「無病法」 ルイジ・コルナロ著(PHP) を読んだ。
おもしろかった。
(ちなみに、この本は、81%の人が☆5つか4つの評価をしている)
著者のルイジ・コルナロは、102歳まで健康に生きた人である。
晩年になっても、心身ともにすこぶる健康で幸福感を味わっている。
その幸福感を次のように述べている。
私は喜びにあふれている。食欲も十分にある。夜は完全に熟睡している。五官はなお完全で、頭脳も明晰だ。したがって、判断が曇ることもなく、記憶力もよい。気分も最高である。さらに、いち早く衰えやすいとされている声についても、衰えはない。むしろ年とともに強く大きくなっていて、朝晩のお祈りでは歌い出さずにはいられないほどだ。ちなみに以前は、自分に囁きかけるくらいのものであった。
ああ、素晴らしいわが人生よ! 人間が享受できる幸福のそのすべてに満たされているとは、なんという恵まれた生であろうか。もはやいかなる肉体的な欲求も私を悩ますということはなく、心は平和で、一点の不安もない。また、死が思いを占めることはなく、たとえ死の思いが過ったにしても、恐怖をおぼえることなどまったくない。
ランナーズハイでも、ここまでの幸福感を味わえないのではないだろうか。
では、ルイジ・コルナロがこのような幸福感を味わえるようになった要因は、いったい何だろうか?
それは、たった1つである。
次のように述べている。
これらはすべて、私が食事に気をつけてきたその努力の報いとして、神様がさずけて下さったものである。
そうなのだ。食事に気をつけていたのである。
どのように気をつけていたかというと・・・。
「極少食」である。
食べる量は、次の通り。
老人の一日には、卵一個の黄身と少しのパン、それにスプーン数杯のミルクで十分である。それ以上になると、病気や苦痛が生じ、天寿を損ないかねない。
私のばあい、パンと卵の黄身、スープまたはパン粥、それと肉や魚を少し、かわるがわる数種類食べている。
食べるものは、一日総量で正確に350g、飲み物(ワイン)については、四〇〇 ccである。これを2回に分けて食べていた。
ということは、1食あたりご飯茶碗1杯分と、ワインはコップ1杯である。
かなり少ない。まさに「極少食」と言える。
この量にしたことで、先ほどの幸福感を味わえている。
周りから勧められて、食事の量を増やしたこともあったそうだ。
1日に約350gから400gに(たった50g!)、また飲み物(ワイン)についても、400ccから450ccまで、それぞれ増やしたのである。
それからわずか十日後にはその影響があらわれはじめた。
それまで元気、快活であったのに、不機嫌になっただけでなく、憂鬱にもなり、なにもかもが面白くなくなってきた。
そして12日後には、脇腹にはげしい痛みをおぼえ、それが22時間にもわたって続き、あげくには熱まで出てきて、しかもそれがその後連続して35日間にも及んだ。
そこで、食事の量を元に戻したところ、元通りに元気になったそうである。
コルナロは、本の中で、繰り返し「極少食」にする必要性を述べている。
健康で長生きし、しかもその間に病気ひとつせず、最後には平和のうちに静かに息をひきとる、といった幸福な生涯を願う者はだれでも、飲食を最小限の量にさだめるべきである。
そうした生活では、血液が汚れることはなく、また胃から頭へのぼる悪気もなく、心はつねに穏やかで、気分は妙なる悦びに満たされている。
健康、不健康は、血液の状態と体液の質とに関係している。それゆえ、食欲ではなく理性にしたがい、飲食をつつしみ、自然が本当に必要とする量だけにかぎるなら、いかなる病気の原因も生じ得ない。すなわち、私が説く生活では、血液はきれいになり、悪い体液は除かれ、すべてが完全に調和のとれた状態となる。
少食にするメリットついては、「奇跡が起こる半日断食」甲田光雄著を読むとよく分かる。(この本についても、いずれブログで紹介したい)
この「無病法」は、極少食を身を持って体験した人の話なので、説得力がある。
おもしろかった。
(ちなみに、この本は、81%の人が☆5つか4つの評価をしている)
著者のルイジ・コルナロは、102歳まで健康に生きた人である。
晩年になっても、心身ともにすこぶる健康で幸福感を味わっている。
その幸福感を次のように述べている。
私は喜びにあふれている。食欲も十分にある。夜は完全に熟睡している。五官はなお完全で、頭脳も明晰だ。したがって、判断が曇ることもなく、記憶力もよい。気分も最高である。さらに、いち早く衰えやすいとされている声についても、衰えはない。むしろ年とともに強く大きくなっていて、朝晩のお祈りでは歌い出さずにはいられないほどだ。ちなみに以前は、自分に囁きかけるくらいのものであった。
ああ、素晴らしいわが人生よ! 人間が享受できる幸福のそのすべてに満たされているとは、なんという恵まれた生であろうか。もはやいかなる肉体的な欲求も私を悩ますということはなく、心は平和で、一点の不安もない。また、死が思いを占めることはなく、たとえ死の思いが過ったにしても、恐怖をおぼえることなどまったくない。
ランナーズハイでも、ここまでの幸福感を味わえないのではないだろうか。
では、ルイジ・コルナロがこのような幸福感を味わえるようになった要因は、いったい何だろうか?
それは、たった1つである。
次のように述べている。
これらはすべて、私が食事に気をつけてきたその努力の報いとして、神様がさずけて下さったものである。
そうなのだ。食事に気をつけていたのである。
どのように気をつけていたかというと・・・。
「極少食」である。
食べる量は、次の通り。
老人の一日には、卵一個の黄身と少しのパン、それにスプーン数杯のミルクで十分である。それ以上になると、病気や苦痛が生じ、天寿を損ないかねない。
私のばあい、パンと卵の黄身、スープまたはパン粥、それと肉や魚を少し、かわるがわる数種類食べている。
食べるものは、一日総量で正確に350g、飲み物(ワイン)については、四〇〇 ccである。これを2回に分けて食べていた。
ということは、1食あたりご飯茶碗1杯分と、ワインはコップ1杯である。
かなり少ない。まさに「極少食」と言える。
この量にしたことで、先ほどの幸福感を味わえている。
周りから勧められて、食事の量を増やしたこともあったそうだ。
1日に約350gから400gに(たった50g!)、また飲み物(ワイン)についても、400ccから450ccまで、それぞれ増やしたのである。
それからわずか十日後にはその影響があらわれはじめた。
それまで元気、快活であったのに、不機嫌になっただけでなく、憂鬱にもなり、なにもかもが面白くなくなってきた。
そして12日後には、脇腹にはげしい痛みをおぼえ、それが22時間にもわたって続き、あげくには熱まで出てきて、しかもそれがその後連続して35日間にも及んだ。
そこで、食事の量を元に戻したところ、元通りに元気になったそうである。
コルナロは、本の中で、繰り返し「極少食」にする必要性を述べている。
健康で長生きし、しかもその間に病気ひとつせず、最後には平和のうちに静かに息をひきとる、といった幸福な生涯を願う者はだれでも、飲食を最小限の量にさだめるべきである。
そうした生活では、血液が汚れることはなく、また胃から頭へのぼる悪気もなく、心はつねに穏やかで、気分は妙なる悦びに満たされている。
健康、不健康は、血液の状態と体液の質とに関係している。それゆえ、食欲ではなく理性にしたがい、飲食をつつしみ、自然が本当に必要とする量だけにかぎるなら、いかなる病気の原因も生じ得ない。すなわち、私が説く生活では、血液はきれいになり、悪い体液は除かれ、すべてが完全に調和のとれた状態となる。
少食にするメリットついては、「奇跡が起こる半日断食」甲田光雄著を読むとよく分かる。(この本についても、いずれブログで紹介したい)
この「無病法」は、極少食を身を持って体験した人の話なので、説得力がある。
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