今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「テレビ育ちの少年が、大人になりつつある。彼らはそれがなかったころを、もう察することができない。大げさに言えば、ほとんど想像を絶する。テレビがなくて、どうして毎日を過していたのだろう。さぞ退屈だったことだろうと、怪しんだり、あわれんだりする。
聞いて私は驚いたが、べつに驚くに当らぬと気がついた。
大人たちは電灯の下で生れ、育っている。だから、行灯の明るさ、または暗さを知らない。百年前の人は、夜をどうして過していたのだろう。さぞ暗かったことだろうと、怪しんだり、あわれんだりしている。
十年前を察することができない者は、百年前を察することができない。千年前を、万年前を察することができない。
あの少年とこの大人は、全く同一の人物である。実の親子より、親子である。
いったい我々人間は、自分で思うほど想像力を持たないものである。類推力さえ持たないものである。
電気がつかなかったのは、自分の家だけではなかった。どこの家にもつかなかった。何のこともありはしない。
日本の夜は、暗かったのである。そのかわり、月は明るかったのである。
いくら月が明るくても、ネオンサインには及ぶまい。ために月は光を失ったではないかと、ありがたがるなら、毎日を感謝で過すがいい。
ありがたいという言葉は、まだ残ってはいるけれど、実物は滅びた。あるのはすさんだ心ばかりである。出るのは不平不満ばかりである。誰のせいでもない。文明のせいである。私はネオンはもとより、電灯も自動車もいらない。テレビもラジオも無用だと書いたことがある。
これら文明の利器は、人間の内奥の福祉とは、本来無縁だと言ったのである。かりに電灯は行灯の十倍明るいとすれば、今人は古人より十倍倖せかと問うと、たいていの人はいやな顔する。
テレビまでは分るが、行灯じゃあんまりだと言いたいのだろう。けれども、テレビも電気も同じ料簡――科学から生れたものなら、片っぽを否定して片っぽを肯定することはできない。」
(山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)
「テレビ育ちの少年が、大人になりつつある。彼らはそれがなかったころを、もう察することができない。大げさに言えば、ほとんど想像を絶する。テレビがなくて、どうして毎日を過していたのだろう。さぞ退屈だったことだろうと、怪しんだり、あわれんだりする。
聞いて私は驚いたが、べつに驚くに当らぬと気がついた。
大人たちは電灯の下で生れ、育っている。だから、行灯の明るさ、または暗さを知らない。百年前の人は、夜をどうして過していたのだろう。さぞ暗かったことだろうと、怪しんだり、あわれんだりしている。
十年前を察することができない者は、百年前を察することができない。千年前を、万年前を察することができない。
あの少年とこの大人は、全く同一の人物である。実の親子より、親子である。
いったい我々人間は、自分で思うほど想像力を持たないものである。類推力さえ持たないものである。
電気がつかなかったのは、自分の家だけではなかった。どこの家にもつかなかった。何のこともありはしない。
日本の夜は、暗かったのである。そのかわり、月は明るかったのである。
いくら月が明るくても、ネオンサインには及ぶまい。ために月は光を失ったではないかと、ありがたがるなら、毎日を感謝で過すがいい。
ありがたいという言葉は、まだ残ってはいるけれど、実物は滅びた。あるのはすさんだ心ばかりである。出るのは不平不満ばかりである。誰のせいでもない。文明のせいである。私はネオンはもとより、電灯も自動車もいらない。テレビもラジオも無用だと書いたことがある。
これら文明の利器は、人間の内奥の福祉とは、本来無縁だと言ったのである。かりに電灯は行灯の十倍明るいとすれば、今人は古人より十倍倖せかと問うと、たいていの人はいやな顔する。
テレビまでは分るが、行灯じゃあんまりだと言いたいのだろう。けれども、テレビも電気も同じ料簡――科学から生れたものなら、片っぽを否定して片っぽを肯定することはできない。」
(山本夏彦著「変痴気論」中公文庫 所収)