茨城県 牛久歴史

2019年04月12日 21時56分14秒 | 社会・文化・政治・経済

牛久宿は、水戸街道千住宿から8つ目の宿場町。

現在の茨城県牛久市牛久町付近。宿場町は南北に1キロ弱の範囲で広がっている。

牛久沼の北東岸の台地上に「く」の字型に旧街道が残っている。江戸寄りが下町、水戸寄りが上町と呼ばれる。

水戸街道の道中絵図には、牛久宿の家並みは本陣と15の旅籠を含む124軒が描かれている。
現在の国道6号は、その屈曲部を迂回して走っており、宿場内の道幅は7から8メートルのままになっている。
古建築はほとんど残されていないが、道路脇の所々に井戸址を見る事ができる。
 牛久宿は、戦国末期に描かれた絵図(龍ヶ崎市史別編2)に牛久宿が描かれており、牛久城主岡見氏の城下町であったものと思われる。

水戸藩士の旅日記[編集]
 駅路鞭影記(茨城県立図書館蔵)は、江戸小石川の水戸屋敷を出立してから19の宿駅を通って水戸までの旅日記で、次の宿までの里程と伝馬賃銭、宿々の領主と神社仏閣、中川の番所、水戸公の旅宿、名所、名物、言い伝えなどについてかかれたガイドブックのような古文書である。
江戸小石川から水戸までは30里14町で、荷物80キロ以内と旅人を馬に乗せる本荷の駄賃は合計1295文と書かれている。
又、本書には水戸公の旅館として、小金の水戸藩下屋敷、牛久宿大庄屋佐野家、府中宿の谷口家の3ヶ所が記されている。

若柴宿 - 牛久宿は一里(約4キロ)。
牛久宿 - 荒川沖宿は二里(約8キロ)。

水戸街道
宿場
千住宿 - 新宿 - 松戸宿 - 小金宿 - 我孫子宿 - 取手宿 - 藤代宿 - 若柴宿 - 牛久宿 - 荒川沖宿
- 中村宿 - 土浦宿 - 真鍋宿 - 中貫宿 - 稲吉宿 - 府中宿 - 竹原宿 - 片倉宿 - 小幡宿 - 長岡宿 - 水戸宿
関所
金町松戸関所
脇街道
佐倉街道 - 磐城街道 - 棚倉街道 - 南郷街道 - 茂木街道 - 那須街道 - 結城街道 - 瀬戸井街道


龍ケ崎市の歴史(市制施行以前)

2019年04月12日 21時33分52秒 | 社会・文化・政治・経済

龍ケ崎市の地は、市域の北部にあたる筑波稲敷台地と南部にあたる猿島北相馬台地の関東ロームの堆積層である台地、そしてこの両台地に挟まれた、鬼怒川・小貝川によって形成された沖積平地の低地からなっています。

北方町の台地や若柴町から別所・羽原・大塚町にかけての台地からは、縄文時代の遺跡が出土しており、郷土の祖先である人々は、まずこの台地に住みついたと思われます。

 承平5年(935)

平将門の乱の時、兄平貞盛や藤原秀郷と共に戦った平繁盛の子孫は常陸に定着し、東条氏を始めとする常陸平氏の祖となり常陸大掾に代々任せられ、信田、東条などの市域の村々を支配下に置きました。

 養和2年(1182)

下河辺政義が源頼朝より常陸南郡の惣地頭職に任せられ、この地方もその支配下に入りました。義経の姻戚であったため3年後には領地を没収されましたが、その子孫は土着し、龍崎氏と称し豪族として発展していきました。

 永享12年(1440)

江戸崎城に拠る土岐氏が勢力を伸ばして市域の中心部を押さえ、馴柴・馴馬地域は牛久の岡見氏、川原代・長沖・豊田地域は布川の豊島氏と、三者並立の状態が続きました。

 天正18年(1590)

豊臣秀吉による天下統一が成ると水戸の佐竹義宣の領内として実弟・芦名盛重がこの地域の領主となりましたが、まもなく芦名氏は江戸崎に移り、代わって秀吉の家臣・富田将監が領主となりました。

 慶長5年(1600)

関ヶ原の戦いの後は徳川家康の領地となり、当時日本一の土木家であった伊奈備前守忠次が開墾に力を尽くしました。

 慶長11年(1606)

龍ケ崎村は、仙台藩伊達政宗の所領となって代官所が設けられ、その他の市地域内の村々はたびたび領地替えが行われましたが、幕末には、天領、旗本領、前橋藩・高岡藩・牛久藩などの他藩領と交錯し、河内(かっち)郡、信太郡、相馬郡にまたがる相給村となりました。江戸時代の260年間は、龍ケ崎市域に急激な農地の開発と平和の回復による人口増加をもたらし、土木工事による農業開発が進み、広大な土地が開墾されて新しい村落が増加しました。

 明治維新を迎える

龍ケ崎村は仙台藩領を離れ、明治2年(1869)に宮谷(みやざく)県、4年に龍ケ崎藩となり、その後廃藩置県により新治県に属し、明治8年(1875)に茨城県に編入されました。川原代・長沖・豊田・北方などの印旛県は千葉県を経て茨城県北相馬郡となり、その後、大小区制、連合村となりました。

 明治22年(1889)

町村施行により1町6か村となり、市街地である旧龍ケ崎町は近隣農村を商圏とする商業都市として県内はもとより、他県からも人々が集まり、県南の中心都市として発展しました。

 昭和28年(1953)8月

町村合併推進法が公布されると市制施行へ積極的に進み、昭和29年(1954)3月20日、稲敷郡龍ケ崎町・馴柴村・八原村・長戸村・大宮村と北相馬郡川原代村・北文間村の1町6か村が合併して龍ケ崎市が誕生し、さらに昭和30(1955)年2月に北相馬郡高須村の一部が編入されて現在の龍ケ崎市となりました。


茨城県 龍ヶ崎の由来

2019年04月12日 21時32分10秒 | 社会・文化・政治・経済

茨城県龍ヶ崎の由来
昭和34年(1959)に編纂された『龍ケ崎市史』(和歌森善郎著)によると、古代の龍ケ崎は毛野川(鬼怒川)・蚕飼川(小貝川)・常陸川などの河川が合流した葦原で、気象条件によっては竜巻が発生、猛威をふるうことがしばしばありました。
川の水を巻き上げて天に届く竜巻の様子が「龍の昇天」を思わせ、「龍が立つ崎」=龍ケ崎となった、という説です。

江戸時代の学者・中山信名が記したとされる書物『新編常陸国誌』によると、故城の地(現在は竜ケ崎一高が建つ台地。
竜ケ崎二高が建つ場所との説も)が独立してそそり立ち、北側の稲敷台地に続いているさまに由来していると書かれています。
故城の台地から稲敷台地に連なってそそり立つ形が龍を思わせるから「龍ケ崎」となった、という説です。
この記述により、江戸時代には「龍ケ崎」の地名が使われていたことが分かります。

龍崎氏が治めていたから
龍崎氏(読みが“りゅうざき”なのか“りゅうがさき”なのかは不明)は、源頼朝の信頼を得て常陸国南郡の地頭職を任された下河辺政義(しもこうべ・まさよし)の子孫です。龍崎氏は在地領主としてこの地方を治めた一族で、応永二年(1395・室町中期)の文献にその名前が記されています。鎌倉時代には「龍ケ崎」という郷は存在せず、龍崎氏が居を構えたとされる台地(現在の竜ケ崎一高の建つ台地)周辺は、羽原郷に属していました。龍崎氏は室町時代に鎌倉幕府奉公衆を命ぜられ活躍していたことが文献から明らかになっています。この領主の名前から「龍ケ崎」になった、という説です。
一方で、龍ケ崎を領したのでその地名によって「龍崎」と称したとの記述もあり、地名と領主名の前後関係ははっきりしていません。

伊達藩は天正19年(1591)、豊臣秀吉の領地替えによって新たに仙台の地を与えられた伊達政宗を初代藩主とする仙台藩の別称です。

政宗は、慶長11年(1606)3月3日に徳川幕府の代官から常陸国河内郡と信太郡26カ村(1万石余り)を与えられて、仙台藩常陸国龍ケ崎領が誕生します。現在の龍ケ崎市域の大半は河内郡に属し、政宗は、龍ケ崎村に陣屋を構えて代官を置き、常陸国における仙台領支配の中心地としたため龍ケ崎は繁栄しました。街道の出入り口には「仙臺領」と刻んだ石柱を建て、治安と防衛のために番屋をおいたといわれています。

シダレザクラで有名な般若院は、寛永5年(1628)に伊達家代々の位牌所の御朱印として3石を受けています。

市役所近くにある愛宕神社は、寛永18年(1641)に時の仙台藩主伊達陸奥守忠宗(政宗の子)の創建と伝えられます。
伊達家は代々愛宕神社を崇拝し、仙台には京都から勧請した愛宕社が祀られています。
幕末に北海道に移住した仙台領民は数多くいますが、いずれの村にも愛宕神社があるそうです。
龍ケ崎に愛宕神社を祀ったのも同じで、龍ケ崎領民を火災から守り、さらに村人の行楽地としたのでしょう。

当館には、「仙臺領」の石柱など、仙台藩をしのばせる物が展示されています。


往年の龍ヶ崎?

2019年04月12日 21時17分00秒 | 日記・断片

敢闘の活動で龍ヶ崎と牛久へ行く。
龍ヶ崎へは、小文間経由で行く。
何年か前には、6号を行き、佐貫を経由して行くが、小文間経由の方が近く感じた。
小文間から利根町方面までの道沿いの桜並木を見て、佐々田さんが「大森さんと3人で花見をしたいですね。弁当を持って」というので、3人で布施弁天で花見をした5年前を思い出す。
ところで、龍ヶ崎そ市街を改めてとおり、商店街のスケールが大きいいことを改めて感じた。
取手の市街よりはるかに奥行きがあった。
往年の龍ヶ崎が取手より街が隆盛していたことのが明らかである。
JRが通っていないことがハンディーとなったのだろう。
検察庁もあった。

龍ヶ崎一高校舎後方の高台に流通経済大学の校舎が見てた。

佐々田さんが、以前訪れた訪問先を覚えていた。
その記憶力に驚く。
9時30分に取手を出て、約1時間で活動を終えた。
ついで、牛久へ向かう。
牛久は度々きているので、訪問先の場所の何箇所は記憶していた。
倒産した訪問先が2軒あった。
12時10分ころ取手へ戻る。
資料をコピーすれば、まだ活動はできたが、「気乗りしない」。
ところで、パソンのメールが見られないし、印刷もできない。
どうしたのか?
「印刷エラー」の表示。
時間をとられ、昨夜は時間を無駄にした。
色々と試みてもうまくいかない、それで疲れたのだ。


雑木林で鶯の鳴き声

2019年04月12日 05時19分28秒 | 日記・断片

東6丁目の外れのへび坂下の雑木林で鶯の鳴き声がする。
枝が揺れ、鶯が木々を移動する。
そばの木に大きな鳥が2羽飛んで来たので、鶯は警戒するのかと思って見上げたが、そのまま鳴き続けていた。
大きな鳥はカラスのように小鳥を襲わないのかもしれない。
大きな鳥の名前は何であるのか?
ムクドリかツグミ

ウグイスは笹薮を好みあまり姿を表さないが、鳴き声が有名で春先の「ホーホケキョ」は早春賦に歌われているほどである。当地では3月末から湿地帯の周りの林からよく聞こえる。ウグイスは地味な色合いで、ウグイス色と言えばメジロの色を指しているようである。

ウグイス

ウグイス

メジロ

メジロ

 ジロも漂鳥又は留鳥として全国に分布する。
スズメよりもずっと小さくオスメス同色である。
目の周りの白い輪からその名がある。梅や桜の花
の蜜を吸いに来るが、この時にウグイスとよく
間違えられ、ウグイス豆等のウグイス色はメジロ
の場合が多い。

 



御殿場事件の発端 少女の嘘

2019年04月12日 02時39分25秒 | 社会・文化・政治・経済

2001年9月16日の御殿場市にて御殿場事件は起こりました。

娘であるさゆりさんへ帰りが遅くなった理由を母親が尋ねたところ、JR御殿場駅近くの公園で中学生の頃の同級生ら複数の男に強姦されそうになったという言葉が返ってきました。

事態を重く見た母親は、すぐさま警察へ連絡しました。被害届が正式に提出され、御殿場事件は刑事事件となりました。

御殿場市で起きた御殿場事件の加害者とされる少年達はアリバイとしてバイト先のタイムカードや目撃者の存在を挙げましたが、検事側はそれらはねつ造されたものであると発言。

御殿場事件を有罪へと運んでいきました。
実は、御殿場市で起きた御殿場事件の発端である少女さゆりの証言はまったくの嘘でした。

実際に帰りが遅くなったのは、出会い系で出会った男と遊んでいたからなのでした。

加害者らの自白によって御殿場事件の調査は進んでいきました。

しかし、御殿場事件の重要な証拠であるこの自白も警察や検事からの圧力によって無理やり言わされたもののようです。

御殿場事件の被害者である少女の発言は犯行日時すらころころと変えるなどと、客観的に見て信頼性に欠けるものでした。

しかし、裁判は加害者らを有罪にする前提で進んでいるかのように御殿場事件の裁判はスムーズに進んでいきました。
御殿場市で御殿場事件が起きた当時は親告罪であった強姦及び強姦未遂事件。

御殿場事件はその性質上、裁判の結果は証言を重視して決められていました。

御殿場事件の裁判は一貫して、少女の証言をもとに加害者らが実際に犯罪を犯した前提で進んでいきました。

公正な判断が必要とされる裁判が裁判官の主観によって進められたこと、検事側の圧力によって事実が捻じ曲げられたこと、被害者ら少年たちが反抗できる手段が全くなかったことなどが御殿場事件で注目されるポイントでしょう。

正義とは何か、御殿場市での御殿場事件は日本の司法制度の問題が大きく表れた事件となりました。
御殿場事件の発生当時は未成年だったため、関係者の名前は伏せられていましたが、今では成人となったので実名が明かされています。御殿場事件の被害者だった少女の名前も明らかとなりました。
それでは、冤罪事件で有名な御殿場事件の被害者となった少女とはどういう人物なのでしょうか。

最初に御殿場事件が起こったとされる日に、母親から追及された理由は帰りが遅くなったからでした。

母親へは強姦未遂が起きたから遅くなったと答えましたが、実際は出会い系で出会った男と遊んでいたからでした。

御殿場事件が起きたとされた日、遊んでいた男に少女はこう発言していたようです。

「遅くなった理由は誰かのせいにする」。このことから考えられることは、御殿場事件の被害者である少女は男遊びで家に帰るのが遅くなるのが常習化していたのではないかということです。

また、自分が行ったことを隠すために平気で人を陥れることができる人物であるとも読み取ることができます。事実として、自分が不利になると事件の詳細について語る証言を変えるなどの行動をとりました。
さゆりさんの目的は何?
御殿場事件における事実をひたすら隠し、いくつもの嘘をついた少女の目的は一体何だったのでしょうか。それは嘘を隠し通すことだったと考えられます。

一つの嘘をつけば、その嘘を隠すためにさらなる嘘をつかなければならなくなることは、日常生活でもよくみられる光景です。

御殿場事件は、そんな少女を利用し、検察側はメンツを守るために少女の弱い部分を利用した用にも見えます。
御殿場事件において容疑者とされたのは10人でした。

事件を起こしたとされるこの10人に対し、静岡家裁沼津支店は高校2年生の4人に対しては検察官送致、高校1年の4人に対しては少年院送致、残りの高校生1人に対しては試験観察処分、中学3年生の1人に対しては保護観察処分を命じました。

容疑者は、まずはじめに井上さゆりさんからの証言で1人が事情聴取を受け、卒業アルバムなどの写真から仲がいい人をピックアップさせ、容疑者を集めたようです。

容疑者の1人はさゆりさんと同級生で、同じアルバムに写真が載っていたようです。
少年たちは御殿場事件が起きた当初犯行を否定していましたが、警察の取調官から自白すれば罪が軽くなると言われ、御殿場事件での犯行を認めてしまいました。

高校2年生の4人に実刑判決が下されると、保護観察処分とされていた中学生1人も保護観察を取り消し、事件はその後、実刑判決となりました。

高校2年生の4人は、その後自白を取り消したため検察官から起訴されました。

御殿場事件の裁判は10年に渡り続けられ、他の容疑者たちよりも遅れてしまい事件後刑務所を出所したのは2010年の8月となりました。

それぞれ河合裕二さん、勝俣貴志さん、堀内聡太さん、勝亦信二さんには御殿場事件が起きた時間にアリバイがありました。
実名が報道されたうちの1人である堀内聡太さんは、御殿場事件発生当時は両親の仕事のお手伝いをしていたようです。堀内聡太さんを目撃したお客さんの存在も多数あったようです。

しかし、検察には御殿場事件関係者と口裏を合わせている可能性があると却下されてしまいました。
河合裕二さんは、御殿場事件発生時にアルバイトにいそしんでいたようでした。

タイムカードという証拠もありましたが、検察はこれをねつ造したものであるとし、御殿場事件における証拠にはならないと却下されてしまいました。
検察側は、友人やバイト先の関係者は御殿場事件の加害者らを擁護するために事実をねつ造していると発言していました。

そこで御殿場事件の加害者らとは全く関係のない第三者の目撃者などが証言台にたつこととなりましたが、検察側は圧力をかけてこれを阻止し、御殿場事件の判決が無罪となることを防ぎました。
容疑者たちが自白し、御殿場事件の判決は有罪となると思われましたが、不自然なことが一点ありました。御殿場事件発生後、さゆりさんは容疑者たちから逃げ、コンビニから母親へ連絡をしたという発言をしました。

しかし、その時間に御殿場事件の被害者であるさゆりさんがコンビニへ行ったという事実はなかったのです。

コンビニ店員によると、さゆりさんをコンビニで見たという事実はなかったようです。

また、決定的だったのは、御殿場事件発生当時のさゆりさんの着信履歴でした。

もし、本当にコンビニから母親へ事件が起きたあと連絡したとしたならば着信履歴が残るはずなのですが、実際に事件のその後形跡は見つかることはありませんでした。
さゆりさんの嘘がばれると、さゆりさんは証言を改めました。御殿場事件が起きた日は9月9日だったと日付を変えたのです。

御殿場事件を担当した裁判官はこの証言の変更を受け入れ、さゆりさんの嘘は深くは言及されずに論点はその後、御殿場事件の中で強姦未遂が行われたか否かという方向になっていきました。
御殿場事件裁判でのさゆりさんの発言には一貫性がなく、話が二転三転とするようになりました。

しかし、裁判官はそれを追求せずにまるで故意に御殿場事件の判決を有罪へと導くような論調で裁判を進めていくのでした。
御殿場事件の犯行が行われた日付を変えたことにより、新たな矛盾が発生しました。

当日は、台風の影響で御殿場市一帯では大雨が降っていました。

強姦未遂事件は公園で行われたとの証言がありましたが、大雨のなかそのような行為が行われることは不自然です。

また、さゆりさんは御殿場事件当日に雨は降っていなかったと証言しましたが、御殿場市の事件現場から550メートル離れた雨量計では確かに降水量を記録していました。

にもかかわらず、事件の証言を次々と変えるさゆりさんに対し検事や裁判官側は特に言及することなく井上さゆりさんの証言のみを証拠として御殿場事件の裁判を続けていきました。
御殿場事件裁判は異質であると、当時報道などで情報を得た世間の人々は感じたようです。

確実性に欠けた証言の上でのみ成り立つこの強姦未遂事件は、果たして本当に行われたものなのでしょうか。

一般の人でさえ、御殿場事件の異質さに気づく一方で、御殿場事件を担当した裁判官は一貫してまるでさゆりさんを擁護するかのような裁判を続けました。

事件や裁判は、人の人生を大きく変えてしまうこともあります。

裁判官には公正で確実な判断が求められます。しかしながら、この裁判を担当した裁判官にはそれを感じることができないという意見が多かったです。

この御殿場事件裁判で、多くの人が司法について不信感を抱くこととなりました。
御殿場事件後に裁判官へのインタビューなどが行われたようですが、御殿場事件を担当した裁判官は自分に責任はないとの考えをしめしました。

御殿場事件は冤罪が確定しているわけではないですが、その可能性が十分に考えられる裁判であることは事実です。

御殿場事件を担当する裁判官としてこのような態度をとるのはあまり適切ではないという意見が多くみられました。
高橋祥子裁判官は2005年10月27日に御殿場事件の加害者らへ懲役2年の実刑判決をくだしました。事件の被害者である井上さゆりの証言については、部分的に嘘が見られたものの、その理由は了解できるものであるとして、信用に足るものであると支持しました。

御殿場事件当時雨が降っていたことに関しては、第一審の裁判の中で大きく取り上げられることはなかったようです。
御殿場事件の第一審を被告人側は即日告訴し、東京高裁にて第二審が開かれました。

第二審では、第一審ではあまり触れられなかった事件中の雨について大きく取り上げられることとなりました。

さゆりさんは、天候ははっきりと覚えておらず、事件が起きた前後では雨が顔にかかったような気がしたとの供述をしています。
御殿場事件当時、御殿場市の降水量は夜の間最高で3ミリメートルの降水量を記録しており、30分を超える雨のやみ間があったとは考えにくいと弁護側は発言しましたが、事件現場から700メートルほどのところへ設置された雨量計では0.00ミリメートルが記録されていると被告人側の主張を退けました。

結果、その後2007年8月22日の判決では第一審での判決が破棄され、御殿場事件裁判は軽減された懲役1年6か月という結果になりました。

雨の件は、事件現場から近い2か所の計測機で0.00ミリメートルが記録されているということから、さゆりさんの証言に誤りはないとしました。
御殿場事件裁判の第二審を終え、被告人らは1年6か月もの間懲役刑となりました。

その後彼らはさゆりさんに対し2000万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こしましたが、棄却されてしまいました。
一方で、事件が冤罪だった場合はさゆりさんの動機や、検察や裁判官側の対応などが疑問に残ります。

多くの証拠を握りつぶし罪のない人へ懲役刑が下されたとしたら大きな問題となります。

容疑者らが負った罪は、今後の人生にも大きくかかわることです。正しい裁判が行われなかったことにより、多くの不幸を生み出してしまったこととなります。

また、さゆりさんは弟についてどう思っていたのかも気になる点です。

さゆりさんの弟は事件によって精神的に追い込まれてしまい自殺をしてしまいました。

もしも冤罪だとしたら、さゆりさんのついた嘘によって弟は自殺してしまったということになります。

さゆりさんの弟について考えると、この事件の闇の深さを感じることでしょう。


御殿場事件 集団強姦未遂

2019年04月12日 02時06分49秒 | 社会・文化・政治・経済

御殿場事件とは、静岡県御殿場市の御殿場駅近くで2001年9月に発生したとされる事件である。

集団強姦未遂が主張された。「御殿場少女強姦未遂事件」、「冤罪御殿場少年事件」

「御殿場事件」裁判を10年近く取材したわたしが、ドラマ「99.9」に思うこと
ドラマの結末とは異なり、現実には少年たちの無実の訴えは却下され、有罪判決となり収監された。

Tomoko Nagano 長野智子 Editor at Large(編集主幹), HuffPost Japan


サンデーステーション」が「日曜劇場99.9―刑事専門弁護士Ⅱ」(TBS系)の裏番組という大人の事情が(笑)ようやくなくなったので、思うところを書いてみたい。

「刑事事件の裁判有罪率は99.9%。つまり起訴されたら、99.9%は有罪になる」という日本において、わずか0.1%の可能性に賭け、被告人の無実を立証しようと奮闘する弁護士たちを描いたドラマ「99.9」。

私自身このドラマのファンなのだが、しつこいようだけど自分の担当する番組が同時間帯だったので、録画をして楽しんでいた。

そして、シーズンⅡの第五話を録画視聴したとき、番組冒頭から画面にくぎ付けになった。

その内容が2000年代に実際に起きた「御殿場事件」に酷似していたからである。


放送後からネット上には私と同じく、「御殿場事件」との類似性に気付いた視聴者を中心に、多くの反応が寄せられていた。

主人公の深山大翔弁護士を演じているのが、嵐の松本潤さんということもあり、たくさんの若い人たちがこの裁判の異常性に驚き、矛盾について語っていた。

それを読みながら、私は若い視聴者がドラマ内容に似た裁判が現実に起きていることに驚愕していることを目にして感銘を受けた。

それは、私自身が「御殿場事件」裁判を10年近くにわたり取材し、誰よりも多くの人にこの理解しがたい裁判について知ってほしかったからである。

「御殿場事件」は2001年に発生した複数の少年たちによる「女子高生強姦未遂事件」である。

実際の事件経緯と裁判については、「踏みにじられた未来―御殿場事件・親と子の10年闘争」(幻冬舎)に裁判官への取材も含め、すべて書いてあるので興味のある方は参考にしてほしい。

ドラマの結末とは異なり、現実には少年たちの無実の訴えは却下され、有罪判決となり収監された。

現在は出所し、悔しい思いを抱えながらもそれぞれの道を歩んでいる。

ドラマ「99.9」に描かれた少女・少年の設定、罪状(ドラマは強姦事件・御殿場事件は強姦未遂事件)、起訴された少年の一人が別件の被疑者だったといった細部は実際と異なる。

しかし、被害者とされる少女が、「当初の犯行時間帯に他の男性と会っていて、それを親に隠すためにウソをついた」こと。

「携帯電話記録や会っていた男性の証言によってウソがバレると、犯行日は実は一週間前だと証言を変えたこと」

「それを受けて、なんと裁判所が訴因変更をし、犯行日を変更したこと」などは現実の「御殿場事件」と同じである。

ちなみにやはり細部は違うが、少年の一人が当初の犯行時間に「焼肉屋」にいたというアリバイを立証するため、当時と同じ服を着たメンバーに集まってもらい検証をしたこともドラマを観て懐かしく思い出した。

「御殿場事件」では、犯行日が変わったがために、当初の少年たちの調書と明らかな矛盾が出てきた。

例えばはじめの犯行日に現場の公園は工事中だったのに、変更後の犯行日に公園では工事が行われていない。

しかし、逮捕された少年は全員「現場が工事中だった」と証言している。

彼らは「警察の言うとおりにうなずいているだけだったから」と話しているが、こうした矛盾にも関わらず、裁判はそのまま進められた。

そして最大の矛盾は犯行日が一週間前倒しになったことによって生じた「天候の違い」である。

被害者とされる少女は「傘をさしたような記憶はない。服が濡れた記憶もない」と証言している。

しかし、変更後の犯行日は台風15号の接近により、東海地方に「大雨・洪水注意報」が出され、現場とされる公園付近では一時間に3ミリの雨が記録されているのだ。

朝から断続的に降り続いた雨にも関わらず、「芝生に押し倒された」という少女に「服の濡れた記憶がない」という矛盾。

弁護側が深山先生なみの無罪立証データを揃えたにも関わらず、数々の疑問を放置したまま裁判は進行し、最高裁でも有罪判決が出された。物的証拠は何ひとつなく、はなはだ任意性の疑わしい自白調書を唯一の証拠としてである。

こうしたあまりにも理解しがたい裁判が現実に起きていることを、ドラマという形で多くの人に知ってもらえることが嬉しい。「御殿場事件」については有罪判決のため、私の立場で「冤罪」ということはできないが、今でも多くの疑問に答えが出ていない。

近年記憶に新しいところでも、大阪地検の郵便不正事件、足利事件、志布志事件、富山氷見事件、布川事件、東住吉放火事件など、冤罪事件は枚挙にいとまがない。

冤罪の最大の罪は「無実の人の人生を、権力が根こそぎ奪い葬ること」である。よりたくさんの人がこうした事件や裁判に大きな関心を向けることで、次の冤罪を生むことを減らすことにつながると信じている。

(幻冬舎)に裁判官への取材も含め、すべて書いてあるので興味のある方は参考にしてほしい。

 

 


父娘「準強かん」、異常な無罪判決と裁判官の無知

2019年04月12日 01時41分03秒 | 社会・文化・政治・経済

性的虐待被害者への想像力があまりに欠如していないか

明日をひらく、多様な言論の広場
WEBRONZA(ウェブロンザ)
2 019年04月10日

杉田聡 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

先日、強い酒で泥酔した女性に対する準強かん事犯に対し、福岡地裁で出された無罪判決について書いた。

女性に関する内面化した神話を「経験則」と信じた裁判官による、異常な判決であると。

「準強かん」事件、福岡地裁・無罪判決の非常識
ところがその後、今度は名古屋地裁岡崎支部で、実の娘に対する準強かん事犯に対し、再び無罪判決が出された(朝日新聞2019年4月6日付、判決日は3月26日)。

今回の判決も、前回の判決に輪をかけて異常かつ無謀である。

 「準強かん」(現刑法では正確には準強制性交等)とは、被害者の「心神喪失」あるいは「抗拒不能」に乗じ、もしくは被害者をそうした状態に置いた上で、なされる強かんをさす(刑法178条第2項)。

一般に「強かん」罪の構成要件とされてきた暴行または脅迫――実際はこれら、特に「暴行」がない事犯は多い――を欠くために「準」(次の位)という言葉がつくが、その悪質さ、量刑は強かんの場合と同様である。

なぜ「抗拒不能」だったのか――性的虐待・経済的依存

 準強かんにおいて薬物やアルコール等が「心神喪失」「抗拒不能」の原因となる例が多いようだが、原因は多様である。

そのなかで、身分や地位による威圧は原因として排除するむきもあるが、「相手が自己に甚だしい不利益を及ぼしうる地位にあるばあい」は、かならずしもそうではない(団藤重光編『注釈刑法(4) 各則(2)』有斐閣、1965年、303頁)。

 特に今回のように、実の父親が、しかも長年にわたる暴力・性的虐待によって娘を支配下に置いてきた場合などは、これに相当すると考えるべきである。

総じて性的虐待は一般の虐待と比べても表面に出にくいが(読売新聞大阪本社社会部『性犯罪報道――いま見つめるべき現実』中公文庫、2013年、121頁)、娘が直近の2回の強かんについてしか実父を訴えられなかったという事実は、加害者がいかに巧みに犯行を隠し、また被害者をあやつってきたかを示している。

 被害者は2度の強かん被害を受けたとき19歳だったというが(同記事)、一般に、それ以前の長きにわたる時期はもちろん、この歳になってさえ、経済的に親に依存していれば、親の犯行を表に出すのは困難なことが多い。

総じて、まとまった収入がない若者が、親の家を出て行きづまるのは目に見えている。

今回の被害者は、告訴時は最終的に支援者が得られたのであろうが、それまで長きにわたり孤立無援だった事実を想うと、人ごとながらいたたまれない。

 加害者が父親の場合は他の困難もともなう。

性犯罪において、一般に加害者と被害者の年齢差は、被害者を抵抗困難な状況においこむ大きな要因の一つになる(杉田編著『逃げられない性犯罪被害者――無謀な最高裁判決』青弓社、2013年、110頁)。

親子ほどの年齢差は、仮に加害者・被害者の間に実の親子関係がなかったとしても、被害者を威圧する権力として作用しうるが、これに実の親子関係、経済的依存、長年の性的虐待等が加われば、被害者は性的虐待・凌辱に抵抗できない。

問われるべきは行動の自由

 それにしても今回の判決は異常である。

裁判官は性交に対して「娘の同意はなかった」と認定し、かつ被告は「長年にわたる性的虐待などで、被害者(娘)を精神的な支配下に置いていたといえる」と判断したにもかかわらず、しかしなぜそこから、「被害者の人格を完全に支配し……〔てい〕たとまでは認めがたい」などという判断が出てくるのか。

 ここでは前記の年齢差、特に親子関係にあった事実が、そして長年にわたって性的虐待が実際に行われてきた事実が、すっぽり忘れ去られている。

検察によって立件されたのは2件の加害行為だけだったとしても、性的虐待の事実は背景として極めて重要である。

特にこの事実があるからこそ、19歳になっても親の非道な人権侵害を拒めなかった可能性があるからだ(後述)。

 そもそも裁判官が言う「完全な支配」は、実世界にはありえないモデルにすぎない。

そうしたモデルを問えば、それが現実に「認めがたい」と判断されるのは、ある意味であたりまえである。

 なぜなら人は、どんな場合であろうと意志の自由をもつからである。

牢獄にいようが、牢獄もどきの家庭にいようが、そこから解放される夢を見うる。

ナイフで脅されて行動を制約されようが、経済的に親に依存しているために言いなりになろうが、相手の要求・命令を無視して行動する夢を見うる。

そうした意志の自由の可能性は、どんな場合でも否定できない。

だから「完全な支配」はただの空想の産物にすぎない。

 にもかかわらず、父親が被害者を「完全に支配し……〔てい〕たとまでは認めがたい」という結論を導くとしたら、それは論理の飛躍である。

問題は意志の自由いかんではなく、娘が、それまでの長年にわたる虐待の事実を前に、父親の要求・命令から現実に自由でありうるかどうか、つまり行動の自由があったかどうかである。

 意志の自由はあっても、それを行動の自由に転化させるためには、物質的・心理的等の条件が必要である。

だが長年の性的虐待と、おそらく経済的依存性から、あるいは「家族」生活に伴うもろもろの心情的な絆(きずな)もしくは軛(くびき)から、被害者はこの条件を手にできなかったのである。

娘が性的に受容することなどない

 裁判官は、それにもかかわらず「抗拒不能の状態にまで至っていたと断定するには、なお合理的な疑いが残る」と判断したというが(同記事)、それは要するに、娘が父親の性交を性的な意味で受け入れる部分がわずかながらもあったと見なしたということであろう。

だが、そんなことはAVや小説の中でしか起こらない。

 なるほど、強かんされた場合でも、クリトリスに加えられた刺激によっては、時に当人が快感を覚えることはありうる(吉田タカコ『子どもと性犯罪』集英社新書、2001年、88-89頁)。

だがそれと、実父との性交を受容することとは、全く別の事柄である。

男性でも亀頭をさわられたら刺激を感ずることがありうると想像できるだろう。

裁判官は今回の事件について、娘が父親の性交要求を受け入れた部分があったと判断したのであろうが、その背景に、女性セクシュアリティに対する偏見――AVを始めとする男性の性情報源がつくる「女性=色情狂(ニンフォマニア)」という偏見――がなかったと言えるのか。

 女性は相手がだれであれ、それが父親であれ親族であれ、「性的」に働きかけられればそれに感応するというのは、AVでよく見られる紋切型である。

だがそれは現実ではない。

性的虐待・強かん被害をうけた女性の証言をひろうと、そうした男性本位の図式がいかに現実を反映していないかは明らかである(穂積純『蘇える魂――性暴力の後遺症を生きぬいて』高文研、1994年; 山口遼子『セクシャルアビューズ――家族に壊される子どもたち』朝日新聞社、1999年; 吉田前掲書; 読売新聞大阪本社社会部前掲書等)。

「認識がなかった」はまもとではない

 奇妙なことだが裁判官は、被告が、娘の「同意があ〔った〕」と主張したばかりか、仮に同意がなかったとしても、そして「仮に……抵抗できない状態だった」としても、「そういう認識はなかった」と主張したとことを、まっとうな論理として受け入れた。

 もちろん総じて故意犯のみが犯罪である。

だが被告側のこの言い分は、一般に女性の男性に対する態度、中でも娘の父親に対する態度に関する認識として、あまりに非常識である。

どのような裁判であろうと、基本的に社会的な常識を前提にして被告の行為を判定しなければならないが、娘が実父の性的働きかけに対して「抵抗できない状態〔だった〕」という「認識はなかった」と被告が主張したのだとしたら、それは、被告の精神鑑定を要するほどの異常事態である。

 大人が紙に火をつけ、それをどこかの家のそばに放置したとしよう。

そして家が燃える。それについてもし当人が、火事になるという「認識はなかった」と主張したとしたら、裁判官はそれをまっとうなこととして認めるだろうか。少なくとも「未必の故意」を認定するだろう。

 同様に、自分の娘を強かんしたと訴えられた被告が、「そういう〔=娘が抵抗できない状態だったという〕認識はなかった」と主張したとき、それは世間的に通用する論理とはとうてい認めがたいのではないか。
被害者は逃げられないことが多い

 総じて性犯罪事犯について裁判官は、被害者は逃げようと思えば逃げられたと見なす傾向が根強い。

だが、少なくないケースで、被害者は実際逃げられないのである。

逃げようとすれば殺される、少なくとも手ひどい暴力を受けるという恐怖にとらわれることが多い。

そればかりか、周囲の状況が助けにならないと分かった時は、安易な抵抗はむしろつつしむ方が無難であると考えるのがふつうである(杉田編前掲書22頁以下)。

 裁判官――ここでは男性としておく――も、自らが、夜、人気のない道で、巨漢にはがいじめにされて「殺すぞ」と言われたら、恐怖のためになす術もないだろう。

そして何もできずに言いなりになった事実について、「逃げられたはずだ」と周囲から言いつのられたら、怒りでふるえ上がるだろう。

 けれども、事実上被害女性に対しては、裁判官はその周囲の人々と同じ対応をとっている。

しかも今回の場合のように、父親から長年にわたって暴行・性的虐待(凌辱)を加えられ、塗炭の苦しみに耐えて息を殺して生きてきた女性が、他に誰もいない家の中で、その父親にまたおそわれたとき、本当に「逃げられた」はずだと裁判官は思っているのであろうか。

そうだとしたら、あまりに想像力が欠如していないか。

なぜ「抗拒不能」だったのか――心的外傷後ストレス障害

 特にそう言わなければならないのは、性的虐待の被害者はしばしば、一般にはない独特な「急性ストレス障害」(ASD)と「心的外傷後ストレス障害」(PTSD)を経験するからである。

 そもそも被害者は、被害を受けているその瞬間において、被害事実をいわば無化・最小化するために、「離人症」的な急性症状を起こすことが少なくない。

つまり被害者は、あたかも犯されているのは別の人格であって、自分はそれとは異なる人格として、離れた場所から被害のドラマを見ているかのような、現実感の喪失した心理状態に陥ることがある(杉田編、32-3頁)。

 こうして被害者は、事態が去るのを身動きせずにじっと待つ。

その時、加害者には、被害者が同意しているかのように見えてしまうことが、確かにある。

だが身動きがとれないのは被害事実に同意しているからではなく、被害事実を心の底から嫌悪しているからである。

 今回の被害者は、「長年、暴力や性的虐待を受けるなどし〔てきた〕」と言うが、その長きにわたる時期はもちろん、検察が告発した2件の強かん被害時に、被害者は「解離」状態に陥って「強い恐怖心や不安感が鈍麻して、何も感じなくなる」状態に、あるいは/かつ、前記のような離人症的な状態に、あった可能性が高い(橋爪(伊藤)きょう子「被害のさなかに起こる離人症と現実感の喪失」杉田編所収、34頁)。

特に「子どもの頃に長期間虐待を受けた場合やDV(……)などで繰り返し被害(暴力、性被害)を受けていた場合」(今回の被害者はその両方を受けてきた)は、そうした症状が出やすいと専門家は言う(同前、35頁)。

 そうした可能性を、今回裁判官はどれだけ配慮しただろうか。

性犯罪に関する判決を見ると、裁判官が性犯罪について何も知らない事実を思い知らされることが多い。

今回の事件では、2件の強かん被害時に19歳になる大人が抵抗できなかったのは、長年くり返された性的虐待・強かんの結果である可能性が非常に高い。

なのに、それを検討することもなく(おそらくその必要さえ意識しなかっただろう)、被害者が抵抗しなかった事実について「なお合理的な疑いが残る」などと判断したのなら、人の一生を左右する裁きを下す「裁判官」の名が泣く。

 

杉田聡(すぎた・さとし) 帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)

 

杉田聡

1953年生まれ。帯広畜産大学名誉教授(哲学・思想史)。著書に、『福沢諭吉と帝国主義イデオロギー』(花伝社)、『逃げられない性犯罪被害者——無謀な最高裁判決』(編著、青弓社)、『レイプの政治学——レイプ神話と「性=人格原則」』(明石書店)、『AV神話——アダルトビデオをまねてはいけない』(大月書店)、『男権主義的セクシュアリティ——ポルノ・買売春擁護論批判』(青木書店)、『天は人の下に人を造る——「福沢諭吉神話」を超えて』(インパクト出版会)、『カント哲学と現代——疎外・啓蒙・正義・環境・ジェンダー』(行路社)、『「3・11」後の技術と人間——技術的理性への問い』(世界思想社)、『「買い物難民」をなくせ!——消える商店街、孤立する高齢者』(中公新書ラクレ)、など。


 

 


「SNS宣伝で報酬」トラブル急増 800万円被害も

2019年04月12日 01時30分42秒 | 社会・文化・政治・経済

4/11(木) 18:33配信

「SNSで感想を宣伝すれば報酬がもらえる」などとうたい、商品を買わせるトラブルが急増している。この1年間で20、30代を中心に150件の相談があり、特に最近1カ月間で100件以上が寄せられているとして11日、国民生活センターが注意を呼びかけた。約800万円の被害例もあるという。


 広島県の20代男性は、知人から「広告代行業者」を紹介され、業者が指定した日用品など約150万円分を通販サイトでクレジットカードで購入。SNSで宣伝したら商品の購入代金が全額入金され、カードのポイントが付いた分だけ得をした。信用して次は約400万円分の商品を買うと、今度は業者から入金がなかった。

 東京都の20代女性は、ネットで在宅ワークを探していて見つけた「副業」のサイトに登録。商品を使った感想などをSNSに投稿すると購入代金と報酬がもらえるとあったため、健康食品など5千円分を買った。いったん1万円が振り込まれたが後日、理由もなく返金を求められたという。

 センターの担当者は「勧められるままに多額の商品を買うのは危険。『簡単にもうかる』などと書いてあったり人から紹介されたりしてもうのみにせず、慎重に判断を」と話している。

朝日新聞社


孤児たちの戦い〜東京大空襲〜

2019年04月12日 01時10分07秒 | 社会・文化・政治・経済

1945年3月10日の東京大空襲は、多くの子どもたちから家と家族を奪いました。そうした子どもたちの多くは、戦争孤児として食べ物と住まう場所を求めてさまようしかなく、中には、冬の寒さと飢えのために命を落とす子どももいました。

一方、そうした子どもたちを救おうとした人々もいました。

しかし、多くの孤児たちは、守ってくれるはずだった人々を失ったことによってもたらされた苦しい日々を歩まざるを得ませんでした。

しかも、彼らはそのことを語ることはほとんどなく、私たちも目を向けることもなく70年あまりの歳月が経過しています。
戦争孤児となった人々、保護した人々を訪ね、あの時一体何が起きていて、人々はその後の日々をどう生きたのかを、「東京新聞」との共同取材・制作で伝えます。

解説記事

孤児たちの戦い〜東京大空襲〜

◇上野の地下道。毎日、誰かが亡くなっていた=鈴木賀子さん

一夜で約10万人の命を奪った東京大空襲から、2019年3月9日で74年。

空襲で焼け残った上野駅の近くにある地下道は戦後、家や家族を失った戦争孤児らであふれていた。

国の調査などでは約12万人が孤児となり、地下道には千人以上の孤児がいたとされる。

「毎日のように誰かしら亡くなっていました。皆、栄養失調ですよね」。空襲で母親と姉を失い、各地の親戚宅をたらい回しにされた埼玉県川口市の鈴木賀子(よりこ)さん(81)も、上野地下道での生活を余儀なくされた。ここでの体験を、ずっと語ってこなかった。

1945年3月10日の東京大空襲は、多くの子どもたちから家と家族を奪いました。そうした子どもたちの多くは、戦争孤児として食べ物と住まう場所を求めてさまようしかなく、中には、冬の寒さと飢えのために命を落とす子どももいました。

一方、そうした子どもたちを救おうとした人々もいました。しかし、多くの孤児たちは、守ってくれるはずだった人々を失ったことによってもたらされた苦しい日々を歩まざるを得ませんでした。

しかも、彼らはそのことを語ることはほとんどなく、私たちも目を向けることもなく70年あまりの歳月が経過しています。
戦争孤児となった人々、保護した人々を訪ね、あの時一体何が起きていて、人々はその後の日々をどう生きたのかを、「東京新聞」との共同取材・制作で伝えます。
解説記事
孤児たちの戦い〜東京大空襲〜
◇上野の地下道。毎日、誰かが亡くなっていた=鈴木賀子さん
一夜で約10万人の命を奪った東京大空襲から、2019年3月9日で74年。

空襲で焼け残った上野駅の近くにある地下道は戦後、家や家族を失った戦争孤児らであふれていた。

国の調査などでは約12万人が孤児となり、地下道には千人以上の孤児がいたとされる。
「毎日のように誰かしら亡くなっていました。皆、栄養失調ですよね」。

空襲で母親と姉を失い、各地の親戚宅をたらい回しにされた埼玉県川口市の鈴木賀子(よりこ)さん(81)も、上野地下道での生活を余儀なくされた。

ここでの体験を、ずっと語ってこなかった。
劣悪といわれた公的な保護施設に、多くの孤児が強制収容されていた時代。愛児の家では、さたよさんが孤児たちの母親の代わりになって面倒を見た。

戸籍どころか生年月日、名前さえもわからない孤児も少なくなく、さたよさん自らが戸籍などを与えていた。
◇命の差別 納得できない 国の謝罪を求める元孤児=吉田由美子さん
東京大空襲で両親と生後3カ月の妹を失い、孤児となった茨城県鹿嶋市の吉田由美子さん(77)。

「一人でも多くの人に戦争を知ってもらいたい」と、空襲体験の語り部としての活動を続ける。

国に謝罪と損害賠償を求めた東京大空襲訴訟の原告に加わったが、訴訟は2013年に敗訴が確定した。

元軍人らに総額60兆円が補償されているのに、民間人に対する補償はたなざらしのまま。実現の見通しは立たない。
元孤児として街頭に立つ吉田由美子さん(77)
「国は謝らず、軍人軍属と私たちの命を差別している。納得できない。私たちの戦争は終わっていないのです」と吉田さん。終戦から74年を迎える今も、謝罪と補償を求め、国と闘い続ける。
上野駅の地下道で幼い弟と暮らしていた鈴木賀子さん(81)
餓死者が続出した地下道。鈴木さんも一緒にいた弟と2人、飢えに苦しむ。

駅の近くのヤミ市で食べ物を盗み、口に入れて逃げた。仲間の孤児が教えてくれた「手口」。

生きるため、やむを得なかった。
「でもね、必ずつかまるんですよ。ボコボコに殴られました。私たち浮浪児だから、死のうが生きようが、大人はそんなことおかまいなしでした」
つらい記憶が残る上野駅は、戦後70年以上がたった今も近づくのがはばかれるという。「東京大空襲は、たった2時間で10万人以上の犠牲を出した。なんであのとき戦争をやめなかったのか。私たちの怒りをどこにもっていけばいいの。戦争は私たちの代だけでたくさん」
◇孤児たちのため 戸籍も与えた「母」=石綿裕さん
上野で困窮する孤児を見るに見かねて、自宅を開放し、彼らを保護してきた施設もある。

東京都中野区に今も残る児童養護施設「愛児の家」だ。1989年に92歳でなくなった故・石綿さたよさんが食料を自ら工面し、一時は百人を超える孤児を保護した。
さたよさんとともに上野で孤児を保護した三女の裕(ひろ)さん(86)は「母はただただ、子どもがかわいそうだという思いで『うちに来る?』って一人ずつ連れてきたのです。でも、連れてくると、みんなシラミだらけ。

髪は脂ではりつき、体はあかで真っ黒でした」と振り返る。
「愛児の家」を開設した故・石綿さたよさんとともに上野で孤児を保護した三女の石綿裕さん(86)
劣悪といわれた公的な保護施設に、多くの孤児が強制収容されていた時代。愛児の家では、さたよさんが孤児たちの母親の代わりになって面倒を見た。

戸籍どころか生年月日、名前さえもわからない孤児も少なくなく、さたよさん自らが戸籍などを与えていた。
◇命の差別 納得できない 国の謝罪を求める元孤児=吉田由美子さん
東京大空襲で両親と生後3カ月の妹を失い、孤児となった茨城県鹿嶋市の吉田由美子さん(77)。

「一人でも多くの人に戦争を知ってもらいたい」と、空襲体験の語り部としての活動を続ける。

国に謝罪と損害賠償を求めた東京大空襲訴訟の原告に加わったが、訴訟は2013年に敗訴が確定した。元軍人らに総額60兆円が補償されているのに、民間人に対する補償はたなざらしのまま。実現の見通しは立たない。
元孤児として街頭に立つ吉田由美子さん(77)
「国は謝らず、軍人軍属と私たちの命を差別している。納得できない。私たちの戦争は終わっていないのです」と吉田さん。終戦から74年を迎える今も、謝罪と補償を求め、国と闘い続ける。
制作:東京新聞 ・ Yahoo!ニュース
2019年1月〜2月



ひきこもる就職氷河期世代

2019年04月12日 00時55分18秒 | 社会・文化・政治・経済

ひきこもり100万人時代、中心は40代。家族が苦悩する「お金問題」
4/11(木) 12:10配信 BUSINESS INSIDER JAPAN
ひきこもる就職氷河期世代。ひきこもり100万人時代、中心は40代。家族が苦悩する「お金問題」
ひきこもりの中心層は就職氷河期世代。中高年のひきこもりは若者より多くなっている。
中高年のひきこもりは、若者より多い ―。

内閣府が3月29日に発表したひきこもりの高齢化に関する実態調査で、40~64歳までのひきこもり当事者の推計人数が約61万人と、40歳未満の約54万人を上回った。不登校と同様、若年層のイメージが強い「ひきこもり」だが、むしろ中高年の問題だという事実が浮き彫りになった。
00万人の中心層は就職氷河期世代
なかでも中高年当事者の4分の1を占める一大勢力が、40~44歳の「ポスト団塊ジュニア」だ。彼らは「就職氷河期」の2000年前後に大学を卒業し、就活の失敗などを機にひきこもり状態となった人が多い。

だが、自治体のひきこもり支援策の対象者は、多くが「39歳未満」。40代の当事者が支援を受けられないままに年を重ねれば、親が死去したり要介護状態になったりした時、共倒れしてしまいかねない。

内閣府の調査によると、40歳~64歳のひきこもり当事者の推計数は、部屋から出られない人から、趣味に関する用事の時だけ外出できる人までを含めた「広義のひきこもり」で推計61万3000人。2015年度にほぼ同じ条件で出した15~39歳の推計値は54万1000人で、合わせて100万人を超える当事者がいる計算だ。

中高年の当事者のうち25.5%が40~44歳だ。このうち33.3%が大学卒業と就職が重なる20代前半に、初めてひきこもりとなった。

ひきこもり問題に詳しい境泉洋宮崎大准教授は「ひきこもりの中心層は就職氷河期
世代。彼らは10年後に50代となり、80代の親を抱えることになる」と指摘する。

すでに今も50代のひきこもり当事者と、80代の親の苦境が「8050問題」として社会的に注目されるようになっている。子どもが親の年金や収入に頼って暮らしていると、親が死亡したとたんに、家計が行き詰まるためだ。

「8050問題とはお金の問題」
神奈川県などで2018年以降、親の死後、遺体を放置したとして、同居する40代~60代の無職の子どもが死体遺棄の疑いで逮捕される事件が相次いだ。報道によると、遺体が生前から寝ていたとみられる布団の中で発見されたケースも複数あった。

「親の年金がなくなる」という当事者の危機感が、事件の背景にはある。支援者によると、対人恐怖や精神疾患などを抱えて、誰にも相談することができず、結果的に遺体を放置してしまう当事者も少なくないという。

都内に住むエディトリアルデザイナー、間野成さん(51)には、故郷の新潟県長岡市に88歳の母親と、30年以上ひきこもっている兄(60)がいる。兄は20代の終わりに地元の工場を退職してから職が見つからず、自室にこもった。

間野さんは長いあいだ、兄を重荷に感じていたが、2017年に父親の死をきっかけに、約30年ぶりに会話ができるようになった。「兄のひきこもりの原因」だと思い込んでいた父親と、死の直前に和解したことも転機となり、兄を受け入れられるようになったという。

ただ最近は母親の衰えが進み、身の回りのことができなくなりつつある。1日前に電話で話した内容も覚えていないなど、物忘れも激しくなった。今はデイサービスを週1回利用しているが、ホームヘルパーも使わざるを得なくなり、介護費用もかさみそうだ。

生活は教員だった父親の遺族年金で賄われているため、母親が死去したら年金支給も止まる。間野さんは、兄に障害年金を受給させるための手続きを始めた。

「社会復帰の望みを完全にあきらめてしまうのか、という思いから申請をためらっていましたが、今後を見据えて手続きだけはしておこうと考えました」

継続的にサポートを受けているひきこもり相談所の料金も、1時間半ごとに9800円かかる。間野さんは「8050問題とは、突き詰めればお金の問題とも言えます」としみじみと話した。兄は簡単な炊事はするものの、ケアマネージャーとのやり取りや介護に関する判断ができる状態ではない。間野さんが忙しい仕事の合間を縫い、帰省しながらこなしている。
息子にお金残したいと介護サービスも拒否
ひきこもりの当事者・家族が作る「KHJ全国ひきこもり家族会連合会」(東京)が3月21日、都内で開催したシンポジウムでも、支援者から「中高年ひきこもり」の深刻な事例報告が相次いだ。

岩手県洋野町の保健師で、ひきこもり支援を担うNPO法人「エンパワメント輝き」理事長の大光テイ子さんが関わったのは、70代の高齢者夫婦と40代の無職の息子の家庭だ。家を訪ねてみると、「部屋には座る隙間がないほどごみが散乱し、屋根は雨漏りし、台所の床は家族が転ぶほど傾いていました」(大光さん)

父親は要介護状態の妻にも介護サービスを利用させず、自身も認知症を患っていた。「ひきこもりの息子にお金を残してやりたい」と、家の修理も介護サービスの利用も断っていたのだ。大光さんは、「息子さんも私たちが面倒見ますから」と父親を説得して介護サービスを利用してもらい、自宅を改修し、息子には精神科を受診させた。3年がかりで生活を立て直したという。

千葉県市川市で24時間、生活困窮者らの支援に当たる「生活サポートセンターそら」の主任相談支援員、朝比奈ミカ氏は、70代男性からの「住宅ローンを滞納し、自宅を差し押さえられた」という相談を紹介した。「男性が家を失った原因は、自立できずにいる子どもに1銭でも多く残そうと、投資に手を出したからでした」と説明する。

「39歳の壁」が支援につながらず
東京でひきこもりの相談支援に当たるNPO法人「楽の会リーラ」の市川乙允事務局長は、「多くの相談者から真っ先に『年齢制限はありますか』と聞かれる」と話した。

行政のひきこもり支援の窓口は、多くの場合青少年担当の部署だ。東京都など複数の自治体が、年齢を問わず支援するようにはなってきたが、まだ多くの自治体がひきこもり相談会などの対象年齢を「39歳まで」としている。

4月上旬、ある当事者の会に参加した40代女性は、会場で配られた就労支援プログラムのチラシを手にして「これも39歳まで!」と肩を落とした。

「相談があれば、年齢を問わず支援する」としている自治体もあるが、チラシやパンフレットに対象年齢が記されていたり、「青少年」センターが窓口だったりした場合、中高年の当事者は「SOS」を出すことをためらってしまう。やる気を振り絞っても支援につながれない。その落胆が、当事者の社会に出る気力を摘んでいく。

「兄に話し相手がいる」環境を作る
朝比奈氏は、少子化や非婚化、日本型雇用の崩壊などによって「今後は身寄りがなく家族を頼れない人や、中高年の子どもを養う余裕のない親が増える」と話す。40代前半の当事者が50代を迎える10年後、問題はさらに深刻化しかねない。

だが、ひきこもり期間の長い中高年当事者が、仕事を得て自立するのは容易ではない。当事者には発達障害や軽度の知的障がい、精神疾患を抱える人も含まれる。親の残した資産を活用する、生活保護や障害年金を受給するといった、就労以外の選択肢を増やした方が、本人が社会に出てきやすくなる面もある。

ひきこもりの兄を持つ間野さんの目標は「僕が先に死んだとしても、兄に話し相手がいる、という環境を作ること」だという。昔はなるべく、近所の人と顔を合わせないようにしていたが、今は母親の通うデイサービスのスタッフや隣人に、兄の事をまめに話すようにしている。いつか兄が、彼らと直接話せるようになればいいと願う。

当事者と家族を最も苦しめるのは、社会から孤立し、困った時に誰にも頼れなくなることだ。宮崎大の境准教授は「支援者の見守りや自助グループの集まりなどによって、当事者らが社会との『弱いつながり』を確保することが重要だ」と話している。
BUSINESS INSIDER JAPAN
(文・有馬知子)