今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から。
「ある種の動植物が全地球を覆うことはない。一時覆ったように見えても忽ち滅びる。イナゴの大群が畑を襲うと天日ために暗くなるという。この世の終りかと案ずるには及ばない。イナゴは畑を食いつくすとこんどはバタバタ倒れて死んでしまう。ゴキブリもそうである。次はゴキブリの天下かと恐れられたが近ごろ勢いがない。テレビのコマーシャルに出てないようなのでそれと知られる。
イナゴは満腹したあげく死ぬのである。苦しむのは人間だけである。イナゴの天国だの雀の天国だのがないように人間の天国もまたないと堀秀彦が言うように私も思っている。
実を言うと私は死ぬのが大好きなのである。浮世は生きるに価しないとは再三言った。思いおくことさらにないという心境である。それにしては生きすぎた。『おいくつです?』と問われると、このごろ私は言下に『百』と答えることにしている。
人の年を知りたがるのはその背後に死を見るからで、自分より年上だと自分よりさきに死ぬと安心する。バカだな老少不定(ふじょう)というではないか。こんなことを言うのは私はつい四、五日前死にかけたからである。救急車に頼んでわが馴染の赤坂の前田病院にかけつけてもらった。『うっ』といってこれで死ねるかこれなら楽だ、しめたと思ったが、その間心臓が正しく働いているのを感じて大丈夫だと知った。退院して両三日になる。」
(山本夏彦著「『社交界』たいがい」文春文庫 所収)