今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。
「私は坂道で何度もころんだことがある。味噌は車が傾くと共に傾いて車をおこしても味噌はおきないから自転車は堂とばかり倒れるのである。せっかくの西瓜を二つ割ったことがある。私は妻にさあ食え、そんなに食いたいのは気持が食いたいのだ、だれが南京豆なんぞ食いたいものかと言って食わせたら、そのときは食わなかったが帰ったら海苔の罐ひと罐ぶんの南京豆を食べてけろりとしていた。西瓜は一つ半食べた。これによってみると食欲の半ばは想像力だと分った。空襲のあるまではまだそんなに飢えてないのである。ただおびえているのである。たったいま汁粉を食べたのにさらに甘納豆に手を出すのである。いま食べないと食べられなくなると思うのである。だからうんざりするまで食べさせれば悟りを開くかというと、開く人々はそんなことをしなくても開くし、開かない人はいくら食べさせてもだめなので、私はつとに悟りを開いていたからついぞひもじい思いをしたことがないといったが、なにもともとそんなに腹はへらないたちなのである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「私は坂道で何度もころんだことがある。味噌は車が傾くと共に傾いて車をおこしても味噌はおきないから自転車は堂とばかり倒れるのである。せっかくの西瓜を二つ割ったことがある。私は妻にさあ食え、そんなに食いたいのは気持が食いたいのだ、だれが南京豆なんぞ食いたいものかと言って食わせたら、そのときは食わなかったが帰ったら海苔の罐ひと罐ぶんの南京豆を食べてけろりとしていた。西瓜は一つ半食べた。これによってみると食欲の半ばは想像力だと分った。空襲のあるまではまだそんなに飢えてないのである。ただおびえているのである。たったいま汁粉を食べたのにさらに甘納豆に手を出すのである。いま食べないと食べられなくなると思うのである。だからうんざりするまで食べさせれば悟りを開くかというと、開く人々はそんなことをしなくても開くし、開かない人はいくら食べさせてもだめなので、私はつとに悟りを開いていたからついぞひもじい思いをしたことがないといったが、なにもともとそんなに腹はへらないたちなのである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)