今日の「お気に入り」は、山田太一さんの「断念するということ」と題した小文の中から。
「 海外を旅して、たとえばパリでノートルダムもルーヴルも見なかったといえば呆れられ、台北へ行って故宮博物院を
訪ねなかったといえばなにをしていたのかと疑われる。一歩足をのばせば行けるものを何故行かなかったのかと、信じ
られないというような顔をされる。
では、そんなにノートルダムを愛し、故宮博物院の名品に心奪われているのかというと別にそれほどのことはなく、
衆人の認めるコースをたどる『可能性』を手にしながら、それに背を向ける人間は『不自然』なのである。東大へ入
れる学力を持ちながら、高校で終りたいなどということも『不自然』である。あと数時間眠らずに頑張ればノルマを
達成出来たのに諦めてしまった社員は人間としてもあまり上等ではないと見られてしまう。そういう世界に私たちは
生きている。
そして半分ぐらいは、そうした世界にうんざりもしているのではないだろうか?ルーヴルの前へ行って美術館に入ら
ず、公園のベンチで日射しの動くのを見ているなどということは、まったく日本人には苦手だし、私だってそれが素晴
らしいとばかりは思わないが、といって中へ入って目ぼしい(といわれている)名作を駆け足で見て回り、売店で関連
の絵はがきやみやげを買い、記念写真をとってスケジュールをこなしたと一息つく人生の空疎を感じないわけにもいか
ない。
どこかで的をはずしている。結構頑張って生きているのだが、力点がずれている。おだやかな幸福感がない。平安が
ない。老いてもまだ可能性を追い、あれも出来るこれも出来ると、まだ行ってない国はどことどこだとツアーのカタ
ログをめくって、スケジュールをつくる。それが老後の有力な理想型である。
無論それが悪いとは言わない。しかし、その根底に、自分がこれまで生きて来られて、いまなお生きているのは、
なにものかの恩寵とはいわないまでも、無数の細かな偶然に支えられているのであり、決して自分の力ではないと
いう認識があるべき――とはいわないが、あった方が幸福だろうという思いはある。実際、いつ地震に遭っても交通
事故に遭っても死病にかかっても不思議はない人生を、何十年か、なんとか生きて来られたということは驚くべき
ことであり、それに深く思いをいたせばわざわざ旅に出なくても、深い幸福感を得られるかも知れず、また旅に出
ても、目にするものの味わいが深いにちがいない。」
(山田太一編「生きるかなしみ」ちくま文庫 筑摩書房刊 所収)