今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「選挙前の代議士は、もと代議士と、前代議士の二種に分けられる。私は戯れに、人類を二種に分ける。『もと人類』と『類人類』の二種である。
もと人類とは、雨にも風にも伝染病にも、生残る人間のことで、類人類とは、雨にも風にも吹けばとぶよな亜人間――人に亜(つ)ぐ人間のことである。天然痘はおろか、はしかにも死ぬ子が新薬のおかげで助かるのは、本人および隣人にとって幸か不幸か、考え直していいのではないか。
前にも書いたが、たとえば、上り列車が通ったからと、踏切を突っきって、下り列車にひかれたとは、よく聞く事故だが、上りが通過したら、あるいは下りも来るかと、うかがうのがもと人類だろう。
狼はがつがつ食べながら、常に背後に用心している。うしろからあんぐり、今度は自分が食われるかもしれないからである。
新薬プラス社会保障やら何やらで、むやみに亜人間を保護するのは、考えものである。会社員であれ労働者であれ、同僚のだれが一人前で、だれが半人前か、あるいはそれ以下の邪魔者か、口には出さぬが知っているはずだ。
一人前の人間は、今は三人に一人、五人に一人あるかなしである。その一人が、あとの二人を、または四人を支え、脂汗たらして養って、さりとてそれだけの給金がもらえるわけではないのである。むろん、養われているものは、そんなこととは知らない。
知らないのは、知りたくないからで、悪貨は良貨を駆逐するそうだから、もと人類が結束して、類人類を追っぱらおうとしてもむだである。とうてい衆寡敵しない。
組合や結社は衆だから、想像力の欠如や無能を理由に、やめさせることはできない。できれば、休まず遅れず働かずを信条とする勤め人のたぐいは解雇され、結社は瓦解してしまうから、よしんば委員長が抜群の人物であったにしても、衆にくみして寡を追うことは明らかである。
かくて天下は、類人類のものである。」
(山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
「選挙前の代議士は、もと代議士と、前代議士の二種に分けられる。私は戯れに、人類を二種に分ける。『もと人類』と『類人類』の二種である。
もと人類とは、雨にも風にも伝染病にも、生残る人間のことで、類人類とは、雨にも風にも吹けばとぶよな亜人間――人に亜(つ)ぐ人間のことである。天然痘はおろか、はしかにも死ぬ子が新薬のおかげで助かるのは、本人および隣人にとって幸か不幸か、考え直していいのではないか。
前にも書いたが、たとえば、上り列車が通ったからと、踏切を突っきって、下り列車にひかれたとは、よく聞く事故だが、上りが通過したら、あるいは下りも来るかと、うかがうのがもと人類だろう。
狼はがつがつ食べながら、常に背後に用心している。うしろからあんぐり、今度は自分が食われるかもしれないからである。
新薬プラス社会保障やら何やらで、むやみに亜人間を保護するのは、考えものである。会社員であれ労働者であれ、同僚のだれが一人前で、だれが半人前か、あるいはそれ以下の邪魔者か、口には出さぬが知っているはずだ。
一人前の人間は、今は三人に一人、五人に一人あるかなしである。その一人が、あとの二人を、または四人を支え、脂汗たらして養って、さりとてそれだけの給金がもらえるわけではないのである。むろん、養われているものは、そんなこととは知らない。
知らないのは、知りたくないからで、悪貨は良貨を駆逐するそうだから、もと人類が結束して、類人類を追っぱらおうとしてもむだである。とうてい衆寡敵しない。
組合や結社は衆だから、想像力の欠如や無能を理由に、やめさせることはできない。できれば、休まず遅れず働かずを信条とする勤め人のたぐいは解雇され、結社は瓦解してしまうから、よしんば委員長が抜群の人物であったにしても、衆にくみして寡を追うことは明らかである。
かくて天下は、類人類のものである。」
(山本夏彦著「茶の間の正義」所収)