「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

2006・06・25

2006-06-25 09:20:00 | Weblog
 今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。

 「疎開するとなると荷造りしなければならない。唐草の大風呂敷ならいくらでもあるが、荷造りしてみて私は私のうけた教育が何の役にも立たないことを思い知った。荷造りひとつ出来ないのである。大きなものは『まる通』に梱包させたが小さいものはチッキにした。貨車便は遠回りしていつ着くか分らない。どこで空襲にあうか分らない。チッキなら客車便で、客車と共に行くからその日に着く。夜具ふとん鍋釜のたぐいはその日から必要である。ただし当時チッキは八貫目まで。八貫目は買出しで知っているがつい欲が出て、夜具のなかに鍋をいれると三百匁か四百匁超過する。鉄道の係は超過だからとつき返す。素人の荷造りだから十重二十重にしばってある。それをほどくのはひと骨である。私はいつ空襲があるか分らないせとぎわでも人は意地悪をしなければいられない、その心中を忖度してさぞ嬉しかろうと一再ならずそのポーカーフェイスをながめたものである。
 もうお分かりだろうが私の興味は天下国家になくて些事にある。ここでは意地悪にある。人はみな意地悪である。そして私は怒るより笑うのである。砲弾雨飛の下でも笑うのである。荷造り一つ出来ない私が笑うのである。いつまでも笑ってはいられないから『まる通』の若い衆にワイロをつかってそれにやってもらった。」

   (山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
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