今日の「お気に入り」は、山本夏彦さん(1915-2002)のコラム集から、「向田邦子一周忌」と題した昭和57年のコラムの一節です。
「さと子は林檎のはいった紙袋をかかえて走って帰って来た。客に出す水菓子が切れていたので、買いにやらされたのである。その水菓子屋で聞いた話を一刻も早くしたくて、玄関をあけるなり叫んでしまった。『ねえ、聞いた? 忠犬ハチ公、死んだのよ。今朝、駅のそばで息引きとったって。あの犬、とし十三だったんですって』。
さと子(十八)は水田仙吉(四十三)妻たみ(三十九)のひとり娘である。さと子が使いに出るまで母のたみは無事のようだったのに、にわかに産気づいたのではない、引きつれるような激痛と共に流産したのである。知らぬこととは言えさと子はハチ公が死んだと叫んだのである。
ハチ公は今も渋谷駅前に銅像になって残っている。それが死んだというのだから、およその時代は察しられる。もっとも仙吉もたみも実在の人物ではない。向田邦子作『あ・うん』のなかの人物である。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)
「さと子は林檎のはいった紙袋をかかえて走って帰って来た。客に出す水菓子が切れていたので、買いにやらされたのである。その水菓子屋で聞いた話を一刻も早くしたくて、玄関をあけるなり叫んでしまった。『ねえ、聞いた? 忠犬ハチ公、死んだのよ。今朝、駅のそばで息引きとったって。あの犬、とし十三だったんですって』。
さと子(十八)は水田仙吉(四十三)妻たみ(三十九)のひとり娘である。さと子が使いに出るまで母のたみは無事のようだったのに、にわかに産気づいたのではない、引きつれるような激痛と共に流産したのである。知らぬこととは言えさと子はハチ公が死んだと叫んだのである。
ハチ公は今も渋谷駅前に銅像になって残っている。それが死んだというのだから、およその時代は察しられる。もっとも仙吉もたみも実在の人物ではない。向田邦子作『あ・うん』のなかの人物である。」
(山本夏彦著「『戦前』という時代」文藝春秋社刊 所収)