今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「年賀状は虚礼だという。ことに印刷されたそれは味もそっけもない、あんなもの、いくらくれてもうれしくない、こっちからは出さないからそのつもりでいてくれと、新聞雑誌に書く文化人が多い。
戦前から書いているから、ははあそんなものかと思っていたら、なにあれは貰うのは好きだが、出すのは嫌いだというほどのことだと知れた。」
「たとえ十枚でも年賀状が来るのは、まだ生きている証拠である。それを記憶してくれる人があるしるしである。死んだら一枚も来はしない。年々歳々ふえるのは、誰の目にもいよいよ生きて、いよいよ世間で活動しているしるしである。
元日の朝、それを山とつんで、気分が悪かろうはずがない。生けるしるしと、商売繁盛のしるしの両方を共に見て、他人には『年賀状なんて』と馬鹿にするのだから、まっ赤なうそでないまでも、なかばうそである。」
「年賀状なら誰しも貰ってうれしく、返すのは面倒だから、つい返さないのは人情で、深くとがめるには当らない。ただ、そのやりとりは愚かだと説教するのはよけいなお世話である。
なぜこんな説教をするのだろう。人は高い所から、話したり書くときは別人になる。一面をかくして、一面を誇張して、それを自分だと思い、思わせたがる。
かくて口と腹が違うのは、政治家や上役ばかりではない、我々の常である。正直を志す芸術家も、我にもあらずうそを書く。
たかが葉書のやりとりでさえこれだもの、あとは推して知るべしである。印刷された言葉なら、まずたいていは眉つばだと、一度は疑ってかかるがいい。」
(山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)
「年賀状は虚礼だという。ことに印刷されたそれは味もそっけもない、あんなもの、いくらくれてもうれしくない、こっちからは出さないからそのつもりでいてくれと、新聞雑誌に書く文化人が多い。
戦前から書いているから、ははあそんなものかと思っていたら、なにあれは貰うのは好きだが、出すのは嫌いだというほどのことだと知れた。」
「たとえ十枚でも年賀状が来るのは、まだ生きている証拠である。それを記憶してくれる人があるしるしである。死んだら一枚も来はしない。年々歳々ふえるのは、誰の目にもいよいよ生きて、いよいよ世間で活動しているしるしである。
元日の朝、それを山とつんで、気分が悪かろうはずがない。生けるしるしと、商売繁盛のしるしの両方を共に見て、他人には『年賀状なんて』と馬鹿にするのだから、まっ赤なうそでないまでも、なかばうそである。」
「年賀状なら誰しも貰ってうれしく、返すのは面倒だから、つい返さないのは人情で、深くとがめるには当らない。ただ、そのやりとりは愚かだと説教するのはよけいなお世話である。
なぜこんな説教をするのだろう。人は高い所から、話したり書くときは別人になる。一面をかくして、一面を誇張して、それを自分だと思い、思わせたがる。
かくて口と腹が違うのは、政治家や上役ばかりではない、我々の常である。正直を志す芸術家も、我にもあらずうそを書く。
たかが葉書のやりとりでさえこれだもの、あとは推して知るべしである。印刷された言葉なら、まずたいていは眉つばだと、一度は疑ってかかるがいい。」
(山本夏彦著「毒言独語」中公文庫 所収)