性虐待サバイバーの未来
2018-05-02
次の世代のために
先日、News Everyに宮本ゆかりさんとテレビに出演されていた弁護士さんが「性的虐待は、じつは社会的に立派な家庭で行われていることが多いんです」と、おっしゃっていました。
人の尊厳を侵害し、生涯にわたって後遺症が残るような行為があっても、加害者に社会的地位があることを考慮して隠蔽されたり、猶予される。この構図が次の世代にも持ち越され、定着するということです。
私も「親の名誉を傷つけることになるから公にするな」とある人に言われたことがあります。
生きている間はダメで、死んでからならいいと、笑。どんな親でも大切にしなければいけない、あなたが後悔する、と。
本当にそうでしょうか。子供が親を告発してはいけないのでしょうか。産んでもらった恩があるから? 私自身の名誉も傷つくから? 社会的地位とは一体なんなのでしょうか?
件の山口君も、被害者の家族が芸能人生命を奪うまではしたくないという理由で示談になったようですが、本当にそれがいいことなのかどうかはわかりません。
しっかり刑を受け、責任をとって戻ってくるという生き方もあるはずです。「今は飲まない」「仲間が許してくれるなら復帰したい」と言って、断酒する決意も責任をとる覚悟もないまま記者会見に臨んだ彼に、本当の反省はないでしょう。守られることが裏目に出ないことを祈るばかりです。
うちの父もお酒を飲んで帰ってくると、夜中に私の部屋にきていました。性欲が抑えられず、寝ている娘を使って精液を出し、スッキリしてから寝るのです。恐怖に怯え、痛みと悲しみに耐える子供の気持ちはまったく頭にありません。
酔っていたから覚えていない、悪気はなかった、ではやはりいけないように思います。悪気がないのがいちばん悪い人なのです。
私には兄弟がいませんでしたが、もし妹がいれば、妹も被害に遭った可能性があります。犠牲者が一人で本当によかったと思います。
のちに父の元同僚から聞いた話では、父の素行は目に余るものがあり、酒席で女性の身体に触るなどは日常茶飯だったようで、その様子は同性から見ても辟易するほどだったそうです。
しかし彼が大企業に勤めていたため、然るべき立場もあり、仕事への情熱も才能もある人ということで、すべてが許されていました。
セクハラ常習犯はお姉ちゃんのおっぱいやお尻くらいでは満足できず、家に帰ればもっと自由にできる娘がいる。親を信じて寝ている娘を犯すのはいとも簡単なことでした。
そういう彼も昼間は快活で、周囲に慕われる人物だったりするわけです。人は自分が被害を受けなければ、いい人だと思ってしまうものです。
名誉を傷つけないため、虚像を守るために、その影で泣いている人もいる。本当に守らなければいけないものはなんなのでしょうか? そして次世代に必要なものは、どんな変化でしょうか?
池内さんは最後にこう締めくくっています。
セクハラは、被害者側が勇気を出し努力することよって解決するわけではない。加害者側が反省し、その言動を改めることで、はじめてひとつのセクハラ事件が解決する」
ー以上の引用元/ビジネスジャーナル「財務次官セクハラ疑惑、柳原可奈子の「セクハラだと感じない」発言は極めて問題である」池内ひろ美 http://biz-journal.jp/i/2018/04/post_23046.html
父親が加害者の場合、子供を助けることができるのは母親だけですし、反省を促せるのも妻の毅然とした態度でしょう。
性的虐待を隠蔽した家族は罰せられる、妻も同罪とみなされるくらいの制度や認識が世の中にあってもいいように思います。
そして加害者もその配偶者も、必ずカウンセリングなどの継続的な治療を受け、更正することを義務づけてはどうでしょうか。
決して娘に我慢させればよい、ということではないはずですが、母親もたいしたことではないと思ったり、傷つきながらもそれを隠して生きようとすれば、当然、機能不全家族になってしまいます。
女性として嫉妬したり、放置した性的被害がのちのち子供に与える影響がまったく理解できていなかったりもします。うちの母は私がもっとも多感だった中学時代に、雑誌に性教育の小説を連載し、自慢げに私に見せていました。心のケアもせずに「正しい教育」をしているつもりだったのでしょうか。
そもそも小学生の子供に性行為をしようと考える時点で、完全な異常者です。少なくとも誰かが気づいた時点で、それ以上子供が犠牲になることがないよう、確実な隔離が必要です。
泣き寝入りする必要はないし、もし今、性虐待を受けているなら、警察に行って欲しいと思います。昔は訴えても本気にされないことがよくあったそうですが、今ならきちんと実情を訴え、本気で保護を求めれば、無視されることはないでしょう。
今後、一人でも多くの人が救われること、そしてお酒や性欲に魂を売ってしまう加害者が自身の病気をはっきりと自覚し、生き直すことを願ってやみません。