「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2005・06・18

2005-06-18 05:30:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。

 「テレビ育ちの少年が、大人になりつつある。彼らはそれがなかったころを、もう察することができない。大げさに言えば、ほとんど想像を絶する。テレビがなくて、どうして毎日を過していたのだろう。さぞ退屈だったことだろうと、怪しんだり、あわれんだりする。
 聞いて私は驚いたが、べつに驚くに当らぬと気がついた。
 大人たちは電灯の下で生れ、育っている。だから、行灯の明るさ、または暗さを知らない。百年前の人は、夜をどうして過していたのだろう。さぞ暗かったことだろうと、怪しんだり、あわれんだりしている。
 十年前を察することができない者は、百年前を察することができない。千年前を、万年前を察することができない。
 あの少年とこの大人は、全く同一の人物である。実の親子より、親子である。
 いったい我々人間は、自分で思うほど想像力を持たないものである。類推力さえ持たないものである。
 電気がつかなかったのは、自分の家だけではなかった。どこの家にもつかなかった。何のこともありはしない。
 日本の夜は、暗かったのである。そのかわり、月は明るかったのである。
 いくら月が明るくても、ネオンサインには及ぶまい。ために月は光を失ったではないかと、ありがたがるなら、毎日を感謝で過すがいい。
 ありがたいという言葉は、まだ残ってはいるけれど、実物は滅びた。あるのはすさんだ心ばかりである。出るのは不平不満ばかりである。誰のせいでもない。文明のせいである。私はネオンはもとより、電灯も自動車もいらない。テレビもラジオも無用だと書いたことがある。
 これら文明の利器は、人間の内奥の福祉とは、本来無縁だと言ったのである。かりに電灯は行灯の十倍明るいとすれば、今人は古人より十倍倖せかと問うと、たいていの人はいやな顔する。
 テレビまでは分るが、行灯じゃあんまりだと言いたいのだろう。けれども、テレビも電気も同じ料簡――科学から生れたものなら、片っぽを否定して片っぽを肯定することはできない。」

   (山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)
コメント
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