山本周五郎については、複雑な思いがある。
転職した会社の編集が山本周五郎のファンであった。
「堀さんは、文学はしろうとだけど、山本周五郎なかよく読めるな」先輩の佐野君が編集長の堀順治を侮蔑するよに言う。
佐野治朗は先輩でも、徹男にとって3歳年下したなので、「佐野君、俺は山本周五郎を一度も読んでないんで、何とも言えない」と同調しない。
「山本周五郎なんて、通俗作家!読むに値しない!」強気で自惚れ屋の佐野は、谷崎潤一郎、三島由紀夫などに心酔していた。
毎年、芥川賞獲得を夢見ていた佐野治朗は、一度もどこかの文芸雑誌に投稿することはなかった。
「佐野君は、ホラを吹くな」佐野の元同僚で全国紙の記者に転身した水島直人が冷笑して言う。
皆が「仮の姿人間」のような青春の日々であった。
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山本周五郎(、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。
1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。
1911年(明治44年)
4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。
以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作った。自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした。
1916年(大正5年)
横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。
卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
1923年(大正12年)
徴兵検査を受けたが、眼力が問題となり丙種合格で免れる。
同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。
その後豊橋、神戸に転居。
1924年(大正13年)
再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社。
文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である日本魂社に転籍。
1926年(大正15年・昭和元年)
『文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。
1931年(昭和6年)
東京馬込東に転居。空想と称された馬込文士村の住人となる。
尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の時代小説を書くようになった。
1932年(昭和7年)
『キング』(講談社)に度々時代小説を執筆するようになった。当時の大衆雑誌『キング』は「1928年(昭和3年)」140万部と雑誌界の首位にあった。
1936年(昭和11年)33歳、講談社からは新進作家としてあつかわれ、講談社発行の『婦人倶楽部』・『少年倶楽部』・『講談倶楽部』・『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載された。
当時の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった。
博文館が、周五郎の「大人向け」作品を掲載しだした。それまではほとんどが少年少女小説であった。
1943年(昭和18年)40歳
第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退。
周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている[19]。
1959年(昭和34年)
『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。
1961年(昭和36年)
文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
1967年(昭和42年)
2月14日 - 間門園別棟で肝炎と心臓衰弱のため死去。享年64(満63歳)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。
幸福は<心>で決まる。
生きる<哲学> <理念>で決まる。
強いことが幸福である。
明るいことが幸福である。
賢いことが幸福である。
<今>に真摯に向き合う。
思えば「仕事にも生き方にも芯」がなかったから、揺れ動くばかりだった。
自分の悩みが深ければ深いほど、一つ一つの指針が心に突き刺さり、再び立ち上がることができた。
「時間と労苦」を惜しまない。
悩み正面から挑み、自身の境涯を高める。
悩んだり、不安を感じる時は、新たな自分へ成長しようと頑張っている証拠だと思う。
失敗しても、決して自分を卑下しない。
使命を果たすために粘り強く前へ進む。
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「営業は、勤務中は社内にいるな」と言われ、1日100軒もの飛び込み営業のノルマを課せられる。
朝は8時出勤し、その日の日報で営業行動計画を提出。
所長が朝礼で訓示、社歌を大声で合唱。
「腹の底から大声で歌え!」所長
「そうだ!いいか、声は営業マンの武器だ!」次長
9時営業へ出発。
現地に着いたら直ぐに社に電話。
「ただ今現地に到着しました」
昼も社に電話。「これから、食事に行きます」
営業を終わった時点で現地から社に電話。
「これから、戻ります」
社に戻って、営業活動結果の詳細を紙面で報告。
見込みあり、見込みなしの判断。
見込みがあれば、契約を決めるのは自分ではなく班長の役割。
成果を出した営業マンの体験発表を聞く。
アドバイスや叱咤を直属の班長、課長や営業所長、次長から日々受ける。
解放され退社は午後9時に。
思えば、もう限界であった。
医学情報社から声がかからねば、その後、どこまで営業をやれただろうか?
投稿日 2017年06月12日(月)| 熊本発
くまもとよかとこ案内人の会
私たちの会は現在、89人で活動しています。
郷土・熊本を観光客の皆さまに紹介し、「熊本に来てよかった」
「もう一度、熊本を訪れたい」と思われる<心の通ったおもてなし>を行うことで、熊本観光の振興に寄与することが目的です。
前の熊本城に戻すのに20年を要する。
20年後、孫たちは30代。
時間がかかるからこそ、子どもや孫の世代に復興の思いを伝える。これが何より大事だと思う。
会長吉村徹夫さん
平成28年(2016)4月の熊本地震で甚大な被害を受けた熊本城。
ボランティアガイド団体「くまもとよかとこ案内人の会」では、“今こそ見ておきたい”をテーマに熊本城で観光ガイドを続けています。
会長でガイド歴9年の吉村徹夫さんに話を聞きました。
▲再建工事のため鉄骨で覆われた「天守閣」。上層階の瓦はほとんどはがれ落ち、入口付近の石垣が崩落しています。
70名(現在は89名に)が所属する「くまもとよかとこ案内人の会」では、熊本城をはじめ、熊本の観光スポットを案内するボランティアガイドを行っています。
約400年の歴史を誇る熊本城は、最大震度7の地震を2度も受け、多くの歴史的建造物が被災。
地震発生後は城内への立ち入りが規制され、観光ガイドも休止せざるを得なくなりました。
▲地震で大きな被害を逃れた「宇土櫓」。「天守閣」並みの構造と規模を誇り、築城以来現存する貴重な櫓として国の重要文化財に指定されています。
「地震後の熊本城を見た時は、ただただショックで呆然としましたね。けれども、痛手を負ってもなお力強くそびえ立つ熊本城の姿に力をもらい、負けないぞという気持ちが湧き上がってきました」と会長の吉村徹夫さんは当時を語ります。
▲自作のパネルを使って説明する吉村さん。案内する人の性別や年齢を考慮して、準備する資料を変えるという細やかなガイドが評判です。
熊本城に隣接する二の丸広場への立ち入り規制が解除されたのを機に、地震から約2カ月後に観光ガイドを再開。
“今こそ見ておきたい”をテーマに、被災した櫓群の一部を城外から見学できるコースを設けました。
県外客を中心に多くの人々が訪れ、ガイドの依頼は地震前よりも増加しているそうです。
▲崩落した石垣の石材は、二の丸広場の一角に仮置きされています。今後、石材に一個ずつ番号を付けて緻密に積み直されていく予定です。
新設されたコースの見どころを吉村さんに尋ねると、二の丸広場から加藤神社方面へ曲がる場所から見える「戌亥櫓(いぬいやぐら)」を挙げてくれました。
土台の石垣は内側から崩れ、隅石の一本柱が木造三階建ての櫓を支えています。
少し触れると今にも崩れ落ちそうな様子が遠目でも分かるほど。
被害の大きさを痛感させられます。
▲隅石の一本柱で建物を支える「戌亥櫓(いぬいやぐら)」。テレビのニュースなどで有名になった「飯田丸五階櫓」とともに、“奇跡の一本石垣”と呼ばれています
「戌亥櫓」から加藤神社方面の石垣は全壊。露わになった内側の石の大きさや色を見ると、石垣が造られた時代が分かるといいます。「江戸時代に造られた箇所や明治時代に復元された箇所などさまざまです。被災したことで、その歴史が一目で分かるようになりました」と吉村さん。
「熊本城の再建はまだまだこれから。少しずつ復旧が進む様子をこの目で見届け、お客さんに正確に伝えていきたいですね」。
▲今回話を伺った会長の吉村徹夫さん(右)と、ガイド歴10年以上の水野由美子さん。
現在、70名の観光ボランティアガイドが熊本城をはじめ、熊本市内を様々な角度から案内してくれます。
■くまもとよかとこ案内人の会(見学コースや時間は相談可能)
【電話番号】
096-356-2333
【受付時間】
9時~15時
【備考】
公式ページ(http://www.k-yokatoko.com/)
▼常駐ボランティアガイド
【常駐場所】
桜の馬場城彩苑 総合観光案内所内
(熊本県熊本市中央区二の丸1-1-1)
【案内人数】
ガイド1人につき、1人~8名まで案内可能
※常駐ガイドが出払ってしまう可能性があるので事前予約がおすすめ
【交通】
・JR熊本駅から市電で健軍方面行き約10分、熊本城・市役所前下車徒歩すぐ
・九州自動車道熊本インターチェンジから車で約30分
【駐車場】
あり
【料金】
無料
▼予約ガイド
【案内区域】
熊本城、熊本市内とその周辺
【申し込み】
3日前までの要予約
【案内人数】
ガイド1人につき、1人~15名まで案内可能
【投稿日】2017年06月12日(月)【投稿者】たびらい編集部
グランド・ジョラス(Grandes jorasses)は、アルプス山脈モンブラン山塊にある山。フランスとイタリアの国境に位置する。標高4,208m。
約1kmにわたる頂稜には6つの頂がある。
ウォーカー峰(4208m、最高点)
ウィンパー峰(4184m)
クロ峰(4110m)
エレーヌ峰(4045m)
マルグリット峰(4066m)
ヤング峰(3996m)
ウィンパー峰は1865年にエドワード・ウィンパーらが初登頂し、最高点のウォーカー峰は1868年にホレス・ウォーカー(英語版)らが初登頂した。
グランド・ジョラス北壁はヨーロッパ三大北壁の一つでもある。北壁ウォーカー側稜は1938年にリカルド・カシン(イタリア語版)一行が初登攀に成功した。 また長谷川恒男と森田勝の冬季北壁単独世界初登攀争いの舞台にもなった。
三大北壁の中では知名度で劣るものの、難易度では最難関と言われ、森田勝もこの山で命を落とした。
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標高 | 4,208 m |
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所在地 | フランス・イタリア国境 |
北壁の登攀史[編集]
- 1907年 - ジョフリー・ウィンスロープ・ヤングとヨゼフ・クヌベールが北壁周辺を初めて偵察
- 1928年 - アルマン・シャルレとエヴァリスト・クルーによりウォーカー側稜の本格的な試登が初めて行われる。3300mのスラブまで到達。
- 1931年 - 二つのドイツ隊が試登を行うが、二人が墜落死
- 1933年 - ピエロ・ザネッティ、ジュスト・ジェルヴァズッティがクロ側稜を試登し3500mまで到達
- 1934年 - アルマン・シャルレ、ロベール・グレローズがクロ側稜3600mまで到達
- 1935年6月28日 - クロ側稜初登攀、マルティン・マイアー、ルドルフ・ペータース
- 1938年1945年7月17日 - ウォーカー側稜をエドゥアール・フレンドとガストン・レビュファが第二登。
- 1963年 - ウォーカー側稜冬季初登攀、ヴァルテル・ボナッティ、コジモ・ザッペリ
- 1964年 - ウィンパー側稜初登攀、ヴァルテル・ボナッティ、ミシェル・ボーシュ
- 1967年7月22日 - 高田光政(日本人で初めてアルプス三大北壁の全登頂に成功)
- 1969年7月23日 - 齋藤雅巳(北壁ウォーカー稜単独第2登)
- 1979年3月4日 - ウォーカー稜冬季単独初登攀[1] 、長谷川恒男
- 1982年 -山野井妙子、笠松美和子が、北壁ウォーカー稜を女性としては冬季初登攀。
いかなる苦難にも
決然と前を向くのだ。
震災や自然災害の連続である。
熊本地震から3年が経過。
県内では関連死を含む270人の尊い命が犠牲となり、全半壊した家屋は4万3000棟以上に及ぶ。
いまだ生活再建の途上にある人は少なくない。
「昔みたいに胸を躍らせて春を迎える感じでではなくなった」との住民の声も。
<なぜ人は山に登るのか>
義務からではなく、自らの意思で、あえて苦難に挑む。
そこに人生の真髄に似たものがある。
「心身を擦り減らすような闘いの中から、僕たちは人間の勇気、忍耐、不屈の精神力、強靭な肉体を鍛え上げ、自分自身の弱さに打ち勝貴重な体験を学びとっている」登山家・小西政継さん

グランドジョラス北壁
誰にとっても、人生は困難な連続
保護者である両親も家もない少年にとってなおさらだろう。
解説
「さざなみ」のアンドリュー・ヘイ監督が、孤独な少年と一頭の馬の歩む旅路を描いた人間ドラマ。
「ゲティ家の身代金」にも出演した新星チャーリー・プラマーが主人公チャーリーを演じ、第74回ベネチア国際映画祭でマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞した。
幼いころに母親が家出し、愛情深いがその日暮らしの父親と2人で生活する少年チャーリーは、家計を助けるため厩舎で競走馬リーン・オン・ピートの世話をする仕事をしていた。
しかし、そんなある日、父親が愛人の夫に殺されてしまう。
さらに、試合に勝てなくなったピートの殺処分が決定したという知らせを受けたチャーリーは、ひとりピートを連れ、唯一の親戚である叔母を探すため荒野へと一歩を踏み出す。
スタッフ
- 監督
- アンドリュー・ヘイ
- 製作
- トリスタン・ゴリハー
- 製作総指揮
- ベン・ロバーツ
- リジー・フランク
- ダニエル・バトセック
- キャスト
-
- チャーリー・プラマーチャーリー・トンプソン
- スティーブ・ブシェーミデル・モンゴメリー
- クロエ・セビニーボニー
- トラビス・フィメルレイ
- スティーブ・ザーンシルバー
[映画.com ニュース]「さざなみ」のアンドリュー・ヘイ監督が、孤独な少年と一頭の馬の歩む旅路を描いた人間ドラマ「荒野にて」。
第74回ベネチア国際映画祭でマルチェロ・マストロヤンニ賞(新人俳優賞)を受賞した主演のチャーリー・プラマーが、言葉はないながらも繊細な演技を見せる本編映像の一部を映画.comが入手した。
母に捨てられ、父を亡くし、愛してくれる人を全て失った15歳の少年チャーリーが、自分の居場所を探し求める姿を描く。北米ではスタジオ「A24」配給、スティーブ・ブシェーミ、クロエ・セビニーら個性派俳優が共演する。
このほど公開された映像は、チャーリーとピートが旅の途中で立ち寄る川辺のワンシーン。
美しい大自然と、旅の緊張から解放され、15歳の少年らしさを取り戻すチャーリーの表情が印象的だ。
ヘイ監督は「チャーリーは自分の年齢よりももっと大人として振舞わなければいけない状態にあるとはいえ、まだ15歳の子ども。このシーンでは、また子どもらしく遊ぶことで、そこが一瞬の平和であり、すごく穏やかな瞬間であり、そしてもしかしたらうまくいくんじゃないか、という可能性を感じさせます。
その希望はすぐ消えてしまうのですが、両者があのような幸せな時間を一瞬とはいえ持ったということがすごく重要で、“チャーリーはまだ子どもなんだ”ということを思い出させてくれるシーンです」と解説している。
幼いころに母親が家出し、愛情深いがその日暮らしの父親と2人で生活する少年チャーリーは、家計を助けるため厩舎で競走馬ピートの世話をする仕事をしていた。
しかし、そんなある日、父親が愛人の夫に殺されてしまう。
さらに、試合に勝てなくなったピートの殺処分が決定したという知らせを受けたチャーリーは、ひとりピートを連れ、唯一の親戚である叔母を探すため荒野へと一歩を踏み出す。
住民のどんな困り事にも迅速かつ丁寧に応じ、問題解決へ全力で取り組む。
「住民直結」の真摯な姿勢。
「調査なくして発言なし」の「現場第一主義」。
どこまでも地域に足を運び、住民の「小さな声」から実績を築く。
「地方議員に求められる資質―。それは、現場主義に徹して、<地域の御用聞き>として、地域の方々からのさまざまな声を聞くちからです」
国際医療福祉大学の川上和久教授
世の中で出会った多くの人の中で、「この人は、芯がある」と感じた人は、必ずと言ってよいほど、武道を経験していた。
剣道、柔道などであるが、特に空手をやっていた人。
しかも、有段者たちに押し出しの強さを感じた。
子供の精神力を育てよう!
武道を習うことで得られるメリット
日本で古来から継承され続けている武道。
そこには時代の流行りに左右されない精神論や美徳、規律があります。
そして子供に武道を習わせたいと思う親、実際に通わせている親の多くが武道を習うことで期待するのはそれらによって得られる子供の精神的成長かと思います。
いじめない・いじめられない子になって欲しい
何事にも諦めない精神的強さを持って欲しい
年上に対する敬意を持って欲しい
礼儀作法を身につけて欲しい
集中力を身につけて欲しい
もちろん、これらを身につけていく中で身体が強くなったり、姿勢が良くなったりもするでしょう。
日本の武道を習う中で、年上を敬い、きちんとした挨拶をするなど、現代において薄れつつある人としての大切な心得を徹底的に教育されることはとても大きなメリットになるかと思います。
強くなることは心の安定と自信に繋がる
「いじめない・いじめられない子供に」と書きましたが、武道を習い、訓練する中で子供は相当な努力をしながらひとつひとつの技を覚えていきます。
実際に技の当て合いをする・しないはその武道や流派によって様々ですが、剣道の素振りや柔道の受身、空手の型を習得しようと思えば、適当に手足を動かしているだけでは完成しません。
微妙な足さばき、手の動き、身体の使い方を何度も何度も練習して、身につけていきます。
武道の精神論とともに、そういった経験積み重ねて強くなった子は、自分に自身が持てるようになるといいます。
そういった子は中途半端なちょっかいに心を乱されたり、自己中心的な感情やひがみを持ちにくくなるでしょう。
単に「強いからいじめられない」ではなく、努力のもとに強くなるからこその自信なのかもしれませんね。
しかし、子供がそこまで行き着くには親のサポートも必要です。
なかなか出来ずに足踏みすることもあるでしょうが、親も「一緒に学習の基本にも!姿勢を正して座る体力をつけよう
武道をしていると、正座をして待つ、という場面が多くあります。現代の住宅事情から、畳の部屋自体が減り、子供たちは正座をする機会が減っています。
しかし背筋を伸ばして正座をし続けること、そして正座から立ち上がるには、腹筋や背筋、内ももの筋力を必要とします。
椅子ではつい背もたれに寄りかかったり、足を開いてしまったりと力が抜けてしまいがちな部分です。
ここが弱っていることで、現代の子供たちは長時間綺麗な姿勢で椅子に座っていることがままならない子が増えているそうです。
姿勢よく椅子に座ることは学習の基本です。武道の練習の間に姿勢を正して座る力もつけば、集中して勉強できるようにもなり、一石二鳥ともいえるのではないでしょうか。
苦手な子が多い!?はっきりとした声を出す練習
武道では掛け声が多く入ります。剣道においても、緊迫した静けさの中に突如響き渡る声は迫力を感じますね。
練習の最中も、子供たちの「やぁっ!」「め~ん!」と言った精一杯の声が響き渡っています。
声が小さいとすぐさま師範からの喝が入るので、子供たちは大きな竹刀を振りかぶって大きな口を開けて必死です。
その光景は親から見るととても微笑ましくもありますが、子供にとってもこれもまた、良い鍛錬になっているようです。
小学校では授業中の発表などで、教室全体に聞こえるほどの声で話せない子が多くなっているそうです。
育ってきた環境などによるその子の性格もあるかとは思いますが、そもそも大きな声を出すという経験がない子供にとって、急に学校で大きな声で、と言われても困るでしょう。
遊びの中で奇声を発したりするのとは違い、「腹から声を出す」とことは自己表現や良いストレス発散、そして腹筋の強化にもなります。

商品の説明
内容紹介
突然声の出なくなった母の代役として五歳で初舞台を踏み、母の発狂、父の死、貧民院や孤児院を転々とし、ついに地方まわりの一座に拾われて役にありつく――あの滑稽な姿、諷刺と哀愁に満ちたストーリーで、全世界を笑いと涙の渦に巻き込んだ喜劇王チャップリンの生いたちは、読む者を興奮させずにおかない。神話と謎につつまれたその若き日々を、みずからふりかえって描く。
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インド独立の父・ガンジーと出会い、大衆に根差した運動を語るその姿から、「明快な実践教育を受けた」とチャップリンは言う。
少年期から極貧生活生活を経験。
大衆そのもののチャップリンの心は、ガンジーの魂に共鳴したのだろう。
映画「サーカス」でアカデミー賞(特別賞)を受賞。
「少数の人間の決めた賞など、大した名誉ではありえない。私が欲しいのは大衆の喝采だよ」
ヒトラーとの戦いでは映画「独裁者」で、大衆とともにヒトラーを笑い飛ばした。

「人生に必要なものは、勇気と想像力と、ほんの少しのお金だ」。
どんなにバカにされても「誇り」を失わないチャップリン。
それは、映画に登場する、あのだぶだぶのボロ服に、ドタ靴、山高帽、ステッキという《放浪紳士》チャーリーの、おなじみの格好に表れている。
彼は、このステッキを手放さない。
どんなに飢えていても。
「これは『誇り』の象徴なんだよ」と――。
彼は自分が演じたいのは「どこの国にもいるような、自分の誇りだけは傷つけられたくないと願っている(中略)平凡な小男」なんだと語っている。(『チャップリン』鈴木力衛・清水馨訳、岩波書店)
――世界の民衆は、ルンペンの格好なのに、山高帽とステッキを離さない愛すべき《放浪紳士》のいでたちだけで、チャップリンの、このメッセージを理解した。
《あれは俺だ! 俺たちと同じ大衆だ!
つき飛ばされ、踏まれ、つばをかけられ、
それでも何くそと誇りをたもっている。
俺たちの仲間だ! 人間だ!》と。
アメリカン・ドリームをまさに体現し、億万長者と映画スターが集う社交界の主人公となったチャップリンは、『キッド』『街の灯』など名作を次々と世に送り出していく。
私生活では、二度の離婚、奔放な女性関係を体験するが、対独参戦を促す演説が曲解され、戦後、「赤狩り」の嵐の中、アメリカを追われる。スイスに移住した75歳の著者が自ら人生のありのままを振り返った世界的ベストセラー。
内容(「BOOK」データベースより)
アメリカン・ドリームをまさに体現し、億万長者と映画スターが集う社交界の主人公となったチャップリンは、『キッド』『街の灯』など名作を次々と世に送り出していく。私生活では、二度の離婚、奔放な女性関係を体験するが、対独参戦を促す演説が曲解され、戦後、「赤狩り」の嵐の中、アメリカを追われる。スイスに移住した75歳の著者が自ら人生のありのままを振り返った世界的ベストセラー。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
チャップリン,チャールズ
1889‐1977。ロンドン生れ。両親とも芸人。母の代役として5歳で初舞台。ヴォードヴィルのカーノー一座と共に渡米。1913年キーストン喜劇映画会社に入り、浮浪者スタイルや、笑いと涙、風刺と哀愁に満ちた作品で卓越した評価を受ける。’52年赤狩りで米国を追われ晩年はスイスに居住。’75年3月には英国王室から大英帝国勲章第二位(ナイト・コマンダー)を授与される
中里/京子
1955年生れ。翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
福井新聞の記事を読み、倉持貞夫は妻の早苗のことを想った。
東尋坊が自殺の名所になっていることを報じていのだ。
自殺未遂の母子の姿は、早苗と母の姿と重なった。
利根川で親子で死ぬつもりで、母親の幸恵は小堀(おおほり)の自宅から昼過ぎに家を出た。
その時、早苗は3歳、弟は1歳半であった。
父親が大好きな早苗は、父親の大きなゴム草履を履いていた。
「とうちゃんは、また、競輪?」早苗は母親に手を引かれながら言葉をかけた。
母親の顔が引きつり、早苗の手に爪を立てた。
「母ちゃん、痛いよ」と早苗は悲鳴をあげた。
弟の晃は、利根川の土手に出たところで、川へ向かって走りだした途端に前のめりに草の中へ転んだ。
「走ったら、危ないよ」と母親は声をかけたが、何時もの声ではなく、かすれて聞こえた。
「早苗、いいかい。これから死ぬんだよ」母親が早苗を抱き上げた。
「死ぬの?」早苗には死ぬことの意味が理解できていなかった。
「みんな、とうちゃんが悪いんだからね。田畑も全部なくなり、家もなくなる」母親は嗚咽をもらした。
母親が振り返った先に見えた1本のしだれ桜が満開だった。
早苗も振り返り桜を見た。
「桜、きれだね」
母親は生まれ育った筑波山の麓の北条の桜を思い浮かべた。
「早苗、北条の実家へ帰ろう」と早苗に頬を寄せてつぶやく。
貞夫は早苗の母親から結婚後、そのような過去の経緯を聞いていた。
福井競輪場へ来ていた貞夫は、東尋坊へ足を伸ばしてみたくなった。
聴取に反省の言葉
2017年10月20日 福井新聞
福井県池田町池田中で今年3月、男子生徒が自殺した問題で、第三者による調査委員会の聞き取りに対し、男子生徒を繰り返し叱責した担任が「いろんな人に相談すればよかった、今まで教員をしてきて過信していた」などと反省の言葉を述べていたことが、調査委の報告書全文から分かった。
大声で叱る担任の指導は他の教職員も認識しており、平井浩一教頭らが複数回にわたって注意、助言していた。
ただ、学校全体では共有されず、指導の改善には結び付かなかった。
報告書では、担任、副担任の指導方法や管理職の監督責任を厳しく問うとともに、他の教員の対応も適切でなかったと指摘している。
福井新聞が入手した報告書全文の写しによると、今年2月ごろに当時の教務主任が担任に対し、「正しいことであっても、男子生徒には伝わらない」と伝え、指導方法を考えるよう促した。
担任は「分かっていて、手加減している」などと答えた。
さらに、時期は不明だが、他の教員から「そんなに強い口調で言わないといけないのか」と聞かれ、担任は「それだけ言わないと分からない」と答えた。
平井教頭も叱責した後に生徒をフォローするよう注意していた。
担任は調査委の聞き取りに対し、「自分一人でやってしまうところがあり、男子生徒についても指導すればできると判断していたが、結果的にはできていなかった」とも述べたという。
池田中2自殺、母親が手記で願い
報告書公開から1年、再発防止を
2018年10月15日 福井新聞
福井県の池田町立池田中学校で昨年3月、2年生の男子生徒=当時(14)=が自殺した問題で、担任教諭らの厳しい指導、叱責(しっせき)が要因と結論付けた調査委員会の報告書が公開されてから1年となる10月15日、母親が手記を公表した。
「どうしたら子供が元気に家に帰ることのできる教育となるのか、もう一度丁寧に考えて頂きたい」と、再発防止への願いがつづられている。
手記は便せん3枚に手書きで記してある。
愛息を失い約1年半。
報告書に衝撃を受けてからの1年を「私達遺族の時計は、あの日から動くことはなく現在も止まったまま」と表現し、「中学生ぐらいの子供たちを見かけるたび、涙があふれてきます。家の至る所に息子のいた風景があり、もう会えないんだ」と悲痛な胸の内を明かした。
再発防止への同町の取り組みについて「会議の内容について教えてほしい、と教育長に繰り返し伝えていますが、教えて頂けることは稀(まれ)にしかありません」と情報の少なさを指摘し、教育委員会にきめ細かな対応を求めている。
取材に対し母親は「報告が遅いし、口頭での説明が多くて覚えきれない。とりあえず会議を開いて役職を設けて、何か答えられるようにしているだけかと思ってしまう」と不信感を口にした。
8月下旬に開かれた教育大綱改定に向けた検討委については、既にホームページに掲載されている議事概要を会合の約1カ月半後に受け取ったという。
男子生徒の同級生は今年3月に同校を卒業した。
母親は「(息子の学年の)卒業から教委の報告が減っているように感じるが、再発防止の取り組みと卒業は関係ない。報告の少なさが、本当にちゃんと取り組んでいるのか、という疑問につながっている」と話した。
祖母は「怒っているのでなく、あの子が学校でどうしていたかを知りたい。(再発防止に向け)意見を交わすことが、ほかに悩んでいる子を救うことにもつながるはず」と目を潤ませた。
【池田中生自殺】池田町池田中で昨年3月14日、当時2年生の男子生徒が校舎から飛び降りて死亡した。
町教委が設置した有識者による調査委員会は同10月に報告書を公表、担任と副担任の厳しい叱責が自殺の要因と結論付けた。
校長ら管理職による指導監督や教員間の情報共有にも問題があったと指摘された。
福井地検は今年1月、市民団体が提出した校長や担任らに対する業務上過失致死容疑の告発状を受理した。
20代女性保護、地元のNPO
2017年6月21日 福井新聞
福井県坂井市の東尋坊で自殺防止活動に取り組むNPO法人「心に響く文集・編集局」は、小型無人機ドローンによるパトロールで、自殺しようとしていたとみられる20代女性を19日夜に保護した。空からの監視による保護は初めて。
同NPOによると、同日午後4時半ごろ、マスクやサングラスで顔を隠した女性が岩場の先端にいるのをメンバーが発見。ドローンで監視を開始した。
別のメンバーが声を掛けたところ、女性はカメラを持っていないにもかかわらず「夕日を撮影したい」と答えた。不審に思い、空からの監視を続けたところ、岩場から下をのぞきこんだり寝そべったりしていた。
午後7時すぎ、遊歩道に戻った女性に同NPOの茂幸雄代表が声を掛けた。
女性が逃げ出したため、追いかけて近くの雑木林で保護した。顔を隠したり、長時間岩場から海面をのぞいたりする行為から自殺を図っていたと判断、坂井西署に引き渡した。
茂代表は「死角になる岩場の陰や雑木林にいる自殺企図者を見つけるためにドローンを導入したが、不審な動きをする人の監視、観察にも役立つことが分かった」と話していた。
東尋坊の自殺防止、海外TV取材
人助けに奮闘、ドキュメンタリーに
2019年3月3日 福井新聞
シンガポールのテレビ局「メディア・コープ」の取材クルーが3月1日、ドキュメンタリー番組製作のため、2日間の日程で福井県坂井市の東尋坊を訪れた。自殺防止活動を行っているNPO法人「心に響く文集・編集局」を取材し、活動への思いに触れた。
人助けに奮闘する世界各国の人々にスポットを当てるドキュメンタリーの1時間番組で、4月から放映する。2月に取材を始め、これまでにカンボジアやフィリピンで撮影を行った。
番組のディレクターを務めるボナベンチャー・テインさん(39)がインターネットで同編集局の活動を知り、取材を申し込んだ。
一行は、同編集局の茂幸雄代表(74)の案内で東尋坊を回り、自殺志願者への声の掛け方やドローンを使った見回り活動について説明する茂代表をカメラに収めた。
ボナベンチャーさんは「自分の人生を人助けにささげる茂さんの思いをシンガポールの人に届けたい」と意気込んでいた。
保護活動続ける男性、苦い思い
生後間もない息子を抱えた30代の母親は、福井県坂井市の東尋坊の売店で酒を飲み、3歳の娘の手を引き、岩場へ向かった。大人用のスリッパを履いていた娘は「かーかー(お母さん)帰ろう」と泣きじゃくっていた。
パトロール中に異変に気付いたNPO法人「心に響く文集・編集局」の茂幸雄代表(75)は、親子に駆け寄り、強引に事務所に連れ戻した。母親は「関係ないやろ」と爪を立てて暴れた。茂さんは「お前だけの命じゃない」としかりつけた。
警察に保護され東尋坊を離れるとき、女児は茂さんに笑顔で手を振った。「ありがとう、帰るね」
母子3人は翌朝、マンションの10階から飛び降りた。手を振る女児の姿を思い出すたび、茂さんは「あの親子を一時的に保護するシェルター(避難所)があれば…」と、苦い思いがこみ上げる。
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同NPOは2004年からパトロールしており、ことし3月29日現在、643人の自殺志願者を保護した。自殺を引き留められた後、生きる希望を見いだし、毎年東尋坊を訪れるようになった人も少なくない。
その一人、20代女性が同NPOにあてた手紙には「(女性のスタッフが)『もう一人のお母さんと思えばいいよ』と言ってくれたのが心の支え。強くたくましく、感謝の心を忘れない人になります」と記されている。事務所には、この女性が描いた茂さんの笑顔の絵が飾られている。
茂さんは「ここに来る人の多くは、家庭にも職場にも味方がいない。彼らの居場所をつくってあげないといけない。2、3日でもいいからプチ家出ができる場所があれば、救える命がある」
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06年に自殺対策基本法が施行された。近年、自殺者数は減り続けているが、それでも年間2万人超。県内でも100人を超える。自殺防止だけでなく、増え続ける遺族のケアも課題として指摘されている。
「残された私は、人生の端っこをずっと歩いてきた」。親を自殺で亡くした福井市の60代女性は話す。福井県内の自死遺族でつくる「アルメリアの会」の梅林厚子会長(62)は「遺族は眠れない、食べられない、働けないという状況になる。5年10年たっても、現実を受け入れられない遺族もいる。社会にとって、それはプラスにならない」
専門医や保健師らが応対するこころの悩み相談、弁護士らが法的トラブルや経済的に余裕がない人をサポートする法テラス福井など「自殺防止の支援体制は少しずつ整ってきている」と梅林会長。ただ情報の共有がどこまでできているのかは疑問だという。
「例えば自殺未遂を繰り返す人の情報を持っているのは消防署や警察、病院だが、どこまで連携できているだろうか。当事者が自宅に帰った後の追跡調査はできていない。もっと当事者に寄り添える仕組みが必要」
茂さんは「現場の声を聞き、真剣に考えてほしい。自殺の原因は一つや二つではない。教育、地域のコミュニティー、家族の形などいろいろな社会の問題が見えてくるはず」と訴える。
福井新聞社
女子中学生の遺書は「くたばれ」
第5景・教育(8)
2018年2月12日 午前7時10分■ ■ ■
2004年に立ち上がった同NPOが、これまでに救った609人(1月22日現在)のうち、未成年者は22人。
その中には自転車で来た県内の高校生も含まれている。
スタッフは、とにかく声を掛け、嫌がって逃げる人でも捕まえて、事務所に連れて行く。すると、ぽつりぽつりと話し始めるという。「飛び込む寸前になっても、本当に死にたいと思っている人はいない」。
茂さんがたどりついた結論だ。断崖に立ってなお、救いを待っていた。