取手・スナック「エスカルゴ」演歌歌手の藤野とし恵さんが来店

2023年01月24日 22時11分21秒 | 日記・断片

 喫茶店・スナック「エスカルゴ」(茨城県取手市台宿2丁目30)に今日(1月23日)午後6時に行く、すでに家人の友人のチャコさんと彼女の親友の歌手の藤野とし恵さんが来店していた。

奇しくもエスカルゴで藤野さんと対面したのは、2度目である。

以前に、取手西口のウエルネスプラザで藤野さんの歌を聞いている。

今日は、藤野さんの幼馴染の男性も同席していて、結果的にその人が全ての店の支払いをしたので、大変恐縮した。

皆さんで、めいめいのおはこの歌でカラオケを楽しむ。

当方がプロの演歌歌手の前でカラオケで歌ったのは初めてで、緊張する。

瓶ビル1本と日本酒高清水3杯を飲む。

店に行く道では、夜空に絵のような鮮やかな三日月見えていたのに、帰途に粉雪が舞っていた。

 
取手出身の演歌歌手・藤野とし恵さん
 

取手・スナック「エスカルゴ」歌手・藤野とし恵さん

取手・スナック「エスカルゴ」歌手・藤野とし恵さん

 

取手・スナック「エスカルゴ」歌手・藤野とし恵さん
動画リンク
 

 

 


苦労は、人生を飛躍させる<助走>

2023年01月24日 09時58分17秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

▼どんな宿命にも、必ず深い意味がある。

▼未来は自分たちの手で開く―との信念で前向きに立ち上がる。

▼民衆に根差して、社会建設に取り組む。

▼現在、人類が直面している諸問題について、意見交換する。

それが何らかの問題解決への糸口になれば有意義な対談となるだろう。

▼<地域の発展>こそ、国境を超えた民衆共通の願いである。

▼人類が直面する地球的課題への挑戦として、機軸に寛容、人権尊重を掲げる。

▼高く、遠くへ跳躍するのは、力強い助走が必要だ。

▼立派な建物を築くには、盤石な基礎が不可欠だ。

人生においても同じである。

苦労は、人生を飛躍させる<助走>となる。

鍛錬は、難攻不落の自身を構築する<基礎>となる。

今日も、何も恐れず前進だ。

 


マスコミ精神医学

2023年01月24日 09時13分58秒 | 社会・文化・政治・経済
 
 
市村 篤  (著)
 
昭和62年東海大学医学部卒業。平成元年東海大学医学部精神科入局。平成2年武蔵野病院勤務。
平成7年東海大学医学部付属病院救命救急センター勤務。
平成11年国府津病院勤務。平成13年東海大学医学部精神科勤務。
平成24年東海大学医学部救命救急医学勤務。現在、東海大学医学部救命救急医学講師。
 
行為障害、PTSD、児童虐待など、精神科関連の事件がマスコミに登場しない日はない。
マスコミ関係者を対象に、病気から人権問題、医療環境まで、精神医学の基本的知識をQ&Aでていねいに解説。
 
 
 
推薦図書です!
臨床の勉強をしたい方に是非!
分かりやすく書いてあるので、入門の勉強に役立ちました。
大体2週間で読める分量です。
 
「精神疾患は不治の病だ」という誤解がある。
精神疾患に関する知識を幅広く知って、もっと勉強してほしい。
 
精神疾患について語ったことが、記者によって内容が都合よく切り取られて報道される、という懸念が医師側にある。
 
事件などの背景、動機が不明にも関わらず、記者の見込みで事件と精神障害との関連性性が報じられている。
 
2001年6月に、大阪教育大学付属池田小学校で児童8人が刺殺され、児童や教職員15人が重軽傷を事件が起きた。
 
事件を起こした宅間守元死刑囚の通院歴や病歴を伝える報道が過熱した。

宅間元死刑囚は、小学校時代、担任教師から手を焼く乱暴者で悪質ないたずら小僧と言われ、たびたび問題行動を起こした。

幼稚園入園前は三輪車で国道の中央を走って渋滞させたり、大きい石を投げて相手にけがさせる、走っている列車に向かって石を投げたり、線路上に石を置く悪質な列車妨害や弱いものいじめと暴力行為を行ったりしていた。

小学生時代のあだ名は『ゴン太くん』であり、犬や猫などの動物を新聞紙に包んで火をつけて殺害したこともあった。

小学校卒業後も問題行為はエスカレートし、本人が事件後鑑定医に語ったところによれば、「好意を抱いていた女子生徒の弁当に精液をかけた」こともあるという。

大人しくもなく、これらの悪事を繰り返す一方で、他人との協調性は極端に低く、悪仲間との徒党を組むこともできなかった。

小学5年生の時、同級生の女子からパイロットのおじさんの話を聞いて憧れる。

その頃、大阪教育大付属池田校の存在を知り、勉強するようになるが、父親は「教育大付属中に入る子は小さなころから、家庭教師を付けとる。うちは機械工やから違うんだぞ。」と諭した。

成績は悪かったが、折れることもなく、中学に願書を取りに行くと、願書には内申も必要であった。

願書を家に持ち帰り、受験は保護者同伴と母親に伝えると、「そんなん通るはずがないのに受けるだけ無駄や」と突き放され、受験を諦めた。

小学生の頃から自衛隊に強い関心を持っており、「将来は自衛隊入るぞ~」と大声で叫んだり、一人で軍歌を大声で歌っていたりしたこともあり、高校生になっても周囲の同級生に「俺は自衛隊入るからお前らとはあと少しの付き合いや」と発言していたこともあったという。

また、高校時代に停学処分を受けた際、反省文にも「自衛隊は内申書一切関係なしの一発勝負」などと綴っていたこともあった。

宅間は幼いころから「高学歴・高収入のエリート」に対する屈折した羨望、嫉妬を抱いていた。

初犯と精神科病院への入院
1979年(昭和54年)4月、兵庫県立の工業高校(尼崎市内に入学したが、1981年(昭和56年)3月に2年で中退したあと、定時制高校に編入学するもすぐ退学。

数か月間のガソリンスタンドでのアルバイトを経て、1981年末、18歳のときに航空自衛隊に入隊したが、1983年(昭和58年)1月に1年強で除隊処分を受けている。

除隊の理由について、鑑定書は「家出した少女を下宿させ、性交渉した」ために懲罰を受けたと記述している。

除隊後、宅間は運送会社やトラック運転手、引越し業者など十数社にわたる転職を繰り返していたが、いずれも数週間から半年以内で退職している。

精神的に荒れ、家族に暴力をふるったり、傷害、暴行などに走り、また高速道路を逆走するなど非行を行うようになった。

またこの頃から、知り合いの女性を呼び出しては強引に肉体関係を結ぶことに耽溺するようになっていった。

1984年(昭和59年)11月21日、マンション管理会社に勤務していたときには家賃の集金と称して大阪市東淀川区の女性の部屋に上がり込み、顔面を数回殴りつけ、首を絞めるなどして強姦する事件を起こしている。

事件後、被害者の女性が警察に告訴したことを察知した宅間は、12月12日、母親をともない精神科を受診。

「幻聴が聞こえる。だれかに陥れられる気がする」などと医師に言い、母親にも宅間に暴力を振るわれているとの旨の噓を言わせて入院した。

病院側は、当初は不安神経症との診断を下したが、宅間の虚偽の供述を信じ、のちに「精神分裂病」と診断書や警察の照会への回答に記載している。

一方、閉鎖病棟へ入れられ入院生活に不満を感じた宅間は、翌1985年(昭和60年)1月4日に5階屋上から隣接する車庫の屋上へ飛び降りて、開放性下顎骨及び上顎骨骨折の重傷を負い、その後遺症も残った。

宅間は後に母親に宛てた手紙でも、入院したのは警察から強姦事件で追及されるのを回避するためで、5階から飛び降りたのは「親に嫌がらせをするため」であったと記している。

退院後、宅間は「世間への復讐心」から、さらに犯罪性向を強め、通り魔的な傷害や器物損害などを日常的に繰り返すようになる。

後に精神鑑定を担当した医師は、このことが社会や勝ち組へのルサンチマンを強めた可能性を指摘している。

初犯の強姦事件では結局、大阪地方検察庁が派遣した医師に「性格異常であって、理非分別能力はある」と診断され、1986年(昭和61年)11月に懲役3年の実刑判決が確定。

1989年(平成元年)3月11日まで刑務所に服役したが、服役中には両親との面会や手紙で、病院から飛び降りて骨折したのは母親が退院に関して協力してくれなかったためであるとし、その責任を取って出所後の生活費を出すように要求した。

だが父親は、宅間に全く反省が見られないことからこれを拒否し、宅間の私物を下取りに出した金を本人に手渡しして勘当することを伝えた。

また宅間は、刑務所出所後にダンプやトラックの運転手を務めていた際、二件の危険運転致死事故を起こしたと後の精神鑑定で証言している。

山奥で産業廃棄物をダンプで運ぶ仕事をしていた時に、前の車に対して煽り運転をしたところ、下りカーブで急ブレーキを踏みスピンしたダンプが対向のトラックと衝突し、運転手が数日後に死亡した。

この件では「相手の車が割って入って来た」と嘘をついて、それ以上捜査されることはなかった。

また首都高速の付近でトラックの運転をしていた際に、乗用車に対して煽り運転を繰り返しているうちに相手の車が側壁に衝突し、運転手が死亡した。

すぐにその場を去ったため、事件として露見することはなかったという。

数度の結婚
1990年(平成2年)3月、宅間は看護婦と肉体関係を持とうと考え、看護婦試験合格者名簿の名前から調べた番号に電話を掛けることを繰り返す内に、19歳年上の女性と知り合った。

そこで泌尿器科の医師であると噓をついて接近し、肉体関係を結んだのち、6月14日に強引に結婚(1回目の結婚)。

しかし直後に医師でないことが露見し、26日には離婚。

10月12日には19歳年上の女性と結婚するが(2回目の結婚)、1993年(平成5年)9月に再度の強姦事件を起すなどしたため、翌1994年(平成6年)9月21日に離婚した。

また、1995年(平成7年)11月27日には、バス運転手をしていて知り合った44歳年上の女性と財産目当ての養子縁組をしたが、宅間が暴力を振るい金を取るなどしたため、1997年(平成9年)1月7日に協議離縁している。

一方、1996年(平成8年)12月15日にはお見合いパーティーで2歳年上の女性と知り合っており、離婚歴を隠した上で執拗に結婚を迫った。

この女性は乗り気ではなかったが、「結婚しなければ、お前を殺して私も死ぬ」などと言われたり、実家の住所を調べ上げられたりしていたため、周囲への迷惑を考えて1997年(平成9年)3月30日に結婚(3回目の結婚)。

しかし妻は、宅間の粗暴な振る舞いや暴力を受けたり、周囲とトラブルを起こす宅間の姿を見るなどした上、過去の養子縁組の件を知ったため、離婚を決意した。

1998年(平成10年)10月18日には、お見合いパーティーで3歳年下の女性と知り合い、その後結婚(4回目の結婚)。

しかし1999年(平成11年)に後述の薬物混入事件を起したため、同年3月31日に離婚した。

小学校での薬物混入事件
1993年(平成5年)、宅間は30歳のとき非常勤の地方公務員になり、伊丹市営バスの運転手(1993年から1997年迄)やクリーンセンターでのゴミ収集(1997年のみ)、伊丹市立池尻小学校の用務員(1998年と1999年)などを務めていた。

この間も市バスの運転を務めている最中に乗客の女性に「香水のにおいがくさい」ことを理由に女性の顔につばを吐きかけたうえに、言いがかりをつけてトラブルを起こし懲戒解雇処分を受けている。

小学校で用務員を務めていた際には、ごみを収集場所に持ってきた児童に「入れ方が悪い」と大声で怒鳴ることもあり、児童が校長に、宅間を辞めさせるよう頼んだこともあったという。

1998年(平成10年)10月には、別れた妻を殴った傷害容疑で逮捕されている。

1999年(平成11年)3月12日、池尻小学校の用務員を務めていた宅間は、小学校教諭等が飲む茶に精神安定剤を混入させる事件を起こし、同月14日に傷害容疑で伊丹警察署に逮捕され、翌15日に書類送検された。

調べによると宅間は12日正午、技能員室で精神安定剤入りの数錠の錠剤を急須の茶に溶かして飲んだが、約40分後に昼食を摂るため部屋に入ってきた教員が同じ急須にポットの湯を注ぎ足すと、宅間は精神安定剤が混ざっていることを知っていたにも関わらず、そのまま教員らの湯呑みに茶を注いだ。

約1時間半後になって、教員4人が目まいや口の痺れ、眠気などを訴えて、その後3日間入院した。

逮捕された宅間は調べに対し「妻から別れ話を切り出されたうえ、職場でもうまくいっておらず、視線を冷たく感じていた。

教諭四人にうらみはないが、うっぷんをはらそうと、軽い気持ちでお茶を出してしまった」

「先生達に無視され家族とも上手くいかず、人間関係による鬱憤を晴らしたかった」と話している。

校長は、宅間に怒鳴られた児童から苦情があったことを述べた上で「本人が家庭や仕事で悩んでいたようなので、何度か話し相手になって励ましてきたが残念」と述べている。

14日に開いた臨時児童朝礼では、宅間の逮捕には触れなかったが「皆さんに心配をかけた」と頭を下げ、「命を大切に、明るく安全な学校を作りましょう」と話した。

しかし宅間は「刑事責任能力なし」として刑事処分は受けず、神戸地検により不起訴処分となった。

その後、宅間は同年4月12日付で分限免職となり、精神保健福祉法に基づき、西宮市内の精神病院へ措置入院させられ(精神分裂病と診断)、本事件を起こすまで4回にわたり、入退院を繰り返した。

また、同年11月には民家に忍び込んだとして住居侵入容疑で逮捕され、本事件直前の2001年(平成13年)2月には暴行・器物損壊容疑で書類送検されている。