あ、やっぱり宮田には話しちゃったんだね?ま、言った通りにさ、気にしないでよ」

からり愉しげに国村は笑った、その唇の端が上がっている。
この様子はきっと企みがあるに違いない、愉快な想いと覚悟を英二は心裡に見て笑った。
きっと飽きない大会になるだろうな?想っているうちにパトカーは新木場の術科センターのゲートをくぐった。



術科センターに入ると選手は控室へと向かう。
選手の6人と別れて英二は一旦戸外へと出た、外は青空が気持ちいい。
すこし敷地を歩くと死角になる壁際がある、そこへ英二は背中をついてほっと息を吐き微笑んだ。
11月の大会の時はここで周太を落着かせてあげた。あれから3ヶ月が経って周太と英二の関係も変化している。
ふっと浮かんだ旋律に低く英二は口遊んだ。

「季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように…君を想う」

もう周太への想いは枯れない花、そんな確信が温かくて英二は微笑んだ。
以前は、周太が自分だけを愛し見つめなかったら、水がもらえない花のように自分は枯れて死ぬと想っていた。
けれどいま自分は生きて、より深い大きな想いを抱いて微笑んでいる。

たしかに、周太を独り占め出来ないことは寂しさもある。
周太と素肌の温もりを感じ合えないことは痛みと寂寥感が哀しくもさせる。
けれどこの、大らかな揺るがない想いがくれる温もりと、ひろやかな想いは心地いい。
この自由な感覚はなんだろう?こんな今の自分がうれしくて楽しい。
この大らかな想いで周太を愛することを手に入れられた、そんな自分が好きだ。
この自由で誇らかな想いはなんだろう?ふっと想ったことを英二は低く声にした。

「うん…俺は母さんとは違う。きっと、」

盲目の愛のまま理想を押しつけ、英二の真実の姿を見つめない母。
あの母の愛と自分が周太へ向ける愛は同じと気付いたとき、愕然とした。
けれど今の自分は母とは明らかに違うはず、そんな気付きが尚更に自由を感じさせる。
うれしくて楽しい想いに英二は見上げる青空へ微笑んだ。

「うん。俺はね、自由だ」

冬富士の雪崩の翌日、あの日が自分の分岐点だった。
あのとき周太を傷つけたことは今も哀しみが痛い、だからこそ自分は逃げず見つめて周太を守りたい。
あの日に容赦なく怒り諌めてくれた国村の想いを、すこしも自分は無駄にしたくない。
いまもう自由な想いで周太を愛し、国村との友情が誇らしい。

― あの日、気付けて良かった

あの2人が大切で守りたいと素直に想う自分が誇らしい、大らかに想いのまま英二は微笑んだ。
そのときふっと気配を感じて英二は視線をゆっくり振向かせ、そして微笑んだ。
微笑の先には小柄な活動服姿が佇んでいた。

「…えいじ、」

黒目がちの瞳が見つめて、名前を呼んでくれる。
見つめられて呼ばれて嬉しい、きれいに笑って英二は頷いた。

「うん?どうした、周太、」

大好きな名前を呼んだ。
呼んだ愛しい名前のひとが、泣きそうな顔で微笑んで、ことんと飛び込んでくれた。

「…英二!」

濃紺の制帽が地面に落ちて、やわらかな髪の頭が英二のむねへ飛び込んだ。
よせられる胸元の頬、泣き出しそうな唇が名前を呼んでくれる。

「英二、ここに居てくれた…英二、」

抱きついて、しがみついてくれる小柄な体。
おだやかで爽やかな髪の香が顔のすぐ下にふれてくる。
この香がずっと好きで憧れていた警察学校時代がなつかしい、今との差を感じて不思議になる。
この香が今も自分は大好きだ、そして今あの頃よりもっと大きな想いでこの肩を抱きしめられる。
穏やかに長い腕をまわして英二は周太を抱きしめた。

「どうした、周太?不安になっちゃったかな、」

抱きしめる肩はかすかに震えている、無理もないなと英二は微笑んだ。
きっと今日、周太の「これから」が決められてしまう。その不安が大きくても当然だから。
今日の大会の結果が周太の本配属を決めてしまうだろう。
この配属が周太の希望通りなら、文字通り周太は危険に立つ日が始まる。
もし周太の希望通りにならなければ、普通に有能な警察官としての日々が始まるだろう。
ほんとうは、どちらがいいのだろう?

「…英二、…えいじ、今あいたかった…だから、ここに来て…前のとき、ここにいたから、」

見あげてくれる黒目がちの瞳は泣いてはいない、それでも不安が揺れる瞳が痛々しかった。
孤独に閉籠っていた頃は感情を押し殺すような肩肘が周太にはあった、けれど今は素顔のまま穏やかで繊細な感受性を隠せない。
いくら「警察官の顔」をするべき時でも今日の状況は重たい、それを素直に英二に告げて甘えたくて探しに来てくれた。
頼ってもらえて嬉しいよ?目でも言いながら英二は穏やかに微笑んだ。

「うれしいな、周太?俺で良かったらね、好きなだけしがみついてほしいよ?」
「ん、…ごめんね、こんなの、ずるい俺…でも、英二にあいたかった、」

危険なメビウスリンクに入りこむような進路と普通の進路と、どちらがいいのか?
きっと本来は「普通」が良いのに決まっている。
けれど周太は父の想いを見つめて繋ぐために警察官になった、その目的は危険なメビウスリンクの中にある。
それは体ごと命を危険に晒す日々になる、それでも周太はここを通らなければ「時」を動かせない。
その為の覚悟はもう決めている、穏やかに英二は微笑んだ。

「ずるくない、周太。俺は嬉しいんだからさ?誰が何と言っても関係ない、俺が幸せならいいだろ?遠慮しないで周太、甘えてよ」

微笑んだ先で黒目がちの瞳がほっとするように微笑んでくれる。
こんな瞳を見せてもらえるなら何でも出来るな?そう見つめる先で周太は唇を開いてくれた。

「英二…甘えさせて?聴いて、英二?…俺、ほんとうは怖い。
それでも自分で選んだこと、だから逃げたくない、でも怖い…自分でもわからない。
それに、それに俺…どうしよう、今日の一番のライバルが好きなひと、だなんて…こんなの、わからない」

今日の大会の優勝候補筆頭の周太。
その対抗馬と射撃関係者でひそかに言われているのが国村だった。

クマ撃ちの家系に生まれた国村は、幼いころから猟の現場に立って14歳からライフル射撃に親しんでいる。
そんな国村は射撃についても抜群のセンスを備えてる、それで警察学校入学直後の拳銃射撃訓練で10点満点を出した。
そういう素質を見込まれ入校直後に関わらず本部特連に選抜された、けれど国村は迷惑だと痛烈なやり方で断ってしまった。
それ以来ずっと、また特練指名されたくないと訓練でも2割はわざと9点を狙撃するようになった。当然に大会出場も一切断った。
そんな国村は本部の射撃指導員には知られる存在となり「伝説のスナイパ―」だと仰々しい名前まで付けられている。
きっと本人にとったらどうでも良いことだろうけれど。

それでも、今日の大会が人生の分岐点であり優勝候補筆頭の期待も負った周太には、そんな国村の存在はプレッシャーになる。
その最大のライバルが初恋の純粋無垢なままに愛しあう相手、こんな状況は周太の性格では混乱して当然だろう。
微笑んで英二は周太の背中を軽くポンと叩きながら微笑んだ。

「周太、まわりも相手も関係ないよ?」
「…関係、ないかな?」

素直なまま困惑している周太は、どこか幼げで可愛らしい。
ちいさい子供を抱きしめているような優しい想いが英二の心を温めていく。
優しい幸せな想いに充ちていくまま英二は、ポンとやわらかに背を叩いてやりながら微笑んだ。

「うん、だって周太?周太はね、お父さんの為にここに立っている。
お父さんの想いと真実を見つめるため、お父さんが立っていた場所に立つんだろ?
きっとこの大会にお父さんも立っていた、それだけ見つめていればいい。周太が後悔しないように真直ぐ見つめたら、それでいい」

「後悔しないように…お父さんを見つめて…」

途惑ったままの黒目がちの瞳が見つめてくれる。
一生懸命な表情が英二を真直に見つめ、すこし考えると微笑んだ。

「ん、…そうだね、英二?俺、頑張ってくる…父の姿と、的をね、真直ぐ見つめてくる。
そして父の想いを追いかけてみせる、全ての想いを見つめて父を理解して受け留める…そして、英二?」

真直ぐに黒目がちの瞳が見つめてくれる。
どうしたのかなと微笑んで見つめた英二に周太は言ってくれた。

「俺ね…いつか、英二のために…」

告げようとしてくれる想いに英二は微笑んだ。
この想いはたとえ叶わなくても、告げてもらえただけで十分幸せに想えてしまう。
やさしく英二は周太の言葉を遮った。

「うん、周太。ありがとう、…ほら、時間だよ?」

笑いかけながら英二はスーツの胸ポケットを探った。
探った長い指がオレンジ色のパッケージを取り出すと、一粒とり出すと残りはまたしまう。
そして黒目がちの瞳に英二は笑いかけた。

「はい、周太?あーん、して?」

すこし微笑んで周太は素直に口を開いてくれた。
その口へ「はちみつオレンジのど飴」を静かに入れてやると、黒目がちの瞳が微笑んだ。
ふわっとオレンジの香が漂っていく、うれしそうに口を動かす周太に英二はきれいに笑って促した。

「さ、行こう、周太?ちゃんと近くで見ているよ、」

話しながら地面に落ちている制帽を拾いあげて、そっと埃を払い落とす。
きれいになった制帽を周太に被せてやりながら、黒目がちの瞳を覗きこんで英二はきれいに微笑んだ。

「声に出さなくても周太を応援している、きちんと見ているから。ね、周太。安心して?」
「ん、…ありがとう、英二」

黒目がちの瞳が笑ってくれる、その笑顔がまた清明に美しくなっている。
あの11月の大会の時と比べて周太は本当に綺麗になった、そんな実感がふっと湧いて心裡で英二は微笑んだ。
一緒に術科センター建屋のゲートをくぐると、お互いの所属の許へとふたり別れた。

「見てるよ、周太?だから安心して、」
「ん。俺、頑張ってくる…見ててね?」

綺麗な微笑みを英二にくれると周太は新宿署の先輩たちの輪に戻っていった。
遠ざかる活動服とゼッケンの背中を見送って英二は踵を返した。
と、底抜けに明るい目と視線がぶつかった。

「湯原が世話をかけたみたいだね、宮田?ま、可愛い子の半べそはさ、眼福だよな?」

いつものように飄々と国村が笑っている。
けれど英二は国村の「いつものように」の姿に目が大きくなった。

「国村、おまえ、その恰好どうしたんだよ?」

驚いたまま英二は率直に質問をした。
そんな自分のアンザイレンパートナーに国村は愉しげに笑って魅せた。

「おい、宮田?おまえまで驚いてどうするのさ?俺がね、こういうことするってくらいはさ、おまえなら解っていただろ?」

誇らかな自由に純粋無垢な笑顔が笑っている。
たしかに言われた通り「こういうことする」と自分は予想していただろう。
どんな想いで国村が今日はこの場に臨むのか?きっと英二が一番知っているのだから。

なにより大切にする周太が苦しい道に立つ原因。
なにより尊ぶ「山」そして死者に見つめている「生命と想い」を軽んじた。
こんな二重の過ちを犯していく組織と人間たち、それらを真直ぐ見つめ判断を下し罰を与える。
この為に今日の国村は、ここ警視庁拳銃射撃大会で、拳銃射撃の頂点を競うセンターファイアピストル競技に立つ。
いま、ここに立ち、大切な存在と誇りを守る戦いを始めた国村の明るい誇らかな自由の笑顔がまぶしい。
こんな美しい顔の友人がうれしくて英二も笑ってしまった。

「うん、そうだな?俺、考えたりはしたよ、でもね?ほんとにやるなんてさ」
「ほんとにやらなかったらさ?『俺』じゃないだろ、」

本当にその通りだ。
そしてこんなアンザイレンパートナーが自分は誇らしく大好きだ。
ほんとうに愉しくてうれしくて、英二はきれいに大らかに笑った。

「そうだな、国村?おまえはさ、最高の山ヤだ。
 最高のクライマーでさ、この警視庁で山ヤの警察官のトップに立つ男だよ?だからこの格好は正しいって俺も想う」

この男のパートナーであることが誇らしい。
そんな想いで見つめる先の底抜けに明るい目は、愉しげに英二の肩をポンと叩いた。

「だろ?やっぱりさ、おまえは俺のアンザイレンパートナーだね、」
「おう、俺はおまえのパートナーだよ?まあ、今日のフォローはちょっと大変そうだけどな、」
「おまえなら大丈夫だろ?よろしくね、俺の専属レスキュー、」

笑いながら並んで英二と国村は歩いていく。
選手用ゼッケンを付けた国村の姿を見て、みんなが振り返って驚いていく。
それもなんだか可笑しくて愉快で、英二と国村は笑った。

「じゃ、宮田?ちょっと俺はね、戦ってくるよ?見届けてくれな、俺のアンザイレンパートナー」
「おう、見届けるよ?」

笑い合って、互いの掌を軽やかに叩き合うと国村はいつものように、きれいな姿勢で歩いて行った。
見送って英二は青梅署の補欠メンバーが待つ観覧場所に行くと、濃紺の制服かダークスーツ姿の選手が居並ぶホールを見渡した。
そして衆目を集めても昂然と微笑む自分のアンザイレンパートナーの姿を見つけて、英二はきれいに微笑んだ。

警視庁青梅警察署山岳救助隊服。
オレンジ色とカーキ色の隊服姿で国村は警視庁術科センターに立っていた。

山の静穏と人命救助に駆ける山岳救助隊服姿、その腰にホルスターをかけ拳銃を携行し、登山靴で国村は真直ぐ立っている。
カーキの山岳救助隊制帽の鍔の下で、底抜けに明るい目は誇らかな自由に笑っていた。
いつも通りの姿と、いつも通りの笑顔のままで。


blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第35話 予警act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-02-22 22:42:04 | 陽はまた昇るside story
旋律、悪戯な支配者




第35話 予警act.1―side story「陽はまた昇る」

午前5時、窓の外は黎明時に星が降っていた。
カーテンを開け放した窓ガラスはあわい白に曇っている。
2月上旬の奥多摩は寒い、きっと今は零下1度くらいかな?水滴に曇る星空を見あげ英二は微笑んだ。
ライトは点けず星明りと山の稜線の雪灯のなか、ベッドに座り壁に凭れて英二はIpodに流れる旋律と心傾けていた。


微笑んだ瞳を失さない為なら
たとえ星の瞬きが見えない夜も
降り注ぐ木洩れ日のように君を包む
それは僕の強く変わらぬ誓い
夢なら夢のままでかまわない
愛する輝きにあふれ明日へ向かう喜びは 真実だから…

3週間ほど前に聴いた、透明なテノールとピアノが奏でていた旋律。
鑑識調査のテスト射手として青梅署を訪れた周太に、国村が御岳の自室で贈った想いをのせた旋律だった。
あの日は鑑識実験の翌日で英二は日勤だった、あの朝の御岳山巡回に周太と非番の国村も付きあってくれた。
下山して2人と別れてから御岳の町を1人で巡回して、そして偶然に耳にした国村のピアノと歌声。
やさしい低い歌い方なのに透明に響く声と旋律は、雪の戸外にいる英二にも届いて記憶に残された。

またあの旋律と声を聴きたい。
そう想ったけれど国村はピアノが弾けることを英二には言っていないし、誰も知らないでいる。
きっと男論理の強い国村のことだから「らしくないだろ?」という調子で内緒にしたいのだろう。
それならと原曲をwebで探して、見つけたCDアルバムを発注した。ちょうど昨日に届いてアルバムごとIpodに入れこんである。
今朝は時間よりだいぶ早く起きられたから、ちょっと視聴しようと英二は聴いてみていた。

いま穏やかな夜明け前の時間、けれど数時間後には警視庁けん銃射撃競技大会が始まる。
新木場にある警視庁術科センターに警視庁の全警察署から射撃の名手が集められ、射撃の能力を競い合う。
青梅署からはセンターファイアピストルの正選手に国村をエントリーした、その付き添いで英二も新木場へ行く。
なぜ英二が付添うことになったのかは、本当は拳銃嫌いの国村がエントリーを聴かされ不貞腐れたことが発端だった。

「俺の射撃はね、ライフル専門でクマ撃ちが本職だよ?嫌だね、拳銃なんかさ」

そんなふうに言い張った真意は、大会が2月だったことが一番の問題だった。
12月中旬から4月までは国村が最も愛する雪山シーズン、ことに1月2月の新雪が美しい時期は楽しみにしている。
まして国村は兼業農家の警察官だから冬の農閑期は大好きな「山」に専念できる。
だから国村にとって冬は山のベストシーズンだった、そんな楽しい時間を拳銃の競技会に奪われる事に国村は腹を立てた。

「なんだってさあ、こんな拳銃の競技会ごときにだよ?
俺の大切な雪山の時間をとられなきゃいけないんだ、雪山は今の時期限定だっつうのにさ。だいたい銃で競技会とか変だね。
俺の射撃はさあ、クマとの命を懸けた緊急措置用なんだよ。競技じゃない、真剣な命のやり取りだ。まじフザけんなよ、なあ?」

射撃練習場の武蔵野署へ行く時も時折、こんなふうにゴネて笑っていた。
たしかに国村のいう事は筋が通っている、けれど術科大会とはいえ警察組織では任務で命令になる、逆らうわけにもいかない。
そんな国村は本気で嫌なら辞職するだろう、本来が自由人で山と酒さえあれば満足だから「警察官」に執着など欠片も無い。
けれど国村は警視庁から世界ファイナリストを出すための大切なクライマーだから警視庁山岳会は辞職させたくない。
そういう事情も知っている国村は出場にあたって3つの条件を青梅署に提示した。

射撃訓練は業務時間内だけすること。
訓練も大会も1人はつまらないから宮田も同行すること。
射撃訓練の後は、登山とビバークの訓練もさせてくれること。

国村と英二は公私ともアンザイレンパートナーを組んでいる。
それを主張して国村は、自分が嫌なことをやるのだから当然パートナーの英二も一緒にやるべきと条件に入れてしまった。
この条件を青梅署は全部飲んでしまった、そんなわけで今日も英二は付添いで新木場の術科センターへ行く。

そして周太は新宿署のセンターファイアピストルの正選手にエントリーされている。
卒配直後11月に開催された全国警察けん銃射撃大会に、異例の選抜で周太は出場し満点優勝してしまった。
そんな周太は当然、今回の優勝候補筆頭に挙げられている。
そのことがきっと今日の早起きの原因だろう、仕方ないなと英二は自分に微笑んだ。

周太は「射撃の秀でた警察官」だった父親の人生をトレースしようとしている。
殉職した父の軌跡を辿ることで失われた父の想いと真実を知る、その目的を支えに周太は事件後13年間を生きてきた。
この目的が終わらなければ「時」の枷を周太は外せない、たとえ危険でも周太は目的を最後まで辿り終えるしか道がない。
だから自分は周太を支えようと決意した。この道が困難で危険なら自分が守り支えて行けばいい。
周太の望みのままに父の軌跡を見つめ終えさせてやりたい。
そして「いつか」穏やかな幸せに周太が生きられるように、この道の涯を一緒に見つめて行けばいい。

今日の大会によせる上層部と組織的な真意、それが周太を危険な道へと立たせることに繋がってしまう。
その危険な道へ立つことこそが周太の父の軌跡を辿る鍵になる、それこそ周太の望みだと知っている。
きっと周太は今まで通り今日の大会でも全弾的中するだろう。
そしてまた一歩、周太は父の軌跡が惹きこんでいく困難と危険へと近づいていく。

そんな予兆と確信が英二の意識を冴えさせて、軽い緊張を体と神経にもたらしている。
この精神の冴えと緊張が予定より早く目覚めさせた、けれど早暁の音楽を聴いて過ごす時間が英二は好きだ。
たとえ今日の目覚めが緊張によるものとしても、早起き出来たおかげで新しい曲の試聴きが出来ることは嬉しい。
こんな自分は結構ずぶといのだろうな、そんな自分が可笑しくて英二は微笑んだ。
窓の外はまだ星が明るい、夜明けまで暫くの間がある。まだゆっくり曲を聴いていられるだろう。
おだやかな時間のこういう余裕はうれしい、寛いだ気持ちに英二は窓の星ふる稜線を眺めて愉しんだ。

あざやかな君が僕を奪う
季節は色を変えて幾度廻ろうとも
この気持ちは枯れない花のように
夢なら夢のままでかまわない 
愛する輝きにあふれ胸を染める 
いつまでも君を想い…

いま聴いている原曲は想ったよりも激しい印象がある、やさしいトーンで国村は歌っていたから少し意外だった。
ピアノの透明でやわらかな旋律に合わせて国村は歌っていたのだろう。
それでも歌詞からは国村の14年間の想いが伺えて心に響いていく。
そして原曲のトーンにはどこか雄渾で繊細な雰囲気が感じられて「山」至上主義の国村には似合う。
どちらも国村に似合っているな?そんな想いも愉しみながら英二は早暁の音楽の時を楽しんでいた。

次の曲名を見ようとCDのジャケットを手にとったとき、ふっと携帯の着信ランプが灯った。
たぶんそうかな?素直に感じた名前の主を想いながら携帯をひらいて、予想通りに英二は微笑んだ。
Ipodのイヤホンを外しながら携帯の通話を繋ぐと、英二は電話の向こうへきれいに笑いかけた。

「おはよう、周太」

すこし遠慮がちで気恥ずかしげな、それでも笑ってくれるのが解る。
うれしそうな微笑をふくんだ声がそっと朝の挨拶を告げてくれた。

「ん、おはよう、英二…起きていたの?」
「うん、音楽聴いていた。周太、ちゃんと眠れた?」
「ん、…昨夜は電話のあと、すぐ寝たから…国村と、すこし電話したけれど」

周太と国村はメールや電話をするようになった。
そうして今、ふたりは抑えられた14年間の想いと記憶を紡ぎ合うように「時」を動かしていく。
きっと前の自分なら嫉妬に駆られたろう、けれど今は嫉妬を想えなくなってしまった。
この14年間の想いをよせた国村の歌を聴いてしまったから、そして周太の想いが解るから。

 …季節は色を変えて幾度廻ろうとも この気持ちは枯れない花のように  

ただ一度ひと時の出逢いだった。
そう周太は教えてくれた。その出逢いが幼い周太にとって大切で「再会」の約束をしたと話してくれた。
けれど出逢いのすぐ後に周太の父は殉職した、その衝撃で周太は父の記憶ごと国村との記憶と約束まで失ってしまった。
それでも国村はひとり、その瞬間のような出逢いをずっと見つめ続けていた。
ずっと見つめて再会の約束を信じて14年間を「時」を止めるように待ち続けていた。
そして再会したとき周太は記憶が無く隣に英二がいた、だから国村は見守るだけで満足していた。

 …微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も 
  降り注ぐ木洩れ日のように君を包む それは僕の強く変わらぬ誓い

あの歌によせた国村の想いのままに、再会して笑顔が見られるだけで国村は幸せだった。
けれどテスト射手を国村と務めたとき周太は記憶が戻った、そして国村は14年の時を超えて再び想いを告げた。
これだけを英二は繋いだ周太との電話で、すこしずつ教えてもらった。
そして、ふたりの恋と愛に心が響いてしまった。
国村の純粋無垢で一途な大らかな恋と愛がまばゆかった、この男をやっぱり好きだと想った。
それを電話で話してくれた周太の声も気配も清らかで、純真が薫るようで愛しかった。
ふたりの大切な想いを守ってやりたい、そう素直に英二は想えて嫉妬は軽く消え去ってしまった。
そんな自分が誇らしく嬉しい、いまの心に微笑んで英二は周太の声に耳を傾けていた。

「…でね、国村はね、『ちょっと驚くだろうけど、気にしないでね』って言うんだ…何かするのかな?って思うんだけど」
「そうだね、周太。あいつのことだからね?何もしないで終わったらさ、逆に心配したくなるかもな」
「ん、…青梅署の人たち困るよ?って言ったんだけど『それも込みで俺を出場させるんだろうしね、』って…そうなの?」

どうやら国村は今日の大会で「ちょっと驚くだろうけど、」を実行するつもりらしい。
ある意味で予想通りの展開だな?可笑しくて笑いながら英二は周太に答えた。

「そんな時の為にね、俺が付き添いで行くことになってるから。まあ、仕方ないのかな、」
「そう…頼られてるんだね、英二…俺もね、英二をすごく頼ってるから、青梅署の人たちの気持ち、分かるな」
「うれしいよ、周太。もっと甘えてよ?そのために俺はいるんだからさ、」
「ん、…今もね、甘えてるよ?…こんな朝早くに電話して、ごめんね?」

気恥ずかしげで可愛らしい溜息が、そっと英二の耳を電話越しにくすぐった。
ここから本題かな?穏やかに微笑んで英二は周太に言った。

「うれしいよ、俺を想い出して声を聴かせてくれてさ」
「ん、…俺、不安で…今日がどうなるのか、って…自分で選んだことなのに」

不安で当然、それが英二にはよく解る。
本来、やさしくて穏やかな繊細な性質の周太には、こんな状況が楽しいわけがない。
それでも生来の聡明さで無理に自分を抑えてこの危険な道に立っている、周太は危険を楽しむような性格ではない。
そこが最高峰に立つ危険すら喝破して楽しむような英二や国村とは大きく違う。
そういう穏やかな静謐やさしい周太の空気が自分はずっと好きだ、その空気を「安心」で包んで守りたくて英二は微笑んだ。

「大丈夫、周太。今日も俺は近くで見ているよ。国村も周太を守りたくて、その為にも今日は出場する。だから気楽にしてよ?」
「ん。ありがとう…我儘だけど、でも。お願い英二、隣にいて?俺を支えていて、」

いつもの声にかすかな揺れがある、その揺れすら愛しいと想えてしまう。
こんな我儘は大歓迎だよ?こんな願いも込めて英二は電話の向こうに約束と微笑んだ。

「今日の結果次第でこの先なにが起きても、俺は必ず周太の隣にいる。国村も同じこと言ってくれたろ?」

英二の言葉に頷いてくれる気配が届いた。
そして哀しそうでも落ち着いた声が想いを告げてくれた。

「ん、昨夜も言ってくれた。でも…俺の我儘で、ふたりを巻き込むのが怖いんだ。
それでも今更もう止められない…ふたりを巻き込むのに、それなのに…英二、ほんとうにごめんなさい…」

「謝る必要なんかないよ、周太。お父さんの想いを全部きちんと見つめよう?
それはね、俺自身が知りたいことでもあるよ。俺は周太のお父さんが好きなんだ、だから知りたいんだよ、真実の姿も想いも」

明るく大らかな想いに英二は笑って応えた。
どうか気にしないで?ほんとうに自分が望んでやることだから。
だから一緒に見つめさせてほしい、隣にいることを受入れていてほしい。
そんな想いたちを電話越しに告げていくうち、ほっと安堵が薫ってすこし周太は笑ってくれた。

「ん、ありがとう。俺ね、今日も真直ぐに的を見つめてくるね、」
「きっと大丈夫だよ、周太。会場ではあまり話せないかもしれないけど、ちゃんと見ているから」

今日は署対抗の競技大会になる、だから別の署だと話す機会も少ないだろう。
なにより今回は都心の警察署に対して、山岳地域警察の意地をかけて青梅署はエントリーしている。
青梅署はテスト射手を務めてもらった周太には感謝しているけれど「副都心警察」には対抗心があるだろう。
そんな事情で話す機会は限られるだろうけれど、近くで見守れるだけでも良かった。
こんなふうの感謝に微笑んでいる英二に周太は話してくれる。

「ん、見てて?たまにはね、俺の警察官らしいとこもね、見てほしいから」
「警察官の周太、いいね?可愛い子がストイックなのは色っぽいしね?」
「…それくにむらにもいわれたんだけどそういうこといわれると、ほんときょうへんにきんちょうするから…」
「仕方ないよ、周太?ふたりとも周太の色っぽいとこ大好きだからね、楽しみにしとくよ」
「ん、…喜んでもらうのは嬉しい…でも、あまり注目しすぎて、緊張させないで?…あぶないから、ね?」
「うん、気を付けるよ、」

笑いあいながら話していくうち周太の気配が落着いていく。
そうして声の不安が和らいでから周太は電話を切った。
携帯を閉じながら窓を見ると星はまだ明るい、たぶん5時40分位だろう。
そんな予想でクライマーウォッチを見ると、今日も当たりだった。

まだ20分は充分にゆっくりできるだろう、Ipodのイヤホンを繋いで壁に背もたれた。
スイッチを押すとガラスが砕ける音が鼓膜を打つ。
そしてテクノトーンがビートを刻んだ。
 …
 Calling the fallen angel Rolling on cold asphalt
 Calling the fallen angel Rolling on cold asphalt
 Calling the fallen angel Rolling on cold asphalt
 Warning No salvation Starting Now let’s play tag!…


きれいな英語が流れていく。
グラマラスな曲調がアップテンポなビートで疾走感を届ける。
ちょっと雪のなかを疾走する四駆みたいだな?そんな感想に微笑んだとき日本語の歌詞が入った。

 …
 降臨、近寄るな危険 道を空けてくれ
 悪戯な支配者 無法な世界で 
 選ばれし頂点 神への疾走 手の鳴る方へ…

なんだか誰かさんみたいだな?ちょっと可笑しくて英二は笑った。
さっき周太が教えてくれた「ちょっと驚くだろうけど、気にしないでね」と言った国村の真意が重なってしまう。
この大会のエントリーが決って武蔵野署へ練習に行き始めた頃。
武蔵野署へ向かうミニパトカーで国村は「つまらない大会を楽しむ方法」を英二に話したことがある。
それはまさに「近寄るな危険」な方法だった、しかもこの歌詞はどうだろう?笑って英二は口遊んだ。

「悪戯な支配者 無法な世界で 選ばれし頂点」

最高の山ヤの魂を持つ国村は峻厳な掟「山」のルールに生き、誇らかな自由に立って人間の範疇には捉われない。
そんな国村からしたら、人間的な出世や名誉に縛られる警察社会は山の規範から大きく逸れた「無法な世界」だろう。
けれど国村は自由で豪胆なうえ怜悧な冷静沈着を備えて、真直ぐ的確な視点から「警察組織の規範に乗った自由」も造りだす。
そういう賢明な自由に立って国村は、最高の山ヤの魂を持つと青梅署でも警視庁山岳会でも愛されている。
愛され最高のクライマーの素質を嘱望されて最高峰踏破の権利を認められた「選ばれた頂点」に国村は立っている。
そういう国村だからこそ、今回の大会における3つの条件すらも承諾された。
きっと今日も賢明な自由に立って「悪戯な支配者」として今回の大会を支配し優勝するつもりだろう。
そして「無法な世界」にキツイお灸を据えるつもりでいるに違いない、ふっと英二は微笑んだ。

「…国村?おまえはさ、ほんとうは怒っているんだろ?」

国村は警察組織に怒りを抱いている、それが英二には解る。
周太の父が殉職に追い込まれたこと。その遠因は警察組織の暗部に曳きこまれたからだった。
この「殉職」が周太と国村の初恋を引き離し、13年間の孤独に周太を閉じ込め危険な道へと立たせた。
誰よりも何よりも国村が大切にする周太に苦しい生き方を強いていく警察組織、これを国村は許せないだろう。
そのうえ都心部の警察署長は青梅署長に対して、国村が最も嫌うことを言ってしまった。

 『山と死人ばかり相手にして、警察官らしい能力は不要で楽ですね』

今日の国村は青梅署の意地を懸けて大会出場をする。
この「青梅署の意地」を青梅署の人間は国村には隠したまま出場させるつもりだった。
山の掟に生きる山ヤの警察官を、人間的範疇の虚栄心から侮辱した相手を国村がタダで済ませるわけがない。
それが解っているから皆は黙っていた、けれど賢明な国村は全てに気づき知っている。

自分がなによりも大切にする周太を苦しませている。
自分が尊ぶ「山」そして死者に見つめる「生命、想い」を侮辱し軽んじる発言をした。
こんな二重の過ちを犯した組織と人間たちを、どんなふうに国村が思い、考え、裁いてしまうのか。

 …
 悪戯な支配者 無法な世界で 
 選ばれし頂点 神への疾走
 捉えた標的 狙い定め
 逃れないloser 勝利を掴め 手の鳴る方へ 
 I’m chasing you get away 

疾走感あるグラマラスなビートが、冬富士が猛った雪崩の咆哮を想わさせる。
あの冬富士で遭った雪崩の平等に容赦ない威力と国村の怒りは似ていると英二は知っている。
あの雪崩の翌日に英二は周太に対し過ちを犯した、そのとき国村が英二に見せた怒りは純粋無垢な怒りだった。
純粋無垢なまま容赦なく真直ぐな怒りは、曇りなく美しいとすら英二は思った。
あんなふうに怒りを国村は今日はぶつけるつもりかもしれない。

あの悪戯な支配者は、この無法な世界への怒りをどう顕わすつもりだろう?
きっと国村は怒りの標的を的確に捉えるだろう、自分の勝利を掴んで満足げに笑ってみせるに違いない。
ほんとうは「付添い」の英二は悪戯による支配を止めるべきかもしれない。
けれどたぶん本当は?と、英二は思う。
本当は青梅署の誰もが今回の大会で、誇らかな自由のまま国村が裁可することを望んでいると思う。
そうでなければ拳銃にこうも気難しい国村を、わざわざ無理矢理エントリーさせないだろう。

「…どっちにしても、ちょっと俺には止められないよ、な?」

思わずこぼれた呟きに英二は微笑んだ。
きっと国村の想いを一番に理解できるのは自分、そんな自分が国村を止めたいとは想えない。
誇らかな自由のままに怜悧な判断力で国村は今日の大会も支配する、その姿を見たいと想ってしまう。
そういう誇り高い自分のアンザイレンパートナーは英二にとっても誇らしい。
それに国村が自分に寄せてくれる信頼と友情の真実も知っている、だからこそ余計に自分には止められない。

数日前に御岳小橋で発見された投身自殺、その遺体を英二だと思った国村は心と言葉を喪うほどに衝撃を受けた。
その遺体は年頃から背格好に着ている登山ウェアまで英二と似ていた、そして失恋が原因と書かれた遺書を握っていた。
あのとき国村は、英二を失った悲嘆と自分の初恋の為に大切な英二を死へ追い込んだと自責してしまった。
そして純粋無垢な山ヤの魂のままに心を壊してしまった。
国村の異変に気づいた岩崎が発見した時は、国村は無言のまま呼びかけにも反応しなくなっていた。
そして英二が呼ばれたときには、いつもの明るい瞳はただ真黒に一点を見つめ、蒼白の顔は人形のように固まっていた。
けれど英二の呼びかけに国村は戻った、また底抜けに明るい目で笑い透明なテノールの声で名前を呼んでくれた。

―…ほんとうに大切なんだよ、おまえのこと。
 おまえが死んだと思った時にね、すべてが終わったんだ、俺。
 なにも考えられなかった、世界の音も色も消えたんだ。おまえを失って絶望したんだ、俺は。
 それでもね…あのひとを愛することは後悔できない。でもね、きっと、あのひとも哀しむだろうって想った。
 その哀しみを想うとさ、ほんと苦しいよ?だから宮田、これは我儘だけどさ。あのひとと俺の為に、死なないでくれ

そんなふうに率直に想いを隠さず言ってくれた。
英二を心から大切に想うからこそ、周太への想いも隠さず真直ぐに言ってくれる。その信頼と真心が嬉しかった。
失ったら心を壊すほど大切に想われている、自分は独りじゃない。この喜びが心から幸せで温かい。
この喜びも英二が周太への愛情を見つめなおした、その姿勢に国村がより認めてくれたからだと知っている。
たしかに自分が周太に犯した罪は重い、けれどその罪を見つめたからこそ自分は気づけた、そして国村との信頼がより強くなった。

今日もこの信頼に立って国村は暗黙の裡に英二へと「秘匿」の協力を求めるだろう。
そして「ちょっと驚くだろうけど」を実行して誇らかに笑い、この不本意な大会を英二と一緒に愉しむつもりでいる。
まあ成るように成るだろう?そんな想いに立ちあがって部屋着のシャツを脱ぎ始めた。
シャツを脱ぎワイシャツを羽織ってボタンを留めながら、ふっと首から提げた合鍵に指がふれる。
そのまま合鍵を握りしめて軽く英二は瞑目した。

この合鍵は周太の父の合鍵だった。
あの春の夜に周太の父が殉職したとき、活動服の中に首から提げられていた。
この鍵がそのとき血に濡れたことを英二は、周太の父の同期だった武蔵野署射撃指導官の安本から聴かされた。
あの春の夜に安本は周太の父を看取り犯人を逮捕した、そして遺品の整理も行っている。
それでこの鍵が当時はどんな状態だったかを知っていて、武蔵野署での訓練の合間に教えてくれた。

―…湯原はあの日、周太くんに本を読む約束だって話してくれた
 庭の桜を家族3人で観ながら、ココアを飲むんだって楽しみにしていた…奥さんのココアが一番、美味しいって
 この鍵は大切にしていたよ。宮田くんと同じように首から提げていた、この鍵で必ず家に帰れるように、ってね
 あの日、この鍵は湯原の胸で血に染まっていた…あいつの帰りたい想いが血になって鍵にしみこんだ、そう思ったよ…

いま英二の掌に収められているこの鍵は、周太の父の想いと記憶がしみ込んだ鍵。
どうか、今日も周太を支えられますように。
握りしめる鍵に祈りを捧げると、しずかに見開いて微笑んだ。

英二は周太の父の想いを辿るために、周太の父親の視点に立って周太の隣で生きることを決めた。
そうやって周太の父を追体験することで周太の父の姿と真実を得られるだろう。
そうして得た姿と真実を周太に示していくことが、きっと周太の心を救っていく道になる。
だから今日も周太の父の視点で大会を見ていく。

どうか力を貸してください、あなたの息子を守るために。
願いを込めて英二は掌を開いた。掌から離れた鍵は温められ、また英二の胸元にそっと提げられた。


【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」「CHASE」】

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 純文学小説へにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第34話 萌芽act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-02-21 21:38:51 | 陽はまた昇るside story
ただ、温もりをとどけて




第34話 萌芽act.2―side story「陽はまた昇る」

本仁田山を下山すると7時だった。
安寺沢の登山口に停めておいた国村の四駆に乗ると、細い目が笑って提案してくれた。

「おまえさ、野陣尾根に行くって言っていたな?途中まで送ってやるよ、」
「ありがたいけどさ、時間大丈夫か?」
「まだ7時だ、このまま御岳駐在まで行ったらね、早すぎだろ?」

そんなふうに気軽に笑って、八丁橋まで送ってくれた。
白銀の雪かがやく橋での別れ際、底抜けに明るい目が真直ぐに英二を見つめて言ってくれた。

「宮田。俺はね、おまえを守るよ。
おまえは俺の唯ひとりのアンザイレンパートナーだ、そして、大切なひとが愛する男だよ。
俺だってね、宮田?おまえが想ってくれるように、おまえも大切なひとも守りたいんだよ。これはね、俺の誇りを懸けた約束だ」

透明なテノールの声は誇らかな自由に温かい。
この「大切なひと」が誰かなんて訊く必要もなく解る、自分と国村はよく似ているから。
細かい言葉が要らない信頼が幸せで、そんなアンザイレンパートナーの存在が幸せで英二は心から笑った。

「うん、ありがとう。大切なひとのこと、頼んだよ?…ほんとうに、ありがとう。国村、」
「こっちこそだよ?俺にとって宮田はね、掛替えのない大切な『鍵』だ、」
「鍵?」

思わず訊きかえした英二を底抜けに明るい目が見つめてくれる。
見つめる温かいまなざしが大らかに笑って応えてくれた。

「最高峰へ登っていく夢が現実に動き始めたのはアンザイレンパートナーのおまえが現れたからだ。
俺が大好きな雅樹さんの想い、それを繋いで吉村先生の時を動かしたのも宮田、おまえだよ。
そしてね…大切なひとと俺の時間がふたたび動き出したのは、宮田が俺の隣に立ったからだ。そうだろう?」

大らかな温かいまなざしが真直ぐ英二を見つめてくれる。
こんなふうに自分の努力と想いを真直ぐ受けとめられている幸せが温かい、英二はきれいに笑って頷いた。
素直に肯う英二に国村は、率直な笑顔を向けて想いを告げてくれた。

「この奥多摩に宮田が来て俺のパートナーとして隣に立った、そして俺の大切なものは時を刻み始めた。
おまえは俺の大切な時を動かす『鍵』になっている。だから宮田、おまえの居場所はここだ。俺に並ぶのはね、おまえだけだ」

純粋無垢で力強い意志を真直ぐに向けてくれる。
必要だと偽らない心で言ってくれる真実がうれしくて、きれいに英二は大らかな笑顔を咲かせた。
前は周太の隣だけが居場所で帰る場所だった、実母を捨て実家に帰れない自分には恋愛だけが全てだった。
けれどいまは友人がいる、生涯をかけて互いを守り尊敬しあうと決められるパートナーがいる。
出逢ってずっと周太だけを見つめていた、周太だけ掴んで縋っていた、たとえ真剣でも盲目の愛だった。
けれど盲目の愚かさに気がついて静かに開いた掌には、こうして温かで頼もしい友情が明るく笑ってくれている。
もう独りじゃないんだな、そんな想いの温もりに微笑んで英二は大好きな友人に約束をした。

「ありがとう、国村。俺はね、おまえのアンザイレンパートナーを一生やるよ?
だからさ、おまえの横に並ぶためにも俺は、いつも無事に帰るよ。今日もちゃんと帰る、今夜も一緒に飯、食おうな?」

大丈夫、俺は居なくならないよ?
切長い目に想いを告げながら英二は夕飯の提案を国村に示した。
示された想いに底抜けに明るい目が笑って、愉しげに頷いてくれた。

「おう、御岳駐在から戻ったらね、診察室に直行するよ?またコーヒー頼んだよ、宮田」
「うん、淹れる支度しとくよ?今日はさ、吉村先生の手伝いが俺、ちょっとあるから自主トレ行けないけど、ごめんな?」
「昨日も言っていた鑑識の件だね、また話、俺にも聴かせてくれよな?」

いつものように笑い合って国村は四駆に乗込んだ。
運転席の窓を開けて「じゃ、またあとでね、」と底抜けに明るい目で笑うとハンドルを国村は捌いて氷川方面へと四駆を向けた。
来た道を戻っていく四駆を雪の林道で見送ると英二は、一旦脱いでいたアイゼンを履きなおした。
そして雲取山を仰ぐと笑って、朝陽に明るむ雪の橋を渡った。

日原林道は雪の静謐にねむりこんでいる。
この場所を周太と歩いた11月の中旬過ぎは、錦秋の秋だった。
落葉松の黄金、漆の朱色、蔦の深い赤紫。目を醒ます真赤な紅葉、常緑樹と針葉樹の濃緑、黒い幹。
あざやかな紅から黄色のグラデーションと濃緑から黒が深い、色彩の対照と輝きにあふれていた。
木洩日も赤に黄あわい緑と瞬きながら道を照らしていた、ここの秋は色も光もあざやかだった。

―…うれしい、…目の底まで、紅葉で染まりそうになる

錦秋の秋を見あげて呟いた声は明るく微笑んでくれた。
13年前の父の殉職事件にひとつ決着をつけた後の安堵と、秋の美しさに周太の笑顔は輝いていた。
その笑顔がうれしくて幸せだった、3ヶ月前の晴れた秋の陽ざしのなかでの記憶。
やさしい記憶を見つめながら英二は、雪そまる日原渓谷を見渡した。
いま白銀のねむりにつく日原は、朝陽の輝きにどこまでも透明に佇んでいる。
ひとり雪を踏むアイゼンの噛みしめる音がただ、しずかに雪へ吸い込まれて閑寂が響いていく。

こんな静謐も自分は好きだな。おだやかな想いに微笑んで英二は、唐松谷林道分岐点から右へと入った。
すこしブナ林を歩くと林道をすこし逸れる、消えかけた仕事道へと入っていく。
歩を進めるたびに雪を踏みしめる音と白い吐息が、静かな山の空気にとけこんだ。
そうして並ぶ木々を縫っていくと、ぽっかりとした空間が急に拓ける。
いつもどおりの空間がうれしくて英二は微笑んだ。

雪に埋もれる切株が2つと倒木が1つある。
その奥には空を抱くように豊な梢を戴いた大きな木が佇んでいる。
後藤副隊長から譲られたブナの巨樹は、今日も雪を梢にまとって端然と佇んでいた。
根を踏まないように気をつけて歩み寄ると、英二は右掌の登山グローブを外していく。
そして素手になった掌を雪まとう幹に添わせて、ゆっくりと梢を見あげた。

―…きれいだ、…ここに連れてきてくれて、ありがとう

あの日ここに連れて来たとき、ブナを見上げた周太は溜息をついた。
この幹に頬寄せて、樹皮の下を流れる水の音を静かに聴いて微笑んでいた。
瞳を閉じていても樹幹へ耳澄ませていても、顔はこちらに向けて微笑んでいた。
すぐ近くで顔を見つめて独り占めに出来ること、それがあのときは幸せでうれしかった。
今はあの喜び以上に充たされた想いが心の底から温かい、やわらかく笑って英二は口を開いた。

「名前で呼んでくれないの?」

― わがまま訊いてよ、周太。ずっと俺の名前を呼んで?
  わがままを、ずっと?
  そう、ずっと名前で呼んでもらう、わがまま

まだあのときは「宮田」と周太は呼んでくれていた。
けれど名前で呼んでほしくて英二は、この大切なブナの木の下で「わがまま訊いて」とねだった。
呼んでくれたら良いな、そう見つめた想いの真中で黒目がちの瞳は微笑んでくれた。

― …英二?

英二を見つめて呼んで、きれいに周太は笑ってくれた。
やっと名前で呼んでもらえた。うれしくて幸せだったあの日の記憶。

― 英二、…俺も、大好きだから

そんなふうに素直に想いを告げてくれた。
あの想いは今も変わらずに寄せてくれている、ただ、あの時と違うのは周太が本当の初恋を思い出したこと。
その初恋はあまりに純粋無垢で英二の心まで響いて、その恋を守ってあげたいと想ってしまった。
その恋の相手は純粋無垢で誇らかで自分も大好きな男だった、だから尚更に大切にしてあげたいと願ってしまう。
だからこそ。大らかな温もりを抱いて英二は、あの日に周太に告げた言葉をふたたび声にした。

「知ってるよ、でも俺の方がもっと好きだ…笑顔を見せて、俺の名前を呼んで…」

このブナの木の下で初めて名前で呼んでくれたらいい、周太から望んで初めての口づけをして欲しい。
大切なこの場所で、大切な隣との、大切な記憶をつくりたい。
そんな想いであの日ここへ周太を連れてきた、そして「愛している」と自覚した。
まだ独善的な盲目の愛だった、自分が周太に向ける想いが最優先で束縛も正しいと想っていた。
愛してしまった自分は周太を失う日には壊れるかもしれない、そう想った。

けれどいま自分は壊れていない、充たされた心は温かい。
充たされた心が周太の自由な幸せと笑顔を見つめたいと願っている。
自分はもう周太を愛してしまった。そして自分はもう周太に愛されている。
大切なこの場所で大切なひとと告げあって、あの秋の陽のなか大切な想いにおちた。
いま自分は周太の唯ひとりの相手じゃなくなったけれど、それでも想いは何ひとつ色あせずより深くなっている。

― もう、ずっと、愛しているんだ…言えなかったけれど、本当はもうずっと、愛している

周太からの初めてのキスの後、そんなふうに告げてくれた。
この想いは今も真実のままだろう、そして今は甦った初恋の相手のことも周太は愛している。
それは周太の愛情が半分になったわけじゃない。周太はふたり分の想いを受けとめて、そのぶん大きな愛情を抱いている。
だからこそ、そんな周太のふたり分の愛情よりもっと大きな想いで見つめていけたらいい。
もう想いは枯れることはない、だから今の自分は本当に「もっと愛している」と胸を張れる。
いま素直な想いをのせて英二は、秋の陽に告げた言葉をふたたび声に出して微笑んだ。

「きっと、俺の方がたくさん愛している」

樹幹に低く響いた自分の声に英二は笑った。
こんなに自分は明るい想いでいまここに立っている、それが誇らしい。
誇らかな想いを見つめて英二はブナの梢を見あげた。

ブナは用材に不向きなために「用の無い木」と書く、けれどブナは山の貯水力を担ってくれる。
ただ静かに佇んでブナは今日も、氷と雪をまといながら山の水を豊かに抱いている。
水は生命を廻っていく、それを抱いて佇む豊かな包容力がブナにはある。そんなブナが英二は好きだ。
ひそやかに物静かなブナの姿にふっと英二は一節を口にした。

「…いついかなるときも、尽くして求めぬ山のレスキューでいよ。目立つ必要は一切ない…」

富山県警山岳警備隊員の信条のことば、これをクリスマスの朝に新宿へ向かう電車で読んだ。
そして「最高の山のレスキューとして国村を援けるために最高峰へ行こう」と自分は覚悟を決めた。
この信条の言葉「目立つ必要は一切ない」ように、このブナの木も誰にも知られず静かに佇んでいる。
そして「尽くして求めぬ山のレスキューでいよ」の通りに山を潤す水を抱いてブナは佇んでいる。
自分もこんなふうに大きな豊かな包容力で人の想いを受けとめるレスキューでありたい。
いつもそんな願いと祈りを想ってブナの梢を見あげ、山岳救助隊員の任務へ立っている。

この奥多摩の山で出会う、山を愛する人の生命を守る手助けをしていく。
この奥多摩の森に見つめていく、疲れ果てた終焉にここを選んだ人の想いを遺族へ繋いで渡す。
こうして今も幹ふれる掌を、この願いと祈りに血と汗と泥に染めて生きることを自分は選んだ。
この自分が生きる道は心から誇らしく幸せで、これが自分の立つべき場所だったと想える。

この生きる道を選ばせてくれた周太だから尚更に、このブナの包容力で自分は周太を愛したい。
この生きる道に山ヤとして最高の夢と誇りを教えてくれた国村、だからブナの大きさで自分も応えていきたい。
このブナのように最高のレスキューの誇りを懸けて、大切なふたりの隣で生きていきたい。
尽くし求めぬ願いにブナの梢を見あげて、きれいな笑顔で英二は大らかに笑った。

「周太、国村、大切だよ?」

見あげる雪の梢の向こうに青い空を見つめて英二は微笑んだ。
微笑んだ視線をゆっくり下げて映りこんだ切株に、小さな芽ぶきの気配がふくらかに見える。
雪を踏んで近づくと、小さな固い芽が新雪のなかに包みこまれたいた。
きっと春には美しい緑が現われる、その時はまた周太を連れて来られたらいい。
むかし周太が父親と奥多摩の山を歩いたように、自分がまた周太を山に遊ばせてやりたい。

いつも辛い任務に立っても笑顔だったという周太の父、彼のように自分も笑顔で立ち続けたい。
そして周太の幸せを彼の代わりに見つめて支えていきたい。
そんな温かな願いと祈りに英二は微笑んで、また巨樹の梢を見あげた。


青梅署診察室に英二が出向けたのは10時過ぎだった。
奥多摩駅へと歩いて戻る道の途中で吉村医師には朝の準備は手伝えない連絡をした。
いつも英二は吉村医師の朝のセッティングを手伝っている、その時間には今日は間に合えない。
警察医の業務も消防署や山岳会から依頼される救急法の講習も、すべて吉村医師は1人で対応していて多忙すぎる。
そんな多忙な吉村の手助けになりたくて英二はいつも手伝わせてもらう、そして合間に救急法と鑑識を教えてもらっていた。

青梅署の独身寮に戻ると急いで登山ウェアからワイシャツとスラックスに英二は着替えた。
すこし改まった雰囲気のチャコールグレーのVネックニットをそれに着て革靴を履く。
駐在所勤務日ではない日に吉村医師の手伝いをするとき英二はこの少し改まったスタイルが多い。
自主的な手伝いとは言え吉村医師の職場に助手として立つ以上は相応しい格好をするようにしていた。
着替たシャツの胸ポケットにペンとオレンジのど飴にUSBを入れて、救急法と鑑識のファイルを持つと英二は廊下に出た。

「お、宮田。いまから吉村先生のとこ?」

声かけられてふり向くと同期の藤岡が柔道着をぶら下げて人の好い顔で笑っていた。
有段者の藤岡は地域の柔道指導も担当する鳩ノ巣駐在に配属されている。
この様子はきっと、今日は非番だけれど稽古は出たのだろう。同期に会った気安さに英二は微笑んだ。

「今朝は本仁田山に登ったんだ、ついでに野陣尾根も登ってきてさ。だから遅くなったんだ」
「へえ、本仁田山か。雪の急登はキツいよな、良い訓練だろうけどさ。国村の『新雪だ』だろ、何時起き?」
「うん、4時半に起こしてくれたよ。朝陽の新雪の山波がさ、きれいだった。藤岡も行けたらいいのにな?」
「ありがとな、でも寒稽古あると無理なんだよね。こっちも朝早くからだしさ、俺はその要員で配属だしね」

話ながら途中まで一緒に歩くのが楽しい。
遠野教場から藤岡は一緒だけれど、こんなに話すようになったのは青梅署に一緒に卒業配置されてからだった。
警察学校の頃は同じ斑の関根たちといるか、周太とふたりでいることが多かった。
周太とは班も一緒で隣室だった、しかも遠野教官はよく周太と英二をパートナーに組ませた。
おかげで周太と堂々一緒にいられて嬉しかった、一緒が自然だったから教場の皆にも「似合う」と言われていたらしい。
この藤岡もそう言ってくれるから、国村と周太のことを知ったら驚くだろう。
けれど国村のことだから絶対に話すつもりは無い、そして藤岡が知ることも無いだろう。
こんなふうに秘密が出来ることも仕方ないな?すこしだけ寂しく想いながら英二は藤岡と歩いた。

「じゃ、またな。夕飯はここだろ?」
「うん、その予定だよ、国村もね。また夕飯にな、」

笑って藤岡と別れるとすこし急いで診察室へ向かった。
診察室の扉をノックして開けると吉村医師はデスクに向かっているところだった。

「朝の支度をお手伝いできなくて、申し訳ありませんでした、」
「いや、こっちこそ今日は済まないね、宮田くんは週休でお休みなのに」

声に体ごと振向いて吉村医師は笑いかけてくれる。
ファイルをサイドテーブルに置いて英二は袖を捲りながら微笑んだ。

「いいえ、俺からお願いして手伝わせて頂いているんです。勉強になりますから、」

話ながら洗面台へ向かうと英二は両手をきちんと洗って消毒をする。
きれいに拭って袖を戻すとファイルを手挟んで吉村医師に訊いた。

「先月のデータ整理でしたよね、弾道調査の、」
「はい、お願いできるでしょうか?データ集計と図案化をしてほしいのですが…」

今日の仕事の手順を聴くと英二は診察室のパソコンデスクに座った。
先月に周太と国村がテスト射手を務めた鑑識実験のデータ整理がまだ完了していない。
この1月下旬から2月上旬にかけて、五日市署や高尾署との合同訓練や遭難救助が重なって時間が取れないままだった。
それで英二が週休で吉村も往診が入っていない今日を利用して、終わらせようと昨日決めてあった。

標高別の2つの実験場・狙撃時間・狙撃部位ごとにデータをまとめていく。
それらを比較データに今度は組んで、狙撃条件による差を確認できるファイルを作り上げる。
パソコンを使ったデータ作成は法学部の在籍中に勉強にも利用していた。
こうしたエクセルでのデータ管理は大手の司法書士事務所でアルバイトした時に身に付けている。
そこで大規模な登記を行う際に使う、土地の権利関係他を明示するリーンペーパーの作成を英二は教わった。
あの表の作りが応用できる、そう考えて英二は吉村医師の手伝いを申し出た。
そう考えた通りにデータが明示できそうだ、英二は確認の為にエクセル化した段階で吉村医師に見てもらった。

「うん、わかりやすいですね。このデータを人体模型図との照合は出来ますか?」
「図形へのデータ表示ですね?ちょっとやってみます、」

エクセルによる数値データをまとめると、それを人体模型にあわせた図案化で明示していく。
これだと一目で狙撃条件と標的になった人体の損傷レベルが解りやすい、作成していくデータを英二は頭にも取り込んでいった。
この狙撃実験で明示できる「周太の」狙撃条件と標的損傷の因果関係を知りたい、そのために英二はこの仕事を申し出た。
この周太の狙撃データは、いつか立たされる辛い任務において周太を援けてくれるだろう。

すべてのデータを整理し作り上げると英二は、さり気なく胸ポケットのUSBを取り出した。
このパソコンデスクはちょうど吉村医師のデスクから死角になる、そっとパソコンにUSBを挿込むと英二はデータ保存した。
きっと吉村医師なら勉強になるからと快く英二にデータ保存させてくれるだろう。
けれどこのデータを使って英二は、周太が警察組織の暗部に立つときの「抜け道」を作ろうと考えている。
そのことは警察組織で生きるならリスクになる可能性がある、それに吉村医師を巻き込まない為には「知らない」が一番良い。
データ保存の事実を吉村医師が把握していなければ英二の独断になる、それなら英二1人が責任を負えば済む。

― 先生、無断で申し訳ありません。でも周太を守るため必要なんです、どうか許してください

悪意でやることではない、それでも心で英二は吉村医師に謝った。
そしてUSBの点滅を確認するとハードウェア取り外し操作を行って、そっとUSBをまた胸ポケットへと戻した。
これで全部の処理が終わる、英二は吉村医師に声を掛けた。

「先生、ご確認をお願いできますか?」
「はい、すぐ参ります、」

温かな笑顔がふり向いて、すぐ快く立って確認してくれた。
これで良いですと笑顔でOKをもらうと印刷し、ハードディスクにもデータを落としこんだ。
このデータには射手を個人特定できる情報は一切入っていない。
だから鑑識実験の部外者には誰が射手だったのかはデータを見ても判別はつかないだろう。

それでもこの正確な狙撃をふたりの人間が全く同様に行ったことは見れば解ってしまう。
この正確な狙撃データを取らせたテスト射手は誰なのか?
そう興味を持った人間が、もし数日後の警視庁けん銃射撃大会を観覧すれば目星は付くかもしれない。
このデータはどれくらいの範囲で利用されるだろう?確認しておきたくて英二は口を開いた。

「先生、このデータは警視庁全体でも使うのでしょうか?」

ディスクを収めるケースのラベルをテプラで作りながら英二は吉村医師に微笑んだ。
はい、と返事をして吉村医師は気さくに答えてくれた。

「青梅署内だけで使用する予定です。
他に警視庁内でこういったデータをよく使うなら警備部でしょう、でもあちらは独自のデータをお持ちのはずです。
それにね、きっと青梅署での実験データなどは他の部署は欲しがらないでしょうね?青梅署への評価を皆さんから伺っていると」

可笑しそうに笑って吉村医師は答えてくれる。
これは今度の射撃大会に国村がエントリーされた事情の「評価」の話だろう、ケースにラベルを貼りながら英二も笑った。

「都心の署長が青梅署長に言った『山と死人ばかり相手にして、警察官らしい能力は不要で楽ですね』のことですか?」
「そうです、だからね?きっと他の警察署も部門も、意地でもこのデータは借りに来ないでしょうね、」

青梅署、五日市署、高尾署。
この3つの警察署は警視庁管内の山岳地域を管轄とし、都心部の警察署とは任務が大きく異なる。
山岳地域特有の山岳救助隊を編成し、山村地域独特の地域交流と登山道巡視が任務にふくまれる。
とくに都心からアクセスしやすい奥多摩を管轄とする青梅署では遭難救助と自殺遺体の収容が多い。
そのことを「山と死人ばかり相手にして」と青梅署は揶揄されて一段下のように言われた。
この事情から数日後の警視庁けん銃射撃大会に青梅署は本腰を入れている、可笑しくて英二は笑いながら口を開いた。

「そうですね、意地でも借りませんね。そして青梅署もいま意地になっていますしね」
「今度の射撃大会ですね?絶対入賞して都心部の奴らを見返すんだ、って私も伺いました。そのために国村くんが出るんですよね?」
「はい。国村、拳銃は嫌いだけれど負けるのはもっと嫌いですからね?昨日も真面目に練習していましたよ、」

昨日は英二が非番で国村が日勤だった、このシフトの日が国村の射撃訓練の日になっている。
このあたりでは武蔵野署が最も整った射撃訓練場になる、それで練習には武蔵野署へと通っていた。
元々が本部特練選抜の件で拳銃嫌いになった国村だから、ただで練習は嫌がった。
それで国村は「1人は詰まらないだろ?」と英二を巻き込んだ、それで英二も武蔵野署へと通っている。
もう数日後に大会は迫っている、それが終われば武蔵野署通いも終わるだろう。
そして雪の高峰への登山訓練が本格的に始まる。

北岳、谷川岳、穂高岳。そして剣岳。
剣岳を管轄する富山県警には英二にヒントをくれた一節を書いた人がいる。
そのひとに話をいつか聴けたらいいな?そんなことを考えながらハードディスクをデータ用の抽斗にしまった。
ひと段落ついてコーヒーを淹れて座ると吉村医師が微笑んだ。

「もうすぐですね、北岳、」
「はい、楽しみです。先生も登られたんですよね、」
「もうずいぶん昔ですけどね。富士山がよく見えますよ。最近は冬期になるとゲート規制があるみたいですね?」

他愛ない会話と芳ばしい湯気で寛ぐのが楽しい。
おだやかな吉村医師との時間は実家に帰れない英二にとって癒される大切な時間だった。
のんびりコーヒーを飲み終えて13時になると「休憩」の札を扉に下げ、ふたりで遅い昼食に外へ出た。
よくいく味噌汁とご飯がお替り自由の定食屋で暖簾をくぐると、いつも座る席に着いて注文をする。
すぐに運んでくれた温かな食事をとりながら英二と吉村は、今朝の本仁田山の話で楽しんだ。

「先生、国村はね?雅樹さんのこと大好きだって話していましたよ。子供の頃に一緒に登った話をしてくれて」
「懐かしいですね、ふたりで登ったときでしょう?あのとき雅樹が驚いていました、国村くんの登るペースは速いってね」

可笑しそうに笑いながら吉村は箸を運んでいる。
なんだか愉しいエピソードがあるのかな?目で訊きながら英二が蕪漬を口に入れていると吉村が教えてくれた。

「ヨコスズ尾根の辺りはニホンザルが住んでいるでしょう?
どうもそこから来たらしいサルがね、ふたりが歩く前を登っていたらしいんです。
それで国村くん『サルには負けない』って笑うとね、走って登って行っちゃったんですよ。それはすごい速さで」

まだ6,7歳だった国村の負けん気が強い笑顔を英二は想像した。
きっと今回の射撃大会によせる青梅署の事情を知ったときの「絶対に負けないね」という顔だったろう。
あいつ子供の頃から本当に変わっていないんだな?可笑しくて英二は笑った。

「まさに『猿のごとく速く』登って行ったわけですね?」

「はい、ほんとに国村くん、サルを追い抜いてしまって。
そして山頂下の雑木林の前で雅樹を待っていたそうです『あいつここへ逃げ込んじゃった、試合放棄だね』って笑いながら。
急いで国村くんを追いかけた雅樹はすこし息切れしていました、でも国村くんはね、全く息が乱れていなかったそうです」

いま吉村医師は雅樹の「山」の思い出を普通に話せるようになっている。
今朝も国村が言ってくれた通り吉村医師の「時」は動いて古傷は癒え始めている、決して忘れることは出来なくても。
おだやかに愉しげに息子と山の話を楽しんでくれる様子が英二はうれしかった。

食事から戻ると今度のインフルエンザ予防接種用のカルテを整理した。
留置人と警察署の勤務者が対象になる予防接種だった、その準備を整えながら吉村医師が教えてくれた。

「留置人はね、マスクが出来ないでしょう?だから感染者が出るともう爆発的です」
「その感染防止の対策ってことですね、」
「はい、その通りです。でも型が色々あるでしょう?
だから予防接種してもね、難しいんです、マスクできるのが一番良い予防なんですが、そうもいかないですしね」

警察医ならではの感染防止対策への悩みを穏やかに微笑んで話してくれる。
本当に現場に立たないと解らない、勉強になるなと楽しく聴いていると電話が鳴った。
ちょっとすみません、と笑って吉村医師は受話器を取ると微笑んだ。

「岩崎さん、こんにちは。はい、今日も宮田くんお借りしています…はい、…ええ、…」

御岳駐在所長の岩崎からの電話らしい。
手際よくカルテを整理しながら吉村医師の様子を見ると、表情が翳っていく。

「はい…ええ、時刻は?…わかりました、」

この雰囲気は、たぶんそうだろう。
カルテを素早く片付け終えると英二は診察室のロッカーを開いた。

中には大きい白衣が吊るされている、この白衣は現場や検案所での助手を務める時用にと吉村医師が用意してくれた。
ハンガーから外した白衣を手早く羽織って登山靴に履き替えると、今度は吉村医師の外出用の医療バッグを出しておく。
それから感染防止用グローブを数枚パッキングして白衣のポケットに入れた。
支度が終わったとき調度、吉村も受話器を置いた。ほっとため息を吐くと英二を見ながら頷いて教えてくれた。

「御岳駐在所の管轄で、自殺遺体の発見です、」

予想通りの痛ましい答えに英二は軽く瞑目した。
自分がいつも巡回する場所のどこかで、ひとつの生命と想いが消えた。
今朝もブナの木を見あげて確かめた自分の道に英二は、ひとつ呼吸をして微笑んだ。

「はい、お手伝いさせてください」
「助かります、よろしくお願いしますね」

診察室の扉に「外出」の札を下げた。
急ぎ足で青梅署ロビーへと向かいながら吉村医師は説明を始めた。

「場所は御岳渓谷、御岳小橋です」
「投身自殺ですか?」
「はい、顔面損傷がひどいとの事でした。背格好から…20代男性、遺書らしきものを持っているそうです」

軽いため息をこぼすと吉村医師は哀しげに微笑んだ。
その気持ちが痛いほど英二には解る、吉村医師は雅樹が亡くなった同じ年頃の若者の自死を悼んでいる。
そんな吉村医師の想いが哀しい、そして自分と同世代の男の死への想いを受けとめてやりたい。
ちいさく微笑んで英二は吉村医師に言った。

「俺と同世代ですね、その方。だったら先生、その方の想いを俺は受けとめてあげやすいかもしれませんね?」

誠実な眼差しが英二を見、微笑んだ。
哀しい今の時、それでも吉村医師はうれしそうに微笑んで言ってくれた。

「はい、君ならね、きっと出来ます。頼りにしていますよ?」
「がんばります、」

自死の見分は、どんな遺体であっても哀しい。
それでもこの青梅署で警察官として警察医として生きるなら向き合わざるを得ない。
だったら真正面から向き合って、受けとめていくしかない。
それは厳しい、けれど死者であっても自死であっても、人の想いを繋いでいく温もりも見つけられる。
あのブナの木を想いながら英二は、刑事課の澤野たちと一緒にパトカーに乗り込んだ。



御岳小橋に着くと遺体には毛布が掛けられていた。
今朝の雪に白い渓谷の現場にブルーシートが張られ、見分の支度が整えられていく。
白衣を着た英二を見つけて御岳駐在所長の岩崎が駆け寄ってきてくれた。

「宮田、」

死体見分のために感染防止グローブをはめかけて英二は声にふり向いた。
ふり向いた先の岩崎の顔がいつになく困惑している、どうしたのかなと英二は微笑んだ。

「岩崎さん、おつかれさまです。発見者は岩崎さんですか?」
「いや、俺じゃないんだ。悪いが、ちょっと来てくれ、」
「あ、はい。ちょっと吉村先生に声かけてきます、」

いつも頼もしい背中で朗らかな岩崎らしくない、どこか慌てたような表情が怪訝だ。
いったい岩崎は、どうしたのだろう?
不思議に思いながらグローブをいったん外すと吉村医師に声を掛けた。

「吉村先生、すみません。岩崎さんに呼ばれたのですが、すこし外させて頂けるでしょうか?」
「岩崎さん、うん?」

言われてすぐ何かに気付いた顔で吉村医師は頷いた。
けれど少し怪訝そうに首傾げると低い声で英二に教えてくれた。

「宮田くん、おそらくね、国村くんのことです」
「国村のこと?」

国村がどうしたのだろう?
すこし首傾げた英二に吉村医師も首傾げたまま話してくれた。

「はい。今回の発見者は国村くんなのです。けれど青梅署への連絡は岩崎さんからでした。それで、おかしいと私も思って」
「国村が?でも、今ここに姿が見えないですね?」

吉村医師が言う通り、国村が自分で連絡しないのは異常だった。
普通は発見した警察官本人が全ての連絡をとるだろう、4年目で馴れている国村なら尚更だった。
しかも現場に国村は居ない、発見した警察官が遺体の行政見分を行うのが普通だから国村の不在はおかしい。

「ええ、それで私も変だと思っていました。
今回のご遺体は損傷が激しいと聴いています、ですが国村くんなら動じないはずです。自分の任務を放り出すなどは、」

心配な面持ちで吉村医師は英二を見つめた。
とにかく岩崎に着いて行って訊いてみよう、軽く頷くと英二は微笑んだ。

「わかりました、とにかく岩崎さんについて行って訊いてみます」
「よろしくお願いします。こちらは進めておきますから、時間など気にせずに行ってきてください」

吉村医師の言葉に頷くと英二は踵を返した。
近くで待っていた岩崎の許へ行くと笑いかけながら英二は促した。

「お待たせいたしました、行きましょう」
「うん、すまないな、今日は吉村先生の手伝いなのに」

雪の河原を歩き出すと岩崎はすこし周りを見回した。
そして声を低くめ英二に教えてくれた。

「国村の様子がおかしい、全く口をきかないんだ」

訴えるような困惑が英二を見つめている。
吉村の言う通り何か異常なことが起きている、穏やかに英二は訊いてみた。

「いつから、話さなくなったのですか?」
「うん、国村がな、今回の遺体の発見者だったんだが、その報告から変だったんだ」

河原から見えるミニパトカーへ向かって歩いていく。
歩きながら岩崎は続けてくれた。

「今日は登山計画書が多くてな、昼休憩がすこし遅くなったんだ。
それでな、いつもより遅い時間になってから、自主トレーニングに国村はここへ来たんだよ。
そして遺体を発見した、御岳駐在には無線を使って報告してきたんだ。けれど途中から上の空になった、変だと思ったよ。
それで俺が署に報告を入れてみたらな?あいつ、署には連絡していなかったんだ。無線にも出ない、俺は急いでここに来た、」

立ち止まると岩崎は御岳小橋の下方、遺体の発見現場を指さした。
指さしながら英二を振向いて縋るように見つめた。

「あいつな、遺体の傍に座りこんでいたんだ。ぼんやりと遺体を見つめてな、手には便箋を握りしめていた。
俺が声を掛けても返事しないんだ、それで肩を貸して立たせてミニパトカーへと連れて行ったんだ。
あいつの掌を開いて便箋を取り上げてみたらな、遺体が握っていた遺書のようだった。それを読みながら報告していたらしい」

「では、国村は遺書を読んでいるうちに様子が変になった。そういうことですか?」
「うん、そういうことになる」

話し終わると丁度ミニパトカーの近くに着いた。
ミニパトカーの鍵を英二に渡し岩崎は頼んでくれた。

「後部座席に座らせてある、宮田になら何か話すかもしれん。頼んでもいいか?」

そっとミニパトカーの窓を見ると白い顔が活動服姿でぼんやり座っている。
見たことのない国村の生気の抜けた顔に心が痛んでしまう、静かに頷いて英二は微笑んだ。

「はい、国村は俺のアンザイレンパートナーです。あいつのサポートは俺がする約束なんです。
自信も確約も出来ませんが、やらせてください。それですみません、吉村先生にすぐ戻れないと、お伝え頂けますか?」

おだやかに応えた英二に岩崎はすこし安心した顔をしてくれた。
ほっと息吐いて小さく笑うと「頼んだよ」と軽く英二の肩を叩いて岩崎は現場へ戻っていった。
いつもより不安げでも頼もしい背中を見送ると、英二は静かにミニパトカーのロックを開錠した。

かたん、開錠音がしても国村の横顔は動かない。
静かに後部座席の扉を開けると英二は国村の横へと乗り込んだ。
その気配にかすかに色白の横顔が動いた、そっと英二は国村の瞳を覗きこんで笑いかけた。

「国村、」

ゆっくり細い目の焦点が合って瞳が英二を真直ぐ見つめた。
すうっと目が大きくなると、あわい青みを帯びた唇が動いてくれた。

「…みやた?」

すこし掠れたような声、それでも名前を呼んで見つめてくれた。
うれしいなと穏やかに微笑んで英二は頷いた。

「うん、俺だよ?国村。おまえのアンザイレンパートナーだよ、」

きれいに大らかに笑って英二は答えた。
すこし大きくなっている国村の瞳から、すっ、と涙がひとすじ零れ落ちた。

「…っ、みやた…っ」

名前呼んでくれる唇がすこし赤みを取り戻していく。
穏やかに頷いて英二は長い指で隣の白い額を小突いた。

「うん。俺だよ、宮田だよ?国村、おまえのことが大好きな、友達で同僚で、アンザイレンパートナーだ」

俯き加減の白い顔を覗きこんで英二は、きれいな笑顔を朗らかに咲かせた。
覗きこんだ真っ黒な瞳から涙がうまれてくる、英二の顔を見つめたまま白い手が英二の頬にふれた。

「宮田!…」

頬ふれる指先が冷え切っている、心の緊張状態で体も冷えたのだろう。
自分の頬に置かれた白い掌に英二は自分の掌を重ねて微笑んだ。

「うん、なんだ、国村?」

どうしたんだよ?目でも訊きながら英二は笑った。
笑って見つめる先で黒い瞳に生まれた涙がこぼれて、言葉も一緒にこぼれはじめた。

「宮田…!無事なんだよな、みやた…っ」

縋るような必死な口調。
初めて聞くトーンのテノールの声が、国村の呆然自失を生んだ原因を告げている。
たぶんそうだろうな、想いながら英二は安心させるよう微笑みかけた。

「うん、無事だよ?ほら、ちゃんとお前の隣で座っているだろ?」
「みやた、…無事だね、生きてるよね?…美人のまんま生きているよな?宮田…!」
「ああ、俺はちゃんと生きてるよ?そう簡単には俺はね、死なないよ」

笑って英二は国村の肩に長い指の大きな掌を置いた。
大丈夫だよ?と目で言いながら温かく英二は笑った。

「約束しただろ?俺はね、おまえも周太も守るんだ。だからさ、しぶとい俺は死ねないよ?約束は絶対に守りたいからね」

告げて英二は国村の背中を軽く、ポンと叩いて笑った。
叩かれたまま国村は英二にしがみついて、そして透明なテノールの声が泣いた。

「宮田…!俺、おまえだと思ったんだ…!あの橋の下で発見した、同じ色のウェアで背が高い…そして、遺書が!」

白い手が英二の肩を掴んで背中を掴んで、ふるえている。
純粋無垢な黒い瞳が真直ぐに英二の目を見つめて泣いている。
透明なテノールの声がいま、堪えていた想いをひと息にあふれさせ始めた。

「恋人が友達のところへ行った、そんな遺書だった…っ、
顔は転落の打撃で解らなくなって…でも色が白い、背が高い、赤いウェアで…朝、本仁田山で話した、雲取の麓でも、でも…」

涙が雪白い頬を伝っていく。
滂沱と流れ落ちる涙の秀麗な顔は見たことがない必死の表情で英二を見つめている。
そして透明なテノールの声が悲鳴を吐き出すように言った。

「俺は、っ…俺のせいでお前が死んだんだと思ったんだ!」

着ている登山ウェアは深紅で英二のウェアと似ていた。
顔は損傷が激しくて解らない、けれど色白で背が高くて英二と背格好が似ていた。
恋人が友達と結ばれて居場所を失い自死を選んだと告げる遺書を握りしめた、英二と年恰好が同じ男。
だから国村は英二だと思いこんだ自責のままに呆然としてしまった、そして言葉も失って座りこんでいた。
そんなふうに自分を責める必要なんかないのに?きれいに笑って英二は国村を見つめ、背中をポンと叩いてやった。

「おまえの所為なんかで俺は死なないよ?俺はおまえと最高峰へ登るよ。その約束は絶対に守りたい、その為にも俺は生きている」

またポンと背中を軽くたたいて落着かせる。
泣いている黒い透明な瞳に微笑んで英二は続けた。

「おまえの専属レスキューとしてさ。
アンザイレンパートナーとして俺は生きている、生かされているんだよ?
山ヤの最高の誇りも最高の夢もさ、おまえが俺に与えてくれたんだ。だから俺はね、おまえの所為で生きているよ」

これが自分の率直な気持ち。
その想いを真直ぐに国村の目を見つめながら英二は微笑んだ。
見つめた想いの前に細い目は沈思を湛えて英二を見つめていた。

「俺のせいで、宮田は生きている?」
「そうだよ?言っただろ、俺がここに居る理由はね、国村と周太、ふたりを守りたいからだ。ふたりが大切なんだ」

はあっと大きく国村は呼吸をした。
ゆっくり瞑目して瞠らいて、そして睫毛をあげると底抜けに明るい目が笑った。

「うん…約束だよ、宮田?ずっと俺を守れよ、アンザイレンパートナーでいろよ?おまえはね、俺が守るからさ」

いつもの明るい透明なテノールの声が笑っている。
もう大丈夫だろう、きれいに大らかに笑って英二も応えた。

「おう、頼んだよ?あ、今日の晩飯はさ、鶏大根らしいよ?あと揚げナスだってさ。好きなもんで良かったな?」
「お、楽しみだね。うん、また北岳の話とかしながら食いたいね、藤岡も一緒だよな?」

他愛ない話をしながら英二は国村とミニパトカーを降りた。
降りてロックを掛けて鍵をしまうと、ポケットからハンカチを出して国村に渡してやった。

「ああ、一緒だよ。ほら顔、拭いとけよ?おまえこそね、きれいな顔が涙だらけだよ、」
「ありがとな、でもまあ、珍しいもん見れてよかっただろ?」

きちんと顔を拭きながら、笑って国村は一緒に河原を歩いてくれる。
これなら国村はもう大丈夫だろうな。ほっと心に安どのため息を吐きながら英二はきれいに微笑んだ。
ならんで雪の河原を歩いていきながら、ふっと国村が英二の白衣の腕を掴んで英二は振り向いた。
どうした?目で訊いてみると真直ぐな純粋無垢な目が英二を見つめて、国村は口を開いた。

「宮田、俺はね?ほんとうに大切なんだよ、おまえのこと。
おまえが死んだと思った時にね、すべてが終わったんだ、俺。なにも考えられなかった、世界の音も色も消えたんだ」

英二は足を止めた、そして自分の腕を掴んでくれる想いを見つめて微笑んだ。
見つめた先で底抜けに明るい目が率直に英二を見て、透るテノールの声が告げてくれた。

「おまえを失って絶望したんだ、俺は。
それでもね…あのひとを愛することは後悔できない。でもね、きっと、あのひとも哀しむだろうって想った。
その哀しみを想うとさ、ほんと苦しいよ?だから宮田、これは我儘だけどさ。あのひとと俺の為に、死なないでくれ」

ふたりのひとから生きていてと願ってもらえる「わがまま」は温かい。
そういう我儘はうれしいな?素直に笑って英二は国村に頷いた。

「おう、死なないよ?俺はね、しぶといからさ。約束だ、」

きれいに大らかに英二は笑った。

クライマーウォッチが21時を指して、英二は携帯電話を開いた。
発信履歴から電話を架けてベッドに座りこんで壁に凭れる。
すぐに繋がって、大好きな声が気恥ずかしげに訊いてくれた。

「はい、…英二?」
「うん、俺だよ、周太。いま、ちょっと待っててくれた?」
「ん、待ってた…英二の声、聴きたかったんだ」

相変わらず遠慮がちで、どこか可愛いトーンの周太の声。
周太と国村の想いを知ってからも英二は、変わらず21時には電話する。
ふたりの想いを知ったからと電話の習慣を変えるのはどうなのだろう?そう想って率直に英二は周太に訊いた。
その問いに周太は変わらず電話してほしいと言ってくれた、それでずっと電話もメールも変わらず繋いでいる。
いつもどおりが変わらないこと、わがままで甘えてくれることは嬉しい。英二は微笑んだ。

「いくらでも聴かせてあげるよ。ね、周太?話したいことあるんだろ」
「ん…今日ね、当番明けすぐに実家に帰ったんだ…それで、母と話してきて」

今日の周太は非番で特練も無いと昨夜、言っていた。
当番勤務も滞りなく定時に上がれて、それで川崎の家へと帰れたのだろう。
きっとこの話だろうな?穏やかに微笑んで英二は訊いてみた。

「国村のこと、話せたんだ?」
「ん…英二、聴いてくれる?」

すこし遠慮がちだけれど「どうか聴いて?」とねだってくれるトーン。
こんなふうに話そうとしてくれるのは嬉しい、笑って英二は答えた。

「うん。聴かせてよ、周太?お母さんなんて言ってくれた?」
「ん。母は覚えてた…俺、小学校3年生の雪の朝にね、父とふたりで奥多摩へ行ったんだ。
そのとき国村と出逢って、俺…大好きになったんだ。両親以外のひとを初めて、好きになって。
俺、その日の夜に母に話していたんだ、大好きなひとが出来たって…それを母は覚えていてくれて、記憶が戻ったのね、て」

想った通り、国村と周太は小さい頃に出逢っていた。
今朝、国村が話してくれた『オペラ座の怪人』に仮託した、初恋の再会の物語。
それを周太も話そうとしてくれている、やさしく相槌しながら英二は温もりを心に見つめて聴いていた。

「国村との再会を母は喜んでくれて。そしてね…受けとめてくれる英二をね、もっと好きになったって笑ってくれて」
「うん、うれしいな。お母さんに言われるとさ」
「ん…それでね?なるべく早く帰って来てって、英二に母から伝言…それでね、国村も連れてきて、って…」
「うん。俺と国村はね、シフトが交代制だから一緒に休みは取れないけれどさ、国村だけでもいいよね?」
「いいの?…ん、わかった、訊いてみる…ね、英二?」

遠慮がちに気恥ずかしげなトーンで、なんだか可愛い声が訊いてくれる。
なんだろうな?思いながら英二は相槌を打った。

「うん?なに、周太、」
「ん…ありがとう…それでね、英二、」

ふっと息を1つ、電話の向こうで飲みこんだ。
そして落着いてやわらかな声が英二に告げてくれた。

「大好き、英二…受けとめてくれて嬉しい、幸せ…俺ね、国村を大好き。でも…わがままだけど、でも、英二を愛している」

こういうのは幸せだな?
きれいに笑って英二は自分も「わがまま」を告げた。

「うん、俺も周太を愛してる、そして国村が大好きだ。だから周太?帰ったらさ、また飯、作ってくれな?」

うれしそうな笑顔の気配が電話の向こうで1つ咲いてくれる。
その笑顔から、すこし弾んだ声が幸せそうに言ってくれた。

「ん。作る、だから帰ってきて、ね、英二?」

帰りを待ってくれる場所。
温かな台所の湯気と陽だまり、そこで自分のため食事の支度へと動かしてくれる掌。
ありふれた、ささやかな幸せの風景、けれどそれは自分にとって宝物の風景。

その風景にもうひとり大切な存在が座るだろう。
今日も必死で泣きながら、大好きで大切だと告げてくれたアンザイレンパートナー。
さっき寮の食堂に座る夕食の席で、愉しそうに笑って山の話をしてくれた。
こんどはあの温かで清々しい家で一緒に話してくれたらいい。

「うん、必ず帰るよ、周太。大会終わって、北岳の後かな?」
「じゃあ、俺が奥多摩に行く方が先かな…美代さんとね、約束があって…」
「そうだね、それが先かな?」
「ん。あのね、美代さんから電話があって…」

愛する声が想い出させてくれる、ふりつもる年月と記憶が温かい家。
やさしく端正な愛する守っていきたい「家」、帰りを待ってくれる場所。
そこで生まれる穏やかな時間を想いながら、愛するひとの話に微笑んでいた。
いつものように首から提げた合鍵に指先でふれながら聴く、その合間に英二はひとつの詩を想い出した。

Another race hath been,and other palms are won.
Thanks to the human heart by which we live. Thanks to its tenderness,its joys,and fears,
To me the meanest flower that blows can give Thoughts that do often lie too deep for tears.
時の歩みを経、もうひとつの掌に勝ちとれた
生きるにおける、人の真心への感謝 やさしい温もり、歓び、そして畏怖への感謝
慎ましく開く花すらも、涙より深く私の心響かせる


【引用詩文:『ワーズワス詩集』】

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第34話 萌芽act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-02-20 22:53:01 | 陽はまた昇るside story
充ちる想い、山に抱かれるもの




第34話 萌芽act.1―side story「陽はまた昇る」

かちり。ちいさな音に英二は目を覚ました。
窓の外は黎明時の昏さに星がふっている、きっと午前4時半くらい。確認しようとクライマーウォッチに手を伸ばした。
けれどクライマーウォッチの文字盤を見る前に英二は素早く体を反転させた。

「あれ、気づかれちゃった?さすがに馴れたね、宮田?」

テノールの声が可笑しそうにすぐ横で笑っている。
きっと気づかなかったら逮捕術で固められて、またからかわれるところだったろう。
起きあがりながら英二は声に笑いかけた。

「そう何度もね、同じ手にはかからないよ?おはよう、国村」
「おはよ、宮田。さ、新雪だよ?早く支度しなね、」

笑いながら国村は勝手にクロゼットを開けると、さっさと英二の登山ウェアを出して投げつけてきた。
見ると国村は山岳救助隊服をもう着ている、今日は国村が出勤で英二が週休だから出勤時また着替えるのが面倒なのだろう。
投げつけられたウェアを受けとめて着替えながら英二は訊いてみた。

「今朝はどこに登る?」
「本仁田山の大休場で急登の訓練しようと思う。あと10日位で北岳だろ?急斜の雪に馴れとこうかと思ってさ」

本仁田山は奥多摩交番に近く、この青梅署からは車で1時間ほどになる。
だったら国村は本仁田山から御岳駐在所へ直行する方が良いだろう、笑って英二は提案した。

「そうだな、じゃあ俺さ?帰りは奥多摩駅から電車で戻るよ、その方が国村も直行できるだろ?」
「うん?そうだな、もう隊服も着ているしな…うん、そうしてくれると助かるよ」
「OK、こっちこそ助かるよ?帰りに野陣尾根とかちょっと行けるしさ、」

話ながら着替え終えて、英二は救急法ファイルをデスクの上に出した。
持って行って電車で読みながら帰ってくれば、すぐ吉村医師に質問が出来る。
そうすれば青梅署に戻って着替え次第すぐに診察室へ行って手伝いもできるだろう。
戻ってからの手順を考えつつ登山ザックと救急用具の点検を始めた手許を横から国村が覗きこんだ。

「本仁田山はさ、宮田は吉村先生と登っていたよね、」
「ああ、先生と最初に登ったときにね。だから2ヶ月半前になるかな?」

答えながらもうそんなに経つんだなとすこし驚いた。
この青梅署で警察医を務める吉村医師は15年前に次男の雅樹を山の遭難死に亡くした。
その死を自責した吉村は自身も山ヤでありながら登山を辞めてしまっていた。
そんな吉村医師に英二は「奥多摩の山を教えてほしい、そして山岳救助を無事に務めるための知識を教えてほしい」と願った。
吉村医師が英二と登ることで英二の安全を守ることになる、そう決心して吉村は15年ぶりに登山を再開してくれた。
その最初の山が本仁田山だった、12月の半ば晴れた日だった。

「先生さ、あれからイイ顔になったよ。宮田効果だな、」

底抜けに明るい目が笑いながら英二に言ってくれる。
国村は吉村医師とは赤ん坊の頃からの付合いで雅樹もよく知っていた、そういう国村が言うと説得力が嬉しい。
英二は吉村医師を尊敬し本当に世話になっている、そんな吉村の手助けに少しでも慣れたなら。うれしくて英二は笑った。

「ありがとう、国村?おまえが言ってくれるとさ、うれしいよ」
「うん?そうか、ほんとのこと言ってるだけだけどね、」

話ながらも救急用具の中身を英二は手際よく確認を進めていく。
すべて済ませるとザックを背負いあげて国村に笑いかけた。

「よし、お待たせ。いこっか、」
「おう、待ったよ?早くいかないとさ、日の出に間に合わないよ、」

静かに扉を開けてふたり廊下へと出た。
冬用登山靴は踵の音がすこし鳴りやすい、気をつけて廊下を歩いて静かに青梅署の外へ出た。
そこは星明りかがやく白銀が透明な冬の夜の底に鎮まっていた。

「…きれいだな、」

あかるい白銀の輝きに英二は微笑んだ。
まだ昏い暁よりも先の時間、青梅の街を雪はやさしく白い手に覆ってねむりにつかせている。
見あげる星の輝きもどこか雪の銀色に似て、地上の雪と呼応するように瞬いていた。
きれいだなと見惚れている横から額を白い指が小突いて、テノールの声が笑ってくれた。

「ほら、ボケッとするのはね、まだ早いってば。山へ行くよ、」
「あ、ごめん。雪の街もさ、俺は好きだな。やさしい雰囲気でさ、」

歩きながら言うと細い目が英二を見、温かく笑んでくれる。
かるく頷きながら国村も言ってくれた。

「うん、そうだね。俺もね、雪の街は好きだよ。音が吸われて静かでさ、街も人も包まれている感じが良いね」
「くるまれて、か…国村もさ、表現が豊かだよな?」
「うん?そうかな、本でも読むせいかね?さて、シートベルト締めろよ、動くよ」

話ながら国村の四駆に乗ると、いつもどおりに静かな雪の早朝を走り始めた。
雪削るチェーンの音もまだ軟らかい雪に吸われて幾分しずまっている。
その音にふっと周太が青梅署に出張できていた2週間ほど前が懐かしくなって英二は微笑んだ。

「なに、宮田?楽しそうに笑ってるね、」

愉しげにテノールの声が訊いてくれる。
すこし微笑んで英二は口を開いた。

「うん、周太のこと想いだしてさ。こんなふうに国村の四駆に乗って、新宿まで送ったなって」

運転席から細い目が英二を見た。
まなざしは温かで懐かしげに笑って頷いてくれる。

「時間は今の真逆だけどね、あの日も雪が積もっていたな…うん、俺はね?あの日ちょっと、おまえに惚れたね」
「俺に?周太の間違いじゃないの?」
「それは別次元の話だね、比較するんじゃないよ、」

さらっと気軽に笑い返した英二に、国村も底抜けに明るい目で笑って答えてくれる。
そして明るいテノールの声が言葉を続けてくれた。

「おまえさ?あの日は朝、俺に脅かされたろ?でも、夕方には大きな心で湯原を受けとめていた。
そんな短い時間で宮田はさ、ひとつ器をでかくした。あんな短時間で出来るのは凄いだろ?
しかも、おまえさ。あの後で行先も言わないで『ちょっと行きたいとこある』ってだけを俺は言った、でもさ?
おまえは俺に行先を訊かなかった、あんだけ俺に脅かされた後なのにね?で、そういう素直なおまえにさ、俺はちょっと惚れたよ」

あの日の朝、英二は国村から「復讐」によって諭された。
理由は英二が周太に体を無理強いしたことだった、そんな英二に国村は厳正な問いを投げつけた。
国村は嫌がる英二を無理やり組伏せて、周太が英二に与えられた恐怖を見せつけながら怒りを叩きつけてきた。
大らかな怒りと気付かせたい優しさで「心から望まず体を繋げても傷がつく」と明確に英二に解らせてくれた。
あのとき国村は本気で英二にぶつかってくれた、あんなふうに真剣に向き合ったくれたことが英二は嬉しかった。
この2週間ほど前の記憶に微笑んで英二は口を開いた。

「国村、俺さ?あんなふうに真剣にぶつかって貰ったのってね、周太しかいなかったんだ。
前に話した警察学校の脱走のとき、あのとき周太は真剣に俺にぶつかってくれた。それが嬉しかったんだ。
で、さ?あの朝は国村、本気で怒って俺のこと懲らしめてくれただろ?そういう本気がね、うれしいんだ…ありがとうな、」

きれいに英二は国村に笑いかけた。
運転席から温かい視線を投げて国村も愉しげに笑ってくれる。

「滅多に怒らない俺を怒らせたんだ、そりゃきっちりオトシマエつけさせてもらったよ。
肚に一物もっちゃったらさ、生涯のアンザイレンパートナーなんか出来ないだろ?そんなの御免だね、俺はおまえが良いよ」

あんなに怒らせることをしても国村は英二を信じて怒って、そして許してくれている。
すこし荒っぽくても寄せられる信頼がうれしい、英二は微笑んだ。

「うん…ありがとう、ほんとにさ、」
「こっちこそだよ、どういたしまして、だ。さ、着いたよ、」

からり笑うと国村はエンジンを停めた。
安寺沢の登山口で車を降りるとクライマーウォッチで確認した時刻は5時半だった。
登山口でアイゼンを履くと国村が愉しげに笑って提案してくれる。

「よし、最低でも45分で登頂するよ?俺は日の出を見たいんだ、いいね?」
「俺も見たいよ。おまえのペースで登ってくれ、着いていく」

ヘッドライトを点けながら答えると国村は頷いてくれた。
ぐるっと首を回して英二を見ると底抜けに明るい目で笑って頂上方面を指さした。

「よし。じゃあね、30分で行こう。急ピッチだけどさ、がんばれな?はい、スタート」

そうして登山道へ入って行くと樹林帯はまだ闇の底だった。
通過点の神社に入山の挨拶を済ませて急坂へ入っていく。慎重な足取りで緩やかにピッチと高度を上げながら進んだ。

「この山は標高は1,200mちょっとだけどさ。急に標高が上がるから結構きついよね」
「うん、でもおまえはさ?全然きつそうにみえないよ?」
「まあね、俺は小さい頃から慣れてるからさ。宮田こそね、まだ4ヶ月半だろ?

前を行く明るい声が笑って、さらり励ましてくれる。
まだここへ来て自分は4ヶ月半、けれどもっと前からいたような不思議な想いにさせられる。
ふっと微笑んで英二は口を開いた。

「うん、まだ4ヶ月半なんだよな。でも、もっと長くここに居る気がする。国村ともずっと友達みたいなさ」

雪に抱かれた空気が頬に冷たい、こうした山の冷気も「いつもの」と感じるようになっている。
そして「いつもの」ように前を登る友人が透るテノールの声で答えてくれた。

「だね、俺もそうだよ。おまえのことはさ、ずっと知っていた気がするね。で、いちばんよく解る気がするよ」

肩越しにふり向いた底抜けに明るい目が笑ってくれる。
こういうのは嬉しい、素直に英二は笑った。

「うん、…そうだな。俺のことはさ、おまえがいちばんよく知ってる、きっとね」

吐く息が白い靄になるのをヘッドライトに見ながら登っていくと空が開けてきた。
植林帯を抜けて雑木林に入ったな、そう思って梢を見あげると繊細に交される冬の枝から透ける星空が見える。
雪凍る枝にふる星明りが穏やかな光にきれいだった、静謐のなかアイゼンで雪ふむ音を聴きながら英二は微笑んだ。
夜闇のむこうに見上げていた山が目の高さになっていく、そして大休場尾根へと入った。

「ここはね、一枚岩みたいな露岩のあたりだ。アイゼンの刃を傷めないようにね」
「うん、ありがとう。ここって、雷撃死の現場になったんだよな、」

英二の言葉に前を行く肩がすこし動いて、肩越しに細い目が英二に笑った。
底抜けに明るい目が温かに笑んで国村も応えてくれる。

「春の事故だったな?発生したとき俺も話を聴いたよ、たしか雹が降った日でさ。側撃された方が火傷を負ったんだよね、」
「うん、4月下旬の事故だ。あのときは寒冷前線の通過に伴う『界雷』だったんだよ、積乱雲と雹がシグナルになる。
季節の変わり目は危険なんだ。そして亡くなった方は即死だった、けれど火傷は一切ない…自然の力って不思議だと思ったよ、」
「ほんと不思議だよな。にしても、おまえさ?吉村先生の講義をしっかり記憶してるんだね。さすが真面目宮田だね」

温かいトーンの声で率直に褒めてくれる。
努力を認めてもらえる温もりに英二は微笑んで、思ったままを答えた。

「俺からお願いして時間作って貰ってるんだ、ひとつも忘れたくないよ、」
「うん、そういう謙虚さはね?山ヤには必要だよ。やっぱ、おまえも山ヤだね、」

最高の山ヤと賞賛される国村が率直に褒めてくれる。
本格的に山と向き合って4ヶ月半の自分にとって、こんなに嬉しいことはない。素直に英二は笑った。

「国村に言われると嬉しいな、俺、もっと頑張ろうって想えるよ?」
「おう、頑張ってくれよ?俺の専属レスキューやってもらうんだからさ、」

山の暁闇のはざまを笑いあいながら登っていく。
花折戸尾根との合流地点を過ぎて、しばらく歩くと傾斜がゆるんだ。
ここは雑木林に囲まれ寛いだ雰囲気になるけれど、このあと最後の急登を超える。
ふっと英二はここで立ち止まった。

―…雅樹もこの奥多摩でね、自殺遺体を見た事があったんです。まだ小学校6年生でした
 私と一緒に登山している時です。その山道を囲む林の中に、縊死自殺遺体と出会ってしまったんです…
 病気で苦しまれていたそうです…だから自死を選ぶと書かれていました…私は医師としての無力を感じました
 この方が縄にかかる前に会えていたら…そんな想いが苦しかった…雅樹は私に言いました、
 『お父さん。あの人もね、生きて幸せに笑ってほしかったね』そして重ねて私に訊いたんです『医者になる事は難しい?』
 そうして雅樹は、この奥多摩の山で医師になる決意をしたんです。あの12歳の日に、私と歩いたこの奥多摩で

吉村医師とこの本仁田山に登ったとき、この場所で吉村は大切な記憶を話してくれた。
吉村医師が誰より愛した息子、雅樹が山ヤの医師になろうと決意した大切な場所。それがいま目の前に広がる雑木林だった。

「…ここでさ、雅樹さんは医者になるって決めたんだよね、」

透明なテノールの声が隣から言ってくれた。
穏やかな声に頷いて英二は微笑んだ。

「うん、俺は吉村先生からね、ここでその話を聴かせてもらったよ…ほんとうに雅樹さんは、先生の宝物だったんだ」
「ほんとにそうだね…俺は雅樹さん本人から、ここで聴いたんだ。小学校入ったばっかの頃にさ、一緒に登った時にね。
雅樹さんもさ、生きる道と誇りを山に見つめたひとだよ。俺はね、そんな雅樹さんが大好きだったんだ、今も大好きだよ」

青い暁闇がおりる雪の雑木林は静謐の底にねむっている。
この静謐には12歳の雅樹が抱いた優しい想いも記憶も、安らかなねむりに抱かれていてほしい。
こんなふうに「山」は、いったいどれだけ多くの想いと記憶を抱いて佇んでいるのだろう?
やさしい想いと哀切を想いながら、ふたりヘッドライトの下で静かな笑顔で互いの目を見た。
そして頂上手前の急斜を白い雪の息と登りきると、本仁田山頂に辿り着いた。

標高1,224.5m本仁田山。
南面側は眺望がいい。朝を待つ紺青色の空にねむる、銀の山波をみはるかして英二は微笑んだ。
尾根の連なりがまとう雪に星明りと呼応していく、静謐がよこたわる奥多摩の黎明が響くように美しい。
きれいだと、見つめている隣では国村が登山グローブを外している。
そして三角点の前に立つと、いつものように三角点にふりつもった雪へ手を押し込んだ。

「よし、俺が一番乗りだ」

愉しげに笑って自分の手形を眺めている。
横から覗きこむと今朝もきれいな手形が三角点上に描かれていた。

「ほら、宮田もやんなよ、」
「うん、ありがとう、」

勧められて素直にグローブを外すと国村の手形に英二は掌を重ねた。
大きくても繊細な印象の手形に長い指の手形が重なって刻まれる。
ふたつの手形を見て国村は満足げに細い目を笑ませた。

「おまえが二番乗りだよ、宮田。さて、飯食おうよ。日の出まであと30分位だよね?」
「うん、たしか6時33分だったよ、」

話ながら雪を除けて簡単な露営地をつくる、こんな作業もずいぶんと馴れた。
英二は山岳経験自体が警察学校の山岳訓練が最初になるから、まだ1年も経っていない。
それでも卒配後は毎日のように山へ登り、国村と親しくなってからは毎日こんなふうに山と親しんでいる。

「今日はさ、俺もカップ麺を持ってきたよ?だから、はい、国村」
「ありがと、ちょうど腹減ってるんだ。うれしいね、俺は2個食ってくよ。このまま出勤だしさ」
「うん、そうしなよ。俺も食おうかな。北岳はさ、3日計画で2晩ともテント泊だろ?」
「そ、雪中のビバークだ。飯も自炊だよ、あったまるメニューにするんだ。でさ、ゲート通過は6時前だからね?」

すっかりなれたクッカーで湯を沸かし、ザックに座りこんで友人と登山計画の話をする。
こんな生活は1年前には想像もつかなかった。警察学校に入って今までの11ヵ月弱の時間は自分を変えた。
こんなに人生が大きく変わった事は23年間で初めてになる。

そして1月の冬富士登山で遭った雪崩。
あの吉田大沢で起きた表層雪崩によって英二はまた大きく変えられた。

あの雪崩で国村は軽度の打撲を負った。
軽傷だった、けれど「山に受傷させられた」事実が最高の山ヤの魂をもつ国村の誇りを傷つけた。
国村は受傷を秘匿して誇りを守るよう英二に告げた、そしてもし秘匿を破れば「裏切りの代償」に英二の体を奪うと宣言した。
そんなふうに「山ヤの誇り」と「山を登る自由を守る体」を天秤にかけてアンザイレンパートナーの理解を求めてくれた。
それは英二にはよく理解できることだった、だから素直に頷いて国村の想いを受入れた。
けれど、そのことを英二は不用意に周太へと話してしまった。

あの雪崩の発生を知った周太は吉村医師に電話して、いますぐ青梅署へ行って英二を待ちたいと願ってくれた。
そして吉村医師は弾道調査実験のテスト射手として周太を呼び寄せ英二と逢わせてくれた。
その夜に英二は不用意に周太へと「裏切りの代償行為」の話をしてしまった。
そして実験の2日目に周太は国村へ銃口を向けてしまった、英二の体を守りたい一心で周太は威嚇発砲までしてしまった。
英二を「体を無理強いする」ことで傷つけられたくなくて、国村の宣言を撤回させたくて銃口を向け脅迫してしまった。

そうして周太は「威嚇発砲」と「拳銃による脅迫」のふたつの罪を犯してしまった。
けれど国村は、その罪を2つとも周太の肩から自分の肩へと背負ってしまった。
国村は英二たちと同年の23歳だけれど高卒任官で4年先輩な上、特進のため2階級上の警部補になる。
その立場を利用して後輩で階級も下の周太に対し「命令」することで口封じをしてしまった。

 ―俺がね、湯原に「命令」したんだよ、俺の言葉を肯定も否定もするなってね

周太を新宿へ送った帰りのまま国村は四駆を富士山麓の凍れる湖へと走らせた。
全面凍結する湖の雪面と夜に浮かぶ冬富士を穏やかに見つめて国村は「命令」の真相を話してくれた。

 ―最後の狙撃のとき、俺が練習の癖で2連射した、その2連射目でザイルは切断された
  威嚇発砲の事実なんか無かったんだ、俺が2連射した発砲音が谺になって、あのとき谷に響いたんだ
  そしてね、もちろん脅迫なんてあるわけがない
  真面目な湯原巡査がさ、2階級上で4年先輩の国村警部補に「脅迫」なんて出来るワケなんかないだろ?

そんなふうに国村は「命令」をして周太を従わせることで、周太が犯した2つの罪の全てを自分が背負いこんだ。
話してくれた白いミリタリーマウンテンコートの背中は、いつも以上に広やかに大きく誇り高かった。
その誇らかな背中に英二は透明なテノールが謳いあげた旋律を見つめた。

  季節は色を変えて幾度廻ろうとも 
  この気持ちは枯れない花のように揺らめいて 君を想う…
  微笑んだ瞳を失さない為なら たとえ星の瞬きが見えない夜も 降り注ぐ木洩れ日のように君を包む
  それは僕の強く変わらぬ誓い

国村は本気で周太を愛している。
愛するひとを守るために罪を背負った背中、その無垢な想いにこそ誇らかに国村は立っている。
真直ぐに純粋に愛している、最高の山ヤの誇り全てを懸けた大らかな真実の想いで国村は見つめている。
その背中は広やかで、まばゆくて、美しかった。

そして周太が犯した罪の本当の罪人は英二だと、もう自分で解っている。
それを国村も解っている、解っているからこそ愛する人とアンザイレンパートナーの罪を軽やかに背負ってくれた。
大切なふたりを守ることに誇らかに立って最高の山ヤは、かけらも揺るがず笑ってくれている。
そんな広やかで大きな背中はまぶしかった、見つめて、涙がこぼれた。
美しい背中と冬富士を見つめて、こぼれていく涙に尚更に自分の浅はかさが呪わしかった。

あの威嚇発砲の日、英二は独占欲のままに狙撃の銃座から下山してきた周太の掌を繋いだ。
下山してきた周太と国村には繋がりと優しい温もりが感じられた、そんなふたりに見惚れて焦った自分がいた。
そして浅はかな独占欲と独善的な愛情のまま周太を無理やりに抱いて、周太の想いを踏み躙ってしまった。
英二の「体」を守る為に罪を犯した周太の「体」を英二は大切に扱うことを怠って、周太の信頼もすべて壊してしまった。
けれど自分ではそれに気づけなかった、国村に組み伏せられ怒りを叩きつけられるまで解らなかった。
組み伏せられて容赦ない怒りに晒されて、そして初めて気がついた。

自分が周太にしたことは「強姦」そして深い傷を負わせてしまったこと。
そして国村の想いも信頼もすべて踏み躙ってしまったこと。
そして、そんな二重の裏切りを犯した自分を、周太も国村も受けとめ許そうとしてくれていること。
このことを、この2週間ほど英二は見つめ考えてきた。

いま目の前では暁闇と雪の底でクッカーの火が水を温めていく。
ゆるやかに沸いていく水の音と雪にゆらめく火の赤を見つめて、英二は静かに口を開いた。

「国村…今からさ、ちょっと独り言を話すよ?」

まなざしの温もりが英二の横顔を撫でた。
きっと底抜けに明るい目は真直ぐに英二の目を見つめてくれている。
温かいまなざしを感じながら英二は、クッカーの炎を見つめたまま微笑んで口を開いた。

「俺は、唯ひとり愛するひとを傷つけてしまった。醜い独占欲の為に体を傷つけて、心まで傷つけた。
それでも俺を愛そうとしてくれているよ。けれど、俺の愛するひとは心から愛しあっている人がいる。その相手は俺じゃない」

横顔を撫でてくれる視線の温もりが、かすかに揺らめいた。
どうか聴いてほしいよ?視線の主に微笑みながら英二はクッカーの火を見つめたまま続けた。

「ふたりの想いは、きれいだ。なにか不思議な繋がり、そう想えて仕方ないほどにね、きれいでさ。
最初は嫉妬した、羨ましかったから。けれど今は…心から守ってあげたい、ふたりの想いも、ふたりのことも。
きっとふたりの繋がりは、俺には踏み込めない領域だってことも解っている。だから俺の居場所が無くなるかもしれない、」

ぱさりと、背後の樹林から雪のおちる音が響いた。
うす青い暁闇にねむる山の頂の、やさしい静謐の底に微笑みながら英二は想いを言葉に紡いだ。

「けれど、それでもいい。ふたりとも心から大切だから、大切なふたりの幸せな笑顔が見れるなら、いいんだ」

ぱさり、静かな音がまた響く。
英二はヘッドライトを外して明りを消した、その隣も同じように消してくれる。
そして静謐の青い闇とクッカーの炎の赤だけの世界で、そっと英二は想いを続けた。

「俺はね…愛するひとを強姦してしまった。その罪の重さにようやく気付いてきた、俺は。
あのとき愛するひとは、他のひとに純粋無垢な想いを抱いて…どこか気がついていた、けれど。
ばかな俺はね、自分だけ見てほしくて体を繋げばって、さ。純粋な想いを踏み躙って傷つけて、俺は体を奪ったんだ。
初めて抱いたときも傷つけた、何も恋愛を知らないまま俺を信じて、俺の笑顔を願って抱かれてくれた、泣きながら。
その涙と血の痕を翌朝に見つめて俺は誓ったはずだった、二度と傷つけないと誓ったはずだった。けれど俺はまた傷つけた…」

目の底から熱が生まれてくる。けれど英二はゆっくり瞬いて熱を封じ込めた。
想いを心へ落としこんで綴じこめて深めると、英二は静かに言葉を続けた。

「いま思い知らされるよ、俺の愛がなんだったのか?
体を重ねてしまえば心も掴まえられる、そんな傲慢で自分中心の狂った愛だった。
自分の想いしか見ていない、そんな独善的な愛情は本当には相手を見ていなかった。だからね、強姦なんて出来たんだ」

クッカーの火を見つめる自分の横顔を、まなざしは温かいまま見つめてくれている。
こんな隣が座ってくれている幸せに微笑んで、穏やかに英二は青い暁闇の底で口を開いた。

「あのとき、愛するひとは、どんなに傷ついただろう?絶望しただろう?
あのとき…大切な面影を心に見つめながら、体は俺に無理矢理に犯されて…残酷だ、本当に俺は狂っていた。
そうやって俺はね、愛するひとの信頼も…もうひとりの信頼も踏み躙ってしまった。この罪は一生消えない、そう解っている」

 ― 体を繋げなくても心は繋げられる…心繋げない体の繋がりよりも、俺は、こっちを選ぶ

周太の体を無理強いした日の夜、国村が英二に告げた言葉。
いまは国村の言った想いがよく解る、遊びじゃないなら本気で大切にしたいなら、何をいちばんに考えるべきか?
この選択を自分は間違えていた、この過ちは取り戻せるものじゃないと解っている。
取り戻すことは出来ない、でも償っていくことは出来る。おだやかな覚悟に英二は微笑んで唇をほころばせた。

「罪は消えない、そして俺の愛する想いも消えない。だから俺は、愛することで償いをしていきたい」

横顔の頬を温めてくれる眼差しがすこし動いた。
そして透明なテノールの声が訊いてくれた。

「愛することで、償いをする?」

しずかな問いかけに英二は微笑んで頷いた。
おだやかな想いにクッカーの火を見つめてまた想いを英二は紡ぎ始めた。

「俺が愛するひとは10歳の純粋無垢なままで、ずっと俺の夢を支えてくれた。
だからこれからは…周太には、夢や人と出会わせてあげたい。今度は俺が周太が望みのままに生きる姿を支えたい。
それが、たとえ俺の居場所を失うのであっても構わない。ただ守りたい、俺を信じて13年の孤独を破ってくれた周太を守りたい」

クッカーの湯にちいさな水の玉が沸きあがっていく。
うまれてくる泡のきらめきを見つめながら英二は穏やかに微笑んだ。

「周太が生きる道を見つけるために、俺は傍で支えたい。
だから婚約もそのままにした、この立場がある方が周太は俺に甘えやすいから。
体のことは周太が本当に望まない限りはしない、俺はただ家族の立場に今はなっていたい。
周太が誰かと恋愛するのも自由だ。周太が誰かを愛するなら、その愛を叶えてやりたい、守ってやりたい。
周太が誰かと想いを通わせて幸せに輝いていく、そんな笑顔をね、俺も見たい。だから周太の想いを守ってやりたいんだ」

自分の唇からこぼれていく心の想いたち。
その想いの温もりに心が充ちていくのを英二は静かに見つめていた。

「周太は、自由だ。周太の自由をね、俺は誇りを懸けて守りたい」

静かに想いを見つめながら、きれいな低い声で英二は宣言した。
いま宣言した想いが温かい、不思議なほど充ちたりてくる想いに英二は笑った。
そしてクッカーの赤い炎を見つめたまま、穏やかに充ちる想いを言葉にのせた。

「男として、山ヤとして。すべての誇りを懸けて俺は、唯ひとり愛する周太の自由を守りたい。
そしてね、周太が愛する人のことも俺は守りたいんだ。すべての誇りを懸けて俺は、ふたりの想いも生命も守りたいんだ」

切長い目に大らかな笑顔が生まれた。
大らかな笑顔のまま英二は、ゆっくり隣をふりむいた。
その視線の先には温かい純粋無垢な瞳があった、美しい瞳の大切なアンザイレンパートナーを英二は真直ぐに見つめた。
いまは独り言だよ、でも聴いてほしい。そんな想いの真ん中へと英二はきれいに笑った。

「周太が国村を選んでも、それが周太の望みなら支えたい。
そしてね、国村が周太を愛するなら、俺はすべて懸けてもね、ふたりの想いを守りたい。
愛するひと、アンザイレンパートナー。どちらも俺には大切で、ふたりの幸せも笑顔も守りたい。
だから俺に何も言ってくれなくても構わない、秘密が想いを守るなら俺は知らなくていい、ふたりが幸せならそれでいい」

底抜けに明るい目は、ただ真直ぐに純粋無垢な想いを映して見つめ返してくれる。
こんな目をする男が自分のアンザイレンパートナーでいてくれて幸せだ。
そして自分の愛するひとの想いの相手が、こんな目の男だと言うなら本望だろう。

「秘密が、想いを守る。ほんとうに、おまえもそう思うんだね?」
「うん、いまはね、そういうの解るんだ。知るべきこと、そうじゃないことがある、」

自分だけの居場所がずっと欲しかった。
けれど今、こうして大らかな想いに掴んだ掌を開いていく瞬間に充たされていくものがある。
掌を開いていく自由な想いに英二は微笑んだ。

「俺は周太のお父さんの合鍵を受け継いでいる、だから俺はね、いまは周太の父親でいればいい」

だからきっと―そんな予兆がなにかしら温かいものと生まれて萌え出ずる。
萌え出す温もりを見つめて、きれいに笑って英二は国村に真直ぐに告げた。

「周太の父親の代わりを務めながら俺は周太を守っていく。
代わりを務めることで俺はね、周太のお父さんの想いの真実を見つめられるはずだ。
そして見つめた想いを俺は周太に示してあげたい…周太がお父さんの軌跡を追うことは厳しい、だから守る立場に徹したい。
そしていつか、周太が軌跡を追う危険な時間も終わりを迎えるだろう。そのときにはね、また俺はどうするか考えていくよ」

告げ終えて、英二は隣にならんだ純粋無垢な目を見つめた。
見つめた先で無垢な目は底抜けに明るいままで、温かく英二を見つめ返している。
そして透明なテノールの声が青い暁闇に低く響いた。

「『Le Fantome de l'Opera』…でも、怪人は父親になった。そんな感じだね、」

邦題『オペラ座の怪人』フランス文学の恋愛小説。
周太の父の蔵書にもあった、けれどなぜか冒頭と最後を遺して大半のページが切り壊されて「欠落」している。
その欠落を読みたくて周太が自分で買った本は、警察学校の初めての外泊日に書店の高い書架から英二が取って渡した。
そして英二も「欠落」の謎を知りたくて買って読んでみた。けれどまだ「欠落の謎」には辿りつけていない。
だから内容は解っている、穏やかに微笑んで英二は答えた。

「うん、…俺もね、自分で想ったよ。怪人と俺の恋愛は似ているってね。
膝まづいても愛を求めてしまう、愛する人を閉じ込めても離せない独善的な愛情だ、どこか狂っている。
自分の愛だけに盲目になって…そして俺はね、気づいたんだ。盲目で自分の想いしか見つめない俺はね、俺の母親と同じだ。
理想の『美しい息子』しか愛せない、汚れたら目を背けて本当の姿を見ようとしない…心を見つめない、身勝手に欠け落ちた愛だ」

目の前でクッカーの湯が沸騰を始めた。
ちょっと笑って英二は国村のカップ麺に湯を注ぐと、自分の分にも湯を充たした。
そしてまた水を入れて火にかけると、ゆるやかな水の音に心を傾けて微笑んだ。

「俺はね、母親のそんな愛情から逃げて、ここへ来たよ。
見つけた誇りに生きるため周太を守るために母親を捨てた。そのことを欠片も後悔していない。
だからね、気づいて愕然としたんだ…俺は母親と同じに周太を愛していた、それに気がついたときはね、苦しかったよ」

雪と樹木の香に温かい匂が立ち昇る、ふっと時間を感じて英二は蓋を開いた。
ほどよく出来上がった麺に笑って「食べながら話そう?」と目で促すと箸を割った。
熱いスープと麺に肚が温まる、暁闇の山に佇んで摂る簡素な朝食の醍醐味に英二は微笑んだ。

「だから俺はね、母親と同じになるのは止めようって思った。
怪人のように失った愛に泣くことも嫌だと俺は想った、そして気がついたんだ。
俺の首に懸けられた周太のお父さんの合鍵、この合鍵に籠められた願いと祈りが俺にはある。俺はこの為にいるって思えた。

ひとつ目をさっさと平らげて国村が英二を見つめた。
その底抜けに明るい目が穏やかに微笑んで訊いてくれた。

「いつも宮田が、首に懸けている鍵…宝物だって言っているな、」
「うん、俺の宝物なんだ。この鍵で俺は家の扉を開けるんだ、そしてきっと、周太のお父さんの想いも」

川崎の家の書斎、そこにあるオーク材の重厚な書斎机。
あの机の抽斗には周太の父の日記帳が眠っていた、その抽斗の鍵はこの合鍵でしか開けない。
周太の父の合鍵に籠る想いを見つめながら英二は口を開いた。

「この合鍵にはね、息子と妻の笑顔の許へ帰って幸せにしたい、そんな祈りがあるよ。
きっと俺は、この祈りを叶えるために周太に出逢ったのだろう。だったら祈りを叶えてあげたい、そう素直に想えた。
だから俺はね、周太の父さんの代わりを務めることで想いを見つめてあげたいんだ。こんな俺だけどね、受けとめてあげたい」

英二もひとつめを平らげると、ほっと息を吐いた。
温かなクッカーの炎を見つめて、そして隣に座る大切なアンザイレンパートナーに笑いかけた。

「俺の『オペラ座の怪人』はね、国村?…怪人は恋愛を手放すことによって、大きな愛を抱けるんだよ。
そして大らかな愛情でね、真直ぐに歌姫と幼馴染の恋を祝福する。そんな穏やかな幸せに怪人は、笑って暮らすんだ」

きれいに笑って英二は告げた。
そんな英二を見つめている底抜けに明るい目は、ふっと穏やかに微笑んだ。
そして透明なテノールの声がやわらかく告げてくれた。

「うん、…その解釈は正しいね。原作もその通りだよ?
歌姫は幼馴染と再会してね…再び恋におちた。その恋と愛に命を懸けて、幼馴染は彼女を救いに行った。
怪人は、そんな彼の姿に「捨て身の愛」に気づいた…だから歌姫の手を離して幼馴染の許へ向かわせたんだ」

いま「再会」と国村は微笑んだ。
たった2文字の言葉に英二は想いを見つめられると思った。
きっと周太と国村は幼い日に出逢ったことがある、それは周太の父が生きている頃の話だろう。
周太の父は山を愛して警視庁山岳会にも所属していた、そして奥多摩交番にも寄っていたと後藤副隊長からも訊いている。

その後藤の友人の子供である国村は、幼いころから奥多摩交番にも顔を出していた。
きっと奥多摩交番の近くの森でもよく遊んでいただろう、そこで周太と出逢ったことがあっても不思議はない。
ふたりの想いは「再会の恋」それも純粋無垢なままの初恋だった。
それも「山」のどこかで出逢った初恋、だから国村はさっきも「別次元」だと言ったのだろう。
いちばん「山」を愛している国村が「山」で恋におちたのなら。それはきっと最高の唯ひとつの愛になる。

そんな唯ひとつの愛で周太を国村が見つめているのなら?
すべてが納得が出来る、なぜ周太を傷つけられた国村が怒りを剥きだしにしたのか理解できる。
けれど。周太は13年前に父を失った衝撃で記憶を忘れていた、だから英二を初恋だと思っていたのだろう。
それでも今はもう、周太には記憶は想いと一緒に甦っている、そして初恋を想い国村を想っている。

すくなくとも13年は眠らされていただろう初恋、それなら甦った今こそ幸せにしてあげたい。
甦った周太のやさしい幸せの記憶を守ってあげたい、守りたい。そんな確信が静かにおちて英二は微笑んだ。
静かな英二の微笑みを見つめて細い目を笑ませると、テノールの声は透明に言ってくれた。

「なぜ歌姫と幼馴染が再会できたのか?
歌姫に恋した怪人はね、彼女に歌のレッスンをした…そのお蔭で彼女は舞台に立つことが出来た。
その舞台を見ていた幼馴染が彼女に気がついて、そして子供の頃の恋と愛を蘇らせることが出来たんだ。
怪人が歌姫に恋をしなければ、ふたりの恋愛は再会出来なかった…そして怪人が愛に気づけなければ再会の恋も、壊されていた」

怪人のおかげで「再会の恋」は甦った。そう国村は言ってくれている。
英二も奥多摩への配属を望み、周太を奥多摩へ再び訪れさせた。
そうして周太は奥多摩で再び国村と廻り逢い、記憶と初恋を蘇らせることが出来た。
そのことを国村はきちんと気づいて言ってくれている、そんな繊細で豊かな想いの視点が温かい。
やさしい温もりに微笑んで、おだやかに英二は訊いた。

「怪人のおかげ、って言ってくれるんだ?」
「うん、そうだろ?怪人がいなきゃさ、ふたりはずっと逢えないままだ」

クッカーの湯がしずかな音をつぶやき始めていく。
すこしだけ明るんだ紺青の星空のした、並んで座りながら湯の音を見つめる時間はどこか温かい。
温かな時に座って国村は英二を真直ぐに見つめて、きれいに笑った。

「きっとね、歌姫も幼馴染も、怪人のことを心から大好きでね、大切に想っているはずだ。
そしてね、歌姫は歌姫なりの想いで怪人のことも愛している。唯一の相手では無いかもしれない、けれど想いは真実のはずだ。
辛い運命に没落して幼馴染と離されて、彼女は幸せを諦めかけた。そんな彼女の心に愛する幸せを蘇らせたのはね…怪人の愛だろ?」

周太は国村との恋を蘇らせている、けれど英二への愛も失っていない。
そして心から周太も国村も英二を大切に想ってくれている。
おだやかに響くよう返される想いが温かい、幸せで英二は大らかに、きれいに笑った。

「うん、ありがとう。きっとね、怪人はさ?すごく幸せだよ…初めて心から充たされて、幸せだ」
「そっか、…ならさ、大丈夫だよ?」

頷いて国村は温かな眼差しに英二を見つめた。
見つめて真直ぐに微笑んで、透明なテノールの声が言ってくれた。

「自分の信ずるように愛する人に接して行けばいい。
真直ぐで本当は繊細で優しい、それがおまえだ。おまえなら出来るよ、本当に笑顔にさせてやれる。
そして俺はね。ほんとうはさ、全部おまえに話したいとも想うよ。やっぱり俺は、おまえが大好きだからね。
でもね、山の誇りに懸けた秘密は、これだけは話せない。俺は山をなにより愛している、だから『山の秘密』だけは言えない」

話せないんだ、ごめんよ?
そんなふうに底抜けに明るい目が笑ってくれる。
別に構わないんだと英二も目で答えながら、クッカーに沸いた湯を2つめのカップ麺にそれぞれ充たした。

「うん、大切な秘密なんだろ?ならね、きちんと大切にしたらいい。
俺に遠慮はいらないんだ、自由にしてほしい。俺はね、国村の誇り高い自由が大好きだ。そして周太にも自由に生きてほしいよ」

自分を重荷にしないでほしい、負担にはなりたくない。
ただ自由に生きて輝く姿を見せてもらえたらそれで良い、そんな願いに英二は微笑んだ。
そんな英二の笑顔に国村は、楽しげに幸せそうに笑ってくれた。

「おう、自由に大切にするよ?…うん。ありがとな、宮田」
「うん、大切にしてほしいよ?…はい、3分たったよ。でさ、北岳の時にはね、特別に準備するものってあるかな?」

そんなふうに他愛ない会話をしながら、2つめのカップ麺を啜りこんだ。
そして食べ終わって片づけると、今日、最初の曙光が奥多摩の山波遠くから昇り始めた。
青い暁闇が朱色と金色かがやく暁の空へと遷ろっていく、刻々と生まれくる光を英二は携帯の写真に撮りこんだ。

To   :湯原周太
subject:雪の朝
添 付 :本仁田山頂からの朝陽にそまる雪景色
本 文 :おはよう、周太。朝早く雪が降ったよ、今朝も国村に起こされて本似田山に登ってきた。
    いつも通り三角点で手形を押して、カップ麺食ったよ。朝陽がきれいで見せてあげたかったな。

次に周太と再会した時は、前とはすこし違う立場での再会になる。
もうキスは唇には出来ない、けれど額や頬へのやさしいキスは贈ってあげられる。
ただ温もりに抱きとめることも、掌を繋いで温めてあげることも出来る。
そんなふうにただ、やさしい温もりを周太へと贈ってあげられたらいい。
そんな温かな想いをこめて英二は、朝陽そまる雪山の写真を周太へと送信した。


(to be continued)


【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「叙情詩」】

【ピアノ編曲版「叙情詩」http://www.youtube.com/watch?v=jc0C0UUrgWo】

blogramランキング参加中!

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする