今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「たとえば昭和初年、私がまだ子供だったころ、新聞は毎日財界と政界の腐敗を書いた。あんまり書くから、読者は信じた。いっそ殺してしまったらと、若者たちは井上準之助を、高橋是清を、犬養毅を、その他大勢を殺した。
古いことでお忘れなら、吉田茂首相を思いだして頂く。彼ならまだご記憶だろう。
彼は歴代宰相のうち、最も評判の悪い人だった。新聞は三百六十五日、彼の悪口を言った。しまいには、犬畜生みたいに言った。カメラマンにコップの水をあびせたと、天下の一大事みたいに騒いだ。捕物帖の愛読者だと、その教養の低きを笑った。ついには角帯をしめ、白足袋をはいて貴族趣味だと、難癖をつけた。不吉なことを言って恐縮だが、当時彼がテロにあわなかったのは僥倖である。
わが国の新聞は、明治以来野党精神に立脚しているという。義のためなら権威に屈しないという。自分で言うのだから、眉ツバものだが、読者は反駁するデータを持たない。ほんとだと思うよりほかない。
けれどもこれは、悪口雑言である。人をほめて面白く読ませるのは至難である。悪く言って面白がらせるのは容易だから、易きについたのだと私は思っている。
どんな愚かものでも、他人の悪口だけは理解する。だから、柄(え)のないところへ柄をすげて、読者に取入って、それを野党精神だと自らあざむくのである。」
(山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
「たとえば昭和初年、私がまだ子供だったころ、新聞は毎日財界と政界の腐敗を書いた。あんまり書くから、読者は信じた。いっそ殺してしまったらと、若者たちは井上準之助を、高橋是清を、犬養毅を、その他大勢を殺した。
古いことでお忘れなら、吉田茂首相を思いだして頂く。彼ならまだご記憶だろう。
彼は歴代宰相のうち、最も評判の悪い人だった。新聞は三百六十五日、彼の悪口を言った。しまいには、犬畜生みたいに言った。カメラマンにコップの水をあびせたと、天下の一大事みたいに騒いだ。捕物帖の愛読者だと、その教養の低きを笑った。ついには角帯をしめ、白足袋をはいて貴族趣味だと、難癖をつけた。不吉なことを言って恐縮だが、当時彼がテロにあわなかったのは僥倖である。
わが国の新聞は、明治以来野党精神に立脚しているという。義のためなら権威に屈しないという。自分で言うのだから、眉ツバものだが、読者は反駁するデータを持たない。ほんとだと思うよりほかない。
けれどもこれは、悪口雑言である。人をほめて面白く読ませるのは至難である。悪く言って面白がらせるのは容易だから、易きについたのだと私は思っている。
どんな愚かものでも、他人の悪口だけは理解する。だから、柄(え)のないところへ柄をすげて、読者に取入って、それを野党精神だと自らあざむくのである。」
(山本夏彦著「茶の間の正義」所収)