互いが互いの「鏡」となる
神を信じる宗教とは異なり、仏教は救済を自身の内に求めます。
それはエンパワーメント(内発的な能動の開発)そのものです。
そのうで、救済されるためには実践が必要です。
実践そして反復が、内なる哲学者を目覚めさせます。
私は「中道」という著書で、多くの仏教思想を紹介しています。
極端な方向に引かれやすく、あらゆる場面で性急な決断、白か黒かを迫れれる現代ですが、実際には、すぐに結論を出せない物事ばかりです。
いかし「不確かさ」と付き合うか。
中道の生き方が求められていると感じます。
カウンセリングに来る人たちは、多種多様な悩みを抱えていますが、全てに効く「特効薬」などありません。
そこで私が勧めているのが、中道という「徳」なのです。
アリストテレスも、孔子も、中庸(穏健)の美徳を重要視しました。
しかし、アリストテレスは集団よりも個人を優先し、それに比べ儒教には集団的な側面があります。
一方、仏教は全ての生きとして生けるものの価値を主張しつつ、集団としての関係性も強調しています。
仏教は、アリストテレスや儒教の長所を併せもった「中道の中の中道」であると思うのです。
<対話が持つ力>
私ども哲学カウンセリングにおいても、対話が何よりも大切です。
<リーダーのあり方>
世間には多くのリーダーシップのモデルがありますが、そのほとんどで、リーダーはピラミッドの頂点に座りながら、下層部の人たちを高みに導こうとします。
しかし、真のリーダーは、ピラミッドを逆さにして、自分自身がその最底辺に身を置き、全ての重みに耐えながら、人々を持ち上げようとするリーダーのあり方です。
私自身も、皆の上に立つのではなく、皆を励まし、皆を支え、皆の力となることで、実践哲学協会を発展させていこうと思っています。
誰に対しても、自分と対等な立場の人だと認められるかどうか。
私の場合、カウンセリングに訪れる人を尊敬するところから始まります。
まさしく、法華経に説かれる不軽菩薩の実践そのものなのです。
理解し合えない人や、自分を攻撃するような人と出会うと、私たちは相手を否定したくなります。
しかし、そした場合でも、相手のベストを引き出すことができるか。
その人の「内なる哲学者」を目覚めさせることができるかどうかです。
もちろんそれは、容易ではないからこそ、道徳的な力、度重なる実践を要します。
自分の可能性を開花させる人は、実践に次ぐ実践を貫く人であると、私は思うのです。
その過程においては、その人自身が自分を省みられるよう、「鏡」となる存在が必要です。
その意味で、誰しも、一人では実践できません。
一人一人が、互いの鏡となって支えあわなけばならないのです。
<仏教の実践の立場から>誰もが、自分の幸福のためだけでなく、他者の幸福のために喜んで尽くそうとする。
実はこうしたことは、一般的に、西洋人には理解しがたい行動です。
幸福とは「個人の幸福」を指すことが多いからです。
物質的に満たされることが幸福であるかのように錯覚してしまう時代です。
しかし、そうした幸福は周囲の環境が変われば消え去ってしまう。
真の幸福は、人でもなく、環境でもなく、自分自身の中から引き出さていくものなのです。
心の内に幸せを築けば、それは何ものにも奪われません。
だからそこ宗教が大切なのだと私は思います。
ルー・マリノフ
ニューヨーク市立大学教授。哲学博士。アメリカ哲学カウンセリング協会会長。
哲学の英知を日々の生活で直面する問題に応用する「哲学カウンセリング」のパイオニアとして著名。大学の講義、セミナーやカウンセリング、執筆、テレビ出演など精力的に活躍