今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「日常の会話や文章は、省略から成っている。ことに日本語はそれがはなはだしく、肝腎かなめの主語さえ省略する。
主語とは、私とか彼とか彼女のたぐいで、新聞の社説やコラムには『私』は出てこない。これらは匿名、または無署名の記事だから、もともと『私』の出る幕はないのである。」
「省略は、その省かれた部分を補えば分るようにして、初めて省略である。それは直ちに補えなければならない。(本当はすれすれの方がいいと私は思っているが、それを言うと事が面倒になるから今は言わない)。
かりに『ベトナムから手を引け』という新聞記事のタイトルがあるとすれば、それは『アメリカ人よ』という呼びかけが省かれているのである。これならどんな勘のにぶい人にも分る。そしてその内容に、アメリカ人を叱る語気があったとして、ニ、三日して『お叱りは返上したい』という記事が出たとすれば、書いたのはアメリカ人で、アメリカ人は我々にお叱りはそっくり返上したいと言っているのである。
誰が誰に向って呼びかけているか、言わずと知れた場合は省くから、補えば分るはずなのに、分らないときは、タイトルのほうが間違っているのである。間違っていれば笑われて、そのタイトルは引っこむはずなのに、引っこまないでなが年通用しているものがあるから、その例をあげる。
名高いのは広島の碑(いしぶみ)である。広島の戦災を記念して、立っている石にはこう書いてあるそうである。
『安らかに眠ってください。過ちは繰返しませんから――』
安らかにというのは、広島で死んだ皆さん、と呼びかけているのは明らかで、明らかだから省いたのだろう。過ちは繰返しませぬと言っているのは、『私どもは』を省いたとしか思えない。
私どもは過ちは繰返さないから、なくなった皆さん、迷わず成仏してくれと、この碑は語っているのだろう。
これでは爆弾を落したのは、まるで私どもみたいである。落したのは私どもではないのだから、不思議な碑である。これを『過ちは繰返させませんから』と改めれば、首尾はととのうけれど、改めないままこの石は二十年近く立っている。
除幕式には、朝野の名士が参列したはずである。それ以前にこの碑文は、広島県知事、同市長をはじめ何十人の目を通ったはずである。それなのに誰も怪しむものがなかったから、そのまま立てられたのである。まっさきにおかしいと言ったのは、除幕式に参列したインド人だったそうである。
以来、その間違いを笑う人はないではないが、いまだにこれが改められないのは、さっき不思議だと言ったが、実は不思議ではないのである。これでいいのだという説があって、それが有力なのである。
言葉の乱れは心の乱れで、言葉を正そうとすれば、その奥にまで立入らなければならない。文章は志を述べるもので、述べてあいまいなのは志があいまいなのである。まして石は百年二百年残るものである。何十人の目をくぐって、なおこれが彫られたのは、これでいいのだという人があって、それに一理があって、他の一理を圧したのであろう。」
(山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)
「日常の会話や文章は、省略から成っている。ことに日本語はそれがはなはだしく、肝腎かなめの主語さえ省略する。
主語とは、私とか彼とか彼女のたぐいで、新聞の社説やコラムには『私』は出てこない。これらは匿名、または無署名の記事だから、もともと『私』の出る幕はないのである。」
「省略は、その省かれた部分を補えば分るようにして、初めて省略である。それは直ちに補えなければならない。(本当はすれすれの方がいいと私は思っているが、それを言うと事が面倒になるから今は言わない)。
かりに『ベトナムから手を引け』という新聞記事のタイトルがあるとすれば、それは『アメリカ人よ』という呼びかけが省かれているのである。これならどんな勘のにぶい人にも分る。そしてその内容に、アメリカ人を叱る語気があったとして、ニ、三日して『お叱りは返上したい』という記事が出たとすれば、書いたのはアメリカ人で、アメリカ人は我々にお叱りはそっくり返上したいと言っているのである。
誰が誰に向って呼びかけているか、言わずと知れた場合は省くから、補えば分るはずなのに、分らないときは、タイトルのほうが間違っているのである。間違っていれば笑われて、そのタイトルは引っこむはずなのに、引っこまないでなが年通用しているものがあるから、その例をあげる。
名高いのは広島の碑(いしぶみ)である。広島の戦災を記念して、立っている石にはこう書いてあるそうである。
『安らかに眠ってください。過ちは繰返しませんから――』
安らかにというのは、広島で死んだ皆さん、と呼びかけているのは明らかで、明らかだから省いたのだろう。過ちは繰返しませぬと言っているのは、『私どもは』を省いたとしか思えない。
私どもは過ちは繰返さないから、なくなった皆さん、迷わず成仏してくれと、この碑は語っているのだろう。
これでは爆弾を落したのは、まるで私どもみたいである。落したのは私どもではないのだから、不思議な碑である。これを『過ちは繰返させませんから』と改めれば、首尾はととのうけれど、改めないままこの石は二十年近く立っている。
除幕式には、朝野の名士が参列したはずである。それ以前にこの碑文は、広島県知事、同市長をはじめ何十人の目を通ったはずである。それなのに誰も怪しむものがなかったから、そのまま立てられたのである。まっさきにおかしいと言ったのは、除幕式に参列したインド人だったそうである。
以来、その間違いを笑う人はないではないが、いまだにこれが改められないのは、さっき不思議だと言ったが、実は不思議ではないのである。これでいいのだという説があって、それが有力なのである。
言葉の乱れは心の乱れで、言葉を正そうとすれば、その奥にまで立入らなければならない。文章は志を述べるもので、述べてあいまいなのは志があいまいなのである。まして石は百年二百年残るものである。何十人の目をくぐって、なおこれが彫られたのは、これでいいのだという人があって、それに一理があって、他の一理を圧したのであろう。」
(山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)