「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・06・23

2005-06-23 05:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「何度も書いて恐縮だが、六〇年安保のとき、情報はあげて、アンポ粉砕、内閣を倒せと書いた。新聞は群集のなかに、首相を殺せという声がしきりだと報じた。毎日報じたから、読者は首相の死を期待して、その日が刻々に近づくのを、手に汗にぎって待った。
 情報は我々を支配する。我々は勇んで支配され、勇んだせいで支配された自覚をもたない。かくの如きがよい情報である。
 新聞はそれを承知で、湯水のように同じ報道を繰返して、そして土壇場になって、皆さん暴力はやめましょうと、猫なで声を出して、へなへなとおしまいになったこと、ご存じの通りである。
 猫なで声を出すように奔走したのは、大新聞の大幹部で、下っぱの知ったことではない。下っぱは本気で彼は死ねばいいと思っていた。資本は読者をしてここに至らしめ、首尾よく至ったのに我ながら驚いて、冷水をあびせたのである。
 すなわち大衆を愚弄したのである。めでたく大衆は愚弄されたからいいが、いつも愚弄されるとはかぎらない。されないで、殺せといわれたから、殺したらどうか。むろん殺した男は犯人で、追われて、とらえられて、罰せられるだろうが、マスコミのほうは罰せられない。
 新聞はこのときもまた紙面をあげ、暴漢と暴力をとがめ、二度と不祥事を繰返すなと国民をいましめることだろう。それをキャンペーンと称することだろう。
 これによって新聞は、他の責任を問うことはできても、自分のそれを問われて、答えられるほど統一ある存在でないことが分る。
 同じ経過を、我々は前の大戦のときに見た。新聞はあの戦争は不可避だと書いた。毎日巨大な活字で書いて、それ以外の情報を提供することを惜しんだ。読者はその気になって、鸚鵡返しに不可避だと言った。
 そして敗戦後、マスコミは他をとがめて、自己を省ることがなかったが、それは必ずしも厚顔無恥のせいではない。新聞はどこに責任者がいるか、追求すればするほどわからなくなる正体不明の法人なのである。しばらく追求して、たぶん張本人が分らなくて、追求するのをやめたのだろう。そして、その体質はいまだにちっとも変ってない。ばかりか、テレビという、正体不明の法人がふえた。
 だから一旦緩急あれば、今後も同じことを繰返すはずである。かれが情報を提供することを繰返すばかりでなく、われも勇んでそれに左右されることを繰返すはずである。」

   (山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)
 
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