萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第41話 春永act.4―another,side story「陽はまた昇る」

2012-04-30 23:56:06 | 陽はまた昇るanother,side story
※念のため途中2/4~3/4あたりR18(露骨な表現はありません、)

春、とこしえに祈り



第41話 春永act.4―another,side story「陽はまた昇る」

英二が選んでくれた甘めの白ワインは、とても飲みやすかった。
ふわり広がるマスカットの香が好き、こんなふうに好みの香を解ってくれることが嬉しい。
初めて飲む甘さと香りが素直に美味しい、こうして酒を美味しいなと想えると大人になれた実感ができる。
どこか幼い心身の引け目が自分にはある、それを英二は解っていてさり気なくハードルを越えさせくれる、そんな理解が幸せで温かい。
やさしい婚約者が幸せで微笑んだ周太に、大好きな声が教えてくれた。

「そうだ、周太?お母さんがね、俺にプレゼントを置いてくれたらしいんだ」
「ん、プレゼント?…どこに置いてあるの?」

見つめた先、白皙の端正な笑顔が優しい。
やわらかなランプの光に佇む姿が静謐に綺麗で、グラス持つ長い指に見惚れてしまう。
けれど、どこか切なげな切長い目が不思議に想える。

…英二、今日はなんだか、朝から不思議な感じ…何かあったのかな、それとも

すこし、いつもより心配になってしまう。
英二は頭に怪我を負っている、もう精密検査の結果で異状なしと言われているけれど、やっぱり心配になってしまう。
だからさっきも「熱がある?」と訊かれたとき、一瞬で呼吸が止まった。

もし、英二になにかあったら、きっと自分は生きていられない。
今はもう自覚している、だって雪崩に遭った英二に付き添った夜は、握った掌を離せなかった。
この長い指の掌を離したら途端に引き離される、そんな不安と哀しみが怖くて片時も離せなかった。
そうして握りしめて目覚めた暁に、キスと一緒に瞳ひらいて笑ってくれた瞬間は、幸せだった。
そして今もすぐ隣に座って、きれいな笑顔で笑いかけてくれる。

「うん、お母さんの部屋の風呂敷包みらしいんだ。周太に言って、見てね、って、」

今は、ほら?
こんな笑顔で母からのプレゼントを話してくれる。
ほら、今、ちゃんと生きて綺麗な笑顔を見せてくれるね?
この幸せが嬉しくて素直に周太は微笑んだ。

「そういえば、置いてあったね?…いま、見てみる?」
「うん、見てみたいな。なんだろうね?」

答えながら一緒に席を立ってくれる。
ふたり並んで階段を上がる、ふるい木板の軋みが1人の時よりすこし大きく聞こえる。
こんな小さな事も幸せで、今の時が宝なのだと心から切なく温かい。

…このさき、なんども。こうして一緒に階段を昇れますように

このささやかな祈り結びながら、周太は母の部屋に入った。
灯をつけてすぐ、華奢な箪笥の上に風呂敷包みを見つけられる。
そっと抱き取ると、なよらかな重みが腕に凭れこんだ。

…着物、かな?

そんな予想を一緒に抱いて周太はホールに戻った。
やわらかなランプの灯の下、大好きな笑顔が優しい眼差で迎えてくれる。
この笑顔をずっと見ていきたいな?そっと祈り想いながら周太は笑いかけた。

「ね、英二?…俺の部屋で開いて見る?」
「うん、そうしたいな。なんだろう、そんなに重くは無いけど、」

風呂敷包みを受けとりながら、英二は素直に頷いてくれる。
もし予想通りに着物だと、きっと素敵な姿をみせて貰えるな?
この予想が当たると良いな?楽しみにしながら部屋に入ると、ベッドの上で周太は包みをほどいた。

「あ、…きもの、だね?」

現れた3つの畳紙に微笑んでしまう。
3つということは、たぶん袴と袷と、浴衣かな?
そんな予想と一緒に畳紙を開いて、そして現れた着物たちに周太はきれいに笑った。

「見て、英二?…すてきだね、」

濃く深い藍あざやかな勝色の馬乗袴。
渋い青み縹色の袷、藍に赤を織り込んだ博多織の帯。
白地に細かな織模様の浴衣と、袴と同じ凛々しい勝色の兵児帯。
そして、あざやかに闇深い紅そめた濃蘇芳の、落着きにも華やぎこぼれだす襦袢。
この色は、あの花のいろに似ているな?幸せな花の記憶に周太は微笑んだ。

「ん、襦袢の色が、めずらしいね?」

カーネーション・ブラックバカラ。
大輪あざやかな黒紅の、華やかで神秘的な花。
あの婚約の花束にあった、恋人の面影映す花。
あの美しい花とよく似た色彩の、静謐と華やぎ濃い素肌まとう衣。
この色が、白皙の肌にまとわれたら、さぞ美しいだろうな?そんな姿を描いて周太は微笑んだ。

「帯の赤と映えていいな、華やかな感じ。きっと似合うね、すてきだね、」

謹厳に凛々しい勝色に沈思の縹色、それに濃蘇芳の艶麗を秘めて纏う。
この愛するひとを表すような色組の雰囲気は、とても似合う色と組合わせ。
そして、どれもが端正な誂えから、以前から考えて注文した品なのだと解る。

…お母さん、前から仕度してくれたね…英二を、迎えてくれるために、

この家の当主は皆、茶を嗜み着物を好んできた。
こうした家風に婿として迎えるからと、母は考えてくれた。
この気遣いに籠められた、母の想いと真心が切なくて、温かい。
ずっと、息子と一緒にいてやってほしい、幸せに息子の道に添ってほしい。そんな母の願いと祈りが、心に響いて温かい。
この母への感謝と着物を見つめる隣から、きれいな低い声が微笑んでくれた。

「うん、どれも落ち着いて、きれいな色だな?…でも、お母さん。こんな良いもの、ありがたいな?」

素直な感謝に微笑んで、英二は携帯電話を開いてくれる。
きっと母に礼の電話をしてくれるのだろう、いつも気遣い優しい婚約者が嬉しくて周太は微笑んだ。

「電話してあげて?きっと喜ぶから…今ごろ、友達のひとに話してるかも?」
「うん、ありがとう、架けてみるよ?」

提案に笑いかけて英二は電話を架け始めた。
いつも母を慕って大切にしてくれる、そんな恋人が嬉しいと素直に想う。

…ほんとうに、幸せだね?

自分はとても幸福だ、心から想う。
午後、英二の父と姉が訪問してくれた時も、そう思った。
この父だから、この息子が生まれたのだ。そんな実感が温かかった。
けれど、そんな立派な男性だった英二の父は、どこか充たされない孤独の寂しさが哀しかった。

…あの寂しさは、似ている…英二の、お母さんと、

彼も彼女も互いに独りぼっち、寂しさを眺めている。
どうしても寄添いあえない、そんな哀しみが垣間見えて心軋んでしまう。
この痛みに納得してしまう、どうして過去の英二が冷酷な仮面で「きれいな人形」のフリして生きていたのか。
あの大嫌いだった仮面の成立ちが、愛するひとの両親に見えて哀しかった。

どうして、ふたりは寄添えないのだろう?

自分の父と母は、死と生にいま別たれている。
それでも母の想いは毎日の、書斎の写真に活けられた庭の花に見えて温かい。
そして父のあの綺麗な笑顔の写真を撮ったのは、母がシャッター押したカメラだという事実に父の想いが偲ばれる。
こんなふうに生命にすら裂けない絆の夫婦もある、この姿をこそ自分は信じたい。

いつか、自分は英二の妻になる。
そして姓を捨て、この家の当主の座を自分は降りる。
けれど「家」は必ず守れるだろう、その約束をたくさん結んでくれる婚約者だから。
この約束は、決して容易くは無い。それでもこの恋人は約束を全て守るだろう、そういう真面目なひとだから。

…こんなに、愛してくれる、想って幸せにしてくれる…英二、

この想いに自分は、どうしたら応えられる?
すこしでも想いを返せる?この愛しい約束の守護者に、自分はなにを与えられるの?

―…ふうん。周太、やっぱりまだ、なんだね?

自分は何を与えられるの?
この疑問に、初恋相手の言葉が呼応する。
この愛するひとの精密検査を待つ、あのときに雪の梅林で言われた言葉。

―…筆おろしはさ、最初に出来たの?
 …ふでおろし?…あ、お軸の書はね、3歳で最初に書いたけど…
 …それじゃなくってさ…ふうん。周太、やっぱり、まだなんだね?
 …あ、違うの?…なにかな?
 …ホントに知らないんだ?やっぱり、まだか。なるほどね、

そんな会話を光一と交した。
なんのこと?そんな疑問に見つめた初恋相手は、底抜けに明るい目を細めて笑った。

「周太を『大人にする』ことだよ?」

自分を大人にすること?
言われたことが不思議で首傾げた周太に、透明なテノールは教えてくれた。

「周太の大切なトコに初めて『大人にする』コトして、お初を相手に捧げちゃうワケ。でも…そっか、まだ、捧げてないんだ?」

そう言って笑う光一の目は温かで、けれど切ない望みの気配が哀しくて、すこし怖かった。
だから言葉の意味を何となく理解できた、光一の「切ない望み」に関わることなのだと気がついた。
これは周太も漠然とは知っていることだろう、それを本当は英二にねだりたくて、けれど言えないままでいる。
本当は英二にしてほしい、けれど恥ずかしくて何か申し訳なくて、未だに言えない。

このことを今、なぜ光一は周太に確認したのだろう?

そう考えたとき、ふたりきり雪の梅林に居ることが少し怖くなった。
雪の山ふかい花の林は山っ子の光一にとっては庭、けれど周太にとっては迷宮のよう。
もし置き去りにされたら1人で無事に帰れる自信なんてない、けれど守ってくれる婚約者はまだ怪我に動けない。

もし、今ここで、光一に『周太を大人にする』ことを求められたら?

拒みたい、そんなの英二以外に捧げたくはない。
けれど、もし拒んで置き去りにされたら?そして、この花の林に閉じ込められたら?
もう二度と、あの大好きな笑顔に逢えなくなってしまう。そんなのはもっと嫌、引き離されたくない。
こうした不安と哀しみが、見つめている初恋相手の真直ぐな想い籠る瞳に見えて怖くなった。
じわり真綿のような不安のなか、透明なテノールが微笑んだ。

「周太。約束の、梅の花を俺は、君に見せたよ?」

この微笑が見つめているのは今、どんな想いにあるの?
不安と哀しみに心が縛られそう、けれど周太は微笑んで答えた。

「…ん、ありがとう。きれいだね?霞と朝日の花だね…不思議で、きれい、」
「夜はね、もっと不思議できれいだよ?…周太、」

呼ばれた名前と一緒に、真白なマウンテンコートが自分を包みこんだ。
水仙のような透明な甘い香が頬ふれて、速い鼓動がふれてくる。
この鼓動の速さが怖い、大好きな初恋相手が今は怖い。
あまく痛い沈黙に見つめる先で、純粋無垢な瞳が真直ぐに笑いかけた。

「約束の花を、ひとつ君に見せたよ?花の美しさを君に贈ったよ、俺は…周太、俺にはなにか、貰えないの?」

このひとは14年間、ずっと自分を待っていてくれた。
このひとが言う「なにか」が『大人にする』ことなのだと、自分でも今は解かる。
このひとの一途に純粋な想いは美しくて、温かくて、甦る記憶と想いは色鮮やかに愛しい。
それでも自分は帰りたい場所を見つけてしまった、あの隣から離れたくない。だから正直に想いを告げるしかない。
ひとつ呼吸して周太は、正直な想いに真直ぐ微笑んだ。

「また家に遊びに来て?そうしたら、お茶を点てて、俺が育てた花をお土産にあげる…川崎で咲いた奥多摩の花を、光一にあげるね?」

これが自分の素直な気持ち。
この体は大切な婚約者以外には捧げられない、心ごと体を繋げるのは唯ひとりだけ。
この初恋相手の想いと望みに終わり無いことも、もう解っている。このひとが自分も大切で好きだ、けれど心しか交わせない。
だから、想いを懸けた花なら贈ることは出来る。そう見つめた先で底抜けに明るい目は大らかに優しく笑ってくれた。

「お許しいただけるなら、また遊びに行くよ。逢いに行く、君と君の花たちにね?でも、ひとつだけ忠告だよ、」
「忠告?」

優しい笑顔を見あげて周太は訊きかえした。
雪白の秀麗な笑顔はそっと近づいて、耳元にキスをおとしながら囁いた。

「ずっと手つかずだったらね、いつか俺、お初の誘惑に負けちゃうかもしれない…そしたら、ごめんね?」

透明なテノールの声は切なくて、痛かった。
それでも光一は綺麗に笑って、優しい笑顔のまま周太を見つめて教えてくれた。

「あいつもさ、本当は欲しいって想ってるよ?でも、君のこと気遣って言えないんだ。あいつは恋の奴隷だろ、君が絶対だからさ、」

自分の望みを、英二も同じように望んでくれているの?
もしそうだとしたら、望みのまま正直に告げたなら、喜んでくれるのだろうか?

…こんなに華やかで、魅力的な襦袢が似合うひとが、望んでくれる?

いま手にとる深紅の艶麗な衣は、唯ひとり想うひとの白皙の肌を包む。
この襦袢を纏えるひとは稀、それくらい美しく華やかで普通は着負けするだろう。
そんな稀なる美しいひとが自分の婚約者で、いま母と電話で話している。
こんなふうに英二は心映えから美しい、だから自分は恋して愛して、体ごと心を捧げている。

だから、この初めても捧げたい。
あの美しい婚約者の手で大人にしてほしい、そしていつか妻に迎えてほしい。
そんな望みが面映ゆくて気恥ずかしくて、けれど幸せで周太は美しい衣見つめて微笑んだ。

「周太、話したいだろ?」

きれいな低い声が名前呼んでくれる。
嬉しくてふり向くと周太は、素直に恋人の携帯電話を受けとった。

「ん、ありがとう、」
「ゆっくり話して?」

そう綺麗に笑ってくれる、この優しい気遣いが好き。
いつものようにまた想ってしまう「好き」に、また羞みながら周太は母に話しかけた。

「お母さん、こんばんは?」
「こんばんは、周。着物、どうかな?」

やさしい母の声が訊いてくれる。
大好きな母の声が嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、とても素敵だね?どれも英二に似合ってる…あの、襦袢と博多の帯がね、特に素敵だな、って」
「あのふたつ、良いでしょう?ちょっと奮発しちゃったの、でも立派なお婿さんの為だからね?きちんとしたくて、」
「ありがとう、…恥ずかしいけど、うれしいな?」
「ほんと恥ずかしがりね?周は。お寝間着は、今夜もう着て貰ったら?周のとね、柄の大きさ違いでお揃いなのよ、」
「これのほうがもっとすごくはずかしいね?…でも、うれしいよ、お母さん、ありがとう、」

そんな会話をすこし楽しんで「おやすみなさい」に微笑んで電話を切った。
借りた携帯を英二に返しながら、周太は母に言われた通りに提案と微笑んだ。

「ね、英二?…ゆかた、着てみて?」
「周太、着せてくれるの?」

なにげない質問をしてくれる、けれど気恥ずかしいなと想う。
だって浴衣を着せるなら、下着以外は裸になった姿を見る事になる。それが気恥ずかしい。
けれど、英二はまだ一人では着物は着れない。

…それに、夫に着物を着せるのは、妻の仕事、だよね?

こんな自問も面映ゆくて、けれど幸せが温かい。
この温もりに微笑んで、周太は羞かみながらも頷いた。

「ん、着せます…あの、ぬいでくれますか?」
「ありがとう、周太、」

きれいに笑いながら英二はシャツのボタンを外し始めた。
見つめる先で白いシャツがほどけて白皙の背中がひろやかに現れる、コットンパンツも潔く落ちて伸びやかな脚が現れる。
そして振りむいてくれた姿は、ルームライトに隈なく魅せる美貌にあふれて、見惚れてしまう。
いつもなら恥ずかしがって目を逸らしてしまうけれど、今夜はなんだか見ていられる。
きれいな婚約者が嬉しくて、周太は素直に微笑んだ。

「…きれい、英二…あの、はい、」

肩に浴衣を掛けながら、やわらかな灯のした白皙の肌を見てしまう。
やっぱり綺麗なひとだな?心から感心しながら微笑んで、周太は手早く浴衣の着付けをした。
きれいに引締まった腰に兵児帯を締めながら、綺麗な色が嬉しくて周太は口を開いた。

「この帯のいろね、勝色っていうんだよ?袴のいろと、おなじだね…武士のいろなの、かっこいい色、だよ?」

山岳救助の現場に駆けていく姿は、どこか武士と似ているかも知れない。
いかなる危険な場でも、自分が信じた誇りの為に潔く、身命も懸けて誇らかに立っている。
そういう高潔な生真面目さが英二は武士みたい、そしてあの『哲人』の名を持つ高潔な北岳を思い出させる。
この端正な武士に似た「哲人」は、周太の言葉に微笑んだ。

「あ、『勝』だから、武士の色?」
「そう…英二、きりっとして似合うね?」

こんな素敵なひとが自分を求めて、婚約者にしてくれた。
そして父親にまで引きあわせて、こんな自分を婚約者に迎えることを認めさせてくれた。
すごく幸せだな?そう微笑んだ周太に、大好きな声が愉しそうに訊いてくれる。

「周太が言ってくれるなら、嬉しいよ。俺、周太好みの男になれている?」

そんな質問、恥ずかしいけど幸せ。
それになんだか今夜は、いつもより恥ずかしいが少ない気がする?
こんな今夜を不思議に想いながら周太は、素直に頷いた。

「ん、だいすき。英二がいちばんなの、…はい、着れました。すごく素敵、英二、」

真白な寝間着の浴衣に、勝色の渋い黒藍が凛として男らしい。
華やかに映える白と渋い黒藍が呼応して、生真面目で艶麗な婚約者を惹きたててくれる。
この姿が嬉しくて幸せで、周太は素直にワガママを言った。

「すごくかっこいいよ?ね、きすしてほしいな、お願い、言うこと訊いて?」

ワガママに微笑んだ先で、切長い目がすこし大きくなる。
けれどすぐ幸せに微笑んで、優しく抱きよせて温かなキスをくれた。

「可愛いね、周太?…他にご命令はありますか、俺の愛しい、恋のご主人さま?」

言うこと訊いてくれるの?
嬉しくて素直に周太は腕を伸ばして、きれいな肩に抱きついた。

「じゃあ、抱っこして?それから一緒に、夜桜を見て、ワインを飲ませて?」
「はい、仰せのままに、」

優しい笑顔が幸せに華やいで、膝から抱えあげて頬寄せてくれる。
こんなに自分を軽々と抱き上げてくれる腕が頼もしくて、愛おしい。
なんだか今夜は嬉しくて幸せで、素直にワガママをたくさん言えそう?
こんな自分が不思議で、けれど楽しくて幸せで、テラスの籐椅子に座ると周太はすぐにワガママに微笑んだ。

「今夜はね、いっぱいワガママ言っても良い?お願い、あいしてるなら言うこと聴いて?」
「愛しているから言うこと聴くよ。いっぱい周太のワガママ聴かせて?」

きれいな低い声が笑いながら、片手でクリスタルグラスに酒を注いでくれる。
そんな馴れた手つきも綺麗で見惚れながら、美しい白い衣姿を周太は微笑んで見つめた。
見つめた先の大きな窓向こう、薄紅の梢に月がかかっている。
皓々と銀いろ冴える月の高潔は夜闇にもまばゆい。その月は、白銀まとう恋人に想い観えた。

「…月、きれいだね、」

夜の静寂に、マスカットの香と想いがこぼれる。
あまい香のことばに籠る意味に紅潮が首すじ昇る、そんな想いの隣から大好きな声が微笑んだ。

「ほんとうだ、きれいな月だな?…周太の真白な着物と、似てるね?」
「…ん、なんか恥ずかしいな…あの、綺麗だよ?」

月と似た、あなたこそが綺麗。
こんな本音に微笑んで、周太は唯ひとつの想いかける横顔を見つめた。


テラスでの花見にワインが尽きて、ふたりで片づけをした。
グラスをきちんと洗って干すと、周太はカラフェに氷水を作って薄いレモンの輪切りを1つ落としこんだ。
いつも母がワインを楽しんだ後は、この冷たいレモン水を作ってあげている。だから今夜も作ってみた。
きれいなグラスを添えて盆に載せると、横から受け取った綺麗な笑顔が楽しげに訊いてくれた。

「これ持っていくから、抱っこ出来ないけれど。許してくれますか、お姫さま?」

お姫さま、だなんて気恥ずかしい。これでも自分は男だし一応23歳で警察官だから。
けれど、この武士のように高潔で凛々しい婚約者には、お姫さま扱いされるのは嬉しいなと想ってしまう。
だから正直にワガママなお姫さまでいればいい?嬉しい想いに周太は素直に微笑んだ。

「ん、ゆるしてあげる。…あとでその分、わがまま言います、」
「その分も言ってくれるんだ?楽しみです、お姫さま、」

片手で盆を器用にもって、長い指で右掌をとってくれる。
そうして手を曳いて、戸締りと照明を確認してから2階へとエスコートしてくれた。
こんなふうに掌をとってエスコートするなんて、幼い頃にたくさん読んだ童話や絵本の王子さまみたい?
気恥ずかしいけれど素直に手を曳かれていると、きれいな笑顔が訊いてくれた。

「周太、なんかすごい、おねだりとかあるの?」
「ん、はい…あるの、」

素直に頷いて周太は、すこし首筋が熱くなってきた。
いつもよりは恥ずかしくない、けれど流石にこの「おねだり」は恥ずかしい。
それでも今夜こそ言える気がして、ちいさく1つの呼吸に心落着け微笑んだ。

「どうぞ、お姫さま?」

きれいに微笑んで扉開くと部屋に導いて、ベッドに腰掛けさせてくれる。
デスクライトのあわいオレンジの光を灯すと、レモン水をサイドテーブルに置いてくれた。

「はい、お姫さま?どうぞ、」
「ありがとう、英二、」

注いだ冷たいグラスを周太の掌をとって持たせてくれる。
受取って素直にひとくち飲んだ周太を、きれいな笑顔が覗きこんだ。

「ほんとうに、きれいだね、今夜の周太は、」

とくん、
鼓動が心をノックした。
覗きこむ切長い目が切なくて、愛しい想いに心を掴まれた。

…英二、どこか違う、いつもと

いつもより熱くて切なくて、見つめると惹きこまれてしまう。
もう素直に惹きこまれていればいいの?そう思った心がふっと寛いで、ふわり周太は微笑んだ。

「ありがとう、褒めてくれて…ね、俺のこと、好き?」
「大好きだよ?だから、どんなお願いも叶えてあげたい…ね、命令して?」

きれいな笑顔で見つめてくれながら、隣からそっと掌を繋いでくれる。
繋がれた掌から伝わる温もりがうれしい、なんだか素直になんでも言ってしまえそう。
寛いだ素直な想いのまま、周太は綺麗に笑いかけた。

「じゃ、命令します。きすして?…お願い、」
「はい、」

幸せに微笑んで、そっと肩抱いて見つめてくれる。
ふれる唇がやさしい、温もりが幸せで閉じた瞳にも、やさしいキスでふれてくれる。
幸せが温かで嬉しくて、周太はワガママを言った。

「命令するね?…あの、お膝して?」
「おひざ?」

すこし首傾げて訊いてくれる。
その傾けた首筋が綺麗で、ちょっと見惚れながら周太はすこし拗ねたように教えた。

「お膝にのせて、抱っこするの。知らないなんて、がっかりするよ?」
「あ、それか。ごめんね、周太。はい、」

すぐ抱き上げて膝に乗せてくれる。
すっかり甘やかされる雰囲気が嬉しくて、きれいな白皙の頬に頬寄せて周太は微笑んだ。

「これでいいの。愛してるなら、ちゃんと言うこと聴いて?」
「はい、なんでも聴くよ?離れろ以外なら、ね」

答えた低い声が、どこかすこし哀しげで切ない。
どうしてそんな声なの?不思議に想いながら、ふっと周太は素直にお願いを口にした。

「離れないで?だから…もっと近づきたい、今よりもっと…」
「うん?もっと近づくの、周太?」

どういうこと?優しい笑顔が訊いてくれている。
いまなら、ずっと言えなかった「おねだり」を、お願いを言えそう。
ひとつ呼吸して。真直ぐ婚約者の目を見つめたまま、ふわり周太は微笑んだ。

「俺のこと、大人にして?…英二にしてほしい、お願い、言うこと聴いて?」

見つめ合う切長い目が、すこし大きくなる。
どこか切なげで、縋るよう愛しむような目になって、見つめて、綺麗な低い声が訊いた。

「周太、はっきり訊くよ?周太の童貞を、俺にくれる。そういうこと?」

いつもなら恥ずかしくて、きっと答えられない。
けれど今夜は言えてしまう、微笑んで素直に周太は頷いた。

「どうてい、って言うの?…でもきっと、それだと想います。英二にね、俺を大人にしてほしいの。お願い、言うこと聴いて?」

言うこと聴いてくれる?
にっこり微笑んで見つめる先で、切長い目が泣きそうに幸せに笑った。

「ほんとうに言うこと聴きたいよ?でも、どうして周太、急にそんなこと言うの?」
「急、じゃないの…ほんとうはね、ずっと言いたかったの。でも、恥ずかしいし、悪いみたいで言えなくて。でも、今は言えるの」

ずっと本当は考えていた、それを今夜は言える。
きっと、英二の父との対面で見つめた不安と緊張がほどけて、英二の遭難から『今』なんだと背中押されて、もう言える。
そして光一が自身の望みを告げながらも、やさしく周太の背中を押してくれたから、だから言えてしまう。

「どうして、悪い、って思ったの?」
「英二にね、いつも俺がしてること、してもらうんでしょう?…ちょっと痛いから、悪いなって想って…やっぱり、嫌?」
「嫌だなんて、無いよ?…でも、ほんとうに良いの?」

やっぱり嫌?って聴いたけれど、絶対に嫌だなんて英二は言わない。
そう解っていて訊いてみている、こんなふうにワガママ言わせてほしい。
そんなワガママに周太は素直に笑いかけた。

「どれいなんでしょ?愛しているなら言うこと聴いて?婚約者なら、ちゃんと大人にして?そしていつか妻にして…ね、英二、」

きっと痛い思いさせてしまう、けれど、お願いしたい。
こんなワガママ、いけないのかもしれない。でもワガママだけじゃないから聴いてほしいな?
綺麗に笑って周太はダメ押しをした。

「お願い、英二?初めてを受けとって?…愛してるから、英二だけがいい、他は嫌…愛しているなら、言うこと聴いて?」

いまきっと、頬も真赤になっている。
それでも、おねだりが言えて嬉しくて周太は微笑んだ。
微笑んだ瞳を切長い目が切なく見つめて、きれいな低い声が微笑んだ。

「言うこと、聴きたいよ?…愛してる、周太。初めてを、させて?」

想い告げながら、やさしいキスがふれてくれる。
唇で想い受けとめて、ふれる唇から熱が口移しに偲びこむ。
くらり頭が溶けてしまうキスに抱きとめられて、周太は切長い目を見あげた。
見あげて結ばれる視線つなぎとめて、切長い目はあわい緊張と幸せに微笑んだ。

「周太、俺もね、させるのは初めてだから…俺も初めてを、周太にあげるよ?」

きれいな低い声が気恥ずかしげに、それ以上に幸せそうに言ってくれる。
その言葉にやっぱり気恥ずかしくて頬が熱くなる、そして少し心配になって、周太は訊いてみた。

「ん、…うれしい、英二の初めて。でもあの、俺が英二にね、するの?…どうしたらいいの?」

よく考えたら自分は、夜のことの仕方をよく解っていない。
いつも英二にしてもらっているけれど、いざ自分がしろと言われたら困ってしまう。
やっぱり出来ないとダメなのかな?途方に暮れかけた周太に、きれいな笑顔が可笑しそうにキスをしてくれた。

「大丈夫だよ、周太?ちゃんと、俺が周太にしてあげる。周太はいつもどおりに、素直に俺にされていて?…周太、」

そっと唇かさねながら、やわらかく抱きしめてくれる。
抱きしめて、白いシーツに横たえてくれながらキスが唇から熱に侵しだす。
いつもより緊張が心を縛りだす、けれどキスは優しいままふれて、心をほぐそうとしてくれる。

…やさしい、英二…大好き、

幸せな想いに微笑んで、離れた唇を見あげた。
見あげた端正な口許がきれいに微笑んで、そっと始まりを告げてくれた。

「周太、…君を、愛してる。すべて任せて、そして素直に感じて?…」

告げながら長い指が腰の帯に掛けられる。
しゅっ、かすかな衣擦れの音に緩まる帯の感触を知りながら、周太は愛するひとを見つめた。
解かれていく帯のゆるまりに鼓動がすこしだけ、速まってしまう。
この緊張と不安と、ときめきに鼓動を聴きながら、ふと周太は切長い目に光がこぼれだすのを見た。

「…どうしたの、なぜ泣くの?」

そっと掌伸ばして、きれいな目許を拭っていく。
拭う指と掌に唇よせてキスをくれて、きれいに英二は笑ってくれた。

「うん、幸せなんだ…こうして周太と、お互いの初めてを一緒に出来るのがね、幸せで、泣けるんだ、」

やさしい言葉と一緒に唇を重ねてくれる。
想いを口づけに交わしながら、あわい藤色の帯が解かれて床へとながれた。
視界の端、サイドテーブルの野すみれと帯の薄紫が映りこんで、この色への想いと記憶に周太は微笑んだ。
きっと、この色は好きな色になってしまう、「初めて」を交わす大切な夜に見つめた色だから。

「周太、…きれいだ、ふれるよ?」
「…っ、」

綺麗な低い声が切ない想いこめて告げる、夜の仕草が心ふるわす。
白い衣がひらかれて、肩からすべり落とされる。
露にされる肌を熱い唇がふれていく、そして長い指から与えられ始めた感覚に声がこぼれた。

「あ、…っ、」
「可愛い、周太…もっと、素直に声を聴かせて?…ね、ここに今から、キスするよ、」
「…っ、」

今夜「初めて」をするところに唇ふれる。
ふれられて恥ずかしくて、思わず腰を捩って周太は逃げようとした。

「ほら、周太?だめだよ、…すべて任せて、って言っただろ?」

言葉と一緒に腰は抱かれて、動きを封じられていく。
また唇にふれられ鋭くなる感覚が恥ずかしい、ふれられる所に絡まる視線を感じて、苦しい甘さに周太は喘いだ。

「やっ、…はずかしい、えいじ、…あ、だめ…」
「恥ずかしくないよ、周太?…可愛いよ、ここも周太も、…食べたいくらい、可愛い、」
「あ…っ、」

こくんと呑まれる温もりが奔って、呼吸が止まる。
思わず見た恋人の、美しい口許がほどこしていることが幻想のようで、いま自分がされている事が夢のように想う。
ほんとうに、この美しいひとが自分にこんな事をしている?
いつもながらに信じられない想いと、この甘い苦しみが幸せで、あまやかな混乱にくるまれてしまう。

「…あ、…だめ、…あ、」

吐息と一緒に言葉にならない声がこぼれてしまう。
いま美しい口が与えてくる感覚が、頭の芯から熔かして心ごと結わえられていく。
やわらかさと温もりに包みながら、歯でかるく噛まれている。このまま本当に、食べられてしまうの?
いつも想う甘い不安と委ねきっていく安堵感に、心ごとほどかれた体から力が抜けた。

「…あ、…ん、」

こぼれていく声が甘い、自分の声だと信じられない。
途惑いより、与えられる感覚とふれる想いへの幸せが濃くなっていく。
いつもならこのまま美しい口は、いちど周太の体から搾り飲みこんでしまう。
けれど今夜はそっと唇を離すと冷たいグラスの水を飲みこんで、切長い目が瞳のぞきこんで微笑んだ。

「周太、これから君を、大人にするよ?…このまま、俺に任せてくれる?」

告げてくれながら長い指がまたふれて、なにか薄いものをそこに纏わせてくれる。
その初めての感覚が不思議で、けれどこの愛するひとに全て任せてしまいたくて、素直に周太は微笑んだ。

「はい、…ぜんぶ、して?…おとなにして、おねがい、」
「可愛いね、周太は?…痛くないようにするから…おとなしくしてね?」
「…ん、…いたくても、がまんするから…えいじ、して?」
「いい子だね、周太…わがままで素直で、大好きだよ?」

キスふれる唇からレモンの香がこぼれてくる。
熱っぽい視界にぼんやりする向こうで、艶麗な微笑が優しく見つめてくれる。
きれいだな、そう見惚れた婚約者の肩から、白い衣がすべりおちて白皙の肌が露になった。

「…きれい、えいじ…」

なめらかな白皙の素肌が、あわい光に輝いている。
こんな綺麗なひとが今から、自分を大人にしてくれる、初めてを受けとってくれる。
そして初めてを自分にも贈ってくれるの?幸せで微笑んだ周太に、切なげで幸せな笑顔がきれいに笑いかけた。

「この体のすべて、いまから君にあげるよ?…周太の初めてを受けとって、俺の初めてをあげる。
俺の初めてで、周太を大人にしてあげる…ね、周太?俺いま、すごく緊張してるんだよ?そして、幸せで嬉しいんだ、」

きれいに笑ってくれながら、そっと周太の掌をとって広やかな胸に当ててくれる。
ふれる肌理のむこう、なめらかな感触と逞しい筋肉の奥から、すこし速いけれど頼もしい鼓動が響いてくる。

…英二、生きていてくれている…元気で、温かい、

これは、ささやかなことのよう。
けれど本当は得難くて、偶然の顔した幸運がたくさん詰まっている。
この幸せが嬉しくて、素直に周太は微笑んだ。

「ん、幸せだよ、俺も…大好きなひとに、大人にしてもらえるの、英二に…ね、大人になったら、もっと好きになってくれる?」
「うん、きっとね、もっと好きになって、離せなくなる…困るよ?きっと、」

優しい笑顔で応えてくれながら、そっと掌を繋いでシーツの上に長い指と組み合わせてくれる。
もう片方の掌がふれてくれる、そこは気恥ずかしくて、これから大人になることの不安と歓びが絡み合う。
これから何が起こるの?ほっと吐息をついた周太に英二が笑いかけてくれた。

「周太、今からね。いつも俺が周太の体で感じていることを、君に感じさせてあげる。そして俺は、いつも君が感じている事を知る。
こんなふうに今夜からはね、お互いに全てを、一緒に感じられるようになるよ?…これって幸せなことだよ、だから、大切にしたいよ」

お互いの感じている事を交換して、すべて一緒に出来る。
この大好きな、唯ひとり想い恋し愛するひとと、ひとつに出来るの?それが嬉しくて周太はきれいに笑いかけた。

「ん、大切にしたい…うれしい。ね、英二…して?」

いつものように羞んで、素直に周太は微笑んだ。
見つめる想いの真中で切長い目も微笑んで、やさしいキスを贈ってくれた。

「子ども周太、可愛いね?でも大人になっても、変わらないよ、君を愛している、…はじめるよ?」

告げて微笑んで、深く吐息をつくと白皙の体は、周太の腰の上に沈み始めた。
長い指ふれてくれる所へと圧迫感がかかってすぐ、滑るような感覚と一緒に熱が包んだ。

「…あ、…っ、」
「…、」

こぼれた声に、吐息が重なり合う。
与えられる感覚に驚きと、惹きこまれる甘さに呑みこまれてしまう。
悶えるよう身を捩って見あげる端正な貌は、すこし眉をひそめながら切ない目が微笑んでくれた。

「…、痛くない?周太…大丈夫?」
「ん、…いたくない、…よ、」

素直に答えながら周太は愛するひとの貌を見つめた。
いつにない眉の顰が、受容れる痛みを感じさせて申し訳ない気持ちになってしまう。
どうしても最初は広げられる感じが痛い、それをこのひとに感じさせることが辛い。
けれど、見つめる先で端正な貌は幸せそうに微笑んだ、

「痛くないなら、よかった…ね、周太?今から、気持ちよくしてあげるよ、」

きれいに笑って、すこし眉ひそめたまま白皙の体が沈みこむ。
その動きに導かれるよう感覚ごと呑みこまれて、初めての体感に体中がふるえた。

「…ああっ、あ、っ、…、…」

この声は、自分の声?
そんな声が感覚と一緒に零れだす。
零れていく声に自分で驚きながら、与えられる感覚に周太は悶えた。

「えいじ、…へん、なの…あ、っ、」
「…大丈夫だよ、周太…変じゃないから…それで良いから、…っ、…周太、気持ちいい?」

答えてくれながら吐息ひとつ、白皙の腰が沈みこむ。
沈められるたび、やわらかに熱が絡みこんで呑みこまれてしまう。
この感触と熱が、どこから与えられているのか?この相手と今この現実が幸せで、夢のように感じてしまう。
この幸せに与えられる感覚あまやかに溺れこまされて、初めての感触と幸福感に瞳から涙が零れた。

「えいじ…の、なか、温かい…きもちいい、よ……っ、あ、」
「…、」

答えている目の前で、ゆっくり白皙の腰が沈みこむ。
沈みこんだ腰が周太の腰にふれて、重なりあわされて融け合った。
融け合う感覚に音にならない声で喘いでしまう。この惑いに喘ぐ頬に、白皙の頬がよせられた。

「…周太、全部、入ったよ?…俺の、初めて…あげたよ?」

すこし眉ひそめた綺麗な笑顔が、充ちた低い声に告げてくれる。
言葉通りに、包まれて納められた体は、やわらかに絡みつく温もりに溺れこんで喜びだす。
こうして納められ包まれる、それだけで押し寄せる感覚が紅潮を呼び覚ましていく。
この初めてをくれた恋人が愛しくて、うれしくて、周太は微笑んだ。

「…初めて、うれしい…ありがとう、…っ、あ、」
「もっと喜んで、周太?愛してるよ…だから、もっと気持ちよくしてあげる、」
「…ああ、っ、」

綺麗な微笑に応えながら、ゆっくり動き出す白皙の腰に周太は悶えた。
絡まっている温もりが蠢いて、引き摺りこまれ呑みこまれる感覚に包まれてしまう。
これが大人になる感覚なの?どうしよう?この感覚の不思議さにゆらされて、惑ってしまう。

「…っ、ん、あ、…英二、まって…へんになりそう、なんか、あ、」
「大丈夫だから…っ、…力抜いて?周太…素直に感じて、気持ちよくなって…」

抱きしめて、ときおりキスふれながら微笑んでくれる。
ゆれる腰に感覚を支配されていく、絡みつく熱と温もりに呑まれて意識が変になる。
そうして抱きしめられたまま、大きなふるえに全身が貫かれて、かくんと力が消えた。

「…っ、」

やわらかに体が強く抱きしめられていく、抱きしめる腕に全身を預けてしまう。
ゆるやかな意識に響く鼓動が、心臓ともう一カ所から伝わってくる。
なにが起きたの?そんな疑問の意識へと、きれいな笑顔が映りこんだ。

「周太、大人になったね?…おめでとう、」
「……あ、…大人に、なれた?…もっと好き、に…なって、くれる?」

ぼんやりとした意識から質問と一緒に周太は微笑んだ。
そっと周太の額にキスしてくれながら、きれいな笑顔が咲いてくれた。

「うん、もっと好きだよ?…感じる?周太まだ俺の中に、いるんだよ?…ほら、」
「あ、…っ、」

揺らされる腰の中で、与えられる感覚に身悶えてしまう。
いま悶える体を抱きしめながら、すこし切なげに微笑んで英二は訊いてくれた。

「ね、周太?…いつも通りに周太のこと、抱いていい?…好きなだけ、させてくれる?」

どうかお願い聴いて?
きれいな笑顔が目でも訴えてくれる、おねだりが恥ずかしくて嬉しい。
まだ力のぬけたままの体で周太は、素直に頷いた。

「はい、…して?…いっぱい、愛してくれる?」
「ありがとう、いっぱい愛するよ?…じゃあ、周太。始めるからね、」

幸せな笑顔が咲いて、ゆっくり腰をうかせてくれる。
納めてあったところに感触がこすれて、びくりとしてしまう。
そんな様子を見てとった切長い目が微笑んで、そこに長い指をかけてくれた。

「まず、ここからしてあげる…周太を食べさせて?」

訊きながら長い指が動いて、大人になったところを優しく清めてくれる。
この恥ずかしさに頬染めながら、けれど愛されたい想い素直に周太は頷いた。

「…ん、はい…英二の好きにして?」
「ありがとう、好きにするね…周太、可愛い、」

きれいな笑顔が咲いた唇が、清められたところを含んでいく。
また与えられる感覚と恥ずかしさに、声も心も喘ぎ始めだす。
そして何よりも、ふれあえる体温の温もりが幸せで周太は微笑んだ。


2度目の眠りから覚めたのは、陽も高くなった10時前だった。
遅い朝食の支度に台所に立って、菜の花の白和えを作る手の甲に髪から雫がひとつ降りかかる。
この髪がまだ濡れている理由が気恥ずかしくて、周太は頬を赤らめた。

―…周太には、夢だったんだ?すごく大切な夜だったのに…周太も初めてだったけれど、俺だって、初めてだったのにな

暁時に目覚めたとき。
昨夜ふるよう与えられた想いと感覚が、心から幸せだった。
ずっと本当は願っていたこと「愛するひとに大人にしてもらう」この願い叶えられたの?
それは本当に幸せで、あんまり幸せな事だから「夢を見たのかな?」と想ってしまった。

幸せすぎた春の夜の夢、「初めて」を相交わした恋人の時間。

この幸福な夜は、夢か現実か?
ワインの香と眠りの名残に惑うよう、よく解からなくて。
幸福すぎる夜の時間は、あんまり気恥ずかしくて甘すぎる幸せは夢のように想えて。
そんな幸福感と恥ずかしさとに意識惑うままに、英二に「夢だと思って」と言ってしまった。
それが英二を傷つけてしまったのが哀しかった、けれど「もう一度して?」とお願いすると綺麗に笑ってくれて嬉しかった。

―…愛しているから、言うこと聴くよ?…ぜんぶ、昨夜と同じにする。だって周太、昨夜はすごく喜んでくれたから…

そんなふうに言って夜明けの静謐を恋人の時間にして贈ってくれた。
あの幸せな時間がひとつずつ甦りそうなのは、きっと「おさらい」をしてくれた所為だろう。
いま明るい春の陽ふる台所に立っている、それなのに夜と暁の時間が鮮やかに想われて、頬の火照りが納まらない。

「…ほんとうに、ぜんぶ一緒だったよね?…どうしよう、」

夜と暁にされた全てが恥ずかしくて、けれど幸せで。
この全てを英二は「大切にしよう?」と言ってくれた、だから今後も同じようにするのだろう。
そうだとすると、毎回こんな気恥ずかしい想いをする?それが困ってしまう、けれど幸せは温かで嬉しい。
そして今朝は面映ゆくて仕方ない、この感覚と夜と暁の記憶に顔を赤くしたまま、周太は味噌汁の加減を見た。

「…ん、おいしい、」

海老団子でつみれ汁に仕立ててみた、その出汁がいい塩梅になっている。
昼ごはんも一緒の時間の朝食だから、すこしボリュームがある献立にしていく。
きっと英二は、お腹が空いているだろうな?そう思った途端にまた「空腹の原因」が恥ずかしくて周太は困った。
こんなに今から恥ずかしがってばかりいたら、このあと英二が浴室から出てきたらもっと困るだろうな?
そんな心配をしている背中で、ステンドグラスの扉が開かれた。

「お待たせ、周太。手伝えること、あるかな?」

明るい張り艶やかな、きれいな低い声に「やっぱり大好き」と想ってしまう。
恥ずかしいけれど、充足感ある声をしてくれる貌が見てみたい。
菜箸とすり鉢を持ったまま振り返ると、輝くような綺麗な笑顔が見惚れるよう笑ってくれた。

「すごく綺麗だ、周太…ほら、言った通りになったね?」

幸せな笑顔であゆみよって、やさしいキスを唇に重ねてくれる。
湯の温もりと瑞々しさ華やいだ唇が、おだやかに優しくて幸せが温かい。
うれしい想いに、そっとキスが離れると微笑ながら周太は訊いてみた。

「…言った通り?」
「うん、そうだよ、周太、」

答えてくれながらカットソーの袖を捲ってくれる。
そして並んで調理台に立ちながら、幸せな笑顔が言ってくれた。

「大人になったら、もっと好きになる。そう言った通りにね、俺はまた今、周太に恋して、ときめいたよ?」

こんなふうに言ってくれる想いが幸せ。
この想いの幸せが切なくなるほど愛しくて、ずっと傍にいたいと想ってしまう。
想い素直に微笑んで、そっと周太は応えた。

「ん、ありがとう…ずっと、恋して、ときめいてね?」
「うん、ずっと恋するよ、そして愛している。ずっと、の約束だよ?」

約束に笑ってキスを贈ってくれる。
そして笊に摘んである野菜に気がついて、長い指の掌は流しの盥で洗い始めた。

「周太、これ、サラダにする?」
「ん、そう…トマトと合わせるつもりで、」

並んで一緒に仕度してくれる姿が、心から幸せにしてくれる。
ずっと願いたい、こんなふうに朝を一緒に迎えて、面映ゆさに困りながら食事を支度したい。
この幸せな想いを示したくて。まずは手始めに、おかずの惣菜を一品、増やしてみたくなる。
いま作っている献立は、海老団子の味噌汁、焼鮭、肉じゃが、菜の花白和え、即席漬、トマトと芽野菜のサラダ。
これにあと加えられるものは何だろう?

…あ、卵の料理、かな?洋がいいかな、

そんな理由で今朝の食事に急遽、ツナとコーンのチーズオムレツが追加された。


(to be continued)

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第41話 久春act.7―side story「陽はまた昇る」

2012-04-29 23:59:38 | 陽はまた昇るside story
※前半部分は念のためR18(露骨な表現は有りません)

色彩の記憶、想いの真実



第41話 久春act.7―side story「陽はまた昇る」

ゆるやかな暁の光が暖かい。
カーテンからこぼれる薄紫の空は、昨夜ほどいた帯の色うつす。
深い夜に白無垢を抱きしめて、腰を結う藤紫を解き露わすとき、帯解く指に涙こぼれた。

―…どうしたの、なぜ泣くの?

涙拭ってくれる指が優しくて幸せで、嬉しかった。
いま空うつす色の記憶が、綺麗で、切ないほど募る想いの甘さが傷い。
この甘い傷つくる人を英二は静かに抱きしめた。

「ね、周太…やっぱり俺は、君を好き過ぎるね、」

抱きしめて、寄り添う肌の温もりが幸せで優しい。
優しい温もりくれる人は、無垢の微笑に深く眠りこんでいる。
幸せな微笑が愛しくて、愛しさに無意識の誘惑を見てしまう。
どうしよう?幸せな困惑に英二は笑いかけた。

「…今すぐ、君を感じたいよ?」

昨夜、春の宵を幸せな熱に溺れ過ごした。
ふたり白無垢の衣姿で向き合って、見つめ合った瞬間は幸せだった。
なんども唇かわして、幾度も深くに沈めて、繋ぐ体ごと心結わえて融け合った。
ゆれる恋人の髪ふれた頬なでる、清楚な香が愛しくて。肌ふれる温もりに心ごと惹きつけられた。
あの幸せに今、ふれたい。

「起きてほしいな、そして、許しがほしいよ…周太、」

想い告げながら抱きしめて、眠る唇にキスをする。
ふれる吐息は眠り深くて、あまいオレンジの香がこぼれだす。
けれど、長い睫は伏せられたまま、黒目がちの瞳は見つめてくれない。
やっぱり起きて貰うのは難しいかな?切ない落胆にこもる甘やかな記憶へと英二は微笑んだ。

「…やっぱり、疲れさせちゃった、かな?」

ある意味、理由は納得できる。
昨夜の自分は、やり過ぎた、そんな納得が自分にもある。

『夜のコト、ヤリ過ぎないでね、変態さん?』

昨夜の電話で国村に言われた「釘」が今更刺さってくる。
言われたのに昨夜は勿論、すっかり忘れ果てた。

「…だって周太、可愛かったから…きれいで、…酔ってて、」

ひとりごとに言い訳してしまう。
でも全てが言い訳とも言えない、本当のこともあるから。
昨夜は浴衣を着せて貰ったあと、ふたりテラスの籐椅子にまた座りこんだ。

―…月、きれいだね?

ふる花と月を眺めて、あまい酒をゆっくり楽しんで。
いつもより恥ずかしがらない周太が可愛くて、無邪気に微笑んで端正に座っている姿が綺麗だった。
この様子だと思ったより酒が強かったんだな?そう思って英二は、なにげなく酒を飲ませてしまった。
そして一昨日の晩に周太の母と飲んだ残りのワインまで、つい周太に飲ませてしまった。

「あれが周太の、酔っぱらった姿だったんだよね…きっと、」

きちんと背筋伸ばして座る姿は普段どおり。
いつもより素直に甘えて、わがままを言ってくる姿が可愛い。
いつもよりストレートだなとは思った。けれど姿勢も崩れないし、歩く裾捌きも綺麗だから酔っていないと思った。
飲み終えた酒のグラスも周太はきちんと片づけて、冷たい水も用意してくれた。
そうして2階へ上がり周太の部屋に入って、ライトをあわく灯した。

そのあとは、幸せだった。

真白な寝間の衣でお互い見つめ合って、幸せだった。
そうして見つめ合って言われたことが意外で、幸せで、夢中になった。
あんなこと言ってくれると思わなかったし、させてくれると思わなかった。
あんまり幸せで夢かなと思ったけれど、夢でも良いから求められるまま溺れこんだ。

そして後になって気がついた。
たぶん周太は酔っぱらっていた、だから、あんなこと言ったのだろう。
これが酔いが醒めて目覚めて知ったら、なんて周太は言うのだろう?
この事実を恋人に言うべきなのかな?幸せな悩みに困りながら英二は眠る額にキスをした。

「ね、周太?…酔うと、大胆になるんだね?」

昨夜の記憶に微笑んで、英二は恋人を抱きしめた。
抱きしめふれる素肌のはざま、温もりに熱が生まれてくる。
この熱に身も心も狂わされていく、熱ふれる夜の記憶に沈む意識を見つめながら、唇を重ねた。

「…ん、」

重ねた唇のはざま吐息がこぼれだす。
ふれたオレンジの香に英二は、そっと離れて長い睫を見つめた。
今度こそ起きてくれるかな?
幸せな期待と見つめる真中で、やわらかに睫ひらかれて瞳が微笑んだ。

「あ、…えいじ?おはようございます、…はなむこさん?」
「おはよう、俺の花嫁さん、」

朝の挨拶が嬉しくて、大好きな恋人に頬寄せて笑いかけた。
寄せられる頬とキスに紅潮していく頬がきれいで、気恥ずかしげな瞳が見つめてくれる。
そしてすこし困ったように、やさしいトーンが謝ってくれた。

「あの、英二?…ゆうべも俺、眠っちゃったんでしょう?…ごめんなさい、帰ってきた夜も、眠りこんでいたのに、」

きっと今、びっくりした顔を自分はしているだろう。
大きくなった目をひとつ瞬いて、英二は正直に口を開いた。

「周太、ゆうべは起きていたよ?それで、いっぱい好きなだけ、させてくれたよ?ほら、」

すこしだけ真白なリネンを捲って見せた。
ひんやりと清澄な空気が素肌にふれる、その感触に捲られたリネンのなかを見て、黒目がちの瞳が大きくなった。

「あの…はだかになってる?ね…その、ゆうべっておれもしかしてへんなこといった?」

途惑ったまま瞳が見つめてくれる。
恥ずかしげにシーツを引き寄せようとする掌が可愛い、その掌を長い指で包んで止めてしまう。
すこし驚いた瞳が愛しくて、その瞳を見つめながら抱きよせて、正直に英二は微笑んだ。

「大人にして、って言ってくれたよ?」
「…え、」

ちいさな言葉に息ついて、黒目がちの瞳がひとつ瞬いた。
そうして忽ち額まで真赤になって、それでも確かめるよう訊いてくれた。

「…あの、おとなにして、って、それって、…もっとちかづきたいとかおれいったの?」
「ちゃんと覚えてるんだね、周太?よかった、」

きれいに笑いかけながら内心、英二は可笑しくて可愛くて笑った。
きっと周太は酔っぱらって夢うつつだった、だから夢だと思っていたんだろうな?
だからこそ、あんな大胆なおねだりも言えたのだろう。
そんな推測に見つめる先で、真赤な顔が困惑と恥じらいに染まっている。

「ね、…その、おれえいじに…したっていうかしてもらったっていうかその、…ゆめだとおもってて、」

しどろもどろで言い訳をする顔が可愛い。
あんまり可愛いのと、まだらな記憶なことがちょっと寂しいのとで、すこし英二は拗ねて見せたくなった。
どんな反応してくれるかな?期待をしながら英二は切長い目を細めて、拗ねたふうに口をきいた。

「周太には、夢だったんだ?すごく大切な夜だったのに…周太も初めてだったけれど、俺だって、初めてだったのにな…そっか、」

半分は演技、けれど半分は本音。
この本音がやっぱり寂しくて、英二は小さなため息を吐いた。
まさか自分があんなことを誰かにさせるなんて、考えたことは無かった。
けれどこの婚約者には、ずっと本当はさせたかったし、この「初めて」はあげたかった。
なによりこの大好きな、愛するひとの「初めて」を自分が欲しかった。

初めてキスを周太からしてもらった時も、周太は寝惚けて忘れていた。
そして今回までなのは、ちょっとショックだな?
そんな甘いショックを抱いて真赤な顔を見つめていると、黒目がちの瞳が哀しげに漲った。

「ちがう、の、ほんとは恥ずかしくて…でもうれしくて、うれしいから夢だったのかな、って…酔ってたし…ごめんなさい、」

ふっと涙がこぼれて頬にながれていく。
その泣顔が哀しくて綺麗で、愛しさに素直なまま涙にキスをした。
けれど切ない寂しさが納まってはくれない、ここは甘えさせてほしい想いに英二は口を開いた。

「覚えている?それとも、覚えていないの?答えてほしいな、」

つい少しだけ強い口調になって、我ながら驚いた。
こんな口のきき方を周太にするなんて、思わなかった。
そんなに自分は今、ショックなんだな?それが意外で、けれどなにか温かい。
こんなショックを受けるほど自分にとって大切だった、そんな大切に想えることが嬉しい。
こんなショックと嬉しさを見つめていると、黒目がちの瞳が切なげに微笑んだ。

「覚えてる、だって感覚が残ってる…でも、きちんと覚えておきたい、だから…今も、して?」

ショックで寂しかったのは誰でしたっけ?

おねだりの幸せに一瞬で、寂しい心も拗ねた気分も溶け消えた。
この自分の方こそ覚えておきたくて、今すぐ昨夜の夢に再び溺れたいと願っている。
それを望んで貰えて嬉しい。幸せな想い心から微笑んで、英二は恋人に笑いかけた。

「うん、一緒に覚えておこう?愛してるよ、周太、」

暁に始まる夜の時間に微笑んで、最愛の婚約者にキスをした。
ふれるだけの優しいキスを交わして、そっと唇ほどいて瞳のぞきこむ。
本当にしていいの?そんな想いと見つめる瞳は、儚げな不安と微熱のような一途さが綺麗で惹かれてしまう。
この微熱を充たしてあげたい、自分の熱も充たされたい。正直な想いに英二は微笑んだ。

「周太、どんなふうにしたい?どっちからがいい、とかある?」
「…そんな質問、恥ずかしいよ?…でも、あの、きもちいいようにして…愛しているならいうこときいて?」

そんなこと言ってくれるの?
恥ずかしげな桜いろの頬で、切なげに伏せた睫の潤んだ瞳で。
こんなに恥じらって可憐な仕草しながら、遠慮がちな口調で命令をしてくれる?
この自分の恋の主人には、心掴まれ曳きずりまわされてしまう。
存分に曳きまわしてほしいな?熱の喜びに微笑ながら英二は、愛しい人の体に覆い被さった。

「愛しているから、言うこと聴くよ?…ぜんぶ、昨夜と同じにする。だって周太、昨夜はすごく喜んでくれたから…」

笑いかけながら抱きしめて、唇にキスを重ねていく。
やわらかなふれるキス、そして深いキスで熱を口移しする。
恥ずかしげに喘ぐ唇が愛しい、愛しいまま思うままに熱を移しこんでいく。

「…ん、っ、」

昨夜のキスをなぞるようなキス、それでも周太の反応はずっと恥じらいが濃い。
きっとこの後もすべて恥らい続けて、困惑と快楽のはざまの貌を見せてくれる。その期待が時めいてしまう。
昨夜のことをもし周太が酔わず覚えていたら、もう一度はさせて貰えなかったかもしれない?
そう思うと夢現だったことは幸運かもしれない。

「周太?今のキスは、覚えていた?」
「…ん、はい、…覚えてる、よ?…つぎのこともして、やめないで…お願い?」

お願い、で、心が鼓動でひっぱたかれる。
きっと周太は恥じらいに困惑する、自分はときめき過ぎて困惑しそう?
この幸せな困惑へ素直に英二は微笑んだ。

「はい、止めません。始めたらね、止めて、って命令されても止めない…周太、」

この命令だけは聴けないよ?
そんな命令違反の宣言をしながら、うなじへとキスふれていく。
ふるえが肌を伝わってくる、微かな不安と緊張がふるえに伝わってしまう。
この不安も緊張も早く解いてあげたくて、長い指は愛する体に快楽をほどきはじめた。

「…あ、っ、…えい、じ、」

吐息交じりの声が名前呼んでくれる。
こういう声を昨夜はいつもより、沢山聞かせてくれて嬉しかった。
暁の今はどうなるかな?こちらからも言ってみたくて英二は素直にねだった。

「周太、昨夜はね…もっと艶っぽい声だったよ?ね、覚えているなら、そうしてよ?」
「…っ、はずかしい、よ…でも、あ、っ、…」

長い指のふれた感覚に長い睫が閉じられる。
恥じらいながら撓んでいく体が愛しい、やわらかな撓む腰を抱きよせていく。
口づけと指とでほどこす愛撫に艶やかな肢体が、淑やかに身を捩らせ逃げかけてしまう。
けれど長い腕に掴まえてしまえば、すぐ逃げる力がとけていく。そんな素直な体が嬉しくて、愛しい体と心に微笑んだ。

「止めない、って言ったよ?その命令だけは聴かないから…ね、ちゃんと命令して、俺の恋のご主人さま?」

言いながら笑いかけて、洗練された小柄な肢体を見下ろすよう被さっていく。
見おろされる黒目がちの瞳は途惑い儚げで、それでも見つめ返して、けれど唇は動けない。
ほら命令しないの?そう笑いかけながら英二は、ゆっくり腰を沈め始めた。

「あ、…っ、」

沈められる腰に呑まれる感覚に、黒目がちの瞳が大きく見開かれた。
馴れない感覚に絡めとられる瞳は途惑って、潤んで、救け求めるよう見あげてくれる。
こんな貌をされると嬉しくて、けれど自分も馴れない感覚と鈍痛に英二はすこし眉を顰めた。

「…周太、命令は?…っ、…」

内側から押し開かれる、この最初が痛い。
それでも愛するひとを身の内に納めていける、それが嬉しいと想ってしまう。
昨夜に初めて知った痛みに微笑んで、大きく息吐いて痛み逃がしながら英二はきれいに笑いかけた。

「周太…俺もね、昨夜が初めてなんだよ、これは…教えてよ、俺の初めては、…気持ちいい?」

見おろしている瞳が潤んだまま、見つめてくれる。
シーツを握りしめる掌が必死で、そんな様子がどうしても幼げで可愛らしい。
それでも懸命に唇ひらいて周太は言ってくれた。

「ん、…きもちいい、よ?…えいじ、あたたかい…あ、っ、」

すこし腰を動かした途端、素直に声を上げてくれる。
喘ぐのどが艶めいて、そまる紅潮に扇情させられてしまう。
シーツ握りしめる掌をほどいて、長い指の掌に絡ませて、感覚の微熱に潤む瞳を見つめた。

「周太、思い出して?…昨夜も、こうして周太、俺の初めてをしたんだよ?…俺の初めてで、周太を大人にしたんだから…っ、」

また深めた腰に、鈍痛と快楽が奔る。
いつも自分は周太にこの感覚を与えてきた、それを体感できるのが嬉しい。
そして自分が半年間してきた感覚を周太に与えている、この交感が幸せだと思ってしまう。
君も幸せだと想ってくれる?そう見つめた瞳が、喘ぎながらも微笑んでくれた。

「ん、覚えてる…うれしかったから、英二の初めて…っ、…えいじ、俺をおとなに、して?…えいじにしてほしかった、の、ずっと」

告げてくれる想いが嬉しい、そして幸せだなと想えてしまう。
幸せに素直に微笑んで、吐息に痛み逃がせて英二は問いかけた。

「俺に、してほしかったんだ、周太?」
「ん、…っ、してほしかった、の…ほかは嫌、えいじだけ…、あっ、」

この愛する心と体なら、いくらでも自分に入りこんでもらって構わない。
これも全て君だけ。こんなふうに何でもしたい、望みを叶えてあげたい、愛したい。
この捧げ尽くしたい想いに英二は、唯ひとりの相手に笑いかけた。

「俺も、周太だけだよ?…俺に入れたいのは、君だけ、…だから初めて、」
「うれしい、…あ、あっ、…えいじ、きもちいい、あ、」
「うれしいな、俺のなかで気持ちよくなってくれて?…可愛い周太、もっと、感じてよ?」

こんなこと他には絶対にさせなかった、自分の体に入りこませるなんて許せないから。
けれど、この婚約者だけは自分の恋の主人、唯ひとり自分を縛り付けてしまう想いの真中のひと。
むしろ受容れたかった、この自分の体に恋人の体を呑みこんで、もっと自分のものにしたかった。
だから昨夜のおねだりは、同じことを望んでもらえた喜びが幸せだった。
この幸せに微笑んで、ゆっくりと腰を沈めながら英二は訊いた。

「なぜ、もっと…早く、言ってくれなかったの、周太?」
「はずかしいから、…言えなくて、だから、っ…あ、ああっ、」

快楽の微熱が黒目がちの瞳から、涙をこぼさせていく。
その瞳を真直ぐ見つめながら、大きく息を吐いて英二は腰を沈みこませた。

「…あっ、」

黒目がちの瞳が大きく見開かれて、艶めく体が仰け反った。
この愛しい体の大切なところ全てを呑みこんで、納めきった満足に微笑んでしまう。
微笑んで見おろすシーツの上で恋人は、与えられる感覚に全身を途惑わせ喘いでいる。
喘ぐ貌が愛しくて切なくて、よけい心狂わされていく。この恋に狂わす相手へと英二は微笑んだ。

「可愛い周太、…ぜんぶ、入ったよ?」

沈めきった腰を、真白なシーツに横たわり喘ぐ恋人の腰に重ねていく。
より深く繋ぎ合わせられる悦楽に、英二は軽く眉ひそめながら微笑んだ。

「気持ちいい?周太、…もっと気持ちよくしてあげるよ、」
「…っ、えいじ、あ、だめ、…あ、へんになる、や、っ」
「大丈夫だよ、周太…変じゃないから、ね?…力抜いて、」

「…っ、」

恋人の唇から、あまやかな吐息と声がこぼれた。
重ねた体を抱きしめて、納めた恋人の温もりを感じて感覚が溺れていく。
すこしずつ艶の色濃くなる声が、あまやかな吐息交じりの誘惑に耳元こぼれだす。
愛しい艶麗な声を聴きながら、ふたりの「初めて」をなぞる幸せに英二は微笑んだ。



午後、周太は仏間の炉を開いてくれた。
茶を点てる支度を一緒に手伝うと、着物の着付けを教えてくれる。
まず初めに濃い深紅の襦袢をまとうと、ぼうっと黒目がちの瞳が見惚れてくれた。

「英二、すごく似合うね?…きれい、」

きれいなのは君の方だよ?
そんな本音を心につぶやきながら、英二は微笑んだ。

「うん?そうかな、この色は好きだけど、ちょっと伊達すぎるな?」
「濃蘇芳っていう色なんだ、英二には似合うよ?…次はね、袷を着ます…この帯は、博多織っていうんだ、」

ひとつずつ着方や名前を教えてくれる。
それを見聞きしながら英二は、渋い青の袷を着て藍地に深紅を織り込んだ帯を締めた。
そこに勝色とよばれる濃く深い藍色の馬乗袴を履くと、袴の脇からのぞく帯の深紅が映えて華やいだ。
そうして英二は初めて、袴姿になった。

「素敵だね、…すごく凛々しい、英二」

素直な賞賛に周太が微笑んでくれる。
その微笑が嬉しくて、英二はきれいに笑いかけた。

「周太の好みにあうなら、うれしいよ。周太こそ、今日もきれいだね、」
「ありがとう、…藤、っていう色の合わせ方なんだ、」

恥ずかしげに微笑んだ衿元は優しい緑いろが清々しい。
それに合わせた薄紫の袷は、昨夜といた帯の色と同じで英二は、ときめいた。
今夜もまた薄紫の帯解くとき、自分は幸福感に涙するのかもしれない。この幸せが得難いともう知っているから。
この優美な色は忘れられない色になりそうだな?また幸せのゆかりを見つけて英二は微笑んだ。

あわい色あいの小柄な袴姿に付いて、英二は階段下に設えた入口に立った。
ここから水屋に入り、和室の茶道口に繋がっている。
水屋の扉を引きながら英二を見あげて、黒目がちの瞳が楽しそうに微笑んでくれた。

「堅苦しい決まり事より、楽しむ気持ちで、ね?」

そう言って周太は英二にも茶道口から入らせてくれる。
水屋で一緒に仕度をして、席を整えると一緒に薄茶を点てさせてくれた。
出来上がった茶はそれなりに見える、けれどきっといま一つだろうな?
そう茶碗を見ていると、すっと周太が茶碗を交換してくれた。

「英二の、初めてのお点法、頂戴するね?」

やさしい笑顔で笑いかけて、大切そうに英二の茶を飲んでくれる。
大丈夫だろうか?心配して見守っていると、すこし驚いたよう瞳を大きくして言ってくれた。

「ちゃんと出来てるよ?すごいね、英二…お茶のセンスがあるのかな?」
「ほんと?」

思わず訊きかえすと周太は素直に頷いてくれた。

「ん、ほんとうだよ?…英二、なんでも一度見ると上手に出来るけど。お茶もなんて、すごいね?…料理も上手になるね、きっと、」

うれしそうに笑って褒めてくれる。
こんなに喜んでもらえるなら、何だってしてあげたいな?
そんな想いと一緒に周太の点ててくれた茶を飲んで、英二は訊いてみた。

「周太?茶花、っていうんだろ、床の間の花。これも教えてくれる?」
「ん、お花は楽しいよ?…椿からが、いいかな?」

好きな植物の話になって、楽しげに席を立ってくれる。
そして水屋から花篭と花切ばさみを携えてくると、一緒に庭に降りてくれた。
温かな午後の陽射しふる庭を、下駄ばきと草履ばきで並んで歩いていく。
そして白い椿の元に立つと、花を見あげて黒目がちの瞳は微笑んだ。

「ふっくらした蕾のを選ぶんだ…葉っぱは5枚か3枚でね、表を向いている葉っぱの枝を選んでね、」
「これはどう?」
「ん、…いいと思うよ?」

楽しそうに渡してくれた花ばさみで、英二は花枝に刃を入れた。
ぱきん、潔い音と一緒に花の重みが掌にかかる。そっと花枝をおろして、周太に手渡した。

「きれいだ、周太と似合う花だね?やっぱり、白い花が似合うかな、」
「あ、…ん、ありがとう、」

答えて花を籠に入れながら、首筋が赤くなっていく。
随分と恥ずかしそうな様子に、英二は黒目がちの瞳を覗きこんだ。

「どうしたの、周太?なんでそんなに赤くなるんだ?」
「ん、あのね、…」

困ったように黒目がちの瞳が見つめてくれる。
真赤になる頬みせながら、そっと周太は唇をひらいた。

「…この椿、大きくて、華やかで…それで、英二に似ているな、って、いつも想っているから…にあうってうれしくて、」

話してくれながら、弥増して紅潮に羞んでいく。
こんなこと言われたら嬉しいな?英二はきれいに笑った。

「そういうの、すごく嬉しいよ?…周太、」

名前を呼んで、白い花のもと英二は愛するひとにキスをした。
そっと離れて笑いかけて、ふっと英二は気がついた。
この白い椿を家の中でも見たな?なにげなく英二は訊いてみた。

「この花、リビングの応接セットのテーブルにも活けてあったよな?」
「ん、そう…でも、あの花は偶然だったんだ、」

気恥ずかしげに唇を気にしながら、周太が答えてくれる。
偶然ってなんだろう?そう見た英二に黒目がちの瞳がひとつ瞬いて教えてくれた。

「やわらかい雨が気持ちよくて、庭を散歩していたんだ。そして、この椿を見ていたらね?
ふわって花が落ちてきて、それを掌で受けとめた花なんだ…それで雨に濡れたから着替えて…そうしたら、後藤さんから電話、来て…」

思い出した不安の記憶に黒目がちの瞳が哀しげになる。
それでも、ゆっくり瞬いて周太は微笑んだ。

「だから、あの花は活けてから5日目になるんだ…でも綺麗だよね?なんだか不思議な花だから、押花にしようかな、って」
「うん、そうだな、不思議だな?」

素直に英二も頷きながら、心裡に驚いた。
もしかしたら花が落ちた時刻は、自分が雪崩に呑まれて滑落した時刻じゃないだろうか?
そんな不思議な偶然を想いながら、暖かな陽だまりの庭に英二は佇んだ。



翌朝は、すこし遅い朝食の後、ふたり庭の花を摘んだ。
いま春を迎えた庭は豊かな彩にあふれている、それらを2つずつ周太は摘んでいく。
赤、薄紅、黄色、青紫、白。草の花、木の花と摘んでいくうちに、花篭と手に花は溢れた。

「英二、どうかな?…きれいかな、」

ひとつ上手にまとめ花束にしてくれる。
可愛らしい春の花の明るい彩に英二は微笑んだ。

「うん、きれいだな、」
「良かった…このなかで、英二の好きな花はどれ?」

庭の花束を抱えて玄関へ歩きながら、楽しげに尋ねてくれる。
こんな質問は答えが決っているのに?英二は正直に答えた。

「この花がいちばん好きだよ、周太、」

笑いかけながら英二は、最愛の花の唇にキスをした。
ふれる温もりに吐息交わして、微笑んだ英二に周太は羞んだ。

「…あの、恥ずかしいよ…でも、うれしいな、ありがとう…俺もね、英二がいちばん好き、」

初々しい恥じらいが相変わらず可愛らしい。
この2つの晩と暁を、周太は続けて英二の愛撫に過ごしている。
どの時も周太を英二の体に受容れて、それから今まで通りに周太の体に自分を納めた。
こんなふうに体の繋がりでも対等なことをした、それでも相変わらず周太は初心で含羞の紅潮はやさしい。

―でも、どっちの時も、俺が周太にしているのは、変わらないな?

英二が周太を受容れる時も、主体は英二になっている。
これが自然かなとも思う、周太に自分がされている所は想像がつかない。
もし、やってみてと言っても周太はきっと、恥ずかしいのと解からないのとで竦んでしまうだろう。
それとも、一生懸命にしてくれるだろうか?一度でも良いからそんな夜があっても良いな、そんな願望も実はある。
こんなことを考えながら英二は、すこし自分に呆れた。

―これから、墓参りなのに俺?妄想ばっかりだな、

この花束は、これから彼岸の墓参りに行くための閼伽の花。
こんな生真面目になるべき時に、自分は恋人とのベッドのことばかり考えている。
本当にもう国村から「エロ別嬪」だの「変態」だの言われても自分は、反証の余地ゼロだろう。
こんな不埒な男を婚約者に迎えた父祖たちは、どう想っているのだろうか?
そんな幸せな反省をしながら英二は、大切な掌を優しく握りしめて玄関扉を開いた。

最寄駅で周太の母と待ち合わせると、3人で墓所へと向かった。
駅から歩いてすぐの公園型霊苑は、桜の梢に蕾が豊かについている。
明るい青空透かす梢に微笑んで、周太が教えてくれた。

「きっとね…お父さんの日には、桜がいっぱい咲いているよ?」
「これ、全部が桜だろ?きれいだろうな、」

あと3週間ほど経てば、その日が訪れる。
その朝は庭の蓬を摘んで、薄緑の白玉を作るのだろう。
この料理にまつわる母子の哀しみを見つめた英二に、母は美しい笑顔で快活に言った。

「ほんとうに綺麗よ?ここの桜もね、主人のお気に入りだったの。楽しみにしてね、英二くん」

話しながら心ふれてくる、ワインの酔いに聴いた桜の恋の物語。
いま一緒に歩く周太の母と父の恋は、満開の夜桜の下で生まれて、桜さく地に眠っている。
この桜が満開に咲くとき、きっと彼女の心に最愛の面影はあざやかだろう。
そのときに見つめる切ない想いに微笑んで、英二は湯原家の墓所に立った。

「拭かせて頂きますね、」

笑いかけて挨拶すると、英二は布巾を絞って墓碑を磨き始めた。
こうすると石が傷み難いと、年明けの墓参で周太が教えてくれている。
一拭きごと汚れが布巾に移って、墓石の色が鮮やかになっていく。
すこしずつ現れ出す石の本来の色彩に、英二はちいさく微笑んだ。

―いま俺が、探っているのと同じだな?

この家の謎を記したヒントを探し、ひとつずつ解いていく。
そうして家の軌跡を辿り、周太の父の軌跡の根源を探りだす。
この根源にきっと、これから周太が臨む道に現れる危険を、予測し防ぐ手立てが見つかるだろう。
この「予測」こそが周太の危険を最小限に食い止める、そして連鎖から切り離せる。

あるはずが消失させられた2冊目のアルバム『since 1926』
彼岸桜のもと佇む東屋の、木製の柱に散った血液の痕。
血痕が散りばめられた1926年から1938年の写真たち。
周太の曽祖父、敦の死亡月日と誕生日の一致。
周太の祖父、晉の軍服姿に見える拳銃の影。
紺青色の日記帳に記された、馨の射撃部活動を猛反対する晉。
そしてページが切られた『Le Fantome de l'Opera』が示すキーワード『fantome』

これらが示す連鎖の根源はどこにある?

この墓に眠る、3人の男たち。
この3人の父子を廻る哀しい連鎖の苦しみを、必ず自分が断ち切って見せる。
そうしてこの愛するひとを自由にして、本来立つべき道に立たせてあげたい。

「ん、すごく綺麗になったね…ありがとう、英二、」

純粋な黒目がちの瞳が無垢の微笑で、心から感謝してくれる。
その腕には優しい春の花たちが、美しいブーケになって抱かれていた。

―…こんなに綺麗なブーケを、自分で育てた花で作ってくれる子って、貴重よ?大事にしなさいね、あんた、

本当に、姉の言葉の通りだと心から想う。
ただ純粋に想い懸けて美しく咲かせた花々を、心から喜んで自分の父たちに捧げるひと。
こんな美しい純粋な存在を自分は他に知らない、そして愛している。
このひとを自分は必ず守り抜く、重ねていく覚悟を肚底に湛えながら英二は微笑んだ。

「周太こそ、すごく綺麗な笑顔だね?」

この笑顔を、自分は必ず守り抜く。
この絶対の約束と誓いを心刻むよう、磨く墓碑へと英二は祈った。



墓参の翌朝、英二は頭の包帯を外した。

当番勤務に出掛ける周太を新宿駅まで見送って、山手線で渋谷に出る。
そこから私鉄に乗り換えて何度か訪れた駅で降りた、そこから徒歩5分で目的の庁舎に着ける。
黒いミリタリーコートの裾ひるがえし入口を潜ると、真直ぐ目的の窓口に立った。

「すみません、分籍届を頂けますか?」

運転免許証と印鑑を出しながら、英二は係員に微笑んだ。



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第41話 久春act.6―side story「陽はまた昇る」

2012-04-28 22:22:53 | 陽はまた昇るside story
花ふる夜と暁



第41話 久春act.6―side story「陽はまた昇る」

仏間に続くテラスの窓に、彼岸桜がゆれている。
この桜を校門前で恋墜ちる日に自分は見た、この花の名を恋人は今夕に教えてくれた。
その桜をいま恋人の湯上りを待ちながら、夜の庭うつる窓から見つめている。

彼岸桜

この彼岸の頃に咲くから、そんなふうに教えてくれた。
けれどこの彼岸の意味に心が軋みあげてしまう。
彼岸は、あの世、死者が眠りに逝く世界。この名を冠する桜のもとに見た、ひとつの色彩が記憶のファイルに痛い。

あの彼岸桜の傍には、ふるい瀟洒な東屋が佇んでいる。
その柱に小さく散った暗褐色の色彩が、薄暮に浮かぶのを気付いてしまった。
あの色彩を昨夜に自分は鑑識ファイルの写真に見た、そして遭難救助の現場でもよく見ている、だから見間違えない。

推測が、当った

そんな確信が心軋ませていく。
この確信が意味づける薄暮の暗褐色は、哀しみの連鎖なす川の最初の一滴。
あの暗く赤い一滴が、この家に続く父と息子の残酷な連鎖を造りだした、そんな確信が痛々しい。
この確信はたぶん、覆せない。

「…どうして、ですか…敦さん?」

こぼれた名前に英二は、ゆっくり仏壇をふり向いた。
紫檀ゆかしい廟の奥、この家の名を刻む位牌は静寂に黙りこんで答えなど無い。
まだ真相は解かっていない、けれど昨日の午後から見つめた写真と痕跡の過去が告げてしまう。
この真実は痛い、けれど自分が背負いたい。どんなに暗く重たい真実でも背負って、抱きとめ温めたい。
この想いに、そっと息吐いたときポケットの携帯がふるえた。

「おつかれさま、国村、」

電話に繋がれたアンザイレンパートナーに英二は笑いかけた。
その向こうから、明るい笑顔の気配と一緒に透明なテノールが笑ってくれる。

「おつかれさん、俺の麗しのパートナー?なんかちょっと、疲れてるのは今日のご対面のせい?」
「うん、それもあるな?あとは、そうだな…染みの所為かな、」

薄暮に浮かんだ木肌の一点、あの染みを見てしまったから。
あの染みに繋がるひとが愛しいから、哀しみが深くなる痛くなる。
この胸の想いにこぼれた溜息に、テノールの声は低く笑ってくれた。

「ふん、染み抜きを考えないとね?まあ、なんとかなるだろさ。俺とおまえならテクニシャン同士、上手くいかない訳が無い、だろ?」

こんなときにもエロトーク混じり?
こんな友人の明るさが可笑しくて嬉しい、素直に英二は笑って答えた。

「そうだな、おまえとなら上手くいくな?国村のテクニックを信じてるよ、」
「そりゃ光栄だね、満足させてあげたいよ。で、ご対面も上手くいったんだろ?」

さらっと愉しげに透明なテノールが訊いてくれる。
この大らかな優しさが好きだ、けれど奥ひそむ恋慕の痛みが哀しくて、けれど英二は率直な幸せに告げた。

「うん、認めて貰えたよ。きれなひとだ、大事にしろ。お前が羨ましいよ、ってさ。父さん、言ってくれたんだ」
「おめでとさん。ま、周太が綺麗なのは当然だけどさ。オヤジさんも見惚れちゃったんだね、親子揃って好みが一緒か、」
「かな?でも俺、ちょっと切なかったよ、…」

明るく真直ぐな祝福に微笑ながら、英二は一抹の哀しみに溜息吐いた。
今日の父に垣間見た、父の本音があらためて切ない。その切なさに友人は訊いてくれた。

「話せよ。いま周太、そこにいないんだろ?今のうち吐いちまいな、で、すっきりしてさ。周太には最高に、別嬪の笑顔を見せてやりな」
「うん、ありがとう、」

どこまでも大らかで真直ぐな優しさが嬉しい。
ほっと心寛ぐ想いと英二は窓辺たたずんで、夜の桜を見あげて口を開いた。

「父は、母を愛して結婚したわけじゃない。そして今も、心から繋がっている訳じゃない…その寂しさが、はっきり解かっちゃって、さ」

見合い結婚だとは聴いていた。
ほとんど双方の親同士で決めた、そうも聴いている。
それでも結婚して深めていく夫婦もある、けれど自分の両親には微妙なズレを感じていた。
一見は似合いの理想的な夫婦、けれど本当は互いに寂しい。そんな素顔の垣間見が今日、冷たく露わに罅割れた。
ずっと解かっていた、それでも子として寂しかった。愛情のない体の繋がりから生まれた自分だという現実が、哀しかった。

「うん、…おまえこそ、寂しかったな?」

透明なテノールが、冷たい寂しさを理解し受けとめてくれる。
この声の主は両親とも亡くしている、けれどその両親は深い絆に結ばれたまま逝った。
その幸せ抱く息子は死してなお両親の愛情に包まれ、温かい。だからこそ国村は厳しい顔の時ですら温かい心が脈打っている。
この自分と相似形で対照的なパートナーの温もりが自分は好きだ、温もりに溶けだす寂しさに英二は微笑んだ。

「ちょっとね?まあ、ずっと解かっていたことだけど…これにさ、たぶん周太は気づいていて。なんか申し訳なくて、さ、」
「うん?まあ、そこは甘えちまいな?奥さんに愚痴ってなにが悪いんだよ、だろ?」

奥さん、そんな言葉で軽やかに周太と英二の婚約を言祝いでくれる。
この友人の祝福はやっぱり、誰よりも嬉しい。素直な想いに英二はきれいに笑った。

「うん、ありがとう。そうさせてもらおうかな?今日から暫く一緒にいられるし、」
「だね、幸せにやんな?で、それで足りないまんま、奥多摩に帰ってくるようならさ?俺が慰めて、あ・げ・る、」

祝福と一緒に悪戯っ子の誘惑まで贈ってくれる。
こういう茶化した明るさが重苦しさを払っていく、友人の軽やかな気遣いに感謝しながらも英二は微笑んで断った。

「ありがとう、でも慰めてくれなくって良いよ?」
「遠慮するなよ、愛しのパートナー?でさ、おまえ今は、ちゃんと包帯してるだろうね?どうせ頭のは外したんだろ、ご対面では、」
「あ、解かる?」

いつもながらの洞察力に英二は自白した。
素直な自白に笑って国村は、愉しげに言ってくれた。

「自分が怪我した姿なんかさ、おまえが父親に晒すわけないだろ?山ヤは誇り高いんだ、自分が遭難したなんて見せたくないね。
しかも父親にだなんてさ、家出息子やってるオマエだったら尚更、絶対見せたくない相手だろうが?それくらい誇り高い男だからね、」

よく解ってくれているな?
こんな理解が愉しくて嬉しい、微笑んで英二は頷いた。

「うん、その通りだよ?でも創傷パッドはしたよ、髪で隠せたし。それで風呂上ってから、周太が包帯までしてくれた」
「なら良いけどさ、ちゃんと早く治せよ。痕なんか残すんじゃないよ?おまえの美貌は俺の癒しなんだからね、義務として治せよな、」
「そういうもん?」

それもセカンドの義務なのかな?
思わず考え込んだ英二に、可笑しそうに国村は笑った。

「そういうもんだよ。さて、お姫さまがそろそろ、お出ましかな?夜のコト、ヤリ過ぎないでね、変態さん?」
「なんで…ん、」

思わず訊きかえして、すぐしまったと英二は息を呑んだ。
また得意のトラップをかけられた?そう気づいた向こうで愉快にパートナーは笑いだした。

「へえ?やっぱり変態やっちゃんたんだ?疲れて眠っているとこ、襲っちゃったとかだろ。
ちゃんと眠るときは、寝かせてやってよね。で、コッチに帰ってきたら査問させてもらうよ?愉しい話が聴けそうだ、ねえ?」

いつも自分はこうなるな?
いつもは冷静なのに国村の尋問はすぐ、ひっかかる。
やっぱり周太のことは例外なのかな?この例外の幸福に微笑んで英二は、素直に答えた。

「お手柔らかに願うよ?」
「あれ、お手でやわらかにオサワリしちゃってイイわけ?」
「おさわりは違うだろうが?」
「ま、楽しみにしておくよ。じゃ、おやすみ、」

満足げな笑顔の気配にテノールの声が言って、愉しげに電話を切った。
なんだか奥多摩に帰ったら大変そうだな?そんな予想も可笑しくて、笑いながら携帯をしまうとボトルに指をかけた。
ワインバケットから出したボトルの水滴は、テラスの仄明るい光にきらめいている。
きれいだな?そう見つめながらグラスに注いで、ひとくち英二は口付けた。

ことん、

ひそませる音が静謐に、扉の向こう微かに響く。
音が伝えてくれる嬉しい予感に、長い指はグラスをサイドテーブルに戻した。
きっと恋人が廊下を歩いてくる音、そんな軽やかな音が近づいてくる。
うれしくて、畳を横切って英二は扉を開いた。

「やっぱり周太だった、」

すこし濡れた黒髪のした、黒目がちの瞳が驚きながらも微笑んでくれる。
ほんとうは今夜も一緒に風呂に入りたかった、けれど食事の席で見つめた恋人が、あんまり綺麗すぎて言いだせなくなった。
ずっと抱きしめたかった想いに素直な腕を伸ばして、湯上りの浴衣の肩を抱きしめる。
白い衣を透かす熱りから昇る香が幸せで、笑った英二にやさしいトーンが訊いてくれた。

「どうしたの、英二?…足音、聴こえたの?」
「うん、静かだったけれど聞えた、」

すこし離れて英二は、あらためて見た婚約者の姿に見惚れた。

「すごく綺麗だ、周太」

やわらかなホールの灯の下、白い寝間の浴衣姿はあわい光りに佇む。
水気ふくんだ黒髪に桜いろ上気した頬が映えて、黒目がちの瞳が気恥ずかしげに見つめてくれる。
すこし左に前結びした藤いろの帯が可憐で、野すみれの花に似て愛らしい。
きれいで見惚れている先で、紅潮に頬そめながら周太は微笑んだ。

「ありがとう、…ね、このあいだと帯の色、替えたんだけど…どちらが好き?」

前は桔梗のような紫紺の帯で、凛とした雰囲気が綺麗だった。
あの姿も好きだ、けれど可憐なすみれは愛しいな?この答えに英二は素直に微笑んだ。

「今夜の藤色の方が、俺は好きだな。あわい色が似あうね、周太は」
「ほんと?…よかった、」

うれしそうに微笑んで、藤いろの帯ふれながら羞んでくれる。
そんな様子が帯解けに見せる恥じらいを想像させて、つい、ときめいてしまう、今宵へ期待が絡めとる。
やっぱり自分は恋の奴隷だな?こんな諦観と夜の時間への想いが甘く切ない。
切ない想いに瞳覗きこんで、優しいキスでふれて英二は笑いかけた。

「きれいだ、周太は…おいで、」

宝物のよう掌をとると、湯に温まる熱りが心に響く。
テラスに据えられた籐椅子に座らせて、グラスにボトル傾けると華やかな酒を恋人へ勧めた。

「湯上りだと酔いが回りやすいから、ゆっくり飲んで?」
「ん、ありがとう…気をつけるね、」

素直にグラスに口つけて、あわい光ゆれる酒が唇とけていく。
テラスのフロアーランプだけ灯した、おだやかな空間は静かな夜がやさしい。
冷たいグラスと眺めた庭は、月明かりに咲く薄紅の花と高潔に白い花姿が美しかった。
籐椅子に座る視線をあげた瞳が微笑んで、うれしそうに周太が言葉を零した。

「白木蓮も、きれい…」

白木蓮の花は、真昼の夢。
そして自分の分岐に立ち会った白い花。
あまやかな歓びと哀しい痛みの記憶がもろともに、この花姿に見てしまう。
もうこの花は、自分にとって想い深い花。きっと見るたびいつも、今日のことを想いだす。
そしてこの恋人への想いを見つめて、愛しい花木だと微笑んでしまう。
愛しい想いに微笑んで、英二は恋人の横顔に言った。

「周太の方が、きれいだよ?」

言われた言葉に、長い睫が含羞に伏せられる。
白い衿元のびやかな首筋に桜いろひらいて、心ごと視線を惹きよせていく
可憐で透明な彩の美しさと切なさに、英二は白い姿を抱きよせた。

「キスして、いい?」

瞳、見つめ合って許しを乞う。
見つめる想いの中心で、長い睫がゆるく伏せられ途惑いを見せる。
籐椅子の肘掛越しに抱いている、白い衣の肩が恥らうのが解かってしまう。
この惑いの理由に気がついて、英二は笑いかけた。

「ごめん、ほとけさまの前だったね?」

このテラスは仏間の続き間だったな?
その意識が甦って自分が可笑しい、こんなに見境なく冷静を失う自分になるなんて?
午後に思い知らされた、冷めた繋がりから生まれた自分だという現実。そんな自分が熱に侵され恋の奴隷になっている。
こんな恋愛に出逢えた自分は幸せだろう。けれど、こんな場所でキスを迫る婚約者を周太の父祖たちはどう思ったろう?
なんだか色々可笑しくて、そっと額を恋人の額に寄せて英二は笑った。

「ね、周太?俺、きっと今、すごい熱だよな?」
「…っ!」

途端に黒目がちの瞳が大きくなって、額に掌を当ててくれる。
やさしい掌が包帯越しに熱を見てくれながら、覗きこむ瞳が哀しげに訊いた。

「英二?…頭、痛いの?…いまごろ熱が出るなんて…頭、打ったとき、やっぱり脳に…吉村先生、」

急いで袂に掌を入れると携帯を周太は取出した。
電話帳から吉村医師の番号を探し出してくれる、その指が震えていく。
ふるえる指を長い指の掌で包みながら、英二は心底後悔して謝った。

「違うよ、周太。ごめん、」

下手なこと言っちゃったな?
自分の失敗を悔いながら英二は、不安と瞳に笑いかけた。

「そうじゃないんだ、あんまり周太に俺、熱を上げ過ぎてるからさ?それで訊いたんだ。びっくりさせて、ごめんな?」
「…あ、そういういみなの?」

ほっと白い衣の肩から力が抜けて、黒目がちの瞳が和んでいく。
和んだ瞳に水の紗が漲りだす、そして雫にあふれて零れはじめた。

「…よかった…ほん、と、…よかっ、た…っ、」

きらきら光が桜いろの頬を伝っていく。
ながれる涙に英二は今回の事故で、どれだけ不安と心配を与えてしまったのか思い知らされた。
ほんとうに自分はまだ解っていない。危険に立つ自分をいつも笑顔で見送ってくれる、やさしい婚約者の想いを気遣えていない。
なんて自分は未熟なのだろう?肚から反省を見つめながら英二は、恋人を見つめて懺悔した。

「ごめん、周太。こんなに心配かけているのに、俺、全然解かっていなくて…ごめん、そして、ありがとう、」
「…どうして、ありがとうって言ってくれるの?」

涙たたえた瞳が優しい眼差しと訊いてくれる。
こぼれる涙を長い指で拭いながら、包んでいる携帯握ったままの掌を英二は握りしめた。

「こんなに心配かけてる、でも周太、俺のこと止めないでくれているだろ?俺が山に生きること、認めてくれている。
こんなに不安にさせているのに周太、一言も俺が山に登ることを否定しないでくれる。それが、申し訳なくて、でも嬉しいんだ、」

こんなに泣かせてしまったら、一言くらい「もう山は辞めて」と言われても文句は言えない。
けれど自分の婚約者は言わないでくれている、ただ優しく微笑んで「良かった、」と喜んでくれる。
それどころか自分は吉村医師と後藤から聴いている、大好きな瞳を見つめながら英二は笑いかけた。

「周太、副隊長と吉村先生に聴いてくれたんだってね?俺がまた山に登れるのか、って。
周太は心から、俺が山ヤでいられるのか心配してくれたね?それが俺、ほんとうに嬉しかったんだ。山ヤでいることが俺の誇りだから、」

この誇りを母も父も解からなかった、けれど周太が母に教え納得させてくれた。
だから父も認めて自由を贈ってくれた、このすべてが今この掌を握っている恋人のお蔭だと知っている。
心からの感謝に微笑んで、英二は想っていたことを告げた。

「いま周太、救急法も一生懸命に勉強してくれてるね?それも俺のレスキューの世界を知ろうとして、始めてくれた。
そうやって俺の大切な部分を見つめて、丸ごと受けとめて愛してくれている。それが俺、ほんとうに嬉しいんだ、温かいよ?
それから俺はね、こうも思っている。周太、救急法を勉強して、お父さんの世界でレスキューをしようって考えてるんじゃないかな?」

黒目がちの瞳がすこし大きくなって、英二の目を見つめてくれる。
そして穏やかに微笑んで、静かに答えてくれた。

「ん、…父と同じ道のひとをね、手助けしたいって思って…山で英二は山ヤさんをレスキューしてるよね?
だから俺は、父の世界でレスキューをしたら、すこし英二の世界を見られるって思ったんだ…もし英二の世界を理解できるなら、ね、
それが嬉しいから、きっと父の世界でも希望を持って生きられる。そう思って。父の世界で英二を見つめて、そして誰かを助けたいんだ」

周太の父、馨は自分の置かれた世界に絶望した。
その絶望の世界に周太は希望を抱いて臨む決意をした、この勁さは「助けたい」そして「理解したい」この優しい純粋が根源にある。
どこまでも優しい純粋が、まばゆい。この美しい存在に心離れられないまま英二は微笑んだ。

「俺、そういう周太が眩しい。だから…俺はね、また周太に恋をしたよ?」
「…そうなの?」

黒目がちの瞳が見つめてくれる、この瞳が自分は愛しい。
嬉しそうに微笑んでくれる瞳に嬉しくなって、英二はきれいに笑った。

「うん、優しくて強くて、凛として。俺、ときめくよ?そして恋して、愛してる、」

これは俺の本音だよ?
愛する瞳を見つめて英二は告白をした。

「きっと俺は、何度も君に恋をするよ?だから、目が覚めた時に言ったんだ。愛している、俺だけのものでいてほしい、って。
ずっと何度も恋して時めいて、愛し続けてしまうから。だから、俺だけのものでいてほしい、永遠に傍にいたいんだ…君を愛しているから」

純粋な黒目がちの瞳がゆっくり1つ瞬いた。
そして静かに優しいトーンが微笑んだ。

「わがままで泣き虫で、弱虫だよ?…ほんとうはね、俺、いっぱい泣いちゃった、今回も。それでも、いいの?」
「わがままで泣き虫の周太、可愛くて大好きだよ?弱虫の周太、守ってあげたい、ずっと」

ほんとうに可愛くて守りたい。
ほんとうに綺麗で見惚れていたい、ずっと。
ずっと君を愛してしまうよ?そう目でも告げた想いの真中で、薄紅そまる顔が微笑んだ。

「…ん、…ほんとうに?」
「ほんとうだよ?」

迷いなんかあるわけない、こんなに愛しい。
この想い素直に微笑んだ口許に、やわらかな唇が重なってオレンジの香がこぼれた。

―周太、

この場所は周太の父祖が見守る部屋。
そして馨が最後の眠りに微睡んで、最愛の恋を弔い送りだされた場所。
ここでいま約束のように、口づけ交わしてくれるの?

「…愛してる、よ?英二、」

すこし離れた唇が恥ずかしそうに名前を呼んでくれる。
この唇が贈ってくれた想いはもう、心に結ばれ解けない。勁く大らかな恋を見つめて英二は微笑んだ。

「周太、愛してる。もう、離れないよ?」

永遠の誓いに笑いかけて、英二は唯ひとりの恋愛とキスをした。



「メール、関根からだよ。周太、何の用だと思う?」
「ん?…あ、瀬尾の、飲み会のこと?」
「当たり。初任科総合の前に一度、飲もうってさ。周太、いつがいい?」
「いつでもいいよ?…あ、桜が風に舞ってる、きれい…」
「ほんとだ、月明かりでも見えるんだね、きれいだな、」

なにげない会話、けれど幸せが今見つめる花のように降ってくる。
ふたり並んで庭を眺めての冷たいワインと会話が楽しい。
こういう夜はいいな?白無垢の寝間着姿に見惚れながら、英二は幸せに微笑んだ。
そうして見惚れる黒目がちの瞳に、ふっと思い出して英二は口を開いた。

「そうだ、周太?お母さんがね、俺にプレゼントを置いてくれたらしいんだ」
「ん、プレゼント?…どこに置いてあるの?」

桜いろに酔いそめた笑顔が訊いてくれる。
酔いに寛いだ周太の表情も仕草も、いつもより艶やかで惹かれてしまう。
この艶麗な様子に食事の席では見惚れ、ときめいて、風呂に一緒に入りたいと言えなくなった。
いまも見惚れかけて、けれど周太の母の言葉を思い出して英二は続けた。

「うん、お母さんの部屋の風呂敷包みらしいんだ。周太に言って、見てね、って、」
「あ、…そういえば、置いてあったね?…いま、見てみる?」

言いながら早速に席を立ってくれる。
素直に英二も一緒に立って、ふたり並んで階段を上がった。
すこし酔いがちな周太の足取りが気になってしまう。それでも端正に裾を捌いて階段を昇りきると、周太は母の部屋に入って行った。
ホールで待つ間もなく風呂敷包みを抱えて、小柄な寝間着姿が戻ってくれる。

「ね、英二?…俺の部屋で開いて見る?」

包みに小首傾げて周太が提案してくれた。
風呂敷包みを受けとりながら、英二は素直に頷いた。

「うん、そうしたいな。なんだろう、そんなに重くは無いけど、」

なんだろうな?
楽しみにしながら周太の部屋に入ると、ベッドの上で包みをほどいた。

「あ、…きもの、だね?」

現れた3つの畳紙に黒目がちの瞳が微笑んだ。
馴れた手つきで3つの畳紙を開いてくれる、そして現れた着物たちに周太がきれいに笑った。

「見て、英二?…すてきだね、」

濃く深い藍色の袴。
グレーを帯びた青い着物、藍に赤を織り込んだ帯。落着いた深紅の襦袢。
それから、白地に細かな織模様の浴衣と、袴と同色のやわらかな帯。

「ん、襦袢の色が、めずらしいね?…帯の赤と映えていいな、華やかな感じ。きっと似合うね、すてきだね、」

嬉しそうに眺めながら周太が笑ってくれる。
きっと周太も喜ぶと思うと彼女は言っていた、その通りになった。
彼女の明察と好みにあう色合いに感心しながらも、英二は少し困りながら微笑んだ。

「うん、どれも落ち着いて、きれいな色だな?…でも、お母さん。こんな良いもの、」

悪いよ、と言いかけて英二は止めた。
今日の対面の席で彼女は「もう1人の息子」と英二を呼んでくれた。
その気持ちを表そうと彼女は、この贈り物を用意してくれたのだろう。
着物はよく知らない、けれど端正な誂えに出来合いではないと英二にも見て取れる。

―お母さん、前から仕度してくれたんだ…迎えてくれるために、

この家の男たちは皆、茶を嗜み着物を好んできた。
こうした家風の家に迎えるのだからと、彼女は考えてくれたのだろう。
この気遣いに籠められた真心が、温かい。この温もりに素直に英二は頷いた。

「こんな良いもの、ありがたいな?」

素直な感謝に微笑んで、英二は携帯電話を開いた。
いまの時間なら大丈夫かな?すこし考えた英二に周太が微笑んだ。

「電話してあげて?きっと喜ぶから…今ごろ、友達のひとに話してるかも?」
「うん、ありがとう、架けてみるよ?」

やさしい提案に笑いかけて英二は電話を架けた。
コール3つで繋がって、愉しげな声が出てくれた。

「こんばんは、英二くん、」
「こんばんは、お母さん。プレゼント、見せて貰っています。本当に、ありがとうございます、」

心から、ありがとう。
感謝に笑いかけた英二に、穏かで愉しげな声が微笑んだ。

「好みに合うかな?英二くんは落着いているから、濃い目の色合にしたの」
「はい、こういう感じ好きです。襦袢の色はすこし驚きましたけど、かっこいいですね?」
「でしょう?あの色がね、ちょっと袂から見えると、おしゃれで華やかよ?そういうの英二くん、似合うから」
「周太もそう言ってくれています。こんな良いものを、ありがとうございます、」

いつか何かで、お返ししたいな?
そんな想いと微笑んだ英二に、彼女は言ってくれた。

「息子の着るものくらい、母親が買うのは当たり前でしょう?でも、喜んでくれて良かった。ぜひ着てね、普段は家に置いて良いから」

当たり前、そう言ってくれる想いが温かい。
この女性は母親として本当に、無償の愛を英二に与えようとしてくれる。
ずっと求めて得られなかった、この想いに出逢えた感謝に心から微笑んだ。

「ありがとうございます…そうさせて貰います。旅行、楽しんできてくださいね、」
「ありがとう、そうするわ…あ、友達からね?英二くんのファンです、って伝言よ、」
「なんか恥ずかしいですね?でも、ありがとうございます、って、お伝えください。ちょっと待ってくださいね、」

微笑んで英二は送話口を掌でくるんだ。
そして隣で楽しげに着物を眺めている周太に、はいと手渡し笑いかけた。

「周太、話したいだろ?」
「ん、ありがとう、」

嬉しそうに電話を代わって、周太は母と着物の話を始めた。
その横顔が幸せそうで、見ていて嬉しい。
嬉しい気持ちで見つめるうちに、おやすみなさいを言って周太は電話を切った。

「ね、英二?…ゆかた、着てみて?」
「周太、着せてくれるの?」

なにげない質問をした英二に、桜いろの笑顔が羞かんだ。
可愛い笑顔だな?見惚れて微笑んだ英二に、素直に周太は頷いてくれた。

「ん、着せます…あの、ぬいでくれますか?」

“ぬいでくれますか”そんな提案は、ときめきます。

思わずこぼれた心の声が可笑しい。
そういう意味じゃないのにな?自分の妄想に笑いながら英二はシャツのボタンを外した。
さっさと上下を脱いで振りむくと、ぼうっと黒目がちの瞳が見つめてくれる。
いつもの周太なら恥ずかしがって目を逸らしてしまう、けれど桜いろの笑顔は素直に微笑んだ。

「…きれい、英二…あの、はい、」

肩に浴衣を掛けてくれながら、いつもより恥ずかしがらずに無邪気に微笑んでいる。
すこし酔いが回ってきたのかな?そう見ている先で周太の掌は手際よく着付けをしていく。

「この帯のいろね、勝色っていうんだよ?袴のいろと、おなじだね…武士のいろなの、かっこいい色、だよ?」
「あ、『勝』だから、武士の色?」
「そう…英二、きりっとして似合うね?」

きれいに着せてくれながら、楽しげに話してくれる。
好きな着物を英二に着せている、それが嬉しくて仕方ない、そんな貌で笑ってくれる。
そんな君の雰囲気が、俺は可愛くて仕方ないよ?
そう心で言いながら英二は、婚約者の幸せそうな姿に見惚れた。



(to be continued)

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第41話 久春act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-04-27 23:55:34 | 陽はまた昇るside story
花、ほころぶ



第41話 久春act.5―side story「陽はまた昇る」

父と姉は予定通りの時間に訪れ、茶の席に座った。
茶道口から現れた周太の端正な袴姿へと、父が賞賛の視線を送ったのが解かる。
姉も見惚れながら微笑んで、そっと英二に目配せを送った。

「初めてお目にかかります、湯原周太です。お出で下さって、ありがとうございます」

挨拶に微笑んで、周太はゆるやかに辞儀をおくった。
静かに姿勢を戻した端正な姿が美しい、あわい翡翠色の着物に薄紫の衿は菫の花を想わせる。
いまベッドサイドに活けられている薄紫の花、あの花の記憶を想う視界の端で父が返礼をした。

「初めまして、英二の父です。伺っていた通り、きれいな方ですね。男性に失礼かもしれませんが」
「お恥ずかしいです…でも褒めて頂いて、ありがとうございます」
「奥ゆかしい方ですね?お席の設えも、着物も上品で。どうぞ今日は、よろしくお願い致します」

恙ない挨拶に点法が続き、和やかな茶の席が穏やかな空気を作っていく。
やさしい空気を作っていく婚約者の手捌きが美しい、見惚れながら英二は真昼の夢を見つめた。

―…すみれ、きれい…

真白なリネンのベッドに沈みこんだ幸福な時間。
この時を過ごす前に白木蓮の薫る浴室で、明るい光のなか小柄な体を裸身にした。
紅潮そまる肌は桜いろ咲いて、湯を弾く水の玉が滑るのを見つめながら、恥らう体を指でほどいた。
自分の手で仕度を施した恋人の体はベッドで、やわらかな撓みに添い合えて、あまやかな温もりに溺れこんだ。
そして見上げてくれた黒目がちの瞳は、薄紫の花に微笑んでくれた。

―…英二が、いけてくれた?
 …うん、周太が好きな花だなって想って、ひとつだけ摘ませて貰った
 …ありがとう、うれしい…いいかおり、
 …この花、周太と似ているね?でも周太の方が、きれいだ、
 …はずかしい、英二…でも、ありがとう…大好き、

やさしい幸せな温もりの時間が、嬉しかった。
ふたり肌を重ねあわせた感覚に溺れた後の、薄紫の花を眺める時間はおだやかで安らいだ。
この席が控えていたから好きなだけは出来ない、それでも体ごと心繋げた時と想いが幸せだった。
そうして真昼の夢にふたり微睡んで、目覚めて見つめあえた幸せが嬉しくて泣きたかった。

雪崩から生還した緊迫と安堵。
この家に纏わる哀しみの原因を見つめた沈思と痛切。
そして馨の抱いた恋の行く末に見た哀しみは、恋人への深い愛情に変わった。
この3つが重なりとけあって、殊更にいま愛するひとを求めふれたい想いが強い。

こんなことをこの茶の席で考えている自分は、雑念だらけで点法など出来そうにないな?
そんな自嘲を心に笑った英二の前に、美しい萌黄色の茶がそっと据えられた。

「どうぞ?」

黒目がちの瞳が恥ずかしげに微笑んで、茶を勧めてくれる。
ひとつ礼をする端正に伏せた衿元のぞく、首筋から背になめらかな肌が視線を奪ってしまう。
ゆるりと正される姿勢にうなじが消えて微笑が見つめてくれる、その優しい微笑にすら誘惑を見たくなる。
その微笑みの向うに映る床の間の白木蓮に、真昼の夢の幸せを見つめてしまう。

―…あの、英二?…あ、洗うの、自分でするから…

淑やかに恥じらう声も顔も愛しくて、見惚れて、溺れこんだ。
あの真昼の夢に見た白木蓮の香に、この端正な袴姿にすら夢の記憶を見てしまう。
ほら自分はこんなにも恋狂い、この恋に縛られて惹き寄せられっぱなしだな?
こんな恋の奴隷ぶりが可笑しい、そっと微笑んで英二は茶碗を双掌に抱いた。
そうして見つめた萌黄色に、姉が告げた言葉にこもる父の真意を見つめた。

―…あんたも覚悟しときなさいよ?

父がこの家を訪れた理由、その真意が自分には解かるように想う。
冷静で直情的な堅物、この性格が父と自分は映したよう似ている。だから父の表情の奥にある、父の考えと想いが解かってしまう。
そんな父とは姉も似ている、きっと姉は父の覚悟に気づいていた。だからこそ覚悟が必要だと姉は自分に告げてくれた。

―この茶を飲むのは、最後になるかもしれない

そんな覚悟と一緒に英二は、恋人の点てた茶を飲みこんだ。
さわやかな香とあまさ、そしてほろ苦い味わいに今の心が映し出されていく。
この愛しいひとの優しい茶を、自分はもう飲めないかもしれない。
だからこそ、今この目の前に座っている姿を見つめておきたい。

薄紫色の衿に匂いやかな首筋、さっきキスでふれた。
薄紫に重ねられる淡い翡翠の衣、さっきあの肩を抱いて庭を眺めた。
そして茶を見つめる瞳を視線でからめて、軽く結んでいる唇をキスに結わえていた。
やわらかな黒髪に顔うずめて香に溺れて、なめらかな頬よせて温もりを愛しんだ。
この菫にも似た愛しい姿をいま、この心に刻んでおきたい。

― ね、周太?…さよならかもしれないんだ。それとも、

別離か、それとも?
ふたつの道の分岐点に今、自分は座している。
この座への覚悟に微笑んで、ゆったりと英二は茶を飲み終えた。

点法が終わると周太はコーヒーを淹れて供してくれた。
和室にすえてある座卓へと、藍模様のコーヒーカップを並べてくれる。
ゆるやかに昇る芳しい湯気に、父は微笑んだ。

「とてもいい香です。コーヒーを淹れるのも、上手なんですね。どこかで教わったんですか?」
「ありがとうございます。父がよく、母に淹れていたのを教わったんです…父も喜びます、」

おだやかなトーンの声が嬉しそうに微笑んだ。
やさしい謙虚と亡父への感謝をこめた、素直な言葉に英二の父が目を細めている。
きっと周太の答えに満足している、そんな父と羞んでいる周太の様子を眺めていると姉が周太に声を掛けた。

「周太くん、お庭を見せて貰いたいな?とってもお花が素敵だから、見せてほしいの。一緒にお願いできる?」
「はい、もちろん。…あの、中座をさせて頂いてもよろしいですか?」

姉に快く頷いて、けれど英二の父へときちんと聴いてくれる。
どうぞと頷いた父に微笑んで礼をすると、周太は姉と連れ立って庭へ降りていった。
南面の窓から楽しげに花を見あげる2人が見える、やさしい光景から目を戻すと父は周太の母に微笑んだ。

「とても上品で、きれいな息子さんですね。優しい心が現れた、良いお茶でした。こういう方には中々、お目にかかれません」
「ありがとうございます、」

端正な会釈で父へと礼を述べてくれる。
ゆるやかに頭を上げると、彼女はきれいに笑った。

「夫が上品できれいですから、良いものを受け継いでいて。大切な宝で、自慢の息子です」

穏やかな口調に堂々と、惚気と親馬鹿を告げて彼女は微笑んだ。
宝物で自慢の息子よ?そんな明るい宣言が気持ちいい。桃の節句の時も彼女は自分の友人に、堂々と子供を自慢していた。
こんなふうに夫と息子への愛情を、軽やかに表白できる笑顔がまぶしい。
素敵だな?素直に心うち褒めた英二の隣で父が、コーヒーを受け皿に戻し、姿勢を正した。

「湯原さん、謝らせてください。大切な息子さんに、私の妻は手を挙げました。本当に申し訳ありません、」

落着いた低い声で告げ、父は潔く頭を下げた。
やはり父は解かってくれている。いつも穏やかで静かな父、けれど本当は見守ってくれている。
この父の想いと理解が温かい。そして父の覚悟は容赦なく自分の心と想いを締め上げてくる。

― 始まる、

この家に父が来た真意が裁決する、自分の運命の分岐が始められる。
これから見つめる温もりと痛みを覚悟して、英二は父と共に頭を下げた。

「はい、確かに腹は立ちました。けれどもう、溜飲が下がりました。だからどうぞ、お顔をあげて下さい、」

自分たち父子に周太の母は、率直に気持ちを告げて明るく微笑んでくれる。
けれど父は頭を下げたまま、真直ぐに言ってくれた。

「ありがとうございます。けれど本当は、あなたに顔向けなど出来ません。私は一家の主として、湯原さんに謝らねばならない」

頭を下げる英二の隣で、父も自分の膝元を見つめたまま端然と頭を下げている。
瞳だけ動かして見た父の横顔は、おだやかでも決然と口を開いた。

「この息子は、私に似て気難しい男です。だから私には解ります、今の全ては息子が好きで選び、始めたことです。
息子は直情的で、自分で納得した事しか出来ないし言えません。ですから周太くんの事も今回の事故も、すべて息子の責任です。
それを妻は身勝手にも周太くんへ責任転嫁しました。そして大切な男の顔を叩きました、これは、詫びて赦されるものではありません」

きれいな渋めの低い声が、ひとつずつ見つめて言葉にしてくれる。
この父の想いが沁みるよう温かい、そして痛い。そんな温かな痛みを抱いていく英二の隣で父の声は続いていく。

「周太くんは息子と同じ年で、まだお若い。けれど既にお父さまの跡を継がれて、立派に家を守られている。
それは頂いたお茶から、お庭やお宅からも、よく解ります。この年齢でここまで出来ることは、並大抵のことではありません。
周太くんは立派な一人前の男です。そんな立派な男の顔を、軽率に妻は叩きました。同じ男として私は許せず、心から恥に想います、」

周太は立派な一人前の男。

このことを英二は忘れていた、だから冬富士のあと平気で周太を強姦出来た。
小柄で可愛らしい周太の中性的な部分ばかり見て、大切な男の誇りを尊重していなかった。
けれど父は真直ぐに周太を見て、1人の立派な男だと認めている。この父に対して自分の未熟が恥ずかしい。
こんな自分は浅はかで母の軽率な考えより酷い、この未熟さが痛い。こんな自分だからこそ、自力では母を納得させられなかった。
そして母に周太へと手を挙げさせた。もし自分が母に正しく理解させられる練熟を備えていれば、あんなことは無かった。
この未熟さのために父が今、一家の主として此処に座り息子の運命を裁決にかけていく。

―悔しい、こんな自分が…

こうした自分の未熟さを父に負わせ、今この隣で頭を下げさせている。
この未熟な息子の後始末を父にさせてしまう、これは男として大きな借り、だから父の裁決に従う覚悟をするしかない。
この無力が悔しい。唇噛みしめて頭下げる隣で父は、頭を上げないままに膝をずらし座布団から降りた。
そして畳に手をつくと、おだやかな声で周太の母へと告げた。

「そして英二のことです。あなたの息子さんを英二は望み、難しい人生に惹きこみました、」

きっぱりと父は、英二が望んだことだと言ってくれる。
これを認めることは勇気がいる、そう解るから父の想いが温かに痛い。そして父の裁決の始まりに心が軋む。
畳に手をついている父の姿が視界の端に映りこむ、その映像に温もりと痛みを想いながら、涙ひとつだけ膝に落ちた。
その涙の向こう側、おだやかな父の声は明確に話してくれた。

「この日本では男性同士の恋愛は、世間的に認められ難く、法律でも正式な結婚は出来ません。差別すら受けることもある。
子供にも当然恵まれません。男女の結婚で得られる社会的保障も、世間からの祝福も少ない。とても難しい現実があります。
私と同じように法律を学んだ英二は、当然これらを理解しています。それでも英二は、息子さんを求める心を止められませんでした」

―…普通の生き方は出来ない。差別もある、秘密も増えていく
  心の負担も、それなりに増えていくだろう。子供も勿論、望めない
  それでも一緒に居たいと、後悔しないと、今、決める事なんて出来るのか?

 …6ヶ月、その事を俺は考えていた。リスクは考えるほど厳しくて辛くて、生き難いと思った
  そんなリスクを、背負わせたくなかった。きれいなあいつを、引き擦り込みたくなかった
  けれど…何も伝えないまま失いたくない…今この瞬間を、大切に重ねて生きていくしかない
  いつまで続くかなんて、解らない。ただ、大切な人の隣で、この一瞬を大切に過ごしたい

卒業式の翌日、実家のベランダで父と交した覚悟の言葉たち。
あの質問と、自分の答えが蘇える。あのとき父と飲んだウイスキーの香が懐かしい。
あのときの会話を父は半年間、ずっと大切に抱いていてくれた。そして今、ここで周太の母に英二の想いを告げてくれる。
意外で、けれど、どこかで解かっていた父の態度が温かく切ない。そして自分の未熟な完敗を思い知らされる。
感謝と服従の悔恨、この2つの想いに心から頭を下げたまま、潔く英二は父の言葉を聴いた。

「周太くんはご長男で、お一人だけのお子さんです。当然、息子さんには跡取りを望みたいはずです。
今、お宅と息子さんを拝見して尚更に、跡取りが大切なお家だと思い知りました。そして息子の選択がどれだけご迷惑か、気づきました。
息子と周太くんでは子供は望めない。この重みは湯原さんと我が家では、全く違うはずです。どうか、お願いです、教えて下さいますか?」

ひとつ呼吸して父は、畳に手をついたまま静かに顔を上げた。
そして真直ぐ周太の母の、黒目がちの瞳を見つめながら父は、沈思の底から問いかけをした。

「湯原さん、どうか正直に答えて下さい。この息子は、お家にとって邪魔ではありませんか?
この息子がいれば、周太くんの跡取りは望めません。ですから、もし、ご迷惑であれば。今すぐ私が、無理にでも連れて帰ります」

呼吸が止まった。

名残りにかおる清明な茶の馥郁に、静寂が降りてくる。
この部屋に祀られる周太の祖霊たちが、おだやかに見つめる想いがふれていく。
シャツの胸のなか馨の合鍵がふれてくれる、この感触が命綱に想えてしまう。
もう周太の母からの返答は周太の誕生日に聴き、年明けに婚約の申込みをした時に聴いている。
それでも今この父が投げた問いかけに、いかなる答えがあるのか怖い。
この父に問われた彼女は本音を言うだろう。そしてもし、ここで「邪魔だ」と答えたなら?

―そのときは、頷く…愛しているから

そう、愛しているから、自分は頷く。
父に自分の後始末をさせる。この借りの為だけでなく大切な想いの為に、自分は頷く。

この母があっての息子だと、今はもう知っている。
この女性が抱きしめる桜と初恋の物語は、この家と夫と息子への純粋な愛に輝いていた。
あの愛情の美しさを知ってしまった今は、それを傷つける選択など自分に出来るだろうか?
そんな彼女を大切に想い、今もう実の母より想いが強い。この自分の想いに背くことなど出来ない。
この目の前に座る女性が「邪魔」だと言ったなら。この家に自分は居ることなんて出来ない。
この家と彼女が自分を選ばないのなら、この家に居る資格は無い。

それでも、愛している気持は変わらない。

この裁決の静寂に今、座っている。
この静寂のむこうから微かに聞こえる笑い声、あの声の主を愛している。
雪崩に呑まれる瞬間も想った、動かない左足をひきずる冷厳にも見つめた、唯ひとり唯ひとつの想い。
この想いの為だけに自分は、生きて帰って来た。

―ただ、逢いたかった、抱きしめたかった、温もりにふれたかった…見つめていたい

あのひとだけ求めて、帰って来た。
そんな自分それなのに、あのひとを取り上げられて自分は生きられる?
この疑問の答えは解かっている。だからこそ昨日も、この家の過去を見つめていた。あのひとを守るため必要だから。
見つめた過去には幸福の輝きに表裏して、今に近づくごと重たい闇が蟠っていく、それでも自分が背負いたい。
あのひとの為なら自分は何でも出来る、けれど「離れる」は出来るのだろうか?

―…これはね、白木蓮…好きな花なんだ…この花、英二と似てるな、って想って選んだから

いまから6時間ほど前の、恋人との優しい時間。
あの優しい時に与えられた言葉が愛おしい、自分を花に準えた想いが嬉しかった。
あの白い花の香にくるまれる浴室で、湯のなか抱きしめた素肌が幸せだった。
そして白いベッドに沈みこんだ幸福の熱に、永遠の約束を深く結びあった。
あの幸福は、この真昼の夢が最後かもしれない

あの幸福な時の始まりに恋人が手折った白木蓮。
あの白木蓮はいま、床の間から自分を見つめている。
白い高雅な香がいま頬ふれる、その頬に静かな涙がこぼれおちた。

―ね、周太 さよならかも、しれない

もし君の大切な母が「邪魔」と言ったなら。
俺と君との時間は、終わりになる。
君から俺は離される。
それでも信じてほしい、俺の君への想いは終わることなんてない。
もし君と離れることになっても、俺は君を守ることは止めない。
君の隣にいられなくても俺は、きっと君を守り続けて、そして君の幸せと笑顔を守りたい。
だから信じてほしいよ?
いま、どんな答えになっても、俺は君を愛している。

―…愛している、君だけなんだ

いつも抱いている面影に微笑んで、心に想いを告白する。
この告白は変わらない、この永遠に微笑んで英二は、愛するひとを生んだ存在の言葉を待った。
静かに俯き頭を下げた空間に、コーヒーの香がゆれる。この静寂を、おだやかな声が透った。

「英二くん、」

呼ばれた名前は、いつもどおりの優しいトーン。
けれど英二は頭を下げたまま、短く答えた。

「はい、」

答えても、顔が上げられない。
父に言われた通りだと自分で一番わかっている、だから顔が上げられない。
けれど周太の母は、いつものように軽やかに笑ってくれた。

「ほら、頭を上げて?イケメンの顔を見せてよ、私のもう1人の、自慢の息子くん?」

いま、なんて言ってくれた?

驚いて思わず顔をあげた英二に、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
ほら笑ってね?そんなふうに可笑しそうに見つめてくれながら、彼女は父に言ってくれた。

「宮田さん。いま、申し上げた通りです。私は英二くんを息子だと想っています、お断りも無く申し訳ありません、」

頭を下げたままの父の、肩がすこし震えた。
そんな父を見つめて、おだやかな瞳が微笑んだ。

「どうぞ、お顔をあげて下さい。私の方こそ恨まれて当たり前なんです、だって確信犯は、私の方ですから」

彼女の言葉に父がゆっくり頭を上げていく。
まっすぐ背を整えて、切長い目が真直ぐ彼女に微笑んだ。

「確信犯?」
「はい、確信犯です、私は。でも、謝りませんよ?」

黒目がちの瞳が微笑んでいる。
そして穏やかな声が軽やかに話した。

「初めて英二くんが遊びに来てくれた時です。私はすぐに気がつきました、英二くんが息子に恋をしてくれていると。
それが嬉しかったんです、息子も英二くんを想っていましたから。そして安心しました、これで息子を独りぼっちにしないで済むと」

ひとつ言葉を切って黒目がちの瞳がすこし細められる。
どこか懐かしむような表情で、彼女は言ってくれた。

「息子は純粋です、とても繊細で感受性が豊かです。そんな息子は主人が亡くなったショックで、記憶と一緒に笑顔も失いました。
それでも英二くんは息子の笑顔を取り戻してくれました、主人を亡くした悲しみで孤独に沈んだあの子を、助け出してくれました。
純粋すぎて息子は相手を気遣い過ぎる、だから心を開く事が難しいんです。けれど英二くんにだけは、心から素直に甘えられます。
だから私は思いました、英二くんなら息子を幸せにしてくれる、やっと託せる人が現れてくれた、これで周太は独りぼっちにならない」

最愛の息子への想い、それを託したい願い。
おだやかでも強靭な母の想い語られていく、そして黒目がちの瞳は潔く微笑んだ。

「そして私から英二くんにお願いしたんです、あの子の最期の一瞬を、あなたのきれいな笑顔で包んで、幸福なままに眠らせてほしいと」

この家の庭のベンチで、あの日に彼女が告げてくれた言葉たち。
あの約束と誓いの想いが懐かしい、そして誇らしい。あの日の誇らしさを見つめる先で彼女は微笑んだ。

「英二くんが息子と生きることは、英二くんが本来生きるべきだった、普通の幸せを全て奪う事だと解っています。
けれど誰を泣かせても、私は息子の幸せを願います。家の名を絶やしても、私の宝物の幸せを守ります。それを責められても構いません。
いつか遠い未来に。生まれてきて良かったと息子が心から微笑んで、幸福な人生だと眠りにつく。この為に私は英二くんを掴まえました。
そして英二くんを自分の息子にしました、ご両親に何の断りもなく。こんな私は確信犯です、でも謝りません、どうぞ存分に恨んで下さい」

潔癖な開き直りに、黒目がちの瞳がきれいに笑った。
そんな彼女の笑顔に父は綺麗に微笑んで、愉しげに笑ってくれた。

「素敵な方ですね、あなたは。とても恨むことは出来ません、そして私はもう、心から納得するしかありません、」
「ありがとうございます、納得されるんですか?」

にこやかに礼を述べながら彼女は尋ねた。
尋ねられ父は頷くと切長い目を細めて綺麗に微笑んだ。

「穏かな静謐は安らいで、清楚な雰囲気は温かい。あなたも家も、周太くんも心から居心地が良い。息子がこちらを選ぶのは当然です。
同じ男として私は息子が羨ましい。居心地のいい愛する伴侶と居場所を自分で選び手に入れる、これは男の幸せです、だから納得します」

率直なまま告げてくれる父の想いが温かい。
未熟さの為に父に責任と謝罪を負わせた自分を、こんなふうに父は言ってくれる。
それが申し訳なくて、ありがたくて、肚の底から込みあげる想いが熱い。
熱い切ない想いに佇む向かいから、黒目がちの瞳が穏やかに父に問いかけた。

「納得して頂いて嬉しいです。では英二くんを、息子に頂いても、よろしいんですか?」
「英二が選ぶなら、私には止められません、」

明快に答えて父が、英二に笑いかけてくれる。
そして視線を目の前の女性に戻すと、父は言ってくれた。

「この息子は私に似て、気難しく頑固です。一度心に決めたなら動かせない、生涯かけて貫くでしょう。
この息子が伴侶と家を自分で選んだこと、それは息子にとって誇りでもあるはずです。だから息子の誇りを私は大切にしたいです、」

きれいに笑って父は、再び手を畳みについた。
そして黒目がちの瞳を真直ぐに見て、きれいな低い声が微笑んだ。

「息子が選んだのは山と警察官の道です、どちらも危険と隣り合わせの厳しい場所です。
この危険のために息子は既にご迷惑をかけました。きっとまた、ご迷惑をお掛けするでしょう、それでもどうぞ、息子をお願い致します」

端正に腰を折って父は手をついて辞儀をおくってくれた。
そんな父の姿が温かい、素直に微笑んで英二も座布団から膝すべらして父の隣に座った。
そして真直ぐに周太の母を見つめて、きれいに英二は笑いかけた。

「お母さん、改めて言わせてください。父が言う通り俺はご迷惑を掛けます、それでも周太と家の為に力を尽くします。
必ず周太を笑顔にします、決して周太を独りにしません。だから、お母さんの息子にして下さい、この家を俺に守らせてください、」

父の隣に並んで英二は畳に手をついて、端正に礼をした。
そして並んでくれる父への想いに心うち微笑んだ。

― ありがとう、父さん、

共に下げた頭に感謝の想いがふれてくる。
こうして父と並んで頭を下げられる、これは幸せな事なのだと今は解かる。
昨日に見つめたこの家の哀しみは、父と息子たちの哀しい連鎖の存在を予感させていく。
この哀しみの連鎖にはない自分たち父子の幸せが、当たり前では無いことが肚の底からもう解る。

― あなたも、こんなふうにしたかった。そうでしょう?

そっとシャツの胸もと眠る合鍵に、英二は微笑んだ。
そんな想いに父と並んで下げる頭上、やわらかなトーンが明るく声を掛けてくれた。

「では遠慮なく、英二さんを頂戴いたします。どうぞ、こちらこそ、お願い致します」

そう言って彼女も座布団から座をずらし、畳に手をついてくれた。
差向い頭を下げながら、そっと英二は心映る面影に微笑んだ。

―周太、認めて貰えたよ?

こんなふうに、自分の親が認めてくれること。
望んでいなかった訳じゃない、けれど無理だろうと諦めていた。
それなのに父は自分の為に謝罪と挨拶を述べて、頭まで下げてくれている。
この切欠を作ってくれたのは、吉村医師の病院で母と出会った周太の、母に対する真直ぐな言葉と態度。
あのときに母のなかで何かが変わった、その母を見て父は覚悟を固めて、認めてくれた。

―認めて貰えたよ、君の優しい心のお蔭で…周太、

どうして君は、こんなに綺麗なんだろう?
こんなふうに自分が愛するひとは、やさしい純粋な心のままに自分の願いを叶えてくれる。
もう諦めかけていた親からの温もりが幸せで、この幸せを与えてくれた恋人が愛しい。

―愛している、君だけを

幸せと愛しい想いに、ひとつ涙が膝にこぼれた。



庭へと降りた父を見送って、周太の母に英二は笑いかけた。

「お母さん、本当に、ありがとうございました、」
「あら、こちらこそよ?」

黒目がちの瞳が愉しげに笑ってくれる。
いつもどおりに明るく穏やかな笑顔が、ほっと余分な力を抜いてくれる。
このひとに自分は一生きっと頭が上がらないな?そう見つめる先で彼女は言ってくれた。

「周太のこと、親子できちんと考えてくれて嬉しかった。お父さま、英二くんとそっくりね?」
「ありがとうございます。そんなに、似ていましたか?」
「ええ、そっくり」

コーヒーをひとくち飲んで、ほっと彼女はひと息ついた。
そして悪戯っ子に瞳が笑んで、可笑しそうに彼女は笑った。

「雰囲気と笑った顔がそっくりよ?英二くんの未来予想図だな、って思ったわ。たぶん、周太も同じこと想ってるわよ?」
「周太も?」

コーヒーカップを受け皿に置いて英二は訊きかえした。
軽く頷いて彼女もカップを戻すと、楽しげに教えてくれた。

「あの子、こっそり英二くんとお父さん見比べて、羞んでいたの。きっと『英二くんが二人みたい』とか考えていたわよ?」

そんなふうに恥ずかしがってくれるのは何だか嬉しい。
いつも気恥ずかしげにしている恋人を想う英二に、周太の母は軽やかに笑いかけてくれた。

「英二くん、お見送りに行くでしょう?その間に私、周太と少し話したら出掛けるから。
留守番と周太をよろしくね。あの子きっと、うんと緊張しているわ。だから、いっぱい笑わせて、甘やかしてあげて?」

「はい、笑わせて、甘えて貰います」

こういうお願いは嬉しいな?
そう笑った英二に、彼女は愉しげに言ってくれた。

「あとね、私の部屋に風呂敷包みがあるの。それは英二くんへのプレゼントが入っているから、周太に言って受けとってね?」
「プレゼント?」

なんだろうな?
そう見た英二に彼女は、嬉しそうに謎かけをした。

「きっとね、周太も喜ぶと想うわ?夜にでも忘れずに、あの子に言ってね、」

そんなふうに微笑んで彼女は、のんびりコーヒーを啜りこんだ。

和やかに湯原家を辞した父と姉を駅に送る道、父はすこし後から歩いてくれる。
きっと姉と話す時間を作ってくれているな?そんな父の気遣いに並んで歩く道、姉が英二に笑いかけた。

「周太くん、また綺麗になったわ。ついこの間、奥多摩で会ったばかりなのに?ちょっと驚いちゃった、恋する力?」
「だったら光栄だな、俺、」

心からの本音に英二は微笑んだ、確かに周太は綺麗になったろう。
一昨日の朝にも思ったし、真昼の夢に目覚めた時には響くよう見惚れた。
いつも周太は英二に抱かれるたびごとに、花がほころぶよう美しくなっていく。
だから今日、抱かれ微睡んだすぐ茶席に侍った周太は、本当に菫のよう美しいと見つめてしまった。

もっと見つめたい、早く帰りたいな?

つい、父と姉には失礼なことを考えてしまう。
さっきの父との席での緊張感に、余計にいま周太が恋しくて仕方ない。
こんなんで自分は大丈夫かな?そんな英二に姉は、周太から贈られた花束を見せて微笑んだ。

「こんなに綺麗なブーケを、自分で育てた花で作ってくれる子って、貴重よ?大事にしなさいね、あんた、」
「うん、大事にする。ありがとう、」

ほんとうに姉の言う通りだな?素直に微笑んで頷いた。
そして駅まで着いた時、すこし後ろを歩いていた父と向き合って英二は頭を下げた。

「父さん、ありがとうございました、」

母のことを謝罪してくれた潔さが、頼もしかった。
自分の責任を父に負われたことは男として悔しい、けれど子として嬉しかった。
そして何よりも、周太のことを真直ぐ見て、率直に認めてくれたことが嬉しかった。
この全てへの感謝だと父ならきっとわかるだろう、そんな信頼と頭を上げると父は笑ってくれた。

「こっちこそ誇らしかったよ、おまえみたいな息子と頭を下げられて。本当に綺麗な人を見つけたな、おまえは。大事にしなさい、」

すべての父の言葉がありがたくて幸せだと、素直に喜べる。
この父の息子で良かった、心からの感謝に英二はきれいに笑った。

「うん、ありがとう。大事にするよ、」

ありがとう、心から。
目でも告げた想いに父が、すこし感心したように笑ってくれた。

「本当に良い顔になったな、英二。なかなか機会が出来ないままだが、近々飲もう。周太くんも一緒にな、」

きれいに笑って父は改札口を通って行った。
そんな父に微笑んで、姉は英二に言ってくれた。

「英二、言わなくても解かってると思うけど。お母さんはまだ、時間がかかるわ。でも、良い方に変わって行っていると思う」
「良かった、でも姉ちゃん、いろいろ迷惑をかけて、ごめん」

率直に英二は姉に頭を下げた。
この姉には実家をすべて丸投げしている、その申し訳なさを見つめる英二に、姉はやわらかに微笑んだ、

「そうね、いろいろね?だから今度、ご馳走してね?周太くんも一緒にね。じゃあ英二、手続きとったら教えてね?」
「うん、連絡する。ありがとう、」

またねと花束を軽く振った姉に、英二も手を挙げて微笑んだ。
そうして父と姉は世田谷の家に帰って行った。



かちり、玄関扉の鍵がひらかれる音に英二は微笑んだ。
この合鍵で、この家に帰ってこられた。この権利を自分は認められた、この幸せが嬉しい。
そして今から2つの夜と2つの朝を、愛するひとと見つめることが出来る。
素直な喜びに開いた扉のむこう、薄紫の衿匂いやかな袴姿が佇んでいた。

「周太、」
「おかえりなさい、英二、…待ってたよ?」

呼んだ愛しい名前に、無垢の微笑がそっと抱きついてくれる。
このひとを失うかもしれない、そう覚悟した瞬間この身を裂いた痛切が恋心を起こさせる。
いまが幸せで離したくない、自分の幸せを抱きしめて英二は微笑んだ。

「周太、ただいま。逢いたくて、急いで帰ってきたよ?」

やわらかな唇にキスでふれる。
ふれる温もりに融けそうで心侵されてしまう、このまま抱いてしまいそう。
真昼に抱いたばかりで?そんな自問に心宥めながら、ゆっくり離れると瞳のぞきこんで笑いかけた。

「周太、オレンジのケーキを買ってきたんだ。今夜のデザートになるかな、」
「ん、ありがとう…このお店、覚えててくれたんだ?」
「うん、同じ名前だな?って思ってさ、覗いてみたら同じケーキがあったから、」

心から嬉しそうに微笑んで、箱を受けとってくれる。
この笑顔を見たかった、逢いたかった、いま逢えて嬉しいな?
そんな想いにミリタリーコートを脱ぎながら、英二は周太に笑いかけた。

「お母さん、もう出掛けたんだ?」
「ん、さっき…英二は、知っていた?お母さん、旅行に行くって、」
「うん、昨日から楽しみにしていたんだ、お母さん。でも、周太に怒られるかな?って心配してたよ、」

すこし拗ねたんだろうな?そんな様子を見とって英二は微笑んだ。
見抜かれて気恥ずかしげに首筋そめながら、ちいさく周太は笑ってくれた。

「…あ、そんなこと、言ってたんだ?…恥ずかしいな、」
「恥ずかしくないよ、周太?それだけ周太が、お母さんを大切にしているからだろ?」

そんな彼女はきっと、英二と周太を2人きりにしようと気遣ってくれている。
今日の対面で英二も周太も緊張するだろうと、だから2人きり寛いで寄添える時間を贈ってくれた。
こんな彼女には頭が上がらない、この幸せに微笑んだ英二に周太は言ってくれた。

「ありがとう、英二。…英二のこともね、すごく大切だよ?母と比べられない位に、」

この言葉がいま、どれだけ自分には宝の呪文に聴こえるだろう?
見つめて、腕を伸ばし淡青の肩くるんで抱きよせて、幸せに英二は微笑んだ。

「うれしいよ、周太?…俺はね、いちばん周太が大切だ、なによりもね、」
「ん、…いちばん、うれしいな?俺もね、…恋して、愛しているのは…英二だけだよ?」

抱きしめる人の衿元から薄紅の肌が咲いていく。
薄紫の衿に映える桜いろ愛しくて、見惚れるまま英二は困りながら笑った。

「ありがとう、嬉しいな…そして困るよ、周太」

言葉と一緒にキスを重ねて、求めたい想いを口移しする。
黄昏しのばせる陽がふるリビングで幸せなキス、そっと離れると周太は微笑んだ。

「ね、英二?夕飯、何時にする?…なにが食べたいとか、あるかな?献立次第で、買物、行くけど、」

今日は心が昂揚している。
雪崩からの生還、過去に眠る哀しみの痛切、美しかった馨の恋の悲愁。
この3つに「別離の覚悟と赦された喜び」が加わって今、いつにない高揚感が強い。このままだと歯止めが効かない。
だからアルコールで少し鎮めたい、それに今日を祝福したい。そんな想いに英二はリクエストした。

「そうだな、今夜はゆっくり一緒に酒を飲みたいな。それに合うもの、ってお願いできる?」
「ん、できるよ?…お酒は、なに飲む?それに合わせて、献立考えるけど、」

いつもなら日本酒かビール。
けれど今日はささやかでも祝い事をしたい、英二は華やいだ酒を提案した。

「たまには周太、ワインとか飲んでみる?甘めのなら周太でも、飲みやすいと思うけど、」
「ん、英二が選んでくれるんなら、…じゃあ買い物、行った方が良いね?」
「そうだね。でも無理しないでいいから、周太?疲れただろ、今日は、」

昨日は当番勤務、それで今日の対面の緊張感。
きっと疲れているだろうな?そう見た恋人は頬まで薄紅にそめながら幸せに微笑んだ。

「平気、さっき、ひるねしたからだいじょうぶ…だよ?」

午睡「昼寝」にこもる、思いが嬉しい。
ありふれた会話、けれど心が弾んでしまう、得難いと知っているから。
だって今から3日を共に生活できる、ふたりきり見つめ合う2晩を過ごせる。
こんなふうに、本当に2人きり数日を過ごすのは初めてのこと。そう想うと嬉しくて、面映ゆい幸せが温かい。

…この幸せだけ見つめて、3日を過ごしたい

この先のことも今は考えないで「今」与えられた幸せに笑っていたい。
この幸せの喜びを見つめて、この先見つめる哀しい真実にも折れない柱を心に入れたい。
この想いに微笑んで英二は、きれいな笑顔と婚約者に告げた。

「こんな会話、ほんとうに夫婦みたいだね、周太?」

恥ずかしい、けど、すごくうれしい。
そう黒目がちの瞳が微笑みながら、薄紫の衿元伸びやかな項が、あざやかな紅に染まる。
あわい翡翠いろの着物にくるむ肌が衿からのぞく。その肌に視線を落としてしまう。
愛しくて英二は薄緑色の肩を抱きしめ微笑んだ。

「はにかんでるんだ、周太?ほんと可愛いな、俺の花嫁さんは…困るよ、」

最後の言葉はつぶやくように、うなじにキスでふれた。
唇ふれる肌のこまやかさに熱がまた昇りだす、このまま抱きしめて夢に溺れこみたい、そんな想いに囚われかける。

「あの、英二…あんまりまっかになるとこまるから…かいものいけなくなるから…ね?」
「周太、俺の方がいま、困ってるから…可愛すぎるよ、周太、」

首筋のキスが離せないまま、恋人の体を英二は抱き上げた。
あわい翠の袖がひるがえる様が美しい、愛しい袴姿を抱き上げたままソファに座りこんで、幸せに英二は微笑んだ。

「着物、本当に似合うね、周太?きれいで可愛い、…父さんにも言われたよ、俺、」
「お父さんに?…」
「うん、きれいな人だな、大事にしろよ。そう言ってくれたよ?近々、ぜひ飲みに行こうだってさ、」
「ん、そうなの?…はずかしいな、」

膝に抱えたまま話す想いの真中で、首筋から背にそまる薄紅が襟足にあざやいでいる。
初々しい恥じらいが可憐で、覗きこんだ黒目がちの瞳が愛しい。
恥じらい奥ゆかしい恋人が嬉しくて英二は笑いかけた。

「買物、周太は着物で行く?」

周太の和服姿が自分は好きだ、一緒に歩いてみたいなとも思う。
けれど少し考えて周太は小さく首を振った。

「ん、洋服に着替えてから行こうかな?…料理の時とか、楽だから、」

着替え。

この単語にまた反応してしまう。
一昨夜の甘い罪悪感の幸福に惑うまま、英二は言ってしまった。

「着物、着替える所見せて?」
「…え、」

黒目がちの瞳が大きくなって驚くまま見つめてくれる。
それでも英二は微笑んで、そっと押してみた。

「着物の脱ぎ方とか、畳み方、俺よく知らないから。教えて?」

教えて。この単語に周太は弱い。
こんな弱みを盾に自分はまた、恋人の恥じらいを見ようとしている。
こんな自分はやっぱり変態?ちょっと自嘲を楽しみながら見つめる先で、赤い頬のまま覚悟した顔が頷いてくれた。

「ん、…おしえる、よ?…」

お許しが出た。
自分の恋の主人の赦しが嬉しい、嬉しいまま英二は袴姿を抱き上げた。

「周太の部屋で良いの?」
「あ、…はい、」

抱き上げて階段を昇って行く。
その懐で恥じらいが薄紅あざやかに途惑っている。
こんな初心なところが自分は好きだ、好きな想い抱きしめて英二は部屋の扉を開いた。
そっとベッドに腰掛けさせて降ろすと、きれいに英二は笑いかけた。

「手伝う事とかって、ある?」
「ううん、…だいじょうぶです、ひとりでできます…」

薄紅の頬すこし俯けて白足袋を脱ぐと、袴姿が立ち上がる。
黒目がちの瞳が英二を見、そして指を袴の紐にかけた。

しゅっ、

潔く袴の紐がとかれて、紫紺の衣が落ちていく。
あわい翡翠の衣がとけた紫紺から現れて、藍織りこんだ白い帯が鮮やかに映えた。
細やかな腰のラインに見惚れてしまう、その視線の先で帯の結び目がとかれた。

ぱらり、ほどけた帯は掌に巻き取られていく。
手早く袴を畳んで帯とまとめると、ためらうよう指が腰ひもに掛けられた。
その指がかすかに震えている。

…はずかしい、

そんな心の声が、ふるえる指先に伏せた睫に映りこんでいる。
それでも自分の願いに応えようとしてくれる婚約者が愛しい、愛しい想いに英二は微笑んだ。

「周太?…無理、しなくていいよ?俺、階下で待ってるな、」

微笑んで立ち上がると、英二は扉の把手に長い指を伸ばした。
けれど扉を開けようとした背中に、やわらかな温もりふれて英二は抱きしめられた。

「待って、…いかないで、お願い、」

お願い、って言ってくれるの?
期待にふり向く肩越しに、やわらかな黒髪がふれている。
素直に把手から指を離すと英二は、おだやかに訊いた。

「周太、ここに居ればいい?」
「ん、…いて?ひとりにしないで?…ね、」

ねだってくれながら微笑んで、そっと離れると周太はすこし背を向けた。
あわい翡翠色の衣を見つめる先で、腰を結わえる布紐が、さらり解かれて床に零れた。

…あ、

翡翠の色が肩からこぼれ落ちる。
そのしたから藤色ゆかしい衣が現れて、その腰を結う紐もとかれて落ちた。
なめらかに藤色は素肌すべり落ちて、英二の心も墜とされた。

「…周太、」

露な素肌を抱きしめて唇よせる。
ふれる肌理のなめらかさに心が惑う、温もりの香が心を撫でる。
床に散る藤と翡翠の彩から抱き上げて、真白なベッドに埋めて抱きしめた。

「…きれいだ、周太、」

鎖骨うかぶ肌に唇をおとす。
おとされた唇に淑やかな恥じらいが香って、黒目がちの瞳が困惑した。

「待って、英二?…あの、かいもの、いかないと、ね?」
「うん、行くよ?でも5分だけ、ふれさせて?…お願いだ、」

お願いの言葉をキスで唇にとかして、瞳見つめ合う。
その瞳にYesの色を見て、幸せに微笑んで英二は5分の甘い温もりに酔いしれた。





(to be continued)

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第41話 久春act.4―side story「陽はまた昇る」

2012-04-26 23:48:06 | 陽はまた昇るside story
想い、記憶をつなげて



第41話 久春act.4―side story「陽はまた昇る」

出勤する周太の母を見送って、英二は庭の門を閉めた。
朝陽ふる庭は花の香がやわらかい、あたたかな陽射しに目を細めて英二は、飛石から芝生へと降りた。
からん、飛石から降りる下駄が鳴る。静かな庭の樹木たちに谺する、軽い桐の歯音に英二はそっと微笑んだ。

「お父さん?あなたも、こうやって妻を見送ったんですか?」

いま英二が履いている、ふるい桐下駄は周太の父が履いていた。
登山靴と革靴しか持って来なかった英二に、周太の母が「これを履いて」と貸してくれた。

「あのひとが亡くなってからは、周太が履いてくれるのよ。あの子には少し大きいみたい、でもそこが可愛いのよね、」

そんなふうに笑って軽やかに「行ってきます」と出掛けて行った。
この下駄は標準サイズだろう、けれど小柄な周太には少し大きめかもしれない。
あと2時間ほどで帰ってくる面影に微笑んで、桐歯で草花を踏まないよう気遣いながら歩んでいく。
あまい香、清々しい香、深みの慕わしい香。彩どり豊かな花の香が頬撫でる。
やわらかい静謐とあまやかな香が充ちる庭は、どこか奥多摩の森に似ていた。
もう奥多摩の山々が懐かしい、小さく微笑んで英二はつぶやいた。

「…国村、今日のタイムはどのくらいかな?」

国村と岩崎が勤務する日の巡回は、御岳山から大岳山まで国村が1人で担当する。
やはり単独行になれば国村は速い、まさに山を「駆けて」いく。
もとから地元っ子の国村にとって、幼い頃から歩きなれた奥多摩の山々は庭だった。
この季節この天候なら注意すべき地盤の変化は?沢の水量変化は?どんな動物がどこにいる?人出は?
そんなことまで熟知している上に足腰の強健が基礎から違う、だから走っていけるのだろう。

―俺も、ああいうふうになりたいな?

いま卒配から半年になる、この月日を奥多摩の山に泣いて笑って生きていた。
この月日に奥多摩は自分の故郷になった、あの場所にずっと生きたいと願い、分籍後の本籍地に決めている。
だから谷川岳に登る前に帰ってきたとき、周太が言ってくれた言葉は心から嬉しかった。

―…いつか、奥多摩に住みたい…英二と一緒にいたい、この家ごと、奥多摩に連れて行って?…庭ごと移してあげたい。

途方もない、おねだり。
そう周太も解かって言っている、けれど必ず叶えたい。
それでも簡単な「おねだり」ではないことは、この家を見ればわかる。
ふるい擬洋館建築の一軒家、花木を豊かに植え込んだ森の庭。これを全て川崎から奥多摩へと移す。

「見積もりとかって、とれるのかな?」

ひとりごと呟いて英二は微笑んだ。
きっと相当の金額がかかる、そんな予想が容易く出来てしまう。けれど絶対に叶えたい。
本当は、いま既に貯金はそれなりに持っている。子供の頃から小遣いは不自由しなかった、その大半を貯めてきたから。
そのうえ親は勿論、周囲にも一切内緒でしていたバイト代が結構な額になっている。
これに、今後あと何年間給料を貯めたら移築が実現できるだろう?

「…5年、でいけるかな?」

これから自分は昇進しないといけない。
本当は出世には興味が無い、けれど国村のセカンドとして警視庁山岳会の為に昇進する義務がある。
その一歩として初任総合前に卒配期間でありながら、クライマー専門枠の任官が正式決定されて本配属になった。
おかげで給料も上がった、それが周太の「おねだり」のために良かったなと素直に嬉しい。
このことは他の同期に比べて、4ヶ月半ほど先に階梯を一歩早く昇ったことになる。
こんなふうに今後は、同期のなかでも一歩抜きんでていくことが、自分の立場には必要になる。

能力、人格、技術。
この3つを揃えて山ヤと警察官、両方の実績を普通よりハイスピードに示していく。
これが今の英二に課せられた「国村のアンザイレンパートナー」であることの義務と責任。
これが出来なければ山岳経験の浅い英二は、次期山岳会長でエースと言われる国村のセカンドとして認められない。
そうなれば英二を選んだ国村の人望まで傷つけることになる、2人のコンビを認めた山岳会長後藤の立場まで揺るがせてしまう。
だからこそ、今回の遭難事故も隠匿する必要があった。

鋸尾根の鉄梯子で遭った表層雪崩。
不可避の遭難事故だった、誰もがそう言ってくれる。

助かったことは奇跡的、あの状況下での判断力は的確だった、そう言ってくれる。
そう言ったのは、後藤副隊長、岩崎所長、吉村医師、雅人先生。そして国村。
この5人ともが山ヤとして山をよく知っている、なかでも後藤と国村はトップクライマーとして誰より「山」の事は厳しい。
その2人がミスを全く指摘せず「よく助かった、」と号泣してくれた。だから不可避も、判断力の適正も本当なのだろう。
けれど。ふっと英二は苦く微笑んで唇を噛みしめた。

「でも、ミスはミスなんだ…すべてが、俺の責任だ」

すべてが「山」は自己責任。自助と相互扶助が山の峻厳な掟。
そこには如何なる言訳も通用しない、これが出来なければ生命を失うことになる。
だから山ヤは謙虚に努力する、いかなるミスも決して自分に許さず研いて、自らの山に登る自由を守り抜く。
これが全うできたとは、英二は自分に言えない。

そして何よりも、本来は国村の専属レスキューでセカンドの自分が、国村に救助されてしまった。
これはアンザイレンパートナーとしては当然かもしれない、けれど英二は普通のパートナーとは違う。
私的にはこれで良いだろう、けれど公的立場にあってはセカンドとしてブレインと専属レスキューを務めサポートする義務がある。
この義務と責任を自分は示せなかった、それが悔しくてならない。

だから納得している。
この事故に対して批難を指摘されても当然だ。
この事実を警視庁山岳会のメンバーが批難し、英二はセカンドに不適格と判断するのは当たり前、そう納得している。
だからこそ後藤副隊長と国村に「事実の隠匿」をしろと言われた時、自分は頷いた。

偽ることは嫌いだ。
隠匿は、都合よく自分を守るようで嫌だ。
けれど公人の立場において、全てを正直に晒す事は時に罪になる。
そう解っているから自分は国村と後藤に頷いた。

もし英二が事実を周知させたなら、個人としては潔いと言われるだろう。
けれど後藤と国村の立場を壊すことになる。現山岳会長と次期会長を2人とも巻きこんでしまう。
この優秀なトップ2人が諸共に立場を損なえば、警視庁山岳会自体が瓦解する、山ヤの警察官の自由を守る組織が消える。
そうなれば山ヤの警察官たちはどうなる?

山ヤは身体能力が高く判断力に優れた人間が多い、これを都合よく利用したい組織的意図も存在する。
もし利用される任務に追い込まれたら山ヤの警察官は、山に登る自由を失い、山ヤの誇りを壊される可能性がある。
山を愛しながらアスファルトに斃れた、馨と同じように。

「それだけは、できない、な」

ふっと呟いた想いと一緒に、涙ひとつ零れて落ちた。
こんなふうに泣くほど悔しい苦しい、立場に負った責務と自分の心の狭間が痛い。
もう自分は国村のアンザイレンパートナーとして生き始めた。
このことに得た権利と歓び、そして責務と痛みを諸共に掴むことを選んだ。
だから自分は頷いた、すべて自分の責任として、嘘も隠匿も呑みこもうと覚悟した。

きっと自分はこの先も責務と感情の狭間で、いつも泣いて悔しくて苦しむだろう。
けれど、痛みも責務も自分が負うことで、山ヤの警察官達の誇りと尊厳を守る手助けができる。
自分が泣くことで、山ヤの警察官を守れるのなら、それでいい。
自分が憧れ夢見た山ヤの警察官の世界を、守る立場に自分が立てる。
この立場は今の自分には重すぎる、けれど相応しい努力にいつか本物になりたい。

この努力を積める今が誇らしい。
この誇りのためなら自分は泣いても構わない。
こんなふうに考える立場に立つ「今」が幸せだ、そして不思議で英二は微笑んだ。

「こんなふうになるなんて、嘘みたいだな?…」

一年前の自分は大学を卒業したばかり。
まだ要領よく上辺だけ笑って生きていた、誰に本気で向き合うことも無く。
家族ともどこか一線を引いて、友達も本当には信じていない。ただ姉だけには本音も少し話が出来た。
こんな自分は「きれいな人形」生きる誇りも意味も解らないままだった。
けれど、
入校前に警察学校を見に行って、そして周太と校門で出逢った。
あのときは遠野教官にも会った、感じの悪い油断ならない男だなと思った。
そして何よりも、真直ぐ純粋な瞳の周太に、あの瞬間から心奪われていた。
あの瞬間に、自分の運命は決まったのかもしれない。

誇りに生きること、愛するひとを守ること。
この2つを今は抱いて、自分はここに生きている。
この2つの為に自分は、山ヤの警察官として生きる道を選んだ、そして最高クライマーのパートナーになった。
そのために負った責務と権利の大きさが、非現実にすら思える時がある。
まだ警察官になって1年足らず、それでもこれが自分の選んだ現実で、掴んだ居場所になっている。
そうして今この庭で、この家と庭と、そして家族たちの想いを守る方法を考えている。

1年前の自分からしたら「嘘だろう?」と笑うだろう。けれど現実に今、自分はここに立って思案している。
そして心から今の現実が愛しい、こうして泣くことがあっても後悔なんて出来ない。
1年前、あの瞬間に周太に恋をした、あの春の真昼の瞬間がこの現実に繋がった。

「…あ、」

ふっと1年前の記憶が心にふれて声が出た。
いま見上げている薄紅の花がほころびだす梢、あれは桜だろう。
あのとき、周太に初めて出逢った時も、桜が咲いていなかっただろうか?

「そうだ…校門には無かったけれど、」

春3月。周太と英二が出逢ったのも、桜が咲きだす季節だった。
染井吉野はまばらだった、けれど今見あげている梢と似た桜を見た記憶がある。
そんな記憶の甦りに、昨夜に聴いた恋の物語がふれて英二は微笑んだ。

「お父さん。あなたは、夜桜の下で、恋と出逢ったんですね…」

馨と、最愛のひとの出逢いの物語は、桜の物語だった。
春の夜に桜の下で恋に墜ち、桜の季節に逝ってしまった恋と愛。
ふたりの出逢いは満開の夜桜に祝福されていた、けれど終わりも万朶の桜の下だった。

あの春の夜、馨が夜桜を見る約束を妻としていたこと。
その約束に寄せられた馨の、唯ひとつの恋に抱く想いが温かい。
それなのに、最愛の約束の夜に馨は、死を選んでしまった。
幸せな約束の夜、それを刹那の瞬間に贖罪の夜へと変えてしまった。
それほどまでに深い孤独な罪悪感を、馨は抱き込んで独り誰にも言えないまま逝った。
哀しい運命の下に唯ひとつ抱いた光明、輝いた恋の幸福すらも撃ち砕かせて、約束の夜桜と一緒に散ってしまった。

―…優しいあの人は、一瞬のためらいに撃たれたのだと。ずっと自分が、そうしてきたように

あの春の夜、彼女は夫の死の意味に気づいていた。
射撃の名手で運動神経も優れた馨が、なぜ素人に易々と狙撃されたのか。その理由を彼女は理解している。
そんな馨の哀しみを抱きとめて、ふたりの恋を初めて繋いだこの家から、彼女は夫の葬送を出した。
そしてこの家で彼女は13年間、ずっと夜桜を見つめて馨の恋と哀しみを抱きしめていた。

―…彼の戦う世界には、私は入りこんで寄り添えなかった

周太の誕生日に聴いた、置き去りにされた彼女の哀しみと罪悪感。
彼女にとって、息子の周太が警察官の道を選んだことは、どれだけの苦しみなのか?
夫が彼女との約束を捨てて贖罪を選んでしまった、その哀しい無力感に再び晒されただろう。
最愛の恋人は去った、そして最愛の息子まで同じ方へ行こうとする。
この哀しみに彼女は、警察学校に行くと告げた息子に泣いて縋った。
それでも微笑んで向き合っていく凛とした姿は美しい。
その姿が愛する面影そっくりで慕わしい、慕わしい想いと英二は微笑んだ。

「…ほんとうに、きれいな親子だな、」

凛冽なほど潔い、真直ぐに純粋な心。
心うつしだす黒目がちの瞳はおだやかに輝いて、端正な姿勢はまばゆい。
そんな母と息子はよく似て、けれど対照きわだつ面を持つ。
その対照的な部分がきっと、父の馨ゆずりの面なのだろう。
そんな息子に最愛の面影を見つめて、彼女は心から幸せに微笑んでいる。
微笑む彼女と笑う息子の姿はきれいで、ずっと見つめていたい願いに今、自分はここにいる。

守ってあげたい、守らせてほしい。

あの美しい母子の傍にいたい、この願いがあらためて起きあがる。
だから願いを叶えたい、この家ごと奥多摩に移って家族3人静かに生きたい。
その為に自分は、この家に絡みつく哀しみの全てを断ち切ってしまいたい。
だから見つめなくてはいけない。

“ なぜ馨は死なねばならなかったのか? ”

この謎に纏わる全てを見つける。
その為には嘘も隠匿も自分は呑みこんでしまう、罪だって犯すだろう。
だから生還してすぐに自分は、愛するひとにすら嘘を吐いた。
この嘘は必要、けれど愛するひとを欺くことは、どんな理由でも哀しい。
けれどこの哀しみすら自分は喜んで抱きたい、静かな覚悟に眺めた先の草花に、ふっと英二は微笑んだ。

「野すみれ、だったかな?」

あわい紫色の可憐な花は、周太が好む花のひとつ。
桃の節句の日に周太の涙を止めてくれた花、可憐な花姿が恋人の奥ゆかしい透明な佇まいを想わせる。
あのとき周太は、この家に伝わる料理のことを話しながら涙をこぼした。

―…お祝い事は白玉を紅白にして、弔事だと、うす緑と、白で…
 みどりのはね、この庭の蓬をすこし摘んで、白玉に色をつけるんだ、…
 それで、父が亡くなってからは、まいとし、蓬を摘んで、

最愛の約束の夜は贖罪の夜に変わり、馨は醒めることない眠りに消えた。
その哀しみの翌朝に、馨の妻と子はこの庭で、弔いの蓬を摘んだ。
そのときの妻の想いは、それを見つめる息子の哀しみは、どんなに深かっただろう?
その深みが哀しい痛い、だからこそ尚更に母子を守りたい笑わせたい。

そして、愛したい。

最愛の妻と子を遺して逝った馨の、真実のむこうにある想いが今はわかる。
この胸に下げた馨の合鍵に籠る「帰りたい」想いと心深い愛情が自分には解る。
この想いを、あの母子に教えてあげたい、伝えたい。

「だから、傍にいたい…守っていきたい、愛したい…」

この母子の哀しみの原因はなんだ?
なぜ馨は殉職する運命になった?この謎の原点から断ち切りたい。
そんな想いに周太が告げた、この家の想いの謎の1つが蘇える。

―…ほんとうに奥多摩にね、庭ごと移してあげたい。きっと、この庭を作った祖父は、奥多摩に憧れていたと思う

なぜ周太の祖父は、晉は奥多摩に引っ越さなかったのだろう?
森を庭に映すほど愛したのなら転居も普通は考える、晉の立場と財力なら不可能では無かった筈。
ならばなぜ川崎に住み続けた?この謎に潜む推測が本当は昨夜から心に蟠っている。
この蟠っている推測が現実であることが怖い。
けれど、これが現実だとしたら、全ての謎が一本のザイルに繋がれ引き摺りだせる。
だから確信してしまう、この哀しみの原点を多分、自分は知っただろう。

「だからこそ、お祖父さん…あなたの願いも、叶えたいです、俺は…あなたの孫の為に、」

ほっと息吐いて微笑むと、英二は玄関へと踵を返した。
ポーチへと進む下駄ばきの足に、ふわり温かな光の翳が射す。
なにげなく翳を見あげると、あざやかな金色がやわらかに飛び込んだ。

ちいさな黄色の砂糖菓子のような花が、豊かな房にゆれていく。
やさしい春の朝陽ふるなか光を呼吸するよう咲く花は、可憐で明るく、奥ゆかしい。
可愛らしい花を支える葉もレースのように繊細で、翡翠混じりの緑が美しい。

「きれいだな、」

この花の名前は、なんだろう?
もうじき帰ってくるだろう周太に訊いてみよう、そして1つ花の名前を憶えて喜ばせたいな。
花を愛する恋人を想い微笑んだとき、昨日の朝の記憶が英二に蘇った。

まだ夜が明けきらない菫いろの空の、静かな時間。
おだやかな眠りの支配するなか、自分は目覚めて恋人を抱いた。
深い眠りのなか微笑んだ無垢の誘惑に、喜んで自ら囚われ素肌を重ねた。
想いのまま深く繋ぎとめて、眠るひとの温もりに酔いしれ甘い罪悪感に溺れこんだ。
あの時間に自分は罪と幸福をひとつに抱いて「愛している」と囁いた。

あの罪に溺れる幸せが、もうすぐ帰ってきてくれる?

この甘い罪悪感と優しい温もりの感覚が、昨日の午後から見つめた哀しい過去と混じりあう。
幸福の罪悪感と哀嘆の罪が重なっていく、この矛盾が余計に恋い慕わせる。
この2つながらに融け合っている、あの純粋無垢な瞳が愛おしい。

あの無垢な微笑をどうか、美しいまま清らかなままに守らせてほしい

この願いの痛切が心に沁み透っていく。
見つけた哀嘆の過去と罪の重さは、身代わりに背負える甘い喜びになっていく。
あの愛するひとの為に自分が背負う、そうして恋の絆をひとつ手に入れられる。
この想いの絆の為なら罪も嘘も、すべて喜んで背負い呑みこみたい。
あの瞳のためなら、笑顔が見られるなら、全てが喜びだから。

「周太、早く帰っておいで?…君を、抱きたい、愛したいよ…」

光のような花に微笑んで、英二は庭の方を振向いた。
からり下駄を鳴かせてポーチから芝生へ降りると、やさしい薄紫の花の叢に屈みこむ。
可憐な野すみれの花は、かすかな春の朝風にゆれている。ゆれる奥ゆかしい姿に微笑んで、長い指を伸ばし一輪を手折った。

―似ているね、君と?

可憐に折れそうな華奢な花、けれど野外に咲いて佇んでいる。
どこか凛として純潔な花の姿は奥多摩の山野にも咲いている、あの寒さ厳しい地にもこの花は春を告げる。
そんな勁い純潔と可憐が慕わしい。愛しい婚約者の面影を花に微笑んで、英二は立ち上がった。
この花を桃の節句の時も手折って周太に贈った、あのときの笑顔がうれしかった。
だから今日も活けておいたら喜んでくれる?想いに微笑んで、ちいさな花瓶の在処を考えながら玄関の扉を開いた。

洗面室の戸棚から、ちいさな花瓶を見つけて英二は一輪の菫を活けた。
やさしい薄紫の繊細な花姿が、愛しい面影に重なってしまう。
ほっと溜息と微笑んで英二は、こまやかな白い小瓶を持って周太の部屋に入った。

どこに置こう?

すこし考えた視界にベッドのサイドテーブルが映りこんだ。
昨夜はこのベッドに独り眠って寂しかった、あの言いようのない哀しみがふっと甦る。
こんな自分は本当に恋狂い?なんだか可笑しくて、ひとり笑いながら小瓶をサイドテーブルに置いた。
真白なリネンのベッドに白い小瓶が合って、薄紫の花を映えさせてくれる。
これだったら喜んでくれるかな?そんな想いと見たクライマーウォッチは9時半を示すところだった。

「…周太、」

そろそろ帰ってくる時間だよ?
待ち遠しい想いにつぶやいた名前の向うで、かすかに足音が聞えた。

「…っ、」

この足音は知っている。
知っている足音に窓辺に寄ると、ライトグレーの軽いコート姿が通りを歩いてくる。
あの明るいグレーは知っている、自分が贈ったショールカラーコートの色のはず。
あのコート姿はきっと、この家の門に来る。そう見ている先で小柄なライトグレーが門の前に止まった。
やわらかそうな黒髪の頭は、きっと間違いない。

「周太、」

うれしくて微笑んで、英二は部屋から廊下に出た。
階段を降り、玄関ホールに出て、ふるい下駄の鼻緒に足をとおす。
そして鍵を開いて英二は、明るい庭先に降り立った。
立った頭上に豊かな黄金の花枝が、やさしい朝陽に揺れている。
光充ちる花翳のむこう、小柄なコート姿がやさしい薄紅いろの花を抱えて佇んでいる。
逢いたかったひとが帰ってきてくれた、春告げる花の庭に佇むひとへ英二は微笑んだ。

「おかえり、周太。おはよう、」

きれいな微笑が幸せに咲いて英二を見つめてくれる。
およそ20時間、離れていた20時間を越えて愛しい微笑が目の前に立ってくれた。
この笑顔に逢えて嬉しい、幸せな想いに見つめる英二に、優しいトーンの声が言ってくれた。

「ただいま、英二。おはようございます…花婿さん?」

花婿、そう言ってくれる?
この呼名は、世界で唯ひとり、花嫁の独占めが許してもらえる名前。
これからの時間を独占めさせてもらえるの?うれしい期待が幸せで英二は笑った。

「こんなふうに言われたら、幸せすぎるよ?周太、」

近づきたい、この想いに正直な長い腕を伸ばしてしまう。
からんと下駄の歯ひとつ鳴って、腕のなかに愛しい温もりが納められる。
見あげてくれる黒目がちの瞳が愛しい、昨日ホームで別れた瞬間からの願いが心締め上げていく。
いますぐ抱きたいよ?願いの切ない甘さを抱いて英二は笑いかけた。

「おかえり、俺の花嫁さん?待ってたよ、逢いたかった…周太、」

告げる想いをのせた唇を、逢いたかった唇に重ねた。
ふれるだけのキス、それでも温もりが愛しくて幸せが心充たしてくれる。
かすかなオレンジの甘い香が優しい、優しさに溺れこんで、このまま放せなくなりそう。
それでも静かに離れて、英二は微笑んだ。

「周太、今朝もはちみつオレンジのど飴、食べたんだ?」
「ん、電車に乗ってる途中で…あまいもの、食べたくなって、」

キスから離れた唇が、気恥ずかしげに微笑んでくれる。
この微笑が嬉しい、周太が下げているエコバックを受けとって、空いた右掌を繋いだ。
もう家は目の前、それでも体の一部にふれていたい。
こんな自分は本当に「周太無し」は無理だな?すこし自分に困りながら英二は思い出した質問をした。

「周太?この黄色の花は、なんていう名前?」

訊かれた質問に黒目がちの瞳が大きくなる。
なんか変なことを訊いたかな?そう見ている先で首筋から頬まで綺麗な薄紅に染まっていく。
ずいぶん気恥ずかしげな様子、それでも周太は微笑んで一言そっと答えてくれた。

「ん、…ミモザ、だよ?」

『ミモザ』

欧州で結婚を言祝ぐときに飲まれる、明るい祝いの酒。
シャンパンとオレンジジュースをカクテルした、香り高い甘さに華やいだ酒。
この酒は名の由来が黄色い花だとは知っていた、けれど花が咲く姿を実際に見たのは初めてだった。
この初めてが幸せで嬉しくて、英二は大好きな瞳へと微笑んだ。

「これがミモザなんだね、周太?あの酒の花なんだ、初めて見たよ。ね、俺の花嫁さん…」

笑いかけ抱きよせて、英二は大切な婚約者にキスをした。
キスからオレンジの香がやさしく自分の唇に零れてくれる、この香が約束の酒と同じで幸せが甘い。
この甘いキスが自分に罪悪感を昨日は作らせた、そんな責任転嫁も幸せで愉快になれる。
この罪悪感を今日もたくさん味わいたいな?あまやかな罪人に堕ちたい望みを抱いて英二は笑った。

「周太?今日から3日間一緒だね、たくさんキスさせてくれる?」
「え、…ん、そんなしつもん恥ずかしいよ?でも…はい、」

真赤に頬染めながら素直に頷いてくれる。
そんな様子につい熱っぽさがこみあげてしまう、いますぐ抱きしめて望みを遂げたくなる。
こんな昂揚は今まで知らない、この原因はきっと3つ重なっている所為だろう。
いつも周太には微熱のような想いを見つめてしまう、けれど今は更に重症だ。

「英二?…どうしたの、ぼんやりしてる、」

やさしい声に我に返って英二は抱きしめている婚約者を見つめた。
どうしたの?と黒目がちの瞳がすこし心配げに見上げてくれる。
いま自分は怪我人で頭に包帯を巻いているから、心配をかけやすかったな?
そんなことを思い出しながら英二は笑いかけた。

「大丈夫だよ、周太?あんまり周太が好きで、見惚れてた、」
「…そういうのはずかしいから…でも、うれしいよ?あ、朝ごはん食べよう?」
「うん、食べたいな、周太の朝飯、」

答えながらもつい、白いニットの胸元やコートの衿元を見てしまう。
服からのぞく肌の艶に惹かれる目線に我ながら困る、ちょっと心に溜息吐いて英二は自問した。

―もう俺、国村にエロおやじ、って言えないな?こんな時にまで、なんてさ、

今日は午後から自分の父と姉が、この家に訪問する。
この訪問は奥多摩から帰ってきた夜に急遽、今日の午後と決められた。
その電話をこの家から姉に架けたとき、はっきりと告げられている。

「お伺いする意味はね?宮田の家が英二たちの婚約に承諾する、ご挨拶の意味だから」

意外な展開に驚かされた。
ずっと姉には相談をしてきている、けれど父とは卒業式の翌日に話して以来は時間を作れていない。
まして母に至っては、ついこの間ようやく周太のことを認め始めたばかりでいる。
それなのに急展開すぎるだろう?そう思ったけれど、姉にダメ押しをされた。

「あのね?あんたみたいな危険を愛する男に、きちんと手綱つけて向き合ってくれる相手は貴重よ。
しかも英二は恋愛不感症じゃない?そんな英二が、こんなに惚れ込める相手なんて、もっといないわよ?
その辺もお父さん、本当は英二のこと良く解かっているのよ?お母さんも変わってきたし。あんたも覚悟しときなさいよ、」

こんな一大事を控えているのに今の自分は、この恋人との夜の時間を考えてしまう。
こんなに求めたい願いを抱いている自分は、これから周太と過ごす3日間大丈夫だろうか?
こんなに今から熱っぽくて、大丈夫かな?そんな心配をしながら英二は玄関を開いた。



熱いコーヒーを啜りこんで英二は微笑んだ。
丁寧に豆を挽いてサイフォンで淹れてくれた、あまやかに芳しい香が嬉しい。
こんなふうに周太が淹れるコーヒーは、高級ホテルのコーヒーよりずっと美味しい。
そして買ってきてくれたクロワッサンが嬉しい、このクロワッサンには懐かしい思い出が温かい。
あの朝のことを想って買ってきてくれたのかな?それなら嬉しい、あの朝に今日を重ねてくれたら幸せだろうと想う。
この食卓の幸せに微笑んで温かいフォークを付けていると、周太が口を開いた。

「聴いて、英二?…瀬尾はね、5年後に警察官を辞めるんだ、」
「瀬尾が?」

似顔絵捜査官になりたい、その夢に誇らかだった笑顔が懐かしい。
あの笑顔の瀬尾がなぜ?どういうことだろう、目で訊いた英二に周太は頷いてくれた。

「瀬尾の家、会社を経営しているんだ。でも、跡取りだった叔父さんが亡くなって…それで、瀬尾が代わりに継ぐんだって、」

英二の実家がある成城に瀬尾の実家もある。
遊びに行ったことは無いけれど、たぶんあの大きな家だろうなと見当はつく。
あの家の息子なら相当の責任と立場があるだろうとは思っていた、けれどこんな形で負う責任は辛い。
溜息吐く想いで英二は相槌を打った。

「経営者だって聴いたことはあったけど、」

瀬尾は心から、警察官の仕事に夢と誇りを抱いている。
そのために努力を重ねる瀬尾は努力家の周太とは気が合うのだろう、ふたりは警察学校でも親しかった。
そんな努力家の瀬尾にとって辞職は辛くない筈が無い、この話を人にすることも辛いだろう。
たぶん限られた相手にしか話さないだろうな?英二は訊いてみた。

「この話、誰が他に知ってるんだ?」
「まだ、俺だけなんだ…でも瀬尾、英二には話していいよ、って。こんど、関根も誘って飲みながら、きちんと話すからって、」
「俺と関根には、話してくれるつもりなんだ、」

「ん、そう…2人とは飲んだりしたいから、きちんと話しておきたいって。
 でも他の同期には内緒にしたいって、変に気を遣わせたくないから…だから松岡と上野には、初任総合の最後に話そうかな、って」

友達を大切にする瀬尾は、同じ班だった2人にも話したいだろう。けれど、大切だからこそ瀬尾は配慮をしている。
瀬尾は優しい、けれどあの優しさは強かなほど逞しい肚の強さがある。
その一端が今回、解かった気がする。率直な男としての賞賛と哀しさに英二は微笑んだ。

「そうだな?初任総合の時には皆、顔合せるから。秘密とかあると、2人には重いかもな?」
「そう、瀬尾もそう言ってたよ?…松岡は真面目だし、上野は素直だから、秘密は苦手だろうって…だから、話せないかもって」
「瀬尾らしいな、ちゃんと周りを気遣ってさ」

瀬尾は細やかに優しい、そして人間に対する観察眼と記憶力が優れている。
瀬尾は一瞬で人の顔の特徴を把握して似顔絵を描くのが巧い。そして人の名前もすぐ覚える。
たぶん生まれながらの資質と育った環境の中で、瀬尾は自然と帝王学を身に付けている。
そんな瀬尾にとって帝王学にある「一度で人の顔と名前を覚える」がベースになって観察眼と記憶力が培われている。

あの優しさと人間への記憶力は人心掌握に有利だ。
あれだけ直ぐに人の顔と名前を記憶していけるなら、社員を全員把握するなど容易いだろう。
もし自分たちの組織の代表が、自分の顔から家族まで顔も名前も憶えていたら、感動する人間の方が多い。
それにまた、一度会った相手会社の代表が、自分をよく覚えていて細やかな気遣いを示されたら好意を持ってしまう。
この点だけでも瀬尾は会社内外において、良い評判を得ていくことが出来る。きっと瀬尾は優れた経営者として成功するだろう。
けれど努力家の瀬尾にとって、夢を終える覚悟は辛いに決まっている。その想いが哀しくて英二は言葉を零した。

「でも辛いな…期限は、ね?」

この「期限付き」が哀しい、「終わり」を宣告された夢は切ない。
誰でも無限の時は持っていない、何事にも終わりがある、それが摂理だと山で向き合う様々に教えられている。
けれど瀬尾のように終焉を宣告されることは、やっぱり哀しく辛い。この苦さを想う英二に周太は教えてくれた。

「でも瀬尾はね、『あと5年があるんだ』って言うんだ。あと5年は夢に生きられる、だから今を大切にしたいって。
この5年間を皆と同じ警察官として対等に、任務に専念したい。だから期限付きだって知られて、気を遣われたくないって。
でも、俺には話したかったって…俺も努力するタイプだから、努力の仲間には聴いてほしいから、そう瀬尾は言ってくれたんだ…」

こんな周囲への気遣いと判断が、瀬尾は優しく賢明で潔い。
こうした周囲への視点は経営者として大切な資質だろう、だから瀬尾が後継者に選ばれる事も納得できる。
こういう友人は同じ男として眩しい、そして男の背中の苦さを想ってしまう。
華奢でも頼もしい背中の友人を想いながら、英二は1つ息を吐いた。

「瀬尾、かっこいいな。でも、切ないな…」

切ない想いと一緒にコーヒーを静かに啜りこんだ。
ずっと瀬尾は警察官を夢見て努力し誇りを持っている、自分も同じように警察官の世界に誇りを持っている。
それだけに、瀬尾の為に願いたい祈りたい。優しく強い友人を想いながら英二は微笑んだ。

「瀬尾、似顔絵捜査官の夢、叶えてほしいな?この5年の間に…5年間を夢に、精一杯生きてほしいな、」
「ん、瀬尾ならね、きっと頑張るよ?…なんか頼もしくてね、大人の男って感じで…潔くて格好よかった、」
「そうだな、瀬尾は華奢で優しい雰囲気だけど、男らしい潔さがあるな?…うん、皆で飲みたいな?」

こんど関根も交えて4人で呑む機会があるだろう。
そのとき瀬尾の目に自分と周太は、どんなふうに映るだろうか?
また周太とふたり一緒の絵を描いてほしい。きっと瀬尾は上達しているだろう、それを率直に賞賛したい。
努力家で優しく強い友人を想いながら、温かいダイニングでふたり朝食を楽しんだ。



ぱきん、

花ばさみの断つ枝の音が潔い。
きれいな音と一緒に掌には、真白に高雅な花枝が納まった。
やさしい容姿にも華やかな花は、なめらかな肌理に清楚が香り高い。
綺麗な花だな?見つめていると、やさしいトーンが微笑んで教えてくれた。

「これはね、白木蓮…好きな花なんだ、」

花の名前と寄せる想いを告げながら、周太の頬が薄紅に染まっていく。
清楚な花姿と可憐な表情が好一対に絵になる、見惚れてしまう想いに黒目がちの瞳が見上げてくれる。
この花と似て艶やかな肌理が、見上げた喉元に露になって心が1つ鼓動に打たれた。

「この花も似合うね、周太?…きれいだよ、」

この肌がほしい、そんな望みが心を掴んでくる。
この肌と瞳に見惚れる心が熱い、こんな熱の幸せに微笑んだ英二に、気恥ずかしげに瞳が微笑んだ。

「ありがとう、嬉しいな…この花、英二と似てるな、って想って選んだから…」

好きな花、そう言っていた。
その花と自分を似てると言ってくれる、それは自分を花に重ねてくれる意味?
その花を手折って掌にしている、その意味を教えてほしい。その意味に期待したくなる。
期待していいの?そんな想いと愛しさに見つめる真中で、紅潮そまる微笑が花枝を示した。

「これ、水切りするね?…ちょっと、おふろ場に行ってくるから、」

とくん、心を鼓動がノックする。
いま言われた言葉の1つに敏感に反応する期待がある。
そんなつもりなど純粋な瞳には欠片もない、けれど自分は惹きこみたくて仕方ない。
けれどこの後には自分の父と姉が来る、そう想うと訪問の時間までゆっくりさせてあげたい。
おとなしく花のことを教えて貰って時間を過ごそう。そんな納得に微笑んで英二は訊いた。

「水切り、どうやるか見てもいい?」
「ん、見てみて?簡単だよ、」

家に入るとそのまま洗面室へ行って、周太はきれいな木製の桶を出した。
浴室で桶に水を満たすと白い花の枝を挿し、器用に水中の枝を花切ばさみで切り落とす。
それから弱いシャワーで花を洗いながら、周太は微笑んだ。

「ね、こうすると、花が水で元気になるんだ、」
「ほんとうだ、花がうれしそうだな、」

水を浴びる花が楽しげで、その様子が自分の心に重なってくる。
自分にとっての水は、いま隣にいるひとの笑顔だろうな?
そんなふうに花に微笑んだ口許に、不意にやわらかな唇がふれた。

― 周太、

いま、キスをくれるの?
そんなことしたら望みが目を覚ましてしまうよ?

ふれる唇からオレンジの香と、クロワッサンの香がこぼれていく。
やわらかにふれる唇とクロワッサンの香に、卒業式の翌々朝にふれたキスの記憶が蘇っていく。
あの公園のベンチで、一緒に生きようと初めて約束を結んだ。あのときは今朝と同じクロワッサンを口にした後だった。
あの始まりの瞬間に記憶が愛おしい、そして愛しさに自制心が軋みだす。軋む心を抑える想いに純粋な瞳が微笑んだ。

「クロワッサンの香が、ね…懐かしかった、な、」

同じことを想ってくれていた?そんな期待に見つめる肌が薄紅いろに花ひらいていく。
気恥ずかしげに微笑んだ黒目がちの瞳はゆるやかに、水ふる白い花に視線を移した。
その横顔が初々しい艶と幸せな微笑がきれいで、心が思わず腕を伸ばした。

「周太…、」

抱きしめて、やわらかな唇をキスで閉じ込める。
抱き込んだ手からあふれる水に服が濡れていく、水に透ける布地越しに体温が直にふれあいだす。
水ひろがる服を透す体温が、熱ごと心を掴みだす。透かす温もりに自制心が溶けだしていく。
このままだといけない、そう想ったはざま唇が喘ぐよう微かに離れた。

「…あ、っ、」

すこし唇が離れて喘ぐよう、黒目がちの瞳が英二を見た。
きっとそんなつもりは無い瞳と唇、けれど無垢の誘惑に追いかけてキスで絡めとる。
ふれるだけのキスが温かい、唇ふれる温もりは優しい。優しい安らぎに甘い時の記憶が蘇っていく。
この記憶の時に今すぐ溺れてしまいたい。

「英二、まって?服が濡れちゃう…風邪ひいたら困るから、」

やさしい言葉と純粋な瞳がきれいで、ゆれる心に響いてしまう。
愛しさが自制心を侵食する、見つめてくれる瞳の無垢が誘惑になってしまう。
なんとかキスで留まらないと?ひとつ呼吸して収めようとした想いに、やさしい声が言葉を言った。

「ね?着替えて?…」

着替え、この言葉が今は引金になる。
この愛するひとを着替えさせようとした一昨夜の、あまい罪悪感の記憶が蘇ってしまう。
罪悪感の幸福にとくんと鼓動が心を打って、自制心が崩れ落ちた。もういま考えられることは1つだけ。
唯ひとつ心を支配する望みを無垢の誘惑に縛られて、素直に英二は願いを告げた。

「お願いだ、周太…君を抱きたい、今すぐ…」

どうか願いを叶えて?
真直ぐに想い見つめる瞳が、やさしく見つめ返してくれる。
静かな浴室に水音が響いていく、視線で結ばれている今に呼吸が止まりそう。
どうか自分に応えてほしい、目で告げた恋人は素直に頷いてくれた。

「…はい、」

短い答えに肯う首筋には、やわらなか薄紅が昇っていく
まだ朝の10時半、この4時間半後は自分の父と姉に婚約者は対面する。それなのに今から夜へと惹きこんでしまう。
年齢よりずっと初心で恥ずかしがり、そんな周太にとってベッドの後で対面に向かうことは容易くない。
きっと恥ずかしい想いをさせるだろう、けれど今この求めたい熱にうかされて止められない。
止められないよ?そう見つめた先で黒目がちの瞳が含羞に肯った。

…どうか願うままに叶えて?

叶えて良いと恋の主人が言ってくれる。
この赦しによせる懸命な覚悟と心からの愛情が温かに愛おしい。
この赦しが幸せで、幸せなまま微笑んで英二は口づけを贈った。

「ありがとう、周太…愛してるよ、」

もう、君のことしか考えられない、君だけが、ほしい。




(to be continued)

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第41話 久春act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-04-25 23:18:31 | 陽はまた昇るside story
春宵の記憶、花の想い



第41話 久春act.3―side story「陽はまた昇る」

周太の母と囲んだ夕食は、周太の心づくしが温かだった。
今夜は当番勤務で周太は新宿東口交番に詰めている、けれど夕食の支度を置いて行ってくれた。
リクエストしたロールキャベツの味が優しい、幸せで英二は微笑んだ。

「英二くん、本当に幸せそうに食べるわね?周が作った物だと、」

差向いに座る周太の母が笑ってくれる。
きちんと飲みこんでから英二は莞爾と口を開いた。

「はい、俺、周太の作ってくれた物が、いちばん好きなんです」
「母として光栄ね、嬉しいわ。あの子、今日も手早かったけど一生懸命に作って行ったから。きっと喜ぶわ、」

うれしそうに話しながら彼女も美味しそうに口にしていく。
彼女はこの家に嫁いで、けれど家の事情は何も聴かされていない。
それを彼女はどう想っているのだろう?
白身魚のグラタンにフォークを運びながら、英二は笑いかけた。

「お母さん。お父さんとの出逢い、訊いても良いですか?」
「あら、そんな質問?」

黒目がちの瞳がすこし大きくなって、すぐ笑ってくれる。
話しても構わない、そんな雰囲気に英二は遠慮なく押してみた。

「はい、そんな質問です。まだ伺ったことないな、って思って、」
「聴きたい?」

悪戯っ子のように明るく瞳が笑っている。
とても50歳には見えない可愛らしい笑顔に、英二は愉しい想いで頷いた。

「はい、聴きたいです。お話してくれますか?」
「そうね?じゃあ、じっくり付き合って貰おうかな、」

愉しげに笑いながら彼女は立ち上がると、食器棚からワイングラスを2つ食膳に出した。
そして冷蔵庫から冷たいボトルを出すと、可笑しそうに微笑んだ。

「しらふでは恋バナ出来ません、だから今から飲み会ね?」
「いいですね、是非お願いします」

こういう軽やかさが彼女の素敵なところだな?
うれしく思いながら英二は華奢な手から冷たいボトルを受けとった。
渡されたコルク抜きを嵌めこんで、ぽんと勢いよく抜きとると英二は彼女のグラスに注いだ。

「あら、英二くん。片手で注ぐなんて慣れてるのね、ワインはよく飲むの?」
「普段はビールか日本酒です。でも実家の食事は、ワインも多かったので」

透明なあわい金色の酒がグラスにゆれる。
この光景を見るのは久しぶりだな?そんな想いと微笑んだ英二に、彼女が訊いてくれた。

「お母さま、きれいな人なんだってね?」
「あ、周太に訊きました?」
「ええ。きれいなひとだよ、来てくれたよ。それだけを、教えてくれたわ、」

おだやかに微笑んで、黒目がちの瞳がグラスゆらめく金の波を見つめている。
周太は、英二の母が周太に向けた言葉も態度も言わなかった。
優しい婚約者の想いが愛しくて切ない、注ぎ終えたボトルをクーラーバケットに置くと英二は座り直した。
そして真直ぐに彼女の瞳を見つめると率直に口を開いた。

「お母さん。母は、周太の頬を叩いたんです。申し訳ありませんでした、」

潔く英二は頭を下げた。
ダイニングテーブルの面が顔のすぐ前にふれる、その面に涙ひとつ零れた。
母が周太を平手打ちした、この事実が哀しい。
あれから母は周太への感情が変化している、それでも母が周太に手を挙げた事実が痛い。
すべては英二が周太に恋をして始まったこと、それを母も本当は解かっていた。
それでも母は周太の頬を叩いた。そしてきっと、罵っただろう。

―それなのに周太。俺にも、お母さんにも、何も言わない

やさしい黒目がちの瞳の微笑が愛しい。
やさしくて繊細で、泣き虫の甘えん坊の周太。けれど凛と潔い靭さも備えている。
凛冽なほど潔癖にまばゆい純粋無垢が美しい、あの面影を抱いて英二は頭を下げたまま口を開いた。

「山ヤの警察官に憧れて俺は家を出ました、俺が周太と一緒にいたくて、俺は実家に帰ることを止めました。
俺が全てを始めたんです。周太のことも救助隊のことも止められたくない、だから俺が実家と、母と義絶したかったんです。
このことを母に理解させていませんでした、そして周太に手を挙げさせてしまいました。全てが俺の責任です、申し訳ありません」

なにもかもが、自分が始めたこと。
自分が周太に憧れて、恋して愛して、無理矢理に掴んで抱きしめた。
自分が周太を援ける進路を選びたくて、そして出会った山ヤの警察官の世界が夢となって誇りになった。
どれも結局は自分が自分の為に選んだこと、手に入れたもの。
その責任を周太に転嫁させた、この事実が悔しい。
悔しい想いが唇をかみしめさせる、下げた頭が上げられない。
必ず周太を守りぬくと、この目の前の女性に固く誓っている。それなのに母に頬を叩かせた。
この絶対の約束が守れなかった、それが悔しくてならない。悔しさに唇噛んだ英二に、周太の母は言ってくれた。

「英二くん、頭をあげて?ちゃんと気持ちは、私にも解っていると思うから。イケメンの顔を見せてよ?」

おだやかな声が可笑しそうに微笑んでいる。
この女性にイケメンなんて言われると気恥ずかしいな?すこし困りながらも英二は素直に顔をあげた。
あげた顔を愉しげに黒目がちの瞳が見て笑ってくれる、その優しい明るい笑顔に英二は微笑んだ。

「お母さん。周太、俺にも何も言わなかったんです。だから俺から訊きました、頬が腫れていたから。
でも周太は嬉しかった、って言ってくれたんです。卒業式の翌朝に俺は、母に叩かれました。そのとき一緒に叩かれたかった、って。
あの日に戻って、俺と一緒に頬を叩いてもらえたから嬉しい。願いが叶った、そう言って…あの朝の、俺の寂しさまで、気遣って、」

話していく目の奥が熱くなってくる。
どうしてこんなに真直ぐに愛せるのだろう?純粋な恋人の心を想いながら英二はきれいに笑った。

「母に聴きました。僕のことは認めなくていいと、周太は言ったそうです。でも俺の選んだ世界は否定しないで下さい、って。
素顔の俺を受けとめて、誇りを持って生きる姿を褒めてあげて下さい、そのために気が済むなら何度でも、僕を叩いて構いません。
僕の幸せを生んでくれて、ありがとう。そう言ってくれたんです…そして母は俺に言ったんです、自慢の息子だ、好きにして良い、と」

あのとき母の表情は、初めて見る明るさがあった。
いつもどこか冷たかった母を動かした、優しい純粋な心が愛しい。愛しい想いに英二は微笑んだ。

「あなたに憎まれていると解っている、でも僕はあなたを嫌うなんて出来ません、僕の幸福を生んでくれたのは、あなただから。
周太、叩かれて真っ赤な頬のまま、そう言ってくれたと聴いています。そんな周太に母は、今までと少し変わったと思います。
母は周太の頬を心配していたらしくて…自分の息子の怪我も心配できない、そういう母だったんです、だから驚いています、俺も姉も、」

おだやかな黒目がちの瞳が真直ぐ見つめて聴いてくれている。
いつもこうして受けとめてくれる女性、このひとが生んでくれた自分の婚約者を想い英二は言った。

「母はずっと俺を人形だと見ていたんです。母の理想通りに動く、きれいな人形だったんです、俺は。
でも、周太が母を変えてくれました、あんなに冷たかった母を。周太の温かい心と言葉が、母を変えてくれました。
周太に逢えなかったら、俺も母も、冷たい孤独のままでした…お母さん、どうして周太は、あんなに温かくて、優しいんですか?」

熱い目の奥から一滴こぼれだす。
頬つたう温もりを感じていく英二に、周太の母は花のように優しく微笑んだ。

「周はね、優しい温かい主人に、良いもの沢山もらったから。だからよ?」

そう言って笑った彼女の笑顔は誇らかで優しい。
こんなふうに実の母親が自分を言ってくれたら、きっと幸せだろうな?
そんな想いに素直に微笑んだ英二に、彼女は言ってくれた。

「周の素敵なところ、たくさん聴かせてくれたね?ありがとう、英二くん。とても嬉しかったわ、そんなふうに周が言えたの聴けて、」
「こちらこそです、お母さん?」

そっと指で涙拭って、英二は笑った。

「俺が周太に守ってもらったんです。俺が周太を守る、って言ったのに、俺が守られました。不甲斐ない婚約者で、すみません、」
「あら?確かにすこし約束違反かな?でもね、夫婦って助け合うものよ、だから良いのよ?きちんと帰ってきてくれたし、」

夫婦は助け合う。
さらり周太の母は言って微笑みながら、英二と息子のことを認めようとしてくれる。
こんな優しさが温かで、この女性の美しい強さはまばゆい。
この母あっての息子なんだろうな?嬉しくて微笑んだ英二に彼女は笑ってくれた。

「ほら、乾杯しましょ?せっかく注いでくれたのに、温くなっちゃうから、」

華奢な手にクリスタルグラスを持って微笑んでくれる。
素直に英二もグラスを手にして、すこし掲げると彼女は笑った。

「はい、これから飲み会を始めます。飲んで話しましょう?」

彼女もグラスをすこし掲げて、そしてワインへと唇を付けた。
グラスをぶつけない乾杯のやり方は、正式なマナーになる。
それを自然にこなした彼女の様子に、この家の花嫁たちの姿が偲ばれた。
ほんの2、3時間前に見たセピア色の写真たちを想いながら、英二はグラスに口をつけて微笑んだ。

「白の辛口が、お好きなんですか?」

辛口のワインは、酒を窘めるタイプが好む味になる。
爽やかな後口で辛めの味は、彼女の酒の強さが計られてしまう。
きっと強いんだろうな?そう見た先で彼女は悪戯っ子に微笑んだ。

「お酒は辛い方が好きね。英二くんだと、もう解っちゃったよね?私、けっこう呑兵衛なのよ、」

可笑しそうに笑う彼女は若々しい開き直りが潔い。
こういう人と呑むのは愉しいな?愉しい時間になりそうな予想に英二は笑った。

「俺も呑兵衛ですよ?国村もです、ほとんど毎日、寮で一緒に呑んでいます」
「やっぱり彼もそうなのね?良いわよね、呑める同士の友達って。いつも旅行に一緒する彼女とも、そういう友達なのよ、」
「ひな祭りのときも、一緒に呑みに行かれましたよね、」
「何かって理由つけては呑みたいのよ、13年ぶりの解禁だから良いでしょ?って感じで」

愉しそうに笑いながら彼女はグラスを傾けている。
けれど息子の周太はそんなに酒は強くない、父親の馨が呑めなかったのだろうか?
今は仕事中の恋人を想いながら英二は訊いてみた。

「お父さんは、お酒は呑まれたんですか?」
「少しだけね。周も弱いけど、あのひとも、そんなにはね?でも、お酒では私、あのひとに頭上がらないの」

教えてくれながら可笑しそうに彼女は笑っている。
なにか面白い話があるんだろうな?そんな思いにふと英二は言ってみた。

「もしかして、酔ったところを助けて貰ったのが出逢い、ですか?」
「あら、ばれちゃったわね?」

からっと明るく笑って彼女はグラスを置いた。
ワインクーラーからボトルを掴むと英二は、空いたグラスに注ぎながら笑いかけた。

「それって、周太は知っているんですか?」
「あちこち省いて話してあるわ、さすがに周には、言い難くって」

悪びれずに言いながら周太の母は、ありがとうとグラスを手にして微笑んだ。
ひとくちワインを口にして、それから英二の目を見て彼女は口を開いた。

「会社の飲み会があったの、お花見でね。その帰りに私、御苑の桜が見たくなっちゃって。
あそこの桜、柵の外からも見える所があるの。それで新宿で途中下車して、ひとり見に行ったのよ。もう22時過ぎていたんだけど」

トマトとオリーブのサラダを口にして、彼女は笑っている。
息子の周太は生真面目で品行方正な性質だけれど、どうも彼女は違うタイプらしい。
顔はよく似ている母子だし雰囲気も似ているけれど、正反対の部分もあるのかな?
すこし意外な素顔に驚きながらグラスに口付けている英二に、彼女は微笑んだ。

「私ね、母子家庭で育ったの。父は私が生まれて間もなくに亡くなってね、母がずっと女手一つに育ててくれて。
大学も行かせてくれたわ、でも社会人になった次の年に、母も亡くなってね。だからその頃はもう、独り暮らしだったの。
それがちょっと寂しかったのね、私。まだ25歳で若かったから、かな?よく夜の散歩して、気を紛らわしていたのよ、ふらっと、」

そう言う気持ちは英二にも解ってしまう。
自分も実家にいた頃は家族がいても、母の態度が寂しくて夜の街へ出かけていた。
そして出会った人達に求められるまま体を与え、一時の快楽に寂しさを紛らわしていた。
そんな自分に比べたら散歩は随分と建設的だ、素直に感心しながら英二は笑いかけた。

「女の人が夜に、って危ないですね?でも、夜の散歩も素敵だな、とも思います、」
「でしょう?月の光とか、良い感じでね。癖になっちゃってて、」

愉しげに笑って彼女はグラスに口付けて、そして話してくれた。

「お花見の帰り道、御苑は満開の桜がきれいだった。月明かりに白く輝いていて、素敵だったわ。
うれしくなって、ふらり歩いて見ていたの。そして、いちばん好きな桜のところまで歩いていったらね?桜の精がいたのよ、」

「桜の精?」

思わず訊きかえした英二に、愉しげに彼女は微笑んだ。
ひとくちワインを喉に納めて、そしてまた口を開いてくれた。

「桜の花びらが舞う、夜風の中にね。静かに男のひとが立っていたの、私が好きな桜を見あげて。
月明かりの下、なんだか不思議な雰囲気でね?幻でも見ているみたいに、きれいで。それで見惚れちゃったの、私、」

ひとつ言葉を切って、グラスに口付ける。
ひとくち英二もワインを飲んだとき、彼女は言葉を続けて微笑んだ。

「そして男のひとが、私に気づいて振向いたの。その彼の目から、涙がひとつ零れたわ。
きれいな涙が切長い目から、きらきら光って。きれいな泣顔がね、心に真直ぐ響いたわ。それで私、彼に訊いてみたの。
どうして泣いているの?って。そうしたら彼は言ったの『肩代わりをしたんです、すみません』そう言って、微笑んだのよ、」

―…25年前、夫は、こんな事を言ったの。『肩代わりをしてしまった、すまない』そう言って、涙をひとつ零した

周太の誕生日に話してくれた言葉。
庭のベンチで初めて彼女が話してくれた、彼女が知る限りの事情と言葉は切なくて。
あのとき結んだ『約束』を想いながら英二は、彼女の言葉に心を傾けた。

「微笑が、とても哀しくて、きれいだった。それで放っておけなくて、私ね?彼を抱きしめたの」

月明かりと満開の桜の下、ふたりが出逢った。
なんだか周太の両親らしいな?きれいな光景に微笑んだ英二に、彼女は言った。

「で、そこから記憶がありません、」
「記憶がない?」

さらり言われた言葉に驚いて、思わず英二は訊きかえした。
そんな英二に悪戯っ子に微笑んで、彼女は白状してくれた。

「気がついたら朝でした、この家の寝室で、あのひとの隣にいました。これが私と主人の出逢いです」

目を大きくして英二は、呆気にとられた。

「…あの、それって…、」

言いかけて、途惑いに言葉が途絶えてしまう。
あの品行方正で初心な周太の両親が?そんな驚きに呑まれている英二に、彼女は明るく自白した。

「はい。出逢ったその日に私、主人と夜を過ごしました。これが私の初体験で、あの人との初夜です、」

きっと今、さぞ驚いた顔を自分はしているだろうな?
そんな英二の顔を眺めながら彼女は、ちょっと得意げにグラスに口つけて笑った。

「桜の下で私、主人に抱きついて眠っちゃったの。それで困った主人がね、仕方なく連れて帰ってくれて。
他のベッドの支度がなくって、主人は自分のベッドに私を寝かせて、介抱してくれたの。そうしたらね?
酔っぱらいの私が主人に抱きついちゃって。そこは私、なんとなく覚えているの。色々、口説いた記憶があるの。
あなたが好きです、一緒にいるから泣かないで、一緒にいさせてほしい。そんなこと言って誘惑して、彼を墜としちゃったの、」

これでは周太には全てを話すなど難しい。
記憶喪失の為もあって11歳位の精神年齢でいる周太には、こんな大人の事情は理解が難しい。
しかも馨は生真面目だったから尚更に、初心な周太は驚いてショックを受けるだろう。
とても言える訳が無いな?納得しながら英二は、ほっと息吐いて微笑んだ。

「お母さん、ひとめ惚れしたんですか?」
「そうなの。しかも初恋よ、いいでしょう?」

愉しげに得意げに笑った彼女の顔は、少女に見える。
そんな彼女はグラスを置いて、頬杖ついて話してくれた。

「私ね、母を支えて頑張ろう、って肩肘張っていたの。いい大学に行って、出世して、母を楽させたい。
それが生きる目標だった。だから恋なんてしなかったの、でも、母が亡くなってね。どうして良いか、解からなかった。
他に親族も無くて、気づいたら自分には仕事しか無くて。それで仕事に頑張って、男勝りに昇進しようって仕事したわ。
そんな私の出世の競争相手が、今の飲み友達の彼女なの。同期入社で総合職の女性は彼女と私だけ、それで仲良くライバルして、」

おだやかな彼女の、意外な面に驚かされっぱなしだな?
こんなに自分を驚かせてくれる女性を、英二は他に知らない。
それが周太の母であることがまた、意外で不思議で、けれど納得も出来る。
こういう人は好きだな?彼女の空いたグラスに注ぎながら、英二は笑いかけた。

「かっこいいです、お母さん。でも、お父さん、驚いたんじゃありませんか?」
「それはもう、あの朝は見モノよ?」

ワイングラスを持ちながら、楽しそうに笑っている。
ひとくち飲んで周太の母は、悪戯っ子に黒目がちの瞳を輝かせた。

「ちょうど土曜日の朝で、運よく私は休みだったの。で、あの人も休み。それは良かったんだけどね?
心から困った顔で謝ってくれたわ、大変なことをしてしまった、って。でも彼、白状してれたの。一目惚れしました、って。
私を桜の精だって、あのひとも想ったんですって。それで私も白状しました、桜の下で泣顔を見た瞬間に、恋に墜ちました、って」

桜の下に出逢い、お互いに桜の精だと見つめ合う。
そんなふたりから周太が生まれたことは、納得が出来る。優しい想いに微笑んで英二は訊いた。

「お父さんが桜と、桜餅が好きだった理由は、この出逢いのため?」
「当たり、」

楽しげに笑ってグラスに口つけて、彼女が英二を見つめてくれる。
なにかまた驚かせるつもりかな?そう見返すと黒目がちの瞳が愉快に笑って、次の自白をしてくれた。

「そんな朝から私達、おつきあいを始めて。その次の年にね、私のお腹に命が授かりました。それで私は、ここにお嫁に来たの」
「…え、じゃあ、」

それってつまりこういうこと?
また目を大きくした英二に彼女は笑って、自白の続きをしてくれた。

「はい、出来ちゃった結婚です。周太がお腹に入ってくれた、このお蔭で私達、結婚に踏み切れました。
だから周太はね、本当に私たち夫婦の宝物なのよ。周太のお蔭で私、花嫁になれたの。そして妻になって母になれました、」

グラスを持った彼女の笑顔は幸せに輝いている。
こんな笑顔を見せてくれる女性なら、周太の父も幸せだったろうな?
ふれる想いにカットソー越し合鍵ふれながら、英二は笑いかけた。

「お父さんも周太も、幸せですね?」

英二の言葉に黒目がちの瞳がすこし大きくなる。
大きくなった瞳は誇らかに優しく微笑んで、明るい声が応えてくれた。

「ありがとう、きっとそうね?だって私が幸せだもの。私、あのひとの妻になれてね?ほんとうに幸せなのよ、」

そう言って笑った彼女の顔は幸せで、きれいだった。


周太の部屋に落ち着いたのは、23時過ぎていた。
あれから周太の母と呑んで話して、お開きになった時には22時過ぎている。
そのあと風呂を済ませてからリビングのパソコンをすこし貸して貰った。
途中で周太に「夕飯おいしかった」とメールしたけれど、電話はまだない。
今日は土曜の夜だから、繁華な新宿では交番も多忙なのだろう。

「…声、聴きたいな、」

ぽつんと呟いて、ほっと英二はため息を吐いた。
昼間も思ったとおり案の定、すっかり周太が恋しい寂しさが充ちている。
さっきまで周太の母と飲み会だったのは幸運だった、あれが無かったらもっと寂しかったろう。
彼女に感謝しながら英二は、鞄を開くと書類ケース出して周太の机に座った。
ケースにはルーズリーフとペンケースにファイル2冊、そして紺青色の日記帳が入っている。
そのファイルの1冊を取出して、机の上にページを広げた。

この鑑識用ファイルはテキストも挟みこんである。
そのテキストと、吉村医師に貰った資料のページを捲っていく。
たぶん、自分の予測と見立ては当たるだろう。この哀しい予想に長い指はあるページに止まった。

「…当たり、かな?」

フルカラー写真の鮮明な色彩が目に映る。
いつも現場で見るときは布や岩場、地面に染みた状態、そして溢れている時が多い。
だから写真に染みている状態は初めて見た、それで資料で見てから確信したかった。
この写真の通りの記憶が、さっき封函を開いた封筒の中身には染みついていた。
黒ずみ、赤さびたような暗褐色の昏い、禍々しい想像をおこす色彩。

血痕、

書斎机の抽斗にあった封筒の中身は、古い写真たちだった。
あるべきはずの2冊目『since 1926』に納められていただろう、1926年から1938年の写真たち。
その写真たちは部分的に、または一辺全体に血痕が付着している。
この痕跡が意味することは?

あるべきはずの2冊目『since 1926』はアルバム本体が消えた。
そこに貼られていた写真たちには血痕が付着している。
1962年に周太の曽祖父、敦は誕生日の当日に死去した。
この前年1961年の誕生会に撮られた記念写真には『since 1926』のアルバムは写っている。
この4つが意味すること、そしてパソコンから閲覧した新聞記事の結果が加わると?

「…すべての始まり、なのかな、」

ため息交じりの独り言に、英二は微笑んだ。
まだ断定はできない、けれど可能性は相当に高いだろう。
このことが記述されたページは紺青色の日記からは、まだ見つけていない。
けれど多分、どこかにふれている部分はあるだろう。
いま日記で読み進めているのは大学3年生の馨が過ごした秋になる。
この頃はまだ馨は英文学の研究に没頭し、山岳部と射撃部を掛け持ちしながら充実した日々でいる。
この当時の馨にはまだ、本人が自覚するような翳は無い。

けれど。
先に読んでしまった最後のページは重苦しい翳に充ちている。
馨が亡くなる前の晩に書かれた日記には、哀しみと痛みと絶望が充ちていた。
あの文章の全てが心に今も深く突き刺さって、痛みと共に覚悟が肚に落ちている。
それでも今は、すこしこの重みが辛い。

―きっと、周太が恋しい所為、だな…

今朝の温もりが蘇える。
深い眠りに微笑んだ無垢の誘惑に、見惚れ溺れこんだ幸せの記憶。
あんなふうに自分に幸せをくれる存在が、この哀しみの過去に繋がっている矛盾が哀しい。
けれど過去を知って尚更に愛しさが募っている、この哀しみから守り愛したい想いが深くなる。

逢いたい

今すぐ逢いたい、あのひとに逢いたい。
見つめて抱きしめて温もりを感じたい、やさしい香に呼吸してキスの甘さを味わいたい。
そして全身から感じたい、あのひとの存在、愛する想い、心からの幸せを抱きしめたい。
この幸せを抱いて、重苦しい過去にすら打ち克つ勇気がほしい。

今すぐ逢いたい、けれど今この願いは叶わない。
ほっと溜息吐いて英二は、すこしだけ微笑んだ。

「…勉強、しようかな、」

いまは気持ちを紛らわしていたい。
それには仕事の勉強に集中するのが良い、救急法ファイルを開くと英二はペンを持った。
ファイルにセットしたテキストを開いて、ノートのページと照合しながら復習をする。
これに鑑識ファイルを時折眺めながら、現場の鑑識と人体の関係を考えていった。

ふっと携帯の着信ランプが灯る。
その光に顔をあげて携帯を開くと、すこし英二はがっかりしながら通話を繋いだ。

「こんばんは、愛しのアンザイレンパートナー。怪我の具合は、い・か・が?」
「大丈夫だけどさ、国村?なにか用?」

ファイルのページを繰りながら英二は自分のパートナーに答えた。
クライマーウォッチの時刻は23時半、勉強を始めて30分程しか経っていない。
早く明日の朝になって周太が帰ってきたらいいのに。そんなことを考えている英二にテノールの声が笑った。

「おや、つれないね?お姫さまが今夜はいなくて、ご機嫌斜めってコト?」
「まあね、そんなとこかな…あとは、予想より重たかったから、かな、」

こう言えば自分のパートナーには解るだろうな?
この携帯も通信記録が残る、そんな考えから暈した言い回しをした英二に、テノールの声が微笑んだ。

「へえ、かなり重量級だった、ってコトか。まあ、当然かもね?結果を考えたらさ、」

きちんと意図を汲んでくれている。
そんな様子の返答に微笑んで、英二は答えた。

「おまえも、ちょっと予想してたんだ?」
「まあね、俺の的中率の高さは知ってるだろ?でも今回の結果はさ、万馬券ってなりそうだね?」
「そうだな、一般のじゃ無かったんだ。だから、そっちのじゃないと解らないかな、」
「うん?…そうだね、あれだったら載っているかもな?まあ、戻ってからで良いよ、あとはさ、」

明るいトーンで会話を交わしてくれる。
透明なテノールの声が「なんとかなるさ」と伝えてくれる想いが嬉しい。
ありがたいなと微笑んで、英二は提案した。

「あのさ、穂高と槍に行くときは酒、俺が買っていくよ、」
「そりゃ嬉しいね。でも、礼のツモリだったら、熱いキスの方が嬉しいけど?」
「それはダメ、周太限定だから」

英二はきっぱり断って微笑んだ。
けれど電話のテノールの声はからり笑いながら言った。

「そうだったっけね?ま、俺は忘れっぽいからさ、うっかり忘れてしちゃったら、ごめんね、」
「わざと忘れるんだろ?ほんと、おまえって、エロおや…、」

言いかけた言葉が自分に跳ね返る。
昨夜と今朝の自分の所業はなんだった?そんな問いかけが自分にこだまする。
もう自分は人の事を言えないな、ほっと溜息吐いた英二に国村が訊いてきた。

「なに、言いかけて止めちゃったりしてさ?おまえ、凄いエロいことでもしたんだ?」

エロい位なら良いんだけどね?
そんな想いに首傾げながら英二は、あまい罪悪感に微笑んだ。

「そうだな?俺は恋の奴隷だって、心から自覚した、ってとこ、」
「堅物崩壊しまくりだね、ま、幸せならイイんじゃない?で、今夜のドレイはご主人さま居なくって、寂しいわけだ」
「うん、寂しいな?なんか、この家だと周太の気配が多すぎて…余計に寂しいな、」

素直に言って英二は微笑んだ。
この家で周太がいない状況は初めてになる、そんな寂しさが余計に募る。
ぼんやり寂しさを見つめた英二に、国村が明るく笑ってくれた。

「ホント恋のドレイだね?ま、明日からべったり構ってもらうんだね。じゃ、またね、」
「うん、そうするよ。またな、おやすみ国村、」

笑いあって電話を切ると、ほっと英二は息を吐いた。
きっと英二の昨夜と今朝を知ったら、国村は大喜びで好き放題言うだろうな?
そんなこともなんだか可笑しくて、すこし笑った英二の掌に振動が伝わった。
もしかしてそうかな?期待に開いた携帯電話の着信表示に英二は微笑んだ。

「周太、」

ずっと待っていたコールが嬉しい。
愛するひとの名前に笑いかけて、英二は通話を繋げた。



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第41話 久春act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-04-24 23:45:56 | 陽はまた昇るside story
春の日、想い出に祝福を



第41話 久春act.2―side story「陽はまた昇る」

きっちり紙に包まれた四角い重みを、長い指の掌は掴んだ。
引き出してみた包みは、経年の劣化が想像よりは進んでいない。

「…机の側面だと、日照も無い上に湿気も少ない、か…」

最適の保存場所、その判断は正しいだろう。
外した側板を英二は嵌めなおし、ネジを同じよう打ちこんで復旧させた。
それから古新聞を板張りの床に広げると、その上に四角い紙包みを据えた。
この包みのなかには恐らく、哀しい現実の糸口が入っている。

「…お父さん、開かせて貰いますね?」

哀しい予感を見つめながら英二は包みへと長い指をかけた。
古びた茶色い紙を丁寧に開いていくと、ぱらり紙の繊維が古新聞に毀れていく。
一重目を開き、次に現れた淡い茶に劣化した白い和紙を開いた。
そして三重目の真白な和紙を開くと、青絹の立派な表装の冊子が現われた。

since 1914

表紙に刺繍で記された流麗な書体は、英二の記憶にある年号と同じだった。
あの、ダイニングに飾られている北欧生まれのイヤーズプレート、あの最初の一枚と同じ年号になる。
その年号が記された厚い重量感ある冊子は30cm四方位、表装の青色は鮮やかなまま綺麗でいる。
良好な保存状態の様子から、これを隠した馨の想いが伝わって痛い。
切ない想いの伝染に英二は微笑んだ。

「お父さん、一緒に見てくれますよね?」

首から提げた合鍵が胸ふれて、心になにか響いていく。
合鍵の感触を抱きながら、慎重に英二は青い表紙を開いた。

セピア色の一軒の家。

やさしい端正な一軒の、擬洋館建築の家。
白い壁に瓦の屋根、黒っぽい木枠の窓やバルコニー。
まだ庭木は少なくて、それでも大きな木が数本生えている。
生まれたばかりの小さな森に、家は今と変わらない姿で静かに佇んで映りこむ。
モノクロ写真に彩色を施した、古い写真。その下には優しい想いの詞書が添えられていた。

“ この家に幸せの笑顔あふれんことを 1914年吉日 湯原 敦 ”

「…曾おじいさんが、撮ったんですね?」

書かれた言葉の優しさに人柄がふれてくる。
この家を建てあげた日の記念写真は、なごやかな空気が温かい。
そっと微笑んで英二は慎重に次のページを捲った。

20代後半の、立派な身形の男性と和服姿の華奢な女性。
まだ十八くらい、優しげな彼女の奥ゆかしい透明な雰囲気は、周太の佇まいとよく似ている。
桃の節句の時に見た、こまやかで上品な雛人形の持主は彼女だろう。
男性の口許は周太の父、馨の意志の強い唇そっくりだった。

―これが、周太の曾おじいさんと、曾おばあさん

この夫婦がこの家に住んだ最初の主。
ふたりの写真が何葉か、見たことのある家の風景の中で撮られていく。
茶席の風景、誕生会のパーティー、庭に新しい木を植えた笑顔、メイドらしき女性と微笑む女主人の姿もある。
華やいだ空気と見慣れた部屋の風景は、セピア色の中に幾葉も納められて綴られていく。
こんなふうに日常の写真を何枚も撮れることは、この時代には珍しい。

「自分で、カメラを持っていた、ってことか…」

当時、自分でカメラを持つほどの財力と教養知識があった。
セピア色の写真たち自体の存在から既に、そんな事実が知らされる。
綴じが解れないよう気をつけて捲っていく、そして1枚の赤ん坊の写真が現われた。

“ 長男 晉 1919年 卯月吉日 鶴壽亀齢 ひろく普くを歩む佳き人生を祈って ”

美しいレースの見事な産着を着た赤ん坊は、機嫌よく眠っている。
その愛らしい眠る顔は、どこか周太の寝顔と似ていた。
可愛らしいセピア色の写真に微笑むと、英二は一旦、アルバムを閉じた。
そして勉強机の右側面の前に膝まづいて、ドライバーでネジを外し始めた。

ごとり、…ことん

内板が外れ緩まるごと、はざまに音が起きる。
がたりと外した内板の向うから、先と同じ様子の包みが2つ現われた。
また元通りに内板を戻しネジを締めると、紙包みも古新聞で広げていく。

since 1939』 『since 1959

2冊のアルバムは、1冊目と同じ青い絹張り表装で経年の雰囲気がそれぞれ違う。
同じメーカーのアルバムをそれぞれの年に誂えた、そう解かる。
オーダーメイドのアルバムを作っていた、そんな敦の身分と立場は相当のものだったろう。

―ならば、なぜ?

なぜ敦の孫である馨が、警視庁にノンキャリアで任官することになったのか?
これだけの財力と立場がある人間、その孫がなぜ危険な現場に立つ運命になるのか?
いったい、この家の抱えた事情はどこにある?
心が溜息に毀たれながら、英二は2冊のアルバムを見つめた。
そっと1939年のアルバムを開くと、学生服を着た青年の写真が英二を見つめ微笑んだ。

“ 長男 晉 1939年 卯月吉日 二十歳”

息子の二十歳を祝った写真なのだろうな?
微笑ましさを想いながら開いていくページには、家族旅行や登山姿、学位授与式と楽しい記憶が連なっていく。
その登山姿の背景は、英二が見慣れた山容のものが何葉かある。奥多摩を好んだという晉の軌跡がなぞれるようだった。
ゆっくり捲っていくページに、ふっと長い指が止められて英二はため息を吐いた。

「…戦争、」

軍服姿の晉。
すこし翳りある笑顔の晉は、書斎机の写真に微笑む馨と似ている。
軍服姿の凛とした姿勢には、卒業式で見た礼装姿の面影が重なっていく。
そして、軍服姿の晉のベルトにはポケットの様な黒い翳があるのが見えた。

拳銃のホルスター

はっきりとは認識できない。
けれど脳裏を掠めた単語に、なにか哀しい確信がある。
この家に纏わる因縁の一端を見た、ごとり重みが心に沈みこんだ。

ひとつ呼吸して、微笑んで心を治めこむ。
そしてまた長い指は丁寧に、ページを捲り始めた。
戦争時代の写真は晉の軍服姿と、この家の外観の写真だけらしい。
戦後になると、パリの街角や大学で撮影された晉の姿が増えてくる。夫婦も一緒に写る凱旋門前の記念写真もあった。
このパリ時代から晉の笑顔がすこし寂しげで、それでも憧れの大学で学ぶ希望と誇りは明るい。
これら家族の肖像たちに、流麗で几帳面な万年筆の筆跡は、丁寧にひとつずつ年号と詞書を添えている。
敦の端正な性格の一端が解かるような小さなメモは、曾孫の周太が作る植物採集帳のラベルを想わせた。

―周太、知らなくっても、似ているんだね?

愛しい面影に微笑んで捲るページに、晉の紋服姿と初々しい白無垢の女性が現われた。
たおやかな雰囲気の上品な微笑が美しい、聡明な切長い瞳の花嫁。これが周太の祖母なのだろう。
凛々しい眉とすこし広めの額が周太とも似ていて、涼やかな切長の瞳が馨そっくりに穏やかで優しい。
まだ二十歳位の花嫁の隣に立つ晉は四十歳前、だいぶ歳が離れているけれど夫婦の肖像は幸せに微笑んでいる。
ほんとうに想い合い結婚をした、そんな幸福が二人の姿からあふれて見ている英二まで幸せにしてくれる。
この夫婦から周太の父、馨は生まれた。そんな実感に英二は、やさしい想いと微笑んだ。

「お父さん、ご両親のこと、大好きだったでしょう…?」

この若い花嫁が加わったアルバムは華やぎ楽しげで、女主人と彼女の睦まじい笑顔の写真が続いていく。
毎年写真に収められる家族の誕生パーティーには、彼女が義母と手作りしたらしいケーキが写っていた。
周太も母親とケーキを作るのが楽しいと話してくれる、きっと祖母譲りの好みなのだろう。
こんなふうに周太は、知らなくても祖父母たちと繋がっている。

―このことを、周太に教えてあげられるのはいつだろう?

この楽しい写真たちを早く周太に見せてあげたい。
きっと喜んで、この家の最後の1人になる周太の哀しみも癒されるだろう。
けれど、この写真たちは馨が家族から隠したかった「隠匿の事情」がある。それが解かるまでは見せるわけにいかない。
だからこそ早くこの「隠匿の事情」に絡まる謎をほどいてしまいたい、そしてヒントを得たい。
そんな祈りと見つめるページに幸せな家族の肖像は続き、1939年からのアルバムが終わった。

「…ここまでは、ホルスター、か…」

ひとりごと呟いて、英二は少し新しいアルバムに長い指をかけた。

since 1959

すこし新しい手触りの青絹がふれる。
そっと表紙を開くと、繊細なレースの産着にくるまれた赤ん坊の笑顔が現われた。

“嫡孫 馨 1959年 皐月吉日 鶴壽亀齢 佳き馨のように周くを歓ばせる人生を祈って”

周太の父、馨の生誕と長寿を言祝いだ写真と詞書。
愛くるしい瞳と幸せに笑う顔に、英二の瞳から涙がこぼれた。

「…どうして、」

どうして、この幸せな赤ん坊が、あの最後を迎える運命になるのだろう?

清楚なレースの真白な産着のなか、無邪気な笑顔が咲いている。
明るい純粋な笑顔に翳はない、紺青色の日記の最初のページのように明るい光あふれている。
それなのに、なぜ?

「なぜ…あなたが、あの場所に?」

この赤ん坊の辿る哀しみの人生、その結末を知る心に詞書は痛みがはしる。
確かに馨は、いつも笑顔で周囲を温める生き方をした。
けれど、その中心にいた馨本人は?
そんな疑問を見つめながら英二は、静かに涙を払い息を吐いた。

― まだ、ヒントに出会っていない

なぜ馨がこのアルバムたちを隠したのか?
この隠したい「事情」に知りたい謎を解くヒントが隠されている。
馨が「隠匿」したかった程の事情、それらしき様子は今までの2冊には目立ってはいない。
この3冊目に何かがある、ここに隠れたヒントを知れば前の2冊とも隠した事情が分かるはず。
慎重にページを捲っていく視線のなかで、おさない馨の愛くるしい笑顔が咲いていく。
その可愛らしい笑顔が、愛するひとの笑顔と重なって心が軋みそうになる。
この笑顔に翳り射す運命を知っている、その息子が籠った孤独の冷たさを知っている。
この哀しみが、アルバムの幼い笑顔が幸福であるほどに、哀しみの冷たい現実が想われて痛い。

―なぜ、なにがあった?

心に疑問を呟きながら捲るページには、幸福な家族たちが映っていく。
そうして古い紙を繰っていた指が、ふっと止まった。

「…抜けている?」

3歳の馨が笑う写真たちに、あるべきはずの写真が無い。
英二は前のページを捲り返した、そこにはある。そして『since 1939』『since 1914』にもその写真はある。
なぜ1962年の分は、この写真が無い?

「…曾おじいさんの、誕生会の写真が無い?」

1914年から続くアルバムには、ずっとこの日の写真が載っている。
けれど1962年の誕生会写真が無い、そしてこの年以降にも無かった。
詞書のメモも1962年の途中から筆跡が変わっている。

「…このころ、亡くなった、ってことか…合ってるな、」

過去帳で見た敦の逝去年は1962年になっているから、このメモの筆跡変化は納得できる。
敦の行年は1962年、でも月日はいつだったろう?

「…まさか?」

違和感を感じて英二は考え込んだ。
けれどそのままアルバムのページを確認し始めた。
どこかほかに、違和感はないだろうか?そんな想いで捲ってすぐに寝間の浴衣姿の女性が写っていた。
病床らしい写真では、馨が無邪気に彼女の懐に抱きついている。息子を抱きとめる母親の微笑はどこか哀しげだった。
そして彼女が寝間用の浴衣以外で映る写真は無いまま、イギリスの風景が映る写真へと変わった。
晉と馨の渡英直前に、馨の母は病没している。それを表していく写真に英二は、ほっとため息を吐いた。

―途中まで、幸せだけが写っていたのに…

1962年。
この年を境にして雰囲気が変わってしまう。
曾祖父の敦が亡くなった、それだけでこうも変化するものだろうか?

「…雰囲気?」

自分で想ったことに違和感を感じて英二は、もう一度1962年までページを遡った。
そうして遡っていく写真では、家族の表情に1つの変化がある。
その変化の違和感に英二は異様さを感じた。

なぜ、3人の笑顔に翳がある?

曾祖父の敦が亡くなった、それは哀しいことだろう。
けれどなぜ、こうも翳が生まれてしまうのだろう?そして馨の母は病床にまで就いた。
この大きすぎる家族の変化に、さっきの「まさか、」が想われる。

行年1962年、月日は?

『since 1959』のアルバムは馨の二十歳の記念写真で終わった。
初々しいスーツ姿に微笑んだ切長い目は、明るい未来を見つめる幸福に輝いている。
大学2年生の馨は、あの紺青色の日記に書かれている通りの、明るい誇りに満ちていた。
このころの馨は、自分の未来に大きな誇りを持って生きている。

「…この姿を、妻たちには見せられませんでしたか?」

見せられないかもしれない。
現実の「今」とは違う道に夢と誇りを見ていた頃の、幸福な笑顔は。
この時の幸福な笑顔と、現実の「今」の翳さした笑顔の狭間に横たわる、深い溝の存在を感じさせてしまうから。
けれど、このこと以外にアルバムを隠した理由は何だろう?その疑問にさっきの「まさか」が思われる。
疑問を抱きながら英二は、『since 1959』のアルバムを古新聞の上にそっと据えた。

『since 1959』『since 1939』『since 1914』

並ぶ3冊のアルバムたち。
この年号を見て、英二の切長い目がすこし大きくなった。

「…足りない?」

『since 1959』は1979年の写真で終わっている、なら1980年以降の写真はどこだろう?
周太の母が嫁いだ1987年以降は、リビングの書架にあるのは知っている、けれど1980年から1986年までが無い。
そして『since 1914』の最後は1925年で終わるため『since 1939』まで1926年以降の13年間の空白がある。

あるべきはずの1926年から1938年の写真と、1980年から1986年のアルバム。
そして敦の逝去日への違和感。

「…まず、亡くなった日から、だな」

ひとりごとに行動を決めて英二は、3冊のアルバムを纏めると包んであった用紙も一緒に用意した袋に入れた。
袋ごと自分のボストンバッグの底に納めてその上から畳んである服を重ねると、ファスナーを閉じこんだ。
それから手帳を取出してページを繰って、ほっと英二はため息を吐いた。

「同じ日だ、」

周太の曽祖父、敦は1962年の自分の誕生日に亡くなっていた。

過去帳と湯原家墓所で確認した5つの行年月日。
これを記した手帳の数列は1桁目から4桁目は『1962』と記されている。
そして5桁目から8桁目は、毎年撮影された誕生会の月日と同じだった。

これは偶然なのだろうか?

1962年、敦の誕生日にして逝去日。
この日以降に撮影された家族の肖像は、妻と息子夫婦の3人とも表情にどこか翳がある事が気に懸ってしまう。
この翳の原因は敦の死に絡む事情にある、そう考える方が自然になる。

なぜ、敦は誕生日に死なねばならなかったのだろう?

疑問を心に見つめたまま英二はクライマーウォッチを見た。
時刻は14時半、周太の母が出掛けてから1時間半が経過している。
まだ時間は1時間は残されているだろう、この1時間で今、するべきことは何だろう?

「…残りの写真の行方、だな」

英二は勉強机の傍らに跪くと、もう一度、机の全体を確認し始めた。
注意深く見ていくと、全てのネジの頭部に小さな傷がどれもついている。
そしてネジ穴の周りが幾分、すり減ったような痕が見られる部分もあった。
この机には組み立て直された痕跡がある。

「…やっぱり、これが書斎机なんだ」

この机が「もう1つの書斎机」の正体。
まだ大学生だった馨が父の晉から書斎を譲られる時、父の為に手作りして贈った書斎机。
この机は元は「もう1つの書斎」晉が書斎にしていた屋根裏部屋に、元は置かれていた。
けれど屋根裏部屋から机を動かすには、出入り口が小さくてそのままは運べない。
そのため分解して運びだし、この部屋で組み直したのだろう。
そして勉強机として息子に使わせていた。

「お父さん?…側面の板は、アルバムの為に付け足した。そうでしょう?」

脚部と側板のフォルムには歪みの差が表れ始めて、微かに隙間が生じ始めていた。
これが、脚部と側板の木材が同じ年代に切りだされていないことを証明している。

「木材の経年差による乾燥度の違い、これが木材の接合部にズレを作るんだよね。そこを確認したらいい、」

奥多摩から帰ってくる昨夜の車中、国村が教えてくれた言葉。
まさに言葉通りに「ズレ」は随所に生まれ、抽斗の枠組と側板の接合部にも細く隙間が空いていた。
おそらく馨は、3冊のアルバムを隠すために側板を付加したのだろう。

消えていた「もう1つの書斎机」は見つけられた。
けれど、残された写真の行方と「隠匿の事情」の証拠が見つからない。
すこし焦燥感を覚えてしまう、時間が気になって英二は左手首を見た。

14時48分

焦燥感と見たクライマーウォッチの文字盤が、残り時間を告げてくる。
このあと周太の母が帰ってくれば家の中は作業が出来ない。そして明日からは周太が一緒にいるから動きはとれなくなる。
家での調査できる時間は今のチャンスだけ、そう想う方が良いだろう。
彼女の帰りは16時の予定、帰りが早まる予測を入れたら1時間を切った。この時間内だとあと1カ所しか調べられない。
それなら可能性の高い場所を見た方が良い。

3冊のアルバムは、馨が造ったこの机に隠されていた。
それなら残りの写真たちを馨なら、一体どこに隠すだろうか?
本を大切にしていた馨は、やはり写真も大切に保存できるように隠していた。
そんな馨はどこに隠すだろう?

「保存状態が保てる場所…か、」

ひとりごとに考え込んで、頭のファイルを映像化してみる。
今回と同じような場所なら「机」になるけれど、この家にはあと2つ机が存在している。
1つめはリビングのパソコンデスク、元は馨の勉強机だったと聴いている。
2つめは書斎にある重厚な書斎机になる。

どちらの可能性が高い?

隠したのなら、改造した痕跡が遺されているはずだ。
ならば2つの机で改造された痕は、どこに見たことがある?
脳にながれていく思考と映像に、ふっと英二はつぶやいた。

「…書斎机の、あの抽斗…」

工具入れを持つと英二は廊下へと出た。
そして隣の書斎に入ると、書斎机の写真立に頭を下げた。

「お父さん、この机も見させてください。すみません、」

クライマーウォッチの長針が「10」を過ぎている、あと30分だと思う方が良い。
すぐに抽斗の前に膝まづいて、首から革紐を外すと英二は合鍵を長い指に持った。
これは馨の合鍵だった、この合鍵の根元には後から作られた刻みがある。この刻みこそが大切な「鍵」になっている。
1つの抽斗の鍵穴に英二は合鍵を挿し込んだ、この刻みのお蔭で鍵はきちんと根元まで鍵穴と噛みあっていく。
そして合鍵をひねると、かちりと小さな音を立てて抽斗は開かれた。

開いた抽斗には元は、馨の20年が綴られた紺青色の日記帳が入っていた。
その日記帳を読むために英二は奥多摩に持ち帰った、そして静養中に読み進めようと今、鞄に入っている。
だから抽斗には今は何も入っていない、一見は。
けれど切長い目を細めて、英二は低く呟いた。

「…ここにも、ズレがあった、」

抽斗の底板と内板の間には、細い隙間が生じている。
注意深く見ないと気付かない程の歪み、けれど確実に木材の経年差が現れていた。
予測は、当るだろうか?

「…マイナスドライバーで、いけるかな、」

工具セットからマイナスドライバーを出してグリップに嵌めこむ。
そして抽斗の内板と底の間に刃を入れて、木材を傷つけないよう慎重に底板を外し始めた。
かつつ、小さな音を立てて緩やかに底板が上がってくる、板を割らないよう丁寧に英二は底板を外していった。

かつん、

小さな音と一緒に底板が外れた。
そして覗きこんだ抽斗は、旧来の底板の上に30cm角の紙包と封筒が置かれていた。



なぜ、この2つだけが、この抽斗に仕舞いこまれたのか?

この疑問の答えが、心に重たく沈みこむ。
慎重に2つを取出すと、英二は底板を元通りに嵌めこんだ。
元通りに抽斗を閉めるこの重みは、ほんの数分前より軽く楽に動いていく。
きちんと施錠すると見つけた2つを持って、英二は周太の部屋へと戻った。

クライマーウォッチの時刻は15時13分。
中身をあらためるだけの時間は残されている、古新聞を手早く床に広げると慎重に2つを据えていく。
30cm四方の紙包みは、3点のアルバムと同様の梱包になっている。
やはり同時期に馨が隠した、そんな推論を想いながら開いた包みから、青い絹張り表装が現れた。

『since 1980』

予想通りの年号表記が鮮やかに刺繍されている。
他の3冊より新しい雰囲気の1冊は、他よりも重量が軽い。
きっと、そうだろうな?予想を抱いて丁寧に捲っていくページには、全体の1/10も写真は貼られていない。
それでもコンスタントに貼られている写真の日付は1981年、この年までは馨と晉、そして晉の母親の写真がある。
それ以降1982年からは、誰かに貰ったような写真しかなかった。

「…写真を撮らなかったんですね?お父さん、…」

1981年初夏、周太の祖父である晉が亡くなっている。
晉が亡くなった後からは、もう詞書は無くなっていた。このアルバムには。
けれど、リビングの書架に1987年以後のアルバムには、馨の詞書が付されている。
周太の母が来てから馨は、カメラを再び手にとった。
その馨の想いが解かる気がするな?微笑んで英二は考え込んだ。

なぜ、このアルバムを馨は別の場所に隠したのだろう?
この理由にヒントが隠されている。
そんな想いで見つめる数少ない写真たちに、ふっと英二は違和感を感じた。

「…射撃の写真が、無い?」

周太の父は、射撃で大きな大会の優勝を幾つもしている。
それは大学3年生の初出場から続いている快挙だった、それなのに1枚も写真は無い。
あの紺青色の日記帳によると、晉は息子の射撃部への入部を猛反対している。
父の反対と友達への義理の板挟みになりながら、馨は射撃部を続けていたらしい。
それでも、こんなにも写真が無いのも不自然だろう。

山岳部での写真は貼られている、けれど射撃部のものは1葉もない。
幾ら反対していたと言っても、なぜ、ここまで徹底的に排除されているのだろう?
そんな疑問に先ほど見た、1葉の写真が頭のファイルから呼び出されてくる。

拳銃のホルスター

戦争へと出征する前に撮影された、軍服姿の晉。
彼のベルト脇、腰には黒っぽい影のようにポケット状のものが写っている。
これを英二は「拳銃のホルスター」だと感じた、この晉の写真から言葉がこぼれた。

「…お祖父さんも、射撃をしていた、」

サーベルではなく、拳銃を佩いた軍服姿。
当時の晉は大学院生だった、けれど学徒出陣で出征したと詞書に記されている。
そのとき晉の、軍人としての役目は何だったのだろう?

「これだけだと、解からないな…」

ほっと溜息を吐いて英二は、アルバムを閉じた。
自分の鞄を開いて、さっき仕舞いこんだ紙袋を取出していく。
他の3冊と一緒に『since 1980』も仕舞って、また元通りに鞄の底へと収めた。

「…あと、これか、」

古新聞に置かれた封筒。この封筒の中身は何か?その疑問の答えへの予測が哀しい。

敦の誕生会の写真には必ず、写っている物がある。
毎年撮影する誕生会の写真、その席に座る敦の傍らには必ず厚い冊子が据えられていた。
この冊子が年数を重ねるごと、1冊ずつ増えていく。そして最後の1961年の写真には、4冊が写っていた。
今回見つけたのは『since 1980』『since 1959』『since 1939』『since 1914』
もちろん1961年に映っている4冊には『since 1980』は存在出来ない。
だからもう1冊のアルバムが1961年までには存在していたことになる。

『since 1926』

あるべきはずの2冊目『since 1926』に納められていたのは、1926年から1938年の写真たち。
1926年から1938年の写真が、おそらくこの封筒の中身だろう。
けれどなぜ、この13年分だけがアルバムではなく封筒に入っているのだろう?

英二は応急処置の時に使う感染防止グローブを填めた。
この封筒の中身が古い写真なら、素手だと皮脂で写真を傷ませる可能性がある。
この家の大切な記憶を傷ませたくない、そんな想いにグローブを使いたかった。
きちんとグローブをした掌に封筒をとると、丁寧に封函を開いた。

アルバムが消えた理由はなんだろう?

慎重に封筒の中身を取出し、瞬間、英二は息を呑んだ。



(to be continued)

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第41話 久春act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-04-23 23:59:31 | 陽はまた昇るside story
※中盤2/4~3/4あたり念のためR18(露骨な表現はありません)

春つづく日を想い、



第41話 久春act.1―side story「陽はまた昇る」

おだやかにカーテン明るむ暁の光がやさしい。
夜の墨色はあわい藤色へと姿を変えて、やわらかな春の朝を予感させる。
夜と朝の境時、腕のなか眠りこんでいる額にキスでふれて、英二は微笑んだ。

「本当に疲れたよね、周太…心配かけて、ごめんね…」

白いリネンにくるまれて、パジャマ姿の周太は深い眠りに安らいでいる。
昨夜、奥多摩から戻ってくる四駆の車中で、すとんと周太は墜落睡眠におちた。
そのまま川崎の家に着いてからも、一度も目覚めないで眠っている。
だから車を降りる時は、怪我した英二を気遣って国村が周太を抱き上げてくれた。

「お姫さまを、お姫さま抱っこするなんてさ、イイ気分だね?」

そんなふうに笑って周太をリビングのソファに連れて行ってくれた。
待っていてくれた周太の母と、3人でコーヒーを飲んでいる時も周太は目覚めず眠りこんだ。
コーヒーを飲み終えた国村が帰るとき、すこし黒目がちの瞳を披いたけれどすぐ瞑ってしまった。
そんな周太の額にキスをおとすと、底抜けに明るい目は温かに笑んだ。

「お姫さま、眠りの森に入っちゃったね?まあ、昨日は徹夜だったから、仕方ないか」
「なんか悪いな?ごめん、国村」

何だか申し訳なくて英二は国村に謝った。
けれど大らかな優しい笑顔は透明なテノールで言ってくれた。

「詫びなんか要らないね?おまえが眠りの森の美女やってる間はさ?俺が周太の付添だったんだ、イイ気分だったよ、」

からり笑って国村は小柄な体を抱き上げると、2階の周太の部屋まで運んでくれた。
それから周太の母に辞去の挨拶をすると、また四駆の運転席に乗り込んだ。
そのとき庭先の駐車場まで見送りに出た英二に、国村は低めたテノールで言ってくれた。

「さっき車の中で言っていた、『もう1つの書斎机』だけどさ?おまえの推理は正しいと思うね、俺も」
「いま見てみたんだ、国村?」
「そ。周太が生まれてから作ったにしては、木材が古いよ?しかも部分的に材質が違う。だから、俺は宮田の推理に賛成するね、」

そんなふうに裏付けを教えてくれると、悪戯っ子に細い目を笑ませた。
またなんかやる気かな?そう見ている英二の口元へ、白い指で投げキスを送りつけて可笑しそうに微笑んだ。

「俺の愛しい、麗しのアンザイレンパートナー、暫しのお別れだね?」
「愛しくなくっていいけどさ。連続で休暇になって、ごめん。農業の方、困らないか?」

複数駐在所の御岳では常駐の岩崎所長と、この2人が交替で勤務するから英二が休めば国村が出勤することになる。
だから国村は5日ほど連続出勤する予定になった、これが兼業農家でもある国村には申し訳ない。
いつも休日は実家の山林や畑の手入れに行く国村には、5日も農業に従事できないのは困るだろうな?
そう想って謝った英二に、何のことは無い貌で国村は言ってくれた。

「畑は平気だよ、美代が見てくれるし、祖父さんたちも元気だからね?山の畑は出勤前か昼休みに行けるしさ。
それより、おまえこそキッチリ治しなね?あと10日で滝谷だよ、万全の体調で登って貰わないと困るからさ、いいね?」

話しながらエンジンキーを回して笑ってくれる。
いつもながらの大らかな優しさに感謝して、けれど気になってしまう事を英二は訊いてみた。

「ありがとう、国村。でさ?なんで、おまえ、俺になんかキスしたんだよ?」
「うん?ああ、お目覚めのキスのこと?」

運転席で首傾げた国村に、英二は頷いた。
そんな英二に底抜けに明るい目が、楽しげに笑って微笑んだ。

「言った通りだよ、山っこのキスは強力な護符だからね?あとは救助後の昂ぶりと、俺の趣味と愛ってトコ。ほら、」

そう言い終わらないうちに、運転席の窓に近寄せていた英二の顎へと白い手が掛けられた。
不意を突かれている隙に惹きよせられて、ふっと甘く清々しい香と秀麗な貌に近寄せられる。
けれど、運転席の扉に腕を突張って、体勢を立て直すと英二は微笑んだ。

「そう何度も、勝手にさせないよ?」
「あれ?巧いこと避けたね、おまえ。そんなに遠慮するなよ、俺の目覚めのキス、気持ちよかったろ?」

飄々と笑いながら英二の顎を持って、底抜けに明るい目が顔を眺めてくる。
なんだかこの状況は変だな?顎を持たれたまま可笑しくて英二は笑いながら断った。

「キスも周太限定なの、他とはしない」
「だったら尚更、俺とするべきだね?で、キス巧くなって、周太を喜ばせてやんなよ。ま、続きは奥多摩でな?」
「続きはいらないよ?でも、奥多摩には戻るから、」
「おう、ちゃんと戻りなね?周太に溺れすぎるんじゃないよ、戻れなくなったらヤバいからさ」

からり悪戯っ子に笑って手を離すと、そのまま英二の頬を小突いた。
小突かれた頬をさすった英二に、透明なテノールが微笑んだ。

「じゃ、木曜の午後に迎えに来るからね。それまで、周太以外とえっちするんじゃないよ、」
「誰とするっていうんだよ?」

呆れながら笑った英二に、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
そして「連絡するね、」と手を挙げると、国村は奥多摩へと帰って行った。
そのあと風呂を済ませて、おやすみなさいと周太の母に挨拶してからも周太は起きていない。
だから英二が周太を着替えさせて、こうして抱え込んで眠りについた。

「おかげで全部、見れちゃったな、周太のこと…」

昨夜の気恥ずかしい幸せな記憶に、素直に英二は微笑んだ。
以前、バレンタインの夜に酔っぱらった周太を寝かせるため、シャツと下着以外を全て脱がせたことはある。
その前にも眠っている周太を朝湯に浸からせた後で、着替えさせたこともある。
けれど、どちらも全身をゆっくり見られたわけではない。
でも昨夜は、バレンタインの夜のように具合が悪いわけではないし、朝湯の慌ただしさも無い。
それで英二はつい、着替えさせる為に脱がせた周太を、ゆっくりと見てしまった。

いつものベッドの時も、勿論すべて脱がせてしまう。
けれど恥ずかしがって周太はすぐ隠そうとするし、真赤になって恥らう周太を無理に見ることもしたくない。
なによりベッドの時間が始まってしまえば、周太の艶めく表情が見たくて眺めるより体を動かしてしまう。
だから、ゆっくり周太の全てを眺めることは初めてだった。

「…だって周太、全然、起きなかったから…歯止めがね、」

つい言い訳のような独り言をつぶやいて、頬が熱くなった来た。
どうも奥多摩鉄道の夜以来、自分は紅潮しやすくなったと思う、どれも周太限定だけれど。
あの夜は周太が追いかけてくれて、そして河辺のビジネスホテルで夜の可愛いワガママをいっぱい言ってくれて嬉しかった。
だから昨夜も本当は、たくさん夜の可愛いワガママを聴かせてほしいなと思っていた。

あの雪崩から生還して、すこし心身が昂ぶっている所為もあるだろう。
それに雪崩に呑まれる瞬間からずっと、周太のことだけ想って自分は帰って来た。
そんなことからか、昏睡から覚めて以来ずっと周太を求めたい想いが強く起きてしまう。
けれど病院ではさすがに気が退けて、ベッドの中で抱きしめるだけで満足した。

そんなふうに本当は昨夜を待っていたから、起きてくれないのは残念で寂しい。
けれど英二の為に周太は、心根から疲れ果てたと解っている。
まず英二の容態への心配をかけた、そして英二の母との対面で緊張と痛みに哀しませた。
それから夜通しの看病をしてくれて、精密検査の結果待ちにも不安にさせただろう。
だから昨夜は、静かに休ませてあげようと思っていた。
けれど、

「でも…ごめん、周太、…勝手なこと、しちゃって、」

謝罪の言葉を告げながら、英二はそっと眠る恋人を抱きしめた。
いま周太はきちんとパジャマを着て眠っている。
けれど日付が変わって2時間後までは、裸身のまま周太は抱かれていた。

ゆっくり寝んでほしいから着替えさせてあげたいな。
そんな理由で最初は周太を脱がせ始めて、全ての衣服を小柄な体から抜き取った。
そして見た素肌が綺麗で惹きつけられて、替えの下着もパジャマも着せないで見惚れてしまった。
そんな英二の視線にも深い眠りに横たわる無邪気な無防備が、無意識の誘惑になって心がひっぱたかれた。
あの痛烈な心の緊縛とあまやかな誘惑の記憶に、そっと英二は寝顔に囁いた。

「…周太の所為じゃないけど、反則だよ?周太…、」

誘惑されるままキスをしても、周太は目覚めない。
耳元に首筋に、肩に腕にとキスをしても寝息は安らかなまま。
ゆるやかに吐息うつ胸元にキスをして、舌でふれても眠りは醒めない。
そんな周太の様子につい、好きな場所に好きなだけふれて、見たいだけ見てしまった。
そうして見た周太の体は秘められた所も何もかも、愛しくて可愛くて、存分にキスして味わってしまった。

「周太…見ちゃった、俺…周太も見たこと無いとこまで…怒る?」

もう自分は、周太のどこに何個ほくろがあるかも言える、本人すら知らない所まで。
それが満足で嬉しくて仕方ない、たとえ怒られても反省が出来そうにない、それくらい幸せな気分でいる。
そして困ったことは、たぶん今回の幸福感から『癖』になりそうなことだった。

「…俺、もう完全に、変態の仲間入り、だよな…」

ひとりごと呟いて英二は、こつんと周太の額に額をよせた。
この無邪気に眠る純粋な恋人を、眠っている間に視線と指と口で存分に味わってしまった。
この間に周太が見た夢はなんだろう?そんなことを気にしながら英二は窓を見た。
カーテン透かす光はまだ早い時間だと告げてくれる、たぶん5時半を過ぎたところだろう。
まだ外も家の中も眠りが深い、夜の静謐が残る世界はおだやかに鎮まっている。
こんなふうに。愛するひとを抱きしめて見つめる夜明けの時間が、自分は好きだ。
今この時間にある幸せに、心から英二は微笑んだ。

―この静かで幸せな時間に、また帰ってこられた

あの雪崩に呑まれた時、この時間が終わるかもしれないと思った。
けれど、どうしてもこの腕に眠るひとに逢いたくて、生きて逢いたくて生命の糸に自分は縋った。
どうしても抱きしめたかった、こうして胸に抱いて眠りたくて、心と体繋げる幸せに酔いたかった。
なによりも笑顔に逢いたくて、自分は生きたかった。

「周太…君とこうしたくて、帰ってきたんだ、俺は…でも、今夜は離れちゃうね?」

今日の周太は午後になれば当番勤務の為に新宿へ戻る、けれど明日の朝にまた帰ってきてくれる。
だから焦ることはないだろう、それでも昨夜の時間は幸せで、眠っていても温もりにふれた時間は幸せだった。
そして今もまた、温もりに触れたい想いが強い。そんな自分に英二は困って微笑んだ。

「ごめんね、周太?…ちょっと俺、君のこと好き過ぎるみたいで…でも、赦してくれる?」

眠っている唇にキスでふれる。
ふれる吐息が眠っている呼吸に安らかで、深い眠りに恋人がいると知らされる。
そっと唇を拓いても目覚める気配がなくて、英二は眠りこむ長い睫を見つめながら深いキスにふれた。
唇からふれていく温もりが愛しい、一方的に絡ませる熱もされるがままで、どこか征服感のような満足がおかしくさせる。
こんな熱は今の自分には強すぎて変になる、けれど離せない。

―惑わされそう、こんなのは…

キスが熱い、けれど長い睫は動かない。
抱きしめる体も抱きしめられるまま、やわらかに撓んで添ってしまう。
こんなに熟睡するほどまだ幼い恋人が、尚更に愛しさ募らされて愛撫が止まらない。
長い指がパジャマを捲りあげ押し下げて、素肌の艶と熱を求めて動き出してしまう。
このままだと歯止めが利かなくなりそう?そんな想いに自制心がなんとか動いて、英二は恋人に告げた。

「…周太、…起きないの?…このまま、しちゃうよ、俺…」

いつもは真面目で冷静に落着いて「国村のブレーキ」だと言われている。
今回も真面目すぎの結果に溜った休暇を、少しでも消化しろと休みを貰えた。
けれど今の自分は真面目どころか、犯罪者一歩手前のことをしている。
あんなにも強姦への懺悔に泣いた癖に、こんな眠っている時に抱こうとしてしまう。

「山ヤで警察官なのに…変態で犯罪者なんて、困るよ?お願いだ周太、目を覚まして、俺を止めて?…君しか止められないんだ、」

この恋愛の前には、真面目も冷静も役立たず。
いつもストイックと言われる位に強めの自制心まで、折られたいと嬉しげに軋んでいる。
こんな自分は本当に恋の奴隷で、普段の顔など行方不明のまんま、どこに行ったか自分でも解からない。
こんな自分を持て余して困り果てて、英二は眠っている自分の恋の主人に懇願した。

「ね、周太?俺に命令してよ、止めろって。でないと俺、本当にこのまましちゃうよ…周太、命令してくれ、お願いだ、」

お願いだから俺を止めて?
あまやかな束縛と困惑に溺れる救けを求めて、長い睫を見つめた。
そうして見つめる想いの真中で、長い睫はごく微かにゆらめきを見せた。

「周太、」

やっと起きてくれる?そして命令して叱ってくれる?
いま目覚めてくれそうな恋の主人を見守るなかで、ゆっくり長い睫が披かれていく。
そして見開かれた黒目がちの瞳が、英二を見つめて微笑んだ。

「えいじ?…だいすき、」

きれいな微笑が頬よせて、やさしいキスで唇を重ねてくれる。
ふれる温もりと幸せが嬉しい、けれどちょっと今は困ってしまうのに?
いま、本当は求めたくて仕方ない、それなのにキスされたら自制心の最後が折られてしまう。
どうしよう?困惑のまま幸せに溺れかけた英二に、そっと離れた唇と瞳が幸せに微笑んだ。

「おねがい…だきしめて、きす、してね、…」

ばっきり、

自制心の折れる音を英二は、再び自分の心に聴いた。
奥多摩鉄道の夜に初めて聞いた、恋の奴隷に成り下がった夜の音。
あのときと同じように時めいて、大切な自分の主人に見惚れながら英二は質問をした。

「…しゅうた、抱きしめてキス、すればいい?」

訊きかえす声は時めく想いに、息の根が止められそう。
こんなお願いは今の自分にとって、嬉しすぎておかしくなる。
嬉しいままに見つめる愛しい瞳が、幸せそうに気恥ずかしく微笑んだ。

「ん、して…あいしてるならいうこときいて、ね…」

幸せそうな黒目がちの瞳は無垢の誘惑に微笑んだ。
この微笑に心ごと縛られて惹きまわされる、プライドも砕かれてしまう。

「愛してるよ?…抱いてキス、したいよ?」

本当に君からも望んで誘惑してくれる?
切ない想いで見つめた微笑は、ふっと眠たげに瞳を細めた。

「すき、えいじ、…」

長い睫が黒目がちの瞳に降りていく。
ゆっくり降りた睫に瞳は伏せられて、無垢の誘惑に微笑んだまま眠りこんでしまった。
そうして安らかな寝息がまた、規則正しく英二の懐で幸せに零れだした。

「周太?」

呼んでも睫は披かれない。
顔を覗きこんで抱き締める、けれど微笑んだ寝顔の瞳は披かれない。
そんな様子に溜息吐いて、英二は困ったまま微笑んだ。

「…寝惚けて、一瞬だけ起きて…命令で誘惑しちゃうの?周太、」

止めてもらうために命令してと言ったのに?
それなのに「抱き締めてキスして」と命令されてしまった?
こんなのちょっと、反則どころか全面降伏になってしまう。
もう観念して奴隷どころか、悪人になろうかな?あまやな罪悪感に英二は微笑んだ。

「仰せのままに、従っていいの?俺の恋の、ご主人さま…」

ずっと求めていた、あの雪崩の瞬間から愛するひとの温もりを。
だから今、差し出された時に手を伸ばしてしまう、夢言にでも告げられた命令に縋らせてほしい。
想いに唇ふれて深くキス重ねながら、裾から捲りあげたパジャマを華奢な骨格の肩から抜きとった。
ふれる艶に掌が喜んで温かな素肌にふれていく、長い指がパジャマのウェストにも手を掛けたがる。
それでも微笑に眠る恋人に、英二は切ない笑顔を向けた。

「…赦してほしいよ、周太?…お願いだ、」

長い指がウェストに掛けられ引きおろされて、洗練された肢体が目に晒される。
露になる素肌ふれる感覚が幸せで、最後の自制心の欠片をおしながす。
ふれる熱が心狂わせていく、体ごと繋いで融け合いたいと求めていた想いが侵食する。
もう、止められない。

「ごめん、周太…愛してる、君がほしい、…ふれたい、君に、」

言葉に想い告げながら唇を重ねあわせて、自分の腕もシャツから抜いた。
もどかしい1枚の布地が脱げ落ちていく、もうブレーキになる存在が消え去っていく。
首に懸けた合鍵を外してベッドサイドに置いた、ことんと立つ音にも恋人は目覚めない。
無垢な微笑が艶やかな裸身を無防備に魅せて、無意識の誘惑が永遠に繋がる想いを惹きこんでいく。
この美しいひとは自分の婚約者、そして永遠の恋人に結びたい唯ひとり。

「愛してるよ?…ずっと、君を求めてる、ずっと傍にいたい。君だけなんだ、だから、赦して…」

切ない恋心に重ねる唇、深いキスに想い熔かして永遠の愛に赦しを乞う。
もう、思考力すら消えて「愛している」しか解からない、ふれる素肌の温もりだけが全てになる。
ずっと求めた人を素肌に抱きしめて、ふれる愛しい熱に全身の肌から侵されて、もう「止める」ことなど忘れ果てた。
ただ愛している。求めていた瞬間と幸福に微笑んで、あまく融ける熱に英二は溺れこんだ。



朝湯と着替えを済ませ、周太の母に朝の挨拶をすると英二はベッドに戻った。
浴室の湯に絞ってきたタオルで、眠りこんでいる体を拭っていく。
それでも周太は目覚めない。

…周太、本当に疲れている…無理ないな、

それなのに自分は夜も朝も、あんなことをしてしまった。
雪崩に呑まれる瞬間から求めていた温もりに、眩んだ心のままで見つめてふれて味わった。
こんな自分は普段「ストイックで堅物」と呼ばれることが嘘のよう、ただの恋愛の虜で恋の奴隷に過ぎない。
よく国村に「エロ別嬪」と言われるけれど、これからは否定できそうにない。
それどころか国村に事実を知られたら確実に、ケダモノ認定か変態呼ばわりされるだろう。

「周太、君のために俺、変態になっちゃったよ?…」

あまい罪悪感に溜息吐いて微笑むと、きちんとパジャマ姿に戻した周太を抱きしめて横になった。
いま懐で眠りこんでいる恋人は、午後には警察官として当番勤務に行ってしまう。
こんなふうに眠る顔は可憐で、何をされても目覚めない深い眠りにおちるほど幼い素顔でいる。
こんな幼い素顔のひとが任務に立つのが不思議になる、けれど凛々しい顔を持っている事も知っている。
それでも本当は心配で、この純粋無垢な素顔のまま生きさせてあげたいと願ってしまう。
そして本音を言ってしまえば、このままどこにも行かせたくはない。

「…離したくないな、周太…」

本音の想いに溜息ついて抱きしめる。
こんな想いもあって尚更に、夜も朝もふれたくて仕方なかった。
ひとり今夜はここで眠ることになる、それもまた切なさが込みあげそうになる。

―きっと、今夜は切ない…温もりが恋しくて、逢いたくて、きっと…

ほんとうは今日は新宿まで見送りたい、明日も迎えに行きたい。
けれど自分は今、遭難事故の事実を一切黙秘する責務がある。
この責務には額に巻かれた包帯姿を、警視庁管内で晒すわけにはいかない。
その為にも後藤副隊長と国村は、警視庁管外になる川崎の家での静養を考えてくれた。
それを裏切ってしまう事など、自分には決して出来やしない。

「ね、周太?…明日は、早く帰っておいで?そして、君を抱きしめさせて…」

心からの願いに微笑んで、英二は恋人の唇にキスをした。
やさしい温もりの幸せふれて笑いかけると、ふっと長い睫がふるえた。
こんどこそ起きてくれるのかな?嬉しい予感に見つめる真中で、ゆったり長い睫が披かれて黒目がちの瞳が微笑んだ。

「英二?…おはようございます、俺の、はなむこさん?」

目覚めた最初に、愛情の呼名で告げてくれる。
この温もりと幸せに微笑んで、英二は綺麗に笑った。

「おはよう、俺の花嫁さん。…ごめんね、周太?」

あまい罪悪感に困りながらも、幸せに英二は微笑んだ。
そんな英二に首傾げて、幸せに明るい瞳が優しい微笑みをくれる。

「どうしてあやまるの?…俺こそ、あやまらなくちゃ。ずっと眠っちゃって…着替えまで、ごめんね?…寂しくなかった?」
「寂しかったよ、周太。でも俺、本当に謝らないといけないんだ。ごめん、周太。許す、って言って?」

理由を訊かずに先ず許して?
そんな臆病な願いで見つめた先で、黒目がちの瞳が不思議そうに訊いてくれる。

「どうしたの?なにも悪いこと、していないのに?…俺こそ、寝ちゃっていて、ごめんなさい…怒ってるの?」
「怒ってなんかいないよ?ごめん、周太。お願いだから『許す』って言ってくれるかな、理由は訊かないでも、ね?」

ちょっと理由は言えないです、凄すぎて。
眠っている君を昨夜、好き放題に見て触れて唇と舌でしたいだけ味わいました。
そして朝に至っては、きちんと抱いて体を繋げてしまいました、寝惚けた君のお許しを言い訳にして。
こんな本当の理由に困りながら英二は、やさしい婚約者の瞳を覗きこんだ。
覗きこんだ先で黒目がちの瞳は、ひとつ瞬くと不思議そうなままでも頷いてくれた。

「ん、英二。許すよ?…えいじのこと好きだから、赦します。…これで、いいかな?」

気恥ずかしげに頬染めながら「好きだから」と言ってくれる。
こんなふうに無条件で「許す」と言われて嬉しい、初々しい含羞が可愛くて幸せになってしまう。
幸せな想いに素直に微笑んで、英二は綺麗に笑いかけた。

「うん、充分だよ?ありがとう、周太。愛してるよ、」

やさしい恋人がくれる無条件の赦しと受容れが幸せで、けれど罪悪感が浸みるほど甘い。
こんな自分は本当に恋の奴隷で変態で最低だな?そんな自覚に困るから尚更に、この恋人を喜ばせたくなってしまう。
幸せな想いに笑って英二は、愛するひとにキスでふれて微笑んだ。

「周太、俺、朝飯を待ってたんだ。周太と一緒に食べたいから。起きて、一緒に食べてくれる?」
「待っていてくれたの?うれしいな、…あ、もう10時になる?」

驚いて周太は身じろぎすると、ゆるやかに起きあがって時計を見直した。
見つめた文字盤に小さくため息を零すと、気恥ずかしげに頬染めながら英二に謝ってくれた。

「ごめんなさい、こんなに寝坊して…しかも直に出掛けるのに、俺…全然、一緒にゆっくり出来なくて、」
「大丈夫だよ、周太。俺のために疲れていたんだから、こっちこそ、ごめんな?」

英二も起きあがって周太に笑いかけると、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
その微笑が純粋で、昨夜と明方の自分の所業に胸刺されながら、英二は周太を抱きしめた。

「周太、風呂でゆっくり疲れとってきて?それから一緒に、飯食ってほしいな。それで、明日は早く帰ってきて?」
「ん、ありがとう…そうするね、」

素直に頷いて微笑んでくれる。
この微笑をすこしだけ裏切る罪悪感が甘すぎて痛い。
この幸せな痛みと一緒に抱きしめる婚約者は、嬉しそうに笑って言ってくれた。

「明日は朝ごはん、家で食べるね?…でも、9時過ぎるから、母と先にすこし食べておいてね、」
「うん、そうする。楽しみだな?」

笑って答えながら、明日の午後を英二は想った。
明日の午後は、父と姉がこの家を初めて訪れる。
きっと父ならば、この家と周太を英二が選んだ理由を解ってくれる。
けれど周太は不安を抱えているだろう、それでも微笑んでくれる姿が愛おしい。
愛しさに微笑んで英二は抱きしめる人に、そっとキスをした。

―君だけが、こんなに愛しいよ?

ふれあう温もりと微かなオレンジの香が愛おしい。
このまま離れたくないと、心の底が泣き出しそうになる。それでも唇を離れて、愛しい婚約者を見つめた。
ずっとこうして抱きしめていたいのに?そんな願いを静めながら見つめた貌の、きれいな頬が桜いろに微笑んでくれた。

「…ん、はずかしいよ?でも、キス、うれしいな?」

変わらない初々しい恥じらいが愛おしい。
この笑顔を毎朝毎夜ずっと見つめられる日々「いつか」を必ず迎えたい。
この祈りに見つめる愛しい黒目がちの瞳へと、やわらかに英二は微笑んだ。

「きれいで可愛いね、周太は。だから俺、明日は父さんに、いっぱい自慢させて貰うな?」
「え、…そう、なの?」

すこし驚いて、含羞に首筋から赤くそまっていく。
紅潮していく首筋がきれいで、また英二は困り始める自分に途惑った。
そんな困惑に気づかずに周太は、無垢な瞳で微笑んでくれる。

「恥ずかしいな?でも、うれしい…あ、夢もね、うれしかったんだ、」

さっき想った「無邪気に眠る純粋な恋人を視線と口で存分に味わってしまった」間に恋人が見た夢。
いったいどんな夢だったんだろう?あまい罪悪感と一緒に英二は訊いてみた。

「どんな、うれしい夢だった?」
「ん、…はずかしいな、」

恥ずかしげに頬赤らめながら、困ったように微笑んでくれる。
それでも話してほしいな?そう目で訊くと周太は、羞んで口ごもりながら教えてくれた。

「あの…えいじが、きすしてくれて…からだのいろんなとこにも、きすして…それから、…してくれてきもちよくて…」

それは全部現実ですけど?
心で白状しながら目を大きくした英二に、困ったように周太が言った。

「あの、ごめんなさい、こんなえっちなんて嫌い?気を悪くした?…きらいにならないで?」
「嫌いになんて、絶対にならないよ?むしろ嬉しいよ、周太」

嫌いになんてなる訳ないですから?
ほんとうは自分の方が君の何万倍もえっちですから?
だからどうか謝らないで?謝られたら罪悪感が痛すぎ甘すぎて困るから。
心に白状しながら英二は、罪悪感と一緒に愛しい人を心からの愛情をこめて抱きしめた。



朝と昼を兼ねた食事を一緒に摂ると、周太は手早く夕食の支度を整えてくれた。
それから庭の散歩を楽しんで一緒に駅に向かい、改札も一緒に通って英二はホームまで付いて行った。
ホームに入線してくる電車のファサードが疎ましい。そんな身勝手な感想を抱きながら英二は、周太に鞄を手渡し微笑んだ。

「気をつけてな?待ってるから、」

待っている。
この言葉はいつも周太が英二に言ってくれる。
この言葉を言えることは嬉しい、けれど置いて行かれる寂しさも思い知らされる。
離れたくない寂しいな、そんな本音が見えてしまうかのように周太は優しく微笑んでくれた。

「明日、早く帰ってくるね?…夜、電話するから声、聴かせてくれる?」
「俺の方こそ、声聴きたいよ?何時でも良いから、夜中過ぎても良いから、架けてほしいな」

そう告げると黒目がちの瞳が嬉しそうに笑ってくれる。
その笑顔がきれいで幸せで、人混みに紛れるよう英二は素早く周太にキスをした。

「はずかしい…でも、うれしいよ?ありがとう…電話、するね?」

気恥ずかしげに微笑んで、周太は新宿に向かう電車に乗りこんだ。
扉近くに佇んだ小柄な姿を見つめる英二から、ゆっくり動き出した電車が視線を奪う。
動いていく扉の窓を見失わないよう付いていく歩幅が大きくなって、瞬く間に電車は加速する。

行かないで、

思わず心で叫んだ言葉を置いて、電車は愛するひとを連れ去った。
遠く小さくなっていく電車を見つめて溜息が零れる、隣から奪われる温もりの喪失感が痛い。
また明日には帰ってくる、きっと逢える。そう想っても無性に悲しくて、恋しくて、寂しさが痛い。
こんなに本音は寂しがりで、ずっと傍にいてほしくて仕方ない。本音が心こぼれて痛い。

―早く帰って来てよ、周太…もう、逢いたいんだ、ふれたい、君に…こんなに俺は、寂しいよ?

こんなふうに周太を見送ることは、英二にとって2度目だった。
御岳の山ヤだった田中が亡くなったとき、葬儀に来てくれた周太を河辺駅で見送って以来のことになる。
見送ることは、寂しい。置いて行かれる寂しさを見つめながら、英二は線路の向うに消えていく列車を見送った。
すこし書店で気を紛らわせてから家に帰ると、入替わりに周太の母が出かける支度をして待っていた。

「おかえりなさい、ちょっと買物に行ってきていいかな?」
「もちろん、何時頃に帰られますか?」

快く微笑んだ英二に彼女は少し考えてから、買物コースを話してくれた。

「まず銀行に行って、コーヒーの専門店でしょう?それから本屋とスーパーにも行くし…3時間はかかるかも?」

周太の母はスーパーマーケット経営会社の営業管理部門で勤務している。
しかも休日も変則的で、なかなか買物も行けないのだろう。
気を遣わずに楽しんできてほしいな?英二は微笑んで彼女に言った。

「時間を気にせず、のんびり楽しんできてください。俺が留守番していますし、」
「ありがとう、英二くん。それでね、留守番ついでにお願いがあるんだけど、」
「はい、なんでしょう?」

どんなお願いをしてくれるのかな?
ちょっと楽しみに思っていると、明るい黒目がちの瞳がすこし悪戯っ子に微笑んだ。

「明日なのだけどね?夕方から2泊3日で私、お友達と温泉に行きたいの。周のこと、お願いして行っていいかな?」
「もちろん、たくさん楽しんできてください、」

周太の母にとって、留守番が連日いてくれる機会は貴重だろう。
この機会にゆっくり気兼ねなく楽しんできてほしいな?微笑んだ英二に彼女は嬉しそうに笑ってくれた。

「ありがとう、いっぱい遊んでくるわね?お彼岸のお墓参りには帰るから。でも、周は怒るかしら?」
「そうですね、周太はすこし拗ねるかもしれませんね?」

仕方ないなと思いながら英二は正直に答えた。
周太は父親を亡くしてからは、母親だけが唯一の大切な存在になっている。
今は英二のことも心から大切に想って甘えてくれるけれど、母親は唯一無二の存在だろう。
だから今回も周太は、母と過ごせることを楽しみにしている。きっと幾分拗ねて、けれど母の為に納得して送りだすだろうな?
こんな予想をした英二に周太の母も、すこし困ったように可笑しそうに笑った。

「やっぱり、拗ねちゃうかな?でも、親離れ子離れの練習も大事だし、英二くんがいるから周も、すぐご機嫌直すと思うわ」

そんなふうに楽しげに笑うと彼女は、のんびりと買い物に出掛けて行った。
見送って英二はひとつ息吐くと、階段を上がって書斎の扉を開いた。
重厚でかすかに甘い香の空間で、書斎机の前に立つと写真立ての笑顔に微笑んだ。

「お父さん、今から、あなたが作った机を見させてもらいます。どうか許してください…お願いします、」

これから3時間で済ませる作業の為に、馨の笑顔へと英二は詫びた。
この笑顔が隠している哀しみの軌跡を、これからまた1つ顕わすことになる。
この哀しみを自分が受け留めたい、愛する周太の為に真実を見つめる為に今から作業する。
これから見つめることになる悲哀への覚悟に微笑んで、英二は書斎から周太の部屋へと向かった。

『fantome』

書斎にある『Le Fantome de l'Opera』ページを切られた紺青色の本。
この失われたページから推論したキーワードが『fantome』この言葉が示す意味を昨夜、国村は教えてくれた。

 やっぱりね、予想通りの年代から現れてくるよ?
 最初は六機、次に警備部のマル秘。こんな感じにファイル場所が移動してる
 そして『F』は七機から警備部にも現れる
 これが示すのはさ、特定の個人を表す言葉として『F』は使われているってこと

第六機動隊から警備部にファイルが移った任務、そして個人特定としては七機から警備部に移っていく。
これが示すことの意味が哀しい。この哀しい意味に纏わるヒントと、今から向き合うことになるだろう。
このヒント自体が哀しい現実である可能性が高い、ほっとため息吐いて扉を閉めると自分の鞄を開いた。
取出したコンパクトな工具セットを携えて英二は周太の勉強机の前に佇んだ。

古風で洒落たデザインの机は擬洋館造の家と雰囲気が合う。
やさしい丁寧な造りには製作者である馨の、この家を大切にする想いと、机を使う者への愛情が感じられてくる。
こんなふうに日曜大工が好きだった家庭的な男が、なぜ、警視庁の暗部に立つ任務に生きたのか?
その疑問が尚更に大きくなってしまう、そっと溜息を吐いて英二は小さく微笑んだ。

「周太…勝手なことして、ごめんね?」

いまは不在の机の主に謝ると、椅子をどけて英二は机の足元に片膝をついた。
この机の側面部分は木材の種類が違っている、そう国村も気付いていた。
その通りに木材が違う。ラインどりも脚部分の流線型と微妙な違いがあって、後から取り付けた違和感がある。

「…予想通り、かな?」

右と左の側面部分をそれぞれノックしてみると、どちらも重たい響きがこだまする。
まず左側面の内板に打ちこまれたネジの部分を確かめると、ドライバーを取出して注意深くネジを外し始めた。
一本ずつ外していくと徐々に板はゆるんでいく、その板のむこうで何か動く震えが立つ。
ごとり、音がするのを聴きながら、すべてのネジを外し終えて左側面の内板を手前に引いた。

ず、ずっ、…ごとん

注意深く外していく板の向う、外板とのはざまに滑り落ちる気配がある。
外板と内板の間に差しこんだ掌に、掴んだものを英二は慎重に引き出した。



(to be continued)

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第41話 春永act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-04-22 23:38:05 | 陽はまた昇るanother,side story
花笑ふる光、のどけき想い



第41話 春永act.3―another,side story「陽はまた昇る」

花さく木洩陽ふる庭は暖かい。
ゆるやかな時に花ふる庭を、周太は英二の父と佇んでいた。
並んで見上げる梢には、午後の陽光ほころんだ彼岸桜があわい紅を翳してくれる。
この花姿が嬉しい、やさしい万朶の花に周太は微笑んだ。

…咲いてくれたね、ありがとう

もし温かければ午後に花ひらくかもしれない、そう思っていた通り花咲いている。
今日の客人を迎えるよう披いた花が嬉しい、やわらかな香にすこし緊張もとかされていく。
ほっと息吐いた周太に、きれいな低い声が笑いかけてくれた。

「美しい庭ですね、ほんとうに。見事なものだ、」

背の高いカジュアルスーツ姿が、花々に微笑んでいる。
おだやかで静かな笑顔は、やはり息子の英二とよく似てきれいだった。
途惑うような緊張を見つめながら、そっと周太は花篭を抱いて微笑んだ。

「ありがとうございます、」

素直に頭を下げた周太に、英二の父はやさしい眼差しをくれる。
父親と入れ替わるよう英理は「またあとでね」と和室に設けた席へ戻って行った。
ふたりきり、英二の父と佇む庭で花たちは、静かに周太の緊張を見守ってくれる。

…花たち、木たち、どうか支えて?お父さん、お願い…

この庭は父が愛していた場所だった、だから今も父は花木のもと佇んで見守ってくれている。
どうか弱虫で泣き虫の自分でも姿勢を正して、きちんと今ここに立っていられますように。
そんな想いと抱えている篭の花に、切長い目は微笑んで優しい低い声が訊いてくれた。

「花も可愛いですね。この庭は、君が手入れをしているのでしょう?立派なものです、」
「お恥ずかしいです…僕の手入れは、大したことなくて。ただ花や木たちが自分で、きれいになってくれます、」

ゆっくり庭を歩いて案内しながら、花篭と一緒に鼓動を抱いている。
いつもよりすこし早い心音が今の心を如実に聴かせる、この緊張も気恥ずかしい。
いま隣を歩く立派な男性は息子の恋人が男であることを、どう考えているのだろう?

…ほんとうは嫌かもしれない、でも優しいから言わないだけで…

ため息のような考えに哀しくなってしまう。
これは仕方ないこと、何度もそう納得して覚悟してきた。けれど現実にこうして直面すれば、やっぱり不安で怖い。
それでも絶対に逃げたくない、祈るよう覚悟を見つめる周太に、静かな低い声が話しかけた。

「優しい温もり、清らかな奥ゆかしさ、そして佇まいが美しい。なぜ英二が君と、この家を選んだのか。解かったように思います」

声に周太は隣を見あげた。
英二より幾分低いけれど充分に長身の彼は、息子とよく似た笑顔で周太に微笑んだ。

「私も好きです、この場所も、君のことも。英二が羨ましいな、」
「…羨ましい、のですか?」

そっと訊きかえして、周太は彼の目を見つめた。
見つめた切長い目は穏やかに笑んで、きれいな低い声が言ってくれた。

「愛する場所と人を、自分で見つけて選び、守っていく。そういう生き方が出来る息子は、同じ男として眩しいです。
愛するものを守り、自分の仕事と夢に誇りを持って命懸けでも怯まない。心から生きる誇りに笑っている、そんな英二が羨ましい」

きれいな笑顔が率直に英二を認めてくれる。
この真直ぐな想いが嬉しい、素直に周太は微笑んだ。

「英二さんは眩しいです、僕にとっても…英二さんの仕事と夢は、ほんとうに素晴らしい世界だと、僕も思います、」
「そんなふうに、妻にも言ってくれたそうですね?」

やさしい笑顔が周太を見つめて訊いてくれる。
訊かれて、つい数日前のことに気恥ずかしくなりながら周太は頷いた。

「はい、…先日は、生意気なことを申し上げました。恥ずかしいです…でも、僕の本当の気持ちなんです、」
「生意気、そう妻も言っていましたよ?」

可笑しそうに切長い目が微笑んだ。
ほんとうに気恥ずかしい、けれど笑ってくれる温もりにすこし緊張がほどけていく。
ちいさく息吐いた周太に英二の父は、率直に想いを教えてくれた。

「山と救助の世界は素晴らしい、あなたが誇りを持つのに相応しい世界です。だから英二を認めて下さい。
僕のことは認めなくていいんです。でも英二の選んだ世界は否定しないで下さい。そう君が言ってくれたと、妻に聴きました。
聴いて、私は君の気持ちが嬉しかったです。そして君に伝えたくなりました、息子が今のように生きることを、君に感謝します」

こんなこと、言ってもらえるの?
驚いて見上げた周太に、切長い目は温かに笑んでくれる。
息子より幾分渋い、きれいな低い声が穏やかに周太に告げた。

「君に出逢えたから息子は今、誇り高い男として生きられている。そんな息子を私は羨ましく、誇りに想います。
だから君に感謝を伝えたかったんです、そして、お願いしたい。息子を、英二のことを、これからも支えてやってくれますか?」

…本気で、そんなことを言うの?

言われたことに周太は、ひとつ瞬いた。
この立派な男性は大切な息子を、自分に託そうと言っている。
けれど、自分の立場を自分は解かっている。そっと周太は訊いてみた。

「ありがとうございます、お気持ちはとても、嬉しいです…でも、後悔されませんか?」
「後悔、どうして?」

綺麗な低い声がやさしく訊いてくれる。
訊いてくれる眼差しに、ずっと見つめている哀しい想いを抱いて周太は頷いた。

「僕は男です、英二さんと同じ男性です。普通の結婚は出来ません、子供も産めません…世間的にも、認められ難いです。
そちらのように立派なご家庭には、僕は恥ずかしい相手のはずです。そんな相手に、大切な息子さんを、よろしいんですか?」

言っている自分の言葉に、自分で心が抉られる。
どれも自分で解かって納得してきたこと、けれど言葉にすれば心を刺す。
心が痛い苦しい、でもこの痛みこそ自分が選んだ立場の現実だと知っている。
この痛みを解っていて自分も選んだ、英二の想いを受入れて愛することを選んで、後悔していない。

…それでも、痛い…でも、愛しているから逃げない

唯ひとり唯ひとつの想いは、枯れない花。
大切な初恋が甦っても、この想いこそが色濃くあざやいだ。
この身を犯され誇りを砕かれても構わない、愛されるなら何をされてもいい、何でも出来る。

…だって英二、言ってくれた…意識が戻って、ふたりきりになって、抱き締めて、

『俺だけのものでいてほしい、他の誰にも、ふれさせないで』

ずっとこの言葉を聴きたかった、あの綺麗な低い声で告げてほしかった。
奇跡のように助かった命に微笑んで、きれいな笑顔は真直ぐ瞳を見つめて言ってくれた。
もう、あの言葉を聴けたから、どんなに辛くても幸せだと自分は微笑める。
だからこそ尚更に現実が痛い、
それでも想いを守るためなら痛くても構わない。
だからこそ、愛するひとの父には現実を告げておきたい。この自分が英二の傍にいる社会的リスクも、知って考えてほしい。
そんな想いに見つめた先で、きれいな切長い目は穏やかに微笑んだ。

「あの英二が誰かを愛するなんて、きっと他に無いでしょう。私に似て、なかなか気難しい男ですから。
もし君に出逢わなければ英二は、ずっと独り身で恋愛を玩具にしたでしょう。普通に結婚しても、気持ちが無く破綻するだけです。
息子の性格は私に似ています、だから私には解るんですよ。英二にとっての幸福は、君と一緒にしか見つけられない。違いますか?」

…わかってくれている、

ぽとん、涙がひとしずく周太の瞳からこぼれ落ちた。
頬つたう温もりに微笑んで、素直に周太は頷いた。

「僕の幸せも、英二さんの隣でしか、見つけられません…他の場所は、ありません、」

心からの想いが、花びらふる風にとけていく。
風揺れる梢の花々が、ゆるやかに揺れて花びらを贈ってくれる。
やさしい花の励ますような気配に微笑んで、周太は正直な想いを言った。

「たくさん、ご迷惑をおかけすると思います。でも、どうか、英二さんの傍にいさせてください…よろしくお願いします、」

きれいに礼をして周太は頭を下げた。
その肩に長い指の掌が置かれて、優しく体を起こしてくれる。
ふれる肩の掌が温かい、温もりに心すこしほぐれた周太に英二の父は言ってくれた。

「こちらこそ、迷惑を掛けます。もう今回だけでも、随分と迷惑も心配もかけて。すまないと思っています、
でも、息子が真直ぐ生きられるのはきっと、君が傍にいてくれるお蔭です。どうか傍にいてやってください、お願いします、」

こんなふうに言ってもらえるなんて、考えたことも無かった。
罵られて当たり前、頬を叩かれるのが当然なのだと思っていた。けれど愛するひとに似た人は違っていた。
この人がいるから、愛するひとは生まれた。この想いが心からの実感に温かい、温もり素直に微笑んで周太は頷いた。

「はい、傍にいます。精一杯、支えます…ずっと、」

もう、この言葉を口にしてしまった。
この約束を愛するひとの父親に告げた、もう自分は決して逃げてはいけない。
ずっと重ねた覚悟に今あらためて微笑んで、周太は素直に頭を下げた。

「英二さんに逢えて、本当に幸せです…心から感謝します、ありがとうございます」

心からの感謝の想いに、周太はきれいに笑った。
笑った視界には、きれいな切長い目は穏やかに微笑んで、ふる春の陽光と花々に佇んでいた。



川崎駅まで送りに行く英二と父娘を見送ると、周太は母と名残の湯で一服点てた。
仏壇に古萩の茶碗を供えて、心からの感謝に父を想い、祖父たちに掌を合わせる。
きっと父と一緒に祖父たちも、点法する周太の掌に手を添えてくれていた。
この温もりに微笑んで、ゆっくり合掌をといた周太に母がねだってくれた。

「周、お母さんにも、お願いできるかな?」

このおねだりは嬉しい、素直に頷いて周太は薄茶を点てた。
そのまま自分にも一服点てて、掌に茶碗抱くひと時を母と寛いだ。
ゆるりと頂く茶が清々しい、ほっと息吐いた周太に母は微笑んだ。

「緊張したね、周?でも、喜んでいただけて、良かったね?」
「ん、…喜んでくださった、かな?」

萌黄色の茶を眺めながら、すこし頬が熱くなる。
つい羞んでいる周太に母は、嬉しそうに笑ってくれた。

「とても喜んでいらしたわ、ふたりとも。お姉さんも楽しんでいらしたけどね?お父さまにお母さん、とても褒められたのよ、」
「…ん、そうなの?」

なんて言ってくれたのだろう?
頬赤らめたまま首傾げた周太に、母は教えてくれた。

「とても上品で、きれいな息子さんですね。優しい心が現れた、良いお茶でした。そんなふうに仰ってくださったの。
だから、お母さんは遠慮なく自慢しました。主人に似て上品できれいな自慢の息子です、そう言ってお母さん、えばっちゃったわ」

黒目がちの瞳を愉快に笑ませて明るく言ってくれる。
そんなふうに堂々と息子を誇ってくれる想いが嬉しい、母への感謝が心に温かい。
けれど、さすがに恥ずかしくて頬から額まで熱が昇ってしまう。

「はずかしいな、…でも、ありがとう、お母さん、」
「ほんとうのこと、言っただけよ?」

やさしい母の笑顔が誇らしげに明るい。
こんな顔が見られて良かった、嬉しい想いに微笑みながら周太は母に詫びた。

「ね、お母さん?本当は今日って、午後から仕事の予定だったよね?でも午前中に変えてくれて…ごめんね、」
「あら、そんなこと大丈夫よ?仕事が終われば良いんだし、予定より早く出来て良かったのよ。さてと、」

きれいに微笑んで茶碗を手に立つと、母は水屋へと運んでくれた。
周太も自分の茶碗を手に付いて行くと、きれいに茶碗を清めてくれながら母は悪戯っ子に微笑んだ。

「お母さん、これから2泊3日の旅に出るからね?」
「え、」

意外な母の発言に驚いて周太は訊きかえした。
また母はどこかに行ってしまう?寂しさに見つめた先できれいに母は微笑んだ。

「いつものお友達とね、骨休めの湯治に行くの。英二くんが家に居てくれて、ちょうど周もお休みでしょう?
こんな機会もなかなか無いから、遊びに行かせてほしいのよ?お彼岸のお墓参りまでには帰ってくるから、許してくれる?」

母の言う通り、数日を続けて留守番がいる機会は貴重だろう。
きっと母は英二が気兼ねなく過ごせるよう気遣ってもくれている、それが解かるだけに断れない。
それでも大好きな母と過ごせると思って帰ってきたから、寂しい気持ちがすこし拗ねた言葉になった。

「でも、お母さんにスイートピー、せっかく買ってきたのに、」
「嬉しかったわ、お花。ありがとうね、周?だからさっき、ほら、」

微笑んで母はポケットから携帯電話を出してくれる。
開かれた画面を見ると、可憐な花の姿がきれいに映っていた。

「あのスイートピーだね?」
「そうよ、嬉しかったからね、すぐ撮っておいたの。お友達に、うんと自慢させて貰うね?」

こんなふうに母は、いつも周太の想いを受けとめてくれる。
この母の子で自分は幸せだな?いつもこんな時は母への感謝が温かい。
いまは素直に送りだして、母が愉しい時間を過ごせるようにしよう。そんな想いに周太は微笑んだ。

「ん、自慢してきて?…気をつけて行ってきてね、お彼岸のお昼は、一緒に食べてね?」
「うん、楽しみにしてるね、」

そんな会話に笑いあってから、母は旅行鞄を持って玄関先に立った。
周太も草履ばきで庭におりると、ふたり花を楽しみながら門まで一緒に歩いていく。
ふるい門の前でふりかえると、母は彼岸桜の梢に目を細め微笑んだ。

「今年もまた、この花が咲いたね?…もう14年。あのときは、お父さんも一緒にこうして見たね?」
「…あ、」

14年前の今頃に、父と母とこの桜を見ながら茶を点てた。
あのときの幸せな記憶がゆるやかに、心を温めて蘇えっていく。

「あのときも…桜餅、だった?」
「そうね、桜餅でお茶を点てたね?それからココアを飲んで、」

楽しい記憶の甘い香がやさしい、幸せな父の笑顔が懐かしい。
ふっと瞳に昇った熱が素直にこぼれて、周太は母に笑いかけた。

「ね、お母さん?…今日も、お父さんは一緒にお点法、してくれたよね、」
「ええ、きっと一緒だったわ。嬉しいね?」

そう言って笑った母の笑顔は、薄紅の花翳にきれいだった。

茶釜を水屋に下げて炉を閉じると、門の軋む音が立った。
きっとそう。そんな予想に微笑んで、玄関ホールへと扉を開く。
かつんかつん、石畳踏むソールの音が嬉しい。嬉しい想いに草履を履いて三和土に降りた。
そして玄関扉の鍵ひらかれる音に、周太は開く扉を見あげた。

「周太、」

きれいな笑顔が扉から現れて、すこし驚いて微笑んでくれる。
この笑顔が幸せで、そっと周太は抱きついた。

「おかえりなさい、英二、…待ってたよ?」

抱きついた懐の、深い森おもわす香が慕わしい。
頬ふれる愛するひとの香が幸せで、この温もりがもう懐かしい。
ほんの数時間だけ、この胸から離れていた。それなのに今もう懐かしくて寂しかったと思わされる。
何時の間に自分はこんなにも、寂しがりになったのだろう?そう見上げた先で幸せな笑顔が咲いてくれた。

「周太、ただいま。逢いたくて、急いで帰ってきたよ?」

綺麗な低い声が微笑んで、やさしい唇がキスでふれてくれる。
ふれる唇のやわらかな想い受けとめながら、安堵と幸福に周太は微笑んだ。
ふれるだけの優しいキスから、ゆっくり離れると切長い目が瞳のぞきこんで笑ってくれた。

「周太、オレンジのケーキを買ってきたんだ。今夜のデザートになるかな、」

きれいな白い箱を示して笑ってくれる。
この箱は、ちいさい頃から好きな洋菓子店のもの。この心遣いが嬉しくて周太はきれいに笑った。

「ん、ありがとう…このお店、覚えててくれたんだ?」
「うん、同じ名前だな?って思ってさ、覗いてみたら同じケーキがあったから、」

話しながら靴を脱いで、一緒にリビングへと入って行く。
ブラックミリタリーコートを脱ぎながら、周太に笑いかけて英二は訊いてくれた。

「お母さん、もう出掛けたんだ?」
「ん、さっき…英二は、知っていた?お母さん、旅行に行くって、」

昨日の母は休日だった。
きっと話もゆっくり出来ただろう、すこし首傾げた周太に英二は教えてくれた。

「うん、昨日から楽しみにしていたんだ、お母さん。でも、周太に怒られるかな?って心配してたよ、」
「…あ、そんなこと、言ってたんだ?…恥ずかしいな、」
「恥ずかしくないよ、周太?それだけ周太が、お母さんを大切にしているからだろ?」

やっぱり母はお見通し。いつもながら聡明な母の理解が嬉しいけれど、気恥ずかしい。
こんな親離れできない子供っぽい息子を、母は困っているかもしれない?
この想いからも、きちんと3日間を親離れして暮らしたい。
小さな覚悟に微笑んで周太は、愛するひとに笑いかけた。

「ありがとう、英二。…英二のこともね、すごく大切だよ?母と比べられない位に、」

きれいな笑顔が華やいで、真直ぐ周太を見つめてくれる。
長い腕が淡青の肩をくるんで抱きよせて、きれいな切長い目が周太に微笑んだ。

「うれしいよ、周太?…俺はね、いちばん周太が大切だ、なによりもね、」

言葉を告げながら頼もしい腕に力こめられる。
衣を透かす温もりが幸せで嬉しくて、けれど気恥ずかしい。
気恥ずかしさに襟元すぎて熱昇るのを感じながら、そっと周太は微笑んだ。

「ん、…いちばん、うれしいな?俺もね、…恋して、愛しているのは…英二だけだよ?」
「ありがとう、嬉しいな…そして困るよ、周太」

困ったような綺麗な笑顔が、そっと近寄せられてくる。
素直に上向けたままの頬に吐息がふれる、そして静かに唇があまやかな温もりにふさがれた。
ふれるキスが温かい、やさしい想いと熱がこぼれ贈られる。
黄昏しのばせる陽がふるリビングで、幸せなキスに周太は微笑んだ。

「ね、英二?夕飯、何時にする?…なにが食べたいとか、あるかな?献立次第で、買物、行くけど、」
「そうだな、今夜はゆっくり一緒に酒を飲みたいな。それに合うもの、ってお願いできる?」
「ん、できるよ?…お酒は、なに飲む?それに合わせて、献立考えるけど、」

英二だとビールと日本酒かな?
いつものパターンを考えながら見つめた先で、きれいな笑顔が応えてくれた。

「たまには周太、ワインとか飲んでみる?甘めのなら周太でも、飲みやすいと思うけど、」
「ん、英二が選んでくれるんなら、…じゃあ買い物、行った方が良いね?」
「そうだね。でも無理しないでいいから、周太?疲れただろ、今日は、」
「平気、さっき、ひるねしたからだいじょうぶ…だよ?」

ありふれた会話、けれど心が弾んでしまう。
だって今から3日を共に生活できる、ふたりきり2晩を一緒に過ごす。
こんなふうに、本当に2人きり数日を過ごすのは初めてのこと。そう想うと嬉しくて、面映ゆい幸せが温かい。

…この嬉しい気持ちだけ、見つめて。3日を過ごせたらいいな?

この先のことも今は考えないで「今」与えられた幸せに笑っていたい。
この幸せの喜びを見つめていたら、母が離れていく寂しさも超えられそう。
この想い素直に微笑んだ周太に、きれいな笑顔が言ってくれた。

「こんな会話、ほんとうに夫婦みたいだね、周太?」

ほんとうに夫婦みたい。

…恥ずかしい、けど、すごくうれしい

もう、うなじは今、真赤になっているだろう。
いま着物で衿もとから真赤な肌が見えてしまう、その肌に視線が落とされていく。
くれた言葉が幸せで嬉しい、けれど想い露にする肌が気恥ずかしい。
すこし俯いたままでいる周太を、抱きしめて英二が笑ってくれた。

「はにかんでるんだ、周太?ほんと可愛いな、俺の花嫁さんは…困るよ、」

最後の言葉はつぶやくように、うなじへのキスに零された。
ただでさえ熱い首筋にまた熱が昇ってしまう、恥ずかしくて熱くて周太は訴えた。

「あの、英二…あんまりまっかになるとこまるから…かいものいけなくなるから…ね?」
「周太、俺の方がいま、困ってるから…可愛すぎるよ、周太、」

首筋にキスふれたまま、ふわり体が抱き上げられた。
さらり袖がひるがえる、袴姿を抱き上げたままソファに座って幸せに英二が微笑んだ。

「着物、本当に似合うね、周太?きれいで可愛い、…父さんにも言われたよ、俺、」
「お父さんに?…」
「うん、きれいな人だな、大事にしろよ。そう言ってくれたよ?近々、ぜひ飲みに行こうだってさ、」
「ん、そうなの?…はずかしいな、」

相槌を打ちながらも、ようやく首筋から離れたキスの跡が気になってしまう。
それに膝に抱えられたまま話しているのも気恥ずかしい、なんだか色々と困ってしまう。
けれど、幸せそうな笑顔に瞳覗きこまれて、あんまり幸せそうな様子に何も言えない。
頬まで熱を感じながらも、今こうして寄せてくれる英二の想いに周太はただ微笑んだ。



買物から戻ると、庭に薄暮が降りていた。
ショールカラーコートの短い裾が夕風に靡いて、頬ふれる冷気に夜の訪れが降ってくる。
買物を詰めたエコバッグを持ったまま、やさしい薄紫の闇そまる庭にふたり佇んだ。

「夕暮れの桜も、きれいだな…幻想的、っていうのかな、」

綺麗な低い声が夜風にとけていく。
見あげる彼岸桜の薄紅が、あわい薄墨ふる色にどこか光っている。
いつも夜の桜を見るたびに、不思議に感じていたことを英二も感じてくれる。
こんな一緒が嬉しいな?嬉しさに周太は微笑んだ。

「ん、かみさまの木だな、って感じがする…桜って、不思議な木だね?」

―…山桜のドリアード、

ふっと透明なテノールが心響いて、周太は山桜の木を見た。
まだ花蕾のひらかない木は大らかに夕闇の空を抱いている、この木にふれる記憶と想いに小さなため息を吐いた。
この山桜の木と同じように、奥多摩の森深くに佇む不思議な山桜の巨樹。
あの樹の精が周太の真実の姿、そう光一は信じて「山桜のドリアード」と秘密の名前をくれた。
あの名前に籠る「山の秘密」が自分の初恋、それを心から大切に想っている。それでも自分は今、隣に立つ人の懐を選んでいたい。

…ごめんなさい、光一

あなたが好き、初めてそう告げた9歳の想いは今も生きている。
この初恋は生涯の宝物の1つ、この恋の相手である光一は心から大切なひと。
けれど、いつも見つめて抱きしめられたい相手は、この今も隣に佇んでくれる唯ひとりしかいない。
今日の朝のように、体を捧げて愛されたいと願うのは、このひとしか自分にはいない。このことを光一に告げた。
けれど、とっくに心は決まっていると光一に告げられた。
あの誓約のような言葉たちは、この今も山桜を透かして浮び出す。

―…君を愛している、君の笑顔が見れるなら何だってするよ?だから、君から離れろと言う願いだけは聴かない
 もう忘れられたくない。たとえ独占め出来ないと解っていても、俺はもう君から離れない。あの14年間の孤独は繰り返さない

この言葉の通りに、光一は英二のアンザイレンパートナーとして傍にいる。
いちばんの友人として私的に、警視庁山岳会のエースとセカンドとして公的に、自他ともに認められるパートナー。
こんなふうに周太と全く違う方法で、光一は英二のパートナーとして堂々と社会的にも認められた立場を手に入れた。
そんな光一は英二を心から大切に想っている。
たぶん周太に寄せる想いと同じくらい強い想いに英二を見ているだろう。
今回の救助もほんとうは、雪崩の多発帯に踏みこんでいく危険なものだった。
それでも光一は迷わず英二の為に危険を駆けぬけ救い出して、周到な手回しに英二の立場まで守り抜いている。
そうして英二を支え守りながら光一は、周太のことも大切にしようとしてくれる。

英二の母と向き合ったときも、周太の頬を叩こうとした手を掴んでくれた。
英二が昏睡状態の夜も、何度も起きては付添を交替しようと言ってくれた。
英二の精密検査を待つ不安な時間も、美しい雪の梅林を見せて和ませようとしてくれた。
そして谷川岳の英二の写真をくれて「こういう貌の男は簡単に死なないよ?」と笑って励ましてくれた。

こんなふうに。いつも光一は英二の隣で周太を守ってくれる。ときおり転がされて困ってしまう事もあるけれど。
そんなふうに一途な光一の想いは、正直に嬉しい、けれど応えられない想いと英二への想いに哀しくなる。
それでも自分には選択権は欠片も無い、たとえ拒んでも光一が離れるわけではないと思い知らされた。
だから自分も覚悟していくだけ、想いと一緒に周太は山桜に微笑んだ。

…正直に、話して、行動するだけ。遠慮も嘘も通用なんかしない、ただ正直に、この想いと心のままにあればいい

だから今こうして自分は、求め愛する想いのまま英二の隣にいる。
そして今日は英二の父に、正直な想いのまま約束をした。この約束は「絶対の約束」になるだろう。
この約束に想うまま正直に周太は、隣の端正な唇にそっとキスでふれた。

「…周太?」

ほら、不意打ち驚いたでしょう?
でも嬉しいでしょう、こんな不意打ちは?
そんな想いに微笑んだ先で、幸せな笑顔が華やいでくれる。

「キス、嬉しいよ?おいで、」

長い腕が花のした惹きよせてくれる。
そうして今度は周太の唇に、やさしいキスが贈られた。



早めに夕食の支度を整えて、ゆっくり楽しむ食卓にふたり差向いに座った。
英二が選んだ甘めの白ワインには、こういう味が合うかな?そう考えながら献立を組んである。
いくらか食事に箸をつけた後、英二は冷やしたボトルから器用にコルクを抜いてくれた。
グラスに注がれる酒は透明で、ごくあわい薄萌黄が温かな灯ときれいに揺れていく。
きれいだな?そう見つめていると長い指が、グラスを周太の食膳に置いてくれた。

「周太、ワインは飲んだことある?」
「ん、母が飲むときにね、お相伴したことはあるよ?…少しだけど、」

母が飲むのは辛口の白が多くて、甘い酒なら飲める程度の周太には「大人の味だな」という印象がある。
ああいうものを自然に飲んで微笑んでいる母は、息子の目から見ても素敵だなと想えてしまう。

…お父さんも、そう想うでしょ?

心に父へ問いかけながら周太は、ワイングラスを覗きこんだ。
透明な酒からは爽やかな香が華やかに薫ってくる。この香は知っているな?
どこかにある記憶の香に首傾げこむ周太に、きれいな低い声が教えてくれた。

「マスカットで作った酒だよ、香が良いだろ?」
「…あ、そうか、マスカット…」

納得に微笑んで、グラスに口をつけてみる。
ふわり、あまく華やかな香がひろがって周太は微笑んだ。

「ん、おいしいな…これだったら、飲めそうだよ?ありがとう、英二」
「気に入ってくれたんだ、周太。良かった、」

嬉しそうに笑って英二もグラスに口付けてくれる。
薄萌黄の光ゆれるグラスには、白く長い指が綺麗にしっくり馴染んで美しい。
ダイニング照らす和やかなランプの許、生まれながらの育ち良さが端正な貌に華やいでいる。

…こういうの王子さまみたいっていうのかな?

クリスタルグラスが様になる婚約者に、ぼうっと周太は見惚れた。
いつもの日本酒やビールとは違う雰囲気にすこし途惑う、華やかな雰囲気の酒だからだろうか?

…こういう感じ、英二は似あうな、とても…

今日初めて会った英二の父も、英二の姉の英理も、華やいだ雰囲気が似あう。
そして吉村医師の病院で会った英二の母は、とても華美が似合うひとだった。
そういう家庭の人と自分は、婚約をしている。

…ほんとうにだいじょうぶかな?

すこし心配になって周太は、グラスの酒に考え込んだ。
自分は古風に育てられて華美な世界を知らない、だから不安にもなってしまう。
けれどよく考えたら、目の前に座っている自分の婚約者は「華麗」を絵に描いたような美貌でいる。
そのことに今更改めて気がついて、自分の迂闊さが恥ずかしい。
でも、こんなにまで英二は警察学校時代、華やいだ雰囲気だったろうか?

…あ、髪が伸びたから、かな?

学校時代は短く刈り上げて、前髪もこんなに長くなかった。
けれど今の英二は自然な感じに短く切って、前髪は長めになっている。
そして光一も同じように警察官らしさは保ちながら適度に長めにカットしてある。
どうしても山ヤは寒冷地に行くことが多い、だから防寒もあって髪もそんなに短くしないと聴いた。

…救助隊の人たちも、皆さん、こんな感じだもんね?あ、でも藤岡は短いな?

同期の藤岡も山岳救助隊員だけれど、地域の柔道指導も担当している。
そのために髪を短く切ってあるのだろうな?
こんなふうに恋人の髪型を考え込んでいたら、きれいな低い声が気がついてくれた。

「ね、周太?さっきから黙っているけれど、大丈夫?酔っぱらってない?」
「あ、…ん、大丈夫だよ、ごめんね?」

ずっと自分が黙り込んでいたことに気がついて、周太は頬まで熱くなった。
こんなふうに1つのことに集中すると周囲を忘れてしまう、この癖はこんな時に特に恥ずかしい。
申し訳なさと恥ずかしさに困っていると、英二が笑いかけてくれた。

「謝らないで?周太。俺の前ではリラックスして、自然にしていてほしいよ?だから考え事も好きなだけ、自由にしてよ?」

やさしい英二、いつもこんなふうに受けとめてくれる。
この丸ごとの受容れが嬉しくて、全てを委ねても安心できてしまう。
やさしい気遣いが嬉しい、けれど申し訳なさに周太は素直に謝った。

「ありがとう、英二。でも、悪いよ?こんな、黙っちゃうのは…ね?」
「いいんだよ、周太。ほんとに無理はしないでほしいよ?」

ほんとうに良いんだよ?
そう目でも言ってくれながら、きれいな低い声が幸せそうに告げてくれた。

「だってね周太、いつか夫婦になるんだよ?そうしたら、毎日ずっと一緒にいるんだ。
その時に無理したら、お互いに疲れちゃうだろ?だから今から練習だと思って、リラックスしてほしいよ。自由にして?」

こんなふうに言われたら幸せだと想う。
ほんとうに幸せで、この嬉しい感謝の気持ちを英二に伝えたい。
どうしたら正直な想いを一番喜んでもらえるように伝えられる?
すこし考えて、周太は微笑んで席を立った。

「周太、どうしたの?」

切長い目が見上げて微笑みかけてくれる。
こんな食事中に立つなんて本当は行儀が悪い、けれど今この想いを伝えたい。
やさしい微笑が嬉しい、嬉しいまま周太は大好きな目を覗きこんだ。

「ありがとう、英二、」

きれいに微笑んで周太は、大好きな人にキスをした。

…きっと、幸せになれるね?

結婚する前から「正直に無理せず一緒にいよう、」と言ってくれるひと。
こんな人とならきっと、心から幸せを見つけられるはず。
幸せに素直な想いのまま微笑んで、周太は気持ちを口にした。

「英二のおかげでね、幸せだよ?…ありがとう、」

告げて微笑んで、気恥ずかしさが頬染めていく。
こんな気恥ずかしさも幸せだな?そんな想いの真ん中で、きれいな笑顔がひとつ華やいだ。

「周太、俺こそ幸せだよ?君の隣では、たくさん幸せが見つけられるんだ、俺は。…おいで、」

やさしく掌をとって惹きこんで、肩を抱いてくれる。
そして今度は英二から、やさしい幸せなキスが周太に贈られた。

英二が風呂から上がると、周太は包帯を巻かせてもらった。
一昨日、吉村医師の長男である雅人先生から「あと3日は包帯で保護」と言われている。
だから明後日の朝まで、額と左足首に包帯を施すのを周太にさせてほしいと申し出た。
こうだよね?と頭の中のテキストを眺めながら処置していく周太に、英二は嬉しそうに微笑んだ。

「周太、すごく上手だね?あのテキスト、何回か読んだんだろ、」
「ん、そう…きちんと覚えたかったから、ね?」

気恥ずかしいな?つい羞みながら周太は頷いた。
周太が何度も読んだ救急法のテキストは、英二に選んでもらったものになる。
いつも山岳レスキューの現場に立つ英二の世界をすこしでも知りたい、そんな動機で最初は読み始めた。
そして周太は気がついた。父がいた危険な軌跡に立つときは、この知識が心身両面の無事を保つために、きっと役立つ。
だから尚更に一生懸命に読みこんで、今は文章も図も頭にきちんと取りこまれている。

…絶対に、無事に終えるんだ、お父さんの軌跡を追うことを…そして約束を叶えたい、絶対に

父が立っていた世界で最も怖い「精神破綻」という事実。
たしかに大切で誰かが担わなくてはならない任務が父の世界、けれど任務の重さと罪悪感に心病む人も多い。
もとより警察官の死亡原因には上位に「自殺」、その大部分がこの任務が原因かもしれない?
この現実を知ったとき、本当は怖かった。
“ほんとうの素顔は泣き虫で弱虫の自分に耐えられるのか?”
この疑問と恐ろしい未来予想が怖かった、けれど今はもう大丈夫だと信じられる。

…きっとね、この知識が役に立つ…英二の世界を一緒に見つめている、そう想えるから、大丈夫

どこに自分が立とうとも。
英二が生きるレスキューの世界を共に抱いて立てるなら、きっと希望を見つめて生きられる。
そう信じているから今はもう、前よりは怖くない。
それに今だって、こうして愛するひとの為に役立てられる。この喜びが温かい。

「ありがとう、周太。綺麗に出来てる、周太もレスキューになれるね?」
「プロの人に、恥ずかしいな?…でも、ありがとう。自信つくよ?」

ほら、褒められて嬉しい。
この嬉しい気持ちをずっと忘れない、そうしたら辛い現場でも希望の記憶は温かく心癒してくれるから。
この希望をくれる大好きなひとが愛おしい、この幸せに心から周太は微笑んだ。

「テラスから、桜見る?…彼岸桜の夜も、きれいだから、」
「楽しそうだな、いいね。だったら周太、先に風呂を済ませておいで?そのほうが、ゆっくり出来るから、」

やさしい笑顔が提案してくれる。
その提案に気恥ずかしさを感じながらも、素直に周太は頷いた。

「ん、そうさせてもらうね?…あ、ワイン冷えてるから、テラスに運ぶね、」

酒の強い英二は2本ワインを買ってある。
この2本目がまだ半分ほど残っているから、花見の酒にいいだろうな?
そう考えてリビングから台所に行きかけた周太を、そっと英二は抱きとめてくれた。

「ありがとう、自分でするから大丈夫だよ?それより周太、早く風呂を済ませておいで?」
「でも、悪いから…」

英二の左足首を見ながら周太は遠慮がちに言った。
もう整復された脱臼は問題なく回復している、けれどまだ包帯を巻いて大事をとりたい時でいる。
なるべく負担をかけたくないな、そう想って見上げた英二の貌がすこし頬赤らめ笑ってくれた。

「だって周太、今夜も白い浴衣、着てくれるんだろ?あの姿、好きなんだ。早く見せてほしいから、さ」

言いながら白皙の頬が桜いろに染まっている。
こんなふうに顔を赤らめることは、以前の英二には無かった。
けれど2月の奥多摩鉄道の夜から時おり、こんな貌を見せてくれる。
この顔がなんだか自分には嬉しい、気恥ずかしさと一緒に周太は素直に笑いかけた。

「ありがとう、…じゃあ、おふろ、行ってくるね?」
「うん、今日は緊張して疲れただろうから、ゆっくり温まっておいで、」

やさしく笑って桜いろの貌が送りだしてくれた。
きっと英二は今日の対面での緊張を気遣って、すこしでも早く疲れをとらせようと想ってくれている。
こういう細やかな優しさが嬉しい。

…ありがとう、英二…こういうところ、すごく好きで…

この想いにどうしたら自分は応えられる?
優しい婚約者の想いを感謝しながら周太は、ゆるりと湯の時間を過ごした。
白と青い模様のタイルが美しい浴室はゆったりと造られて、のんびり湯を楽しむのにちょうどいい。
髪から全身を洗って湯に浸かると、ほっと今日の緊張がほぐれて湯へと消えていく。
のんびりした気持ちにふと見た肌が、湯を透かしても赤い花があざやいでいる。

「まだ、消えていない…」

つぶやいた言葉に首筋が熱くなっていく。
この赤い花の名残が気恥ずかしい、この肌に浮かぶ花模様を刻んだ唇が想われてしまう。
この10時間ほど前、遅い朝の時間にくるまれた香と温もりが肌からうかびだす。

―…くびすじには痕をつけないから、キスさせて?

切ない声と視線に絡み取られるまま、素直に自分は頷いた。
午後には英二の父と姉を迎える茶を点てる、そのため袴姿になるから衿もとが気になってしまう。
そんな心配があったけれど、英二の気遣いをこめた優しい求めに応えたかった。

「うれしかった、な?」

やさしい婚約者の想いが嬉しい、だから尚更に応えたくて明るい光にも肌をさらしてしまった。
でもやっぱり、はしたなかったかな?お客様を迎える前だったのに?
そんな心配を今更に想って湯のなか、ひとり周太は顔を赤らめた。

「…奥ゆかしい、って英二のお父さんは言ってくれたのに、ね?」

そんな印象を持ってもらえて嬉しい、けれど本当はこんなだったことが恥ずかしい。
それでも、温かな腕にくるまれて懐にあまえた真昼の夢は、幸せだった。
だからどうしても、あの時間に身も心も委ねたことを後悔できない。

…夜も、きっと、

そっと心に想って周太は吐息をこぼした。
きっとそうなるだろう、そんな確信がずっともう、茶の席ですら感じている。
袴姿で点法する周太を見てくれる英二の眼差しが、いつもどおり穏やかで、けれど熱が強かった。
この熱は今朝、ミモザの花房の下で迎えてくれた時からずっと、切長い目に切ない。

「…どうしたの、かな…英二?…」

求められて嬉しい、けれど不思議で考えてしまう。
そんな不思議を想いながら周太は、静かに湯から上がった。
きれいに体を拭って、洗面室にもある姿見の前に立ち浴衣を着つけていく。
白い衣をはおる肌は桜のよう熱って、赤い花の痕もあわく浮んでしまう。この肌が面映ゆい。
首筋に熱のぼせながら、きちんと白い衿元をつめて着ると淡い藤色の兵児帯を締めた。

「きれいに、着れたかな?」

姿見に微笑んで周太は洗面室の扉を開いた。
おだやかな静謐が廊下を夜にくるんでいる、スリッパの音静かに歩いて和室の扉に立った。
把手に掌を掛けようとして、不意に扉が開いて長身のシャツ姿が現れた。

「やっぱり周太だった、」

嬉しそうに微笑んで、やさしく抱きしめてくれる。
突然のことに驚きながら周太は、幸せな笑顔を見上げた。

「どうしたの、英二?…足音、聴こえたの?」
「うん、静かだったけれど聞えた…すごく綺麗だ、周太」

ホールの灯に照らされる姿を、切長い目が見つめてくれる。
前のときは紫紺の兵児帯だったから、今夜は藤色を締めてみた。
どちらのほうが好みかな?褒め言葉に頬赤らめながら周太は訊いてみた。

「ありがとう、…ね、このあいだと帯の色、替えたんだけど…どちらが好き?」

質問に考えるよう、すこし首傾げてくれる。
けれどすぐ微笑んで、きれいな低い声が言ってくれた。

「今夜の藤色の方が、俺は好きだな。あわい色が似あうね、周太は」
「ほんと?…よかった、」

気に入ってもらえて嬉しい。
前結びした帯をすこし直しながら、嬉しい気持ちに羞んで周太は微笑んだ。
そんな周太を覗きこんで、優しいキスでふれて英二は切ない目で笑ってくれた。

「きれいだ、周太は…おいで、」

掌をとって、和室と続き間のテラスへと連れて行ってくれる。
大きな洋窓の前に据えた籐椅子に座ると、グラスにワインを注いでくれた。

「湯上りだと酔いが回りやすいから、ゆっくり飲んで?」
「ん、ありがとう…気をつけるね、」

素直にグラスへと口つけて、ひとくち飲むとほっと寛ぎが心ほどいてくれる。
テラスのフロアーランプだけ灯した、おだやかな空間は静かな夜がやさしい。
冷たいグラスと眺めた庭は、月明かりに咲く薄紅の花と高潔に白い花姿が美しかった。

「白木蓮も、きれい…」

白木蓮は、この愛するひとの面影映して見つめる花。
真白に高雅な花の姿は華やかでも潔くて、すらり高い樹形は強靭でも優美に佇んでいる。
やっぱり似ている、そして愛しい花木だと微笑んでしまう。
心から愛しい花の夜に、周太は微笑んだ。




(to be continued)

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第41話 春永act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-04-21 23:50:00 | 陽はまた昇るanother,side story
ゆきしろの春、花笑の庭



第41話 春永act.2―another,side story「陽はまた昇る」

姿見の前に立ち、襦袢の袖を通していく。
二藍の襟元をきちんと合わせると、周太は鏡にすこし近寄った。
やわらかな青紫の襟からのぞく肌は、普段どおりの色をみせている。

「…だいじょうぶ、かな?」

くるり後ろを向いて、うなじを映してみる。
どこにも赤い花は見えていない、ほっとして周太は微笑んだ。

「よかった、」

思わずこぼれた言葉に、鏡の中の自分の頬が赤くなっていく。
どうしても気になってしまう「赤い花」は、肩から下には幾つも刻まれている。
この花を刻んだ唇の記憶が、面映ゆく幸せで気恥ずかしい。

―…くびすじには痕をつけないから、キスさせて?

きれいな低い声が耳元ふれるようで、首筋も頬も赤くなってしまう。
まだ朝の10時半ごろだった、けれど英二に求められるまま素肌をひらいた。
こんな明るい時間から恥ずかしい、けれど昨夜と前の晩を周太は英二を独りにしてしまった。
昨夜は当番勤務で留守、その前の晩は墜落睡眠に眠りこんだ。そんな2晩に英二を寂しがらせたかもしれない。
それが申し訳なくて、なにより周太自身が応じたい想いに身を委ねた。

明るい朝の光に晒される素肌が気恥ずかしかった。
けれど与えられる温もりは幸せで、あまやかな感覚が恥ずかしいのに嬉しくて。
されるがままに英二が寄せる愛撫を受入れて、溺れこむように午睡の夢を見た。
朝から真昼にみつめた時と夢は、幸せだった。

「…生きているから…ね?」

ふっと瞳に熱が昇って目許からあふれだす。
3日前の夜に見つめていた不安と哀しみが、今は夢の跡になっている。
この今の現実が幸せで、けれどこの後に迎える時間に不安と緊張が起きてしまう。
それでも周太はひとつ呼吸して、目許を指で拭うと畳紙を開いた。

淡青の袷を着つけて白地に藍織りこんだ博多の帯締める。
きれいに濃二藍の馬乗袴を穿くと、姿見で全身を確認した。
薄桜萌黄の襲色目にあわせた装いは馴染んでいる、これなら大丈夫だろう。

…英二、なんて言ってくれるかな?

すこし面映ゆさを感じながら、周太は母の部屋から廊下に出た。
襷と前掛けを持って階下へ降りていくと、仏間の扉がすこし開いている。
ここに居るのかな?そっと扉を開くと板張廊下のテラスには、藤色あわいシャツ姿が佇んでいた。
静かに白足袋で畳の間を踏むと、ゆっくり振向いた白皙の貌が嬉しそうに微笑んだ。

「周太、」

名前を呼んで笑ってくれる白皙の額に、ふりかかるダークブラウンの髪がすこし濡れている。
水気の艶やかな髪に薫ってしまう、ほんの少し前の時間が気恥ずかしい。
それでも隣へ行くと周太は微笑んで、大好きな笑顔を見上げた。

「庭、見ていたの?」
「うん、あの濃いピンク色の花、きれいだな、」
「ん、寒緋桜、って言うんだ…」

答えながら周太はすこし襟元を整えた。
さっき鏡で確認したけれど、どうしても襟元が気になってしまう。
そして、気になってしまう理由が気恥ずかしい。少し困って睫を伏せた周太に、きれいな低い声が言ってくれた。

「今日の着物も周太、すごく似合ってる、」
「そう?…薄桜萌黄っていう組合わせ、なんだけど」

気に入ってもらえたなら嬉しいな?
そう見上げた先で切長い目が瞳見つめてくれる、すこし切なげに笑った唇が額にキスしてくれた。

「本当きれいだね、俺の花嫁さんは…周太、」

額から唇にキスが移される、やわらかに唇がふさがれる。
ふれる温もりが気恥ずかしい、けれど優しい幸せに周太は微笑んだ。

「…はずかしい、でも、嬉しいよ?」
「うん、俺も嬉しいな?…周太、痕は大丈夫だったろ?」

訊かれた質問が気恥ずかしい。
頬まで熱が昇ってしまう、それでも素直に周太は頷いた。

「ん、たぶん…鏡で見たときは、なかったけど、」
「見せて?」

そっと肩を抱いて、うなじの襟元を覗きこんでくれる。
ふれてくる視線がどこか熱い、視線の温度に遅い朝の時間が思い出されてしまう。
まだ肌に感触も残される時間の記憶に、つい俯き加減になる襟元を指がふれた。

「きれいだね、首筋も…周太、」

すこし切ないトーンの声と一緒に、そっとキスが首筋にふれた。

「…あ、」

やわらかに唇ふれる首筋に、おだやかな熱がこぼれていく。
襟元のぞく首筋の肌を、キスに触れられ見られる熱に想いがふれてくる。
ふれる想いに竦んでいると、静かに首筋からキスが離れた。

「キスマーク、無かったよ、」

きれいな低い声が教えてくれながら、長い腕に抱きよせてくれる。
ふれられた首筋の一点が脈打つように熱くて、気恥ずかしさに頬までもう熱い。
抱きしめてくれる懐から見上げると、優しい切長い目が笑いかけてくれた。

「周太、傍にいるから大丈夫だよ?そんなに緊張しないで、父さんは優しいから」

言わないでも気づいて、きちんと言葉を掛けてくれる。
こうした細やかな優しさが嬉しい、微笑んで周太は素直に頷いた。

「ん、ありがとう…楽しんで頂けるように、ってお茶点てるね、」
「ありがとう周太、きっと喜ぶよ?」

きれいな笑顔が嬉しそうに笑ってくれる。
この笑顔が心から愛しい、この笑顔のためにも心尽くして今日の訪問者を迎えたい。
このあと今日は、英二の父と姉が我家に訪れる。

…初めて、お会いする。お父さん…

おだやかで優しい人。英二の姉の英理にもそう聴かされている。
優しい英二と英理の人柄は、この父親譲りと言われる事も聴いた。
それが少し安心させてくれる、けれどやっぱり緊張は心を占めてしまう。
それでも英二の父に、ここで過ごす時間を楽しんでほしい。
そんな想いで温かな腕から見た庭は、春の花が風に揺れている。ほっと微笑んで周太は愛するひとを見あげた。

「…ね、英二?いま咲いている花だとね、どの花が好き?」
「うん?そうだな…どれも可愛いな、和やかで、」

綺麗な低い声で応えてくれながら、考え込むよう英二は首傾げた。
その視線の先を眺めると、やさしい花たちが暖かな陽光に微笑んだ。

透明な連翹の黄、雪柳の白と淡青、華やかな濃紅の寒緋桜、乙女椿の薄紅いろ。
三葉つつじの薄紅紫、白木蓮やさしい白に藪椿の紅赤、それから紫に白や赤の草花たち。
そして光あふれるミモザの黄金が、風ゆるやかに豊かな花房を遊ばせる。

…きれいな庭、花も、想いも

この庭は奥多摩の森を映して造られた。
そこに家の人たちが、それぞれに好きな花木を植え込んで今の庭になった。
そんなふうにこの庭は、この家の想いが織り込まれ佇んでいる。
この庭に薫っている優しい想いが愛おしい、この想いに周太はきれいに笑った。

「英二のお父さんも、ね…庭を楽しんで、和んで下さるといいな、」

この優しい庭を眺めながら茶に寛いで、楽しかったと思ってもらえたら良い。
これから訪れるひとを想いながら、やさしい懐に周太は頬よせた。


茶道口から現れた周太に、初めての静かな視線が注がれる。
いつものように本座に坐り端正な礼をすると、ゆっくり周太は顔をあげた。
その視線の先にある主客の座には、おだやかな眼差しの立派な男性が座っていた。
真直ぐに見つめてくれる切長い目は、愛する面影が濃く慕わしい。慕わしい心に素直に微笑んで周太は口を開いた。

「初めてお目にかかります、湯原周太です。お出で下さって、ありがとうございます」

挨拶に微笑んで、周太はゆるやかに辞儀をおくった。
静かに姿勢を戻し顔を向けると、おだやかな目が面に注がれる。すこし面映ゆさに頬赤らめた周太に、彼は微笑んでくれた。

「初めまして、英二の父です。伺っていた通り、きれいな方ですね。男性に失礼かもしれませんが」
「お恥ずかしいです…でも褒めて頂いて、ありがとうございます」

急に言われて気恥ずかしい、礼を述べながらも羞んで周太は睫を伏せこんだ。
英二と同じようにその父も率直な物言いをする、きっと息子と性質が似ているのだろう。
おだやかな静謐の眼差しや、頼もしい雰囲気も父子はよく似て、周太には慕わしい。

…なんだか英二が、ふたり、いるみたい

主客に座した彼の隣には英理が次客として座り、その隣で英二は穏やかに佇んでいる。
きれいな切長い目は物静かで、けれど周太を見つめてくれる想いが密やかに熱い。
その眼差しの熱に、つい先ほど享けた首筋のくちづけが滲んで熱くなった。

…英二の気持ちは嬉しい、でも、こんなときに、どうしよう?

遅い朝の時間に求められた数々と、いま見つめられる視線が心恥らわせていく。
くわえて主客への初対面の気恥ずかしさと、自分の立場が纏う面映ゆさと痛みに途惑ってしまう。
いろんな気恥ずかしさに俯き加減でいると、これも息子と似ている綺麗な低い声で彼は言ってくれた。

「奥ゆかしい方ですね?お席の設えも、着物も上品で。どうぞ今日は、よろしくお願い致します」

そう言って会釈してくれた綺麗な笑顔の優しさが、息子の英二そっくりだった。
この息子の父らしい素敵な男性だな?そんな感想が嬉しい、和やかな礼を返しながら周太は微笑んだ。

…英二も、こんなふうになるのかな?

歳を重ねて時が来れば、英二も貫禄ある齢を迎えるだろう。
いつか訪れる未来予想図のような姿が、いま周太の前に微笑んでいる。
この「いつか」を迎えた英二の隣に、自分がいられたらいいな?
そんな願いを祈るよう微笑んで、周太は点法へと向き合った。



濃茶、続き薄茶と点て終えると今日の茶は終いになる。
ふたつの茶を点て終えた周太に、愉しそうに母が笑いかけてくれた。

「はい、お点法ありがとうございました。ここからは、自由にしましょう?」

この言葉は母からの合図になる。
すこし気楽になった余裕に微笑んで、素直に周太は端正な礼をおくると本座を辞した。
茶道口から水屋を通って、台所まで戻っていく。
そして襷をかけると今度は、サイフォンでコーヒーを淹れ始めた。
ゆるやかに昇りだす芳香と湯の音に、ほっと周太は微笑んだ。

「…お茶、楽しんでくれた、かな?」

主菓子には桜餅、干菓子には桜薫る落雁に夏みかんの砂糖菓子を添えて供した。
英二の父は甘いものも好きなようで、黒文字を運びながら微笑んでいた。英理も「美味しいわ、」と声を掛けてくれている。
この季節には相応しい事もあって、今回は桜餅を選んだ。この時期に茶を点てるなら、父もよく主菓子に選んでいた。
いつもの和菓子屋で求める、あの桜餅は父が大好きな菓子のひとつだった。

…ね、お父さん?今日も一緒に、お点法してくれてたよね、

ひとつ、仏壇にも桜餅は供えさせてもらった。
あの桜餅を本当は、父が亡くなった夜は家族三人で楽しむつもりだった。
この哀しい記憶を歓びへとつなげることは可能?そんな祈りと父にも同席してほしい願いに今日は、あの菓子を選んだ。

…英二、桜餅を見たとき、そっと仏壇に微笑んでくれてた…

きっと英二は気づいてくれたのだろう、桜餅にこめた祈りと願いに。
こんなふうに。言わなくても大切なことを理解してもらえる、その温かさが優しくて自分は恋をした。
けれど、自分の危険に巻き込みたくなくて、何度も英二から離れようとした。
冬富士の雪崩から擦れ違い、光一の記憶と想いが蘇えるのを見つめ、体を無理強いした英二を嫌いになろうとして。
無理に砕かれた信頼とプライドを盾に、英二を嫌いになりたかった。嫌いになって遠ざけてしまいたかった。
そうして自分の立つ危険な道から、英二を遠く逃がしてしまいたかった。
それでも、どうしても嫌えなかった、離れたくなくて追い縋って、そして今日がある。

…この想いは枯れない花、だから潔く見つめて微笑めばいい、正直に

いま、この家に英二の父と姉を迎えている。
もう英二の家族まで、この家に迎えてしまった。これで後戻りの道はまた、ひとつ消えていく。
このことが誰にとっても、幸せに繋がる道へとなっていけたら良い。
想いに微笑んで周太は、いつもの藍模様が美しいコーヒーセットを整えた。
カップの真白な内へと静かにコーヒーを注ぎながら、周太はひとりの女性を想った。

…いま、英二のお母さんは、なにを想っているだろう…

今日この席に、彼女は来ない。
それでも彼女は周太を嫌っている訳ではない、そう英二は言ってくれた。

―もう存分に叩いた、母さんはそう言っていたよ?もし女でも叩いただろう、そうも言っていた。
 それからね、周太?本当は母さん、あんなに腫れて痛いだろうって周太のこと、心配していたんだよ。

こんなふうに想ってくれるなら嬉しい。
それ以上に何よりも、彼女が英二に言ってくれたことが嬉しかった。

―俺のことをね、良い顔になった、自慢の綺麗な息子だって言ってくれたよ?もう、好きにしなさい、ってさ…嬉しかった、俺

そう話してくれた英二の笑顔は、すっきりと晴れた明るさがまばゆかった。
あんなふうに明るい笑顔が見られて嬉しい、サイフォンを戻して盆を出しながら周太は微笑んだ。

…ありがとうございます、

いつか、彼女にも茶で寛いでもらえる日を迎えられたらいい。
このこと本当は、願うことも考えることも自分には出来ない。けれど英二の為になら祈ることが出来る。
あの愛する笑顔のためになら、自分は不可能に思えても叶えたくて祈り、努力に願ってしまう。
やさしい日の訪れを祈りながら襷ほどくと、周太はコーヒーを談笑咲く席へと運んだ。



花切ばさみと花篭を携えて、周太は英理と庭におりた。
春の午後ふる陽光は暖かい、やわらかな青の空を仰ぐ花木たちは光に楽しげでいる。
やさしい花たちに、英理は心から嬉しそうに嘆息を零した。

「ほんとうに、素敵なお庭ね?英二が言っていたの、森みたいで、きれいな花がたくさん咲くよ、って」
「そんなふうに言ってくれたんですね、英二。この庭は、父も大切にしていたんです…俺も、大好きで」
「うん、大好きなのわかるわ。周太くんらしい、やさしい庭だもの?」

そんなふうに褒められると気恥ずかしい。
けれど、自分が好きな庭を喜んでくれる英理の笑顔が嬉しくて、周太は微笑んだ。

「ありがとうございます…よかったら、お土産に花を持って行ってくれますか?今、摘むので」
「いいの?うれしい、ありがとう。花は大好きなの、」

話しながら周太は草花の許へ屈みこんで、一茎ずつ丁寧に摘んだ。
桜草の紅から薄紅、ムスカリの青紫、早咲きのヒヤシンスにラナンキュラス。白と黄色の水仙に三色菫たち。
彩豊かな花々を篭に据えた水桶に挿しながら、周太は英理に笑いかけた。

「好きな花は、この庭にありそうですか?」
「たくさんあるわ、どの花も好き。周太くんの好きな花は?」

快活な笑顔が寒緋桜の下で咲いている。
やさしい華やかな笑顔は弟の英二とよく似ていて、父親譲りの穏健な雰囲気が温かい。
きれいな笑顔にすこし頬赤らめながら、周太は立ちあがって微笑んだ。

「いま咲くなかでは、白木蓮がいちばん…あと、ミモザも可愛いな、って」

この2つの花を告げるのは気恥ずかしい。
白と黄色の花に寄せる想いに、つい首筋が熱くなってしまう。
恥ずかしくて睫を伏せながら周太はミモザの枝に手を伸ばした。

「あの、ミモザは切り花にも良いから…」

ぱちん、切りとる細やかな花枝に「贈り物になってね?」と心でお願いをする。
花は見られて華、そんなふうにも聴くけれど、生きて咲く姿には詫びと感謝を願ってしまう。
そんな想いと摘んだ花たちを眺めると、春を束ねた可憐なブーケになっていた。

「きれい、とっても可愛い花束ね?こんなブーケがお庭で出来るなんて、素敵だわ、」

きれいな笑顔で率直に褒めながら、素直に喜んでくれる。
こういうストレートな物言いは弟とよく似ている、そして父親も同じように話していた。
この姉と弟は、美貌は母譲りでも性格は父譲りらしい?こんな観察にも面映ゆく頬染めて周太は微笑んだ。

「ありがとうございます。…あの、今日はわざわざ来て頂いて、申し訳ありません。ありがとうございます」

きちんと英理にも礼を言いたくて、周太は丁寧に頭を下げた。
ゆっくり頭をあげると切長い目が笑ってくれる、そして綺麗なアルトの声が微笑んだ。

「こちらこそ、ありがとうよ?お茶席、とても楽しかったわ。やさしい自然なお点前で、寛げて。着物の着こなしも素敵だわ、」
「お茶は、ちいさい頃から父に教わっていて…うちでは昔から、お客様があると茶でもてなすんです。それで教えてくれて、」

こういうのは今時は珍しい、そう周太も今は知っている。
けれど小さい頃は他の家も同じだと思っていて、茶のことを何気なく同級生に言ってしまったことがあった。
そして「男の癖に」とまた言われて哀しい想いをしたことがある。
けれど、こうして喜んでもらえると、やっぱり点法も好きと素直に想えて嬉しい。
嬉しい気持ちで微笑んだ周太に、楽しげに英理は笑いかけてくれた。

「そういうの、素敵ね?お父さまも、きっと素敵なんでしょう?」
「はい、父は素敵です、…あ、」

つい即答してしまった。
こんなの弁えが無いし、ファーザーコンプレックス丸出しで恥ずかしい。
それでも正直に言えたことが嬉しくも想いながら、周太は首筋から赤くなった。
そんな周太に英理は、きれいな笑顔を向けて言ってくれた。

「こんなふうに子供に想ってもらえて、幸せなお父さまだわ。すごく喜んでいるわよ、お父さま」

率直に贈ってくれる優しい言葉たち。
こんなところも英理は英二と似ている、その相似が嬉しくて好きになってしまう。
このひとも自分は大好き、しかもこの感じは「憧れ」てもいるのかな?
そんな気恥ずかしさと甘い緊張に頬そめて、周太は英理に笑いかけた。

「ありがとうございます…あの、お父さまと、似ていますね?お姉さんと英二、」
「でしょう?」

周太の言葉に英理は嬉しそうに笑ってくれる。
きれいな長い指をのばして、やさしくミモザの花房にふれながら英理は教えてくれた。

「目とね、雰囲気や性格は父譲り、ってよく言われるのよ、私も英二も。
父は仕事人間なところがあるから、あまり子供と向き合う時間は無い人だったけれど。でも、話せば解かってくれる良い父よ、」

同じように英二も周太に話してくれた。
あらためて聴くことに愛するひととの共通点が想われる、それがなんだか嬉しくて周太は微笑んだ。

「仕事人間なのは、英二と同じですね?…今回も英二、休暇が溜まり過ぎているから、ってお休み頂けたし…」
「そうなんですってね?ほんと英二らしいわ、でも助かったわね?」

ほんと助かったわよねと、可笑しそうに英理が笑いだす。
笑いながら周太の瞳を見て、きれいなアルトの声が言ってくれた。

「でも、昔の英二しか知らないと、きっと驚かれるわね?…だから、母も驚いていたわ」

英二の母親。
さっきもコーヒーを淹れながら想った、冷たい端正な美貌が心に甦る。
どこか突き放すように冷酷で、けれど寂しそうな彼女の目。かつての英二とそっくりな眼差しが懐かしくて哀しかった。
彼女は娘に何と話したのだろう?想いと見つめた先で英理がきれいに微笑んだ。

「要領よくて無難が好き、そんな英二だから自分の思い通りになって良い。以前の母はそう想っていたの。
けれど今の英二を見たらね?表情も言葉も輝くようで、本当にきれいで見惚れたんですって。それで母は想ったらしいの、
これが本当の英二なんだな、そして自分も本当はこういう姿を見たかったんだ。そう気がついてね、本当は嬉しかったみたい」

あのひとが今の英二を認めてくれた。
そのことが嬉しい、このことを彼女に一番近い英理から聴けて安心出来る。
心からの嬉しい想いに、周太はきれいに笑った。

「嬉しいです、とても…英二、ほんとうは誰よりも、お母さまに認めてほしいって、願っていたから…よかった、」

素直な想い告げながら、ひとしずく瞳から涙がこぼれ落ちた。
また自分は泣いてしまっている?こんな泣き虫が恥ずかしい、そっと周太は目許を指先で拭った。
拭った目をあげると英理は明るいトーンで話してくれた。

「母ね、周太くんに言われて『生意気だ』って想ったらしいのね?でも、それ以上に嬉しかったみたい。
叩かれて憎まれても好きだ、なんて言われたこと初めてだわ。そんなふうにね、帰ってからも何回か言っていたわ。
でも母は頑固で我が強くて。一旦こうだって決めつけちゃうと、変えることが難しいの。だから時間はかかるけど、いつか、ね?」

いつか、英二の母が周太を認める時が来るかもしれない。そう英理は言ってくれている。
けれど「いつか」が来ることは難しいことだと解かっている、自分は疎まれても当たり前と知っている。
この自分が男でありながら英二と恋し愛し合うことは、今の日本では忌避され疎まれることも多い。
そう自分でもよく解っているだけに、英二の母から自分が拒絶されることは仕方ないと諦めていた。

…俺のことを恥さらしだ、って憎んでも、仕方ない…だから、恨めない、決して

だから英二の母に頬を叩かれることも、当然のこと。そんなふうに周太は考えてきた。
けれど「いつか」が訪れてくれたなら、どんなに嬉しいだろう?
この「いつか」が来たら自分はどうしたいか、さっきすこし考えたことがある。
この想いに素直に微笑んで、周太は英理に応えた。

「ありがとうございます…『いつか』の時にはね、茶を点てて差上げられたら、嬉しいです、」

おだやかな茶の一服で寛いでほしい。
この花の庭を歩いて、やさしい香にくるまれる安らぎに笑ってほしいな?
そうして笑顔が見られたら、きっと嬉しいだろう。

…いつか、その日を迎えられたら…なによりも英二のために、

その日が訪れたなら、きっと英二は心から幸せに笑ってくれる。
ほんとうは英二がずっと心に重りを抱いている、そのことを知っているから願いたい。
ささやかでも自分にとっては、これは大切な願いごと。
この願いに微笑んだ周太の視界の端で、静かに玄関扉が開いた。




(to be continued)
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