goo blog サービス終了のお知らせ 

男にとって冒険とは何か

2019年04月06日 14時19分14秒 | 社会・文化・政治・経済
 

「人生の岐路にたたされたときの決断は、その人にとって大きな冒険ではないかと思う」
植村直己の言葉

謙虚な人柄だった植村直己さんの名言

必ず壁はあるんです。それを乗り越えたとき、パッとまた新しい世界がある。だから厳しく自分を鞭打ってやってきたときは、振り返ってみたとき実にさわやかです。


「自然は征服するものではなく、学ぶものである」

「努力している人を笑うこと。それは、何よりも最低な行為である」 「勇気をふるい起こして、先へ進まなければならない」



植村さん自身の書かれた「エベレストを越えて」という書籍のアマゾンでのレビューに、以下のような文章がありました。

"単独行が好きだった植村氏にとっては、山岳会という集団の中にあって、それも誰もが個性の強い連中が多いメンバーとうまく渡り合っていくのは大変であったと思う。
 それに加えて、あまりにも非日常の中で些細なことでも決裂してしまう要素を多く含んでいる、エヴェレスト登山のような山行では健全な人間関係を築きあげていくのが何よりも至難の業といえるのだが、そんな中でも植村直己という人間は自分を押し殺してでもうまくやってのけてしまう。
 いや、元々単独行が好きでそれのみに価値を見出していた人間であったからこそ、極限状態にある中でも謙虚に構え余裕を持って事態を収拾できたと思うし、そのような精神力を持つ植村直己のような人間は偉人と称されるべきなのかもしれない"

 
 

ゴールデンボンバー 新曲「令和」に見た本物感

2019年04月06日 13時48分46秒 | 社会・文化・政治・経済

AERA
 4月1日、新元号が発表された。

発表会見の模様はテレビ各局でも生中継され、日本中の注目を集めていた。
その発表の瞬間からわずか1時間後、ゴールデンボンバーが新元号を歌詞に盛り込んだ新曲『令和』を発表した。
彼らは新元号が発表される少し前からLINE LIVEで生配信を行い、その制作の様子を公開していた。発表されるとすぐにレコーディングとMV(ミュージックビデオ)の撮影を始め、あっという間にMVを仕上げてYouTubeで公開した。
楽曲と映像はほぼ完成に近い状態にあり、新元号を連呼するサビの箇所だけを穴埋めするような形で曲を完成させたのだ。その企画力と行動力、そして楽曲やMVのクオリティの高さに称賛の声が相次いでいる。

 ゴールデンボンバーはもともと「アイデアの塊」のようなバンドだった。
そもそも楽器を弾かない「エアーバンド」という彼らの成り立ち自体が1つの発明だった。

ボーカルの鬼龍院翔以外のメンバーはライブでも楽器を弾くふりをしているだけ。
音源は打ち込みで事前に作ったものを流していた。
ボーカル以外に楽器を弾かないメンバーが3人いるステージは異様である。

楽器という武器を持たない彼らは、その代わりにさまざまなパフォーマンスを矢継ぎ早に繰り出して観客を煽る。

特に、身体能力の高い白塗りメイクの樽美酒研二が体を張ったパフォーマンスをするのが印象的だ。

ゴールデンボンバーは大舞台に出るほど真価を発揮する。その才能が評価され、2012年から4年連続で『NHK紅白歌合戦』にも出場を果たした。

 作詞・作曲・ボーカルを担当する鬼龍院翔は、もともと芸人を目指して吉本興業の養成所「NSC東京」に通っていた。在学中はしずるの池田一真とコンビを組んでいた時期もあった。
だが、鬼龍院は芸人としての自分の才能にあっさり見切りをつけて、卒業後に音楽の道に進んだ。そして、お笑い的なパフォーマンスを取り入れたバンド「ゴールデンボンバー」を結成した。

新元号発表からわずか1時間でMV配信
スポーツ報知 4/1(月)

楽曲はどうやって作られた?
楽曲は新元号以外の部分は全て事前に作っておくという「予定稿」スタイル。CDジャケット写真やミュージックビデオも元号の部分以外はすでに撮影されていた。
出典:ハフポスト日本版 4/1(月)


児童虐待した親7割が過去の被害経験

2019年04月06日 13時41分42秒 | 社会・文化・政治・経済

3/30(土) 共同通信

加害の親7割、虐待された経験 子ども時代に被害、理研調査
虐待事件に関わった親の背景
 子どもを虐待したとして有罪判決を受け、服役した親や同居の大人25人のうち、72%に当たる18人が自身の子ども時代に虐待を受けていたことが30日、理化学研究所の調査で分かった。本人が精神的問題を抱えるケースや、子どもに健康や発達の問題があり、子育てが難しい環境に置かれていた例も目立った。

調査チームは、子どもへの適切な接し方が分からなかったり、過大なストレスがあったりしたために虐待につながった可能性があるとみている。

 子どもの虐待事件の加害側を数十人規模で調査するのは異例という。


希望学とは

2019年04月06日 13時27分43秒 | 社会・文化・政治・経済

 

2005年に希望学(正式には「希望の社会科学」)が東京大学社会科学研究所に誕生してから10年以上の歳月が過ぎました。希望と社会の関係を考察するための新しい学問。それが希望学です。

日本では将来に「希望がない」「希望が持てない」という人が増えつつあるのではないか。

そんな思いからスタートしたのが、希望学でした。

残念ながらその懸念は、ますます現実のものとなっているようです。
社会科学研究所が、2007年に20~39歳だった人々に対して継続的に行っている「働き方とライフスタイルの変化に関する全国調査」という調査があります。

そこでは毎年「将来の自分の生活・仕事に希望があるか」をたずねてきました。

すると、自分の生活や仕事に希望があると答える割合は、2007年に55%だったのがその後減り続け、最新の2014年調査では37%まで下がっているのです。
どうやら日本では、将来に希望を持てない人々が、確実に増え続けているようです。
さらに2014年秋から15年春に20~59歳を対象として、希望に関する調査をいくつかの国々で行いました。

すると、将来実現してほしいこと・させたいことを意味する希望を持つ割合は、調査した日本以外の国々では8割から9割に達していました。

それに対し日本では、仕事、家庭、健康など何がしかの希望を持つ割合は5割強にすぎませんでした。
なぜ日本では、希望が持てない人が、多くなっているのでしょうか。
これまでの希望学の研究からは、いくつかの事実が浮かび上がってきました。

本来、生涯にわたって時間を多く保有する若者や、教育機会に恵まれてきた高学歴者、健康状態が良好な人ほど、希望が持ちやすいものです。高齢社会となり、高齢で健康が損なわれている人が多くなれば全体として希望は持ちにくくなります。

貧困状態にある子どもが増え、十分な教育を受けられない人々が増えることも希望の喪失につながります。

また社会から孤立し、孤独な状態にある人が増えることも、希望を持ちにくくします。
これらの問題に対して、社会に生きる誰もが希望を自分たちの手でつくりあげていくための道すじを、希望学は探し続けています。

希望学では、2006年から岩手県釜石市での実地調査を続けてきました。

過去の津波や戦争、不況といった試練や挫折をどうやって新たな希望につなげてきたのかを学ぶために、釜石に足を運び続けてきました。
その釜石は2011年3月11日に、新しい試練にさらされることになりました。その試練に対して、市民はそれぞれの持ち場でお互いを信頼することで、希望の灯をたやさず、前に向かって自分たちの足で歩み出そうとしています。その道のりを釜石の人たちと共に歩み続けることが、希望学のもう一つの使命となりました。
2009年からは希望学福井調査も始まっています。

その名のとおり、福井は「福のある井(人の集まる場所)」です。幸福を保ち続けると同時に、どうすれば新たな希望も創ることができるのかを、福井の人たちと考え続けています。
福井での調査からは、地域内での親密な交流を大事にしつつも、あわせて地域を超えた緩やかな繋がり(ウィークタイズ)を広げていくことが希望の創造につながることなどを確かめてきました。
釜石や福井にかぎらず、これからの地域が元気になるには、人口減少や経済衰退などにあきらめることなく、地域に希望を失わず活動を続ける「希望活動人口」がカギを握ると、希望学では考えています。

これからも日本や世界の地域で活躍する希望活動人口に、希望学は注目していきます。

希望学は、開始以来、多くの方々から励ましや期待をいただいてきました。

特に東日本大震災後には「これから希望学がますます大事になりますね」と応援していただくことも多々ありました。
私たちは希望学の歩みを止めません。

ゆっくりであっても、あせらず一歩ずつ前に進んでいこうと思います。
これからも希望学をよろしくお願いします。

東京大学社会科学研究所玄田有史

〈持ち場〉の希望学 釜石と震災、もう一つの記憶

東大社研、中村 尚史、玄田 有史 編
定価 2,800円(税別)
希望学釜石プロジェクトは2006年から釜石地域で総合的な地域調査を行い、釜石の人々との交流を続けてきた。2011年9月からはオーラル・ヒストリー(口述史)の手法を用いて釜石における「震災の記憶」を記録するプロジェクトをはじめた。本書はその記録を素材に、震災直後の被災地・釜石の人々の行動についてのエッセイを取りまとめたものだ。
本書のキーワードは、題名にもある<持ち場>である。震災直後の困難な状況の中、被災地の人々がそれぞれの持ち場を必死に全うしようとしてきた姿を数多く見聞きした。その持ち場意識こそが、震災直後の地域の崩壊をギリギリのところで食い止めてきたのだ。


非正規の職員・従業員 91万人増加し,2152万人

2019年04月06日 13時17分59秒 | 社会・文化・政治・経済

【雇用形態別雇用者及び現職の雇用形態についた理由】

  • 役員を除く雇用者5649万人のうち,正規の職員・従業員は,前年同期に比べ45万人増加し,3497万人。非正規の職員・従業員は91万人増加し,2152万人。
    非正規の職員・従業員について,男女別に現職の雇用形態についた主な理由をみると,男女共に「自分の都合のよい時間に働きたいから」が最も多く,男性は前年同期に比べ27万人増加,女性は44万人増加

【失業者】

  • 失業者181万人のうち,失業期間が「1年以上」の者は57万人

【非労働力人口】

  • 非労働力人口4212万人のうち,就業希望者は327万人。就業希望者のうち,就業可能非求職者は31万人

【未活用労働】

  • 追加就労希望就業者は183万人。男性は52万人,女性は131万人。
    潜在労働力人口は33万人。男性は12万人,女性は21万人。
    最も包括的に未活用労働を捉えた未活用労働指標4(LU4)は5.8%。男性は4.4%,女性は7.5%

ルーズヴェルト・ゲーム

2019年04月06日 11時27分48秒 | 社会・文化・政治・経済
 
何が起きるかわからない。

必ず逆転勝利があるはず。
「一番面白いゲームスコアは8対7」米国32代ルーズベルト大統領

 
 商品の説明

内容紹介

大手ライバル企業に攻勢をかけられ、業績不振にあえぐ青島製作所。リストラが始まり、歴史ある野球部の存続を疑問視する声が上がる。

かつての名門チームも、今やエース不在で崩壊寸前。廃部にすればコストは浮くが――社長が、選手が、監督が、技術者が、それぞれの人生とプライドをかけて挑む「奇跡の大逆転(ルーズヴェルト・ゲーム)」とは。


大手ライバル企業に攻勢をかけられ、業績不振にあえぐ青島製作所。

リストラが始まり、歴史ある野球部の存続を疑問視する声が上がる。

かつての名門チームも、今やエース不在で崩壊寸前。廃部にすればコストは浮くが――社長が、選手が、監督が、技術者が、それぞれの人生とプライドをかけて挑む「奇跡の大逆転(ルーズヴェルト・ゲーム)」とは。

◆2014年4月スタート TBS系ドラマ「ROOSEVELT GAME」(ルーズヴェルト・ゲーム)原作◆

内容(「BOOK」データベースより)

大手ライバル企業に攻勢をかけられ、業績不振にあえぐ青島製作所。

リストラが始まり、歴史ある野球部の存続を疑問視する声が上がる。

かつての名門チームも、今やエース不在で崩壊寸前。廃部にすればコストは浮くが―社長が、選手が、監督が、技術者が、それぞれの人生とプライドをかけて挑む奇跡の大逆転とは。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

池井戸/潤
1963年、岐阜県生まれ。慶應義塾大学卒。1998年、『果つる底なき』(講談社文庫)で第44回江戸川乱歩賞、2010年、『鉄の骨』(講談社文庫)で第31回吉川英治文学新人賞、2011年、『下町ロケット』(小学館文庫)で第145回直木賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

 

 

NPO法人 杉浦千畝命のビザ

2019年04月06日 11時08分44秒 | 投稿欄

私たちNPO法人は、杉原千畝氏の人道・博愛精神を通じて、国内はもとより世界中に「命の大切さ」「平和の尊さ」を発信し、広く社会に貢献することを目的に活動しています。
杉原千畝
1900年(明治33)1月1日生まれ 1986年(昭和61)7月31日没

杉原千畝は第二次世界大戦中、日本領事館領事代理として赴任していたリトアニアのカウナスで、ナチス・ドイツによって迫害されていた多くのユダヤ人たちにビザを発給し、約6,000人のユダヤ人難民を救ったといわれる。
杉原の発給したビザは「命のビザ」とよばれ、このビザで救われた人たちはその子孫も合わせて現在25万人以上にも及ぶと言われ、世界各国で活躍している。
海外では、チウネ・センポ・スギハラ、とも呼ばれる。
「センポ」と音読みで呼ばれた理由は主に「ちうね」という発音が難しく、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。

勇気の証言ーホロコースト展
開幕式で、NPO法人「杉浦千畝 命のビザ」副理事長の杉原まどかさんが、「他者のために行動する勇気を学び、平和な世界を築く方途を模索して欲しい」と念願した。

自筆「手記」決断
「最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。
回訓を、文字どおり民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそすれ、と考えた。
仮に当事者が私でなく、他の誰かであったとすれば、恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。
それよりも何よりも、文官服務規程方、何条かの違反に対する昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。
私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。
(中略)
苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している。」

第二次世界大戦という人類史上類を見ない暗黒の時代に、組織人としての服務規律と人命救助の間で葛藤しながらも、最終的には個人としての良心を保ち行動し得た外交官杉原。

今なお世界各地で偏見や人種差別に基づく戦争が絶えない状況に鑑みると、その行いや背景となる思いは、人類が未来永劫にわたって希求すべき人種・民族を超えた人道主義・博愛精神の稀有かつ勇気ある表出例として、世界が共有し次世代に語り継ぐべき真正無二の行いである。

 ビザ発給後の杉原千畝

1947年、杉原は家族を連れて日本に引きあげてくるが、帰国した彼を待っていたのは、独断でビザを発給したことの責任による外務省からの辞職勧告であった。
杉原千畝自筆手記によれば、「本件について、私が今日まで余り語らないのは、カウナスでのビザ発給が、博愛人道精神から決行したことではあっても、暴徒に近い大群衆の請いを容れると同時にそれは、本省訓令の無視であり、従って終戦後の引揚げ(昭和三二年四月の事)、帰国と同時に、このかどにより四七才で依願免官となった思い出に、つながるからであります。」とある。
その後の杉原は、商社等の現地駐在員として日々を送り、ビザのことは自ら語ることはなかった。

しかし、1968年8月、突然に杉原へ一人のユダヤ人から連絡があった。

杉原と会ったイスラエル大使館のニシュリ参事官は、ボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼして杉原に感謝の言葉をのべた。

「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません。」

世界中のユダヤ人たちは、杉原のことを探し続けていたのであった。

翌年、彼らを救った功績から、ビザの受給者でもあるバルハフティク・イスラエル宗教大臣と面会する。さらに、1974年に「イスラエル建国の恩人」として表彰される。

1985年には、イスラエル政府から「諸国民の中の正義の人賞(ヤド・バシェム賞)」を受賞した。
2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復が行われた。

杉原千畝名誉回復の経緯
杉原千畝顕彰プレートの除幕式(2000年10月10日)左からカマイティス・リトアニア臨時代理大使、杉原氏夫人の杉原幸子氏、河野洋平外務大臣、鈴木宗男自民党総務局長、カスピ・イスラエル臨時代理大使
杉原千畝顕彰プレートの除幕式(2000年10月10日)
左からカマイティス・リトアニア臨時代理大使、杉原氏夫人の杉原幸子氏、河野洋平外務大臣、鈴木宗男自民党総務局長、カスピ・イスラエル臨時代理大使
1991年10月、当時の鈴木宗男政務次官により外務省飯倉公館で幸子夫人、長男夫婦に杉原への名誉回復が行われた。

1992年3月11日、第123回国会衆議院の予算委員会国会における質疑答弁

質問:草川昭三
答弁:内閣総理大臣 宮沢喜一
   外務大臣 渡辺美智雄

≪草川昭三≫
終戦後ソ連での抑留から帰国されました杉原氏は、外務省に復職を願いますけれども、昭和22年の人員整理ということで退官を強いられました。

独断によるビザ発給は本国政府の訓令違反とされたと言えます。

杉原氏本人も家族も、本省の意向に反してビザを発給した責任を問われたとの思いを抱き続け、44年間外務省関係との交流を一切絶っていらっしゃいました。
昨年の10月、鈴木宗男外務政務次官がリトアニアとの外交関係樹立を機会にこの問題を取り上げられ、飯倉公館でご家族に謝罪されたと聞いております。

(中略)

この際、外務省は正式に謝罪をし、この方を顕彰すべきだと思うんですが、大臣の見解を聞きたいと思います。

≪渡辺美智男外務大臣≫
これは昔の古い話なので記録以外には調べようがないんですが、杉原さんが訓令違反で処分されたという記録はどこにもない。

それからそういうような査証を発行したのは15年ですが、その後でプラハの総領事館あるいはケーニヒスベルクの領事館、ルーマニア公使館などを7年間勤務してきた。
だから7年間外務省にずっとおるわけですから、処分されたわけではないし、22年には約3分の1、外務省の人間の3分の1が解雇されたそうです。

終戦直後の話ですから、その3分の1の中に入ったということは事実でございますが、特に不名誉な話ということは私は全く聞いておりません。

中略

私は、その事態をよく見て人道的な見地からそれだけのご苦労をして出国させたということは、やはりすばらしかったなと、過去を振り返ってそのようなたたえたい気持ちであります。

≪宮沢喜一内閣総理大臣≫
私も報告を受けておるところによりますと、杉原副領事の行った判断と行為は、当時のナチスによるユダヤ人の迫害といういわば極限的な局面において人道的かつ勇気あるものであったというふうに考えております。

この機会に改めてその判断と功績をたたえたいと思います。

2000年10月10日、日本国政府による公式な杉原の名誉回復

「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」と、顕彰プレートが外交史料館に設置される。

除幕式で当時の河野洋平外相は、戦後の外務省の非礼を認め、正式に遺族に謝罪した。

「杉原千畝氏 顕彰プレート除幕式」における河野外務大臣挨拶

本日御列席をいただきました杉原幸子令夫人、そして杉原家の皆様、今日の日を迎えるに当たって大変御尽力いただきました鈴木宗男議員、岐阜県及び八百津町の方々、それからリトアニア及びイスラエルの在京臨時代理大使、杉原千畝生誕100年記念事業委員会の皆様方、その他御列席の方々、皆様をお招きして本日ここに故杉原千畝氏の偉業を称える顕彰プレートの除幕式を開催できたことは、私にとりまして、大きな喜びでございます。

特に、故杉原氏と一緒に言葉には言い表せない御苦労をされました幸子夫人に御臨席を頂けたことは、本当に嬉しいことでございます。

望むらくは、故杉原氏が御存命中にこのような式典ができておれば更に良かったと、こんなふうに思っています。

これまでに外務省と故杉原氏の御家族の皆様との間で、色々御無礼があったこと、御名誉にかかわる意思の疎通が欠けていた点を、外務大臣として、この機会に心からお詫び申しあげたいと存じます。

勇気ある人道的行為を行った外交官として知られる故杉原氏は、申し上げるまでもなく、在カウナス領事館に副領事として勤務されている間、ナチスによる迫害を逃れてきたユダヤ系避難民に対して日本通過のための査証を発給することで、多くのユダヤ系避難民の命を救い、現在に至るまで、国境、民族を越えて広く尊敬を集めておられます。

日本外交に携わる責任者として、外交政策の決定においては、いかなる場合も、人道的な考慮は最も基本的な、また最も重要なことであると常々私は感じております。

故杉原氏は今から六十年前に、ナチスによるユダヤ人迫害という極限的な局面において人道的かつ勇気のある判断をされることで、人道的考慮の大切さを示されました。私は、このような素晴らしい先輩を持つことができたことを誇りに思う次第です。

本年は故杉原氏の生誕100周年に当たりますが、杉原氏が御活躍されたリトアニアと我が国との間の新たな外交関係が9年前に始まった今日、すなわち10月10日という機会に、外務省としても、同氏の業績を改めて称え、日本外交の足跡として後世に伝えるために、顕彰のプレートを設置することとなりました。

このプレートは、8月4日、衆議院外務委員会におきまして、鈴木委員から、顕彰のために何か残るものを考えるべきだという御指摘がございました。

外務省といたしまして、色々と考え、相談した結果、ここにプレートを置かせてもらうことが最も適当であろうと考えた次第でございます。

このプレートを見る度に、故杉原氏のとられた人道的かつ勇気のある判断と行動について、当省職員が常にこれを心に留めて職務に努めるとともに、外交史料館に閲覧にいらっしゃる方々にも、杉原氏の人となりと業績に思いを馳せていただければと考えた次第でございます。

また、故杉原氏の偉業を記念して、何か国際社会における相互理解に役立つ事業をできないかという御提言がございました。

これにつきまして検討した結果、国際交流基金事業として、イスラエルからの有識者招聘が2001年度から実施されることとなり、同氏にちなんで「杉原千畝フェローシップ」と名付けられることとなっております。

この実現に多大な御尽力をされた鈴木議員から改めて御説明があると存じますから、私からは一言の御紹介にとどめさせていただきます。
最後に故杉原氏の御冥福をお祈り申し上げ、御家族の皆様の御健康を願って、私の御挨拶とさせていただく次第でございます。有り難うございました。

 


杉浦千畝センポミュージアム

2019年04月06日 10時46分20秒 | 社会・文化・政治・経済

杉原千畝記念館

約6000人のユダヤ人の命をビザ発給によってナチス・ドイツから救った杉浦千畝。

「命のビザ」が公開されている。

八百津町出身の外交官で、世界中のユダヤ人から日本のシンドラーと呼ばれ、尊敬を集めている。
千畝の生誕地・八百津と、異境の地リトアニアとの文化差異を、岐阜産総桧の木組フレームで広がりを感じさせる展示室の中で表現し、時空を超えて千畝の遺徳を柔らかく包み込んでいる。

孤高な千畝の執務室、八百津の町を見晴らす展望室などもある。
開館時間 9:30~17:00
住所 岐阜県加茂郡八百津町八百津1071

アクセス

高山本線「美濃太田駅」から八百津線の東鉄バス約30分

「八百津町ファミリーセンター前」乗換~八百津町コミュニティーバス約12分「人道の丘公園・杉原千畝記念館」すぐ


杉浦千畝 命のビザ

2019年04月06日 10時25分03秒 | 社会・文化・政治・経済

なぜ、千畝はヴィザを発給したのか…決断

私も何をかくそう一晩中考えた。

苦慮、煩悶の挙句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。

そして私は何も恐れることなく、ヴィザ発給を決意した。

その後、千畝が1ヶ月間で発給したヴィザは2,139通になります。

 一人でも多くの命を救うために、入国ビザを必要としない南米キュラソー行きの『命のビザ』を少しの時間も惜しんで書き続けた千畝は、領事館を退去した後もホテルで渡航許可証を書きました。いよいよ出国という最後の日、駅にまで押し掛けてきたユダヤ人たちにも発車間際まで渡航許可証を書き続けた千畝。最後の渡航許可証は車窓から手渡したのでした。

その後、千畝が1ヶ月間で発給したヴィザは2,139通になります。

 一人でも多くの命を救うために、入国ビザを必要としない南米キュラソー行きの『命のビザ』を少しの時間も惜しんで書き続けた千畝は、領事館を退去した後もホテルで渡航許可証を書きました。いよいよ出国という最後の日、駅にまで押し掛けてきたユダヤ人たちにも発車間際まで渡航許可証を書き続けた千畝。最後の渡航許可証は車窓から手渡したのでした。

について

「人道=こまった人がいたらたすける」という彼の思いは「暖かな気持ち」「日本人の精神の気高さ」として、清々しい気持ちになれます。「自分も日本人として、そして人として、杉原千畝を誇りに思い、自分も誰かのために何かしてあげられる人間の一人なんだ」と気づかせてくれる…それがこの記念館です。

八百津で生まれた千畝

[1900-1922]

1900年、千畝はごく一般の環境と家庭の中で生まれ育ちました。英語教師となる夢を目指し勉学に励みますが生活が苦しくなり、公費で勉強ができる外交官留学生試験に、猛勉強の末合格しました。そしてロシア語研修生として、人生の方向転換をしたのです。

外交官時代
ハルビン

[1939-1940]

ハルビンにてその能力を見込まれ、千畝は外交官としての希望ある一歩を踏出します。一方、ヨーロッパではヒトラーによるナチの独裁が始まり、ユダヤ人の命が脅威にさらされはじめていました。

リトアニア・カウナスに、日本領事館開設を命じられた千畝は、同時にソ連からの情報を集めることを命ぜられます。戦争の激しくなったこの頃、ヒトラーによるユダヤ人迫害も激しさを増し、彼らの受け入れ先はほとんど無くなってしまいました。

千畝の決断

そして1940年、千畝にある決断を迫られる出来事が起こります。ナチスの目を盗んで逃げてきたユダヤ人たちが、ヨーロッパから逃れるために、日本への通過ビザを求め、領事館前におしかけたのです。「ビザを出してもいいですか。」日本の外務省へあてた電報の帰ってくる答えは

「正規の手続きができない者に、ビザを出してはいけない。」というものでした。ビザを発給しユダヤ人の命を救うべきか、命令に従って外交官としての輝かしい道を守るべきか。千畝は悩み、そして一つの答えを出したのでした。

ヴィザ発給後

[1947-1986]

1947年、帰国した杉原を待っていたのは独断でビザを発行したことの責任による外務省からの解職。 1968年、杉原の許へ一人のユダヤ人が訪れてきます。彼はボロボロになった当時のビザを手にして涙をこぼして杉原に礼の言葉をのべたのです。

杉浦千畝の仕事とユダヤ人を巡る動き

ロシア語を中国のハルビン学院で学んだ千畝は、1924年、ハルビン日本領事館に就任。

その後、満州国外交部に出向するものの、すぐに帰国します。1937年、フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任。

1939年にリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となります。

ヨーロッパではナチスが勢力を広げ、ユダヤ人への迫害が増大。国外脱出を図るユダヤ難民が、一時避難していたリトアニアから入国ビザを必要としない南米スリナム、キュラソーなどのオランダ領への逃亡を目指します。

なぜ、千畝は行動を起こしたのか?

ナチスによるユダヤ人迫害は激しさを増し、ドイツ勢力が広がるにつれてユダヤ避難民は激増してきましたが、彼らの受け入れ先はほとんどなくなっていました。

さらに1940年4月から再び始まったナチス・ドイツの急進撃で、ヨーロッパは西も南もふさがれてしまいます。

そして、1940年7月18日の早朝、千畝にある決断を迫られる出来事が起こります。

ポーランドからリトアニアに逃亡してきたユダヤ避難民が、閉鎖間際の日本領事館に通過ビザを求めて大勢殺到しました。

緊迫した中、本省と連絡を取り合う千畝。

苦悩の末、「発給要件を満たさぬ者へのビザ発給はならぬ」という本省の命令に背き、命の危機が迫るユダヤ人に対し、「首になっても構わない、人道上拒否できない」と、条件をつけずにすべてのユダヤ人に対し、ビザを発給する決心をしました。


「ユダヤ人排斥運動」

2019年04月06日 10時18分29秒 | 社会・文化・政治・経済

なぜ、避難民たちは
リトアニアから逃げなければならなかったのか?

1933年4月にヒトラーが声明を出した「ユダヤ人排斥運動」に始まるホロ・コーストにより、ドイツや1938年3月にドイツにより併合されたオーストリア。1939年3月に解体されたチェコ・スロバキアからポーランド国境を越えていたユダヤ系避難民たちが、1939年9月に締結された独ソ不可侵条約によってポーランド西半分に侵攻したナチスドイツ軍のホロ・コーストの恐怖から逃れるため、その占領地域であるポーランド西部から北東部のヴィリニュス周辺地域へ逃避し、ユダヤ系避難民の前に立ちはだかるリトアニア国境を前に孤立していました。
時を同じくして行われたソ連軍のポーランド侵攻により、ポーランド東半分を占領したソ連とリトアニアの間で1939年10月に結ばれた「ヴィリニュス返還協定」によって、第一次世界大戦以降、度重なる国境紛争によりポーランドに領有されていたヴィリニュス周辺地域がソ連からリトアニアに割譲されたのを機に、リトアニアへ逃げ込んだものと推測されます。

ナチスドイツ軍の占領地域であるポーランド西部から、ポーランド北東部のヴィリニュス周辺地域へ逃避したユダヤ系避難民の前に立ちはだかるリトアニア国境が、ヴィリニュス地域のソ連からリトアニアへの割譲という事態に一時的に消滅したのである。
このときリトアニア国境を越えたユダヤ系避難民は15,000人ともいわれています。
しかし、独ソ占領下のポーランドから、リトアニアに無事避難できたユダヤ系避難民にとって、安住の地であるはずの中立国リトアニアは、決して安泰の地ではなかったのです。
ドイツとソ連がこぞってポーランドへ侵攻する直前の1939年8月23日に公表された独ソ不可侵条約の秘密条項に従い、バルト三国の併合に向けて、着々とその触手を伸ばし始めていたのです。
1939年10月、ソ連はバルト三国と相互援助条約を結び、ここにソ連軍の駐屯をみとめさせ、翌年の1940年6月には、この相互援助条約を一方的に破棄し大量のソ連軍を進駐させ、リトアニアはソ連の一部と化していくのです。

 

「決断」 最初の回訓を受理した日は、一晩中私は考えた。考えつくした。回訓を文字どおり民衆に伝えれば、そしてその通り実行すれば、私は本省に対し従順であるとして、ほめられこそすれと考えた。かりに当事者が私でなく他の誰かであったとすれば、恐らく、その百人が百人、東京の回訓通りビザ拒否の道を選んだだろう。それは何よりも、文官服務規程および何条かの違反に対する昇進停止、ないし馘首が恐ろしいからである。私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた・・・。はたして浅慮、無責任、がむしゃらの職業軍人グループの対ナチス協調に迎合することによって、全世界に陰然たる勢力を擁するユダヤ民族から永遠の恨みをかってまで、旅行書類の不備、公安配慮云々を盾にビザを拒否してもかまわないのか、それがはたして国益にかなうことだというのか。苦慮、煩悶のあげく、私はついに人道・博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく職を賭して忠実にこれを実行しおえたと、今も確信している。


「不屈」と「勝利」は表裏一体

2019年04月06日 06時10分51秒 | 社会・文化・政治・経済

雑草の逞しさ。
僅かな道路のセメントとブロック塀の隙間から、1本の草が伸びていた。
その生命力に胸が打たれる。
生活の困窮、「今は長い人生の間の、ただ一時の辛抱にすぎない。断じ負けない」と若者は決意した。
悔しさや苦しさは、必ず成長の糧になる。
奮い起した負けじ魂は、人生の宝となる。
どんな人にも、かけがいのない使命がある。
「不屈」と「勝利」は表裏一体。


名付け親から貰った大切な名前

2019年04月06日 05時45分56秒 | 社会・文化・政治・経済

凄惨な事件、 命を粗末にする行為が頻発してます。
思い詰める前に、 自分の名前の意味・由来を考えましょう。
凄惨な事件、 命を粗末にする自死行為が頻発して、暗い辛い気持ちになります。

高速道路で、怒りに任せて、 追い越し車線で、夫婦を死に追いやった容疑者の名前が和歩。

妻や子ども5人を惨殺した容疑者の名前が 博文。

名付け親の“思い”が、込められているように思います。

イジメで自死を選ぶ思いに囚われる子も
イジメに加担する子も

刹那の思いで、生がい取り返しのつかない行為をしそうな人も、名付け親から貰った大切な名前があります。

当たり前にある命は、実は奇跡。
多くのに支えられ生きている。

「いじめ」「虐待」など、あまりにも命が粗末にされています。

「人の不幸の上に、自分の幸福を築く」構図の一つが、特殊詐欺。

アポ電強盗などは、命を粗末にする行為そのもの!


いのちをバトンタッチする会

2019年04月06日 05時27分42秒 | 社会・文化・政治・経済
 

「いのちの授業」
学校や企業で語りかけてきた。

150回以上延べ30万人以上に訴える。
「命を粗末にする」出来事が続いている。
「親より早く死んではいけない!」

設立趣旨と主な活動

子どもや社会に対して、いのちの大切さや家族の絆を教育・啓発する「いのちの授業」を行い、子どもの健全育成・社会教育・人権の擁護・安全・医療や福祉に係る問題の改善や解決を図り、いのちを大切にする家庭、職場、社会づくりと、福祉の増進に寄与することを目的に設立されました。

主な活動として、「いのちの授業」の講演会、小児がんの支援(ゴールドリボン・いのちの授業、がん教育)、定期購読誌「いのちびと」の発行、「いのちの大会」や「いのち寺子屋」の開催、単行本・絵本・講演録・DVDの制作発行などに取り組んでいます。

その活動は、新聞・テレビ・雑誌などでも広く紹介されています。

鈴木中人の紹介

プロフィール
1957年愛知県生まれ。81年デンソー入社。92年、長女の小児がん発病を機に、小児がんの支援活動やいのちの授業に取り組む。2005年、会社を早期退職して、いのちをバトンタッチする会を設立。2009年、ライフクリエイト研究所を設立。

 

いのちのバトンタッチをテーマに、いのちの輝き、家族の絆、生きる幸せ・働く喜び、良き医療などを、いのちの授業として全国に発信する。

いのちの授業や研修は、30万人が感動し、小学校・道徳の教科書にもなる。

定期購読誌「いのちびと」の編集、小児がん支援プロジェクト、ドキュメンタリー映画「四つの空 いのちにありがとう」のプロデュースなどにも取組む。

いのちの授業 鈴木中人

・毎日新聞「ひと」紹介(2019年)
・毎日新聞「発言」(2017年)
・朝日新聞「ひと」紹介(2014年)
・テレビ寺子屋出演(2010年、2012年)
・NHKテレビドキュメンタリー放送(2009年)
・NHKラジオ深夜便こころの時代出演(2004年、2008年)

 

 

私と「いのちの授業」
私は、元々は地元の会社に勤めるサラリーマンでした。

社内結婚した妻と二人の子どもをと、どこにでもいる普通の家族として暮らしていました。
突然、人生のまさかが襲いました。

長女・景子が小児がんを発病したのです。景子三歳、私は三十四歳でした。
人生の当たり前が崩れました。
子どもは成長するする存在から、死ぬかもしれない存在に。
一緒に暮らす家族はバラバラに。
働き盛りの仕事は、闘病と育児のやり繰りの毎日に。景子は、約三年間闘病して亡くなりました。必死の祈りも叶わずに…。いのち、死ぬ、生きる、家族、働く、良き医療、幸せ、運命とは何だろうか。
苦悩と涙の中で、何回も何回もそう思いました。

 十年後、何のあてもなく会社を早期退職して「いのちの授業」を始めました。

景子が遺してくれた「いのちのメッセージ」をバトンタッチしよう、ただそれだけの思いです。四十七歳でした。

超零細一人稼業になって、人生の情景も随分と変わりました。
たくさんの「いのちの体験と出逢い」が積み重なりました。
そして、「生きる」が一本の糸として紡がれていきました。

「いのちに思いをはせて、自分の生き方・働き方をみつめてみよう。
本当に大切なことに気づき、幸せになるためのヒントがきっとある―」

亡き娘、そして、たくさんの方から「いのちの思い」を託されました。
その思いを、「いのちの授業」を通じてバトンタッチさせていただきたいと願います。

 

 



人質司法とは?

2019年04月06日 05時08分02秒 | 社会・文化・政治・経済

異例のゴーン被告の再逮捕

「人質」批判に抗せるのか

日本の司法制度による身柄拘束における問題点として指摘される言葉である

法律上捜査機関は、逮捕状による72時間とその後の拘留状に基づく20日(計23日)間しか、同一容疑での取調べは許されない。

この法律上の建前は、今の運用では原則と例外が逆転している。
日本において、被疑者または被告人が被疑事実または公訴事実を自白する場合に比べ、否認する場合には勾留による身柄拘束が長期化し、釈放や保釈がされにくくなる傾向にある。

身柄の長期拘束によって、自白や警察や検察の意に沿った供述を得ようとしているものとして、検察庁や裁判所、あるいは現行司法制度の実態を説明する際に用いられる言葉である。
このような人質司法が冤罪を誘発させていると批判されている。
微罪逮捕、別件逮捕、代用刑事施設、接見交通権制限制度、起訴前保釈がない、取調べの可視化がない等の他の司法制度の問題も、人質司法への批判に拍車がかかっている。
人質司法の事実は弁護士にとってはあまりにも明白な事実として受け止められており、社会一般の認識も徐々に深まりつつあるが、裁判所および検察庁は未だその傾向を公式に認めていない。

この問題に関する日本弁護士連合会の正当な指摘が受け入れられる見通しは立っていない。
日本で広く人質司法がおこなわれているという事実が、日米地位協定の改正協議の障害のひとつとなっているといわれている。
なお、人質司法にあらがおうとする裁判官もごく少数存在するが、そのような裁判官は出世街道から遠くなるとみなされている。