北松戸の桜

2019年04月08日 21時14分43秒 | 日記・断片

常磐線の電車に乗って、車窓から桜の花を愛でる。
取手駅から、天王台、我孫子へ。
我孫子発の千代田線に乗り換えるかを迷う。
そのまま乗っていく。
北柏では、入院した慈恵会医科大学病院が見え、桜並木が見えた。
北松戸へ下車した。
川沿いのしだれ桜はすでに散って葉桜になり、遅咲きのしだれ桜が2本のみ残っていた。
午後4時ころであっただろうか、土砂降りの雨となる。
雷もなる。
さらに、東京方面へと考えていたが、取手へ戻る。
小雨となっていた。
傘はなし。
寒さが、ぶり返していた。



現在も低迷する日本の課題は?

2019年04月08日 14時11分36秒 | 社会・文化・政治・経済

30年前の平成元年、1989年3月末の日経平均株価は3万2833円だった。
その年の12月29日、日経平均は3万8915円の史上最高値をつけた。
日本の株価は、いまだ2万1000円台で低迷している。
1989年の世界時価総額ランキングには、上位50社中、日本企業が32社も入っていた。
それが2018年には、上位50社に入っている日本企業はトヨタ1社(35位)だけになってしまった。
1人当たり国内総生産(GDP)レースでも、1989年には4位だったが、2006年に20位に後退し、20代に低迷したまま。
世界に占める日本のGDPシェアも1994年17・7%から2017年6・1%に低下。
「失われた20年」という言葉を使うが、実は「失った20年である」と言うべきであろうか。
ジャーナリスト 尾林賢治さん

 


現在の住宅問題はなにか

2019年04月08日 13時50分24秒 | 社会・文化・政治・経済

明治大学名誉教授青山佾(やすし)さん
高齢者の独り暮らしの人が、新たに賃貸アパートやマンションを探しても大家さんの側が警戒してなかなか入れないケースがある。
乳幼児をもった、ひとり親家庭も同様なケースがある。
この場合は保育所探しや職探しが関連するのでより問題は複雑になる。
住まいに困っている人が増えている。

超高齢社会における東京のあり方懇談会 提言骨子(案)の概要

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ローマの哲人 セネカの言葉

2019年04月08日 13時21分22秒 | 社会・文化・政治・経済
 

中野 孝次  (著)

一日が全人生であるかのように生きよ セネカの言葉

商品の説明

内容紹介

2千年前に,こんなにも生き生きとした思想家がいた! 

人生,貧困,死など,誰もが一度は突き当たるテーマをとりあげ,真に自由に生きることを説くセネカ.

その文章は無類の魅力をもち,悩める人を力強く励ます.

今まで日本ではあまり知られていなかったセネカの世界を,中野孝次が一挙に書き下ろす,現代人のためのセネカ入門.

内容(「BOOK」データベースより)

人生、貧困、死など、誰もが突き当たるテーマを取り上げ、真に自由に生きることを説くセネカ。

その文章は、無類の魅力を持ち、悩める人を力強く励ます。独自の訳と解釈による、現代人のためのセネカ案内。

内容(「MARC」データベースより)

人生、貧困、死など、誰もが一度は突き当たるテーマを取り上げ、真に自由に生きることを説くセネカ。その文章は無類の魅力を持ち、悩める人を力強く励ます。独自の訳と解釈による、現代人のためのセネカ案内。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

中野/孝次
1925年千葉県生まれ。東京大学文学部独文科卒。国学院大学教授を経て、作家活動に入る(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


 


自分で目標を決め、挑戦

2019年04月08日 13時01分11秒 | 社会・文化・政治・経済

人生は結局、「自分でこう生きる」と自分で決めるほかない。
人(親などから)から決めてもらうことではない。
自分で目標を決め、挑戦し、「自分でやりきった」と自分で満足していく。
そこに勝利の人生がある。
試練、挫折があろうと、<全て成長のための過程>だと、自分自身に言い聞かせて踏みとどまることだ。

 

前へ進めば、逆風もある。
壁にぶつかることもある。
もうだめだ、と思ったら、そこからが本当の勝負だ。
進むか退くか、最も苦しい時に人間の真価が問われる。
嵐の中へ、あえて踏み出す一歩が自分を劇的に変える。
最大の壁は自身の心にある。


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実の娘に中学2年のころから性的虐待の父親

2019年04月08日 12時38分09秒 | 社会・文化・政治・経済

娘に準強制性交で起訴の父に無罪 

 「抵抗不能」認定できず 産経新聞4月4日

 平成29年に愛知県内で抵抗できない状態の実の娘=当時(19)=と性交したとして準強制性交罪に問われた男性被告に、名古屋地裁岡崎支部が「被害者が抵抗不能な状態だったと認定することはできない」として無罪判決(求刑懲役10年)を言い渡していたことが4日、分かった。判決は3月26日付。

公判で検察側は「中学2年のころから性的虐待を受け続け、専門学校の学費を負担させた負い目から心理的に抵抗できない状態にあった」と主張。弁護側は「同意があり、抵抗可能だった」と反論した。
 鵜飼祐充(うかい・ひろみつ)裁判長は判決で、性的虐待があったとした上で「性交は意に反するもので、抵抗する意志や意欲を奪われた状態だった」と認定した。
 一方で被害者の置かれた状況や2人の関係から抵抗不能な状態だったかどうか検討。「以前に性交を拒んだ際受けた暴力は恐怖心を抱くようなものではなく、暴力を恐れ、拒めなかったとは認められない」と指摘した。

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実の娘と性行為…19歳娘への準強制性交罪に問われた父親に無罪判決「拒めなかったとは認められない」

4/5(金)

2017年、抵抗できない状態の当時19歳の実の娘と性行為をした準強制性交の罪に問われていた父親に対し、名古屋地裁岡崎支部が無罪判決を言い渡していたことが分かりました。

被告の父親は2017年、愛知県内の勤務先の会社やホテルで抵抗できない状態の実の娘(当時19)と性行為をした準強制性交の罪に問われていました。

 裁判で検察側は「専門学校の入学金などを負担させた負い目から抵抗は困難だった」などと主張し、懲役10年を求刑。弁護側は「同意があり抵抗はできた」と主張していました。

 3月26日の判決公判で、名古屋地裁岡崎支部の鵜飼祐充裁判長は、性的虐待はあったとした上で「以前に拒んだ際受けた暴力は恐怖心を抱くようなものではなく、拒めなかったとは認められない」などとして、父親に無罪判決を言い渡しました。

 名古屋地検の築雅子次席検事は「上級庁とも協議の上、適切に対応したい」としています。

東海テレビ


令和」で脚光… 宮城・涌谷町の町長自殺か

2019年04月08日 12時34分27秒 | 社会・文化・政治・経済

4/6(土) テレビ朝日

新しい元号「令和」の出典の万葉集の歌に詠まれた北限の地として脚光を浴びた宮城県涌谷町の町長が山林で死亡しているのが見つかりました。自殺とみられています。

 涌谷町の大橋信夫町長は4日朝から行方が分からなくなり、5日午後5時ごろに自宅から約500メートルの山林で死亡しているのが見つかりました。
遺書などは見つかっていませんが、現場の状況などから警察は自殺したとみています。
大橋町長は新しい元号「令和」が発表された際、涌谷町が万葉集の歌に詠まれた北限の地であることから取材に応じていました。

涌谷町は公金を紛失した件で副町長が辞職し、また、厳しい財政状態で非常事態宣言を出すなど問題が山積していました。


4票差、6票差… 公明候補「常勝関西」で落選相次ぐ

2019年04月08日 12時17分13秒 | 投稿欄

4/8(月) 

関西では大阪市議選と京都市議選で、公明党の公認候補の落選が相次いだ。

4人が立候補した大阪市議選の東成区選挙区(定数3)では、現職の則清ナヲミ氏(58)が大阪維新の会の新顔と最後までもつれ、4票差で落選。

6人が立候補した京都市議選の下京区選挙区(定数4)では、現職の西山信昌氏(46)が6票差で落選。再選を果たせず、支持者に「このような結果になり、申し訳ない」と深々と頭を下げた。
公明は、関西では支持母体の創価学会が「常勝関西」と呼ばれる組織力を背景に衆院で小選挙区を複数維持するなど、選挙戦の強さを誇ってきた。

朝日新聞社


輪子の競輪日記 荒井崇博選手が優勝

2019年04月08日 11時36分43秒 | 未来予測研究会の掲示板

武雄競輪開設69周年記念「大楠賞争奪戦」

久しぶり、輪子は競輪をやってみた。
前日は、看護の仕事で行けなかった。
結果を知って、「惜しかったな」と思った。
大ファンのアフロヘアーの山崎賢人選手がロング捲くりで快勝、1-8の2車単の配当が2万4580円。
3連単の1-8-9は、29万7120円もの大穴に。
1番人気の浅井康太選手は、山田英明選手(佐賀 昨年優勝)と車体が絡むアクシデントで、ともにまさかの落車。
2日目に7着になった武田豊樹選手は3日欠場していて、3日目落車した浅井選手も欠場。
「車券を買ったファンに迷惑をかけたので、自重したのね」と輪子は解釈した。

SSはベストナインの称号(赤パンツを履く)を背負って走っているので、「結果の責任を負う立場」と輪子は想ってみた。
夜勤明けの輪子は、疲れていたので昼寝後、午後3時に競輪場へ着いたら、10レースがテレビ放映されているところで、思わず見入る。
前日の準決勝で三谷竜生選手と共倒れで5着に沈んだ村上義弘選手は確りと勝つ。
「さすがね」と輪子は納得した。
競輪選手の鑑のような村上選手のファンの一人として、輪子は結果を喜べた。
輪子は11レースは、1番の三谷選手から、1-2、1-3、1-5を500円買う。
武蔵さんのアドバイスで1-7の1番人気は買わない。
「三谷、今日は捲くりだ。2日目に三谷にマークして2車身も離された中野彰人は、今日は着いていけない。りんちゃん7番中野は買うな」
「そうなのかな?」と首をひねったが、輪子が本命を買うとなぜか外れるのも事実。
結果は1-3で2000円。
500円が1万円に。
ところが、武蔵さんは1-3の3連単の1-3-8を外していた。
1-7-5 8-2-6、4-3-9の3分戦で、武蔵さん逃げる8番を外していた。
8番才迫開選手は、競輪専門新聞で無印の評価。
そのための、1-3-8の3連単は、1万5500円の配当に。
「俺は、30倍から、40倍の車券狙いだからな」と武蔵さんは、結果にさばさばしている。
そして、決勝戦。

輪子は2番の平原康多選手を軸に。

2-1 2-7 2-5に各500円

さらに、山崎賢人選手からも車単を買ってみた。

7-1、7-2、7-5に各200円

結果は、平原選手が鋭い脚で捲くって届かずに3着に。

11レースが的中したので「まあいいか」と輪子は思う。

武蔵さんは1-5-2を5000円、「さすがね」と感心した。

1-5-2 3960円(8人気)

 12R決勝

 






選手名府県



  13 1 1 荒井崇博 佐賀 41 82 S1
  4 2 2 平原康多 埼玉 36 87 SS
  11 3 3 小倉竜二 徳島 43 77 S1
    14 4 4 野田源一 福岡 40 81 S1
× 7 5 松浦悠士 広島 28 98 S1
    12 5 6 松坂洋平 神奈川 36 89 S2
  5 7 山崎賢人 長崎 26 111 S1
    17 6 8 小川祐司 愛媛 36 96 S2
  10 9 中村浩士 千葉 41 79 S1
誘導員 山口 貴弘       S2  
 
並び 2(単騎)-4 7-1 5-3 6-9-8(単騎)
 

ニール・ヤング 回想

2019年04月08日 07時32分03秒 | 社会・文化・政治・経済
 

愛車でたどる生の軌跡

子どものころは、母方の祖父がプレゼントしてくれた自転車を夢中になって乗り回し、風に髪をなびかせて行けるところへはどこまでも行き、あちこちに移動しながら、自由を満喫していた。
高校では、詩を書きギターの練習に明け暮れるようになり、音楽好きの仲間とバンドを結成して、しだいにさまざまな会場で演奏し、かわいい女の子の常連ファンも増えてきた。
1950年代末から60年代初めにかけて、世界各地で無数に生まれたハイスクールバンドの典型であった。
この時期、ニール・ヤングは初めてバンドの移動のためにクラシックカーを購入した。
なんと葬儀社が売りに出した霊柩車だった。
お棺を載せるべくゆったり仕様のこの車は、楽器を運ぶのに絶好だった
母の援助を得て、これを手にいれた彼は「モート」と名づけ、意気揚々と遠く離れた土地まで出かけ、腕に磨きをかけて演奏するよになった。
このモートを皮切りに彼は60年代半ばに高校を中退し、やがてカナダからアメリカに移る。
次々にバンドを結成しながら、新たな境地を切り開き、強烈にして繊細な大いなるロックンローラーへとなってゆくのだ。
その過程と並行して、さまざまなクラシックカーに惚れ込み旅路をともにした。

商品の説明

内容紹介

今も最前線で活動するロックのレジェンド=ニール・ヤングによる回想録。
未発表作品、私生活、人間関係……興味深いエピソード満載。
彼自身によるカラーイラスト40点も収録。

いかにしてニール・ヤングは「ニール・ヤング」となったのか──そのすべてがここに。
ニール・ヤングが綴る、自らの音楽人生、バンド、アルバム、曲、家族、車、楽器、スタジオ、政治、社会……音楽ファン必携の書!
回想録『SPECIAL DELUXE』の日本版ついに登場!
ニール自身によるカラーイラスト40点収録、原書に忠実にカラーを再現した豪華仕様、全464ページ。

内容紹介
●試験の悪夢
「一九六四年秋、二年目の十年生で落第したわたしはケルヴィン高校を中退し、学校教育は正式に終わりを迎えた。

フランス語の試験に受からなかったのだ。それから数年は、まだ学校にいて試験を受けようとしている悪夢にうなされた」(第6章)

●初めてレコーディングした「サルタン」について
「そうしてある日、エンサインに楽器や機材を積みこみ、ダウンタウンにあるCKRCのスタジオへ向かった。

到着すると、オリジナル曲を残らず演奏した。ハリー・テイラー(註:ウィニペグのエンジニア)はじっと耳を傾け、そのなかから選んで「この二曲を録ろう」と言った。一曲は「ザ・サルタン」で、もう一曲は「イメージ・イン・ブルー」だった。

どちらもシャドウズのサウンドをベースにした曲で、楽譜に書き起こしたものだ。わたしたちはあらためて日にちを決め、その日に二曲を録音することになった。

一週間後、ふたたびスタジオに来て何度となく演奏する。

ハリーはマイクの位置をあちこち動かし、さまざまなエコーを試し、マイクも取り替えた。とにかくあらゆる可能性を試していた。

バディ・ホリーのようなべっこう縁の眼鏡に白いシャツ姿のハリーは、このうえなく真面目なエンジニアだった。  

CKRCのスタジオは、ダウンタウンの中心部、カールトン・ストリートの古い煉瓦造りの建物の二階にあった。

じつは、そこはわたしの父がはじめてジャーナリストとして働いた「ウィニペグ・フリープレス」がかつて入っていた建物だった。

そのときは知らなかったが、わたしはカールトン・ストリート三〇〇番地で夢を追いかけていた。

父が同じくらいの年齢のときに夢を追いかけはじめた場所のすぐそばで。何年かして、そのことに気づいたときに、父に連絡して話したかった。きっと父も感慨深く思ったにちがいない。あらためて、わたしたちが似た者どうしだと」(第7章)

●バッファロー・スプリングフィールドについて
「わたしの音楽人生では、この仲間で演奏したステージが最高だった。

バッファロー・スプリングフィールドは、わたしが生まれてはじめて全力を出し尽くしたバンドだった。

何ごとも、生まれてはじめて経験することには特別な思い入れがある。全員で死にもの狂いで挑み、そんなわたしたちの姿に観客は熱狂していた。……オリジナルのメンバーによる録音で質のよいものは存在せず、活動を記録した映像も残っていない。

だからその名を聞くと、最盛期を知る者の胸にはほろ苦い感情がこみあげる。いま思うと、椅子に叩きつけて壊したあのギターが、いまも残りのメンバーが抱えている不満や成功のチャンスを逃したという思いの予兆だったのかもしれない」
「バッファロー・スプリングフィールドはジョニー・カーソンの『ザ・トゥナイト・ショー』に出演が決まったが(中略)……わたしの考えでは、『ザ・トゥナイト・ショー』はバンドともファンとも関係のないハリウッドの低俗な番組に過ぎなかった。わたしたちが歌っていることとはかけ離れていた。わたしは何の相談もなくバンドを辞めた。ジョニー・カーソンのショーには出演せず、その手の番組はリストから除外した。いま思うと、いきなりバンドを辞めなくても、スティーヴンと話し合えば自分の考えを理解してもらえたかもしれない。だが、そのころのわたしは大人ではなかった。  その結果、わたしはコルベットを失った。演奏活動をしていなかったためにローンが支払えなかったのだ。車は差し押さえられた。それは忘れられない教訓となり、以来、車は何があっても現金で買うようにした。」(第11章)

●ザ・バンド、そしてディラン
「(1974年……)マリブに移ってズマビーチのそばのブロードビーチ・ロードに家を借り、ザ・バンドのリック・ダンコと親しくするうちに友人となった。わたしたちは、ザ・バンドがランチハウスをスタジオに改装した〈シャングリラ〉に入り浸った。……当時はおおぜいのミュージシャンがそこに集まっていて、わたしは自宅のすぐそばにスタジオがある暮らしを満喫した。

そこでリヴォン・ヘルムと出会い、アーカンソー出身の友人、ジョニー・タイソンの話を聞いた。シャングリラの冷凍庫には、ジョニーの実家が経営している〈タイソン・フーズ〉の若鶏がぎっしり詰まっていた。ある晩、ディランが来たので、わたしは新曲の「ヒッチハイカー」と「コルテス・ザ・キラー」を披露した。

これまでの人生で時代とともにドラッグを使ってきたことを告白した「ヒッチハイカー」を聴いて、ディランは「正直な歌だ」と言った。

あの瞬間のことは、いまも折に触れて頭によぎる。思い出すたびに笑わずにはいられない。

ボブのユーモアが皮肉たっぷりだったから。ストーリーを作ることに関して言えば、あの歌はそれほど独創的ではないと、彼なりのやさしい言い方だったにちがいない。わたしがただ過去の出来事を並べただけで、新しいものは何も作り上げてはいないと」(第23章)

──などなど、人間ニール・ヤング、音楽家ニール・ヤングがくっきりと浮かび上がってくる、ファンが知りたかったエピソードが満載です。

内容(「BOOK」データベースより)

いかにしてニール・ヤングは「ニール・ヤング」となったのか―そのすべてがここに。ニール・ヤングが綴る、自らの音楽人生、バンド、アルバム、曲、家族、車、楽器、スタジオ、政治、社会…音楽ファン必携の書!

著者について

ニール・ヤング
1945年生まれ。若い世代のミュージシャンから「ゴッドファーザー・オブ・グランジ」と呼ばれているロック・レジェンド。60年代終わりからずっと最前線で新作を発表。『ハーヴェスト』の他、多くの作品を発表。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

ヤング,ニール
1945年生まれ。「ゴッドファーザー・オブ・グランジ」とも呼ばれているロック界の巨人。1960年代の終わり、バッファロー・スプリングフィールドのメンバーとしてメジャー・デビューの後、ソロ・デビュー

 



 
 

シャルリー・エブド襲撃事件とは

2019年04月08日 06時58分32秒 | 社会・文化・政治・経済

シャルリー・エブド襲撃事件は、2015年1月7日11時30分 (CET)にフランス・パリ11区にある週刊風刺新聞を発行している『シャルリー・エブド』本社にイスラム過激派テロリストが乱入し、編集長、風刺漫画家、コラムニスト、警察官ら合わせて12人を殺害した事件、およびそれに続いた一連の事件。
テロリズムに抗議し、表現の自由を訴えるデモがフランスおよび世界各地で起こり、さらに報道・表現の自由をめぐる白熱した議論へと発展した。
標的 シャルリー・エブド
攻撃手段 銃撃
武器 自動小銃 AKM
死亡者 12人
負傷者 11人
犯人
サイード・クアシ、シェリフ・クアシ
関連組織:アラビア半島のアルカイダ (AQPA)
対処 射殺
2015年1月7日11時30分 (CTE)、フランスのパリ11区ニコラ・アペール通りにある風刺新聞社『シャルリー・エブド』を、覆面をした複数の武装した犯人が襲撃し、編集長、風刺漫画家、コラムニスト、警察官ら合わせて12人を殺害した。
襲撃後、逃走した犯人2人は人質をとって印刷会社に立てこもった。
続いて別の犯人によるモンルージュ警官襲撃事件、パリ東端部のユダヤ食品スーパー襲撃事件が起こった。(大々的な捜索の末)特殊部隊の強行突入により、犯人は射殺されたが、人質のうち4人が犠牲になる結果となった。
シャルリー・エブド襲撃事件の犯人はサイード・クアシ、シェリフ・クアシの兄弟、モンルージュ警官襲撃事件とユダヤ食品スーパー襲撃事件の犯人はアメディ・クリバリであり、後にアラビア半島のアルカイダ (AQPA)が犯行声明を出した。
背景
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件以来、世界各地でテロ事件が発生し、『シャルリー・エブド』はこれを非難する風刺画(ムハンマドの画を含む)を掲載していたが、イスラム教徒の反発を招くようになったのは、2006年にデンマークの日刊紙『ユランズ・ポステン』に掲載されたムハンマドの風刺画を転載して以来である。
「原理主義者にお手上げのムハマンド」と題したカビュの表紙画には頭を抱えるムハンマドが描かれ、吹き出しには「ばかどもに愛されるのはつらいよ」と書かれていた。
イスラム原理主義を批判していることは明らかだが、「ばかどもに愛されるのはつらいよ」という言葉のみ(あるいは画のみ)がソーシャルメディア等で拡散し、世界各国で抗議デモに発展していた。
『シャルリー・エブド』の風刺画の画風というのは、フランス国内でもジャック・シラク大統領(当時)から「行き過ぎた挑発だ」と批判されるようなものであったが、2006年のムハンマド風刺画掲載後から、『シャルリー・エブド』関係者は絶えず殺害脅迫を受け警察の警護対象になっており、2011年には同紙編集部に火炎瓶が投げ込まれて全焼する事件が起きた(ただし、襲撃事件発生時には既に警戒を緩め、警備が手薄になっており、犠牲者の家族のなかにはこの問題を指摘する者もある。
しかしこれ以後も、フランス政府から自粛要請されているにもかかわらず、懲りずにムハンマドを風刺する風刺画を掲載し、さらに2013年には、ムハンマドを漫画で描いた『ムハンマドの生涯 (La Vie de Mahomet)』(シャルブ)を発売した。


私が「軽さ」を取り戻すまで

2019年04月08日 06時40分33秒 | 投稿欄

2015年の1月7日、パリにある週刊紙「シャルリ・エドブ」の編集部に二人の男が押し入り、そこにいた12人を殺した。

この本の著者であるカトリーヌ・ムリスは、たまたま失恋の苦悩で寝床を離れられず、遅刻して惨殺の時には編集部にいなかった。
これは同僚を失った彼女が心の傷から回復していく過程の物語である。
ショックの後遺症で思考停止に陥る。
人格の乖離が修復できない。
心の傷は美によって修復されるのか?
自分なりの芸術療法を試みる。
ボードレールの詩をきっかけにイタリアへ逃れるという道が開ける。
文芸や美術の古典に依って心の傷を癒す。

わたしが「軽さ」を取り戻すまで

“シャルリ・エブド”を生き残って

 

カトリーヌ・ムリス 著・大西 愛子 訳

あの日を境に、私は「軽さ」を失った――
シャルリ・エブド襲撃事件生存者、喪失と回復の記録

2015年1月7日、パリで発生したテロ事件により12人の同僚を失うなか、
ほんのわずかな偶然によって生き残ったカトリーヌ。
深い喪失感に苛まれながらも、美に触れることによって、
彼女は自分を、その軽やかさを少しずつ取り戻す。

序文:フィリップ・ランソン(2018年フェミナ賞受賞)

ウォリンスキー賞(ル・ポワン誌主催)、ジュネーヴ・テプフェール賞受賞
アングレーム国際マンガフェスティバル作品賞候補最終ノミネート

 ●内容紹介●

『シャルリ・エブド』で唯一の女性風刺漫画家であったカトリーヌ・ムリス

シャルリ・エブド襲撃で、「軽さ」を失ったカトリーヌ。

「人生の補佐役」たるプルーストゆかりの地をめぐるも、なにも感じない。

記憶喪失、事件で犠牲になった仲間の言葉も思い出せない。

1月11日、フランス全土で400万人がテロに抗議する「共和国の行進」。

暴力のツナミの後にきたのは支援のツナミ――。
そんな「1月7日症候群」を相殺するため、スタンダールが経験したように「美に埋もれ、溺れたい」と願い、彼女はイタリアへと飛び立つ。
美と文学で悲しみ(トラウマ)を乗り越える1年間の記録

 ●著者紹介●

カトリーヌ・ムリス
1980年生まれ。25歳のときに風刺画家のリュスとシャルブに誘われ『シャルリ・エブド』に加わり、報道マンガの世界に入る。

主な作品に、『Mes Hommes de lettres(わたしの愛する文学者たち)』(2008年)、『Moderne Olympia(現代のオランピア)』(2014年)など。

○訳者:
大西 愛子 
1953年、東京生まれ。フランス語翻訳・通訳。

父親の仕事の都合でフランス及びフランス語圏で育つ。バンド・デシネの翻訳多数。




「わだばゴッホになる」 棟方志功

2019年04月08日 05時44分47秒 | 社会・文化・政治・経済

地元青森の新聞の文化欄に自分の作品が紹介された。

わずか5行の記事に感激して上京を決意した。

青森から世界へ羽ばたいた偉大な版画家の生涯がここに。

「わだばゴッホになる」――画家になることを志し、大正13年(1924)に21歳で上京した青森の青年は、戦後、数々の国際美術展で受賞し、世界のムナカタと呼ばれるようになりました。

板の声を聞き、生涯かけて無我夢中に制作した木版画の数々や、彼自身が倭画(やまとが)と称した彩色の美しい肉筆画は生命力にあふれ、21世紀を生きる我々の眼にも、常に斬新に映ります。

本書では、習作期の油彩画、初期の版画作品から晩年までの代表作を網羅し、強烈な個性を発して輝き続けた偉大な版画家の生涯をたどります。また、文学と関わる作品や、肉筆の美人画などもあわせて紹介し、棟方の多様な芸術世界をご覧いただきます。

さらに、棟方志功の孫で棟方研究者の石井頼子さんが還暦の頃の棟方について書いたエッセーも掲載しています。ひらがなをもとに棟方が模様をつけた本書掲載作品「いろは版画柵」をもとにデザインされた、カラフルで愛らしい表紙が印象的な一冊です。

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「棟方志功 わだばゴッホになる」には、次のエピソードが掲載されている。
「…弘前に小野忠明という洋画家がいて…わたくしはある日、意を決して小野さんのお宅を訪ねました。話を伺ううちに、わたくしは「ワ(私)だば、バン・ゴッホのようになりたい」と言いました。
すると、小野さんは、「君は、ゴッホを知ってるッ?」と言います。
その頃わたくしは、何か判らないが、ゴッホというものを口にしていました。
みんなから「シコーはいつもゴッホ、ゴッホと言っているが、風邪でも引いたかな」とからかわれたものでした。
小野さんは新刊の雑誌を一つ持ってきました。『白樺』でした。
口絵に色刷りでバン・ゴッホのヒマワリの絵がのっていました。
赤の線の入った黄色でギラギラと光るようなヒマワリが六輪、バックは目のさめるようなエメラルドです。一目見てわたくしは、ガク然としました。
何ということだ、絵とは何とすばらしいものだ、これがゴッホか、ゴッホというものか!
わたくしは、無暗矢鱈に驚き、打ちのめされ、喜び、騒ぎ叫びました。
ゴッホをほんとうの画家だと信じました。
今にすれば刷りも粗末で小さな口絵でした。しかしわたくしには、ゴッホが今描いたばかりのベトベトの新作と同じでした。「いいなァ、いいなァ」という言葉しか出ません。わたくしは、ただ「いいなァ」を連発して畳をばん、ばんと力一杯叩き続けました。「僕も好きだが、君がそれほど感心したのなら君にあげよう。ゴッホは、愛の画家だ」。小野忠明氏は力強く最後の言葉を言ってくれました。
それからは、何を見てもゴッホの絵のように見えました。」(40~41頁)

 

また、「棟方志功讃」にも、「板極道」(棟方志功の自伝)からの抜粋として
「氏(小野忠明氏のこと)はゴッホを尊敬して新しい絵を描いていました。氏からわたくしは、フランスの作家の醸成をいろいろ教えられました。とくにゴッホの話に夢中になりました。―ゴーギャン、セザンヌ、ロートレック、マチス、ピカソまでを語りました。そうして小野氏は、大切にしていましたゴッホの『ひまわり』の原色版を、わたしにくれました。―この原色版を、カミサマ―ゴッホの面影として大切にしていたのですが、残念千万にも、戦災で無くしたのは、惜しく思っています―。
『ようし、日本のゴッホになる』『ヨーシ、ゴッホになる』―そのころのわたくしは、油画ということとゴッホということを、いっしょくたに考えていたようです。
わたくしは、何としてもゴッホになりたいと思いました。…わたくしは描きに描きました。…何もかもわからず、やたら滅法に描いたのでした。ゴッホのような絵を―。そして青森では、『ゴッホのムナカタ』といわれるようになっていました。」(33~34頁)
とある。

 

小野氏にゴッホの『ひまわり』原色版を贈られたことにより、『日本のゴッホになる』と決意した、というのが定説のようだが、「棟方志功 わだばゴッホになる」にある通り、小野氏に会う以前に棟方志功はゴッホを知っていたようである。

これについては、長部日出雄による評伝「鬼が来た 上棟方志功伝」に、青森裁判所の弁護士控所に給仕として勤めていた棟方の先輩、山本兵平は絵を描いていた弟兵三の友達としてまえから棟方を知っており、上京する際、ゴッホの画集を「絵描きになるのなら、こういうものを勉強せねば駄目ぞ」といって貸し、「ゴッホの画集を手にした志功は、飛び上がって喜び、頁を繰るたびに「こりゃあ大すたもんだ!」と叫んで大感激のていであった。」という記述がある。(84~86頁)
小野氏はわざわざ上京してゴッホの『ひまわり』原画を見ており、その印象と、「白樺」のバックナンバーを読んで得ていた知識をまじえて、ゴッホ論を棟方に熱っぽく語っており、それによって棟方が多大な影響を受けたのだろう、と「鬼が来た 上 棟方志功伝」にはある。

白樺派が日本に紹介した画家には、ゴッホ以外にもセザンヌ、ルノワールなどがいますが、なぜその中からゴッホなのかは判らず。

小野忠明氏がゴッホに傾倒していたのか、もともとゴッホの画集を見ていた棟方が、殊更ゴッホの話に反応したのか、ゴッホと棟方には生来の性質に共通するところがあり、小野氏の話を聞いて自分のあるべき道と進む道を初めて実感したのか、推測はできるがはっきりしたことは判断できない。



山本五十六の戦争

2019年04月08日 05時27分50秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 

昭和の日本人の弱さ


「これを書かずして死ねない、と思った三人のうちの一人です。

山本への 誇大な称賛や曲解が出終わり、これから歴史が一つの形を決めていくと思うのです。

先達が書き尽くして残ったエキスは何なのか。

昭和史に取り組み始めた頃からどう語りうるか、私のような次世代がためされていると考えていました」

著者は昭和50年代に、山本や米内光政海相の秘書官を務めた実松譲に何度も会い、日本海軍の様子を丹念に聞いた。
「勝つ見込みない」と主張した山本がなぜ奇襲作戦を構想したのか。
矛盾する言動を理解できない著者の問いに対する実松の答えが本書最大の読みどころであり、読者は山本の「苦悩」を知ることになる。
同時にそれは、天皇の軍隊の「腐敗」をも浮かび上がらせてゆく。
彼を通じて昭和の日本の弱さも見えてくる。

商品の説明
内容紹介
意に反して真珠湾攻撃を指揮し、ミッドウェー海戦、絶望的なガダルカナル戦に突き進んだ悲劇の軍人を現代史に新たに刻む。

内容(「BOOK」データベースより)
日米開戦回避の志に反して真珠湾作戦を指揮し、早期講和を念じながらミッドウェー海戦に臨む。撃墜死として美化された死の真実にも迫りながら、「悲劇の提督」の生涯を現代史のなかに刻む画期的な評伝!

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
保阪/正康
1939年、札幌市生まれ。同志社大学文学部社会学科卒業。ノンフィクション作家。評論家。2004年、個人誌「昭和史講座」の刊行により菊池寛賞受賞。2017年、『ナショナリズムの昭和』で和辻哲郎文化賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

 

 

 

桜の下での追憶

2019年04月08日 03時39分11秒 | 日記・断片

取手市内の近隣の桜を見て回る。
徒歩なので、限られた範囲であるが、特に桜の数が多かった取手競輪場の駐車場の桜は10本ほどが切られてしまった。
その跡は、味気のないコンクリートの駐車場に拡張されていた。
新町に住む知人に会う。
愛宕神社の裏側が自宅だそうだ。
歩行が困難な状態なので、「どうしたのですか」と尋ねたら、「糖尿病と脳梗塞」と言う。
歩行を合わせてしばらく歩く。
同じ新町出身の荻野さんのことを思い浮かべた。
今は介護施設に入っている。
元は合同タクシー勤務であり、その後は新町の水戸納豆に勤務していて、競輪場の選手宿舎の食堂に納豆を納入していた。
その水戸納豆が取手から撤退してから、またタクシー運転手となる。
さらに、刑務所から出て来たヤクザの息子に暴行され貯金通帳を奪われたこともあった。
息子から身を隠すために自宅出て、タクシーの同僚とアパート暮らしとなる。
彼と同じタクシー仲間と桜の下で酒を飲んだことも思い出された。

彼とは妻に出ていかれ、幼い二人の息子を育てていたころからの付き合いであった。
皮肉なことにその二人の息子は、ともに暴力団の組織の一員となってしまった。