1月25日午前6時からCSテレビのザ・シネマで観た。
感情の爆発には驚くばかり!
『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(原題: Birdman or (The Unexpected Virtue of Ignorance))は、2014年のアメリカ合衆国のドラマ映画。
監督はアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、主演はマイケル・キートン。
第87回アカデミー賞作品賞をはじめとする数々の映画賞を受賞している。
ストーリー[編集]
主人公のリーガンは落ち目のハリウッド俳優である。
かつては『バードマン』という3本のブロックバスター映画でスーパーヒーローのバードマンを演じスターの座を掴んだが、以降はヒット作に恵まれぬまま20年以上が経過して60代となり、世間からは「かつてバードマンを演じた俳優」の烙印を押される始末だった。
私生活でもトラブルは絶えず、仲違いのために妻のシルヴィアとは離婚し、娘のサムは素行不良の挙句薬物に手を染めている。
リーガン自身も零落した自分を嘲る心の声(=バードマン)に悩まされていた。彼が1人になるとバードマンが現れ、ハリウッドへ戻れと囁くのだ。
リーガンはアーティストとしての自分に存在意義を見いだそうと、ブロードウェイ進出という無謀な決断をする。
俳優を志す切っ掛けとなったレイモンド・カーヴァーの短編小説『愛について語るときに我々の語ること』を自ら舞台向けに脚色し、演出及び主演を務めることにしたのだ。
プロダクションは親友の弁護士ジェイクが担当し、共演者にはリーガンの恋人であるローラと、初めてブロードウェイの劇に出演するレスリーが選ばれた。
また、薬物依存症から回復したばかりのサムをアシスタントとして加えると準備は着々と進み、本公演前のプレビュー公演を迎えることになる。
プレビュー初演の前日、リハーサル中に負傷した俳優の代役として、ブロードウェイで活躍するマイクが選ばれる。
俳優として類稀な才能を見せながらも身勝手極まりないマイクの言動はスタッフを振り回し、3度のプレビュー公演の内、2つは台無しになってしまう。
『ニューヨークタイムズ』のインタビュー記事は虚言ばかりのマイクの記事が一面を飾り、リーガンの記事は後方へと追いやられていた。
カムバックを目論むリーガンにとって、マイクはまさに目の上のたんこぶだった。
最後のプレビュー公演中、出番の合間に喫煙のため外へ出たリーガンだが、運悪くドアが閉ざされて衣装姿のまま外へ閉め出されてしまう。
リーガンはドアに挟まってしまったローブを脱ぎ捨て、ブリーフ姿でニューヨークの大通りを歩いて劇場の入口から中に入り、何とかラストシーンを演じ切る。
リーガンがブリーフ姿で歩く様は一般人によって撮影され、その映像はYouTubeで100万回以上も再生された。
リーガンにとっては不本意だったが、彼の姿は話題を呼んだ。
本公演の前夜、リーガンは舞台近くのバーで批評家のタビサと会い、「芝居を酷評する」と宣言される。
彼女の発言力は大きく、舞台公演が今後ロングランとなるか、それとも打ち切りとなるかを左右するほどだった。
リーガンは呆然とした様子で街を歩き、道端で夜を明かすとバードマンの声で目を覚ます。
リーガンの背後に現れたバードマンは、彼を再び大作映画の世界へ向かわせるべく虚構の世界へと誘う。
リーガンが指を鳴らすと街は戦闘部隊と怪物の戦いによって火の海となり、屋上から飛び立てばバードマンの如くニューヨークの空を飛び回ることができた。
始まった本公演の初日、リーガン扮するエディの拳銃自殺で幕切れとなるラストシーンを迎えると、リーガンのおかしな様子に演者は顔を見合わせる。
リーガンは観客の前へ立つと拳銃を頭へ突きつけ、発砲と同時に倒れた。
舞台に飛び散った血に観客は一瞬ざわめくも、やがてスタンディングオベーションを送る。
その渦中、前列にいたタビサは興奮する観客を無視して劇場から立ち去っていく。
リーガンが目を覚ましたのは病院のベッドだった。
彼の放った弾丸は頭ではなく鼻を捉え、辛くも一命を取り留めたのだ。
ジェイクが持ちこんだ新聞の一面には、観客に銃口を向けたリーガンの写真がプリントされている。
タビサによる記事では、リーガンの自殺未遂は小道具と本物の拳銃とを取り違えて使用したためであり、それによって生まれた今回の事件を「無知がもたらす予期せぬ奇跡」と銘打っていた。
事件は世間の注目を集め、多くの人がリーガンの復活を心待ちにしていた。
1人になったリーガンは鏡の前に立ち、顔を覆うガーゼを外す。
吹き飛んだ鼻は整形され、さながらバードマンのような鋭い鼻に変貌していた。
リーガンは傍らに見えるバードマンに別れを告げると、病室の大きな窓から体を乗り出して窓枠に立ち上がる。
直後に病室へ戻ってきたサムは、忽然と消えたリーガンを探して開け放たれた窓から下を見るが、目に入ってきた光景に戸惑いを見せる。
続いて顔を上げ空へ目を向けたサムは目を見開き、笑みを浮かべた。
キャスト
※括弧内は日本語吹替
- 本作の主人公。かつてヒーロー映画「バードマン」のシリーズで主演した元スター俳優。名声を取り戻すためにブロードウェイでの舞台公演を手がける。長年つきまとう心の声=バードマンに悩まされる。
- ブロードウェイの有名俳優。負傷したラルフの代役として舞台に参加し、優れた才能を発揮するが、破天荒な行動ゆえにリーガンとは対立する。
- リーガンの娘。薬物依存症で、以前は治療のために施設へ入っていた。現在はリーガンの付き人をしている。
- ブロードウェイの舞台に初出演する女優。マイクの同棲中の恋人。
- リーガンの弁護士で、彼の親友。舞台のプロデューサーも担う。
- 舞台女優。リーガンとはおよそ2年間交際している。
- リーガンの元妻でサムの母親。
- ニューヨーク・タイムズの演劇批評家をしている、いつも不機嫌そうな老婆。彼女の批評1つで舞台の打ち切りが決まってしまうほどの発言力を持っている。
- 舞台俳優。リーガンの舞台に立つはずだったが、練習中の事故で負傷して降板。この件でリーガンを訴えると息巻いた。
夢と現実の混淆と相即するように自意識が煮詰まっていくという構造から日本人の我々はまず『新世紀エヴァンゲリオン』を、あるいはウディ・アレンを、フェデリコ・フェリーニを、もう少しニッチな御仁ならチャーリー・カウフマンの『脳内ニューヨーク』を思い出す。
あるいは時空をワンカットのうちに幾度も跨ぐテオ・アンゲロプロス
。映画界の内幕モノという物語も同様だ。スタンリー・ドーネンの『雨に唄えば』に始まりビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』。
フランソワ・トリュフォー『アメリカの夜』、そしてロバート・アルトマン『ザ・プレイヤー』。映像作品の歴史は思いのほか長い。参照点を探そうと思えばこのようにいくらでもタイトルが出てくる。
同じようなものを作ることそれ自体は悪いことではないし、むしろ反省を踏まえた跳躍こそが映画史に新たな文脈を生成する可能性を持つ。
しかし本作がそうした無数の類似アーカイブからどのように跳躍、つまり差異を生み出そうとしたのか、その痕跡がどうにも見当たらない。
映像は長回しや時空の歪曲といったとっつきやすいセンセーショナリズムに終始するばかりだし、物語はどこまでも狭隘で自己中心的な作家的自意識の範疇を出ない。
全編擬似ワンカット!とか言われてもアレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』という本物の全編ワンカット映画があるしなあ。
同じようなものを作ることそれ自体は悪いことではないし、むしろ反省を踏まえた跳躍こそが映画史に新たな文脈を生成する可能性を持つ。
しかし本作がそうした無数の類似アーカイブからどのように跳躍、つまり差異を生み出そうとしたのか、その痕跡がどうにも見当たらない。
映像は長回しや時空の歪曲といったとっつきやすいセンセーショナリズムに終始するばかりだし、物語はどこまでも狭隘で自己中心的な作家的自意識の範疇を出ない。
全編擬似ワンカット!とか言われてもアレクサンドル・ソクーロフの『エルミタージュ幻想』という本物の全編ワンカット映画があるしなあ。
現代の映画界、あるいは客層に対する皮肉としても微妙で、Twitterとかマーベル映画の市場支配とか演劇界との対比とか、現代的表象でラッピングされただけのよくある批判意識が節操なく繰り返されるばかりでいまいち面白味に欠ける。あるある〜わかる〜以上の感慨がない。
というかきょうび誰もがネットやら学校やら会社やらでアイデンティティ・クライシスなるものに直面している時代だというのに、それをさもクリエイター固有の痛みであるかのようにやたら事細かく神経症的に描き出すというのはやはり少し安易なんじゃないかと思う。
それに自意識を語る映画の中で自意識に関係するワードを直接出すのは流石によくない。マジで言わなくていい。
たった一言の発話でも意味だけは正確に伝わるようなところをギリギリまで口を閉ざして迂回して、逆に相手のほうから歩み寄るのを待つ、そうすることで「理解」の範疇を超えた感動が生まれる。
それが視覚芸術たる映画の魅力なんじゃないのか。
仮に、この何とも手ぬるい出来栄えそのものが、つまりはこの映画そのものが一つの巨大な皮肉なのだ、などと言い張るのなら、私はもうお手上げだ。
私は映画を見に来たのであって、その外側に漂うコノテーションの靄を集めに来たのではない。
映画として世に出す以上は映画の中で面白いことをしてほしかった。
というかスクリーンというフレームの外側に主戦場を移した時点で映画としては負けだと思う。ただ、あのラストシーン、娘のエマ・ストーンが如何とも形容しがたい表情で窓外の上方を見上げるあのシーンだけはよかった。
かつての人気俳優が、再起をかけて古い短編を戯曲化&上演。
いつまでも、第一線で活躍できるわけじゃない。
生き延びるためには、お金を稼ぐには。
隣で囁く「バードマン」とも別れを告げるのか。
印象的シーンは、楽屋から不注意で締め出されて。
パンイチで劇場に戻るところ。
劇場の外では「あ、バードマン!」と人だかりになるけど。
今の自分は、それじゃない。
そんな感じかな。アートすぎてついていけなかったです。
とにかく"風刺と皮肉がきいた台詞が満載な映画です。
外国だと劇場内で大笑いするところでしょうが、日本は静かに鑑賞するのがマナーとすり込まれているので"クックッ"と咬み殺すだけ。
マイケル・キートンはかつて映画バットマンで名を馳せた売れっ子だったが、今では売れない舞台俳優。
薬物更生施設から帰った娘エマ・ストーンが付き人だがBlog・TwitterやFacebookをやらない父親をバカにしており喧嘩ばかり。
怪我した相手役に代って雇った男優エドワード・ノートンは、セリフ覚えがいいことを鼻にかけた、いけ好かない野郎なのに、娘にチョッカイを出す。
妊娠したと言い寄る女優が居るかと思えば、喧嘩別れした妻ナオミ・ワッツはしばしば現れてはツネツネして行く。
もう気にくわないことばかりで、荒れること荒れること。
人生なんて思い通りいかないもんで、ほとんど苦しいだけですよ。
ただ"あの頃は良かった君"マイケル・キートンは、物は壊す、人はブン殴る、能動的落込み様はアメリカンですね。
舞台も観てないのに、勝手にこき下ろす女性記者が、映画俳優を蔑視した記事を書きなぐるエピソードなどありそうで面白い。
娘役エマ・ストーン のヘンテコリンな、異常に大きい瞳の吸引力はどーだ!