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ツイッターの“自殺ライブ”

2019年04月19日 23時41分57秒 | 社会・文化・政治・経済

投稿者は身元不明の焼死者か…愛知県警は捜査中

4/19(金) 20:00配信

今年4月、ツイッターで“自殺実況”をしていた投稿者が、名古屋市内の駐車場で全焼した車の中から発見された焼死体と同一人物ではないかという説がネット上で飛び交っている。

愛知県警は19日、デイリースポーツの取材に対して、「推定年齢20~40歳で、男性」としたが、依然として遺体が身元不明であることを明かした。

この投稿者は14日に「近日名古屋の駐車場で死体がでたら それ僕なんでお願いします とっても楽しい人生でした」と予告。

「自殺ライブってかなりおもしろそう 笑う人もいるだろうし泣く人もいるだろうし 興奮するら みたいでしょそうゆう やりたい…」(原文ママ)と続け、15日に「眠剤飲みまくって気付いたらいっちゃってるパターンを試みてるなう」「僕が死ねばちゃんと信用してくれますよねら」(原文ママ)などと連投。

「木炭」と書かれた箱の画像と共に「次これ使います 死ねますように」とつづった。

 16日未明に入り、木炭の画像付きで「これ10本くらい車に置いたら流石に死ねるよね 頑張ります」「車でこんだけ木炭たけば死ねるでしょ」とツイート。

木炭が燃える炎の画像を投稿した1分後、16日午前2時4分の「右耳聞こえなくなってきた気持ちいい」を最後に投稿は途切れた。

 その後、名古屋市内の駐車場で車が燃えていると通報があり、焼けたワゴン車から1人の遺体が見つかった。

 愛知県警の広報担当は「16日の午前4時2分に認知されています。これは発生時間ではなく、認知された時間です」と説明。時間の経過的にはツイートでの実況と合致する。

発見された遺体は損傷が激しく、「性別、年齢とも不明」とされていたが、同県警は「解剖の結果、男性と判明しました。年齢は20~40歳と推定されます」とし、身元不明の状況は変わらないという。

 ネット上では、投稿者が2年前にツイートした画像の車と、テレビニュースの現場で映った車のナンバーや車種が一致するとして、同一人物とみる声が多い。

愛知県警は「身元確認を続けており、事件と事故の両面で捜査しています」とし、ツイートとの関連性については関知していない。

 だが、ネット上では「自殺ライブ」を実行して死に至ったという前提で大きな反響が起きている。

最後の投稿「右耳聞こえなくなってきた気持ちいい」には約3万9000件の「いいね」と1万6000件のリツイートがあった。

コメントには「ご冥福をお祈りします」という追悼メッセージが続く中、「いいねボタンを押してる人が理解できない(中略)自殺を止めるべきなのに…所詮は他人事なのか…」という正論がある一方、「勇気がある」「うらやましい」と“ヒーロー視”するコメントもあった。

 真偽はまだ定かではないが、ツイートは事実。

心の叫びを誰かに伝えたいという思いは時代を超えてある。

一方、自殺予告が気になった人はリツイートで拡散する以前に、本人にメッセージを送るとか、運営会社に報告するといった行動を考えてもいいのではないかという声もあった。



神戸中3女子自殺 隠され続けた「いじめを示すメモ」

2019年04月19日 23時32分25秒 | 社会・文化・政治・経済

真実を知りたかった母親の想いは
4/19(金) 15:35配信 MBSニュース
【特集】
MBSニュース
3年前、神戸市で中学3年の女子生徒が自殺した問題で、4月16日、再調査委員会が、いじめが自殺の要因だったとする報告書をまとめました。

最初に調査を行った第三者委員会は「自殺との因果関係は不明」という結論でしたが、これを覆す内容となりました。

3年近くにわたって娘を死に至らしめた真実にたどり着きたいと願ってきた母親の想いとは…

「辛かったが、知りたい」
「(描かれたのは)中2やと思うんです。2、3歳の頃から絵を描くのが大好きで」(女子生徒の母親)

やさしく微笑む少女の絵、中学2年生の時に描かれた自画像だ。少女はこの絵を描いた翌年、自ら命を絶った。2016年10月6日、神戸市垂水区の川で市立中学3年の女子生徒が遺体で見つかった。

「何回も校長先生とか担任の先生とかに聞いたんですが、何もわからない、気づかなかったと。話を生徒の方から聞かせてもらったり、娘の辛かった学校生活の話を聞くことは本当に辛かったですし、でもそれでも知りたかった」(女子生徒の母親)

自殺の4日後、母親は仲が良かった複数の同級生から「学校でいじめがあった」と伝えられた。

「悪口を広められる、服装が気持ち悪いとか顔面凶器なんていうあだ名とか、それを聞こえるように男子生徒が言っていたと」(女子生徒の母親)

このあと、神戸市教育委員会はいじめを調査する第三者委員会を設置したが、そのメンバーは教育委員会の付属機関から集められ、いわば身内で作られた組織だった。

そして自殺から10か月後のおととし8月、第三者委員会は、いじめがあったことは認めたものの、「自殺の直接の要因ではない」と結論付けた。この報告書を受け取った母親は…

「この報告書を受け入れられないです。多くの同級生が聞き取りに応じてくれたりしたのに、それがちゃんといかされてない」(女子生徒の母親 ※当時)

隠蔽されたメモ 市教委幹部が当時の校長に指示
ところがその後、あってはならない事実が判明する。実は学校も自殺の直後、複数の同級生から聞き取ったメモを作成していた。メモにはいじめに関する内容が記されていたが、学校側はこのメモの存在を隠蔽するため、開示を求める母親に対して「メモは破棄した」と嘘をついていたことがわかったのだ。

「ご遺族に対しまして『メモが存在しない』という虚偽の報告説明をしていた。

メモの存在を隠蔽したものとして非難を免れない」(神戸市教育委員会 長田淳教育長/去年6月)

調査した弁護士の報告書によると、教育委員会の幹部である首席指導主事が当時の校長に対し、メモの存在を遺族に告げないよう指示したという。

「そのようなメモを今さら出すことはできない。先生、腹くくって下さい」(隠蔽問題を調査した報告書より)

首席指導主事は市教委の窓口として母親と向き合っていた人物だ。なぜ隠蔽を指示したのか、不祥事が発覚した直後に本人を直撃した。

Q.メモの件なんですが、せめてひと言、遺族と亡くなられた生徒にひと言いただけませんか?
「…」(首席指導主事/去年6月)

何度問いかけても答えは返ってこなかった。首席指導主事は今年1月に停職3か月の処分を受けたが、4月から復職しているという。

いじめの内容が詳細に記されていたが…
では、隠されたメモには何が記されていたのか?

取材班はそのメモを独自入手した。

それによると、1年の頃には「ネット上でのトラブル」、2年になると「ハブリ(仲間外れ)」「悪口」「ツイッター上でブロック」「直接的ないじめ」、3年になると「中心グループからのいじめ」。

メモには誰がどんないじめをしていたか実名入りのチャート図で詳細に記されていた。

破棄されたはずのメモは、実は理科室のロッカーに保管されていた。

その情報は、おととし8月に第三者委員会が報告書をまとめた直後、1人の教員から新任の校長に伝えられていた。

事実を知った校長が教育委員会に報告を上げた際の通話記録によると…

【神戸市が開示した電話記録】
(校長)「実際にメモの一部は学校に存在している。誤った情報については訂正をする必要があるだろう」
(学校教育課長)「すでに、遺族説明も終わっており報告書は固まっている」

メモの存在は教育長にも伝えられ、教育長はすぐに確認するよう部下に指示を出したというが、その後の対応について教育委員会に聞いてみると…

「当時の学校教育部長と学校教育課長が校長のところに聞き合わせに行った。学校の状況や保護者への対応、その辺のどうも話に終始してしまった。結果として、肝心なメモの存否にかかる確認を忘れてしまった」(神戸市教育委員会 後藤徹也教育次長)

怠慢の結果、メモの存在は自殺から1年8か月にわたって隠蔽され続けた。

再調査委「いじめが自殺の要因」受け取った母親は…
メモの隠蔽が発覚した後、市は外部のメンバーによる再調査委員会を設置。4月16日、その報告書が市長に手渡された。

「無視をするとか仲間はずれにするとか絵がきもいとか、一番大事にしているものを否定されるといったような、こういう行為がなければ当該生徒は自死せずにすんだ」(再調査委員会 春日井敏之委員)

再調査委員会の報告書は以前の調査結果を覆し、いじめが自殺の要因と結論づけた。最初の第三者委員会による調査結果は一体なんだったのか。

「(第三者委員会は)どうしても教育委員会に対しての配慮というか忖度、そういうものが生まれる土壌はあったんだろうなと。(隠蔽された)メモを見ていれば、こういった観点から聞き取り調査ができると、そういうヒントを得られるので、初動の違いに影響した気はする」(再調査委員会 曽我智史委員)

新たな調査結果を受け取った母親は…

「素直によかったと思いました。認められてよかったと思いました。気がついたら2年半も経っていたんです。今になってやっと娘がいなくなったことを実感しているんです。本当に私にとっては大事に育ててきた娘なので、これからも一緒にいろんなことを経験したかったです」(女子生徒の母親)

真相を究明すべき市教委による背信行為。その不可解な対応についても新たな検証が必要なのではないだろうか。

 


阪神、屈辱の12失点大敗 巨人戦4戦4敗は32年ぶり  

2019年04月19日 23時09分20秒 | 社会・文化・政治・経済

ため息と怒声が飛び交う
デイリースポーツ
「阪神4-12巨人」(19日、甲子園球場)
 阪神がミスを連発。
3失策で前夜の大勝から一転、大敗でカード初戦を落とした。

開幕から巨人戦4連敗は1分けを挟んで4連敗した2009年以来、10年ぶり。
だが、開幕から4戦4敗は7連敗した1987年以来、実に32年ぶりの屈辱となった。

試合の大勢は序盤に決まった。先発メッセンジャーが二回、小林に1号3ランを被弾。伏兵の一発で3点のビハインドを背負うと、四回は守備が乱れた。

 1死二、三塁のピンチで坂本勇を打席に迎え、内野は前進守備。

低めの変化球で泳がせ、ボテボテの打球が遊撃前に飛んだ。北條は捕球後、素早く本塁に送球。

タイミング的には悠々アウトの場面だったが、この送球が三塁側に大きく反れた。

痛恨の失策で1点を失うと、大きく崩れた。

 さらに一、三塁から丸に二塁正面のゴロを打たせ、4-6-3の併殺コース。

だが、糸原の二塁送球を受けた北條が、再び一塁に悪送球。

ベース手前のバウンドを一塁・陽川が捕球できず、さらに1点を失った。

さらに一、三塁から丸に二塁正面のゴロを打たせ、4-6-3の併殺コース。

だが、糸原の二塁送球を受けた北條が、再び一塁に悪送球。ベース手前のバウンドを一塁・陽川が捕球できず、さらに1点を失った。

 流れは完全に巨人へ。

五回、岡本に左翼越えに特大7号ソロを浴びると、続く亀井、ゲレーロに連打を許したところで、メッセンジャーは降板。両手を広げ、お手上げポーズでベンチに戻る助っ人。

五回途中、8安打6失点で2敗目。防御率も4・70と跳ね上がった。前回12日・中日戦の6失点に続き、2戦連続KOとなった。

 一方、打線は16安打13得点した前夜のヤクルト戦(神宮)から一転、対菅野用に大胆にオーダーを変更した。

今季初めて3、4、5番の並びを崩し、糸井を2番、中谷を3番、打撃好調の梅野を6番、7番には昇格即、陽川を起用した。

 だが、この奇襲も投手戦に持ち込む前に、ミスで一方的な展開に。
七回、打撃好調ながら代打出場となったドラフト1位・近本(大阪ガス)が左前打を放ち、途中出場の同3位・木浪(ホンダ)がプロ1号3ラン。
九回は木浪が適時二塁打で4打点と気を吐いたが、失点が重すぎた。

 八回には桑原が1イニング6失点。
対巨人戦はこれで4試合37失点と歯止めがきかない。ため息と怒声が飛び交う甲子園。今季、まだ巨人相手に勝利がない
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巨人が14安打12得点で阪神戦10年ぶりの開幕4連勝 
小林が先制3ラン含むプロ初4安打の大活躍
4/19(金) スポニチ
小林、岡本、坂本勇の3本塁打を含む14安打を放った巨人が、阪神に12―4で大勝して10勝に到達。貯金3とした。巨人が阪神に開幕から4連勝するのは2009年以来10年ぶり。
巨人は2回に小林が左越え1号3ランを放って先制。
4回に阪神遊撃手・北條の2連続タイムリーエラーで2点を加えると、5回には主砲・岡本に7号ソロが出て6―0と一方的な展開に。
6回まで無失点と好投していた先発の菅野が7回に木浪にプロ1号となる3ランを浴びて3点差に詰められると、戸根にスイッチしてそれ以上の失点を許さず、直後の8回に坂本勇の2ランなどで一挙6点を加えて試合を決めた。
菅野は6回2/3で118球を投げ、6安打3失点で今季3勝目(1敗)をマークしている。
阪神は先発のメッセンジャーが5回途中6失点KO。
7回には途中出場していた木浪のプロ1号となる3ランで3点差まで詰め寄ったが、直後に登板した4番手・桑原が打ちこまれ、守備も乱れた。
巨人は2回に小林が左越え1号3ランを放って先制。4回に阪神遊撃手・北條の2連続タイムリーエラーで2点を加えると、5回には主砲・岡本に7号ソロが出て6―0と一方的な展開に。

菅野は6回2/3で118球を投げ、6安打3失点で今季3勝目(1敗)をマークしている。


宣伝の時代 「誰のため、何のため」の明確化

2019年04月19日 22時46分39秒 | 社会・文化・政治・経済


プロモーションの仕事をする上では、自分の"想い"も重要になります。
想いが伴っていない企画は相手にも刺さらないと思います。
自身も楽しくないだろうと思っているので、これまで自分が興味のなかったことにも「好きになろう」という意識を持って目を向け、モチベーション高く熱意をもって仕事に向き合えるよう努めています。
メディアプランニングや広告制作など、デジタルの登場で近年、企業の「宣伝部門」の仕事は大きく変化してきました。
広範かつ新しい役割や機能が求められるようになった現代。

定石のない時代 宣伝部員は自ら『教科書』をつくる気概を

「誰のため、何のため」の明確化

コーポレートブランディングは有言実行の企業姿勢から

自社のWebサイトはブランド発信の強力な手段。
まずは「誰のため・何のためのWebサイト」なのかを見直そう。


エンジニアなど現場で働く社員にヒアリングを行い、自社の技術について自分なりに理解することが必要。
コンテンツ開発には現場で活躍する社員の監修が不可欠。
言葉のレベルを合わせ、目標を共有することが重要。

消費者にとって、興味関心のある切り口で、かつ価値を伴った形で企業が情報発信。
ユーザーにとって価値あるコンテンツを発信し続けることで、見込み顧客を惹きつけてファン化し、問い合わせや購買などの行動へつなげる。

実益性と実現性を兼ねた企画を設計するためには、ますます「発想力/企画力」が必要とされる時代になっています。
意思決定をする上では、「スピード」と「精度」の2つを意識することが必要
早急に会議を見直す必要があります。
☐ 1. 決まらない
☐ 2. 発言しない人がいる
☐ 3. 話が長い人がいる
☐ 4. 会議が長い
☐ 5. 会議が多い
☐ 6. 人数が多い
☐ 7. 会議開催の回数が多い
☐ 8. 資料がわかりづらい
☐ 9. 目的・ゴールが不明確

コーポレートブランディングとは、企業のブランドを構築することで、企業価値を高めることです。

自社製品の売り出し戦略などを考えるプロダクトマーケティングとは異なり、企業全体のイメージや価値を向上させるのがコーポレートブランディングです。


宣伝費ゼロ時代の新しいPR術

2019年04月19日 22時37分30秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
 

 低予算で商品や会社を知らしめる知恵と方法

高橋 眞人  (著)

商品の説明

内容紹介

商品やブランドを宣伝する予算もない小企業なのに大衆認知に成功する会社がある。

PRとは単純な広告ではなく、お金の問題でもないのだ。

目からウロコの発想で効果的な真のPRを展開するための極意を教示。
著者からのコメント

この本は、決して「PR」を学ぶためのテキストなどではありません。

商品やサービス、会社のイメージなどを効果的に「売る」ため、ヒット商品を出すために日々頭を悩ませている普通のビジネスマンや、経営者、自営業、自由業の方々に、PRの観点から「エール」を贈り、元気を出してもらうための本です。単に読み物として読んでも、面白く読めるものになりました。

読み終えた方は、感想などを送っていただければ、意見交換ができると思います。

出版社からのコメント

いかにお金をかけずに、商品やサービスを広く世にアピールしていくか――この視点なくして、ビジネスの成功はありえません。

従来は、「宣伝といえば広告」でした。

しかし、これからの時代は、「マスメディアを戦略的に活用して、タダで広告してもらう“PR”という宣伝技法」が新しい常識になります。

資金的に余裕のない中小規模の企業はもちろん、予算を少しでも切り詰めたい大企業のビジネスマンにも、今まさに求められている必読の新発想です。

著者は、元新聞記者で現在PRコンサルタントという異色の経歴をもつ、まさに「メディアの内と外」を知り尽くした人。

企業PRの注目すべき実践例を多数盛り込み、PRの極意を余すところなく紹介した本書は、あなたの仕事力を格段に高めてくれる最高の武器となることをお約束します。

内容(「BOOK」データベースより)

商品やサービスを“信頼あるブランド”として知らしめ、大ヒットさせるには、これまでの「広告」ではなく、マスメディアを戦略的に活用する「PR」が不可欠だ。

本書では、企業PRの注目すべき実践例を多数紹介しながら、コストをかけずに絶大な成果を生みだす技法を徹底伝授する。

抜粋

 商品を作った。サービスを用意している。

ところがちっとも売れない。さてどうすればよいだろうか。

ふつうは、「商品が知られていないわけだから、金はかかるが広告でも打とう」ということになる。

ちょっと待ってほしい。あなたがトヨタ自動車とかNTTドコモとか、巨大な資本力のある企業の主力製品を担当しているならそれもいい。

しかし、あなたの売ろうとしている製品、あなたの会社に広告がどれだけ必要かを、いま一度考え直してみるべきではないか。  

なぜなら--広告に頼らないまでも、あなたの商品、会社を世の中に広められるもっと有効で低コストな「PR」という手法があるからだ。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

高橋/真人
1965年、東京生まれ。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業。

読売新聞社に入社し、科学部記者として環境省、気象庁など、さらに、マルチメディア取材班記者としてIT分野の記事を担当。

退社後は、世界最大手のPR会社ウェーバー・シャンドウィック・ワールドワイドを経て、03年に日本メディアストラテジー株式会社(JMS)を設立。

医薬、バイオ、IT、環境、エネルギー、出版、大学、官公庁、金融、M&A、選挙など幅広い分野のPRを手がけ、また、国内外の企業・団体・官公庁にPRコンサルティングを提供しているほか、月刊誌などへの執筆、マスコミをめざす学生への指導も行なっている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



 

 
 

 

 

 

強気で攻め抜く・攻撃精神

2019年04月19日 22時01分14秒 | 社会・文化・政治・経済

平等は<画一>ではなく、違いを認め、<差別>しないことだ。
「人を思いやる心、悪と闘う勇気などは、決して知能テストでは測定できない」
精神的な力こそが、人間の最大の徳なのだ。

最も平等で公平な社会とは、まず一人一人の異なる潜在能力を発揮させることが前提条件となる。
性、人種、民族、年齢の違いは差別の根拠ではなく、尊敬の根拠である。
多様性を輝かせる価値観が期待される。

「志を貫けば難事も実現する。

勝負に臨む時は、一切の妥協を排し、驀進することだ。
<もう大丈夫>と手を緩めるのは油断であり、思わぬ敗北の原因となる。
どこまでも、強気で攻め抜く・攻撃精神
これが勝負の鉄則。
果敢な行動を。
最後まで貫き通す。
現実の社会で具体的な目標に挑む。

あらゆる障害は奮励努力により打破される―ダビンチ


職員の「時間稼ぎか」発言、市長が陳謝 ALS患者側に

2019年04月19日 20時38分55秒 | 医科・歯科・介護

4/19(金)  朝日新聞デジタル

 全身の筋力が低下する筋萎縮性側索硬化症(ALS)を患う埼玉県吉川市の男性が、同市職員に侮辱的な発言を受けたとして市に抗議している問題で、中原恵人市長は19日、「不適切な表現だった」と謝罪する談話を発表した。
この問題は、市障がい福祉課の職員が、訪問介護の調査で12日にALS患者の高田泰洋さん(43)方を訪れた際、高田さんが目の動きで文字盤を追って答えようとすると「時間稼ぎですか」と発言したというもの。

同席していた代理人弁護士が抗議したが、職員から謝罪はなかったという。

 中原市長は談話で、職員の発言を「不適切な表現であり、ご本人をはじめ関係者の皆様に大変ご不快な思いをさせてしまう結果となってしまいました」と陳謝。

職員の処分に向けて調査する方針を明らかにした。

市は代理人弁護士に同趣旨の文書を18日に郵送。幹部が高田さんに直接謝罪もする意向だ。

 高田さんは代理人弁護士を通じて「市に愛着があるからこその抗議でもありました。

今後の市政運営に期待します」とコメント。代理人は「謝罪と再発防止の誓約があったことは一定の評価をします」としている。(米沢信義)


科学リードする精神的な進歩も不可欠

2019年04月19日 20時28分28秒 | 社会・文化・政治・経済

科学技術の力は本来、善悪もなく「中性」である。
科学が人間に及ぼす影響は、その力を用いる人々の道徳的水準によって決まる。
歴史家トインビー
だが、道徳的水準を向上させることは困難である。
原子爆弾を生みだしたのも科学者。
時代はAI全盛。
AI兵器の是非の問題。
科学技術が加速的に進歩すればするほど、それをリードする精神的な進歩も不可欠。
人の介在なく、敵を攻撃し殺傷する――。
人工知能(AI)の発展により、兵器に自律性向上を持たせることで、こうした強力な殺傷能力を持つ兵器「自律型致死兵器システム( LAWS)」の開発の是非が問われている。
AI=人工知能を搭載し、敵と識別した標的を、人の判断を待たずに攻撃する「AI兵器」
まるでSFの世界のようなことが現実になる恐れが高まる中、先週、国連で、規制の是非を話し合う会合が開かれましたが、各国の立場は隔たったまま。


科学技術週間とは?

2019年04月19日 19時31分33秒 | 社会・文化・政治・経済

科学技術週間

科学技術週間とは?

科学技術週間について
昭和35年2月26日 閣議了解
1 . 趣 旨
科学技術に関し、ひろく一般国民の関心と理解を深め、もって我が国の
科学技術の振興を図るため、科学技術週間を設け、できるかぎりこの期間
中に各種の科学技術に関する行事を集中的に実施し、目的達成に資するも
のとする。
2 . 期 間
期間は、毎年4月18日を含む1週間とし、昭和35年度は、4月18日か
ら24日まで(1週間)とする。
3 . 行 事
科学技術関係機関および一般の協力を得て、たとえば科学技術功労者
の表彰、試験研究機関の公開、講演会、展覧会、映画会、座談会等の開催、科学技術に関する資料の公表など、この期間の趣旨にそった行事を全国的に実施するものとする。
科学技術週間の期間について
平成31年4月15日(月)~4月21日(日)
3.行事の実施
上記1の趣旨に沿って、関係機関及び報道機関等の協力を得ながら、以
下の行事が科学技術週間の期間を中心として全国的に実施されるよう推進
する。
(1)文部科学省行事
科学技術功労者、科学技術振興功績者等の表彰式等

(2)一般行事
① 講演会、研究成果の発表会、映画会、見学会、展示会等
② 発明相談、技術相談等
③ 大学、大学共同利用機関等における公開講座の実施等
④ 試験研究機関、工場等の一般公開
⑤ 科学館、博物館等の特別公開等
(3)青少年参加行事
実験教室、科学講演会、映画会、見学会等
(4)広報活動への取り組み
政府広報、インターネット、ポスター等各種媒体を通じた科学技術週間の周知

科学技術週間とは?

「科学技術週間」は、科学技術について広く一般の方々に理解と関心を深めていただき、日本の科学技術の振興を図ることを目的として昭和35年2月に制定されました。

全国の各機関では、おもにこの期間に各種科学技術に関するイベントなどを実施することとなっています。
日本が真に豊かな国として発展し世界の平和と繁栄に貢献していくためには、「教育・文化立国」を実現するとともに、社会経済発展の原動力となる「知」の創造と活用に向けて「科学技術創造立国」の実現を図ることがとても重要です。
文部科学省では、さらなる科学技術の振興を図るために、質の高い優れた科学技術系人材の育成、そして科学技術に対する一般の方々の理解と関心を高めていくことが必要だと考えています。
最近では、次代を担う青少年の「科学技術離れ」「理科離れ」も指摘されています。

青少年の科学技術に親しむ機会を充実することも将来の日本にとって大切なことです。
そこで、全国各地の科学館、博物館、大学、試験研究所などでは、この科学技術週間を利用して講演会、展覧会、映画会、座談会、施設公開など、さまざまな催しが行われます。

「科学技術週間」シンボルマーク

科学技術週間シンボルマーク

 

<シンボルマーク デザインコンセプト>
「Science」の「S」をベースとし、科学の内に秘めた無限の可能性を表現しています。「青」は「宇宙」、「赤」は「大地」、ドットはそこに介在する人類を表現。七つのドットはこの一週間をきっかけとし、科学技術について理解を促すという意味を表現しています。


天文法華の乱

2019年04月19日 12時32分20秒 | 社会・文化・政治・経済

 法華一揆(ほっけいっき)は、日本の戦国時代の京都における天文年間に起きた宗教一揆である。

「天文法乱(てんぶんほうらん、てんもんほうらん)」「天文法華の乱(てんぶんほっけのらん、てんもんほっけのらん)」「天文法難(てんぶんほうなん、てんもんほうなん)」などと呼ばれる一連の出来事についてもここで解説

日本の戦国時代に起きた、京都における宗派間の紛争である。

日蓮宗の立場からは「天文法難」、ほかの宗派からは「天文法華の乱」などと呼ばれる。
天文年間、京都では六条本圀寺などの日蓮宗(法華宗)寺院を中心に、日蓮宗の信仰が多くの町衆に浸透し、強い勢力を誇るようになっていた。

天文元年(1532年)、浄土真宗本願寺教団の門徒(一向一揆)の入京の噂が広がり、日蓮宗徒の町衆(法華衆)は細川晴元・茨木長隆らの軍勢と手を結んで本願寺教団の寺院を焼き討ちした。当時の京都市街から東山を隔てた山科盆地に土塁に囲まれた伽藍と寺内町を構えていた山科本願寺はこの焼き討ちで全焼した(山科本願寺の戦い)。

この後、法華衆は京都市中の警衛などにおける自治権を得て、地子銭の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都で勢力を拡大した。こうした法華衆の勢力拡大を、ほかの宗派の立場からは「法華一揆」と呼ぶ。
天文5年(1536年)2月(旧暦)、法華衆は比叡山延暦寺に対して宗教問答をすることを呼びかけた。延暦寺もこれに応じ、3月3日(旧暦)に延暦寺西塔の僧侶・華王房と上総茂原妙光寺の信徒・松本久吉(松本新左衛門久吉)とが問答したところ、松本久吉が華王房を論破した(松本問答)[1]。
延暦寺の僧侶が日蓮宗の一般宗徒に論破されたことが噂で広まり、面目を潰されたと感じた延暦寺は同年に日蓮宗が「法華宗」を名乗るのを止めるよう、室町幕府に裁定を求めた。だが、幕府は建武元年(1334年)に下された後醍醐天皇の勅許を証拠にした日蓮宗の勝訴とし、延暦寺はこの裁判でも敗れた。
今谷明は、幕府はあえて日蓮宗に有利な裁定を出すことで、両者の対立を煽ったとしている。
これにより、延暦寺は京都法華衆の撃滅を決議した。
同年7月(旧暦)、延暦寺の僧兵集団が法華衆の撃滅へと乗り出した。
延暦寺全山の大衆が集合して、京都洛中洛外の日蓮宗寺院二十一本山に対して延暦寺の末寺になり上納金を払うように迫った。
日蓮宗側は延暦寺のこうした要求を拒否。
要求を拒否された延暦寺は朝廷や幕府に法華衆討伐の許可を求め、越前の大名・朝倉孝景を始め、敵対関係にあった他宗派の園城寺・東寺・興福寺・本願寺などにまで協力を求めた。いずれも延暦寺への援軍は断ったが、中立を約束した。
延暦寺は近江の大名・六角定頼の援軍を得ると、7月23日に延暦寺・六角勢が総勢6万人を動員して京都市中に押し寄せ、法華衆2万と交戦した。
他方、法華衆は5月下旬から京都市中に要害の溝を掘って延暦寺の攻撃に備えていため、戦闘は一時法華宗が有利であったが、次第に劣勢になっていった。
そして、27日までに延暦寺・六角勢は法華衆に勝利し、日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払い、法華衆の3000人とも1万人ともいわれる[要出典]人々を殺害した(天文法難)。
28日には、最後まで抗戦していた本圀寺が陥落している。
さらに延暦寺・六角勢が放った火は大火を招き、京都は下京の全域、および上京の3分の1ほどを焼失。兵火による被害規模は応仁の乱を上回るものであった[1]。
こうして、隆盛を誇った京都の法華衆は壊滅し、法華衆徒は洛外に追放された。

以後6年間、京都においては日蓮宗は禁教となった。
天文11年(1542年)に六角定頼の斡旋で朝廷から京都帰還を許す勅許が再び下り、天文16年(1547年)には定頼の仲介で延暦寺と日蓮宗との間に和議が成立した。
その後、日蓮宗二十一本山のうちの15か寺が再建された。

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天文5 (1536) 年7月に山門延暦寺の衆徒が京都法華宗徒を武力で洛外へ追放した事件。

室町時代,京都の武家,商工業者の間に法華宗が広まった。

天文初年頃から法華一揆を結成し,細川清元とともに一向一揆とも戦い,山門をしのぐ宗勢となった。

同5年2月頃から両者の間に宗論が起り,説法中の山門僧を法華宗徒が論破したことから争いとなり,山門は園城寺,東寺,祇園社,興福寺などに援助を求め,6万とも 15万ともいう勢いで2万余の法華一揆と対立した。戦いは一時法華側が有利であったが,六角氏をも相手としたため,次第に押され,洛中洛外の拠点 21ヵ寺を焼かれ堺に退去した。以後同 11年 11月に勅許が下るまで洛中での法華宗は禁教状態であった。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

てんぶんほっけ‐の‐らん【天文法華の乱】

天文5年(1536)比叡山延暦寺の衆徒が宗教問答を契機に京都の法華一揆と対立し、洛中洛外の日蓮宗21寺を襲った事件。

天文法乱。
出典 小学館デジタル大辞泉について 
百科事典マイペディアの解説

天文法華の乱【てんぶんほっけのらん】

→法華一揆
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
大辞林 第三版の解説

てんぶんほっけのらん【天文法華の乱】

1536年(天文5)、延暦寺の宗徒が京都の日蓮宗寺院二一寺を襲撃破却した事件。

京都町衆を中心とする日蓮宗徒は一向一揆や土一揆に対抗して法華一揆を起こし、京都で大きな影響力をもって、山門との間に天文初年から対立・葛藤が続いていた。これが宗門論争を機に爆発し武力衝突にまで発展した。

この乱により1542年まで日蓮宗は京都で禁教とされた。

出典 三省堂大辞林 第三版について 情報
精選版 日本国語大辞典の解説

天文五年(一五三六)、延暦寺の衆徒が京都の日蓮宗徒を襲撃した事件。京都の町衆を中心とした法華一揆は天文の初めから盛んであったが、この年比叡山の僧と日蓮宗徒との対立が激化、山門側が洛中洛外の日蓮宗二一か寺を襲撃して破却した。

このためその後数年間、日蓮宗は洛中では禁教の状態におかれた。天文法乱。てんもんほっけのらん。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
世界大百科事典内の天文法華の乱の言及

【宗論】より

のちに日蓮宗(法華宗)が謗法折伏(ほうぼうしやくぶく)を標榜して台頭してくると,中世後期の宗論は,日蓮宗と他宗との宗論が中心となった。1338年(延元3∥暦応1)備後の守護屋形で対決した本願寺存覚と日蓮宗の宗論,1501年(文亀1)管領細川政元の命で京都で行われた日蓮宗と浄土宗の宗論(文亀宗論),1536年(天文5)天文法華の乱の起因となる叡山の僧と1人の日蓮宗信者との間で争われた〈松本問答〉,75年(天正3)ごろ,阿波一国を皆法華に改宗させようとして三好長治の命で行われた日蓮宗と真言宗の宗論,79年(天正7)織田信長が安土城下の浄厳院(じようごんいん)で浄土宗の玉念らと日蓮宗の日珖(につこう)らを対決させた〈安土宗論〉,1608年(慶長13)江戸城中の家康の面前で行われた浄土宗源誉らと日蓮宗日経らによる〈慶長宗論(江戸宗論)〉などは,その社会的影響にはかりしれないものがあった。

以上のうち,大原談義,文亀宗論,安土宗論,慶長宗論を,ときに〈日本四箇度宗論〉という。…

【法華一揆】より

…実力で都市の自衛に成功した法華一揆は,有力町衆を中心に団結し,年貢や地子銭の免除や半済(はんぜい)をかちとり,また町の検断権の一部も掌握して町衆の自治運動を高めた。だが1536年(天文5)山門を中心とする荘園領主や守護勢力と衝突し,京都日蓮宗二十一本山すべてが焼打ちされた(天文法華の乱)。

ここに京都日蓮宗の黄金時代は終わり,また法華一揆も終息した。…

 

 


光悦考

2019年04月19日 12時07分27秒 | 社会・文化・政治・経済
 

光悦で「思い当たるのが法華信仰です」。

樂家も本阿弥家の歴代も法華信徒でした。
光悦は「立正安国論」など日蓮の著作を書写しています。
法華というつながりが本阿弥家と樂家を結び、光悦茶碗制作の機縁となったのです。
家をつなげるということは、単に技術とか様式、型だけをつなげることではありません。
精神や気持ちといった内面的な要素が存在するものです。

商品の説明
内容紹介

〈従来の図録・作品解説とは一線を画す、本邦初の本格的光悦論の誕生〉
〈光悦茶碗の名品を、十五代樂吉左衞門が語り尽くす〉

十五代・樂吉左衞門氏が『京都新聞』紙上で平成26年から一年間にわたり連載した「光悦逍遥」に、大幅加筆し書籍化。

「光悦を語ることは私自身を語ること」。

光悦にもっとも影響を受け、敬愛の深い著者が、光悦その人、本阿弥家に脈々と流れる精神、そして光悦茶碗への想いを語り尽くします。伝世の光悦茶碗から著者が選び抜いた名碗について、その箆跡一つひとつからその思考の跡を追いかけるようにスリリングに展開します。

単なる作品解説にとどまらず、実作者ならではの視点で光悦の作陶に向き合う、作陶40年を迎えた著者による、これまでの作陶生活の集大成ともいえる新たな光悦論です。

内容(「BOOK」データベースより)

光悦茶碗とは、本阿弥光悦とは。十五代樂吉左衞門が向き合いつづけた名碗を語る。

著者について

樂家十五代当主 陶芸家

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

樂/吉左衞門
樂家十五代当主。陶芸家。公益財団法人樂美術館館長。1949年、樂家十四代覚入の長男として生まれる。

1973年、東京藝術大学美術学部彫刻科卒業。同年イタリアに留学。1975年、帰国後、作陶に入る。

1981年、十五代吉左衞門を襲名。1983年、襲名記念初個展を開催。

2000年、フランス政府より芸術・文化勲章シュヴァリエを受章。2007年、滋賀県・佐川美術館内に樂吉左衞門館が開館。

館ならびに現代茶室を自身が設計創案した。桃山時代に樂茶碗を創出した初代長次郎以来、四百年余りの歴史と伝統を継ぐ樂家の当主として、伝統に立脚しながら、常に斬新な感覚を示す造形美の世界を表現し続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

 
 

 

北朝鮮に渡った9万人の帰国者は最下層身分として潰された

2019年04月19日 11時57分54秒 | 社会・文化・政治・経済

1959年から始まった在日朝鮮人の北朝鮮帰国事業は、現在は北朝鮮に批判的な産経新聞も含んだ主要全紙が「美談」として報じたことで日本人をも巻き込んで大衆的な支持を得て9万人もの人が海を渡り「地上の楽園」へ向かった。

しかし、1990年代中盤ごろから脱北者たちが帰国者の悲惨な実情を証言するようになり、実態が広く知られるところとなった。「デイリーNKジャパン」編集長の高英起氏が、当時、北朝鮮で来国者を待ち受けていた過酷な現実について解説する。

 * * *
 帰国者を待っていたのは、日本での宣伝とは大違いの貧困という現実と北朝鮮社会で最下層に位置づけられた差別だった。

 帰国者の多くは、北朝鮮における身分制度である出身成分(*)で最下層の「敵対階層」またはその上の「動揺階層」に分類され監視対象とされた。

さらに、多くの帰国者が「望む仕事に就ける」と言われていたものの、実際には北朝鮮当局によって、一方的に配属先を決められた。

独身の帰国者の場合は、帰国者同士でなければなかなか結婚できないという差別もあった。
【*金日成に対する忠誠度によって、国民を「核心階層」「動揺階層」「敵対階層」の3つに分類。動揺階層は状況次第で党に抵抗する可能性があるとして監視対象になり、敵対階層は党に否定的な態度をとるとされ、より厳しい特別監視対象になった】

 北朝鮮に帰国して帰国者同士で結婚したが、その後、一家で脱北、そして日本に再帰国した女性は語る。

「北朝鮮で高校を卒業して咸興工業大学に進み、卒業後は機械工場の設計室で仕事をしました。もうその頃には、見たり聞いたりしたことをそのまま口にしたら命が取られることがわかっていましたから、方向転換し、順応していこうとしました。1965年に結婚して地方に移り、5人の子どもを産み育てました。しかし配給では食べていくことができません。
平壌では9割が米、1割が雑穀ですが、地方では秋には米が3割くらいに増えることはありましたが、通常は9割が雑穀で米は1割です。
一番困るのが大豆。水にふやかして臼でついて調理しますが、2食これを食べると消化できず下痢。毎食だと神経もおかしくなっていきます」
帰国者だからといって配給を少なくされることはなかったが、滞りがちな配給を優先的に回してもらうにはコネが必要だった。
コネを持たない帰国者は結果的に食料の確保で苦労することとなる。
 帰国事業真っ盛りの1950年代から1960年代はじめ、日本で貧困に苦しんでいた在日朝鮮人だが、その後の日本の経済発展に溶け込み、定着しながら、徐々に生活が豊かになっていく。
日本社会で生活が落ち着きつつあった在日朝鮮人は、徐々に帰国する意味を失うと同時に、帰国者たちのその後の悲惨な生活ぶりが聞こえてくることにより、帰国事業自体が尻すぼみとなっていく。
そして、帰国者たちは日本にいる親戚に支援を請うようになるが、これが彼らに対する新たな差別を呼び起こすことになる。
日本から送られてきたありとあらゆる支援物資を手にした帰国者たちに対して、現地住民は妬み、差別意識を増長させていき「帰胞(キポ)」(帰国同胞)と呼んで蔑んだ。
帰国者のなかで最も惜しまれる1人が、舞踊の天才「崔承喜」だ。
彼女の踊りは、日本だけでなく、ヨーロッパ、アメリカでも話題を呼び、ピカソやジャン・コクトー、川端康成等多くの文化人を魅了した。
朝鮮人でありながら、化粧品や百貨店の広告のモデルに採用され、雑誌でも頻繁に特集されるなど、まさに当時を代表するスターの1人であり、ファッションリーダーでもあった。
その彼女も1967年に「ブルジョワおよび修正主義分子」として粛清される。
2003年に「人民俳優」として名誉回復されたとされているが、世界に通じる舞踊手の才能を潰してしまったことは間違いない。
もちろん、なかにはある程度の成功を収めて、現地住民と同じような境遇で生活する帰国者もいるが、圧倒的多数が夢破れて辛苦に満ちた厳しい人生を今でも送っている。
帰国事業は、在日朝鮮人運動の忌むべき1ページと言える。
しかし、決して葬り去られてはならない。なぜなら悲劇は過去の1ページではなく現在進行形だからだ。今現在も多くの帰国者やその子孫が、金正恩体制の人権弾圧によって苦しんでいる。
そして、帰国者の苦しみはそのまま北朝鮮の民衆の苦しみでもある。新たな1ページをめくるためにも、こうした現実に目を背けず、過去をしっかりと見つめることが在日朝鮮人に求められている。

※SAPIO2016年11月号

 

 

 

 

 

 

 

 


幻の祖国に旅立った人々 北朝鮮帰国事業の記録

2019年04月19日 11時36分41秒 | 投稿欄
 
小島晴則 (編集)
 

商品の説明

内容紹介

本書は、まさに帰国事業が全盛時代だった昭和35年3月から昭和39年12月まで、73号に渡って、北朝鮮に向かう帰国船が出航した新潟に於いて、この帰国事業を推進する人々により現場の声を伝えるために発行されてきたミニコミ『新潟協力会ニュウス』の合本であり、また当時このニュウスの事実上の編集責任者だった小島晴則氏の、現時点において、当時の新潟の感動と熱狂、そして現時点での深い後悔の念と複雑な心境を正直に吐露した文章が収録されている歴史の一級資料である。

出版社からのコメント

今年平成26年は、北朝鮮への帰国事業が開始され、在日朝鮮人そして彼らと結婚した日本人妻たち(少数ではあるが日本人夫もいた)が、かの国に海を渡って旅立ってから55周年にあたる。

自由民主主義の国から共産主義の国に、9万3千人もの人間が渡って行ったというのは、人類史上、確実にこれが最初で最後の大事件である。

当時これに反対したのは、韓国政府及び民団、そしてごく一部の日本国内の民族派だけであり、産経新聞から朝日新聞まで、自民党から共産党まで、もろ手を挙げてこの事業を「人道事業」として推進し、朝鮮総連は「北朝鮮は地上の楽園、医療も教育もすべて無料」と宣伝して帰国熱を煽った。その結果渡っていた人々がどのような運命をたどったのかは今更言うまでもない。

この歴史は日本と朝鮮半島を語る上で、決して忘れてはならないはずだ。

著者について

昭和6(1931)年2月、新潟市江南区生(二男)。定時制高校中退。昭和25(1950)年、共産党入党、新潟市の共産系出版物専門の書店に勤務。昭和34(1959)年8月、新潟県帰国協力会事務局に専従として入る。のち事務局長。昭和39(1964)年7月、日朝友好青年使節団として訪朝(3週間滞在)。以後2回訪朝。尚、この年は6月16日に新潟大震災、10月10日に東京五輪が開催(北朝鮮選手団は船で新潟へ、そして特急列車で東京へ。しかし開始前に参加せず帰国)。平成9(1997)年1月より北朝鮮に拉致された横田めぐみさん等を救出する運動に力を注ぐ

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北朝鮮 帰国事業


北朝鮮の日本人妻と残留邦人 1960年代前後の「帰国事業」で在日朝鮮人ら約9万3千人が北朝鮮に渡ったが、うち約1830人が日本人妻だった。厚生労働省によると、先の大戦に絡み北朝鮮から帰国できなかった残留邦人は1440人。
ただ、消息がつかめず、大半は「戦時死亡宣告」がなされ、日本に戸籍が残る人は35人。
最近も親族との連絡が確認されているのは3人に限られる。

帰国・帰還事業の際、北朝鮮を「地上の楽園」とはやし立てたのは、左翼思想にかぶれたマスコミと朝鮮総連だった。
<【拉致再調査】日本人妻ら「地上の楽園」で監視下に 政治犯収容所送りも>

「『地上の楽園』との宣伝にだまされて行った彼女たちも被害者といえる」。
北朝鮮に渡った在日朝鮮人や日本人妻の人権問題に取り組む団体の代表を務める山田文明・大阪経済大准教授はこう指摘する。

 「北の港に着く前に、船からボロをまとった人たちを見た瞬間、来たのは間違いだったと後悔した」と振り返るのは、その後、脱北し、日本に帰国した70代の日本人妻だ。

 日本人妻らは、監視態勢下に置かれ、脱北者らによると、「資本主義思想を流布した」と言い掛かりを付けられ、政治犯収容所に送られた人も少なくなかった。
 「日本に帰りたい」と漏らしただけで収容されたケースもあったという。

 平成9~12年に3回、里帰り事業が実施され、計43人が一時帰国したが、体制に忠誠を誓う人だけが選ばれた。
実施半年前から平壌に集められて徹底教育され、北朝鮮に戻った後も日本での行動を審査された。

 家族の反対を押し切って北朝鮮に渡り、日本の親族と絶縁している日本人妻も多い。

一方、脱北し、日本で暮らす人も数人いる。
ただ、生活保護を除き、受け入れ態勢と呼べるものはない。
帰国したものの、再び北に戻る人さえ現れた。

 北朝鮮の民族登録では、日本国籍保持者は一般に「日本」に区分けされるが、子供をはじめ朝鮮籍扱いになるケースもかなりあると想定される。北朝鮮が今回どこまで調査範囲とするかも不透明だ。

山田氏は「日本側には現状のデータがなく、この人を帰せとは言えない」と北朝鮮の主導で進む調査を危ぶむ。
「都合のいい調査結果を開示し、見返りを求めてくるだろうが、横田めぐみさんら拉致被害者全員の帰国なしには譲歩すべきではない」と訴えている。

在日朝鮮人の帰還事業とは何だったのか? 

まず、在日朝鮮人はどんないきさつで日本に住んでいたのか?
在日朝鮮人は、朝鮮半島の日本統治時代に様々な事情で日本本土へ移った者、韓国政府による虐殺(済州島4・3事件)から逃れるため、あるいは戦後に出稼ぎや朝鮮戦争の勃発などにより自ら密入国し、そのまま日本に居留した者が多かった。
そうした人々の中には、日本人と同様に朝鮮特需などによる恩恵を享受した者もいたが、依然として生活に困窮する者も多かった。
特に1956年の生活保護費の削減と1957年から翌1958年にかけてのなべ底不況は貧困層の生計を直撃していた。

なぜ北朝鮮を選んだのか?
在日朝鮮人の間では、朝鮮戦争による荒廃からの復興が進まず、また政情不安を理由に、韓国への帰国を不安視する一方で、社会主義体制のもとで千里馬運動により急速な復興を実現したとされていた北朝鮮への憧れもあった。

当時、北朝鮮と韓国の体制間競争は北朝鮮が優位に立っており[7]、朝鮮総連は北朝鮮を「地上の楽園」「衣食住の心配がない」と宣伝し、それに呼応した日本の進歩的文化人・革新政党・革新団体が繰り返し北朝鮮の経済発展の様子を伝え、在日朝鮮人に帰国の決意を促した。
特に北朝鮮を訪問して礼賛した寺尾五郎の『38度線の北』は、帰国希望者に大きな影響を与えたといわれる。

当時の日本における民族差別も、特に子供の教育や将来を見据えたときに、帰国を選ばせる一因となった。

これらの社会的な背景が、爆発的な運動の拡大をもたらしたとみられる。

マスコミの反応はどうだったのか?
吉永小百合主演の映画『キューポラのある街』で知り合いの帰国を喜ぶ場面があるように、一般の日本人も帰国事業に概ね好意的だった。
このため、日本のマスコミは左右を問わず帰国事業を人道的な事業と捉え、新聞各紙はこぞって帰国事業を歓迎し賛同する記事を書き連ねた。

1960年2月26日付朝日新聞に、次のような記事が掲載されている。
帰還希望者が増えたのはなんといっても『完全就職、生活保障』と伝えられた北朝鮮の魅力らしい。

各地の在日朝鮮人の多くは帰還実施まで、将来に希望の少ない日本の生活に愛想を尽かしながらも、二度と戻れぬ日本を去って“未知の故国”へ渡るフンギリをつけかねていたらしい。

ところが、第一船で帰った人たちに対する歓迎振りや、完備した受け入れ態勢、目覚しい復興振り、などが報道され、さらに『明るい毎日の生活』を伝える帰還者たちの手紙が届いたため、帰還へ踏み切ったようだ。 

「地上の楽園」は実は「この世の地獄」だった。

しかし、朝日は現在では「帰国事業は日本政府による朝鮮人追放政策だった」(2004年5月18日付)と主張し、日本政府に責任を押し付けている。

いつも、どこでも、何の問題でも、反省にない無責任新聞である。

北朝鮮は日朝協議に期待を寄せ、前進を促すために、初めての日本人墓地も公開した。
<北朝鮮、新たな墓地を公開>
■終戦前後に現在の北朝鮮地域で死亡した日本人の遺族9人が28日、北朝鮮北東部清津の羅南地区の日本人墓地とされる山を訪れ、慰霊のための祈りをささげた。

北朝鮮側によると、戦後、日本人にこの場所を公開するのは初めて。
 訪問は遺族の希望に応えたものだが、新たな墓地を公開することで、5月末に拉致被害者らの再調査実施で合意した北朝鮮側が、積極的に対応している姿勢を示す狙いもありそうだ。

 北朝鮮政府関係者は28日、合意について「全ての日本人が調査対象」と述べ、今後の協議次第では今回公開した場所も調査対象になる可能性を示唆した。
 病死した父親を近くで火葬したという広島市の石原國靖さん(78)は「ここに来られて感謝している」と涙ぐんだ。(共同)

敗戦時の朝鮮半島の日本人と言えば、昨年話題になった「竹林はるか遠く-日本人少女ヨーコの戦争体験記」を思い起こす。<著者ヨーコ・カワシマ・ワトキンズは、1933年(昭和8年)青森で生まれた。
生後六ヶ月で南満州鉄道(満鉄)に勤務する父に連れられ、家族で朝鮮北部の羅南(現在の北朝鮮・咸鏡北道清津市)に移住。
朝鮮・咸鏡北道で11歳まで過ごす。1945年(昭和20年)日本の敗戦が濃厚になると、母親と姉とともに避難を開始し、京城(けいじょう)を経由して日本へ逃れる。離れ離れになった兄とも後に再会を果たす>実話を書いた本である。アメリカでは韓国系が反発した。

 

 

帰国事業は人権侵害」脱北者らが北朝鮮政府に5億円賠償求め提訴

2019年04月19日 11時27分19秒 | 社会・文化・政治・経済

2018.8.20 産経新聞

北朝鮮帰国事業で人権を侵害されたとして、日本への脱北者5人が20日、北朝鮮政府を相手取り、計5億円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。
弁護団によると、北朝鮮政府を相手取った訴訟は初めてという。

 北朝鮮は昭和34~59年、「地上の楽園」と宣伝し、在日朝鮮・韓国人と、日本人配偶者ら家族の北朝鮮への集団的移住・定住を推進。
日本政府も協力し、約7000人の日本国籍者を含む9万3000人以上が渡航したとされる。
訴状によると、原告らは虚偽の宣伝にだまされて渡航し、長期間にわたり人権を抑圧されたと主張。
事業は国家的な誘拐行為で、現在も北朝鮮に残る家族と面会できないままになっていると訴えている。

 民事訴訟法では、日本の裁判所が国際裁判の管轄を持つのは「不法行為が日本であった場合」とされているが、弁護団は虚偽の宣伝は日本国内で行われたなどとして、日本の裁判所で争える、と主張している。

 東京・霞が関の司法記者クラブで会見した在日朝鮮人2世の原告、川崎栄子さんは「裁判で勝って北朝鮮に残る子供たちに再会したい。北朝鮮を動かすには世界中の世論を総動員しなければならない」と語った。


北朝鮮 「地上の楽園」と宣伝

2019年04月19日 11時16分47秒 | 社会・文化・政治・経済

これまでも北朝鮮に核開発の放棄や拉致被害者の解放を促すため、国際社会は経済制裁などを続けてきた。

 奇妙なことに、日本にあってその制裁に反対し続けてきたのが日本共産党なのである。
 北朝鮮が日本人の拉致を認め5人の拉致被害生存者が帰国したあと、さらなる家族の解放などを促すために、2004年、日本独自の制裁として北朝鮮への経済制裁2法を国会採決した。

これに反対した政党は日本共産党のみだった。
 07年、08年、この制裁の延長を閣議決定する際も、共産党は反対を表明している。
 09年4月のミサイル発射に抗議する国会決議にも、

 根拠なく「ミサイル発射」と断定すべきでない(『しんぶん赤旗』2009年4月8日)
と強弁して、共産党だけは反対した。

 なぜ共産党はこれほど北朝鮮を庇(かば)い立てしてきたのか。
 じつは戦後の1959年から始まった、在日朝鮮人を北朝鮮へ帰還させる〝帰国事業〟を実働部隊として支えたのが日本共産党だった。
 かつて日本共産党員として「新潟県帰国協力会事務局長」「日朝協会新潟県連事務局長」を務め、この〝帰国事業〟を最前線で支えてきた小島晴則氏が、『北朝鮮帰国事業に熱心だった日本共産党の罪』と題し、最新の月刊誌に怒りの告発をしている。
新潟県帰国協力会・日朝協会の事務局員は四人全員が共産党員でした。

 帰国事業は自民党や社会党などの超党派で帰国協力会を推進母体として組織し、多くのマスコミも応援して実施されたものですが、その手足となって支えたのは日本共産党の党員です。
 当時、日本共産党は北朝鮮の朝鮮労働党と名実ともに「兄弟党」の関係にありました。(同)
「拉致の証拠もないのに」

 だが、やがて北朝鮮に帰国した人々からの悲痛な手紙を通し、「地上の楽園」と宣伝されていた帰国事業がいかにウソにまみれたものだったかに気づいた小島氏は、68年に共産党を離党。
 自責の念にさいなまれ、せめてもの罪滅ぼしにと「横田めぐみさん等被拉致日本人救出新潟の会」会長を務めてきた。
ライター
松田 明さん