新潟行きの特急電車が渋川駅を過ぎた辺りから、景観は一変した。
左右の山影が懐かしい。
右側を流れる利根川は清流となってゆく。
私は何度も特急電車の窓越しにカメラのシャッターを切った。
幼い日の、SL列車のもくもく流れる煤煙と石炭の臭いが蘇った。
車窓から見た沼田駅舎は昔のままだった。
参考
沼田駅(ぬまたえき)は、群馬県沼田市清水町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)上越線の駅である。
利根地方の中心都市・沼田市の代表駅であり、沼田盆地の中部、利根川と片品川によって形成された河岸段丘の西麓に位置する。吹割の滝・老神温泉・尾瀬などの片品川流域の観光拠点となっている。
駅から乗ったタクシーは、薄根小学校の方から伯父の家(下りの家)へ向かう。
途中道路沿いに宗教団体の会館があり、記念行事なのか、多くの信者と思われる人々が門から列をなしていた。
タクシー料金は1130円だった。
一時の天気雨が上がり、青空が広がっていた。
眼にする周囲の家々、庭の花々、林道、農道、竹藪のすべてがなっかしい。
姉は自分の結婚式以来、伯父に会っていなかったが、4月13日に亡き母の土地を見に行き、「おじさんに会ったわ」と言っていた。
亡き伯母・松子(母の姉・長女)の遺体に対面できると思っていたのに、聞けば何故か遺灰にしての通夜と告別式だった。
そして、先祖代々の墓地へ向かう野辺送り。
伯母・竹子(母の姉・三女)の家(上の家)を通過する時、庭の藤の花、チューリップなどが美しかった。
花好きの竹子おばさんは季節の花を絶さなかった。
蚕小屋が見えた時「お前たちは、2年間ここに住んでいたんだ」と父が言うのだ。
多起男ちゃんが婚約者を連れて来ていた。
福江ちゃんの子供も大きくなっていた。
年齢を聞くと私の息子と同じで、「13歳」と福江ちゃんが言っていた。
薫ちゃんはハンサムな従兄の敬蔵さんに似てなかなの美人になっていた。
私はこの年の誕生日には、44歳になろうとしていた。
啓助おじさんは84歳で、私とは40歳離れていた。
私父は75歳であった。
従弟の利男の二人の娘は、すでに高校3年と1年であった。
従弟は20歳で同じ年の女子と恋愛結婚していた。
私の古い日記には従弟の18歳の時の二人の恋愛の経緯が書かれていたことを、懐かしく思い出した。
「その日記、俺に譲っくれ」利男に懇願されたけど、日記には私の初恋のことも記載されていたので、それを断った。
従姉の春江さんは17歳で結婚して、今は、若いおばさんになっていたのだ。
伯父にとって、ひ孫が4人いることに。
春江さんの夫は従兄であり、敬蔵さんは60歳にしては若々しいかった。
私も16年後には敬蔵さんの年齢なのかと思ってみる。
多起男ちゃんは妹の子供と竹馬で遊んでいた。
弔辞を述べた人は婦人は81歳であったが、とてもそうは見えなかった。
聞けば元小学校の先生だった。
檀徒総代の姫城豊さんがついで弔辞を述べた。
髪を伸ばしいるが坊さんが読経を唱える。
寺は禅宗の法上院であった。
葬儀の後に、我々(父、姉、私)の香典が何処にもないと利男が言うのだ。
結局、見つかったのだが、気分がよくなかった。
家族は初七日で寺へ行く。
結局、5時3分の電車で帰るが、もう少し亡き母の故郷・沼田に留まることできのだった。
帰りは別れて姉は、従姉の乳がんで入院する浪江ちゃんに会いに行くのだ。
気の毒にも、浪江ちゃんは8年前の乳がん再発していた。
従弟の利男が車で沼田駅で送ってくれた。
老人クラブの前の道から、国道へ出る道が出来ていた。
この道は、細い農道を広げたものだ。
西の空が晴れて、子持山が見えていた。
私も、子ども心にも憧れた美しい浪江ちゃんに会いにゆくべきだった。
沼田・薄根(町田町)には何年後に来られるか?
心の余裕が欲しかった。
駅前の店で、沼田の地酒を買って、車内で父と飲んで埼玉・大宮の自宅に帰る。