性的虐待被害者への想像力があまりに欠如していないか
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WEBRONZA(ウェブロンザ)
2 019年04月10日
杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)
先日、強い酒で泥酔した女性に対する準強かん事犯に対し、福岡地裁で出された無罪判決について書いた。
女性に関する内面化した神話を「経験則」と信じた裁判官による、異常な判決であると。
「準強かん」事件、福岡地裁・無罪判決の非常識
ところがその後、今度は名古屋地裁岡崎支部で、実の娘に対する準強かん事犯に対し、再び無罪判決が出された(朝日新聞2019年4月6日付、判決日は3月26日)。
今回の判決も、前回の判決に輪をかけて異常かつ無謀である。
「準強かん」(現刑法では正確には準強制性交等)とは、被害者の「心神喪失」あるいは「抗拒不能」に乗じ、もしくは被害者をそうした状態に置いた上で、なされる強かんをさす(刑法178条第2項)。
一般に「強かん」罪の構成要件とされてきた暴行または脅迫――実際はこれら、特に「暴行」がない事犯は多い――を欠くために「準」(次の位)という言葉がつくが、その悪質さ、量刑は強かんの場合と同様である。
なぜ「抗拒不能」だったのか――性的虐待・経済的依存
準強かんにおいて薬物やアルコール等が「心神喪失」「抗拒不能」の原因となる例が多いようだが、原因は多様である。
そのなかで、身分や地位による威圧は原因として排除するむきもあるが、「相手が自己に甚だしい不利益を及ぼしうる地位にあるばあい」は、かならずしもそうではない(団藤重光編『注釈刑法(4) 各則(2)』有斐閣、1965年、303頁)。
特に今回のように、実の父親が、しかも長年にわたる暴力・性的虐待によって娘を支配下に置いてきた場合などは、これに相当すると考えるべきである。
総じて性的虐待は一般の虐待と比べても表面に出にくいが(読売新聞大阪本社社会部『性犯罪報道――いま見つめるべき現実』中公文庫、2013年、121頁)、娘が直近の2回の強かんについてしか実父を訴えられなかったという事実は、加害者がいかに巧みに犯行を隠し、また被害者をあやつってきたかを示している。
被害者は2度の強かん被害を受けたとき19歳だったというが(同記事)、一般に、それ以前の長きにわたる時期はもちろん、この歳になってさえ、経済的に親に依存していれば、親の犯行を表に出すのは困難なことが多い。
総じて、まとまった収入がない若者が、親の家を出て行きづまるのは目に見えている。
今回の被害者は、告訴時は最終的に支援者が得られたのであろうが、それまで長きにわたり孤立無援だった事実を想うと、人ごとながらいたたまれない。
加害者が父親の場合は他の困難もともなう。
性犯罪において、一般に加害者と被害者の年齢差は、被害者を抵抗困難な状況においこむ大きな要因の一つになる(杉田編著『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』青弓社、2013年、110頁)。
親子ほどの年齢差は、仮に加害者・被害者の間に実の親子関係がなかったとしても、被害者を威圧する権力として作用しうるが、これに実の親子関係、経済的依存、長年の性的虐待等が加われば、被害者は性的虐待・凌辱に抵抗できない。
問われるべきは行動の自由
それにしても今回の判決は異常である。
裁判官は性交に対して「娘の同意はなかった」と認定し、かつ被告は「長年にわたる性的虐待などで、被害者(娘)を精神的な支配下に置いていたといえる」と判断したにもかかわらず、しかしなぜそこから、「被害者の人格を完全に支配し……〔てい〕たとまでは認めがたい」などという判断が出てくるのか。
ここでは前記の年齢差、特に親子関係にあった事実が、そして長年にわたって性的虐待が実際に行われてきた事実が、すっぽり忘れ去られている。
検察によって立件されたのは2件の加害行為だけだったとしても、性的虐待の事実は背景として極めて重要である。
特にこの事実があるからこそ、19歳になっても親の非道な人権侵害を拒めなかった可能性があるからだ(後述)。
そもそも裁判官が言う「完全な支配」は、実世界にはありえないモデルにすぎない。
そうしたモデルを問えば、それが現実に「認めがたい」と判断されるのは、ある意味であたりまえである。
なぜなら人は、どんな場合であろうと意志の自由をもつからである。
牢獄にいようが、牢獄もどきの家庭にいようが、そこから解放される夢を見うる。
ナイフで脅されて行動を制約されようが、経済的に親に依存しているために言いなりになろうが、相手の要求・命令を無視して行動する夢を見うる。
そうした意志の自由の可能性は、どんな場合でも否定できない。
だから「完全な支配」はただの空想の産物にすぎない。
にもかかわらず、父親が被害者を「完全に支配し……〔てい〕たとまでは認めがたい」という結論を導くとしたら、それは論理の飛躍である。
問題は意志の自由いかんではなく、娘が、それまでの長年にわたる虐待の事実を前に、父親の要求・命令から現実に自由でありうるかどうか、つまり行動の自由があったかどうかである。
意志の自由はあっても、それを行動の自由に転化させるためには、物質的・心理的等の条件が必要である。
だが長年の性的虐待と、おそらく経済的依存性から、あるいは「家族」生活に伴うもろもろの心情的な絆(きずな)もしくは軛(くびき)から、被害者はこの条件を手にできなかったのである。
娘が性的に受容することなどない
裁判官は、それにもかかわらず「抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには、なお合理的な疑いが残る」と判断したというが(同記事)、それは要するに、娘が父親の性交を性的な意味で受け入れる部分がわずかながらもあったと見なしたということであろう。
だが、そんなことはAVや小説の中でしか起こらない。
なるほど、強かんされた場合でも、クリトリスに加えられた刺激によっては、時に当人が快感を覚えることはありうる(吉田タカコ『子どもと性犯罪』集英社新書、2001年、88-89頁)。
だがそれと、実父との性交を受容することとは、全く別の事柄である。
男性でも亀頭をさわられたら刺激を感ずることがありうると想像できるだろう。
裁判官は今回の事件について、娘が父親の性交要求を受け入れた部分があったと判断したのであろうが、その背景に、女性セクシュアリティに対する偏見――AVを始めとする男性の性情報源がつくる「女性=色情狂(ニンフォマニア)」という偏見――がなかったと言えるのか。
女性は相手がだれであれ、それが父親であれ親族であれ、「性的」に働きかけられればそれに感応するというのは、AVでよく見られる紋切型である。
だがそれは現実ではない。
性的虐待・強かん被害をうけた女性の証言をひろうと、そうした男性本位の図式がいかに現実を反映していないかは明らかである(穂積純『蘇える魂――性暴力の後遺症を生きぬいて』高文研、1994年; 山口遼子『セクシャルアビューズ――家族に壊される子どもたち』朝日新聞社、1999年; 吉田前掲書; 読売新聞大阪本社社会部前掲書等)。
「認識がなかった」はまもとではない
奇妙なことだが裁判官は、被告が、娘の「同意があ〔った〕」と主張したばかりか、仮に同意がなかったとしても、そして「仮に……抵抗できない状態だった」としても、「そういう認識はなかった」と主張したとことを、まっとうな論理として受け入れた。
もちろん総じて故意犯のみが犯罪である。
だが被告側のこの言い分は、一般に女性の男性に対する態度、中でも娘の父親に対する態度に関する認識として、あまりに非常識である。
どのような裁判であろうと、基本的に社会的な常識を前提にして被告の行為を判定しなければならないが、娘が実父の性的働きかけに対して「抵抗できない状態〔だった〕」という「認識はなかった」と被告が主張したのだとしたら、それは、被告の精神鑑定を要するほどの異常事態である。
大人が紙に火をつけ、それをどこかの家のそばに放置したとしよう。
そして家が燃える。それについてもし当人が、火事になるという「認識はなかった」と主張したとしたら、裁判官はそれをまっとうなこととして認めるだろうか。少なくとも「未必の故意」を認定するだろう。
同様に、自分の娘を強かんしたと訴えられた被告が、「そういう〔=娘が抵抗できない状態だったという〕認識はなかった」と主張したとき、それは世間的に通用する論理とはとうてい認めがたいのではないか。
被害者は逃げられないことが多い
総じて性犯罪事犯について裁判官は、被害者は逃げようと思えば逃げられたと見なす傾向が根強い。
だが、少なくないケースで、被害者は実際逃げられないのである。
逃げようとすれば殺される、少なくとも手ひどい暴力を受けるという恐怖にとらわれることが多い。
そればかりか、周囲の状況が助けにならないと分かった時は、安易な抵抗はむしろつつしむ方が無難であると考えるのがふつうである(杉田編前掲書22頁以下)。
裁判官――ここでは男性としておく――も、自らが、夜、人気のない道で、巨漢にはがいじめにされて「殺すぞ」と言われたら、恐怖のためになす術もないだろう。
そして何もできずに言いなりになった事実について、「逃げられたはずだ」と周囲から言いつのられたら、怒りでふるえ上がるだろう。
けれども、事実上被害女性に対しては、裁判官はその周囲の人々と同じ対応をとっている。
しかも今回の場合のように、父親から長年にわたって暴行・性的虐待(凌辱)を加えられ、塗炭の苦しみに耐えて息を殺して生きてきた女性が、他に誰もいない家の中で、その父親にまたおそわれたとき、本当に「逃げられた」はずだと裁判官は思っているのであろうか。
そうだとしたら、あまりに想像力が欠如していないか。
なぜ「抗拒不能」だったのか――心的外傷後ストレス障害
特にそう言わなければならないのは、性的虐待の被害者はしばしば、一般にはない独特な「急性ストレス障害」(ASD)と「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)を経験するからである。
そもそも被害者は、被害を受けているその瞬間において、被害事実をいわば無化・最小化するために、「離人症」的な急性症状を起こすことが少なくない。
つまり被害者は、あたかも犯されているのは別の人格であって、自分はそれとは異なる人格として、離れた場所から被害のドラマを見ているかのような、現実感の喪失した心理状態に陥ることがある(杉田編、32-3頁)。
こうして被害者は、事態が去るのを身動きせずにじっと待つ。
その時、加害者には、被害者が同意しているかのように見えてしまうことが、確かにある。
だが身動きがとれないのは被害事実に同意しているからではなく、被害事実を心の底から嫌悪しているからである。
今回の被害者は、「長年、暴力や性的虐待を受けるなどし〔てきた〕」と言うが、その長きにわたる時期はもちろん、検察が告発した2件の強かん被害時に、被害者は「解離」状態に陥って「強い恐怖心や不安感が鈍麻して、何も感じなくなる」状態に、あるいは/かつ、前記のような離人症的な状態に、あった可能性が高い(橋爪(伊藤)きょう子「被害のさなかに起こる離人症と現実感の喪失」杉田編所収、34頁)。
特に「子どもの頃に長期間虐待を受けた場合やDV(……)などで繰り返し被害(暴力、性被害)を受けていた場合」(今回の被害者はその両方を受けてきた)は、そうした症状が出やすいと専門家は言う(同前、35頁)。
そうした可能性を、今回裁判官はどれだけ配慮しただろうか。
性犯罪に関する判決を見ると、裁判官が性犯罪について何も知らない事実を思い知らされることが多い。
今回の事件では、2件の強かん被害時に19歳になる大人が抵抗できなかったのは、長年くり返された性的虐待・強かんの結果である可能性が非常に高い。
なのに、それを検討することもなく(おそらくその必要さえ意識しなかっただろう)、被害者が抵抗しなかった事実について「なお合理的な疑いが残る」などと判断したのなら、人の一生を左右する裁きを下す「裁判官」の名が泣く。
杉田聡(すぎた・さとし) 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)
1953年生まれ。帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)。著書に、『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』(花伝社)、『逃げられない性犯罪被害者——無謀な最高裁判決』(編著、青弓社)、『レイプの政治学——レイプ神話と「性=人格原則」』(明石書店)、『AV神話——アダルトビデオをまねてはいけない』(大月書店)、『男権主義的セクシュアリティ——ポルノ・買売春擁護論批判』(青木書店)、『天は人の下に人を造る——「福沢諭吉神話」を超えて』(インパクト出版会)、『カント哲学と現代——疎外・啓蒙・正義・環境・ジェンダー』(行路社)、『「3・11」後の技術と人間——技術的理性への問い』(世界思想社)、『「買い物難民」をなくせ!——消える商店街、孤立する高齢者』(中公新書ラクレ)、など。