榎泰邦 中近東アフリカ局長演説 アフリカが直面する課題とわが国の対アフリカ外交 平成12年6月30日 アフリカという呼称は、古代ローマ人がハンニバルで有名なカルタゴを植民地化した後、この地方をアフリカ州と呼んだことに由来すると言われています。長い間、アフリカ大陸は未知の大陸と言われ、人類の好奇心の対象となってきました。アフリカは日本にとってまだまだ十分に知られておらず、日本との本格的接触も漸く本格化しつつあるところです。今日は、このアフリカの置かれた状況とこの地域に対する日本の外交政策について話をしたいと思います。なお、アフリカと言った場合、北アフリカをも含めたアフリカ大陸全体53ヶ国を指す場合と、サハラ砂漠よりも南のいわゆるサブサハラ・アフリカ47ヶ国を指す場合がありますが、ここでは特にお断りしない限りサブサハラ・アフリカを前提にお話ししたいと考えます。 先ず初めに、世界の中でのアフリカの位置づけを見てみましょう。国の数で47ヶ国、国連加盟国の数が189ヶ国ですから約1/4を占めます。地理的面積は2400万平方キロ、世界の約20%になります。人口では6億3千万人、世界の約10%。それでは、経済規模はと言うと、GNP3千億ドル強、世界の1%に相当します。このGNP3千億ドルと言う規模は、ベルギーのGNPとほぼ同じ、あるいはマレイシアのGNP2つ分に相当します。サブサハラGNPの約半分は南アフリカが占めていますので、経済的には、南アで一つ、それ以外のアフリカでもう一つのマレイシアが存在すると言ってよいでしょう。最近,IT革命との言葉がはやりですが、インターネット・ホスト数ではどうかと言えば、アフリカは世界の約0.25%しか占めていません。正確な統計は手元にありませんが、南アを除いたアフリカでは、世界の0.1%程度ではないでしょうか。米国の人口1万人当たりのインターネット登録台数1508に対し、アフリカは僅か0.48台、米国の0.03%との統計もあります。 最初から数字ばかりで恐縮ですが、実は、今申し上げた中にアフリカの抱える問題が象徴されています。即ち、「アフリカは、世界の10%の人口を持ちながら、経済規模では1%にしか過ぎず、更にこれからの経済の先行指標になるITについては0.25%の存在でしかない。それでは、世界は0.1%、0.25%の小さい存在を無視出来るか、と言えば、政治的に国連の4分の1の票を持つ存在を決して無視する事は出来ない。それでは、このアフリカの現実に国際社会はどう対応したらよいのか。」これがアフリカ問題の本質と言ってよい。もう少し、詳しくアフリカ問題を見てみましょう。 I アフリカ問題 (アフリカ問題の歴史的背景) 歴史的背景を抜きにして、アフリカが現在おかれている窮状を語ることは出来ません。 特に決定的な出来事は奴隷貿易と殖民地支配の2つです。 1444年にはポルトガル船がセネガル河に到達し、15世紀半ばにはもう奴隷貿易が始まっていますので、ジル・エアネスの航海から20年も立っていないわけです。そして、16世紀には欧州、アフリカ、新大陸(南北アメリカ)間の三角貿易の中で奴隷の新大陸への輸出が本格化します。奴隷貿易は18世紀にピークを迎え、19世紀になって漸く終わります。この間、大西洋奴隷貿易の規模は、1000万人とも2000万人とも言われており、18世紀のみで560万人に達したと推定されています。奴隷の3分の2は働き盛りの男性と見られており、伝統的社会構造が崩壊するとともに、奴隷狩りによるアフリカ部族どうしの抗争が激化したことは想像に難くありません。奴隷貿易こそは人類史最大の汚点であることは疑いの無いところであり、植民地支配と合わせこれだけの事をしておいて、今になってヨーロッパ人が、グッド・ガバナンス等と説教をたれているのを聞くアフリカ人の心中には複雑なものがありましょう。 植民地支配の歴史は、本日の講演の目的では無いので、詳しくは立ち入りませんが、少しだけ触れたいと思います。アフリカの地図は国境が定規で測ったように直線になっています。そうかと思うと、ギニア湾西アフリカの国々はどれも細長い形をしています。いずれも 1884年のベルリン会議で決まった事です。この会議は、ドイツのビスマルク宰相がアフリカの植民地分割を決めるために欧州諸国に呼びかけたもので、米国、オスマン帝国を含め14ヶ国の出席のもとで開かれました。トーゴーやベニン等、ウナギの寝床の様な形になったのも、海岸を領有すれば基本的に内陸部分にまで領有権が及ぶとのルールがこの会議で決まった事の結果です。ところで、国境がほとんど直線と言うなかで、キリマンジャロ山に近いタンザニア国境は曲線になっています。これは、会議で、キリマンジャロ一帯をドイツ皇帝ウィルヘルムI世の誕生日祝いの贈り物にするとの趣旨で、山麓を含めてドイツの領有を認めた結果といわれています。 (独立後の苦難) アフリカは、1957年のガーナの独立を初めとし、アフリカの年と言われる1960年には一挙に17ヶ国が独立を達成した。しかし、アフリカは独立後も苦難の道を歩く。開発問題、紛争、エイズ等の感染症の3つについて、これを見てみたいと思います。そして重要なことは、この3つの問題が相互に密接にからみあっていることです。 第一に開発ですが、実は本来、アフリカは天然資源にも恵まれ、また豊かな自然環境にも恵まれている国が少なくありません。そもそも、アフリカの密林などと、いかにも「未開の地」の様に言いますが、自然のままで森林が繁茂し、豊かな河川が流れているほど恵まれた環境はありません。実際、1960年代には、1人当たりGNPで、アフリカは約500ドルと途上国平均の330ドルをはるかに上まわっていた。今でこそ世界の成長センター・アジア等ともてはやされているけれども、当時はアフリカの方が豊かであった。問題は、他の途上地域がいずれも着実に所得を伸ばしてきている中で、アフリカだけは、むしろ停滞するどころか逆に低下していることです。1970年代に約600ドルであった1人当たりGNPが、90年代に入って510ドルのレベルにまで落ち込んでいる。現在、アフリカの6億を超える人口の半分が、一日当たり0.65ドルで生活している現実がある。 第二に紛争です。アフリカ47かヶ国の中で、これまで国際紛争も内戦も経験したことのない国は20ヶ国、更にこれに加えクーデタすらも経験したことがない国となると、ザンビア、ジブチ、ボツアナ、マラウィ等僅か10ヶ国しかありません。およそ殆どのアフリカ諸国が何らかの形で紛争の被害にあっているわけです。紛争の被害についての数字は事欠きませんが、紛争によって5人に1人が被害にあい、アフリカ全土で2000万個の地雷が埋設され、紛争によって1600万人の国内避難民と300万人の難民が生じている。紛争は貧困の主な原因の一つであり、コンゴー紛争を抱える中部アフリカを例に取れば、GDP成長率を2%引き下げているとの分析があります。 第三の課題で近年ますます深刻化しているのが、エイズ等の感染症問題です。国連(UNAIDS)の発表では、99年末での世界のエイズ罹患者3400万人のうち、なんと3分の2に当たる2500万人がアフリカです。ただし、これはあくまでも公表数字であり、実数はこれを遙かに上回っている事は確実です。1990年から2000年の間で、南部アフリカの多くの国では、エイズのために平均寿命が50歳台から40歳台へとほぼ10歳短くなっており、更に今後、アフリカ人全体の平均寿命を20歳短縮するとの予測すらあります。国によっては、成人のエイズ罹患率が30%を上回っている例があります。ここまで来ると、国家、社会の存続それ自体が問われている訳で、エイズ問題こそは最大の安全保障問題になっています。 (冷戦終焉後、ますます深刻化するアフリカ問題) アフリカほど、冷戦構造により、また冷戦終焉により翻弄された地域は無いのではないでしょうか。先程ご紹介したアンゴラUNITAを巡る米国の対応の変化は、この間の事情を雄弁に物語るものと言えましょう。また、2~3ヶ月前、韓国外務省とアフリカについての協議をしましたが、冷戦時代には北朝鮮対策から、アフリカに27の大使館を置いていたのが、現在は僅か9大使館にまで減らしているとのことでした。 冷戦終焉後のアフリカについては、そのMARGINALIZATIONの危険性が心配されています。若干聞き慣れない言葉かもしれませんが、周辺化あるいはもっと端的に「世界から忘れられてしまうこと」とご理解ください。 紛争についても、実は冷戦終焉後、むしろ活溌化している現実がある。紛争の発生数は、60年代6件、70年代5件、80年代6件と推移してきたものが、冷戦終焉後の90年代には15件へと急増している。イデオロギー対立が終焉した後、民族対立、地域紛争が顕在化した典型例がアフリカと言えましょう。 冷戦の終焉はまた、「敵はいなくなったが、回りじゅう競争相手だらけ」と言う世界を現出し、市場経済と民主主義のもとで世界的規模での競争を求められるグローバリゼーションの時代を生みました。そして、IT革命がこの世界的規模での競争を加速化し、世界をIT技術を有するものと有しないものとに二分するがごとき事態を現出しているわけです。本日の話の最初に、「アフリカは経済で世界の1%、ITで0.25%の存在」と申し上げましたが、まさにこの分野でも、このまま行けばアフリカは世界から忘れられた存在になる事が懸念されます。 (国際社会にとってのアフリカ) この様に問題山積のアフリカですが、国際社会としてどう対応すれば良いのでしょうか。結論から言えば、「アフリカ問題の解決なくして21世紀の世界の安定と繁栄はない」と考えます。 II 日本の対アフリカ政策 (日本とアフリカとの関わり) それでは、以上にご紹介したアフリカ問題に、わが国として、これまでどう関わり、また今後如何に取り組むべきかが、次のテーマになります。 (初の在アフリカ大使館開設) 今ご紹介した様にエピソードは幾つかはあるのですが、対アフリカ外交の出発点となったのは、1958年の在エティオピア大使館の開設でした。どういう訳か、後でご説明するように対アフリカ外交の節目は8の付く年になっています。次いで、翌59年には戦後のアフリカ独立の第一号となったガーナに大使館を開きましたが、アフリカの年、1960年時点をとっても、わが国のアフリカに於ける在外公館網は大使館4(ナイジェリア、コンゴーが加わる)、領事館2(南ア、ケニア)の僅か6公館体制でした。その後、徐々に大使館網も拡大はしますが、日本外交にとっても、国連での票集め以外は、アフリカまで十分な関心を払う余裕はなく、アフリカにとっても日本は新参者でしかなかった時代が70年代まで続きます。いわば、対アフリカ外交の初期段階と言えましょう。 (3段階に及ぶ対アフリカ外交の展開) 私は、わが国の対アフリカ外交の第一段階は、対アフリカODAが本格化した1978年以降だと考えます。1978年は、第一次ODA倍増計画の初年度です。この年を境として、アフリカに対するODAが飛躍的に拡大していきます。このODA3年倍増計画の目標年である80年を74年と比較すると、対アフリカ二国間ODAは、量で46百万ドルから223百万ドルへと5倍に急増し、対世界比シェアでも6%から11%へとほぼ倍増しています。以降、対アフリカ二国間ODAのシェアは概ね11から12%を維持し、ODA全体の伸びに合わせ順調に拡大し、第四次ODA中期計画の初年度たる88年には884百万ドルと80年当時の4倍の規模に膨らんだ次第です。 第二段階は、1988年からで、紛争解決への協力が本格化しました。それまでの日本のアフリカへの関わりは、専らODAを通ずる協力に限られてきたのですが、1988年を境にしてODAに加え、紛争解決への協力が開始されます。この年、当時の竹下総理がロンドンで政策スピーチを行い、「国際貢献策」を発表した。この中で、従来のODAに加え、平和のための協力、国際文化協力の3本柱を立てました。当時、ゴルバチョフの登場でソ連が変貌を遂げつつある中で、冷戦構造が崩壊を始め、米国内でも「悪の帝国ソ連」に代わり、「米国にとっての真の脅威は日本」との類の論評が盛んになって来ていた時です。また、「顔の見えない日本」との批判もよく聞かれました。経済以外の分野での国際貢献が求められていた訳です。 私は、1998年の第二回東京アフリカ開発国際会議、TICAD IIの開催により、現在、第三段階に入っていると認識しています。TICAD I の開催は1993年ですので、93年以降と言うべきなのかもしれません。しかし、開催することに意義があったTICAD Iと異なり、TICAD IIは、日本が国際会議を主催した事に加え、アフリカ開発戦略の策定と言う政策面で世界をリードした点で、新しい段階を開いたものと考えます。 (日アフリカ関係の現状) それでは、日本外交にとって、「何故、今アフリカなのか」について一緒に考えてみましょう。その前に、日本・アフリカ関係の現状を概観してみたいと思います。 (対アフリカ外交の正当化事由) 「一国の外交は所詮その国の国民意識の投影」、であるとするならば、この様な現実の下で対アフリカ外交の必要性を国民にどう説明すれば良いのか、が問題になります。日本の隣国アジア、日系人のいる中南米、石油依存の中東、と言った分かり易い関係がアフリカには見当たりません。 結局、わが国にとってアフリカは、日本が国際社会にあって、真にグローバルな役割を果たして行ける国であるか否かを示す試金石であると確信しています。その意味で、もし日本がアジア太平洋地域のリージョナル・パワーに止まる事をもって良しとするならば、程々に付き合うだけで良い地域でしょう。現に、70年代の対アフリカ政策はそうでした。しかし、日本が、国際社会の責任ある有力国としてグローバルな役割を担うのであれば、アフリカを避けるわけにはゆきません。グローバル・パワーの資格は、特定の地域だけではなく、およそ世界の主要の地域問題に対しては主体的に取り組み、責任を果たして行く意志と能力を有しているかに掛かっているものと考えます。しかも、既にお話したように、一方において、アフリカ問題こそは「21世紀の世界の安定と繁栄」の鍵を握る問題であり、他方に於いて、日本は、アフリカに対し欧州が負う様な歴史的責任を有しないだけに、アフリカ問題への取り組みは、明確な形で日本外交にとっての試金石になるものです。 既に、日本の対アフリカ外交の推移につき、78年以来のODAの飛躍的拡大、88年以来の紛争解決への協力の展開に言及しましたが、昨今のエイズの深刻化に鑑み、私は、今後の対アフリカ外交の柱は、ODA、紛争解決、エイズ等の感染症対策の3点と考えています。連続講義であれば、次回、次次回と、その一つ一つの柱につき今後の課題と取り組みをお話しするのですが、既に持ち時間も大幅に超過していますので、ここで終わりたいと思います。 |
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