今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、昨日と同じ「『戦前』という時代」と題した昭和60年の連載コラムの一節です。
「横手では廃業した大石旅館の二階の半分を借りた。十二畳と六畳と四畳半である。専用の台所と梯子段をつくったから独立家屋と変らなかった。
戦争中は米や餅を送ることは深くとがめられなかった。郵便局から小包で送った。これではたかが知れているからべつに鉄道小荷物で送った。小荷物は二十キロまで送れたからそれを祐天寺の母のところへ送って上京したら私と母の食いぶちにして余りあるようにした。
六月になってからは東京は焼けるところがなくなってしまった。ある日私は新宿西口の加藤運送店を訪ねてその帰途一面の焼野原で紺がすりのもんぺ姿の四五人の娘たちとすれちがった。なかの一人上背があって満身にホルモンがあふれているのがいた。うしろからトラックが来た。徴用工らしい若者が大ぜい乗っている。若者たちは徐行して口笛を吹き手を振った。娘たちもそれに答えて手を振った。
私はネオン輝く昭和十二年十三年の銀座街頭を思いだした。男たちが近よってくること、女たちが避けるがごとく媚びるがごとくすること今と同じだと思った。アルタミラの洞窟のなかで男女が半裸でくらしていたころでも気どった女は裸で気どっていたのであり、虎の皮のふんどし一つの女も避けるがごとく挑むがごとくであること今と同じで、もんぺだから哀れだなどということはない。ひとりだけもんぺなら哀れだが皆さんもんぺである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「横手では廃業した大石旅館の二階の半分を借りた。十二畳と六畳と四畳半である。専用の台所と梯子段をつくったから独立家屋と変らなかった。
戦争中は米や餅を送ることは深くとがめられなかった。郵便局から小包で送った。これではたかが知れているからべつに鉄道小荷物で送った。小荷物は二十キロまで送れたからそれを祐天寺の母のところへ送って上京したら私と母の食いぶちにして余りあるようにした。
六月になってからは東京は焼けるところがなくなってしまった。ある日私は新宿西口の加藤運送店を訪ねてその帰途一面の焼野原で紺がすりのもんぺ姿の四五人の娘たちとすれちがった。なかの一人上背があって満身にホルモンがあふれているのがいた。うしろからトラックが来た。徴用工らしい若者が大ぜい乗っている。若者たちは徐行して口笛を吹き手を振った。娘たちもそれに答えて手を振った。
私はネオン輝く昭和十二年十三年の銀座街頭を思いだした。男たちが近よってくること、女たちが避けるがごとく媚びるがごとくすること今と同じだと思った。アルタミラの洞窟のなかで男女が半裸でくらしていたころでも気どった女は裸で気どっていたのであり、虎の皮のふんどし一つの女も避けるがごとく挑むがごとくであること今と同じで、もんぺだから哀れだなどということはない。ひとりだけもんぺなら哀れだが皆さんもんぺである。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)