今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「犬好きの人は犬と話し、犬と戯れ、犬と共に買物や散歩に出る。ときにはながながと何やら相談までする。
彼は、犬のなかに犬を見る。自分より一段劣った畜生を見て、あわれと思うらしいが、私は犬のなかに人を見て、畜生を見ない。」
「犬はよく横丁を疾走する。出あいがしらに私は、それとぶつかってあっけにとられる。彼に急用があろうとは思われぬのに、何用あって急行するか。いやいや我らの同類にも、何か知らぬが疾走する者がある、と考え直すのである。」
「犬は刻々に大きくなるわが仔を、その成長に応じて世話する、あるいは世話しない。生まれたては、飼主がだきあげてさえ奪われるかと心配する。十日たてば十日目の心配、半月たてば半月目の心配だけする。そして次第に乳をのませまいと、じゃけんにする。半年もたてばあかの他人である。
その成長に応じて、世話をやかなくなる過程を、人類の親どもは見習わなければいけない。中学、高校の入学試験に、親犬ならついて行かない。
こうして私は、犬と人を区別しなくなった。ばかりか、犬は人の鑑かと思うにいたった。
けれどもそれは、一視同仁の愛から発したものではない。
むしろ反対である。両者は共に哺乳類に属するから、さしたる相違はあるはずがないと、はじめ思い、次第に人類に対する嫌悪から、犬は人の鑑かと発見するにいたったのである。
私は人類を愛してない。見限っている。見限ったのは、大勢の人類に接して、一々話しあった上でのことではない。自分の内心を見て、愛想をつかしたのである。
私は事大主義を憎むが、わが内心にそれが絶無なら、憎むことはないはずである。それがあるから、大げさに感じて、自他のそれを指弾してやまないのである。
私は他人を見るよりも、自分を見て、また禽獣を見て、人類の内心を知った。
たとえば、人は隣人の悲運を喜ぶ。愁傷のふりをして、いそいそとかけつけ、家中を見回して、昨日に変る零落ぶりをひそかに喜ぶ。こんな喜びを犬は喜ばない。
いや自分は喜ばないと言いはる人がある。ひそかに喜んだ喜びは、他人には見えないから、目に見えぬものは存在しないと、結束して言いはるのである。
だからむしろ、隣人の幸運を、心から祝い得るものの方が、真の善人なのだという説がある。降ってわいた他人の幸運は、いまいましい。それを心から祝えたらモラルだというのである。
私は嫉妬心は強い方ではない。それでも隣人のにわかな富貴は私を傷つける。虚栄心も強い方ではない。二十年来あばら屋に住んで改造しようとしない。門戸をはる気はさらにない。まして残忍の心はないはずである。鳩の血を見ても顔をそむける。
けれども、つくづく見れば、わが内心に残忍も虚栄も嫉妬も、言うまでもなく十分あるのである。私はそれらを一々つまみだして、小なりといえ、私が人類の縮図であることを知ったのである。そしてこれらが修養によって征伐できないものと分って、我と我が身に愛想をつかしたのである。」
(山本夏彦著「茶の間の正義」所収)
「犬好きの人は犬と話し、犬と戯れ、犬と共に買物や散歩に出る。ときにはながながと何やら相談までする。
彼は、犬のなかに犬を見る。自分より一段劣った畜生を見て、あわれと思うらしいが、私は犬のなかに人を見て、畜生を見ない。」
「犬はよく横丁を疾走する。出あいがしらに私は、それとぶつかってあっけにとられる。彼に急用があろうとは思われぬのに、何用あって急行するか。いやいや我らの同類にも、何か知らぬが疾走する者がある、と考え直すのである。」
「犬は刻々に大きくなるわが仔を、その成長に応じて世話する、あるいは世話しない。生まれたては、飼主がだきあげてさえ奪われるかと心配する。十日たてば十日目の心配、半月たてば半月目の心配だけする。そして次第に乳をのませまいと、じゃけんにする。半年もたてばあかの他人である。
その成長に応じて、世話をやかなくなる過程を、人類の親どもは見習わなければいけない。中学、高校の入学試験に、親犬ならついて行かない。
こうして私は、犬と人を区別しなくなった。ばかりか、犬は人の鑑かと思うにいたった。
けれどもそれは、一視同仁の愛から発したものではない。
むしろ反対である。両者は共に哺乳類に属するから、さしたる相違はあるはずがないと、はじめ思い、次第に人類に対する嫌悪から、犬は人の鑑かと発見するにいたったのである。
私は人類を愛してない。見限っている。見限ったのは、大勢の人類に接して、一々話しあった上でのことではない。自分の内心を見て、愛想をつかしたのである。
私は事大主義を憎むが、わが内心にそれが絶無なら、憎むことはないはずである。それがあるから、大げさに感じて、自他のそれを指弾してやまないのである。
私は他人を見るよりも、自分を見て、また禽獣を見て、人類の内心を知った。
たとえば、人は隣人の悲運を喜ぶ。愁傷のふりをして、いそいそとかけつけ、家中を見回して、昨日に変る零落ぶりをひそかに喜ぶ。こんな喜びを犬は喜ばない。
いや自分は喜ばないと言いはる人がある。ひそかに喜んだ喜びは、他人には見えないから、目に見えぬものは存在しないと、結束して言いはるのである。
だからむしろ、隣人の幸運を、心から祝い得るものの方が、真の善人なのだという説がある。降ってわいた他人の幸運は、いまいましい。それを心から祝えたらモラルだというのである。
私は嫉妬心は強い方ではない。それでも隣人のにわかな富貴は私を傷つける。虚栄心も強い方ではない。二十年来あばら屋に住んで改造しようとしない。門戸をはる気はさらにない。まして残忍の心はないはずである。鳩の血を見ても顔をそむける。
けれども、つくづく見れば、わが内心に残忍も虚栄も嫉妬も、言うまでもなく十分あるのである。私はそれらを一々つまみだして、小なりといえ、私が人類の縮図であることを知ったのである。そしてこれらが修養によって征伐できないものと分って、我と我が身に愛想をつかしたのである。」
(山本夏彦著「茶の間の正義」所収)