孝明天皇と岩倉具視

2019年04月26日 18時36分51秒 | 社会・文化・政治・経済

孝明天皇は、父・仁孝天皇の第四皇子です。
上三人の兄宮が生まれてすぐに亡くなっていたため、政治的なアレコレはなく、正式な皇太子になりました。
12歳のときから隠岐出身の儒学者・中沼了三を師に迎えて学んでいます。
そして、15歳のとき仁孝天皇崩御により即位しました。
ときの将軍は十二代・徳川家慶。つまり、既に異国船が日本近海にやってくるようになっていた時期です。そのためか、即位の前からたびたび国内の平穏を祈る儀式を行っていました。
孝明天皇27歳のとき、安政五年(1858年)に日米修好通商条約を締結する勅許を受けるため、幕府から老中・堀田正睦がやってきました。
この頃から孝明天皇も政治に大きく関わることになります。
孝明天皇は一定以上の官位を持つ公家に意見を求めたのですが、はっきりした主張は出てこなかったようです。
孝明天皇自身は「私の代になって異国人に国を汚されるとは、ご先祖様に申し訳ない。末代までの恥にもなろう」と、ときの関白である九条尚忠(ひさただ)への書簡に書いています。
おそらく「西洋人は、はじめは通商を求めてきた後に軍事侵略するケースがほとんどである」ということを聞かされていたのでしょうね。
通商だけなら長崎でオランダや中国相手にずっとしてきているわけですし、それ以前にも渤海国とのお付き合いをしていた時期もありますし。
その後の書簡では「誰が上京してこようと開港は認めないし、京の周辺についてはいうまでもない」と、よりハッキリと記しています。
孝明天皇の信頼が厚いときの太閤・鷹司政通は開国を主張し、受け入れられませんでした。
こうして朝廷の中でも意見がまとまらない中、堀田正睦が上京。朝廷からは、とりあえず「幕府の中で意見をまとめろ。話はそれからだ」(※イメージです)と言ったのですが、正睦は「幕府内部をまとめるために勅許が必要なのです」と食い下がります。
こうなると平行線にしかなりません。

朝廷の中も大混乱で、開国派だった人は反対派になり、その逆になる人もいました。さらに、反対派の公卿88人が朝廷で座り込みを行う(廷臣八十八卿列参事件)という騒ぎが起きます。
続いて、97人の下級貴族たちによって条約撤回を求める書面が朝廷に提出されました。
これが安政五年3月のことです。
しかし、幕府は勅許を得られないまま6月に日米修好通商条約へ調印してしまいます。
これには当然、孝明天皇も朝廷も大激怒。譲位まで考えてたといい、公家たちは「御三家と大老(井伊直弼)を呼んで説明させますので、それまでお待ち下さい」(意訳)と引き止めました。
譲位してどうするつもりだったのか。その辺は不明ですが……このとき明治天皇はまだ6歳ですし、後水尾天皇が紫衣事件などに不満を抱いて譲位した故事にならおうとしたのでしょうか。

これに対し幕府は「大老は忙しいし、御三家は処罰中なんで代わりに老中首座と所司代に行かせます」(意訳)と返事。
その返事が京に届くまでの間に、幕府はロシアやイギリスとも通商条約を結んでしまいました。これじゃ孝明天皇や朝廷がさらに怒るのも無理はないですよね。
孝明天皇は譲位を再び考えるようになり、いわゆる「戊午の密勅」を発しています。
「開国そのものが国の恥であり、認められない」

入れ替わりに老中首座・間部詮勝(まなべ あきかつ)が上京して釈明をします。
孝明天皇は会いませんでしたが、詮勝は「勅許なしに調印したのは幕府としても本意ではなく、海防準備が整うまでの時間稼ぎである」「準備ができたら、改めて和戦のどちらにするかを決める」と言いました。
どちらかというと、これ自体が朝廷への時間稼ぎですけども。

これを伝え聞いた孝明天皇は「開国そのものが国の恥であり、認められない」と書面で伝えます。
このため詮勝は「鎖国に戻す」と口約束をせざるを得ませんでした。孝明天皇はそれで安心したようですが、既にそれができないことはほとんどの人がわかっていたでしょうね。

幕府もそのつもりはなく、開国反対派の公卿を辞めさせたり、出家させたりしています。
孝明天皇はこれにも異を唱えようとしたが、逆らいきれませんでした。

幕府から和宮降嫁が奏請されたのは、この後のことです。
そりゃこんだけナメた言動された上、「おたくの妹さんください^^」とか言われれば誰だって大反対しますよね。しかも本人が乗り気でなかったわけですし。
最終的には和宮の母の実家である橋本家にまで根回しされ、孝明天皇も鎖国再開と譲位実行という条件付きで同意します。
なぜここまで外国との通商を嫌がったのか?

文久三年(1863年)に家茂が上洛してきたときには、念押しに攘夷を命じました。また、自身でも賀茂神社や石清水八幡宮で攘夷を祈願しています。
もっとも、以前から公家の一部に無理やり孝明天皇を行幸させる者がいたため、これも孝明天皇の本意かどうかはわかりませんが……。

煮え切らない態度に業を煮やした諸外国は、慶応元年(1865年)、大坂湾へ船を乗り付け、条約の勅許を求めるようになります。
孝明天皇も情勢を悟って勅許を出すことにしましたが、宮中での西洋医学禁止を命じてもいました。

少し話が前後しますが、孝明天皇の遺品に西洋式の時計があります。つまり、西洋の文物全てが嫌だったわけではないのでしょう。
では、なぜここまで外国との通商を嫌がるのか?
おそらくそれは、皇室特有の価値観によるものだと思われます。

もともと皇室というのは「浄」「不浄」についてとても敏感な社会です。たぶん孝明天皇も「西洋医学では患者の体を切ったり縫ったりすることがあるし、ときには腹を切り開くこともある」ということは聞いていたのでしょう。
となると、「天皇の体に一般人=不浄の可能性が高い者が触れるおそれがある」ということで、嫌ったのではないでしょうか。
外国人が入ってくることを嫌ったのも、国そのものを象徴する立場である孝明天皇からすれば、自らの身体を蹂躙されるように感じたのかもしれません。
薩摩藩あたりがこの辺に気付いて、もうちょっと柔軟に対応すべきだったでしょうね。孝明天皇の先生である了三は薩摩藩にもツテがありましたし。

あるいは出島のように、「外国人の居留・通商は離島に限る」方針だったらもう少し態度を軟化させたかもしれません。薪水給与令(外国船に薪と食料・水は供給するが、それ以外のお付き合いはお断り)と通商条約の間にもうワンクッション置いて、孝明天皇や朝廷を粘り強く説得するとか。
それはそれで西洋諸国との折衝に骨が折れそうですが、本来幕府はそこに力を注ぐべきだったでしょうね。そうしたら、幕府自身の延命にも繋がったかもしれませんし。
大久保や岩倉は孝明天皇と意見を異にし……

孝明天皇は、松平容保への信任が厚かったことからして、武家に対しても全てが嫌いというわけではなかったと思われます。
本当に朝廷や天皇への忠誠心が感じられる人物が折衝役になっていれば、ソフトランディングは充分可能だったでしょう。

しかし、この頃になると孝明天皇の攘夷や公武合体を望む方針に反対する人々が現れ始めました。

大久保利通や岩倉具視は「お上が国内の争いの元である」「天下に対して孝明天皇が謝罪し、信頼を取り戻すべき」とまで主張していた模様。
これこそあべこべというか、天を天とも思わない所業というか……土下座至上主義者っていつの時代にもいるんですね。

さらに慶応二年(1866年)には、追放されていた尊王攘夷派の公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生します。
これも孝明天皇は退けましたが、その年の年末12月25日に35歳という若さで崩御してしまいました。

死因は天然痘ということになっておりますが、あまりにもタイミングがアレなので、暗殺説がいくつか出ています。

病気の進行状況としては、亡くなる2周間ほど前から風邪をひいていて、治りきらないままのまま神事を行って発熱したのがきっかけで発病したといわれています。
宮中の医師が診察や投薬を行っても回復に向かわず、天然痘の疑いが持たれ、改めて天然痘の診察経験がある医師が呼ばれました。
それから医師15人による24時間体制で診察が続いたのですが、12月25日に痰がひどくなり、その日の午後11時頃亡くなったということになっています。
この間、公的な記録では一時回復の兆しがあったように書かれていることから、毒殺説がささやかれはじめました。
孝明天皇は基本的に身体頑健で、風邪もほとんどひかなかったといいます。
そのため公家の中には「風邪の心配もないほど健康でいらしたのに、痘瘡と聞いて驚いた」と日記に書いている人もいて、当時から不審に思われていたのです。
毒殺説は下火となるも、どこから天然痘に感染したのだろう

孝明天皇の真の死因は一体何なのか?
そんなミステリーも、明治時代に入ると皇室に疑問を抱くことがタブー視されるようになり、近い時代には事実の究明が行われませんでした。

解明に重きを置くのなら、これはあまりにも手痛いことです。現代の事件だって、時間が経てば経つほど証拠や証言は取りにくくなりますよね。

戦後に皇室に対する“聖域”が少し薄れ、学者先生方の間で孝明天皇の死因が議論されるようになりました。
ヒ素による毒殺説はその中でも支持者が多かった説です。
実行犯候補としては、岩倉具視が筆頭でした。
まあ、確かに倒幕派の中にちらほら孝明天皇や皇室への経緯が見えない・薄い人物がいますからね……。
その後、12月20日以降に医師たちから典侍=孝明天皇の側室である中山慶子(明治天皇の母)へ「数日中が山場である」という説明をしていた書簡が見つかりました。
また、慶子宛の書簡に公的記録と違った容態が記載されていることも判明します。
つまり、公的な記録のほうは表向きに発表する内容を記したもので、実際は違ったということになるわけです。
これにより毒殺説は下火になりました。
ただし「基本的に宮中から出ない孝明天皇が、どこから天然痘に感染したのか」という謎は残ります。
この時期、宮中や京都で他に感染・発症者はいたんですかね?
実は、父の仁孝天皇も「皇族や公家のための教育機関(学習院)」を設置することが決まった直後に不自然な急死をしています。

 


下級公家からナンバーツーへ岩倉 具視

2019年04月26日 18時15分28秒 | 社会・文化・政治・経済

岩倉 具視(いわくら ともみ、文政8年9月15日(1825年10月26日) - 明治16年(1883年)7月20日)は、日本の公家、政治家。維新の十傑の1人。

・玄孫 俳優・歌手加山雄三

公卿・堀河康親の次男として京都に生誕。幼名は周丸(かねまる)であったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っていたため、公家の子女達の間では「岩吉」と呼ばれた。

朝廷儒学者・伏原宣明に入門。
伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、岩倉家への養子縁組を推薦したという。
天保9年(1838年)8月8日、岩倉具慶の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。10月28日叙爵し、12月11日に元服して昇殿を許された。

翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。
嘉永6年(1853年)1月に関白・鷹司政通へ歌道入門するが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。
朝廷改革の意見書を政通に提出し、積立金を学習院の拡大・改革に用い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。
公家社会は身分が厳しく、家格のみで官位の昇進まで固定されていた。大多数の下級公家は朝議に出席できる可能性も薄かった。
聴取した鷹司は意見書に首肯したものの、即答は避けたとされる。


八十八卿列参事件
安政5年(1858年)1月、老中・堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るため上京。
関白・九条尚忠は勅許を与えるべきと主張したが、これに対して多くの公卿・公家から批判をされた。
岩倉も条約調印に反対の立場であり、大原重徳とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議した。
九条尚忠は病と称して参内を辞退した。
しかし、岩倉は九条邸を訪問して面会を申し込んだものの、同家の家臣たちは病を理由に拒否したが、面会できるまで動かなかった岩倉に対し、九条は明日返答する旨を岩倉に伝えた。
岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたという(いわゆる「廷臣八十八卿列参事件」)。
3月20日、堀田正睦は小御所に呼ばれて孝明天皇に拝謁したが、そのとき天皇は口頭で「後患が測りがたいと群臣が主張しているので三家・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝える。
群臣とは岩倉ら反対派公卿のことで、岩倉らの反対によって勅許は与えられなかった。
岩倉による初めての政治運動であり、勝利であった。
列参から2日後の3月14日、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出している。
その内容は、日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)
条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策
などを記している。
しかし一方で単純攘夷は否定し、相手国の形成風習産物を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する。
米国は将来的には同盟国になる可能性がある。
国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき。
として、そのため仙台藩や薩摩藩などの外様雄藩と組んで幕府と対決する事態になってはならないとしている。
この時点では薩摩藩への期待がほとんど見られなかったことがわかる。
和宮降嫁
安政7年(1860年)3月3日に桜田門外の変で井伊直弼が暗殺された後、安政の大獄は収束して公武合体派が幕府内で盛り返した。
4月12日には四老中連署で皇妹・和宮の将軍・徳川家茂への降嫁を希望する書簡が京都所司代より九条尚忠に提出された。
孝明天皇はすでに有栖川宮熾仁親王に輿入れが決定済みであるとして拒否し、和宮自身も条約破棄を暗に求める返事をした。
岩倉の意見書でも知名度の高い『和宮御降嫁に関する上申書』はこのときに天皇に提出された。内容は、天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものである。
この中で岩倉は、今回の降嫁を幕府が持ち掛けてきたのは、自らの権威が地に落ちて人心が離れていることを幕府が認識しているからであり、朝廷の威光によって幕府が自らの権威を粉飾する狙いがある、と分析し、皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わねばならないが、この収復は急いではならない。
急げば内乱となる。
今は「公武一和」を天下に示すべき。
政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきである。
朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。
今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき。と結論した。
孝明天皇は6月20日に条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を九条尚忠を通じて京都所司代に伝えた。
幕府としてはもはや和宮降嫁ぐらいしか打開策が無い手詰まり状態だったため、無茶だと知りつつ、ついに7月4日、四老中連署により「7年から10年以内に外交交渉・場合によっては武力をもって破約攘夷を決行する」と確約するにいたった。
文久元年(1861年)10月20日、和宮は桂御所を出て江戸へ下向し、岩倉もこれに随行することとなった。
東久世通禧の回顧録によると岩倉が和宮下向の支度を万事手配したという。
また出発前には孝明天皇が随行する岩倉と千種有文を小座敷に呼び出して勅書を与え、老中にこの書状の中のことを問いただすよう命じた。
すなわち岩倉は単なる随行員ではなく勅使として江戸へ下向することとなった。
下級公家の岩倉が軽んじられず老中と対等に議論できるようにとの天皇の配慮であったという。
11月26日、岩倉は江戸城で久世広周や安藤信正といった老中と面会。
ここで岩倉は孝明天皇の勅書の質問はもちろん、それとは別に幕府が和宮を利用して廃帝を企んでいるという江戸市中の噂の真偽を問うている。
老中らは下々の捏造であると回答したが、そのような噂が市中で立ったこと自体不徳として陳謝し、老中連署の書状で二度とないことを誓うと答えた。
しかし岩倉は譲らず、誓書を出すなら将軍・家茂の直筆で提出せよと命じた。
家康以来、将軍が誓書を書かされるなどということは無かったのでさすがに老中たちはその場での即答を避けたが、結局3日後に将軍・家茂が誓書を書くことが岩倉に伝えられた。もちろん岩倉としても意味もなくこのような言いがかりをつけていたわけではなく、朝廷権力の高揚のためであった。
家茂が岩倉に提出した誓書は以下の通り。
先年来、度々容易ならざる讒説、叡言に達し、今後御譲位など重き内勅の趣、老中より具に承り驚愕せしめ候、家茂をはじめ諸臣に至迄、決して右様の心底無之条、叡慮を安めらるべく候、委細は老中より千種・岩倉え可申入候、誠惶謹言  十二月十三日 家茂 謹上
12月25日、孝明天皇が天然痘により崩御。政治混乱期の突然の崩御であったためこの崩御には古くから毒殺説があり、岩倉が容疑者として疑われたが、俗説の域を出ていない[注釈 。


遺族「いじめの事実関係が未解明」

2019年04月26日 17時29分08秒 | 社会・文化・政治・経済

 兵庫宝塚・中2自殺 経緯や背景を再調査へ

4/26(金) 神戸新聞

兵庫県宝塚市で2016年12月、市立中学2年の女子生徒=当時(14)=が飛び降り自殺した問題で、中川智子市長は26日、自殺に至った経緯や背景を再調査する方針を明らかにした。

市教委による第三者委員会が非公表でいじめを認定する報告書をまとめているが、遺族は「いじめなどに関する事実関係が未解明で不十分」などとして再調査を求めており、新たな組織で調査する考えを示した。

弁護士や臨床心理士、大学教授らで構成した第三者委(元会長=石田真美弁護士)は16年12月から約1年6カ月かけて18年7月に報告書をまとめた。

その後の報道などで、女子生徒が仲間に入ろうとすると「ストーカー」と呼ばれたり、部活動で仲間はずれにされたりした行為がいじめに当たると認定していたことが明らかになった。

 さらに、第三者委が報告書をいったん市教委に提出した後、遺族への説明を経て同年10月1日付で内容を一部改訂していたことも判明。

心理学的な仮説を含む考察の相当部分を削除し、「いじめ行為以外には、特に自死に結びつくような事柄は見当たらなかった」と追記したという。

 この日会見した森恵実子教育長は「命を守ることができず、おわび申し上げる」と謝罪。

報告書を非公表とする理由は「公表の範囲などで遺族と合意に至らず、総合的に勘案した」と説明した。会見後に遺族が再調査を希望する「所見」の書類とともに報告書を中川智子市長に提出した。

 取材に応じた中川市長は「遺族が納得されるところまで、真摯に調査をしたい。スピーディに進めていきたい」と語った。

 第三者委の報告書を巡っては、兵庫県内で一昨年12月以降、加古川市、多可町、尼崎市が内容を公表している。(中島摩子、大盛周平)

 

主犯少年、報道された「凶悪性」の裏に「弱さ」 

2019年04月26日 13時45分38秒 | 社会・文化・政治・経済

平成の事件 川崎中1殺害事件が問う少年法
4/26(金) 神奈川新聞
面前の実像と、伝え聞いていた犯人像に、臨床心理士の須藤明さん(60)は大きな乖離(かいり)を見ていた。2015年8月、横浜拘置支所の面会室。男子生徒を殺害した主犯少年の情状鑑定を弁護人から引き受け、アクリル板越しに向き合った。

 カッターナイフで執拗(しつよう)に切りつけた少年の攻撃性が連日、報道されていた。妻に「大丈夫なの?」と身を案じられた。

 「かたくなだな」。少年の印象はむしろ、「防衛的」だった。生い立ちや内心に質問を向けると、はっきりと返答を拒まれた。4カ月で、計9回12時間に及んだ面会。大人に対する不信感と、極めて狭い人間関係で形づくられた虚勢が浮かんだ。そこにあったのは、「弱さ」だった。

 行きつけの中華料理店の隅でひとり、キュウリのあえ物をつまみながら瓶ビールをあおる。地元の先輩が現れると、ばつが悪そうに肩をすぼめた。小中学校で2学年先輩だった男性2人は、少年の性格は「卑屈」なものだったと口をそろえる。「不良になりきれないから、そのまね事をしていた」

 母親はフィリピン出身。その出自から、いわれなき中傷を受けた。父親からしつけの延長で殴られ、強い者に屈服した。そうした幼少からの劣等感と屈辱が、逆恨みから暴力と化し、年少の男子生徒に転嫁されたと、須藤さんは読み取った。16年2月の横浜地裁判決は、この鑑定内容をおおむね酌み取り、殺意の形成に成育環境に由来した「年齢不相応な未熟さ」が影響していると結論づけた。
「凶悪化」になびいた世論、少年法に矛先
 「少年事件が非常に凶悪化している」。事件から7日後、少年3人が殺人容疑で神奈川県警に逮捕されると、自民党の稲田朋美政調会長が言い放った。矛先は、少年法に向けられた。「犯罪を予防する観点から、少年法が今の在り方でいいのか課題になる」。厳罰化を望む世論は、一挙に高まった。

 その3カ月後、自民党の特命委員会が事件現場を視察した。今津寛委員長は「できるだけ早く結論を出したい」と少年法の見直しに勇み足だった。「凶悪犯罪については、少年法は必要がないのではないでしょうか」。男子生徒の父親の問題提起が続いた。

【平成の事件】主犯少年、報道された「凶悪性」の裏に「弱さ」 川崎中1殺害事件が問う少年法
八田次郎さんは「川崎中1殺害事件の報道はセンセーショナルだった」と振り返る=2019年2月10日、神奈川県小田原市
 事件半年後に内閣府が実施したアンケート調査によると、少年の重大事件が「増えている」と答えた割合は8割近くに達し、5年前の調査より微増していた。「増えている」と感じる少年事件については、半数近くが「凶悪・粗暴化したもの」と答えた。

 反して統計上は真逆に推移していた。犯罪白書によると、少年事件は10年前の3分の1ほどに減少し、殺人のような凶悪事件も半減した。民意との落差はなぜ生じたのか。「メディアの影響が大きい」と、元小田原少年院長の八田次郎さん(74)=名古屋市=は指摘する。

 日増しに過熱する報道は、遼太さんを全裸で真冬の多摩川を泳がせ、トイレで衣服を燃やして証拠の隠滅を図った経過を次々と明らかにしていった。一方、後の公判で認定されない誤報まがいの見立ても飛び交う。「複数の刃物を使用か」「結束バンドで拘束し殺害か」「草むらに遺棄し発見回避か」といったように。

 八田さんは問う。「報道合戦の結果、事実以上の凶悪な犯人像が形づくられた。メディアは知らぬ間に社会不安をあおっていなかったか」

 17年2月、金田勝年法相は、少年法の適用年齢を18歳未満に引き下げるか否か、法制審議会に諮問した。16年6月に選挙権年齢を18歳以上に引き下げる改正公職選挙法が施行され、18年6月に18歳を成人とする改正民法が成立した。少年法の見直しは、この潮流を汲む。須藤さんは「法の趣旨がまるで違う。年齢を合わせる必然性はどこにもない」といぶかる。


「象徴天皇」の在り方 求め続けられて…

2019年04月26日 13時21分05秒 | 社会・文化・政治・経済

2019年2月27日 NHK

天皇陛下は、今の憲法のもとで初めて即位し、以来、象徴として望ましい天皇の在り方を求め続けられてきました。

平成元年の即位にあたっての記者会見では、「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたい」としたうえで、「現代にふさわしい皇室の在り方を求めていきたい」と述べられました。

平成3年、長崎の雲仙・普賢岳の噴火災害では、そうした天皇陛下の考えが目に見える形で示されました。皇后さまと共に被災地を訪れ、避難所の板張りの床にひざをついて、被災者一人一人に同じ目の高さで話しかけられたのです。

その後も、阪神・淡路大震災や東日本大震災など、大規模な災害が起きるたびに被災地を訪れ、被災した人たちに心を寄せられてきました。また、障害者や高齢者の施設を訪れるなど、社会で弱い立場にある人たちに寄り添われてきました。

こうした活動について、天皇陛下は、平成11年、即位10年に際しての記者会見で、「障害者や高齢者、災害を受けた人々、あるいは社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことは、私どもの大切な務めである」と述べられました。

そして、のちに、「天皇の務めには日本国憲法によって定められた国事行為のほかに、天皇の象徴という立場から見て、公的に関わることがふさわしいと考えられる象徴的な行為という務めがあると考えられます」と話されました。

こうした務めについて、天皇陛下は「戦後に始められたものが多く、平成になってから始められたものも少なくありません。

社会が変化している今日、新たな社会の要請に応えていくことは大切なことと考えています」と述べられていました。天皇陛下は「昔に比べ、公務の量が非常に増加していることは事実です」としながらも、「国と国民のために尽くすことが天皇の務めである」として、数多くの公務を一つ一つ大切に務められてきました。

天皇陛下の活動

天皇陛下の活動について、過去の政府は、憲法で定められた「国事行為」と、象徴としての立場に基づく「公的行為」、「その他の行為」の大きく3つに分けられるという見解を示してきました。

このうち、天皇の「国事行為」には、内閣総理大臣の任命や法律などの公布、国会の召集、それに、勲章の授与などがあります。

また、皇居・宮殿で数多くの儀式に臨むほか、政府から送られてくる年間およそ1000件に及ぶ書類に署名や押印をされているということです。

数十件の書類に目を通さなければならない日もあり、夕食後の時間帯や休日を使って執務にあたられることもあります。

一方、象徴としての立場に基づく「公的行為」には、国会の開会式でのお言葉や被災地のお見舞い、外国公式訪問、それに、全国規模の式典や行事への出席などが挙げられています。

そして、これらの活動を除く宮中祭祀などは、「国事行為」と「公的行為」のいずれにもあたらない「その他の行為」に分類されています。

天皇陛下の公務は、昭和天皇の時代と比べ大幅に増えていて、去年1年間の都内や地方へのお出かけは75回に上り、各界の功労者との拝謁など宮殿やお住まいで人と会われる公務も270回余りを数えました。


システムとしての天皇制

2019年04月26日 12時29分45秒 | 社会・文化・政治・経済

天皇の代替わりは、日本憲法、あるいは国民主権と天皇制との関係をみつめる好機となっている。
論議すべきは元号あるいは天皇個人などではなく、システムとしての天皇制でなけれならない。
重要な問題は、平成期の象徴天皇制が、過剰なまでに血統主義的な身分制を基盤としつつ、憲法の範囲をも超えて皇室の政治性を再構築してきた点にある。
明仁天皇は旧平民女性との恋愛結婚などを通し、大衆的皇室像を作り上げてた。
皇位継承は男系男子に限られ、家父長制と家(イエ)制度は今も皇室の基盤だ。
近代天皇制は、まず皇位から女性を排除し、敗戦後の旧宮家の皇籍離脱を経て、血統主義的身分制を「純化」させた。
「象徴」としての天皇の役割は、今上天皇個人の努力や才覚によって果たされてきた。
一方で明仁天皇は、各地に行幸を重ねてマイノリティーや被災者に同じ目の高さで語りかけるという、新たな象徴天皇のスタイルを作り、左派の一部からも「民主主義の擁護者」と見られるようになった。
最後には「お言葉」譲位(退位)法制化を促すという高度な「政治」を行った。
皇室の身分制と政治性は、明らかに再強化された。
そして将来的な女性・女系の皇位継承も、この流れの上に制度化される可能性がある。

 


戦前から揺れ動いてきた近代天皇制

2019年04月26日 12時23分39秒 | 社会・文化・政治・経済

「おことば」が突きつけた象徴の意味

河西秀哉 神戸女学院大学准教授(歴史学)
2016年11月14日
8月8日に発表された「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」は、「生前退位」の意思表明という意味合いだけではなく、象徴天皇とは何なのかという問題を国民に突きつけたと思われる。このなかで天皇は、「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」と述べている。「象徴としての模索」。

これは、これまでも繰り返し天皇が述べてきた文言である。象徴とは何であるのか。

この問いは、日本国憲法が制定されたときに明確に定義されなかった。その後も、きちんとした議論がなされ、明確な答えが出されたわけではない。私たちは、「象徴」という存在を自らの期待感を込めて何となくイメージしてきた。

その際、マスメディアが大きな役割を果たしたことも事実である。そこで伝えられたイメージを人々は受容してきた。

本稿では、そのような象徴をめぐる歴史的状況を論じ、象徴天皇制という制度について、私たちが今後考えるための手がかりを示していきたい。
矛盾した規定を共存させた明治憲法の天皇像

 この問題を考える上では、実は前史も重要である。まず戦前の天皇制から話を始めよう。

私たちは、近代天皇制が絶対主義的であり、人々を「抑圧」する体制であったとするイメージを有してはいないだろうか。もちろん、そうした側面があったことは否定できない。教育勅語や軍人勅諭に代表されるように、天皇制の絶対性が強調され、戦前の人々の意識を拘束したことは事実である。

また、「国体」イデオロギーに国内が覆われ、無謀な戦争に突き進んでいったことも歴史が証明しているだろう。しかし、近代天皇制自体も非常に揺れ幅の大きいシステムで、状況によって様々な変化を遂げていた。

なぜならば、大日本帝国憲法自体が天皇の性格について矛盾を持った規定を共存させていたからである。

 第1条~第3条では、天皇は「万世一系」で「神聖」にして「侵スヘカラス」として、絶対的な存在と位置づけられた。

教育勅語や国家神道などの近代天皇制イデオロギーは、こうした条文から派生して成り立っていたと言ってもよい。そして、前述のような私たちのイメージはこれらの条文に起因している。

こうした規定は、古代の権威を錦の御旗にして江戸幕府打倒を成功させた明治維新のイデオロギーを条文化したものであった。

それまでの支配秩序であった幕府を倒すためには、より正統的な権威が必要となる。そこで薩摩や長州は古代以来の天皇の絶対性を持ち出し、それが明治政府の正統性になった。

つまり、天皇の権威を確立して絶対性を強調することで、近代国家としての支配秩序を形成しようとする意図があったと言える。

また、他の国家よりも優位に立つためにも、「伝統」を創出して自らの「古さ」を強調する必要があった。それが日本の場合、「伝統」に基づく天皇の絶対性の強調へと繋がっていく(高木博志『近代天皇制と古都』岩波書店、2006年など)。

 しかし一方で、天皇をそうした絶対的存在だけにもしていられなかった。西洋との接触が本格化し、近代社会に仲間入りをした日本は、西洋の国民国家システムのルールに従う必要があった。

そのため国内法や政治体制を急ピッチで整備しなければならず、大日本帝国憲法もその産物の一つであったと言える。その際、君主制も西洋国民国家との互換性を持って構築されなければならなかった。それゆえ、法の規定が重要視され、大日本帝国憲法第4条に「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」と規定されたのである。

それは、君主の恣意(しい)性を排除して、天皇も「機関」として憲法の規定に従うことを意味していた。それこそが西洋国民国家の政治制度そのものであり、そこへ日本が参入するためには必要な条文だったのである。

 こうして、大日本帝国憲法には天皇に関して、絶対的な条文と機関的な条文とが同居をすることになった(飛鳥井雅道『日本近代精神史の研究』京都大学学術出版会、2002年、第三部など)。そして近代天皇制は、この両者の間で、時期によって様々に揺れ動くことになる。
第1次大戦とデモクラシーの潮流 大正期に天皇制は再構築

 第1次世界大戦中からその戦後にかけて、ドイツ、オーストリア、ロシアの王室は相次いで崩壊し、世界的な君主制危機の時代へと至った。これは日本の天皇制に対しても危機感を与えていく。また、世界的な潮流となっていたデモクラシーが日本へと移入し、それに対応した天皇制への再構築が迫られた。同時期、大正天皇が病気によって最終的な統治権の総攬者としての権威を保てないなかで、君主制の危機という状況はより切実かつ緊迫した問題として捉えられた。そして天皇制が再編され、天皇の「機関」化はより進行し、政党内閣の首相が実質的な最高決定者となっていく。つまり、帝国憲法の第4条の方向に重心が置かれるようになったのである。これは、実質的な天皇の「象徴」化であった。「元首」であっても、天皇は基本的には政党内閣の政策を追認してそれに対して権威を持たせる役目にしかすぎず、内閣の政策に反対することは現実的にはなかった。この方向性をマスメディアは歓迎して報道した(河西秀哉「天皇制と現代化」『日本史研究』第582号、2011年など)。こうした大正期天皇制の記憶が、後述するように敗戦後に日本側で呼び起こされ、「象徴」と「元首」の境界が曖昧(あいまい)なまま捉えられていく要因になる。

 しかし大正期のこのシステムも、敗戦まで継続はしなかった。次第に国体イデオロギーが肥大化し、軍事的行動が引き起こされるなかで、天皇の「大元帥」イメージが拡大する。

その結果、天皇の性格も帝国憲法第1条~第3条の方向へと振れ、絶対性を有する存在として捉えられていく。それゆえに第4条の機関的な「元首」という規定すらも、そうした絶対的なイメージで捉えられ、その後人々の記憶に残存したのである。

後述するように1950年代に日本国憲法の改正が焦点になった時、「元首」という文言が人々から拒絶された背景には、この時期の動向があったからだろう。
敗戦後の憲法改正 象徴は明確化されず

 そして、アジア・太平洋戦争の敗戦を迎える。連合国は、日本がこれ以後再び戦争を引き起こさないように、軍国主義の除去を最重要課題としていた。

そのため占領軍(GHQ)は、日本の「民主化」を徹底的に進めていく。その目玉とも言える政策が、大日本帝国憲法の改正であった。

当然、日本側もそれが言い渡されることはわかっていた。それゆえ、敗戦直後からGHQの要求に先取りする形で「自主的」に憲法を改正する動きを進めていく(河西秀哉『「象徴天皇」の戦後史』講談社選書メチエ、2010年など)。

日本側が当初想定していた憲法改正案は、天皇を「至尊」と位置づけ、大日本帝国憲法の第4条の方向性をより明確にするものだったと言える。つまり大正期天皇制を明文化するもので、その程度「民主化」すれば連合国も納得し、天皇制も維持できると考えたのである。

 しかしGHQはそれを認めなかった。戦争責任を厳しく追及しようとする国際世論にそれでは対応できないと考えたからである。

1946年2月、GHQの最高司令官であったダグラス・マッカーサーは「天皇は、国家の最上位である。The Emperor is at the head of the state.」とする「マッカーサー三原則」を指示し、憲法改正の指針とした。

大日本帝国憲法との変化を内外に示さなければならなかったマッカーサーは、おそらく実質は「象徴」化された「元首」の意味合いで指令したのではないだろうか。

そしてGHQ独自に草案を作成し、それが日本国憲法の原案ともなった。こうして第1条において天皇は「象徴」と規定される。

 とはいえ、「象徴」はGHQが独自に生み出したものではなく、多くの事例を参考にしていた。例えば、憲法改正に向けて日本国内の民間のなかで作成された草案の一つに、天皇を儀礼的な性格にとどめる議論が展開されており、新たな天皇像が模索されていた。

また、社会党の加藤勘十なども「象徴」の言葉を使用して天皇の性格を説明するなど、日本国憲法の水脈は日本側にたしかに存在していた(古関彰一『新憲法の誕生』中央公論社、1989年)。これも戦前に実質的に「象徴」化された天皇の経験があったがゆえだろう。こうした議論をGHQは把握し、憲法草案へと結実していった。

 GHQ側でも、戦前に駐日大使を務めた知日派のジョセフ・グルーの周辺が、すでに戦時中の1942年ごろから天皇の性格を「象徴」と認識して、その言葉をたびたび使用していた。

また、マッカーサーの秘書であったボナー・フェラーズは、1945年10月にマッカーサーに提出した文書のなかで、日本国民は今後、「象徴的元首としての天皇を選ぶだろう」と述べている。フェラーズはすでに戦前から日本研究を行っており、アメリカ国内の知日派と呼ばれる人々は、その時から天皇の性格を「象徴」的なものと認識していたのである(中村政則『象徴天皇制への道』岩波新書、1989年)。

ここでフェラーズが言う「象徴的元首」こそ、大正期天皇制の姿であったと考えられる。その意味では、GHQ側も日本側の当初の憲法改正案と同じような天皇制認識を有していたと言える。

両者の違いは、微温的な改正に見える案では国際世論を納得させることができず天皇制という制度存続自体が危ういゆえ、より「民主化」したことを示すような改正こそが望ましいと考えていたことではないか。

 GHQ草案をベースにした日本国憲法草案がその後、国会に提出され、審議された。日本政府側は「象徴」と規定された天皇について、その具体的内容をできるだけ曖昧な形で定義づけようとした。その意図は、戦前と戦後の「国体」が変化していないことを示すものだったと思われる。

つまり政府は、「象徴」という文言に天皇の位置づけが変化したとしても、その内実は大正期天皇制のようなものにしようとしていたのである。

 しかしそれを明言してしまっては、GHQや国際世論から批判を浴びる可能性がある。だからこそ、その定義に関してはできるだけ曖昧な答弁を繰り返し、制定まで持ち込んだ。

それによって、「象徴」に明確な定義が与えられないままに、日本国憲法は成立し施行されることとなった。
メディアは巡幸を民主化の事例として報道

 では、日本国憲法によって天皇が「象徴」と位置づけられたことで人々の意識はどのようになったのだろうか。それは、転換した部分もあったが、戦前から継続した意識も存在したと思われる。これまで繰り返してきたように、日本政府はできるだけ戦前との断絶を曖昧にするよう試みてきた。

しかし一方で、文言は「象徴」へと変化しており、その印象は強かった。そうした要素が複雑に絡み合いながら最終的に日本国憲法へと帰結したため、その解釈は多義性を含んでいく。

 まず転換した部分から見てみよう。日本国憲法制定より前となるが、1946年1月、いわゆる「人間宣言」が発表された。GHQは当初、神格化否定のためにこれを天皇から発表させ、「民主化」をアピールしようとする意図を持っていた。

しかし天皇は冒頭に「五箇条の御誓文」の挿入を強く望み、結局それが叶えられる。天皇の意図は、民主主義は占領によって与えられたのではなく、明治の世からあったということを示そうとするものであった。こうして「人間宣言」の意図も曖昧化していく(河西前掲『「象徴天皇」の戦後史』)。それもあってか、当初の報道ではこの名称は使用されず、あくまで「新日本建設に関する詔書」であった。


書かないことの罪

2019年04月26日 12時10分27秒 | 社会・文化・政治・経済

ノンフィクション作家 石井妙子さん

外国人労働者の受け入れ問題

「外国人技能実習制度」の実態。
長時間労働、賃金の未払い、日常的な暴力、危険を伴う仕事の強制。
2017年までの3年間だけで、凍死、溺死、自殺など69人もの死者が出ているという。
日本に夢と希望を抱いてやってきた発展途上国の若者たちの無残な死を知り、私は衝撃を受けた。
国会審議に連動して、メディアも実習生の過酷な現実を取り上げるようになっていったが、私が報道に期待しつつも、同時に違和感を覚えた。
メディアに「自分に何ができるかの」という意識が欠落していると感じたからだ。
今となっては、せめて、起きてしまった69人の死がどのようなものだったのか、一人残らず調べあげるというな調査報道をすべきではないのか。
組織力のある大手メディアにしかやれないことである。
取り上げるべき問題を自らみつけ、気概を持って取り組む。
世論を動かし、国会を揺るがすには調査報道によってつかんだ事実を突きつけるしかないのだ。
「書かないことの罪」を自覚し、内省する姿勢が大切だ。


竜神峡鯉のぼりまつり

2019年04月26日 08時07分25秒 | 社会・文化・政治・経済

およそ1,000匹の鯉のぼりが竜神峡一帯を壮大に泳ぐ

 豊かな渓谷が織りなす美しい景観に触れる

 『鯉のぼりまつり2019』の画像

 期間

 2019年4月27日(土曜日)から

2019年5月12日(日曜日)まで

会場

竜神大吊橋周辺
メイン会場 竜神大吊橋第1駐車場(物産センター前)

期間中

1)竜神ダム上空を、県内外から贈られた鯉のぼりが群泳します。

2)大中小の鯉のぼり約1000匹が、第一駐車場、竜っちゃんの湯や水府竜の里公園などで泳ぎます。

物産市

 地域の特産物や山菜を展示即売。

 『鯉のぼりまつり』の画像


※5月5日のこどもの日には、小中学生の大吊橋の渡橋料が
無料になりますので、こちらもお見逃しなく。

『鯉のぼりまつり4』の画像

『鯉のぼりまつり3』の画像

『鯉のぼりまつり2』の画像

 毎年、4月下旬から5月中旬にかけて開催されている「竜神峡鯉のぼりまつり」。

まばゆいばかりの新緑の中、およそ1,000匹の鯉のぼりが竜神大吊橋を中心とした竜神峡一帯を壮大に泳ぎます。

会場では春の味覚の山菜と野菜を置く物産市や豪華賞品が当たるクイズといったさまざまなイベントが行われ、多くの人でにぎわいます。

地区 金砂郷地区
開催時期 4月下旬~5月中旬
開催場所 竜神大吊橋
常陸太田市天下野町2133-6
TEL 0294-85-1116(観光振興課(水府)



透析中止は死への誘導

2019年04月26日 07時48分28秒 | 医科・歯科・介護

透析中止 市民団体が公立福生病院に「死への誘導」中止を要請

毎日新聞 2019年4月24日

公立福生病院(東京都福生市)の人工透析治療を巡る問題で、精神障害者らでつくる市民団体「地域でくらすための東京ネットワーク」(西澤光治代表)は24日、「患者を死に誘導するのをやめる」よう求める松山健院長宛ての要請書を病院側に手渡した。
女性(当時44歳)は自殺願望のある抑うつ性神経症と診断されていたが、この点を病院が見落としたことが東京都の調査で判明した。

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人工透析中止/死への誘導ではないのか
社説 神戸新聞
 東京都の公立福生(ふっさ)病院で昨年8月、医師に人工透析中止を選択肢として示された腎臓病患者がこれを選び、約1週間後に死亡したことが明らかになった。

 治療を選ぶ権利が患者にあることは認められている。しかし透析をやめれば死に至るのは明白だ。それを医師が示せば、患者に対する死への誘導と受け止められても仕方ない。

 都は病院への立ち入りを行った。日本透析医学会も近く調査に入る見通しだ。

 医師の行為や動機を解明するとともに、病院がどのように対応していたのかなど、真相を徹底的に解明せねばならない。

 関係者によると患者は40代の女性で、紹介されて訪れた公立福生病院で治療方針を相談した際、医師から治療継続とともに、透析治療をやめる選択肢を示された。

 治療中止のリスクの説明も受け、話し合いの結果、透析を受けない意思確認書に署名した。その後容体が悪化し、死亡したという。

 学会のガイドラインは、終末期に限り、十分な説明の上で患者が望めば透析中止を検討することもありうるとしている。

 だが、女性は終末期には該当しなかったとみられる。治療を続ければ、生き続けられた可能性が高かったという。中止の意思を示した後に、透析再開を求めていたとの証言もある。

 事実とすれば、この医師はガイドラインを踏み越えたにとどまらず、法に触れる可能性がある。断じて許されない。

 この公立福生病院では2013年以降、約20人の腎臓病患者が透析治療を選択せず、全員が死亡していたとの情報も出てきている。

 今回の患者にとどまらず、過去にさかのぼって診断履歴などを調べる必要がある。

 生命維持治療を続けるか否かなど、医療の現場では倫理的な判断を問われる例が山積する。医師や患者、家族といった当事者間で話し合うケースが大半だが、そこで医師が自らの考え方を強く提示すれば、多くの患者は従わざるを得ないだろう。

 医師の判断は適切か。患者の利益にかなうか。第三者の視点でチェックする仕組みも考えるべきではないか。


脳深部刺激療法(DBS)

2019年04月26日 06時59分17秒 | 医科・歯科・介護

 パーキンソン病の治療を長く受けておられる方の中に,運動症状の日内変動や,お薬が増えてしまい,それ以上の増量が困難な方がいらっしゃいます.
現在,パーキンソン病の治療方法は薬物治療が原則ですが,このような理由で,薬物治療による症状のコントロールが難しい方もおられます.
このような方たちに対して,最近注目されている治療法に脳深部刺激療法という物があります.

この治療法は,1990年代から海外ではじまり,日本でも2000年ころから行われるようになり,これまでに3000人以上の方が国内でもこの治療を受けておられます.
脳の深いところに電極となる細い針を植え込み,胸部にパルスジェネレーターと呼ばれる,小型の刺激電源を埋め込み,両者をリード線でつないで,電極を通して,脳の奥深くに電流を持続的に流し,薬物治療でコントロール困難な症状の軽減を図るものです.
脳深部刺激療法の研究や治療
順天堂大学脳神経内科では2006年よりこの治療方法を行っています.
2008年末の時点で,28例の方が受けられておられます.
パーキンソン病では内服薬治療が原則ですので,手術を受けられた方でもその後,内服薬や電気刺激の調整が必要になります.その両方の調整を脳神経内科で行っております.
詳しくは外来主治医もしくは,専門外来(下:毎週火曜日午前,午後)でお尋ねください.
どんな方に効果があるのですか?
L-dopa製剤がよく効くにもかかわらず、ウェアリングオフやジスキネジアがでてしまって困っている方や、幻覚、吐き気などのお薬の副作用が強くでてしまいお薬が十分に増やせない方に有効です。
つまり、DBSによってオフの状態(お薬が切れた時の症状)を持続的に持ち上げ、お薬を減量することにより、ジスキネジアを減らすことが期待できます。
ただし、L-dopa製剤が効かない症状には効果は期待できず、オンの状態(お薬が最も効いているときの良い状態)を上回る効果はありませんので、神経内科医の評価が必要です。
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DBSとはどのような治療?
DBSはDeep Brain Stimulationの略で、日本語では脳深部刺激療法と言います。

DBS療法で使用する医療機器は以下の植込み型の装置で構成されています。

リードは脳深部のターゲットに挿入する刺激電極で、先端に4つの刺激電極が付いています。
このリードと、通常は前胸部の皮下に植込まれる神経刺激装置の間を、皮下を通した延長用ケーブルで結びます。従来の凝固手術では、脳深部にある過剰に活動している神経核を破壊することで症状を改善していましたが、DBSでは破壊する代わりに電気で高頻度刺激を行い、目標とする神経核の細胞活動を抑制します。

パーキンソン病に対するDBS治療は約25年以上の歴史があり、世界中で135,000人以上の患者さんがこの治療を受けています(2016年6月現在)。
日本では2000年4月に保険適用となりました。
治療の流れを簡単に説明します。
① 治療の相談・治療方法の選択
この治療や植込み手術の方法、植込み後のことについて医師からよく説明をお聞きください。薬物療法も患者さんごとに合うお薬が異なるように、手術療法も合う患者さんと合わない患者さんがいます。また、治療のターゲットを脳内のどの部位にするのかも、患者さんによって異なります。手術による治療が患者さんに適しているかどうかを判断するために、主治医と手術の担当医、患者さんとその介護者の間で、十分な意思疎通をはかる必要があります。

② 術前検査
手術を受ける前に、様々な検査を行います。症状の変動が著しく、外来での評価が難しい患者さんは、短期間入院して症状を評価することもあります。手術の日が近づくと、医師が薬の服用方法について患者さんに指示を出すことがあります。
③ 手術
具体的な方法は、「DBS手術の内容」をご覧ください.術前検査や術後の刺激条件の調整を含めて、2~3週間の入院が必要です。

④ 退院・通院
退院時には、今後の治療の進め方と通院の日程が決められます。手術直後はリードを挿入したときの影響で、電気で刺激しなくても治療効果を認めることがありますが、挿入時の影響は2~3カ月でなくなります。このため、手術後2~3カ月は頻回に外来を受診していただき、刺激条件を調整する必要があります。刺激条件は一度定まってしまえば、多くの場合その後は半年~1年に1回程度の調整ですみます。 神経刺激装置の電池残量のチェックも必要になりますので、通院、受診の時期については、医師にご相談ください。

執筆藤本 健一 先生(自治医大ステーション・ブレインクリニック 神経内科)


脳外科 ・ロボトミー手術の被害者

2019年04月26日 06時41分14秒 | 医科・歯科・介護

日本歯科新聞社の創業者であった横田さんの息子さんの話であるが、当時のロボトミー手術の被害者であった。
脳外科の数ある術式のうちの一つで、脳の一部をざっくり切り取る手術法に対して、脳内の神経線維を断つだけの、より害が少ない治療法だとされ、1950年代にかけれ、日本も含め世界中で受け入れられた。
精神外科は、心の病は脳という臓器の機能の異常だとの考えに基づく治療法である。
当時、前頭葉と脳の深部のつながりが、人間の精神や行動の発現に、重要な役割を果たすことが分かり始めていた。
精神疾患はそのつながりが異常に働きすぎている結果なので、繊維を切って抑えれば治療効果があると考え考えられた。
事実、症状がおさまって退院できた患者もいたことは否めない。
しかし、横田さんの息子さんは、人格鈍磨の副作用が起きたのだ。
横田さんは元産経新聞社の満州総支局長で、戦後にGHQによる公職追放の身となり、その後は医療専門の臨床通信を発刊し、医療ジャーナリストとなる。
横田さんは父親の立場で息子のロボトミー手術を認めたことを生涯悔いていた。
息子さんは、廃人同然の身となり、生涯精神病院で過ごす結果に。
病院新聞社時代から精神病院を取材してきた当方として、横田さんの息子さんの悲惨な姿に複雑な思いがした。
日本では、1970年代の東京大学医学部闘争で精神外科が糾弾され、日本精神病関係学会が否定決議を出すなどしたため、そうした脳外科的治療方法は一切行われなくなった。
現在、海外では、焼き切らず電極を入れて電気刺激するだけで治療効果を出す、脳深部刺激という方法が精神疾患に対して盛んに行われている。
だが、向精神薬が主であり、日本では受け入れられていない。


薬局で「パワハラ自殺」遺族提訴へ

2019年04月26日 01時39分23秒 | 社会・文化・政治・経済

閉鎖的、逃げ場なく大阪
4/20(土) 毎日新聞

長女美希さんが勤務していた会社を相手取って損害賠償請求訴訟を起こすのを前に、娘への思いを語る津島朋子さん=大阪府吹田市で2019年4月18日
 大阪府吹田市の薬局に勤めていた女性が2016年に自殺したのは、社長や上司らによるパワーハラスメントが原因だとして、遺族が月内にも、運営会社や社長らに計約8800万円の損害賠償を求める訴えを大阪地裁に起こす。

中小企業では、ハラスメントの相談窓口の設置や問題への対応が遅れていると指摘されており、遺族側は「閉鎖的な空間でパワハラが横行し、精神的に追い詰められた」と訴えている。

 女性は同市の津島美希さん(当時30歳)。訴状などによると、14年10月から正社員として調剤薬局で勤務し、処方箋の入力などを担当していた。

 翌年3月からは社員旅行の幹事も担当。旅行について社長に相談すると、「今忙しい。そんなことも分からないのか」などと叱責された。他の幹事2人が退職したため、ほぼ1人で準備を進め、帰宅が午前0時を過ぎることもあった。

 「仕事のことを考えると緊張し、寝付けない」と家族に漏らすようになり、8月にうつ病と診断された。会社側と休職について話し合う予定だった16年1月4日、出勤前に命を絶った。

 遺族側は、長時間労働を強いる▽ささいなミスについて長時間、叱責する▽手を払いのけたり突き飛ばしたりする――などのパワハラを社長や複数の上司が繰り返し、うつ病を発症して自殺に至ったと主張している。

 遺族は16年11月、茨木労働基準監督署に労災を申請。労基署は「攻撃的な上司の言動に憔悴(しょうすい)していた」などと認定したが、心理的負担は強くなかったとして労災と認めなかった。遺族は再審査を請求している。

 一方、16年度の厚生労働省の調査では、中小企業(従業員99人以下)の半数以上はパワハラの相談窓口がなく、会社が問題を把握していないケースが多いとされる。遺族側代理人の上出恭子弁護士は「小さな会社で逃げ場がなく、社内で相談できなかったことが背景にある」と指摘する。

 会社の代理人は「業務に起因して自殺したとは認識しておらず、訴訟については把握していない」と話した。

 ◇「息するのもしんどい」

 「息をするのもしんどい。上司が怖い」。津島美希さんは亡くなる前、母朋子さん(59)に漏らしていた。

 美希さんは入社した2カ月ほど後には「うちの薬局、ブラックやで。次々に人が辞めていく」と訴えていた。明るい性格で友人も多かったが、休日は部屋にこもるように。食欲も落ち、体重は7キロも減ったという。

 亡くなる前日から沈んだ様子で「うち、(仕事が)できんかった」と泣き出した美希さん。朋子さんは「会社と合わなかっただけ」と慰めたが、翌朝、自室で冷たくなった愛娘を見つけた。

 「無理やりでも休ませればよかった」。母一人、子一人で生きてきた。娘の身に何が起きたか知りたいと、勤務先の元従業員の証言を集めた。上司らがパワハラを繰り返し、同僚が何人も退職していたことが分かった。

 絵を修復する仕事に就くのが夢だった美希さん。大学で美術を学び、アルバイトで資金をためてイタリア留学も果たした。最後まで「仕事ができない自分が悪い」と自らを責めていたという。

 「美希は自分のすべてだった。会社はパワハラを認め、謝罪してほしい」。朋子さんは遺影を見つめて涙を拭った。【戸上文恵】