ハインリッヒ・シュリーマン (著), 石井 和子 (翻訳)
トロイア遺跡の発掘で知られるハインリッヒ・シュリーマン。
彼はその発掘に先立つ6年前、世界旅行の途中、中国につづいて幕末の日本を訪れている。
3ヵ月という短期間の滞在にもかかわらず、江戸を中心とした当時の日本の様子を、なんの偏見にも捉われず、清新かつ客観的に観察した。
執拗なまでの探究心と旺盛な情熱で、転換期日本の実像を生き生きと活写したシュリーマンの興味つきない見聞記。
これまで方々の国でいろいろな旅行者にであったが、彼らはみな感激した面持ちで日本について語ってくれた。
これまで方々の国でいろいろな旅行者にであったが、彼らはみな感激した面持ちで日本について語ってくれた。
私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである。──(第4章 江戸上陸より)
「私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである」
世界を旅した考古学者のシューリマンは北京、上海を経て、日本に到着。
待望の訪日だったと日記に記した。
日本滞在は、彼にさまざまな気付きを与えた。
日本の教育が、欧州の文明国家以上に行き渡り、識字率が高いことに驚く。
一方で、そのことが民衆の精神の発達につながっていないことを指摘している。
その理由について、「民衆の自由な活力を妨げ、むしろ抹殺する封建体制の抑圧的傾向」を挙げた。
当時の日本社会は密告が横行し、それが幕府を支える機能ともなっていた。
そのため、人々の間には「不信感」「嘘」がはびこっていた。
ここまで、シューリマンが見抜いたことに驚くばかりだ。
著者について
【ハインリッヒ・シュリーマン】
1822年ドイツ生まれ。若い頃移り住んだロシアで藍の商売を手がけ巨万の富を得る。
1822年ドイツ生まれ。若い頃移り住んだロシアで藍の商売を手がけ巨万の富を得る。
1864年世界漫遊に旅立ち、翌65年日本に立寄る。
1871年世界的なトロイア遺跡の発掘に成功、以後ミケナイなどの発掘を続ける。1890年ナポリにて急死。
主著に、Mykenae,Trojaなど。
【石井和子】
東京生まれ。仏英和高等女学校(現白百合学園)、東京音楽学校(現東京芸術大学)卒業。
東京生まれ。仏英和高等女学校(現白百合学園)、東京音楽学校(現東京芸術大学)卒業。
外国人、特に国内を旅行した人からの、自国との生活風習との対比がよく書かれている。
さすがにシュリーマン。日本人の服装から、身なりに至るまで、細かい観察眼のまま、国土と、日本人を描いています。そして、日本人の純粋な、誠実さまで、表現されていました。このような描写を待っていました。
シュリーマンが来日し、しかも日記を書いていたなんて。
すごいことですね。
当時の日本の庶民の素朴さと、攘夷思想が良く分かります。
清にも行き、万里の長城を見ました。
万里の頂上のブロックを持って帰ってきて、どこに保管したのでしょうか。
大発見の前兆と思える好奇心です。
当時の日本の庶民の素朴さと、攘夷思想が良く分かります。
清にも行き、万里の長城を見ました。
万里の頂上のブロックを持って帰ってきて、どこに保管したのでしょうか。
大発見の前兆と思える好奇心です。
こんな貴重な資料はない!江戸末期と中國の状況を知るタイムトンネル!是非見るべし!
シュリーマンが世界漫遊の旅に出た中で、清と日本について記した本です。
旅に至る背景とか前書きとかは一切なく、いきなり万里の長城について話が始まるのでちょっとびっくり。
清や日本、江戸について、以前より多くの情報を得ていたらしいシュリーマンは、好奇心とわくわく感一杯で訪問しています。
清や日本、江戸について、以前より多くの情報を得ていたらしいシュリーマンは、好奇心とわくわく感一杯で訪問しています。
日本に来たときは梅雨時だったのでしょうか、天候がすぐれず可哀そうです。
ボリュームは少ないので、すぐ読めると思います。荒廃した清末の様子や、維新直前の日本の様子が興味深いです。
章建ては以下の通りです。
第一章 万里の長城
第二章 北京から上海へ
第三章 上海
第四章 江戸上陸
第五章 八王子
第六章 江戸
第七章 日本文明論
第八章 太平洋
ボリュームは少ないので、すぐ読めると思います。荒廃した清末の様子や、維新直前の日本の様子が興味深いです。
章建ては以下の通りです。
第一章 万里の長城
第二章 北京から上海へ
第三章 上海
第四章 江戸上陸
第五章 八王子
第六章 江戸
第七章 日本文明論
第八章 太平洋